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オットー SX-P1

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 まず大掴みに言って、国産スピーカーの中では音のバランスはかなり良い方に属する。概して中〜高域を張りぎみに作る傾向のある国産の中で、たとえばオーケストラのトゥッティでも弦が金属的になるようなことがなく声部のバランスも悪くないし、キングズ・シンガーズのコーラスの、Fa、ra、ra……の声も、ハスキイになったり耳ざわりにやかましく張ったりするようなことがない。そういう意味で、かなり慎重に時間をかけて練り上げられた、真面目な作り方のスピーカーであることはわかる。ただ、音域全体に、ことに中域以下の低域にかけて、かなり重さが感じられ、たとえばベースの音も、ブンとかドンとかいうよなにことばで形容できるような鳴り方をする。この鈍さを除きたいと思って、置き方をいろいろくふうしてみた。興味あることに、ふつうはブロックなどの台に乗せる方が音の軽さが出てくる筈だが、このスピーカーはそうするとかえって、低域のこもりが耳につくようになる。床に直接のまま、背面を壁からかなり離し、トリオLS707のときのように壁面にウレタンフォームをいっぱいに置いて部屋をデッドに調整する方がいいことがわかった。また、カートリッジは455Eよりは4000DIII、アンプもCA2000の傾向の方が、音の重さが救われて、反応のよさや明るさがいくぶん増すと感じられた。

マランツ Model 920

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 音は直接に関係のないことだが、このスピーカーの形は独特で、しいていえばブックシェルフ型のキャビネットとそれに最適のスタンドとを、はじめから一体に設計したともいえるデザインだ。市販されているブックシェルフ型のスピーカーのほとんど90%以上は、そのまま床に置いたのではどうにも音のバランスをくずしてしまう。そのためにユーザーがそれぞれにくふうしてスタンドを調達しなくてはならない現状で、このマランツの方法はひとつの興味ある解決策として拍手を送る。ところでかんじんの音質だが、総体に明るく、音離れがよく(音がスピーカーの箱のところに張りついたような感じがしないで、鳴った音が箱からパッと離れてこちらにやってくる)、そしていくらか乾いた傾向の鳴り方をする。その意味で明らかにアメリカの西海岸のスピーカーに共通の性格を持っている。アコースティカル・プラグという名で、バスレフの開孔部をふさいでいるスポンジを引き抜くと、低域がさらに明るくよく弾むが、部屋の特性によってはいくらかラフな感じになり、孔を閉じるといくらか重い低音になる。中〜高域の質感はこのクラスとしてはもう一息緻密さが欲しいが、、バランス的には優れている。壁からやや離して設置したが、その状態で、4000DIIIやCA2000のような明るい傾向の組合せがこのスピーカーをよく生かした。

「テスト結果から私の推すスピーカー」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 前号でも価格のランク別に推薦スピーカーを列挙したが、それとは別に、無条件で推薦できる製品として、前回はセレッションのDITTON66をあげた。同じ意味で今回のテストからあげるなら、JBL♯4343とKEF♯105をためらわずに推す。この二つのどちらか、あるいは両方があれば、私自身はこんにち得られるレコードのどんな新しい録音でも、そこから音楽の内容を聴きとることに十分の満足をもってのぞむことができるし、これらのスピーカーがあれば、アンプやカートリッジの音質の判定にも相当の自信をもつことができる。言うまでもないことだがこのどちらも、いわゆるモニター仕様で設計されて、こんにちの時点でそれぞれ(少なくとも商品として)最高のレベルで完成している優れたスピーカーといえる。無条件で、と書きはしたが、しかし、いま「少なくとも商品として」と断ったように、大きさや形や価格の制約の中で作られる、言いかえれば個人が時間も規模も経済性も無視して作りあげるスピーカーとは違う現実の製品としては、やはり価格のランクの中で、という前提を忘れるわけにはいかない。
          *
 そこで前回に準じて、価格帯別に推薦機種を列挙してみる。
■30万円台以上の中から
 JBL L200B クラシックには少し苦しいが、ポップス、ジャズに関するかぎりやはり素晴らしい音で楽しませる。
 オンキョー セプター500 国産の大型としてはたいへんに完成度が高い。
 これ以外に、ヤマハFX1は試聴記にも書いたように、もう少し量産が進んでからの結果を見守りたい。
■20万円台の製品から
 タンノイ ARDEN

■18万円付近の中から
 インフィニティ QUANTUM4
 ダイヤトーン DS90C

■10〜15万円まで
 スペンドール BCII
 ルボックス BX350

■8〜10万円
 エクスクルーシヴ♯3301
 次点としてマランツ ♯920

■5万円前後
 B&W DM4/II
 BSW(ボリバー) MODEL18
 デンオン SC105

■4万円前後
 サンスイ SP−L150
 ダイヤトーン DS30B

■ミニスピーカーグループの中から
 これはテストしたスピーカーすべてが、それぞれに良かった。
 ロジャース LS3/5A
 スペンドール SA1
 JR JR149
 ヤマハ NS10M
 なおテストリポートには掲載されていないが、参考品として試聴した十数機種の中で、イギリス・ロジャースの新製品「コンパクトモニター」は、バランスの良い響きの美しさがとても印象深かった。同社のBBCモニターLS3/5Aのような緻密さには及ばないが、反面、大きさで無理をしていないせいか鳴り方にゆとりがあり、クラシックの弦を中心にとても楽しめるスピーカーだと思ったので、あえて追記させて頂く次第。 

サンスイ SP-G200

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 トリオのLS707もそうだったが、このスピーカーも、どちらかといえばリスニングルームがデッドなほうがいい。また、これはキャスターのついたフロアータイプだが、いろいろと設置条件をかえてみると、20センチほどの低めの台に乗せる方が、中域から低域の音離れがよくなるように思った。キャスターのままでは、中〜低域の固まりをもっと解きほぐしたくなる。ただ、ホーントゥイーターの2シェイのためにハイエンドをあまり伸ばしていないせいか、右の置き方をすると、ほんらいの中音域重視のいわゆるカマボコ型的な特性がいっそう強調されるので、低域と高域の両端を、それぞれトーンコントロールやイクォライザーで多少補正する方が楽しめる音になる。ヴォーカルで男声の場合には発声が明瞭で音が良く張り出すが、バルバラのような女声を中ぐらいの音量で鳴らすと、ウーファーとトゥイーターのつながりのあたりにもう少し密度が欲しいような気もする。ただし音量を上げてゆくとむしろ中域(おそらくトゥイーターのカットオフ附近)は張り出して、コントラストの強い傾向の音になる。アンプ、カートリッジは、CA2000+4000DIIIのような明るい傾向が合い、さらりとした適度な華やかさが出る。455EやKA7300Dのような系統は、スピーカーの持つ性格をおさえすぎるようだ。

パイオニア Exclusive Model 3301

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 たいへん独特な形をしたスピーカーで、総体にややハードな音色だが、バランスはかなりいいし、べとつきのない音離れの良い明るい鳴り方はひとつの特徴だ。専用(別売)のスタンドに乗せて聴いたが、おそらくそのせいばかりではなく本質的に、軽く反応のよい低音は、概してもたつくことの多い国産の低音の中では特筆ものだ。重低音の量感がもう少し欲しく思われて、背面を壁に近づけてみたが、量感的にはもうひと息というところ。ただそうしても低音が重くなったり粘ったりしない点は良い。クラシックのオーケストラや弦合奏でも、いくらか硬質な、そして中〜高域にエネルギーの片寄る傾向がいくらかあるものの、一応不自然でない程度までよくコントロールされている。音量を上げても音のくずれがなく、よくパワーが入るし音のバランスもくずれない。ただ、ヴォーカルを聴くと、中〜高域に一ヵ所、ヒス性のイズをやや強調するところがあって、子音に火吹竹を吹くようなクセがわずかにつく。MIDのレベルを絞るとそれがなくなることから中域のユニットの弱点だと思うが、しかしMIDレベルを0から−1でも絞るとバランスが明らかにくずれるので絞れない。この辺にもうひと息、改善の余地がありそうで、ぜひそうしてほしい佳作だと思う。アンプやカートリッジをあまり選り好みせず、それぞれの音色をよく鳴らし分けた。

ビクター S-3000

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 スタジオモニター用として徹底的にスタジオマンの意見がとり入れられているということで、とうぜん、一般民生用とは多少異なった作り方が随所にみられる。まず総体に、かなりハードな音色だ。中音域にエネルギーを凝縮させたようなバランスで、おそろしく明瞭度が高い。歪を極力おさえたというが、そのせいか、音のクリアーなことは相当なもので、しかもそれがかなりのハイパワーでも一貫してくずれをみせない点は見事なものだ。おそらくディスク再生よりも、こういう性格はテープの再生ないしはスタジオモニターのようにマイクからの直接の再生の際に、より一層の偉力を発揮するのにちがいない。こういうスピーカーを家庭に持ちこんでディスク再生する場合を想定して、置き方や組合せの可能性をいろいろ試みた。別売のスタンドがアルで一応それに乗せ、背面は壁にかなり近づける。低音を引締めてあるため、こうしても音がダブついたりしない。レベルコントロールは、ノーマルよりも-3ぐらいまで絞った方がいい。部屋はやデッドぎみに調整した。カートリッジもたとえばピカリング4500Qのように、ややハイ上りの音で、アンプもCA2000の系統で徹底させてしまう方が、メリハリの利いたくっきり型、鮮明型として、つまりなまじ変な情緒を求めない方が統一がとれると感じた。

スペンドール BCII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 45号(1977年12月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(下)」より

 ロジャースのLS3/5Aと同じく数ヵ月前に自家用に加えたので、素性はかなりよく掴んでいるつもりだが、テストサンプルと比較しても、特性がよくコントロールされているし、バラつきは感じられない。音のバランスがとてもよく、やや甘口の鳴り方ながら、あまり音を引締め過ぎるようなところがなくことにオーケストラや室内楽やヴォーカルを、それほど大きな音量にしないで鳴らすかぎりは誇張のないとても美しく自然な響きで聴き手を心からくつろがせる。パワーにはあまり強くない。すべての音を、良いステージで聴くようなやや遠い感じで鳴らすので、ピアノの打鍵音を眼前で……というような要求には無理だ。かなり以前の──というより初期の──製品には、ハイエンドの冴えがもう少しあったような気もするが、この点は比較したわけではなく、以前ほど印象が強くなくなったせいかもしれない。専用の(別売)スタンドが最もよく、前後左右になるべくひろげて、ただしスピーカーからあまり遠くない位置で聴く方がいい。離れるにつれて音像が甘くなり、評価の悪くなるスピーカーだと思う。カートリッジは455Eがとてもよく合う。価格のバランスをくずせばEMTもいい。アンプはやさしい表情と音像のくっきりしたクォリティの高いものを組み合わせたい。

KEF Model 105(組合せ)

瀬川冬樹

世界のステレオ No.3(朝日新聞社・1977年冬発行)
「 ’78のために10人のキャラクターが創る私が選んだベスト・コンポーネント10」より

 聴き手(リスナー)の前方、左右2ヶ所に設置された1対のスピーカーから、もしも理想的にステレオの音の再生されるのを聴けば、ただの2点から音が出ているとはとうてい信じ難いほど、あたかも歌手はそこに立って唱っているようだし、ピアノトリオはおのおのの楽器が実際に、右、左、中央と並んでいるかのよう。オーケストラを鳴らせば、広いホールに管弦楽団が奥行きさえともなって並び、前方の空間いっぱいにひろがり、満ちあふれ、まるでスピーカーの背面の壁がくずれ落ちて、その向う側にほんとうに演奏会場が現出したかと錯覚するくらいにリアルなプレゼンス(臨場感=あたかも聴き手が実演の場に臨んでいるかのような感じ)が得られる。
 ただし、そういう感じを体験するには、かなり理想的に作られたスピーカーを用意し、そのスピーカーをよく生かすアンプリファイアーやレコードプレーヤーを慎重に組合せ調整し、そして前後左右に少なくとも2.5メートル以上ひろげたスピーカーから、同じ間隔ほど離れて中央(左右のスピーカーから等距離)のところに座って聴く、という条件を守ることが最少限必要になる。むろんレコードも、音楽的に優れていると共にステレオの音場再現に気を配って録音されたものを選ぶ必要もある。
 KEF105は、上記の聴き手(リスナー)との関係位置の配慮されたスピーカーで、グリルクロスを取ると、中〜高音用のハウジング中央に、聴き手との関係位置調整用のインジケーターランプが点灯するようになっていて、スピーカーを正しく耳の方向に調整できるようになっている。このスピーカーの指定する聴き方を守るかぎり、従来聴き馴れたレコードのすべてを、もういちど全部聴き直してみなくてはならないと思うほど、レコード音楽の新しい世界を聴かせてくれる。「’78のために」というテーマに推すゆえんである。

スピーカーシステム:KEF Model 105 ¥195,000×2
コントロールアンプ:ラックス 5C50 ¥160,000
パワーアンプ:ラックス 5M20 ¥210,000
トーンコントロールアンプ:ラックス 5F70 ¥86,000
ターンテーブル:ラックス PD-121 ¥135.000
トーンアーム:SME 3009/S3 ¥65,000
カートリッジ:エレクトロ・アクースティック STS455E ¥29,800
計¥1,075,900

マルチアンプの実際

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

■スピーカーシステムの最終目標を立てる
 すでに何度も書いたように、マルチスピーカーシステムあってのマルチアンプ、なのだから、自分としてどういうスピーカーシステムが欲しいか、をある程度はっきりさせておく必要がある。そしてこの項では、既製品、完成品を別にして、3項で分類した三つの中の最後の、長期計画による自作スピーカーシステムを中心に述べる。
 たとえばフルレインジ型のユニットを、ひと頃よく流行したバックロードホーンバッフルやその変形の、日曜大工によるエンクロージュアに収めたり、簡単なLCネットワークを自作してトゥイーターを追加する、といった形もむろんスピーカーシステムの「自作」には違いない。が、少なくともマルチアンプ・ドライブを前提としたスピーカーシステムの場合は、見かけは別としても実質的には、3項で紹介したHQDシステムのような根本精神──いわゆる商品性や経済性からみて、メーカーの作ろうとしない最高のシステムを目ざす──だけは一本の芯として通したいと思う。かつてわたくしがマルチスピーカーの自作に熱をあげていた時期には、経済的にも技術的にも貧しいながら、少なくとも自分にとって最高のスピーカーシステムを目標としていた。そしてその当時の基本的な考え方自体は、十数年後のいまでも集成する必要がないと考えるので、まずそれからご紹介してみたい。

