実感的スピーカー論

瀬川冬樹

ステレオサウンド 36号(1975年9月発行)
特集・「スピーカーシステムのすべて(上)」より

 オーディオ機器の鳴らす音が──レコードの録音の採り方を含めて──この一~二年を境に、その流れを変えはじめている。世界的にみて、そう言える。明らかにひとつの転換期を迎えていることが、はっきりと現われてきている。そういう新しい流れを知らずに聴けば、あるいは、過去のオーディオやレコードの音に馴らされた耳で聴いたのでは、正当な評価のできにくいスピーカーが、カートリッジが、アンプがそしてレコードが、新しい音の一群を形成しはじめている。むろんそういう音は、数年以前から芽生えとしては存在していたのだが、それがはっきりした一つの方向として世界のオーディオの流れの中に定着しはじめたのは、ここ一~二年のあいだのことだと言ってよい。そうした新しい音を、結果として好きになれるかなれないかは別として、ともかく、オーディオ機器やレコードが新しい音を聴かせはじめていることを、知っておく必要が生じている。

1. 
プログラムソースに盛り込まれた音楽をそのまま再生するのがスピーカーの理想
けれど現実はそうならない……

 オーディオ装置の中で、スピーカーがいちばんの難物といわれ、またそれたからこそスピーカーを選ぶことが自分の理想の音をついに鳴らせるか鳴らせないかの成否を握るともいわれる。いったい今までに何百種類のスピーカーを聴いてきたかわからないが、あるスピーカーの鳴らす音はほかのスピーカーでは決して鳴らない。同じ音は二つとない。同じメーカーの製品でさえ、型番が違えば決して同じ音は鳴らさない。そのメーカーの、もっと広くとらえればその国の風土の音、とでもいえるひとつの傾向はあっても、二つならべたスピーカーが同じ音で鳴ったなどという経験はただの一度もない。
 それだから、スピーカーは結局は好みさ、と言われる。結論的に言ってしまえば全くそのとおりだ。けれどそれは、好みだから各自勝手にどんな音で鳴らそうが知っちゃいない、ということとは少し違う。現実には同じ一枚のレコードを百種類のスピーカーで聴けば百通りの違った音色で鳴る。しかし少なくとも、スピーカーはこうあるべきだ、という理想のようなものはある。そういう理想を言葉で言ってみれば、現実の製品たちの音の多彩さよりもはるかに、目標は狭いひとつの方向に絞られてくるはずだ。それは、スピーカー自体の音色というようなものはできるかぎり排除して、プログラムソースに盛り込まれた音を、少しも損なわずにそっくりそのまま鳴らすような、いわゆる無色透明な音、になるべきだという理想である。
 アンプの場合は、スピーカーよりもその目標に近づくことは容易である。なぜなら、アンプはスピーカーのような電器→音響の変換メカニズムを持っていないから。そしてもうひとつ、スピーカーのように置かれる場所によって音が変わる、などという難しさがないから。
 ジュリアン・ハーシュというアメリカのオーディオ評論家の名は日本でも少なからず知られているが、彼は『ステレオ・レビュウ』誌のあるアンプのテストリポートの中で《まるで増幅度を持ったストレート・ワイアーのようなアンプ……》というおもしろい表現を使っている。これはそのままアンプのあるべき理想を巧みに言い表わしている。現代の──というよりこれからのアンプの大半は、アンプ自体で音色をつけ加えたり、逆に増幅する途中で何らかの信号を欠落させたりということのないような、つまりプログラムソースとスピーカーを〝増幅度を持ったワイアー〟で直結したような、そういう性能を目ざしているし、高級なアンプではそういう理想に相当のところまで近づいていると言える。
 スピーカーときたら、まだまだ理想にはほど遠い。けれど、スピーカーのエンジニアが、そういう目標をあきらめているわけではない。その証拠に、ここ一~二年のあいだに発表された世界各国の、少なくともある水準以上のスピーカーを比較試聴してみると、音色が違うといっても、少し古い時代のスピーカーにくらべればそのさがせばまっていることがわかる。
 それならこの先何年かたてば、スピーカーの鳴らす音は現在のアンプ程度には互いに似るようになるのだろうか? おそらくそうはならないだろう。そのことを説明するのは容易ではない。が、以下に述べるように、それを、スピーカーの目的と構成、気候や風土から生まれる民族性のちがい、時代の流れに応じた人間の感覚の変遷や技術の改革による改良、あるいは生活様式の相違から生じるスピーカーの形態やリスニングルーム内での問題など、いくつかの項目に分けて考えを進めて、現代のスピーカーの流れを整理しながら、スピーカーを選びあるいは使いこなすためのご参考にしたい。

