黒田恭一
ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より
結局は、主観な作業でしかないのはわかっているが、だからといって恣意的な発言がゆるされるというものではないだろう。せめてどのレコードのどの部分のどのあたりをきいたのかを、はっきりさせようと思った。そのことから考えついた、ごく大雑把なものでしかないが、試聴につかった部分を図表にして、特に注意してきいた部分で、しかもああ、あそこのことかと、それらのレコードをきいたことのある方に、すぐにわかっていただけそうな部分を、それぞれのレコードについて書きだした。
ききとってメモにしるしたのは、その五つにとどまれなかったが、あまり数をふやして、煩雑になることをおそえ、五つにとどめた。
当然、そこで言葉は、しごくそっけないものにならざるをえなかった。ひとつのポイントについて30字以内で書かなければならないという制約もあった。しかし、試聴してのメモには、本来、美辞麗句が入りこみようがないものと思う。即物的な言葉でことたりた。そのようにすることで、多少なりとも、あいまいさからのがれられたといえるかもしれない。
できるかぎり音楽を構成する音に即して、きいて印象をしるそうとしたがゆえの、ひとつの方法だった。むろん充分にその目的を達しえているなどとは思わないが、多少なりとも、あいまいさから遠ざかることができたかもしれない。
レコードA
「カラヤン/ヴェルディ、序曲・前奏曲集」
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー
(グラモフォン MG8213-4 録音=1975年9月22日〜30日、10月21日、ベルリン・フィルハーモニー・ホール)より、オペラ「仮面舞踏会」前奏曲 演奏時間=4分32秒。
ヴェルディがその中期に完成したオペラ「仮面舞踏会」のための前奏曲は、オペラの内容を実にたくみに暗示したすぐれたものだ。ヴァイオリンのピッチカートで開始され、それにフルートとオーボエがピアニッシモでこたえる。そして次第に音の厚みをましていってクライマックスに達するが、そうした推移のうちに、中期のヴェルディならではの、手のこんだ、しかも有効な楽器のあつかい方が示される。その微妙な響きの色調の変化をどこまでききとりうるかが、ひとつのポイントになるだろう。
0’→
❶=ヴァイオリンによるピッチカートが左から鮮明にききとれるか。それにこたえるフルートのとオーボエのピアニッシモによるフレーズの音色が充分にわかるか。
0’53″→
❷=チェロとコントラバスによるpppのスタッカートが、あいまいにならず、いくぶん奥の方にひろがっているか、ここで響きがぼけると、スタッカートである意味が薄れる。
1’35″→
❸=主旋律を奏するフルート、オーボエ、クラリネットに、第1ヴァイオリンがフラジオレットでからむ。その独特な音色が充分にききとれるかどうか。
2’05″→
❹=第1ヴァイオリン以外の弦楽器はピッチカートを奏している。主旋律はエスプレッシーヴォと指示された第1ヴァイオリンで、ピッチカートがふくれず、ゆたかに響くか。
3’35″→
❺=ホルン4本、トロンボーン3本、それにオフィクレイド等も加わっての、フォルティッシモの総奏が、音がわれたりにごったりせずに、ききとれるか。
レコードB
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団
(フィリップス X7700 録音=1975年12月18日〜20日、ロンドン、ウェンブリー)より、第3楽章の冒頭1分20秒。
ここでつかったのは、K482のコンチェルトの、第3楽章の冒頭である。この第3楽章は、アレグロで、ロンド形式によっている。ピアノと弦楽器で、ロンド主題が示されて、曲は開始されるわけだが、ここでまずきくべきは、「室内管弦楽団」の響きの軽やかさと、フルート、クラリネット、ファゴット等の木管楽器の響きの色調だろう。ブレンデルによってひかれたピアノの音には、独特のまろやかさがあるが、それがオーケストラの響きといかにとけあっているかも、むろんポイントのひとつになる。
0’→
❶=弦楽器群にかこまれて、8分の6拍子の軽やかなメロディを奏しはじめるピアノの音像が大きくなりすぎることなく、中央にくっきり定位することが望ましい。
0’26″→
❷=2ほんのファゴット+2ほんのホルンによる和音と、それにつづく2本のクラリネット+2本のホルンによる和音の、音色的な対比が充分についているかどうか。
0’43″→
❸=オーケストラのフォルテによる総奏が、「室内管弦楽団」によるものならではの軽やかさをあきらかにできているかどうか、それがこの部分のポイントになる。
1’→
❹=そよ風を思わせる、第1ヴァイオリンの、8分音符+8分音符による単純なフレーズが、これみよがしにならず、しかもすっきりと、左からきこえるかどうか。
