Tag Archives: 総論・概論 - Page 2

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その8)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

     V
 ……と、ようやくここからが本論のような形になってきたが、今回の本誌のアンプ特集の一環として、内外の話題作を比較試聴する機会が与えられたとき、ここまで書いてきたような、アンプの変遷が、わたくしの頭の中を去来したからだった。アンプの音質が、なんと向上したことだろう。また、なんと全体の音質の差が縮まってきたことだろう。だがそれでいて、数多くのアンプを短時日に集中的に聴きくらべて、その興奮が去ったあとで、レコード音楽の受けとめ手としてのわたくしたち愛好家の心に残る音が、果してどれだけあったのだろうか。かつて、マランツ、マッキントッシュ、JBLを、それぞれの音の個性のみごさゆえに、三者とも身辺に置きたいとさえ思った。それほどに聴き手を魅了する個性ある音が、果してこんにちどれほどあるか。そしてまた、こんにちのオーディオアンプが、それほどまでに個性のある音を鳴らすことを、ほんとうに目ざしているのかどうか。オーディオアンプの究極の理想が、もしも、よく言われるような「増幅度を持ったストレートワイヤー」にあるのならば、つまり、入力に加えられた音声電流を、可及的に正確に拡大することがアンプの理想の姿であるのなら、アンプ個々の音質の差は、なくなる方向にゆくべきではないのか。アンプの個性とは、結局のところアンプの不完全さ、未完成の状態をあらわしていることになるのではないのか……。
 そうした多くの設問について、限られたスペースでどれだけ言えるかはわからない。が、ともかく現実に聴きくらべたいくつかのアンプにことよせて、こんにちの、そして今後のアンプの問題のいくつかを考えてみたい。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その4)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

     III
 こうして何年かが過ぎた。わたくしのオーディオ装置はその間いろいろ変化したが、プリアンプのマランツ7だけは、これに勝るものがなく、そのままメインとして居坐りつづけた。前項で書き忘れたが、マランツのほかにもう一台、フィッシャーのモノーラル・プリアンプ(モデル80C)を、割安に手に入れて聴いてみたが、こちらの音は少しも驚くようなものではなかった。この音質なら、わたくしの作っていたプリアンプでも、むしろそれ以上に鳴っていた。ただ、さすがにキャリアを積んだメーカーだけあって、おそろしく小型に組んだ電源内蔵型なのに、ハムのきわめて少ない点には敬服した。
 と、また話が脱線しかかったが、つまりわたくしの体験の中で、マランツ7だけが飛び抜けて優秀な音を鳴らしたことを補足しておきたかったわけだ。
 ところで、マランツと並んでアメリカのオーディオ界で最高級アンプの名声を二分していたマッキントッシュについては、まだその真価を知る機会がなかった。すでに書いたように、マランツのプリ一台でも、そのころの貨幣価値からいってひどく高価であったため、当時の日本では、まだ、そういう高価なアンプを購入しようとする人はきわめて稀な存在だったから、製品そのものが専門店のウインドゥに並ぶ機会も稀だったし、まして、こんにちと違ってそういう製品を借りて聴けるような機会は全くなかった。それだからこそ、製品については、これもまたこんにちにくらべるとほとんど紹介される機会もなく、せいぜい海外の専門誌上での小さな広告などから、製品を知る以外に手がなかった。
 それだけに、わたくしたちのそれら製品に対する認識は、おそろしく片寄った先入観に支配されていたし、もっともらしい噂話に尾ひれがついて、製品の真価が曲げて伝えられていた。
 お恥ずかしい話だが、そういうわけで、マッキントッシュのアンプをごくたまにウインドゥの中で眺めても、スイッチの入っていない彼は、あの黒いガラスのパネルに金色の文字、そして両サイドにもツマミにも金色がふんだんに使ってあることが目につくばかり。電源を入れるとその金文字が美しいグリーンに一変するということなど、全く知らない。まさに井の中の蛙そのままだが、別にわたくしばかりではない、オーディオに相当以上の興味を持っているアマチュアでも、ほとんどの人は同じような状況に置かれていた。
 とうぜん、マッキントッシュのMC240や275の音質の良さ、おそらくマランツ7と同じ頃に聴いたとしたら、同じくらい驚かされたに違いないその音質について知ったのは、もう少しあとになってからだった。
     *
 昭和41年暮に、「ステレオサウンド」誌の創刊号が発刊された。ほんとうの意味でのオーディオ専門の定期刊行物がここで初めて誕生したわけだが、編集兼発行人の原田勲氏は、それ以前のこの分野の誰もが考えたことのなかったもうれつな計画を立てた。その頃日本で入手できた内外のアンプを、できるだけ数多く集めて、同条件で比較試聴しようという、こんにちではステレオサウンド誌のひとつのパターンになってしまったいわゆる〝総まくりテスト〟を、ステレオサウンド誌42年夏号(創刊第三号)で実現させたのである。
 この頃になると、わたくし自身もすでに内外の代表的な製品のいくつかを、自分で購入もしていたし、また他の雑誌の取材等でいくつか実際に聴いてはいたがしかし、レシーバー(総合アンプ)からプリメイン、そしてセパレートまで、そして当時は真空管式トランジスター式とが半々に入り交じっていたような状況下で、65機種もの製品を一同に終結させての比較試聴というのは、全く生れて初めての体験だった。ステレオサウンド誌自身もまだ試聴室を持っていなくて、わたくしの家、といっても妻の実家の庭に建っていた六畳と四畳半、二間きりの狭い家に、岡俊雄、山中敬三の両氏にお越し頂いての試聴だったが、初夏の頃、前後一週間近くを尽くしての大がかりな比較になった。そこではじめて、わたくしばかりでなく岡、山中の両氏も、マッキントッシュの凄さを知らされたのであった。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その20)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

 今回試聴したアンプは、実はここに書いた機種の倍以上の数に上る。そのすべてについて書くべきだったのかもしれないが、わたくしとして印象に深く残ったアンプに重点を置いて書くうちに、すでに指定された枚数を大幅に超過してしまった。試聴後これを書いているきょうまでのあいだに、かなりの日時が過ぎているが、裏返していえば、それだけの日時を経てなお、記憶に鮮明に浮かんでくる音は、メモを見直さないとくわしく思い出せないアンプにくらべて、やはり一段階上にある音だと考えてよいように思う。これら以外に、目立たない平凡な音、しかしそれだけに永く聴いて飽きないかもしれない音、また反対におそろしく主張の強い、主張というよりは大見得切った一大スペクタクル・サウンドとでもいいたいような音もあった。実にさまざまのアンプがある。そこがオーディオのおもしろいところだろう。いかに自分の感覚に合った音のアンプを探し出すか、自分の大切なスピーカーを、どれだけ良く鳴らすアンプを探しあてるか、そこがアンプを聴き分け、選びわける醍醐味ともいえそうだ。
     *
 しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
 まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
 それでも、アンプの音は無色透明になるべきだ、理想のアンプの音は、蒸留水のようになるべきだ、と感がえておられる方々に、わたくしは最後に大切なことを言いたい。
 アンプの音に、明らかに固有のクセのあることには、わたくしも反対だ。広い意味では、アンプというものは、入力にできるだけ正直な増幅を目ざすべきだ。それはとうぜんで、アンプがプログラムに含まれない勝手な音を創作することは、少なくとも再生音の分野では避けるべきことだ。
 しかし、アンプの音が、いやアンプに限らずスピーカーやその他のオーディオ機器一切の音が、蒸留水をめざすことは、わたくしは正しくないと思う。むろん色がついていてはいけない。混ぜものがあっても、ゴミが入っていても論外だ。けれど、蒸留水は少しもうまくない。本当にうまい、最高にうまい水は、たとえば谷間から湧き出たばかりの、おそろしく透明で、不純物が少なくて、純水に近い水であるけれど、そこに、水の味を微妙に引き立てるミネラル類が、ごく微量混じっているからこそ、谷あいの湧き水が最高にうまい。わたくしは、水の純度を上げるのはここまでが限度だ、と思う。蒸留水にしてはいけない。また、アンプの音が、理想の上では別として現実に蒸留水に、つまり少しの不純物もない水のように、なるわけがない。要は不純物をどこまで少なくできるかの闘いなのだが、しかし、谷間の湧き水のたとえのように、うまさを感じさせる最少限必要なミネラルを、そしてその成分と混合の割合を、微妙にコントロールしえたときに、アンプの音が魅力と説得力をモチる。そういうアンプが欲しいと思う。そして水の味にも、その水の湧く場所の違いによって豊かさが、艶が、甘味が、えもいわれない微妙さで味わい分けられると同じように、アンプの音の差にもそれが永久に聴き分けられるはずだ。アンプがどんなに進歩しても、そういう差がなくならないはずだ。そこにこそ、音楽を、アンプやスピーカーを通じて聴くことの微妙な楽しみがある。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 49号(1978年12月発行)
「Hi-Fiコンポーネントにおける《第1回STATE OF THE ART賞》選定」より

 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
 そしてまた、それ以前の同種の製品にはみられなかった何らかの革新的あるいは漸新的な面のあること。とくにそれがまったく新しい革新であれば、「それ以前の同種製品」などというものはありえない理くつにさえなる。またもしも、革新あるいは漸新でなくとも、そこまでに発展してきた各種の技術を見事に融合させてひとつの有機的な統一体に仕上げることに成功した製品……。
 とすると、いわゆる一流品と少し異なるのは、一流品と呼ばれるには、ある程度以上の時間の経過──その中でおおぜいの批評に耐えて生き残る──が必要になるが、ステート・オブ・ジ・アートの場合には、製品が世に出た直後であっても、それが何らかの点で新しいテクノロジーをよく活かして完成していると認められればよいのではないか。
     *
 ざっとそんな考えで、与えられたルールにしたがってリストアップを試みた。
 今回とても興味深かったのは選ばれたパーツを誰が何点入れたかが、最後まで誰にも判らないルールになっていたことだ。選定会議の当日、リストアップされたパーツの一覧表が渡される。まずその数の多いこと、言いかえれば九人の選定委員のそれぞれの、ステート・オブ・ジ・アートに対する考え方や解釈そしてその結果良しとするパーツが、いかに多様であるかを知って驚く。まるで思いがけないパーツがノミネートされている。またそれほど思いがけなくはないが自分としてはこれはベストバイというテーマでなくては入れないだろうパーツも入ってくる。なるほど、本誌のレギュラーに限っても九人もの人間が集まると、同じ課題に対してこれほど多彩な答えが出るのか、という驚きが何よりもおもしろかった。
 ほんとうはおもしろがってばかりもいられない部分もある。自分としてはぜひとも推したかったのに惜しくも最終審査までのあいだに落ちてしまった製品がいくつもある。同じ思いは九人の委員がそれぞれに抱いているにちがいないが。
     *
 そうは言うものの、最終的に示された結果は、細部では個人個人の意見がそれぞれにあるに違いなくても、大すじではやはり納得のゆく結論が出ているのだろう。多数決投票というもののこれが性格だろうか。
 部門別にこまかくみると、例えばスピーカーではJBLパラゴンやヴァイタヴォックスCN191のような極めて寿命の長い製品も入っているが、アンプでは原則的に旧式の製品は上っていないのは、変遷の著しいエレクトロニクスの分野と、基本的には大すじの変らないトランスデューサーの分野とのちがいがしぜんに現われていて、これは当然の結果であるにせよ、一見無機的なリストアップの一覧表からも、そうした読みとりかたができることを申し添えておきたい。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

菅野沖彦

ステレオサウンド 49号(1978年12月発行)
「Hi-Fiコンポーネントにおける《第1回STATE OF THE ART賞》選定」より

 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が工業製品に対して使われる場合、工業製品がその本質であるメカニズムを追求していった結果、最高の性能を持つに至り、さらに芸術的な雰囲気さえ漂わせるものを指すのではないか、と私は解釈している。「アート」という言葉は、技術であると同時に美でもあり、芸術でもあるという、実に深い意味を持っている。しかし、日本語にはこの単語の持つ意味やニュアンスを的確に訳出する言葉がないこともあって、実にむずかしい言葉ということができる。
 いずれにしても工業製品であるオーディオ機器は、音楽芸術を再現することが目的なのである。そして、機械として最高の性能と仕上げを持ち、一つの香り高い雰囲気を感じさせてくれ、人をして魅力を感じさせるとまでいう域に達したものこそ、ステート・オブ・ジ・アートと呼ぶにふさわしい製品といえるであろう。ただ、そのような観点からのみ製品を見ていくと、そう多く存在するわけではない。大量生産、大量販売のこの世の中で、厳密な意味でのステート・オブ・ジ・アートを選ぶとすれば、残念ながらごくごく数が限られてしまうことになる。しかし、現実にはそういう意味合いを中心に置きながらも、ある程度拡大解釈をして製品を選出するということにならざるを得なかった。そして、私はステート・オブ・ジ・アートを、コストパフォーマンスやベストバイという言葉に惑わされることなく、非常によくできた製品に与える言葉と解釈した。そうするとかなりの数の製品が選ばれてくる。しかし、芸術的な香りにまで高められた製品ということになると、今回選出されたものでも、ほとんどに不満が出てくるというのが現実なのである。
 加えて、ステート・オブ・ジ・アートというにふさわしい存在であるためには、その製品がある由緒を持っているということも重要なファクターであろう。というより、その製作に携わった人間なりメーカーが、しっかりとした存在でなければならないということなのである。つまり、ある主張に加えて高度な技術、高いセンスとしっかりした姿勢によって生み出された製品こそ、ステート・オブ・ジ・アートに選びたいという気持ちが非常に強かったわけだ。
 オーディオは趣味である。ステート・オブ・ジ・アートという言葉の持つ意味の主観性、あるいは曖昧さが示しているように、オーディオというものは、自分のイメージの中にある、内なる音を追求していくという、大変に、主観性の強いものであるし、個性とか個人の嗜好という意味で、曖昧といえば曖昧なものである。しかし、コストパフォーマンスやベストバイといった見方だけでオーディオ機器を評価、選択するペきでないと思う。そういう意味でステート・オブ・ジ・アートとして選び出された製品には、オーディオの本質をチラリと感じさせてくれる何かがあると確信する。ただステート・オブ・ジ・アートという言葉は、もともとアメリカで使われていたのだが、最近アメリカでの使われ方には、ベストセラー、ベストパフォーマンスといった色合いが濃いのではないかという気がする。それが本場でのことであるから、よけいに寂しく感ずるのである。せめてわれわれとしては、本来の観念でこの言葉を捉え、そういう目でオーディオ機器を眺め、そして選択するという姿勢を持ちたいと思うのである。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

井上卓也

ステレオサウンド 49号(1978年12月発行)
「Hi-Fiコンポーネントにおける《第1回STATE OF THE ART賞》選定」より

 今回は、本誌はじめての企画であるTHE STATE OF THE ARTである。この選択にあたっては、文字が意味する、本来は芸術ではないものが芸術の領域に到達したもの、として、これをオーディオ製品にあてはめて考えなければならないことになる。
 何をもって芸術の領域に到達したと解釈するかは、少しでも基準点を移動させ拡大解釈をすれば、対象となるべきオーディオ製品の範囲はたちまち膨大なものとなり、収拾のつかないことにもなりかねない。それに、私自身は、かねてからオーディオ製品はマスプロダクト、マスセールのプロセスを前提とした工業製品だと思っているだけに、THE STATE OF THE ARTという文字自体の持っている意味と、現実のオーディオ製品とのギャップの大きさに、選択する以前から面はゆい気持にかられた次第である。
 しかし、実際に選択をすることになった以上は、独断と偏見に満ちた勝手な解釈として、現代の技術と素材を基盤として、従来だれしも到達できなかったグレイドにまで向上した基本性能を備え、オーディオの高級品にふさわしいオリジナリティのある、限定したコンセプトをもって開発され、かつ、いたずらにデザイン的でなく、機能美のある完成度の高いデザインと仕上げをもったものとすれば、現実のオーディオ製品に選択すべき対象は、ある程度は存在することになる。
 現在のオーディオ製品は、マスプロダクトという量産効果を極度に利用して、はじめて商品としてリーゾナブルな価格で販売されているために、生産をする製品の数量の大小が最終の価格決定に大きく影響を与え、同程度の仕様、デザインを備えた製品でも、予定生産量が少なければ、1ランク上の価格帯に置かざるをえなくなることになる。
 また、同程度の生産予定量をもつ製品間でも、技術的な基本性能重視型と機能重視型、さらにデザインや仕上重視型では、趣味のオーディオ製品として眺めれば、どのポイントに魅力を感じるかによって、商品性や価値感は大幅に変わることになる。したがって、選択の対象となる製品では、当然特定のコンセプトで開発されているだけに、生産量は少なく、量産効果も期待できないために、その価格も飛躍的に高くならざるをえなくなり、とても容易に誰でも入手できるような価格の製品では存在しえないことになる。
 具体的にジャンル別でいえば、スピーカーシステムなら大型フロアーシステム、アンプなら高級セパレート型アンプ、カートリッジならオリジナルな発電系をもち、精密加工を施したものとなり、必然的にMC型が対象となることになる。
 今回は、THE STATE OF THE ARTの第1回でもあるために、個人的には可能なかぎり多くの製品をノミネートする方針で選択をはじめると、国内製品では最新モデルか、もしくは少なくとも昭和48年のオイルショック以前に企画された予想外に古いモデルに分かれるようであり、海外製品では最新モデルが少なく、2〜3年以前、または歴史的にもいえる古いモデルが多いようである。
 結果として、THE STATE OF THE ARTとして選択されたリスト、及びノミネートされたリストを眺めると、選択基準はかなり個人差が激しく、予期せざる製品がリストにのぼってきた事実は、次回以後で選択のルールをある程度修正をする必要があることを物語っているようで読者諸氏の批判をあおぎたいところである。

音楽における低音の重要性を探る 低音再生のあゆみと話題のサブ・ウーファー方式について

井上卓也

ステレオサウンド 48号(1978年9月発行)
「超低音再生のための3D方式実験リポート」より

 オーディオの世界で、もっとも重要で、しかも困難なことは、いかにして音楽再生上のベーシックトーンである低音の再生能力を向上するかということである。
 実際にスピーカーシステムで音楽を再生してみると、たとえば3ウェイ構成のスピーカーシステムであれば、トゥイーター、スコーカー、ウーファーと受け持つ周波数帯域が下がるほど、エネルギー的に増大することが容易にわかる。どのように強力なトゥイーターを使っても、部屋の天井や床が振動するほどのエネルギーは得られないが、ウーファーでは、たとえ10cm程度の小口径ユニットでさえも、エンクロージュアを振動させるだけのエネルギーは得られる。
 低音は、音の波長からみても100Hzで3・4m程度と長く、エネルギーがあるだけに、大量の空気を振動させなければならない。そのためには、より大口径のウーファーが要求されることになる。
 ディスクが誕生して以来のオーディオの歴史は、主にこの低音再生能力の向上を、常にメインテーマとして繰りひろげられてきたといってもよい。最近、サブ・ウーファーシステムが台頭し、従来の3D方式をも含めた新しい方式として注目されてきている。現実に、その効果は目ざましいものがある。そこで、ここでは、オーディオにおける低音再生の歴史をふりかえるとともに、話題のサブ・ウーファーシステムの特徴や効果などについて述べてみたいと思う。
 ディスクによる再生音楽の世界では、当初のアコースティック蓄音器が、開口面積とその長さにより制約を受けるホーンそのものに依存していたために、いわば中音域のみで音楽再生をしていたことになる。低音域の再生に格段の進歩をもたらしたきっかけは、当時の新技術であるエレクトロニクスの導入と画期的な発明であるダイナミック・コーン型スピーカー(現在のコーン型スピーカーユニット)の実用化の2点によるところが大きい。
 もちろん、当時の業務用機器の代表であった映画用の再生系には、すでにレシーバー(現在のドライバーユニット)と大型ホーンを組み合わせた巨大なホーン型スピーカーシステムが使われていたが、それとても、100Hz以下の低音域の再生は、ホーン型の特長として、ホーンのフレアーカットオフ周波数では急激にレスポンスが下降するため、望みうすであったわけである。
 コーン型スピーカーユニットは、ホーン型と比較してわりあい小型のプレーンバッフルや後面開放型のエンクロージュアで充分な低音再生が可能であるため、その特長を活かして、コンシュマー用の電気蓄音器が実用化され、これを契機としてハイフィデリティ再生という言葉が使用されるようになった。つまり、当時はプログラムソース側のディスクもSP盤であり、ディスク制作用のカッターも、また再生側のカートリッジとトーンアームが一体となったピックアップやピックアップヘッドの性能からも、高域再生は期待できなかったために、聴感上でのバランスから、いかに低音再生が可能であるかが、ハイフィデリティ再生のポイントになっていたことになる。
 ちなみに、昭和十年頃のオーディオ雑誌を見ると、低音再生に関する問題が数多く見受けられるし、アンプでは、管球式で、増幅段とパワー段の段間の結合用コンデンサーを取除く、ロフチン・ホワイト方式と呼ばれた直結結合型のアンプの試作記事などがある。
 この当時も現在と同様に、オーディオのアマチュアの技術レベルよりも、メーカーの技術レベルのほうが特例を除いて格段に高く、米GE社でのバスリフレックス型エンクロージュアの開発や、多分米RCA社の製品であったと思うが、エンクロージュアの底板部分に、パイプオルガン状に長さと直径の異なったパイプを多数設置して充分な低音を再生しようとした製品があった。これらは、それぞれユニークなオリジナルアイデアに基づいた、低音再生へのアプローチの結果に他ならない。
 昭和二十年代前半の頃になると、まだ国内メーカーの製品は、プレーヤー、アンプ、スピーカーを一つの箱の中に収めた、いわゆる電蓄の形態を採用していたが、各社のトップクラスの製品やデモ用のモデルは、充分な低音を再生するために、現在のスピーカーシステムでいえば、JBL4343程度以上のものが多く、なかには小型の洋服ダンスほどもある超大型のモデルがあり、椅子の上に乗らないとディスクがかけられないといったものもあり、一種の超大型電蓄時代といった感があったこともある。
 しかし、ディスク再生で革命的にといってもよいほどの出来事は昭和三十三年に33 1/3回転のLP盤が米コロンビアで開発されたことと、ほぼ時を同じくして米RCAから、45回転17cm直径のEP盤が開発されたことである。このことによりディスクにカッティングできる周波数帯域が、50~15000Hz程度に飛躍的に拡大されたのである。
 また、ディスクの材料がSP盤のシェラックから、ビニール系合成樹脂に変わったために、スクラッチノイズのピッチが上がり、量的にも激減したこともあって、当時はその優れた低域特性よりも高域特性に注目しがちであった。いかに高域の再生能力が優れているかが、ハイフィデリティ再生のポイントになっていたわけだが、すでに、当時から一部の時代の先端をいくオーディオファンは、新しいこれらのディスクの低音再生能力に着目し、音楽のベーシックトーンである低音再生の向上に取組みはじめていたのである。
 昭和二十年代後半から三十年代前半になると、新しく登場したLP/EP盤の優れた性能を発揮できるコンポーネント製品が海外製品には存在し、かなり輸入されてはいたが、非現実的に高価格であった。国内メーカー製品にもシステムとして開発されたものは2~3存在したが、主に業務用的な性質の製品で、一般的なコンシュマー用とは考えられなかった。また一方において、海外では新しい技術を盛込んだ優れたアンプであるパワーアンプのウィリアムソン方式、ultraリニア方式に代表される優れた性能をもった各種の新方式が発表された。これらの新情報が入手できたこともあり、この当時は、国内のメーカー製システムの平均的技術レベルに比較して、アンプをはじめとするプレーヤーシステムやスピーカーシステムを自らのために製作し音楽を楽しむオーディオアマチュアの技術レベルのほうが圧倒的に優れていた、いわば過渡的な珍しい時代である。
 当時のスピーカーユニットを収めるエンクロージュアは、20cmクラスの場合でも、現在のスピーカーシステムでいえば、かつてのJBL4341程度が標準的な外形寸法であり、エンクロージュア形式はバスレフ型、もしくは密閉型である。一部の前衛的な人々は、大型のストレートやコーナーを利用した各種の低音ホーンや、部屋の壁面や押入れを利用した壁バッフルを使って、低音再生へのアプローチが試みられていた。これらの方式による圧倒的な低音再生の威力は物凄く、大型のバスレフ型エンクロージュアの低音とは隔絶した素晴らしいものであった。
 一方海外においては、ステレオLPが開発される昭和三十二年にいたるモノーラルLP末期が大型フロアー全盛期であり、現在ではその中の限られた一部の製品のシリーズが残っているだけである。
 代表的な例としては、部屋のコーナーを利用し、コーナー効果によりエンクロージュア容積を小さくし、しかも大型フロントホーンに匹敵する高能率化を実現することに成功した、パウル・クリプッシュの発明したクリプッシュK型ホーンがある。このK型ホーンは、ホーンの形状が横方向から見るとアルファベットのK字状を形成していることから名付けられたもので、折曲げ変形のコーナーを利用したフロントロード型ホーンである。
 このクリプッシュホーンは構造的に複雑ではあるが、各種小型化するために採用された折曲げ型のホーン型エンクロージュアのなかで、低音再生能力が優れているために、クリプッシュ社の製品に採用され現在に至っている。他に、米エレクトロボイス社もクリプッシュのパテントを獲得して、かつてのパトリシアンシリーズの700にいたる一連の大型システムや、少し小型のジョージアンにも採用された。パトリシアンは、ウーファーに大口径の46cmユニットが使われ、クリプッシュ型ホーンとしてはもっとも大型のシステムであった。しかし、パトリシアンシリーズの最後のモデルとなった800は、クリプッシュのパテントが切れたこともあって、エンクロージュア形式が変更され、ウーファーユニットに76cm口径の超大型ユニットを起用した、フロントにショートホーンをもつ密閉型となっていることから考えても、このクリプッシュ型ホーンの威力を計り知ることができるといえよう。
 その他、このクリプッシュ型ホーンを使った製品としては、現在も残っている英ヴァイタヴォックスの191コーナーホーンシステムがあるが、このシステムは、ウーファーに38cmユニットを採用し、部屋の壁面と接する部分の構造が少し異なっている。
 ホーンを折曲げ、いたずらに全長が長くなりやすいフロントロード型ホーンの短所を補って、全長を短縮したタイプがW型ホーンである。このタイプは゛本来シアターサプライなどの業務用途に使われたものだが、部屋のコーナーの両側の壁面と床との3面の、いわゆるミラー効果を利用し、小型化したものが、コンシュマー用のホーン型エンクロージュアである。この例としては、かつてのJBLの傑作とうたわれたハーツフィールドがある。
 またW型ホーンを、低域レスポンスの改善というよりは、低域の能率を向上する目的で使用した例としては、現在のエレクトロボイス社のフロアー型システム・セントリーIVがある。このシステムは、ウーファーに30cm口径のユニットを2個使用し、38cm型ユニットに相当するコーンの有効面積を確保しながら、見かけ上の振動板の形状を矩形に等しくしてホーン形状を単純化し、かつ小型化している点に特長がある。
 フロントロード型ホーンが、ウーファーユニット前面に放射される音を使うことと対照的に、ユニット背面にも放射される音を低音だけホーン効果を利用しようとするタイプが、バックロード型ホーンエンクロージュアである。
 このタイプでは、古くから米RCAのオルソンが発明した、複雑な構造を採用しホーンの全長を充分に低音再生ができるだけ長くとったオルソン型ホーンが知られているが、実際の製品として発売されたものは知らない。これを単純化したタイプがCW型ホーンで、英ロージアの製品が知られている。オルソン型、CW型は、ともに20cm口径の中口径全域型ユニットと組み合わされることが多く、38型ユニット使用の例としては、CW型で2個並列使用をした米ジェンセンの製品があったようだが、オリジナル製品は輸入されてなく、国内で設計図を基にして詩作されたものを見たことがあるのみだ。
 バックロード型ホーンで、部屋のコーナーを利用するタイプには、英タンノイのオートグラフ、GRFシステムが──エンクロージュアは国産化されているが──現在も残っている製品である。ホーンの構造はかなり複雑で、カット図面からはやや実体を知るのは難しいであろう。このタイプで折曲げホーン構造を単純化した例が、かつての米JBLのC34コーナー型エンクロージュアであり、コーナー型でなく一般のレクタンギュラー型にモディファイしたものが、以前の同じJBLのC40ハークネスである。このシステムは、部屋のコーナーも床面も利用できない構造のため、エレクトロボイスのセントリーIVと同様、低音の能率改善と中音以上を受け持つホーン型ユニットとの音色的なマッチングが、低域レスポンスの改善以上の目的と思われる。
 ステレオLPの時代となると、それまでのモノーラルとは違い、2つのスピーカーシステムが必要となるために、現実にコンシュマーのリスニングルーム内にセッティングする場合、住宅事情が格段によい米国あたりでも場所的な制約が大きくなり、ことにモノーラル時代に大型フロアーシステムを使っているファンほど、ステレオ化が遅れたのは当然のことである。いかに小型のスピーカーシステムで、大型フロアーシステムに匹敵する充分な低域レスポンスを獲得できるかが、最大のポイントとしてクローズアップされてこないはずはない。
 このような、今日的な表現によると、ニーズを背景にして登場してきたステレオ時代に応わしいスピーカーシステムが、エドガー・ビルチャーが考えたエアーサスペンション方式のスピーカーシステムである。これは、小型のエアタイトな完全密閉型エンクロージュアに、コーンの振幅が大きくなっても歪みの発生が少ない、いわゆるロングトラベル型ボイスコイルをもつ、新構想のウーファーを使用したものである。
 簡単に考えれば、比較的にウーファーとしては小さい口径のユニットを使うが、コーンの振幅を大きくして、大口径ユニットに匹敵するだけの空気を動かして充分な低音を得ようとするもので、そのために必然的にボイスコイル巻幅は、磁界から外れないだけの寸法が必要になる。ということは、ボイスコイルの一部だけしか磁束が流れないため、ユニットとしての能率は10~16dBと大幅に低下するというデメリットをもつことになる。
 能率が低下した分だけスピーカーをドライブするパワーアンプのパワーが要求されるため、高出力パワーアンプがこの方式には必須条件だが、幸いなことに、アンプ側でも管球タイプがソリッドステート化され、比較的容易に高出力アンプが得られるようになった背景もあって、この方式が急速にスピーカーシステムの主流の座についてしまったのは当然のことでもあるともいえよう。
 ちなみに、スピーカーの能率が3dB下れば、同じ音量の音を出すために、アンプのパワーは2倍必要となり、6dBで4倍、10dBで10倍ということになる。まさしく、アンプのソリッドステート化がなければ、この方式は実用化不可能であったはずであろう。しかし、能率を犠牲にしたとはいえ、従来では想像もつかぬ超小型エンクロージュアで、それまでの大型フロアーシステムに匹敵するというよりは、むしろ勝るとも劣らぬくらい充分に伸びた低域レスポンスと量感を得ることができるようになった点については、このエアーサスペンション方式は時代の要求に答えて生まれた、実に画期的な新スピーカーであったことは事実である。
 余談ではあるが、小口径ユニットを改造し、ボイスコイル巻幅を拡げ、密閉型エンクロージュアに収めて低域レスポンスを改良しようとする方法は、AR以前に、当時、東京工大に居られた西巻氏が提唱され、国内のアマチュアの間でかなり広く実用化されていたことを記憶されておられる方もあるだろう。これを一段と発展させ、エンクロージュアをエアタイトな完全密閉型とし、許容入力の大きい中口径ユニットを採用して、充分大型システムに匹敵するパワフルな低域再生を可能とした点に、AR方式の長所があると思う。
 現在のスピーカーシステムは、完全密閉型全盛時代に得た経験と技術を基盤とし、より音色が明るく、表現力の豊かな新世代のバスレフ型が登場し、完全密閉型に替わって主流の座を占めている。つまり、低域レスポンスの面では一歩後退したことになるが、音楽を再生するスピーカーシステムとしては、平均してより表現力が豊かな完成度の高さを身につけているといってもよいだろう。
 一方においては、かつて完全密閉型システム全盛以前に一次急激に台頭し、急激に衰えた英グッドマンのマキシムの再来ともいうべき超小型スピーカーシステムが、ヨーロッパ製品の成果を契機として国内各メーカーから続々と発売されているが、これらのシステムのエンクロージュア形式は、ほとんど完全密閉型である。この種の超小型システムになると使用ウーファーも10cm口径程度が標準であり、これで聴感上でかなり低音感を得ようとすると、エンクロージュア形式は完全密閉型にせざるを得ないわけで、このタイプの特長が大きく活かされている。
 このようにいかに小型化したスピーカーシステムといえども、低音再生はもっとも重要なベーシックトーンであり、音楽再生上、最優先に考えなければならないポイントである。
 最近、スピーカーシステムのジャンルで話題を提供しているものに、サブ・ウーファーと呼ばれる方式がある。このタイプは、サブという言葉から、何か言葉どおりに補助的なウーファーを使う方式のように受け取られやすいが、コンプリートなスピーカーシステムの最低音のみを増張して、周波数特性的にも音色的にも、低音の質的向上を計ろうとする考えによるものである。
 基本的には、かつて一部の高級ファンに愛用された3D方式を発展したものと考えてもよいだろう。この3D方式は、その発端をステレオ初期にさかのぼる。ステレオになって一対のスピーカーシステムを使用するとなると、それまでのモノーラル再生で、大型スピーカーシステムを使っていた場合ほど場所的・経費的な制約が大きくなる点を解決する目的で、方向感がブロードな低音だけを一本のウーファーで受け持たせてステレオ再生をしようとするものである。当時の製品では、エレクトロボイスのステレオシステムが知られている。当然、このシステムはウーファーがなく、中域以上のユニットのみで構成されているために小型であり、ステレオ化を促進する一つのアプローチであったことは事実である。
 現在のサブ・ウーファーシステムは、超小型で質的に内容の高いスピーカーシステムの実用化に続く、第2弾のステップとしての低音再生の向上、コンデンサースピーカーシステムに代表される平面振動板を使う製品の低域の改善などの目的から、左右チャンネルの最低域に各一個のサブ・ウーファーを組み合わせるオーソドックスな方式から、3D方式までを含める範囲で登場したものである。
 この場合、メインとなるコンプリートなスピーカーシステムの低域側に、ディスク再生情で有害ともなる超低域と、マルチウェイスピーカーシステムのクロスオーバー周波数に相当する部分のハイカットフィルターを組み合わせた、バンドパス特性の最低域を加えようとするものが標準と考えられる。もちろん、ハイカットフィルターの部分は、マルチウェイ方式のクロスオーバー周波数と同様に、ハイカットとローカットのフィルターを組み合わせるタイプや、音響的にサブソニック領域の超低音をカットするもの、特にこの部分にフィルターを使用しないもの等もバリエーションとして存在することになる。このメインスピーカーシステムと実質的にクロスオーバーするハイカットフィルターは、平均的に100Hz以下に選ばれているのが、このサブ・ウーファーシステムの特長で、かつての標準的な3D方式が、低くても150Hz程度以上のクロスオーバー周波数で使用されていたことに比較して、異なっている点といえよう。
 サブ・ウーファーシステムは、3D方式で使用する場合でも、左右の、この場合にはメインとなる一対のスピーカーシステムが置かれている幅の内側に置いてあれば、音場感、定位感的には問題は全くない。部屋の構造、条件にもよるが、たとえば左右メインスピーカーの外側にセットするとすれば、聴感というよりは皮膚感的に、一種の圧迫感を生じやすく、これによってサブ・ウーファーの位置が感知されることが多い。もちろん、左右各一個のサブ・ウーファーを使用するタイプでは、オーソドックスに、サブ・ウーファーの上にメインシステムを置けば、超小型システム数段スケールの大きいスピーカーシステムに変貌するのは当然のことである。
 現在のサブ・ウーファーシステムは、時期的にその出発点にあるため、この方式用として開発されたコンポーネントの絶対数に限りがあり、また、価格的にも海外製品では高価格なものが多く、一般的においそれと手の出せない状況にある。しかし、国内メーカー各社が、急激にミニサイズのスピーカーシステムを製品化したことを考えれば、年末までにはかなりのサブ・ウーファーシステム用のコンポーネントが製品化されると予想できる。
 この場合、ウーファーユニットにしても、サブ・ウーファー用として開発された製品に、当然のことながらメリットは多くあり、超大口径の特別なウーファーを除いて、標準タイプのウーファーでは、あまり多くの効果は期待できそうにない。フィルター関係も同様で、マルチアンプ方式のエレクトロニック・クロスオーバーでは、使用する周波数そのものに制約がある。サブ・ウーファーシステムとして少し追い込んでいくと、特にハイカット周波数の細かい選択が不可能で、他用途の流用は不可能であることを知らされる。この場合、この方式での経験、ノウハウが充分にあり、これをベースとして優れた設計により開発された専用フィルターは、抜群の威力を発揮し、サブ・ウーファーシステムのトータルな音楽再生上でのメリットを充分に引き出してくれる。この格差は、予想よりもはるかに大きく、それだけに専用コンポーネントの開発が望まれることになる。
 サブ・ウーファーシステムは、サブ・ウーファーからの音響エネルギーを使い、低音の再生能力を改善する方式であるが、これ以外にも、低域を改善する方法には、電気的な低音トーンコントロールやグラフィックイコライザーなどで、低域を増強する方法がある。電気的な方法は、ちょっと考えると、もっとも容易に低域増強がおこなえると思われがちだが、最終的には、パワーアンプで低域を増強した信号をスピーカーシステムで再生しなければならないために、使用するスピーカーシステムの低域再生能力がもっとも大きなポイントになる。一般的に、エンクロージュア形式がバスレフ型、もしくは密閉型を採用し、充分なエンクロージュア容積をもった、限られた大型フロアーシステムであれば、電気的な低域増強が期待できる。しかし、たとえ大型フロアーシステムであっても、ホーン型エンクロージュア採用の場合は、ホーンの性質から、カットオフ周波数ではそのレスポンスが急激に下降するため、電気的に低域を増強しても希望する低音は得られないことになる。簡単にいえば、ホーン型エンクロージュアは、カットオフ周波数以下の低音が出ない点に特長があると考えてよい。
 ブックシェルフ型になると、特に完全密閉型の場合には、低域特性がゆるやかに下降する特長をもつため、電気的に低域増強をしやすいタイプである。平均的な音量で再生する場合であっても、低域を電気的に増強するということは、増強した分だけ低域のパワーを増大してスピーカーをドライブすることになるわけであるから、かなりパワーアンプとスピーカーシステムに負担を強いることになる。たとえば50Hzを3dB増強したとすれば、スピーカーは電力でドライブするため、50Hzのパワーは2倍となり、6dB増強で4倍、10dB増強で10倍となり、無視できないパワーになってしまう。まして、平均的な低音コントロールの場合には、50Hz以下でも周波数が下れば増強する割合いは大きくなるため、音量が平均的であったとしても、音楽のピークを見込めば、たちまちにして増強した低域ではパワーアンプがクリップしてしまうことになる。簡単に、中域での平均パワーが0・1W、50Hzで低域を10dB増強、音楽のピーク値を16dBとラフに設定したとすれば、ピーク時には、50Hzのパワーは40Wとなり、ピーク値を20dBとすれば、同様に100Wになることになる。また、そのパワーでもアンプは歪まないとしても、ウーファーユニットの許容入力、歪率などから良い低音再生はまったく望まれなくなるわけだ。この点、音経典に低音を増強するサブ・ウーファーシステムのメリットは大変に大きいといわざるを得ない。
 電気的に低域を増強する新しい方式として、dbxからブームボックスと名付けられた、低域のみ入力の1オクターブ下の音を作り出す製品が輸入されて、一部で注目されている。このタイプは、簡単に考えれば、録音・再生のプロセスで失われやすい低音の基音成分を、1オクターブ上の高調波から合成するものとすると、一種の発想の異なった低域増強の方式であることがわかる。このあはいにおいても、使用するスピーカーシステム、パワーアンプはある程度の水準を越した低域再生能力を持つことが必要条件であることは、トーンコンロートルなどの電気的な低域増強とまったく同様である。
 このように、現在においても、スピーカーシステムを中心とし、パワーアンプなどのエレクトロニクスを含めて、低音再生能力の向上、それも実用的な範囲での外形寸法的、価格的制約のなかで各種の試みが続けられている。一方のディスクを中心としたプログラムソース側でも、機器自体の改良をはじめ、新技術を導入した物理的特性の向上への努力が絶え間なく続けられ、ダイレクトカッティング方式、76cm/secのマスターテープの使用や、45回転、半速カッティングなど従来の方式のなかでの改良、さらに、デジタル的なパルス・コード・モジュレーション方式を採用したPCMレコーダー、PCMディスクが誕生しようとしている。
 これらのプログラムソース側の進歩により、さらに一段と低音再生の可能性をプログラムソース自体が持つことになり、現在はこれを再生するコンポーネントシステムの低音再生能力がさらに重要視されるべき時代に入っているといえよう。
 現在の国内の生活環境からは、リスニングルームの容積が充分に確保しがたく、それだけに低音再生上での制約を受けやすいが、逆に考えれば、不利な条件をもつだけに、ベーシックトーンである低音再生に必要以上の注意と努力をしなければならないことになる。
 前述したように、音楽再生上のベーシックトーンである低音の再生能力を、いかにして向上するかが、オーディオの世界での最も重要克困難なテーマである。その問題を克服するために、レコードの出現以来、各社各様の研究がなされてきたわけである。先に述べたいろいろな低音再生のための各種の大型エンクロージュアや大口径ウーファーの開発、ステレオ時代に入って、ブックシェルフ型に採用されたエアサスペンション方式などがその代表的な例である。
 現代においては、最近になって登場してきた新しい考え方によるサブ・ウーファーシステムを、低音再生能力向上の意味から見逃すことはできない。先ほど述べたように、電気的に低音を増強するにはかなりの制約があるわけだが、その点、音響的に低音を増強するサブ・ウーファー(スーパー・ウーファー)システムのメリットは大変に大きいからである。
 今回は、最近話題を集めているサブ・ウーファーシステムの、低音再生能力の向上という点から、その効果を探るために、もっとも簡単に実施できる3D方式に焦点を当てた小実験を行なってみた。
 実験内容は
 ①ブックシェルフ型+スーパーウーファー
 ②中型フロアー型+スーパーウーファー
 ③ミニスピーカー+スーパーウーファー
 の3例について行なった。この3例は、一般ユーザーがスーパーウーファーを使用して低音再生を行なう場合、最も多く採用されるものと考えた空手ある。以下のページは、それぞれの例についての実験リポートである。
 なお、現時点ではまだ3Dシステム用の製品が少なく、限定された条件下での実験リポートであることをお断りしておきたい。今年中にも各社から、スーパーウーファーをはじめ、ネットワークなどの製品の発表があることが予想され、今後の展開が大いに期待されるところである。