2.
目的に応じてタイプの違いがある
目標を見さだめてスピーカーを考える

シアター用スピーカー
 コダックのカラーフィルムの発色の良さは世界的に知られている。それは映画の都ハリウッドが育てた色だといってもいい。そのハリウッドが、トーキーの発達とともに生み・育てたのが、ウェストレックスのトーキーサウンドであり、アルテックの〝The Voice of the Theater〟で有名なA7に代表されるシアタースピーカーである。世紀の美男・美女が恋を語るスクリーンの裏側から、広い劇場の隅々にまでしかも快いサウンドをサーヴィスするために、シアタースピーカーの音質は、人の声の音域に密度を持たせ、伴奏の音楽や効果音の現実感を損なわないぎりぎりの範囲までむしろ周波数帯域を狭めて作られている。大きなパワーで鳴らすことが前提のスピーカーの場合に、低域をことさら強調したり帯域を延ばしたりすれば、恋のささやきもトンネルで吠える化物になってしまうし、低音域のノイズも不快になる。高音もことさら延ばしたり強調すれば、サウンドトラックの雑音や歪みが耳障りになる。こうしたスピーカーが生まれたのは一九三〇年代で、その頃のレコードや蓄音機の性能からみればトーキーのシステムはワイドレンジであり高忠実度であった。けれど現在の高忠実度(ハイフィデリティ)の技純からみれば、シアタースピーカーはもはや広帯域とは決して言えない。しかしこのことから逆に、音楽や人の声を快く美しく聴かせるためには、決して拾い周波数レンジが必要なのではないということを知っておくことは無駄ではない。低音が80ヘルツ、高音が7~8キロヘルツ。この程度の帯域を本当に質の良い音で鳴らすことができれば、人間の耳はそれを相当に良い音だと感じることができる。
モニター用スピーカー
 同じアルテックにもうひとつの系列──モニタースピーカーがある。代表的なものは604E。正確な数を調べることは不可能だがおそらく、世界中のレコードのたぶん半数が、控えめにみても三割ぐらいは、この604シリーズでモニターされ、録音されていると思っても、たいして間違いはないだろう。
 シアタースピーカーが、音を快く聴かせることを大前提としているのに対して、モニタースピーカーは、それが快かろうが不快であろうが、マイクロフォンが拾った音をそっくり、できるだけリアルに、どんな細かな音の変化もそのまま鳴らす必要がある。言いかえればそれが本来のハイフィデリティ・スピーカーの条件だともいえる。シアタースピーカーは劇場のスクリーンの裏や、ステージの上や、ホールの天井近くに置かれて、広い空間に音を拡散するのだから、ホールの響きに助けられてしぜんに柔らかな響きになるが、モニタースピーカーは、狭いミクシングルーム内で、ミクサーに近接して置かれるのだから、ほとんど直接音を聴くことになる。そういう状態で細かな音を聴き分けながら、トーキーの、レコードの、あるいは放送のための、プログラムソースが仕上げられるのである。
プロ用スピーカーと家庭用スピーカー
 モニター用とシアター用とを総括して、一般にプロフェッショナル用スピーカーと呼んでいる。ではこれに対する家庭用のスピーカーというものは、プロ用とどこが違うのか──。
 家庭用のスピーカーといっても、後でこまかく分類するように、さまざまのタイプがあるが、プロ用のスピーカーと家庭用とを対比させてみると、ひとつは耐パワー、もうひとつは長期に亙る耐久性または安定性、という二つの問題に絞れる。本質論としてはこの点でプロ用と家庭用に差があるべきではないが、しかし少数の例外的存在を別とすれば、プロ用のスピーカーは、一般の人の想像以上の大きな音量で鳴らし続けてもビクともしないタフネスさと、しかもその性能を長期間保ち続けることが大きな条件になる。
 レコードの録音に立会った経験のある人は、多くのミクサーが、一般の感覚ではとても耐えられないような大きな音量でモニターしているのを聴いてびっくりする。むろんプロの誰もがハイパワーで鳴らすわけではない。たとえばスイスのレコード〝クラーヴェス〟の録音エンジニアであり歌手であるJ・シュテンプフリのレコードセッションに立会ったとき、彼が多くのミクサーと正反対に非常に小さな音量でモニターしているのをみてびっくりしたが、そのシュテンプフリでさえ、アルテックの604を「ナチュラルな音を出すということでなく(その点では他にさらによいスピーカーがあると思う)たいへん丈夫だから」と語っている(本誌34号414ページ参照)。この、ナチュラルな音……云々のところは重要なのだが、そのことは別の項で明らかにしよう。
家庭用スピーカーを分類してみる
 いまあげたシアター用にもスタジオモニター用にも属さない、いわゆるプロ用でない音楽再生用スピーカーのことを、漠然と《家庭用》スピーカー、とよんでいる。アメリカなどでは、プロ用・家庭用といわずに《コマーシャル・ユース》と《コンシュマー・ユース》などと呼ぶ。
 コンシュマー用のスピーカーは、歴史的な流れをさかのぼってゆくと、前記のシアター用から派生したものと、モニター系のスピーカーを家庭用にアレンジしたものと、そしてはじめからラジオあるいは電気蓄音器用として設計され発展してきたもの、の三つの流れに集約される。
a、シアター用から派生したスピーカー
 たとえばアルテックの〝ヴァレンシア〟などに代表される一連の家庭用スピーカーは、ゆにっとそも野はシアター用をそのまま流用したといってよく、これなどは明らかにシアター系列の音質であることがわかる。これ以外に製品を探すと、イギリス・ヴァイタヴォックスのCN191や〝バイトーン・メイジャー〟に使われているユニットは、ウェストレックス/アルテックの設計をそのまま踏襲しているし、アメリカではJBLやエレクトロボイスの一九五〇年代の大型スピーカーシステムにシアター系の製品がある。現在でもアメリカ・クリプシュの製品一部にその流れがある。
b、モニター系のシステム
 タンノイのユニットが、源をたどればウェストレックの設計をモディファイしたものであることは明らかで、ディテールは違うがアルテック604系のユニットといわば親せきの間柄ともいえる。
 イギリスにはもうひとつ、BBC放送局が一九五〇年代に完成した放送用高忠実度モニタースピーカーの資料にヒントを得て発展しつつある。アメリカ系のモニタースピーカーとは全然別のモニター用の源流があり、現在ではKEFのリファレンスシリーズ(例♯105)やフェログラフ、スペンドール等の製品にその流れが反映している。
c、快い音質のスピーカー
 イギリスという国は、世界のスピーカー開発の流れの中でみても、高忠実度(ハイフィデリティ)スピーカーを作ることに最も熱心な国といえる。一九五〇年代にすでに、イギリス音響学会その他で、ハイ・フィデリティに対して真剣な討議がくりかえされていた。そして高忠実度の再生に対応する《グッド・リプロダクション》という概念を定義した。要約すれば、ハイ・フィデリティの再生は、必ずしも常に快い音質を供給するとは限らない。プログラムソースにアラがあればそのまま再生してしまい、かえって不快な音を聴かせることもある。したがって一般家庭用の音響再生は厳密な意味でのハイ・フィデリティであるよりも、むしろ快い音質を提供するようにくふうすべきである。それは原音を歪めるということでなく、むしろ原音の内から不快な要素を取除き、しかも原音のうちからいわばエッセンスをとり出して、聴き手が常に快い感覚を生じるような音質に仕上げることが大切で、それをイギリスの音響関係者は《グッド・リプロダクション=快適な再生音》と呼んだ。この、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションという言葉を別の言い方に置きかえてみると、たとえばモニター的な音に対してグラモフォニックな(上等な蓄音器の鳴らすような美しい)音、ともいえるし、あるいは特性本位の作り方に対して個性で聴かせる作り方、ともいえる。
d、ブックシェルフとフロアータイプ
 一九五五年にアメリカのARが完成したAR1以来、いわゆるブックシェルフ型のスピーカーが世界的に次第に注目を集め、現在ではこの形がスピーカーの主流とさえ、言われるようになった。しかしそのことは、ブックシェルフというタイプが最も優れた音質を持っているという意味ではない。ブックシェルフという形は、経済的な面(材料のコスト、流通のルートに乗る際の輸送の費用から販売店の売場占有面積、さらにユーザーの家庭で占めるスペースまでを広く包括した)からみて、価格の安い割には良い音の製品が作りやすい、という事情からこれほどまでに普及した、と考えるのが正しいと思う。
 たしかにある一時期は、ブックシェルフ型の高級機が、音質の面でもフロアータイプを追い抜くかにみえたこともあったが、価格やスペースファクターなどの制約の枠をもしも外して比較すれば、本格的なフロアータイプのスピーカーは、スケール感あるいは楽々と余裕を持って鳴る感じ、という点でブックシェルフのどうしても及ばない良さを聴かせる。ブックシェルフ型のスピーカーは、例外的なほんのわずかの製品を除いては、結局、価格とサイズとの制約枠の中でだけ、論じることのできるタイプだと断言できる。
 ARの発案者E・ヴィルチュアによれば、ブックシェルフタイプというのは、もともとは、小型に作ることが目的だったのではなく既製の大型スピーカーで不満であった低音の再生をより良くしたい、というところから生れた形であったそうで(本誌10号の岡俊雄氏の解説による)、そしてたしかに、出現当時のおおかたのフロアータイプにくらべると低音特性は優れていた。しかしブックシェルフ型の発展によって逆に、フロアータイプにもまた、低音の再生に対していろいろな面から改良の手が加えられた。その結果は、音質の面から比較するかぎり、本当に良く設計されたフロアータイプは、音のスケール感やゆとりの面で、最高のブックシェルフでも及ばない音質を聴かせてくれる。だから価格やサイズの制約を外して本当に良い音質を望むなら、やはりどうしてもフロアータイプの中から選ぶべきであり、そういう意味でブックシェルフ型は、要求水準の高いリスナーにとっては、サブ(セカンド)スピーカーでしか、ありえないともいえる。
e、その他の形状──拡散型スピーカーなど
 最近になって主にアメリカで目立つ傾向のひとつに、オムニディレクショナル・タイプあるいはそれに類するタイプが増えていることがあげられる。従来のスピーカーの多くが、キャビネットの一面にユニットを集中させて一方向にのみ、音を放射していたのに対して、キャビネット周囲または後方にも音の一部を放射しようというタイプで、無指向性、などとも呼ばれる。数年前にアメリカのBOSEがこのタイプを発表した頃の一時期、少し流行しかけて一旦下火になっていたものが、最近になって再びとりあげられはじめた。エレクトロボイスのインターフェイスAや、インフィニティ、また意図は別として結果的にはESSなども、スピーカーの置かれる壁面に向かって中~高域が放射されるので、壁面からの反射音を計算に入れて設置を研究する必要がある。
 このタイプは、まだ日本に輸入あるいは紹介されていないものを含めると、アメリカ製品にことに顕著だ。後面放射型でなくとも、前面だけでも広い角度にユニットをとりつけるアイデアは、ARのLST、MSTや、新しいメーカーALLISONなどにもみられ、明らかにアメリカでひとつの流行になりはじめていることがわかる。しかし日本の場合は住宅の構造など考えると、有効な反射面が確保しにくいという制約から、これら拡散型のスピーカーは、アメリカほど普及はしにくいと思う。別項で後述するように、壁面の反射の助けを借りるタイプのスピーカーは、逆にまた壁面の反射音でスピーカー本来の音質を損なうケースもあるため、わたくし個人としては難しいシステムだと考えている。
     *
 右のような各種の分類をしてみたが、しかし現実にはスピーカーの音質あるいは音色そのものが、最大の関心事である。したがってその面をもう少しいろいろな角度から研究してみることにしよう。