1’05″→
❺=ソロをとるファゴット、ついでフルートの音色が、ここでみさだめられる。それらの楽器がことさらはりだすことなく、しかし鮮明にきこえることが望ましい。
レコードC
ヨハン・シュトラウス:オペレッタ「こうもり」全曲
ヘルマン・プライ(バリトン)、ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)、ルチア・ポップ(ソプラノ)他 カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団
(グラモフォン MG8200-1 録音=1975年10月〜1976年3月 ミュンヘン、ヘルクレスザール)より、第2面の冒頭2分20秒。
第2面の冒頭とは、ロザリンデ、アイゼンシュタイン、アデーレによる三重唱(第4曲)に先だつセリフの部分から、三重唱の途中までということだが、セリフで語られるドイツ語は、声のひびき方をきくのに絶好だ。そして三重唱に入っての、声とオーケストラのバランスも、スピーカーによって、きこえ方がちがった。オーケストラの中のソロをとる楽器の音色についても充分に注意をはらう必要がある。
0’02″→
❶=ロザリンデに呼ばれて、やってくるアデーレの言葉 “Ja, gnadge Frau?” が、少し離れたところから近づいて来るよう
にききとれるか。
0’22″→
❷=アイゼンシュタインが、言葉にならない言葉を口にしつつ、足音とともに登場する。その接近感があきらかにならないと、この場の雰囲気はあきらかにならない。
1’→
❸=ロザリンデがうたいはじめた時、オーケストラでまず耳につくは、分散和音を奏するクラリネットだ。そのクラリネットの音がまろやかに響くかどうか。
1’52″→
❹=ここでロザリンデは、”Aus Jammer werd’ ichg’wiβihn schwarz und bitter trinken.Ach!” とうたって、声をはるが、その時、はった声が硬くなっていないか。
2’15″→
❺=ロザリンデ、アデーレ、アイゼンシュタインの3人がうたいだしたところで、音楽は4分の2拍子になるが、そこでタンブリンがきこるかどうか。
レコードD
「キングズ・シンガーズ/珠玉のマドリガル集」
キングズ・シンガーズ
(ビクター VIC2045 録音=1974年、ロンドン)より、今や五月の季節(トマス・モーリー)。演奏時間=1分48秒。
キングズ・シンガーズは、カウンターテナー2人、テナー1人、バリトン2人、バス1人といった6人構成のグループだが、トマス・モーリーの「今や五月の季節」をうたうキングズ・シンガーズは、左から右へ、カウンターテナー、テナー、バリトン、バスの巡でならんでいる。その、いわゆる定位が、ちゃんとききとれるのかどうかは、このレコードの場合、最大のポイントになる。それからむろん、うたわれている言葉がどれだけはっきり示されるのかも、問題になる。多少残響が多めのこのレコードの特徴がネガティヴに働くこともあるからだ。
0’→
❶=左端のカウンターテナーから右端のバスまでの定位がきちんとききとれかどうか、それをまず、ここでききとる。
0’09″→
❷=これまでにうたった部分を、今度は、声量をおとしてくりかえす。声量をおとしたことで、言葉が不明瞭になっていないか。
0’30″→
❸=第2節は、”The spring, clad all in gladness” とうたいだされるが、残響のために、言葉の細部がききとれないということはないか。
1’03″→
❹=第2節をしめくくる、ソット・ヴォーチェでの「ファラララ……」で、各声部のからみあいが明確にききとれるか。
1’45″→
❺=最後の「ラー」が、残響をともなって、のびているか。うたい終ってポツンとされてしまっては困る。
レコードE
浪漫(ロマン)
タンジェリン・ドリーム
(コロムビア YX7141VR 録音1976年8月、ベルリン、オーディオスタジオ)より、「ロマン」の冒頭2分30秒。
タンジェリン・ドリームは、クリス・フランケ、エドガール・フローゼ、ペーター・バウマンといった3人の音楽家によって構成されている。彼らは、それぞれ、いわゆるマルチ・プレーヤーで、だからここでもさまざまな楽器を演奏して、まことにアーティフィシャルなサウンドをうみだしている。そういうサウンドの特徴が十全に感じとれることが望ましい。たとえばムーグ・シンセサイザーによる浮遊感のある響きの再現のされ方によって、ふたつのスピーカーの間の空間が、広くもなればせまくもなる。むろんその空間が広ければ広いだけ、タンジェリン・ドリームの音楽がききとりやすくなる。
0’→
❶=ピンという高い音とポンという低い音が、音色的にそして音場的に充分にコントラストがついて、示されているか。ここで提示されるリズムは、ここでの基本的リズムだ。
