菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
品位の高い再生音。つまり、あらゆるプログラムソースの特徴を見事に再生し分ける。ヴァイオリンのデリケートな音色から、パルシヴなドラムスの音まで、それぞれに生き生きとしたリアリティをもっている。質感は弾性的で肌ざわりのよいものだ。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
品位の高い再生音。つまり、あらゆるプログラムソースの特徴を見事に再生し分ける。ヴァイオリンのデリケートな音色から、パルシヴなドラムスの音まで、それぞれに生き生きとしたリアリティをもっている。質感は弾性的で肌ざわりのよいものだ。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
たくましい明るい音で、ロックやジャズには圧倒的な再生音を聴かせる。その反面、デリカシーやニュアンスを要求すると、やや不満もある音で、弦楽器の高音は、少々粗く、しなやかさに欠ける嫌いがある。大音量で実力を発揮する傾向をもったアンプだ。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
音に勢いのある、明解な再生音で、低音もよく締り密度が高いし、中高域の冴えた再生音も美しい。パワーアンプのプロテクションが、やや安全度の見過ぎか、公称パワーの大きさの割には、低域の大出力に余裕が欠けるようだ。充実した高品位の再生音。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
トリオは、アンプのハイエンド製品の開発には、主張テーマを明確に標榜し、そのテーマにもとづく物理特性を測定限界にまで追求することを開発のバックボーンとしているようだ。忠実な伝送増幅を目的とするアンプにおいて、この姿勢は絶対に正しいといえるだろう。しかし、オーディオの録音から再生までの複雑なプロセスにおける、相互的な複雑な依存性は、あたかも、人生における、がんじがらめのしがらみにも似て、これをトータルな音としてスピーカーから効果を上げることをことを考える時にはそう単純に、一元的にテーマを追求してすむものではないし、時としては部分的独走に終る危険性すらもっている。現在のようにコンポーネント各部が専門的に開発される情況においては、この傾向が時として総合的な音の効果を損ねることに連なるといえるだろう。また、コンポーネント相互の相性などといわれる問題の発生の要因となることも考えられるであろう。そしてまた、リスナーの嗜好との相性がこれにからんでくることを思えば、問題はますます複雑になるのである。専門メーカーとして長いキャリアと豊富な蓄積をもつトリオのことだから、この辺は先刻承知のはずで、そこを、試聴に重ねる試聴によって、試聴者の個性と感性と知性の限界はあっても、出来得る限り普遍性をもった「美しい音」の具現で埋めようと努力しているはずだ。現在のようにエレクトロニクス技術が高度に発達した時点でさえ、アンプによる音の違いがあるという原因の背景は、こうした事情によるものとしか思えない。素子と回路の追求やパーツの選択、配線やコンストラクションのちょっとした違いで音が変るという事実の上で、音の審美と価値感の決定にたずさわる人間の存在の重要性は、今後も失われることはないであろう。
L07MIIの特徴
L07CII、L07MIIの標榜する技術テーマは、同社の、この数年来の追求テーマであるハイスピードアンプの実現であり、それは、100V/μs以上の波形の立上り傾斜、1μs以下のライズタイム、信号の正負両方向のレスポンスの同値と出力の大小による悪影響を受けないこと、リンキングなどの波形の乱れがないことなどである。これによって、全帯域にわたってアンプのダンピングファクターを出来るだけ一定化することにより、良質の音を得るというのが、主張の要旨である。こうして、L05M以来、スピーカーをダイレクトにドライブするという思想、その結果、当然2台のモノーラルアンプという形態のパワーアンプが登場し、それが、そのまま、このL07MIIにも受けつがれている。
L07CIIの特徴
コントロールアンプL07CIIは、左右を極力独立したコンストラクションとし、出力インピーダンスは10Ω以下と低くとって、優れたトランジェント特性を持つ薄型のコントロールセンターである。L07CIIは、この他にも、MM、MC各独立型のイコライザーを内蔵し、各部品は高級なものを選び、細部にも徹底した神経の行き届いたマニアライクな製品となっている。必要な機能は完備したコントロールアンプではあるが、信号系路は音質重視設計でシンプルに構成されている。入力セレクターは、2イコライザーであるので、イコライザー通過後のフォノ1、2をチューナーやAUX端子とスイッチし、微少レベルでのスイッチ接点介在の害を防いでいるし、ボリュウムの選択や使い方にも細かい配慮がなされている。ミューティングリレーで出力をオン・オフにするスイッチを採用しているのも実用上合理的である。使い勝手のよいコントロールセンターといえる。
L07CII+L07MIIの音質
その、ふくよかな音質も、品位の高いものだ。このコントロールアンプは、今回のテストでは単独では試聴しなかったが、すでに、いろいろな機会に単独試聴しているが、プレゼンスの豊かな、良質の再生音を聴かせてくれた。音像の定位や立体感の再現は、そのアンプのクォリティを物語るものといってもよいのだが、このL07CIIの再現するステレオフォニックな空間感覚は、まさに、そのハイクォリティを感じさせるものだ。
ところが……ここからが、前述した、オーディオのしがらみになるのだが、今回の試聴では、どうしたわけか、♯4343をL07MIIでドライブした音からは、L07CIIのよさが、あまり感じられなかったのである。この稿では、あくまで、今回の試聴を中心にした音の印象記を述べなければならないのであるが、あまり、好結果は得られなかったのである。全体に、やわらかい、ソフトタッチの音のよさは感じられたけれど、率直にいえば、むしろ、もったりとした眠い音で、鮮烈な冴えのある音が出てこなかったのである。エネルギーバランスも、中高域に落ち込みが感じられ、拍手の音などが不自然であったし、ヴァイオリンの音色にも、冴えた鋭敏なところがなく、ハーモニックスの成分が、ずいぶん、常識的なバランスを欠いた響きであった。ジャズのビッグバンドのサックスセクションも前へ出てこなかったし、ベースも少々鈍重で、迫力を得るために、つい音量を上げると、響きがやかましくなるといった具合であった。日頃の試聴感と、今回のテストで、かなり大きく違いが出たことにあるが、このアンプは、どうも、コンポーネント相互の組合せによって結果が大きく変るような傾向があるらしい。
