瀬川冬樹
月刊PLAYBOY 7月号(1975年6月発行)
「私は音の《美食家(グルマン)》だ」より
オーディオの「趣味の哲学」
われわれの知る範囲で世界一の食いしん坊は、フランス人のブリア・サヴァランだろう。彼は1825年、死ぬ1年前に「味覚の生理学」(邦題《美味礼讃》関根秀雄・戸部松美訳/岩波文庫)を出版した。この本は、人間の味覚と食物についての、両理学であり文学であり哲学でもある大冊である。その中で彼は、食いしん坊を次のように定義する。
〝グルマンディーズ(美食家・食道楽・うまいもの好き)とは、特に味覚を喜ばすものを情熱的に理知的にまた常習的に愛する心である〟と。
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だとすると、オーディオの愛好家はさしずめ《音のグルマン(美食家)》ということになるだろうか──。
同じレコードを聴くにも、少しでも良い音質で鳴らしたい。そのためには、精密なメカニズムを駆使して自分の気に入るまで音を調整する労を惜しまない。新しいマシーンはすぐにも入手したいのに、自分の気に入らない器械や気に入らない音は、たちどころに追放したい。それほど、自分の好みの音に対して厳格である……。
オーディオのグルマンには、多かれ少なかれ、こうした厳格さ、ある種の潔癖さが要求される。
しかしそれはあくまでも、音楽を愛し音を愛して、そのことを自分の人生の中の大きな楽しみとするため、である。
だからもしも、年がら年じゅうクヨクヨと思い悩むようなタイプの人は、オーディオなんかきっぱり捨てるべきだ。別にオーディオなんかに凝らなくたって、たくさんのひとが立派に音楽を楽しんでいる。
同じレコードを聴くにしても、メカを駆使することを楽しみ、よりよい音に磨き上げることを楽しみにできる人だけが、オーディオのグルマンたる資格を得るのだ。どんな趣味もすべて、人生を楽しみつつ味わうべきものだ。少なくともこれが、ぼくの《趣味の哲学》だ。
「新しいサウンド」を求めて
たとえばマッキントッシュのアンプにアルテックのシアター・スピーカーとくれば誰でも知っている世界の名器だが、これらの音は、いまのぼくの耳には、もはやいかにも古めかしい音に響く。たしかにぼくにも、その種の音を素晴らしいと感じた時期があったが、そういう感覚にいつまでも踏み止まっているということは、感性が動脈硬化を起こしているのだとぼくは思う。生き続けているかぎり常に、より新しい音の中から、本ものとそうでないものを鋭敏に聴き分ける柔軟な耳を保ち続けたいものだと思う。
新しい音というと、いまぼくの頭にまっ先に浮かんでくるのは、アメリカJBLとイギリスのKEF。ともにスピーカーのメーカーである。JBLはここ2年のあいだに、プロ用の新しいモニタースピーカーを続けざまに発表した。一方のKEFも、MODEL104という小型スピーカーの発表でセンセーショナルな登場を試みた。
しかしこういう製品が、ある日突然生まれたわけではない。どちらも20年以上のキャリアの中から、改良され開発されて完成した音だ。ことにKEFの場合は1955年頃からイギリスの国営放送《BBC》と共同で開発したモニタースピーカーLS5/1Aの存在が大きな意義を持っている。これはぼくの常用、というより愛用している大切なスピーカーのひとつだ。
BBCモニターLS5/1Aの音質をひとことでいえば、あくまでも自然な美しい響き。中でも弦楽器やヴォーカルの自然な生々しさ。左右に拡げて設置した2台のスピーカーのあいだいっぱいにオーケストラが並ぶ。まるでスピーカーの向こう側に演奏会場をのぞくようなプレゼンス。そして何時間聴いても疲れない。聴きづかれするような音というのは、どこかに必ず欠陥がある。
KEFの柔らかな響きはクラシックに絶対の偉力をみせるが、たとえば打楽器の迫真性、といった点では、KEFもJBLにはかなわない。
世界中のあらゆるスピーカーを聴いてみると、イギリス系のスピーカーは常に、弦楽器やヴォーカル──ことに女性シンガーの色気や艶を優れて美しく聴かせる反面、打楽器には弱腰の傾向をみせる。
そこを充実感をもってピシッと引き締めるのがアメリカの、中でも西海岸(ウェストコースト)の、ことに新しいスピーカーとりわけJBLのニュー・ジェネレーションのシリーズに止めをさす。オーディオ道楽を永らく続けてきたぼくにとって、いまのところ、この両極の音がいつでも身ぢかに聴けることが、どうしても必要である。
スピーカーにかぎらず、プロ用の製品にはどこかケタはずれの凄さがあるが、レコード・プレイヤーやテープデッキも、たとえば西ドイツのEMTやアメリカのアンペックス(又はスイスのステューダー)を一度でも使ってみると、これはちょっと次元が違うという実感が湧いてくる。EMTのカートリッジか無くなったら、ぼくはレコードを聴く気が無くなるかもしれないとさえ思う。そしてこのカートリッジは、同じくEMTのスタジオ用レコード・プレイヤーにとりつけてみなくては真価がわからない。ものすごく安定感のある音。しかもレコードの溝に刻まれたどんな繊細な音にさえ、鋭敏に反応し正確にピックアップするという印象である。
プレイヤーのメカニズムも、限られたスペースでは説明しきれないが、一例をあげれば、ピックアップの針先を照らす明るいサーチライトによって望みの場所に針を下ろすことが容易だし、スタートやストップの動作の歯切れがものすごくいい。ターンテーブルは旧式のリムドライブだが、へたなDDモーターなど足もとにも及ばない性能をもっている。
