瀬川冬樹
ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より
オーディオ機器はレコードやテープやFMから音楽をより美しい音で抽き出し鳴らす道具だ、という点を第一に明確にしておく必要がある。万年筆は文字を書く道具、カメラは写真を撮る道具、釣竿は魚を釣る、かんなは木を削る、ゴルフのクラブは球を打つ道具だというのと全く同じ意味でオーディオ機器は音楽を鳴らす道具である。あらゆる道具というものを頭に浮かべてみれば、良い仕事をするには良い道具が必要で、その何かをするという目的に厳しい態度で臨む人ほど道具に凝る。しかしまた、良い道具を手に入れればそれで道具が勝手に仕事をしてくれるわけではなく、道具の善し悪しと関係なく道具は使いこなさなくては能力を発揮しない。この、使いこなす、という一点で道具がそれ自体独立した存在でなく人間と一体になって仕事をする、まさに「道具」なのだということはが明らかになる。そのことから道具は手段であると言いかえることもできるが、それだから目的をなし遂げさえできれば道具はどんなものでも構わないということにはならないので、大工が鋸やかんなに凝るというのが専門職だけのことだというなら、素人にも毎日の食事をとる箸や茶碗にさえ気に入りの道具というのがあって使い馴れない箸ではものの味さえ変るという例をあげればよい。するとそこには使い馴れるという問題も出てくることになる。しかしそれではまだ、使い馴れさえすれば道具に凝る必要は無かろうという疑問に答えたことにはならない。古くから「能書筆を選ばず」の諺があって、腕の良い人間に良い道具は不必要であるかのように誤解されているが、それは道具の能力に頼って技を磨く努力を怠る人へのいましめであって、弘法が良い筆を持てばいっそう優れた字を書くだろうことに疑いを抱く人はあるまい。しかしここでさらにつけ加えれば、穂先のチビた筆よたも良質の毛の揃った筆の方が良いという単純な問題でなく、書きたい文字によっては穂先を散切りに断ち切って筆を作りかえ或いは意識的に使い古しの筆を選ぶ場合もあるように、すべて道具は目的に応じて作られ選ばれ或いは作りかえられ使いこなされる。そこで道具とその使い手が一体になる。使い手が変れば、つまり使い手の意図が変れば別の道具が選ばれ、だから反面、同じ道具でも使い手が変ればそこから別の能力が抽き出される。そうした能力を思いきり抽き出す人を達人と呼び、そのことに十分応えるばかりでなくそういう人の能力をよりいっそう高めるような道具を名器という。名器は達人の使いこなしに耐えられるばかりでなく人間の潜在能力を触発する。道具もそこまでに至ると、手段としての役割を離れて一個の「もの」の良さとして、それ自体が鑑賞の対象にさえなる。刀剣の美しさ、茶碗や皿の、釣竿の、さらに鋸やかんなでさえ、永い年月に磨き上げられ洗練の極みに達した道具は、まさに一個の美術品になる。カメラや時計やオーディオ機器のような機械(メカニズム)もこの例外でない。しかしこれもまた誤解を招きやすい言い方なので、単に見栄や投資や利殖から、或いは中には金の使い途が無いからなどという馬鹿げた理由から、むやみに高価なものを買い漁り価値の分かりしないのに丸抱えするような書画骨董への接し方は、わたくしの最も嫌うところである。そうではなしに、写真を撮ることが好きで写った写真の結果をさらに良くしたいからとより良いカメラを求め、もっと良い音質で聴きたいとより良いスピーカーやアンプを求める全く素朴な欲求が人間にはあり、そうして入手したカメラやアンプが、本来の写真を撮る或いは音を鳴らすという目的とは別にメカニズムそのものの美しさで人を魅了し、だからそれを愛玩するという、人間の心の自然な流れを批判したりするのは見当外れの話なので、人を斬らずに刀剣を蒐(あつ)め、茶を飲まずに茶碗や壺の美しさを愛で、郵送する目的でなく切手を蒐集する趣味を誰も不思議に思わないのに、なぜ、写真を撮らないカメラの蒐集、音を聴かないオーディオパーツの蒐集を誹るのだろうか。
あらゆる品物、あらゆる道具は、その目的に沿って磨き上げられれば自らにじみ出る美しさを具えはじめる。本来の目的から離れ一個の「もの」として眺めてなお十分に美しく魅力的であるほどの道具なら、本来の目的のために使われればそれぞれに最高の能力を発揮するはずのものであり、オーディオパーツの能力とは、言うまでもなく音楽を素晴らしいバランスで鳴らし、良い音質が人の心をもゆり動かす、ということに尽きる。それがもし刀剣であれば本当に「斬れる」刀と、単に取引や利殖の対象の美術品であることを目的とした似非刀剣との大きな違いになる。
