ソナス・ファベール Guarneri Homage

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

このイタリアのメーカーは、まさに工房と呼ぶに相応しい。特にヴァイオリンの名工の名前が付けられたオマージュ・シリーズは同社を主宰するフランコ・セルブリンの思い入れが作らせた入魂の作品。気の遠くなるような入念な手仕事によるエンクロージュアは芸術品だ。音は明晰かつ豊潤で音楽が生き生きと躍動する。

アヴァロン Arcus

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

アメリカのアヴァロンはティールと並び現代アメリカ・スピーカーメーカーの代表的な存在。この製品は同社の中核を担うミディアムサイズのもので、ノーメックスとケブラーの複合材による22cm口径ウーファーは、この上のエクリプスと同じものだが、トゥイーターはチタン製逆ドーム型。すっきりと明るい高解像度の音だ。

アクースティック・ラボ Stella Opus (Lacquer)

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

ボレロ・シリーズの馴染みの深いスイスのメーカーの最新製品である。同シリーズは今年、全面的にステラ・シリーズに入れ代わったが、これはその上級機種である。従来のボレロ・グランデに相当するものだ。美しいエンクロージュアとチューニングの巧みなバランスの音がさらに洗練され、いっそうの特性向上が感じられる。

BOSE 901WB

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

前面に1基、背面に8基のユニットを持つ、この901シリーズこそ、BOSEスピーカーシステムの基本的コンセプトが体現されたモデルであり、今も創業以来、ユニットの改良を重ねて常にトップモデルとして存在させているのは立派である。このWBは美しい仕上げのシリーズ最高のモデルである。実にユニークで素晴らしい。

タンノイ Turnberry/HE

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

プレスティッジ・シリーズの中では手頃な価格の製品だが、100リッターの内容積を持つ。天然無垢材によるクラシックで上質のエンクロージュアはディストリビューテッドポート型である。25cmデュアル・コンセントリック内蔵の本機はスターリングの系譜である。

ソナス・ファベール Concerto

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

伊ソナス・ファベール社は工芸的とも言える上質のシステムを作るメーカーだが、これはその中では普及型のブックシェルフ機である。とは言え、やはりエンクロージュアはウォールナットの無垢材で皮張りの本体を両サイドから挟み込んだ手の込んだものであり美しい。ぴりっとしたエッジとグラマラスな中低域が魅力だ。

ダリ Evidence 470

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

デンマークのダリの代表機種と言ってよいポジションにあるトールボーイ型の新製品。このメーカーらしいバランスのよさが特徴であるが、これは質も高い。ブックシェルフ並みの床の専有面積ながらトールボーイの利点を生かし、音のスケール感は大きいし、このタイプにあるこもりがちな不明瞭さはなく、解像力もいい。

ダリ Menuet Royal 2

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

’95年発売のデンマークの製品でコンパクト・ブックシェルフ型の傑作と言っていい。メヌエットの上級機で良質のチェリーのつき板張りのエンクロージュアは品位が高いし仕上げも上質である。11cm口径ウーファーはポリプロピレン製で、トゥイーターはソフトドーム型。小型スピーカーの生命であるバランスが絶妙だ。

BOSE 314

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

20cm口径のウーファーをベースにした3ウェイ3ユニット構成のスピーカーシステム。同社の214をスケールアップしたもので、ボーズ独自のステレオ・ターゲッティング・トゥイーターは、指向性可変のダイレクト・リフレクティング方式で臨場感の豊かな再生を聴かせる。

ビクター SX-500DE

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

オブリ型ドームをトゥイーターに採用し、20cm口径ウーファーとの2ウェイでまとめられた中型のブックシェルフシステム。この大きさとしては異例のワイドレンジ感と情緒的な音の魅力を兼ね備えるものだ。500シリーズ初のバスレフ・エンクロージュアのチューニングが成功している。

BOSE AM-5III

菅野沖彦

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

サテライトスピーカー+アクースティマス・ベースボックスというボーズ独自のシステムは常に進化している。これは’98年発売のものでサテライト部が音質的に向上し、より豊かな再生を可能にした。置場所に限界のある6畳以下のスへースで威力を発揮するが、かなり広い部屋でも外見から信じられないほどのスケール感の大きな再生が可能。

BOSE MDW-1

井上卓也

ステレオサウンド 133号(1999年12月発行)
特集・「ジャンル別・価格帯別 ザ・ベストバイ コンポーネントランキング798選」より

家具調のデザインの採用でイメージを一新したウエストボロウシリーズ用MDデッキである。誰にでも使いやすくするコンセプトに基づき、機能を制約した開発は、とかく機能の多さを優先しがちなMDデッキのなかでは注目したい。さすがに、完結したシステム対応モデルだけに、明るい活気のある音は心地よく充分に楽しめる。

ソニー TA-E1, TA-N1

井上卓也

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「TESTREPORT ’99 話題の新製品を聴く」より

 ソニーとフィリップスが共同開発したスーパーオーディオCD(以下SACD)は、DVDオーディオとはことなるフォーマットの、次世代の新しいピュアオーディオのプログラムソースである。現在のCDフォーマットは、PCM方式で44・1kHzのサンプリング周波数と16ビットの量子化でアナログ信号をデジタルデータとして記録・再生を行なう。高域周波数のフォーマット上の再生限界は、20kHzとなっているために、アナログLPフォーマットのほうが、単純に高域レスポンスがすぐれていることになる。したがって、CD再生ということでいえば、再生系のアンプやスピーカーは、従来のアナログLP再生用でも、なんら問題はないといえる。
 ところが、今回のSACDでは、1ビットDSD(ダイレクト・ストリーム・デジタル)方式で、サンプリング周波数は、2・8224MHzと高い手法が採用されている。これは原理的に約1・4MHzまで高域の帯域を伸ばすことが可能。しかしかりに高域の再生限界が100kHzであっても、アンプ、とくにパワーアンプは、30kHz程度以上のフルパワー再生は難しく、その意味では、単純にSACDの登場を喜んではいられないともいえる。
 今回、ソニーがSACDプレーヤー発売にあわせて発表したセパレート型アンプが、プリアンプTA−E1およびステレオパワーアンプTA−N1である。
 TA−E1は、SACDの最大の特徴である高域の再現を最優先させるため、必要最小限の機能に絞り、信号の流れを単純かつ最短にするための内部レイアウトが採用されている。
 メカニズムの基本となるシャーシは、ベース部に10mm厚アルミ板と2mm厚の銅板2枚を積層した構造である。7mm厚のフロントパネルと、10mm厚とフロントパネルよりも厚いリアパネルは、ともにアルミ系の非磁性体を採用している点が特徴といえる。また、トップパネルの2分割構造からもわかるように、信号系と電源系とを、構造的に分離・独立した点も大きな特徴。
 信号系には、アルミ合金製金属基板に耐熱絶縁処理を行ない、銅の回路パターンおよび表面実装した部品をもつメタルコアモジュールを採用。これは熱バランスがよく、振動にも強いという特徴をもつという。
 さらに、高域周波数特性と位相特性にすぐれた新開発リニアフェーズ回路を採用し、音質的にもっとも重要なボリュウムは、コンダクティヴプラスティック抵抗型で、そのハウジングは直径50mmの真鍮削り出し加工製である。
 電源部は、セラミックケース入りのアモルファス電源トランスを採用。整流ダイオードからの入力端子と、増幅部への出力端子とを分離構造とした、3端子型電解コンデンサーの搭載にも注目したい。
 TA−N1は、重量16kgのヒートシンクを左右に配置し、15mm厚のフロントパネル、10mm厚のリアパネルによるフレーム構造が特徴。回路構成は、プリアンプ同様のメタルコアモジュールをプリドライブ段に使用している。また、出力段には、オーディオ専用非磁性金メッキ処理が行なわれた、パワーMOS−FETを各チャンネル5個並列接続で使用。
 電源部は、重量13kgのNF(非焼成)セラミックハウジングに収められた、容量1・5kVAの新トーラストロイダル電源トランスと高速大容量ダイオード、4N高純度のアルミニウム電極箔をもつ電解コンデンサーで構成される。
 試聴は、CDソースと、スピーカーにB&Wのマトリクス801S3を使用した。スッキリと伸びた広帯域型の見事なレスポンスをもったアンプだ。音の粒子は細かく磨かれ、粒立ちがよく、このタイプとしては異例の表現力豊かな楽しい音を聴かせる。
 音場感情報はひじょうに豊かで、SN比の高さが活かされた見事なまとまりである。高剛性筐体採用のため、設置方法で音の変化が激しい点は要注意。

