菅野沖彦
ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より
オーディオ製品の魅力を具体的に表現することは難しい。もし、それが出来るなら、私は世界一の魅力的なオーディオ機器を自分でつくってしまえる。従って、これについて書く事は、やはり、ある程度、抽象的な表現になってしまうと思うのだ。オーディオ機器に限らず、機械というものの魅力は、第一に、その機械が目的とする機能を果す上で最高の性能をはっきしていなければならないということだろう。これは当り前の事のようだがなかなか難しい。そもそも目的とする機能といったけれど、この目的の考え方が大問題なのである。車の目的一つを考えてみても、その難しさがわかろうというものだ。車は速くなければならない。遅い車は無意味である。遅くてよければ、歩いて事足りる。カゴでも馬車でもよい。また、ただ速いといっても、その速さにもいろいろある。急激に加速する速さと、巡航できる最高速度とは別物である。ランナーの短距離と長距離のような性格かもしれぬ。次に、車は自由にあらゆる道路を走破できるものでなければならぬ。電車や汽車のように予め設置された線路を走るものとはちがう。直線もカーブも、平坦な道もデコボコな道も坂も走らなければならない。つまり、あらゆる状態に対応できる操舵性をもっていなければならない。そして、もっとも重要な事は、そうした性能が常に安全も保障された上で発揮できなければならない。車は、確実に停れなければいけない。人間と車は常に一体のものだから、肝心の人間が、極度に疲れたり、危険に身をさらされたのではなんの意味もないどころか、その存在理由は根底から覆るだろう。ちょっとあげただけのこれだけの条件を完全に満たすだけでも容易ではないわけで、車の設計者は、全ての条件を満たす事を理想としながらも、現実可能な範囲で、どこかにポイントをしぼらざるを得ない。速さ一点ばりのスポーツカーにするか、快適第一の大型セダンにするか、客本位の乗用か、貨物本位のトラック化。つまり、目的はさらに細分化され選択整理されるのである。この選択整理のされ方が、設計の思想の根源となり、出来上るものの性格を決定づけるといってもよいであろう。この段階で、よほど煮つめられていないと、出来上る段階までに、何度か設計変更や手直しがあって、結果的に、中途半端な無性格なものになってしまうものだと思う。
オーディオ機器の目的とは何か? いわずとしれた音の再生である。しかし、ここにもまた、車の場合と同じように、いくつかの目的の細分化が生れるのである。小さい音、大きい音、徹底的にワイド・レンジな音、耳を刺激しない適度なレンジの音、専門家が使うか素人が使うかによって分れる機能や操作性のちがい、何でも適度に満足させるか、一点重点主義でいくか……等々、多くのバリエーションが考えられるだろう。手近な例をあげれば、一体型のものとコンポーネントでは、本質的に、この目的の細分化や整理の考え方は異るのである。また、もし細かい話しをすれば、ツマミの数を少しでも減らして操い易くするが可変できるものは全てツマミでコントロール出来るようにするかといった事も含まれる。このように、その機器が、目的をどう定めるかという思想の確固たるバックボーンを持っていないものは魅力はないし、また、当然、最高の性能は出し得ないのである。作る人間の頭の良さと才能、精神が、まずこの第一段階で、機器に明確に反映してくるのである。私はスポーツ・カーも好きだし、セダンも好きだ。ジープも好きだ。と同じように、コンポーネントも、一体型も、小さなカセット・ラジオでさえも好きである。それが、真に明確な設計思想を反映するものならば、皆、それぞれに素晴らしい魅力を持ち得ると信じている。
さて、このような基本的な事柄だけで、私のいわんとしていることは終りのようなものだし、後は全て、その基本精神をいかに製品に生かし切れるかというテクニックの問題なのだが、もう少し話しを発展させてみようと思う。
