オーディオの想像力の欠如が生むもの(その52)
オーディオの想像力の欠如した耳ほど、白黒つけたがる。
オーディオの想像力の欠如した耳ほど、白黒つけたがる。
オーディオの想像力の欠如した耳は、「遊び心」を持っていないし、持てない。
オーディオの想像力の欠如した耳には、音への愛、音楽への愛はない。
オーディオの想像力の欠如した耳は、音楽の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、音の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、音ありき、ということすら忘れてしまうようだ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、情報量、情報量とバカのひとつ憶えのようにくり返すだけ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、耳に近い音だけに敏感なのかもしれない。
心に近い音には、えてして鈍感だ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、無機的な音だけを喜ぶ。
黒田先生の「レコード・トライアングル」は、本である。
magazineではなく、bookとしての単行本であるが、
そこに収められている文章は、すべてなんらかの雑誌に書かれたものをである。
「レコード・トライアングル」のあとがきにあるように、
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》ともいえる。
つまり書き下しではない。
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》は、
どこかで読んだことのある文章が、いくつも載っていたりする。
読み手にとって、初めての書き手の文章ならば、そうではないけれど、
興味・関心をもって読んできている書き手の文章ならば、
けっこうな数は、いつかどこかで読んできた文章でもある。
「レコード・トライアングル」のような本は、
いわば雑誌と本の中間にあるような存在なのか、といえそうだし、
そう受け止める人もいるんだろうけれど、
私にとっては、一冊の単行本である。
書き下しであろうがなかろうが、まったく関係ない。
それにすべての文章をすでになんらかの雑誌に掲載されていた時に読んでいたとしても、
一冊の本としてまとめられ、一気に読める(読む)ことの楽しさ、
それにともなう発見は、雑誌掲載時にはなかなかできないことでもある。
雑誌に掲載されているときは、他の書き手の文章といっしょに、である。
そして、つねに掲載時の「いま」を同時に読んでいる、ともいえよう。
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》におさめられている文章は、
比較的最近に書かれたもの、数年前の文章、もっと以前の文章でもある。
一冊に本にまとめられるときに、手直しがまたくないわけではないが、
掲載時と大きく変っていたりはしない。
なにがいいたいかのだが、結局私にとって、雑誌も単行本も、
本として受け止めている。
私にとって書店で売られているのは、本であり。
雑誌には広告が入っているから信用できない、とか、
書き下しの本が、格上だとか、そんなことは考えたこともない。
そのうえで、ステレオサウンドは、
以前は確かにオーディオ評論の本だっことについて書いていきたい。
アナログプレーヤーのプラッターの駆動方式は、
アイドラードライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴがある。
このなかで、アイドラードライヴをリムドライヴという人がいる。
リムドライヴといえば、この日本ではアイドラードライヴのことを指す、といっていい。
それで通用する。
私もリムドライヴを使わないわけではない。
けれどリムとはrimである。
rimは、周縁である。
周縁とはその漢字が示しているように、もののまわりである。
つまりアナログプレーヤーでいえばプラッターの縁のことである。
この縁をなんらかの方式で駆動することが、リムドライヴなのである。
昔のプレーヤーでは、この部分を駆動するものといえばアイドラードライヴだった。
ベルトドライヴはインナープラッター(サブプラッター)にベルトをかけるタイプが、
昔はほとんどだった。
アマチュアによる糸ドライヴ、それを製品化したといえるマイクロのRX5000+RY5500、
トーレンスのREferenceは、メインプラッターの外周にベルトをかけているから、
これらもリムドライヴということになる。
現在のベルトドライヴの大半は、リムドライヴということになる。
