Posts Tagged 川崎和男

Date: 8月 8th, 2012
Cate: 「空間」

この空間から……(その3)

楽器が電気を使わずに、あれだけ豊かな音を発することができる理由は、いくつか考えられる。
ヴァイオリンにしろ、ヴィオラにしろ、チェロにしろ、それにコントラバスやギターなどは、
すべて内部が空洞になっている。この空洞(空間)が共鳴するからこそ、である。

もしヴァイオリンが、ヴィオラやチェロが、
この素晴らしく美しい空間をまったく持たないソリッドなボディになっていたら……、
と考えると、この項の(その2)でふれた川崎先生のコメントに実感として納得できる。

ヴァイオリンの空間、
ヴィオラの空間、チェロの空間……、
これらの空間は何と共鳴するのか、といえば、
それは人ということになる。

つまりは音楽を聴く、
その音楽に共鳴するには聴き手であるわれわれのなかにも空間を持たなければならないのではないだろうか。
しかも、それは単なる空洞ではなく、空間でなければならず、
しかもその空間は、川崎先生が表現された「空間」でなければならない、そういえる。

川崎先生のコメントを読むにはfacebookのアカウントが必要で、
audio sharingというfacebookグループにアクセスしてください。

Date: 3月 18th, 2012
Cate: 「空間」

この空間から……(その2)

(その2)以降からスピーカーのエンクロージュアに焦点を絞って書いていくつもりでいた。
(その2)を、2、3日うちにでも書こうかな、と思っていた金曜日に、
「この空間から……」に川崎先生からのコメントがあった(facebookのほうで)。

(その1)で紹介した写真を見たときから、この空間を、なんと表現しよう、と考えていた。
考え出す前に、(その1)を書いて公開したのは、
やはり、1日でもはやく、一人でも多くの人に、
これらの写真(ベルリンフィルハーモニー室内楽オーケストラのポスター)を見てもらいたかったからなのだが、
だからこそ、川崎先生の表現を目にしたとき、
正直、こういう言葉は出てこなかったことに気づかされ、
同時に、この項の(その2)以降の内容も変えていこうと触発もされた。

とはいっても、いまはまだ川崎先生の、コメントに書かれたその表現を頭のなかでくり返しているだけでだから、
いますこし時間がかかるけど、それでもわくわくするものを感じている。

川崎先生のコメントを読むにはfacebookのアカウントが必要で、
audio sharingというfacebookグループにアクセスしてください。

Date: 3月 4th, 2012
Cate: 十牛図

十牛図とマーラー

十牛図についての川崎先生の話を聴き終ったあと、
東京への新幹線の中で思いついたことが、マーラーは十牛図のことを知っていたのかどうか、だった。
マーラーによる交響曲は9曲に「大地の歌」を加えると、10曲になる。
強引にこじつけることができるような気もするけれど、かなり無理のあることだとも思っている。

それでも、マーラーは十牛図を知っていたのか──、
このことが頭から離れないままになっている。

Date: 12月 30th, 2011
Cate: 十牛図

十牛図(その1)

2010年9月22日、京都に川崎先生の講演をききに行った。
十牛図についての講演だった、から、USTREAMでの中継があるにもかかわらず、京都に出かけていった。

十牛図の牛が、何を表わしているのか。それを深く考えさせてくれる内容の、川崎先生の話だった。
牛を悟り、だとか、人の心の象徴だ、という意見もあるようだが、
川崎先生の話をきいて約1ヵ月経ったころ、牛は「死」だと思った。
そこから半年ほどたった今年の夏、やはり十牛図の牛は、「死」であると強く感じていた。
さらに半年経ち2011年が終ろうとしている──、牛は「死」である。

Date: 10月 26th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(続々・音楽の聴き方)

若いときは、たしかに音楽の聴き手として未熟だった。
その未熟さをすこしでも減らしていくためには音楽をひたすら聴き込むしかないないわけだが、
音楽は、本と違い速読ということはできない。

