魅力とは機器を通して製作者の個性がわれわれに語りかけるものだ

井上卓也

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオの魅力とは何か、これは大変に難しいテーマである。何故かといえば、オーディオにかぎらず、とかく趣味であるカメラ、時計、車など、そのいずれをとってみても、魅力と感じるのは、きわめて個人的な主観であって、ある製品を魅力的だという発言を二人の人がしたとしても、結果として魅力という言葉に帰結したという事実はあるが、そのポイントするところは大体の場合に異なるのが通常である。自分自身というカテゴリーのなかでも、製品に対して、かなり多角的に眺め、ケースバイケース、大変に独善的な見方として魅力的だといっているのは偽りのない事実である。編集部から出されたオーディオ製品の魅力とは、というテーマに対して私がいえることは、個人的な勝手な発言でしか書きえないものだと思う。
 魅力というものには、何ら定形はない。何か物指しのような尺度があって計り得るものなら、ことは簡単であるが、それがないだけに常に伸縮自在の自己の物指しで計るしかない。いや、計るのではなくて、直観的であるか、ある期間の間にプロセスとして経験的に体験するの違いはあったとしても感覚的に感じるものでしかありえないものだ。現実にオーディオ製品で私は魅力を感じたものは、可能な限り手もとに置くことを、ひとつの信条としているが、それらについて何故魅力を感じたかを考えてみること自体が大変におかしなことなのだけれども、一般的な表現方法でいえば、音そのものであり、また、デザイン、機能、操作性、物理的性能などで説明することが可能である。しかし、もっとも大切なことは、それ以外のサムシングともいえる、何かかがなければ感覚的に魅力には結びつかないのである。それが何であるかが、この際に問題である。
 とかく、魅力のポイントを探し出し、自ら納得しながら、つまり、かなり短絡的な思考のプロセスを経過していかないと、もっともらしい理由づけはできないようだ。このような苦痛を伴う心理的作業自体が、かなり趣味に反するものであり、このことがバイアスとなって、自己暗示にかかりながら説明をしようとすればするほど、残念ながら、逆に魅力の実体から、かけはなれていく、一種独特な空々しさは如何ともしがたいものなのである。具体的にデザイン、機能などという分類では表現しえないものであるなら、本来の感覚にもどってみるより他はないのではなかろうか。
 オーディオ製品の魅力は、私は個性であると思う。ここで個性というのは、製品自体のもつもの、ということよりも、製品の姿を通して、われわれに語りかける製作者の個性なのだ。このポイント以外に私は魅力の根源はありえないと思う。具体的な例をあげれば、スピーカーシステムでは、私はボザークもJBLも好きであるし、アンプでいえば、マッキントッシュにも、マランツにも名状しがたい魅力がある。そのいずれも同一の次元で比較できるものではなく、オーディオ製品として魅力があるとしかいえない。つまりボザークの個性とJBLの個性は当然のことながら異なる。ボザークはR・T・ボザーク氏の一徹ともいえる会社創業以来不変のクラフトマンシップと彼自身の音楽性であるし、JBLは精密機械工場からつくり出されるクールな感覚、知的でありながら明るく、ハートウォームなサウンドとしかいいえない。あくまで、ボザークはボザークであり、JBLはJBLでなければならない。
 洋の東西を問わず現在のオーディオ製品は、大型フロアースピーカーシステムや管球式セパレート型アンプがオーディオのトップランク製品であった時代とは個性が大幅に変化している。その性格の変化とは、かつては製品が量産されたといっても現在の量産とは絶対量が異なり、いわば手づくり的な規模であり、クラフトマンシップにあふれた製品が世に送り出されていたわけだ。例えば、マランツ♯七プリアンプにしても、そのシリアルナンバーを信用するかぎり17000~18000あたりから国内に輸入され、推定ではあるが25000程度で生産が打切られたはずである。この数量は定評のある高級プリメインアンプならば一年たらずで到達する生産量であろう。つまり、現在のオーディオ製品は、マスプロダクトを前提とした工業製品という正確が基本でありけっして工芸品ではありえないことだ。
