バイアンプシステムの流れをたどってみると……

瀬川冬樹

HIGH-TECHNIC SERIES-1 マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ(ステレオサウンド別冊・1977年秋発行)
「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」より

 このようなバイアンプリファイアー方式がとりあげられた歴史は、実は意外に古く一九五六年(昭和三十一年)のはじめまでさかのぼる。
 その当時、アメリカのオーディオ界で指導的な位置を占めていた “Audio Engneering” 誌(のちにAUDIOと改題)が、その表紙に「デュアル・アンプリファイアー」と題して実験記事を掲載した。むろんまだステレオの出現する以前だが、一九五六年といえば、アメリカではモノーラルの再生装置がひとつの極限に達しつつあった。EVのパトリシアンやJBLのハーツフィールドのような大がかりなスピーカーすでに完成し、マランツやマッキントッシュがすでに高級アンプの原型にあたるモデルを市販し、ピックアップではモノ時代最高といわれたフェアチャイルドが♯225型に改良されていた。五〇年代初期までは混乱していたレコードの録音特性(したがって再生用のイクォライザー特性を何種類にも切り換える必要があった)も、RIAAの統一がはかられて、アメリカのオーディオ界は黄金期を迎えていた。
そういう状況の中で、より一層の優れた再生音に挑もうとする実験が出てくるのは当然のなりゆきだろう。そのひとつのあらわれが、低音と高音の各帯域(チャンネル)を、専用パワーアンプで直接駆動(ドライブ)して、LCネットワークを追放しようという、デュアル・アンプ・ドライブの発想であった。アメリカや日本でも、個人的なクォリティの追求、またはごく一部のメーカーによる特定の目的には、この方式が試みられたこともあるが、オーディオ界にひとつの流れを作ったのは、このA−E誌の記事であったと思う。
 この当時日本には、まだオーディオの専門誌が出現していなかったが、雑誌「ラジオ技術」が、むろんエンジニアリング的な面からであったが、そのころとしては最も求心的にオーディオを追求していた。デュアルアンプについてもその例外でなく、A−E誌の記事に刺激されて、同年(昭和三十一年)四月号には早くも、「マルチチャンネル(マルチSP(スピーカー)かマルチアンプか)」の特集を組んで、当時のレギュラー執筆者を動員して、マルチアンプの試作とその結果を報告している。そのときの筆者は、池田 圭、今西嶺三郎(現ブラジル在住)、加藤秀夫、木塚 茂それにわたくし瀬川の五人であった。これが、日本でマルチアンプを集中的にとりあげた最初だと思う。
 しかしこの当時は、ステレオ以前のことでもあり、また、まともな再生音を得るためには厳しい輸入制限の網をくぐり抜け、なおかつ法外な出費を覚悟して海外製品を入手するのでなければ、自作する以外にいい音の再生装置を手にする手段がなかった。少なくともわたくしの周囲には、輸入品を愛用している愛好家(というより当時はオーディオ研究家、といった感じが濃かったが)はほとんどいなかった。今西嶺三郎氏のフェアチャイルドのカートリッジがうらやましくてたまらなかった頃の話だ。
 そういう時代だったから、マルチアンプは世間一般の話題はおろか、オーディオ界の中でも、一部の熱心な研究家を除いては、そんなに大きな話題にはならなかった。
 アメリカのオーディオ界でも、本質的には状況はそう変らなかったが、しかし、それから約一年後の一九五七年には、マランツからモノーラル管球式のエレクトロニック・クロスオーバーが市販されていることをみると、ごく凝った愛好家たちのあいだに、マルチアンプへの興味が少しずつひろがっていたことは想像できる。
 やがてステレオレコードが発売されてからしばらくのあいだは、マルチアンプ・システムは、海外でもごく限られたマニアのあいだ以外では、ほとんど話題にならなくなる。モノーラルの一系統から突然、左右の二系統になって、愛好家たちにとってはステレオ装置を揃えるだけでもたいへんな頭痛の種だった。スピーカーシステムひとつさえ、買うこともシステムにまとめることも、つまり経済的にも技術的にもずいぶん苦労した頃の話。ましてモノーラルで大がかりな装置を揃えてしまった人たちほど、その苦労は倍増する。アンプが一台余分にあれば、それをステレオ用にまわしたいというときだ。とてもマルチアンプどころではない。