井上卓也
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より
オーソドックスなブックシェルフ型スピーカーシステムであるNS1000に対して、そのエンクロージュア仕上げを、ブラックのモニター仕上げとしたNS1000Mは、業務用機器的な性格が強い製品としては、国内初のブックシェルフ型システムであり、その性能と音質の優れていることでは発売以来高い評価を保ち、いわば日本を代表するブックシェルフ型システムである。このNS1000Mでスタートを切ったMシリーズには、その後ブックシェルフ型システムとミニスピーカーシステムの中間的な外形寸法を採用したNS10Mが発売され、外形寸法、価格帯ともに従来にないコンセプトによるものとして性能、音質をも含めて注目され、新しい需要を換起して、ここに新しいマーケットを築き、その後各社から同様な製品が続いて開発される契機を作った。
今回発売されたNS100Mは、Mシリーズの第3弾製品で、外形寸法的にはNS10Mよりワンサイズ大きいが、製品としての性格は、NS1000Mに近く、小型サイズの外形寸法のなかに高度な性能、音質を凝縮して作られた、いわば高密度設計の小型ブックシェルフ型システムである。
ユニット構成は、20cmウーファーにソフトドーム型のスコーカーとトゥイーターを組み合わせた3ウェイ型である。
ウーファーは、外国産の針葉樹系材料を旧来の和紙系統の技術を加味して独自のシート製法により作られた白いコーンに特長があり、4種類の粘弾性体を塗布したロールエッジ、大型ダンパーと直径5・2cmのクラフト紙ボビンに銅平角線を巻いたボイスコイルが組み合わされ、磁気回路は、110φ−60φ−15tの大型フェライト磁石とセンターポールに銅キャップを装着した低歪磁気回路を使っている。
スコーカーとトゥイーターは、NS690以来の伝統をもつエッジ一体成形のソフトドーム型で、繊維には7種類のコーティング材を混合して、表と蓑の両面から50μ厚で塗布し、熟圧成型で仕上げ振動板とし、スコーカー、トウイーターともに同上塗布剤を使用している特長がある。
スコーカーは、口径5・5cmで100φ−50φ−15tのフェライト磁石を使う大型磁気回路と、空気穴のついたガラス繊維を素材としたFRPシートボビンに銅平角線ボイスコイル使用で、f0は400Hz。
トゥイーターは、口径3cmで、鋼クラッドアルミ線をエッジワイズ巻としたボイスコイルは振動板直付けで、70φ−32φ−15tのフェライト磁石採用である。
エンクロージュアは、三方流れ留め組み採用の完全密閉型。ネットワークは、低歪設計の音質重視型で中音高音レベル調整付。
NS100Mは、スムーズな周波数帯域と各ユニットの調和のとれた音色に特長がある。音場空間は十分に拡がり、定位は明確で声のナチュラルさは見事である。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
少し前、これはテクニクスの石井伸一郎氏だったか、それともラックスの上原晋氏から伺った話だったか、ちょっとそこの記憶があいまいだが、おもしろい説を伺ったことがある。それは、こんにちのオーディオアンプは、その最先端では、こんにちの電子工学のほぼ最高の成果をいち早くとり入れて作っているが、その点で、そのオーディオアンプを測定する測定器自体も、アンプの技術水準以上のものであるわけがない。むしろ開発の早いオーディオアンプのほうが、電子工学的には測定器を上まわっているというのが現実ではないか。そうであるのなら、と、ここからは石井氏の説になるが、アンプがアナログ増幅器である以上、測定器もアナログで追いかけていたのではナンセンスではないか。S/Nも、歪も、周波数レインジも、アンプと測定器とが同格の性能であるなら、どうしても、ディジタルその他の全く別のテクノロジーを、測定技法に導入しないかぎり、アンプの動作状態をいま以上に精密に分析することは不可能なはずだ、という説である。
このことに関連して思い出すのはもうひとつ別のあるメーカーの技術社の話で、それは、こんにちのアンプが右のような段階にある以上は、そのメーカーとしては、ある意味で頼りになりにくい聴感を頼りにしてアンプの開発をするという手法を一旦捨てて、アンプとしてあるべき理想の姿についてひとつの仮説(理論)を立てる。その理論は、進歩の時点時点で少しずつ修正しなくてはならないかもしれないが、測定できる部分は測定で、また測定不可能の部分はその時点で最良と思われるひとつの仮説(理論)にもとづいて、あるべき姿に近づけるべく改良を加えてゆく。その改良のプロセスで、仮に、聴感上どういう結果になろうと、いつかその仮説の十全に具現できた暁での音質の改善を信じてアンプを改良してゆく、という話なのだ。抽象すぎてお分かりにくいかもしれないが、それはこういうことなのだ。
アンプを改良してゆくプロセスで、ある段階でたしかに音がよくなってくる。だが、そこから次の段階に進んだとき、理論的には明らかに進歩であるはずなのに、聴感上はどうも改良以前のほうがよかった、というような結果の出ることがよくある。問題はここからなのだが、仮ににそういう結果の出たとき、その理由のはっきり糾明されるでは、中途での改良をやめて元に戻すというのが、一般的に言って商品づくりのうまさであり、また、ユーザーにとってもそのほうがいいはずだ。
だが、右の技術者はそうではない。ひとつの理論が正しいと信ずるに値するかぎり、というよりその理論が違っているという証明のできないかぎり、正しいと信ずる理論にしたがって、アンプの音をその方向に修正する。仮にその音に、以前にくらべてかえってよくない部分が出てきたとしても、めれはもしかしたらアンプ自体の問題でなく、スピーカーやプログラムソースやリスニングルームその他すべての周辺の問題まで含めての疑問であるべきで、周辺機器の矛盾をアンプに負わせるべきではないという説なのだ。