CSE A-3000

菅野沖彦

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「SPUND SCOPE」より

 オーディオの周辺機器には様々なものがあって、にわかには、どれを信じていいやらと惑わされることが多い。「君子危うきに近寄らず」ではないが、日頃はできるだけ、そうした自分に明確に判断できないものは避けている。とはいえ、何かのチャンスで使ってみて、わずかでも効果があると無視できないのが、この道に狂ったものの人情であろう。音というものは、瞬間、直感、実感しかない抽象の世界だからである。
 じつは最近、珍しいものに出会った。スピーカーの周囲の空気をマイナスイオン化することで音がよくなるという、信じていいのやら悪いのやら……、つまり僕の知識では、その動作原理は理解困難なものなのだが、しかし、文字通り、論より証拠、機会が与えられたので聴いてみることにした次第。
 それが、ここにご紹介するCSEのA3000というトゥイーターシステムである。わが家でも本誌試聴室でも、これをつなぐとたしかに音が澄んで、魅力的になるのを体験してしまった! これを実際に体感した以上、否定するわけにはいかない。
 無論、なにかをすれば音は変る。問題はよく変るか、悪く変るかの判断である。
 トゥイーターは最近輸入されたスイス製の「エルゴ/AMT」というヘッドフォンが採用しているものと同じハイルドライバーを搭載。トゥイーターとしては、メインスピーカーにあえばいいユニットだと思う。僕の家ではJBL/075にパラレルにつないで実験したのだが、再生帯域15kHz〜30kHzをもつこのユニットは、うまくつながった。しかし、それは別にどうということはない。ただたんに、「いいトゥイーターがあらたに一つ見つかった」というだけのことで、マジックはないのである。
 問題は、これが音声信号に同期してその発生量を変化させるマイナスイオン発生器をもっていることだ。かつてない代物である。つまり、ポイントはマイナスイオン化によって音がよくなるという現象の真偽である。そこでトゥイーターの接続をはずして、イオン発生器だけを動作させて音を聴いてみたのだが、これがいいのである! 音が明らかに、独特の柔らかさ、滑らかさ、清々しさに変って聴こえるのだ。
「スピーカー周辺の空気をマイナスイオン化することの効果である!」と、開発者である、クリーン電源システムでおなじみのCSEの真壁社長はいわれるのだが、そんなものであろうか? さらに、「振動板の微小振動を妨げている原因は、振動板周辺の空気の粘性にある。その空気をマイナスイオン化すれば、粘性が低減して微小振動が生かされる」のだそうだが、理論的な証明はまだできないともいわれるのだ。
 したがって、商品としてはトゥイーターシステムとして発売されるのであろうが、しかし、マイナスイオン化による効果を経験すると、音声信号同期式の「マイナスイオン発生器」単体で少しでも安く発売されるほうが有り難いと、私は思うのだが……。

アキュフェーズ P-1000

菅野沖彦

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「EXCITING COMPONENT 注目の新着コンポーネントを徹底的に掘り下げる」より

 日本における真の意味でのオーディオ専業メーカーといえる存在はいまや数少ないが、アキュフェーズは創業以来、脇目も振らず、高い理想と信念で、オーディオ技術と文化の本道を、独立独歩、誇りを持って毅然と見続けているメーカーである。
「たとえ、それが量産の産業製品であるにしても、良きにつけ悪しきにつけ、製品には人が現われる。その背後に人の存在や、物作りの情熱と哲学の感じられないものは本物とはいえないし、そのブランドの価値もない。物の価値は価格ではなくその情熱と哲学、それを具現化する高い技術である」
 というのが、昔からの私の持論だ。人といっても、それは、必ずしも一人を意味するのではなく、企業ともなれば、複数の人間集団であるのは当然だが、その中心人物、あるいは、その人物によって確立された理念による、明確な指針と信念にもとづくオリジナリティと伝統の継承が存在することを意味することはいうまでもない。
 アキュフェーズというメーカーは「知・情・意」のバランスしたオーディオメーカーであると思う。これはひとえに創業者で同社現会長の春日二郎氏のお人柄そのものといってよいであろう。個人的な話で恐縮だが、春日氏は私が世間に出てオーディオの仕事を始めた昭和30年頃にお会いして以来、もっとも尊敬するオーディオ人である。技術者であり歌人でもあり、もちろん、熱心なオーディオファイルでもある春日氏はすぐれた経営者でもある。長年にわたり、春日無線〜トリオ(現ケンウッド)という企業の発展の中心人物として手腕を発揮されてきたが、初心である専業メーカーの理想を実現すべく、規模の大きくなったトリオを離れられ、創立されたのが現在のアキュフェーズだ。
 すでに周知のことと思えるこれらのことをあらためて書いたのは、ここにご紹介する新製品であるP1000ステレオパワーアンプの素晴らしい出来栄えに接してみて、その背後に、まさにこの企業らしさを強く感じさせるものがあったからだ。
 P1000のベースになったのは’97年発売のモノーラルパワーアンプM2000と’98年発売のA級動作のステレオ・パワーアンプA50Vである。これらのアンプはアキュフェーズの新世代パワーアンプの存在を、従来にもまして高い評価を確立させた力作、傑作であった。
 この世代から、すぐれたパワーアンプが必要とする諸条件の中でアキュフェーズがとくに力を入れたことの一つが、低インピーダンス出力によるスピーカーの定電圧駆動の完全な実現であった。ご存じのようにスピーカーのボイスコイル・インピーダンスは周波数によって大きく変化するし、また、スピーカーは原理的にモーターでありジェネレーターでもあるために、アンプによって磁界の中で動かされたボイスコイルは、同時に電力を発生しそれをアンプに逆流させるという現象を起こす。パワーアンプが安定した動作でスピーカーをドライブして、そのスピーカーを最大限に鳴らし切るためには、これらの影響を受けないようにすることが重要な条件なのである。
 われわれがよく音質評価記事で「スピーカーを手玉にとるように自由にドライブする……」などと表現するが、これを理屈でいえば前記のようなことになるであろう。
 アキュフェーズは、このパワーアンプの出力の徹底した低インピーダンス化こそが理想の実現につながるという考え方をこの製品でも実行している。低インピーダンス化にはNFBが効くが、スピーカーの逆起電力がNFBのループで悪影響をもたらすので、出力段そのものでインピーダンスを下げなければならない。
 またスピーカーのボイスコイル・インピーダンスの変化には、出力にみあう余裕たっぷりの電源回路を設計・搭載しなければならない。現在のスピーカーはインピーダンスが8Ωと表示されていても周波数帯域によっては1Ωまでにも下がるものが珍しくない。これを全帯域で完璧に定電圧駆動するとなると8倍の出力を必要とすることになる。つまり、8Ω負荷で100Wという出力表示をもつアンプでは、負荷インピーダンスが1Ωになった時、800Wの出力段と電源がなければ十全とはいえないということになる。このような出力段と電源の余裕がなければ、プロテクションが働き、音が消えることはなくても、最高の音質を得ることはできないであろうというのがアキュフェーズの考え方である。事実、堂々たるパワーアンプでも、簡単にプロテクション回路が働いてしまう場合もある。自信がもてなければ安全確保が優先するのもやむをえない。いいかえれば、一般的な8Ω100Wと表示されたプリメインアンプなどでは、その1/8の10W少々が実用範囲だといえるかもしれないのだ。それでも4Ω以下とインピーダンスが下がるほど、発熱が辛い。だからプロテクション回路が働くわけである。これがなければ出力素子が破損する。
 これが、P1000でアキュフェーズが訴求する最重要項目で、このためにこのパワーアンプの出力は8Ω125WW+125Wだが1Ω1kW(実測値1250W)が保証される。コレクター損失130W、コレクター電流15Aの素子11個のパラレルプッシュプル出力段構成は、カレントフィードバック回路とともにアキュフェーズのお家芸ともいえる技術を基本としている。
 これらの素子や回路を搭載する筐体、ヒートシンクがフェイスパネルとともにみせるこのアンプの風格は堂々たるものであるだけではなく、繊細感をも兼ね備えていて、そのオリジナリティが、じつに美しい日本的なアイデンティティを感じさせるものだと思う。それは作りの高さ、精緻な質感によるもので、海外製品とは、趣をことにする魅力を感じさせる。そして、その特質はサウンドにも顕著に現われていて、力と繊細さがバランスした独特の美の世界を持っていることを聴き手として嬉しく思う。なにかと同じような……、ということは、けっしてメーカーにとってもユーザーにとっても好ましいものではあるまい。
 ヴェルディのマクベスのプレリュードにおけるオーケストラの深々とした低音に支えられた力強いトゥッティ、サムエル・ラミーのバスの凛とした歌唱、ピアノはやや軽目のタッチに聴こえるが、透明感は素晴らしい。ホールトーンの漂いと抜けるような透明感も豊かであった。
 清々しい響きには濃厚な味わいの表現にはやや欠ける嫌いはあるが、これが日本的な美しさとして生きていて、ツボにはまると海外製品にない、あえかな情緒が心にしみる音触である。