なのに、いまでもリムドライヴを、
アイドラードライヴに限定して使っている(書いている)人がいる。
それをそのまま誌面に載せるところもある。
通じればいい──、
そういう考えなのだろう、おそらく。
仲間内の会話ではないのだから、しっかりしてほしい。
このブログの書き始めは、2008年9月3日の19時7分に公開している。
十年前の予定では、この「言いたいこと(十年後)」が10,000本目となるはずだったが、
現実は8,763本目である。1,200本以上足りずに十年目を迎えている。
一本目は「言いたいこと」だった。
十年経った。
書きたいことは減ってくるのか、と当初は思っていた。
けれど、逆に増えている。
これは嬉しいことではない。
もう書く必要はないな、とほんとうは思いたかった。
オーディオの想像力の欠如した耳に、インプレッショニズムの音は響かないし、届かないだろう。
ステレオ時代 vol.12が書店に並んでいる。
特集は「デジタルとアナログの間で ステレオ時代的 PCMプロセッサー特集」であり、
表紙にはソニーのPCM-F1が取り上げられている。
その下に「追悼特集第二弾 ありがとう中島平太郎先生」とある。
今回も、これが目に留った。
前号が第一弾で、今号が第二弾。
第一弾が好評だったから──、という安易な気持でつくられた記事ではない。
それにステレオ時代 vol.12を手にとればわかるが、
誰の目にも第一特集は「ありがとう中島平太郎先生」なのは明らかである。
しかも前号よりも力の入った記事だ。
編集者のおもいがしっかりと伝わってくる。
「ありがとう中島平太郎先生」、
こういう記事は、広告にはほとんど、というかまったく結びつかない。
売れていない雑誌だからやれる記事──、
そんな言い方をする人はいるだろうが、ほんとうにそうだろうか。
売れている雑誌にはやれない記事なのか。
売れている雑誌(そんなオーディオ雑誌があるのか?)こそ、やるべき記事ではないのか。
いまから十年以上前のインターナショナルオーディオショウの会場で聞いたことを、
個人サイトからのデータを、オーディオ雑誌がひとことのことわりもなしに、
誌面に使っている件に関連して思い出していた。
人を待っていたので、会場のB1Fにある喫茶店にいた。
近くのテーブルから、はっきりと聞き取れる声で、
ショウに出展していたオーディオ関係者の会話が聞こえてきた。
誰なのかは、どこのブースの人なのかは伏せるが、
この二人は、インターネットはクズだね、ということを話していた。
オーディオ雑誌には志があるけれど、インターネットのオーディオ関係のサイトには志がない、
そんな趣旨の会話だった。
そこにはインターネットのオーディオ関連のサイトに対しての、
はっきりとした嫌悪感があった、と私は感じていた。
なぜ、そこまで嫌悪するのか、その理由は二人の会話からは掴めなかった。
確かにインターネットの世界には、クズだとしか思えない部分がある。
だからといってインターネット全体を十把一絡げに捉えてしまうのには、異を唱えたくなる。
それにオーディオ雑誌に志があった、という過去形の表現ならまだ同意できるけど、
志がある、にも異を唱えたくなったけれど、今回の件を、
この二人のオーディオ関係者はどう思うのか。
インターネットなんてクズだから、そんなこと問題にするほうがおかしい、とか、
オーディオ雑誌のやることに文句をいうな、とか、いうのではないだろうか。
あれから十年以上経っているとはいえ、
あの二人の年齢と、それにあの時の内容とその口調から、いまも変っていないのではないか。
オーディオ関係者のすべての人が、この二人のようだとは思っていない。
けれど、こんな二人がかなり上の地位にいた、ということもまた事実である。
雑誌が上で、インターネットはずっと下。
雑誌には志があり、インターネットには志はない。
この二人のオーディオ関係者の認識は、そうである。
今回のデジタルデータの流用が、私のサイトからだけでなく、
別の人のサイトからでも行われてしまっている。これだけではない可能性もある。
この二人のような認識の人にとっては、問題にするようなことではないのだろう。
そういう認識の人たちが、オーディオ雑誌の編集者にもいる、ということなのか。
十年以上経っている。
その十年間のインターネットの変化は大きく、
オーディオ雑誌・出版社がまったく影響を受けていない、とでも思っているのですか、と、
その二人のオーディオ関係者に問いたい。
別項で指摘したように、ステレオサウンドの試聴記のtwitter的なものへの変化、
そういうことにも、この二人のオーディオ関係者は気づいていないのかもしれない。
オーディオ雑誌には志があると、二人のオーディオ関係者は思い込んでいるのかもしれない。
いまも、そう思い込めているとしたら、シアワセな人たち、としかいいようがない。