レコーディング・ミキサー側からみたモニタースピーカー

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

単純ではないモニタースピーカーの定義
 実際に世界中のプロの世界では、どんなモニタースピーカーが使われているのだろうか。オーディオに興味のある方はぜひ知りたいと思うことだろう。実際に、私が見てきた限りでもアルテックあり、JBLあり、あるいはそれらのユニットを使ったモディファイシステムあり、エレクトロボイスあり、というように多種多様である。時には、モニターというのは結果的に家庭用のプログラムソースを作るのだから、家庭で使われるであろうソースを作るのだから、家庭で使われるであろう標準的なシステムがいいということで、KLHなどのエアーサスペンションタイプのブックシェルフ型を使っているところもある。
 昔のように、ある特性のメーカーがシュアをもっていた時代と違って、現在のように多くのメーカーがクォリティの高いスピーカーを数多く作り出している時代では、世界的にこれが最もスタンダードだといえる製品はないといってもよい。むしろ、日本におけるNHK規格のダイヤトーンのモニタースピーカーの存在は、いまや世界的にみて例外的といってよいほど、使用されているモニタースピーカーは千差万別である。
 では、一体モニタースピーカーとはどういうスピーカーをいうのだろうか。現在では、〝モニター〟と冠されたスピーカーが続々と登場してきているので、ここで整理してみるのも意義があるだろう。
 モニタースピーカーとは、訳せば検聴である。つまり、その音を聴いてもろもろのファクターを分析するものである。例を挙げれば、マイクロと楽器の距離は適当かどうか、マイク同士の距離は適当か、あるいは左チャンネルに入れるべき音がどの程度右チャンネルに漏れているか、SN比はどの程度か、歪みは起きていないかというような、アミ版の写真の粒子の一つ一つを見るがごとき聴き方を、ミキサーはするわけである。もちろん、そういう聴き方だけをしていたのでは、自分がいま何を録音しているのかという、一番大事なものを聴き失ってしまうので、同時に、一つのトータルの音楽作品としても聴かなければならないので或る。そのためのスピーカーがモニタースピーカーというものである。
 しかし、一口にモニタースピーカーといっても、単純に定義することはできない。なぜならば、使用目的や用途別に分類しただけでも、かなりの種類があるからである。大別すれば、放送局用とディスクを制作するための録音スタジオ用に分けることができるが、その録音スタジオ用といわれるものをみても、またいくつかの種類に分けられるのである。
 たとえば、まず録音をするときに、演奏者が演奏している音をミキサーがチェックする、マスターモニターと呼ばれるモニタースピーカーがある。この場合ミキサーは、マイクアレンジが適当かどうか、音色のバランスはどうか、雑音は入っていないかなど、細部に亘ってチェックしながら聴くわけである。当然のことながらクォリティの高いスピーカーが要求されてくるわけであるが、一般的にモニタースピーカーと呼ばれているのは、このときのスピーカーを指しているのである。
 そして、その録音を終えたあとで、演奏者が自分の今の演奏はどうだったかを聴くための、プレイバックモニターがある。これには最初のマスターモニターと共通の場合と異なる場合とがある。つまり、調整室に置いてあるスピーカーと演奏場(スタジオ内)に置いてあるスピーカーが異なる場合は、すでに三種類のモニタースピーカーが存在することになるわけである。
 それから、録音したテープを編集する作業のときに使われるモニタースピーカーがある。編集といっても非常に広い意味があり、一つには最近のマルチトラック録音のテープから2チャンネルにミックスダウンする──つまり、整音作業である。この場合は、全くモニタースピーカーに頼って、音色バランス、左右のバランス、定位位置などを決めていくという、音質重視の作業になり、ここでも相当クォリティの高いモニタースピーカーが要求される。この作業には、マスターモニターと同一のスピーカーを使う場合が一般的には多いようである。もう一つの編集作業としては、演奏の順序を決めたり、演奏者のミスのない最高の演奏部分を継ぐ、いわゆるエディティング、スプライシングすることでこの場合にはそれほど大がかりでなく、小規模なモニタースピーカーが使われるようである。
 さらに、ラッカー盤にカッティングするときのモニター、テスト盤のモニターと数えあげればきりがないほど多くのモニタースピーカーが使われる。
 放送局の場合は、録音スタジオの場合のカッティング工程以前まではほぼ同じと考えてよく、その後に、どういう音でオンエアされているかの確認用モニター、中継ラインの途中でのモニター、ロケハン用の野外モニターなどが加わってくる。
 このように、一口にモニタースピーカーと呼ばれるものにも、かなり多くの種類があるということをまず認識しておいていただきたい。たとえば、読者の方々がよくご存知の例でいえば、JBLの4350は、JBLとしてはスタジオモニターとして作っているが、あの4350を録音用モニターとして使うことはまずないはずである。むしろ、スタジオにおけるプレイバックモニターシステムとして使われる場合の方が多いと思う。なぜかといえば、調整室は最近でこそ広くとれるようになってきたが、どうしてもスペースに限りがあり、ミキシングコンソールからスピーカーまでの距離をそれほど離せない。また、録音をしていてモニタースピーカーがあまり遠くなるのは、自動車の運転をするときにボンネットがかなり長いという感じに似ていて、非常にコントロールしにくいのである。やはりある程度の距離にスピーカーがないと、それに十分な信頼がおけなくなるという心理的な面もあって、あまり遠くでスピーカーを鳴らすことは録音用モニターの場合はないといってよい。そういう意味から、4350のように多くのユニットの付いた大型システムは、録音用モニターにはあまり向かないのである。
 そういう点から、録音用モニターとして標準的なのは、アルテックの604シリーズのユニットを一発収めたいくつかのスピーカーであり、JBLでは4333Aクラスのスピーカーということになるわけである。それ以下の大きさ、たとえばブックシェルフ型スピーカーももちろんモニターとして使えなくはないが、生の音はダイナミックレンジが相当広く、許容入力の大きなスピーカーでないとすぐに使いものにならなくなってくる。そういう点から、604シリーズや4333Aのような、あらゆる意味でタフなスピーカーがモニターとして選ばれているわけである。

モニタースピーカーとしての条件
 それでは、ここで録音用モニター(マスターモニター)に限定して、モニタースピーカーに要求される条件としてどのようなことが挙げられるのか、を考えてみたい。
 最初に結論的なことをいうと、結局録音をする人にとって、かなり馴染んでいるスピーカーがベストだということである。しかし、実際にはもう一つ非常に重要なことで、それと矛盾することがあるのだ。それは、それぞれの人が自分で慣れているモニタースピーカーを使った場合には、それぞれが違うスピーカーを使うことになってしまうことである。なぜそれが問題なるのかというと、プロの仕事の場合、互換性ということが大変に重要になるからだ。この互換性というのは、つまりレコード会社の場合、そのレコード会社のサウンドを確保するため、いくつかある録音スタジオ共通の、特定の標準となるスピーカーが、モニタースピーカーとして選ばれなければならないということである。いわば、その会社のものさし的なスピーカーがモニタースピーカーであるといえる。モニタースピーカーとしての条件のむずかしさは、つまるところ、この二つの相反する問題が常にからみ合っているところにあるのである。
 一般的には、モニタースピーカーの条件を挙げることは案外やさしい。たとえば、録音の現場で使われるスピーカーであるために、非常にラフな使い方をされるので、まず非常にタフでなければいけないということである。と同時に、そのタフさと相反する条件だが、少なくとも全帯域に亘ってきわめて明解なディフィニション、音色の分離性をもち、しかも全帯域のバランスが整っていて、ワイドレンジであってほしいということだ。つまり、タフネス・プラス・ハイクォリティがモニタースピーカーには要求されるわけである。
 現在のモニタースピーカーの一部には、その条件を達成させるために、マルチアンプ駆動のスピーカーもあり、最近では任意のエレクトロニック・クロスオーバーとパワーアンプと使ってマルチアンプ駆動のしやすいように、専用端子を設けているスピーカーもふえてきている。
 たた、そういう条件を満たすスピーカーというのは、ご承知のように、大体マルチウェイシステムになるわけである。このマルチウェイシステムで問題になることは、スピーカーから放射される全帯域の位相に関することである。録音の条件にはいろいろな事柄があるが、その中で現在の、特にステレオ時代になってから、録音のマイクアレンジメントをモニタースピーカーによって確認する場合に、非常に重要な要素の一つは、この位相の監視なのである。つまり、この位相というのは、音像の大きさをどうするか、あるいは直接音と間接音の配分をどうするか、全体の残響感や奥行き感をどうするか、ということの重要な要素になるわけである。その音場に置いたマイクの位相関係が、はたしてスピーカーから素直に伝わるかどうか。これが伝わらなくてはモニタースピーカーとしては落第になるわけで、その意味では、モニタースピーカーは全帯域に亘って位相特性が揃っていることが、条件として挙げられるわけである。ところが、マルチウェイスピーカーには、各ユニット、あるいはネットワークの介在により、一般的に位相特性が乱れやすいという宿命を背負っているのである。
 したがって、多くのモニタースピーカーの中で、いまだに同軸型のユニット一発というシステムがモニターに向いていると言われ、事実、同軸型システムの方がマルチウェイシステムより定位や位相感を監視できる条件を備えているわけである。
 それでは、同軸型システムならすべてよいかというと、私の考えでは必ずしもそうとはいえないように思う。つまり、同軸型は逆にいえば、低域を輻射するウーファーの前にトゥイーターが付けられているので、高域は相当低域による影響を受けるのではないかということである。確かにある部分の位相特性はマルチウェイシステムにより優れているが、実際に出てくる音は、どちらかといえば低域と中高域の相互干渉による歪みのある音を再生するスピーカーがあり、同軸型がベストとは必ずしも思えない。
 以上のようなところが、理想的なモニタースピーカーの条件として挙げられるが、現実にはいままで述べた条件をすべて満たしているスピーカーは存在していない。そのため、レコード会社あるいは個人のミキサーは、現在あるスピーカーの中から自分の志向するサウンドと、どこかで一致点を見つけて、あるいは妥協点を見つけて選ばざるを得ないのである。
 したがって、モニタースピーカーとしての条件を裏返してみれば、〝モニター〟として開発されただけでは不十分であり、実際にそれが、プロの世界でどの程度使われているかという、実績も非常に重要なポイントになるということである。ちなみに、モニタースピーカーのカタログや宣伝物をみていただいてもおわかりのように、どこのスタジオで使われているかが列記されているのは、単なる宣伝ではなく、そのスピーカーの、モニタースピーカーとしての客観性を示す一つのデータなのである。

モニタースピーカーはものさしである
 私は、長年レコーディングミキサーとして仕事をしてきており、そのモニタースピーカーには、アルテックの605B一発入りのシステムを使用している。605Bを選んだ理由は、そのタフネスとともに能率が高いという点からである。私の場合は、録音するのにあちこち持ち運ぶ必要上、大出力アンプや大型エンクロージュアは適さず、限られた範囲内でできるだけワイドレンジで、位相差も明確にわかるという点からこれを選んだわけである。では、なぜ604Eではなく605Bかというと、ダンピングが甘い605Bの方が、同じ容積の小さいエンクロージュアに収めた場合、バランス的に低音感がいいと思えるからである。そして、それを一旦使い始めると、何度も録音を繰りかえしているうちに、モニターとしてどんどん私に慣れてきて、いまだに私の録音の標準装置になっており、今後も壊れない限り使い続けていくいつもりである。
 私にとって、その605Bを使っている限り、そのスピーカーから出てくる音がいいか悪いかではなく、その間に聴いた多くのスピーカーやお得の部屋で接した総合的な体験によって、このスピーカーでこういう音が出ていれば、他のスピーカーではこういう音で再生されるだろうということが想像できるのである。つまり、完全に私の頭の中にそういう回路が出来上っているのである。ここで急に他のモニタースピーカーに替えたとしたら、そのスピーカーから出てきたその場での音しか頼りようがなくなってしまうことになる。もしそのスピーカーのその場の音だけを頼るとなれば、その部屋での音を基準に、改めてレコードになったときの音を考えなければならない。そういうことは、プロの世界では間違いを犯しやすく、非常に危険なことなのである。
 そういう意味からいって、そこにある特定のスピーカーの、特定の音響下での音だけを頼りにしてということでは、録音の仕事はできないのである。そのためにも、モニタースピーカーはしょっちゅう替えるべきではないと私は思う。これが、私が終始一貫して605Bを長い間使っている理由である。もちろん、605Bそのものには、多くの不備もあり、このスピーカーでレコード音楽を楽しもうとは一切思っていない。
 私の場合、そういう意味で、605B(モニタースピーカー)は、録音するための一つのものさしなのである。そのスピーカーで再生された音から、レコードになったときの音が想像できるということは、たとえていえば、1mが三尺三寸であるとすぐに頭の中に思い浮かべることができるということである。各レコード会社が、それぞれ共通のモニタースピーカーを使っているという理由は──先に互換性が重要だと述べたが──、それはとりもなおさず、音のものさしを規定したいがためである。

試聴テストの方法
 レコード音楽の聴き方には、大きく分けて二通りあるように思う。一つは、いわゆる音楽愛好家的聴き方、もう一つはレコーディングミキサー的聴き方である。前者は、どちらかといえばあまりにも些細なことに気をとられないで、トータルな音楽として楽しもうという姿勢であり、後者は微に入り細に亘って、まるでアミ版の写真の粒子の一つ一つを見るかのごとき聴き方である。
 同じことがスピーカー側にもいえるように思う。つまり、鑑賞用スピーカーとして、聴きやすい音の、音楽的ムードで包んでくれるような鳴り方をするスピーカーと、ほんのわずかなマイクロフォンの距離による音色の差まで出してくれるスピーカーとがあるようだ。
 最近では、オーディオが盛んになってきたのにつれて、徐々に後者のような聴き方をするオーディオファンがふえ、また、そういう要求に応えるべきスピーカーも続々と登場してきている。〝モニター〟と銘打たれたスピーカーが、最近になって急速にふえてきているのも、そういう傾向を反映しているように思われる。
 ところで、今回のモニタースピーカーのテストのポイントは、やはり録音状態がどこまで見通せるか、ということを優先させたことである。つまり、このスピーカーでどんな音楽の世界が再現されるのだろうかという、普段の音楽の聴き方でのテストとは違った方法でテストしたわけである。そのために、自分で録音したプログラムソースを主眼としている。これは、少なくとも自分でマイクアレンジをし、ミキシングもしたわけだから、こういう音が入っているはずだという、一番はっきりした尺度が自分の中にあるためである。それがいろいろいなモニタースピーカーでどう再現されるかを聴くには、私にとって一番理解しやすい方法だからである。
 もちろん、モニタースピーカーといえども一般の鑑賞用システムとしても十分使えるので、そのために一般のレコードも試聴の際には併せて聴いている。
 試聴に使用したレコードは、私か録音した「ノリオ・マエダ・ミーツ・5サキソフォンズ」(オーディオラボ ALJ1051dbx)、「サイド・バイ・サイド2」(オーディオラボ ALJ1042)の2枚と、ジョージ・セルの指揮したウィーン・フィルの演奏によるベートーヴェンの「エグモント」付帯音楽(ロンドン SLC1859)の合計3枚を主に使用した。これらのレコードのどこを中心に聴いたかというと、まず、二つのスピーカーから再生されるステレオフォニックな音場感と、音像の定位についてである。たとえば、ベートーヴェンのエグモントのレコードは、エコーが右に流れているのだが、忠実に右に流れているように聴こえてくるかどうか。この点で、今回のテスト機種の中には、右に流れているように聴こえないスピーカーが数機種あったわけだが、そう聴こえないのは、モニタースピーカーとしては具合が悪いことになってしまう(しかし、家庭で鑑賞用として聴くには、むしろその方が具合がいいかもしれないということもいえる)。
 当然のことながら、各楽器の音量のバランスと距離感のバランス、奥行き、広がりという点にもかなり注意して聴いた。先ほども延べたことだが、スピーカーシステムの位相特性が優れていれば、それは非常に忠実に再現してくれるはずである。そういう音場感、プレゼンス、雰囲気が意図した通りに再現されるかどうかが、今回の試聴の重要なポイントになっている。
 それから、モニタースピーカーのテストということなので、試聴には2トラック38cm/secのテープがもつエネルギーが、ディスクのもつエネルギーとは相当違い、単純にダイナミックレンジという表現では言いあらわしきれないような差があるためである。ディスクのように、ある程度ダイナミックレンジがコントロールされたものでだけ試聴したのでは、モニタースピーカーのもてる力のすべてを知るには不十分であると考えたからでもある。テープは、やはり私がdbxエンコードして録音したもので、八城一夫と川上修のデュエットと猪俣猛のドラムスを中心としたパーカッションを収録しており、まだ未発売のテープをデコーデッド再生したわけである。そのテープにより、スピーカーの許容入力やタフネスという、あくまで純然たるモニタースピーカーとしてのチェックを行っている。
 再生装置は、まずテープレコーダーに、私が普段業務用として使っているスカリーの280B2トラック2チャンネル仕様のものを使用した。レコード再生については、やはりテストということもあり、スピーカー以外の他の部分はできるだけ自分でその性格をよく知っている装置を使用している。まずカートリッジには、エレクトロアクースティックのSTS455E、コントロールアンプは現在自宅でも使用しているマッキントッシュのC32、パワーアンプはアキュフェーズのm60(300W)である。台出慮のパワーアンプを使った理由には、再三述べていることだが、スピーカーシステムのタフネスを調べたいためでもある。なお、プレーヤーシステムには、ビクターのTT101システムを、それにdbx122を2トラック38cm/secテープのデコーデッド再生に使用している。
 テストを終えて感じたことは、コンシュマー用スピーカーとの差がかなり近づいてきているということである。そして、今回聴いたスピーカーは、ほとんどすべての製品が、それなりのバランスできちんとまとめられていることである。もちろん、その中には低音感が不足したり、高音域がすごく透明なものがあったりしたが、それはコンシュマー用スピーカーでの変化に比べれば、きわめて少ない差だといえる。したがって、特別個性的なバランスのスピーカーは、今回テストした製品の中にはなかったといってもよいだろう。逆に言えば、スピーカーそのもののもっている音色ですべての音楽を鳴らしてしまうという要素よりも、やはり録音されている音をできるだけ忠実に出そうという結果が、スピーカーからきちんと現れていたように思う。
 ところで、今回の試聴で一番印象に残ったスピーカーは、ユナイテッド・レコーディング・エレクトロニクス・インダストリーズ=UREIの813というスピーカーである。このスピーカーは、いわゆるアメリカらしいスピーカーともいえる製品で、モニターとしての能力もさることながら、鑑賞用としての素晴らしさも十分に併せもっている製品であった。
 それから、K+Hのモニタースピーカーが2機種ノミネートされていたが、同じメーカーの製品でありながら、若干違った鳴り方をするところがおもしろい。私としてはO92の方に、より好ましいものを感じた。こちらの方が全帯域に亘って音のバランスがよく整っているように思われる。鑑賞用として聴いた場合には、OL10とO92は好みの問題でどちらともいえない。
 意外に好ましく思ったのは、スペンドールのBCIIIである。いままで鑑賞用としてBCIIのもっている小味なニュアンスに惚れて、BCIIIを少し低く評価してきたが、モニタースピーカーとしてはなかなかよいスピーカーだという印象である。
 アルテックのスピーカーは、612C、620Aともに604-8Gのユニットで構成されたシステムで、両者とも低域の再現がバランス上、少々不足しているが、私にとってはアルテックのスピーカーの音には非常に慣れているために、十分モニタースピーカーとして使用することができる。しかし、今回のテストで聴いた音からいうと、UREIやレッドボックス(今回のテストには登場していない)のように、同じ604-8Gを使い、さらにサブウーファーを付けたスピーカーが現われていることが裏書しているように、やはり低域のバランス上の問題が感じられる。
 国内モニタースピーカーについては、検聴用としての音色やバランスの細部にわたってチェックするという目的には、どの製品も十分使用できるが、それと同時にトータルとしての音楽も聴きたいという要望までは、まだ十分には満たしてくれていないように思われた。

モニタースピーカーと私

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 少なくとも10年ほど前まで、私はモニタースピーカーをむしろ嫌っていた。いま、どちらかといえば数あるスピーカーの中でもことにモニタースピーカーにより多くの関心を抱くようになったことを思うと、180度の転換のようだが、事実は全く逆だ。
 こんにち、JBLのモニター、あるいはイギリス系のいくつかのモニターのような、新しい流れのモニタースピーカーが比較的一般に広められる以前の長いあいだ、日本オーディオ関係者のあいだで「モニタースピーカー」といえば、それは、アルテックの604E/612Aか、三菱ダイヤトーンの2S305(NHKの呼称はAS3001)のどちらかと、相場がきまっていた。日本の放送局や録音スタジオの大半が、このどちらかを主力スピーカーとして採用していた。これら以外にも、RCAのLC1Aや、タンノイや、その他のマイナーの製品が部分的に使われていたものの、それらはむしろ例外的な製品といってよかった。
 アルテックも三菱も、それぞれにたびたび耳にする機会はあったが、そのいずれも、自分の家で、自分の好きなレコードを再生するためのスピーカーとはとうてい考えられなかった。アルテックの音はあまりにも強烈で、三菱音は私には味も素気もない音に聴こえた。実際、放送局や録音スタジオのモニタールームでそういう音が鳴っていたし、数少ないながら個人でそれらのどちらかを鳴らしている人の家を訪問しても、心に訴えかけてくるような音には出会えなかった。スピーカーシステムは自分でユニットを選び、自分の部屋に合わせて組合せ調整する、というのが永いあいだの私の方法論になっていた。そして、それぞれの時期は、いちおうは満足のゆく音が私の部屋では鳴っていて、その音にくらべて、アルテックや三菱のほうが音が良いとは、一度でも感じたことはなかった。今ふりかえってみても、あながちこれは自惚ればかりではなかったと思う。
 自分が考え、求め、理想とする音を鳴らしたいためにスピーカーシステムを自作するのだから、そこには自ずから自分の主張が強く反映して、はなはだ個性の強い音が鳴ってくるであろうことは道理だが、しかしその範囲内でも私の求めていたのは、その音の再生される部屋(再生音場)まで含めて、できるかぎり特性を平坦に、高音から低音までのバランスを正しく、そしてできるかぎり周波数レインジを広げたい、という目標だった。こんにちでも私自身の目標は少しも変っていなくて、言いかえればその意味ではこんにちの新しいスピーカーの目標としているところを、ずっと以前から私は目ざしていたということになる。
 このことを何も自慢しようというのではない。というのは、この、平坦なワイドレインジ再生というのは、当時から急進的なオーディオ研究家の一貫して目ざしたテーマであったので、私にとって大先輩にあたる加藤秀夫氏や今西嶺三郎氏らのお宅では、事実そういう優れた音がいつでも鳴っていた。ただ、重要なことは、少なくとも十数年以上まえには、ごく限られた優秀な研究家のお宅以外に、そうした最先端の再生音に接する機会がなかったということで、その点私は極めて恵まれていた。
 とりわけ今西嶺三郎氏(現ブラジル在住)からは多くのことを教えられた。今西氏の再生装置は、すでに昭和三十年以前から、おそろしいほどのプレゼンスで鳴っていたし、単に音の良さばかりでなくその装置で、ジョスカン・デ・プレやモンヴェルディや、バッハの「フーガの技法」やベートーヴェンの後期四重奏など、音楽の源流のすばらしさを教えて頂いた。当時の最新録音でストラヴィンスキーやプーランクを驚異的な生々しさで鳴らしたその同じスピーカーが、古い録音のSPからの転写さえ、すばらしい音楽として生き生きと再現するのを目のあたりに聴かされて、私は、本当のフィデリティが、レコードからいかに音楽を深く描き出すかを知らされた。今西氏には、いまでも何と感謝してよいかわからない。
 こうした最高の教師に恵まれ、私は乏しい小遣いをやりくりし、自分の再生装置をあれこれくふうし、できるかぎりの音楽会通いをしてナマの音に接すると共に、先輩たちの鳴らす最高レヴェルの再生音とにかこまれて、自分の耳を鍛えては装置を改良していた。早い時期から、ワイドレインジとフラットネスを目ざしたは、こうした背景に恵まれたからだったし、このようにして本当に平坦で広帯域の再生音を聴き込んだ耳には、アルテックや三菱が不満に聴こえたのも無理ではないだろう。
 だからといって、それなら私がどんなに立派なスピーカーを持っていたかというと、名前をカタログ的に列挙するかぎりでは、まるでお話にならないしろもので、パイオニアやフォスターやコーラルや、テクニクスやYL音響やその他の、ごくローコストのユニットを寄せ集めては、ネットワークのコイルを巻き直したりエッジを切りとって皮革のフリーエッジに改作したり、マルチアンプにしてみたり、いろいろ試み・失敗をくりかえしては、どうにか音のバランスを仕上げてゆくといった態のもので、頼りになるのは先輩諸氏の音とナマの音との聴きくらべだけだ。測定設備があるわけでもない。そうしたある日、今西嶺三郎氏に無理矢理、汚い六畳の実験室にお出かけ願って、レコードを聴いて頂いた。マルケヴィッチのバッハの「音楽の捧げもの」などを鳴らしたと思う。しばらく耳を傾けておられた今西氏が、あのいつでも酔っているみたいな口調ゆえにどこまでが本気かわからないような、しかしお世辞を絶対に言う人ではなかったが、「良いじゃないの。このぐらい聴ければ十分だよ。とっても良いよ」と言ってくださって、私はむやみに感激した。秋も近い夏の終りの一夜だった。
 そのあとを飛ばして一拠に「ステレオサウンド」誌創刊以後の話になる。あれは昭和45年だったか46年だったか。本誌の組合せテストのとき、それまで全く馴染みのなかったイギリスKEF製の中型スピーカーが、試聴テストからはみ出して試聴室の隅に放り出されていた。あらかじめのノルマの組合せ作りの終ったあと、ほんの遊びのつもりで気軽に鳴らしてみた瞬間、実をいうと私は思わずうろたえるほどびくりした。久しく聴いたことのなかった、素晴らしく格調の高い、バランスの良い、おそらくは再生レインジの相当に広いことを思わせるまともな音が突然鳴ってきたからだ。正確にいえば、KEFの冷遇されていたその部屋で、この偶然出会った、しかしその後の私に大きな影響を及ぼした〝BBCモニターLS5/1A〟は、その真価を発揮したわけではなかった。いわばその片鱗から、このスピーカーが只者でないことを匂わせたにすぎなかった。たまたまその日の私の嗅覚が、このスピーカーとの出会いを決定的にしたにすぎなかった。
 実をいえばこのスピーカーは、これより以前に、山中敬三氏のお宅でほんの短い時間耳にしている。当時から海外製品の紹介を担当していた彼のところに、輸入元の河村電気がしばらくのあいだ置いていたものだ。山中氏から、お前さんの好きそうな音だ、と声がかかって聴きに行ったのだが、彼の家で、アルテックA7のあいだに二台殆どくっつけて置かれて、ステレオの広がりの全く聴きとれなかったそのときの音から、私はKEF/BBCの真価を全く発見できなかった。もしもあとで本誌の試聴の際にこのスピーカーにめぐり合わなかったら、私のオーディオ歴はかなり違う方向をとっていたのではなかったか。
 しかし、LS5/1Aは、最初持ちこんだ六畳の和室ではその本領を発揮しなかった。一年ほど後で、すぐ道路をへだてた向いの家を借りて、天井の高い本木造の八畳の部屋にセッティングしてから、その音の良さが少しずつ理解できるようになった。そしてまもなく、トランジスターアンプで鳴らすようになってから、本当の性能が出はじめた。
 LS5/1Aは、まず、それまでの私のモニタースピーカーに対して抱いていた概念を一掃してしまった。それ以前からすでに、私は研究のつもりで、アルテックの612Aのオリジナル・エンクロージュアを自宅に買いこんで鳴らしていた。その音は、身銭を切って購入したにもかかわらず好きになれなかった。ただ、録音スタジオでのひとつの標準的なプレイバックスピーカーの音を、参考までに身辺に置いておく必要があるといった、義務感というか意気込みとでもいったかなり不自然な動機にすぎなかった。モニタールームでさえアルテックの中域のおそろしく張り出した音は耳にきつく感じられたが、デッドな八畳和室では、この音は音量を上げると聴くに耐えないほど耳を圧迫した。私の耳が、とくにこの中域の張り出しに弱いせいもあるが、なにしろこの音はたまらなかった。
 LS5/1Aの音は、それとはまるで正反対だった。弦の独奏はむろんのことオーケストラのトゥッティで音量を上げても、ナマのオーケストラをホールで聴いて少しもやかましさもないのと同じように、そしてナマのオーケストラの音がいかに強奏しても美しく溶けあい響くその感じが、全く自然に再現される。アナウンスの声もいかにもそこに人が居るかのように自然で、息づかいまで聴きとれ、しかも左右3メートル以上も広げて置いてあるのに音像定位はぴしっと決まっておそろしくシャープだ。音自体に鋭さはなく、品の良さを失わないのに、原音に鋭い音が含まれていればそのまま鋭く再現し、弦が甘く唱えばそのまま甘い音を聴かせる。当り前のことだがその当り前を、これ以前のスピーカーは当り前に再生してくれなかった。
 私は次第にこのLS5/1Aに深い興味を抱くようになって、資料を漁りはじめた。やがてこのスピーカーが、BBC放送局の研究所で長い期間をかけて完成した全く新しい構想のモニタースピーカーであり、この開発に実際面から大きく協力したが、KEFのレイモンド・クックという男であることも知った。このスピーカーの成立を含めた技術的な詳細をレイモンド・クックが書いた論文も入手できた。そして調べるうちに、このスピーカーが、かつて私の目標としていた本当の意味での高忠実度再生を、この時点で可能なかぎりの努力で具現した製品であることが理解できた。モニタースピーカーはこうあるべきで、しかもそうして作られたスピーカーが、とうぜんのことながら原音のイメージを素晴らしく忠実に再現できることを、客観的に確かめることができた。自分流に組み合わせたスピーカーでは、いかに良い音が得られたと感じても、ここまでもの確証は得られないものだ。
 LS5/1A一九五五年にすでに完成しているスピーカーで、こんにちの時点で眺めると、高域のレインジが13kHzどまりというように少々狭い。但しその点を除いては、現存する市販のどんなスピーカーと比較しても、音のバランスの良さと再生音の品位の高いこと、色づけの少ないことなどで、いまだに抜きん出た存在のひとつだと確信を持っていえる。
 JBLはその創立当初から、家庭用の高級スピーカーを主としていたで、ウェストレックスへの納入品を除いては、モニタータイプのスピーカーをかなり後まで手がけていない。LEシリーズの時期に入ってから、ほんの一時期、C50SMという型番で内容積6立方フィート、のちの♯4320の原形となったスタジオモニター仕様のエンクロージュアを作っている。使用ユニットは、S7(LE15A、LE85+HL91、LX5)またはS8(LE15A、375+HL93、LX5、075、N7000)で、これは初期の〝オリムパス〟C50に使われたと同じく、密閉箱でドロンコーンなしの仕様である。このほかに、同じエンクロージュアでS12(LE14A、LE20、LX8)やS14(LE14A、LE75+HL91、LX7)、それにLE14Cなどのヴァリエーションもあったが、いずれもたいした評価は得られずに、プロフェッショナル用としても広く普及せずに終ってしまった。
 数年前にJBLがプロフェッショナル部門を設立した際、モニタースピーカーとしてまっ先に登場したのが♯4320で、かつてのC50SMS7を基本にしていたが、これは大成功で、ドイツ・グラモフォンがモニター用として採用したことでも証明されるように国際的に評価を高めた。日本でも、巣孤児尾用としてはもちろん、多数のアマチュアが自家用に採用した。
 だが、皮肉なことに♯4320の登場した時期は、単にモニタースピーカーに限らず録音機材や録音テクニックの大きく転換しはじめた時期にあたっていた。このことがひいては演奏のありかた、レコードのありかたに影響を及ぼし、とうぜんの結果として再生装置の性能を見直す大きなきっかけにもなった。またそことを別にしても、一般家庭用の再生装置の性能が、この頃を境に飛躍的に向上しはじめていた。
 それら急速な方向転換のために、せっかくの名作♯4320も以外にその寿命は短く、♯4325,そして♯4330の一連のシリーズへと、短期間に大幅のモデルチェンジをする。しかしそれができたということは、裏を返していえば、皮肉なことだがJBLがプロ用モニターとしてはまだマイナーの存在であったことが結果的にプラスになっている。というのは次のような訳がある。
 ♯4320より以前、世界的にみてメイジャー系の大半の録音スタジオでは、アルテックの604シリーズがマスターモニターとして活躍していた。プロ用現場で一旦採用されれば、その性能や仕様を急に変更することはかえって混乱をきたすため、容易なことでは製品の改良はできない道理になる。アルテックの604シリーズがこんにち大幅の改良を加えないのは、アルテック側での技術上の問題もあるには違いないが、むしろ右のような事情が逆に禍しているのではないかと私はみている。
 ともかく4320の成功に力を得てJBLはスタジオモニターのシリーズの完成を急ぎ、比較的短期間に、マイナーチェンジをくりかえしながら、こんにちの4350、4343,4330シリーズ、4311,4301という一連の製品群を生み出した。
 私自身はといえば、♯4320の発売当時、これは信頼しうるモニタースピーカーであると考え、KEF/BBCとはまた少し違ったニュアンスのモニターをぜひ手もとに置きたいと考えて、購入の手筈をととのえていた。ところが、入手間際になって♯4320は製造中止になって、♯4330、32、33という四機種が誕生したというニュースが入った。♯4320の場合でも、自家用としては最初からスーパートゥイーター♯2405を追加して高域のレインジを拡張するつもりだだから、新シリーズの中では最初から3ウェイの♯4333にしようときめた。
 このときすでに、♯4341という4ウェイのスピーカーも発売されたことはニュースでキャッチしていた。これの存在が気になったことは確かだが、このころはまだ、JBLのユニットを自分でアセンブリーしたマルチウェイスピーカーをKEF/BBCと併用していたので、本格的なシステムはあくまでも自分でアセンブリーすることにして、とりあえずは、以前アルテック612Aを購入したときと同じようないささか不自然な動機から、単にスタジオモニタースピーカーのひとつを手もとに置いて参考にしたり、アンプやカートリッジやプログラムソースを試聴テストするときのひとつのものさしにしよう、ぐらいの気持しかなかった。そういうつもりで♯4341を眺めると、♯4350と♯4330シリーズの中間にあってどうも中途半端の存在に思えたし、その後入手した写真で判断するかぎりは、エンクロージュアのプロポーションがどうも私の気に入らない。そんな理由から、♯4341は最初から頭になかった。
 やがて♯4333が運び込まれたが、音質は期待ほどではなかった。ウーファーとトゥイーターの音のつながりがやや不自然だし、箱鳴りが耳ざわりでいかにも〝スピーカーの鳴らす音〟という感じが強い。それより困ったことは、左右二台のうち片方が、、輸送途中でかなりの衝撃を受けたらしく、エンクロージュアの角がひどく傷んでいて、おそらくそのショックによるものだろう、スーパートゥイーター♯2405が、ひどくクセの強い鳴り方をする。ここではじめて♯4341の音を聴いてみたくなった。ちょうど具合の良いことに、、貸出用の1ペアが三日間なら東京にあるので、持って行ってもいいという山水電気の話である。さっそく借りて、♯4333と♯4341の聴き比べをしてみた。
 しかしこれは三日間比較するまでもなかった。ちょっと切りかえただけで両者の優劣は歴然だった。価格の差以上にこの性能の差は大きいと思った。4333のほうは、どうしても音がスピーカーのはこの中から鳴ってくるが、♯4341にすると、音はスピーカーを離れて空間にくっきりと浮かび、とても自然なプレゼンスを展開する。これは比較にならない。片側のトラブルを理由に4333は引取ってもらって、♯4341が正式に我家に収まった。これが現在に至るまで私の手もとにある♯4341である。
 もともとは、さきにも欠いたようにスタジオモニターを参考までに手もとに置いておこう、ぐらいの不純な動機だったものが、♯4341が収まってからは、それまでメインのひとつだった自作のJBL・3ウェイも次第に鳴りをひそめるようになり、やがてKEF/BBCも少しずつ休むことが多くなって、そのうち♯4341一本になってしまった。とはいっても、♯4341がKEFよりあらゆる点で優れているというわけではない。現在の私の狭い室内では、スピーカーの最適の置き場所が限られて、二組のスピーカーに対してともに最良のコンディションを与えることが不可能だからだ。KEFを良い場所に置けばJBLの鳴りが悪く、♯4341をベストポジションに置けばLS5/1Aはまるで精彩を失う。少なくともこの環境が変わらないかぎりは二組のスピーカーのいずれをも等分に鳴らすことは不可能なので、当分のあいだは、どちらか一方を優先させなくてはならない。
 私という人間は、一方でJBLに惚れ込みながら、他方でイギリス系の気品のある響きの美しいスピーカーもまたたまらなく好きなので、その時期によって両者のあいだを行ったり来たりする。ここ二年あまり♯4341を主体に聴いてきて、このごろ再び、しばらくのあいだKEFに切りかえることにしようかと、思いはじめたところだ。KEFにない音をJBLが鳴らし、JBLでは決して鳴らせない音をKEFが、そしてイギリスの優れたスピーカーたちが鳴らす。どんなに使いこなしを研究しても、このギャップを埋めることは不可能だ。
 理くつをこねるなら、理想のスピーカーとはアンプから送り込まれた音声電流を100%音波に変換することが目標のはずで、その理想が達成できさえすれば、JBLとKEFの差はおろか、世界じゅうのすぴーかーの音の違いは生じなくなるはず、だが、現実にはそうはいかない。というより、少なくともあと十年やそこいらで、スピーカーの理想が100%達成できるとは私には考えられないから、その結果としてとうぜん、スピーカーの音を仕上げる製作者の、生まれた国の風土や環境や感受性が、スピーカーの鳴らす音のニュアンスを微妙に変えて、それを我々は随時味わい分けるという方法をとらざるをえないだろう。そして私のような気の多い人間は、結局、二つの極のあいだを迷い続けるだろう。
 モニタースピーカー作り方が、かつてのアルテックに代表される中域の張ったきつい音から、つとめて特性をフラットに、エネルギーバランスを平坦に、そしてワイドレインジに、スピーカー自体の音の色づけを極力おさえる方向に、動きはじめてからまだそんなに年月がたっていない。それでも、アメリカではJBLのモニターの成功を機に、イギリスではそれより少し古くBBC放送局のモニタースピーカーに関するぼう大な研究資料をもとに、そしてそれら以外の国を含めて、モニタースピーカーのあり方が大きく転換しはじめている。そことがコンシュマー用のスピーカーの方法論にまで及んできている。
 そうした世界じゅうのモニターの新しい流れは、モニタースピーカーの好きな私としてはとても気になる。実をいえば、本誌でモニタースピーカーの特集をしようと、もう数年前から私から提案し希望し続けてきた。今回ようやくそれが実現する運びになって、とても嬉しい思いをさせて頂いた。正直のところ、気になっていたスピーカーのすべてを聴くことができたとはいえない。今回の試聴に時間的に間に合わなかったり何らかの事情からリストアップに洩れた製品の中にも、ぜひ聴いてみたいものがいくつかあったが、仕方ないとあきらめた。
 別にモニタースピーカーと名がついていなくとも、優れたスピーカー、良さそうなスピーカーであれば、私はいつでも貪欲に聴いてみたくなる人間だが、こんにち世界じゅうで開発されるスピーカーの流れを展望すると、コンシュマー用としては本格的に手のかかった製品が発売されるケースがきわめて少なくなって、必然的にプロフェッショナル向けの製品でなくては、これはと思えるスピーカーがきわめて少なくなっているのが現状だ。その意味で今回の試聴は非常に興味があった。
     *
 ところで、改めて書くまでもなく私自身がモニタースピーカーに興味を抱く理由は、なにも自分が録音をとるためでもなく、機器のテストをするためでもなく、かつて今西氏の優れた装置で体験したように、本当の高忠実度再生こそ、録音の新旧を問わずレコードからより優れた音楽的内容を描き出して聴くことができるはずだという理由からで、とうぜんのことに、モニタースピーカーをテストするといっても、それをプロフェッショナルの立場から吟味しようというのではなく、ひとりのレコードファンとして、このスピーカーを家庭に持ち込んで、レコードを主体とした鑑賞用として聴いてみたとき、果してどういう成果が得られるか、という見地からのみ、試聴に臨んだ。
 しかも大半の製品はすでに何らかの形で一度は耳にしているのだから、今回のように同一条件で殆ど同じ時期に比較したときにのみ、明らかになるそれぞれの性格のちがいを、できるだけ聴き取り聴き分けることを主眼とした。
 そうした目的があったから、試聴装置やテストレコードは、日頃からその性格をよく掴んでいるものに限定した。とくにプレーヤーはEMT-930stをほとんどメインにして、それ以外のカートリッジは、ほんの参考程度にしたのは、日常個人的にEMTのプレーヤーの音に最も馴染んでいて、このプレーヤーを使うかぎり、プログラムソース側での音の個性を十分に知り尽くしているという理由からで、客観的にはEMT自体の個性うんぬんの議論はあっても、私自身はその部分を十分に補整して聴くことができるので、全く問題にしなかった。プリアンプにマーク・レビンソンLNP2Lを使ったのも、自分の自家用として十二分に性格を掴んでいるという理由からである。
 これに対してパワーアンプは、マランツ510M、SAE2600,マーク・レビンソンML2L×2、ルボックスA740という、それぞれに性格を異にする製品を四機種、切り換えながら使ったが、それは、スピーカーによってはおそらくパワーアンプの選り好みの強いものがあるだろうという推測と、それに対応しうる互いに性格を異にするしかし性能的にはそれぞれ第一級のパワーアンプを数組用意することによって、スピーカーの性格をいっそう容易かつより正確に掴むことができるだろうと考えたからだ。
 テストレコードは別表のように約20枚近く用意したが、すべてのスピーカーに共通して使ったものはほぼ7枚であった。それ以外はスピーカーの性格に応じて、ダメ押しのチェックに使っている。
 リファレンス・スピーカーとしてJBL♯4343を参考にしたが、それは、このスピーカーがベストという意味ではなく、よく聴き馴れているためにこれと比較することによって試聴スピーカーの音の性格やバランスを容易に掴みやすいからだ。そして興味深いことには、従来のコンシュマー用のスピーカーテストの場合には、大半を通じてシャープ4343の音がつねに最良に聴こえることが多かったのに、今回のように水準以上の製品が数多く並んだ中に混ぜて長時間比較してみると、いままで見落していた♯4343の音の性格のくせや、エネルギーバランス上での凹凸などが、これまでになくはっきりと感じられた。少なくとも部分的には♯4343を凌駕するスピーカーがいくつかあったことはたいへん興味深い。
 中でもとくに印象に残ったのは、キャバスの「ブリガンタン」のフランス音楽に於ける独特の色彩感。JBL♯4301とロジャースLS3/5Aの、ともに小型、ローコストにかかわらず見事な音。K+H/OL10のバランスのよさ。そしてUREIのいささが人工的ながら豊かで暖かな表現力。そして試聴できなくて残念だったスピーカーはウェストレーク、ガウス、シーメンスなどであった。
 なお個々の試聴記については、今回選ばれたスピーカーがいずれも相当に水準の高い製品(少なくともプロ用としてオーソライズされた製品)であることを前提として、あえて弱点と感じた部分をかなり主観的に拡大する書き方をしているため、このまま読むとかなり欠点の多いスピーカーのように誤解されるかもしれないがいまも書いたようにリファレンスのJBL♯4343を部分的には凌駕するスピーカーの少なくなかったという全体の水準を知って頂いた上で、一般市販のコンシュマー用のスピーカーよりははるかに厳しい評価をしていることを重々お断りしておきたい。

試聴レコード
●ラヴェル:シェラザーデ
 ロス=アンヘレス/パリ・コンセルバトワール
 (エンジェル 36105)
●珠玉のマドリガル集/キングズシンガーズ
 (ビクター VIC2045)
●孤独のスケッチ2バルバラ
 (フィリップス FDX194)
●J.Sバッハ:BWV1043, 1042, 1041
 フランチェスカッティ他
●ショパン:ピアノソナタ第2番
 アルゲリッチ
 (独グラモフォン 2530 530)
●ブラームス:クラリネット五重奏曲
 ウィーン・フィル
 (英デッカ SDD249)
●ブラームス:ピアノ協奏曲第1番_第2番
 ギレリス/ヨッフム/ベルリン・フィル
 (グラモフォン MG8015-6)
●バラード/アン・バートン
 (オランダCBS S52807)
●ブルーバートン/アン・バートン
 (オランダCBS S52791)
●アイヴ・ゴッド・ザ・ミュージック・イン・ミー/テルマ・ヒューストン
 (米シェフィールド・ラボ-2)
●サイド・バイ・サイド3
 (オーディオラボ ALJ-1047)
●ベートーヴェン序曲集
 カラヤン/ベルリン・フィル
 (独グラモフォン 2530 414)
●ベートーヴェン:七重奏曲
 ウィーン・フィル室内アンサンブル
 (グラモフォン MG1060)
●ヴェルディ:序曲・前奏曲集
 カラヤン/ベルリン・フィル
 (グラモフォン MG8212-4)
●ステレオの楽しみ
 (英EMI SEOM6)

最新スピーカーシステムの傾向をさぐる

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

最新テクノロジーと基礎技術の蓄積が実った国産フロアータイプシステムの台頭
 本誌36、37号でスピーカーテストをしてから、また2年の歳月が流れた。この二年間を、長いといっていいのか短いと言うべきなのか──。個人的にはついこのあいだのことのような気もしていたが、改めて今回テストした製品の一覧表をみると、再登場している製品はヤマハ1000M、フェログラフS1それにセレッションのディットン66の三機種、つまりたった一割で、結局残りの大半はそれ以後に登場した新製品ということになるわけで、やはり二年という歳月は、長い、というべきなのだろうか。
 しかしまた一方、たった二年のあいだにこれほどまでに製品が入れ替るというのは、私たちユーザー側からみれば、ほんとうに新製品としての価値があるのだろうか。一年そこそこで新型に替るだけの必然的な理由が、いったいどこにあったのだろうか、と考えさせられる。そうした視点から、今回テストした30機種をふりかえって、スピーカーシステムの最新の傾向を展望してみようと思う。ただ、おそらく今年のオーディオフェアをきっかけに年末にかけて発表される新製品は、ほとんど次号でのテストの予定に入っているので、つまりほんとうの意味で最新の傾向は、後半のテストのあとでなくては論じにくいことになる。私自身もまだその後半のグループを知らずに書いていることをお断りしておく。