ラックス C-10II

菅野沖彦

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「EXCITING COMPONENT 注目の新着コンポーネントを徹底的に掘り下げる」より

 ラックスというメーカーは日本のオーディオ専業メーカーとして最古の歴史と伝統を持つことはご存じの通り。同社の社歴は、そのまま、わが国のラジオ、オーディオ産業の発展の歴史を語るものといってもよい貴重な存在だ。多くの経営的な困難を体験しながらも、初心を忘れず、ひたすらアナログ高級アンプを中心に磨き続けてきた不屈の精神には感服せざるを得ない。
 現会長である早川斎氏は先代の築かれたこの仕事を天職として、全生涯をかけ一路邁進し続けてこられた人である。氏はオーディオを高邁な趣味としてとらえ、その製品には徹底的にこだわり抜く社風を築かれてきた。したがって、ラックスの製品には、まさに入魂ともいうべき作り込みの精神が伝統として脈々と流れているのである。
 いまや、マネージメントのトップ自身が真にオーディオ・マインドを身につけておられるという日本のオーディオメーカーは少なくなってしまった。もともと特殊な趣味であるオーディオが、1960年代あたりから大きくスケールアップして産業化し、わが国の高度経済成長にともなって一部上場企業化するところが多くなりはじめて以来、オーディオ専業メーカーの体質は変りはじめたのである。それにともない、レコード・オーディオ文化も爆発的に大衆化し、本誌の読者諸兄にとってのオーディオは、頭に「本格」の2文字をつけなければラジカセやミニコンポなどと、区別ができないような時代になった。
 大衆化自体は結構なことだし、産業の発展も喜ばしいことには違いないのだが、本来のオーディオの核心が希薄になっては、喜んでばかりもいられない。まことに痛し痒しといった感があるが、ラックスやアキュフェーズのような企業にとっては嵐に巻き込まれたような戸惑いがあることも否めない。しかしこの環境下での新製品C10II、またすでに発売されたパワーアンプB10IIをみると、ラックスらしい磨き込みが如実に感じられ、頼もしい限りなのである。
 高級アナログプリアンプC10IIは、従来モデルのC10が、1996年の発売であるから3年日のリファインでありヴァージョンアップである。今回は、とくにあらたなローノイズ・カスタム抵抗器の採用と回路定数の全面的な見直し、外乱ノイズへの対策などにより、さらなるS/Nの向上がはかられたという。プリアンプのサウンドにとって決定的な影響を与える要素はすべてといってよいが、なかでも素子の持つ物性は、その影響が大きい。
 C10で開発された、例の多接点式精密アッテネーター(スーパー・アルティメット・アッテネーター)は58接点の8回路4連式のもので、これに取りつけられる456個の抵抗のすべてが一新されたわけである。このアッテネーターでは信号経路には2個の抵抗が入るだけであるから、その純度はきわめて高い。個人的には音楽のフェイドを段階的に行なうのは、けっして好きではないし、接点間ではわずかながらノイズが発生する。
 しかし、今、あえてこの芸術的ともいってよい、手間暇とコストのかかるアッテネーターにこだわるところが、いかにもラックスらしく貴重である。これらのリファインメントは、たんにS/Nの向上としてかたづけるわけにはいかないもので、その音質のリファインも顕著で、プリアンプのもつ魅力を再認識させられるほど、いい意味での個性を感じさせられた。
 プリアンプに限らず、オーディオ機器はすべてがことなる個性をもっているが、メインプログラムソースがCDの時代になってプレーヤーの出力がラインレベルなるとプリアンプ不要論が台頭してきた。このため、オーディオファイルの多くが、不便を承知で、プレーヤーとパワーアンプ間にはアッテネーターだけを入れて使うことが、いい音への近道だという短絡的、かつ音の知的理解に偏向しているようである。
 また、プリアンプのあり方に対しても「ストレート・ワイアー・ウィズ・ゲイン」という、いかにも説得力のありそうな、非現実的な理想論を現実論にすり替えて掲げている例が多いようである。音は頭で考える前に、先入観抜きの純粋な感性でとらえ、判断しなくてはならないことはいうまでもあるまい。
 各種の入力切替えに、いちいちパワーアンプのスイッチを切って抜き差しするというのでは、まさにストレート・ワイアー症候群である。そのストイックな心理状態もわからなくもないが、とくに現在のようにメディアが多彩になれば、これらの入力を自由に切替え、スムーズに音楽再生をコントロールすることは必要ではないだろうか?
 また、プリアンプによって、しかるべきバッファー効果とインピーダンスマッチングが得られるものでもあり、プリアンプを使うことで音がより良くなるということは、プリアンプのもつ音の個性と嗜好の関係以外にも理由のあることなのである。
 さらに、有効なトーンコントロールやイコライジングというオーディオならではの便利で効果的なコントロール機能も大切だ。これらを使いこなすこともオーディオ趣味の醍醐味であろう。プログラムソースの録音の癖や部屋のピーク、ディップをそのままにしてケーブルだけを変えるより、よほど効果的なのである。
 こういうコントロール機能をもつプリアンプを、私はオーディオシステムのコックピットと呼んで、システムには絶対必要な存在であると考えている。プリアンプ不要論などは、浅薄な電気理論だけで、オーディオを知らない人のいうことだろう。プリアンプの選び方と使い方こそ、その人のレコード音楽の演奏センスであり、オーディオセンスだと私は考えている。
 C10IIは入力が全部で8系統ある。アンバランスは負荷50kΩの6系統、バランスは100kΩの2系統である。出力はアンバランス300Ωとバランス600Ωの2系統が用意されている。トーンコントロールはトレブルのターンオーバーが3kHzと10kHzの切替え、バスのそれも300Hzと100Hzが選べる。
 これを的確に使えば、かなり広い対応ができるはずで、先述のようにケーブル交換以上に、オーディオファイルにとっては有効な音の調整ツールである。
 なにがなんでも電気的にはいっさい余計なものを廃し、スピーカーシステム、あるいはプレーヤーやアンプの設置だけで、音楽的にいい音が得られるとは思えない。それらは基本的に大切なことではあるが、それだけで音を自身の理想に近づけられるほど、オーディオは単純ではない。
 パソコンに例えれば、OSと同時にアプリケーションソフトが機能してはじめて有効に使えるように、オーディオにおいても、CDのような音楽ソフトの重要性はいうまでもないが、オーディオ機器のもつ電子機能への理解と習熟が、いい音を獲得するためには必要であることも知って欲しい。
 オーディオにおいて電子機能を利用することを頭から邪道だとするほうが間違っている。本来、電子機能による録音再生がオーディオであることを考えてみれば明白ではないか。無論、何事もその乱用は慎むべきで、的確にたくみに使いこなすことこそが肝要なのである。
 ところで、このプリアンプの音だが、まず、音触の自然さがあげられる。従来の音より楽音の質感がリアルである。いかにもラックスらしい個性的魅力という点ではオリジナルのC10のほうを好む人もおられるかもしれない。しかし、このレゾリューションの高い音はあきらかに細部のディテールがより精緻である。
 オーケストラを聴くとエネルギーバランスは標準的なピラミッド型よりやや鋭角、つまり中域が締った端正な印象を受ける。B10IIとの組合せはアキュフェーズP1000より低音が豊かになり、高音は繊細な感じの、よりワイドレンジに変化して聴こえたが、パワーアンプとの組合せで多彩に変化するようだ。多くのパワーアンプで試聴したわけではないが、P1000、B10IIの他、アキュフェーズA50V、マッキントッシュMC2600などでの印象である。ドヴォルザークのドゥムキー・トリオの冒頭のメナヘム・プレスラーのピアノやキャスリン・バトルのコロラチューラソプラノでは高域の倍音が豊かで美しく、繊細の極みといいたいような美音であり、鳥肌が立つように感じられたものだ。

ステラヴォックス ST2

菅野沖彦

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「TESTREPORT ’99 話題の新製品を聴く」より