まあ、こういう問題をあまりこまごまと紹介することは、かえって混乱を招くもとになるかもしれないのでほどほどにしておくが、あえてこうした問題にいくぶんのスペースをさいたのは、次項の、新型アンプの試聴の話を受けとめて頂く上で、アンプの開発がいまこういうシビアな段階にさしかかっているということを、知っておいて頂くほうがいいのではないかとの老婆心からである。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
デンオンは、数年以前に、プリメイン型のPMA500、700でその技術のたしかさを強く印象づけて以後、いつまにか方向を転換してしまったのか、最近までの製品は、どことなくかつてのあのぐいぐいと聴き手の心をとらえる音がしなくなってしまっていた。
それが、今回の新型セパレート、PRA2000とPOA3000との登場で、一挙に飛躍をはかったと聴きとれた。PRA2000のほうがひと足先に完成しているが、試作初期の段階では、どちらかといえば今どきこんな音のプリじゃどうしようもない、というような印象だった。ところが、二度めに聴かされたプリプロ(量産直前の生産モデル)機では、一転して、音の質の良さ、鮮度の高さ、解像力と立体感の表現のよさ、あらゆる点からみて、第一級のプリアンプに仕上っていた。
POA3000は、試聴時の製品はプリプロ機なので、量産に移った製品がこの音質を保つかどうかは、いましばらく確認の時間と機会を待たなくてはならないが、しかし現時点での音をひとことでいうと、きわめて上質のウエルバランス、とでも言ったらいいのだろうか。
国産アンプの性能が一様に高い水準に達した現在でも、その音色、音の質(品位、クォリティ)、そしてバランス、音の鮮度(フレッシュネス)、そして音の生きている感じ、などといったいろいろの角度からみるかぎり、満点のつけられる製品は決して多くはない。概して国産アンプの音色は湿り加減、というよりも湿気を含みすぎているようだ。それだからときとしてアムクロンのような、乾いた音の快さを感じるのかもしれない。音の質はよく磨きあげられて粗さはほとんどおさえられているが、それと同時に音の生命感までも抑え込んでしまって、音楽の躍動感、実在感が希薄になってしまうようなアンプも少なくない。バランスという点では、これも概して低音の量感、ほんとうの意味での量感が不足している例が多い。ニセの量感で鳴るアンプはある。けれど音楽を確かに形造る腰の坐りのよい、しかし重くならないで、生き生きとよく反応する機敏さを保ちながら、十分の量感で土台を支える音は、アンプばかりでなく国産の音の最もニガ手の部分だろう。
デンオンがそうした面のすべてをうまく鳴らす、などとオーバーなことはこの際言わないけれど、まず鳴りはじめから、国産らしからぬ、嫌な湿度を感じさせない快く乾いた質感にオヤ? と思わせられる。十分にひずみ感の取除かれた美しい音質だが、某社のようにどこか作りもの的な、まるでノイズストレッチャーを通したかのような人工的な白痴美の音でもないし、反対に血の通わないメカニックな正確さでもない。また、これぞ解像力といったような音の鮮度をことさら誇示するわけでもなく、要するにそれらが過不足なくよくバランスしている。つまり鳴っている音の部分部分に気をとられることなく音楽そのもの、または楽器自体の持っている美しさとその美しさを形造っている音色の特質を、十分にとまではゆかないまでも、こんにちの最高クラスのアンプと比較してもなお、相当の水準で鳴らし分ける。ことさらの作為を感じさせない。音のまとめ方──というより聴かせ方は、アムクロンとも一脈通じるかもしれないが、アムクロンほど即物的でなく、力感と繊細さ、男性的な堂々とした印象と女性的な色艶とが、くどいようだが十分とまではゆかないにしても、対比されつつ鳴ってくる。必要な音が必要なだけ出てくるという感じで、むろんボリュウムを思い切りあげてみても、たとえば「ダイアログ」のバスドラムの音の力感もまず不足はない。たまたま、IVIEの簡易アナライザーで某氏が測定していたところ、バスドラムの低音で、32Hzの目盛が109dB/SPLまで振れた。そういうパワーを鳴らし続けても、聴き手に不安を与えない点もまたみごとといえる。
少しほめすぎになってしまっただろうか。ともかく、パワーアンプがプリプロ機であったから、前述のように量産に入ってからぜひもう一度聴き直してみたいアンプであった。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
エクスクルーシヴはともともパイオニアの最高級品につけられたシリーズ名だが、いまや、そのラインアップが独立して、販売経路も独自のものとなった。しかし、その製品開発のバックグラウンドは、まぎれもなくパイオニアである。このメーカーは、オーディオ専門メーカーとして伝統に輝く名門であるが、企業規模が驚異的に拡大し、大量生産大量販売の態勢をとらざるを得なくなった。そこで、小規模の専門メーカーとして、少数のオーディオマニアとのコミュニケイションを大切にしようとする心意気と、最高級品を開発しテクノロジーの水準を高め、それを量産品にフィードバックしようとする好ましい考え方、プレスティッジ商品を持つことによる有形無形のイメージアップなど、利口なパイオニアなら当然考えるであろう政策から生れたのが、エクスクルーシヴ・ブランドなのだ。そして、このC3a、M4aの前身であるC3、M4、そしてM3といったセパレートアンプが5年あまり前に、このブランドで初めて登場した。今、その製品群はプレーヤーシステムにまで拡大されるに至ったが、おそらく、近々全ジャンルの製品群が顔をそろえることになるのだろう。同社によれば、最新のテクノロジーとクラフツマンシップのバランスの上に立って、「音楽に陶酔する」ことを目的としたロングセラーのハンドメイドの最高級品をエクスクルーシヴ・ブランドの主旨としている。確かに趣味の対象としてのオーディオ製品は当然こうあらねばならないが、この姿勢が単なる政策に終らないように祈りたい。パイオニアがなくなってもエクスクルーシヴだけは残ったというような世の中にでもなったら最高だ。半分冗談、半分真面目にである。これだけの多くの電気メーカーがあるのだから、各々、それぞれ特徴をもち、存在の必然性に支えられて反映すべきだと思うからだ。パイオニアのオーディオ製品作りの実力を見せつけられたC3、M4は5年前から魅せられ、特に、M4については、絶賛し、愛用し続けてきたかのであるが、今度、そのマークIIとでもいうべきa型の登場には、一抹の期待の不安の交じり合った気持をもっていたものである。