輸入スピーカーに実力の差がはっきりとみえはじめた
 輸入スピーカーの日本国内でのマーケットに、多少の異変が起きはじめている。というのは、数年前の一時期は、ヨーロッパやアメリカ製の比較的廉価なブックシェルフ・スピーカーが、国内製品を翻弄するかのような売れゆきをみせていたことがあった。国内の主力メーカーでさえ、なぜ、こんなに安くて良いものが作れるのか、と頚をかしげて残念がっていた。しかしそのことが、日本のスピーカーを逆に刺激する結果になって、いまでは一台5万円あたりを境にして、それ以下の価格のスピーカーには、輸入品であることのメリットが少なくなってきた。言いかえれば、輸入品の必要のないほど国産で良いスピーカーが作られはじめた。そういう傾向は、すでに前回(36~37号)のテストにもみえはじめている。もう少し具体的にいえば、これを書いている昭和52年8月という時点で、あえて輸入品をとるだけのメリットのある価格の下限といえば、たぶんセレッションUL6やB&W DM4/IIなど、5万円台後半以上の価格の製品からが、考え方の分れ目になるだろう。これ以下の価格の輸入品を探すと、たとえばジョーダンワッツの〝フラゴン〟やタンバーグの〝ファセット〟のような形や色やマテリアルのおもしろいもの、あるいはヴィソニックの〝DAVID50〟やブラウンL100などのミニサイズで音の良いスピーカー、それにセレッション〝ディットン11〟のようにサブ用として楽しい音を鳴らすスピーカー……などのように、国産には類似品の少ない何か特徴を持った製品に限られてくる。ただ、ひとつひとつ細かくはあげないが例えばヨーロッパ製の小型車のように、性能にくらべて割高につくことを承知の上で、国産にない個性を買うというのであれば、5万円以下でもまだいくつかの製品が考えられる。がそれにしても、性能(音質)本位で買おうというときに5万円以下では、もはや輸入品をあえてとるほどのメリットが、数年前にくらべてほとんどなくなりつつあるというのは明らかな現象だ。
 しかしそれでは、もう少し高価な方のグループに目を移すとどうなるのか。ここでは、国産品の実力が必ずしも未だ海外品を不必要というレベルまでは行っていない。あるいはそれは時間の問題なのかもしれないが、しかし現時点では、同じような価格のスピーカーどうしで、海外の著名品と国産品を聴きくらべてみると、少なくとも音楽を聴く楽しさという点では、海外の著名品にまだ一日の長を認めざるをえないのではないか。
 むろん、同じ価格で比較すれば、その大きさや構成や作りの良さ、という面では、国産に歩があるのはあたりまえだ。地球を半廻りする輸送費と関税と業者のマージンが加わって、生産地での価格の二倍ないし三倍で売られる輸入品が、内容の割に高くつくのはあたりまえだ。けれどもう何度もくりかえした話だが、そういうハンディをつけてもなお、輸入されて割高についているスピーカーが、同じ価格で作られた国産品より、音楽の本質を伝えてくれることの未だ多いことは、やはり認めておくべきだ。その上で、国産品のどこに何が欠けているのかを、考えてみるべきだ。
 ──と書いてくると、私が相も変らず輸入スピーカー一辺倒であるかのように思われてしまいそうだがそれは違う。輸入スピーカーといってもその中から一応ふるいにかけられて水準以上の音で鳴るものに対して、国産の方は特定の少数の優秀品ばかりでなく国産全体の平均的水準を比較してみると……という話なので、これでは比較の上でずいぶん不公平だ。実際のところ、海外スピーカーがすべて優秀だなどという神話は、もうとうの昔にくずれ去っている。従来のスピーカーの中には、あきれるほどひどい製品がいくらもある。というより欧米の製品には、スピーカーに限らず常に、ピンとキリの差がきわめて大きい。そしてその中から厳選されて輸入された優秀製品だけが国産と勝負するのだから、強いのがあたりまえ、だったわけだ。
 だが、その状況が少し変ってきた。というのは第一に、海外製品の平均水準が、必ずしも国産より上ではなくなってきた。もう少し正確にいえば、先に書いたようにある価格帯に限っていえば、海外よりも国産の方が、明らかに水準が上になってきた。
 第二に、これは必ずしも海外製品に限った話ではないが、優秀な製品を作り世評の高かったメーカーが意外に駄作を連発したり、いままであまり目立たなかったメーカーや全く新顔のメーカーから、非常に優秀な製品が生まれはじめたり、どうやらこのマーケットに世代交替のきざしがみえはじめた。
 ひとつの例をあげればアルテックだ。この名門メーカーは、ここ数年来明らかに低迷している。ウェスターンエレクトリックの設計を伝承して、ヴォイス・オブ・ザ・シアターや604SERIESの名作を生んだアルテックの、技術自体は少しも衰えていない。ただこのメーカーはいま、自分の技術をどういう方向にまとめたらいいのか、よくわからずに暗中模索を続けているのではないかと私には思える。ただその模索の期間が少々長すぎて最近数年間に発売された新製品では、620Aエンクロージュアを除けば、タンジェリン・ドライバー・ユニットの開発と、それを生かしたモデル19スピーカーシステム以外には、あまり見るべき成果をあげていない。個人的なことを書いて恐縮だが、私自身に海外スピーカーの音の良さを初めて教えてくれたのはイギリス・グッドマンだが、その次に私を驚かせたのは(本誌別冊のアルテック号にも書いたが)M氏の鳴らしたアルテックのホーンスピーカーだった。あのときの音がいまでも耳の底に残っているだけに、アルテックよいま一度蘇ってくれ、と切望したい。
 EV(エレクトロボイス)とマッキントッシュも、それぞれに優秀なスピーカーを作っていた。1950年代に作られたEVの〝パトリシアン〟は、今でもこれを凌駕する製品の出現しない大作だった。マッキントッシュも、スピーカーの専門メーカーではないがそれでも、以前のSERIESはいかにもこの会社らしい重量感と厚みのある音で独特だった。
 たまたま今回のテストに加わったアルテックやEVやマッキントッシュのスピーカーは、必ずしもそれぞれのメーカーの最高の製品ではないから、これをもってメーカー全体を判断してはいけないことは百も承知だが、しかし逆説的にいえば、数多くの製品の中のたったひとつをランダムに拾い出してテストしてみれば、そのメーカーの体質を知ることはできる。たまたま今回のテストにのったメーカーであったために右の三社の名を上げたのだが、しかし目を広く海外全体に向ければ、それぞれ何らかの事情から、かつての栄光を維持できなくなりつつあるメーカーは、決してこれら三社ばかりではなく、たとえば、イギリスのグッドマンとワーフェデールといえば、かつては一世を風靡する勢いのあるメーカーだったが、イギリス手はKEFやセレッションやスペンドール等の方が、いまでは良いスピーカーを作っているというように、やはり世代の交替はみられる。ある時代に築いた技術と名声を維持し続けてゆくことの、いかに難しいかは、他の多くの分野でもいくらでも例にあげられる。

国産スピーカーの技術の向上とフロアータイプへの傾向
 いわゆる基礎技術の蓄積という面では、いまや国産スピーカーの方は、海外メーカーを大きく引き離しているといえそうだ。たとえばスピーカーの測定や解析のための設備──無響室、残響室および各種の精密測定器とそのオペレーター──に関していえば、いま日本のメーカーの装備は世界一だ。日本のメーカーならどこでもすでに持っている無響室ひとつさえ、アメリカやヨーロッパのメーカーではまだ珍しい。
 逆にいえば、アメリカやヨーロッパ、ことにイギリスでは、たとえばBBC放送局の研究所などの公的機関で開発した資料を基礎にして、各メーカーが互いに感覚と個性を発揮してシステムをまとめあげる、という形が多い。つまり基礎開発から手をつけるほどの大きな規模のメーカーはほとんどなくて、いわゆるアセンブリーメーカーとして、ユニットは他社のを購入してきて、自社独特のシステムに組みあげるメーカーが大半を占める。このことは一面、非常に脆さを孕んでいる。
 日本のメーカーのように、ユニットの解析から始めて自社開発するという大がかりな手順で作る、しかもそれが各社ごとに行われる、というようなことは、欧米のメーカーの多くにとっては信じがたいすさまじさであるらしい。彼らが日本製品の海外進出に危機感を抱くのは当然だ。しかも日本のスピーカーは、数年前までは誰の耳にも欧米の有名製品に劣っていたが、最近では事情が大きく転換しはじめた。たとえばヤマハのNS1000Mが、スウェーデンの放送局に正式のモニターとして採用されたり、BBC放送局で、テクニクスのリニアフェイズにかなりの興味を示したり、という具合に──。
 すでにアンプやDDモーターが、世界のオーディオ界を席巻しているように、かつては駄もの呼ばわりされた日本のスピーカーが世界中に認められるようになるのは、そう遠い先の話とはいえなくなってきたことは右の事実からも容易に読みとれる。
 ところで、改めて言うまでもなく日本のスピーカーの流れの中で目立ってきたのが、昨年あたりからのフロアータイプの開発だ。これには大別して三つの背景がある。
 第一は、数年来言われてきたブックシェルフ型のあまりの能率の低下を何とかしたいという要求である。プログラムソースからアンプまでの性能が向上して、ほとんどナマの楽器同様のダイナミックレンジで鳴らすことも不可能ではなくなってきた(そういう音量を出せる環境の問題は別として)反面、そのためには現在ハイパワーアンプで得られる実用上の限界の300Wのパワーでさえもまだ不足、といわれるほど、スピーカーが特性の向上とひきかえに能率を低下させてしまった。
 古いフロアータイプには、昨今のブックシェルフタイプの平均値よりも20dB近くも高能率の製品が珍しくなかった。アンプのパワーに換算すれば、ブックシェルフに必要とされるそれの百分の一でよいということになる。
 こんにち要求されるワイドレンジとダイナミックレンジの要求を満たすには、古いフロアータイプの設計そのままでは具合が悪いにしても、ブックシェルフという形態の制約から離れてみることによって、スピーカーの高能率化が容易になる。これがフロアータイプ出現の第一の理由だ。
 第二に、国内スピーカーメーカーが、永いあいだブックシェルフの開発途上で身につけてきた技術の蓄積が、ようやくフロアータイプの高級機にも生かせるだけのレベルに達しはじめた、ということ。
 そのことは第一の理由とも関連するが、アンプの分野で、プリメインという形態での限界がほぼ見えはじめて、いま高級機はセパレートタイプに移行しつつることと同様に、スピーカーでもまた、ブックシェルフで達成しうる性能の限界がみえはじめた一方で、ユーザーサイドからも、より良い音の製品が欲しいという要求が高まってきた。またメーカー側でもようやくそれにこたえるだけの技術力がついてきた、という次第で、これらの理由が重なって、急速にフロアータイプ開発への動きが積極化しはじめたのだと私はみている。ただ、あちらが出したのならウチでもひとつ……式の、単に時流に阿ただけの製品がないとはいえないが、これはいまや必ずしも日本のマーケットだけの悪い癖とはいいきれない。海外のスピーカーシステムにも、フロアータイプがひところより増える傾向がみえてきたことからもそれはいえる。
 しかし──これは言わずもがなかもしれないが──スピーカーの良否あるいはグレイドを、単にフロアー型かブックシェルフ型かというような形態の面からきめつけるような短絡的発想はぜひとも避けたいものだ。ブックシェルフという形態は長い経験の中で練り上げられたそれなりに完成度の高いスピーカーだけに製品も多彩だし、また一般家庭での音楽鑑賞に、大げさでないこの形はやはり好ましい。
 これに対してフロアータイプは、本来は古くからあった形だがしかし現在のフロアータイプへの要求は、昔のそれに対してとは大幅に異なっている。そうした新しいフロアータイプを完成させる技術について、まだ未知数の部分が少ないとはいえない。良いものもある反面、柄が大きく高価なだけで何のとりえもないというようなものも、中にはないとはいえない。

特性をコントロールできるようになって、かえって音作りの姿勢や風土の差がよく聴きとれるようになってきた
 海外製のスピーカーと国産スピーカーとの比較は、しかし単に音質や特性の良否や形態だけでは論じきれない。同じレコードを鳴らしても、スピーカーが変ればそれが全く別のレコードのように違った音で鳴る。が、数多くのスピーカーを聴くうちに単にメーカーや製品系列の違いによる音の差よりも、イギリスと日本、イギリスとアメリカ、アメリカと日本……というように、その国あるいはその地方の製品に共通した鳴り方のニュアンスの差があることに気づかざるをえなくなる。そのことを私はもうずいぶん前から指摘しているが、今回のテストでもそのことは改めて、というよりも一層、それこそスピーカーの音の決定的な違いのように受けとめられた。くわしいことは、本誌36号(現代スピーカーを展望する)を併せてご参照頂けるとありがたいが、たとえば同じシンフォニーのレコードでも、イギリスのスピーカーは概して良い音楽ホールのほどよい席で、ホールトーンの細かな響きをいっぱいに含んで、左右のスピーカーの向う側にまで広い空間のひろがりと奥行きを感じさせる。同じレコードをアメリカのスピーカーは、もう少し演奏者に近づいたように、力と輝きを感じさせ、日本のスピーカーは概してクラシックの弦の音が苦手で、合奏をやや金属的に不自然に鳴らす。
 こうした違いは、単に特性上の違いがあるだけに、いわゆる風土とは違うというような見方もある。単に現象を物理的に解析すればそのとおりかもしれない。音の違うのは特性が違うからだ、というのは説明としても最も正しい。が私は、そこにそういう音に仕上げた──といって悪ければあえてそういう特性に仕上げた──人の姿勢、を感じとる。
 ただ比較的最近までは、スピーカーの特性のうちで人為的にコントロールできる部分が比較的少なかったために、結果として出てくる音が、それを最初から意図して作られたものかそれとも半ば偶発的に出てきた結果にすぎないのか、という判断に難しさがあった。
 けれど最近になってたとえばKEFの開発になるパルスは系をコンピューター処理して特性を動的に解明しようというような試みや、レーザー光線によるスピーカー振動板のモードの解析や、材料素材にまでさかのぼる新しい解析法などの研究のつみ重ねによって、スピーカーの物理特性が、以前よりは人為的にコントロールできるようになってきた。むろんスピーカーの物理特性には、まだ全くわからない部分や、解析上はわかっている欠点もそれをどうしたら改善できるのか正しい見通しのつかない部分がいくらもあるが、少なくとも周波数特性に関しては、意図した特性にかなりのところまで近づけることも不可能ではなくなってきた。
 現実に、スピーカーは設計者が作りっぱなしでそのまま製品化するというようなことはない。試作したものを比較試聴し特性を測定し、何回かの修整をくりかえしながら、設計者の意図した製品に近づけてゆく。言いかえれば、出てきた音はそのまま設計者の意図した音にほかならないのだから、七面倒くさい理屈をこねようとこねまいと現実の問題として、数多くのスピーカーを聴けば、メーカーや製品による音の違いよりもそれを生んだ国に共通の、つまり風土に共通の、同じ感性の仕上げた音と言うものがあることは、誰の耳にも明らかなはずだ。
 にもかかわらず、たとえば最近のJBLのモニタースピーカー(例えば4343)の特性が、古いJBLの特性にくらべてはるかに平坦にコントロールされるようになってきたのみて、「JBLが国産スピーカーの音によく似てきた」などと見当外れの解説が載っていたりする。いったいレコードから何を聴きとっているのだろうかと思う。周波数レインジの広さはどうか──、帯域内での低・中・高音のバランスはとうか──、音のひずみ感は?、にごりは? 楽器の分離や解像力は?……こうした聴き方をする範囲内では、なるほど、JBL♯4343も国産のワイドレンジスピーカーも、たいした違いはないかもしれない。だがほんとうにそうならスピーカーの音の差など、いま私たちが論じているほどの大問題ではなくなってしまう。いや、JBLより国産の方が、レインジも広いし帯域バランスも優秀だし、特性の凹凸も少なくて音のクセが少ない、という聴き方もある。が、それはあまりにも近視眼的だ。試みに、クラシックの管弦楽もの、オペラ、宗教曲、室内楽、ピアノ、声楽……とプログラムソースをかえて聴いてみる。さらにモダンジャズ、歌謡曲、ヴォーカル、クロスオーバー……等のレコードを、次々と聴いてみる。JBL♯4343なら、そのすべてのレコードが、音楽的にどこかおかしいというような鳴り方はしない。
 ところが国産では、割合ローコストのグループ(それだから必ずしも万能とはいえないし、また高級機ほど厳しい聴き方もしない)を除くと、とくにクラシックのオーケストラものや合唱曲、宗教曲、オペラ等のレコードで、音が強引すぎたり、複雑に織りなしてゆく各パートのバランスがひどくくずれたり、陰で支えになっているパートが聴きとれなくなってしまったり……というようなものが多く、その点だけでも満足できるものは窮めて少数しかない。さらにJBL♯4343では(必ずしもこのスピーカーを唯一最上と言うわけではなく、たまたまひとつの例としてあげているのだが)、右のような内声の旋律が埋もれてしまうなどという初歩的なミスのないことはむろんだが、それよりも一層、鳴っている音楽の表情に生き生きした弾みがあり、音の微妙な色あいが生かされて、そのことが聴き手に音楽を楽しませる。ところが国産スピーカーの中には、音のバランスまでは一応整っていても(そのことさえ問題が多いのだが)、音楽の表情や色あいという点になると、概して抑えこんで抑揚に乏しい、聴き手の心をしぼませてしまうような鳴り方をするものが、少ないとはいえない。
 再生音の物理的あるいはオーディオ的な意味あいからは弱点の少ないとはいえないイギリス系の比較的ローコストのスピーカーが、音楽を楽しませるという面で、まだまだ国産の及びにくい良さを持っていることを見逃すわけにはゆかない。
 たしかに国産全体の水準は向上した。ただそれはあくまでも、過去のあの欠陥商品と言いたいような手ひどい音の中から、短時日によくもこれほど高い技術に到達できたものだという感想をまじえての話、である。
 音楽の再現能力──それはよく〝音楽性〟などという言葉で説明された。が、あまりにもあいまいであるために、多くの誤解を招いたようだ。たとえば、「特性は悪いが音楽性に優れている」などという表現にあらわれているように。しかし厳密にいって、特性さえ良くないスピーカーが、音楽の再現能力で優秀ということはありえない。そういうスピーカーは、たいていの場合、あらゆる音楽ジャンルのうちの或る特定のレパートリィについてのみ、ほかのスピーカーで聴くことのできない独特の個性的な音色が魅力として生きる、というような意味合いで評価されていた。そうしたスピーカーは、ある特定の年代のレコーディングについては良い面を発揮するが、最近の新しい録音の聴かせる新鮮な音の魅力は聴かせてくれない。
 本当の意味で〝音楽性〟というならそれは、クラシックかポピュラーかを、また録音年代の新旧を問わず、そのレコードが聴かせようとしている音楽の姿を、できるだけありのままに聴き手に伝える音、でなくてはならない。

たとえば一枚のレコードをあげるとすれば
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、
ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめへてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。
     *
 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
 こういう聴き方をしてみたとき、国産の多くのスピーカーが、何度もくり返すようにまず楽器どうしのバランスの面で、ことにプログラムソースをクラシックにした場合に、おかしな音を出すものが多いし、第二に音の豊潤さ、第三に音楽の表情、といった面で、まだまだ注文をつけたくなることの多いことを、今回のテストを通じて感じた。むろん海外製品の中に、いまや国産以下のひどい音が氾濫しはじめていることは前にも書いたが、国産スピーカーが、一日も早く「音楽」と聴き手の「耳」にでなく「心」に染みこませてくれるような本ものの音に仕上ることが、いまの私の切実な願いだ。
 本誌創刊のころ、知人のコピーライターが、すばらしい名言を考えついて、これが今でも私たち仲間内での符牒のようになっている。
 それは「音(オン)」だけあって「楽(ガク)」の聴こえない音、または「音」だけあって「響」のない音、というのである。あれから十余年を経たいまでも事情は同じだと思う。いま切実に望まれるのは、「音」だけでなく「楽」も「響」もある美しい音の鳴ることではないだろうか。

「私はベストバイをこう考える」

井上卓也

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 本誌43号の特集テーマは、現在、国内に輸入されており、入手可能な海外製品と発売されている国内製品の数多くのオーディオコンポーネントのなかから、ベスト・バイに値するコンポーネントを選出することである。
 何をもって、ベスト・バイとするかについてはその言葉の解釈と、どこに基準を置くかにより大幅に変化し、単にスーパーマーケット的なお買得製品から、特別な人のみが使いうる高価格な世界の一流品までを含みうると思う。
 今回は、選出にあたり、ある程度の枠を設定して、本誌41号でおこなわれたコンポーネントの一流品と対比させることにした。その、もっとも大きなポイントは、業務用途に開発された製品は、特別を除いて対象としないことにしたことだ。これらの製品は、第一に、使用目的がコンシュマー用ではなく、そのもつ、性能、機能、価格など、いずれの面からみても、一般のオーディオファンが、容易に使いこなせるものではなく、また、入手可能とは考えられないからである。第二に、業務用として、優れた性能、機能をもつとしても、コンシュマー用としては、必ずしもそのすべてが好ましいとはかぎらないこともある。例えば、定評あるアルテックA7−500スピーカーシステムにしても、業務用に仕上げた色調やデザインは、どこのリスニングルームにでも置けるものではない。また、同じく、JBLのプロフェッショナル・モニターシステムである4350にしても、誰にでも、まず使いこなしが大変であるし、家庭内のリスニングルームで再生をする音量程度では、らしく鳴るはずがない。ハイパワーアンプとの組み合わせで、それもバイアンプ方式のマルチアンプシステムを使って、少なくとも小ホール程度の広い部屋で、充分な音量を出して、はじめて本来の鳴りかたをすることになる。このような使用法では、他には得られない性能をもっているために、製品としては当然ベスト・バイとなろうが、少なくとも一般のオーディオファンとは、関係がないカテゴリーでのベスト・バイである。
 また、高価格になりやすい一流品は、価格的な制約を除けばそれぞれに大変な魅力をもっているとはいえ、誰にとっても、ベスト・バイたりえないことは当然である。ここではコンポーネントのジャンル別に、価格的なボーダーラインを設定して、一流品とベスト・バイを区分することにしている。
 スピーカーシステムは、このところ国内製品の内容の充実ぶりが目立つジャンルである。例えば二〜三年以前であったら、10万円未満の価格帯で海外製品に優れたシステムが多くあったが、海外メーカーで自社開発のユニットをつくるメーカーが減少し、最近では個性的な製品が少なくなっている。10万円以上、15万円未満の価格帯が、現在ではベスト・バイ製品の上限に位置すると思う。昨年末以来、このランクに国内製品のフロアー型システムが各社から発売され、ユニット構成にも、従来には見られなかった個性があり新しい価格帯を形成している。現在では、7〜8万円以上ではフロアー型システムが主流を占めつつあるが、逆に比較的に小型で充分な低音が得られるブックシェルフ型システムのメリットが見直されてよいと思う。一方、5万円未満の価格帯では、最近注目されている超小型システムを含み、比較的小口径ウーファーを使った小型なシステムに、内容が濃い製品が多くなってきた。
 プリメインアンプは、従来からも、おおよそ15万円あたりが価格の上限であったが、これは基本的に現在でも変化はない。最近の製品の傾向からみれば、10万円未満の価格帯では、モデルチェンジがかなり激しく、それに伴なって質的な向上が著るしく、ややファッション的な印象が強くなっている。これにくらべると10万円以上の価格帯は、プリメインアンプの特別クラスで、最新の技術を背景に開発された新製品から、伝統的ともいえる長いキャりアをもつ製品までが共存し、かなり趣味性を活かして選びだすことができる。
 セパレート型アンプは、いわばアンプの無差別級的存在であり、性能、機能、価格などで幅広いバリエーションがある。ここでは、プリメインアンプを形態的にセパレート化したと思われるものは除くとしても、開発のポイントがセパレート型アンブ本来の質、量、二面のバランスに置かれたものは、とかく高価格となりやすく、一面的に質か、または量にウェイトを置いた製品は、比較的に入手しやすい価格にある。ここでは、ある程度、価格的な枠を拡げて選んでいるが、基本はやはり質優先型である。パワーアンプは、スピーカーシステムと対比すると、出力が多すぎるように思われるかもしれないが、最近のようにダイナミックレンジが広いディスクが登場してくると、平均的音量で再生していても、瞬間的なピークの再生の可否が大きく音質に影響を与えることもあり選んでいる。
 FMチューナーは、プリメインアンプと組み合わせる機種については、あえてペアチューナー以外を使用する必要がないほど、相互のバランスが現在では保たれている。ペアチューナーの性能が高くなっているのも理由であるが、現実のFM放送の質を考えれば、高級チューナーの使用は、効果的とは思われない、つまりプリメインアンプを選べば、自動的にFMチューナーは決まることになる。ここではセパレート型アンプに対応する製品を、最近のFMチューナーの傾向をも含んで選出することにした。
 プレーヤーシステムは、現在のコンポーネントのなかで、場合によればもっとも大きく音を変えるジャンルである。基本的には、システムを構成するトーンアーム、フォノモーター、プレーヤーべースなどが優れていれば、よいシステムになるが、例え個々の構成部品が抜群でなくても、システムプランでまとめられた製品は、好結果が得られるあたりが、システムならではのポイントである。実際に試聴をした結果から、各価格帯で、いわゆる音の良いプレーヤーを選出してある。また、価格的に少しハンディキャップはあるがオートプレーヤーにもマニュアルプレーヤー同等に良い製品がある点に注目したい。
 フォノモーター、トーンアームの単体発売品は、需要としては、さして多くないはずだが、選んだ製品の大半は、優れたプレーヤーシステムの構成部品であり、残りはそれぞれ単体として定評がある製品である。
 カートリッジは、主として現在の一般的なトーンアームと組み合わせた場合を考えて選んだ。最近の高性能化した製品は、特定のトーンアームとの組み合わせで本来の性能を発揮する傾向が強く、ユニバーサル型アームの形態をとってはいるが、むしろ専用アームとペアのピックアップアーム化している。これらは今回は除外した。
 テープデッキは、カセットデッキでは、システムに組込み固定するコンポーネント型は、現実にエルカセットが登場してくると10万円が上限である。しかし、ポータブルの小型機は、コンパクトであるだけに10万円以上でも概当することになる。オープンリールデッキは、30万円程度が上限であり、この価格帯では19cm・4トラック機に総合的に優れた製品が多い。ポータブル機は、機種が少なく、実質的な価格内ではベスト・バイというより、それしかないのが残念である。

「私はベストバイをこう考える」

菅野沖彦

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 ベスト・バイは、一般的な邦訳ではお買得ということになる。言葉の意味はその通りなのだが、ニュアンスとしては、ここでの、この言葉の使われ方とは違いがある。日本語のお買得という言葉には、どこかいじましさがあって気に入らない。これは私だけだろうか。そこで、ベスト・バイを直訳に近い形で言ってみることにした。〝最上の買物〟である。これだと、意味は意図を伝えるようだ。つまり、ここでいうベスト・バイとは、その金額よりも、価値に重きをおいている。
 価値というのは、きわめて複雑な観念であるから、ものの価値判断というものも、そう簡単に決めるわけにはいかないだろう。本当の意味での価値というものは、観念という精神的なものであるからだ。ものそのものの価値というのは、むしろ、値打というべきだと私は思っている。価値というものは、本来、形や数値で表わせるものではないのはいうまでもないことだ。言語学的には、価値という言葉も、もっと現実的な唯物論的な意味なのかもしれないが、甚だ独善的で申し訳ないが、私は、価値と値打を使い分けるように心がけている。ものの値打などというものは、値下りすればそれまでだ。ほとんどのものは、買った途端に中古になる。中古は新品より安くなる。値打の下落である。オーディオ・コンポーネントで、持っていて値上りするなどというものは滅多にない。オーディオ機器に限らず、本当に値打のあるものなどはそうあるものではない。だから、けちはものを買わないのである。けちが買うのは、儲かるものだけだ。
 しかし、価値は違う。どんなに高額でも、また、日々値上りしても、そのものが、ウィンドウの中に置かれていて価値を発揮することはない。ものの価値は、そのものが人と結びついたときに、その人によって発揮されるものなのだ。あるいは、その人の中に芽生えたものなのだ。価値は、人の価値観によって決まる。価値観は教養と情操の問題である。価値観は、よきにつけあしきにつけ、他人の侵すべからざる領域である。ものには値段がつきものだから、それに支払う代価の数値と、この価値との間の問題はきわめて複雑だ。ある人にとっては、100万円の代価を払っても価値あるものも、別の人にとっては無価値かもしれぬ。また、同じような価値観を持った人同志でも、もし、その二人の経済力に大きな差があれば、価値の評価がかわってくる。
 ここで、大変重要な問題について考えねばならない。お金持ちが、そのものが自分にとって価値ありと認め、100万円を高くないと感じて買ったとする。そして、それほど金持ちではない別の人が、その同じものに価値を見出し高い! と思いつつ、無理をして100万円を出したとする。つまり、同じものに価値を見出した二人だが、果して、この経済力の違う二人にとって、そのものの価値は同じであろうか。ごく単純に考えても、同じには思えない。金持ちにとっての100万円より、貧乏人にとっての100万円は、はるかに高い価値への代価であるはずだ。ポケットマネーと全財産のちがいが同じ重味であるはずはない。つまりこの話には無理がある。金持ちと貧乏人が、代価を払わなければ所有できないものについて、同じような価値観を持つことは不可能に近いことだ。そして、もう一つの無理は、ものの価値を代価という数値で表現していることである。値打は同じでも、価値は大違いたということだ。価値とはこういうものだろう。だから、価値を考えれば、同じものでも、金持ちからは100万円とっても貧乏人からは10万円しかとらないという理屈も成立つ。昔の職人や芸人には、こういう考え方を持っていて、実行したという話を聞くのである。一概に、それが美徳だとは思わないが、一理はある。
 しかし、大量生産、つまり、工業化時代の現代では、こういうことは起り得ないのだ。ベスト・バイの価値基準などないといっても過言ではない。1台のアンプを値段なしで市場へ出し、それぞれの人の価値判断と経済力で、100万円になったり10万円になったりすることはあり得ないのだ。かかったコストを基準に、諸経費・諸利益を上乗せして価格が決められる。考えてみれば公正なようでいて、決してそうとはいえない。材料費や労賃は大同小異にしても、それを生みだした人の英知や能力、そしてセンスはまちまちであるはずだ。量産では、生産量が価格を大きく変動させるが、同時に、製品の出来具合にも大きな影響がある。大量生産ならではのよさもあるし、小量、手造りならではのよさもある。これらを総合して考えてみると、価格の高低で、そのものの価格はもちろん、値打を判断することすら困難である。
 ベスト・バイ、最上の買物が、金額より価値に重きをおくと先に書いた。しかし、今まで述べた価値の難しさからいって、そんなベスト・バイ製品をどう選んだらよいのだろうか。コスト・パフォーマンスという言葉が一時流行ったが、あれは、リッター何キロ走るかという経済性だけで車のすべての値打や価値を判断するのとそっくりの、ドライで貧しい発想である。車なら、まだ、それも許されるとして、音楽を聴くオーディオ機器に──趣味の世界に──そんな発想を平気てするのは空恐しい。ベスト・バイというからにはむろん、値打を無視することはできない。つまり、経済的であるにこしたことはない。しかし、それだけで判断できるとすれば、オーディオなど、絶対に心の対象として存在し得るはずがないだろう。
 私が考えるベスト・バイの条件は、ただ、値段の高低による値打、性能の差という縦の線のみならず、要は、そのもののオリジナリティと存在理由の有無である。オーディオ機器は、性能の高い低いという縦のバリエーションも幅広くあると同時に、音がちがうという横のバリエーションが無限にある。それぞれの機器が、その値段の範囲で、水準以上の性能を発揮し、かつ、魅力ある製品であることが、私の考えるベスト・バイの条件である。その魅力とは、もちろん音の美しさ、仕上加工の水準、デザインなどの総合で、つまるところ、その製品に感じられる創った人間の中味の密度と次元の高さと誠実さである。100万円と10万円の同ジャンルの製品を縦割だけで考えることはナンセンスである。100Wのアンプより、はるかに音の美しい50Wのアンプだってある。数十万円の大型スピーカーがすべてではあるまい。数万円の小型スピーカーが、よりしっくりと、その時々
の音楽的欲求を満たしてくれることだってあるだろう。そして、逆に、どうしても大型スピーカーで大パワーアンプでなければ得られない、音の世界が存在するのである。
 いずれにしても、最終的な価値判断は、それぞれの人の問題だ。そして、価値の発見とその必要性と、それを得る可能性は、全くそれぞれに別問題であろう。この三つの結びつきのコントロールは読者に任せる他はない。ここにあげたベスト・バイ製品のそれぞれに、私は相応の価値を見出してはいるが、だからといって、そのすべてを必要とはしないし、また、それを所有する力もない。
 編集部から渡された、各コンポーネントの膨大なリストの中から、かなり客観的な思惑を交えながら、出来るだけ広範囲に選んだが、その結果、あまりに多くの製品になってしまい、正直のところ困り果てている。それぞれの製品について、短いコメントをつけるだけでも、気の遠くなるような仕事になってしまった。実に、トータルで190機種にも及ぶ。しかし、これだけの数の機器に、それなりの価値と、存在理由とオリジナリティを見出せるということは、たとえ、かなり客観性をもって選んだとしても、オーディオの楽しさを今さらながら感じさせられる。相互的に組合せて、システムを構成したとすると、うまくいかない組合せをのぞいても、かなりの数の優れたシステムが誕生することになるであろう。そして、それらは、一組として同じ音色やニュアンスで鳴るものはないのである……。

「私はベストバイをこう考える」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 前回35号でもベストバイパーツの選定をしたが、今回はそのときとは基準を少し変えた。その説明をする前に、35号のときの選定基準をもういちど簡単にくりかえしておく。
 前回は、あらかじめ編集部で部門別(機種別)に整理した市販全製品のパーツリストを渡された上で、その中から約百五十機種に絞るようにという課題があった。そこで、大まかな分類として、次の三つの基準を自分流に作った。
 ◎文句なく誰にでも奨めたい、或いは自分でも買って使いたい魅力のあるパーツ。
 ○自分としては必ずしも魅力を感じないが、客観的にみて、現時点で、この価格ランクの中では一応水準あるいは水準以上の性能を持っていると思われるパーツ。
 △必ずしも水準に達しているとは思えないが、捨てるには惜しい良さまたは魅力をどこかひとつでも持っているパーツ。
 この中で、◎と△を選ぶのは案外やさしい。
 例えば今回のリストアップの中でも、すでに自分で購入して、高価ではあったけれど心から満足して毎日楽しんでいるSAE2500(300W×2のパワーアンプ)などは、簡単に◎がつけられる。実際、私のすすめで同じアンプを購入した友人が三人ほどいるが、その中の誰も、65万円(現在69万円に値上げされているが)という代金を支払ったことを後悔するどころか、良い音で音楽を味わえる毎日毎日が楽しくて仕方がないと、心から喜んでいるのだから、その代価は少しも高価でなく、良いものを手に人れた満足感にひたりきっているわけだ。こういう買い物が、ほんとうの意味でのベスト・バイといえるわけだ。
 もうひとつ反対の例をあげるなら、例えばマッキントッシュのC26やMC2105、あるいはQUADの一連のアンプとチューナー。これらの製品は、進歩の激しいソリッドステートの技術の中でふりかえってみると、その物理特性も鳴らす音も、今日の水準とは必ずしも言い難い。けれど、マッキントッシュもQUADも、そのデザインや全体のまとまりの、チャーミングで美しいことにかけては、いまだにこの魅力を追い越す製品がないのだから、物理特性うんぬんだけで簡単に捨ててしまうのはどうも惜しい。というわけで先の分類の△に該当する。
 こういう具合に、◎と△はわりあい簡単に分類できる。けれど難しいのは○の場合だ。
 自分としてはひっかかる点があるが、客観的にみて良いと思う──。そういうリストアップのしかたが、ほんとうに可能だろうか、と考えてみる。ことばの上では可能であっても、自分が自分を捨てて客観的になるなどということは、本質的にはできっこない。せいぜい、できるかぎり主観や好みをおさえて、いろいろな角度から光をあててみて、できるかぎり客観的態度に近づくよう努力する、ぐらいがようやくのことだ。
 しかしそこでもう少し見方をかえてみる。今回もまた前回同様、編集部であらかじめ整理した何千機種かのパーツリストが目の前に置かれている。あまりの数の多さに一瞬絶望的な気持になるが、意を決して赤鉛筆など持って、はじめは薄く○か何かのシルシをつけてゆく。パーツ名を追う手が、あるところでふとためらい、○をつけ、消し、もういちどつける……などということをくりかえす。それは結果的にみると、選んでいる、ともいえるし、落している、ともいえる。結果は同じでも、選ぶ、というつもりで○をつけるのと、落す、という意識で○をつけないのとでは、こちらの気持はずいぶん違ってくる。そこで考えこんでしまった。
 というのは、これだけのメーカーが、一品一品時間と手間をかけて作ったものを、メーカー側でダメだとは、まさか思っていないだろう。それをこちら側からみると、意にかなうものとそうでないものとに分かれてしまう。それなら、このパーツはリストアップしない、これは落す、そういう明確な理由づけのできないパーツを落すのは変じゃないか、ということになってくる。上げない理由、が不明確であるのなら、落す理由にはならない。
          *
 こういう考え方をしてみたら、かなりの数のパーツに○をつける結果になってしまった。今回は、前回のような百五十機種、というような数の制約がなかったせいもある。しかしリストアップを編集部に渡したあとで、私の数が最も多かった、ときかされて、少し複雑な気持になっている。ほかの諸氏たちの選定の基準あるいは理由を、一日も早く読んで納得したい、という気持になっている。くりかえすが、私個人は、上げない理由、の明確でないパーツは落さなかった、というだけだ。
 それにしても、はじめの分類でも書いたように、リストアップしたパーツにも、大別すれば三つの理由があるわけで、そのちがいについては、リストアップしたパーツごとの説明を書く段になって、自分自身にもはっきりしてきた。◎や△のように積極的な意味を持って上げたパーツの原稿を書くときは、しぜん書き方に弾みがつくが、○印のパーツの場合は、どこかよそよそしい隙間風が吹くような気分に、書いていながらおそわれている。だとすると、思い切りよく◎と△以外は切り捨ててしまった方がよかったのかもしれない、という気持にもなるが、もしそうしたとしたら、逆に私のリストアップはいちばん少なくなってしまったに違いない。
 こういう具合で、リストアップするにも、その拠りどころとなる基準や理由のつけかたによって、パーツの数は相当大幅に変ってしまう。その点今回の私のリストアップは、あるいは迷いの結果であるかもしれないが、しかし、上げたパーツがもしどこか自分の考えと一致しない部分があれば、できるだけ正直に具体的に書くようにした。そのために、リストアップしておきながら、部分的に批判しているようなものがけっこう多いはずだが、右のような次第であることをご理解頂きたい。
          *
 ところで、私にはテープデッキ以外のすべてのパーツが与えられたが、パーツによってその選定の根拠に多少の違いがあるので補足しておく。
 第1にスピーカー。ここでは、音質に重きを置いた結果、どうしてもやや主観的な選定になっている。自分として賛成できない音のスピーカーは上げていない。
 また、スピーカーユニットは棄権させて頂いた。最近この部門については不勉強で、たまたま知っている数機種を上げれば、かえって不公平になることと、ユニットに関しては、使い手の技術や努力によって、得られる音のグレイドにも大幅の違いが生じるから、単にパーツをリストアップする意味に疑問を感じたためでもある。
 第2にアンプとカートリッジについては、スピーカーシステムほど徹底して主観を通すということをせずに、客観的データを参考にして、ある程度幅をひろげた選び方をした。またチューナーについては、単体として優れたものばかりでなく、プリメインまたはセパレートアンプとのペア性、という点をやや考慮した。チューナー単体としては水準スレスレの出来でも、ふつうの場合、プリメインアンプを選べばそれとペアのチューナーを並べた方が気分がいいと思うから。
 第3のプレーヤーおよびモーター単体については、もしほんとうに私の主観を強く出せば、ほとんどリストアップできなくなってしまう。というのは、プレーヤーやそのためのパーツについて、「レコード芸術」誌上でここ半年ほど論じたように、扱い手の心理まで含めた操作性の良さやデザインの洗練の度合、ということを条件にしてゆくと、これならというプレーヤーまたはパーツは、おそらく二〜三機種しかないからだ。したがって、ことにモーターについては回転機としての物理特性の良いものという前提で、デザインやフィーリングに不満があってもあえてそれを条件としてあげている。

「私の考える世界の一流品」

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 一流品という表現は、各分野で幅広く使用され、高級品の表現とも混用されているため、改まって一流品とは、と考えてみると、何が一流品かの判断は大変に難しいものがある。
 ちなみに一流の意味を手許にある岩波版『国語事典』で調べてみると、その意味は㈰その世界で第一等の地位を占めているもの、㈪技芸などでの一つの流派、㈫独特の流儀、とあり、高級とは、等級や程度の高いこと、とある。意味上での幅は、高級にくらべ、一流のほうが広く、簡単に考えればその世界で第一等の地位を占めているもの、とする㈰の意味だけと考えやすいが、オーディオ製品に限らず、趣味、趣好の世界では、㈰に劣らず、㈪または㈫のもつ意味も、かなり重要なポイントであろう。
 オーディオ製品に焦点を絞って世界の一流品を考えてみれば、世界的に、各地で開発され商品化された製品が、いちはやく輸入され、場合によっては日本市場のほうが優先することもあるほど活況を示しており、ほぼ完全に、世界中のオーディオ製品が、現実に手にとって見ることができ、その音を聴ける現状では、アンプ、スピーカーシステム、テープデッキといった各ジャンル別での世界的な製品の動向が、何を一流品とするかにあたっては、最大のポイントとなり、各ジャンル別に一流品と判断する、いわば0dBのラインが異なってくるはずである。
 一流品の条件として、一般的な、デザイン、仕上げ、精度、性能、機能、などのベーシックなポイント以上に、まず各ジャンル別に、海外製品、国内製品の概略の動向や実情をチェックする必要があると思う。
 まず、入力系、つまりプログラムソースを受持つテープデッキ、チューナー、それにプレーヤーシステムから、それぞれのジャンルでの特長を考えたい。
 テープデッキでは、現在カセット、オープンリール、それに新登場のエルカセットの3種に限定してよく、カートリッジテープについては、もはやオーディオから除外してよいだろう。
 フィリップスで開発されたカセットテープは、予想以上にソフト、ハードの両面から急速に発展し、取扱いの容易なメリットは、多くのユーザーの支持を受け、現存のテープブームの基盤となるほどの位置を占め、末端では、オーディオ製品というよりは、むしろ、日用品化しているといってよい。海外製品と国内製品の力量の比較は、性能・機能面で圧倒的に、国内製品が強く、デザイン面で強い海外製品も、ことこのジャンルでは機種が少なく、性能面でも劣り、とても互格の競争力はない。また、ソフト側のテープでも、海外製品は、高性能化の立遅れがあり、市場は国内製品の独占状況にある。
 国内製品は、各メーカーともに高い水準にあるが、高価格、高性能なカセットデッキでは、オリジナリティの高いナカミチの製品が群を抜いた存在であり、海外でも非常に高い評価を得ている。やや特殊な、というよりはカセット本来のコンパクトで機動性があるポータブルタイプの製品では、西独ウーヘルの超小型機がユニークな存在で目立っている。
 エルカセットは、国内で開発された新しいタイプで、世界的な支持を受けるか否かは、今後にかかっており、世界の一流品となると時期尚早の感が深いタイプである。独得のオートマチック動作が可能で、テープトランスポート系の優位さをもつ面では、従来のテープとは、やや異なった方向の新しいプログラムソースとしての発展を期待したい。
 オープンリールテープは、4トラックタイプと2トラックタイプにわかれるが、2トラックタイプが、高級テープファンに愛用され、4トラックタイプは、やや低調というほかはない。しかし、このタイプが、本来のメリットを失った結果ではなく、カセットの需要増大による、需要の減少と、それを原因とする新製品開発が少なくなったことの相乗効果によるもので、魅力のある製品が出現すればオーディオのプログラムソースとしては、カセットとは比較にならぬ大きなメリットがあるタイプである。
 2トラックタイプは、38cmスピードが主流を占めるが、19cm速度が、ランニングコストを含めて、もう少し注目されてよいだろう。ローコスト機は、カセット高級機と同等の価格であり、両者の性能だけを比較すると、かなりの矛盾が感じられる。また、海外製品と国内製品を比較すればコンシュマーユースに限れば、海外製品は、カセットほどではないが製品数は少ない。しかし、外形寸法が小さく重量が軽い特長をもつモデルが多く、アクティブに音源を求めて移動する録音本来の目的に使う場合に大変な利点がある。とくにマルチ電源を使うポータブルタイプでは業務用のモデルを含めて国内製品に求められない機種に、いかにも一流品らしいものがある。国内製品は、大型重量級のいわゆる豪華型が高級モデルに多く、移動には自動車が必要というものばかりであり、そのなかにあって、ソニーのポータブル機は、やや重量はあるが、性能は同じタイプの海外製高級機に匹敵する、唯一の存在である。
 チューナー関係では、限られた超高級モデルを除いて、国内製品が、総合的に高い位置にある。趣味的にみれば、高価格な製品のなかに質、実ともに一流品ににふさわしいモデルが点在しており、かなり趣味性をいかして一流品が選べる分野である。
 プレーヤーシステムでは、システムとしてはまったく性能面で海外製品の出る幕はなくなってしまった。最近の高価格なシステムに採用されている水晶制御のDD型は、音の安定度がさらに一段と向上し、この面では大変に素晴らしい。しかし、デザイン面とオート化の点では、今後に期待すべきものが残る。
 カートリッジ関係では、MC型は国内製品、MM型やMI型などのハイインピーダンス型は、海外製品というのが概略の印象であるが、最近、MM型を中心とした国内製品の性能が急速に上昇して、こと物理特性では海外製品に差をつけている。今後いかに、音楽を聴くためのカートリッジとして完成度を高めるかに少しの問題があるようだ。MC型は、海外製品はオルトフォン、EMTの2社のみであり、製品の多い点では国内製品が圧倒的であり、また、発電方式のメカニズムのオリジナリティでも各社それぞれに優れたものがある。ちなみに国内製品のMC型は、世界的に定評が高く、コンシュマー用をはじめ、試聴用としても数多く使用されている。全般的にカートリッジは、小型、軽量で輸入経費が少なく、海外製品が価格的にも、国内製品と対等に競争できる、やや特殊なジャンルで、性能もさることながら音の姿、かたち、表現力が一流品としては望まれる点である。
 アンプ関係は、プリメインアンプが主流の座を占め、国内製品は、その製品数も非常に多く、モデルチェンジが大変に激しく、その内容も確実に向上している。しかし、パワーアップ化の傾向が著しいジャンルだけに、外形寸法的な制約があって、必然的にパワーには限界を生じるはずである。最近の傾向としてセパレート型アンプの価格が下降し、プリメインアンプの高級機とオーバーラップした価格帯にあるため、一流品の選択は難しく、デザインを含めて質、量ともに、セパレート型アンプに匹敵するものが要求される。海外製品は、例外的な存在だけで平均レベルは、国内製品が圧倒的である。
 総合アンプ、つまりレシーバーでは、コンポーネントシステムとは方向が異なった印象の製品が多く、数量的にも国内市場での需要は少なく、やや特殊な例を除いて一流品らしき製品がないのは大変に残念なことである。高度な内容をもつプリメインアンプとチューナーを一体化した、一流品らしいレシーバーの出現を期待したい。
 セパレート型アンプは、海外製品、国内製品ともに活況を呈している。本来は制約がない無差別級のアンプであるだけに、現在のモデルは、多様化し、一律に考えることは不可能である。オリジナリティが高い製品から選択すれば、大半は世界の一流品に応わしいモデルともいえよう。
 スピーカー関係は、高価格な製品では圧倒的に海外製品が強く、そのすべてが文字どおりの世界の一流品であり、一流品でなければ存在しえないことになる。国内製品は、このところ急速に内容が充実しはじめ、価格帯によっては、一流品らしさのあるモデルが出はじめている。使いこなしを要求されるジャンルであり、そのモデルがいかに多くの可能性を持っているかがオリジナリティを含めて一流品に必要な最大条件である。