■中〜小口径のフルレインジスピーカーからスタートして、最後には4WAYシステムに発展させる
 この案の基本は、かつて「ステレオサウンド」誌の創刊号や、「ラジオ技術」増刊号〝これからのステレオ〟(いずれも昭和四十一年暮の発行)などに書いた。あれからもう十年以上も経ってしまったのかと、いささか感無量の思いだ。
 全体の構想は、コーン型による最低音と中低音、そしてホーン型による中高音と最高音、の4WAYである。いまになってみれば、JBLのモニターシリーズの最高クラスの二機種である♯4350Aと♯4343がこの考え方で作られているが、このシリーズが発表されたとき、あれ俺のアイデアが応用されたのかな? と錯覚したほどだった。
 その考えというのはこうだ。当時わたくしの部屋はごくふつうの木造の六畳和室だった。こういう聴取条件で、しかしできるだけ良い音(はじめにも書いたように装置の存在を忘れさせるような、いかにも実演を聴いているかと錯覚させるようなクォリティの高い音)を聴こうと思うと、十分に周波数レインジの広い、しかも歪みの少なく指向性に優れた、要するに、妥協のない本もののフィデリティを追求しなくてはだめであることを、それまでのスピーカー遍歴から感じていた。そのころも一般的には、六畳のような狭い部屋には、それ相応の小さなスピーカーの方が良く、大型を持ち込んでもまともな音は出ない、と言われていた。が、わたくしはその逆を考えた。
 六畳ということは、第一にスピーカーに非常に近づいて聴くことになる。したがって、音の歪みや、低音から高音に至るまでの広い周波数帯域の中で音のつながりが良くなかったり、エネルギー的に欠けた帯域があれば、それは広い場所で部屋の響きに助けられてアラの出にくい状態でよりも、はるかに耳につきやすい。
 第二に、部屋の壁面からの反射による響きの豊かさの助けを殆ど期待できないから、指向性の鋭い──ということはエネルギーバランスに片寄りのある──ユニットでは音が貧弱にきこえたり、やわらかにひろがる自然な響きが得られにくい。全音域に亘って指向性を広く確保しなくはならない。
 第三に、音の豊かさは低音域をいかに豊かに、自然に、しかも充実したエネルギーで鳴らすか、にも大きくかかっている。六畳とはいえ、和室では低音がどんどん逃げていってしまうから、ある程度しっかりしたウーファーでなくては低音がやせてしまい、ひいては音域全体の豊かさ、柔らかさ、あるいは音の深みを欠くことになる。むろん六畳では決して大きな音量を出し続けることはできないが、かえって小音量だからこそ、できるだけ振動板の面積の大きい大口径のウーファーを、できるだけ(部屋のスペースのゆるすかぎり)大きなエンクロージュアに収める方がいい。エンクロージュアのタイプは、位相反転型のヴァリエイションが聴感上の自然さでは最も優れている。密閉型ではどうしても音が詰まりかげんで、伸び伸びと明るい響きが得られない。ホーンバッフルは音にくせをつけやすいし、本当に低音を延ばそうとすれば六畳には収まらない大型になってしまう。本当はプレーンバッフル(平らな板だけのバッフル)が最も良い音を出すが、これもかなり大型(たとえば3m×2m以上)にしないと最低音が不足する。
 さて、全体の構想はこうして決まり、ことにウーファーに関してはかなり具体的になっているが、その当時は一般に、ウーファーといっても低くても500Hz、高い場合には1kHz以上までを、一本の大口径スピーカーに受け持たせていた。しかしわたくしはここに疑問を持った。
 ウーファー、というといかにも「低音」だけを鳴らすスピーカーのように思える。が、500Hzといえば、ピアノのキイでいえば中音ハ音の1オクターヴ上(C5≒523Hz)になる。このあたりはもう、楽器でいえば「低音」どころか、〝メロディーの音域〟として最も活躍しているところだ。ふつうは、メロディーとしてはその2オクターヴ下のC3(約130Hz)あたりからの3オクターヴくらいが最もよく使われる。となると、「ウーファー」として、つまり本来「低音」を鳴らすために設計された大口径の、重い振動板を持ったスピーカーに、こんな大切な帯域を受け持たせるのはおかしいのじゃないか。ひとつの裏づけとして、たとえば16センチから20センチぐらいの、いわゆる中口径、小口径のフルレインジ(全音域)型として設計されたスピーカーの音は、ことに人の声やピアノのメロディーの音域でのタッチなどが、いかにも自然で軽やかなのはなぜか。
 そう思って、これらコーン型スピーカーをよく調べてみると、たとえば38センチ口径なら約300Hz附近から、16センチでも約2kHzぐらいから、それぞれ上の特性は急激に劣化しているものが多い。いいかえれば、16センチ級のスピーカーは、人の声や音楽のメロディーの音域ではかなり良い音を聴かせるが、音楽の低音のほんとうのファンダメンタル(基音)の領域になると、そのエネルギーの豊かさや深味という点ではどうしても大口径ウーファーにかなわない。それなら、2〜300Hzを境にして、最低音を38センチ、そして1〜2kHzまでを中〜小口径の優秀な全音域(フルレインジ)型に、それぞれ受け持たせてみたらどうか──。
 ここでひとつの問題が発生した。高くとも300Hz、できれば150Hz以下、というような低いクロスオーバー周波数では、もしもLCネットワークを設計しようとすれば、3項に書いたように特性上でも経済上からも問題が多すぎる。ここはどうしても、マルチアンプ・ドライブをするべきだ。
 これで中〜低域の構想は決まった。ここに至るまでに、たとえば2〜300Hz以上なら、コーン型を避けてホーン型の良いスピーカーを使ってはどうかという考えも出たが、仮にクロスオーバーを300Hzとしても、そのためにはカットオフ周波数を150Hz程度に設計したホーンを使わなくてはならない。すると、六畳ぐらいの部屋はお化けのような大きさのホーンになってしまうし、そのぐらいの大きさのホーンになると、ホーンの長さによる位相の遅れや、音のくせを防ぐことがかえって困難だから、やはりコーン型の中から良いものを選ぶべきだ……。
 次に問題は高音域だ。たとえば低音に38cmの、そして中音に16cmのそれぞれのコーン型を使って、最高音だけホーン型を使った3WAYスピーカーはすでにたくさん試みられて珍しくなかったが、その殆どが、クロスオーバー周波数を、下が500Hz附近、上を4kHz附近にとっていた。が、下の500Hzはすでに書いたように不合理だ。上の4kHzとういのも、16センチという口径でそこまで受け持たすのは理論的にも無理だし過去の経験でも聴感上も良い音がしない。またホーントゥイーターでも、4kHzというクロスオーバーはどっちつかずだ。
 さきに書いたように、1〜2kHzから最高音域までを、一本のホーン型スピーカーで受け持てるようなものがあるといいが……といろいろ探してみると、結局JBLのLE175DLHがそれにあてはまりそうだという結論になった。国産にはこういう目的に合う製品がなかった。
 細かないきさつはいろいろあるが省略して結論だけ書くと、LE175DLHは中低音域とのつながりは良いが、最高音域がこのままではどうにも足りないことがわかった。しかし高音域といっても、楽器の出せるファンダメンタルはせいぜい4kHz(ピアノの最高音のキイが約4180Hz)で、その1オクターヴ上までを175に受け持たせ、8kHz以上のオーヴァートーンの繊細な美しさ、あるいはステレオのプレゼンスを支配する音の雰囲気感のようなところを、専用のスーパートゥイーターで分担するのがいいだろうと考えた。
 こうして、最低音と中低音のあいだと、中高音と高音のあいだをマルチアンプで、そして最高音域用のスーパートゥイーターだけはLCネットワークで、という4WAYのシステムができ上り、しばらくのあいだは、各帯域のユニットを少しずつ入れかえたりして楽しんでいた。このころ使ったユニットとしては、ウーファーにはパイオニアPW38A(のちにJBL LE15Aに交換)、ミッドバスには、ダイヤトーンP610A、ナショナル8PW1(現テクニクス20PW09)、フォスター103Σの2本並列駆動、最後のころはジョーダンワッツのA12システム(いまは製造中止になった美しい位相反転型エンクロージュア、現在のJUNOに相当?)を、一時は二本積み重ねてたりした。
 中高音は前述のとおりJBLのLE175DLH、そして最高音用には、テクニクスの5HH45を2本ずつ使ってみたり、デッカ・ケリーのリボントゥイーターを使ってみたりした(マーク・レビンソンのようにホーンを外すという知恵がなくて、必ずしも満足がゆかなかった)。JBLの2405はまだ出ていなかったし、075は最高音域のレインジが狭くてこれも全面的に満足というわけにはゆかなかった。
 その頃は、こうした考え方に合致するユニット自体が殆ど作られていず、また、あまりにもいろいろの国のキャラクターの違うユニットの寄せ集めでは、周波数レインジやエネルギーバランスまではうまくいっても、かんじんの音色のつながりにどうしてももうひとつぴしりと決まった感じが得られなくて、やがて、帯域の広さでは不満が残ったが相対的な音の良さで、JBLのLE15A(PR15併用のドロンコーン位相反転式エンクロージュア入り)、375ドライヴァーに537−500ホーン、および075という、JBL指定の3WAYになり、やがてそれをマルチアンプ・ドライブし、次に4333をしばらく聴いたのちに4341で今日まで一応落ちつく……というプロセスが、大まかに言ってここ十年あまりのわたくしのスピーカー遍歴だった。そう、もうひとつこれとは別系列に、KEFでアセンブリーしたイギリスBBC放送局のモニタースピーカーLS5/1Aの時代が併行しているが。
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 長々と脱線しているかのように思われるかもしれないが、右の考え方の基本は、いまでも改める必要を感じないし、少なくともいまでは十年前よりも、この考え方に適したユニットがもう少し増えていて、もしもこれから、わたくしの考えと同じ構想のマルチアンプ4WAYシステムをやってみようと思われる方には、ここまでの考え方をそのまま発展させて頂いて少しもかまわない。そして右の4WAYは、一時にすべてを完成させないでも、何回かに分けて、少しずつステップアップしながら、大きく成長させてゆくことのできるメリットを持っている。それはたとえば次のようなプロセスを踏む。
●第一段階 16ないし25センチの全音域ユニットによって、シングル・スピーカーシステムを構成する。あらかじめ同じものを2本並列駆動するのもよい。
●第二段階 トゥイーターを加えて高域のレインジをひろげると共に、楽器の微妙な音色を支配するオーヴァートーン(倍音)の領域を補強する。これによって、ステレオ再生にリアリティを添える音の空間的な広がりの再現性が増し、いかにも眼の前に広い演奏空間が現出したかのようなプレゼンスを体験するようになるこの段階では良質のLCネットワークと、良質のアッテネーターによる。
●第三段階 ウーファーを加える。38cm口径以上の大口径。ユニットによって最適のエンクロージュアは異なるが、原則として、内容積200リッター前後の位相反転型。一例として、本誌(ステレオサウンド)6号で試作したユニヴァーサル型(バッフル交換型)エンクロージュアの図を示す。第一段階のフルレインジスピーカーを、はじめにこのエンクロージュアにとりつけておいて、あとからウーファー追加の際に、ミッドバス用として内容積20ないし40リッター程度のエンクロージュアを追加すると、わりあい無駄なくゆく。この段階でマルチアンプ化する。クロスオーバー周波数は、ウーファーとスクォーカーとの特性やエネルギーバランスや、音色のつながりなどの点から、試聴によって100ないし300Hzの範囲にきめる。300Hz以上まで使うことはあまりおすすめしないが、スクォーカーの低音域のエネルギーが少ない場合、あまりクロスオーバー周波数を下げると、つなぎ目の附近で音が薄くなるのでこの点に注意する。
●第四段階 中〜高域用のホーンドライヴァーを追加する。クロスオーバーは1kHz附近と8kHz附近。1kHzのポイントは、LCネットワークでも慎重に設計・調整すれば、うまくゆく(JBLのモニターシリーズはLCネットワークだ)が、アマチュアがやる場合には、エレクトロニック・クロスオーバーの方が概して失敗が少ない。
 以上で、アマチュアの自作を前提とした4ウェイシステムは完成する。第二から第四までの段階に分けたが、むろん一度にここまで完成させても少しもかまわない。具体的な接続の方法や調整のヒントなどは4項でもちょっとふれたが、ここからのあとのページにも紹介されるだろうし、また、このあとに企画されているハイテクニックシリーズの続篇で、機会があったら実験してご報告しよう。
     *
 ところで、わたくしの考えるマルチアンプシステムでは、あと二つほどのヴァリエイションが考えられる。その一は、ミッドバス以上には、完成品のスピーカーシステムの中から、比較的小型でよくまとまっているもの──例えばヴィソニックのDAVID50やブラウンのL100、またはロジャースのLS3/5Aやスペンドールのミニモニター、あるいはJR149など、おもに最近のヨーロッパで作られたいわゆるミニスピーカーをそのまま使い、重低音域だけ、大型ウーファーを追加するという方帆であり、その二は、さきの4WAYといまのミニスピーカーのいずれの場合でも、ウーファーのみ左右共通のいわゆる〝3D方式〟として経費と設置スペースを節約する、という方法である。

■ミニスピーカー+サブウーファー
いまあげたミニスピーカーは、そのままでも一応は、音楽の再生に必要な低音域を(小型の割にはびっくりするほど)よく鳴らすし、背面を壁にぴったりつけたり頑丈な本棚等にはめ込むよう設置すれば、こんな小型とは信じられないほどの量感も出せる。
 が、さきの4ウェイで紹介したような、200リッター級のエンクロージュアに収めた38センチ口径以上の大型ウーファーの鳴らす低音をここに追加することによって、これらのミニスピーカーは、単体で鳴らした場合にはときとして感じられるいくらかカン高い、どこか精いっぱい鳴っているという感じがすっかりとれて、ゆったりと余裕のある、やかましさのない伸び伸びとした音に一変する。2〜300Hzから下にウーファーを追加しただけで、最高音域の音色までがすっかり変ってしまうということは、体験した人にでないとどう説明してもわかって頂けそうにない。
 ともかく、この方法はマルチアンプによって容易に実現が可能なので、ぜひ一度体験してみることをおすすめする。