0’11″→
❷=後方から、シンセサイザーによるものと思える響きが、シンプルなメロディを奏してしのびこむ。それが次第に、それとわからぬように、クレッシェンドしていく。
0’25″→
❸=ヒュ、ヒュという音が、とびかう。その音が充分に浮遊感をもつことなく、しめってひびくと、ここで提示される空間は、せまくるしくなる。
0’55″→
❹=ピヨ、ピヨと書くより他に手がないひびきが、ひろがる。このひびきと、後方のシンプルなメロディーとが、前後の隔たりを示すことがのぞましい。
1’45″→
❺=オルガン的なひびきが、ひっそりとしのびこんできて、大きくふくれあがるが、そのピークで音がひずんだりしないか。またそのふくれ方が自然かどうか。
レコードF
アフター・ザ・レイン
テリエ・リビダル(エレクトリック・ギター、アクースティック・ギター、ストリング・アンサンブル、ピアノ、エレクトリック・ピアノ、ソプラノ・サクソフォン、フルート、チューブラ・ベルス、ベルス)
(ECM PAP9055 録音=1976年8月、オスロ、タレント・スタジオ)より、「アフター・ザ・レイン」の冒頭1分45秒。
テリエ・リビダルは、ノルウェー出身のギタリストだが、ここでは、さまざまな楽器をひとりで演奏し、それ多重録音して、作品を完成している。しかし、ここできけるサウンドの特徴は、ひとことでいえば、透明感ということになるだろう。透明な響きの中に切りこんでくるエレクトリック・ギターのソリッドな響きがあり、その対比が充分に示されなければならない。
0’→
❶=後方での、ほんのかすかな、しかしひろがりを充分に暗示する響きが、透明感をもって示されるかどうか、それがここでのポイントになる。
0’07″→
❷=エレクトリック・ギターによる音が、中央からきこえてくる。この音は、音楽の進展にともない、次第に前にせりだしてくるが、それが感じとれるかどうか。
1’06″→
❸=タムタムとおぼしき音がきこえる。この音は人工的なひびきの中で、奇妙な実在感を示すが、それがあいまいにならずに、ききとれるかどうか。
1’21″→
❹=ベルス、つまり鈴が、そのきらびやかな音で、アクセントをつける。これは、音色的にまるでちがうが、先のタムタムと同じような効果をあげる。
1’25″→
❺=他のひびきの中に埋めこまれた鈴の音がきこえる。これは、きわめてかすかにひびくものだが、スピーカーによって、きこえたり、きこえなかったりする。
レコードG
ホテル・カリフォルニア
イーグルス
(ワーナー・パイオニア P
10221Y 録音=1976値本3月〜10月、マイアミ、クリテリア・スタジオ、ロス・アンジェルス、レコード・プラント)より、「ホテル・カリフォルニア」の冒頭2分。
イーグルスの、レコードできける音は、重低音を切りおとした独特のものだ。そのために、ベース・ドラムなどにしても、決して重くはひびかない。そういう特徴のあるサウンドが、あいまいになっては、やはり困る。そして、ここでとりあげた2分の、前半の50秒は、インストルメンタルのみによっているが、その後、ヴォーカルが参加するが、そこで肝腎なのは、うたっている言葉が、どれだけ鮮明にききとれるかだ。なぜなら、「ホテル・カリフォルニア」はまぎれもない歌なのだから。
0’→
❶=左から12弦ギターが奏しはじめるが、この12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと、イーグルスのサウンドが充分にたのしめないだろう。
0’25″→
❷=ツィン・ギターによって、サウンドに厚みをもたせているが、その効果がききとれるかどうか。イーグルスの音楽的工夫を実感できるかどうかが問題だ。
0’37″→
❸=ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい。ギターによるひびきの中から、すっきりとハットシンバルの音がぬけでてきた時に、さわやかさが感じられる。
0’51″→
❹=ドラムスが乾いた音でつっこんでくる。重くひきずった音ではない。ドン・ヘンリーのヴォーカルがそれにつづく。声もまた、乾いた声だ。
1’44″→
❺=バック・コーラスが加わる。その効果がどれだけ示されるか。”Such a lovely place, such a lovely face” とうたう際の、言葉のたち方も問題になる。
レコードH
ダブル・ベース
ニールス・ペデルセン&サム・ジョーンズ(ベース)
(スティーブル・チェイス RJ7134 録音=1976年2月15日、16日)より、「イエスタディズ」(ジェローム・カーン)の冒頭1分30秒。
