情報・情景・情操(その2)
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。
「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。
そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。
音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。
「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。
そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。
音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにする──
かわさきひろこ氏は書かれている。
「あからさま」と「あきらか」とでは,明らかに、言葉の持つ意味合い、与える印象がはっきりと異る。
音の情報量をすこしでも精確に、すこしでも多く再生したいとのぞむとき、
恥じらいを失っていては、あからさまにしていくだけになりはしまいか。
恥じらいのない行為──、愛のない行為でもあろう。
川崎先生は、3つの言葉を掲げられる。
「いのち、きもち、かたち」もそうだし、「機能、性能、効能」もそうだ。
川崎先生に倣い、「情報」について考えるとき、あと2つの言葉を考えてみた。
ひとつは「情景」。これはすぐに出た。
もうひとつはなにか……。
しばらく考えて思いついたのは、「情操」だった。
他の言葉が、もっとぴったりはまるかもしれない。
だとしても、情報量について、これから書いていくとき、
「情報・情景・情操」をもとに考えていくつもりだ。
五味先生の著書「五味オーディオ教室」でオーディオの世界に入った私にとって、
冒頭でいきなり出てきた「肉体のない音」という表現は、まさしく衝撃的だった。
演奏家の音をマイクロフォンで拾って、それを録音する。
そしていくつかの工程を経てレコードになり、聴き手がそれを再生する過程において、
肉体が介在する余地はない、と五味先生も書かれている。
けれど、鳴ってきた音に肉体を感じることもある、とも書かれている。
「肉体のある音」とはどういう音なのか。
ほとんど経験というもののない中学生は、リアリティのある音、
ハイ・フィデリティという言葉があるのなら、ハイ・リアリティという言葉があっていいだろう。
そんなふうに考えた。
いま思えば、なんと簡単に出した答えだろう、と。
けれど、それからずっと考えてきたことである。
LS3/5Aを情緒的なスピーカーと表現したが、
すこし補足すると、歌の情景を思い浮ばせてくれるスピーカーといいたい。
クラシックを聴くことが圧倒的に多いとはいえ、やはり日本語の歌が無性に聴きたくなる。
だからといって、J-Popは聴かない。歌(言葉)が主役とは思えない曲が多いようにも感じるし、
すべてとは言わないが、歌詞に情緒がない、情景が感じられないからである。
いいとか悪いとかではなく、中学・高校のときに聴いてきた日本語の歌が、
もっぱらグラシェラ・スサーナによる、いわゆる歌謡曲で、それに馴染みすぎたせいもあろう。
「いいじゃないの幸せならば」「風立ちぬ」(松田聖子が歌っていたのとはまったく違う曲)
「夜霧よ今夜も有難う」「別に…」「粋な別れ」など、まだまだ挙げたい曲はあるが、
スサーナによるこれらの歌を聴いていると、なにがしかの情景が浮かぶ。
だがどんなスピーカーで聴いても浮かぶわけではない。
目を閉じて聴くと、間近にスサーナのいる気配を感じさせる素晴らしい音を聴いたからといって、
必ずしも情景が浮かぶわけではない。
すごく曖昧な言い方だが、結局、聴き手の琴線にふれるかどうかなのだろう。
まだ他の要素もあるとは思っている。
だから私にとって、情景型スピーカーであるLS3/5A(ロジャースの15Ω)が、
他の人にとっては、なんてことのないスピーカーと感じられるかもしれない。
そして五味先生の文章にも情景を感じられる。
そして、この「情景」こそが、
五味先生が言われる「肉体のある音」「肉体のない音」につながっていくように思えてならない。
まだまだ言葉足らずなのはわかっている。
追々語っていくつもりだ。
さっき、ふと思いたって検索してみたら、
通信販売のみで、グラシェラ・スサーナのCD5枚組が、7月に発売されているのを見つけた。
「アドロ」「サバの女王」など、これまで何回もCD化された曲ももちろん含まれているが、
やっとCD化された曲も多く、ためらうことなく購入した。
昨年5月、20年以上ぶりで、グラシェラ・スサーナのコンサートに行った。
最初にグラシェラ・スサーナの歌を聴いたのが、中学2年の秋で、
翌年、はじめてコンサートにも行った。
フルトヴェングラーよりもグールドよりも、ケイト・ブッシュよりも長く聴いている。
去年のコンサート時、スサーナは54歳、私がはじめて聴いた時は24歳、
30年の歳月とともに体重も増えて、髪の毛の色もずいぶんかわって、
むかしのかわいらしさは、どこに行ってしまったんだろう……
と失礼なことを思いながら聴いていた私の耳に届いていたのは、
30年前とほとんど変わらぬ歌であった。
変わらぬから、安心して聴ける、懐かしい、ではなく、新鮮だった。
目まぐるしい変化のなかでは、
変わらぬことの新鮮さ、変わらないからこそ新鮮、ということを、
グラシェラ・スサーナの歌は教えてくれた。