■ウーファーが一本でもよい3D方式
〝3D(スリーディー)〟というのは必ずしも国際的に通用する用語ではないが、これは、ステレオの右と左の方向感には殆ど影響のない低音域だけは、左右をブレンドして(混ぜて、つまりモノーラル接続にして)一本のウーファーで鳴らし、中音域以上はオーソドックスなステレオとして左右に分けるという方法で、良いウーファーを選び、クロスオーバーポイントの選び方や中〜高音用スピーカーのバランスのとりかたなどをよく検討すれば、二本の左右独立したウーファーを使うのと聴感上それほど変らず、しかも片チャンネル分のパワーアンプやウーファーユニットの費用と、大型エンクロージュア一台分の設置スペースが節約できる、といううまい話だ。
 この方式は、マルチアンプが以前流行した昭和四十年前後に、マルチアンプと前後して一時はかむり広く流行したが、最近ではこの方式を知っている人が少なくなってしまった。本誌の創刊号から何号かのあいだは、ときどき紹介記事が載ったこともあるし、昭和四十年七月には、「無線と実験」の別冊の形で「3Dステレオのすべて」が発刊されたこともあるので、古いオーディオマニアには懐かしい方式だろう。
 なぜこれがすたれてしまったのかは明らかでないが、昭和四十年頃では、マルチアンプ同様に多少とも技術的な理解力のある人が、アンプの一部に手を加えたりネットワークを自作したりしなくては作れなかったこともあり、また世の中が裕福になって、あえて左右をひとつにまとめるなどしなくても、誰もが一応のスピーカーをペアで所有できるようになったこともあるだろう。3Dという方式が、ことにその当時は経費の節約という面が正面に押し出されて、どことなく、貧乏人のためのシステム、みたいな劣等意識を植えつけてしまったこともわざわいしているらしい。
 たしかに、3Dは考え方としてはエコノミカルな方法には違いない。いくら大型のぜいたくなウーファーでも、同じものを二台設置できるなら、それにこしたことはない。
 が、それはどこまでも理屈であって、現実に、もしも二台のエンクロージュアと二本のウーファー、それに低音用のステレオ・パワーアンプを、一台のエンクロージュア、一本のウーファー、モノーラルのアンプ、でいいということになれば、それをステレオの1/2の費用に〝節約〟するのでなく、ステレオ用の片チャンネルの費用を2倍に使って、すべてにぜいたくをしたら、無理してステレオにするのよりも、ずっとクォリティの高い低音用のシステムができ上るということになるだろう。そう考えると、良いモノーラルのアンプや大型のウーファーの入手しやすくなった昨今、もういちど3Dシステムを見直してもよいのではないかと、わたくしは思う。
 3Dについての理論的な裏づけやその具体的な方法については、続篇でもし機会が与えられれば詳しく書かせて頂くつもりなので、ここでは要点のみ述べると、第一に人間の耳の方向感に対する判断力、第二にレコードの音溝に刻まれた低音域での位相成分、の二つを考えあわせると、だいたい150Hz近辺から以下の低音は、左右を混ぜてモノーラルとして再生しても、ステレオのエフェクトに殆ど影響を及ぼさないとされている(但しこれは、ステレオの録音・再生の初期に出された結論なので、今日の時点でもういちど厳密な追試実験をしてみないと断言はできない)。
 右のことを前提として、約150Hz以上を正確にステレオ化し、150Hz以下をフィルターによって取り出して左右をブレンド(L+R)して、モノーラルのパワーアンプを通して一本のウーファーから再生させる。
 ここで注意しなくてはならないことは、ウーファー自体が、振動系のメカニカルな共振によって高調波を発生しやすいタイプだと、電気的には150Hzまでの音しか加わらないのに、ウーファー自体からもっと高い高調波歪が発生してステレオエフェクトを損なうことがあるので、そのような場合は、ウーファーの前面にフェルト等の吸音材による高域カットのフィルターをつける必要の生じることもある。ウーファーの置き場所は、左右のスピーカーの中央がいちおうの標準だが、もともと方向感にはあまり影響を及ぼさない音域なのだから、左右のスピーカー(150Hz以上)のどちらか一方に寄せてしまってもよいし、わたくしの古い実験では、少しふざけて聴取位置のうしろ側にウーファーだけ移動させてみたこともあったが、ふつうの広さの部屋では、こんな置き方をしてみても低音は前面左右のスピーカーのところに音源があるように聴こえるのがおもしろかった。
 前述のように、この方式は改めて今日の時点で再実験してみないと、以前感じたエフェクトがそのままかどうか断言はしにくいが、しかし決していわゆるゲテの類ではない。その証拠に──といっては大げさだが、アメリカでも数年前からこの方式による重低音の再生が研究されて、すでにいくつかの製品が市販されているし、今年夏のシカゴCEショーには、JBLからセンターウーファー式のステレオスピーカーシステムも発表されるというように、マルチアンプ同様、再検討の気運がみえている。
 もし、いまの時点でこれを実験してみたいと思えば、市販されているエレクトロニック・クロスオーバー・アンプの中から、3D用出力端子の出ているソニーTA4300FまたはビクターCF7070を使って実現できる。
     *
 スピーカーシステムの選択は、おそらく一人一人の性格の違いと同じほど多様であり、そのヴァリエイションに応じて、それに最もふさわしいマルチアンプ・システムが選ばれる。わたくしのここにあげた例は、その無限に近い可能性の中のほんの一例にしかすぎない。ここから後のページでは、マルチスピーカー及びマルチアンプ・システムが、さまざまの角度からとりあげられるとのことだ。おそらくわたくしなどの思いもよらないシステムも登場することだろう。多くの例の中から、読者諸兄がそれぞれにご自身に最も好ましいシステムを、あるいはそのためのヒントを探し出されるにちがいない。
 しかし3項や4項でも書いたように、マルチスピーカー/マルチアンプ・システムは、パーツを選択し接続完了したところから、ほんとうの難しさ、ほんとうの楽しさが始まる。ネットワークの遮断特性や、パワーアンプの入←→出力の位相関係に応じて、ユニットの±(プラス・マイナス)を入れかえたり、ユニットを1センチ刻みで前後させたり、互いの向きをこまかく調整したり、クロスオーバー周波数や遮断特性をユニットに合わせて修整したり……ひとつひとつ書くとキリがないくらい、こまかな問題があとからあとから出てくる。そうした実技面については、実際にシステムを組み合わせて、特定の部屋の中で時間をかけて調整しながら実験をくりかえしてゆくというように、具体例に則してしか、説明することのできない性質のもので、したがってここでもそうした細かなテクニックを具体的に書くことはしなかった。その点については、今後企画されているこのシリーズの続篇で、少しずつスペースを割いて解説が加えられる筈である。この号とも併せて続篇にご期待下さるようぜひともお願いして、今回はここまでで終らせて頂く。

あなたはマルチアンプに向くか向かないか

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

 少なくともここまでお読みくださった根気のある方なら、マルチアンプにも積極的な情熱を傾けられる方にちがいないと思う。が、かつて昭和四〇年代前半のいわゆる第一次マルチアンプ・ブーム(こういう言い方は不適当かもしれないが)のころ、雑誌の記事や販売店のすすめでマルチアンプにとりくんでみたものの、手ひどく失敗し、無駄をし、道草を食わされた愛好家をおおぜいみてきているだけに、このひどく手間とお金のかかる方式を、そう楽天的に無条件に誰にでもおすすめする気持になれないのだ。少なくとも、以下の設問のすべてにイエスと答えて頂ける方以外には。

■あなたは、音質のわずかな向上にも手間と費用を惜しまないタイプか…
 マルチスピーカー/マルチアンプを仕上げるには、大きなエンクロージュアの置き方を変え、各帯域のユニットの位置を変え、ときにはユニットのとりつけ方を変えたりバッフルを改造したり、あるいはコードを何度もつなぎかえ、アンプとスピーカーのあいだを何回も往復し、音を聴き分け、こまかく調整をくりかえし……というように、かなりの重労働から、小まめな手先の仕事までを、毎日のように、いとわず、飽かず、くりかえして続ける努力が要求される。そういう労力をあなたは惜しまずに、むしろそのことを大きな楽しみとすることのできるタイプか。そんなことは本質的には自分の好みではない、できれば避けたい、というタイプなら、マルチアンプ方式にとりくんでも成功しないどころか、おそらくたいへんな無駄をしてしまったあとで口惜しむことになる。
 また、すでに何度も書いたように、同じような音をLCネットワークでも鳴らせるものを、ほんの僅かな音質の向上(の可能性)だけのために、少なくとも一台以上のパワーアンプと、エレクトロニック・クロスオーバー・アンプへの出費が必要となる。要するに、マルチアンプは本質的に〝高くつく〟。コストパフォーマンス、などという考え方の全然逆のところでの楽しみだ。芸術に高い安いはない、という人がある。わたくしはオーディオ機器を購入すること自体は芸術とは思っていないが少なくとも、投資金額あたりうんぬん……というような発想をするのだったら、はじめからマルチアンプなどに手を出さない方がいい。
 楽しみのための出費は惜しまない。あるいはそのためにアルバイトをすること自体をさえ、楽しみにできる。そして装置のセッティングからどんな細かな調整までも含めて、音質のほんの僅かの向上にでも、アクティヴに働きまわる情熱を持ち続けることのできる人。これが、マルチアンプへの第一の適性といえる。

■あなたは音を記憶できるか。音質の良否の判断に自信を持っているか。
時間を置いて鳴った二つの音のちがいを、適確に区別できるか

 前項でも書いたように、マルチアンプの調整には、アンプとスピーカーのあいだを何度も往復したり、トゥイーターの向きをほんの少し変えてみたり、スクォーカーの位置をずらしてみたり、ウーファーの重いエンクロージュアの下に台を入れたりインシュレーターを挿入したり外したり、接続コードの±を逆にしてみたり……というような、細かな調整が、際限なく反復される。どの一ヶ所をいじっても音は変る。その変化がたとえどれほど微妙であっても、どこか一ヶ所の状況が変れば、必ず音は変る。その微妙な変化は、それ自体とるにたらない差かもしれないが、そのわずかな差を生じる部分が何十、何百ヵ所と積み重なったときに、そのトータルの差は相当に大きくなる。これは何もマルチアンプに限ったことではなく、オーディオ装置を「調整する」とか「鳴らし込む」とか「自分の音に仕上げる」というのは、常に、そうした微妙な音の変化を聴き分け、よりよい方向に軌道を修正してゆくことの積み重ねにほかならない。
 むろん人間のことだから、その日の身体のコンディションによっては、細かな音の差の少しもわからないこともある。音を聴き分ける訓練を積んだ我々にもそんなことはよくある。が、調子の良いときであれば、音の細かな差を聴き分けるだけでなく、さっきの音とこんどの音と、どちらがより良いか、少なくとも自分にとってどちらがより好ましいか、の適確な判断が下せなくては、調整の次のステップに進んでいけない。このプロセスでは、たとえばコンピューターがONかOFFかの判断のつみ重ねで複雑な計算を仕上げるのに似て、仮に一ヵ所でも、自分にとって好ましくない方向を選んでしまえば、トータルの完成度はそれだけ低くなる。どんなわずかの音の差でも、その差の中から常に自分の思いの方向を正確に選んでつみ重ねていったときに、やがてそれが大きな音の差となって完成する。これこそ、オーディオシステムの調整のおもしろさ、なのだ。
 いま何気なく「おもしろさ」と書いてしまったが、つまりわたくし自身は、右のような作業そのものが「おもしろく」てたまらないという人間だ。それをもし、めんどうだと思うなら、マルチアンプをやらない方がいい。マルチアンプの調整は、ことにこの面が大切だからだ。調整不良のマルチアンプシステムは、全く何の手を加えずにセットしたごくあたりまえのシステムの鳴らす音にも及ばない。
 こうした調整のために音を記憶しておく訓練、それも、さっきといま、というような短時間での差ばかりでなく、きのうときょう、さらに、このあいだときょう、去年と今日……という長い時間を置いた音のちがいをさえ、記憶するばかりでなく判断できるような訓練を積む。
 こんなことを書くと、それは途方もなく大変なことのように思えるかもしれない。が、人間の感覚は、ちょっとしたいたずらで判断が逆転してしまうような不確かな部分のある反面、たとえば街角でふと嗅いだ匂いから数年前のある日の食事の場面を想い起こすことがあるように、感覚の記憶を蘇らせることができる。もっと専門的な例をあげれば、将棋や碁の名人になると、何年も昔の棋譜を正確に記憶しているし、音楽家がある特定のピッチの音をいつでも再現できるというように、人間の感覚は、日常の経験の積み重ねの中で、驚くほどの能力を発揮できるようになる。香水の名門シャネルのブレンダーが500種類を越える香りを正確に嗅ぎ分ける、などという話を聞くと、匂いオンチのわたくしなど途方もない人間がいるものだとあきれてしまうが、たぶんそれは、わたくしたちオーディオ人間が、スピーカーの音の違いを聴き分けるのと同じことなのだろう。さて次の設問……。

■思いがけない小遣いが入った。あなたはそれで、演奏会の切符を買うか、
レコード店に入るか、それともオーディオ装置の改良にそれを使うか……

 実は、この設問には答えていただく必要は少しもないのだが、仮にもしあなたが、「むろん装置の改良に使う」とためらいなく答えたすれば、もしかするとあなたは、マルチアンプはやらない方がいいタイプかもしれない。
 ……などというのは半分は冗談で、ほんとうに言いたいのは、実は次のようなことがらだ。
 前項で、音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
 その音楽は、その人自身にとって何でもいい。オーディオ装置の調整……などというと、たいていクラシックかジャズが持ち出される。むろん自身は、クラシックでそだった人間で、自分の装置の調整は、やはりクラシックを使わないとよくわからない。だがそうであるなら、それと全く同じ意味で、ロックでなくては、フォークでなくては、あるいは歌謡曲、あるいは邦楽でなくては、自分の装置の音の判断も調整もできない、というように、人それぞれに音楽は違ってとうぜんだ。自分にとって最も確かに訴えかけてくる音楽でなくて、どうして自分の装置の調整ができるか。
 EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
 はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
 この一例が示すように、音楽ジャンルを問わず、音楽の心を掴んで調整し込まれた再生装置なら、必ずその音は万人を説得できるほどの普遍性を帯びるに至る。そのためには、機械一辺倒でなく、再生音一辺倒でもなく、しかしナマの音一辺倒でもない、いずれにもバランスのとれた柔軟な態度が要求される。ナマの演奏会に行こうか、新譜レコードを買おうか、それとも装置の改良の費用にあてようか……と迷うくらいの人の方が、音質を向上できる資質にめぐまれている筈だ。そしてなお──

■あなたの中に神経質と楽天家が同居しているか。
あるときはどんな細かな変化をも聴き分け調整する神経の細かさと冷静な判断力、
またあるときはすこしくらいの歪みなど気にしない大胆さと、そのままでも音楽に聴き惚れる熱っぽさが同居しているか

 いくら手のかかるマルチアンプでも、何ヵ月かの調整ののちのある一時期は、自分でも相当に満足のゆく音が鳴ってくる。またそういう風に調整できなくては悲劇だ。一応の調整ができたと思ったら、それからしばらくのあいだは、機械をコントロールしたり音の細かな変化を聴き分ける、などという態度をすっかり忘れて、再生装置の存在さえ忘れて、鳴ってくる音楽におぼれこむ。また、そうしようと決めたときには、仮に針先にゴミがついていようが、スクラッチノイズが多少出ていようが、どこかで少し歪んだ音がしようが、そんなことを気にしないで、音楽におぼれこむ。そういう聴き方ができないと、マルチアンプシステムは重荷になってくる。歪んだ音を気にしない、というよりもって正確に言えば、鳴り止んだあと、もしも傍で誰か一緒に音楽をきいていたとして、彼が「よくあんな歪みをがまんしていられるな」と言ったとき、あなた自身が、え? そんなに歪んでいたか、知らなかった! と言えるぐらい、音楽そのものに聴き惚れていたというような聴き方ができれば、もうしめたものだ。そういう太い神経と、その反面で、一旦調整をはじめたらこんどは、他人の気づかない細かな音の変化を鋭敏に聴き分け、判断して、適確に調整の手を加えてゆく、という細心の調整もできる人に、あなたはなれるか?
     *
 ずいぶん言いたい放題を書いているみたいだが、この項の半分は冗談、そしてあとの半分は、せめて自分でもそうなりたいというような願望をまじえての馬鹿話だから、あんまり本気で受けとって頂かない方がありがたい。が、ともかくマルチアンプを理想的に仕上げるためには、少なくともメカニズムまたは音だけへの興味一辺倒ではうまくいかないし、常にくよくよ思い悩むタイプの人でも困るし、音を聴き分ける前に理論や数値で先入観を与えて耳の純真な判断力を失ってしまう人もダメだ。いつでも、止まるところなしにどこかいじっていないと気の済まない人も困るし、めんどうくさいと動かずに聴く一方の人でもダメ……、という具合に、硬軟自在の使い分けのできる人であって、はじめてマルチアンプ/マルチスピーカーの自在な調整が可能になる。さて、あなたはマルチアンプに適性を持っているタイプかどうか──。
 無駄話はここまでにして、最後に、多少の具体例をあげながらマルチアンプの実際の応用例、ことに前項で三つの方向に分類したその最後の方向である、長期計画の中でのマルチアンプの生かし方について考えることにしよう。