 ステラヴォックスというブランドはかつてスイスの精密メカニズム技術を活かして作られたプロ用のアナログ・テープレコーダーで有名であることは、本誌の読者なら知っておられるであろう。デジタル時代になってからはDATレコーダーが99%完成した時点で経営が頓挫して、残念ながらついに陽の目をみることができなかった。
 じつは、このブランドはゴールドムンドを主宰するミッシェル・レヴァション氏が所有するもので、ゴールドムンドの日本代理店であるステラヴォックス・ジャパン社の社名の由来ともなっている。したがって、ここ数年は、商品のないまま、この日本の輸入代理店の社名としてわが国のオーディオファイルには広く知られていたという面白い存在のブランドだ。
 このD/Aコンバーターは、そのステラヴォックス・ブランドの復活第1弾である。プロ機のメーカーが作ったのだからプロ用なのだが、この製品、幅15cm、奥行き24cm、高さ5・4cm、重量は1・5kgで、拍子抜けするほど、小さく、さりげない筐体にまとめられ、価格もけっして高くはない。
 しかし、その音を聴くと、どうしてどうして、なかなかなものである。アキュラシーだけではなく独特のみずみずしい魅力にさえ溢れた音なのだ。
 なぜ大方の単体D/Aコンバーターがあれほどの大型で重量級の筐体なのか? と思わせるほど、その音質の品位の高さに驚かされた。小型であることのメリットを活かしたD/Aコンバーターといっていいだろう。つまり、小型だから剛性も高いしシグナルパスも短く、表面積も小さいので外部の影響は少ない。中身はハイテクのチップだからこれでじゅうぶんともいえるのではないか?
 デジタル入力は同軸2系統、バランス1系統。アナログ出力はアンバランスとバランスがそれぞれ1系統と、シンプルきわまりない。回路はゴールドムンドのDA4モジュールによるものである。

ソニー SCD-1

井上卓也

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「待望のSACDプレーヤー第1号機ソニーSCD1を聴く」より

 現行CDを超える情報量をもつ、いわゆるスーパーCDの登場は待望久しいものがあるが、現在、2つの方式が提唱されているスーパーCDのうち、ソニーとフィリップスがCDに続き、ふたたび共同開発を行なったスーパーオーディオCD(SACD)が、この5月に発売された。
 個人的には、SACDに対しては、82年のCD登場のときと同様に、ピュアオーディオ用の非常に情報量が多いプログラムソースが誕生したという単純な受け止め方をしており、当然のことながら、現行CDに替わるものではなく、CDと共存していく新しいプログラムソースであるはずである。
 80年代初めにCDが誕生したときと同じく、SACD、DVDオーディオを含めて、プログラムソースを作るソフト側にも再生するハード側にも何ら問題はない、との発言を公式の場で聞いたことがあるが、はたしてそのとおりであるのか、少なからず疑問があるようだ。
 原理的な高域再生限界をサンプリング周波数の半分とすれば、リニアPCM方式のDVDオーディオでは、96kHzサンプリングで48kHz、192kHzで96kHz、SACDでは約1・4MHzと想像に絶する値になるわけで、この際だって優れた超高域再生能力を、いかに、より素晴らしい音楽を聴くために活用できるかが重要である。
 そこで、注意しなくてはいけないのは、従来の可聴周波数限界といゎれた20kHzまでを再生するのと同様に、例えば、100kHzまでをフラットに再生しなければならない、と考えることである。
 確かに音楽を、より原音に近似して聴くためには、100kHzあたりまでのレスポンスを考える必要があるという論議は、古くモノーテルLP時代から真面目に行なわれていたことである。次世代のプログラムソースであるSACDとDVDオーディオはともに、フォーマット的には100kHzまでを収録できるだけの器として出来上がったわけで、これは、今世紀末の非常に大きなエポックメイキングなオーディオ史に残る快挙ではある。しかし、可聴周波数限界といわれる20kHz以上の再生は、単純に考えるよりもはかかに多くの問題を含んでいるようである。
 単純に考えても、40kHz付近の帯域では標準電波のデジタル放送が行なわれていることからわかるように、20kHzを大きく超える領域の信号は、例えばスピーカーケーブルから空間に輻射されることになる。また、同じ筐体の内側に2チャンネル再生ぶんの回路を収納すれば、超高域のチャンネルセバレーションに問題が生じることになり、現在のアンプの筐体構造では解決は至難と思われ、将来的にはモノーラル構成アンプのリモートコントロール操作の方向に進み、コスト高につながるであろう。
 とくにパワーアンプは、30kHz以上でも可聴帯域内と同様の定格出力を得ようとすると、出力素子の制約が大きいため、ハイパワー化(数10W以上)の実現は至難だろう。
 20kHzを超える高周波(スピーカーで再生すれば超音波)との付き合いは、オーディオ始まって以来の未体験ゾーンだけに、動植物、酵母菌などの微生物、人間自体への影響も含めて考慮すれば、ある種の帯域コントロールは必要不可欠ではなかろうか。
 幸いなことに、SACD/CDコンパチブルプレーヤーSCD1は、50kHz以上のレベルを抑え、100kHzで−26〜30dB下げるローパスフィルターの付いたスタンダード出力端子と、さらに高域から効くローパスフィルターを備えたカスタム出力端子の2系統を備えている。
 SACDでは超高域のコントロールはフォーマット上で規定されておらず、再生機側でケース・バイ・ケースで高域再生限界を決められるのは、適材適所的な、将来に多くの可能性を秘めた見事な解答と思われる。
 SCD1は、単純に一体型CDプレーヤーとしても、トップランクの実力を備えた見事な新製品である。電気的、機械的にSN比の高い静かな音は、CDに記録されていながら聴きとりにくかった空気感や気配を聴かせながら、従来のソニー製品とは一線を画し、音楽の表現が活き活きと楽しく表情豊かに聴かれるのが楽しい。同社CDP−R10やDAS−R10のような重厚.さはないが、一体型の枠を超えた注目の新製品である。
 SACDの再生では、反応が速く音場感情報が多い点では、ゾニーのフルシステムでの音が新時代のデジタルサウンドの魅力を聴かせる。本誌リファレンスシステムでは、基本的に音像型の音で安定感はあるが、セッティングによっては薄味の音になりやすい。SACDの再生はソースそのものの情報量が多いだけに、機器の設置方法は非常に重要になる。

ソニー SCD-1

菅野沖彦

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「待望のSACDプレーヤー第1号機ソニーSCD1を聴く」より

 SACDがついに具体的に商品として、その姿を現わした。本誌の発行元であるステレオサウンド社では、オーディオファイルでもある原田社長が、ことのほか熱心に、早くからその誕生を切望されていた。従来のCDの足を引っ張るから、あまり騒がないで欲しいといった批判もあったと聞くが、それはあまりにも近視眼的な意見だと思う。私は、この技術革新の時代を全面的に肯定するものではないが、ここ15年間のデジタル技術の進歩は目覚ましい。現在のCDフォーマットはすでに16年以上も経過している。1982年当時のパソコンと現在のそれを比べてみれば、その差は天と地ほどもある。16ビット/44・1kHzというフォーマットは当時としては精一杯のものであったとしても、決して十全とは言えなかったもので、フォーマットで音の可能性の上限が決まるデジタルにあっては、そのままでよいはずはないだろう。デジタル技術の進歩により、プロ機器の上位フォーマット化やビットストリーム技術が生まれ、それに伴ってより高密度のマスター録音情報を16ビット/44・1kHzの器のなかに収録するマッピング技術なども、CDの音質を向上させてきたことはご存じの通りである。CDも当初からするとたいへん音がよくはなった。しかし、それはあくまでCDの限界のなかでのことで、基本的なブレークスルーを果たすための上位フォーマットの誕生は時間の問題であったと言うべきであろう。
 このような技術的な背景を持つにいたった今日の時点で、CDフォーマットに加え、新たなスーパーCDフォーマットが生まれたのは、自然な流れと受け止めるべきだろう。それがこのSACDの登場であり、やがて発売されるDVDオーディオでもある。
 私は、CDが誕生した1982年秋に、すでにその必要性を感じていたほどだし、1985年夏に上梓した拙著《オーディオ羅針盤》(音楽之友社刊)のP164『CDの完成度』の項のなかで「スーパーCD」の登場を希望的にほのめかしてもいる。
 以上の経緯から、私自身がSACDをどう考えているかがお解りいただけるのではないだろうか。
 しかし、これが即、音の良さや音楽の感動につながるという短絡的思考は危険である。これは、あくまで、メディアの持つ物理的な可能性が拡大したというだけの話であって、よい音、よい録音音楽には、素晴らしい演奏の存在と、高い質とセンスによる録音制作の持つウェイトのほうがはるかに大きいという、いつの時代にも当然の事実の認識こそが大切である。
 今回、SACDプレーヤーの歴史的1号機であるSCD1を聴いたが、時期的に第1回新譜の一部による試聴という限られた条件では、本当の実力は解らないと思う。私の場合、たまたま、自身が制作した北村英治と塚原小太郎のデュオ・アルバム『ドリーム・ダンシング』を、DSD方式のハードディスク録音機からのCDと、ソニーとSMEがテスト・プレスしてくれたSACD(非売品)の2枚を比較できた。プリ・マスタリング工程は違うため、厳密なものではないが、その差をある程度の確度を持って聴けたのは幸いであった。
 結論から言えば、その差は僅差とも大差とも言えるもので、ソニーの出井社長の言葉を借りれば、凡庸なワインと最高のそれとの微妙な味わいの差と言っていいだろう。解る人にはかけがいのない貴重な差であり、解らない人には違うような気がするという程度かもしれない。しかし、長年培った本誌と読者とのコンセンサスからすれば、これは明らかに大差と言っていい。
 わが家ではマッキントッシュのXRT20と私流の4チャンネル・5ウェイシステム、本誌の試聴室ではSCD1と同時発売のソニーのフルシステムで聴いたのだが、いずれのシステムによっても差は歴然であった。しなやかな高音域の質感、透明な空間感、そして、低音の音触、音色感の明確な判別はまさに旬の味わいだ。また、このSCD1のノーマルCDプレーヤーとしての出来栄えも素晴らしいものだと思う。強いて欠点と言えば、アクセスが遅いことで、CDとSACDを切り替えた時には30秒以上もかかる。しかし、実際にわが家で1週間ほど使った現在では、これも必ずしも欠点とは言えないような気がしてきた。つまり、試聴などの場合はともかく、音楽を真摯に聴こうとする者にとっては、この音の出るまでの時間が心の準備につながり、集中につながるからである。あまりにも日常的にイージーになっていたCDプレーヤーが、いつの間にかわれわれから奪っていたサムシングを取り戻してくれることを実感したものである。50万円のCDプレーヤーとして、SACD機能をおまけと考えても、これは高く評価できるプレーヤーであった。

