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Date: 10月 7th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(その5)

カセットテープ(デッキ)とオープンリールテープ(デッキ)の音の安定感の違いを生み出しているのは、
走行系の安定性だと私は思っている。

テープというものはベースとなる材質を考えても、
片方のリールにしっかりと巻かれているテープが、もう片方のリールへと巻き取られていくことによる変動要素、
そういったことを考えると、一朝一夕に走行の安定性が得られたのではないことはわかる。

いろいろなメーカーがさまざまな試みをやった結果として、
現在のオープンリールデッキが完成したのであり、その成果は見事だと思う。

そんなオープンリールテープ(デッキ)とくらべると、
カセットテープは走行系が弱い、と言わざるを得ない。

フィリップスがカセットテープを開発してから、
おもに日本のメーカーが躍起になったことで、ずいぶんと走行の安定性は得られるようになったといえても、
やはりカセットテープの構造上、テープを取り出してテープを走行させることができないため、
録音ヘッド、再生ヘッドへのタッチの具合もふくめて、
オープンリールテープ(デッキ)にはどうしてもかなわない。

カセットテープと同じようにプラスチック製のケースにテープがおさめられているビデオテープ、DATテープ、
これらはテープをケースの外側に引き出してヘッドに巻きつけて走行させている。

ビデオテープ、DATテープが、カセットテープと同じ構造であったら、どうなっていただろうか。

アナログディスクにおけるテープの走行性にあたるのは、いうまでもなくターンテーブルの回転である。

Date: 10月 6th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(その4)

音の安定感といっても、ひとによってその捉え方はさまざまだということをわかっている。
だから具体的な例をだして話をしよう。

カセットテープとオープンリールテープとがある。
両者の音の違い──、
それももっともはっきりとした音の違いということになると、
私にとっては、音の安定感になる。

カセットテープの音は、どこかふわふわしたとでもいおうか、
そういう心もとなさ、不安定さがどこかに感じてしまう。
普及型のデッキで、安価なテープで録音・再生してみると、よけいにそれははっきりとする。

高級カセットデッキと呼ばれるモノで、テープもしっかりとしたものを用意すれば、
普及型の時と比較すれば安定感は確実に増す。

これだけ聴いていれば、そう不満も抱かないのかもしれないが、
一度でもオープンリールデッキでの録音・再生の音を聴いてみれば、
やはりカセットはカセットでしかないな、と残念ながら感じてしまう。
それだけオープンリールデッキ(もちろん良質のデッキに限るけれども)の音は、
どっしりと安定している。業務用の物となると、より安定感は増してくる印象がある。

私はカセットテープとオープンリールテープの音の違いを、こう感じているし、
カセットテープの最大の不満はここにあるわけだが、
カセットテープの音に、特に不安、不安定さを感じない、という人もいる。

それは、音に何を求める化の違いであって、
ことさら音の安定感──この音の安定感は、音の確実性でもある──を求めない人にとっては、
カセットテープの音に、大きな不満を感じることはないのも頷ける。

もっともカセットテープの音の魅力は、この不安定さをうまく処理したところにある、とは思っている。

Date: 10月 5th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(その3)

安定感のある音──、
こう書いてしまうと、誤解する人がいることをこれまでの体験から知っている。

安定感のある音、それはどっしりした音、
つまりに鈍い音、細やかさに欠ける音──、
そんなふうに受けとる人が、なぜかいる。

あえて書けば、安定感のある音、
これがあるからこそ、実は細やかな音、音楽の繊細な表情を、
同じアナログディスクから聴き得ることができる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠である。

音のもろさを、繊細さと勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そういう見せかけだけの繊細な音は、
音楽のもつ表情の変化に十全に反応してこない。
いつも脆弱な印象をつきまとわせ、聴き手に不安な印象を与える。

そんな音が好きな人もいる。
でも、私はそんな音で音楽を聴きたくはない。
音楽にのめり込むには、そんな音では困る。

聴き手に不安・不安定さを感じさせない、
そういう音でなければ、実のところ繊細な音の表現は無理だと、これまでの経験からはっきりといえる。

Date: 10月 5th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(その2)