マルチアンプシステムの魅力

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

 マルチアンプ・システムというと、何となくアンプに重点を置いた方式のように受けとられがちだが、実際には、すでに書いたようにスピーカーシステムを最良に動作させるための構成なのだから、マルチアンプの効用を論じるには、まずスピーカーシステムの側から考えてみる必要がある。
 その意味で、マルチアンプが効力を発揮するためのスピーカーシステムに、三つの方向が考えられる。
 第一は、前項でも紹介したJBLのプロフェッショナル・モニター・シリーズのように、完成品の(LCネットワーク内蔵の)スピーカーシステムのクォリティをより一層向上したい、と望むとき。
 第二は、市販されているあらゆるスピーカーシステムの中に、自分の理想とする製品が見当らないため、低音、中音、高音のユニットを自分が選定しあるいは改造し、場合によっては自作してでも、自分自身の高い理想を満たし、あるいは自分の部屋の音響特性や構造に合わせるようなつまり市販品に全くないオリジナルなスピーカーシステムを作りあげたい、と思うとき。要するにLCネットワークでは不可能なスピーカーシステムを間考える場合。
 第三は、スピーカーシステムの完成までに長期計画をもって臨むとき。その方法はあとで詳しく書くが、何年にも亘って自分のスピーカーシステムを少しずつ成長させ変容させてゆく、というような場合にも、マルチアンプシステムが明らかにメリットを発揮する。

■たとえば♯4350Aを例にとってL(コイル)の問題点を考えてみる
 まず第一のケースから考えてみる。たとえばJBLのモニターシリーズでも、♯4350Aの場合には、最初からバイアンプリファイアー・ドライブが条件になっている。♯4350Aは4WAYのスピーカーシステムで、最低音が250Hzまで、次の中低音(MID-BASS)が250から1100Hzまで、中高音がそこから9kHzまで、そして最高音がそれ以上……という構成で、中低音以上の1・1kHzと9kHzはLCネットワークだが、250Hzのクロスオーバーポイントをはさんで、それやそれ二台のパワーアンプでドライブする設計になっていて、専用のエレクトニック・クロスオーバー・ネットワーク♯5234が用意されている(250Hzにクロスオーバーポイントを持った別メーカーの同等品でもよい)。つまり、スピーカーにJBL♯4350Aを選んだ場合には、好むと好まざると、マルチアンプ(バイアンプ)システムをとることが前提になってしまう。これに組み合わせるアンプは、銘柄などは指定してないが、出力は、250Hz以下に200W(4Ω)以上、中高音用に100W(8Ω)以上、と指定されているから、それだけでも相当に大がかりなシステムになってしまう。
 ♯4350Aが、なぜバイアンプリファイアーを条件にしているのだろうか。それは、最高級のモニターとしての性格上、最も再生のむずしい低音域まで、楽器の持っているナマの音のエネルギーをそのまま、できるだけ現実的に再現したいからだと思う。♯2231A型38センチ・ウーファーを2本、並列駆動(パラレルドライブ)していることにも、その姿勢があらわれている。
 仮にもしも、これをLCネットワークにしたらどういことになるか、考えてみるのは一興かもしれない。
 クロスオーバー周波数を低めにとったときに、ことにLCネットワークに問題が生じるというのは、アンプとウーファーのあいだで高音域をカットするためのコイルが相当に大型になるという点が、第一のデメリットだ。コイルの数値はネットワークの回路方式によって異なる。LCネットワークの方式には、定抵抗型とフィルター型、直列型と並列型、一素子型(定抵抗型のみ)、二素子型、三素子型…というように、いろいろの種類があり、それぞれに得失がある。が、最も一般的に採用される定抵抗型並列二素子型を仮定して、♯4350の250HzのクロスオーバーでLとCの数値を計算してみると(計算式その他は省略するが)、コイルが3・6mH(ミリヘンリー)、コンデンサーが113μF(マイクロファラッド)という値が得られる。これは♯2231Aウーファー(8Ω)が2本並列で4Ωになっているという前提だが、LCネットワークの場合には、中〜高音以上の8Ωとインピーダンスを合わせる方が具合がいいから、ウーファーを16Ω仕様に変更した方がよく、そうなるとLとCの値は、7・2mHと56μFになる。
 アンプとスピーカーのあいだに入るコイルは、太い絶縁銅線をぐるぐる巻いたもので、たとえば3・6mHとすれば、その全長は約70メートル強、7・2mHとして約115mと、びっくりするほどの長さになる。このぐらいの長さになると、その直流抵抗も、無視できなくなる。仮に直径約1・6ミリ(14番線)を使ったとすると、70メートルで約0・6Ω、115メートルでは約0・9Ω近くなる。線の太さを約2・3ミリ(1・6の√2倍。実際にはこの太さの銅線はきわめて高価だし入手しにくく、しかもコイルに幕には特殊な用具が必要になる)に増しても、直流抵抗はそれぞれの1/2の0・3Ωと0・45Ωにしかならない。最近では鉄芯を併用して銅線の長さを節約する設計が増えているが何となく鉄芯なしにくらべてハイパワーでの歪が増すような気がして(実際にはそんなに増えないというデータもあるが)どうもおもしろくない。
 近ごろ、アンプとスピーカーのあいだを接続する、いわゆるスピーカーコードの音質の変化の問題がよくとりあげられる。結論的にいえば、できるだけ太いコードをできるだけ短く使うのが最良だが、いくらコードを短くしても、そこから先のスピーカーに到達するまでに、数十メートルから百メートル以上に及ぶ銅線の中をぐるぐる通り抜けてゆくのではまるで無意味になってしまう。LCネットワークも、こう考えてみると相当に問題の多い存在だといえる。
 話がやや脱線しかけてしまったが、いま例にあげた♯4350Aの場合は、右のような問題を避けるためにLCネットワークを使っていないからよいが、しかしそのひとつ下の♯4343では、低音(ウーファー)と中低音(ミッドバス)のあいだの300HzのクロスオーバーをLCネットワークによっている。現にわたくし自身が、この4343の前身である♯4341をそのまま鳴らしていながら、このようにLCネットワークの数値をちょっと計算してみると、どうもこれは大変なことだぞと、何となく背すじがむずがゆくなってくる(先にも書いたように、L(コイル)の数値はネットワークのタイプによって違うので、L値を最小に選ぶような設計もできるが、それにしても、先の算出値の1/3以下にすることは不可能で、いずれにしても、アンプからのコードの何倍か以上の長さの銅線が、スピーカー(ウーファー)とのあいだに介在することに変りはない)。友人の中に4341のバイアンプ・ドライブ型である4340を鳴らしている男がいて、その友人が私の家の4341を聴くたびに、「何だいこの低音は! 4340の方がずっと上だぞ、やっぱりマルチアンプにすべきだぞ」とわたくしをけしかけるのが甚だしゃくの種である。言い訳めくがわたくしの場合、この4341でアンプの試聴テストもしなくてはならないので、マルチアンプ化することができないというのが本音だが、その点新型の4343なら、背面のスイッチの切換によって、好みに応じてLCでもバイアンプでも選択できるように便利に改良されている。
 ところで、LCネットワークをコイルの直流抵抗分という面からだけ眺めてきたが、LCネットワークの問題点は、さらに別の部分にもある。それは、バイアンプによって各帯域のユニットをパワーアンプと直結したときと比較すると、LやCやR(アッテネーター)等が中間に介在することによってユニット本来の特性が歪められたり、せっかくの優れた音質を(仮にわずかであっても)損なうことが多い、という点だ。

■コーン型スピーカーのインピーダンス特性による弊害
 LCネットワークの働きの細かな説明は別の機会に譲ることにするが、少なくともLCの数値の設計には、ひとつの大前提がある。それは、ネットワークに対して送り込み側(アンプ側)のインピーダンスと、受け側(スピーカーユニット側)のインピーダンスが、たとえば8Ωなら8Ωという値から大幅に変動しないこと、という条件である。
 前項の例でもすでに書いたように、スピーカーが8Ωと4Ωとでは、L(コイル)やC(コンデンサー)の数値が2倍または1/2と大幅に異なる。ネットワークに接続されるスピーカーのインピーダンスが、設計値と大幅にずれるようなことがあれば、LCネットワークは計算どおりの動作をしなくなってしまう。
 ところが現実には、スピーカーのインピーダンスは、周波数によって、多少の変動を示すのがふつうだ。この傾向は、ホーン型のスピーカーよりも、ドーム型やコーン型において著しい。コーン型スピーカーのごく一般的なインピーダンスの特性の傾向は、f0(低音域の最低共振周波数)のポイントと、もうひとつ高音域にかけて、インピーダンスは公称値(たとえば8Ω)にくらべて少なくとも数倍から、大きいものでは十数倍以上も増加するものがある。
 こういうスピーカーがLCネットワークに接続されては、とうてい計算どおりの特性が得られる筈がなく、極端な場合には目をおおいたくなるようなひどい特性に変ってしまうことがある。周波数特性がこのような形になっている場合には、とうぜん、過渡特性や位相特性にも相当の乱れを生じて、音質は著しく劣化する。
 ただし、LCネットワークを使ったすべてのスピーカーシステムが、みなこのようなことになるという意味ではない。実際に、一流のメーカーによって仕上げられるスピーカーシステムは、ユニットやネットワークの総合的な設計で互いに補整しあって、最終的に良い特性、良い音が得られるように調整されているのだから、心配に及ばない。
 ひどい特性に変ってしまうような例は、アマチュアが、任意にスピーカーユニットを選択し、ネットワークには既製または自作の(つまりユニットのインピーダンス変動に対して何ら補整を加えていない)LCをそのまま接続した場合に、往々にして陥りやすいトラブルなのである。ことに、ウーファーとスクォーカーがともにコーン型の場合には、何らかの補整を加えないかぎり、正しい特性が、すなわち良い音質が、得られにくいと断言してもいいだろう。LCネットワークは、こういう部分の方が実は大きな問題になる。

■意外に知られていないアッテネーターによる音質の劣化
 前項であげた一例は、マルチスピーカーシステムの中でも、おもにLとCの組合せによる特性の乱れの問題だが、これとは別にアッテネーターによる音質の劣化が、意外に知られていない。
 LCネットワークによるマルチスピーカーシステムでは、能率の高いユニットにアッテネーター(抵抗減衰器)を挿入して音を絞る。
 スピーカーシステムを自作されるアマチュアがアッテネーターを購入しようとカタログを調べてみると、一方に数百円の連続可変型があり、他方に数千円のスイッチ切換型がある。たいていの場合、こんな部分にたいした違いはあるまいと、価格の安いアッテネーターを購入してくるが、ここに大きな落し穴がある。ローコスト型のすべてがというわけではないが、この簡易連続可変型の中には、アッテネーターを絞るにつれて音質の劣化を生じるものが意外に多いのだ。
 もしも読者の中に、この種のアッテネーターを使っている方があれば、だまされたと思って、スイッチ切換式の高級アッテネーターに交換してごらんになるとよい。トゥイーターが別ものになったかのように、晴れ晴れと冴えた音が鳴り出してびっくりすることが多い。この理由についても詳述するスペースがないので現象面だけ書くが、アッテネーターによっては、トゥイーターの特性を劣化させ、音を曇らせて抜けのよくない音質にしてしまうものが少なくないことを、ぜひ知っておいて頂きたい。わたくし自身も、JBL♯4341の連続可変アッテネーターを、いつか切換型に変えたいとずっと前から思っていながら、無精のため果していない。
     *
 LCネットワークのデメリット面を、やや強調する書き方をしてきたが、何度もくりかえすように、LCネットワークやアッテネーターが、すべて右のような悪さをするというわけではない。ただ、この項のはじめに書いたようなマルチアンプを生かす三つの方向のうちの第一、すなわち既製のスピーカーの中に一応気に入った製品があるとして、しかしさらに一層のクォリティを向上させたいと感じたとき、仮にそれがいかに僅少であってもLCネットワークの持つデメリット面を探ってみると、音質の向上をあくことなく追求したいマニアにとっては、マルチアンプ・ドライブの魅力がどうしても頭の中にひっかかってくる。
 だが、そういう意味で音質をつきつめてゆくと、どうしても、先の第二の方向つまり市販にない自分のオリジナルなスピーカーシステムを完成させてみたいと、マニアなら誰しも考えるようになってくる。

■マルチアンプを前提としたオリジナル・スピーカーシステムの一例として、マーク・レビンソンのHQDシステムをみよう
 マーク・レビンソンについては今さらいうまでもないが、約五年前にアメリカ・コネチカット州で名乗りを上げた、ステイツ・オブ・ジ・アート(これ以上のものがないという最高の製品)を追求するオーディオメーカーである。はじめプリアンプだけを発表していたが、その後、会社名をMLAS(マーク・レビンソン・オーディオ・システム)と改めて、パワーアンプからスピーカーシステムに至る全システムを開発する姿勢をみせている。
 一九七七(昭和五十二)年の春に、マーク・レビンソンは新作の純(ピュア)Aクラス・パワーアンプML2を携えて来日した。これはモノーラル構成で、最高の音質を追求したために出力はわずか25ワットと近ごろでは珍しく低い。ただしこれは、もともとは彼の考案になるマルチアンプスピーカーシステムHQDを駆動するために彼自身が開発したアンプだ。
 HQDとは、低音用にハートレイの224HSという口径24インチ(約60センチ)の大型ウーファーを使い、中音用にはイギリスQUAD(クォード)のエレクトロスタティック(コンデンサー)スピーカーを二基、縦に積み上げ、最高音用としてイギリスのデッカ/ケリィ・リボントゥイーター(ホーンを外してダイレクト型として使っている)を加えたというたいへん大型の3WAYスピーカーで、HARTLEY、QUAD、DECCAの頭文字をとってHQDスピーカーシステム、と名付けたという。クロスオーバー周波数は100Hzと7kHzだが、こういう特殊な組合せになると、各帯域のユニットのインピーダンスも能率も大幅に違うので、LCネットワークではとうてい考えられず、必然的にマルチアンプ・ドライブ方式になる。
 ほんらいフル・レインジ用に設計されたQUADを、中域以上にだけ使うというのは、別にマーク・レビンソンのアイデアではなく、日本でもステレオの初期からQUADに別のウーファーを加えて低音を翁って聴いていたアマチュアが何人かいたし、最近ではアメリカの若い世代のオーディオ愛好家を中心に、ダブル・クォードの名でQUADを二本スタックして鳴らすという使い方が、アングラのオーディオ誌などでも何度か紹介されていた。ステレオサウンド誌38号でも、岡俊雄氏がダブル・クォードの実験記を書いておられる(スイングジャーナル誌の企画では、長島達夫氏が、さらにQUAD三台スタックというものすごいものを試作されている)。
 そういうふうに、アマチュア個人としての実験例はいくつもあるが、マーク・レビンソンは、前述のようにこのダブル・クォードをスタックしたその中央にデッカのリボントゥイーターを収め、別の大型のエンクロージュアに収めたハートレイ24インチ・ウーファーを添えて、これをステレオで六台のML2でドライブし、クロスオーバー・ネットワークはこれも前述のLNC2を二台(LNC2は高低2系統のデヴァイダーなので、3WAYの場合にはもう一台追加しなくてはならない)とあわせて、ひとつのシステムとして発売しようというのである。全部でいくらになるのか、まだ正式の価格は発表されていないが、本当に売り出されれば、オーディオ史上これが市販された限りで最高のシステムということになるにちがいない。
     *
 マルチアンプを生かすために、ここまで例にあげたような、第一にJBLのモニターシリーズのような、第二にマーク・レビンソンHQDシステムのような、メーカー側の指示にしたがって組み上げるシステムのある半面で、さきの分類の第三の方向、つまり、アマチュアが長期計画を立てて、こつこつと築き上げるための、マルチアンプの有効な組合せ方・使い方、という道が残されている。が、この道は、へたをすると出口の内迷路あるいは底なしの泥沼ともなりかねない。そこに出口をみつけ、泥沼でなくそれを喜びとすることは、実は誰にでもできることではなく、妙な言い方になるが、マルチアンプシステムへの適性のようなものを、先天的に身につけている人とそうでない人とがあるように、わたくしには思える。
 もともと趣味道楽には人によって適性不適正がある。こうしてオーディオの楽しみに浸っているわたくし自身は、結局オーディオという道楽に適性があったからにほかならないので、たとえば釣や麻雀がいくらおもしろいからと誘われても、わたくしにはどうもその方向に適性がないらしく、人が言うほどのおもしろさが理解できそうにない。
 が、いまも例にあげた釣ひとつとっても、沢釣りの好きな人と磯釣りを好む人とがあるように、同じオーディオ道楽の中にも、マルチアンプに積極的な興味を示し成功させるタイプの人といくらやってもますます泥沼にはまりこむ人とがあるように思える。