「コンポーネントステレオにおける世界の一流品をさぐる」

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 本誌がオーディオ・コンポーネントの世界の一流品を特集するそうだ。これだけ多くのオーディオ製品が、世界各国で作られ売られている現状からすれば、それも意味のないことではないし、どんなものが結果として一流品の折り紙をつけられるかは、私自身にとっても大変興味深い。そういう当の私も、具体的な製品選びの一員として選出に加わったのである。これがなかなか難しいことであって、いざ商品の選択に直面してみると、そもそも、一流品とは何か? という問題の定義にぶちあたり苦慮させられるのであった。だいたい、一流という言葉自体が、いわめて曖昧であり、ものにランクをつける言葉でありながら、そこには複雑微妙な心情的ニュアンスが入りこんでくるという矛盾をもったものである。一流品としての定義を形成するために、いくつかの条件をあげると、必ず、その条件のすべてを満たさない一流品が現われたり、条件のすべてを満たしていながら一流品として認められないようなものが出てくるのである。もっとも、ここでは、一応道具としての機能をもつものに限定していってもよいと思われるので、比較的気楽なようだ。これが人や芸術作品に及ぶと、問題はもっと難しく大きくなってしまうのである。しかし本当は、一流という言葉は、人についていわれるべき言葉なのであって、ものの場合には一級品というべきなのではないかと思うのだ。一級という、文字通りのクラスづけが困難な曖昧さをもった対象、つまり、人とか作品とかに対して、情緒的な表現のニュアンスを含んだ言葉が一流という言葉なのかもしれない。また、流という言葉ほど、いろいろな意味に使われるものは少ない。これは、水の流れに始って、流儀、流派、主流、亜流、他流、日本流、外国流、上流、中流、名流……等々、一流も、この種の流の使われ方の一つではないだろうか。そして、これらの言葉の中から、一貫して感じられるニュアンスは、歴史と伝統そして家といった意味合いである。流が本来もっている水の流れの意味のごとく連綿として続いた線のニュアンスが濃厚なことはたしかである。だから言葉にうるさい人、言葉を大切にする人は、うかつに一流という言葉を使わない。そう呼ぶ必要がある場合には、まず一級といっておく。そして、そのもののバックグラウンドを調査して、真に一流と呼ぶに値することがわかったときだけ、それを一流と呼ぶのである。私も、この考え、この姿勢には賛成である。一流品と呼ばれるに足るものは、いかなるバッグラウンドから生れたかということが一つの重要な条件なのではないか。もののバックグラウンドとして第一に考えられるのは、それを作った人の存在であり、その人の存在は、人自体の能力、才能、感覚、思想、精神など、そして、その人の生れた環境、血統などが、当然問題とされるのだろう。つまるところ、そのものを生む文化なのである。一級品には文化の香りが必ずしも必要ではない。
 こう考えてくると、真に一流品と呼ぶに値するものは決して多くないし、一流品という言葉を素直に使えるジャンルやカテゴリーも限られてしまうのだ。特に、近頃のように、歴史や伝統の断絶の、こま切れ文化の世の中にあってはなおさらのことであるし、歴史の短い機械製品については、本来の一流品の意味をそのままあてはめて云々するには無理がある。現実には、一流が氾濫していて、星の数ほどの自称他称の一流会社や一流ブランドや一流製品が、洪水のごとく溢れているのを見ると、心寒い気持ちになるのは私のみではあるまい。一般的意味合いでの合理主義からは、一流品は生れないし真の一流品は、そうした人達にとって、おそらく価値は認められない。みずから、自らの考えや感じ方も問わずに、大きな世間の流れの中で無自覚に右へならえの生き方をして、なんの疑問も持たずに生きている。こうした現代の合理的人種? にとって一流品は存在の必要性がほとんどないのではないか。それだけに、現在の一流品は、その本質を評価されないままに、本質を離れたところで、一部金持ちの周辺我を満たす虚飾として使われ、誤示されているようにも思える。そして、それが、もっと淋しいことには、その現実の上澄みだけを利用して、一流品の名の下に、似つかわしくない製品を大量につくる。あるいは一流ブランドの上にあぐらをかいて、実質を欠いた利潤だけを目的にした品物を作るメーカーや業者が氾濫している現実である。先祖が化けて出るのではないか。さらに悪いことは、宣伝で大金をばらまき、虚名をつくり、自称一流の名乗りをあげて、一流まがいのものを、ものの価値のわからぬ小金持ちに売りつける連中だ。そして、もう、あきれて開いた口がふさがらないことは、一流ブランドとデザインの盗用と偽物作りの氾濫である。売るほうも買うほうも、このインチキ・ビジネスが成り立つということは、なにおかいわんやである。グッチ、ルイ・ビュトン、フェンディ、サザビー、ナザレノなどのバッグやエルメスのベルトなど、そっくりの偽物が問題となっている現実はいまさらいうまでもあるまい。こうした例はオーディオの機械にも、枚挙にいとまがないほどある。こういうことが平然とまかり通る社会構造と現代人のメンタリティやモラルの中で、真の一流品が、いかに生れにくいか、生き続けることが困難であるかは容易に想像がつく。
          ※
 ところで、一流品の条件として考えられることを私なりに挙げてみることにしよう。
 先に述べたように、いい製品は、一朝一夕には出来上らない。時間が必要である。そして、その費やされる時間を真に生かすためには、その目的への線が、常に一直線でなければいけない。目的が定まっていてさえ、そこへ到達する手段の発見には多大な苦労があるはずだ。まして、目的がふらふらしていたり、目的が明確でなかったりすれば、いくら時間をかけても、そこには一つの流れが生れないし、歴史も伝統も生きない。歴史とか伝統というと、数百年、短くとも一世紀という時間が想像されるだろうが、必ずしもそうではない。それがたとえ10年であっても、その姿勢と努力の集積は歴史を作り得る。伝統の礎ともなり得る。エレクトロニクスなどのような世界では、それ自体の歴史が浅いし、最新のテクノロジーが要求される分野の製品が多い現代においては、それを手段として行使してものを生みだす人間の精神に生きる文化性をメーカー自体の歴史と伝統におきかえて考えるべきであろう。昨日出来たメーカーでもよい。問題は、そのメーカーを支える人の中に、どれだけの技術と文化が集積され、強い精神に支えられているかではなかろうか。いまや、ただ創立年月の古さを誇りにして、内容がともなわない虚体こそ、真の合理主義によって糾弾されるべき時だからである。
 フィレンツェに生れたグチオ・グッチは一九〇六年に自分の店を持ち、高級馬具の製造と販売を始めた。金具には自分のイニシャルGGを相互にあしらった、かの有名なマークを使った。ちょうど70年前である。現在は三代目、ロベルト・グッチの時代である。GGマークは依然として象徴となっているが、ロベルトは、かつての馬具時代、その腹帯に使われた緑赤緑の帯を復活させデザインに生かした。世界最古の自動車メーカーとして、世界最高のメーカーの重みを決定づけているダイムラー・ベンツ社は、一九二六年に、ゴットリーブ・ダイムラーが一八九〇年に創設したダイムラー社とカール・ベンツが一八八三年に創設したベンツ社の合併によって生れた。この頃から自動車が、本格的な普及段階に入ったことを見ても、グチオ・グッチやエルメスなどの馬具商の衰退が理解できそうだ。第一次大戦後の不況もありエルメス同様グッチも、自らの技能を生かしてカバン、靴などの革製品に切り換えた。馬具以来、常にその製品は最高級のものだけであった。最高級製品をつくり、その製品にふさわしい売り方をする。これはすべての一流品の製造販売の鉄則であろう。一流品は、それを持つ人に実質的価値を与えるだけでは足りないのである。人の心の満足を得なければならない。そのものへの愛を把まなければならない。一流品は愛されるに値するすべてを持たなければいけないのである。グッチ・マークは、かつてはステイタスシンボルだった馬車に高級馬具の象徴として輝き、緑赤緑の腹帯とともに明確に識別されたことであろうし、今でも、その流行鞄を持っていれば、ホテルのベル・キャプテンやドアボーイの尊敬が得られるに足るはずなのである。だから、鞄負けのする人間は断じて持つべきではないのである。いまや、グッチより実質の優れた鞄は、どこかで売っているだろう。より丈夫で、より安く。自分が持ち心地のよい鞄を持てばよいのだ。しかし、グッチの鞄を悠然と持ち心地よく持てる人間になるべく努力することは決して悪いことでも下らないことでもないはずだ。努力もせずに、持っている人間をひがんでみるより、はるかによい。
 ところで、一方のダイムラー・ベンツ社を眺めてみることにしよう。ダイムラーは一八八五年に単気筒エンジンを開発し2輪車を走らせた。ベンツは一八八一年に2ストロークのガス・エンジンを完成させ、一八八六年には3輪車を走らせている。そして、一九一一年にはブリッツェン・ベンツで228km/hのスピード記録まで作っている。一九二六年にダイムラー・ベンツ社が出来て、その商品名をメルセデス・ベンツとしたダイムラー・ベンツ社は以後、最高の車づくりに専心して現在に至っているが、一九三〇年には、有名なフェルディナンド・ポルシェ博士が技師長として名車SSKを完成しているという輝かしい歴史と伝統を持つ。しかも、現在にいたるまで、多くの困難に打ち勝ち企業として成長に成長を続け、あの数年前のオイル危機の年にも、世界中で売り上げを増進した自動車メーカーは、ここだけだったという注目すべき実績を持つ。コンツェルン全部で16万人にも及ぶ社員を擁し(多分、日産、トヨタより多い)世界的水準での高級車だけをつくり続け、着実に企業が成長していることは驚異であろう。マスプロ、マスセール、マーケッティングリサーチにより、大衆の好みを平均化し、合議制でデザインを決定し、魂の入らないアンバランスな高級車を作っているのとは大違いである。
 車の雑誌ではないので、あまり車の話に誌面をさくことははばかられるが、一流品とは何かという与えられたテーマへの回答として、読んでいただければ幸せである。
 現在の技師長、ルドルフ・ウーレンハウトは、車造りの姿勢について、商売上の思惑や原価計算にうるさい経理マンによって左右されることを断じて拒否し、圧力に屈して俗趣味に迎合し、大衆の好みに形を合わせることを絶対にしないといっている。圧力に屈することは不名誉であり、商業主義に陥って設計工学をはなれ、やってはならないこと、つまり不良自動車をつくることになるともいっているのである。また、これも考えさせられる多くの問題を含んでいる事実だと思うのだが、ダイムラー・ベンツ社は、工場要員として民族性の異なる外国人の導入(ヨーロッパでは至極当然のことになっている)を好まないそうだ。ドイツ人と同じ考えを持たない外国人労働者が100%同社の意志にそった製品造りに協力してくれないと考えているからだという。工場に働く人の10人の1人は検査員、絶対に妥協しないというドイツ人魂の一貫性こそが、あのクォリティを支えているとみてよいだろう。ドイツを旅行して、実に多くの外国人労働社がいる現実を知ると、ベンツが、いかに、この問題を大切に考えているかが納得させられるのである。名実ともに一流品と呼べる車の少なくなったこの頃、メルセデス・ベンツ、BMW,ポルシェという三車は、一流という文字と最も組合せの難しい大衆製品を見事にマッチさせたVWとともに、ドイツ民族資本を守り通した体質の中から生れ出る一流品といえるだろう。一流品の持つべきバックグラウンドの一コマの証明になるだろうか。
          ※
 日本人の私が、日本製品の中に一流品を見出そうとすると、何故か、もっと難しい。
 いまや世界的に日本製品の優秀性が認められ、その品質のよさで世界市場に雄飛しているというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。私自身、決して素朴な舶来かぶれだとは思っていないのだが、心情的にどうしても難しいのである。同国人として、あまりに楽屋裏を知っているせいかもしれないし、日本人特有の、おかしな謙譲の美徳のなせる業かもしれぬ。もっとも、これが日本独特のものである場合は話は別だ。和服や和家具や、伝統的な工芸品においては、自分の知識と体験の範囲でなら、一流品として躊躇なく上げられるものがいくつかあるし、和食と洋食なら、和食のほうが、洋食より本物と偽物のちがいを区別することが容易のように思える。つまり、知り過ぎていることが、一流品を上げにくい理由だとは思えない。やはり、欧米にオリジナリティのあるものについては、明らかに一流品と呼べるレベルにおいては、日本製品にはその最も大切な根が、文化が、ないということではないだろうか。
 江戸小紋や友禅、紬など、和服の粋でしゃれた感覚の中から一流とそうではないものとを選びわけることは、何が何だかわからない洋服地より私にとってやさしいように思えるのである。洋服でわかることは布地の良さぐらい、あとは、好みの領域を出ないのである。自分で洋服を着ているのにおかしなことだ。しかも和服や日本の伝統的な美術品については、全く、なんの知識もないのだし、大きなことはいえないが、これが血というものかもしれない。ところが、欧米にオリジナリティのあるもので、自分が関心を強く持っているものに関しては、これが一流品なんだといわれ、それを信じ、それを所有して、よさを体験してきた結果、育った眼があることを感じるのである。関心のない欧米のものについては、知識に頼る以外に方法がない。このように、白紙で見て識別することと知識によるそれとの問題は、きわめて興味深いことなのだが、この問題を考えることはテーマからはずれるので、ここでは追及しないことにする。しかし、それより、ここで考えなければならないのは、知識による一流品の識別、つまり俗にいえば、一流品という折り紙への信頼感、ときには無定見な盲信と、その誤示という卑しき姿勢に人を走らせる要素を、一流品といういい方がいつもどこかに匂わせていることだろう。世の中には、その分野で、最高の価格のものを買って持っていないと気がすまないという人がいる。私がオーディオの相談を受けて、ある製品を推めると、それが最高の値段でなかった場合、安過ぎるといって拒否する恵まれた不孝者が結構いるのである。それなら、私などに相談する必要は全くないわけで、専門店に行って一番高いものを買い集め組み合わせればよいのである。また、商人は馬鹿げた金はとらないという信念を持った人もいるが、あながち、そうともいいきれないのではないか? 「高い値段をつければ売れますよ」と金持を冷笑している商人は結構多いのだ。世界中の商品全部に内容と反比例する値段をつけたらおもしろいことが起きるかもしれないのだ。冗談はさておいて、一流品という識別語がもっているニュアンスは、真実と虚偽の入り雑じった混沌が実態だといってよかろう。それだけに、一流品を持つ人の自己に対する責任は大きい。どんなに人が美辞麗句を並べ立て、それが一流品であることを強調しても、自分で納得できない限り、一流品は買うべきではないといってよかろう。まずは、あえて一流品とされないものの中から、自分で選ぶべきである。その結果、満たされない欲求を満たしてくれる実質をもった一流品に出逢ったときには、どんなに無理しても、それを手に入れるべきだ。一流品の値段の高さが生きるときである。この意味において私は一流品は値段が高くて然るべきだと思う。いいものをつくれば値段が高くなることも当然であると同時に、高い出費を強いられ、その困難を克服する努力、覚悟は情熱の証左であるからだ。痛くも痒くもない出費、あるいは、何の努力も要しない代価で、人は大きな満足や幸福を買うことは出来ないのである。所詮、ものは買える幸福でしかないと思っている人もいるだろう。私も、ほとんど、そう思っている。ほとんど、そう思っているというのはおかしい表現だが、ほとんど以外のところに私へのものに対する執着と愛情がある。それは、そのものが持っているものの実在以上の世界である。そのものの向こう側にある、ものを生みだした人間や、風土や、環境の文化までが、そのものを通して所有者の心に伝えられる世界がある。しかし、現実は、一流品という商業的呼称が出来てしまった以上、名と実は一致するとは限らない。名実ともに一流品は少ないのだ。名は多く実は少ないといい変えたほうがいいかもしれぬ。
          ※
 工業製品である以上、マスプロは当然だ。世の中には、それが、マスプロというだけで、一流品でないといい切る人もいる。一面正しいが、多くの面で、それは間違っている。マスプロが一流品でないという理由は次のようなものらしい。同じものが沢山あるということは、希少価値がない。また、マスプロは生産コストが合理化されるから値段が安くなる。一流品は高価でなければならぬ。マスプロは作りが雑である。他にもあるかもしれないが、だいたいこうした理由で、マスプロ製品は一流品の資格を失う。しかし、ここで重要なことは、マスプロという言葉の使い方とそのシステムに対する単純性急な偏見であろう。マスプロといういい方はそもそも間違いで、正確には機械生産というべき場合が多い。いくら手造りは素晴らしいといっても、手造りでは絶対に出来ない高く精巧な仕上げを工作機械はしてくれる。一般に、機械生産とマスプロを混同しているふしが多いのには困らされるのである。品質の安定性も機械生産のほうが高い。問題はやはり、そうした作られ方だけで判断できるものではなく、いかなる英知と精神が、その手段として、手造りと機械生産とを充分活用しているかであって、製造者の理念と、それを表現する能力の問題なのである。
 しかしながら、私の好きなパイプだけは、たしかに、手造りは機械生産とは根本的にちがう味を持っている。パイプだけではないだろう。人間の使うものの中には絶対に手造りの味を必要とする種類の製品があるものだ。もちろん、ハンドメイド・パイプもアマチュアならいざ知らず、プロのものは全面的に手造りではない。なにも、大きなコロ、あるいはエボーションの段階から、手でけずっていく必要はない。しかし、最終のフィニッシュは絶対に手である。そうあらねばならぬと私は思う。それも無心で自然な制作者の手でなければならぬ。意識と強制の手では駄目なのだ。つまり、量産工場の労働者の手では駄目だ。デンマークのパイプの父ともいわれるシクスティーン・イヴァルソンの手造りと、同じ、彼のデザインになるスタンウェル社の機械製品を比べれば歴然である。前者は心と血の通った生物であり、後者は、同じように見えても、形骸である。その差は人によっては皆無に思えるだろうし、紙一重の僅差かもしれぬ。しかし、その差を感じる人には実に決定的な大差である。パイプのような素朴な手工芸品だから、こういえるのだろう。これが、オーディオ製品のような機械の場合には、問題は別だといわれるかもしれない。私もある程度そう思う。しかし、どんなに複雑な機械であり、自動化されたシステムによって量産されるものであっても、初めから機械が作り出すのではない。オリジナルは人間が作り、そのレプリカが商品となるのである。いい加減なオリジナルが、より優れたレプリカになるわけはないが(細部の加工精度は別として)、素晴らしいオリジナルを作る精神と能力で、いかに機械生産システムを利用し、どこを機械でやり、どこを人がやらねばならぬかを知っていれば、オーディオ機器のようなものにも、心と血の通った対話が可能な機械が生れる可能性はあるはずだ。事実、数は少ないが、そうした機械があるからこそ、この特集が成り立つわけだろう。ただ、先述したグッチやエルメス、ベンツやポルシェ、あるいはイヴァルソンやアンネ・ユリエのパイプなどのように、名実ともに一流品と呼ぶにふさわしいものと同じ、質的水準と、心情で、一流品を呼ぶことは、オーディオ機器の場合は難しいと思う。事実私も難しさを感じた。世界のオーディオ機器メーカーの現実の中で、オーディオ機器なりの一流品としての基準に修整を加える必要はあった。
 一流品とは、自称するものではなく、時間に耐え、厳しい批判をしのぎ、人に選ばれ、賞賛されるものだから、それを作り出す人々は不屈の精神の持主であると同時に、それを天職と感じ、大きな情熱と愛を持っている人や人達でなければならないだろう。こうした人間の精神性が、資本主義の巨大なコマーシャリズムの中で、どう活路を見出していくかは決して容易なことには思えない。しかし、それを育てるのも、つぶすのも、結局、その価値を見出すお客の存在如何にかかっていることは間違いない。いまや、一時代前のようにステイタスシンボルという存在が、素直に考えられるはずもない社会構造の中で、そうした背景と密接な連りを持って育ってきた一流品と、そして、一流品という言葉の意味が再確認されねばならないときであろう。市井では一流品ばやりで、特に日本では、国民全般の経済的余裕にともなって世界中の一流品が大量に輸入され、気軽に庶民の心の満足の一役を担っているように見える。これが、いいことか悪いことかは別にして、大きく変ったことだけは間違いない。OLが月払いでハワイ旅行をし、ホノルル市外で拾うタクシーのボンネットにはキャディラックの月桂樹のエンブレムがついているという時代なのだ。かつて、階級制度とはいえなくとも、大金持や有名スターのステイタスシンボルであったキャディラックだが、ホノルルのタクシーに使われているド・ヴィルやカレーは、オールズモビルの上級車よりも安いモデルである。これは何を意味するか。GMも背に腹はかえられぬのたとえ通り、キャディラックといえども、庶民相手に大量生産をしなければならなくなったのだし、同時に、庶民の中には、かつての栄光のシンボルであるキャディラックへの憧れを消すことが出来ない人達がたくさんいることを物語っているのだろう。そこをくすぐって、安いキャディラックを作り、売るのだ。日本では、つい先頃まで、ドイツの国民車VWが外車というステイタスシンボルになっていたぐらいだし、今でも、その名残りはある。VWビートルは本当にいい車だから文句はいわないが、国産以下の内容で、値段だけ高い外車に憧れて乗るという無知と非見識さは、そろそろ慎むべきときが来ているのだ。運転が示すあなたのお人柄という標語が流行っているぐらいだから、乗る車も注意したほうがよさそうである。オーディオも同じこと、いまや、ブランド名や、外国製というだけでは、ものの実態はわからない。
 こういう時代だから、一流品という言葉の持つ時代感覚のずれに大いに気づくところなのだが、反体制派で然るべきヤング達の間で一流品ブームだというのだから不思議なものだ。本当に、それが選ばれているのか。自信がないから銘柄に頼るのか。人が持っているから一つ自分も……式なのか。
 こういう時代になると、一流品は名実ともに優れたもの、名門だが、内容は必ずしもというものは名流品とか、単に銘柄品、名やバックグラウンドはなくても内容の優れたものは一級品というように、呼称に区別をしないと誤解をまねく。
 先にも書いたように、日本には機械文明のオリジナリティはない。しかし、いまや決して短いとはいえない、時の積み重ねを持ってきた。にもかかわらず、この分野で、名実ともに一流品と呼び得るものが少ないのは残念なことだ。私流に定義をすれば、文明と文化の二本の柱をこの背景に持つことが一流品の条件だ。文明と文化と簡単にいうけれど、それぞれの意味も、その違いも充分な論議の対象であろう。しかし、ごく一般的な意味で、物質的な文明、精神的な文化という側面だけでみてもよい。明治維新と第二時大戦後の二度にわたって、惜しげもなく自身の文化を捨てすぎた観のある、あきらめのいい日本人。しかし、その代償に値するだけの機械文明の吸収を成し遂げ、いまや、それを凌ぐほどの成果をあげている優秀な日本人が、自問自答して姿勢を定め、こまぎれ文化を独自の文化に育てあげるとき、真に一流品と呼べるものが増えるだろう。

「私の考える世界の一流品」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 すぐれて独創的であり、しかも熟成度の高いこと。──これが一流品の条件といえるだろう。
 独創はとうぜん個性的である。がそれがもしもひとりよがりや勝手な思い込みであるなら、他人から高く評価されもしなければ、万人に説得力を持つはずもない。独創が一人合点でなく普遍の域まで高められなくては本物といえない。このことは、芸術であると大量に生産される工業製品であるとを問わない。たとえば音楽でも絵画・彫刻でも、芸術はほんらい個性のエキスのようなものだが、それが真に高い域に到達するとそれは年月を超越して広く世界じゅうの人に理解され支持され熱愛されるに至る。
 工業製品の場合、そして中でもオーディオやカメラや自動車のように、趣味としての要素の強い道具の中で一流品と認められるものの場合には、その成立までによく似たプロセスを経ることが多い。それは、最初の設計のきっかけが、商品を作るよりもむしろ原設計者自身の高い要求あるいは理想を満たすために作られる、というケースである。
 たとえばソウル・B・マランツが創り上げた初期の(モデル16までの)マランツのアンプやチューナーやレコード・プレーヤー。たとえばSMEのアーム。たとえばマーク・レビンソンのコントロールアンプ……。これらははじめ売ることを全く念頭に置かず、彼らがそれぞれにオーディオの熱烈な愛好家として最高のものを求めていって、市販品にその望みを満たす製品が見当らなかったところから、マランツが、エイクマン(SME)が、レビンソンが、彼ら自身で使うに値する最高の製品を作ろう、と研究にはげんだ結果のいわば〝作品〟なのだ。
          ※
 ここまでなら何も彼らの例にかぎらず、日本にも個人でこつこつ努力して自分自身のための機器を製作する人たちが、少数ながらいる。しかしひとつだけ大きく異なるのは、いま例にあげた製品が、設計者自らのひとりよがりにとどまらず、同じ道を歩む愛好者であれば誰でも理解できる普遍性と、そして高い理想を抱く人をも満足させる性能の良さと、鋭い審美眼を持つ人をも納得させる洗練された美しさとを兼ね備えている、という点である。
 残念ながら私の知るかぎりで、日本人の作る製品の中に、優れた性能とデザイン、良い素材を精密に入念に仕上げた質感がもたらす信頼感や精密感、とうぜんのことながら眺め、触れた感触のよさ、しかもそれが永い年月に亙って持続するような、要するに重厚な魅力を持った本ものを、くり返すが残念ながら、日本人が作りえた例をきわめて少数しか知らない。はじめは良いと思っても、身銭を切って手許に置いて毎日眺め、触れ、聴いているうちに、どこかで馬脚を現わすようなのは本ものではない。
 そのことが、はじめに書いた一流品の条件の後半の、熟成度の高い、という意味になる。
 元来ある製品が生み出されたばかりの状態からすでに熟成しているということは少ない。ある思想あるいは理念がおぼろげながら形をとってくる。それを生んだ人間自身が、やっと生み出したという直接の感激が薄れるまでじっと温める。やがてそれをできるかぎりの冷静で客観的な目で批判しながら、欠点に改善を加え、少しずつ少しずつ、永い時間をかけて仕上げてゆく……。こういうプロセスを経ないで、いきなり完熟した製品が生まれるというようなことは、例外的にしか起りえないと断言してよい。天才はそうざらにいるわけではないのである。絵画や音楽や文学でも、ひとつの作品に作者が少しずつ手を加え完成してゆく。まして作者の直接の手を離れてある部分は鋳造されある部分は機械加工されある部分は塗装されメッキされ……、何十人もの人手によって組み立てられる工業製品に設計者(性能・意匠を含め)の個性が、反映されるまでには、たいへんな手間と時間が必要である。
 そうするとこれも再び残念のくり返しになるが、今日の日本の商品の作られ方、売られ方を前提とするかぎり、優れた素質を侍って生まれた製品でも、その後の熟成期間を持つことのできるといった理想的な例はやはり極めて少数といえそうだ。
 今日のように技術革新の激しい時代に、ひとつの製品を何年も温めていては新製品の開発などできない、という理屈がある。一見もっともだが、それなら、いま我々の使っているオーディオ機器のたとえばターンテーブルでもアンブでもスピーカーでも、ひとつのプロトモデルをすっかり水に流してからやり直さなくてはだめなほどの根本的な開発というのが、二年や三年で完成したかどうか。過去の例をふりかえってみれば明らかだろう。たとえばアンブのコントロールパネル面など、全面的にデザインを新しくしなければならないほどのことは生じていない。
 熟成──とは、別のことばでいえば、完成度の高いこと。それは隙のなさであり、バランスの見事さであり、密度の高さでもある。それには小改良の積み重ねが必要で、とうぜん年月が必要だ。それは即席(インスタント)とか、平均化とか、中庸とか没個性とか多数決などという態度から正反村のところにしか生まれない。ひとつの製品にどんどん手を加えながら、設計者のいわば理念を反映させてゆくような、そんな作り方のつみ重ねがなくて、一流品など決して生まれてくるはずがない。
          ※
 優れた設計者(あるいは設計者たちでもよいが)が、永い年月をかけてひとつの製品と対話しながら手を加えたような製品なら、そこに自ずから一種の気持のゆとりが込められる。それがいわゆる風格になり、見るものにどこか洗練された感覚と質の高さを伝える。それはとうぜん所有欲を刺激する。
 こういう製品になると、それを所有することによって所有者は何か心の高まりをおぼえる。優れた製品はそれを所有する者の精神を刺激し精神活動を活発にする。それはいわば設計・製作者と所有者との対話ともいえる。それを持つ者の考え方や感受性に影響をおよぼすほどの製品こそ、真の一流品ではないか。
 製作者がひとつの製品に込める時間が長ければ、それを所有する人間がその製品をほんとうに理解するのにもある程度の年月はかかるのが当然だ。ある製品を購入する。それが長期に亙る比較検討の結果でも、あるいは直観的な衝動買いでも、むろんその良さが理解できたから身銭を切るのだが、本ものの一流品はそこから先がまだ深い。いわゆる汲めども尽きぬ魅力を永い年月に亙って持続させる。毎日それを使い、眺め、触れ、聴き、いじりまわしたり磨いたりして少しも飽きないという製品が、数少ないながら確実に存在する。とすると、本ものの魅力が永続きする、というのが結果論としての一流品の定義ともいえそうだ。
          ※
 魅力、という話になるとそこにもうひとつ、これはいままでの話と直接の関係はないがエキゾチシズムの魅力、という要素を無視はできないように思える。我々日本人がいわゆる舶来ものに国産品と一味違う魅力とあこがれを多少なりとも抱くと同じに、欧米人たちがH本の製品を、我々が驚くような羨望の目で見つめることが多い。これは国を問わずおよそ人類に共通の感覚なのだろう。
 それだから国産品に魅力がないなどと短絡的な結論を出すつもりは毛頭ないので、再びはじめの定義に戻っていえば、すぐれて個性的で熟成度の高い、そして本ものの魅力の永続きするような本当の意味での一流品となると、十も二十もあげられるような性質のものでなく、厳密にいえばおそらく五指に満つか満たないか、ということになってしまいそうだ。
 実際の話、最初に一流品選出のテーマをもらったとき絞っていった結果は、せいぜい数機種の製品に止まってしまった。今回最終的にあげた数十機極は、それよりもう一段階枠をひろげて、いわば一流品としてこうあって欲しいというような願望までを含めてリストアップしたので、名をあげたもののすべてが無条件で一流品というわけではないことをお断わりしておきたい。

「現代カートリッジ論」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 39号(1976年6月発行)
特集・「世界のカートリッジ123機種の総試聴記」より

1 SME型コネクターの普及が、カートリッジの交換を容易にした
 一昨年の秋、イギリスのSME社を訪問した際、創設者であり原設計者であるA・ロバートソン・エイクマンに、私はひとつの質問を用意して行った。
「あなたは現在、シュアーのカートリッジの愛用者らしいが、SME創設当時はオルトフオンSPU-Gタイプを使っていたはずですね」
 それを言ったら、お前はどうしてそんなことを知っているのか、とびっくりしていた。まさに図星だったのである。
 SMEは、一九五九年に最初の製品を市販している。ステレオディスクが発売された早くも翌年だから、ステレオ用の高級アームとしてはきわめて早い。その初期のモデルには、いまと違ってオルトフォン製の黒いプラスチックのG型シェル(旧Gシェル)が標準装備になっていたし、後部のバランスウェイトもSPU-G/T(ヘッドシェルとカートリッジで、トランスを含めて約32グラム)をカバーするだけの重量級がついていた。おそらくエイクマンは、オルトフォンSPU-Gを完璧に生かすために、あの精密なアームを考案したにちがいないと、だから私は想像していたので、右の質問をしてみたわけだ。
 いまではもう、SMEタイプ、とさえ呼ばれるようになったあの4端子プラグインタイプのヘッドシェル・コネクターは、もとをただせばデンマーク・オルトフォンがG型およびA型のヘッドシェル交換のために作ったものだ。これと寸法的には類似するのが、ドイツ・ノイマンおよびEMTのスタジオ用プレーヤーのヘッドシェル・コネクターで、オルトフォンとドイツ・プロ規格とは、端子配列が45度傾いていることとロッキングナットで締めつけるコネクターのピンが上向きと下向きのちがいがあるだけだ。
 SMEは、最初のモデル発売までにいろいろなプロトタイプを試作した形跡があるが、精密機械工作によるモデル製作工場の経営者でありオーディオマニアであったエイクマンが、はじめはアマチュアの立場でいろいろなアームを作ってはこわし、失敗を重ねながら少しずつ今日のSMEを完成に近づけていったであろうことは想像するまでもない。そしてその頃の彼の愛用カートリッジが、オルトフォンのSPU-Gタイプであったことから、彼は最初おそらく何気なく、ただ、交換に便利だという程度の理由からSPU-Gのコネクターをそのまま踏襲したのに違いない。当のエイクマン自身は、これがきっかけになってこのコネクターが日本のアームの大半に採用され、そのことからやがて世界じゅうのプレーヤーあるいはアームにまで大きな影響を及ぼすであろうことなど、予想してもみなかっただろう。
 ともかくSMEは、ほかのどの国よりもまず日本のアームに多大の影響を与えた。ステレオディスク出現の初期に、設計の理論的な拠りどころとしても、また、精密高級アームのデザインや表面処理の模範としても、SMEは絶大な存在だった。何か目標がなくてはものを開発・発展させられない、しかもイミテーション上手という、日本人のあまり名誉でない特性がアーム作りに見事に発揮されて、ひと頃は、SMEの動作を少しも理解しない外観だけのしかもきわめてまずいイミテーションまで出現したが、怪しげな製品の淘汰された後に残ったSMEの置き土産が、オルトフォン型の4端子プラグインヘッドだった、ということになる。こんにち日本で製造されるヘッドシェル交換式のパイプアームのおそらく90%以上が、このオルトフォン/SMEタイプに共通の構造を採用しているはずである。そのおかげで、日本ほどカートリッジ交換の互換性に富んだ国はほかにないというような状況になっている。
 意外に知られていないことだが、このオルトフォン/SME型のコネクターは、日本以外の欧米では、そんなに普及しているわけではない。日本と違って、オートマチックのレコードプレーヤーまたはチェンジャーの普及率がきわめて高い。しかもそれらオートマチックプレーヤーやチェンジャーのメーカーは、ヘッドシェルの交換に各社全く独自の構造を採用しているために、カートリッジの交換はSME方式ほど容易ではない。しかもメーカー相互の互換性は全くない。したがって欧米では、日本のオーディオファンのように自由にたくさんのカートリッジを交換するという楽しみを最近まで持っていなかった。カートリッジ交換によるデリケートな音質の変化を、日本人ほど敏感には受けとらないという国民性の問題も無関係とはいえない。
 ところが最近になって異変が生じてきた。日本独自の開発によるダイレクトドライブ・ターンテーブルが、欧米のオーディオ界で高い評価を与えられはじめたのである。そうなると、永いことはオートマチック全盛だった欧米のレコードプレーヤーのシェアに、オートマチックは普及品で、ダイレクトドライブ式のマニュアルプレーヤーこそ今後の高級機、というような風潮が、生まれはじめたのだそうだ。たとえばここ一~二年のあいだ、イギリスやパリで開催されるオーディオショーには、SMEが、日本のDDモーターにSMEを組み合わせたプレーヤーを積極的に展示している。当社の高級アームは、こういうふうに使ってくれ、という意味である。そうなると、モーター単体ではなく、国産のDDタイプのマニュアルプレーヤーまでが一躍脚光を浴びはじめる。言うまでもなくそれらのプレーヤーについているアームのほとんどは、SMEと互換性のあるヘッドシェル・コネクターを備えている。そのことから最近の欧米では、このコネクターのカートリッジ交換の容易さや互換性に富んだ合理性などが、改めて評価されはじめたらしい。このコネクターを普及させれば、新しくカートリッジを追加購入するユーザーも増えるとにらんだ欧米のカートリッジメーカーの商魂までからんで、SMEコネクターは、むしろこれからますます普及しそうな気配なのである。日本ではすでに、このコネクターを普及させてしまったためにアーム設計に大きな制約が生じていることを嘆く声も出はじめているというのに、この分では、むしろこれから当分、SMEコネクターは増加の一途をたどるにちがいない。ただ私自身は、アームの設計の多少の制約よりも、ヘッド交換のこの合理性ゆえにここまで普及してしまったSMEコネクターが、当分消えるはずがないし、またこの便利な方式を消すべきではないとも考えているが……。
 ──とまあ、SMEコネクターの説明で前置きがひどく長くなってしまったが、こんないきさつから、日本のオーディオファンが世界でいちばん、カートリッジ交換の容易さとその楽しみに恵まれている、という次第なのである。

2 理想のカートリッジとはどういうものか……
 この号でテストするカートリッジの一覧表をみせてもらったら、約一二〇個がリストアップされている。これでも現役製品の約2/3だというから、実際には二〇〇近い製品が市販されていることになる。ただ、カートリッジの場合には、特性上にほんのわずかの差をつけただけで外観も中身もほとんど変えずに価格の差をつけて多機種をとり揃える、という方法で機種を増やすケースが多いので、スピーカーやアンプの機種の多いこととは少し意味合いが違うから、実質的な製品の数はこの1/3以下、つまり五~六〇機種がいいところだろうが、そう考えてもまだ決して少ない数とはいえない。
 たしかに、アンプやスピーカーにくらべてカートリッジの交換は楽にできるために、誰もが手軽にもう一個……と追加しやすい。しかしそれにしても、レコードの溝から音を拾い上げるというひとつの目的のために、どうしてこれほど多くのカートリッジが作られているのだろうか。どうも少々イージーに機種を増やしすぎるのじゃないか、という疑問を消すことができない。ただ、そういう疑問を持つからには、カートリッジのあるべき姿について、何らかの定義をしておかなくてはならないだろう。単に、目先の変わった音を鳴らし分けて楽しむというのであれば、いくらでも新種が作られてかまわないわけだから。
 最も素朴なところから考えてゆくと、カートリッジは発電機と同じだ(*註)。レコードには、現実の音や音楽の複雑きわまりない音が、一本の溝の凹凸やうねりの形に姿を変えて刻み込まれている。ピックアップの針先がその溝をたどってゆくときに、針先は音溝のうねりのとおりに動かされ、ピックアップの内部で、その針先の運動に正しく比例した電流が発生すれば、カートリッジはその目的を達したことになる。言いかえれば、レコードの音溝に刻まれた音を、そっくりそのまま、何の変形も加えずに拾い上げる(ピックアップする)ことが、カートリッジの理想である。もしもこの理想が100%かなえられれば、異なった二種類のカートリッジを交換しても、音質の差は生じないことになる。ところが現実には、同じメーカーのカートリッジでさえ、二種類を聴き比べれば音質が違う。ということは、現実の製品には、右の理想を満たすものがまだない、ということになる。
 そうした観点から、理想に近いカートリッジを探そうと、マスターテープとの比較試聴というようなテストを行なう場合がある。こまかく言えばいくつかの方法があるが、大要は次のような形をとる。
 まず、レコードにカッティングするもとであるカッティング用マスターテープを用意する。曲あるいは演奏は、音質の判定をしやすいものを任意に選ぶ。このテープをもとにして、ラッカー盤にカッティングしてテスト用レコードを作る。カッティングの際には、テープに録音された音そのままを溝に刻むために、イクォライゼイションその他の加工を一切加えない。
 こうして作られたレコードを各種のカートリッジで再生し、同時にカッティングのもとになったマスターテープをプレイバックして両者の音を聴きくらべて、テープの音に少しでも近いカートリッジが、すなわちレコードに刻まれた音を正しく再生する理想に近いカートリッジだと定義する、という方法である。
 このやりかたは、レコードやカッティングについての正しい知識のない人には、実に公正で正確無比なテストのように思えるだろう。ところがこの方法には実に多くの問題点があるのだ。ひとつひとつあげて解説するだけでも与えられた枚数を超過してしまうので要点のみ箇条書きにしてみる。
① テープから加工せずにカッティングするといっても、カッターヘッド自体にもカートリッジと同様あるいはそれ以上の音質の差がある。(レコードメーカーが、新型カッターでカッティングし直して音質が向上することを宣伝文句にうたっているように、カッティングシステム自体が──カッターヘッドばかりでなく、ヘッドをドライブするアンプも含めて──特定の音色を持っている)
② テープをプレイバックする際、テープデッキにも固有の音色がある。アンペックス、スカリー、3M、スチューダー、ノイマンその他、同一のテープでもプレイバックデッキによって音質が異なる。同じ銘柄のデッキでも、2台を比較すれば音色が異なる。プレイバックカーブに0・2dB程度以上の偏差が生じれば、それでもマスターテープの音が変わる。
③ 比較のためのカートリッジは、どういうヘッドシェル、どういうアーム、どういうプレーヤーシステムを使うのか。同一のカートリッジでも、ヘッドシェルやアームを変えれば音が変わることはすでに常識化している。また、右のようなテストをするときには、カートリッジ自体の周波数特性のくせを、一台一台調整して合わせたイクォライザーでフラットに補正すべきではないのか。それとも、RIAAカーブで補正するだけで、カートリッジ自体の周波数特性は放っておいてよいものか。ハイインピーダンス型の場合は負荷抵抗や負荷容量を変えても音は相当に変わる。シールドコードの影響や、温度、湿度の影響も無視できない。
 ──細かく言い出せばキリがないが、テストというものは、厳密に行なおうとすればするほど、右のような細かなエラーを無視したのでは無意味になる。どのみち、レコードに刻まれた音はカートリッジで拾って聴いてみないかぎりわからない道理なので、これはカートリッジに限らない、アンプでもスピーカーでも、現在の技術のレベルでは、どのパーツが最も正しい音を再生するのか、という証明は、論理的に不可能なのだ。
 不可能ではあるにしても、しかし再びカートリッジに話を限るとして、レコードに刻まれた音を、大幅に歪めたり、刻まれた音を明らかに拾い落したりはしないように、というひとつの目標について、異論を唱える人はいないだろう。その同じ目標に向って多くのメーカーが、地道な研究の積み重ねによって着実に前進していることもまた確かである。それでありながら、一〇〇個のカートリッジが微妙とはいっても一〇〇通りの異なった音色で鳴る。そこに好みや主観という要素が入りこみ、さらに価格とのバランスとか使いやすさとか、針交換のしやすさとかトレースの安定度など、人さまざまに重点の置き方が異なって、選ばれるカートリッジも人さまざま、という結果になってくる。ただ、10年前にくらべると、明らかに飛び抜けて音色の違うというようなカートリッジは少なくなった。それだけ技術のレベルが揃っているという証明にもなるし、レコードからできるだけ正しい音を拾い出すという目標に大局的には接近しているという証拠にもなる。
(*注)MM-IM、MC……等、電磁型、動電型のカートリッジ、および圧電型のカートリッジに限って、発電機の同類といえるが、コンデンサー型、光電型、半導体型などは正確には発電機ではなく、別に用意された電源から供給されるバイアス電流を、音溝のうねりで変調して音声電流に変換する。

