最新スピーカーシステムの傾向をさぐる

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

最新テクノロジーと基礎技術の蓄積が実った国産フロアータイプシステムの台頭
 本誌36、37号でスピーカーテストをしてから、また2年の歳月が流れた。この二年間を、長いといっていいのか短いと言うべきなのか──。個人的にはついこのあいだのことのような気もしていたが、改めて今回テストした製品の一覧表をみると、再登場している製品はヤマハ1000M、フェログラフS1それにセレッションのディットン66の三機種、つまりたった一割で、結局残りの大半はそれ以後に登場した新製品ということになるわけで、やはり二年という歳月は、長い、というべきなのだろうか。
 しかしまた一方、たった二年のあいだにこれほどまでに製品が入れ替るというのは、私たちユーザー側からみれば、ほんとうに新製品としての価値があるのだろうか。一年そこそこで新型に替るだけの必然的な理由が、いったいどこにあったのだろうか、と考えさせられる。そうした視点から、今回テストした30機種をふりかえって、スピーカーシステムの最新の傾向を展望してみようと思う。ただ、おそらく今年のオーディオフェアをきっかけに年末にかけて発表される新製品は、ほとんど次号でのテストの予定に入っているので、つまりほんとうの意味で最新の傾向は、後半のテストのあとでなくては論じにくいことになる。私自身もまだその後半のグループを知らずに書いていることをお断りしておく。

輸入スピーカーに実力の差がはっきりとみえはじめた
 輸入スピーカーの日本国内でのマーケットに、多少の異変が起きはじめている。というのは、数年前の一時期は、ヨーロッパやアメリカ製の比較的廉価なブックシェルフ・スピーカーが、国内製品を翻弄するかのような売れゆきをみせていたことがあった。国内の主力メーカーでさえ、なぜ、こんなに安くて良いものが作れるのか、と頚をかしげて残念がっていた。しかしそのことが、日本のスピーカーを逆に刺激する結果になって、いまでは一台5万円あたりを境にして、それ以下の価格のスピーカーには、輸入品であることのメリットが少なくなってきた。言いかえれば、輸入品の必要のないほど国産で良いスピーカーが作られはじめた。そういう傾向は、すでに前回(36~37号)のテストにもみえはじめている。もう少し具体的にいえば、これを書いている昭和52年8月という時点で、あえて輸入品をとるだけのメリットのある価格の下限といえば、たぶんセレッションUL6やB&W DM4/IIなど、5万円台後半以上の価格の製品からが、考え方の分れ目になるだろう。これ以下の価格の輸入品を探すと、たとえばジョーダンワッツの〝フラゴン〟やタンバーグの〝ファセット〟のような形や色やマテリアルのおもしろいもの、あるいはヴィソニックの〝DAVID50〟やブラウンL100などのミニサイズで音の良いスピーカー、それにセレッション〝ディットン11〟のようにサブ用として楽しい音を鳴らすスピーカー……などのように、国産には類似品の少ない何か特徴を持った製品に限られてくる。ただ、ひとつひとつ細かくはあげないが例えばヨーロッパ製の小型車のように、性能にくらべて割高につくことを承知の上で、国産にない個性を買うというのであれば、5万円以下でもまだいくつかの製品が考えられる。がそれにしても、性能(音質)本位で買おうというときに5万円以下では、もはや輸入品をあえてとるほどのメリットが、数年前にくらべてほとんどなくなりつつあるというのは明らかな現象だ。
 しかしそれでは、もう少し高価な方のグループに目を移すとどうなるのか。ここでは、国産品の実力が必ずしも未だ海外品を不必要というレベルまでは行っていない。あるいはそれは時間の問題なのかもしれないが、しかし現時点では、同じような価格のスピーカーどうしで、海外の著名品と国産品を聴きくらべてみると、少なくとも音楽を聴く楽しさという点では、海外の著名品にまだ一日の長を認めざるをえないのではないか。
 むろん、同じ価格で比較すれば、その大きさや構成や作りの良さ、という面では、国産に歩があるのはあたりまえだ。地球を半廻りする輸送費と関税と業者のマージンが加わって、生産地での価格の二倍ないし三倍で売られる輸入品が、内容の割に高くつくのはあたりまえだ。けれどもう何度もくりかえした話だが、そういうハンディをつけてもなお、輸入されて割高についているスピーカーが、同じ価格で作られた国産品より、音楽の本質を伝えてくれることの未だ多いことは、やはり認めておくべきだ。その上で、国産品のどこに何が欠けているのかを、考えてみるべきだ。