オーディオ機器に限らず、機械の魅力の重要な要素の一つは、なんといっても、見てさわって感じられる感覚である。大きな意味でのデザインといってよいだろう。そして、機械美、メカニズム・ビューティというものの第一条件は、必然から生れたものでなければならない。つまり、虚飾はこの世界では通用しないのだ。というと、何の味気もない、シンプルなものを想像されるかもしれないが、そうとばかりは限らない。ボーイング747のコックピットを見たまえ。もの凄い複雑な計器類が並んで、まるでメーターのジャングルである。決してシンプルなものとはいえない。しかし、あれは、全て必要欠くべからざるものばかりなのだそうだ。DOHCエンジンのエンジン・ヘッド・カバーを開けて見たまえ。エンジンの中には虚飾はない。凄く複雑だ。美しい。ヘマなデザインの時計は文字板よりも中味の方がはるかに美しい。アンプもそうだ。いいアンプというものは、中味が実に美しい。いいかげんなアンプは、外観は勿論、中味も美しくない。非合理的な部品の配置。チャチなパーツ。安っぽいビスやシャーシーやビニール線が乱雑である。こんなアンプは特性も音も絶対にいいわけがない。一方、シンプルなほうはどうか。私はかつて、父親が所有していた関の孫六という日本刀の素晴らしさに唸った記憶がある。柄や鍔や莢も凄かった。しかし、何といっても私を夢見心地にさせたのは、刀身そのものであった。シンプルきわまりない刀の姿、その形と質感の与える魅力は、いかなる複雑な装飾にも勝って大きな感動を与えたのである。匠が全智全能を傾けて焼き入れた鉄、その硬軟の美しいバランスは実際の切れ味を超えて美しく冴えていたことを思い出す。ダイムラー・ベンツやポルシェに使われている特殊鋼も、それ自体、魅力に溢れた質感で私を把えてしまう。ただのナマクラな鉄とは次元を異にした味である。こっちは、日本刀の匠に代って現代科学のなせる業である。このように、私は機械の美しさは、必然的に、その性能を追求した時に生れる味わいだと思うのである。そして、そういう味わいをもつ機械は、性能も必ずいいものだ。オーディオ以外の話しが多くて恐縮だが、オーディオ機器の魅力も同じ次元で把えることが出来ると思う。デザインや質感、触感のよいオーディオ機器も、きっと優れた特性をもち、素晴らしい音を出してくれるものではなかろうか。内容とは無関係な感覚や次元でデザインされたパネル。コストの制約からか安っぽい素材を無理にゴマかした使い方。ギクシャク、ザラザラした操作スイッチやボリュームの類。そんな機器で良い音を出したものには未だ一度もお目にかかったことがない。私の手許にあるオーディオ機器で真に魅力にとんだものはそう多くはないが、マランツの7や7Tのパネルは一級品だ。素材と仕上げの良さが感じられ、感覚的にはシンプルな、プリ・アンプはこうあるべしという設計者の思想や頑固な精神が沁み出ている。JBLのSG520のプリ・アンプも、少々劣るけれど、やはり一級品だろう。なによりも、そのデザイン感覚のシャープさが、このプリ・アンプの音と実によくマッチしている。マッキントッシュは全然、違う感覚だ。夢である。ロマンである。メカニズムの美というものの把えかたを私とは全く違う角度からアプローチして見事に調和させている。手許にはC28、MC2105があるが機械屋が、機械の冷たさ硬さに愛情をもって衣を着せたのが、これらのアンプのパネルの魅力だ。JBLの375ドライバーに537-500ホーンをつけたもの、それに075をむき出しで使っているが、必然から来た、これらのスピーカー・ユニットの外観は、それこそなんの虚飾もない。人はどう思うか知らないが、私はとても好きである。なにかで、おおいかくそうなどという気は全く起さない。仕事で使っているノイマンやアンペックスの機器も同じである。プロ機器はなおさら虚飾はない。
最後に正直に一つ告白しよう。いろいろ理屈を並べたてたけれど、オーディオ機器は音のいいものは形もよくみえてくる。つまり、見た眼の悪いものからはいい音がしないといったけれど、中には、見た眼の悪さが気にならなくなってくるものもある。音がよほどいいのである。ただ、そういうものには見た眼にも虚飾だけはないのである。
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