Archive for 4月, 2013

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その10)

アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうくらいに、
アン・バートンの声が老け込んで鳴ってしまうとき、
バックで演奏されている楽器の音色や鳴り方も、いうまでもなく変ってしまう。

瀬川先生も書かれているように、
アン・バートンの声がアン婆ァトンになってしまったとき、
「ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じ」になり、
「ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう」。

アン・バートンがアン婆ァトンに変質してしまうとき、
くり返しておくが、変質はアン・バートンだけにとどまらないということであり、
このことはアン・バートンの声がアン・バートンの本来の声として鳴ってくれれば、
バックのベースやピアノ、ドラムスの音も、
ある程度(かなりともいっていいだろう)それらしく鳴ってくれるということでもある。

これはアン・バートンの声だけにかぎられたことではない。
ほかの歌手についてもいえる。
歌手の声質によっては、アン・バートンがアン婆ァトンになるほど、
極端には老け込まないこともあるにしても、
それでも、人の声の再生はそんなふうに変質してしまいやすい。

変質してしまいやすい、と書いてしまったけれど、
実のところは人の耳は人の声に対して敏感であるため、
わずかな変質も敏感に感じとっているため、変質が容易に聴き取りやすいのかもしれない。

どちらにしても、人の声は、なにひとつ確実なことがなさそうにおもえていた音の判断基準において、
オーディオにとり組みはじめたばかりの若造だった、あの頃の私にとっては、ここから拡げていくことができた。

Date: 4月 3rd, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その3)

私がいまここに書いている例は、
あくまでもオーディオ雑誌に掲載された記事を読んでのものでしかない。

全国のオーディオマニアの方々がどういうシステムかというかを調査したデータがあるわけでもなし、
オーディオ雑誌の記事にしてもすべてに目を通しているわけでもなく、
あくまでも私が読んだ(目を通した)記事の中で、
記憶に残っている全体的なイメージのことでしかないのはわかっている。

それでもアルテックとタンノイのスピーカーを同居させている人は少ないと感じているし、
それ以上にふたつ以上のスピーカーしを同居させている人の多くは、
そのひとつがJBLであることが多いと感じていて、
それがなぜなのかを、考えてしまっている。

Date: 4月 2nd, 2013
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その1)

ワイドレンジについて書いている。
ナロウレンジについても書いている。

書きながら思っていることは、ワイドでもナロウでもないレンジのことであり、
それをいったいどう呼べばいいのだろうか、ということである。

ワイドレンジ(wide range)は広い周波数帯域であり、
ナロウレンジ(narrow range)は狭い周波数帯域ということになっている。

この広い、狭いは、何を基準としているのか。

最新の録音を最新のオーディオ機器を最新の調整によって鳴らされた音を聴いた後で、
同じディスクをずっと以前の、いわゆるナロウレンジと呼ばれるスピーカーシステムで聴けば、
周波数帯域(おもに高域に関して)が狭いと感じる。

けれどそのスピーカーシステムと同時代の録音、さらにはもっと以前の録音のレコードをかければ、
そのスピーカーシステムの周波数帯域を特に狭いとは感じることは、あまりない。

狭いよりも広いほうがいい、と考えがちであるが、
オーディオでは常に広いほうが、結果としての音が心地よいとは必ずしもいえないことがある。
ときとして適度なナロウレンジのほうが、うまく鳴ってくれることが少なくない、と感じるのも事実である。

いまオーディオ機器を取り巻く環境は確実に悪くなっている。
電源事情も、飛び交う電波にしても、音を悪くしていく要因が増え複雑化している、ともいえる状況下では、
比較的影響をワイドレンジの機器よりも受けにくいナロウレンジのオーディオ機器のほうが、
それほど細かな神経を使わずとも、ほどほどにうまく鳴ってくれる。

ワイドレンジであればあるほど、時としてオーディオ機器を取り巻く環境の影響を受けやすくなり、
それなりの注意、使いこなしが要求されることにもなる。

そういうことを厭わず、むしろ喜々として楽しんでいける人ならばいいけれど、
そんな人ばかりではない。
ならばワイドレンジでもない、ナロウレンジでもない、
ちょうどいい按配のレンジを考えていくことも必要なのではないか、と考えている。