1冊の本は、人によって読む時間が異るところがある。
レコードはそうはいかない。どんなに本を短時間で読み終えることのできる人でも、
1枚のレコードにおさめられている音楽を聴くために必要な時間は、
どんな人にとっても同じであって、聴き手としての成熟度とは関係がない。
1時間の音楽を聴き終えるには1時間が必ず必要になる。

それに本と違い、どこでも読める、というものではない。
レコード(音楽)には再生する機器が必要になる。聴くための環境も限られている。

音楽をひたすら聴き込んでいくということは、それだけの時間を費やさなければならない、ということである。
一生仕事をせずに、好きなレコードを何の心配もなく買っていけるだけの資産があるという人もいるだろうが、
ほとんどの人は仕事をして、家族とすごす時間もあり、そのうえで空いた時間を音楽を聴くためにあてていく。

家族に対してわがままをおしとおしていける人でなければ、音楽を聴き込む、ということは、
それだけ歳をとる、ということであり、人はある年齢を越えると、それは老化ともいう。

老化とは、肉体も感性も精神も、硬くなっていきがちである。
硬直、硬化していく。それもある日突然硬化するものであれば、そのことに当人も気がつくはずだろうが、
歳とともに徐々に硬化していくために、硬化していることに気づかないのは当人だけ、という、
そういう例をみていながらも、人は自分の硬化にはやはり気づきにくい。

そして劣化という老化がある。

昨年の5月に川崎先生がTwitterに書かれていたことを思い出す。
     *
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
     *
音楽の聴き手としての未熟さから抜け出すことは、
音楽の聴き手としての老化(硬化・劣化)に近づいていくことでもある。

音楽の聴き手として、どうあればいいのだろうか、
どうありたいと思えばいいのだろうか。

Date: 10月 14th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(iPhoneのこと)

最初に使った携帯電話は、auの前身のIDOのときに発売されたモトローラのStar Tacだった。
当時、世界最小・世界最軽量を謳っていた。
小さくて軽い、ということもよりも、まずそのデザインに惹かれた。
Mac Powerの連載で、川崎先生も取り上げられていたことが、欲しい、という気持にさせた。

とはいえけっこうな値段の携帯電話で、正直、買おう、とまではいけなかったのだが、
ある日、ある雑誌を読んでいたら、小さな扱いではあったが、Star Tacのプレゼント、とあった。
ただ必要事項だけを書いてハガキを送っても、まず当らないだろうからと思い、
Star Tacがなぜ欲しいのか、とハガキいっぱいに書いて送った。

それでも当るとは思っていなかったから、当籤したとの連絡があったときは、うれしいよりも驚きだった。

今日、iPhoneを自分のモノとした。
10月7日に、最寄りのauショップに行って予約しておかげか、発売初日に何の苦労もなく購入できた。
1週間前に予約に行った時、ふりかえってみると、いままで予約をして何かを買ったという記憶がない。
レコードにしても、予約したことはいままでなかった。

生まれて初めての予約をしてまで、欲しい、と思い手に入れたのが、iPhoneだった。
受け取りに行く時間も予約が必要で、19時30分だった。
10分前に着いたけれど、前の人たちがつかえていて、iPhoneを手にできたのは20時をまわっていた。
それから帰宅して、うれしくてあれこれさわっていたら、ブログを書くのを忘れて、こんな時間になってしまった。

去年、すでにiPadを購入していたから、iOSにふれるのがなにもはじめて、というわけではないのに、
インストールしたアプリケーションも基本的にiPadと同じものなのに、
iPadとiPhoneのサイズの違い、それに形状の違いを含めて、iPhoneにふれるのが楽しい、と感じながら、
なぜiPhoneを欲していたのか、欲する、とはどういうことなのか、をぼんやり思っていた。

Date: 10月 2nd, 2011
Cate: audio wednesday

第9回公開対談のお知らせ(「オーディオのデザイン論」を語るために)

ステレオサウンドをどう受けとめているかは人それぞれで、
オーディオのお買い物ガイドとして読んでいる人もいれば、
私は、オーディオの本、というよりも、オーディオ評論の本として認識している。