C3aの特徴
どちらの製品も、デザイン的には大きな変更はなく、内容的に従来のものを基本として現時点でリファインした製品だ。C3aは豊富な機能を持ったコントロールアンプで、そのオーソドックスなコンセプトは、マランツ♯7に基本を置いたコントロールアンプのクラシックといってよい機能レイアウトを持っている。入力端子は豊富で、フォノ2回路とライン3回路はロータリースイッチで切替式、別にレバースイッチで、フォノとチューナーが切替えて使えるようになっているから、フォノは3回路ということになる。しかし今流行のMC用ヘッドアンプは内蔵していない。C3からC3aになって、ちょっとしたらMCヘッドアンプでもつくのかと思っていたが、それをしなかったことに、私はむしろ好感を持った。これでMCヘッドアンプを入れることになったら、相当な設計変更を要するし、とってつけたようなヘッドアンプ追加なら、しないほうがよいと考えたのであろうオリジナル尊重の気持を感じたからである。パーツ、配線などの地味なリファインにとどめてくれたことはよかったと思う。真の高級品には、頑固さがあるものだ。
M4aの特徴
M4aも同様、細部のコンストラクション、線材、パーツのリファインなど、そして、電源の強化といったベイシックなポイントに手を入れたと聞くが、今流行のDCアンプ構成でも、サーボアンプでもない。たぶん、今回試聴したアンプの中では、もっともオーソドックスなものであろう。このアンプの音を聴くと、いったい、DCアンプのどこがいいのか? という疑問が涌くほどである。A級動作のアンプで、パワーも50W×2だが、その力のあること! 下手なオーバー100Wクラスのアンプに勝るとも劣らぬパフォーマンスを示したのであった。スピーカーのエフィシェンシーが93dBのJBL4343でなら、強烈なダイナミックレンジをもつプログラムソースを十分なラウドネスで鳴らしても、低音のピークが全く安定しているのには驚いた。
C3a+M4aの音質
しなやかで、ふくよか、艶のあるヴァイオリンの音の美しさは、ちょっと他のアンプでは得られない次元の異なる緻密さであり、美しさであった。音色の分解能は秀逸で、ごく微妙な楽器の音色ニュアンスをはっきりと再生し分け、音の粒子の細やかさは魅力的というほかはない。その力感については先に述べた通りだから、あらゆるプログラムソースに品位の高い再生音を聴かせてくれることになる。M4との差を強いていうならば、M4の持っていた中音域の豊麗さが、ややコントロールされてしまったために、その色気の魅力が少々薄れたといえるかもしれない。しかし、全帯域のエネルギーバランスは、M4aのほうが明らかに充実したといえるだろう。この辺はもう好みの領域といってよいもので、普遍性をもって、どちらがよいかをだんていすることは私には困難である。M4の中域の特徴がやや好みに合わない人にはM4aは明らかな改良であろうし、私のように、M4の中域の甘美な、とろっとした魅力が好きな人間にとっては、正直なところ、もう、どっちでもよいという気持である。その分、M4aが、全帯域が高密度化しているからである。M4aのほうへの賛辞が多くなってしまったが、C3aとM4aは、明らかにM4aのほうが魅力がある。唯一の欠点、冷却ファンの音がやや耳障りな点を除いては、そのシンプルなデザインも品がよくて大変好ましいからだ。C3aのデザインは、先にも書いたようにオーソドックスで特に悪さもないが、オリジナリティに欠ける。ツマミ類のバランスもいいとはいえないし、質感と風格にも欲をいう余地があるからだ。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
セパレートアンプを16通りの組合せで試聴した。本来、セパレートアンプというのは、コントロールアンプとパワーアンプが別々のものだから、単独で試聴し、それぞれについてリポートする方法を本誌ではとってきた。今回のように、同一メーカーの組合せだけで音を評価するという試みは初めてであると同時に、一つの組合せ機種について、かなりの字数で述べるというのも、今までにない方法である。したがって、記述内容は、個々の製品について、かなり深く詳しくならざるを得ないと同時に、ただ音の印象だけではなく、製品自体、あるいは、それを作ったメーカーのコンセプトやバックグラウンドについても主観的意見を述べさせていただく結果となった。
私の担当した記述は、エクスクルーシヴC3a+M4a、Lo-DのHCA9000+HMA9500、ソニーのTA-E88+TA-N9、トリオのL07C+L07MII、マッキントッシュのC29+MC2205、スレッショルドのSL10+4000カスタムの6機種について詳述し、あとの機種については音の印象を短くコメントするものであった。本当ならば、この詳述した6組合せ機種については、読者が、製品を目の前にして、あたかもいじっているような気持になる具体的な報告にすべきなのかもしれないが、私としてはそれ以上に、その製品を通して、それを作ったメーカーのコンセプトやバックグラウンドについて私見を述べることのほうが意味があるように思えたので、テストリポートを期待する方には少々、勝手のちがったものになったのではないかという不安がある。何故このような記述になったかというと、セパレートアンプというものは、当然、高級アンプで、そのメーカーの全技術力や音への感性の水準を示すものと解釈出来るし、それを使うユーザーは、プリメインアンプやレシーバーとは違った関心の持ち方であろうと考えたからである。つまり、そのサウンドロジーへの共感があってこそ、わざわざ、セパレートアンプを使う意味もあるのではないかと考えるのである。現在の技術をもってすれば、プリメインアンプで高度な再生を可能にするのになんら不都合はないはずだ。1台数十万円もするセパレートアンプのレーゾン・デートルは、最高度のテクノロジーと、余裕と無駄という犠牲を払っても十分な価値観の充足を得ることのできる素晴らしいぜいたくさにあるといえるであろう。こういう本質を満たす製品は、ただ金をかけただけで作り出せるはずはないだろうし、ましてや、形だけをセパレートにしたというのでは、あまりにもイージーで、お粗末であろう。確固たるフィロソフィーがオリジナリティをもった創造力によって具現されたと感じられる製品でなければ、セパレートアンプの本質にかなったものとはいえないと考えるのである。無論、その理想が完成したものは数少ない。否、未だ皆無かもしれない。しかし、少なくとも、そうした理想の方向にあるかないかは、こうしたハイエンド製品にとって重要なことではあるまいか。リアリストにとっては無縁の存在といってもよい尊いものなのだ。