バイアンプシステムの流れをたどってみると……

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

 このようなバイアンプリファイアー方式がとりあげられた歴史は、実は意外に古く一九五六年(昭和三十一年)のはじめまでさかのぼる。
 その当時、アメリカのオーディオ界で指導的な位置を占めていた “Audio Engneering” 誌(のちにAUDIOと改題)が、その表紙に「デュアル・アンプリファイアー」と題して実験記事を掲載した。むろんまだステレオの出現する以前だが、一九五六年といえば、アメリカではモノーラルの再生装置がひとつの極限に達しつつあった。EVのパトリシアンやJBLのハーツフィールドのような大がかりなスピーカーすでに完成し、マランツやマッキントッシュがすでに高級アンプの原型にあたるモデルを市販し、ピックアップではモノ時代最高といわれたフェアチャイルドが♯225型に改良されていた。五〇年代初期までは混乱していたレコードの録音特性(したがって再生用のイクォライザー特性を何種類にも切り換える必要があった)も、RIAAの統一がはかられて、アメリカのオーディオ界は黄金期を迎えていた。
そういう状況の中で、より一層の優れた再生音に挑もうとする実験が出てくるのは当然のなりゆきだろう。そのひとつのあらわれが、低音と高音の各帯域(チャンネル)を、専用パワーアンプで直接駆動(ドライブ)して、LCネットワークを追放しようという、デュアル・アンプ・ドライブの発想であった。アメリカや日本でも、個人的なクォリティの追求、またはごく一部のメーカーによる特定の目的には、この方式が試みられたこともあるが、オーディオ界にひとつの流れを作ったのは、このA−E誌の記事であったと思う。
 この当時日本には、まだオーディオの専門誌が出現していなかったが、雑誌「ラジオ技術」が、むろんエンジニアリング的な面からであったが、そのころとしては最も求心的にオーディオを追求していた。デュアルアンプについてもその例外でなく、A−E誌の記事に刺激されて、同年(昭和三十一年)四月号には早くも、「マルチチャンネル(マルチSP(スピーカー)かマルチアンプか)」の特集を組んで、当時のレギュラー執筆者を動員して、マルチアンプの試作とその結果を報告している。そのときの筆者は、池田 圭、今西嶺三郎(現ブラジル在住)、加藤秀夫、木塚 茂それにわたくし瀬川の五人であった。これが、日本でマルチアンプを集中的にとりあげた最初だと思う。
 しかしこの当時は、ステレオ以前のことでもあり、また、まともな再生音を得るためには厳しい輸入制限の網をくぐり抜け、なおかつ法外な出費を覚悟して海外製品を入手するのでなければ、自作する以外にいい音の再生装置を手にする手段がなかった。少なくともわたくしの周囲には、輸入品を愛用している愛好家(というより当時はオーディオ研究家、といった感じが濃かったが)はほとんどいなかった。今西嶺三郎氏のフェアチャイルドのカートリッジがうらやましくてたまらなかった頃の話だ。
 そういう時代だったから、マルチアンプは世間一般の話題はおろか、オーディオ界の中でも、一部の熱心な研究家を除いては、そんなに大きな話題にはならなかった。
 アメリカのオーディオ界でも、本質的には状況はそう変らなかったが、しかし、それから約一年後の一九五七年には、マランツからモノーラル管球式のエレクトロニック・クロスオーバーが市販されていることをみると、ごく凝った愛好家たちのあいだに、マルチアンプへの興味が少しずつひろがっていたことは想像できる。
 やがてステレオレコードが発売されてからしばらくのあいだは、マルチアンプ・システムは、海外でもごく限られたマニアのあいだ以外では、ほとんど話題にならなくなる。モノーラルの一系統から突然、左右の二系統になって、愛好家たちにとってはステレオ装置を揃えるだけでもたいへんな頭痛の種だった。スピーカーシステムひとつさえ、買うこともシステムにまとめることも、つまり経済的にも技術的にもずいぶん苦労した頃の話。ましてモノーラルで大がかりな装置を揃えてしまった人たちほど、その苦労は倍増する。アンプが一台余分にあれば、それをステレオ用にまわしたいというときだ。とてもマルチアンプどころではない。
 しかしそれから約十年ののち、一九六六(昭和四一)年頃になって、このときは海外よりもむしろ日本で、マルチアンプが再び脚光を浴びはじめた。これには二つの背景がある。
 そのひとつは、モノーラル時代にもその再生圭がひとつの完成期を迎えたのちに、より一層高度の再生音を目指してマルチアンプがとり上げられたと同じように、ステレオ化も一応その基本ができ上ってみると、モノ時代のあのより一層のクォリティ追求が思い出されて、その手段のひとつとしてマルチアンプ化を誰からともなく思い立った、ということ。
 そしてもうひとつ、そろそろひとつの〝産業〟としてマーケットを確立しはじめた日本のオーディオメーカーが、オーソドックスなステレオ装置の売れゆきの伸びに多少の不安を抱いて、誌上の拡大をねらってマルチアンプシステムに目をつけて、そのためにセパレートアンプやチャンネルデヴァイダー(エレクトロニック・クロスオーバー)を製品化しはじめた、というもうひとつの背景……。
 ことに、この時代になるとアンプから自作するというマニアが減りはじめ、愛好家の層が完成品を組み合わせて楽しむという方向に移行しはじめていたこともあって、昭和三十一年当時のようにデヴァイダーやアンプの自作を前提にマルチアンプを訴えるのでなく、既製品が市販されているという前提がなくては新しい方式を推める意味が薄れていた、という事情もある。その意味で、マルチアンプ化のためのパーツが市販されはじめたということが、マニアにとっては嬉しいことだった。その結果、雑誌「ステレオのすべて」(一九六七年版)などにも、マルチアンプの記事が掲載されるというような現象がみられたわけである。
 当然「ラ技」や「電波科学」や「無線と実験」のような技術系の雑誌にも、マルチアンプの解説記事が載りはじめ、昭和四十五年(一九七〇年)には、「初歩のラジオ」がマルチチャンネル・アンプだけの別冊を発刊するまでに至った。
 ところがこの時期になると、日本のオーディオメーカーが、過当競争のあまり、小型のブックシェルフスピーカーにマルチアンプ化用の端子を出すのはまだよいとしても当時の三点セパレートステレオ、こんにちでいえばシスコンのように一般家庭用の再生機までを、競ってマルチアンプ化するという気違いじみた方向に走りはじめる。そういう過熱状態が異常であることは目にみえていて、まもなく4チャンネルステレオの登場とともに望ましくないマルチブームは終りを告げた。前述したようにこの時期には、日本以外の国では、マルチアンプシステムは(時流に流されないごく一部の愛好家を除いては)殆ど話題にされていなかった。騒いだのは日本のマーケットだけだった。ただ、3チャンネルのマルチアンプをひとつのシャーシに収めたトリオの意欲作〝サプリーム1〟は、海外市場でも高級ファンには注目された。
 七〇年代をはさんで海外(おもにアメリカ)でマルチアンプがたいした話題にならなかったのには、例のベトナム戦争がひとつの大きな原因といわれる。アメリカ国内の不況と荒廃もひとつの理由としてあげられる。ことオーディオに限ってみても発表される新製品にたいしたものがほとんど見当らなくなって、アメリカのオーディオももうこれで終りかと我々を嘆かせた頃のことで、とてもマルチアンプどころではなかったということもあるのだろう。
 むしろ日本の高級ファンに、マルチアンプであることで興味を呼んだのは、一九七五年にイギリスKEFが、かつてのBBCモニターLS5/1Aを改良して現代のモニタースピーカーに発展させた model 5/1AC を発表したことではなかったか。かつては非常に凝ったLCネットワークを内蔵していたBBCモニターが、より一層のクォリティの向上と音圧レベルの増強をねらって、高・低2チャンネルのパワーアンプとエレクトロニック・クロスオーバーがエンクロージュア内に収められて再登場したのであった。
 そのころはすでにJBLも、♯4330、4332、4340などのマルチアンプ・ドライブ専用のモニタースピーカー、及び♯4350を揃えている。
 これらの出現に暗示されるように、アメリカやヨーロッパの先進的なメーカーや先端をゆくオーディオ愛好家のあいだでは、完成期に入ったステレオ再生装置の一層の高度化をめざしてマルチアンプが大きなテーマとして再びとりあげられはじめた。むろん日本でも、音にうるさい愛好家の中には、一貫してマルチアンプで再生装置を追求している人が、少なからずいた。わたくし個人のことをふりかえってみると、本誌の創刊された昭和四十一(一九六六)年よりもう少し前から、自分の装置をマルチアンプ化していた。その後しばらくのあいだは、マルチアンプとLCネットワークの比較などしながら、昭和四十七年からの三年間は、かなり本気になってマルチアンプで聴いていた。その後事情で引越して、いまの家ではあまりまともな音が鳴らせなくなってしまったので、一時的にマルチ化を休んでいるが、いずれまた本格的にやりたいと考えている次第である。
 が、私がマルチを休業しているこの二〜三年のあいだに、ベトナム休戦以後アメリカに台頭しはじめた新しいジェネレイションたちが、積極的にマルチアンプをとりあげる姿勢をみせはじめた。本誌発行の HiFi STEREO GUIDE の号を追ってみると、この間の推移がよくあらわれていて興味深い。’74−’75(VOL・1、昭和四十九年十一月発行)では、エレクトロニック・クロスオーバー・ユニットは、ゴトーユニットのCF−1と、はイオニアのSF850と、それにソニーのTA4300Fの三機種しか載っていない。その呼び方も、「チャンネルデバイダー」となっている。
 ところがそれから六カ月後に発行されたVOL・2(五十年七月)では、A&E、サンスイ、JBL(♯4350等専用)の三機種が前三者に加わり、さらにそれから一年後のVOL・4(五十一年八月)では、それまで「特殊アンプ」の項に一括されていたものに新たに ELECTRONIC CROSSOVER NETWORK のタイトルがついて、十一機種に増えている。VOL・5(五十一年十二月)でマーク・レビンソンのLNC2(58万円)という超精密級が加わって全部で十三機種になり、先ごろ発行されたVOL・6(五十二年七月)でその数は一拠に十八機種に増えている。しかもなお、この特別号でとりあげられている十九機種にみられるようにこの種の製品は増加の一途をたどりつつある。
 これを、七〇年以前の一時にみられたような一時の流行とみることは妥当ではない。というのは、いま発売されつつあるクロスオーバー・アンプの大半は、総体にかなり内容の高度な、つまりふつうのLCネットワークでは性能の面で不満を感じている本格的な愛好家のために企画された製品であるということだ。このことから、マルチアンプ化が、ブームというよりはもっと本質的なクォリティの向上をめざしていることがはっきりしてくる。
 この背景を支えるのは、一方ではセパレートアンプの積極的な開発にみられるアンプリファイアーの内容の高度化、そしてもう一方は、スピーカーユニットの研究が近年急速に進んだことによって、LCデヴァイダーからエレクトロニクス化することによる効果が、以前よりいっそう顕著に聴きとれるようになったこともあげられる。またさらに、プログラムソースを含めて周辺機器のクォリティの向上もその大きな裏づけになる。
 ただお断りしておくが、何が何でもマルチアンプ化することをわたくしはおすすめしない。少なくとも、ふつうのLCネットワークによるシステムに音質の上ではっきりした不満または限界を感じるほどの高度な要求をするマニア、そして、後述のようなたいへんな手間とそのための時間や費用を惜しまないようなマニア、そしてまた、長期的な見通しに立って自分の再生装置の周到なグレイドアップの計画を立てているようなマニア……そう、この「マニア」ということばにあらわされるような、相当にクレイジイな、そしてそのことに喜びを感じる救いようのない、しかし幸せなマニアたちにしか、わたくしはこのシステムをおすすめしたくない。むしろこの小稿で、わたくしはアジテイターを務めるでなく、マルチアンプ化に水をさし、ブレーキをかける役割を引きうけたいとさえ、思っているほどだ。

マルチアンプのすすめ・序

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

 H・F・オルソンが、良い再生音の理想として、「原音を聴いたと同じ感覚を聴き手に与えること」と定義したのはもう三十年も昔のことだが、それは裏がえしてみれば、機械の存在を忘れて音楽を楽しむことのできるような再生音、と解釈することができる。
 再生された音の自然さを損なう要素としては、第一に、周波数範囲の狭いこと、または再生された周波数範囲のどこかに強調あるいは減衰が生じること(周波数レインジの広さと平坦さ)。第二に音の汚れや濁り(ひずみ)。第三に音のひろがりや奥行きの不足(立体感、音の放射パターン、指向性)。第四に音量の不適当または音の強弱の不自然さ(最適音量とダイナミックレインジ)、……などがあげられる。
 いまから三十年前の長時間レコードの出現、そして二十年前のステレオ化以来、長足の発展をとげてきた録音・再生の技術も、右のそれぞれの要素に満点をつけるまでには及んでいないし、中でもスピーカーに関するかぎり、いまだ及第点には程遠いといったところが実情といえる。そうした中でさまざまな改善の試みがたゆまず続けられているが、このところ再び、マルチアンプ・システムが(日本ばかりでなく海外でも)脚光を浴びはじめている。この方式自体は決して目新しいものではないが、ここ数年のあいだにオーディオに興味を持ちはじめた新しい愛好家にとっては、やや馴染みの薄いシステムかもしれないので、その歴史などもたどりながら、マルチアンプ・システムを今日的な観点から改めてとりあげてみる。