3.
スピーカー音色には、それを生んだ風土や民族性が反映される
その地方独特の音の感覚があることをKLHのスピーカーが自ら物語っている

 KLH(アメリカ・ボストン)の新型スピーカー、〝Classic Four〟の背面にトゥイーター・レベルの切替スイッチがついている。この2段切替スイッチの表示の、一方にFLATと書いてあるのはふしぎではないが、スイッチを下にさげて高音を多少落しかげんにセットする側のポジションに、なんと〝NORMAL〟と書いてある。
 アメリカ東海岸で作られるスピーカーは、世界的にスピーカーの音質を広く展開してみる中でも、概して高音をなだらかに落して作る傾向のあることは、いままで測定されたいろいろなデータからも読みとることができる。また、日本のスピーカーを輸出した場合、高音がやかましいとかカン高いとか、ピッチが上るみたいだなどと評されるのも、アメリカ東海岸であり、そういう音を〝ジャパニーズ・トーン〟などと彼等は呼ぶ。
 高音をやや落したポジションを〝NORMAL〟と書いて〝FLAT〟と区別する、というKLHの製品そのもが、彼等の音の感覚をそのまま説明しているようなものだが、むろんこれはKLHだけの特例でなく、ARやボザークやエンパイアなど、東海岸で作られるスピーカーの多くの傾向なのである。
 このように高音をおさえる音の作り方は、現在の世界のスピーカー作りの流れの中ではむしろ異質とさえ、いえるのであり、逆にいえばこのアメリカ東海岸の音の好みは、いまやひとつの地方色として目立ってきている。
 こういう音は、例えば日本の家庭で音量を落して鳴らすような場合には、いかにも反応の鈍いような、ディテールの欠落したつまらない音、バランスの悪い音になってしまうが、逆に大出力アンプで思い切りパワーを送り込んで鳴らすと一変して、力強く腰の太い、明るく乾いた肌ざわりで気持のいい音を聴かせる。
アメリカは西にゆくほどハイ上がりに作る傾向がみえてきた。
 アメリカのスピーカーメーカーを地域的に大別すると、いま述べた東海岸に対して、ミシガン湖の西側から南下しながらアメリカ中央部のスピーカー、たとえばエレクトロボイス、ジェンセン、クリプシュなどの一群と、カリフォルニアを中心としたアルテック、JBL、それにインフィニティやESSなどの新顔グループの西海岸の一軍とに分けられるそしていま東海岸のスピーカーが高音をおさえていると書いたが、おもしろいことにアメリカ中央部のスピーカーにはそういう傾向があまり目立たずに全体としてフラットな感じに作られていて、それが西海岸にゆくと、こんどは東側と正反対に、トゥイーターをチリチリと利かせるくらいにハイ上がりに作るという傾向をみせはじめる。
 少し前まではアメリカ西海岸といえども、シアターあるいは古い世代のモニタースピーカーをベースとして、ハイを強調するような音はつくっていなかった。ところが三年ほど前、JBLがプロフェッショナル部門を作り、スーパートゥイーター♯2405を発表したころから、JBLのコンシュマー用の新しいジェネレイション〝ディケイド〟シリーズをはじめとしてESSやインフィニティや、エレクトロリサーチなどの新興メーカーが、総体に高域を延ばしながら強調する傾向に方向を変えはじめた。
 スーパートゥイーターで10キロヘルツ以上の高域を延ばしあるいは強調するという作り方は、日本やイギリスには割合古くからあったが、アメリカ場合数年前までは、スーパートゥイーターと名付けられた製品はあっても、日本やイギリスのそれとくらべるとはるかにレインジのせまいユニットであった。本当に20キロヘルツ以上まで特性の延びたトゥイーターが作られしかも使われはじめたのは、ほんのここ一~二年のことだ。そしてもうひとつおもしろいことには、日本がかつてトゥイーター、トゥイーターとさわいでいたころ、藤原義江だったか、トゥイーターというヤツはシャシュショとしか言わん、と言ったとか言わないとか、ともかく、ここにトゥイーターがついているぞ! と言わんばかりに、ハイを強調して妙にささくれ立った音を出していた例が多かったあの頃の音を、いまになってアメリカ西海岸のスピーカーが作っては喜んでいるように、わたくしには思える。JBLのL36や、インフィニティのウォルシュ・トゥイーターなど、いかにもシーシー、ヒーヒーとトゥイーターを鳴らしすぎである。やつら、いまごろになってようやく、スーパートゥイーターに開眼したな、と半ばおかしくなってくる。しかしそのJBLも、プロ用のモニタースピーカー、例えば♯4333や♯4341あるいは♯4350クラスになると、さすがにくこなれた使い方で、本物のスーパー・ハイの延びた、デリケートで臨場感に富んだ音を聴かせるのだから、コンシュマー用でのそういう作り方は、多分に、近頃の西海岸の新しいユーザーを念頭に置いた作り方なのだろうと思う。
アメリカの音とヨーロッパの音
 アメリカという国を大きく三つの地域に分ければ、ともかく右のような傾向が聴きとれる。なにしろボストンとロサンジェルスとで、時差が3時間もあるという広大な国だ。しかもボストンは緯度でいえばほぼ札幌、ロサンジェルスは福岡。北と南のちがいもある。南下するにつれて音が明るくシャープに輝いてゆくのも理由のあることだ。むろん、これをさらにメーカー別にみれば、もっと細かなことも論じられる。が、あまり枝葉を論じるとかえって森全体を見失う。この辺で再び目を世界に転じることにする。
 アメリカとヨーロッパを大きく対比させてみると、ヨーロッパの音には繊細な余韻の美しさと、どこかウェットな面が聴きとれるのに対して、アメリカの音はスピーカーに限らずアンプもカートリッジもテープデッキもマイクロフォンも、さらにレコードの音まで含めて、ヨーロッパの音にくらべて決定的に乾いて聴こえる。
 たとえばJBLやインフィニティのような、ハイを強調した明るく輝く音にくらべれば、ハイをおさえたKLHやARの音はウェットに聞こえそうに主る。けれど、なぜかARにもKLHのとにも、ヨーロッパの音がほとんど先天的に備えている余韻の美しい響きが欠けている。光にたとえていかば、東海岸のそれは人工光線の、しかしタングステンの光であり、西海岸のはフラッシュまたは太陽光線だが、いずれも正面からのベタ光線で、陰の部分、裏の部分はおろそかにされる。ヨーロッパの音はときとして曇り空からさす一条の太陽光、それでなければ木漏れ日といった感じだが、それらの光が陰の部分を美しく隈どって、またそのことが逆に光の美しさにも気づかせるといった感じではないかと思う。スピーカーの鳴らす音ばかりでない。カートリッジにも、その他の音響機器の鳴らす音すべてに、そしてレコードの音に、アメリカとは違う響きがある。どう否定しようとしても、このことだけは理くつでなく耳の方が聴きとってしまう。
 アメリカとヨーロッパのこういう違いが、たとえばアメリカのスピーカーはクラシックを満足に鳴らせない、とか、逆にヨーロッパのスピーカーの鳴らすジャズは弱腰でウェットすぎて話にならない、というような表現になるである。それはしかしあくまでも一般論で、アメリカのスピーカーの中にもクラシックの余韻を、満足とはいかないまでもある程度までは聴かせるとがあり、ヨーロッパのスピーカーの中にもジャズをそれなりに聴かせるスピーカーがある。そういう話はこの先さらに具体例をしげながら補足してゆく。
イギリスのスピーカーの流れ
 アメリカの西海岸が、近頃になってスーパートゥイーターでハイを強調しはじめたのに対して、イギリスはもっと以前から、ハイを強調する作り方をしていた。ただしアメリカで強調するハイは中域の張った輝かしい、まぶしいほどの音であり、イギリスのそれは中域のやかましさをむしろ抑えこみすぎるほど押えた柔らかな中域のところへ、非常に繊細な、線の細い高域をつけ加えるものだから、へたをすると腺病質的な、何とも奇妙なバランスで鳴らすことがある。少し前のKEFや、B&Wの一部のスピーカー、その他にそういう音があった。最近の製品ではたとえばグッドマンの〝アクロマット400〟などである。
 イギリスのスピーカーが日本に紹介されはじめた一九五〇年代に、最初に入ってきたのがグッドマンとワーフェデールで、当時としてはバランスの良い、いかにもイギリス人の良識で作られた音を鳴らしてきた。しし今思い起してみると、どちらの音にも、やはりハイをいくらか強調したイギリス独特の音色があった。
 やがてタンノイの評価が高まり、だいぶ遅れてヴァイタヴォックスが輸入された。グッドマンやワーフェデールがもともと家庭用のコーンスピーカーの設計から発展してきた製品であるのに対し、タンノイは先にも述べたようにウェスターン・エレクトリックからアルテックの604に受け継がれた同軸型モニターの系列であり、ヴァイタヴォックスは同じくシアター系列の、それぞれ家庭用のヴァリエイションである。