こういう考え方から生れる、セパレートアンプへの要求は、当然、かなり厳しくなるし、主観的にもなる。また、作るほうも同じように、きわめて個性的な方向へ向くことにもなるだろう。こんなわけで、前述した6種類の組合せについては、かなり勝手なことを述べさせていただいたのである。
今回、16組の、内外のセパレートアンプを試聴して感じたことだが、国産のものと、海外のものとが、まるで、大メーカーの製品と小メーカーの製品という言葉に置き替えてもいいような雰囲気が、そのデザインに、作りに、そして音に現われていたことだ。国産のものは実に手馴れた作りと、キメの細いフィニッシュで、ある意味では完成度が高く、海外のものは、どこかに強い癖があって、武骨で不馴れな作りとフィニッシュのものが多かった。もちろん、それぞれに例外もある。例えば、海外製ではマッキントッシュ、国産ではサンスイのCA-F1、BA-F1がそうだ。マッキントッシュのC29とMC2205は、海外製品の中では抜群に完成度の高いフィニッシュであり、サンスイの二機種は、小メーカーのアマチュア的作品といった未完成さが感じられる。はっきりいって、この二機種は、AU-X1というプリメインアンプの水準を上廻るものとはいい難く、セパレートアンプとしてサンスイのラインアップの中での存在の必然性はどれほどのものなのだろうか。また、ダイヤトーンのDA-P15Sというコントロールアンプも、私の考えるセパレートアンプとしての本質をもっているとはいえない雰囲気であったし、あのマーク・レビンソンのML6のようなモノーラル・プリアンプの不便でエキセントリックな強烈な個性の製品が、あれほどの高価格で商品性を持っているという現実とのひらきの大きさには驚かされる。因みにダイヤトーンのDA-P15Sは7万4千円で、マーク・レビンソンのML6はペアで、98万円である。この価格のひらきを正統化する価値の差をなんと説明したらよいだろう。前述した、私の考えるセパレートアンプの存在の必然的理由で納得していただけるだろうか。
今回試聴した組合せの中で、最も好ましい音で鳴ってくれたものは、国産ではエクスクルーシヴのC3aとM4a、海外製品ではマッキントッシュのC29とMC2205であった。おもしろいことに、C3aとM4aは、日本のオーディオ界では時代遅れ? といってよい非DCアンプであり、C29とMC2205は保守的で古いと一部に評きれるマッキントッシュ製品であった。この音のよかった国産と海外の2組合せ機種は、作りと仕上げの美しさでも、今回の製品群の中でトップクラスであったことは、はたして偶然といい切れるのであろうか。
先にも述べたように今回は、コントロールアンプとパワーアンプのペアで音を評価したために、どちらかが好ましくないものは他方が損をする、という結果になっている。セパレートアンプは、その組合せによって、かなり音がちがってくるから、その本来の性格からすると、今回の方法に不備な点も認めざるを得ない。単独で評価をすると、また、違った結果が出てくるものもあるはずだ。しかし、それは、今回の評価の好ましくなかったものについて特に言えることで、今回、推薦とした組合せについては、コントロールアンプ・パワーアンプ、それぞれ単独でも、高品位で価値の高いものといってよいと思う。
求心的に音を探求し、真に価値あるものを求める読者諸兄にとって、なんらかの御参考になれば幸せである。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より
プリメインアンプの中級クラスとでもいえる価格の製品。しかしこの価格を頭において試聴をはじめるとオヤッと驚かされる。鳴らしているスピーカーはペアで116万円だが、百万円をこえるスピーカーを6万5千円のアンプで鳴らしたらどうなるか。おそらく多くの人がはじめから不安感を抱くと思う。わたくし自身も、このクラスのアンプで♯4343がどの程度鳴ってくれるか自信がなかった。しかし接続を終えボリュウムを上げて鳴ってきた音は、そんな心配を一瞬忘れさせる、たいへん好ましい音だった。滑らかで、独特に広がる雰囲気をともなった美しい音に、まずびっくりさせられた。
むろん時間をかけて聴き込むと、たとえば「ザ・ダイアログ」のドラムスとベース、「魔法使いの弟子」のオーケストラのトゥッティで、音のクォリティやスケール感の上から、やはりローコストなアンプだということがわかる。しかしずいぶん聴き手を楽しませる、たいへんうまいまとめ方をしたアンプといえる。ヤマハのところで作為という言葉がなにげなく出てきたのだが、その意味でA805にも相当作為があるといってよいだろう。この価格のプリメインを即物的に設計・製作したら、これほど聴き手をひきつける好ましい雰囲気は出ないはずだ。細かな点を指摘すれば、バスドラムやスネアのスキンがピシッと張っている感じが少し湿り気をおび、いわゆるスカッとした音とは違う。反面、弦やヴォーカルはとても滑らかなイメージを展開することで、聴き手に好感をもたせるアンプだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
IV
70年代に入ってもしばらくは、実り少ない時代が続いたが、そのうちいつともなしに、アメリカで、ヴェトナム戦争後の新しい若い世代たちが、新しい感覚でオーディオ機器開発の意欲を燃やしはじめたことが、いろいろの形で日本にも伝わってきた。ただその新しい世代は、ロックロールからヒッピー文化をくぐり抜けた、いわゆるジーンズ族のカジュアルな世代であるだけに、彼らの作り出す新しい文化は、それがオーディオ製品であっても、かつてのたとえばマランツ7のパネル構成やその仕上げの、どこか抜き差しならない厳格な美しさといったものがほとんど感じられず、そういう製品で育ったわたくしのような世代の人間の目には、どこか粗野にさえ映って、そのまま受け入れる気持にはなりにくい。