3 カートリッジを選ぶ根拠は何か?
MM型、MC型……というタイプの違いか、価格の違いか、メーカーか……
 同じ目的のために作られるカートリッジに、なぜ、MM型、MC型……というようなタイプの違いが生じるのだろう。それは、アンプの場合ならトランジスターと管球式、あるいは同じトランジスター型でも直流アンプというように、またスピーカーならコーン型とホーン型あるいはドーム型……というように、メーカーの技術力や得手不得手、方法論のちがい、等の理由によって、それぞれのメーカーが自社の主張に応じて異なった構造を採用するのだ。どんなタイプにも、メリットがあれば、その反面に必ずデメリットがつきまとう。うまいことだらけ、というような話はありえない。ただ、メーカーはつねにメリットの方を宣伝材料に使って、デメリットについては触れたがらない。もしも客観的にみて、誰が見ても誰が考えても唯一最良の方式というのがあれば、世界じゅうのカートリッジがそのひとつのタイプで作られるはずだ。そうならないで各社各様のタイプを押しているという現実が、すでに、メリットの反面にデメリットのあるという事実を裏書きしているようなものだ。
 では現実にカートリッジを探し、選ぶ段になったとき、いったいどういう問題点を根拠にしたらいいのだろうか。MM、MCというようなタイプの違いか。ブランド名か、あるいは国籍か。それとも価格や使用条件によって何か大きな違いがあるのか。カタログデータ上で何か拠りどころになる数字や項目があるのか──。以下にいくつかの項目をあげながら考えてみよう。
■原盤試聴用あるいは放送局用など、プロ用の特殊なカートリッジがあるか?
 レコード会社がカッティングしたラッカー盤やメタル(マザー)盤をチェックするときに、どんなカートリッジを使っているのだろうか。
 ノイマンのカッティングシステムでは、オルトフォン(SPUまたはSL)、シュアー(V15/III)、またはエラック(STS555E)などが標準装備となっているし、他のカッティングシステムやレコード会社によっては、EMT、デッカ、ピカリングまたはスタントン、ADC、エンパイア、その他、要するに私たちに馴染みの深い製品が適宜選ばれていて、どこにも特殊なカートリッジの使われている例はない。ことにメタル盤の検聴の際は、針の磨耗がおそろしく早いことと、メッキの素材であるニッケルが磁石の強いカートリッジを引きつけてしまうなどのやや特異な条件から、MMまたはIM系の、むしろあまり高価でないカートリッジの針をどんどん使い捨てるケースが多い。
 放送の場合はどうか。日本では、NHKおよびFM東京などFM局で、DENONのDL103が標準カートリッジに採用されていることはすでによく知られているが、これとてアマチュアにとって別に珍しい製品ではなく自由に入手できる。AMの民放局ではこれ以外にも主に国産品が適宜使われる。海外の放送局となるともう全く自由で、それにしても私たちに縁の遠いカートリッジというのはまず使われていないといってよい。
 スピーカーの場合は、本誌36号の「現代スピーカーを展望する」で詳述したように、シアター用など広い場所で強力な音声をサービスするものと、比較的狭いモニタールームで検聴用に使うスピーカーと一般家庭用とでは、用途によってその構成も規模も大幅に違う場合が多い。けれどカートリッジの場合は、対象がレコードの溝一本だから、目的とか用途による違いというのは、スピーカーのように別々にはならない。
 もうひとつ、スピーカーの場合には、少数とはいえ十年前十数年前の製品がいわゆる名器として残っている例があるが、カートリッジの方は、ほんのわずかの例外を別にすれば、原則として、旧製品は消えてゆかざるを得ない宿命を負っている。それはカートリッジが、レコードにカッティングされた音溝を忠実にたどるという目的を持っているからで、カッティングシステムの改良にともなって、より振幅の大きな、より複雑な音溝が刻まれるようになると、旧型の設計のカートリッジでは、その振幅を正しくトレースしてゆくことができなくなってしまうからで、スピーカーの方は、アンプから送り込まれた音が出てこないだけだから故障などの実害のないのにくらべると、カートリッジの旧型はレコードの溝を正しくたどりきれずに溝をいためてしまうという害が生じる。したがって、少数の例外を除いて、カートリッジは新型・新型と移り変わってゆかざるをえない宿命にある。
■タイプによる違いと、国籍やブランドによる違いと、どちらの差が大きいか
 ムービングコイル型(MC型)は音のキメがこまかい、とか、ムービングマグネット(MM)型は音が柔らかい、などと、タイプによる音の違いが言われている。たしかに、タイプによって本質的に持っている音というのはある。
 しかしその反面、カートリッジの音質の違いはタイプじゃない、要するにブランドによる違いであり機種による違いなのだから、タイプにこだわらずに音を聴いて決めるべきだ、という意見もある。
 そうした、一見相反する意見があるということは、そのどちらが正しいのでもなく、どちらも半面の真理を言っているのだ。メーカーあるいは国籍による個性、そして素材とその料理法によって、さらには同じメーカーの製品ならば価格の高低によって、それぞれ微妙に音の差があって、それが一見、タイプとは無関係のようにさえ思えるが、しかし本質的にはやはり、タイプによって基本的に決まる音の傾向がなくなりはしない。たとえばMC型の音のこまかな切れこみは、他のタイプから聴くことは無理だし、MM型の、音ぜんたいを柔らかく包みこむような鳴り方をMC型は概して聴かせてくれない。そういう基本的な性格の上に、ブランドやランクや素材などのさまざまの要因が加わって、1個のカートリッジの音の性格ができ上がっている。だから、タイプ論もブランド論も、それぞれ半面の説明はしていることになる。ただ、タイプがすべてを支配するというようなことは起りえないし、さきほどのくりかえしになるが、客観的に唯一最良のタイプがもしもあるのなら、世界中のカートリッジが同じひとつのタイプを採用するはずだ。
 そういう話を前提にしておいて、そこであえて私個人のカートリッジ選びの基準をいえば、第一にタイプ、第二に国籍またはメーカーの個性、第三に同一のメーカーの製品体系の中でのランクづけ、の三つの面から考える。言いかえればこれらの要素が、カートリッジのできばえにそれぞれかなり大きな影響を及ぼしていると、私が感じているからだ。そのことをもう少し掘り下げて考えてみよう。
■MMグループとMCグループ
 こまかなことを言う前にまず、私自身のカートリッジの使い分けをふりかえってみると、レコードを真剣に聴くときはMC型、くつろいだり聴き流したりするときはMM型、という聴き方がわりあい多い。読書しながら、あるいはお茶や酒を飲みながら聴き流すとき、針交換のめんどうなMC型を使うのは何となくもったいない気がするし、それよりもMC型の音はどこかこちらをくつろがせにくい、聴き手を音楽の方にひきずりこんでしまうような雰囲気を持っている。レコードに入っている音をどこまでも細かく細かく拾ってくる感じが、つい、音楽を一生けんめい聴く姿勢にさせてしまうのではないだろうか。
 一旦MC型の良い製品を良いコンディションで聴いた直後、同じレコードをMM型で再生してみると、MM型はMC型にくらべて、何か大切な情報量を掴み落してくるのではないだろうかといった気持になる。くどいようだが、さきにも書いたようにタイプですべてがきまるわけではないから、MCの中にも不出来な製品が少なからずあることは断わっておくが、MC型の方が明らかに同じレコードからより豊富に音を拾い出してくる。そのことが、逆に聴き手をくつろがせにくい、あるいは聴き流しできないような気分にさせてしまうのかもしれない。そこでつい身を乗り出して、音楽にのめり込んで聴き入ってしまう結果になる。
 ただしかし、聴き手の主観以外にも問題がないわけではない。第一に、レコード自体にMC型の解像力に見合うだけの豊かな情報量が入っているかどうか。演奏の良否から録音・盤質まで含めて、優れたレコードであるかどうか。第二に、アンプやスピーカーが、その豊富な情報量を十分に再現できるだけの能力を具えているかどうか。
 正直をいって私自身は、MC型を嫌う人の音の受けとめ方が全く理解できない。しかし一方で、MCでは鳴りにくい音のあることだけはわかる。それだから、自分でもMC一辺倒でなく、MM系(IM型も含めて)を使っている。たとえばジャズの場合──。
 バリトンあるいはテナーサックスの、あのふてぶてしい、太い真鍮の管が共鳴して豊かに唱うあの鳴り方が、MC型では私には十分満足できない。管の太さ、みたいな感じが、IM系のカートリッジでなくてはよく鳴らないように思える。あるいはスネアドラムのスキンのよく張った乾いた音。……そう、この乾いた感じというのが、MC型ではどうも出にくく思えるのだ。MC型の音はどこか音をひきずるように、いくぶんウェットに、ふてぶてしい音さえもどこか品良く、繊細な艶を乗せて鳴らす。もっとカラッとしていなくてはジャズではない、そういういら立ちさえ感じさせる。ジャズばかりではない。アメリカの現代のさまざまのポップミュージック──ロックやソウルやフォークやウェスタンなどの、新しい流れのポップミュージック──の、ことにリズムセクションの、ストッ! と切れる感じの、重量感がありながら粘らない、あの一種爽やかな迫力を、私の知るかぎりのMCは鳴らしてくれない。そういう音を聴かせてくれるのは、IM型の、それも特に断わっておかなくてはならないことは、それがアメリカの東海岸(イーストコースト)系のカートリッジにほとんど限られるのだ。
 そう。私は再ぴここで、音響パーツを生み・育てた風土の問題にぶつかった。同じような構造の、似たようなカートリッジが、イギリスで、ドイツで、あるいは日本で作られると、なぜ、イーストコーストのあの、乾いた気持のいい音が鳴らないのか。そしてまたイーストコーストのカートリッジには、どうして、ヨーロッパ製のそれから聴くことのできる繊細でややウェットな余韻の美しさが欠けているのか──。
■同じMM型でも風土が違えば音質も変わる──エラックとシュアーの例──
 たしかに、カートリッジの音はそれぞれに違う。同じメーカーの、同じタイプの製品でも、価格のランクによって音が変る。だから、カートリッジの音のちがいを、タイプだの風土だのでいうのはまちがっているという意見もある。が私は、それは音をあまりこまかく見すぎてもっと大掴みな重要な違いを聴き落していると思う。
 そういう違いを聴きわける最も良いサンプルはアメリカ・シュアーと西独エラックだ。余談になるが、エラックという商標を日本では使えないで、エレクトロアクースティックという名で呼んでいる。日本のある商社がむかしエラックを輸入していたころ、勝手に Elac の商標を登録して日本ではその商社を通さなくては使えないようにしてしまった、というのが真相だ。日本だけのばかげた現象で、何とも腹の立つ話だ。もうひとつ、日本では最も普及しているMM型は、もともとシュアーとエラックが共同で特許を所有しているもので、欧米ではこの二社以外はこの構造のMM型を作っていないし、日本でもオーディオテクニカのような独自の構造以外の製品は、特許料を払わないと海外に輸出できない。
 シュアーとエラックをくらべてみるとよくわかるが、この二社の製品は、右のような理由から、基本的にはよく似た構造をとっている。もしも構造(タイプ)が音質を支配するというのなら、シュアーとエラックはよく似た音がするはずだ。だが試みに、シュアーのV15/IIIとエラックのSTS555Eを聴きくらべてみるといい。もしもできれば、エラックのSTS155までの一連の製品を聴き、シュアーのM75やM91のシリーズをひと通り聴いてみるといい。エラックの製品だけでも、155と255、355、455……みな少しずつ音が違う。シュアーもまた、75Gと91EDとV15/IIIとでは当然音が違う。けれど、エラックとシュアーをまとめて聴いてみれば、エラックの中でどれほど違う音でもそれは決してシュアーの方に似てはいないし、シュアーのどの製品をとっても、シュアーよりはエラックに近いなどという音はしない。明らかにシュアーはシュアー、エラックはエラックの音がするのである。
 そのことを単にメーカーの個性とみるのは自由だが、私はそこに、カートリッジの音をコントロールしてゆく人間の音感を、そういう音感の人間を生み・育てた風土の問題を考えずにいられない。そしてメーカーが最もそのメーカーらしい、言いかえればメーカーの主張を最も端的に表現するのは、同じ機種の中の最高のランクの製品である。シュアーならV15/III、エラックならSTS555Eまたは655D4である。それで私は、自分でカートリッジを買うときは、まずそのメーカーの最高のランクの製品を聴いてみる。一方そのシリーズの最低と中間とを同時に比較すれば、そのメーカーの主張はおおかた理解できる。
 カタログの項目で参考になるのは、出力電圧とインピーダンスと、針圧とコンプライアンス。前者はアンプまたはトランスとのマッチングをとるために、後者はアームとの組合せを考えるために、つまり使いこなしの際に必要な数字であって、カートリッジを選ぶ段にはたいして役に立たない。周波数特性をこまかく比較する人があるが、ばからしいからおやめなさい。同じ機種で安いのから高いのまで、五千円きざみにとり揃えているようなメーカーの製品の周波数特性を見くらべてみれば、価格のランクにともなって、少しずつ特性が良くなるように書いてある。これなどは、この前の製品で10Hzから30、000Hzと書いてしまったから、今度のは8Hzから32、000Hzにしておこうか、というようなアホらしい操作を、メーカーの方がしているだけの話だ。
■優れたカートリッジほど音楽に血を通わせ生き生きと蘇らせる。
そして、レコードを、音楽を、次々と聴きたい気持をふくらませてくれる
 菅野沖彦氏がおもしろい指摘をしておられる。内外の軽針圧型のカートリッジが、概して針先にまつわりつくゴミやホコリに弱く、レコード一面をかけ通さないうちに音がビリついたり、針先が浮いてしまったりするのが多い。しかし、EMTやオルトフォンSPUのような3g前後の針圧を要するものは別としても、軽針圧型であってもたとえばエラックやシュアーなどは、よほどのことがないかぎりレコードの一面ぐらい、何の苦もなくトレースする、というのである。
 そう言われて考えてみると、私は右のようなトラブルにあまり遭遇していない。しかしそれには注釈が必要なので、ふりかえってみて私の場合、いくつかの例外を除けば一個のカートリッジでレコードを何枚も続けざまに聴くということを、おそらくほとんどしていない。テストの際にはレコードの特定のある部分だけを鳴らしながら次々とレコードを換えてゆく。そのたびごとに針先のゴミを払う。そういう扱い方をしているかぎり、菅野氏の指摘されるような現象は発見できない道理だ。
 ということは、私のカートリッジ・テスト法がもしかすると杜撰であるのかもしれないが、しかしレコード一枚さえ通して聴かないとあえて書くのは、私にとって、レコード一枚、いや片面だけでさえも、始めから終わりまで通して聴き込む気持を持続させてくれるカートリッジが、きわめて少なかったと言いたいためだ。
 新しいカートリッジを入手すると、最初にアイドリング(エイジングともいう。いわゆる馴らし運転)のために、オートマチックのプレーヤーにとりつけて、馴らし運転専用の(傷んでも惜しくない)レコードをざっと十数時間トレースさせる。このときは音をきかない。エイジングが済むと、あらかじめ選んである何枚かの、それぞれ音楽のジャンルも楽器構成も異なるレコードの特定の部分を次々とかけてヒアリングテストする。針圧を変えてみたり、ヘッドシェルやアームをとり換えたり、むろん負荷の条件も変えてみる。これでカートリッジの素姓はまず90%掴むことができる。
 こうしてテストした結果、これはもう少し時間をかけて聴き込んでみたいという気持を誘発させてくれるほどのカートリッジなら、一応、相当の水準にあるといえる。そういう製品は、テスト用とは別に気分のおもむくままに、楽しみながら聴き込んでみる。良いカートリッジは、そうして聴くうちに次々と、そうだ、こんどはあれを聴いてみよう、という具合に、次にかけたいレコードを思いつかせてくれる。つまりレコードを楽しむ気持をふくらませてくれる。同じことを私は、本誌36号のスピーカーテスト後記で書いた(36号119ページ)アンプでもカートリッジでも、この点は同じだ。
 ところが、たいていのカートリッジが、テストレコードが一面の終わりまで行かないうちに、いや、ミルシュテインのグヮルネリの中音はもっと線の太い一種ふくみ声のような音色で鳴らなくてはおかしいはずだ、とか、このバルバラの声には人生の厚みが感じられない、とか、菅野氏のこの録音はもっと楽器の鮮度が高く聴こえるはずだ……というような不満が生じたり、なんだこの程度の音かとがっかりしたり腹が立ってきたり、そうでなくとも、ことさら指摘できるような弱点がないにもかかわらずどういうわけか聴き馴れたレコードがとてもよそよそしく聴こえたりして白けた気持になったりして、途中で聴くのをやめてしまうことが多い。
 こんなはずはないのにと思って、ヘッドシェルをかえてみる。アームをかえてみる。プレーヤーシステムをかえる。針圧や負荷を再調整する。別のレコードをかける……。要するに相当にこまかく条件をかえ、日をかえて気分を新たにして聴き直してみたりもする、こんなテストをして生き残った製品が、ここ一年あまりでいえば、オルトフォンVMS20E、エラックSTS455E、ゴールドリングG900SE、エンパイア4000D/III、ピカリングXUV4500Q等であった。これ以外にも、レコードの内容や、その日の気分や、組み合わせる装置のちがいによっては鳴らす機会のあるのが、シュアーのM75シリーズやスタントン681シリーズ、ADCのスーパーXLM/II、それにAKG、B&O、DECCAなどである。右にあげたのはしかし私にとってあくまでもサブ用、あるいはその時点での水準を知るための参考比較用であって、常用はEMTとオルトフォンである。つい最近では、国産の一~二の製品が、もうしばらく聴いてみたいグループに加わっている。あと数ヵ月しないと本当の結論は出ないだろう。カートリッジの素性を正確に掴むには、それぐらい時間と手間がかかる。

4 カートリッジの鳴らす音色とその背景に横たわる風土との関係を
もう少し個々に論じてみると……

 シュアーとエラックが、似たような構造でありながらそれぞれに異なった個性で鳴ることをすでに書いたように、むろんカートリッジの鳴らす音に限らずスピーカーにもアンプにもレコードにも楽器にもあるいはその奏法にも、民族性や国柄や風土が映し出される。その点を解明することがここ数年来の私の興味の中心になっている。では、カートリッジの場合、それがどういう音のちがいになってあらわれてくるのか。それを国別に少し細かく調べてみよう。
■日本のカートリッジは歪みをおさえた色づけの少ない音がする
 たとえば欧米のカートリッジの一部には、トータルの音のバランスは悪くないが細部あるいは弱音部でのデリカシーを欠いて、いかにも音の粒の粗いものがある。その点国産のカートリッジは、たとえローコストの中にも、歪みっぽい音や粗い音を鳴らす製品はほとんどないと言い切ってもいいだろう。聴感上の音の粗さや歪みっぽさを注意深くおさえて、強音でも圧迫感のない、すっきりとおとなしい、節度のある音を聴かせる。
 歪みあるいは音のバランス上明らかなピーク性のクセ、ないしはトレースの不良……などの客観的な欠点や弱点を、ひとつひとつ取り除いて製品を仕上げてゆく能力にかけては、日本人のこまやかな神経は世界一といっていい。カートリッジばかりではない。国産のワインが渋味や酸味を注意深く除いて作ること、同じく国産のウィスキーがたとえ安物であってもアルコール臭や醸成の若さ・鋭さをよく抑えること、時計の進み、おくれを嫌うこと、日本人の国民性はこうした面に発揮される。
 こうした作り方が長所として実った製品も数少ないながら数えあげることができるが、ただ、一部の製品の中に、やや消極的というのか行儀がよすぎるというのか、どこか静的で平面的で、音の表情をおさえすぎたり、音の肉乗りの薄いあるいはコクのない、ボディーの厚みのない音に聴こえるのがある。
 もうひとつこれは別の機会にも書いたことだが、西欧の音楽が低音の豊かなメロディーの上に構築されているのに対して日本の音楽は、伝統的に低音はリズム楽器で支えられてメロディーそのものは高音の、しかも原則としてモノディとして成立していた。こうした歴史の流れの中で、日本人の耳が低音の音の厚みや中~低音のハーモニィの複雑な音色を聴き分けることに往々にして弱点をみせる反面、中~高音域での音色や音の美しさをデリケートに聴き分ける能力の鋭敏なこともまた、世界に誇れる。このことが、カートリッジにかぎったことではないが音の仕上げに影響を及ぼすことが少なくないように思う。
 その特質がおそらく、国産カートリッジの多くを、実におとなしくきれいな音に仕上げるのだろう。けれど次のようなことはある。
 たとえばソロ楽器、あるいはコンボ、クラシックの場合なら室内楽かせいぜい室内オーケストラ程度、要するに小編成の曲を鳴らすかぎり、おおかたの国産カートリッジの音はたいへんバランスも良く、キメのこまかな美しい描写をする。ところが大編成のオーケストラがトゥッティで鳴ったほんの一瞬、音のバランスが中~高域に片寄るように、低域の厚みのある支えを欠いて、キャンつきはしないがやや薄手の音を鳴らすカートリッジが、一部とはいえ無視できない程度の数はある。たとえば最近の本誌でテストレコードとして使われる機会の多い、クラウディオ・アバド指揮/ウィーン・フィルの『悲愴』(独グラモフォン2530350)。その第一楽章の中間部でクラリネットからファゴットのピアニシモで消えた次の一瞬、フルオーケストラがフォルティシモで鳴りはじめるあの部分。そこがジャン! と鳴ったほんの一瞬で、聴きなれてくるとカートリッジの低音から高音までのエネルギーのバランスを瞬間的に聴きとることができる。ある製品は低音が重く鳴る。別の製品は高域の上の方でキラッと光る音を鳴らす。しかし私が最も低い点をつけるのは、キャン! という感じで低音の厚みがなくなってしかも中高域の一部分にエネルギーが固まる感じの音。カートリッジにかぎらず、アーム、ゴムシート、プレーヤーシステム全体からさらにアンプ、スピーカーまでこのテストは最も短時間に音のバランスのダイナミックなテストができる。
 もうひとつはMCとMMの項で書いたようなジャズあるいは新しいポップスの、一種ふてぶてしい、あるいは音が粘らないでスカッと切れる乾いた爽やかさ、などの感じがどれほど鳴らせるか。そしてその反対に、クラシックの弦や木管のたおやかなやさしさ、そしてヴォーカルの声帯の湿った温かさがどれほど聴けるか……。カートリッジの音の判定はとても難しい。
 国産のカートリッジの話のはずがつい脱線して、カートリッジのテスト法になってしまった。そこで話をもとに戻して、仮に一部とはいっても国産のカートリッジの中に、もっと低音の豊かな弾み、ことにオーケストラのトゥッティでの豊かさと音楽の表情、そして音にもう少し脂気あるいは艶が乗ってきたら、全体の水準はグンと上がるのに──と、まあえてして身内にはきぴしくなりがちだというが、これが日本人である私の願いである。
■イギリスの音はどうして細い感じで鳴るのだろうか……
 イギリスという国は、ずいぶん古くからカートリッジを作っているが、わずかにデッカ一社を除いては、国際的に通用する名品は、最近では全くといってよいほど生れなかった。つい先ごろ、古いメーカーのゴールドリングが久々の新製品として発表したG900SEがもしもたいした製品でなかったら、カートリッジの話の中でイギリスを独立した項目にたてることもなかったかもしれない。
 デッカ(MKV)とゴールドリンク(900SE)のふたつは、スピーカーの場合にも説明したイギリスの古いジェネレイションと新しいジェネレイション(本誌36号参照)の音の違いを端的に代表している。スピーカーでいえばタンノイやリークの鳴らすやや硬質の艶で聴かせるのがデッカなら、その音をもう少し柔らかくまろやかにしたのがゴールドリングで、それをスピーカーでいえばスペンドールBCII(本誌36号P317参照)を思わせるバランスのよさとクセのなさを持っている。デッカの中~高域の、黒田恭一さん流にいえばコリッとした感じのタッチ。その輪郭をくまどる線は鮮明だがいかにも細い。イギリスの音はスピーカーでもそうだが概して中低域に肉がつくことを、音がぼてっと厚くなることを嫌って、痩せぎすに仕上げる。デッカの音はときとして少し骨ばって聴こえ、ゴールドリンクはその骨をあからさまには感じさせない程度に耳あたりを良く、そしてイギリス製にしては──というより以前の800シリーズからみたら──総体にフラットに、バランス的に過不足なしに仕上げているがしかし、やや細い感じであることに変わりはない。
 その意味ではデッカの音もゴールドリングの音も、国産のカートリッジの中によく似た音があるように思えるし、いま書いたような範囲では似ている製品も事実ある。ただし国産とイギリスとがやや違っている点は、しっとりと脂の乗った、そして中低域が薄いために一聴すると低域が弱いように思えるがよく聴くと、ローエンド(低域端)での音はたっぷりと量感を持っていて、細いけれどつくべき肉はちゃんとついているし、ボディーに厚みも奥行きもあることがわかる。そして音楽のこまやかな表情の変化に、実にしなやかに寄り添ってゆく。
 ただしかし、概してイギリスの音はスケールがあまり大きくない。スピーカーでもタンノイのオートグラフ(すでに製造中止)とヴァイタヴォックスのCN191はむしろ例外的な存在で、アンプでもプレーヤーでも、繊細な神経でこまかく仕上げてゆく反面、それが大がかりになることを好まない傾向がある。それが音にもあらわれている。
■ドイツの音はいっそうBODYが厚く、そして音のけじめがはっきりしている
 イギリスの持っている音の艶、それもデッカ型のやや硬質の艶にさらに脂を乗せて、中低域での音の細い部分の弱点をなくしたような音──ドイツの音を、大掴みなバランスからいえばこういう感じになる。
 ここでもまた、ドイツのスピーカーの鳴らす音や、ドイツのオーケストラの音、さらにはドイツの工業製品、たとえばカメラや自動車の操作性にも一脈通じるフィーリング、そういう感じがカートリッジの場合でも例外ではないことをまず言っておきたい。むろんドイツの音といっても、オーケストラの音を思い起こすまでもなくそれを一括して言うのは乱暴すぎるが、カートリッジでいえば、現時点ではEMTとエラックの二種類に代表させればよいので、話は比較的簡単だ。
 たとえばブラウンのスピーカー。音のけじめのはっきりした、明瞭かつ鮮明な感じの音のくまどり。大まかに言えばエラックにもEMTにもその感じが共通している。
 もうひとつ、ベンツやBMWに乗ってみると(私は運転ができないので、友人たちに乗せてもらうだけだが)、アメリカや日本の車よりもクッションが固い感じが第一印象として際立っている。スポーツタイプでないふつうのセダンで、坐った尻の下のクッションの感じが、ブラウンやヘコーのあのけじめのはっきりした硬質の音に似ている。これでは走り出したらいかにも固くて疲れるのじゃないだろうか、と思っているとその予想は裏切られる。固くてやわらかいとでもいったらいいのか、明晰さで包まれた豊かさ、とでもいうべきなのか、それは固い一方でなく、というより第一印象で固いと感じたのは実はほんとうに固いのではなく、馴れるにつれてそれがドイツ車の──いや、ドイツの音の表現の基本になっていることに気付かされる。道路の小石を踏んだことさえ乗り手に鋭敏に伝えながらしかもドライバーを疲れさせないどこか柔らかで豊かなあの感じを、EMTのカートリッジの鳴らす音に聴くことができる。
 エラックの音も基本的には同じだ。ただ、これがおそらくMCとMMのちがいなのだろう。EMTのおそろしいほどの解像力に裏づけられた豊かな情報量にくらべると、エラックの音はもう少し甘い表現になる。EMTとエラックをくらべればそうだが、そのエラックをシュアーとくらべると……それはさっき書いたとおりだ。
■北欧が生んだ名作オルトフォン。そして同じ国のB&O
 デンマークは、オルトフォンやB&O、それにカートリッジではないがオーディオ用測定器として世界じゅうで標準原器のように使われているブリューエル&ケア(B&K)を生んでいて、北欧諸国、というよりヨーロッパ諸国の中でも、オーディオの面でかなり大きな存在である。特にオルトフォンは、レコーディング用のカッターヘッド等も作ってプロフェッショナルの分野でも高く評価されて、中でもSPUシリーズのMC型カートリッジは、その基本構造がドイツのEMT、日本のデンオン、FR、マイクロ、スペックス、オンライフ等に影響を及ぼしている優れた発想によって、独自の地位を築いている(もっともEMTのカートリッジは、TSD15の旧型時代はオルトフオンで作っていた)。SPUだけが聴かせる音の自然で厚みのある、一見反応が鈍いようでいて実はおそろしく緻密でコクのある音は、すでに十余年を経ても一向に古くならない。はじめの方で、カートリッジの世界に旧製品は通用しにくいことを書いたが、その例外的存在がオルトフオンSPUでありEMTである。オルトフォン製時代のEMTは、SPUとくらべるともう少しナイーヴな柔らかさの中に、実に繊細な解像力を持っていた。ドイツで作るようになってからは、基本構造にはほとんど変化がないのに、もっと鋭角的で明晰な、近代的で緻密な音質に変わっている。こういうところにも、タイプの分類からは説明しきれない国柄や風土の問題を聴きとることができる。
 オルトフォン自体も、初期のSPUと現在のとくらべると、音の解像力が一層向上し、歪みも減少している。反面、旧型のもう少しおっとりしたあたたかな肌ざわりを懐かしむ声もないではない。とくにSPU以後、SLシリーズという別の音──もっと現代的な、シャープな解像力を加味したクールで細身の音──が生れているのだから、SPU自体は、できれば旧EMTのような、繊細な柔らかさとあたたかみの方向でまとめてくれてもよいのではないかと、これは私個人の勝手な希望を持っている。しかしそれにしても、SPUシリーズの厚みとコクのある音は、いまや貴重な存在で、数年前すでに書いたことだが、こういう音はもはやオルトフォンという一メーカーの製品であることを越えて、ひとつの文化ともいえる存在になっていると私は思う。この音は絶対になくしてはならないと思う。EMTもまた同様である。
 製造に手間のかかるMC型を嫌って、オルトフォンはその後IM型に手を出した。初期の製品は、SPUやSLシリーズのあの秀才型の音にくらべてあまりにもでくのぼう然とした鈍い音がして私は好きになれなかったが、VMS20E以降は、SPUタイプの音をIMで仕上げたとでもいったニュアンスが聴こえはじめて、SPU-G/Tの重量(約31~32g。市販のアームでは使えないものが多い)やSPU-Gのトランスの問題などでためらう人には、ぜひとも奨めたいカートリッジのひとつになっている。
 オルトフォンについて少しばかり書きすぎてしまったかもしれないが、B&Oもまた特異な存在といえる。旧SPシリーズの頃から、腰の坐った強靱な、しかしナイーヴな音の魅力で愛用していた。いまSP15を経て、MMC3000、4000、6000等の新しい製品が揃ったが、新しい製品になるにつれて、強い個性がおさえられ、ナチュラルな音質に仕上がってきている。ある意味ではSP15を含めて旧製品の方が、類形のない特徴のある音に魅力があったともいえるが、しかしそうした強いキャラクターをおさえて自然な音に変わってゆくのは、なにもB&Oだけのことではなく、世界的なオーディオの傾向に違いない。そしてB&Oの音が自然と書いたけれど、やはりそれを他の国のカートリッジの中に混ぜて聴くと、北欧の空のあのいくらか暗いクールな感じが、たしかにB&Oやオルトフォンからは聴きとれる。それがオルトフォンのSLシリーズやB&OのSP15のように、高域のやや上昇ぎみの、ふつうならキラキラと華やぐ傾向になりがちの部分でさえも、北欧の冬の太陽のあの白っぽい光のようで、まぶしくなく、エキサイトした感じにならず、しかもイギリスや日本のような線の細いところがなく、ドイツのあの透明で硬質な光沢とも違う。やはり生れた国の音はあると思う。
■アメリカ。なぜ西海岸にはカートリッジメーカーが出てこないのだろう?
 東海岸(イーストコースト)のカートリッジの音の大まかな特徴は前にも書いてしまったが、いうまでもなくその音は、ARやKLHや、アドベントやボーズやボザークなどのスピーカーの鳴らす音と本質において全くおなじだ。スピーカーの音の特徴については、本誌36号(「現代スピーカーを展望する」)にくわしく書いたが、世界的にみてアメリカ東海岸は、高域の、ことにハイエンド高域のごく上の方)の強調感をことに嫌う。たとえばKLHの新しいスピーカー “Classic four” の背面にトゥイーターレベルを二段に切替えるスイッチがついている。そして一方にFLAT、他方にNORMALと書いてある。測定しても聴いてみても、この “NORMAL” ポジションは高音をいくぶん下降させている。日本人やヨーロッパ人の感覚なら、そしておそらく同じアメリカでも中央部から西海岸にかけてなら、FLATのところが即NORMALであるはずだ。ところが東海岸では、FLATをNORMALとは感じない。前記36号ですでに紹介ずみの話だが、この一例は東海岸の音の感覚を実にみごとに説明してくれる。
 ADCやエンパイアの、それもADCなら現在のXLM以前の、エンパイアなら1000ZE/Xまでの各モデルの音に、私がどうしても馴染めなかったのは、なにしろ高音域が全然延ぴていないようなナロウレインジに聴こえたからだ。実際に測定してみると特性はむしろフラットなのだが、特性とは別に聴感上は高域が落ちて聴こえる。やはり東海岸の製品なのだなあと、つくづく感じさせる。
 ADCがスーパーXLM/IIになり、エンパイアが4000D/IIIになって、周波数特性上は目立った変化はないのに、聴感上は、はるかに高域が延びてきた。私の耳にもそれで一応なじめるようになって、以前よりはずっと本気で聴き込みはじあた。すると、前にも書いたような、ジャズやアメりカンポップスのある部分──ヨーロッパや日本のカートリッジではウェットになったり柔らかくなりすぎたり、妙に音をこまかく鳴らしすぎたりして不満のある部分──が、ADCやエンパイアやスタントンだとうまくゆくことが少しずつ理解できはじめた。
 しかし、そうだということは、裏がえしていえばアメリカ東海岸のカートリッジの鳴らす音が、ヨーロッパや日本のカートリッジとくらべると、それほど違うという説明になる。明るく乾いた肌ざわりで音を細かく拾うよりはもっと大きく掴んで、音を輪郭で描くよりもっと即物的に鳴らしてゆく。これは私の個人的な偏見として頂いてかまわないが、アメリカ東海岸の鳴らす音は、いまや世界的なオーディオの流れの中でむしろ特異な存在だと、私には感じられる。二~三の例外的なメーカーの製品を除いて、そう思える。
 例外的な存在をカートリッジに限って探してみれば、最近のピカリングのXUV4500Qなどはどうだろう。このカートリッジは、東海岸にはめずらしく、高域に硬質で線の細い強調感があって、それはドイツの音に一脈通じるかのようでさえあるが、ただしかし本質的に音の乾いている点は明らかにイーストコーストの音だ。だが少なくとも音のバランスと輪郭の面で、ヨーロッパや日本のある種の製品が鳴らすようなシャープな切れ味を持っている点がこれまでの東海岸の音と違っている。
 それにしても、ADC、エンパイア、ピカリング、スタントン等の製品のどれをとっても、私にはクラシックを鳴らせるカートリッジだという実感は湧いてこない。クラシックを鳴らすためには、音が乾いていては困るのだ。こう見事に余韻のこまやかさを断ち切ってしまっては困るのだ。その裏返しの意味で、ジャズやポップスを鳴らすとき、かけがえのないカートリッジとしてイーストコーストの中から私は選ぶのである。
     *
 同じアメリカでもシュアーとなると話は少し違ってくる。いや違っていたと言うべきだろう。シュアーはイリノイ州にある。大まかにいえばエレクトロボイスや3Mと同じくミシガン湖をはさんだアメリカ中央部である。スピーカーでいえば、東海岸が高域の強調を嫌うのに対して西海岸側ではむしろ逆に、しかも新しい製品になるにつれて高域を延ばしあるいは強調する作り方をしている。その両極にはさまれてE-V(エレクトロボイス)は、昔から最も穏健な音を鳴らしていた。
 シュアーの音にもそういう面があった。M3からV15のタイプIIにいたるシュアーの歩みは、アメリカの中ではむしろヨーロッパ的とでもいいたいような、ことさら際立った特徴もないかわりに極端に走らない良識に裏づけられた音の良さがあった。しかしV15はIII型になってから、すこし音の方向を変えたように思える。
 V15/IIIの音を研究してみると実に興味深いことがわかってくる。シュアーはおそらくこれを計画するにあたって、現時点で世界的に普及しているブックシェルフ型のスピーカーを中心としてアンプその他の周辺機器を、かなり正確に調査しその性能を見きわめたのではないだろうか。というのは、V15/IIIをそういうクラスの装置に組み合わせると、解像力の良い鮮度の高い音で、なまじの高級カートリッジからグンとかけはなれたグレイドで装置を生かす。それは繰り返しになるが、シュアーが、カートリッジ単体として性能を向上したのではなく、現代のオーディオ再生の平均水準を確かに掴んで、そのトータルとしてのカートリッジの設計に成功したからだと思う。その点に私は、V15/IIIの人気の秘密があると思う。いわゆる商品計画のうまさを、これくらい見せつけられる製品は少ないと思う。
 ただ、私個人はタイプIIIを常用カートリッジの中には加えていない。私の装置は、本誌38号にも紹介されたようにスピーカーがJBL#4341。プリアンプがマーク・レビンソンLNP-2。パワーアンプはその後SAE#2500に変わっている。という具合で標準にはならないからこれは全く私個人の主観であることをお断りしておくが、たとえば弦や木管や女性ヴォーカルの、ふくよかさ、しっとりした艶、あるいは余韻の消えてゆくときのデリケートなニュアンスを、EMTとオルトフォンSPUは別として同格のMM、IM系でも、オルトフォンVMS20EやエラックSTS455EやB&Oやデッカの方がつややかに、潤いをもって鳴らす。逆にジャズやポピュラーのドラムス、パーカッションそして金管やヴァイブやベースの、太い響き、乾いた躍動感、切れ味の鋭さなどなら、エンパイアやADCやスタントンやピカリングが、それぞれにうまく鳴らしてくれる。
 概してヨーロッパのカートリッジが弦やヴォーカルそしてクラシック全般を、そして東海岸(イーストコースト)が金管や打楽器を中心にポピュラー系を、それぞれ最善に鳴らす反面、互いにその逆の傾向の音楽には弱みをみせる。
 そういう意味では、シュアーというカートリッジはV15にかぎらず一貫して、音楽のジャンルの区別なしに、どの傾向の音楽でもどんな編成でも、それなりにうまく鳴らすことを目標にしていると思う。これは正道であり立派なことだ。ただ、現在の私の装置では、右に書いた各種のカートリッジがそれぞれに適所を得て最高の能力を発揮したときの最良の音に、シュアーの平均的再生能力ははるかに及ばないように、私は思うのであえてV15/IIIを鳴らす必要を感じないのだ。ある意味ではタイプIIや、それ以前のつまり最初のV15の方が、弱点もあったが音の品位や魅力では一段上だったように、私には思える。
     *
 アメリカのカートリッジを語る上では、ここでどうしても西海岸に目を──といいたいところだが、なぜか西海岸には、アンプやスピーカーの名器はいくつもあるのに、カートリッジのメーカーが全くない。これは私にとって大きな謎のひとつだ。西海岸の連中がレコードを聴かないわけではない。レコード会社だってないわけではない。どうしてカートリッジが生れないのだろうか。
 現実には、西海岸のオーディオマニアは、アメリカや日本の、すでにあげた製品をそれぞれに選んでいる。おもしろいことに、スタックスやスペックスの評判がかなり高い。オルトフォンやEMTといっても名前さえ知らない連中が多い。ヨーロッパの製品はアメリカ西海岸までは出回りにくいことを知らされて意外に感じる。それにしても、なぜ、カートリッジができないのだろう。JBLみたいな音のカートリッジが、一個ぐらい生まれないものだろうか。

5 結局、一個または少数のカートリッジに惚れこんで
それを徹底的に生かすくふうをすることではないか……

 どう論じようと現実に、カートリッジを二個聴きくらべれば音色が微妙に変わる。買いかえやすいパーツであるだけに、ほとんど誰もが、最初の一個に間もなくもう一個を加える。聴き馴れたレコードの音が微妙にあるいは相当大幅に変化し、カートリッジの交換だけで自分のアンプやスピーカーの別の面が抽き出されることに驚き、やがて次々とカートリッジを買い足すことになる。私自身もそうして年月を重ねて、いま、モノーラル時代のそれを別としてステレオ用になってからでも、正確に数えてないが百五〇~六〇個以上のカートリッジのほとんどが、いつでも鳴らせるようにヘッドシェルにつけられ待機している。始めに書いたオルトフォン/SME型コネクターの普及によって、どのカートリッジでも、いつでも差し換えて鳴らせる。中にはもう数年以上鳴らさないで、コネクターの接点の錆ぴついているのがあるが……。
 しかし私の性分をいえば、カートリッジやアンプやスピーカーは、仕事でテストするときを除いてはできるかぎり切換えたくない。少なくともレコードを楽しみはじめたら、このレコードはどのカートリッジ、どのアンプ……などと切換えることを考えていると、せっかくの音楽もたのしめなくなって、結局音の方ばかり気になってしまう。だから私は、自分の楽しみのときにはカートリッジをやたらに交換するのは嫌いだ。レコードジャケットの裏に、このレコードは何のカートリッジ……とメモを書いていろいろ交換する、という人の話を聞いたことがあるが、私にはそういう趣味がない。
 何度も書いたように、私の常用は数年前からほとんどEMTとオルトフォンSPUだが、EMTのファンとして、蛇足を承知でどうしてもつけ加えておきたいことがひとつある。最近ではいくつかの機会に測定データが公表されて知られているように、EMT・TSD(およびXSD)15の周波数特性は、10kHz近辺から高域にかけてかなり目立った上昇をして、20kHzでは6ないし8dB以上の増加を示す。したがってこれを、ふつうのRIAAのカーブでイクォライズしたままでは、高域端の過剰な、弦のオーヴァートーンや子音に金属質の強調感のある、またシンバルの高音の妙にささくれ立った、不自然でクセの強い音に聴こえがちだ。しかしTSD15を、同社のスタジオプレーヤーシステム#930または#927シリーズに内蔵されている#155stイクォライザーを通して測定すると、高域はほぼ完全に、ほんとうの意味でイクォライズされて、20kHzまで±2dB程度に(カートリッジ自体にバラツキがあるので)収まった平坦な特性になって出てくる。私がEMTの音……と言うのはこの専用イクォライザーを(といってもこれ自体では使えないので、結局930または927プレーヤーシステムを)通した音のことであって、TSD/XSD15を裸のまま特性で使わざるをえないときは、アンプの方で高域をわずかに下降させたり、トゥイーターのレベルセッティングをやり直す必要さえ生じることがある。むろんこれはEMTだけの特例ではなくて、どんなカートリッジであっても、このように特性上の補正を加えて聴くのが理想なのだ。
 かつてステレオの初期の時代に作られたアンプは、その大半が入力にTAPE・HEADというポジションがあった。一九六〇年代半ば頃までのアンプをお持ちなら、入力セレクターにその表示があるはずだ。当時はテープデッキの再生ヘッドを、そのままアンプの入力に接続することを考えていた。
 ところが、テープヘッドはデッキによってその特性がバラついていて、とても一本の再生補正特性ではイクォライズできないことから、次第に、デッキ側にヘッド特性を含めて補正するイクォライザーを組み込むことが常識になった。
 カートリッジの周波数特性は、テープヘッドよりは相互の偏差は少ない。ましてテープスピードに応じてイクォライザーの特性を変えるなどの問題がない。しかし現在のように、RIAAのイクォライザー特性の偏差を0・1dBのオーダーで論じるような精度になってきてみると、それにくらべてカートリッジ側の2ないし6dB以上、ときに10dB以上にも達する特性の偏差は、とうてい無視できない大きなバラつきといえるのではないだろうか。そういうオーダーでものを考えてみると、本当は、レコードプレーヤーの内部にイクォライザーアンプが組み込まれて、それにはカートリッジの特性の偏差を補正できるようなトリミング調整回路がもうけられていて、カートリッジの特性込みでRIAAに対してフラットに補正してAUXライン相当のレベルで送り出してくれる(EMTのスタジオプレーヤーがそうなっているが)ようになることが好ましいという理くつになる。
 そうはいっても、現在世界的に普及してしまったシステム──カートリッジの出力はレコードプレーヤーから送り出されてアンプに内蔵されたRIAAの(カートリッジの特性に無関係の)イクォライザーで再生する、というこの方式を、急に変えることは事実上困難をきわめる。それならせめて、これからのアンプのイクォライザー回路に、カートリッジの特性偏差に対するトリミングコントロールが組み込まれることが望ましい。
 そんなことを考えてゆくと、こんにちのように、カートリッジがきわめて自由に、かつ容易に、交換できるようになってしまったこと自体にも、一端の問題があるように思えてくる。そしてその原因となったのが、はじめに書いたオルトフォン/SMEのこの便利なコネクターの普及であったというのは、何とも皮肉な現象だ。
 ──とここまで書いてきて、おや、私はカートリッジの交換を暗に否定するような話をしているのかな、と気がついた。そうではない。カートリッジを交換して音が変わるのは、実に楽しい。私だって、新しいカートリッジが発表されるたびに、こんどはどうか、こんどこそきっと……という気持で買ってくるじゃないか。やっぱり、新しいカートリッジを加えることは楽しいことなのだ。けれど、その交換の手軽さに寄りかかるあまり、カートリッジ一個、十分にその本質を抽き出さないで捨ててしまうことがあるのじゃないか。そのことを云いたくて、イクォライザーの問題点に、最後にちょっと触れておきたかったのだ。