リン CD12

黒田恭一

ステレオサウンド 131号(1999年6月発行)
「ようこそ、イゾルデ姫!」より

 きみは、きっと、少し疲れていたぼくを生き返られせるために来てくれんたんだ。最初の音をきいて、思わず、そう呟かないではいられなかった。

 待った。注文してから、ともかく待った。首を長くして、長いこと待った。待ちつづけているときのぼくの気持はイゾルデ姫の到着を待つトリスタンの気持ちに、どことなく似ていなくもなかった。メーカー側にそれなりの事情があってのこととは充分に想像できたが、待てど暮らせど来ぬ人を待ちつづけるのは、やはり、ちと辛かった。
 ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の第3幕は寂寥感ただよう前奏曲が演奏された後に始まる。幕が上がると、菩提樹のそばの寝椅子に深傷う負ったトリスタンが横たわっている。牧童の吹く牧笛が寂しげにひびく。トリスタンの従者クルヴェナールは牧童の問いに答え、「あの女医さんに来てもらわないことには……」とため息まじりに呟く。クルヴェナールはイゾルデだけがトリスタンの傷を癒せるという意味で、イゾルデを「女医さん」といったのである。
 イゾルデは、先刻ご承知のとおり、アイルランドの王女である。しかし、ぼくの持っていたお姫様はアイルランドからではなく、スコットランドから着くはずだった。トリスタンは、哀れ、イゾルデが着く前に息たえてしまうが、ぼくはしぶとく生きていて、スコットランドからはるばるやってきてくれたお姫様との夢のハネムーンを体験することができた。
 ここ数年、むくむくと頭をもたげそうになるオーディオへの興味と関心をぼくは力ずくでおさえこんできた。ぼくが新しいオーディオ機器を導入しなかったことに、特にこれといった理由があったわけではなかった。むろん、語るにたるような心境の変化があったわけでもなければ、身辺に特別の異変が起こったいうことでもなかった。敢えて理由をさがすとすれば、次々に登場する新旧とりまぜてのおびただしい数のさまざまなCDとの対応におわれていて、オーディオ機器への興味と関心をいだく気持のうえでの余裕がなかったことがあげられるかもしれない。
 それに、もうひとつ、これはおずおずと告白することになるが、自分の部屋で普段なっている音にそこそこ満足していた、ということもあったように思う。いかにあたらしく登場してくるCDとの対応におわれていても、音の面で具体的に、どこか不満なところが一ヵ所でもあれば、それなりの養生を試みていたにちがいなかった。これといった不満もなく、それなりに満足していたこともあって、ぼくは音の面でぼくなりに平穏な日々を過ごしていた。
 しかし、『ステレオサウンド』第126号の表紙を目にした途端、ぼくの泰平の夢を一気に破られた。オーディオのハードウェアに関してはいつまでたっても不安内なオーディオ音痴のぼくの、かねてからの、まず容姿に惚れてしまう悪しき習性で、そこに写っていたリンのソンデックCD12のあまりの美しい姿に魅了されてしまい、茫然自失の体だった。そのときのぼくは『トリスタンとイゾルデ』第1幕で愛の妙薬を飲んだ後のトリスタンさながらの状態で、しばしソンデックCD12にうっとりみとれているよりなかった。
 ぼくはそのとき、スチューダーのA730にワディア2000(の内部をアップグレードしてもらったもの)をつないで使っていた。で、発売になってからさほど時間のたっていない時期にA730を使いはじめたので、使用期間はかなりの長さになっていた。おまけに、ほとんど一日中仕事で酷使されつづける運命にあるぼくのところのオーディオ機器は、以前、友人にいわれたことばを借りれば、「タクシーで使われた車」のようなものだから、その段階でA730がかなり疲れていたとしても不思議はなかった。
 しかし、ぼく自身、日夜懸命におのれの使命をはたしつづけてくれているA730に対して感謝こそすれ、その時点で、これといった具体的な不満は感じていなかった。そのうえ、このところしばらく、ちょっとした事情があって、友だちを部屋に呼んで一緒に音楽をきいてすごす機会がほとんどかったこともあって、当然、A730をふくめての現在使っている機器との、ということはそこできこえる音とのまじわりはこれまで以上に親密さをましていた。週に一度や二度、明日の予定を気にしながらも空が白むまでさまざまなCDに耳をすまして陶酔の時をすごすことだってなくもなかった。
 もっとも、至福の時をすごさせてもらっているとはいっても、それまで長いこと馴染んできたオーディオ機器との親密な関係の、つまりそこからきこえる音との「慣れ」がおのずと安心を呼び、ひいてはききての感覚を次第に鈍化させていく危険には、オーディオ音痴はオーディオ音痴なりに、気づいていた。それやこれやで、きわめて漠然としたものではあったものの、A730との別れの時期が近づきつつあることはぼんやりと意識しはじめていた。