そういう違和感は、音質面でも同様に感じられた。アメリカでは、前述の不毛の時期にたとえば大型のフロアータイプのスピーカーはほとんど姿を消して、大半が、手抜きの量産型ローコスト・ブックシェルフスピーカーになり果てていた。そういう手軽な音で育った若い世代たちは、とうぜんの結果として、かつての50年代の黄金時代にアメリカの築いたあの物量をぜいたくに投入した最上の音と、そういう音を鳴らした名器の歴史の大半を知らずに、ただ新しい電子工学の成果をオーディオに反映させているにすぎなかった。前項でもふれたマランツ、マッキントッシュ、JBL以降、マーク・レビンソンの出現までの、ほぼ5年以上のあいだに作られたアメリカのトランジスターアンプの音質に、ほとんど聴くべきものは何もない。まるでコンピューターのように感情を拒否するかのような、正確かもしれないが無機的な冷たさを持った音が、音楽の愛好家を感動させるはずがない。むろんそんな音をアメリカのアンプばかりが鳴らしていたわけではない。日本のアンプもまた、少し前の一時期は、そういうおもしろみのない音を鳴らす製品が多く、しかしそれでいながら、測定データが悪くないことを理由に、設計者側はその音のどこかおかしいという我々の意見をみとめようとしない時期があった。
*
アンプが電子工学の産物である以上、アンプの音質のちがいを、できるかぎり科学的にとらえ、解析してゆきたい。けれど現実にアンプの研究を続けてゆくと、実際にスピーカーをつなぎ、レコードをかけて聴いたとき、確かに誰の耳でも聴き分けられる音色の変化を生じる。ある一ヵ所の配線を変えると、音が変ることがわかる。近ごろは、コンデンサーや抵抗一本でも、同じ数値で別のメーカーの、あるいは同メーカーでもタイプの違うものを交換すると、聴きくらべたとき確かに音の違うことが知られはじめている。配線一本でも、アースのとりかたを一ヵ所かえてでも、音の変化の聴きとれることが多い。けれどその差を測定で掴もうとすると、最新・最高の測定器をもってしても、どうしても差があらわれない。耳では明らかに聴き分けられる二つの音色の差が、測定にはあらわれてこない。メーカーがアンプを設計する場合、結局、その段階になると、数人の耳の良い担当者が、聴きながらパーツを交換し配線を変更し、少しずつ音を改善の方向に向けながら製品としての完成度を上げてゆくといった手段に頼らざるをえなくなってくる。マーク・レビンソンと数年まえに話をしたときにも、彼もまたそういう手法でアンプを市販まで漕ぎつけるのだと言っていた。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より
ここで再び価格ランクが一段下がる。
音の質感は相当高度だ。ヤマハがCA2000の頃から完成しはじめた音の滑らかな質感、クォリティバランスとでもいうべき音の質感の整った点は、9万5千円という価格以上の音と思わせる場合がある。しかし数多くのレコードを聴き込んでゆくにつれて、どこか音に「味の素」をきかせたとでもいおうか、味つけが感じられる。たとえば「ザ・ダイアログ」のドラムスの音。バスドラムの量感、スケール感、パワーを上げた時に聴き手の腹の皮を振動させるかのような迫力が、この上の15万円クラス、あるいは20万円クラスのプリメインでは、セパレートと比べると、本当の意味で十全に出にくい。ところが高価格の製品から聴いてきて、CA−S1まできてむしろそういう部分が一種の量感を伴って出てくるように感じられた。しかしこの価格のプリメインで本当にそういう音を再現することは、無理があるわけで、そこが、なんとなく「味の素」を利かせた、という感じになるのだ。このクラスのプリメインでは、その辺の量感が不足しがちなことを設計者自身が意識して、意図的に作為をもって量感を加えるように計算づくで味つけしたように、わたくしは感じた。それはあるいは思いす
ごしかもしれないが、プリメインを何台か聴いてきて、そういうことを意識させる点がまたCA−S1の特徴、といえないこともないだろう。
中音域以上はクォリティの良い、たいへん滑らかな、密度の十分な安定感や伸びが、90W+90Wというパワーなりに感じられる音だ。しかし高域にわずかに──たとえばフランチェスカッティのヴァイオリンの高域で、弦そのものの音を聴いているというより、上質なPAを通して聴いていると思わせるところがある。あくまでも録音した音を再生しているのだと意識させる、その意味でもかすかな作為が感じられる。低音に関しても高音に関しても、つい作為ということばを使いたくなったという点が、このアンプ自体、一種上等な「味の素」のような調味料をうまく利かせてまとめられているという説明になるだろうか。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
わたくし自身はそのころ、マランツ7でなくJBLのSG520に切りかえはじめていた。JBLのアンプは、はじめSA600を聴いた。オーディオ仲間のある男がSA600の音をもの凄いというので、当時はそろそろ取材の名目で製品を借り出せるようになっていたから、早速借りてきたが、これがまさにマランツ以来の、そしてマランツ以上の驚きだった。そして、それはトランジスターアンプに初めて、真空管以上の可能性を見出させてくれた音、でもあった。なにしろ、何度もくりかえし聴いて隅々まで音を知っているはずのレコードから、いままで聴こえなかった細かな音、そしてそういう細かな音の聴こえてくることによって生ずる微妙な雰囲気、音の色あい、デリケートなニュアンスが聴きとれはじめたのだから、SA600を借りてきて最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った。
一週間ほどで返却の期限が来て、我家から去ったSA600の音が、しかし耳の底に焼きついて、しばらくのあいだは、ほかのアンプでレコードを聴こうという気になれない。結局、借金をしてSG520+SE400Sを入手して、それがわたくしのメイン装置のアンプとして働きはじめた少しあとに、前記SS誌第三号のアンプテストがあり、そこでマッキントッシュのあの豊麗きわまりない、潤沢な音質の良さに陶然たる思いを味わったのだった。マランツ、マッキントッシュ、そして(アンプの分野では)新顔のJBLが加わって高級アンプのシェアを三分していた一九六〇年代半ば、マランツの音を中庸とすれば、音の充実感と豊潤さでマッキントッシュが、透明感と解像力の良さでJBLが、それぞれに特徴のある個性を聴かせた。そしてこの特徴は、一九七〇年代に入るまで続き、やがてJBLはコンシュマー用のアンプの製造を中止し、マランツは大手スーパースコープの経営する量産メーカーとなり、マッキントッシュはひとり高級アンプの分野で独走を続け、管球式のC22+MC275も、やがてトランジスター化されてC26、C28という二つの名プリアンプ、そしてパワーアンプMC2105で、名声を保ちつづけていた。