現在の編集部が、ステレオサウンドという本を、
お買い物ガイドブックとして編集しているのか、
オーディオの本として編集しているのか、
それとも私と同じように、オーディオ評論の本として認識して編集しているのか、
それは正直、はっきりしない、と私は思ってしまう。

そのステレオサウンドは、約1ヵ月前に出た号で創刊45年を迎え、
これまでに180冊のステレオサウンドが出ている。
別冊・増刊を含めると、ゆうに200冊をこえている。
そのなかで、「オーディオのデザイン論」が語られたことは、ほとんどなかった。
期待していた川崎先生の連載は、わずか5回で終ってしまった……(このことが象徴している、といえるだろう)。

2008年春の166号の特集は「オーディオコンポーネントの美」だった。
ここにも「オーディオのデザイン論」はなかった。
あったのは、デザイン観・デザイン感だった。

「オーディオのデザイン論」を語る文章があれば、
それにつづくデザイン観・デザイン感の文章が息づいてきたはずなのに……、と読んでいて思っていた。

残念といえば、2006年秋に出た「JBL 60th Anniversary」がある。
ステレオサウンドのウェブサイトで、この別冊の予告ページをみて、実は期待していた記事があった。
アーノルド・ウォルフのインタビュー記事だ。
これだけが読みたくて、「JBL 60th Anniversary」を買ったようなものだ。

こちらが勝手に期待していたのが悪いといえば悪いということになるのかもしれないが、
これはインタビュー記事なのか、とがっくりしてしまった。
アーノルド・ウォルフとインタビュアーとの対談のような記事が読みたかったわけではない。

ここにもやはり「オーディオのデザイン論」は不在だった。

10月5日(水曜日)の公開対談は、
「オーディオのデザイン論」を語るために
をテーマにして、工業デザイナーの坂野博行さんと行います。

「オーディオのデザイン論」を語る、ではなく、
「オーディオのデザイン論」を語るために、としたのは、
私が私が読みたい「オーディオのデザイン論」の記事をつくるために、ということもある。

公開対談は、これまでと同じ夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 29th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その34)

この項の(その32)への川崎先生のコメントにあるように、
1970年代の中頃、ちょうと私がオーディオに興味を持ち始めたころ、
オーディオ誌よりもFM誌のほうに積極的に広告を出していた「第一家電」が、気になっていた。

カートリッジの販売に積極的だった販売店で、
カートリッジ専門の量販店と表現したくなるようなところがあった。
カートリッジをひとつだけ買うよりも、
ふたつ買った方が、さらにはみっつ買った方が、よりお得という売り方だった、と記憶している。

さらに会員になれば、第一家電が東芝EMIと協力して制作していたLPは、45回転の重量盤だった。
そのラインナップのなかに、グラシェラ・スサーナのアルバムがあるのを見つけて、
東京に住むようになったら、
まっさきに、このグラシェラ・スサーナのアナログディスクを手に入れる、と思いつづけていた。

45回転盤なので、片面に4曲。
通常のグラシェラ・スサーナのLP(33 1/3回転盤)は、片面5曲か6曲、収録されていた。

グラシェラ・スサーナ以外に、どんなものがラインナップされていたのか、じつはまったく憶えていない。
私にとっては、とにかくグラシェラ・スサーナのレコードを少しでもいい音で聴きたい、
そのためには33 1/3回転盤よりも45回転盤で聴きたい、
アナログディスクの回転数は音に直接関係してくる。
あのマーク・レヴィンソンも45回転盤を出していた、
さらに菅野先生主宰のオーディオラボからは「ザ・ダイアログ」の78回転盤も登場していた。

マーク・レヴィンソンのディスクも、オーディオラボの78回転も、ビクターが開発したUHQR盤だった。

Date: 8月 21st, 2011
Cate: 川崎和男, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その49・補足)

以前使っていたブログ・テーマでは、左側のサイドバーに、最新のコメントが表示されるようになっていたが、
いまのテーマでは、下側に表示されるはずなのに、なぜかできない。
けれど、従来通りコメント欄はあり、それぞれのブログ記事のタイトルをクリックしてもらえば、
そのタイトルの記事単独での表示になり、いただいたコメントともにコメント記入欄を表示される。