最新スピーカーシステムの傾向をさぐる

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

最新テクノロジーと基礎技術の蓄積が実った国産フロアータイプシステムの台頭
 本誌36、37号でスピーカーテストをしてから、また2年の歳月が流れた。この二年間を、長いといっていいのか短いと言うべきなのか──。個人的にはついこのあいだのことのような気もしていたが、改めて今回テストした製品の一覧表をみると、再登場している製品はヤマハ1000M、フェログラフS1それにセレッションのディットン66の三機種、つまりたった一割で、結局残りの大半はそれ以後に登場した新製品ということになるわけで、やはり二年という歳月は、長い、というべきなのだろうか。
 しかしまた一方、たった二年のあいだにこれほどまでに製品が入れ替るというのは、私たちユーザー側からみれば、ほんとうに新製品としての価値があるのだろうか。一年そこそこで新型に替るだけの必然的な理由が、いったいどこにあったのだろうか、と考えさせられる。そうした視点から、今回テストした30機種をふりかえって、スピーカーシステムの最新の傾向を展望してみようと思う。ただ、おそらく今年のオーディオフェアをきっかけに年末にかけて発表される新製品は、ほとんど次号でのテストの予定に入っているので、つまりほんとうの意味で最新の傾向は、後半のテストのあとでなくては論じにくいことになる。私自身もまだその後半のグループを知らずに書いていることをお断りしておく。

輸入スピーカーに実力の差がはっきりとみえはじめた
 輸入スピーカーの日本国内でのマーケットに、多少の異変が起きはじめている。というのは、数年前の一時期は、ヨーロッパやアメリカ製の比較的廉価なブックシェルフ・スピーカーが、国内製品を翻弄するかのような売れゆきをみせていたことがあった。国内の主力メーカーでさえ、なぜ、こんなに安くて良いものが作れるのか、と頚をかしげて残念がっていた。しかしそのことが、日本のスピーカーを逆に刺激する結果になって、いまでは一台5万円あたりを境にして、それ以下の価格のスピーカーには、輸入品であることのメリットが少なくなってきた。言いかえれば、輸入品の必要のないほど国産で良いスピーカーが作られはじめた。そういう傾向は、すでに前回(36~37号)のテストにもみえはじめている。もう少し具体的にいえば、これを書いている昭和52年8月という時点で、あえて輸入品をとるだけのメリットのある価格の下限といえば、たぶんセレッションUL6やB&W DM4/IIなど、5万円台後半以上の価格の製品からが、考え方の分れ目になるだろう。これ以下の価格の輸入品を探すと、たとえばジョーダンワッツの〝フラゴン〟やタンバーグの〝ファセット〟のような形や色やマテリアルのおもしろいもの、あるいはヴィソニックの〝DAVID50〟やブラウンL100などのミニサイズで音の良いスピーカー、それにセレッション〝ディットン11〟のようにサブ用として楽しい音を鳴らすスピーカー……などのように、国産には類似品の少ない何か特徴を持った製品に限られてくる。ただ、ひとつひとつ細かくはあげないが例えばヨーロッパ製の小型車のように、性能にくらべて割高につくことを承知の上で、国産にない個性を買うというのであれば、5万円以下でもまだいくつかの製品が考えられる。がそれにしても、性能(音質)本位で買おうというときに5万円以下では、もはや輸入品をあえてとるほどのメリットが、数年前にくらべてほとんどなくなりつつあるというのは明らかな現象だ。
 しかしそれでは、もう少し高価な方のグループに目を移すとどうなるのか。ここでは、国産品の実力が必ずしも未だ海外品を不必要というレベルまでは行っていない。あるいはそれは時間の問題なのかもしれないが、しかし現時点では、同じような価格のスピーカーどうしで、海外の著名品と国産品を聴きくらべてみると、少なくとも音楽を聴く楽しさという点では、海外の著名品にまだ一日の長を認めざるをえないのではないか。
 むろん、同じ価格で比較すれば、その大きさや構成や作りの良さ、という面では、国産に歩があるのはあたりまえだ。地球を半廻りする輸送費と関税と業者のマージンが加わって、生産地での価格の二倍ないし三倍で売られる輸入品が、内容の割に高くつくのはあたりまえだ。けれどもう何度もくりかえした話だが、そういうハンディをつけてもなお、輸入されて割高についているスピーカーが、同じ価格で作られた国産品より、音楽の本質を伝えてくれることの未だ多いことは、やはり認めておくべきだ。その上で、国産品のどこに何が欠けているのかを、考えてみるべきだ。
 ──と書いてくると、私が相も変らず輸入スピーカー一辺倒であるかのように思われてしまいそうだがそれは違う。輸入スピーカーといってもその中から一応ふるいにかけられて水準以上の音で鳴るものに対して、国産の方は特定の少数の優秀品ばかりでなく国産全体の平均的水準を比較してみると……という話なので、これでは比較の上でずいぶん不公平だ。実際のところ、海外スピーカーがすべて優秀だなどという神話は、もうとうの昔にくずれ去っている。従来のスピーカーの中には、あきれるほどひどい製品がいくらもある。というより欧米の製品には、スピーカーに限らず常に、ピンとキリの差がきわめて大きい。そしてその中から厳選されて輸入された優秀製品だけが国産と勝負するのだから、強いのがあたりまえ、だったわけだ。
 だが、その状況が少し変ってきた。というのは第一に、海外製品の平均水準が、必ずしも国産より上ではなくなってきた。もう少し正確にいえば、先に書いたようにある価格帯に限っていえば、海外よりも国産の方が、明らかに水準が上になってきた。
 第二に、これは必ずしも海外製品に限った話ではないが、優秀な製品を作り世評の高かったメーカーが意外に駄作を連発したり、いままであまり目立たなかったメーカーや全く新顔のメーカーから、非常に優秀な製品が生まれはじめたり、どうやらこのマーケットに世代交替のきざしがみえはじめた。
 ひとつの例をあげればアルテックだ。この名門メーカーは、ここ数年来明らかに低迷している。ウェスターンエレクトリックの設計を伝承して、ヴォイス・オブ・ザ・シアターや604SERIESの名作を生んだアルテックの、技術自体は少しも衰えていない。ただこのメーカーはいま、自分の技術をどういう方向にまとめたらいいのか、よくわからずに暗中模索を続けているのではないかと私には思える。ただその模索の期間が少々長すぎて最近数年間に発売された新製品では、620Aエンクロージュアを除けば、タンジェリン・ドライバー・ユニットの開発と、それを生かしたモデル19スピーカーシステム以外には、あまり見るべき成果をあげていない。個人的なことを書いて恐縮だが、私自身に海外スピーカーの音の良さを初めて教えてくれたのはイギリス・グッドマンだが、その次に私を驚かせたのは(本誌別冊のアルテック号にも書いたが)M氏の鳴らしたアルテックのホーンスピーカーだった。あのときの音がいまでも耳の底に残っているだけに、アルテックよいま一度蘇ってくれ、と切望したい。
 EV(エレクトロボイス)とマッキントッシュも、それぞれに優秀なスピーカーを作っていた。1950年代に作られたEVの〝パトリシアン〟は、今でもこれを凌駕する製品の出現しない大作だった。マッキントッシュも、スピーカーの専門メーカーではないがそれでも、以前のSERIESはいかにもこの会社らしい重量感と厚みのある音で独特だった。
 たまたま今回のテストに加わったアルテックやEVやマッキントッシュのスピーカーは、必ずしもそれぞれのメーカーの最高の製品ではないから、これをもってメーカー全体を判断してはいけないことは百も承知だが、しかし逆説的にいえば、数多くの製品の中のたったひとつをランダムに拾い出してテストしてみれば、そのメーカーの体質を知ることはできる。たまたま今回のテストにのったメーカーであったために右の三社の名を上げたのだが、しかし目を広く海外全体に向ければ、それぞれ何らかの事情から、かつての栄光を維持できなくなりつつあるメーカーは、決してこれら三社ばかりではなく、たとえば、イギリスのグッドマンとワーフェデールといえば、かつては一世を風靡する勢いのあるメーカーだったが、イギリス手はKEFやセレッションやスペンドール等の方が、いまでは良いスピーカーを作っているというように、やはり世代の交替はみられる。ある時代に築いた技術と名声を維持し続けてゆくことの、いかに難しいかは、他の多くの分野でもいくらでも例にあげられる。

国産スピーカーの技術の向上とフロアータイプへの傾向
 いわゆる基礎技術の蓄積という面では、いまや国産スピーカーの方は、海外メーカーを大きく引き離しているといえそうだ。たとえばスピーカーの測定や解析のための設備──無響室、残響室および各種の精密測定器とそのオペレーター──に関していえば、いま日本のメーカーの装備は世界一だ。日本のメーカーならどこでもすでに持っている無響室ひとつさえ、アメリカやヨーロッパのメーカーではまだ珍しい。
 逆にいえば、アメリカやヨーロッパ、ことにイギリスでは、たとえばBBC放送局の研究所などの公的機関で開発した資料を基礎にして、各メーカーが互いに感覚と個性を発揮してシステムをまとめあげる、という形が多い。つまり基礎開発から手をつけるほどの大きな規模のメーカーはほとんどなくて、いわゆるアセンブリーメーカーとして、ユニットは他社のを購入してきて、自社独特のシステムに組みあげるメーカーが大半を占める。このことは一面、非常に脆さを孕んでいる。
 日本のメーカーのように、ユニットの解析から始めて自社開発するという大がかりな手順で作る、しかもそれが各社ごとに行われる、というようなことは、欧米のメーカーの多くにとっては信じがたいすさまじさであるらしい。彼らが日本製品の海外進出に危機感を抱くのは当然だ。しかも日本のスピーカーは、数年前までは誰の耳にも欧米の有名製品に劣っていたが、最近では事情が大きく転換しはじめた。たとえばヤマハのNS1000Mが、スウェーデンの放送局に正式のモニターとして採用されたり、BBC放送局で、テクニクスのリニアフェイズにかなりの興味を示したり、という具合に──。
 すでにアンプやDDモーターが、世界のオーディオ界を席巻しているように、かつては駄もの呼ばわりされた日本のスピーカーが世界中に認められるようになるのは、そう遠い先の話とはいえなくなってきたことは右の事実からも容易に読みとれる。
 ところで、改めて言うまでもなく日本のスピーカーの流れの中で目立ってきたのが、昨年あたりからのフロアータイプの開発だ。これには大別して三つの背景がある。
 第一は、数年来言われてきたブックシェルフ型のあまりの能率の低下を何とかしたいという要求である。プログラムソースからアンプまでの性能が向上して、ほとんどナマの楽器同様のダイナミックレンジで鳴らすことも不可能ではなくなってきた(そういう音量を出せる環境の問題は別として)反面、そのためには現在ハイパワーアンプで得られる実用上の限界の300Wのパワーでさえもまだ不足、といわれるほど、スピーカーが特性の向上とひきかえに能率を低下させてしまった。
 古いフロアータイプには、昨今のブックシェルフタイプの平均値よりも20dB近くも高能率の製品が珍しくなかった。アンプのパワーに換算すれば、ブックシェルフに必要とされるそれの百分の一でよいということになる。
 こんにち要求されるワイドレンジとダイナミックレンジの要求を満たすには、古いフロアータイプの設計そのままでは具合が悪いにしても、ブックシェルフという形態の制約から離れてみることによって、スピーカーの高能率化が容易になる。これがフロアータイプ出現の第一の理由だ。
 第二に、国内スピーカーメーカーが、永いあいだブックシェルフの開発途上で身につけてきた技術の蓄積が、ようやくフロアータイプの高級機にも生かせるだけのレベルに達しはじめた、ということ。
 そのことは第一の理由とも関連するが、アンプの分野で、プリメインという形態での限界がほぼ見えはじめて、いま高級機はセパレートタイプに移行しつつることと同様に、スピーカーでもまた、ブックシェルフで達成しうる性能の限界がみえはじめた一方で、ユーザーサイドからも、より良い音の製品が欲しいという要求が高まってきた。またメーカー側でもようやくそれにこたえるだけの技術力がついてきた、という次第で、これらの理由が重なって、急速にフロアータイプ開発への動きが積極化しはじめたのだと私はみている。ただ、あちらが出したのならウチでもひとつ……式の、単に時流に阿ただけの製品がないとはいえないが、これはいまや必ずしも日本のマーケットだけの悪い癖とはいいきれない。海外のスピーカーシステムにも、フロアータイプがひところより増える傾向がみえてきたことからもそれはいえる。
 しかし──これは言わずもがなかもしれないが──スピーカーの良否あるいはグレイドを、単にフロアー型かブックシェルフ型かというような形態の面からきめつけるような短絡的発想はぜひとも避けたいものだ。ブックシェルフという形態は長い経験の中で練り上げられたそれなりに完成度の高いスピーカーだけに製品も多彩だし、また一般家庭での音楽鑑賞に、大げさでないこの形はやはり好ましい。
 これに対してフロアータイプは、本来は古くからあった形だがしかし現在のフロアータイプへの要求は、昔のそれに対してとは大幅に異なっている。そうした新しいフロアータイプを完成させる技術について、まだ未知数の部分が少ないとはいえない。良いものもある反面、柄が大きく高価なだけで何のとりえもないというようなものも、中にはないとはいえない。