だが、泥沼のようなヴェトナム戦争と法外な宇宙開発競争に明けくれるアメリカの荒廃が、オーディオの分野をむしばみはじめ、その後の目ぼしい製品が続かなくなってゆき、ちょうどその機を待っていたかのように、日本国内でも高級セパレートアンプの良い製品が、抄く誌ずつ台頭してきた。たとえばテクニクスの10000番シリーズ、パイオニアのエクスクルーシヴ・シリーズ、アキュフェーズやラックスその他──。だがそれにしても、かつてマランツが、マッキントッシュが、JBLが、それぞれ我々を感激させたのにくらべて、その後のアンプの新顔たちは、よくできてはいたものの、オーディオにのめり込んできた愛好家たちを心底驚かせるような凄みを持ってはいなかった。アンプの性能のゆきつくところは、せいぜいこの辺で終りなのか、というどこか寂しい気持にさせられて、オーディオの趣味からちょっとばかり醒めた気分を味わわされたのは、わたくしばかりではないと思う。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
ソニーのTA−E88とTA−N9は、同社のオーディオ技術の現時点での粋をこらした製品といってよい。そこ、ここに、ソニー独自の新しい素材や、技術が生かされていて大変に興味深いアンプである。新技術の製品への導入の速さは、確かに同社の力を示すものであるし、数々の功績として評価して然るべき貢献を残してきているが、これらの高級機種からも感じられるソニーへの不満は、それらの新技術が、じっくりとオーディオ的に煮つめられることなく裸で出てきてしまうといった印象である。新しい素材や、テクノロジーは、それまでとは違った音を生むことは確かであるが、それが果して、人間の感性や心情にとって、より高い次元の感動に連なる音の美しさや愉悦感であるかどうかといった問題が残ると思われる。現状でのディジタル録音が感じさせる音の例が、最も端的にそれを物語ると思うのであるが、ノイズがなく、あくまでシャープで輝かしく、明解であることと引替えに置き去りにされたような、豊かな陰影と雰囲気、滋味溢れる感触や、模糊とした風情など……。情緒に訴える、従来は得られていた音の情報が、惜し気もなく払拭された音を、その手段であるテクノロジーの先進さだけ故に、首を前に突き出して、つんのめるが如く、突進することが、音の文化にとって正しい姿勢であるかどうかは再考の要があるだろう。冷たい、機械的だと感じさせる何ものかが、その音に存在することは、音を目的としたテクノロジーである以上、人間中心に考えて、なんらかの反省と、さらに技術の熟成を計るべきだと考える。率直にいって、このTA−E88とTA−N9に、ディジタル録音ほどでは勿論ないが、どこか、それに連なるイメージの音の質感が感じられるし、その機械としてのデザインも、そうした体質を彷彿とさせる雰囲気をもっていると感じたのである。つまり、これほどの高度なテクノロジーをもっていながら、そのまとめに、人間的なウォームネスがやや欠けるという印象があるので、それが伴ったら再考のものになるだろうなという欲張った要求をしてみたくなったというわけだ。いいかえれば、それほど、このTA−E88とTA−N9は技術的に魅力のある製品であって、実に優秀な、高性能プリアンプであり、パワーアンプであるということになる。
TA−E88の特徴
TA−E88は、まず一見して外観からも、極めてオーソドックスに、イコライザーアンプとしてのコンストラクションを追求し、潔癖なまでに信号系路を最短距離でインプットからアウトプットに導くという思想が明白に見てとれる。このユニークなコンストラクションは頭で考えることは容易だが、現実化は、それほど容易ではないはずだし、ここまで簡潔化を計って、それを結果に反映させるには、精選されたパーツと、ごく細かいところにまで神経を使った仕上げ、優れた回路技術をまたねばならなかったはずだ。それは、アッテネーターやバランサーに使われている高精度のボリュウム、各端子の金メッキ処理、銀クラッドのスイッチ類、そして金属皮膜抵抗や無共振コンデンサーなどのパーツ類、トーンコントロール回路やヘッドフォン端子をはぶきながら、コントロールアンプとして必要な機能を合理的にまとめあげた、安定性の高い全段DCアンプ構成、左右独立の4電源などの仕様に裏付けられている。インプット端子はユニークな配列のため初め少々とまどうが、ひんぱんに抜き差しするところではないので、慎重に理解してからおこなえば問題はなかろう。ダイアル式の
カートリッジロードのアジャスターなどのこりようはマニア泣かせのサービスである。パネルレイアウトは、すっきりしすぎるほどすっきりして扱いは全く容易だが、この辺りのフィニッシュはもう少し風格と味わいが欲しいところ。このクラスの製品だから、強烈に好まれるか、拒絶されるかは覚悟すべきで臆病になるべきではないと思う。
TA−N9の特徴
TA−N9は、堂々450Wのモノーラルアンプで、Aクラス動作をさせることによっても80Wの出力を得る超弩級パワーアンプである。技術的な特徴をあげつらねればきりがないほどであるが、おもな点はパルス電源搭載のDCアンプ構成で、パワー段はMOS−FETの5ペア・パラレルプッシュプルといったところだ。MOS−FETの特質として、入力インピーダンスが高くハイゲインであるため、ドライバー段は高域特性の優れた小型のトランジスターによる比較的小規模なものですんでいる。大電流が流れる出力段の放熱にはヒートパイプを活用し、電磁波の影響をなくすなどユニークな構成もみられる。少々、ヒステリックにプッシュプルのスイッチングディストーションが喧伝されている昨今だが、よりデリケートな音を望む向きにはスイッチの切替えで、同ゲインでA級動作として使うことも可能である。このアンプにおいては、A級に切替えた時の音の違いは比較的はっきりと聴き分けられ、弦などはぐっとなめらかになる。
TA−E88+TA−N9の音質
TA−E88とTA−N9の組合せによる試聴のメモをここに引き写すと緻密でウェイトのかかった充実した音だが、ややつまり過ぎといった生硬さがあり、おおらかな響きと雰囲気が出にくい。しかし臨場感は豊かで音のスケールは大きく、オーケストラでのブラスの輝きや、ジャズのビッグバンドでのサックスの脂ののったこくのある響きの再現はなかなかよかった。TA−E88は磨きのかかった……まるでクロームメッキの極上のバフ仕上げのような輝かしく、つるつるした感触の音という印象を他の機会に聴いてもっていたが、TA−N9との組合せでは、それがやや薄れる。しかし、パワーアンプをA級動作にすると、その感じがよく出てきたのが興味深かった。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