 スピーカーシステムの場合、この傾向がもっとも顕著である。極めて例外的でないかぎりコンシュマーユースの大型フロアーシステムの新開発はありえないだろうし、現存するシステムすら、何時まで続けられるかは予測しがたく、比較的近い将来に中止されることだろう。大型スピーカーシステムに手をかけて少数生産するよりも、ブックシェルフ型を量産するほうが、よりビジネスライクであるわけだ。このことは、ほかの趣味である時計や車でも同様である。クラフトマンシップはすでに感じられず、ただ、マスプロに徹しているのが近年とみに感じられる。これは、時代そのものの変遷であり、如何ともしがたいが、趣味として魅力の製品が期待できないのは大変に残念というほかはない。これでは、趣味としてのオーディオの命脈が尽きたという声が出るのも仕方あるまい。たしかに、工芸品的要素を求め、クラフトマンシップの個性を求めても何物もないとしても、現代の製品には、工業製品としてのオーディオ機器の個性、つまり魅力が存在するのは事実である。
 現代の製品がマスプロダクト、マスセールが前提であれば、プロデュースする立場では、より普遍的なバーサタイルな性格の製品がベストにならざるをえない。現実に、比較的性格の温和な製品が多いのは事実で、折角、永年育てあげてきたメーカーとしてのカラーを個性にまで磨きあげる努力を怠り、クセという次元の低い状態のまま葬っている例が国内製品に多いのは残念なことだ。私は個人的には、メーカーとしてのカラーを捨てて、普遍性のある製品ができたとしても魅力を感じることはないし、他社のカラーを導入しても、より完成度が高い製品ができたとしても認めることはできない。つまり、会社は会社のカテゴリーのなかに存在しなければ、存在そのものに意義がないと考えるのである。もしも、数多くのメーカーから、デザイン、機能、物理的性能、トーンキャラクターなどが類似した製品がだされたとしたら、それほど数多くのメーカーがなければならぬ必然性はなく、一社の存在で充分なはずだ。
 現在のようにオーディオの市場が異状に拡大した、いわば乱世の世代に生きぬくためには、魅力を感じる製品が必須条件であり、そのためには、独自のポリシーを貫き、固有のカラーを個性にまで育てなければならない。こと国内製品に限定して考えると、トランスデューサー関係では、動向としてはユニークな製品が、現われかかってはいるものの、あくまで素材面であり、物理的特性面での例が多い。今後は、いかに、音楽を聴くためのオーディオ製品とするかであり、鍵はプロデュースをする立場の人が、いかに音楽を愛し、音楽と親しんでいるかという個人の問題にあろう。とくにプレーヤーシステム関係のコンポーネントにシステムプランの面での飛躍を望みたい。
 アンプ関係は現在国内製品が、もっとも強い分野である。とくにプリメインアンプでは、よほどのことがないかぎり、海外製品の入り込む余地はないようである。しかし、セパレートタイプのアンプとなると大パワーの面では、細菌かなりのパワーアンプが作られてはいるが、米国系ハイパワーアンプとは、まだまだ比較するわけにはいかぬ。ただ、パワーアンプで期待される材料に、パワーFETの開発がある。現在までに実際に試聴した例は少ないが、この新しい素子に管球にもトランジスターにもない未来的な可能性があるのは事実である。これに比較するとプリアンプは世界的に不作であるようだ。
 現在市販されているオーディオ機器のなかで魅力ある製品に、私は24機種を選んだが、そのすべてが、製品を通じて作る人間の個性が私に感じられる現代の魅力あるオーディオ製品である。これらの製品は、すべて熟知しているつもりのものであり、その70%程度は実際に使用しているか、近日中に現用機として使用するものである。本質的な製品のもつ魅力は、自分の手にし、自分の部屋で使用してみないことには実感とはなりえない。

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