特性をコントロールできるようになって、かえって音作りの姿勢や風土の差がよく聴きとれるようになってきた
 海外製のスピーカーと国産スピーカーとの比較は、しかし単に音質や特性の良否や形態だけでは論じきれない。同じレコードを鳴らしても、スピーカーが変ればそれが全く別のレコードのように違った音で鳴る。が、数多くのスピーカーを聴くうちに単にメーカーや製品系列の違いによる音の差よりも、イギリスと日本、イギリスとアメリカ、アメリカと日本……というように、その国あるいはその地方の製品に共通した鳴り方のニュアンスの差があることに気づかざるをえなくなる。そのことを私はもうずいぶん前から指摘しているが、今回のテストでもそのことは改めて、というよりも一層、それこそスピーカーの音の決定的な違いのように受けとめられた。くわしいことは、本誌36号(現代スピーカーを展望する)を併せてご参照頂けるとありがたいが、たとえば同じシンフォニーのレコードでも、イギリスのスピーカーは概して良い音楽ホールのほどよい席で、ホールトーンの細かな響きをいっぱいに含んで、左右のスピーカーの向う側にまで広い空間のひろがりと奥行きを感じさせる。同じレコードをアメリカのスピーカーは、もう少し演奏者に近づいたように、力と輝きを感じさせ、日本のスピーカーは概してクラシックの弦の音が苦手で、合奏をやや金属的に不自然に鳴らす。
 こうした違いは、単に特性上の違いがあるだけに、いわゆる風土とは違うというような見方もある。単に現象を物理的に解析すればそのとおりかもしれない。音の違うのは特性が違うからだ、というのは説明としても最も正しい。が私は、そこにそういう音に仕上げた──といって悪ければあえてそういう特性に仕上げた──人の姿勢、を感じとる。
 ただ比較的最近までは、スピーカーの特性のうちで人為的にコントロールできる部分が比較的少なかったために、結果として出てくる音が、それを最初から意図して作られたものかそれとも半ば偶発的に出てきた結果にすぎないのか、という判断に難しさがあった。
 けれど最近になってたとえばKEFの開発になるパルスは系をコンピューター処理して特性を動的に解明しようというような試みや、レーザー光線によるスピーカー振動板のモードの解析や、材料素材にまでさかのぼる新しい解析法などの研究のつみ重ねによって、スピーカーの物理特性が、以前よりは人為的にコントロールできるようになってきた。むろんスピーカーの物理特性には、まだ全くわからない部分や、解析上はわかっている欠点もそれをどうしたら改善できるのか正しい見通しのつかない部分がいくらもあるが、少なくとも周波数特性に関しては、意図した特性にかなりのところまで近づけることも不可能ではなくなってきた。
 現実に、スピーカーは設計者が作りっぱなしでそのまま製品化するというようなことはない。試作したものを比較試聴し特性を測定し、何回かの修整をくりかえしながら、設計者の意図した製品に近づけてゆく。言いかえれば、出てきた音はそのまま設計者の意図した音にほかならないのだから、七面倒くさい理屈をこねようとこねまいと現実の問題として、数多くのスピーカーを聴けば、メーカーや製品による音の違いよりもそれを生んだ国に共通の、つまり風土に共通の、同じ感性の仕上げた音と言うものがあることは、誰の耳にも明らかなはずだ。
 にもかかわらず、たとえば最近のJBLのモニタースピーカー(例えば4343)の特性が、古いJBLの特性にくらべてはるかに平坦にコントロールされるようになってきたのみて、「JBLが国産スピーカーの音によく似てきた」などと見当外れの解説が載っていたりする。いったいレコードから何を聴きとっているのだろうかと思う。周波数レインジの広さはどうか──、帯域内での低・中・高音のバランスはとうか──、音のひずみ感は?、にごりは? 楽器の分離や解像力は?……こうした聴き方をする範囲内では、なるほど、JBL♯4343も国産のワイドレンジスピーカーも、たいした違いはないかもしれない。だがほんとうにそうならスピーカーの音の差など、いま私たちが論じているほどの大問題ではなくなってしまう。いや、JBLより国産の方が、レインジも広いし帯域バランスも優秀だし、特性の凹凸も少なくて音のクセが少ない、という聴き方もある。が、それはあまりにも近視眼的だ。試みに、クラシックの管弦楽もの、オペラ、宗教曲、室内楽、ピアノ、声楽……とプログラムソースをかえて聴いてみる。さらにモダンジャズ、歌謡曲、ヴォーカル、クロスオーバー……等のレコードを、次々と聴いてみる。JBL♯4343なら、そのすべてのレコードが、音楽的にどこかおかしいというような鳴り方はしない。
 ところが国産では、割合ローコストのグループ(それだから必ずしも万能とはいえないし、また高級機ほど厳しい聴き方もしない)を除くと、とくにクラシックのオーケストラものや合唱曲、宗教曲、オペラ等のレコードで、音が強引すぎたり、複雑に織りなしてゆく各パートのバランスがひどくくずれたり、陰で支えになっているパートが聴きとれなくなってしまったり……というようなものが多く、その点だけでも満足できるものは窮めて少数しかない。さらにJBL♯4343では(必ずしもこのスピーカーを唯一最上と言うわけではなく、たまたまひとつの例としてあげているのだが)、右のような内声の旋律が埋もれてしまうなどという初歩的なミスのないことはむろんだが、それよりも一層、鳴っている音楽の表情に生き生きした弾みがあり、音の微妙な色あいが生かされて、そのことが聴き手に音楽を楽しませる。ところが国産スピーカーの中には、音のバランスまでは一応整っていても(そのことさえ問題が多いのだが)、音楽の表情や色あいという点になると、概して抑えこんで抑揚に乏しい、聴き手の心をしぼませてしまうような鳴り方をするものが、少ないとはいえない。
 再生音の物理的あるいはオーディオ的な意味あいからは弱点の少ないとはいえないイギリス系の比較的ローコストのスピーカーが、音楽を楽しませるという面で、まだまだ国産の及びにくい良さを持っていることを見逃すわけにはゆかない。
 たしかに国産全体の水準は向上した。ただそれはあくまでも、過去のあの欠陥商品と言いたいような手ひどい音の中から、短時日によくもこれほど高い技術に到達できたものだという感想をまじえての話、である。
 音楽の再現能力──それはよく〝音楽性〟などという言葉で説明された。が、あまりにもあいまいであるために、多くの誤解を招いたようだ。たとえば、「特性は悪いが音楽性に優れている」などという表現にあらわれているように。しかし厳密にいって、特性さえ良くないスピーカーが、音楽の再現能力で優秀ということはありえない。そういうスピーカーは、たいていの場合、あらゆる音楽ジャンルのうちの或る特定のレパートリィについてのみ、ほかのスピーカーで聴くことのできない独特の個性的な音色が魅力として生きる、というような意味合いで評価されていた。そうしたスピーカーは、ある特定の年代のレコーディングについては良い面を発揮するが、最近の新しい録音の聴かせる新鮮な音の魅力は聴かせてくれない。
 本当の意味で〝音楽性〟というならそれは、クラシックかポピュラーかを、また録音年代の新旧を問わず、そのレコードが聴かせようとしている音楽の姿を、できるだけありのままに聴き手に伝える音、でなくてはならない。

たとえば一枚のレコードをあげるとすれば
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、
ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめへてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。
     *
 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
 こういう聴き方をしてみたとき、国産の多くのスピーカーが、何度もくり返すようにまず楽器どうしのバランスの面で、ことにプログラムソースをクラシックにした場合に、おかしな音を出すものが多いし、第二に音の豊潤さ、第三に音楽の表情、といった面で、まだまだ注文をつけたくなることの多いことを、今回のテストを通じて感じた。むろん海外製品の中に、いまや国産以下のひどい音が氾濫しはじめていることは前にも書いたが、国産スピーカーが、一日も早く「音楽」と聴き手の「耳」にでなく「心」に染みこませてくれるような本ものの音に仕上ることが、いまの私の切実な願いだ。
 本誌創刊のころ、知人のコピーライターが、すばらしい名言を考えついて、これが今でも私たち仲間内での符牒のようになっている。
 それは「音(オン)」だけあって「楽(ガク)」の聴こえない音、または「音」だけあって「響」のない音、というのである。あれから十余年を経たいまでも事情は同じだと思う。いま切実に望まれるのは、「音」だけでなく「楽」も「響」もある美しい音の鳴ることではないだろうか。

テストの結果から私の推すスピーカー

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

■セレッション DITTON66
 今回のテストを通じて最も印象に残った音といえばこれを第一にあげる。とくにクラシックの管弦楽や協奏曲やオペラ等での、おだやかでありながら適度に厚みと艶のある響きの美しさは──もちろんあくまでもこの価格でという前提つきで、だが──ちょっと類のない素晴らしさだ。新製品とはいえないが、そして前にも何度かとりあげられているが、初期の製品は、ペアで購入してみるとネジが左右で違っているのがついていたり、どこか町工場で作られたような部分があったが、最近の製品はすっかりこなれてきて、非常に完成度の高い、思わず聴き惚れるような、そして永く聴いていても少しも人を疲れさせない、本ものの音楽のエッセンスをたっぷりと響かせる。名作のひとつ、と言っても過言ではないだろう。
     *
 いまも書いたように、私たちが「推選機種」などのタイトルで評価する製品は、すべて、「この価格の中では」という条件がつく。もう少し正確にいえば仮に10万円とすればそれと同じ価格帯の、その時点でのその価格の製品の平均的な水準が、いつでも頭の中に整理してあって、それと照らしあわせた上で、テストした時点でこの価格帯の中では水準以上か、以下か、という観点から推選機種が浮かんでくる。
 したがってたとえば、一方に30万円という価格の割にはやや水準を下まわる、と判断して「推選」にならなかった機種があるとする。そして他方に、10万円という価格帯の中では水準をやや上まわると判断して、「推選」にした機種があるとする。その場合、30万円で推選にならなかった製品が、10万円の推選機種より音が悪いとは限らない。むしろ逆に、価格を考えずに音だけ比較すれば、推選にならなかった30万円の方が、10万円のより音が良いのがふつうだろう。このことがよく誤解されるらしいので、あえて蛇足を加えた次第である。
 そのことを前提として、以下に各価格帯別に推選機種を列挙すると──
■50万円以上では
 JBL L300(もしも4333Aが加わればもちろんこれも推選に入る)
 このほかにテクニクス SB10000が試聴記でも書いたようにかなりの音を聴かせたが、試聴した製品がまだ量産以前のものなので、今の時点では推選はさしひかえたい。量産に移ってからもこの水準が間違いなく保たれれば(あるいは量産に移ってから逆にいっそう性能が向上することもあるが)、問題なく推選機種にあげられる。
■20万円台の中から
 スペンドール BCIII
 JBL L65A
■18万円台の中から
 B&W DM6
 パイオニア CS955
 タンノイ BERKELRY
■10~15万円台まで
 フェログラフ S1
 ゲイル GS401A(専用スタンドと共に)
 ヤマハ NS1000M
■8~10万円まで
 KEF CANTATA
■7万円台では
 デンオン SC107
■6万円台では
 トリオ LS505
■5万円台では
 ビクター SX55N
■4万円台では
 デンオン SC104
(次点ヤマハ NS-L325)
 などがあげられる。

試聴テストを終えて

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

各スピーカーの評価ばかりでなく、組合せや使いこなしのヒントまでをテーマに聴いた
 上下二回に亙る予定の試聴テストの前半を終えた。30機種のスピーカーに共通のテストの方法について書いておく。
■試聴装置の選定──アンプ──
 各スピーカーの評価ばかりでなく使いこなしを含めて解説するように、というテーマが私には与えられていたので、アンプやカートリッジには、それぞれ性格を異にする製品を数多く集めて、幅広くテストするよう配慮した。アンプはプリメイン型の中から大幅にキャラクターの違う三機種として
 ①トリオ KA7300D
 ②ヤマハ CA2000
 ③ラックス SQ38FD/II
 を選んだ。②と③については42号の試聴記および推選機種の解説で書いたように、一方は最新型のTR(トランジスター)高級機、他方は旧製品ながらユニークな管球式ということで、全く対照的な音がするが共に優秀な製品だ。ただいずれも十五万円以上のいわゆる高級機に属するので、スピーカーによってはもう少し価格の安いプリメインアンプとのマッチングを確認する意味で、42号以降に発売された新製品の中から、私のテストした中では最も優秀だと思うトリオKA7300Dを加えた。中級機の中では音の品位の高いことと、音楽の表情をとてもよく生かす秀作だと思う。このトリオのいくらか味の濃い音に対して、ヤマハのややサラリと軽く明るい音との二つで、スピーカーの傾向をかなりよく掴むことができたと考えている。またSQ38FD/IIの場合は、この少々古めかしいところのある音を、暖かい良さとして生かすスピーカーと、逆に弱点として鳴らすスピーカーとがあって興味深かったが、結果的にはみれば、トランジスターの最新モデルのフレッシュな音と、38FD/IIのことに弦やヴォーカルで聴かせる滑らかな暖かさとを、それぞれに魅力として聴かせるようなスピーカーの方が、総じて優秀なスピーカーだと言える。こまかくは各試聴記をご参照頂きたいが、しかし私に与えられた枚数の中では、こういうこまかな面についてまで補足を加えるスペースがとれなくて残念な思いをした。
 アンプとしては右以外に、セパレートの高級機を加えておく必要もあると考えて、
 ④ラックス 5C50+5F70+5M20+5E24
 ⑤マーク・レビンソン LNP2L+SAE MARK2500
 の組合せを用意した。⑤は私の個人用のシステムで最も扱い馴れたいわばリファレンス用としての意味も持っているが、④の方は、最近の国産セパレートタイプの中でも、プリとメインの両方の出来栄えでバランスのとれたアンプという意味で使ってみたが、音質の点では十分に満足できた。またトーンコントロールアンプ5F70によって、周波数特性をかなり細かく調整して各スピーカーのくせを掴むことができたし、ピークインジケーター5E24でスピーカーに送り込まれるパワーを正確に読むことができてとても安心できた。ただ、5M20にはこういうテストには少々パワー不足に思えることがあって、せめて200W×2以上の出力が欲しかったが、その面はSAEの300W×2で補った。
■試聴装置の選定──プレイヤーとカートリッジ──
 レコードプレーヤーは、それ自体しっかりしたものであればスピーカーのテストにはそう厳密なことを考える必要がないと思ったので、おそらく延べ数十時間に亙るであろうテストのあいだじゅう、レコードを何百回となくかけるたびに不愉快な思いをさせないでくれるように、デザインや操作性の面で個人的に気に入っているラックスのPD121とオーディオクラフトのAC300Cの組合せを用意した。
 カートリッジは、オルトフォンMC20+マーク・レビンソンJC1AC/Pと、エレクトロアクースティック(エラック)STS455Eを最も多く使った。日頃常用して素性がよくわかっているからだが、このほかに、ADC(ZLM、XLM/III)、エンパイア(4000D/III)、EMT(XSD15)、ピカリング(XSV3000、XUV4500Q)、シュアー(V15/III)、オルトフォン(SPU-G/E、VMS20E)、テクニクス(EPC100C)などを、確認のために準備し、スピーカーによって使い分けてみた。なおこれ以外にも、本誌試聴室には市販のほとんどのカートリッジが揃っているので、必要に応じて随時各種を試みた。それらについても、アンプ同様、スペースの制約から細かなことを書けなかった点は残念だった。
■レコードについて
 試聴用に選ぶレコードについてかなり誤解があるようなので解説を加えておきたい。おそらく別項にあるように、私の使うレコードは必ずしもすべてが最新録音ではないし、いわゆる話題の名盤というわけでもない。中にはここ数年来変らず使うレコードもある。それは、ごく限られた短い時間の中で、ほとんど瞬間的に音を聴き分け、評価するという目的のためには、自分の身体に染み込んでしまうほど永いあいだ何百回となく聴き馴染んだプログラムソースを使う方がよいと考えているからだ。最新録音盤では、まだそのどこにどういう音が入っているのかが、身体に染み込むほど耳に入りきっていない。少なくとも数ヵ月以上、毎日のように聴いた部分でなくては、自信の持てるようなテストができない。
 また、いわゆる話題の名演、名盤をあまり使わないのは、私自身の全くの個人的な理由による。というのは、もしも自分が本当に音楽そのものを楽しみたいほどの良いレコードであれば、総試聴といういわば仕事の場ではなるべく耳にしたくない。プライベートの場で、菊機会を十分に選んで、音楽にのめり込みたい。そう思わせるほどのレコードを、何百回もの荒っぽい反復使用でキズものにしたくないし、どんな名演でも部分的に何百回も耳にすれば、感激も薄れてしまうだろう。そういうレコードは、原則としてテストには使わない。
 もうひとつ、いまも書いたようにテストの場合は、一枚のレコードの中のせいぜい3分から長くても5分あいだぐらいの特定の部分だけを、何百回も反復して使う。とうぜん傷みも激しい。しかしまた、部分的にビリつきやポップノイズを生じはじめたような傷んだレコードも、その部分を正確に知っていれば、ポップノイズはトランジェントレスポンスのテストになるし、ビリついたプログラムソースが潜在的な歪を露頭させるため
に有効に働くことがままあるのだ。
 要するに、テストソースというのは私にとってオシレーターの波形同様に音源としての方便のひとつにすぎないので、このレコードのこの部分がこう聴こえれば、あのレコードのあの部分がああ聴こえるはずだという計算が、頭の中で正確にできるような、自分にとって有用な基準尺度として使えることが条件だ。そのためには、あえて録音のよくないレコードを使うこともあるが、そういうレコードを私以外の人が入手しても、どの部分をどう聴きとるか、の基準が違えば何の約にも立たないだろう。
     *
 試聴装置およびレコードを選んだ理由は以上のとおりである。これをもとに、本誌試聴室に用意してある各種のスピーカー置台やインシュレーターをいろいろ試み、レベルコントロールを大幅に動かしてみ、音量も大幅に変えながら、それぞれのスピーカーの隠れた性格まで読みとるべくテストした。
 なお今回の試聴直前に、本誌試聴室に一部改修が加えられて音響特性が変ったが、部屋の音を十分に耳に馴染ませる時間が少なかったので、判断に誤りの生じないよう、リファレンス用としてJBL♯4343を用意して、常時参考にして比較した。今回の改修で従来よりも残響時間が短めになったせいとリファレンスを用意したために、むしろいままでよりも各スピーカーの差がはっきりと掴めたと思う。