実感的スピーカー論

瀬川冬樹

ステレオサウンド 36号(1975年9月発行)
特集・「スピーカーシステムのすべて(上)」より

 オーディオ機器の鳴らす音が──レコードの録音の採り方を含めて──この一~二年を境に、その流れを変えはじめている。世界的にみて、そう言える。明らかにひとつの転換期を迎えていることが、はっきりと現われてきている。そういう新しい流れを知らずに聴けば、あるいは、過去のオーディオやレコードの音に馴らされた耳で聴いたのでは、正当な評価のできにくいスピーカーが、カートリッジが、アンプがそしてレコードが、新しい音の一群を形成しはじめている。むろんそういう音は、数年以前から芽生えとしては存在していたのだが、それがはっきりした一つの方向として世界のオーディオの流れの中に定着しはじめたのは、ここ一~二年のあいだのことだと言ってよい。そうした新しい音を、結果として好きになれるかなれないかは別として、ともかく、オーディオ機器やレコードが新しい音を聴かせはじめていることを、知っておく必要が生じている。

1. 
プログラムソースに盛り込まれた音楽をそのまま再生するのがスピーカーの理想
けれど現実はそうならない……

 オーディオ装置の中で、スピーカーがいちばんの難物といわれ、またそれたからこそスピーカーを選ぶことが自分の理想の音をついに鳴らせるか鳴らせないかの成否を握るともいわれる。いったい今までに何百種類のスピーカーを聴いてきたかわからないが、あるスピーカーの鳴らす音はほかのスピーカーでは決して鳴らない。同じ音は二つとない。同じメーカーの製品でさえ、型番が違えば決して同じ音は鳴らさない。そのメーカーの、もっと広くとらえればその国の風土の音、とでもいえるひとつの傾向はあっても、二つならべたスピーカーが同じ音で鳴ったなどという経験はただの一度もない。
 それだから、スピーカーは結局は好みさ、と言われる。結論的に言ってしまえば全くそのとおりだ。けれどそれは、好みだから各自勝手にどんな音で鳴らそうが知っちゃいない、ということとは少し違う。現実には同じ一枚のレコードを百種類のスピーカーで聴けば百通りの違った音色で鳴る。しかし少なくとも、スピーカーはこうあるべきだ、という理想のようなものはある。そういう理想を言葉で言ってみれば、現実の製品たちの音の多彩さよりもはるかに、目標は狭いひとつの方向に絞られてくるはずだ。それは、スピーカー自体の音色というようなものはできるかぎり排除して、プログラムソースに盛り込まれた音を、少しも損なわずにそっくりそのまま鳴らすような、いわゆる無色透明な音、になるべきだという理想である。
 アンプの場合は、スピーカーよりもその目標に近づくことは容易である。なぜなら、アンプはスピーカーのような電器→音響の変換メカニズムを持っていないから。そしてもうひとつ、スピーカーのように置かれる場所によって音が変わる、などという難しさがないから。
 ジュリアン・ハーシュというアメリカのオーディオ評論家の名は日本でも少なからず知られているが、彼は『ステレオ・レビュウ』誌のあるアンプのテストリポートの中で《まるで増幅度を持ったストレート・ワイアーのようなアンプ……》というおもしろい表現を使っている。これはそのままアンプのあるべき理想を巧みに言い表わしている。現代の──というよりこれからのアンプの大半は、アンプ自体で音色をつけ加えたり、逆に増幅する途中で何らかの信号を欠落させたりということのないような、つまりプログラムソースとスピーカーを〝増幅度を持ったワイアー〟で直結したような、そういう性能を目ざしているし、高級なアンプではそういう理想に相当のところまで近づいていると言える。
 スピーカーときたら、まだまだ理想にはほど遠い。けれど、スピーカーのエンジニアが、そういう目標をあきらめているわけではない。その証拠に、ここ一~二年のあいだに発表された世界各国の、少なくともある水準以上のスピーカーを比較試聴してみると、音色が違うといっても、少し古い時代のスピーカーにくらべればそのさがせばまっていることがわかる。
 それならこの先何年かたてば、スピーカーの鳴らす音は現在のアンプ程度には互いに似るようになるのだろうか? おそらくそうはならないだろう。そのことを説明するのは容易ではない。が、以下に述べるように、それを、スピーカーの目的と構成、気候や風土から生まれる民族性のちがい、時代の流れに応じた人間の感覚の変遷や技術の改革による改良、あるいは生活様式の相違から生じるスピーカーの形態やリスニングルーム内での問題など、いくつかの項目に分けて考えを進めて、現代のスピーカーの流れを整理しながら、スピーカーを選びあるいは使いこなすためのご参考にしたい。

2.
目的に応じてタイプの違いがある
目標を見さだめてスピーカーを考える

シアター用スピーカー
 コダックのカラーフィルムの発色の良さは世界的に知られている。それは映画の都ハリウッドが育てた色だといってもいい。そのハリウッドが、トーキーの発達とともに生み・育てたのが、ウェストレックスのトーキーサウンドであり、アルテックの〝The Voice of the Theater〟で有名なA7に代表されるシアタースピーカーである。世紀の美男・美女が恋を語るスクリーンの裏側から、広い劇場の隅々にまでしかも快いサウンドをサーヴィスするために、シアタースピーカーの音質は、人の声の音域に密度を持たせ、伴奏の音楽や効果音の現実感を損なわないぎりぎりの範囲までむしろ周波数帯域を狭めて作られている。大きなパワーで鳴らすことが前提のスピーカーの場合に、低域をことさら強調したり帯域を延ばしたりすれば、恋のささやきもトンネルで吠える化物になってしまうし、低音域のノイズも不快になる。高音もことさら延ばしたり強調すれば、サウンドトラックの雑音や歪みが耳障りになる。こうしたスピーカーが生まれたのは一九三〇年代で、その頃のレコードや蓄音機の性能からみればトーキーのシステムはワイドレンジであり高忠実度であった。けれど現在の高忠実度(ハイフィデリティ)の技純からみれば、シアタースピーカーはもはや広帯域とは決して言えない。しかしこのことから逆に、音楽や人の声を快く美しく聴かせるためには、決して拾い周波数レンジが必要なのではないということを知っておくことは無駄ではない。低音が80ヘルツ、高音が7~8キロヘルツ。この程度の帯域を本当に質の良い音で鳴らすことができれば、人間の耳はそれを相当に良い音だと感じることができる。
モニター用スピーカー
 同じアルテックにもうひとつの系列──モニタースピーカーがある。代表的なものは604E。正確な数を調べることは不可能だがおそらく、世界中のレコードのたぶん半数が、控えめにみても三割ぐらいは、この604シリーズでモニターされ、録音されていると思っても、たいして間違いはないだろう。
 シアタースピーカーが、音を快く聴かせることを大前提としているのに対して、モニタースピーカーは、それが快かろうが不快であろうが、マイクロフォンが拾った音をそっくり、できるだけリアルに、どんな細かな音の変化もそのまま鳴らす必要がある。言いかえればそれが本来のハイフィデリティ・スピーカーの条件だともいえる。シアタースピーカーは劇場のスクリーンの裏や、ステージの上や、ホールの天井近くに置かれて、広い空間に音を拡散するのだから、ホールの響きに助けられてしぜんに柔らかな響きになるが、モニタースピーカーは、狭いミクシングルーム内で、ミクサーに近接して置かれるのだから、ほとんど直接音を聴くことになる。そういう状態で細かな音を聴き分けながら、トーキーの、レコードの、あるいは放送のための、プログラムソースが仕上げられるのである。
プロ用スピーカーと家庭用スピーカー
 モニター用とシアター用とを総括して、一般にプロフェッショナル用スピーカーと呼んでいる。ではこれに対する家庭用のスピーカーというものは、プロ用とどこが違うのか──。
 家庭用のスピーカーといっても、後でこまかく分類するように、さまざまのタイプがあるが、プロ用のスピーカーと家庭用とを対比させてみると、ひとつは耐パワー、もうひとつは長期に亙る耐久性または安定性、という二つの問題に絞れる。本質論としてはこの点でプロ用と家庭用に差があるべきではないが、しかし少数の例外的存在を別とすれば、プロ用のスピーカーは、一般の人の想像以上の大きな音量で鳴らし続けてもビクともしないタフネスさと、しかもその性能を長期間保ち続けることが大きな条件になる。
 レコードの録音に立会った経験のある人は、多くのミクサーが、一般の感覚ではとても耐えられないような大きな音量でモニターしているのを聴いてびっくりする。むろんプロの誰もがハイパワーで鳴らすわけではない。たとえばスイスのレコード〝クラーヴェス〟の録音エンジニアであり歌手であるJ・シュテンプフリのレコードセッションに立会ったとき、彼が多くのミクサーと正反対に非常に小さな音量でモニターしているのをみてびっくりしたが、そのシュテンプフリでさえ、アルテックの604を「ナチュラルな音を出すということでなく(その点では他にさらによいスピーカーがあると思う)たいへん丈夫だから」と語っている(本誌34号414ページ参照)。この、ナチュラルな音……云々のところは重要なのだが、そのことは別の項で明らかにしよう。
家庭用スピーカーを分類してみる
 いまあげたシアター用にもスタジオモニター用にも属さない、いわゆるプロ用でない音楽再生用スピーカーのことを、漠然と《家庭用》スピーカー、とよんでいる。アメリカなどでは、プロ用・家庭用といわずに《コマーシャル・ユース》と《コンシュマー・ユース》などと呼ぶ。
 コンシュマー用のスピーカーは、歴史的な流れをさかのぼってゆくと、前記のシアター用から派生したものと、モニター系のスピーカーを家庭用にアレンジしたものと、そしてはじめからラジオあるいは電気蓄音器用として設計され発展してきたもの、の三つの流れに集約される。
a、シアター用から派生したスピーカー
 たとえばアルテックの〝ヴァレンシア〟などに代表される一連の家庭用スピーカーは、ゆにっとそも野はシアター用をそのまま流用したといってよく、これなどは明らかにシアター系列の音質であることがわかる。これ以外に製品を探すと、イギリス・ヴァイタヴォックスのCN191や〝バイトーン・メイジャー〟に使われているユニットは、ウェストレックス/アルテックの設計をそのまま踏襲しているし、アメリカではJBLやエレクトロボイスの一九五〇年代の大型スピーカーシステムにシアター系の製品がある。現在でもアメリカ・クリプシュの製品一部にその流れがある。
b、モニター系のシステム
 タンノイのユニットが、源をたどればウェストレックの設計をモディファイしたものであることは明らかで、ディテールは違うがアルテック604系のユニットといわば親せきの間柄ともいえる。
 イギリスにはもうひとつ、BBC放送局が一九五〇年代に完成した放送用高忠実度モニタースピーカーの資料にヒントを得て発展しつつある。アメリカ系のモニタースピーカーとは全然別のモニター用の源流があり、現在ではKEFのリファレンスシリーズ(例♯105)やフェログラフ、スペンドール等の製品にその流れが反映している。
c、快い音質のスピーカー
 イギリスという国は、世界のスピーカー開発の流れの中でみても、高忠実度(ハイフィデリティ)スピーカーを作ることに最も熱心な国といえる。一九五〇年代にすでに、イギリス音響学会その他で、ハイ・フィデリティに対して真剣な討議がくりかえされていた。そして高忠実度の再生に対応する《グッド・リプロダクション》という概念を定義した。要約すれば、ハイ・フィデリティの再生は、必ずしも常に快い音質を供給するとは限らない。プログラムソースにアラがあればそのまま再生してしまい、かえって不快な音を聴かせることもある。したがって一般家庭用の音響再生は厳密な意味でのハイ・フィデリティであるよりも、むしろ快い音質を提供するようにくふうすべきである。それは原音を歪めるということでなく、むしろ原音の内から不快な要素を取除き、しかも原音のうちからいわばエッセンスをとり出して、聴き手が常に快い感覚を生じるような音質に仕上げることが大切で、それをイギリスの音響関係者は《グッド・リプロダクション=快適な再生音》と呼んだ。この、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションという言葉を別の言い方に置きかえてみると、たとえばモニター的な音に対してグラモフォニックな(上等な蓄音器の鳴らすような美しい)音、ともいえるし、あるいは特性本位の作り方に対して個性で聴かせる作り方、ともいえる。
d、ブックシェルフとフロアータイプ
 一九五五年にアメリカのARが完成したAR1以来、いわゆるブックシェルフ型のスピーカーが世界的に次第に注目を集め、現在ではこの形がスピーカーの主流とさえ、言われるようになった。しかしそのことは、ブックシェルフというタイプが最も優れた音質を持っているという意味ではない。ブックシェルフという形は、経済的な面(材料のコスト、流通のルートに乗る際の輸送の費用から販売店の売場占有面積、さらにユーザーの家庭で占めるスペースまでを広く包括した)からみて、価格の安い割には良い音の製品が作りやすい、という事情からこれほどまでに普及した、と考えるのが正しいと思う。
 たしかにある一時期は、ブックシェルフ型の高級機が、音質の面でもフロアータイプを追い抜くかにみえたこともあったが、価格やスペースファクターなどの制約の枠をもしも外して比較すれば、本格的なフロアータイプのスピーカーは、スケール感あるいは楽々と余裕を持って鳴る感じ、という点でブックシェルフのどうしても及ばない良さを聴かせる。ブックシェルフ型のスピーカーは、例外的なほんのわずかの製品を除いては、結局、価格とサイズとの制約枠の中でだけ、論じることのできるタイプだと断言できる。
 ARの発案者E・ヴィルチュアによれば、ブックシェルフタイプというのは、もともとは、小型に作ることが目的だったのではなく既製の大型スピーカーで不満であった低音の再生をより良くしたい、というところから生れた形であったそうで(本誌10号の岡俊雄氏の解説による)、そしてたしかに、出現当時のおおかたのフロアータイプにくらべると低音特性は優れていた。しかしブックシェルフ型の発展によって逆に、フロアータイプにもまた、低音の再生に対していろいろな面から改良の手が加えられた。その結果は、音質の面から比較するかぎり、本当に良く設計されたフロアータイプは、音のスケール感やゆとりの面で、最高のブックシェルフでも及ばない音質を聴かせてくれる。だから価格やサイズの制約を外して本当に良い音質を望むなら、やはりどうしてもフロアータイプの中から選ぶべきであり、そういう意味でブックシェルフ型は、要求水準の高いリスナーにとっては、サブ(セカンド)スピーカーでしか、ありえないともいえる。
e、その他の形状──拡散型スピーカーなど
 最近になって主にアメリカで目立つ傾向のひとつに、オムニディレクショナル・タイプあるいはそれに類するタイプが増えていることがあげられる。従来のスピーカーの多くが、キャビネットの一面にユニットを集中させて一方向にのみ、音を放射していたのに対して、キャビネット周囲または後方にも音の一部を放射しようというタイプで、無指向性、などとも呼ばれる。数年前にアメリカのBOSEがこのタイプを発表した頃の一時期、少し流行しかけて一旦下火になっていたものが、最近になって再びとりあげられはじめた。エレクトロボイスのインターフェイスAや、インフィニティ、また意図は別として結果的にはESSなども、スピーカーの置かれる壁面に向かって中~高域が放射されるので、壁面からの反射音を計算に入れて設置を研究する必要がある。
 このタイプは、まだ日本に輸入あるいは紹介されていないものを含めると、アメリカ製品にことに顕著だ。後面放射型でなくとも、前面だけでも広い角度にユニットをとりつけるアイデアは、ARのLST、MSTや、新しいメーカーALLISONなどにもみられ、明らかにアメリカでひとつの流行になりはじめていることがわかる。しかし日本の場合は住宅の構造など考えると、有効な反射面が確保しにくいという制約から、これら拡散型のスピーカーは、アメリカほど普及はしにくいと思う。別項で後述するように、壁面の反射の助けを借りるタイプのスピーカーは、逆にまた壁面の反射音でスピーカー本来の音質を損なうケースもあるため、わたくし個人としては難しいシステムだと考えている。
     *
 右のような各種の分類をしてみたが、しかし現実にはスピーカーの音質あるいは音色そのものが、最大の関心事である。したがってその面をもう少しいろいろな角度から研究してみることにしよう。

3.
スピーカー音色には、それを生んだ風土や民族性が反映される
その地方独特の音の感覚があることをKLHのスピーカーが自ら物語っている

 KLH(アメリカ・ボストン)の新型スピーカー、〝Classic Four〟の背面にトゥイーター・レベルの切替スイッチがついている。この2段切替スイッチの表示の、一方にFLATと書いてあるのはふしぎではないが、スイッチを下にさげて高音を多少落しかげんにセットする側のポジションに、なんと〝NORMAL〟と書いてある。
 アメリカ東海岸で作られるスピーカーは、世界的にスピーカーの音質を広く展開してみる中でも、概して高音をなだらかに落して作る傾向のあることは、いままで測定されたいろいろなデータからも読みとることができる。また、日本のスピーカーを輸出した場合、高音がやかましいとかカン高いとか、ピッチが上るみたいだなどと評されるのも、アメリカ東海岸であり、そういう音を〝ジャパニーズ・トーン〟などと彼等は呼ぶ。
 高音をやや落したポジションを〝NORMAL〟と書いて〝FLAT〟と区別する、というKLHの製品そのもが、彼等の音の感覚をそのまま説明しているようなものだが、むろんこれはKLHだけの特例でなく、ARやボザークやエンパイアなど、東海岸で作られるスピーカーの多くの傾向なのである。
 このように高音をおさえる音の作り方は、現在の世界のスピーカー作りの流れの中ではむしろ異質とさえ、いえるのであり、逆にいえばこのアメリカ東海岸の音の好みは、いまやひとつの地方色として目立ってきている。
 こういう音は、例えば日本の家庭で音量を落して鳴らすような場合には、いかにも反応の鈍いような、ディテールの欠落したつまらない音、バランスの悪い音になってしまうが、逆に大出力アンプで思い切りパワーを送り込んで鳴らすと一変して、力強く腰の太い、明るく乾いた肌ざわりで気持のいい音を聴かせる。
アメリカは西にゆくほどハイ上がりに作る傾向がみえてきた。
 アメリカのスピーカーメーカーを地域的に大別すると、いま述べた東海岸に対して、ミシガン湖の西側から南下しながらアメリカ中央部のスピーカー、たとえばエレクトロボイス、ジェンセン、クリプシュなどの一群と、カリフォルニアを中心としたアルテック、JBL、それにインフィニティやESSなどの新顔グループの西海岸の一軍とに分けられるそしていま東海岸のスピーカーが高音をおさえていると書いたが、おもしろいことにアメリカ中央部のスピーカーにはそういう傾向があまり目立たずに全体としてフラットな感じに作られていて、それが西海岸にゆくと、こんどは東側と正反対に、トゥイーターをチリチリと利かせるくらいにハイ上がりに作るという傾向をみせはじめる。
 少し前まではアメリカ西海岸といえども、シアターあるいは古い世代のモニタースピーカーをベースとして、ハイを強調するような音はつくっていなかった。ところが三年ほど前、JBLがプロフェッショナル部門を作り、スーパートゥイーター♯2405を発表したころから、JBLのコンシュマー用の新しいジェネレイション〝ディケイド〟シリーズをはじめとしてESSやインフィニティや、エレクトロリサーチなどの新興メーカーが、総体に高域を延ばしながら強調する傾向に方向を変えはじめた。
 スーパートゥイーターで10キロヘルツ以上の高域を延ばしあるいは強調するという作り方は、日本やイギリスには割合古くからあったが、アメリカ場合数年前までは、スーパートゥイーターと名付けられた製品はあっても、日本やイギリスのそれとくらべるとはるかにレインジのせまいユニットであった。本当に20キロヘルツ以上まで特性の延びたトゥイーターが作られしかも使われはじめたのは、ほんのここ一~二年のことだ。そしてもうひとつおもしろいことには、日本がかつてトゥイーター、トゥイーターとさわいでいたころ、藤原義江だったか、トゥイーターというヤツはシャシュショとしか言わん、と言ったとか言わないとか、ともかく、ここにトゥイーターがついているぞ! と言わんばかりに、ハイを強調して妙にささくれ立った音を出していた例が多かったあの頃の音を、いまになってアメリカ西海岸のスピーカーが作っては喜んでいるように、わたくしには思える。JBLのL36や、インフィニティのウォルシュ・トゥイーターなど、いかにもシーシー、ヒーヒーとトゥイーターを鳴らしすぎである。やつら、いまごろになってようやく、スーパートゥイーターに開眼したな、と半ばおかしくなってくる。しかしそのJBLも、プロ用のモニタースピーカー、例えば♯4333や♯4341あるいは♯4350クラスになると、さすがにくこなれた使い方で、本物のスーパー・ハイの延びた、デリケートで臨場感に富んだ音を聴かせるのだから、コンシュマー用でのそういう作り方は、多分に、近頃の西海岸の新しいユーザーを念頭に置いた作り方なのだろうと思う。
アメリカの音とヨーロッパの音
 アメリカという国を大きく三つの地域に分ければ、ともかく右のような傾向が聴きとれる。なにしろボストンとロサンジェルスとで、時差が3時間もあるという広大な国だ。しかもボストンは緯度でいえばほぼ札幌、ロサンジェルスは福岡。北と南のちがいもある。南下するにつれて音が明るくシャープに輝いてゆくのも理由のあることだ。むろん、これをさらにメーカー別にみれば、もっと細かなことも論じられる。が、あまり枝葉を論じるとかえって森全体を見失う。この辺で再び目を世界に転じることにする。
 アメリカとヨーロッパを大きく対比させてみると、ヨーロッパの音には繊細な余韻の美しさと、どこかウェットな面が聴きとれるのに対して、アメリカの音はスピーカーに限らずアンプもカートリッジもテープデッキもマイクロフォンも、さらにレコードの音まで含めて、ヨーロッパの音にくらべて決定的に乾いて聴こえる。
 たとえばJBLやインフィニティのような、ハイを強調した明るく輝く音にくらべれば、ハイをおさえたKLHやARの音はウェットに聞こえそうに主る。けれど、なぜかARにもKLHのとにも、ヨーロッパの音がほとんど先天的に備えている余韻の美しい響きが欠けている。光にたとえていかば、東海岸のそれは人工光線の、しかしタングステンの光であり、西海岸のはフラッシュまたは太陽光線だが、いずれも正面からのベタ光線で、陰の部分、裏の部分はおろそかにされる。ヨーロッパの音はときとして曇り空からさす一条の太陽光、それでなければ木漏れ日といった感じだが、それらの光が陰の部分を美しく隈どって、またそのことが逆に光の美しさにも気づかせるといった感じではないかと思う。スピーカーの鳴らす音ばかりでない。カートリッジにも、その他の音響機器の鳴らす音すべてに、そしてレコードの音に、アメリカとは違う響きがある。どう否定しようとしても、このことだけは理くつでなく耳の方が聴きとってしまう。
 アメリカとヨーロッパのこういう違いが、たとえばアメリカのスピーカーはクラシックを満足に鳴らせない、とか、逆にヨーロッパのスピーカーの鳴らすジャズは弱腰でウェットすぎて話にならない、というような表現になるである。それはしかしあくまでも一般論で、アメリカのスピーカーの中にもクラシックの余韻を、満足とはいかないまでもある程度までは聴かせるとがあり、ヨーロッパのスピーカーの中にもジャズをそれなりに聴かせるスピーカーがある。そういう話はこの先さらに具体例をしげながら補足してゆく。
イギリスのスピーカーの流れ
 アメリカの西海岸が、近頃になってスーパートゥイーターでハイを強調しはじめたのに対して、イギリスはもっと以前から、ハイを強調する作り方をしていた。ただしアメリカで強調するハイは中域の張った輝かしい、まぶしいほどの音であり、イギリスのそれは中域のやかましさをむしろ抑えこみすぎるほど押えた柔らかな中域のところへ、非常に繊細な、線の細い高域をつけ加えるものだから、へたをすると腺病質的な、何とも奇妙なバランスで鳴らすことがある。少し前のKEFや、B&Wの一部のスピーカー、その他にそういう音があった。最近の製品ではたとえばグッドマンの〝アクロマット400〟などである。
 イギリスのスピーカーが日本に紹介されはじめた一九五〇年代に、最初に入ってきたのがグッドマンとワーフェデールで、当時としてはバランスの良い、いかにもイギリス人の良識で作られた音を鳴らしてきた。しし今思い起してみると、どちらの音にも、やはりハイをいくらか強調したイギリス独特の音色があった。
 やがてタンノイの評価が高まり、だいぶ遅れてヴァイタヴォックスが輸入された。グッドマンやワーフェデールがもともと家庭用のコーンスピーカーの設計から発展してきた製品であるのに対し、タンノイは先にも述べたようにウェスターン・エレクトリックからアルテックの604に受け継がれた同軸型モニターの系列であり、ヴァイタヴォックスは同じくシアター系列の、それぞれ家庭用のヴァリエイションである。
 これらに続いて、数年前からイギリスの新しい世代のスピーカー、KEFやB&Wやスペンドールやフェログラフなどの新顔が少しずつ入ってきた。その新顔たちにまず顕著だったのが、先にも書いたハイの強調である。B&WのdM2など、13キロヘルツから上にスーパートゥイーターをつけて、あくまでも高域のレインジを延ばす作り方をしている。この方法論はスペンドールにも受け継がれている。ハイを延ばすことの割合に好きなはずの日本でも、12~12キロヘルツ以上にトゥイーターのユニットを一個おごるという作り方は、かつてなかった。
 しかしレインジを延ばしたことが珍しいのであるよりも、その帯域をむしろ我々には少しアンバランスと思えるくらい強調した鳴り方におどろかされ、あるいは首をかしげさせられる。イギリス人の耳は、よっぽど高音の感度が悪いんじゃないかと冗談でも言いたくなるほど、それは日本人の耳にさえ強調しすぎに聴こえる。同じたとえでいえば、イギリス人は中音域を張らすことをしない。弦や声に少しでもやかましさや圧迫感の出ることを嫌うようだ。そして低音域は多くの場合、最低音を一ヵ所だけふくらませて作る。日本にも古い一時期、ドンシャリという悪口があったように、低音をドンドン、高音をシャリシャリ鳴らして、中音の抜けた音を鳴らしたスピーカーがあったが、イギリスのは、低音のファンダメンタルは日本のそれより低く、高音は日本より高い周波数で、それぞれ強調する。むろん中域が〝抜けて〟いたりはしない。音楽をよく知っている彼等が、中音を無視したりはしない。けれど、徹底的におさえこむ。その結果、ピアノの音が薄っぺらにキャラキャラ鳴ったり、サックスの太さやスネアドラムのスキンの張った感じが出にくかったり、男声が細く上ずる傾向さえ生じるが、反面、弦合奏や女声の一種独特の艶を麻薬的に聴かせるし、楽器すべてをやや遠くで鳴らす傾向のある代りにスピーカーの向う側に広い演奏会場が展開したような、奥行きをともなって爽やかに広がる音場を現出する。
 そうした長所も欠点も、そのまま併せ持ちながらも、中域の抑えすぎの弱点を改善して、全体に音域の強調感や欠落感を補整して、いわゆるフラットな感じに仕上げるようになってきたのが、最近の新しいジェネレイションのイギリスの、ことにBBCモニターの流れを汲む製品群で、具体的に名を上げればKEFのリファレンスシリーズのモデル104や出る5/1AC。スペンドールのBCII。IMFのモニター、ジョーダン・ワッツのTLSやセレッションの新しいシリーズ、あるいはモーダウント・ショート等々の新興勢力である。フェログラフのS1も、最近の製品は初期のにくらべるとずっと中域を充実させて鳴らすようになってきている。これらイギリスの新しい、フラットに作られあるいはその方向を目ざす製品群たちは、今後の世界のスピーカーの流れにさまざまの形で影響を及ぼしてゆくものと思える。
イギリス以外のヨーロッパ
 ドイツのスピーカー(音)は、昔から、カチッと芯のある硬質の艶、というように表現され、たとえばグラフォンのレコードなどにも、最近の録音はことにそういう音が顕著に聴きとれるようになってきた。スピーカーでいえば、ヘコーやブラウン。もっとさかのぼればシーメンスを上げてもそれは同じで、ヨーロッパ各国のスピーカーの中で、際立って硬質の、しかし緻密で艶のある音を鳴らしていた。いた、と過去形で書いたのは、ドイツのスピーカーの一部が、少しずつではあってもそのドイツの特長を捨てて、いわゆるフラット型の音質に向かいはじめたことが聴きとれるからである。中でも、これこそドイツの音、と我々に思わせていた硬派の代表ヘコーが、新しいシリーズではかつてのあの、ショッキングなほど張りつめた独特の音をすっかり捨ててしまって、たしかにオーケストラのバランスなど見事なものだがしかし、これといった特長のきわめて薄い、言いようによっては、こうなってしまったらヘコーをあえて採る意味のないとも思えるほどの音質に変ってしまった。デュアルのスピーカーにはヘコーほどの特色はなかったが、それでも傾向はヘコーの路線を同じくたどってきている。
 一般的に言って、スピーカーに限らず一地域の味、たとえば地酒の味のようなひとつの地域に固有の味も、それが各国に出荷されるようになるにつれて、少しずつ各地方の好みが反映されて、地酒特有の濃い味わいがうすれてゆくもので、これは日本の酒にも、またスコッチ・ウイスキーにもあらわれて、酒全体が万人向きの薄口、甘口に変ってきていることは周知の事実だが、スピーカーの世界もまた例外でなく、交易の盛んになるにつれて、音色もまたインターナショナルに、各国の特色が薄れて万人向けの音色あるいはバランスに仕上ってゆくものらしい。全体的にはこれは好ましい傾向であるには違いないが、地酒もまた、それでなくては味わえない完成度の高い独特の味わいがあると同じように、スピーカーもヘコーほど見事な地酒の味が、万人向けに変ってしまうのは何とも淋しい気持である。まあ、ブラウンがあるからまだいいが、現在のドイツという国をみていると、ブラウンの独特の味わいも、あるいはそう遠くない将来、インターナショナルに方向転換しないという保証はない。
     *
 限られた紙数でヨーロッパを説明するのはむずかしいが、この辺で目を北欧に転じると、たとえばB&Oやオルトフォン。ドイツよりはもう少し中音よりにやはり一種硬い音を持ち、しかしドイツのような目ざましい艶はなく、むしろ高域は抑えかげんで、どことなく暗い感じがする。これがオランダのフィリップスになると、ちょうどドイツとイギリスを足して割ったように、中~高域の輝かしい光沢が昔からフィリップストーンと呼ばれる独特の魅力で光っている。
 フランスの音には中~高音域の華やかさがある。こだわりのない、やや饒舌な感じの音質。キャバスのスピーカー。エラートの音質。あるいはシャルラン。フランスHMVあるいはディコフィル・フランセエ。レコードの音と、その国のオーディオ機器の鳴らす音は、たいてい共通している。
 そういう意味で今回興味をひいたのはハンガリーのビデオトン。このスピーカーのふしぎな音質を、わたくしは短い文章でうまく説明ができそうもないので、別項の試聴欄を参照して頂きたい。が、フンガロトンやクォリトンのレーベルで馴染んでいたしのハンガリーのレコードの音とたしかに一脈通ずる、フィリップスの線をもっと細くしたような、しかしもっと素朴な、なんとも奇妙な、しかしふしぎに人を惹きつける魅力であった。ヨーロッパの多様さを、レコードの音から、そしてスピーカーの音から教えられて、風土や歴史や、そこに育つ民族性のおもしろさに無限の楽しさをおぼえる。
日本のスピーカーの音色
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞさに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、〝ハイファイ・トレイド・ニュウズ〟の副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音を〝ノーマル〟と感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
 もうひとつ、わたくし流に日本のスピーカーのウィークポイントを説明するなら、第一に、概して低音オンチであること。第二に、その低音を最も重要な土台としてその上に音のバランスを構築するという作り方が下手であること。第三に概して中音域にやかましい音か出る傾向が強く、ことにクラシックの弦の音に満足できる再生が少ないこと(クックのいうアグレッシヴな、というのもこのあたりの音を指すのかと思う)。第四に、音色が重く、楽器特有の音の生き生きした動きや弾みが再現されにくいこと。第五に細部に気をとられるあまり、全体のバランスを見失いがちなこと。たとえばオーケストラの混声コーラスなどの大きな編成の曲が、各パートのバランスを失する傾向になったり、混濁したりしやすいこと。第六、ステレオの音像が平面的で奥行きなどの立体感に乏しいスピーカーが多いこと。
 まだいくつかあるにしても、少なくとも右の問題だけは、常々感じている弱点として指摘しておきたい。
 しかしここ一年たらずのあいだに、右の弱点のいくつかを克服して、海外の一流スピーカーと比較しても聴き劣りしないスピーカーが、まだほんのわずかの例外的な存在であるにしても、少しずつ着実に増えておりまた少しずつ改良されていることを、希望を持って報告したい。具体的な製品は、今号および次号のテストリポートで明らかになるはずである。

4.
世界的にみて、スピーカーの作り方にジェネレイションの後退する傾向がみえている
たとえば……

JBLとKEFを例にとると
新しいジェネレイションの製品になるにつれて
広帯域かつフラットな作り方を完成しはじめている

 JBLのスピーカーには、大別して三つの世代(ジェネレイション)がある。第一期は創始者J・B・ランシングの直接の設計になる130A、D130、175DLHから始まる高能率ユニットをベースとする大型の高級スピーカー。第二期は有名なLE8Tを含む(リニア・エフィシェンシイ)シリーズ時代。オリンパスやランサー101などの名器がこの時期に誕生している。そして第三期は、プロフェッショナル部門を作って♯4320以降の一連のモニタースピーカーのシリーズを完成した現在。
 低音から高音までの広い帯域を、過不足なくフラットに再生するというのは、スピーカーにとってたいへん難しいテーマといえる。しかし従来まで永いあいだのスピーカーの水準からみて、明らかにその水準をつき破って、ハイ・フィデリティの理想に一歩近づくことに成功したのが、JBLでいえば第三期のプロフェッショナルモニターのシリーズであるといってよい。中でも♯4341.ある期間鳴らし込んだのちに正しく調整した音は、非常にフラットでしかもディテールの明瞭な、しかもハイパワーにもくずれずによく耐えうる、素晴らしい現代のハイファイスピーカーのひとつであろう。こういう音を聴いたあとで、同じJBLの過去の製品を聴くと、新しいスピーカーがいかに帯域が広くなっているかがよくわかる。
 イギリスに例をとれば、最近たびたびとりあげられるKEFの♯104。このスピーカーは、ブックシェルフの中でもやや小ぶりだし、ウーファーが20センチの2ウェイだし、本国では4万円そこそこのローコストスピーカーだから、JBLプロ♯4341のような、ハイパワーに耐え圧倒的なスケールを鳴らすというような底力は期待できない。むしろパワーには弱く、音の迫力もスケールもないかわりに、設置その他の条件が整えば、JBLとは全く対照的ながら、オーケストラがスピーカーの向う側に広がって、各パートのバランスも申し分なく、きわめて上品な、光沢のある柔らかでしかし音像のひとつひとつがくっきりと浮かぶような魅力的な音を聴かせてくれる。もうよく知られていることだがこの♯104は、世界中のブックシェルフ型スピーカーの中でも、測定上周波数特性がフラットなことでも抜きん出た存在なのである。このスピーカーの出現によって、特性的にきちんとおさえて作ったスピーカーが、即、音楽をほんとうに美しく聴かせてくれるという証明をしてくれたようなものだともいえる。KEFもまた、これ以前の製品(ペットネームの頭文字がCで始まるところからCシリーズと名づけられている各製品)では、これほど完成度の高い音質を聴くことはできなかった。
 JBLの♯4341とKEFの♯104は、その規模も構成も価格も音質も目的や用途も、それぞれに違うスピーカーでありながら、周波数帯域が広くフラットであること。それが音楽を実に正確にしかも美しく聴かせてくれるという点で、現代の、最も新しい方法論によって成功した製品のサンプルといえ、これがそれぞれの意味で、今後のスピーカーの方向を指し示していると考えられる。KEF♯104と相前後して発表された同じイギリスのスペンドールBCIIも、同じ意味で注目すべき製品といえる。
しかしそういう新しいスピーカーを聴いてみて
逆に過去の名器の良さを見直す結果にもなる

 スピーカーには、右の例にあげたいわば改革型の製品あるいはメーカーがある反面、古い製品の良さをじっと暖めている良い意味での保守的なメーカーもある。それが、本当の意味で現代に生きている価値のある製品化、それとも単に過去の残骸にしがみついているだけの製品なのかを見分ける目を失ってはならないと思う。新しいスピーカーの真の良さを聴き分ける耳には、古い製品の良さを聴き分けることも容易であろう。
 たとえばイギリス・ヴァイタヴォックスのCN191いわゆる〝クリプシュホーン・システム〟。明らかにこれは古い世代のスピーカーだが、しかしこのスピーカーを鳴らす良い条件が整いさえすれば、ある意味でこれは古い時代の蓄音器の名器の鳴らす音に一脈通じる懐かしい音色には違いないが、つまり現代流のハイ・フィデリティとは正反対の音だが、穏やかでしかも艶やかで、豊かでふくよかで、暖かい息の通うようなおっとりした重厚な響きに浸っていると、心からくつろいだ気持になれる。元来太った音のあまり好きでないわたくしにさえ、未だに魅力たっぷりの音なのだから、この傾向の好きな人にはたまらないスピーカーだろう。こういう性格の製品をほかにも思い浮べてみると、同じイギリスのタンノイのやラウザー、アメリカのボザークやアルテックそれにエレクトロボイスのそれぞれ旧型などがこの傾向の名器といえるだろう。
 これら過去の名器ほど古い製品でなくとも、現代の製品でありながら、その鳴らす音にむしろ保守的な、あるいは穏健な良さを響かせるスピーカーがある。ハイファイスピーカーの、ある意味で冷徹なほどクールで、クリアーで、シャープで、明晰で鮮鋭な音に対して、常にあたたかさを失わない鳴り方は、ハイファイの研究家などでないふつうの音楽(レコード)愛好家にはむしろこの方が好ましいとも言える。たとえばイギリスならセレッションのディットン66などにそういう響きがのこっているし、好き嫌いを別とすればKLHやARの音もこの範疇に入れていいだろう。
 しかしどうやら、新しい音を自分の装置にとり入れるか否かは、音そのものの好みを越えて、音楽とその演奏にかかわってくる問題のように思える。そのことをくわしく論じるにはもはやスペースがあまりにも足りないので概論的・要約的な言い方しかできないが、クラシックに関していえばおよそ一九六五年あたりをひとつの境として、音楽の解釈ひいては演奏に新しい世代が登場しはじめている。そしてその頃とときを同じく、ヨーロッパのクラシックレコードの録音が少しずつ変貌しはじめて、ことに七〇年代にはいってからのヨーロッパのメイジャー系の音は、鋭角的、新鮮な光沢、歪みのほとんど感じられないクリアーな滑らかさ、どんな細かい音色の変化をも逃さず収めた、そういう音の採り方を、さかのぼっていえばそういう音楽の変化を、認めるか否かによって、選ばれるスピーカーの音もまたそれぞれに応じて変るはずだ。たとえばヴァイタヴォックスの音は、アルゲリッチやポリーニの新鮮で鋭角的なタッチを鳴らすにはもはや不十分といえる。けれど反面、フルトヴェングラーもトスカニーニの復刻盤は、現代のモニター系のスピーカーではあまりにも録音のアラが先に立ちすぎることがある。

5.
スピーカーの能率が全般的に低下している
能率の低下はアンプの出力を増すことでカバーできる理屈だが
動力線が必要になるというのはゆきすぎではないか……?