 ──と書いてくると、私が相も変らず輸入スピーカー一辺倒であるかのように思われてしまいそうだがそれは違う。輸入スピーカーといってもその中から一応ふるいにかけられて水準以上の音で鳴るものに対して、国産の方は特定の少数の優秀品ばかりでなく国産全体の平均的水準を比較してみると……という話なので、これでは比較の上でずいぶん不公平だ。実際のところ、海外スピーカーがすべて優秀だなどという神話は、もうとうの昔にくずれ去っている。従来のスピーカーの中には、あきれるほどひどい製品がいくらもある。というより欧米の製品には、スピーカーに限らず常に、ピンとキリの差がきわめて大きい。そしてその中から厳選されて輸入された優秀製品だけが国産と勝負するのだから、強いのがあたりまえ、だったわけだ。
 だが、その状況が少し変ってきた。というのは第一に、海外製品の平均水準が、必ずしも国産より上ではなくなってきた。もう少し正確にいえば、先に書いたようにある価格帯に限っていえば、海外よりも国産の方が、明らかに水準が上になってきた。
 第二に、これは必ずしも海外製品に限った話ではないが、優秀な製品を作り世評の高かったメーカーが意外に駄作を連発したり、いままであまり目立たなかったメーカーや全く新顔のメーカーから、非常に優秀な製品が生まれはじめたり、どうやらこのマーケットに世代交替のきざしがみえはじめた。
 ひとつの例をあげればアルテックだ。この名門メーカーは、ここ数年来明らかに低迷している。ウェスターンエレクトリックの設計を伝承して、ヴォイス・オブ・ザ・シアターや604SERIESの名作を生んだアルテックの、技術自体は少しも衰えていない。ただこのメーカーはいま、自分の技術をどういう方向にまとめたらいいのか、よくわからずに暗中模索を続けているのではないかと私には思える。ただその模索の期間が少々長すぎて最近数年間に発売された新製品では、620Aエンクロージュアを除けば、タンジェリン・ドライバー・ユニットの開発と、それを生かしたモデル19スピーカーシステム以外には、あまり見るべき成果をあげていない。個人的なことを書いて恐縮だが、私自身に海外スピーカーの音の良さを初めて教えてくれたのはイギリス・グッドマンだが、その次に私を驚かせたのは(本誌別冊のアルテック号にも書いたが)M氏の鳴らしたアルテックのホーンスピーカーだった。あのときの音がいまでも耳の底に残っているだけに、アルテックよいま一度蘇ってくれ、と切望したい。
 EV(エレクトロボイス)とマッキントッシュも、それぞれに優秀なスピーカーを作っていた。1950年代に作られたEVの〝パトリシアン〟は、今でもこれを凌駕する製品の出現しない大作だった。マッキントッシュも、スピーカーの専門メーカーではないがそれでも、以前のSERIESはいかにもこの会社らしい重量感と厚みのある音で独特だった。
 たまたま今回のテストに加わったアルテックやEVやマッキントッシュのスピーカーは、必ずしもそれぞれのメーカーの最高の製品ではないから、これをもってメーカー全体を判断してはいけないことは百も承知だが、しかし逆説的にいえば、数多くの製品の中のたったひとつをランダムに拾い出してテストしてみれば、そのメーカーの体質を知ることはできる。たまたま今回のテストにのったメーカーであったために右の三社の名を上げたのだが、しかし目を広く海外全体に向ければ、それぞれ何らかの事情から、かつての栄光を維持できなくなりつつあるメーカーは、決してこれら三社ばかりではなく、たとえば、イギリスのグッドマンとワーフェデールといえば、かつては一世を風靡する勢いのあるメーカーだったが、イギリス手はKEFやセレッションやスペンドール等の方が、いまでは良いスピーカーを作っているというように、やはり世代の交替はみられる。ある時代に築いた技術と名声を維持し続けてゆくことの、いかに難しいかは、他の多くの分野でもいくらでも例にあげられる。

国産スピーカーの技術の向上とフロアータイプへの傾向
 いわゆる基礎技術の蓄積という面では、いまや国産スピーカーの方は、海外メーカーを大きく引き離しているといえそうだ。たとえばスピーカーの測定や解析のための設備──無響室、残響室および各種の精密測定器とそのオペレーター──に関していえば、いま日本のメーカーの装備は世界一だ。日本のメーカーならどこでもすでに持っている無響室ひとつさえ、アメリカやヨーロッパのメーカーではまだ珍しい。