ここでは、ニールス・ペデルセンとサム・ジョーンズというふたりのベーシストが、演奏している。ペデルセンが右、そしてサム・ジョーンズが左に、定位している。ペデルセンによってひかれたベースの音は輝きにみちているが、サム・ジョーンズのものはしぶい色調をおびている。定位の点で、あるいは音像的に、さらには音色面、音量的に、両者の対比が示されなければならない。スピーカーによっては、サム・ジョーンズによるものが、音色的な性格が関係してのことか、音像的に小さく感じられるものもなくはなかったが、それでは困る。
0’→
❶=右からきこえるペデルセンによるベースの音が、充分に力強く、スケール感ゆたかにひびくかどうか。ダブルベースならではの迫力が示されなくてはいかんともしがたい。
0’08″→
❷=指を弦の上を走らせている音がきこえる。これはかなりオンで録音したことをものがたると同時に、録音のなまなましさをあきらかにしている。
0’25″→
❸=弦をはじいた後に、音が尾をひいて消えていく。その消え方がききとれるのか、それともプツンときれてしまうのか、そのちがいは、決して小さくない。
0’53″→
❹=力強い、しかしこまかい音の動きが、あいまいにならず示されているか。スピーカーが音に対してシャープに反応しないと、音の動きがわからなくなる。
1’02″→
❺=ここからサム・ジョーンズが参加する。両者の音色的、音像的、音量的対比が正しく示されなければなるまい。さもないとドゥエットの意味がなくなってしまう。
レコードI
タワーリング・トッカータ
ラロ・シフリン(キーボード)、エリック・ゲイル(ギター)、ジョー・ファレル(フルート)、ジェレミー・スタイグ(フルート)、スティーヴ・ガット(ドラムス)他
(キング GP3110 録音=1976年10月、12月、ヴァン・ゲルダースタジオ)より、「燃えよキング・コング」の冒頭1分
すべての音が積極的に前に出てくることを特徴としている。ラロ・シフリンによる手のこんだスコアは、よく考えられたもので、なかなか効果的だ。ただ、さまざまな音が積極的に前にでてくることによって、見通しがわるくなっては、ラロ・シフリンがねらった効果は、半減してしまう。おしだしてくる音を通して、耳の視線がどこまでとどくか、それがこのレコードできいた場合の、ひとつのポイントになるだろう。
0’→
❶=左手からつっこんでくるドラムスのひびきで開始される。これがシャープに切りこんでこないと、この音楽のアタックの強さがあいまいになる。
0’09″→
❷=ブラスが中央を切りひらいてきこえてくる。この音に、ブラスならではの輝きや力が感じとれるかどうか。さもないと音色対比が不充分になる。
0’17″→
❸=フルートの力にみちた吹奏が、前の方にはりだすかどうか。この極端なクローズ・アップがこ音楽の性格を明確にするのに有効な働きをしている。
0’29″→
❹=トランペットが後方、幾分へだたったところからきこえてくる。しかし、くっきりとききとれねばならない。それがしかも、次第に近づいてくるのが、わからなければならない。
0’52″→
❺=左できざまれるリズムが、ふやけることなく、提示できているかどうか。それがあいまいになると、この音楽のめりはりがつきにくくなる。
レコードJ
座鬼太鼓座(ZAONDEKOZA)
(ビクター SF10068 録音データ不詳)より、「大太鼓」の冒頭1分。
鬼太鼓座(おんでこざ)による大太鼓の演奏がおさめられている。その大太鼓の音は、エネルギーにみちたものだが、そのエネルギーの大きさは、多少離れたところからきこえる尺八の音と対比されてきわだつ。尺八の音がフルートの音のようにきこえては困るし、大太鼓の音にそれなりのエネルギーがなくては困る。ここで問題になるのは、音の消え方だろう。大太鼓がうちならされて音が生じ、それが次第に消えていく。その消え方が明らかにならないと、大太鼓の大きさが示されにくいということがあるようだ。サウンド的に決して複雑とはいいがたいこのレコードの音のポイントはその辺にあるといえよう。
0’→
❶=尺八が左奥からきこえる。これがあまりに奥でも困る。あまりにはりだしても困る。程よく距離感が示されていなければなるまい。
0’→
❷=同時に、尺八の音色が、西洋楽器の笛、たとえばフルートのそれのように脂っぽくてはいけないだろう。尺八独自の音色が十全にききとれるかどうか。
0’25″→
❸=一種のゴーストと思える、かすかな音で、大太鼓の音がきこえる。その音がきこえるスピーカーと、きこえないスピーカーとがある。
0’30″→
❹=大太鼓のスケールゆたかなひびきがききとれるかどうか。それと、大太鼓の音の消え方が伝わるかどうかも、この場合には、肝腎である。
0’40″→
❺=ふちをたたいていると思える音が、かすかに入っている。その音がきこえるのときこえないのとでは、雰囲気的にすくなからずちがってくる。
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