 最近のスピーカーが、周波数レインジや耐入力特性などの──いわゆる物理特性の──面で向上している反面、古いタイプのスピーカーにくらべて能率の極端に低下しているものがあることは、すでにいろいろの機会に指摘されている。言いかえれば、広い帯域をフラットに再生するスピーカーを作るには、スピーカーの諸特性の中で音質に直接関係のない《能率》をギセイにすることが最も手近な方法だからだ。能率の低下した分だけアンプの出力を増してやれば、音量の低下は防げるのだから、その分だけ音質が向上する方がいい。これがスピーカー設計者の言い分で、都合のいいことには、以前にくらべるとアンプの方が高出力化しているし、100W、200Wというハイパワーのアンプも容易に作れる時代になっている。スピーカーの能率が3dB下がっても、アンプのパワーを2倍にすれば同じ音量が確保できる。能率が6dB低下すればアンプのパワー4倍。10dB下がればパワー10倍。20dBなら100倍という計算になる(次表参照)。
 古いタイプのスピーカーと新しいタイプとでは、能率に20dB以上も差が生じる場合がある。少し古い話だが本誌17号でコンポーネントステレオの切替比較をしたとき、JBLの〝ハークネス〟(130AとLE175DLHの2ウェイ。バックロード・ホーン型)と、国産のブックシェルフ型の中でも比較的能率の低いある製品との能率に、聴感上でほぼ20dBの差の出たことがあった。ブックシェルフを鳴らしたアンプのボリュウムをそのままの位置で、マイナス20dBのミューティングスイッチをONにしたとき、ハークネスの音量がブックシェルフとほぼ同じになる。つまりハークネスを鳴らすには、ブックシェルフを鳴らすのよりも20dB(1/100)だけ出力の低いアンプでよいという計算になる。ブックシェルフを十分に鳴らすには仮に100Wのアンプが必要とすれば、ハークネスに対しては1Wあればよいという理屈で、これはたいへん大きな差である。
 むかし映画劇場のトーキー用のアンプの出力は、せいぜい5Wから15Wぐらいで、それでも広い劇場に十分の音量が供給できた。それはスピーカーが高能率だったからである。
 本誌28~29号のブックシェルフスピーカー・テストでスピーカーの能率をしらべたデータによると、そのときテストした内外約120機種のスピーカーの約50%が、3~4Wの出力でほぼ満足のゆく音量が得られるという結果が出ている(測定条件=無響室内、スピーカー正面1mの軸上で、ピンクノイズ入力で90dBの音圧が得られたとき、スピーカーにどれだけの出力が加えられたかを測ったもの)。これはただし平均出力なので、音楽のピークに対する余裕を、ポピュラーでは約10倍、クラシックでは約30~50倍見込む必要がある。つまり市販されているブックシェルフスピーカーで、ナマの演奏を聴いているような実感のある音量を十分に出そうとすると、30Wから200W(片チャンネルあたり)の出力が必要だという結論である。
 今回のテストの際に、アンプの出力を読みながらレコードを鳴らしてみて、右のデータが決して机上の空論でないことをたしかめた。たとえばアルゲリッチのショパン(独グラモフォン2530500)のフォルティシモで、ナマのピアノを聴くような実家のある音量まで上げると、アンプのパワーメーターの針が、しばしば100ないし150W(片チャンネルあたり)を振り切れることを体験した。もしも旧型の高能率のスピーカーなら、同じ音量を出すにも1/10から1/100のパワーでよいのだから、アンプの方がはるかに楽になる。
 150ないし200W×2のアンプと聞いても近ごろはそれほど驚かなくなったが、一般的なB級増幅のトランジスタのアンプの場合でいえば、出力を増すにつれて電源の消費電力もそれに比例して増すことを忘れてはならない。消費電力はアンプの設計によって異なるが、平均していうと最大出力(左右の出力の和)の約2倍から3倍というところだから、150W(×2)の出力のときで600W以上、200W(×2)では800W以上を、電灯線電源から消費する計算になる。2ヵ月ほど前にある集まりで、300×2のパワーを出したときにどんな音量が出るか、という実験をしたことがあった。LEDのインジケーターを見つめながらボリュウムを次第に上げてゆくと、ほんの一瞬、300Wを示すランプが点った。が、そのとたん、電灯線のヒューズがとんで停電してしまった。あとからアンプの消費電力をしらべてみると、最大出力時で1300W(1・3kW)と書いてあったので、なるほど無理ないと納得したが、このクラスのハイパワーアンプを使おうとすれば、クーラーなみに動力線を引かなくては安全でないということになる。案外、ふだん気のつかない大切な問題だ。それだから、スピーカーの能率の低下はパワーの方でいくらでも補うことができるなどと、あんまり甘く考えるわけにはゆかなくなるわけだ。

6.
スピーカーの音質を聴き分けるには
高低音のバランスとか歪みの多少よりも
もっと微妙な面がいろいろある
スピーカーを聴き分け、選び、使いこなすための
いくつかのヒントを集めてみると

高能率のスピーカーを小出力で鳴らした音と
低能率スピーカーを大出力で鳴らした音とでは
音量を同じにできても音質に何か違いがある……

 いくら動力線を引くことになっても、スピーカーの能率を犠牲にすることによって音質その他諸特性が確かに向上するのであれば、それとひきかえにハイパワーアンプに投資することぐらいガマンしてもいいと思う。
 だが、ここまでは単に理屈にすぎない。実際に能率の非常によいスピーカーを絞って鳴らした音と、能率の低いスピーカーに相応のパワーを加えて鳴らした音とでは、仮に音量を同じにすることができたところで、出てくる音の質が、どこか決定的に違うように思える。大型の高能率のスピーカーを小出力で鳴らす音の方が、どこか演奏者に一歩迫って聴くような直接的な感じがするのに対して、小型ブックシェルフにパワーを放り込んで鳴らす音には、何か作りもの的な、どこかで嘘であるような、そんな印象を受けることが多い。別な言い方をすると、高能率スピーカーの鳴らす音には、しっかりした芯が一本通っているような実体感があるのに対し、能率の低いスピーカーの音は仮に輪郭鮮明という感じがしても、その中味には芯がないような感じを受けることが多い。もちろんすべてがそうだとは言えない。しかも高能率スピーカーは概して旧型のナロウレインジだし、低能率スピーカーは近代のワイドレインジ型だ。そういうちがいが右のような音の差を生むのかもしれない。また、高能率スピーカーはたいてい中型以上のフロアータイプだし、低能率スピーカーは一般に中型以下のブックシェルフタイプである。アンプ自体の音質も、パワーを上げたときと絞ったときとで性格の変る場合がある。いろいな要員が複雑にからみあっているに違いないが、音というのは、パワーを上げただけでは補うことのできない微妙な面のあるものらしい。
音像定位のでき方が気になる
 ステレオの二台のスピーカーの中央に坐る。レコードをかければ左右のスピーカーのあいだいっぱいに音が拡がり、その中に楽器やソロイストやコーラスの定位が感じられる。そういう音のひろがり方・定位のしかた,ひと言でいえばステレオエフェクトが、どう再現されるかという問題が、わたくしには常に気になる。
 たとえば、左右のスピーカーの幅いっぱいに音がひろがり、音像定位もシャープに出るのに、オーケストラあるいはオペラのような場合、音像がまるで左右のスピーカーの間に張った幕に映る映像のように平面的で、奥行きが全然感じられず、立体感の欠けた音像になる。いかに音がひろがろうが定位しようが、こういう感じの音はオペラのステージの空間的なひろがり、あるいはオーケストラと歌手との距離感が欠け、立体的な構築感が得られない。いや室内楽でもジャズでも、それが演奏されている場の空間的なひろがりが感じられず、ふくらみや立体感や奥行きに乏しい、いかにもそこに音楽があるという実体感あるいは実在感のようなニュアンスを欠くことになり、音楽そのものの感動が伝わりにくい。
 奥行きの出るスピーカーは、言いかえればスピーカーの置いてある壁面が取払われて壁の向うに演奏ステージが現出したような感じを抱かせることになるわけだから、目の前にじゃまもののない、一種さわやかな、すがすがしいような透明感を思わせる。演奏会場と自分の部屋の空気が直結したような空間的なひろがりを感じられる。これに対して音像の平面的なスピーカーは、概して眼前に垂れ幕を一枚置いてその向うに演奏者がいるというような、どこかもどかしさが感じられる。
 平面的に鳴るくらいなら、壁の向うにひろがらなくても、スピーカーよりこちら側にせり出してくる感じの方が、まだいくらかましだ。こういう音像のでき方は、概してジャズやポピュラー系に良い結果を生じる。いわゆる〝前に出る音〟というのだろうか。アメリカ系のスピーカーにわりあい多い。しかしこのタイプでもうひとつ注意しなくてはならないことは、音像が左右のスピーカーの幅いっぱいに拡がらず、逆に二つのスピーカーの中間に固まってしまう傾向のあることで、こういうスピーカーは、ステレオの音のよくひろがる録音も、モノフォニック的に聴かせてしまい、せっかくのステレオのひろがりや定位の感じとれないのがある。モノーラル初期に開発された製品にときどき見受けられる。
 また奥行きの出る出ないにかかわらず、たとえば中央にシャープに定位すべきソロイストが、左右のスピーカーのあいだに大きくぼやけて、あまりシャープな定位の出ないスピーカーも、音質の上でどこかに問題があるので要注意。
 日ごろステレオフォニックの出かた、音像の広がりや定位にあまり気をつけて聴いたことのない人の場合は、右のような差を聴きとるまでに多少の馴れが必要になるかもしれない。音を聴き分ける耳を訓練することももちろんだが、後述のように左右にひろげたスピーカーとリスナーとの関係位置を正しく保たなくては、右のような違いを聴き分けられない。
 こういうエフェクトについては、たいして注意を払わない、あるいはそのことに対してはあまり大きな価値を見出さない人の多いことも確かである。また、いくら音像定位が重要だと言われても二つのスピーカーの中央に、坐る位置がきめられるのを嫌う人もある。そういうことはむろん個人の好みの問題だから、スピーカーの横の方に寝そべって聴こうが極論を言えば隣の部屋で聴こうが、そんなことはわたくしの立ち入ることではない。
 しかし、ここは大事なところだが、右のような音像の広がりと定位の正しく出にくいスピーカーは、その音質の面でも、どこか欠陥を持っているものが多いと言う点に注意してほしい。音像の定位に関心のない人でも、ほんとうに音質の良いスピーカーが欲しいのであれば、試聴の際に音のひろがりや定位のちがいにも注目すべきである。
音を空間にちりばめるタイプと
スピーカーのところに固めてしまうタイプがある

 音像定位の効果ともやや関連があるが、複雑にからみあいながら進行してゆく各パートの音符をきれいに分解して空間にちりばめて鳴らすような感じの音と、スピーカーの箱のところに練り固めて張りつけたような鳴り方といった感じの違いがあり、後者はジャズあるいはロックに一種粘った面白さを聴かせることもあるがクラシックには前者のような鳴り方が望ましい。
音量の大小とスピーカーの評価
 アメリカ東海岸のスピーカーが、概して大音量によいことは前に書いた。このことはサブスピーカー的な小型ローコストの製品を除いては、アメリカ製のスピーカー全般にだいたいあてはまる。
 反対に、イギリス製をはじめとしてヨーロッパ系のスピーカーに、アメリカ製ほどハイパワーに強いスピーカーは割合少ない。ヨーロッパ系のスピーカーは、音量を絞ったときの音が美しく、バランスよく、音に適度の響きと距離感をもたせて艶めいて鳴る。こういう傾向は概してクラシック系に好ましい。
 アメリカ系のスピーカーの中には音量を絞るとディテールの繊細な余韻が消えてしまったり音のバランスをくずしたり音に生気の欠けてしまうものがあるので注意が必要であるが、パワーを送り込むにつれてカラッと乾いて引締った鳴り方が、ポピュラー系には絶対的な強みを聴かせる。ヨーロッパ系のスピーカーはハイパワーでは飽和した感じ、音がつぶれたり濁ったりする感じになるものが多い。
深情け型と即物型
 音が鳴り止むとき、その余韻がどこまでも尾を引いて美しく繊細に消えてゆく感じ。鳴り止んだあとの静けさから、かえって、いままで鳴っていた音の美しさを知らされるといった感じの鳴り方。こういう音は、概してヨーロッパ系のスピーカーに多い。あくまでもしっとりした艶を失わず、相手を捕えて聴き惚れさせてしまう。いわば深情け型の音、とでもいえるから、こういう鳴り方が鼻につくという人には向かないが、このタイプの音はやはり本質的にクラシックに向くといる。ジャズでもMJQのような音、諳・バートンの唱うバラード、スウィング・シンガーズの声、等々、この系統の音楽には、右のような鳴り方が音楽をいっそうひき立てる。
 音の余韻とか鳴り止んだあとの静けさといった、いわば《虚》の部分で音の実体を一層美しく彫り上げてゆくタイプがヨーロッパ系のスピーカーに多いとすれば、アメリカ系のスピーカーは逆に、何のてらいもなく《実》の部分を即物的に鳴らす。音の余韻をむしろ断ち切る傾向がいっそう即物的な印象を強め、そこが人によって「ストレートな鳴り方」というような表現になるだろう。そしてこのタイプの音はポピュラー系の音楽には絶対の強みをみせる。深刻ぶらない感じ。明るく乾いて、そっけないほどの鳴り方は、クラシックには向きにくい。
 また、余韻をよく鳴らすスピーカーは、音がリスナーに対して距離を置いて鳴る感じが強く、逆に余韻をおさえるタイプのスピーカーは、音源が近接した感じになる。ホールトーン(演奏会場の残響音)を多分にとり入れる傾向の強いクラシック系の録音では、距離感のある鳴り方、余韻の美しさなどが残響音をいっそう美しく感じさせる。またジャズ(ことにコンボ編成の小人数の演奏)では、各楽器の音を近接的にとらえる傾向の録音が多い(最近のヨーロッパ系の録音では必ずしもそうとはいえないが)ため、即物的な表現のスピーカーが向くと言われるのだと思う。
叩く音に強いスピーカー
引っ掻く音に強いスピーカー……?

 我々の仲間うちで、だれが言い出したのか(たぶんこんな言葉を作るのは菅野沖彦氏か山中敬三氏だろうが)、叩く音に強いスピーカー、引っ掻く音に強いスピーカー、という変てこな表現がある。叩く音とは打楽器一般やピアノを指し、引っ掻く音とは弦楽器の系統を指している。一見ふざけた言い方のようだが、数多くのスピーカーを聴きくらべていると、ピアノや打楽器の輪郭を鮮明に鳴らすスピーカーは弦楽器の音を少しきつい感じで鳴らす傾向があり、弦を柔らかく滑らかに鳴らすスピーカーは打楽器を鈍らせる傾向のあることに気づいてくる。むろんその両方をうまく鳴らすことがスピーカーの理想だが、現実には、価格の高低と直接の関係なしに、右のような傾向が聴き分けられる。こういう面も、クラシックに向くスピーカーシステムとジャズ・ポピュラーに向くスピーカーの違いのようなものが論じられる原因のひとつといえる。そしてこの面でも、ヨーロッパ系のスピーカーが一般的に弦を良く鳴らし、アメリカ系が概して打楽器をよく再生する傾向がある。
これらのさまざまな要素に音の新旧がからんでくる
古い音は太目で暖かで
新しい音ほどぜい肉を抑えて細身にクールになる

 古いタイプの音は概して太り気味で暖かく、新しい音になるにつれてぜい肉を抑えた細身の、シャープな、あるいはクールな鳴り方をする傾向がある。たとえば周波数レインジのせまい音は一般に太い感じに聴こえるし、大型スピーカーから出てくる音は、どうしても大作りの感じで、したがって太りかげんで、よくいかばおっとり、悪くいえば反応が鈍いような傾向になりがちである。大型のスピーカーで、音のスケールが大きい反面、シャープで繊細な音が細身に鳴らせるようなスピーカーがあれば、まあ理想に近い。しかし多くの場合、両方を兼ね備えた音は望みにくい。この、太身とか細身という感じは、ヨーロッパとかアメリカという分類では説明できない。どうしてもスピーカーの構造やメーカーのカラーや、世代の違い、といった面からとらえる必要が生じてくる。
 たとえばヨーロッパのスピーカーなら、ヴァイタヴォックスやラウザーなどは太い傾向の音といえる。しかし世代は同じでもタンノイは必ずしも太っているとはいえないし、逆に新しい世代でもセレッションの66などは割合に肉乗りのいい音がしている。しかし世代の若いKEFやB&Wなどは、概してぜい肉の少ない細身の音を鳴らす。太い、細いという言い方に対して、おおらかとか動作の緩慢さ、その逆の敏捷あるいは潔癖な印象、などという分け方をすれば、もう少し多角的な捉え方ができるかもしれない。必ずしも太い音でなくとも、どこかゆったりとおおらかな、暖かい感じの音が古い世代の良さとすれば、潔癖な感じ、クールな音、鋭敏で明晰な音、というのが現代の音の良い面といえるだろう。
 そういう分類をアメリカにあてはめれば、旧いアルテックやエレクトロボイス、あるいは少し前のKLHやARなどが、ややグラマーな感じ、太い感じの音であるのに対して、JBLのニュー・ジェネレイションのモニターシリーズやESSあるいはインフィニティなど、新しい世代の、ことに西海岸系のスピーカーの方が、概して急進的・現代的な音を鳴らすといえる。
 急進的な音、新しいスピーカーの音が、すべて優秀などと単純な結論を出すのは間違っている。古い音の良さと、新しい音の良さとは全然別のものだ。古い新しいという単純な尺度で考える方が危険かもしれない。そこに、前述のようなさまざまの要素がからみあい、そしてこれも前述のように、音楽やレコードの録音や聴き手の感性と微妙にかかわりあっている。
使いこなしの定石を破る必要がある
というよりいままでの説は改められる必要がある

 いままで述べてきたようなスピーカーの音質を正しく聴きとり、あるいは正しく生かすには、スピーカーの置き方──リスニングルーム内での設置のしかた──について、いままで常識のように思い込まれていた方法を考え直す必要がある。新しいスピーカーの良さを聴くために評価の尺度を変える必要があるとすでに書いたが、そういう音を聴きとるためには、スピーカーの置き方から改めてかかる必要がある。
 スピーカーの置き方やリスニングルームの設計には、いままでにひとつの定石のようなものができ上っていて、新しくリスニングルームを設計する人も設計を依頼する人も、誰もがあまり疑いを抱かない。が、少なくとも次の二つの次項は早急に再検討の必要があると思う。それは──
① スピーカーは固い壁を背にして置く。いわゆるライブエンドにスピーカーを置き、聴取側をデッドエンドにする(図a)。
② 部屋を長手方向に使う(または設計する)(図b)。
──この二つの定石は、新しいスピーカーになるにつれて次第にあてはまりにくくなっている。ことにモニター的な系統で開発されるスピーカーの多くは、次のような条件を前提に作られるケースが多い。
ⓐ スピーカーエンクロージュアは適当な高さのスタンドに乗せる。しかも周囲は壁面から十分に離し(あるいはスピーカー側をデッドエンドに設計し)、壁面からの反射音の悪影響から逃れる(図c)。
ⓑ 二つのスピーカーは左右に広く離す。左右のスピーカーは正面がリスナーの耳の方に向くように互いに内側に傾ける。これは音像の拡がりと定位をより良く再現するためであり、良いスピーカーや新しい録音のプグラムソースは、左右に広くひろげてもいわゆる中央抜けを生じにくくなっている。したがって部屋はむしろ長手の壁面にスピーカーを置く方が使いやすい(図c)。なお、スピーカーとリスナーの関係位置は図dのとおり。この関係をもし六畳の部屋にあてはめれば、部屋をタテでなくヨコに使うしかないことがわかる。
 これらの理由について説明を加えるスペースがないので、実際例については本号スピーカーテストの解説記事(98ページ)を参考にして頂きたい。また右の条件は、言うまでもなく、スピーカーのタイプや性質や構造その他とにらみあわせて、なかば実験的に決定すべき問題といえる。少なくともスピーカーの置き方についての定石のようなものを、この辺で改めて考え直してみる必要のあることを、ぜひ言っておきたかったわけだ。
     *
 世界的にみて、スピーカーの鳴らす音楽が、ワイドレインジに、従来よりは特性上もよくコントロールされたフラットな──色づけの少ない──方向に、明晰に、クールに、あるいは鋭角的な方向に、転換しつつある。そういう音を正当に評価するには、従来の、ナロウレインジの色の濃い音、そして古いタイプの録音やスタイルの演奏様式等に馴れ育った耳を、少しずつ、時間をかけて切換える必要がある。蛇足とは思うが皆がみんなそういう音を認め、古い音や演奏を捨てろなどと乱暴なことを言おうとしているのではなく、古いものの良さと新しいものの良さをそれぞれ評価するには、ものの見方や評価の角度(あるいは尺度)を変えてかかる必要があることを言っているだけだ。
 たとえば、KEF♯104を購入したユーザーの中にも、置き方やリスニングポジションが不適当なためにこのスピーカーの本当の音を(好むか好まないかは別としてともかくこのスピーカーの本来の音を)鳴らしていない人の多いことに驚く。また、従来のレインジのせまいスピーカーでは気がつかなかったアンプのわずかな歪み、カートリッジの針先の摩耗やレコードの傷みなどの細かなアラが一斉に耳ざわりに鳴り始めて、それがスピーカーのせいだと誤解してしまった人も、わたくしの知る範囲でさえ少なくない。そういう話を聞くたびに、新しいスピーカーを正当に鳴らし評価することの難しさを思う。実に難しい時期にさしかかっていると、つくづく思う。

参考資料
●ラジオ技術増刊「現代ステレオ・スピーカ」実測特性グラフ
●ステレオサウンド・スピーカー特集号(28~29号、22~23号、16号、10号)
●ステレオサウンド’75SPRING別冊「コンポーネントの世界」シンポジウム〝オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる〟岡俊雄・黒田恭一・瀬川冬樹・岩崎千明・油井正一

いま最高のオーディオ装置とは

瀬川冬樹

月刊PLAYBOY 7月号(1975年6月発行)
「私は音の《美食家(グルマン)》だ」より

オーディオの「趣味の哲学」
われわれの知る範囲で世界一の食いしん坊は、フランス人のブリア・サヴァランだろう。彼は1825年、死ぬ1年前に「味覚の生理学」(邦題《美味礼讃》関根秀雄・戸部松美訳/岩波文庫)を出版した。この本は、人間の味覚と食物についての、両理学であり文学であり哲学でもある大冊である。その中で彼は、食いしん坊を次のように定義する。
〝グルマンディーズ(美食家・食道楽・うまいもの好き)とは、特に味覚を喜ばすものを情熱的に理知的にまた常習的に愛する心である〟と。
     *
 だとすると、オーディオの愛好家はさしずめ《音のグルマン(美食家)》ということになるだろうか──。
 同じレコードを聴くにも、少しでも良い音質で鳴らしたい。そのためには、精密なメカニズムを駆使して自分の気に入るまで音を調整する労を惜しまない。新しいマシーンはすぐにも入手したいのに、自分の気に入らない器械や気に入らない音は、たちどころに追放したい。それほど、自分の好みの音に対して厳格である……。
 オーディオのグルマンには、多かれ少なかれ、こうした厳格さ、ある種の潔癖さが要求される。
 しかしそれはあくまでも、音楽を愛し音を愛して、そのことを自分の人生の中の大きな楽しみとするため、である。
 だからもしも、年がら年じゅうクヨクヨと思い悩むようなタイプの人は、オーディオなんかきっぱり捨てるべきだ。別にオーディオなんかに凝らなくたって、たくさんのひとが立派に音楽を楽しんでいる。
 同じレコードを聴くにしても、メカを駆使することを楽しみ、よりよい音に磨き上げることを楽しみにできる人だけが、オーディオのグルマンたる資格を得るのだ。どんな趣味もすべて、人生を楽しみつつ味わうべきものだ。少なくともこれが、ぼくの《趣味の哲学》だ。

「新しいサウンド」を求めて
 たとえばマッキントッシュのアンプにアルテックのシアター・スピーカーとくれば誰でも知っている世界の名器だが、これらの音は、いまのぼくの耳には、もはやいかにも古めかしい音に響く。たしかにぼくにも、その種の音を素晴らしいと感じた時期があったが、そういう感覚にいつまでも踏み止まっているということは、感性が動脈硬化を起こしているのだとぼくは思う。生き続けているかぎり常に、より新しい音の中から、本ものとそうでないものを鋭敏に聴き分ける柔軟な耳を保ち続けたいものだと思う。
 新しい音というと、いまぼくの頭にまっ先に浮かんでくるのは、アメリカJBLとイギリスのKEF。ともにスピーカーのメーカーである。JBLはここ2年のあいだに、プロ用の新しいモニタースピーカーを続けざまに発表した。一方のKEFも、MODEL104という小型スピーカーの発表でセンセーショナルな登場を試みた。
 しかしこういう製品が、ある日突然生まれたわけではない。どちらも20年以上のキャリアの中から、改良され開発されて完成した音だ。ことにKEFの場合は1955年頃からイギリスの国営放送《BBC》と共同で開発したモニタースピーカーLS5/1Aの存在が大きな意義を持っている。これはぼくの常用、というより愛用している大切なスピーカーのひとつだ。
 BBCモニターLS5/1Aの音質をひとことでいえば、あくまでも自然な美しい響き。中でも弦楽器やヴォーカルの自然な生々しさ。左右に拡げて設置した2台のスピーカーのあいだいっぱいにオーケストラが並ぶ。まるでスピーカーの向こう側に演奏会場をのぞくようなプレゼンス。そして何時間聴いても疲れない。聴きづかれするような音というのは、どこかに必ず欠陥がある。
 KEFの柔らかな響きはクラシックに絶対の偉力をみせるが、たとえば打楽器の迫真性、といった点では、KEFもJBLにはかなわない。
 世界中のあらゆるスピーカーを聴いてみると、イギリス系のスピーカーは常に、弦楽器やヴォーカル──ことに女性シンガーの色気や艶を優れて美しく聴かせる反面、打楽器には弱腰の傾向をみせる。
 そこを充実感をもってピシッと引き締めるのがアメリカの、中でも西海岸(ウェストコースト)の、ことに新しいスピーカーとりわけJBLのニュー・ジェネレーションのシリーズに止めをさす。オーディオ道楽を永らく続けてきたぼくにとって、いまのところ、この両極の音がいつでも身ぢかに聴けることが、どうしても必要である。
 スピーカーにかぎらず、プロ用の製品にはどこかケタはずれの凄さがあるが、レコード・プレイヤーやテープデッキも、たとえば西ドイツのEMTやアメリカのアンペックス(又はスイスのステューダー)を一度でも使ってみると、これはちょっと次元が違うという実感が湧いてくる。EMTのカートリッジか無くなったら、ぼくはレコードを聴く気が無くなるかもしれないとさえ思う。そしてこのカートリッジは、同じくEMTのスタジオ用レコード・プレイヤーにとりつけてみなくては真価がわからない。ものすごく安定感のある音。しかもレコードの溝に刻まれたどんな繊細な音にさえ、鋭敏に反応し正確にピックアップするという印象である。
 プレイヤーのメカニズムも、限られたスペースでは説明しきれないが、一例をあげれば、ピックアップの針先を照らす明るいサーチライトによって望みの場所に針を下ろすことが容易だし、スタートやストップの動作の歯切れがものすごくいい。ターンテーブルは旧式のリムドライブだが、へたなDDモーターなど足もとにも及ばない性能をもっている。
 アンペックスのプロ用テープデッキも、トランスポート・メカニズムの安定性、ピークに対するアンプのおそるべき余裕、そして操作性の良さ、どれをとっても溜息がでるほどだ。腰の強い圧倒的な音質の迫力は、ジャズ系に絶対だ。しかしまた、クラシック系に聴かせるステューダーの、滑らかで渋い艶のある音質は全く対照的といえる。メカニズムも、アンペックスの良くいえばダイナミック、悪くいうと少々ラフな動きに対して、完全に電子制御されてあくまでもエレガントな動作は、ヨーロッパ人の気質がスイスの精密工作に裏づけられていることを感じさせる。
 カセットデッキについては、ぼくはひとつの意見を持っている。あの手帳1冊より小型のテープに、しかもカセット本来の簡便さを生かして録音するのに、いまの多くのデッキは間抜けなほど大きすぎる。その点
でドイツのウーヘルCR210は、いいな、と思う。ポータブルという設計のせいもあるが、おそろしく小さい。それでいて再生はオートリバースというように、その辺のうすらでかいデッキよりよほど進歩したメカニズムで、超小型とは思えないクリアーでしっかりした音を聴かせる。
 スピーカーやレコード・プレイヤーやテープデッキ類に対して、アンプやチューナーに関しては、わが日本が全般的に優秀だ。この面ではむしろヨーロッパ製品は一般に格が落ちる。一方アメリカは、中級以下の製品は日本製よりはるかにひどいが、高級品となると、ときたま、度はずれといいたいような製品を産み落とす。最近では、マーク・レヴィンソンやセクエラなど、注目すべきメーカーが出てきた。

いま最高のオーディオ装置は何か
 マーク・レヴィンソンは技術者でしかも同社の社長。昨年秋に新婚旅行を兼ねて来日したとき27歳と言っていた。価格を度外視しても、自分で納得のゆくまで最高のアンプを作るというパーフェクショニストである。
 LNP2というプリアンプは、1973年秋の発売当時で1750ドル(現2250ドル)という途方もない価格と、しかし驚異的な性能でアメリカのオーディオ関係者を驚かせた。これほどのプリアンプを作っておきながら、パワーアンプについてはまだ満足できるものが作れないなどとトボケたことを言い、自分では他のメーカーの製品を改造していまのところは使っているという、どこか間の抜けた商売を平気でするような男で、マネージメントに才能のある美人の女房がついていなかったら、とうにつぶれてしまっていただろう。こういう男と話をしてみると、アメリカという国には、途方もないオーディオ気違いのいることがわかる。
 もうひとつの気違いメーカーが、2千500ドル、輸入価格128万円というFMチューナーを作っているセクエラだ。
 いまから10年ほど前、有名な〝マランツ〟にMODEL 10BというFMチューナーがあった。製造中止の現在も、日本ではプレミアつきで売買される名品だが、これを設計したスタッフが最新のエレクトロニクスの粋を集めて完成したのが、このセクエラ1型だといわれる。オシログラフによる精密な波形の表示と、デジタルの同調指示は、未来のチューナーを暗示するようだ。
 話を再びスピーカーにもどすと、KEFは昨年秋に、新型のスタジオ・モニタースピーカー model 5/1ACを発表した。本体は旧BBCモニターLS5/1Aをベースにしているが、今回のは低音と高音を別々のパワーアンプで鳴らす、いわゆるマルチアンプ方式で、パワーアンプは内蔵している。ことしの5月以降、少しずつ日本に入ってくるそうだが、サンプルはすでに入荷して、KEFの社長と輸入元の好意で、しばらく借りてモニターさせてもらっている。
 旧型の音は温かくウエットで、良くいえば聴き手をひきずり込まずにおかないようなインティメイトな雰囲気。反面、ちょっと深情けが過ぎるんじゃないかといいたいような鳴り方をすることがあったが、新型はもっとクールで、馴れないうちはどこか素気ない鳴り方が、雰囲気に物足りなささえ感じさせる。総体にシャープな性質が増し、低音も旧式の豊かさにくらべると引き締って明快である。
 新旧の比較ではこういう明らかな差があるのに、たとえ新型でもJBLと比較すればアメリカとイギリスの歴然たる違いは少しも無くなっていないことが聴きとれて興味深い。イギリスのスピーカーの音は、どこまで新しくなってもやはり、イギリス紳士を思わせる。どんなにエキサイトしても、端正でしかも渋味のある鳴り方をくずさない。
 昔からドイツの音は、輪郭鮮明でカチッと引き締った音がするといわれるが、EMTのカートリッジには、たしかにそういう正確がはっきり聴きとれる。そして、アメリカの現代のアンプは、それをただひたすら正確に増幅する。KEFのスピーカーの端正な鳴り方にも、こういう組合せで生き生きと血が通ってくる。これは磨き抜かれた極上の音だ。何気ないくせに聴き込むにつれて底力の感じられるという、一種凄みさえ思わせる音質である。
 もしもここに、JBLの新型が加われば、あの西海岸(ウェストコースト)の明るく輝く太陽と、澄みきって乾いた空気をそっくり運んできたような爽やかな音が鳴ってくる。これもまたこたえられないよなあ。
 オーディオの世界にも、過去、名器と呼ばれる製品が数多く生み出されたが、常に新しい製品に惹かれるぼくは、単純なエピキュリアンなのだろうか。それとも、美しい女性に憧れながら口をきくのも苦手なぼくは、オーディオの世界でプレイボーイを試みるだけなのだろうか。グルマンとプレイボーイとは、どこが違うのだろうか。
 違いがあるにせよないにせよ、美しい音に飽食したいとねがうぼくの気持に、変りはない。

外観と内容にごまかしのない嘘のない製品には魅力がある

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオ機器はレコードやテープやFMから音楽をより美しい音で抽き出し鳴らす道具だ、という点を第一に明確にしておく必要がある。万年筆は文字を書く道具、カメラは写真を撮る道具、釣竿は魚を釣る、かんなは木を削る、ゴルフのクラブは球を打つ道具だというのと全く同じ意味でオーディオ機器は音楽を鳴らす道具である。あらゆる道具というものを頭に浮かべてみれば、良い仕事をするには良い道具が必要で、その何かをするという目的に厳しい態度で臨む人ほど道具に凝る。しかしまた、良い道具を手に入れればそれで道具が勝手に仕事をしてくれるわけではなく、道具の善し悪しと関係なく道具は使いこなさなくては能力を発揮しない。この、使いこなす、という一点で道具がそれ自体独立した存在でなく人間と一体になって仕事をする、まさに「道具」なのだということはが明らかになる。そのことから道具は手段であると言いかえることもできるが、それだから目的をなし遂げさえできれば道具はどんなものでも構わないということにはならないので、大工が鋸やかんなに凝るというのが専門職だけのことだというなら、素人にも毎日の食事をとる箸や茶碗にさえ気に入りの道具というのがあって使い馴れない箸ではものの味さえ変るという例をあげればよい。するとそこには使い馴れるという問題も出てくることになる。しかしそれではまだ、使い馴れさえすれば道具に凝る必要は無かろうという疑問に答えたことにはならない。古くから「能書筆を選ばず」の諺があって、腕の良い人間に良い道具は不必要であるかのように誤解されているが、それは道具の能力に頼って技を磨く努力を怠る人へのいましめであって、弘法が良い筆を持てばいっそう優れた字を書くだろうことに疑いを抱く人はあるまい。しかしここでさらにつけ加えれば、穂先のチビた筆よたも良質の毛の揃った筆の方が良いという単純な問題でなく、書きたい文字によっては穂先を散切りに断ち切って筆を作りかえ或いは意識的に使い古しの筆を選ぶ場合もあるように、すべて道具は目的に応じて作られ選ばれ或いは作りかえられ使いこなされる。そこで道具とその使い手が一体になる。使い手が変れば、つまり使い手の意図が変れば別の道具が選ばれ、だから反面、同じ道具でも使い手が変ればそこから別の能力が抽き出される。そうした能力を思いきり抽き出す人を達人と呼び、そのことに十分応えるばかりでなくそういう人の能力をよりいっそう高めるような道具を名器という。名器は達人の使いこなしに耐えられるばかりでなく人間の潜在能力を触発する。道具もそこまでに至ると、手段としての役割を離れて一個の「もの」の良さとして、それ自体が鑑賞の対象にさえなる。刀剣の美しさ、茶碗や皿の、釣竿の、さらに鋸やかんなでさえ、永い年月に磨き上げられ洗練の極みに達した道具は、まさに一個の美術品になる。カメラや時計やオーディオ機器のような機械(メカニズム)もこの例外でない。しかしこれもまた誤解を招きやすい言い方なので、単に見栄や投資や利殖から、或いは中には金の使い途が無いからなどという馬鹿げた理由から、むやみに高価なものを買い漁り価値の分かりしないのに丸抱えするような書画骨董への接し方は、わたくしの最も嫌うところである。そうではなしに、写真を撮ることが好きで写った写真の結果をさらに良くしたいからとより良いカメラを求め、もっと良い音質で聴きたいとより良いスピーカーやアンプを求める全く素朴な欲求が人間にはあり、そうして入手したカメラやアンプが、本来の写真を撮る或いは音を鳴らすという目的とは別にメカニズムそのものの美しさで人を魅了し、だからそれを愛玩するという、人間の心の自然な流れを批判したりするのは見当外れの話なので、人を斬らずに刀剣を蒐(あつ)め、茶を飲まずに茶碗や壺の美しさを愛で、郵送する目的でなく切手を蒐集する趣味を誰も不思議に思わないのに、なぜ、写真を撮らないカメラの蒐集、音を聴かないオーディオパーツの蒐集を誹るのだろうか。
 あらゆる品物、あらゆる道具は、その目的に沿って磨き上げられれば自らにじみ出る美しさを具えはじめる。本来の目的から離れ一個の「もの」として眺めてなお十分に美しく魅力的であるほどの道具なら、本来の目的のために使われればそれぞれに最高の能力を発揮するはずのものであり、オーディオパーツの能力とは、言うまでもなく音楽を素晴らしいバランスで鳴らし、良い音質が人の心をもゆり動かす、ということに尽きる。それがもし刀剣であれば本当に「斬れる」刀と、単に取引や利殖の対象の美術品であることを目的とした似非刀剣との大きな違いになる。
 曇りのない直観で眺めた目には、ものはそのあるべき能力がそのまま形になって見える。身近な例をあげても、マッキントッシュ275のあの外観は全く出てくる音そのままだ。目に写ったとおりの音、音そのままの外観。マランツ7型プリアンプ、9型パワーアンプ、JBLのスピーカー群、アンペックスのプロ用デッキ……例はいくらでもあげられる。高価な外国製品ばかりをあげる必要は少しもなく、たとえばフォスターのFE103屋テクニクスの20PW09(旧8PW1)やダイヤトーンのP610Aなど、性能を追いつめて行って自然に生まれた美しい形、優れた製品がある。ローコストにはローコストの、無駄の無い美しさがある。ここまで来てやっとひとつの結論を言えば、外観と内容にごまかしの無い、嘘の無い製品には見陸がある。魅力ある製品、優れた製品というものは、どこまでが外観の魅力なのかどこからが内容の魅力なのか、そのけじめが渾然と一体になでいるものなので、現在の多くの市販製品のように、内容は技術課が設計し外観は内容を知らない意匠課のデザイナーが担当する、といった企業体質からは、本ものの魅力を生むことは不可能でないにしても極めて困難である。
 そのことからソウル・B・マランツとA・ロバートソン=エイクマンの名をあげてみたい。前者はかつてのマランツの、後者はSMEの創始者である。マランツは工業デザイナーであり自身チェロを弾くアマチュア音楽家であり、エイクマンは精密機械工場の経営者であり機械エンジニアで、ともに熱烈なオーディオ愛好家であった。マランツはそれまで市販されていたアンプに、エイクマンは同じくトーンアームに、自身満足できるような理想像を見出すことができず、自らの理想を実現するために努力して、永い年月をかけけてあの優れた製品(マランツ・モデル1からSLT1
2に至るアンプとプレーヤー、そしてSMEのアーム)たちを世に送った。彼らはそれを商品としてでなく、自身の高い理想を満たす、自分で使うために作ったのであり、その妥協を排したごまかしのない作り方が、同じ理想を理解する多数の愛好家の心を動かし、製品が支持され、一つの企業として成立さえするに至ったのである。右の二人のような会社の創始者ではないが現在のJBL社長であり、マランツと同じく優れたデザイナーとして、JBLの一連のデザインポリシーを確立したアーノルド・ウォルフの名もぜひあげておきたい。こういう形はオーディオの世界ばかりでなく、たとえばヴィクター・ハッセルブラッドや、古くはオスカー・バルナックにもみられる例である。言うまでもなくハッセルブラッドとライカの創始者であり、どちらも自分が使うために作ったカメラが現在の製品のプロトタイプとなり、ことにハッセルブラッドが1948年以来その原型を基本的に変えていない点がSMEのアームに良く似ている。
 右のような姿勢──それまで市販された製品に理想像を見出すことができない故に、いわばやむにやまれぬ衝動が優れた「もの」を生む動機になった──例は古今に限り無くあったのだろう。しかしその動機は同じでも、結局、洗練された感性と自身に対して厳しい態度で臨むことのできる優れた人間の作ったものだけが、永く世に残って多く人たちの支持を受けることになる。理想と現実とのあいだに立って、クールな眼で自分の生み育てた作品を批判できる人だからこそ、一歩一歩改良を加え永い年月をかけて立派な作品二仕上げることができる。そういう製品が、本ものの魅力を具える。価格が安かろうが大量生産品だろうが、洗練された感性に磨かれれば自然に魅力ある製品に仕上ってくる。そういう魅力は、現在の日本の工業製品の大多数がそうしているような多数決方式からは生まれにくい。また、頻繁なモデルチェンジ──それも原型(プロトタイプ)を簡単に水に流していつでもスタートし直しのような──態度からも、製品の魅力は育たない。人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる誤った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。ことにオーディオ機器は、芸術と科学と人間との完璧な融合がなくては、魅力ある製品に仕上りにくい。データには表わしにくい人間の感性にもっと目を開かなくては、立派な製品は作れても魅力ある商品(それに見合った金額を払うに値する製品)は生まれない。

真に明確な設計思想を反映するものなら素晴らしい魅力をもち得る

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオ製品の魅力を具体的に表現することは難しい。もし、それが出来るなら、私は世界一の魅力的なオーディオ機器を自分でつくってしまえる。従って、これについて書く事は、やはり、ある程度、抽象的な表現になってしまうと思うのだ。オーディオ機器に限らず、機械というものの魅力は、第一に、その機械が目的とする機能を果す上で最高の性能をはっきしていなければならないということだろう。これは当り前の事のようだがなかなか難しい。そもそも目的とする機能といったけれど、この目的の考え方が大問題なのである。車の目的一つを考えてみても、その難しさがわかろうというものだ。車は速くなければならない。遅い車は無意味である。遅くてよければ、歩いて事足りる。カゴでも馬車でもよい。また、ただ速いといっても、その速さにもいろいろある。急激に加速する速さと、巡航できる最高速度とは別物である。ランナーの短距離と長距離のような性格かもしれぬ。次に、車は自由にあらゆる道路を走破できるものでなければならぬ。電車や汽車のように予め設置された線路を走るものとはちがう。直線もカーブも、平坦な道もデコボコな道も坂も走らなければならない。つまり、あらゆる状態に対応できる操舵性をもっていなければならない。そして、もっとも重要な事は、そうした性能が常に安全も保障された上で発揮できなければならない。車は、確実に停れなければいけない。人間と車は常に一体のものだから、肝心の人間が、極度に疲れたり、危険に身をさらされたのではなんの意味もないどころか、その存在理由は根底から覆るだろう。ちょっとあげただけのこれだけの条件を完全に満たすだけでも容易ではないわけで、車の設計者は、全ての条件を満たす事を理想としながらも、現実可能な範囲で、どこかにポイントをしぼらざるを得ない。速さ一点ばりのスポーツカーにするか、快適第一の大型セダンにするか、客本位の乗用か、貨物本位のトラック化。つまり、目的はさらに細分化され選択整理されるのである。この選択整理のされ方が、設計の思想の根源となり、出来上るものの性格を決定づけるといってもよいであろう。この段階で、よほど煮つめられていないと、出来上る段階までに、何度か設計変更や手直しがあって、結果的に、中途半端な無性格なものになってしまうものだと思う。
 オーディオ機器の目的とは何か? いわずとしれた音の再生である。しかし、ここにもまた、車の場合と同じように、いくつかの目的の細分化が生れるのである。小さい音、大きい音、徹底的にワイド・レンジな音、耳を刺激しない適度なレンジの音、専門家が使うか素人が使うかによって分れる機能や操作性のちがい、何でも適度に満足させるか、一点重点主義でいくか……等々、多くのバリエーションが考えられるだろう。手近な例をあげれば、一体型のものとコンポーネントでは、本質的に、この目的の細分化や整理の考え方は異るのである。また、もし細かい話しをすれば、ツマミの数を少しでも減らして操い易くするが可変できるものは全てツマミでコントロール出来るようにするかといった事も含まれる。このように、その機器が、目的をどう定めるかという思想の確固たるバックボーンを持っていないものは魅力はないし、また、当然、最高の性能は出し得ないのである。作る人間の頭の良さと才能、精神が、まずこの第一段階で、機器に明確に反映してくるのである。私はスポーツ・カーも好きだし、セダンも好きだ。ジープも好きだ。と同じように、コンポーネントも、一体型も、小さなカセット・ラジオでさえも好きである。それが、真に明確な設計思想を反映するものならば、皆、それぞれに素晴らしい魅力を持ち得ると信じている。
 さて、このような基本的な事柄だけで、私のいわんとしていることは終りのようなものだし、後は全て、その基本精神をいかに製品に生かし切れるかというテクニックの問題なのだが、もう少し話しを発展させてみようと思う。
 オーディオ機器に限らず、機械の魅力の重要な要素の一つは、なんといっても、見てさわって感じられる感覚である。大きな意味でのデザインといってよいだろう。そして、機械美、メカニズム・ビューティというものの第一条件は、必然から生れたものでなければならない。つまり、虚飾はこの世界では通用しないのだ。というと、何の味気もない、シンプルなものを想像されるかもしれないが、そうとばかりは限らない。ボーイング747のコックピットを見たまえ。もの凄い複雑な計器類が並んで、まるでメーターのジャングルである。決してシンプルなものとはいえない。しかし、あれは、全て必要欠くべからざるものばかりなのだそうだ。DOHCエンジンのエンジン・ヘッド・カバーを開けて見たまえ。エンジンの中には虚飾はない。凄く複雑だ。美しい。ヘマなデザインの時計は文字板よりも中味の方がはるかに美しい。アンプもそうだ。いいアンプというものは、中味が実に美しい。いいかげんなアンプは、外観は勿論、中味も美しくない。非合理的な部品の配置。チャチなパーツ。安っぽいビスやシャーシーやビニール線が乱雑である。こんなアンプは特性も音も絶対にいいわけがない。一方、シンプルなほうはどうか。私はかつて、父親が所有していた関の孫六という日本刀の素晴らしさに唸った記憶がある。柄や鍔や莢も凄かった。しかし、何といっても私を夢見心地にさせたのは、刀身そのものであった。シンプルきわまりない刀の姿、その形と質感の与える魅力は、いかなる複雑な装飾にも勝って大きな感動を与えたのである。匠が全智全能を傾けて焼き入れた鉄、その硬軟の美しいバランスは実際の切れ味を超えて美しく冴えていたことを思い出す。ダイムラー・ベンツやポルシェに使われている特殊鋼も、それ自体、魅力に溢れた質感で私を把えてしまう。ただのナマクラな鉄とは次元を異にした味である。こっちは、日本刀の匠に代って現代科学のなせる業である。このように、私は機械の美しさは、必然的に、その性能を追求した時に生れる味わいだと思うのである。そして、そういう味わいをもつ機械は、性能も必ずいいものだ。オーディオ以外の話しが多くて恐縮だが、オーディオ機器の魅力も同じ次元で把えることが出来ると思う。デザインや質感、触感のよいオーディオ機器も、きっと優れた特性をもち、素晴らしい音を出してくれるものではなかろうか。内容とは無関係な感覚や次元でデザインされたパネル。コストの制約からか安っぽい素材を無理にゴマかした使い方。ギクシャク、ザラザラした操作スイッチやボリュームの類。そんな機器で良い音を出したものには未だ一度もお目にかかったことがない。私の手許にあるオーディオ機器で真に魅力にとんだものはそう多くはないが、マランツの7や7Tのパネルは一級品だ。素材と仕上げの良さが感じられ、感覚的にはシンプルな、プリ・アンプはこうあるべしという設計者の思想や頑固な精神が沁み出ている。JBLのSG520のプリ・アンプも、少々劣るけれど、やはり一級品だろう。なによりも、そのデザイン感覚のシャープさが、このプリ・アンプの音と実によくマッチしている。マッキントッシュは全然、違う感覚だ。夢である。ロマンである。メカニズムの美というものの把えかたを私とは全く違う角度からアプローチして見事に調和させている。手許にはC28、MC2105があるが機械屋が、機械の冷たさ硬さに愛情をもって衣を着せたのが、これらのアンプのパネルの魅力だ。JBLの375ドライバーに537-500ホーンをつけたもの、それに075をむき出しで使っているが、必然から来た、これらのスピーカー・ユニットの外観は、それこそなんの虚飾もない。人はどう思うか知らないが、私はとても好きである。なにかで、おおいかくそうなどという気は全く起さない。仕事で使っているノイマンやアンペックスの機器も同じである。プロ機器はなおさら虚飾はない。
 最後に正直に一つ告白しよう。いろいろ理屈を並べたてたけれど、オーディオ機器は音のいいものは形もよくみえてくる。つまり、見た眼の悪いものからはいい音がしないといったけれど、中には、見た眼の悪さが気にならなくなってくるものもある。音がよほどいいのである。ただ、そういうものには見た眼にも虚飾だけはないのである。