 逆にいえば、アメリカやヨーロッパ、ことにイギリスでは、たとえばBBC放送局の研究所などの公的機関で開発した資料を基礎にして、各メーカーが互いに感覚と個性を発揮してシステムをまとめあげる、という形が多い。つまり基礎開発から手をつけるほどの大きな規模のメーカーはほとんどなくて、いわゆるアセンブリーメーカーとして、ユニットは他社のを購入してきて、自社独特のシステムに組みあげるメーカーが大半を占める。このことは一面、非常に脆さを孕んでいる。
 日本のメーカーのように、ユニットの解析から始めて自社開発するという大がかりな手順で作る、しかもそれが各社ごとに行われる、というようなことは、欧米のメーカーの多くにとっては信じがたいすさまじさであるらしい。彼らが日本製品の海外進出に危機感を抱くのは当然だ。しかも日本のスピーカーは、数年前までは誰の耳にも欧米の有名製品に劣っていたが、最近では事情が大きく転換しはじめた。たとえばヤマハのNS1000Mが、スウェーデンの放送局に正式のモニターとして採用されたり、BBC放送局で、テクニクスのリニアフェイズにかなりの興味を示したり、という具合に──。
 すでにアンプやDDモーターが、世界のオーディオ界を席巻しているように、かつては駄もの呼ばわりされた日本のスピーカーが世界中に認められるようになるのは、そう遠い先の話とはいえなくなってきたことは右の事実からも容易に読みとれる。
 ところで、改めて言うまでもなく日本のスピーカーの流れの中で目立ってきたのが、昨年あたりからのフロアータイプの開発だ。これには大別して三つの背景がある。
 第一は、数年来言われてきたブックシェルフ型のあまりの能率の低下を何とかしたいという要求である。プログラムソースからアンプまでの性能が向上して、ほとんどナマの楽器同様のダイナミックレンジで鳴らすことも不可能ではなくなってきた(そういう音量を出せる環境の問題は別として)反面、そのためには現在ハイパワーアンプで得られる実用上の限界の300Wのパワーでさえもまだ不足、といわれるほど、スピーカーが特性の向上とひきかえに能率を低下させてしまった。
 古いフロアータイプには、昨今のブックシェルフタイプの平均値よりも20dB近くも高能率の製品が珍しくなかった。アンプのパワーに換算すれば、ブックシェルフに必要とされるそれの百分の一でよいということになる。
 こんにち要求されるワイドレンジとダイナミックレンジの要求を満たすには、古いフロアータイプの設計そのままでは具合が悪いにしても、ブックシェルフという形態の制約から離れてみることによって、スピーカーの高能率化が容易になる。これがフロアータイプ出現の第一の理由だ。
 第二に、国内スピーカーメーカーが、永いあいだブックシェルフの開発途上で身につけてきた技術の蓄積が、ようやくフロアータイプの高級機にも生かせるだけのレベルに達しはじめた、ということ。
 そのことは第一の理由とも関連するが、アンプの分野で、プリメインという形態での限界がほぼ見えはじめて、いま高級機はセパレートタイプに移行しつつることと同様に、スピーカーでもまた、ブックシェルフで達成しうる性能の限界がみえはじめた一方で、ユーザーサイドからも、より良い音の製品が欲しいという要求が高まってきた。またメーカー側でもようやくそれにこたえるだけの技術力がついてきた、という次第で、これらの理由が重なって、急速にフロアータイプ開発への動きが積極化しはじめたのだと私はみている。ただ、あちらが出したのならウチでもひとつ……式の、単に時流に阿ただけの製品がないとはいえないが、これはいまや必ずしも日本のマーケットだけの悪い癖とはいいきれない。海外のスピーカーシステムにも、フロアータイプがひところより増える傾向がみえてきたことからもそれはいえる。
 しかし──これは言わずもがなかもしれないが──スピーカーの良否あるいはグレイドを、単にフロアー型かブックシェルフ型かというような形態の面からきめつけるような短絡的発想はぜひとも避けたいものだ。ブックシェルフという形態は長い経験の中で練り上げられたそれなりに完成度の高いスピーカーだけに製品も多彩だし、また一般家庭での音楽鑑賞に、大げさでないこの形はやはり好ましい。
 これに対してフロアータイプは、本来は古くからあった形だがしかし現在のフロアータイプへの要求は、昔のそれに対してとは大幅に異なっている。そうした新しいフロアータイプを完成させる技術について、まだ未知数の部分が少ないとはいえない。良いものもある反面、柄が大きく高価なだけで何のとりえもないというようなものも、中にはないとはいえない。