EMTのアナログプレーヤー、930stは1970年代においても、
すでに旧式のプレーヤーとしての扱いだった。

国産のアナログプレーヤーはすべてがダイレクトドライヴ方式に移行していて、
ワウ・フラッターは930stよりも一桁安い価格帯の普及型プレーヤーでも、
930stのワフ・フラッターの値よりも一桁低いレベルに達していた。

1970年代の終りには、カッティングマシンもダイレクトドライヴ化されてきて、
ワウ・フラッターの低さを誇るレコード会社も現れていた。

そういう時代にリム(アイドラー)ドライヴの930stは、音のよいプレーヤーの代名詞となっていた。
とはいえ、オーディオマニアのすべての人が、そう認識していたわけではない。

「EMTの930stって、ほんとうに音のいいプレーヤーですか」という人は今だけでなく、昔からいた。
旧式ともいえるつくり、カタログ上のスペックにしても旧世代といえるものだから、
今も昔もいるカタログ上のスペックがなによりも優先する人たちにとっては、
930stというアナログプレーヤーは、旧式であるばかりか非常に高価なだけに、
物好き(骨董好き)が使うモノということになろう。

930stが旧式のプレーヤーであることは否定しないが、
音を聴けば、この旧式のプレーヤーでなければ求められない音の安定感があることにわかる。

930st以上の安定感を求めるならば、927Dstかトーレンスのリファレンスにしかないくらいに、
930stでかけるアナログディスクの音は安定している。

Date: 2月 18th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(その1)

「EMTの930stって、ほんとうに音のいいプレーヤーですか」
そんな声を、まったくきかないわけではない。

927Dstはデッキ部はアルミ鋳物製なのに対して、930stではベークライト系の合成樹脂、
アルミ製のターンテーブルプラッターの上にのる円盤も、
927Dstはガラスの正面にゴムを貼りつけたものなのに対し、
930stではプレクシグラスにフェルトを上面だけに貼ったもの。

「EMTの930stって、ほんとうに音のいいプレーヤーですか」と思っている人には、
まず、この部分が気になるらしい。

それから927Dstにもついているトーンアームのリフター機構。
この便利な機構は、EMTのプレーヤーを自分のモノとして愛用していた人ならば、
これが実に良く出来た機構であり、EMTのプレーヤーの魅力のひとつとなっていることは理解されていようが、
そうでない人にとっては、このリフター機構は、いわば雑共振の発生源というふうにみなされる。

このリフター機構に関係することなのだが、
EMTのトーンアームのパイプ部には軸受け近くに鉄板が外周1/4ほどではあるが貼りつけてある。
この鉄板がリフターの磁力にぴたりとくっつき、
トーンアームはリフターから簡単には離れないようになっている。
いわばロック機構である。

けれどトーンアームのパイプの中はケーブルが通っていて、
そのケーブルはカートリッジが発電した微小な信号のためにあるもの。
その周囲に鉄板という磁性体があるのは、それだけで音を濁してしまう──、ということになる。

こんなふうに書いていったら、他にもいくつも出てくる。
「EMTの930stって、ほんとうに音のいいプレーヤーですか」といっている人が気づいていないことも、
まだいくつも指摘しようと思えばできる。

そして、それらを理由として930stは音のいいプレーヤーとはいえない、
そう主張する人がいても、さほど不思議とは思わない。

そういう見方をしていった場合、930stは音のいいプレーヤーとは呼び難いのは事実といえば事実であろうが、
そういう見方ばかりがプレーヤーの見方ではない。
それらのことだけでプレーヤーの音が決っていくものでもない。

930stにはいくつもの欠点があるのは事実だ。
それでも、930stは音のいいプレーヤーであることは確かである。

Date: 4月 25th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その19)

facebookでの(その17)へのコメントに、こうあった。

「骨格のある音」と「それ以外の音」、
「EMTの鳴らす音」と「それ以外のプレーヤーの音」とあった。

トーレンスの101 Limitedを使われている方からのコメントである。
いうまでもなく101 LimitedはEMTの930stと同じである。

私も20代のころ、101 Limitedを使っていたから、よくわかる。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れた。