 これらに続いて、数年前からイギリスの新しい世代のスピーカー、KEFやB&Wやスペンドールやフェログラフなどの新顔が少しずつ入ってきた。その新顔たちにまず顕著だったのが、先にも書いたハイの強調である。B&WのdM2など、13キロヘルツから上にスーパートゥイーターをつけて、あくまでも高域のレインジを延ばす作り方をしている。この方法論はスペンドールにも受け継がれている。ハイを延ばすことの割合に好きなはずの日本でも、12~12キロヘルツ以上にトゥイーターのユニットを一個おごるという作り方は、かつてなかった。
 しかしレインジを延ばしたことが珍しいのであるよりも、その帯域をむしろ我々には少しアンバランスと思えるくらい強調した鳴り方におどろかされ、あるいは首をかしげさせられる。イギリス人の耳は、よっぽど高音の感度が悪いんじゃないかと冗談でも言いたくなるほど、それは日本人の耳にさえ強調しすぎに聴こえる。同じたとえでいえば、イギリス人は中音域を張らすことをしない。弦や声に少しでもやかましさや圧迫感の出ることを嫌うようだ。そして低音域は多くの場合、最低音を一ヵ所だけふくらませて作る。日本にも古い一時期、ドンシャリという悪口があったように、低音をドンドン、高音をシャリシャリ鳴らして、中音の抜けた音を鳴らしたスピーカーがあったが、イギリスのは、低音のファンダメンタルは日本のそれより低く、高音は日本より高い周波数で、それぞれ強調する。むろん中域が〝抜けて〟いたりはしない。音楽をよく知っている彼等が、中音を無視したりはしない。けれど、徹底的におさえこむ。その結果、ピアノの音が薄っぺらにキャラキャラ鳴ったり、サックスの太さやスネアドラムのスキンの張った感じが出にくかったり、男声が細く上ずる傾向さえ生じるが、反面、弦合奏や女声の一種独特の艶を麻薬的に聴かせるし、楽器すべてをやや遠くで鳴らす傾向のある代りにスピーカーの向う側に広い演奏会場が展開したような、奥行きをともなって爽やかに広がる音場を現出する。
 そうした長所も欠点も、そのまま併せ持ちながらも、中域の抑えすぎの弱点を改善して、全体に音域の強調感や欠落感を補整して、いわゆるフラットな感じに仕上げるようになってきたのが、最近の新しいジェネレイションのイギリスの、ことにBBCモニターの流れを汲む製品群で、具体的に名を上げればKEFのリファレンスシリーズのモデル104や出る5/1AC。スペンドールのBCII。IMFのモニター、ジョーダン・ワッツのTLSやセレッションの新しいシリーズ、あるいはモーダウント・ショート等々の新興勢力である。フェログラフのS1も、最近の製品は初期のにくらべるとずっと中域を充実させて鳴らすようになってきている。これらイギリスの新しい、フラットに作られあるいはその方向を目ざす製品群たちは、今後の世界のスピーカーの流れにさまざまの形で影響を及ぼしてゆくものと思える。
イギリス以外のヨーロッパ
 ドイツのスピーカー(音)は、昔から、カチッと芯のある硬質の艶、というように表現され、たとえばグラフォンのレコードなどにも、最近の録音はことにそういう音が顕著に聴きとれるようになってきた。スピーカーでいえば、ヘコーやブラウン。もっとさかのぼればシーメンスを上げてもそれは同じで、ヨーロッパ各国のスピーカーの中で、際立って硬質の、しかし緻密で艶のある音を鳴らしていた。いた、と過去形で書いたのは、ドイツのスピーカーの一部が、少しずつではあってもそのドイツの特長を捨てて、いわゆるフラット型の音質に向かいはじめたことが聴きとれるからである。中でも、これこそドイツの音、と我々に思わせていた硬派の代表ヘコーが、新しいシリーズではかつてのあの、ショッキングなほど張りつめた独特の音をすっかり捨ててしまって、たしかにオーケストラのバランスなど見事なものだがしかし、これといった特長のきわめて薄い、言いようによっては、こうなってしまったらヘコーをあえて採る意味のないとも思えるほどの音質に変ってしまった。デュアルのスピーカーにはヘコーほどの特色はなかったが、それでも傾向はヘコーの路線を同じくたどってきている。
 一般的に言って、スピーカーに限らず一地域の味、たとえば地酒の味のようなひとつの地域に固有の味も、それが各国に出荷されるようになるにつれて、少しずつ各地方の好みが反映されて、地酒特有の濃い味わいがうすれてゆくもので、これは日本の酒にも、またスコッチ・ウイスキーにもあらわれて、酒全体が万人向きの薄口、甘口に変ってきていることは周知の事実だが、スピーカーの世界もまた例外でなく、交易の盛んになるにつれて、音色もまたインターナショナルに、各国の特色が薄れて万人向けの音色あるいはバランスに仕上ってゆくものらしい。全体的にはこれは好ましい傾向であるには違いないが、地酒もまた、それでなくては味わえない完成度の高い独特の味わいがあると同じように、スピーカーもヘコーほど見事な地酒の味が、万人向けに変ってしまうのは何とも淋しい気持である。まあ、ブラウンがあるからまだいいが、現在のドイツという国をみていると、ブラウンの独特の味わいも、あるいはそう遠くない将来、インターナショナルに方向転換しないという保証はない。
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 限られた紙数でヨーロッパを説明するのはむずかしいが、この辺で目を北欧に転じると、たとえばB&Oやオルトフォン。ドイツよりはもう少し中音よりにやはり一種硬い音を持ち、しかしドイツのような目ざましい艶はなく、むしろ高域は抑えかげんで、どことなく暗い感じがする。これがオランダのフィリップスになると、ちょうどドイツとイギリスを足して割ったように、中~高域の輝かしい光沢が昔からフィリップストーンと呼ばれる独特の魅力で光っている。
 フランスの音には中~高音域の華やかさがある。こだわりのない、やや饒舌な感じの音質。キャバスのスピーカー。エラートの音質。あるいはシャルラン。フランスHMVあるいはディコフィル・フランセエ。レコードの音と、その国のオーディオ機器の鳴らす音は、たいてい共通している。
 そういう意味で今回興味をひいたのはハンガリーのビデオトン。このスピーカーのふしぎな音質を、わたくしは短い文章でうまく説明ができそうもないので、別項の試聴欄を参照して頂きたい。が、フンガロトンやクォリトンのレーベルで馴染んでいたしのハンガリーのレコードの音とたしかに一脈通ずる、フィリップスの線をもっと細くしたような、しかしもっと素朴な、なんとも奇妙な、しかしふしぎに人を惹きつける魅力であった。ヨーロッパの多様さを、レコードの音から、そしてスピーカーの音から教えられて、風土や歴史や、そこに育つ民族性のおもしろさに無限の楽しさをおぼえる。
日本のスピーカーの音色
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞさに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、〝ハイファイ・トレイド・ニュウズ〟の副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音を〝ノーマル〟と感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
 もうひとつ、わたくし流に日本のスピーカーのウィークポイントを説明するなら、第一に、概して低音オンチであること。第二に、その低音を最も重要な土台としてその上に音のバランスを構築するという作り方が下手であること。第三に概して中音域にやかましい音か出る傾向が強く、ことにクラシックの弦の音に満足できる再生が少ないこと(クックのいうアグレッシヴな、というのもこのあたりの音を指すのかと思う)。第四に、音色が重く、楽器特有の音の生き生きした動きや弾みが再現されにくいこと。第五に細部に気をとられるあまり、全体のバランスを見失いがちなこと。たとえばオーケストラの混声コーラスなどの大きな編成の曲が、各パートのバランスを失する傾向になったり、混濁したりしやすいこと。第六、ステレオの音像が平面的で奥行きなどの立体感に乏しいスピーカーが多いこと。
 まだいくつかあるにしても、少なくとも右の問題だけは、常々感じている弱点として指摘しておきたい。
 しかしここ一年たらずのあいだに、右の弱点のいくつかを克服して、海外の一流スピーカーと比較しても聴き劣りしないスピーカーが、まだほんのわずかの例外的な存在であるにしても、少しずつ着実に増えておりまた少しずつ改良されていることを、希望を持って報告したい。具体的な製品は、今号および次号のテストリポートで明らかになるはずである。