アンペックスのプロ用テープデッキも、トランスポート・メカニズムの安定性、ピークに対するアンプのおそるべき余裕、そして操作性の良さ、どれをとっても溜息がでるほどだ。腰の強い圧倒的な音質の迫力は、ジャズ系に絶対だ。しかしまた、クラシック系に聴かせるステューダーの、滑らかで渋い艶のある音質は全く対照的といえる。メカニズムも、アンペックスの良くいえばダイナミック、悪くいうと少々ラフな動きに対して、完全に電子制御されてあくまでもエレガントな動作は、ヨーロッパ人の気質がスイスの精密工作に裏づけられていることを感じさせる。
カセットデッキについては、ぼくはひとつの意見を持っている。あの手帳1冊より小型のテープに、しかもカセット本来の簡便さを生かして録音するのに、いまの多くのデッキは間抜けなほど大きすぎる。その点
でドイツのウーヘルCR210は、いいな、と思う。ポータブルという設計のせいもあるが、おそろしく小さい。それでいて再生はオートリバースというように、その辺のうすらでかいデッキよりよほど進歩したメカニズムで、超小型とは思えないクリアーでしっかりした音を聴かせる。
スピーカーやレコード・プレイヤーやテープデッキ類に対して、アンプやチューナーに関しては、わが日本が全般的に優秀だ。この面ではむしろヨーロッパ製品は一般に格が落ちる。一方アメリカは、中級以下の製品は日本製よりはるかにひどいが、高級品となると、ときたま、度はずれといいたいような製品を産み落とす。最近では、マーク・レヴィンソンやセクエラなど、注目すべきメーカーが出てきた。
いま最高のオーディオ装置は何か
マーク・レヴィンソンは技術者でしかも同社の社長。昨年秋に新婚旅行を兼ねて来日したとき27歳と言っていた。価格を度外視しても、自分で納得のゆくまで最高のアンプを作るというパーフェクショニストである。
LNP2というプリアンプは、1973年秋の発売当時で1750ドル(現2250ドル)という途方もない価格と、しかし驚異的な性能でアメリカのオーディオ関係者を驚かせた。これほどのプリアンプを作っておきながら、パワーアンプについてはまだ満足できるものが作れないなどとトボケたことを言い、自分では他のメーカーの製品を改造していまのところは使っているという、どこか間の抜けた商売を平気でするような男で、マネージメントに才能のある美人の女房がついていなかったら、とうにつぶれてしまっていただろう。こういう男と話をしてみると、アメリカという国には、途方もないオーディオ気違いのいることがわかる。
もうひとつの気違いメーカーが、2千500ドル、輸入価格128万円というFMチューナーを作っているセクエラだ。
いまから10年ほど前、有名な〝マランツ〟にMODEL 10BというFMチューナーがあった。製造中止の現在も、日本ではプレミアつきで売買される名品だが、これを設計したスタッフが最新のエレクトロニクスの粋を集めて完成したのが、このセクエラ1型だといわれる。オシログラフによる精密な波形の表示と、デジタルの同調指示は、未来のチューナーを暗示するようだ。
話を再びスピーカーにもどすと、KEFは昨年秋に、新型のスタジオ・モニタースピーカー model 5/1ACを発表した。本体は旧BBCモニターLS5/1Aをベースにしているが、今回のは低音と高音を別々のパワーアンプで鳴らす、いわゆるマルチアンプ方式で、パワーアンプは内蔵している。ことしの5月以降、少しずつ日本に入ってくるそうだが、サンプルはすでに入荷して、KEFの社長と輸入元の好意で、しばらく借りてモニターさせてもらっている。
旧型の音は温かくウエットで、良くいえば聴き手をひきずり込まずにおかないようなインティメイトな雰囲気。反面、ちょっと深情けが過ぎるんじゃないかといいたいような鳴り方をすることがあったが、新型はもっとクールで、馴れないうちはどこか素気ない鳴り方が、雰囲気に物足りなささえ感じさせる。総体にシャープな性質が増し、低音も旧式の豊かさにくらべると引き締って明快である。
新旧の比較ではこういう明らかな差があるのに、たとえ新型でもJBLと比較すればアメリカとイギリスの歴然たる違いは少しも無くなっていないことが聴きとれて興味深い。イギリスのスピーカーの音は、どこまで新しくなってもやはり、イギリス紳士を思わせる。どんなにエキサイトしても、端正でしかも渋味のある鳴り方をくずさない。
昔からドイツの音は、輪郭鮮明でカチッと引き締った音がするといわれるが、EMTのカートリッジには、たしかにそういう正確がはっきり聴きとれる。そして、アメリカの現代のアンプは、それをただひたすら正確に増幅する。KEFのスピーカーの端正な鳴り方にも、こういう組合せで生き生きと血が通ってくる。これは磨き抜かれた極上の音だ。何気ないくせに聴き込むにつれて底力の感じられるという、一種凄みさえ思わせる音質である。
もしもここに、JBLの新型が加われば、あの西海岸(ウェストコースト)の明るく輝く太陽と、澄みきって乾いた空気をそっくり運んできたような爽やかな音が鳴ってくる。これもまたこたえられないよなあ。
オーディオの世界にも、過去、名器と呼ばれる製品が数多く生み出されたが、常に新しい製品に惹かれるぼくは、単純なエピキュリアンなのだろうか。それとも、美しい女性に憧れながら口をきくのも苦手なぼくは、オーディオの世界でプレイボーイを試みるだけなのだろうか。グルマンとプレイボーイとは、どこが違うのだろうか。
違いがあるにせよないにせよ、美しい音に飽食したいとねがうぼくの気持に、変りはない。
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