『ステレオサウンド』第126号の表紙でソンデックCD12の姿を目にしたのは、ちょうどそんな時期だった。表紙でとりあげられているとなれば、当然、次号では紹介記事が掲載されるにちがいないと考えて、第127号を待った。はたせるかな、第127号では菅野沖彦さんがソンデックCD12について「クルマ」にたとえて巧みに書かれた文章を読むことができた。自動車の運転の出来ない不調法者にも、菅野さんのかかれていることの意味がよくわかった。
 それからしばらくして、おそらく、ぼくはなにかの機会にソンデックCD12についてはなしていたのであろう、畏友HNさんから電話をもらった。その音に対するストイシズムに裏うちされたきわめて高尚な好みと、オーディオに対しての徹底した姿勢のとり方から、ぼくがひそかに、これぞオーディオ貴族と考えているのがHNさんである。このことは自信をもっていえるが、以前、HNさんの部屋できかせていただいた音は、ぼくがこれまでに実際に耳にしたもっともゆたかで、気品の感じられる音だった。それだけに、HNさんが電話口でソンデックCD12についてはなしてくれたことばはきわめて説得力があった。
 ぼくがソンデックCD12の導入を決意しかかっているときに、あたかもだめ押しをするかのように、もうひとり、ぼくの背中を押してくれた友人がいた。耳のよさと感性の鋭さではいつも敬服しているKGさんである。KGさんもまた、きいた条件が充分ではなかったがといいつつも、ソンデックCD12の素晴らしさをことば巧みに語ってくれた。
 実際に自分の耳で音を確かめもしないで、『ステレオサウンド』第126号の表紙で見せられ、菅野さんの記事とHNさんやKGさんからの電話でソンデックCD12の導入を決意したぼくは、お見合い写真と仲人口だけでお嫁さんを決めたようなもだった。しかし、今思うと、ちょっと不思議な気がしなくもないが、ぼくはソンデックCD12に結婚の申し込みをすることにいささかの不安も感じていなかった。
 ソンデックCD12とのお床入りはチェチーリア・バルトリがヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコで録音したアルバム『ライヴ・イン・イタリー』(ロンドンPOCL1853)の21曲目、ジャン=イヴ・ティボーデのピアノでうたっているロッシーニの「スペインのカンツォネッタ」を選んだ。テアトロ・オリンピコは、ルネッサンス様式とでもいうのか、なんとも興味深い建てられ方をした劇場で、以前、一度、いったことがある。そのテアトロ・オリンピコでライヴ録音されたリサイタル番はバルトリの本領が遺憾なく発揮されていることもあって、大好きなアルバムである。そのうちから「スペインのカンツォネッタ」を選んだのは、歌も歌唱も好きだったからではあるが、むろん、それだけが理由のはずもなかった。
 チェチーリア・バルトリはリズムをきざむピアノにのって、まずメッツァ・ヴォーチェで、いくぶん艶めかしくうたいはじめる。しかし、音楽は次第にテンポをはやめていって熱気をおび、もりあがるにつれて、バルトリの声も引きしばられる弓さながらに、はりをましていく。バルトリはメゾ・ソプラノといっても、『アイーダ』に登場するドラマティックな表現力を要求されるアムネリスのようなタイプの役柄を持役にできるような声ではなく、ロッシーニの『セビリャの理髪師』のロジーナやモーツァルトのオペラのスーブレット役を得意にしている抒情的な声のメゾ・ソプラノである。
 リリックな声のメゾ・ソプラノにもかかわらず、はったときに独特の強さをあきらかにできるところにチェチーリア・バルトリの素晴らしさがある。「スペインのカンツォネッタ」ではそのあたりの声のうつり変わりが端的に示されている。ソンデックCD12とのお床入りで「スペインのカンツォネッタ」を選んだのは、なによりもまずそこをきいてみたかったからだ。
 南の国イタリアが実らせることができる果実を思わせるチェチーリア・バルトリの瑞々しい声がふたつのスピーカーの間からすーとのびてくるのをきいて、ぼくは久しぶりにきれいな空気を胸いっぱい吸いこんだような気持になった。バルトリがメッツァ・ヴォーチェでうたう声からはった声に次第に変えていく、その変化をソンデックCD12はこれまで以上に自然に、無理なく感じとらせてくれて、ぼくを驚かせた。A730できいていたときには、はった声がいくぶん硬く感じられなくもなかったが、ソンデックCD12できく変化はより納得できるものだった。
 強い声と硬い声では、当然のことながら、似て非なるものである。しかし、硬くひびく声はともすると強い声とききとられがちである。「スペインのカンツォネッタ」をうたうチェチーリア・バルトリがその後半できかせている声は強い声であっても、硬い声ではありえない。そこで声が硬くひびいてしまったら、バルトリの誇るべきもっとも大切な部分が、つまりバルトリならではの魅力が感じとりにくくなる。
 ぼくはバルトリの声が考えていたとおりにきこえて大いに納得し、お見合い写真と仲人口だけでお嫁さんを決めた自分がまちがっていなかったことを知ってうれしくもあった。しかし、ソンデックCD12とお床入りをして知ったのは、むろん、それだけではなかった。ぼく普段、アポジーのディーヴァからほぼ3メートル40センチほどのところできいているが、それまでのきこえ方は、敢えてたとえるとコンサートホールの1階席でのきこえ方に近かった。しかし、ソンデックCD12にしてからは音像がいくぶん低くなって、2階席できいているような感じになった。いかなる理由でそのようなことになったのか、ぼくに理解できるはずもなかったが、2階席的なきこえか方になった、その変化はぼくにとって大いに好ましかった。
 当然、ソンデックCD12とのお床入りがバルトリの「スペインのカンツォネッタ」だけですむはずもなく、アッカルドのひいているロッシーニの弦楽ソナタのアルバム(フィリップスPHCP24024~5)とか、大好きなイタリアの歌い手オルネラ・ヴァノーニの新旧さまざまなアルバムとか、あるいはこのところきく頻度がきわめて高いキップ・ハンラハンのCDといったように、思いつくままにCDをとりだし、手当たり次第にききまくって、スコットランドのイゾルデ姫へのご挨拶をつづけた。
 嬉々としてソンデックCD12へのご挨拶をつづけながらも、ぼくのところにお輿入れしたイゾルデ姫に耳をすますぼくには若干の探るような気持もなくはなかった。鼻をクンクンさせて相手を嗅ぎあう散歩の途中に出会った2匹の犬さながらに、ぼくはさまざまな、すでにきき馴染み、そこできける音楽を熟知しているCDをかけながら、ソンデックCD12の出方をうかがった。
 いずれのCDも、それまでとは,特に音のきめ細かさと腰のすわりといった点で微妙にちがうきこえ方をして、なるほどと膝をうったり、へえ! と目を丸くしたりした。これがこうなら、あれはどうなるんだと、傍目にはなんのとりとめもないように思われるにちがいないCDのしり取りぎきをしていて、ソンデックCD12とのお床入りの夜に、結果として、もっとも時間をかけてきいたのがキップ・ハンラハンのCDだった。
 キップ・ハンラハンのCDできける、特に『ALL ROADS ARE MADE OF THE FLESH』の4曲目「the September dawn shows itself toElizabeth……」できわだっている「妖しい」ともいえるし、「危うい」ともいえる音楽このところずっと気になっていることもあって、ほかのアルバムの気に入りのトラックをとっかけひっかえきいた。「the September dawn shows itself toElizabeth……」でもうたっているジャック・ブルースの嗄れ声のただよわす妖しくて危うい雰囲気の影響も小さくないと思われるが、キップ・ハンラハンの音楽をつつんでいるのは深夜の大都会の陰りの濃い抒情である。
 少なくともぼくには、キップ・ハンラハンのアルバムのことごとくが、音楽的な興味のみならず、オーディオ的な冒険にみちみちているように思われていたので、そのようなCDがソンデックCD12でどのようにきこえるのか、とても興味があった。それだけに、そこできける音に納得できなかったら困るなと思う気持もあったが、むろん、きいてみないことにはおさまりがつくはずもなく、ソンデックCD12でききはじめてから5、6時間もたったころからききはじめた。ソンデックCD12は重層的にいりまじるキップ・ハンラハンの音楽の特質を見事にあきらかにしつつ、おそらく音のきめが細くなったことが微妙に関係しているのであろう、深夜の大都会の陰りのある抒情の陰影をより濃くしてくれていた。

 そうやってソンデックCD12でさまざまなCDをきいているときのぼくは、どことなく弟の嫁となった若い娘の立ち居振る舞いを尖った目で見る小姑に似ていなくもなかった。しかし、なんともうれしいことであるが、ぼくのところに嫁入りしてきたスコットランドのイゾルデ姫はいかなる局面でも粗相することなく、鬼千匹の小姑をもすっかり魅了して、夜が更けた頃にはぼくに小姑の尖った目で見ることを忘れさせてくれた。
 さらに、ソンデックCD12はその使い勝手の面でも、思いもかけない素晴らしさでぼくう感動させてくれた。このCDプレーヤーでは指先でトレーを押すと閉まってプレイ状態になるが、その状態のままさらに指先でトレーを押すと、押した回数によってききたいトラックを選ぶことができる。つまり、3回トレーを押せばトラック3、5回押せばトラック5がきけるといったように、である。これを作った人のお母さんが高齢のために、ほとんどのCDプレイヤーについている操作キーをあつかうのが辛く、お母さんの頼みで考案された昨日だと教えられた。使っているうちにますます、この昨日のありがたみがわかるようになった。
 そして、ソンデックCD12には使い勝手の面でもうひとつ、使い手に対するさりげない親切な思いやりがほどこされていた。トレーを開けたまま2分たつと、自動的にトレーが閉まる機能である。埃が機器の内部に進入するのをふせぐための機能と思われるが、次のCDを選ぶのに時間がかかり、うっかりトレーを開いたままにしてしまうこともときにはなくはないずぼらな男にとってはなんとも親切な配慮である。あらためて書きそえるまでもないが、使い手が望みさえすれば、さらに細かい指示は心地よい重さのリモコンですることも可能である。