4.
世界的にみて、スピーカーの作り方にジェネレイションの後退する傾向がみえている
たとえば……

JBLとKEFを例にとると
新しいジェネレイションの製品になるにつれて
広帯域かつフラットな作り方を完成しはじめている

 JBLのスピーカーには、大別して三つの世代(ジェネレイション)がある。第一期は創始者J・B・ランシングの直接の設計になる130A、D130、175DLHから始まる高能率ユニットをベースとする大型の高級スピーカー。第二期は有名なLE8Tを含む(リニア・エフィシェンシイ)シリーズ時代。オリンパスやランサー101などの名器がこの時期に誕生している。そして第三期は、プロフェッショナル部門を作って♯4320以降の一連のモニタースピーカーのシリーズを完成した現在。
 低音から高音までの広い帯域を、過不足なくフラットに再生するというのは、スピーカーにとってたいへん難しいテーマといえる。しかし従来まで永いあいだのスピーカーの水準からみて、明らかにその水準をつき破って、ハイ・フィデリティの理想に一歩近づくことに成功したのが、JBLでいえば第三期のプロフェッショナルモニターのシリーズであるといってよい。中でも♯4341.ある期間鳴らし込んだのちに正しく調整した音は、非常にフラットでしかもディテールの明瞭な、しかもハイパワーにもくずれずによく耐えうる、素晴らしい現代のハイファイスピーカーのひとつであろう。こういう音を聴いたあとで、同じJBLの過去の製品を聴くと、新しいスピーカーがいかに帯域が広くなっているかがよくわかる。
 イギリスに例をとれば、最近たびたびとりあげられるKEFの♯104。このスピーカーは、ブックシェルフの中でもやや小ぶりだし、ウーファーが20センチの2ウェイだし、本国では4万円そこそこのローコストスピーカーだから、JBLプロ♯4341のような、ハイパワーに耐え圧倒的なスケールを鳴らすというような底力は期待できない。むしろパワーには弱く、音の迫力もスケールもないかわりに、設置その他の条件が整えば、JBLとは全く対照的ながら、オーケストラがスピーカーの向う側に広がって、各パートのバランスも申し分なく、きわめて上品な、光沢のある柔らかでしかし音像のひとつひとつがくっきりと浮かぶような魅力的な音を聴かせてくれる。もうよく知られていることだがこの♯104は、世界中のブックシェルフ型スピーカーの中でも、測定上周波数特性がフラットなことでも抜きん出た存在なのである。このスピーカーの出現によって、特性的にきちんとおさえて作ったスピーカーが、即、音楽をほんとうに美しく聴かせてくれるという証明をしてくれたようなものだともいえる。KEFもまた、これ以前の製品(ペットネームの頭文字がCで始まるところからCシリーズと名づけられている各製品)では、これほど完成度の高い音質を聴くことはできなかった。
 JBLの♯4341とKEFの♯104は、その規模も構成も価格も音質も目的や用途も、それぞれに違うスピーカーでありながら、周波数帯域が広くフラットであること。それが音楽を実に正確にしかも美しく聴かせてくれるという点で、現代の、最も新しい方法論によって成功した製品のサンプルといえ、これがそれぞれの意味で、今後のスピーカーの方向を指し示していると考えられる。KEF♯104と相前後して発表された同じイギリスのスペンドールBCIIも、同じ意味で注目すべき製品といえる。
しかしそういう新しいスピーカーを聴いてみて
逆に過去の名器の良さを見直す結果にもなる

 スピーカーには、右の例にあげたいわば改革型の製品あるいはメーカーがある反面、古い製品の良さをじっと暖めている良い意味での保守的なメーカーもある。それが、本当の意味で現代に生きている価値のある製品化、それとも単に過去の残骸にしがみついているだけの製品なのかを見分ける目を失ってはならないと思う。新しいスピーカーの真の良さを聴き分ける耳には、古い製品の良さを聴き分けることも容易であろう。
 たとえばイギリス・ヴァイタヴォックスのCN191いわゆる〝クリプシュホーン・システム〟。明らかにこれは古い世代のスピーカーだが、しかしこのスピーカーを鳴らす良い条件が整いさえすれば、ある意味でこれは古い時代の蓄音器の名器の鳴らす音に一脈通じる懐かしい音色には違いないが、つまり現代流のハイ・フィデリティとは正反対の音だが、穏やかでしかも艶やかで、豊かでふくよかで、暖かい息の通うようなおっとりした重厚な響きに浸っていると、心からくつろいだ気持になれる。元来太った音のあまり好きでないわたくしにさえ、未だに魅力たっぷりの音なのだから、この傾向の好きな人にはたまらないスピーカーだろう。こういう性格の製品をほかにも思い浮べてみると、同じイギリスのタンノイのやラウザー、アメリカのボザークやアルテックそれにエレクトロボイスのそれぞれ旧型などがこの傾向の名器といえるだろう。
 これら過去の名器ほど古い製品でなくとも、現代の製品でありながら、その鳴らす音にむしろ保守的な、あるいは穏健な良さを響かせるスピーカーがある。ハイファイスピーカーの、ある意味で冷徹なほどクールで、クリアーで、シャープで、明晰で鮮鋭な音に対して、常にあたたかさを失わない鳴り方は、ハイファイの研究家などでないふつうの音楽(レコード)愛好家にはむしろこの方が好ましいとも言える。たとえばイギリスならセレッションのディットン66などにそういう響きがのこっているし、好き嫌いを別とすればKLHやARの音もこの範疇に入れていいだろう。
 しかしどうやら、新しい音を自分の装置にとり入れるか否かは、音そのものの好みを越えて、音楽とその演奏にかかわってくる問題のように思える。そのことをくわしく論じるにはもはやスペースがあまりにも足りないので概論的・要約的な言い方しかできないが、クラシックに関していえばおよそ一九六五年あたりをひとつの境として、音楽の解釈ひいては演奏に新しい世代が登場しはじめている。そしてその頃とときを同じく、ヨーロッパのクラシックレコードの録音が少しずつ変貌しはじめて、ことに七〇年代にはいってからのヨーロッパのメイジャー系の音は、鋭角的、新鮮な光沢、歪みのほとんど感じられないクリアーな滑らかさ、どんな細かい音色の変化をも逃さず収めた、そういう音の採り方を、さかのぼっていえばそういう音楽の変化を、認めるか否かによって、選ばれるスピーカーの音もまたそれぞれに応じて変るはずだ。たとえばヴァイタヴォックスの音は、アルゲリッチやポリーニの新鮮で鋭角的なタッチを鳴らすにはもはや不十分といえる。けれど反面、フルトヴェングラーもトスカニーニの復刻盤は、現代のモニター系のスピーカーではあまりにも録音のアラが先に立ちすぎることがある。

5.
スピーカーの能率が全般的に低下している
能率の低下はアンプの出力を増すことでカバーできる理屈だが
動力線が必要になるというのはゆきすぎではないか……?