コメントをいただいた記事は、日付の下に、1msgとか2msgと表示される。

「妄想組合せの楽しみ(その49)」に川崎先生からのコメントがあった。

そこに「ラジオ(太鼓)」とある。
ラジオ(太鼓)?? となられた方もおられるかもしれない。

ラジオ(太鼓)について興味をもたれた方は、ぜひ川崎先生のブログをお読みいただきたい。

今年3月2日の「新しい部族の太鼓か インターネットラジオというメディア」と
翌3日の「ラジオ聴覚メディアの強さは革新された」の2本だ。

Date: 7月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続余談)

誕生日を迎えてひとつ歳をとれば、友人・知人も同じように毎年ひとつずつ歳をとっていく。
いちばん若い友人も今年40歳になったということで、20代・30代の友人・知人がいなくなったから、
大和田氏の指摘を読むまで、そんなことになっていようとは思いもしなかった。

もちろん20代・30代でも年配世代よりもマニアックな聴き方をしている人もいるだろうから、
大和田氏の指摘は、大まかにみて、ということだろうが、
野々村氏からのツイートにも、「けっこうそういうところ、あります」と書いてある。
野々村氏は大学で教える方だから、同じようなことを実感として感じておられたのだろう。

野々村氏からもう1通ツイートをもらっており、
そちらには携帯電話の着うた、iPod、iPhone向けの配信によって、
アルバム単位ではなく曲単位で楽曲を聴くことができるようになったことが大きい」とあった。

川崎先生の「機能性・性能性・効能性」に刺戟をうけて、
オーディオにおける「機能性・性能性・効能性」について考えはいるし、
オーディオ機器を紹介するにあたっても、
この「機能性・性能性・効能性」をベースにしていくべきと考えはいたけれど、
機能「的」な音楽の聴き方、ということにはまったく考えが至らなかった。

大和田氏、野々村氏の指摘を読んでいて、思い出したことがある。
先月の公開対談で、四谷三丁目の喫茶茶会記にいったときのことである。
すこし早めに着き、何度か会ったことのある常連の方と話していた。

その彼が最近気になっている店が、恵比寿にあり、そこにはタンノイのオートグラフがあり、
マッキントッシュの古いアンプで鳴らしていて、壁には一面アナログディスク、
さらにステレオサウンドのバックナンバーもある、という話。

その店の客層は30代が中心で、ときには入りきれず並んで待っている、という。

Date: 9月 10th, 2008
Cate: Mark Levinson, 川崎和男

ずっと心にあったこと

1970年代の後半にオーディオに興味をもち始めた私にとって、 
MLAS(Mark Levinson Audio Systems)を主宰していたマーク・レヴィンソンは、 
ミュージシャンであり、録音エンジニアでもあり、 
そしてひじょうにすぐれたアンプ・エンジニア──、 
憧れであり、スーパースターのような存在でもあり、 
マーク・レヴィンソンに追いつき、追い越せ、が、じつは目標だった。 

LNP2やJC2をこえるアンプを、自分の手でつくり上げる。 
もっと魅力的なアンプをつくりあげる。 
そのために必要なことはすべて自分でやらなければ、 マーク・レヴィンソンは越えられない。 

そう、中学生の私は思い込んでいた、それもかなり強く。

とにかくアンプを設計するためには電子回路の勉強、 
これもはじめたが、一朝一夕にマスターできるものじゃない。 
(中学生の私にも)いますぐカタチになるのは、パネル・フェイスだな、 
かっこいいパネルだったら、なんとかなるんじゃないかと思って、 
夜な夜なアンプのパネルのスケッチを何枚も書いていた時期がある。 

フリーハンドでスケッチ(というよりも落書きにちかい)を描いたり、 
定規とコンパス使って、2分の1サイズに縮小した図を描いたことも。 
横幅19インチのJC2を原寸で描くための紙がなかったもので、 2分の1サイズで描いていたわけだ。 
(とにかく薄型のかっこいいアンプにしたかった) 