 かくして、ぼくのところのCDプレーヤーの定位置に、それまでのA730をしりぞけて、ソンデックCD12がおさまった。そこで、あらたな悩みができた。これまでお世話になっていたA730の、その後の処遇である。この悩みは今回に限ってのことではなく、機器をとりかえたときにつきものである。
 長年使ってきて、これといった欠点があったわけでもないのにコードをはずした機器にはそれなりの冠者の気持もあって、冷たく引導をわたし、すげなく扱うのも気がひける。かといって、使わなくなった機器をかかえこんでおけるほどぼくの部屋は広くないから、やはり、手放さなければならなくなることが多い。しかし、今回のA730の処遇については前もって一応の心づもりができていた。ぼくは机のそばに、放送に使うCDのタイミングを確かめたりするために使う、つまり一種のオーディション用の小さな装置をおいているが、そこで、つまりフォームではたらいてもらうことにしていた。そんなこともあって、長年の友との辛い別れが回避できて、いくぶん気が楽だった。

 リンのソンデックCD12との新しい生活がはじまって1ヵ月ほどがたった。CDプレーヤーにもエージングといったようなことがあるのであろうか、スコットランドからぼくのところに嫁いできたイゾルデ姫は日々、その美しさをましているように思われる。菩提樹のそばの寝椅子に横たわって、牧童の吹く寂しい牧笛をきいていたはずのトリスタンではあったが、現金なもので、最近はCDをきく時間も以前以上にふえ、自分ではそのきき方さえいくぶんかは鋭くなれたようにさえ思っている。
 オーディオ機器の一部をとりかえることによって、しばしば、使い手の意志とは関係なく、好んできくCDが変わってしまうということが起こる。ずいぶん前のことになるが、スピーカーをとりかえただけで、それまでのピアノのLPを好んできいていたにもかかわらず、気がついたら、ヴァイオリンのLPをきく機会がふえていたといったようなことさえ経験したことがある。スコットランドのイゾルデ姫もまた、そのようなかたちでぼくの音楽の楽しみ方に踏みこんでくるようなことがあるのかどうか、今のところ、まだ新しい生活をはじめて間もないこともあって、わからない。

 気がついたら、窓の外がかすかに白みかけていた。テーブルには棚からとりだしてききあさったCDの山がいくつもできていた。しめくくりに、もう一度、チェチーリア・バルトリのうたう「スペインのカンツォネッタ」をきいた。長い時間、緊張してきいてきたのでかなり疲れていたはずだったが、ぼくはとてもハッピーだった。
 きみのおかげで、ぼくは生き返ったよ。そう呟いて、ソンデックCD12との最初の日を終えた。

フィデリックス SH-20K

菅野沖彦

ステレオサウンド 130号(1999年3月発行)
「いま聴きたい魅惑のコンポーネント特選70機種」より

 数年前に本機SH20KをSS編集部から借用して試用した経験があったが、その効果が忘れられず、今回あらためて使ってみた。結果として現在のCD再生にとっては「レコード演奏家」のツールとして有効なものであることを確認したので、ここで取り上げることにしたものである。これを使ってみると、楽音に含まれる音響成分の周波数帯域として、20kHz以上の成分が、われわれ人間の耳と脳の感じる自然感、あるいは快感にとって重要であることが認識されるであろう。このことはここ数年実験しているスーパーCDの聴感テストでも明白な事実である。DVDオーディオやSACDは、周波数帯域を従来の20kHzの録音限界を大幅に拡張するだけではなく、ダイナミックレンジやレゾリューションをも飛躍的に向上し得るものであるから、その効果は高域にとどまらない。低域の解像度及が上がることによる音質改善も私自身、実際に録音再生を通して確認している。しかし、ハードとのバランスでスーパーCDがプログラムソースとして豊富に提供されるには、未だかなりの時間が必要と思われるし、現行CDの豊富なレパートリーは、永遠に貴重な音楽の宝庫である。したがって、デリケートな耳の持ち主は、それらをよりよい音で聴きたいのは当然であろう。20kHz以上の高域ノイズ成分を加えるというと、ノイズという言葉に知的拒絶感を起こす人が多いようだが、音を知性だけで聴いてはいけない。第一、それらの超高域成分は、まったく同じとは言わないが、自然音響に含まれるものも、人間の聴感能力からしてみても、もはや、限りなくノイズに近い成分と考えられる。先入観は禍いのもとである。そして、ここでも音楽と絵画にとっては音と色自体には、優劣、正邪はないと言えるのである。感じて欲しい。

ダイナベクター SS-Adp

菅野沖彦

ステレオサウンド 130号(1999年3月発行)
「いま聴きたい魅惑のコンポーネント特選70機種」より

 ダイナベクターのSS−Adpは本誌でも試用記事をご紹介した製品で、同社の社長で、波動工学の専門家でもある富成博士の独自の新しい音響波動理論に基づく、SSS再生のためのプロセッサーである。詳しくは、本誌127号の記事を参照していただきたいが、富成博士はホール空間における演奏が創成する複雑な音響成分の解析の結果、従来、立体感の要素として知られてきた位相差や時間差とはまったく別の、異なる音速現象に着目され、これが空間感はもちろんのこと、人間の耳による音響体験のリアリティに重要な効果を持つことに注目された。これは今日までまったく無視されてきた未解析の要素と言ってよぃであろう。したがって、これは今日広く普及しているDSPによるアンビエンス・プロセッサーとは別物なのである。このプロセッサーを、音楽音響再生の総合的な理解とセンスで上手に使えば、アンビエンス効果が表現上必要な性格を持つカテゴリーの音楽にとっては、素晴らしい効果が得られると同時に、顕著な音質改善にもつながる「レコード演奏家」のためのツールである。音楽は音による無限のイメージ表現であるから、空間感を拒否する音楽もあるし、音楽にとっては素材である音の美しさというものは、画家にとっての色彩と同じであって、音や響き自体、そして色自体には優劣、正邪はない。音楽によっては間接音や残響感を拒否するものもあることはいまさら言うまでもないことである。録音コンセプトにもよるが、ホール音響の響きが大切なクラシック音楽の多くにあっては、現在の2チャンネル・ステレオ録音には極めて豊かな音響成分が収録されているソースが少なくない。このプロセッサーは、そこからリアリティに重要な成分を創成するもので、それはマルチチャンネルでは不可能なアンビエンス成分が得られるものなのである。

オルトフォン SPU Classic GE

井上卓也

ステレオサウンド 130号(1999年3月発行)
「いま聴きたい魅惑のコンポーネント特選70機種」より

 SPUに始まったオルトフォンは、現在かなりのモデルがラインナップされており、そのおもな製品は、SPU系の数多くのヴァリエーションもデルと、振動系を軽量化し、おもに空芯コイルを採用したハイコンプライアンスモデルに分かれ、校舎の発展形として、新構造磁気回路採用の新モデルが今年登場することが予定されている。
 SPUクラシックGEは、SPUシリーズ中では比較的に地味なモデルであるが、可能な限りの材料を集め、オリジナルSPUの復刻版を作ろうとする、温故知新的な開発思想そのものが、ひじょうに魅力的と言えるだろう。
 ’87年に発表されたこのGEは、針先にはオリジナルの円錐針ではなく、楕円針を採用している。これは、オリジナルSPU独自のウォームトーンの豊かで安定感のある音は、それ自体は実に素晴らしいものがあるが、新しいプログラムソースが求める音の分解能、つまりシャープさに不満が残り、これをカバーするには、楕円針がナチュラルでふさわしく、音的にも十分満足できる成果があったからである。
 現在のSPUクラシックGEは、Gシェル材料が変更され、樹脂から金属になり、かつてのポッテリとした柔らかさはないが、逆に現代的な音の魅力を得たようだ。アナ
ログディスクが存在する限り、SPUが手元にないと落ち着かないのが本音。