 最近のスピーカーが、周波数レインジや耐入力特性などの──いわゆる物理特性の──面で向上している反面、古いタイプのスピーカーにくらべて能率の極端に低下しているものがあることは、すでにいろいろの機会に指摘されている。言いかえれば、広い帯域をフラットに再生するスピーカーを作るには、スピーカーの諸特性の中で音質に直接関係のない《能率》をギセイにすることが最も手近な方法だからだ。能率の低下した分だけアンプの出力を増してやれば、音量の低下は防げるのだから、その分だけ音質が向上する方がいい。これがスピーカー設計者の言い分で、都合のいいことには、以前にくらべるとアンプの方が高出力化しているし、100W、200Wというハイパワーのアンプも容易に作れる時代になっている。スピーカーの能率が3dB下がっても、アンプのパワーを2倍にすれば同じ音量が確保できる。能率が6dB低下すればアンプのパワー4倍。10dB下がればパワー10倍。20dBなら100倍という計算になる(次表参照)。
 古いタイプのスピーカーと新しいタイプとでは、能率に20dB以上も差が生じる場合がある。少し古い話だが本誌17号でコンポーネントステレオの切替比較をしたとき、JBLの〝ハークネス〟(130AとLE175DLHの2ウェイ。バックロード・ホーン型)と、国産のブックシェルフ型の中でも比較的能率の低いある製品との能率に、聴感上でほぼ20dBの差の出たことがあった。ブックシェルフを鳴らしたアンプのボリュウムをそのままの位置で、マイナス20dBのミューティングスイッチをONにしたとき、ハークネスの音量がブックシェルフとほぼ同じになる。つまりハークネスを鳴らすには、ブックシェルフを鳴らすのよりも20dB(1/100)だけ出力の低いアンプでよいという計算になる。ブックシェルフを十分に鳴らすには仮に100Wのアンプが必要とすれば、ハークネスに対しては1Wあればよいという理屈で、これはたいへん大きな差である。
 むかし映画劇場のトーキー用のアンプの出力は、せいぜい5Wから15Wぐらいで、それでも広い劇場に十分の音量が供給できた。それはスピーカーが高能率だったからである。
 本誌28~29号のブックシェルフスピーカー・テストでスピーカーの能率をしらべたデータによると、そのときテストした内外約120機種のスピーカーの約50%が、3~4Wの出力でほぼ満足のゆく音量が得られるという結果が出ている(測定条件=無響室内、スピーカー正面1mの軸上で、ピンクノイズ入力で90dBの音圧が得られたとき、スピーカーにどれだけの出力が加えられたかを測ったもの)。これはただし平均出力なので、音楽のピークに対する余裕を、ポピュラーでは約10倍、クラシックでは約30~50倍見込む必要がある。つまり市販されているブックシェルフスピーカーで、ナマの演奏を聴いているような実感のある音量を十分に出そうとすると、30Wから200W(片チャンネルあたり)の出力が必要だという結論である。
 今回のテストの際に、アンプの出力を読みながらレコードを鳴らしてみて、右のデータが決して机上の空論でないことをたしかめた。たとえばアルゲリッチのショパン(独グラモフォン2530500)のフォルティシモで、ナマのピアノを聴くような実家のある音量まで上げると、アンプのパワーメーターの針が、しばしば100ないし150W(片チャンネルあたり)を振り切れることを体験した。もしも旧型の高能率のスピーカーなら、同じ音量を出すにも1/10から1/100のパワーでよいのだから、アンプの方がはるかに楽になる。
 150ないし200W×2のアンプと聞いても近ごろはそれほど驚かなくなったが、一般的なB級増幅のトランジスタのアンプの場合でいえば、出力を増すにつれて電源の消費電力もそれに比例して増すことを忘れてはならない。消費電力はアンプの設計によって異なるが、平均していうと最大出力(左右の出力の和)の約2倍から3倍というところだから、150W(×2)の出力のときで600W以上、200W(×2)では800W以上を、電灯線電源から消費する計算になる。2ヵ月ほど前にある集まりで、300×2のパワーを出したときにどんな音量が出るか、という実験をしたことがあった。LEDのインジケーターを見つめながらボリュウムを次第に上げてゆくと、ほんの一瞬、300Wを示すランプが点った。が、そのとたん、電灯線のヒューズがとんで停電してしまった。あとからアンプの消費電力をしらべてみると、最大出力時で1300W(1・3kW)と書いてあったので、なるほど無理ないと納得したが、このクラスのハイパワーアンプを使おうとすれば、クーラーなみに動力線を引かなくては安全でないということになる。案外、ふだん気のつかない大切な問題だ。それだから、スピーカーの能率の低下はパワーの方でいくらでも補うことができるなどと、あんまり甘く考えるわけにはゆかなくなるわけだ。

6.
スピーカーの音質を聴き分けるには
高低音のバランスとか歪みの多少よりも
もっと微妙な面がいろいろある
スピーカーを聴き分け、選び、使いこなすための
いくつかのヒントを集めてみると