曇りのない直観で眺めた目には、ものはそのあるべき能力がそのまま形になって見える。身近な例をあげても、マッキントッシュ275のあの外観は全く出てくる音そのままだ。目に写ったとおりの音、音そのままの外観。マランツ7型プリアンプ、9型パワーアンプ、JBLのスピーカー群、アンペックスのプロ用デッキ……例はいくらでもあげられる。高価な外国製品ばかりをあげる必要は少しもなく、たとえばフォスターのFE103屋テクニクスの20PW09(旧8PW1)やダイヤトーンのP610Aなど、性能を追いつめて行って自然に生まれた美しい形、優れた製品がある。ローコストにはローコストの、無駄の無い美しさがある。ここまで来てやっとひとつの結論を言えば、外観と内容にごまかしの無い、嘘の無い製品には見陸がある。魅力ある製品、優れた製品というものは、どこまでが外観の魅力なのかどこからが内容の魅力なのか、そのけじめが渾然と一体になでいるものなので、現在の多くの市販製品のように、内容は技術課が設計し外観は内容を知らない意匠課のデザイナーが担当する、といった企業体質からは、本ものの魅力を生むことは不可能でないにしても極めて困難である。
そのことからソウル・B・マランツとA・ロバートソン=エイクマンの名をあげてみたい。前者はかつてのマランツの、後者はSMEの創始者である。マランツは工業デザイナーであり自身チェロを弾くアマチュア音楽家であり、エイクマンは精密機械工場の経営者であり機械エンジニアで、ともに熱烈なオーディオ愛好家であった。マランツはそれまで市販されていたアンプに、エイクマンは同じくトーンアームに、自身満足できるような理想像を見出すことができず、自らの理想を実現するために努力して、永い年月をかけけてあの優れた製品(マランツ・モデル1からSLT1
2に至るアンプとプレーヤー、そしてSMEのアーム)たちを世に送った。彼らはそれを商品としてでなく、自身の高い理想を満たす、自分で使うために作ったのであり、その妥協を排したごまかしのない作り方が、同じ理想を理解する多数の愛好家の心を動かし、製品が支持され、一つの企業として成立さえするに至ったのである。右の二人のような会社の創始者ではないが現在のJBL社長であり、マランツと同じく優れたデザイナーとして、JBLの一連のデザインポリシーを確立したアーノルド・ウォルフの名もぜひあげておきたい。こういう形はオーディオの世界ばかりでなく、たとえばヴィクター・ハッセルブラッドや、古くはオスカー・バルナックにもみられる例である。言うまでもなくハッセルブラッドとライカの創始者であり、どちらも自分が使うために作ったカメラが現在の製品のプロトタイプとなり、ことにハッセルブラッドが1948年以来その原型を基本的に変えていない点がSMEのアームに良く似ている。
右のような姿勢──それまで市販された製品に理想像を見出すことができない故に、いわばやむにやまれぬ衝動が優れた「もの」を生む動機になった──例は古今に限り無くあったのだろう。しかしその動機は同じでも、結局、洗練された感性と自身に対して厳しい態度で臨むことのできる優れた人間の作ったものだけが、永く世に残って多く人たちの支持を受けることになる。理想と現実とのあいだに立って、クールな眼で自分の生み育てた作品を批判できる人だからこそ、一歩一歩改良を加え永い年月をかけて立派な作品二仕上げることができる。そういう製品が、本ものの魅力を具える。価格が安かろうが大量生産品だろうが、洗練された感性に磨かれれば自然に魅力ある製品に仕上ってくる。そういう魅力は、現在の日本の工業製品の大多数がそうしているような多数決方式からは生まれにくい。また、頻繁なモデルチェンジ──それも原型(プロトタイプ)を簡単に水に流していつでもスタートし直しのような──態度からも、製品の魅力は育たない。人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる誤った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。ことにオーディオ機器は、芸術と科学と人間との完璧な融合がなくては、魅力ある製品に仕上りにくい。データには表わしにくい人間の感性にもっと目を開かなくては、立派な製品は作れても魅力ある商品(それに見合った金額を払うに値する製品)は生まれない。
0 Comments.