ラジカルな志向がオーディオ機器の魅力の真髄となる

岩崎千明

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオ機器の魅力とはいっても、その「魅力」という言葉自体がはっきりとは説明でき難い特質を持っているということが、まず第一の問題だ。魅力の「魅」は俗世界の人間とは違った存在であって、これは人間の知性や理性ではどうしようもない超能力の怪物みたいなものだ。辞書を引いてみると
 魅=①ばけもの。妖怪。②人をばかす。
   ③みいる。心をひきつけて、迷わす。
 魅力を感じるというその「魅力」は、だから説明がつけられないし、無理矢理説明すればそれはこじつけになってしまう。理由がはっきりとつかないで、それに参ってしまうから魅力なのであり、あれこれと判断して良いと心得るというのでは「魅力」そのものではないといえよう。
 そうした魅力と感じるかどうかは、そのきっかけは対象の方にあるのには違いないが、それを魅力と感じるかどうかは、それを受けとる人によって異なる。
 魅力だと感じとったことは、その当事者にとっては魅力であっても、果してそれ以外の者にとって必ずしも「魅力」とは限らないのではないか。例えば単純なことだが、「安い」という魅力はその内容に比してのことだろうが、その内容の価値を認め得ない者にとっては決して「安い」とは限らないし、そうすれば「安い」という魅力は誰でも同じに感じるというわけではなくなる。まして絶対的価値の高低を全然気にしない者には、「安い」なんていうことはまったく魅力とは成り得ない。
「豪華」なデザインだからといって良いと感じとる者もいれば、それだからいやだという者もいる。音が繊細だからいいという者も、頼りなくていやだと受けとる者もいよう。
 こう書いていけばもう判るだろうが、魅力というのは対象物の方にあるのではなくて、魅力と感じ受けとる当事者の方に魅力の源があるのだ。
 さらに突っ込んで考えれば、だから魅力を感じる当事者の内側が広く深いならば、魅力はあらゆる方向に見いだせるに違いないし、またその深さも当事者の堀り下げる尺度のとり方が深いならばどこまでも深くなろうし、そうでないならば表面的なものとか浅い見方しかできないということになろう。技術的によく精通していれば技術に対し深い見方をできるに違いないし、そうすればアンプにおける回路の違いどころではなく、抵抗一本の使い方にも、また数値の選び方にさえも新たな魅力を発見できよう。単に再生機器の音の良否をうんぬんするだけでなく、そのメーカーの本質や創始者の考え方や音楽的センスを知れば、メーカーの歴史や志向をたどれば「音」ひとつの判断にしたって変ってくるし、同じ音(サウンド)の中に、また他人の気付かぬ魅力を発見することも不可能ではない。つまり魅力とは、そのようにオーディオにあってはオーディオ機器という対象物の中にあるのではなく、きっかけはあるのだが、それを魅力と感じるかどうか、さらに魅力という形にまでも大きくふくらまし得るかどうか、というのは受け取る側の内部の問題なのだ。
 そうなると、オーディオ機器ならば、おそらくどんなものにも魅力が、正しくはそのきっかけとなる要素が必ずやあるだろうし、魅力のない機器はおそらく皆無に違いない。
 こういうふうに話を進めていくと、おそらく読者を始め編集者の期待する方向から話はどんどんずれていってしまうことになるので、以上のことをまずよく知っておいたうえで当事者の内側からオーディオ機器の方に話の焦点をしぼっていこう。つまり魅力と感じさせるオーディオ機器側の要素に触れていこう。
 魅力の第一は、バランスの良さだ。設計の全体、または各部のひとつひとつに対するバランス、またはデザインの上でもよい、細かくはパネルに並ぶつまみをとって考えれば、その並び方、大きさとすき間、仕上げ、光沢、それぞれが周囲のパネル全体に対してのバランスの良否が魅力というものを生み出す。いや、つまみひとつとってみても形や寸法、さらに仕上げ、カットの仕方、さらにその指先の触感、操作性などのバランスの良さというだけでも、アンプにおける魅力といわれるものさえ創り出してしまうことになる。
 このようにオーディオだけではないが、もっとも単純な外面的な捉え方にしても、バランスの良さということが誰に対しても共通的な魅力を感じさせる要素になる。
 むろん内部に対して眼を向けられ得る素養を当事者が持っているなら、設計上、生産上、またはコストの上から選ばれる部品にしてもバランスの良さが判り得るし、そうなれば、それらは魅力の要素といえよう。いかなる見方にしろこうした例を挙げるまでもなく、バランスの良さは誰にでも割に判りやすい魅力となり得よう。
 このバランスの良さというのは、オーディオにあっては音(サウンド)と、メカニズムと、デザインの三つのあり方が大きな柱となり得る。
 こうしたバランスの良さという魅力は、実は誰にも判りやすいがもっとも単純な魅力で、オーソドックスな判定基準のひとつといえようか。
 それに対して、アンバランスの魅力というのがある。ある面を特に強めようとするとき、バランスをくずして変化を強め、敢えてアンバランスの面白さを狙う。
 ただ、このアンバランスを魅力と感じるのは、バランスの魅力を通り越さないとだめだ。
 ここでいうアンバランスは単につまみの左右が非対称などという単純な形のものではない。設計上や企画上の重点主義も一種のアンバランスであろうし、性能上の面にもある。むろんサウンドの上にもある。メーカー側の片手落ちを、アンバランスの魅力と受けとってしまうこともあるが、このアンバランスの魅力というのは、実は完壁なバランスがあって初めて僅かな点に、アンバランスを有効な形で成り立たせているというのが実際だ。
 さて、こうして述べてきた魅力は、実はオーディオのみに限らず、人の世のあらゆるものに対してまったくそのまま当てはまる事象である。例えば芸術一般、音楽にしろ美術にしろ、さらに文学や人間の登場するありとあらゆるもの、さらに人間そのものに到るまで、人間の生活のリズムなど、どれをとったって同じことばがそのまま通用して、バランスとそれを基としたアンバランスが魅力を創り上げる。
 ところで話の本筋はこれからだ。オーディオを始めとして人間の作り出す魅力、または人間の生活に深くかかわる仕事やテクニックにおいて、もっとも大きな魅力を創り出す要素がひとつある。
 一心不乱の心だ。
 すべてがあるひとつのことのために集中され凝縮された状態である人間それ自体が、一番魅力を発揮するのもこうした状態だし、たったひとつのことのためにすべてを捨てるこの状態だ。ウェストコースト・サウンドといわれる高エネルギー輻射を、オーディオ再生のすべてとしているかのように受けとれるJBLサウンドの魅力もそれにあるのだし、実はそう受けとめている当事者たるこの私の方にあるのかもしれない。60年代の初めにあったノイマンの超高価プリアンプもつまみはたったひとつのみ。これに集約されたプロ用といわれる製品の数々も、それは業務用という名のもとに純粋に「手段」としてそのすべてが作られているという点にあるのだろうか。
 海外製品における魅力もつきつめれば、他にないオリジナリティというよりも、豪華さにあり、それはだから彼地にあってはありきたりでも、「海外製品」として日本にあってこそ初めて魅力を保ち得るのではないだろうか。
 つまり、輸入品としての高価格と稀少性のみが魅力のすべてを支えており、高価なら高価なほど、当事者の内の満足度も高くなる、という特別な形の魅力で、それは本来、オーディオ機器においてうんぬんする魅力とは違うものではなかろうか。
 最近の流行の大出力アンプも、目的のために他のあらゆる要素をすべて犠牲にした上で成り立っており、このラジカルな志向がオーディオ機器の魅力の真髄となるのではなかろうか。

魅力とは機器を通して製作者の個性がわれわれに語りかけるものだ

井上卓也

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオの魅力とは何か、これは大変に難しいテーマである。何故かといえば、オーディオにかぎらず、とかく趣味であるカメラ、時計、車など、そのいずれをとってみても、魅力と感じるのは、きわめて個人的な主観であって、ある製品を魅力的だという発言を二人の人がしたとしても、結果として魅力という言葉に帰結したという事実はあるが、そのポイントするところは大体の場合に異なるのが通常である。自分自身というカテゴリーのなかでも、製品に対して、かなり多角的に眺め、ケースバイケース、大変に独善的な見方として魅力的だといっているのは偽りのない事実である。編集部から出されたオーディオ製品の魅力とは、というテーマに対して私がいえることは、個人的な勝手な発言でしか書きえないものだと思う。
 魅力というものには、何ら定形はない。何か物指しのような尺度があって計り得るものなら、ことは簡単であるが、それがないだけに常に伸縮自在の自己の物指しで計るしかない。いや、計るのではなくて、直観的であるか、ある期間の間にプロセスとして経験的に体験するの違いはあったとしても感覚的に感じるものでしかありえないものだ。現実にオーディオ製品で私は魅力を感じたものは、可能な限り手もとに置くことを、ひとつの信条としているが、それらについて何故魅力を感じたかを考えてみること自体が大変におかしなことなのだけれども、一般的な表現方法でいえば、音そのものであり、また、デザイン、機能、操作性、物理的性能などで説明することが可能である。しかし、もっとも大切なことは、それ以外のサムシングともいえる、何かかがなければ感覚的に魅力には結びつかないのである。それが何であるかが、この際に問題である。
 とかく、魅力のポイントを探し出し、自ら納得しながら、つまり、かなり短絡的な思考のプロセスを経過していかないと、もっともらしい理由づけはできないようだ。このような苦痛を伴う心理的作業自体が、かなり趣味に反するものであり、このことがバイアスとなって、自己暗示にかかりながら説明をしようとすればするほど、残念ながら、逆に魅力の実体から、かけはなれていく、一種独特な空々しさは如何ともしがたいものなのである。具体的にデザイン、機能などという分類では表現しえないものであるなら、本来の感覚にもどってみるより他はないのではなかろうか。
 オーディオ製品の魅力は、私は個性であると思う。ここで個性というのは、製品自体のもつもの、ということよりも、製品の姿を通して、われわれに語りかける製作者の個性なのだ。このポイント以外に私は魅力の根源はありえないと思う。具体的な例をあげれば、スピーカーシステムでは、私はボザークもJBLも好きであるし、アンプでいえば、マッキントッシュにも、マランツにも名状しがたい魅力がある。そのいずれも同一の次元で比較できるものではなく、オーディオ製品として魅力があるとしかいえない。つまりボザークの個性とJBLの個性は当然のことながら異なる。ボザークはR・T・ボザーク氏の一徹ともいえる会社創業以来不変のクラフトマンシップと彼自身の音楽性であるし、JBLは精密機械工場からつくり出されるクールな感覚、知的でありながら明るく、ハートウォームなサウンドとしかいいえない。あくまで、ボザークはボザークであり、JBLはJBLでなければならない。
 洋の東西を問わず現在のオーディオ製品は、大型フロアースピーカーシステムや管球式セパレート型アンプがオーディオのトップランク製品であった時代とは個性が大幅に変化している。その性格の変化とは、かつては製品が量産されたといっても現在の量産とは絶対量が異なり、いわば手づくり的な規模であり、クラフトマンシップにあふれた製品が世に送り出されていたわけだ。例えば、マランツ♯七プリアンプにしても、そのシリアルナンバーを信用するかぎり17000~18000あたりから国内に輸入され、推定ではあるが25000程度で生産が打切られたはずである。この数量は定評のある高級プリメインアンプならば一年たらずで到達する生産量であろう。つまり、現在のオーディオ製品は、マスプロダクトを前提とした工業製品という正確が基本でありけっして工芸品ではありえないことだ。
 スピーカーシステムの場合、この傾向がもっとも顕著である。極めて例外的でないかぎりコンシュマーユースの大型フロアーシステムの新開発はありえないだろうし、現存するシステムすら、何時まで続けられるかは予測しがたく、比較的近い将来に中止されることだろう。大型スピーカーシステムに手をかけて少数生産するよりも、ブックシェルフ型を量産するほうが、よりビジネスライクであるわけだ。このことは、ほかの趣味である時計や車でも同様である。クラフトマンシップはすでに感じられず、ただ、マスプロに徹しているのが近年とみに感じられる。これは、時代そのものの変遷であり、如何ともしがたいが、趣味として魅力の製品が期待できないのは大変に残念というほかはない。これでは、趣味としてのオーディオの命脈が尽きたという声が出るのも仕方あるまい。たしかに、工芸品的要素を求め、クラフトマンシップの個性を求めても何物もないとしても、現代の製品には、工業製品としてのオーディオ機器の個性、つまり魅力が存在するのは事実である。
 現代の製品がマスプロダクト、マスセールが前提であれば、プロデュースする立場では、より普遍的なバーサタイルな性格の製品がベストにならざるをえない。現実に、比較的性格の温和な製品が多いのは事実で、折角、永年育てあげてきたメーカーとしてのカラーを個性にまで磨きあげる努力を怠り、クセという次元の低い状態のまま葬っている例が国内製品に多いのは残念なことだ。私は個人的には、メーカーとしてのカラーを捨てて、普遍性のある製品ができたとしても魅力を感じることはないし、他社のカラーを導入しても、より完成度が高い製品ができたとしても認めることはできない。つまり、会社は会社のカテゴリーのなかに存在しなければ、存在そのものに意義がないと考えるのである。もしも、数多くのメーカーから、デザイン、機能、物理的性能、トーンキャラクターなどが類似した製品がだされたとしたら、それほど数多くのメーカーがなければならぬ必然性はなく、一社の存在で充分なはずだ。
 現在のようにオーディオの市場が異状に拡大した、いわば乱世の世代に生きぬくためには、魅力を感じる製品が必須条件であり、そのためには、独自のポリシーを貫き、固有のカラーを個性にまで育てなければならない。こと国内製品に限定して考えると、トランスデューサー関係では、動向としてはユニークな製品が、現われかかってはいるものの、あくまで素材面であり、物理的特性面での例が多い。今後は、いかに、音楽を聴くためのオーディオ製品とするかであり、鍵はプロデュースをする立場の人が、いかに音楽を愛し、音楽と親しんでいるかという個人の問題にあろう。とくにプレーヤーシステム関係のコンポーネントにシステムプランの面での飛躍を望みたい。
 アンプ関係は現在国内製品が、もっとも強い分野である。とくにプリメインアンプでは、よほどのことがないかぎり、海外製品の入り込む余地はないようである。しかし、セパレートタイプのアンプとなると大パワーの面では、細菌かなりのパワーアンプが作られてはいるが、米国系ハイパワーアンプとは、まだまだ比較するわけにはいかぬ。ただ、パワーアンプで期待される材料に、パワーFETの開発がある。現在までに実際に試聴した例は少ないが、この新しい素子に管球にもトランジスターにもない未来的な可能性があるのは事実である。これに比較するとプリアンプは世界的に不作であるようだ。
 現在市販されているオーディオ機器のなかで魅力ある製品に、私は24機種を選んだが、そのすべてが、製品を通じて作る人間の個性が私に感じられる現代の魅力あるオーディオ製品である。これらの製品は、すべて熟知しているつもりのものであり、その70%程度は実際に使用しているか、近日中に現用機として使用するものである。本質的な製品のもつ魅力は、自分の手にし、自分の部屋で使用してみないことには実感とはなりえない。

良い音とは、良いスピーカーとは?(最終回)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)

スピーカーの新しい傾向
     1
 アメリカを例にとれば、一方をKLHに、他方をJBLに代表させると説明がしやすい。KLHのくすんだ色彩を感じさせる渋い鳴り方。細部(ディテール)をこまかく浮き彫りするよりもむしろ全体の調和を大切にして、美しく溶け合う重厚なハーモニィを響かせるあの鳴り方。おっとりした、暖かい、気持のいい、くつろぐことのできる、しかしやや反応の鈍い……などといった表現の似合う音に対してJBLの、第一にシャープさ、明快さ、細かな一音もゆるがせにしないきびしさ、余分な肉づきをおさえた清潔さ、鈍さの少しも無いクリアーな、反応の敏感な、明るい陽ざしを思わせるカラッと乾いた軽い響き。あらゆる点が正反対ともいえる鳴り方は、とても同じアメリカのスピーカーという分類の中には、とても収まりそうにない。それは、KLHを生んだボストンと、JBLの生まれたロサンジェルスという土地柄と切り離して考えることのできない性質のものだ。
 ボストン。アメリカよりむしろヨーロッパの街並を思わせる古い煉瓦作りの建物。夏などはじっとりと汗ばむほど湿度が高く、そして冬は身を刺すような寒風の吹きまくる、日本でいえば京都や神戸のように、ふるさと新しさが混然と一体になり、むしろ街が古いからこそ新しいものに憧れ、しかも新しさをとり入れることで古いものの良さを壊すようなことをしないで良識のある街。ヨーロッパの古い様式で作られた有名なシンフォニー・ホールで聴くボストン・シンフォニーの音に、わたくしはKLHの体質をそのまま感じる。ARの古いタイプにもそういう響きはあった。AR7あたりから後の新しいARの各モデルの音そして同じ流れを汲むアドヴェントの音は、KLHのような暖かさが薄れてきているとわたくしには聴こえる。それにしてもしかし、なぜ、AR、KLH、アドヴェントというスピーカーたちが、ボストンに生まれ育ったのか、これは興味のあることだ。そう、それにもうひとつBOSEを加えなくてはいけないが。
 ロサンジェルス・シンフォニーを、あの有名なパビリオンのホールで聴くと、同じようなシンフォニー・オーケストラがこれほどまでに軽やかな明るさ、おそろしく明晰でクールな肌ざわりで響くことにおどろかされる。そして聴いているうちに次第に、JBLのスピーカーの音が結局はこれと同質のものだということに気づきはじめる。ボストン・シンフォニーがKLHの音を思い起させるのと同じプロセスで、しかもその音はあらゆる点で正反対に。
 ロサンジェルスに住む友人の紹介で、その土地のオーディオ・マニアと友達になった。その彼がわたくしに、BOSEやARの音をどう思うか? と質問してくる。彼は言う。あの重苦しい音、もたもたした低音、切れ味の悪さ、あんなのがお前、音だと言えるか……。そうだそうだ、オレもそう思うよ、とわたくしは彼と握手してバーボンの水割りで乾杯するのだ。
 ところが東海岸側(イーストコースト)では事情は逆転する。「ハイ・フィデリティ」誌の編集者たちが、ニューヨーク郊外の古い館を改造したレストランで昼食をご馳走してくれたあと、外に出ると夕立が上って、向うの山腹で雷鳴がまるで大砲を撃つようにとどろいたとき、中の一人が、ほうら、JBLだ、ドカァン、ドオーンだ! と、さもおかしそうに揶揄するのである。つい今しがた、互いに使っている再生装置を紹介しあって、わたくしがJBLの3ウェイの名を上げたら彼らの顔に一様に不思議そうな表情の浮かんだ意味がそれで氷解した。彼らはJBLをちっとも良いと思っていない。
 ハイ・フィデリティ誌ばかりでなく、〝ステレオ・レビュウ〟誌でも〝オーディオ〟誌でも、あなたがたが最も良いと思うスピーカーは何か、と質問したのだが、答の中に一番に出てくるのが、決まってARのLSTだった。ステレオ・レビュウ誌の編集者の一人はなかなかの通らしく、LSTのレベル・コントロールのポジション1か2が良い、とまで言い切った。もちろんAR以外のスピーカーの名前も出たのだが、JBLの名はほとんど出てこない。そして重要なことは、これらの出版社の所在地が、全くニューヨーク地区──つまり東海岸のそれもほんの一ヶ所──に集中している、という点である。ニューヨークとボストンは東京と名古屋ぐらいの近い距離だが、そのボストン/ニューヨークの目の出は、ロサンジェルスより三時間も早い。北のボストンと、もう少し下ればメキシコという南の街ロサンジェルスとは、もう全く別の国といってもいいくらい、気候も人の感受性も違っている。ボストン・シンフォニーの音もLPOの音も、そういう音をつくろうとしてできたのではなく、彼らの血が、つまり彼らの耳が自然にそういう個性を作り育てた。その同じ血がスピーカーを作っている。日本人のような単一民族にはこのことは容易に理解できない不可解な、しかし歴然とした事実なのである。話をヨーロッパにひろげても日本に戻してもその点は全く同じことだろう。ただ、少なくともアメリカ国外でそれくらい評価の違うボストンの音(AR、KLH、アドヴェント)とロサンジェルスの音(JBL、アルテック)が、ヨーロッパでも日本でも確かに良い音だと評価され受け入れられているのに対して、日本のスピーカーの音が、海外では殆ど評価の対象になっていないというのも確かな事実である。さきにもあげたアメリカの代表的オーディオ誌三誌、それに、業界誌の〝ハイファイ・トレンド・ニュウズ〟誌を訪れてそのどこでもきまって出てくる質問が二つあった。ひとつは、日本の4チャンネルの現状がどうなっているのか、であり、もうひとつは、日本のエレクトロニクスがあれほど進んでいるのにスピーカーだけはどうしてあれほど悪いのか、お前たちはあの音を良いと思っているのか、であった。ステレオ・レビュウ誌の編集部では、読者調査のカードをみせてくれ、それにはパーツ別に分類したブランド名ごと普及率が整理してあり、アンプやテープデッキでは日本のメーカーが上位を占めているのに、スピーカーばかりはべすと10の銘柄(ブランド)のうち、日本のメーカーはわずかに一社。しかも、これだって音が良くて売れているんじゃない。アンプその他で強力な販売ルートを作り上げて、スピーカーは抱き合わせで無理に販売店に押しつけているんだ、品ものがいいからじゃないんだ、とくりかえして説明してくれる。いままで、日本のスピーカーが海外で認められない、と書くと、、日本のメーカーから、海外でもこんなに出ているという数字をみせられたことがあるが、必ずしも「良い」から売れているとは限らない、という例を、はからずもアメリカの雑誌の編集者たちが証明してくれたわけだ。くやしいかぎりだが仕方がない。風土がスピーカーの音作るとなれば、日本という国に、良いスピーカーを作るだけの土壌があるかどうか、という問題にまでさかぼらなくてはならなくなってくる。前途多難である。

     2
 スピーカーの音の違いというものを、しかし風土や土地柄からだけでは説明しきれない。たとえばARをみてもJBLやアルテックをみても、またイギリスやドイツのスピーカーをみても、この数年のあいだに音のバランスのとり方が明らかに変ってきている。それにはいろいろの原因が考えられるが、わたくしはいま三つの理由をあげる。
 第一はスピーカーの設計、製作の技術や材料の進歩。これによって、従来そうしたくてもできなかったことが可能になる。
 第二に、スピーカー以外のオーディオ機械類の進歩。たとえばテープを含む録音機会の進歩、それを再生するピックアップやテープデッキやFMチューナー、アンプリファイアーの進歩によって、同じスピーカーでさえ音が変り、ひいては新しいスピーカーの出現をうながす。
 第三。音楽の変遷、そして同じ音楽でも演奏様式の変遷。たとえばロックの台頭と普及によって、従来とは違う楽器、演奏法が誕生し、聴衆の音楽の聴き方が変わる。クラシック畑でもその影響を受ける。とうぜんそれが録音様式の変化をうながし、録音・再生機械の進歩をも促進させる。
 再生音の周波数レインジに関していえば、40から一万二、三千ヘルツまでがほぼ平坦に、歪少なく美しく再生できれば、音楽音色をほとんど損なうことなく実感を持って聴くことができる、という説は古く一九三〇年代にベル・ラボラトリーやE・スノウらによって唱えられ、それはごく近年まで訂正の必要が認められなかった。蛇足と知りつつあえてつけ加えるが、40から一万三千ヘルツをほとんど平坦に、というテーマは現在でも容易に達成できる目標とはいえない。カタログ・データはいざ知らず、現実に市販されているスピーカーの周波数特性だけを眺めても(たとえば本誌28、29号スピーカー特集の測定データを参照されたい)、右の条件がなま易しいものでないことはご理解頂けると思う。わたくし自身も、かつてハイカット・フィルターによって実験した際、少なくともクラシック及び通常のジャズ、ポピュラーのレコードに関するかぎり、13キロヘルツ以上の周波数を急峻にカットしても楽器自体の音色にはもはやほとんど変化の聴きとれないことを確認している。
 しかし──、ロックに代表される新しい音楽、それにともなう新しい奏法の出現によって、オーディオからみた音楽の音色は大きく転換した。低音限界の40ヘルツは一応よいとしても、シムバルそのほかの打楽器、雑音楽器(特定の音程を持たないリズム楽器や打楽器類を指していう)などの頻用とより激しいアタックを強調する奏法によって、音源自体の周波数レインジはより高い方に延びはじめた。打楽器はその奏法によって高域のハーモニクス成分の分布が大幅に異なり、アタックの鋭い音になるにつれて高域にいっそう強いスペクトラムが分布しはじめる。シムバルの強打では、20キロヘルツ以上にまで強い成分が分布することもすでに報告され、実際にも13キロヘルツぐらいでフィルターを入れると──もちろん録音・再生系の全体がそれより高い周波数まで正確に再生する能力をもっている場合にかぎっての話だが、明らかに音色が鈍くなることがわかる。昔とくらべて、はるかに刺激的な音を多用する新しい音楽の出現によって、録音も再生も、より広い高域のレインジが要求されはじめたのである。
 その明らかな現われのひとつに、たとえばJBLの新しいプロフェッショナル・シリーズのスピーカー・ユニットの中の、♯2405型スーパー・トゥイーターをあげることができる。本誌27号の本欄で書いたように( 80ページ)、劇場(シアター)用、ホール或いはスタジオ用のスピーカーには、いわゆる超高音域は不必要であった。古いプログラムソースには、10キロヘルツ以上の音はめったに録音されていなかったし、したがってそれ以上の高音域を平坦に延ばしてもかえって雑音(ノイズ)ばかりを強調するという弊害しか無かったのである。したがってシアター用スピーカー、或いは良質の拡声装置スピーカーに、スーパー・トゥイーターに類する高音ユニットを加えた例は従来ほとんど無く、大半が2ウェイどまりであることはご承知のとおり。わずかに家庭用の高級システムの場合に、エレクトロヴォイスのT350、JBLの075等の、3ウェイ用のトゥイーターが用意されていた。それでも、JBL/075の周波数特性は、10キロヘルツから上ですでに相当の勢いで下降をはしめる。E-Vだって日本のいわゆるスーパー・トゥイーターからみれば決してワイド・レインジとはいえない。むしろこの点では、日本やヨーロッパ、ことにイギリスの方が高域のレインジというかデリカシーを重んじていた。それは、アメリカのスピーカーのいわば中域にたっぷり密度を持たせて全体を構築するゆきかたに対して、より繊細な、音色のニュアンスの方を重視したからだろうと思う。
 しかし新しいJBL/2405の特性を初めて見たとき,わたくしは内心あっと驚いた。6キロヘルツあたりから20キロヘルツ以上に亘って、ホーン・トゥイーターとしてはめったにないほど、見事にフラットな特性が出ている。内外を通じてこれほど見事な高域特性のスーパー・トゥイーターはほんとうに少ない(ただし製品ムラが割合に多いといわれている。やはりこれだけの特性を出すのは、よほど難しいことにちがいない)。
 世界的にみても高域レインジを延ばすことには最も無関心にみえたアメリカで、こういうトゥイーターが作られなくてはならなかった必然的な理由を考えてゆくと、先に述べた音楽やその奏法の変遷に思い至る。なにもポピュラーの分野ばかりではない。クラシックでも、たとえばメータの率いるLPOの音色、あるいはパリ管弦楽団、いまではカラヤンが指揮するときのベルリン・フィルでさえもが、昔のオーケストラからみればはるかにアタックを強く、レガートよりもむしろスタッカートに近い奏法を多用し、いわゆるメリハリの利いた鋭い音色を瀕繁に出す。新しい録音は、そういう奏法から生まれる高域のハーモニクスをより鮮明にとらえる。あきらかに、オーケストラのスペクトラムは高域により多く分布しはじめている。この面からおそらくは、現在の音響学の入門書に出てくるオーケストラや楽器のスペクトラムの説明は書き改められなくてはならないだろうと思う。すでに現代の聴衆は、耳あたりの柔らかさよりは明晰な、歯切れのよい鮮やかな音を好みはじめている。カラヤンはそういう聴衆の好みを見事にとらえ、ことに演奏会では実に巧妙に聴衆を酔わせる。現在でいえば室内オーケストラほどの編成で演奏されたハイドンの94番のシンフォニーに聴衆が〝驚愕〟して飛び上ったのは、もはや遠い昔の物語になってしまった。
 むろん音楽全体がそうだとは決して言わない。わたくし自身の好みを別にしても、音楽が、またその奏法がそういう方向に変ってゆくことの意味、そのことの良し悪しはここでは論じない。少なくとも、音楽を演奏し録音し再生するプロセスで、大勢が右のような方向に動きつつあり、スピーカーの作り方の中で高域のレインジの拡張というたったひとつの事実をとりあげてみてもそのことを証明できるということを、ここでは言っておきたいだけだ。そして、高域のレインジをより拡げることが、単に楽器の音色のより忠実な再現という範囲にとどまらず、すでに28号の144ページその他にも書いたようなレコード音楽独特の世界が開けるという点の方を、ほんとうは強調したいのだが。(この点については、いまはもう残りの紙数も少なく今回はくわしくふれることができない。もし機会が与えられれば、レコード再生のプレゼンスについて、とでもいったテーマで書いてみたいと思う。)
 一方の低音に関していえば、モノーラル時代はいまよりはるかに低音の本格的な再生を重視していたことはだいぶ前に書いた。ステレオの出現によって、あまり低い音まで再生しなくても低音感が豊かに聴こえるという心理的な問題から、低音の再生がおろそかになりはじめ、ARのスピーカーの出現のあとブックシェルフ・スピーカーの安物が増加するにつれて低音の出ないスピーカーが大勢を占めはじめ、一方、フォノモーターの唸りを拾わないためにも、またそういうモーターの性能に寄りかかったレコード製作者側の甘さも加えて、いつのまにか、世の中から本ものの低音が消えてしまっていた。いまのオーディオ・ファンで、本当の40ヘルツの純音を聴いた人はごく僅かだろう。ブックシェルフ・スピーカーにテスト・レコードやオシレーターで40ヘルツを放り込んで、ブーッと鳴る低音はたいていの場合40ヘルツそのものでなく、第三次高調波歪みにほかならない。ほんものの40ヘルツは身体全体が空気で圧迫されるような感じであり風圧のようでもあって、もはや音というより一種の振動に近い。そんな低音を再生できるスピーカーがいかに少ないか、その点でも28~29号の測定データはおもしろい見ものである。
 しかしむしろいま急にそういう低域を確かに再生できるスピーカーが多数使われるようになったりすれば、殆どのレコード・プレーヤーは使いものにならなくなるだろうし、大半のレコード自体に超低域の振動が録音されていることがわかって、針が乗っているあいだじゅう妙な振動音に悩まされてしまう。すでにレコードもレコード・プレーヤーも、現在普及しているプアな特性のスピーカーでモニターされ作られている。むしろ大半のスピーカーが60ヘルツぐらいから下が切れていることが幸いしているとさえいえる。低音に関しては、基本波(ファンダメンタル)を正確に再現しなくても、倍音(ハーモニクス)を一応正しく再生できれば楽器のそれらしい音色は聴きとることができるという人間の耳のありがたい性質のおかげで、全体としては低音をそれほど再生できなくとも、あまり不都合を感じないで済んでいるというだけの話なのである。しかし、ほんとうにそれでよいのかどうか──。
 JBLのプロフェッショナル・モニター4320、4325などでは、従来のスタジオモニターSM50にくらべて低域の拡張が計られている。高域は必要に応じて2405を加えることができる。前号でふれたアルテックのモニター・スピーカーも、新型の9846-8Aでは従来の604E/612Aにくらべてより低域特性を重視し低域補正回路まで組み込まれた。
 そこで再びBBCモニター。KEFの新しい資料によれば、すでにふれたLS5/1Aに次いで model 5/1AC という新型が発表された。最も大きな改良点は、デュアル・チャンネルアンプリファイアー、いわゆる高・低2チャンネルのマルチアンプになったこと。これにともなって最大音圧レベル112dB/SPLとより強大な音圧が確保され、低域補償回路が組み込まれて低音再生をいっそう強力化している。これはLS5/1AとちがってBBCモニターの名で呼ばれていないので、放送モニターよりもむしろレコーディング・スタジオ用として改良されたものと考えることができる。また、前回のBBCモニターの新型としてLS5/5型をご紹介したが、その後の調査もこのモデルがBBCで現用されているという確証が現在のところ掴みきれない。ロジャースで製作されているとの情報によって同社の資料をとり寄せてみたところ、たしかにBBCモニターというのが載っていたが、モデル名をLS3/6といい、”medium size studio monitor” と書いてあって、ちょうど三菱の2S305に対する2S208のような位置にある中型モニターのように思える(外形寸法は25×12×12インチ。スタンド込みの全高は37インチ。20センチ型のウーファーをベースにした3ウェイ型)。
 JBLの新型モニターといい、アルテックのニュー・モデルといい、またKEFの5/1AC、ロジャースのLS3/6といい、また28~29号を通じて最も特性の優れていたKEFのモデル104といい、新しいこれら一群のスピーカーが、従来までのそれとくらべると段ちがいに優れた物理特性──、より広い再生レインジとより少ない歪み、あるいは広い指向性、あるいは再生音圧の拡大──をそれぞれに実現させはじめた。明らかに、スピーカーの設計に新しいゼネレーションの台頭が見えはじめている。この項を書きはじめた頃、わたくし自身にまだ右のようなスピーカーの出現は予測できなかった。けれど、わたくしは一貫して、まず本当の意味での高忠実度再生スピーカー、広く平坦な周波数特性と、それに見合う諸特性の向上を、スピーカーの目ざすべき第一の目標だと主張し続けてきたつもりである。現在問題にされているオーディオ再生のさまざまな論議は、過去の極めて不完全なスピーカーを前提になされてきた。それらを原点に戻すには、まず、スピーカー固有の色づけ(カラーレイション)を可能なかぎり少なくしてみること、いわばカメラのレンズ固有のくせ──ベリートやタンバールの独特の描写に寄りかかった制作態度を一旦捨ててみるところから、新たな問題提起が始まるべきだということを言いたかった。ほんとうのワイドレインジの音など聴いたこともない人が、ナロウレインジでも音楽は十分に伝わる、などとしたり顔で説明することが許せなかった。嬉しいことに、わたくしたちの廻りに右のような新しいワイドレインジ(決してまだ十分とはいえないまでも)のスピーカーが揃いはじめた。わたくし自身、ナロウレインジの、あるいは旧型の固有の性格の強いスピーカーから再生される音の独特の魅力にも惹かれるし、そのことを否定するものでは決してない。また、すべてのオーディオ機器がワイドレインジであるべきなどと乱暴な結論を出すつもりも少しもない。むしろ現在のオーディオ再生では、すでにふれたように再生音域の拡張はいま急にはむしろ弊害を生じる場合が多く、すでにKEF♯104を入手されたユーザーから、いままで聴こえなかったレコードや針の傷み、アンプの歪みなどがかえって気になりはじめ、アンプを交換してはじめて104の良さがわかった、という話も聞いている。わたくしのこの小論から、にわかにワイドレインジを目指すようなあやまちは避けて頂きたいとくれぐれもお願いするが、また一方、注意深く調整された広帯域の再生装置が、いかに多くの喜びをもたらしてくれるものか。ほんとうは、そこのところを声を大にしてくりかえしたいのである。
 アンプに限らずスピーカーもまた、物理データの本当の意味での向上が、聴感上でもやはりより良い音を聴かせてくれるということを、新しい優れたスピーカーたちが教えてくれている。BBCモニターLS5/1Aは、完成までには何度もスタジオでの原音との直接比較と精密な測定がくり返され、改良が加えられたという。こうして注意深く色づけ(カラーレイション)を取り除いたスピーカーが、一般市販のレコード再生しても本当にくつろぐことのできる楽しい音を聴かせてくれるという一事から、わたくしは多くのことを教えられた。

現代のマジックボックス オートチェンジャー

岩崎千明

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)
「現在のマジックボックス オートチェンジャー」より

 本来なら、ここでは現在市販されている「オートチェンジャー」がいかに優れているかということをページの許す限り述べ尽くし、それらの最新型に関しては、なまじっかのマニュアル(手動式)つまり普通のプレーヤーよりも正確で細かな動作をしてくれる、ということについて高級マニアにも納得させるべきなのであろうが、あえてそういうことは避ける。
 なぜか。それは、フルオートプレーヤーと呼称を変えたりしているチェンジャーをいかに述べても、動作の細部をことこまかに納納得できるまで説明したところで、いくらでもそれらを非難し、受け入れることを頑強に拒否するきっかけや言いがかりを見つけ出すにきまっている。だからといって、現在のオーソドックスなディスクプレーヤーがどのくらいまで完全であるか、ガラードの最新型チェンジャー、「ゼロ100」のそれにすら理屈の上では大方の市販品が劣るのである。
 レコードが傷むのではないか、という器具がオートチェンジャーを拒む最大の理由の最たるものだが、それではオートチェンジャーでなければレコードは決して傷つくことなく完全を保証されるか、というとこれまた必ずしもそうとは限らない。その点のみについていえば、レコード扱う者自体のテクニックとそれ以上に、「レコードそのものをいかに意識しているか」という点にこそかかってくる。レコード即ミュージシャンの心、と断じて、決しておろそかに扱えないという音楽ファンのあり方は、大いに賞賛されるべきだし、また、その域にまで達すればチェンジャーの価値をオーディオファンとしての立場を含めて、必ずや的確に判断してくれるに相違あるまい。つまりチェンジャーの説明は少しもいらない。
 けれど、世の中さまざま、あらゆるものがすべてヴァラエティに富む現代、再生音楽そのものも広範囲に拡大しつつあるし、またその聴き方もきわめて多様化している。しかし、だからといって聴き方それ自体がいい加減になるというわけでは決してない。それどころか、自らの生活環境が、ますます広げられるにしたがい、寸時も惜しんで音楽にどっぷりとつかっていたいと乞い願うのが、音楽をいささかたりとも傷つけ、軽んじ、強いては内的に遠ざけるということに果してなるであろうか。日常の寸暇も惜しんであらゆる生活タイムに音楽をはべらすという生活。これが果して、夜のしじまのありるのを見定め、あらゆる日常の煩雑を遮断して心身を改め清めて音楽に接するというのに劣り、音楽を冒瀆しその接し方そのものが軽率であるというであろうか、断じて否である。
 かくて、音楽を片時たりとも手離すのは忍びないという願う熱烈な、いや浸りきりたいという、おそらくもっとも正常なる音楽ファンにとって、レコードをまったくを手をわずらわすことなく的確に正確に演奏してくれるというプレーヤーは、再生音楽ファンに必要な、再生テクニックの点から理想的といってもよく、オーディオメカニズムに対する初心者もしくは未熟者にとって、あるいは日常を仕事雑事で忙殺される社会の多くの人びとにとって、それはまさに「福音」以外の何ものでもないと言いきってはばからない。
 つまり、再生音楽を純粋に「音楽」そのものの形で、日常生活の中に融けこませるべき現代のマジックボックス、それがオートチェンジャーなのである。
 マジックは、それを目の当りに接し、その不思議な魔的な力を体験したものでなければ納得もしないし、認めることもできまい。しかし、それが虚妄のものでなくて確かな存在として、ひとたびその先例を受けるや、魔力はその者の観念を根底からくつがえしてしまうに違いない。
 魔法の例えは話を無形のものに変えて、本筋を不確かなものとしてしまうと思われよう。
 だが、現実にオートチェンジャーの新型製品は、間違いなく同価格のオーソドックスなプレーヤーより、多くの若いファンにとって、より確実に正確にレコードの演奏をしてくれるマジックボックスとして存在するのだ。
 若いファン、という言葉がもし気になるならば、「新しい技術や商品を認めるのに否定的でない」と言い直してもよい。
 なぜなら、オートチェンジャーはレコードプレーヤーの革命だからであるし、それを革命として認めるか否か、この点こそがオートチェンジャーのすべてを認めることといえるからだ。

 私自身の話をするのは説得力の点で大いにマイナスなのだが、オートチェンジャーを以前から長く愛用している一ファンという形で話そう。
 米国市場において、デュアルが大成功を収めるきっかけを築いたのが1019だが、その製品を米国将校の家庭でスコットのアンプやAR2aと共にみかけて、手を尽くして入手したのは9年ほど前だ。「朝起きぬけに、寝ぼけまなこでLPを楽しめる」というその年老いた空軍准将は、まさにチェンジャーの扱いやすさをズバリ表現していた。次の一枚との合い間の12秒間は、違った演奏者の音楽を続けて聴くときに貴重だ、ともいった。眼鏡なしではレーベルを読むのに苦労するという初老の彼にとって、LPを傷めることなしに1・2gの針圧でADCポイント4を音溝に乗せるのにはデュアル1019以外ないのであった。
 当時すでにハイCPのARXというベストセラーがあり、もっと高級なプレーヤーがエンパイア、トーレンスなどであるのだが、オーディオキャリアも長い彼にとっては、今やデュアルに優るものはないのだろう。
 オートチェンジャーはこわれやすいのではないだろうか、という点を気にする方がいるが、こわれやすいというよりも扱い方、操作の上での誤りが理由で、その動作がずれ、たとえばスタート点が正しい点より、わずかに内側になってしまったとか、終り溝まで達しないうちにアームが離れるとかいう原因となることがある。
 そうした狂いのもとはといえば、捜査のミス、というより最初のスタートの数秒が待ちきれずに、つい、アームに指をかけて無理な力を加えてしまうことにある。カートリッジ針先が音溝に入るまでのチェンジャーは、オーソドックス・プレーヤーと違ってスイッチを入れるやいなや表面は動かないでいても、そのターンテーブルの下では、アームの動作のためのメカが説密動作を開始している。音溝に針先の降りる十数秒間、この間はじっと待つことが必要であるし、それがチェンジャーを正しく使うために必要な知識であり、かつテクニックのすべてだ。
 この演奏開始までの十数秒間、これは、またチェンジャーのみに与えられたレコードファンの黄金の寸暇という説は、冒頭にも述べたが、本誌別冊の475頁に、黒田氏も触れて、それをこの上なく讃えておられるではないか。
 9年目の私の1019は実は三日前にアイドラーの軸中心に初めてオイルをたらした。アームの帰り動作中、しばしばキリキリと音を出し始めたからだが、注油後それすらなくなって、ターンテーブルがいくらかスタートが遅くなったような気がするだけだ。実際に使っては変らないのだが。
 さて、オートチェンジャーがいかに便利か、それによって初めて日常生活の中でハイファイ再生が、ごく容易になって、つまり特定の部屋で、特定の時間のみレコード音楽に接することから脱却する術を知って、私はさらに8年前からトーレンス224といういささか大げさな、しかしプロ仕様にも準ずるチェンジャーを、メインのシステムに加えた。さらにこれは、5年前から3年半、私のささやかなジャズファンの溜り場で、オーディオテクニックに通じるべき一人の省力化に役立って働いた。
 扱い者の不始末からロタート点での入力ONのクリックがひどくなって、オーバーホールするまでの3年間、生半可な人手よりはるかに正確に働き、その正確さはマニュアル動作の期間のほうが、レコードを傷めること、数十倍だったことからもわかる。トーレンス224う使ってそのあまりの良さに、手を尽しもう一台を予備用として入手したのだが、それが今はJBLシステムで、ひとりレコードを楽しむときの良きパッセンジャーとなっているのは、いうまでもない。ただ残念なことに224は、今トーレンスでも作っていない。
 オーディオ歴の長く、そしてしたたかなキャリアを持つベテランほど、加えて音楽を自らの時間すべてから片時も離さない音楽ファンであれば、彼のシステムのいずれかに必ずやオートチェンジャーが存在する。レコードの価値を、「量産されたるミュージシャンの魂」と理解するファンであれば、チェンジャーの存在は限りない可能性を日常生活の中に拓いてくれることを知ろう。
 最後にひとことだけ加えるならば、いかなるチェンジャーなりとも、現存するすべては「アームが音溝にすべり込んで、最後の音溝に乗るまではアームにわずかの操作力も加わることがない。その時のアームの動作状態は、マニュアルプレーヤーのアームの状態と、なんら変るものではない」ということを、チェンジャーヒステリー達ははっきり知るべきであろう。