このことも、骨格のある音と密接に関係している。

そして音の構図の確かさがあってこその、ステージの再現である。

アナログディスク全盛時代には、骨格のある音、音の構図の確かなプレーヤーがあった。
数はそう多くはなかった、というよりも、少なかったけれど、確実に存在していた。

そういう音と接してきた耳とそうでない耳とでは、求める音が違って当然である。
直観的に捉えられる音に違いも生じてくる。

私より若い世代となると、アナログディスクではなく、
CDで音楽を聴き始めたという人が多いであろう。

CDプレーヤーで、骨格のある音、音の構図の確かなモデルもあったけれど、
それはアナログプレーヤーにおける割合よりもさらに小さかった。

ディスクに刻まれている音をあますところなく再現したからといって、
骨格のある音になるとはかぎらないし、
音の構図が確かなものになるともかぎらない。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その9)

音を聴いて、あるオーディオ機器を評価する。
オーディオマニアならば、みな行っている。
けれど、そこでの評価の仕方は、人によって違うこともある。

評価の結果が違う、というよりも、
どこを聴いているのか、という意味での評価の仕方である。

オーディオ機器の開発に携わっている人ならば、
プロトタイプを聴く機会はあたりまえのようにあるわけだが、
オーディオマニアが聴くのは、ほとんど製品化されたオーディオ機器である。

出てきた音がすべて、とよくいわれる。
確かにそうではある。
けれど、その出てきた音に何を聴くのか。

そのオーディオ機器の可能性を、出てきた音に聴くことだってある。
オーディオ機器の比較試聴をして、
どちらのオーディオ機器が優れているか、
自分の好みにあっているか、
そういう評価の仕方をすることもあれば、
常にオーディオ機器は商品でもあるから、
可能性の方を優先しての評価をすることだって、私の場合ある。

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その11)」で、
アキュフェーズのDP70とスチューダーのA727を、
ステレオサウンドの試聴室でじっくりと比較試聴したことを書いている。

そして、私はA727を選んだ。
その理由も、そこに書いてるが、書いていない理由もある。
それが、可能性をどう評価しての選択の結果である。

Date: 3月 24th, 2018
Cate:

音の色と構図の関係(その1)

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れている。

音の構図が崩れてしまっている音には、魅力を感じない。
これまでも音の構図には注意深くありたい、と思っていた。
けれど、いままで気づかなかったことがあるのに、昨晩気づかされた。

昨晩、写真家の野上眞宏さんと会っていた。
野上さんとの会話のなかで、最近ニュースになったAl(人工知能)も錯視することが出てきた。
ここでのAIがほんとうの意味でのAIなのかは、ここでは問わないが、
この実験の結果通りだとして、ほんとうにAIは錯視したのか、という捉え方もできる。

つまり錯視ではなく、現象として、それは起っている、と考えることだってできる。

もう20年以上前になると思う。
当時の週刊文春のカラー広告に、NTTが毎号出していたことがある。
NTTの研究所で、どんなことを研究しているのかを伝える広告だった。

すべてを憶えているわけではないが、錯視についての研究の回もあった。
錯視を現象として捉えた上で、アインシュタインの相対性理論にあてはめてみれば、
説明がつく──、そんな内容だったと記憶している。

たとえば同じ大きさのふたつの円がある。
色が塗られていない、もしくは同じ色であれば、ふたつの円は同じ大きさに見える。
ところがひとつを薄い色、もうひとつを濃い色にすると、ふたつの円の大きさは違って見える。

多くの人が小学生のころに体験されているはずだ。
これをNTTの研究者たちは錯視と捉えずに、実際に大きさが変っているのではないか。
つまり濃い色は、薄い色よりも色の質量がある。
そこに相対性理論が成り立ち、色の薄い円は、濃い色の円の影響を受ける、という内容だった。