特性をコントロールできるようになって、かえって音作りの姿勢や風土の差がよく聴きとれるようになってきた
 海外製のスピーカーと国産スピーカーとの比較は、しかし単に音質や特性の良否や形態だけでは論じきれない。同じレコードを鳴らしても、スピーカーが変ればそれが全く別のレコードのように違った音で鳴る。が、数多くのスピーカーを聴くうちに単にメーカーや製品系列の違いによる音の差よりも、イギリスと日本、イギリスとアメリカ、アメリカと日本……というように、その国あるいはその地方の製品に共通した鳴り方のニュアンスの差があることに気づかざるをえなくなる。そのことを私はもうずいぶん前から指摘しているが、今回のテストでもそのことは改めて、というよりも一層、それこそスピーカーの音の決定的な違いのように受けとめられた。くわしいことは、本誌36号(現代スピーカーを展望する)を併せてご参照頂けるとありがたいが、たとえば同じシンフォニーのレコードでも、イギリスのスピーカーは概して良い音楽ホールのほどよい席で、ホールトーンの細かな響きをいっぱいに含んで、左右のスピーカーの向う側にまで広い空間のひろがりと奥行きを感じさせる。同じレコードをアメリカのスピーカーは、もう少し演奏者に近づいたように、力と輝きを感じさせ、日本のスピーカーは概してクラシックの弦の音が苦手で、合奏をやや金属的に不自然に鳴らす。
 こうした違いは、単に特性上の違いがあるだけに、いわゆる風土とは違うというような見方もある。単に現象を物理的に解析すればそのとおりかもしれない。音の違うのは特性が違うからだ、というのは説明としても最も正しい。が私は、そこにそういう音に仕上げた──といって悪ければあえてそういう特性に仕上げた──人の姿勢、を感じとる。
 ただ比較的最近までは、スピーカーの特性のうちで人為的にコントロールできる部分が比較的少なかったために、結果として出てくる音が、それを最初から意図して作られたものかそれとも半ば偶発的に出てきた結果にすぎないのか、という判断に難しさがあった。
 けれど最近になってたとえばKEFの開発になるパルスは系をコンピューター処理して特性を動的に解明しようというような試みや、レーザー光線によるスピーカー振動板のモードの解析や、材料素材にまでさかのぼる新しい解析法などの研究のつみ重ねによって、スピーカーの物理特性が、以前よりは人為的にコントロールできるようになってきた。むろんスピーカーの物理特性には、まだ全くわからない部分や、解析上はわかっている欠点もそれをどうしたら改善できるのか正しい見通しのつかない部分がいくらもあるが、少なくとも周波数特性に関しては、意図した特性にかなりのところまで近づけることも不可能ではなくなってきた。
 現実に、スピーカーは設計者が作りっぱなしでそのまま製品化するというようなことはない。試作したものを比較試聴し特性を測定し、何回かの修整をくりかえしながら、設計者の意図した製品に近づけてゆく。言いかえれば、出てきた音はそのまま設計者の意図した音にほかならないのだから、七面倒くさい理屈をこねようとこねまいと現実の問題として、数多くのスピーカーを聴けば、メーカーや製品による音の違いよりもそれを生んだ国に共通の、つまり風土に共通の、同じ感性の仕上げた音と言うものがあることは、誰の耳にも明らかなはずだ。
 にもかかわらず、たとえば最近のJBLのモニタースピーカー(例えば4343)の特性が、古いJBLの特性にくらべてはるかに平坦にコントロールされるようになってきたのみて、「JBLが国産スピーカーの音によく似てきた」などと見当外れの解説が載っていたりする。いったいレコードから何を聴きとっているのだろうかと思う。周波数レインジの広さはどうか──、帯域内での低・中・高音のバランスはとうか──、音のひずみ感は?、にごりは? 楽器の分離や解像力は?……こうした聴き方をする範囲内では、なるほど、JBL♯4343も国産のワイドレンジスピーカーも、たいした違いはないかもしれない。だがほんとうにそうならスピーカーの音の差など、いま私たちが論じているほどの大問題ではなくなってしまう。いや、JBLより国産の方が、レインジも広いし帯域バランスも優秀だし、特性の凹凸も少なくて音のクセが少ない、という聴き方もある。が、それはあまりにも近視眼的だ。試みに、クラシックの管弦楽もの、オペラ、宗教曲、室内楽、ピアノ、声楽……とプログラムソースをかえて聴いてみる。さらにモダンジャズ、歌謡曲、ヴォーカル、クロスオーバー……等のレコードを、次々と聴いてみる。JBL♯4343なら、そのすべてのレコードが、音楽的にどこかおかしいというような鳴り方はしない。