Date: 4月 1st, 2013
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(「花の乱舞」)

東京では桜が散りはじめている。
今日は4月1日。

五味先生の「花の乱舞」から引用しておきたいところがある。
     *
 花といえば、往昔は梅を意味したが、今では「花はさくら樹、人は武士」のたとえ通り桜を指すようになっている。さくらといえば何はともあれ──私の知る限り──吉野の桜が一番だろう。一樹の、しだれた美しさを愛でるのなら京都近郊(北桑田郡)周山町にある常照皇寺の美観を忘れるわけにゆかないし、案外この寂かな名刹の境内に咲く桜の見事さを知らない人の多いのが残念だが、一般には、やはり吉野山の桜を日本一としていいようにおもう。
 ところで、その吉野の桜だが、満開のそれを漫然と眺めるのでは実は意味がない。衆知の通り吉野山の桜は、中ノ千本、奥ノ千本など、在る場所で咲く時期が多少異なるが、もっとも壮観なのは満開のときではなくて、それの散りぎわである。文字通り万朶のさくらが一陣の烈風にアッという間に散る。散った花の片々は吹雪のごとく渓谷に一たんはなだれ落ちるが、それは、再び龍巻に似た旋風に吹きあげられ、谷間の上空へ無数の花片を散らせて舞いあがる。何とも形容を絶する凄まじい勢いの、落花の群舞である。吉野の桜は「これはこれはとばかり花の吉野山」としか他に表現しようのない、全山コレ桜ばかりと思える時期があるが、そんな満開の花弁が、須臾にして春の強風に散るわけだ。散ったのが舞い落ちずに、龍巻となって山の方へ吹き返される──その壮観、その華麗──くどいようだが、落花のこの桜ふぶきを知らずに吉野山は語れない。さくらの散りぎわのいさぎよいことは観念として知られていようが、何千本という桜が同時に散るのを実際に目撃した人は、そう多くないだろう。──むろん、吉野山でも、こういう見事な花の散り際を眺められるのは年に一度だ。だいたい四月十五日前後に、中ノ千本付近にある旅亭で(それも渓谷に臨んだ部屋の窓ぎわにがん張って)烈風の吹いてくるのを待たねばならない。かなり忍耐力を要する花見になるが、興味のある人は、一度、泊まりがけで吉野に出向いて散る花の群舞をご覧になるとよい。
     *
1972年発行の「ミセス」に載せられた文章だ。
「花の乱舞」はつぎのように締めくくられている。
     *
音楽は、どのように受けとろうと究極のところは〝慰藉〟と〝啓示〟を享受すれば足りるものだから、受け入れやすいもの必ずしも低俗に過ぎるとはかぎるまい、というのが私の持論である。時にはバッハやハインリッヒ・シュッツの受難曲を聴いたあとなど、気分をほぐすつもりでロシア五人組の音楽に耳を傾けることがある。そして五人組ではないが、ハチャトゥリアンの『ガヤーネ』を聴くと、吉野山の桜を想い出す。これ迄、花びらのその龍巻を私は一度しか見ていないが。
     *
五味先生は、もう一度、吉野山の花びらの龍巻を見られたのかどうかは、わからない。
今日4月1日は、五味先生の命日である。

Date: 4月 1st, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ(スピーカーの捉え方について)

今月のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。
テーマはスピーカーについて語ろうと考えています。

13歳のときからオーディオに興味をもってからこれまでの30年以上の間に、
スピーカーをどう捉えるかが、ずいぶん変ってきたところがあります。
変っていないところも、またあります。

いまだスピーカーというものが、いったいどういうものなのか、
その全貌をはっきりと掴んでいるとはいえません。
これから先、あと10年、20年、それ以上経とうとも、
スピーカーの正体を完全に把握することは無理なような気もしています。

だから今回のテーマは、あくまでもその途中経過についてふれてみたいと思っているわけです。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。