色の質量という言葉が、その広告で使われていたのかどうかは定かではないが、
感覚的にも重い色、軽い色は確かにある。

そのことを思い出していたから、
もしかするとAIも錯視ではないのかもしれない──、
そんなことを話していた。

そこで野上さんが、非常に興味深いことをいわれた。

Date: 3月 10th, 2018
Cate: 楽しみ方

聴き方の違い、楽しみ方の違い

3月7日のaudio wednesdayでも、終り近くに松田聖子の「ボン・ボヤージュ」を、
常連のKさんがかけた。

audio wednesdayで、これまで何度聴いたか。
少なくとも、私にとっては、これまでの中で、いちばんうまく鳴ってくれた、と感じた。

松田聖子が口先だけで歌っている印象ではなく、
歌っている松田聖子の表情が伝わってくるような感じでもあったし、
なによりも松田聖子の肉体が感じられるようになった。

それだけに松田聖子の歌の上手さが伝わってきた、とも感じていた。

でもKさんは、この鳴り方は、あまり評価しないだろうな、と思いつつも、
「どうでした?」ときいてみた。
反応は、予想した通りだった。

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」の(その8)、(その9)で書いているが、
Kさんと私の聴き方は違う。

これまでに何度も「ボン・ボヤージュ」を聴いては、その反応をきいているわけだから、
今回の音に関しても、そうだった。

これでいい、と思う。
私もいまより20以上若かったら、
こんなふうに聴きましょうよ、と力説したことだろう。

でも、いまはそんなことをしようとは思わない。
聴き方が違うのだから、オーディオの楽しみ方も違う──、
そう思うし、はたまた逆なのか、
オーディオの楽しみ方が違うから、聴き方も違うのか。

どちらが先ということはないのかもしれない。

それでも同じ場所、同じ時間にいて、毎月第一水曜日に楽しんでいるということは、
それだけの深さと広さが、オーディオの楽しみ方にあるといえる。

Date: 7月 3rd, 2016
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(silver version・その3)

30年以上前のあの時、もし「欲しい」と意思表示していたとしても、
瀬川先生のLNP2を自分のモノとする可能性は、きわめてゼロに近かった。

ならば意思表示してもしなくても同じだ、とは考えていない。
意思表示をしなければ、当り前すぎる話だが、可能性はゼロのままだ。
まったくないわけだ。

けれど強く意思表示をすれば、ほんのわずかは変ってくる。
それでも遠いものは遠いことには変りはないけれども。

いまになっても、意思表示しておけば……、と後悔している。

三年近く前に「EMT 930stのこと(購入を決めたきっかけ)」を書いた。
衝動買いといえる買い方だった。
いまになって思うのは、
瀬川先生のLNP2に意思表示ができなかったことの後悔からだったのかもしれない、ということ。

若いときは、たいていはふところに余裕がない。
そんなときに、私にとってのLNP2にあたるモノと出合うかもしれない。

お金がないと、欲しい、ともいえない。
その気持はよくわかる。私がそうだったからだ。
意思表示したい気持さえ抑え込んでしまう。

でも、それだけは止した方がいい。
可能性はほとんど変らなくても、「欲しい」という意思表示だけはしたほうがいい。
たとえ笑われたとしてもだ。

Date: 10月 29th, 2013
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その5)

別項の、EMT 930stのこと(その6)で、
レコードが回転しているからこそカートリッジは発電し、音声信号を得られる、と書いた。

つまりトーンアームの実動作時はレコードが回転していることが条件となる。
とするとレコードの回転とはターンテーブルプラッターの回転であり、
回転には回転軸があり、そこは支点であり、
トーンアームの支軸とカートリッジの針先とのあいだの長いスパンよりも、
さらに長いスパン(トーンアームの支軸とターンテーブルプラッターのシャフト)が存在することになる。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その5)

音像に関して、自分でも少し気にしすぎではないかと思うくらい気になる時はすごく気になる。
四六時中そうではなくて、あまり気にならなくなるときもある。
けれど、どちらかといえば、気になる(気にする)方だと思う。