 しかしそれから約十年ののち、一九六六(昭和四一)年頃になって、このときは海外よりもむしろ日本で、マルチアンプが再び脚光を浴びはじめた。これには二つの背景がある。
 そのひとつは、モノーラル時代にもその再生圭がひとつの完成期を迎えたのちに、より一層高度の再生音を目指してマルチアンプがとり上げられたと同じように、ステレオ化も一応その基本ができ上ってみると、モノ時代のあのより一層のクォリティ追求が思い出されて、その手段のひとつとしてマルチアンプ化を誰からともなく思い立った、ということ。
 そしてもうひとつ、そろそろひとつの〝産業〟としてマーケットを確立しはじめた日本のオーディオメーカーが、オーソドックスなステレオ装置の売れゆきの伸びに多少の不安を抱いて、誌上の拡大をねらってマルチアンプシステムに目をつけて、そのためにセパレートアンプやチャンネルデヴァイダー(エレクトロニック・クロスオーバー)を製品化しはじめた、というもうひとつの背景……。
 ことに、この時代になるとアンプから自作するというマニアが減りはじめ、愛好家の層が完成品を組み合わせて楽しむという方向に移行しはじめていたこともあって、昭和三十一年当時のようにデヴァイダーやアンプの自作を前提にマルチアンプを訴えるのでなく、既製品が市販されているという前提がなくては新しい方式を推める意味が薄れていた、という事情もある。その意味で、マルチアンプ化のためのパーツが市販されはじめたということが、マニアにとっては嬉しいことだった。その結果、雑誌「ステレオのすべて」(一九六七年版)などにも、マルチアンプの記事が掲載されるというような現象がみられたわけである。
 当然「ラ技」や「電波科学」や「無線と実験」のような技術系の雑誌にも、マルチアンプの解説記事が載りはじめ、昭和四十五年(一九七〇年)には、「初歩のラジオ」がマルチチャンネル・アンプだけの別冊を発刊するまでに至った。
 ところがこの時期になると、日本のオーディオメーカーが、過当競争のあまり、小型のブックシェルフスピーカーにマルチアンプ化用の端子を出すのはまだよいとしても当時の三点セパレートステレオ、こんにちでいえばシスコンのように一般家庭用の再生機までを、競ってマルチアンプ化するという気違いじみた方向に走りはじめる。そういう過熱状態が異常であることは目にみえていて、まもなく4チャンネルステレオの登場とともに望ましくないマルチブームは終りを告げた。前述したようにこの時期には、日本以外の国では、マルチアンプシステムは(時流に流されないごく一部の愛好家を除いては)殆ど話題にされていなかった。騒いだのは日本のマーケットだけだった。ただ、3チャンネルのマルチアンプをひとつのシャーシに収めたトリオの意欲作〝サプリーム1〟は、海外市場でも高級ファンには注目された。
 七〇年代をはさんで海外(おもにアメリカ)でマルチアンプがたいした話題にならなかったのには、例のベトナム戦争がひとつの大きな原因といわれる。アメリカ国内の不況と荒廃もひとつの理由としてあげられる。ことオーディオに限ってみても発表される新製品にたいしたものがほとんど見当らなくなって、アメリカのオーディオももうこれで終りかと我々を嘆かせた頃のことで、とてもマルチアンプどころではなかったということもあるのだろう。
 むしろ日本の高級ファンに、マルチアンプであることで興味を呼んだのは、一九七五年にイギリスKEFが、かつてのBBCモニターLS5/1Aを改良して現代のモニタースピーカーに発展させた model 5/1AC を発表したことではなかったか。かつては非常に凝ったLCネットワークを内蔵していたBBCモニターが、より一層のクォリティの向上と音圧レベルの増強をねらって、高・低2チャンネルのパワーアンプとエレクトロニック・クロスオーバーがエンクロージュア内に収められて再登場したのであった。
 そのころはすでにJBLも、♯4330、4332、4340などのマルチアンプ・ドライブ専用のモニタースピーカー、及び♯4350を揃えている。