「手本」を用意して、いろいろツマミの形や大きさ、数を変えたりしながら、 
中学生の頭で考えつくことは、とにかくやったつもりになっていた。 

1977〜78年、中学3年の1年間、飽きずにやっていた。 
授業中もノートに片隅に描いてた。
けれども……。 

そんなことをやっていたことは、すっかり忘れていた。 
当時はまじめにやっていたのに、きれいさっぱり忘れていた、このことを、 
ある時、ステージ上のスクリーンに映し出されている写真を見て思い出し、 驚いた。 

このときのことは、ここで、すこしふれている。 

1994年の草月ホールでの川崎先生の講演で、 
スクリーンに映し出されたSZ1000を見た時に、
中学時代の、そのことを思い出した。 

あのころの私が「手本」としたアンプのひとつが、そこに映っていたからだ。 
デザインの勉強なんて何もしたことがない中学生が、 
アンプのデザインをしようと思い立っても、なにか手本がないと無理、 
その手本を元にあれこれやれば、きっとかっこよくなるはず、と信じて、 
落書きの域を出ないスケッチを、それこそ何枚と書いていた。

当時、薄型のコントロールアンプ各社から出ていた。
ヤマハのC2、パイオニアのC21、ラックスのCL32などがあったなかで、 
選んだのはオーレックスのSZ1000、そしてもう一機種、同じくオーレックスのSY77。

SZ1000のパネルの横幅は、比較的小さめだったので、 
まずこれを1U・19インチ・サイズにしたらどうなるか。
ツマミの位置と大きさを広告の写真から計算して、
19インチのパネルサイズだと、どの位置になり、どのくらいの径になるのか。 
そんなことから初めて、ツマミの形を変えてみたり、位置をすこしずつずらしてみたり、 
思いつく限りいろんなことをやっても、手本を越えることができない。 

SY77に関しても、同じようなことをやっていた。 
SY77は、オプションのラックハンドルをつけると、 19インチ・サイズになる。
これを薄くすると、どんな感じになるのか、という具合に。 

1年間やっても、カッコよくならない。 
「なぜ? こんなにやっているのに……」と当時は思っていた。 

その答えが、十数年後の、1994年に判明。 
同時に、われながら、中学生にしてはモノを見る目があったな、と、すこしだけ自惚れるとともに、
敗北に似たものを感じたため、やめたことも思い出していた。 

あらためて言うまでもSZ1000もSY77も、川崎先生の手によるデザインだ。

Date: 9月 10th, 2008
Cate: 「かたち」, 川崎和男, 菅野沖彦

「かたち」

菅野先生がときおり引用される釈迦の言葉、
最近ではステレオサウンド167号の巻頭言で引用されている──
「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」。

デザイナーの川崎先生の言葉、 
「いのち、きもち、かたち」。 

このふたつに共通している「かたち」。
オーディオに限らずいろんなことを考える時に、 
この、ふたりの言葉は、私にとってベースになっているといえる。 
いままでは「いのち、きもち」が「心」で、 
それが「私」だと、なんとなく思ってきた……。

けれど「かたち」が加わって、はじめて「私」なんだということに、 4年ほど前に気がついた。 

川崎先生の「いのち、きもち、かたち」をはじめてきいたのが、 
2002年6月だから、2年半かかって気がついたことになる。 

正直に言うと、いままで、なぜ「心はかたちを求める」のかが、 よくわからなかったけど、 
「いのち、きもち、かたち」こそが「私」だとすると、 
「かたちを求める」のところが、自然と納得できる。

そして、よく口にしておきながら、 
これもなぜそうなのかが、よくわからなかった 
「音は人なり」という言葉も、すーっと納得できる。 

そして「音は『かたち』なり」とも言いたい。

Date: 9月 9th, 2008
Cate: 言葉

心に刻みたい言葉(その2)

「人は大事なことから忘れていく」
川崎和男氏の言葉。

だから、私はいまでも五味先生の文章を読み返す。