なぜ気になるのか、と自問すれば、
これは別項「EMT 930stのこと」でも書いているように、
再生音に関して、できるだけ不安定さをなくしていきたいと思っていることと深く関係しているようだ。

とにかく音楽に没頭したい、
音のことを気にせずに没頭するために、まず私が求めているのは音の安定なのだ、と気がついた。
音の安定があるからこそ、こまやかな音の表現は可能になるし、
脆い、儚げとでも表現したくなるような音を、腫れ物に触るように愛でる趣味は、基本的には私にはない。
そんな音を、繊細な音だと曲解・誤解することも、もうない。

そんな音を愛でていくのもオーディオの趣味のありかたとして理解はできても、
そういう音では、私が聴きたい音楽を鳴らすことはできない、とわかっているし、
そんな音を愛でることと、繊細な音とすることとは同じことで決してない。

見せかけだけの、上っ面だけの繊細さは、私はいらない。
だから音の安定を求めてやまない。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その17)

その3)にトリオの創業者の中野英男氏の文章を引用した。

「音楽、オーディオ、人びと」で、アルゲリッチについてかかれた文章がある。
『「狂気」の音楽とその再現』である。
     *
 アルヘリッチのリサイタルは、今回の旅の収穫のひとつであった。しかし、彼女の音楽の個々なるものに、私はこれ以上立ち入ろうとは思わない。素人の演奏評など、彼女にとって、或いは読者にとって、どれだけの意味があろう。
 私が書きたいことはふたつある。その一は、彼女の演奏する「音楽」そのものに対する疑問、第二は、その音楽を再現するオーディオ機器に関しての感想である。私はアルヘリッチの演奏に驚倒はしたが感動はしなかった。バルトーク、ラヴェル、ショパン、シューマン、モーツァルト──全ての演奏に共通して欠落している高貴さ──。かつて、五味康祐氏が『芸術新潮』誌上に於て、彼女の演奏に気品が欠けている点を指摘されたことがあった。レコードで聴く限り、私は五味先生の意見に一〇〇%賛成ではなかったし、今でも、彼女のショパン・コンクール優勝記念演奏会に於けるライヴ・レコーディング──ショパンの〝ピアノ協奏曲第一番〟の演奏などは例外と称して差支えないのではないか、と思っている。だが、彼女の実演は残念ながら一刀斎先生の鋭い魂の感度を証明する結果に終った。あれだけのブームの中で、冷静に彼女の本質を見据え、臆すことなく正論を吐かれた五味先生の心眼の確かさに兜を脱がざるをえない心境である。
 問題はレコードと、再生装置にもある。私の経験する限り、彼女の演奏、特にそのショパンほど装置の如何によって異なる音楽を聴かせるレコードも少ない。
 一例をあげよう。プレリュード作品二十八の第一六曲、この変ロ短調プレスト・コン・フォコ、僅か五十九秒の音楽を彼女は狂気の如く、おそらくは誰よりも速く弾き去る。この部分に関する限り、私はアルヘリッチの演奏を誰よりも、コルトーよりも、ポリーニのそれよりも、好む。
 私は「狂気の如く」と書いた。だが、彼女の狂気を表現するスピーカーは、私の知る限りにおいて、スペンドールのBCIII以外にない。このスピーカーを、EMT、KA−7300Dの組合せで駆動したときにだけアルヘリッチの「狂気」は再現される。BCIIでも、KEFでも、セレッションでも、全く違う。甘さを帯びた、角のとれた音楽になってしまうのである。このレコード(ドイツ・グラモフォン輸入盤)を手にして以来、私は永い間、いずれが真実のアルヘリッチであろうか、と迷い続けて来た。BCIIIの彼女に問題ありとすれば、その演奏にやや高貴の色彩が加わりすぎる、という点であろう。しかし、放心のうちに人生を送り、白い鍵盤に指を触れた瞬間だけ我に返るという若い女性の心を痛切なまでに表現できないままで、再生装置の品質を云々することは愚かである。
     *
BCIIIに、プリメインアンプのKA7300D。
KA7300Dは、1977年に登場、価格は78,000円である。
当時としては中級クラスのプリメインアンプである。