高能率のスピーカーを小出力で鳴らした音と
低能率スピーカーを大出力で鳴らした音とでは
音量を同じにできても音質に何か違いがある……

 いくら動力線を引くことになっても、スピーカーの能率を犠牲にすることによって音質その他諸特性が確かに向上するのであれば、それとひきかえにハイパワーアンプに投資することぐらいガマンしてもいいと思う。
 だが、ここまでは単に理屈にすぎない。実際に能率の非常によいスピーカーを絞って鳴らした音と、能率の低いスピーカーに相応のパワーを加えて鳴らした音とでは、仮に音量を同じにすることができたところで、出てくる音の質が、どこか決定的に違うように思える。大型の高能率のスピーカーを小出力で鳴らす音の方が、どこか演奏者に一歩迫って聴くような直接的な感じがするのに対して、小型ブックシェルフにパワーを放り込んで鳴らす音には、何か作りもの的な、どこかで嘘であるような、そんな印象を受けることが多い。別な言い方をすると、高能率スピーカーの鳴らす音には、しっかりした芯が一本通っているような実体感があるのに対し、能率の低いスピーカーの音は仮に輪郭鮮明という感じがしても、その中味には芯がないような感じを受けることが多い。もちろんすべてがそうだとは言えない。しかも高能率スピーカーは概して旧型のナロウレインジだし、低能率スピーカーは近代のワイドレインジ型だ。そういうちがいが右のような音の差を生むのかもしれない。また、高能率スピーカーはたいてい中型以上のフロアータイプだし、低能率スピーカーは一般に中型以下のブックシェルフタイプである。アンプ自体の音質も、パワーを上げたときと絞ったときとで性格の変る場合がある。いろいな要員が複雑にからみあっているに違いないが、音というのは、パワーを上げただけでは補うことのできない微妙な面のあるものらしい。
音像定位のでき方が気になる
 ステレオの二台のスピーカーの中央に坐る。レコードをかければ左右のスピーカーのあいだいっぱいに音が拡がり、その中に楽器やソロイストやコーラスの定位が感じられる。そういう音のひろがり方・定位のしかた,ひと言でいえばステレオエフェクトが、どう再現されるかという問題が、わたくしには常に気になる。
 たとえば、左右のスピーカーの幅いっぱいに音がひろがり、音像定位もシャープに出るのに、オーケストラあるいはオペラのような場合、音像がまるで左右のスピーカーの間に張った幕に映る映像のように平面的で、奥行きが全然感じられず、立体感の欠けた音像になる。いかに音がひろがろうが定位しようが、こういう感じの音はオペラのステージの空間的なひろがり、あるいはオーケストラと歌手との距離感が欠け、立体的な構築感が得られない。いや室内楽でもジャズでも、それが演奏されている場の空間的なひろがりが感じられず、ふくらみや立体感や奥行きに乏しい、いかにもそこに音楽があるという実体感あるいは実在感のようなニュアンスを欠くことになり、音楽そのものの感動が伝わりにくい。
 奥行きの出るスピーカーは、言いかえればスピーカーの置いてある壁面が取払われて壁の向うに演奏ステージが現出したような感じを抱かせることになるわけだから、目の前にじゃまもののない、一種さわやかな、すがすがしいような透明感を思わせる。演奏会場と自分の部屋の空気が直結したような空間的なひろがりを感じられる。これに対して音像の平面的なスピーカーは、概して眼前に垂れ幕を一枚置いてその向うに演奏者がいるというような、どこかもどかしさが感じられる。
 平面的に鳴るくらいなら、壁の向うにひろがらなくても、スピーカーよりこちら側にせり出してくる感じの方が、まだいくらかましだ。こういう音像のでき方は、概してジャズやポピュラー系に良い結果を生じる。いわゆる〝前に出る音〟というのだろうか。アメリカ系のスピーカーにわりあい多い。しかしこのタイプでもうひとつ注意しなくてはならないことは、音像が左右のスピーカーの幅いっぱいに拡がらず、逆に二つのスピーカーの中間に固まってしまう傾向のあることで、こういうスピーカーは、ステレオの音のよくひろがる録音も、モノフォニック的に聴かせてしまい、せっかくのステレオのひろがりや定位の感じとれないのがある。モノーラル初期に開発された製品にときどき見受けられる。
 また奥行きの出る出ないにかかわらず、たとえば中央にシャープに定位すべきソロイストが、左右のスピーカーのあいだに大きくぼやけて、あまりシャープな定位の出ないスピーカーも、音質の上でどこかに問題があるので要注意。
 日ごろステレオフォニックの出かた、音像の広がりや定位にあまり気をつけて聴いたことのない人の場合は、右のような差を聴きとるまでに多少の馴れが必要になるかもしれない。音を聴き分ける耳を訓練することももちろんだが、後述のように左右にひろげたスピーカーとリスナーとの関係位置を正しく保たなくては、右のような違いを聴き分けられない。
 こういうエフェクトについては、たいして注意を払わない、あるいはそのことに対してはあまり大きな価値を見出さない人の多いことも確かである。また、いくら音像定位が重要だと言われても二つのスピーカーの中央に、坐る位置がきめられるのを嫌う人もある。そういうことはむろん個人の好みの問題だから、スピーカーの横の方に寝そべって聴こうが極論を言えば隣の部屋で聴こうが、そんなことはわたくしの立ち入ることではない。
 しかし、ここは大事なところだが、右のような音像の広がりと定位の正しく出にくいスピーカーは、その音質の面でも、どこか欠陥を持っているものが多いと言う点に注意してほしい。音像の定位に関心のない人でも、ほんとうに音質の良いスピーカーが欲しいのであれば、試聴の際に音のひろがりや定位のちがいにも注目すべきである。
音を空間にちりばめるタイプと
スピーカーのところに固めてしまうタイプがある

 音像定位の効果ともやや関連があるが、複雑にからみあいながら進行してゆく各パートの音符をきれいに分解して空間にちりばめて鳴らすような感じの音と、スピーカーの箱のところに練り固めて張りつけたような鳴り方といった感じの違いがあり、後者はジャズあるいはロックに一種粘った面白さを聴かせることもあるがクラシックには前者のような鳴り方が望ましい。
音量の大小とスピーカーの評価
 アメリカ東海岸のスピーカーが、概して大音量によいことは前に書いた。このことはサブスピーカー的な小型ローコストの製品を除いては、アメリカ製のスピーカー全般にだいたいあてはまる。
 反対に、イギリス製をはじめとしてヨーロッパ系のスピーカーに、アメリカ製ほどハイパワーに強いスピーカーは割合少ない。ヨーロッパ系のスピーカーは、音量を絞ったときの音が美しく、バランスよく、音に適度の響きと距離感をもたせて艶めいて鳴る。こういう傾向は概してクラシック系に好ましい。
 アメリカ系のスピーカーの中には音量を絞るとディテールの繊細な余韻が消えてしまったり音のバランスをくずしたり音に生気の欠けてしまうものがあるので注意が必要であるが、パワーを送り込むにつれてカラッと乾いて引締った鳴り方が、ポピュラー系には絶対的な強みを聴かせる。ヨーロッパ系のスピーカーはハイパワーでは飽和した感じ、音がつぶれたり濁ったりする感じになるものが多い。
深情け型と即物型
 音が鳴り止むとき、その余韻がどこまでも尾を引いて美しく繊細に消えてゆく感じ。鳴り止んだあとの静けさから、かえって、いままで鳴っていた音の美しさを知らされるといった感じの鳴り方。こういう音は、概してヨーロッパ系のスピーカーに多い。あくまでもしっとりした艶を失わず、相手を捕えて聴き惚れさせてしまう。いわば深情け型の音、とでもいえるから、こういう鳴り方が鼻につくという人には向かないが、このタイプの音はやはり本質的にクラシックに向くといる。ジャズでもMJQのような音、諳・バートンの唱うバラード、スウィング・シンガーズの声、等々、この系統の音楽には、右のような鳴り方が音楽をいっそうひき立てる。
 音の余韻とか鳴り止んだあとの静けさといった、いわば《虚》の部分で音の実体を一層美しく彫り上げてゆくタイプがヨーロッパ系のスピーカーに多いとすれば、アメリカ系のスピーカーは逆に、何のてらいもなく《実》の部分を即物的に鳴らす。音の余韻をむしろ断ち切る傾向がいっそう即物的な印象を強め、そこが人によって「ストレートな鳴り方」というような表現になるだろう。そしてこのタイプの音はポピュラー系の音楽には絶対の強みをみせる。深刻ぶらない感じ。明るく乾いて、そっけないほどの鳴り方は、クラシックには向きにくい。
 また、余韻をよく鳴らすスピーカーは、音がリスナーに対して距離を置いて鳴る感じが強く、逆に余韻をおさえるタイプのスピーカーは、音源が近接した感じになる。ホールトーン(演奏会場の残響音)を多分にとり入れる傾向の強いクラシック系の録音では、距離感のある鳴り方、余韻の美しさなどが残響音をいっそう美しく感じさせる。またジャズ(ことにコンボ編成の小人数の演奏)では、各楽器の音を近接的にとらえる傾向の録音が多い(最近のヨーロッパ系の録音では必ずしもそうとはいえないが)ため、即物的な表現のスピーカーが向くと言われるのだと思う。
叩く音に強いスピーカー
引っ掻く音に強いスピーカー……?

