Archive for category ジャーナリズム

Date: 3月 1st, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その55)

オーディオの想像力の欠如した耳は、本能的でもない。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その54)

オーディオの想像力の欠如した耳は、ただただオーディオを消費・消耗させていくだけ。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その53)

オーディオの想像力の欠如した耳は、客観的でないだけでなく主観的でもない。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その52)

オーディオの想像力の欠如した耳ほど、白黒つけたがる。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その51)

オーディオの想像力の欠如した耳は、「遊び心」を持っていないし、持てない。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その50)

オーディオの想像力の欠如した耳には、音への愛、音楽への愛はない。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その49)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音楽の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その48)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その47)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音ありき、ということすら忘れてしまうようだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その46)

オーディオの想像力の欠如した耳は、情報量、情報量とバカのひとつ憶えのようにくり返すだけ。

Date: 2月 19th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その45)

オーディオの想像力の欠如した耳は、耳に近い音だけに敏感なのかもしれない。
心に近い音には、えてして鈍感だ。

Date: 1月 17th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その44)

オーディオの想像力の欠如した耳は、無機的な音だけを喜ぶ。

Date: 10月 7th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その2)

黒田先生の「レコード・トライアングル」は、本である。
magazineではなく、bookとしての単行本であるが、
そこに収められている文章は、すべてなんらかの雑誌に書かれたものをである。

「レコード・トライアングル」のあとがきにあるように、
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》ともいえる。

つまり書き下しではない。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》は、
どこかで読んだことのある文章が、いくつも載っていたりする。
読み手にとって、初めての書き手の文章ならば、そうではないけれど、
興味・関心をもって読んできている書き手の文章ならば、
けっこうな数は、いつかどこかで読んできた文章でもある。

「レコード・トライアングル」のような本は、
いわば雑誌と本の中間にあるような存在なのか、といえそうだし、
そう受け止める人もいるんだろうけれど、
私にとっては、一冊の単行本である。

書き下しであろうがなかろうが、まったく関係ない。
それにすべての文章をすでになんらかの雑誌に掲載されていた時に読んでいたとしても、
一冊の本としてまとめられ、一気に読める(読む)ことの楽しさ、
それにともなう発見は、雑誌掲載時にはなかなかできないことでもある。

雑誌に掲載されているときは、他の書き手の文章といっしょに、である。
そして、つねに掲載時の「いま」を同時に読んでいる、ともいえよう。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》におさめられている文章は、
比較的最近に書かれたもの、数年前の文章、もっと以前の文章でもある。

一冊に本にまとめられるときに、手直しがまたくないわけではないが、
掲載時と大きく変っていたりはしない。

なにがいいたいかのだが、結局私にとって、雑誌も単行本も、
本として受け止めている。

私にとって書店で売られているのは、本であり。
雑誌には広告が入っているから信用できない、とか、
書き下しの本が、格上だとか、そんなことは考えたこともない。

そのうえで、ステレオサウンドは、
以前は確かにオーディオ評論の本だっことについて書いていきたい。

Date: 9月 14th, 2018
Cate: ジャーナリズム
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オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その6)

アナログプレーヤーのプラッターの駆動方式は、
アイドラードライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴがある。

このなかで、アイドラードライヴをリムドライヴという人がいる。
リムドライヴといえば、この日本ではアイドラードライヴのことを指す、といっていい。
それで通用する。

私もリムドライヴを使わないわけではない。
けれどリムとはrimである。
rimは、周縁である。
周縁とはその漢字が示しているように、もののまわりである。

つまりアナログプレーヤーでいえばプラッターの縁のことである。
この縁をなんらかの方式で駆動することが、リムドライヴなのである。

昔のプレーヤーでは、この部分を駆動するものといえばアイドラードライヴだった。
ベルトドライヴはインナープラッター(サブプラッター)にベルトをかけるタイプが、
昔はほとんどだった。

アマチュアによる糸ドライヴ、それを製品化したといえるマイクロのRX5000+RY5500、
トーレンスのREferenceは、メインプラッターの外周にベルトをかけているから、
これらもリムドライヴということになる。

現在のベルトドライヴの大半は、リムドライヴということになる。
なのに、いまでもリムドライヴを、
アイドラードライヴに限定して使っている(書いている)人がいる。
それをそのまま誌面に載せるところもある。

通じればいい──、
そういう考えなのだろう、おそらく。
仲間内の会話ではないのだから、しっかりしてほしい。

Date: 9月 3rd, 2018
Cate: ジャーナリズム

言いたいこと(十年後)

このブログの書き始めは、2008年9月3日の19時7分に公開している。
十年前の予定では、この「言いたいこと(十年後)」が10,000本目となるはずだったが、
現実は8,763本目である。1,200本以上足りずに十年目を迎えている。

一本目は「言いたいこと」だった。

十年経った。
書きたいことは減ってくるのか、と当初は思っていた。
けれど、逆に増えている。

これは嬉しいことではない。
もう書く必要はないな、とほんとうは思いたかった。