アナログプレーヤーのEMTはカートリッジのTSD15のことではないし、
930stのことでもない。
927Dstのことである。

1977年ごろまでは927Dstは250万円だったが、
約一年後には350万円になっていた。
価格的にそうとうにアンバランスな組合せだが、
アルゲリッチの「狂気」が再現される、とある。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その5)

ステレオサウンド 48号の表紙は、EMTの930stを真上から撮っている。
これを見るたびに、プレーヤーシステムとは、930stのことをいうものだと思っていた。

930stが高い評価を得ているのも、ステレオサウンド 48号の表紙を見れば、すぐに納得がいく。
48号は1978年発行、私はまだ15歳、930stは115万円だった。

その3年後、3012-Rを購入したときでも、アナログプレーヤーに100万円を出すことはできなかった。
9万円弱の3012-Rだって、分割払いでなんとか買っていたのだから。

それでも48号の930stの姿は、強烈だった。
930stの写真はそれ以前にも何度も見ている。
でも、48号の表紙(安齊吉三郎氏の撮影)ほど、
930stの、プレーヤーシステムとしての完成度の高さを伝えてくれる写真はなかった。

実は、いまもこれを書きながら、ステレオサウンド 48号の表紙を横目で見ている。
いい写真であり、いいプレーヤーシステムだ、と改めて実感している。

930stよりも音の点で上をいくプレーヤーはいくつかある。
でも、それらはプレーヤーシステムとして930stの上にある、とはいえないプレーヤーである。

世の中にアナログプレーヤーは、それこそ無数といっていいほどある。
けれどプレーヤーシステムとほんとうに呼べるアナログプレーヤーとなると、
その数はほんとうに少ない。しかも優れたプレーヤーシステムとなると、さらに少なくなる。

3012-Rとともに使うターンテーブル選びに悩んでいたときに気づかされたのは、
私が求めているのはプレーヤーシステムであり、
そのころの私には単体のターンテーブル、トーンアームを買ってきて、
キャビネットを自分で考え作り、プレーヤーシステムとしてまとめあげるだけのものは持っていなかった、
ということである。

そしてアナログプレーヤーのデザインは、
オーディオ機器のなかでもっとも難しいのではないか、と感じていた。

Date: 2月 8th, 2009
Cate: 930st, EMT, 五味康祐, 挑発

挑発するディスク(その14)

五味先生は「ステレオ感」(「天の聲」所収)で、EMTの930stのことを、次のように書かれている。
     *
いわゆるレンジののびている意味では、シュアーV一五のニュータイプやエンパイア一〇〇〇の方がはるかに秀逸で、同じEMTのカートリッジをノイマンにつないだ方が、すぐれていた。内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣下したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、例えばコーラスのレコードを掛けると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。私の家のスピーカー・エンクロージアやアンプのせいもあろうと思うが、とにかくおなじアンプ、同じスピーカーで鳴らして人数が増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉みに再生するのを意味するだろうが、レンジはのびていないのだ。近頃オーディオ批評家の(むしろキカイ屋さんの)揚言する意味でハイ・ファイ的ではないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードを掛けたおもしろさはシュアーに劣る。そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。
     *
EMTもスチューダーも、最新の音を聴かせてくれるわけでもないし、最高性能に満ちた音でもない。
信頼の技術に裏づけられた音だ。
はったりもあざとさもない、それこそ誠実さで音楽を鳴らしてくれる。
だから信頼できる。

井上先生は、「レコードは神様だ、疑うな」と言われた。
そのために必要なのは、私にとっては、驚嘆すべき誠実さで鳴らしてくれる機器なのだ。
だからこそ、音の入口となるアナログプレーヤー、CDプレーヤーに、EMTとスチューダーを選ぶ。

ときに押しつけがましく感じることのある、思い入れのたっぷりの機器は要らない。
ただし、これがアンプの選択となると、なぜだか、そういう機器に魅力を感じてしまうことも多い……。