 ところが国産では、割合ローコストのグループ(それだから必ずしも万能とはいえないし、また高級機ほど厳しい聴き方もしない)を除くと、とくにクラシックのオーケストラものや合唱曲、宗教曲、オペラ等のレコードで、音が強引すぎたり、複雑に織りなしてゆく各パートのバランスがひどくくずれたり、陰で支えになっているパートが聴きとれなくなってしまったり……というようなものが多く、その点だけでも満足できるものは窮めて少数しかない。さらにJBL♯4343では(必ずしもこのスピーカーを唯一最上と言うわけではなく、たまたまひとつの例としてあげているのだが)、右のような内声の旋律が埋もれてしまうなどという初歩的なミスのないことはむろんだが、それよりも一層、鳴っている音楽の表情に生き生きした弾みがあり、音の微妙な色あいが生かされて、そのことが聴き手に音楽を楽しませる。ところが国産スピーカーの中には、音のバランスまでは一応整っていても(そのことさえ問題が多いのだが)、音楽の表情や色あいという点になると、概して抑えこんで抑揚に乏しい、聴き手の心をしぼませてしまうような鳴り方をするものが、少ないとはいえない。
 再生音の物理的あるいはオーディオ的な意味あいからは弱点の少ないとはいえないイギリス系の比較的ローコストのスピーカーが、音楽を楽しませるという面で、まだまだ国産の及びにくい良さを持っていることを見逃すわけにはゆかない。
 たしかに国産全体の水準は向上した。ただそれはあくまでも、過去のあの欠陥商品と言いたいような手ひどい音の中から、短時日によくもこれほど高い技術に到達できたものだという感想をまじえての話、である。
 音楽の再現能力──それはよく〝音楽性〟などという言葉で説明された。が、あまりにもあいまいであるために、多くの誤解を招いたようだ。たとえば、「特性は悪いが音楽性に優れている」などという表現にあらわれているように。しかし厳密にいって、特性さえ良くないスピーカーが、音楽の再現能力で優秀ということはありえない。そういうスピーカーは、たいていの場合、あらゆる音楽ジャンルのうちの或る特定のレパートリィについてのみ、ほかのスピーカーで聴くことのできない独特の個性的な音色が魅力として生きる、というような意味合いで評価されていた。そうしたスピーカーは、ある特定の年代のレコーディングについては良い面を発揮するが、最近の新しい録音の聴かせる新鮮な音の魅力は聴かせてくれない。
 本当の意味で〝音楽性〟というならそれは、クラシックかポピュラーかを、また録音年代の新旧を問わず、そのレコードが聴かせようとしている音楽の姿を、できるだけありのままに聴き手に伝える音、でなくてはならない。

たとえば一枚のレコードをあげるとすれば
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、
ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめへてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。
     *
 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
 こういう聴き方をしてみたとき、国産の多くのスピーカーが、何度もくり返すようにまず楽器どうしのバランスの面で、ことにプログラムソースをクラシックにした場合に、おかしな音を出すものが多いし、第二に音の豊潤さ、第三に音楽の表情、といった面で、まだまだ注文をつけたくなることの多いことを、今回のテストを通じて感じた。むろん海外製品の中に、いまや国産以下のひどい音が氾濫しはじめていることは前にも書いたが、国産スピーカーが、一日も早く「音楽」と聴き手の「耳」にでなく「心」に染みこませてくれるような本ものの音に仕上ることが、いまの私の切実な願いだ。
 本誌創刊のころ、知人のコピーライターが、すばらしい名言を考えついて、これが今でも私たち仲間内での符牒のようになっている。
 それは「音(オン)」だけあって「楽(ガク)」の聴こえない音、または「音」だけあって「響」のない音、というのである。あれから十余年を経たいまでも事情は同じだと思う。いま切実に望まれるのは、「音」だけでなく「楽」も「響」もある美しい音の鳴ることではないだろうか。

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