■試聴レコード
●ベートーヴェン序曲集
 カラヤン/ベルリン・フィル(独グラモフォン 2530 414)
●ブラームス:ピアノ協奏曲第1番・第2番
 ギレリス/ヨッフム/ベルリン・フィル(グラモフォン MG8015/6)
●ベートーヴェン:七重奏楽曲 op.20
 ウィーン・フィル室内アンサンブル(グラモフォン MG1060)
●シューマン:リーダークライスop.24
 フィッシャー=ディスカウ(グラモフォン MG2498)
●孤独のスケッチ/バルバラ(フィリップス SFX5123)
●サイド・バイ・サイドVol.3
 八城一夫ほか(オーディオ・ラボ ALJ-1047)
●アイヴ・ゴット・ザ・ミュージック・イン・ミー/テルマ・ヒューストン(米シェフィールドラボ-2)
その他、数枚適宜使用

パイオニア CS-955

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 専用のスタンドが別売されているので、それに乗せたまま、左右への拡げ方と背面との距離とで最適一をいろいろ調整してみた。背面は、壁から50cm以上離す方が音離れがよく、左右に大きく開いた方がいい。レベルコントロールは、低・中・高各ユニットのつながりは指定のままがよかったが、音のバランスという面では(国産とはいえかなり高価な部類だから要求水準も自ずら高くなるが)、ベートーヴェンの序曲やセプテット、またブラームスのP協などで、たとえばラックスのアンプについているリニア・イクォライザーをダウン・ティルト(1kHzを中心に、低域をやや上げ、高域をやや抑える)にした方が、クラシックでも十分に納得のゆく(海外製品に全く劣らない)バランスが得られる。ただ、低音域で、一ヵ所、どうしても少々ドロンとした感じの残る点、そして中低域全体にもう少し肉づきや脂気が欲しいと思われる点が今後の課題だ。音色の傾向はややウェット型だが、そのためかヴァイオリンや木管の質感のよさは、国産としては極上の部類。バルバラの声もオヤ? と思うほどしっとりした味わいで、やさしさもほどよい色気も出る。パーカッションでのハイパワーにも、音のくずれが全くなく、十分に楽しめる音がする。総じてハイエンドでクセのないよく延びた鳴り方が、音のデリケートな味わいや雰囲気をとてもよく再現する。カートリッジはMC20より455Eの方が楽しめた。

ゲイル GS-401A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 国産をずっとまとめて聴いてきたあとで突然これが出てくると、やはり製品を生んだ風土──というよりそれを作った人間の音の感受性──の違いというものを思い知らされる。第一に、原音場の空間のひろがりの再現性がまるで違う。すっと眼前がひらけた感じで、かなりの音量で鳴らしても、音がかたまりにならず、音源が空間のあちこちに互いに十分の距離を置いて展開するように聴こえるので、メモをとりながら聴いていてもやかましさや圧迫感がなく、とても気持がいい。音のバランスという意味では、少し前のイギリス製品によくあった、中音域をやや抑えて低域をあまりひきしめないで甘口にこしらえてあるし、高域端(ハイエンド)を多少強調する感じもあるので、高域にピーク性のくせを持つアンプやカートリッジを避ける方が安全だ。しかし、低域の表面的な甘さにもかかわらず、オーケストラの中で鳴るティンパニなども、国産の多くのようなドロドロした音でなく、タン! と切れ味よく響くし、音量をぐんぐん上げていっても楽器の実体感がよく出て、音離れがよく各パートの動きも明瞭だ。能率が低い方なので、本気で鳴らそうとするとアンプは100W級では少々不足のこともあるが、耐入力は十分にあるので大出力アンプでも不安なくこなせる。専用のスタンドがあるのでそれに乗せて、背面は壁から少し離す方が低域の解像力が増す。レベルコントロールは高域をやや絞る方がバランスがいい。

ヤマハ NS-1000M

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 生産上難しい面の多かったベリリウム振動板という素材の製造技術が、次第に手馴れてきたのだろうか、初期の製品にくらべると、以前の製品のような角ばった音がそれほど気にならず、馴らしこまなくてもわりあいにおとなしい音がする。ことに高域端(ハイエンド)での共振性の音が、以前の製品よりよく抑えられていると感じた。この音をかつては〝鮮烈〟とも表現したが、こういう傾向の音が次第に増えてきたせいなのか、こちらが少々馴らされたのか、あるいは製品自体が以前よりおとなしくなっているのか、それともプログラムソースやアンプなどの歪がさらに減ってきているせいか──たぶんそのいずれもが少しずつの理由だろうが、それほど異質の音ではなくなっている。
 今回はやや低め(約20cm)の台に乗せ、背面を壁から30cmほど離して置いたときのバランスの良さは一種絶妙だった。ただ、中低音域にやや抑制が利きすぎるように思える点は従前どおりだし、重低音息にもう少し明るい弾みが欲しくもある。中~高音域では、音自体の繊細な切れ込みの良さは抜群だが、空間のひろがりの感じがもうひと息再現されるとさらに好ましいと思う。
 しかし弱音から強音に至るダイナミックレンジの広さと、やや色気不足だが音のバランスと解像力の確かさは、やはり国産スピーカーの中でも抜きん出た優秀製品のひとつだと再認識した。

デンオン SC-107

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 ちょっと国産らしからぬ艶の乗った、一種気品のある響きの美しさが、あきらかにSC104の兄貴分であることを思わせる。極上とまではゆかないが、国産のこの価格帯では相当に上質な音のスピーカーといえる。えてして国産の中で、音楽を楽しませるよりも音を分析する気にさせるような鳴り方をするのが少ないとは言えない中で、つい聴き惚れさせるといってオーバーなら、ともかくいつまでも聴いていて気になる音のしない気持の良い音で楽しませてくれる、といっても良いだろう。ただ、クラシック系にはレベルコントロール(高音のみ)を-1ぐらいまでほんの少し絞った方がいっそうバランスが良くなると感じたが。
 いわゆる輪郭鮮明型でなく、耳あたりのソフトなタイプだが、しかし不必要に角を丸めるようなことはなく、プログラムソースやアンプやカートリッジの音のちがいを素直に反映し(言いかえれば好みのカートリッジやアンプを自由に組み合わせることができる)ながら、適度に暖かく出しゃばらず、音楽のカンどころを確かにとらえて聴き手に伝えるという点が、やはり残念ながらヨーロッパ製のユニットの良さだろう。
 台は低め(約20cm)で、背面は壁からやや離す方がバランスがよかった。あえていえば、もうひと息の音の彫りの深さ、音場の奥行きと空間のひろがり、音の品位、などの点が、わずかとはいえ純欧州製との違いといえる。

パイオニア CS-755

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 最近のこのメーカーの一連のアンプの音にもいえることだが(本誌42号参照)、どういう種類の音楽に対しても、良い意味での中庸をゆく一種絶妙なバランスポイントを作ることがうまい。ただしそのことは、これといった欠点も指摘しにくいかわりに、際立った特徴もないといういわば無難そのものの音になりかねない。CS755でことにクラシックを鳴らすときに、たとえばオーケストラのトゥッティでもバランスをくずすようなことのない反面、やや魅力に乏しい傾向を示す。またポピュラーでは、パワーを上げてゆくとピアノなどややカン高くなる傾向もあって、決して完全無欠な製品ではなく、あくまでもまとめのうまさで聴かせるスピーカーだということは、この価格ならとうぜんのことで、しかしそのまとめ方のうまさが、少し前のパイオニアのスピーカーには欠けていたせいもあって、ようやく安心して聴ける音が出現してきたというような感じがする。
 レベルコントロールは指定位置のままがいちばん無難。低音がやや抑えぎみ。ことに重低音の豊かさがもっと欲しいので、低め(約20cm)の台に乗せた。ただし壁に近づけると中低域で少しこもる傾向があるので、背面は30cmほどあけて、アンプのトーンコントロールで(約150Hzあたり以下だけを)やや増強するのがよかった。

トリオ LS-505

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 トリオはスピーカーずいぶん古くから市販しているが、ふりかえってみると、その音は二つの極を往ったりきたりして、音の方向づけには多少の迷いがあるようにみえる。ある時期には思い切り手綱をゆるめてよく弾みよく響く音を作るかと思うと、今回のLS505のように、抑制の利いた音を作る。低音から高音までの音の質やバランスは、かなり周到に検討されたように思えて、レベルコントロールの指定の位置のままで、クラシックからポピュラーまで、破綻なくよくつながっている。しかし音の表情をかなり抑えていて、総体につや消しのマットな質感を感じさせる。ただ、ハイパワーを加えると中音域がやや硬く張る傾向がわずかに聴きとれる。ホーン型トゥイーターの質がきわめてよいせいか、スクラッチノイズやヒス性のノイズがとても静かで耳につきにくい。むしろもう少しレベルを上げてもいいくらいだが、3段切替のスイッチで+3では少し上げすぎのようでその中間が欲しく思われる。総体に音の豊かさや弾みがもっと欲しいので、台は低め(約20cm)にして、背面を壁に近づけて左右に大きく広げて置くと、かなり量感も出て渋いながら良い感じが出てくる。アンプやカートリッジは、あまりまじめな音は避けて、455Eや4500Q、それにKA7300Dなどのような、表情の豊かでやや味の濃い組合せの方がいいだろう。

ビクター SX-55N

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 ビクターの口ぐせの音の「立上り」と「響き」という、その「響き」の方をより多く感じさせる音だ。国産にありがちの押し殺したように表情の固いスピーカーのあとでこれを聴くと、どこかほっとして、音楽にはこういう弾んだ表情があるのがほんとうだと思える。その意味で音楽の本質の一面をたしかにとらえた、手馴れた作り方といえる。しかしその「響き」も、ときとして少々響きすぎるというか、総体に音を重く引きずるような粘った鳴り方をする面を持っている。そういう音は本来は暗い傾向になりがちだが、おそらく聴かせないためだろう、中~高域に明るく華やぐような色あいが加えてあって、音の重さを救っている。こうした華やぎは、ポップス系のにぎやかなリズム楽器には一種楽しい彩りを添えるが、クラシックのオーケストラの斉奏などでは、多少はしゃぎすぎる傾向を示す。
 そこでレベルコントロールをHIGH、MIDともメーカー指定の位置(最大位置=ここが時計の針で12時の位置になっている)から少しずつ(10時ぐらいまで)絞ってみた。この方が音に落ち着きが出て良いように思う。低音に関しては、台を高さ(約50cm)にした方が、粘りがとれて音が軽やかになる。アンプやカートリッジの差には敏感な方だから、本来の性格の良い面を生かすにはシュアーやエンパイア系のカートリッジや、ヤマハのアンプのような明るい音の組合せがいい。

Lo-D HS-530

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 このメーカーの製品は、置き方(台や壁面)にこまかな注意が必要で、へたな置き方をして評価すると、このメーカーからは編集部を通じてキツーイお叱りがくるので、それがコワいから、できるかぎり慎重に時間をかけてセッティングした……というのは冗談で、どのスピーカーも差別することなく、入念にセッティングを調整していることは、ほかのところをお読み下さればわかっていただけるはず。
 さてHS530は、本誌で標準に使っている約50cmの台では、少々高すぎのようで背面を壁にぴったりつけても、もう少し低音の量感が欲しく思われたので、約20cmの低い台に代えて、背面はやはり壁につける形に設置した。もう少し台を低くして低音をいっそう補いたかったが、そうすると中~高音のバランスがくずれるので20cm台であとはアンプのトーンコントロールで、ほんの少し低音を増強ぎみにセッティングした。こういう形で低音を補強しても、低音がブーミングを生じたりせずに、パワーを上げても全音域でよくバランスを保って、にごりのないきれいな質の高い音を鳴らす。まじめな性格の音なので、アンプもCA2000のようなタイプの方が統一がとれる。
 空間的な広がりや響きを表現しにくいが、しかし直接音成分自体は、相当にきちんと鳴らすタイプで、そういうせいかカートリッジもシュアーのV15/IIIをよく生かした。

ヤマハ NS-L325

瀬川冬樹

ステレオサウンド 44号(1977年9月発行)
特集・「フロアー型中心の最新スピーカーシステム(上)」より

 ヤマハの作るスピーカーの音には、作る側でどの程度それを意識しているのか知らないが結果的にみると、大別して二つの流れがある。そのひとつは、NS1000MとNS500に代表される、音の輪郭の鮮明でいかにも現代的にややクールな表現をするグループと、もうひとつはNS690IIに代表される上品で行儀のよい、どこか優雅だがしかし聴きようによってはもうひとつ色気が欲しいと思わせるような製品の流れと、である。L325は、NS690の系列に属している。私のようにハメを外した人間には、このヤマハ独特の品の良さが、とてもうらやましい(自分にはとてもこういう品の良さがないというあきらめ)とともに、その反面、もう少し音の弾みや脂気や艶っぽさが、出てきて欲しいようなもどかしさをも感じる。
 そう思うような人間にとっては、アンプがCA2000ではかえって相乗効果が過剰に思えて、KA7300Dのような、そしてカートリッジもSTS455Eのような、少々味の濃い音を組み合わせてやった方が私の欲しい音に近づいてくる。SQ38FD/IIでは、アンプの音に古めかしさの面をかえって出してしまうの避けたい。
 置き方は、約20cmの低めの台で、背面は壁から20cmほど離した方がよかった。出力の大小に対する反応はとても良く、ハイパワーでも音がくずれない。優等生という表現の似合う製品だ。