ソニー MDR-R10

菅野沖彦

ステレオサウンド 130号(1999年3月発行)
「いま聴きたい魅惑のコンポーネント特選70機種」より

 環境さえ許されるのならヘッドフォンを常用することは薦めない。ヘッドフォン・ステレオは、スピーカーによる空間を介在させて聴く自然さに欠けるからである。そのかわり、室内空間が持つ固有の音響現象による悪影響がない利点がある。私がヘッドフォンを使うのは、条件が限られた録音のモニターとしてか、スピーカーの置かれた室内の音響条件の影響を回避して、プログラムソースそのもののバランスをトータルにマクロ的に確認したい時である。そうは言っても、譬えスピーカーシステムよりヘッドフォンのほうがバランスのいいものが多いとしても、何でもいいわけではない。ある意味では、限られたサイズと、音源が鼓膜から至近距離にあるという特殊な条件のもとでバランスを取るということには、設計製造上、また別の難しさがある。肉体に直接密着させるものだけに、スピーカーとは違う配慮も必要である。スピーカーのコーンやダイアフラムと呼ばれる振動体には、材質の持つスティフネスやロス、そして比重といったような固有の物性が、音の質感にデリケートだが重要な影響として現われることがよく知られているが、ヘッドフォンについても例外ではない。いや、むしろ耳もとで振動するものであるだけに、より敏感に音のタッチ、風合いといった質感が感知されると言ってもいいだろう。
 こうしたことにこだわり抜いて作られたのが、このソニーのMDR-R10という高級かつ高価格のヘッドフォンである。バイオセルロースの振動膜、響きがよくて軽量な、樹齢200年以上の樫材のハウジングを使うという徹底ぶりだが、価格が3300種近くある同種製品中の最高のものであろうと思われる。発売以来10年以上経つと思うが、その音質の良さとバランスの良さは抜群であり、物としても作り手の気概が感じられるヘッドフォンの逸品である。

ジェフ・ロゥランドDG Model 8Ti HC, Model 9Ti HC

井上卓也

ステレオサウンド 130号(1999年3月発行)
「モデル8Ti/9Tiハイカレント・ヴァージョンの実力」より

 ジェフ・ロゥランドDGのパワーアンプは、ロゥランド・リサーチをブランドネームとした時代から、安定度が高く、しなやかさと力強さを巧みに両立させた音の魅力と、音と表裏一体となった筐体デザイン、精度、仕上げなど総合的なバランスの優れたアンプとして手堅い評価を獲得していた。
 ’92年11月に新製品として登場したステレオパワーアンプのモデル8とモノーラルパワーアンプのモデル9は、従来のモデル5やモデル7Fなどからいちだんと高い次元に発展したモデルだ。電圧増幅投とドライバー段部分には、当時の技術傾向を導入したモジュール化が採用されている。ディスクリートタイプと比べると、一体化されたモジュールは温度的に安定し、シグナルパスの短縮化、外部からの干渉の排除など電気的な利点に加えて、機械的な強度が高く、共振のコントロール、機械的なストレスによる音質劣化防止などの利点があり、メカトロニクスの産物といわれるパワーアンプではメリットの多い方式である。
 モデル8の筐体は、19インチサイズのフロントパネル、両サイドの放熱板、入出力系や電源系を扱うリアパネル、トランスなどの重量物を支持し固定する底板がハコ型に組まれ、これに着脱可能のトッププレートを組み合せた、パワーアンプの定番的構造の設計である。ただし、とかくシャープエッジで共振しやすい放熱板のフィンのコーナーをラウンド処理しているのは、同社製品の特徴。大型電源トランスは筐体中央のリアパネル側にあり、大型電解コンデンサーはフロントパネル側に別ピースのサブシャーシ上に取り付けてある。線材関係で目を引くのは、出力系の配線に銅パイプを使っていたことだ。
 翌’93年2月になると、同サイズの筐体中に鉛バッテリーを4個組み込んだ専用電源BPS8を組み合せたモデル、DC8とDC9が発売される(バッテリー電源部は両者同等)。BPS8は、バッテリーのB電圧が±24Vとやや低いため、完全DC駆動時の出力は、DC8が100W+100W(8Ω)、DC9が100W(8Ω)になる。BPS8は、パワーアンプ電源から充電されるタイプで、完全DC駆動時にはACプラグを抜くことで可能となる。
 究極のDC電源として、鉛バッテリーは管球アンプ時代から一部で実用化されていたが、現実に詳しくチェックをすれば、完全充電時から放電時までにアンプの音は予想を超えて変り、充電量の異なる電池の組合せは音質劣化を伴うなど問題も多く、アンプ電源として長期間安定に働かせるためには、かなりのノウハウが必要だ。しかし鉛バッテリー動作は、アンプ設計者なら一度は試みたいマイルストーンであるようだ。
 同年10月には、筐体設計を完全に一新したモデル8SPが発売された。筐体の主要構造は、分厚いフロントパネルとリアパネルを、同様な厚みの2枚の構造材でII字型に結合した構成である。電源部は、前後をつなぐ厚い金属板間に、2個のトロイダルトランスが横位置に、4本の電解コンデンサーが前後上下に固定されている。
 筐体中央部で構造材によって2分割するこの構成は、いわゆるデュアル・モノ構成の筐体では、もっとも理想的な構造と断言できるが、筐体内空間を伝わる電磁波やシャーシを流れる各種グラウンド電流の相互干渉については効果はなく、依然としてモノ構成とは一線を画したものと考えたい。
 モデル8SPをベースに、入力部にトランスを使うトランスインピーダンス・ディファレンシャルモード増幅を採用した改良版がモデル8Tであり、さらに、新開発のパワーICを各チャンネル12個並列動作とした第3世代の改良版がモデル8Tiである。当然のことながら、モデル9系の発展もほぼ同様ではあるが、一部、内容が前後することがある。
 モデ8および9の技術的な発展改良のプロセスは、入力段モジュール化、入力トランス採用、パワーIC開発、鉛バッテリー電源の導入などの電気的な部分に加え、筐体構造の抜本的設計変更などの、エレクトロニクスとメカニズムの発展改良が相乗効果的に働き合った、いかにもメカトロニクスの産物であるパワーアンプにふさわしい典型的な進化だと言えるだろう。
 モデル8Tiでいちおうは完結したかに思えたが、さらなる飛躍のチャンスが待ち受けていたようだ。モデル8Tiをベースに6チャンネルまで拡大し、トライアンプ駆動を可能としたMC6の開発・発売が、その契機である。
 MC6は定格値では6チャンネルパワーアンプではあるが、低域用は2台のパワーアンプを並列動作させる設計で、実際には8チャンネル分のパワーアンプを内蔵してているものである。この並列動作と通常の動作との計測的、聴感的な比較が徹底して行なわれた結果、使用パワーICを2倍としたハイカレント・ヴァージョン(以下HC)が開発されることになった。並列動作の数を増加しても直流電圧が一定であれば、8Ω負荷時での出力は変らないが、負荷が2Ω、1Ωとなってくると電流供給能力の差が現われ、計測値的にも、聴感的にも、大きな格差が生じてくるようである。
 モデル8TiHCは、パワーICの数は、8Tiの12個並列から24個並列と倍増している。
 設計者のジェフ・ロゥランド氏の見解によれば、2倍の出力供給電流と出力インピーダンスが1/2となる利点に加え、歪率が半減し、特にiM歪みは50%に低減する効果があるという。通常のパワー段のデバイスの数を増す方法では、逆に歪みは若干でも増す傾向があり、スピードも低下する、ということである。ちなみに、パワーICは、1個で賞出力パワーアンプとして働くICパックで、高域特性に優れた小型パワーデバイスが使えるメリットがあるようだ。現実のモデル8TiHCでは、入力部に入力トランスを採用したバッファーアンプがあり、この部分の利得切替で、26dBと32dBが選択可能で、この出力をパワーICが受ける構成である。
 なお、モデル8TiHCも、BPS8電源の使用は可能である。
 モデル8Tiとモデル8TiHCおよびモデル9TiHCの3台を用意し試聴する。
 8Tiは、信号を流してからの経時変化が穏やかで、比較的に早く安定状態に入り、この安定度の高さが特徴である。当初のモデル8は、安定度の高さを基盤にした、ややコントラストを抑えたしなやかな音を聴かせたが、入力信号に対応した力強さも併せ持っていた。8SPでのドラスティックな変化は、音にも劇的な変化をもたらしたが、リジッドなベースと剛体感のある音の骨格を持ってはいるが、それらが決して表面に出ず、聴感上では意識されないレベルに抑えるコントロールの巧みさは、ジェフ・ロゥランドの音の奥ゆかしいところであるようだ。
 8Tiの音でもっとも印象的なのは、抑制的な表現が払拭され、ほどよくエッジが張りコントラストの付いた、ダイナミックな表現力が与えられたことである。もともと優れた増幅系と筐体構造を持つだけに、いかにも音楽を聴いているようなオーディオの楽しさを感じる、この音の魅力は絶大である。
 8TiHCは、コントラストが少し薄くなり、ゆったりとした余裕のある大変に雰囲気のよい音を聴かせる。熟成された大人の風格があり、少々玄人好みであるようだ。
 9TiHCは、8TiHCの内容をいちだんと濃くした音で、異例に鮮度感が高く、反応がシャープ。スピーカーを自由闊達に、伸びやかに歌わせる、この駆動力の見事さは圧倒的だ。