 我々の仲間うちで、だれが言い出したのか(たぶんこんな言葉を作るのは菅野沖彦氏か山中敬三氏だろうが)、叩く音に強いスピーカー、引っ掻く音に強いスピーカー、という変てこな表現がある。叩く音とは打楽器一般やピアノを指し、引っ掻く音とは弦楽器の系統を指している。一見ふざけた言い方のようだが、数多くのスピーカーを聴きくらべていると、ピアノや打楽器の輪郭を鮮明に鳴らすスピーカーは弦楽器の音を少しきつい感じで鳴らす傾向があり、弦を柔らかく滑らかに鳴らすスピーカーは打楽器を鈍らせる傾向のあることに気づいてくる。むろんその両方をうまく鳴らすことがスピーカーの理想だが、現実には、価格の高低と直接の関係なしに、右のような傾向が聴き分けられる。こういう面も、クラシックに向くスピーカーシステムとジャズ・ポピュラーに向くスピーカーの違いのようなものが論じられる原因のひとつといえる。そしてこの面でも、ヨーロッパ系のスピーカーが一般的に弦を良く鳴らし、アメリカ系が概して打楽器をよく再生する傾向がある。
これらのさまざまな要素に音の新旧がからんでくる
古い音は太目で暖かで
新しい音ほどぜい肉を抑えて細身にクールになる

 古いタイプの音は概して太り気味で暖かく、新しい音になるにつれてぜい肉を抑えた細身の、シャープな、あるいはクールな鳴り方をする傾向がある。たとえば周波数レインジのせまい音は一般に太い感じに聴こえるし、大型スピーカーから出てくる音は、どうしても大作りの感じで、したがって太りかげんで、よくいかばおっとり、悪くいえば反応が鈍いような傾向になりがちである。大型のスピーカーで、音のスケールが大きい反面、シャープで繊細な音が細身に鳴らせるようなスピーカーがあれば、まあ理想に近い。しかし多くの場合、両方を兼ね備えた音は望みにくい。この、太身とか細身という感じは、ヨーロッパとかアメリカという分類では説明できない。どうしてもスピーカーの構造やメーカーのカラーや、世代の違い、といった面からとらえる必要が生じてくる。
 たとえばヨーロッパのスピーカーなら、ヴァイタヴォックスやラウザーなどは太い傾向の音といえる。しかし世代は同じでもタンノイは必ずしも太っているとはいえないし、逆に新しい世代でもセレッションの66などは割合に肉乗りのいい音がしている。しかし世代の若いKEFやB&Wなどは、概してぜい肉の少ない細身の音を鳴らす。太い、細いという言い方に対して、おおらかとか動作の緩慢さ、その逆の敏捷あるいは潔癖な印象、などという分け方をすれば、もう少し多角的な捉え方ができるかもしれない。必ずしも太い音でなくとも、どこかゆったりとおおらかな、暖かい感じの音が古い世代の良さとすれば、潔癖な感じ、クールな音、鋭敏で明晰な音、というのが現代の音の良い面といえるだろう。
 そういう分類をアメリカにあてはめれば、旧いアルテックやエレクトロボイス、あるいは少し前のKLHやARなどが、ややグラマーな感じ、太い感じの音であるのに対して、JBLのニュー・ジェネレイションのモニターシリーズやESSあるいはインフィニティなど、新しい世代の、ことに西海岸系のスピーカーの方が、概して急進的・現代的な音を鳴らすといえる。
 急進的な音、新しいスピーカーの音が、すべて優秀などと単純な結論を出すのは間違っている。古い音の良さと、新しい音の良さとは全然別のものだ。古い新しいという単純な尺度で考える方が危険かもしれない。そこに、前述のようなさまざまの要素がからみあい、そしてこれも前述のように、音楽やレコードの録音や聴き手の感性と微妙にかかわりあっている。
使いこなしの定石を破る必要がある
というよりいままでの説は改められる必要がある

 いままで述べてきたようなスピーカーの音質を正しく聴きとり、あるいは正しく生かすには、スピーカーの置き方──リスニングルーム内での設置のしかた──について、いままで常識のように思い込まれていた方法を考え直す必要がある。新しいスピーカーの良さを聴くために評価の尺度を変える必要があるとすでに書いたが、そういう音を聴きとるためには、スピーカーの置き方から改めてかかる必要がある。
 スピーカーの置き方やリスニングルームの設計には、いままでにひとつの定石のようなものができ上っていて、新しくリスニングルームを設計する人も設計を依頼する人も、誰もがあまり疑いを抱かない。が、少なくとも次の二つの次項は早急に再検討の必要があると思う。それは──
① スピーカーは固い壁を背にして置く。いわゆるライブエンドにスピーカーを置き、聴取側をデッドエンドにする(図a)。
② 部屋を長手方向に使う(または設計する)(図b)。
──この二つの定石は、新しいスピーカーになるにつれて次第にあてはまりにくくなっている。ことにモニター的な系統で開発されるスピーカーの多くは、次のような条件を前提に作られるケースが多い。
ⓐ スピーカーエンクロージュアは適当な高さのスタンドに乗せる。しかも周囲は壁面から十分に離し(あるいはスピーカー側をデッドエンドに設計し)、壁面からの反射音の悪影響から逃れる(図c)。
ⓑ 二つのスピーカーは左右に広く離す。左右のスピーカーは正面がリスナーの耳の方に向くように互いに内側に傾ける。これは音像の拡がりと定位をより良く再現するためであり、良いスピーカーや新しい録音のプグラムソースは、左右に広くひろげてもいわゆる中央抜けを生じにくくなっている。したがって部屋はむしろ長手の壁面にスピーカーを置く方が使いやすい(図c)。なお、スピーカーとリスナーの関係位置は図dのとおり。この関係をもし六畳の部屋にあてはめれば、部屋をタテでなくヨコに使うしかないことがわかる。
 これらの理由について説明を加えるスペースがないので、実際例については本号スピーカーテストの解説記事(98ページ)を参考にして頂きたい。また右の条件は、言うまでもなく、スピーカーのタイプや性質や構造その他とにらみあわせて、なかば実験的に決定すべき問題といえる。少なくともスピーカーの置き方についての定石のようなものを、この辺で改めて考え直してみる必要のあることを、ぜひ言っておきたかったわけだ。
     *
 世界的にみて、スピーカーの鳴らす音楽が、ワイドレインジに、従来よりは特性上もよくコントロールされたフラットな──色づけの少ない──方向に、明晰に、クールに、あるいは鋭角的な方向に、転換しつつある。そういう音を正当に評価するには、従来の、ナロウレインジの色の濃い音、そして古いタイプの録音やスタイルの演奏様式等に馴れ育った耳を、少しずつ、時間をかけて切換える必要がある。蛇足とは思うが皆がみんなそういう音を認め、古い音や演奏を捨てろなどと乱暴なことを言おうとしているのではなく、古いものの良さと新しいものの良さをそれぞれ評価するには、ものの見方や評価の角度(あるいは尺度)を変えてかかる必要があることを言っているだけだ。
 たとえば、KEF♯104を購入したユーザーの中にも、置き方やリスニングポジションが不適当なためにこのスピーカーの本当の音を(好むか好まないかは別としてともかくこのスピーカーの本来の音を)鳴らしていない人の多いことに驚く。また、従来のレインジのせまいスピーカーでは気がつかなかったアンプのわずかな歪み、カートリッジの針先の摩耗やレコードの傷みなどの細かなアラが一斉に耳ざわりに鳴り始めて、それがスピーカーのせいだと誤解してしまった人も、わたくしの知る範囲でさえ少なくない。そういう話を聞くたびに、新しいスピーカーを正当に鳴らし評価することの難しさを思う。実に難しい時期にさしかかっていると、つくづく思う。

参考資料
●ラジオ技術増刊「現代ステレオ・スピーカ」実測特性グラフ
●ステレオサウンド・スピーカー特集号(28~29号、22~23号、16号、10号)
●ステレオサウンド’75SPRING別冊「コンポーネントの世界」シンポジウム〝オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる〟岡俊雄・黒田恭一・瀬川冬樹・岩崎千明・油井正一

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