 これらの出現に暗示されるように、アメリカやヨーロッパの先進的なメーカーや先端をゆくオーディオ愛好家のあいだでは、完成期に入ったステレオ再生装置の一層の高度化をめざしてマルチアンプが大きなテーマとして再びとりあげられはじめた。むろん日本でも、音にうるさい愛好家の中には、一貫してマルチアンプで再生装置を追求している人が、少なからずいた。わたくし個人のことをふりかえってみると、本誌の創刊された昭和四十一(一九六六)年よりもう少し前から、自分の装置をマルチアンプ化していた。その後しばらくのあいだは、マルチアンプとLCネットワークの比較などしながら、昭和四十七年からの三年間は、かなり本気になってマルチアンプで聴いていた。その後事情で引越して、いまの家ではあまりまともな音が鳴らせなくなってしまったので、一時的にマルチ化を休んでいるが、いずれまた本格的にやりたいと考えている次第である。
 が、私がマルチを休業しているこの二〜三年のあいだに、ベトナム休戦以後アメリカに台頭しはじめた新しいジェネレイションたちが、積極的にマルチアンプをとりあげる姿勢をみせはじめた。本誌発行の HiFi STEREO GUIDE の号を追ってみると、この間の推移がよくあらわれていて興味深い。’74−’75(VOL・1、昭和四十九年十一月発行)では、エレクトロニック・クロスオーバー・ユニットは、ゴトーユニットのCF−1と、はイオニアのSF850と、それにソニーのTA4300Fの三機種しか載っていない。その呼び方も、「チャンネルデバイダー」となっている。
 ところがそれから六カ月後に発行されたVOL・2(五十年七月)では、A&E、サンスイ、JBL(♯4350等専用)の三機種が前三者に加わり、さらにそれから一年後のVOL・4(五十一年八月)では、それまで「特殊アンプ」の項に一括されていたものに新たに ELECTRONIC CROSSOVER NETWORK のタイトルがついて、十一機種に増えている。VOL・5(五十一年十二月)でマーク・レビンソンのLNC2(58万円)という超精密級が加わって全部で十三機種になり、先ごろ発行されたVOL・6(五十二年七月)でその数は一拠に十八機種に増えている。しかもなお、この特別号でとりあげられている十九機種にみられるようにこの種の製品は増加の一途をたどりつつある。
 これを、七〇年以前の一時にみられたような一時の流行とみることは妥当ではない。というのは、いま発売されつつあるクロスオーバー・アンプの大半は、総体にかなり内容の高度な、つまりふつうのLCネットワークでは性能の面で不満を感じている本格的な愛好家のために企画された製品であるということだ。このことから、マルチアンプ化が、ブームというよりはもっと本質的なクォリティの向上をめざしていることがはっきりしてくる。
 この背景を支えるのは、一方ではセパレートアンプの積極的な開発にみられるアンプリファイアーの内容の高度化、そしてもう一方は、スピーカーユニットの研究が近年急速に進んだことによって、LCデヴァイダーからエレクトロニクス化することによる効果が、以前よりいっそう顕著に聴きとれるようになったこともあげられる。またさらに、プログラムソースを含めて周辺機器のクォリティの向上もその大きな裏づけになる。
 ただお断りしておくが、何が何でもマルチアンプ化することをわたくしはおすすめしない。少なくとも、ふつうのLCネットワークによるシステムに音質の上ではっきりした不満または限界を感じるほどの高度な要求をするマニア、そして、後述のようなたいへんな手間とそのための時間や費用を惜しまないようなマニア、そしてまた、長期的な見通しに立って自分の再生装置の周到なグレイドアップの計画を立てているようなマニア……そう、この「マニア」ということばにあらわされるような、相当にクレイジイな、そしてそのことに喜びを感じる救いようのない、しかし幸せなマニアたちにしか、わたくしはこのシステムをおすすめしたくない。むしろこの小稿で、わたくしはアジテイターを務めるでなく、マルチアンプ化に水をさし、ブレーキをかける役割を引きうけたいとさえ、思っているほどだ。

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