V
……と、ようやくここからが本論のような形になってきたが、今回の本誌のアンプ特集の一環として、内外の話題作を比較試聴する機会が与えられたとき、ここまで書いてきたような、アンプの変遷が、わたくしの頭の中を去来したからだった。アンプの音質が、なんと向上したことだろう。また、なんと全体の音質の差が縮まってきたことだろう。だがそれでいて、数多くのアンプを短時日に集中的に聴きくらべて、その興奮が去ったあとで、レコード音楽の受けとめ手としてのわたくしたち愛好家の心に残る音が、果してどれだけあったのだろうか。かつて、マランツ、マッキントッシュ、JBLを、それぞれの音の個性のみごさゆえに、三者とも身辺に置きたいとさえ思った。それほどに聴き手を魅了する個性ある音が、果してこんにちどれほどあるか。そしてまた、こんにちのオーディオアンプが、それほどまでに個性のある音を鳴らすことを、ほんとうに目ざしているのかどうか。オーディオアンプの究極の理想が、もしも、よく言われるような「増幅度を持ったストレートワイヤー」にあるのならば、つまり、入力に加えられた音声電流を、可及的に正確に拡大することがアンプの理想の姿であるのなら、アンプ個々の音質の差は、なくなる方向にゆくべきではないのか。アンプの個性とは、結局のところアンプの不完全さ、未完成の状態をあらわしていることになるのではないのか……。
そうした多くの設問について、限られたスペースでどれだけ言えるかはわからない。が、ともかく現実に聴きくらべたいくつかのアンプにことよせて、こんにちの、そして今後のアンプの問題のいくつかを考えてみたい。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
III
こうして何年かが過ぎた。わたくしのオーディオ装置はその間いろいろ変化したが、プリアンプのマランツ7だけは、これに勝るものがなく、そのままメインとして居坐りつづけた。前項で書き忘れたが、マランツのほかにもう一台、フィッシャーのモノーラル・プリアンプ(モデル80C)を、割安に手に入れて聴いてみたが、こちらの音は少しも驚くようなものではなかった。この音質なら、わたくしの作っていたプリアンプでも、むしろそれ以上に鳴っていた。ただ、さすがにキャリアを積んだメーカーだけあって、おそろしく小型に組んだ電源内蔵型なのに、ハムのきわめて少ない点には敬服した。
と、また話が脱線しかかったが、つまりわたくしの体験の中で、マランツ7だけが飛び抜けて優秀な音を鳴らしたことを補足しておきたかったわけだ。
ところで、マランツと並んでアメリカのオーディオ界で最高級アンプの名声を二分していたマッキントッシュについては、まだその真価を知る機会がなかった。すでに書いたように、マランツのプリ一台でも、そのころの貨幣価値からいってひどく高価であったため、当時の日本では、まだ、そういう高価なアンプを購入しようとする人はきわめて稀な存在だったから、製品そのものが専門店のウインドゥに並ぶ機会も稀だったし、まして、こんにちと違ってそういう製品を借りて聴けるような機会は全くなかった。それだからこそ、製品については、これもまたこんにちにくらべるとほとんど紹介される機会もなく、せいぜい海外の専門誌上での小さな広告などから、製品を知る以外に手がなかった。
それだけに、わたくしたちのそれら製品に対する認識は、おそろしく片寄った先入観に支配されていたし、もっともらしい噂話に尾ひれがついて、製品の真価が曲げて伝えられていた。
お恥ずかしい話だが、そういうわけで、マッキントッシュのアンプをごくたまにウインドゥの中で眺めても、スイッチの入っていない彼は、あの黒いガラスのパネルに金色の文字、そして両サイドにもツマミにも金色がふんだんに使ってあることが目につくばかり。電源を入れるとその金文字が美しいグリーンに一変するということなど、全く知らない。まさに井の中の蛙そのままだが、別にわたくしばかりではない、オーディオに相当以上の興味を持っているアマチュアでも、ほとんどの人は同じような状況に置かれていた。
とうぜん、マッキントッシュのMC240や275の音質の良さ、おそらくマランツ7と同じ頃に聴いたとしたら、同じくらい驚かされたに違いないその音質について知ったのは、もう少しあとになってからだった。
*
昭和41年暮に、「ステレオサウンド」誌の創刊号が発刊された。ほんとうの意味でのオーディオ専門の定期刊行物がここで初めて誕生したわけだが、編集兼発行人の原田勲氏は、それ以前のこの分野の誰もが考えたことのなかったもうれつな計画を立てた。その頃日本で入手できた内外のアンプを、できるだけ数多く集めて、同条件で比較試聴しようという、こんにちではステレオサウンド誌のひとつのパターンになってしまったいわゆる〝総まくりテスト〟を、ステレオサウンド誌42年夏号(創刊第三号)で実現させたのである。
この頃になると、わたくし自身もすでに内外の代表的な製品のいくつかを、自分で購入もしていたし、また他の雑誌の取材等でいくつか実際に聴いてはいたがしかし、レシーバー(総合アンプ)からプリメイン、そしてセパレートまで、そして当時は真空管式トランジスター式とが半々に入り交じっていたような状況下で、65機種もの製品を一同に終結させての比較試聴というのは、全く生れて初めての体験だった。ステレオサウンド誌自身もまだ試聴室を持っていなくて、わたくしの家、といっても妻の実家の庭に建っていた六畳と四畳半、二間きりの狭い家に、岡俊雄、山中敬三の両氏にお越し頂いての試聴だったが、初夏の頃、前後一週間近くを尽くしての大がかりな比較になった。そこではじめて、わたくしばかりでなく岡、山中の両氏も、マッキントッシュの凄さを知らされたのであった。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
ずっと以前の本誌、たしか9号あたりであったか、読者の質問にこたえて、マッキントッシュとQUADについて、一方を百万五を費やして語り尽くそうという大河小説の手法に、他方をあるギリギリの枠の中で表現する短詩に例えて説明したことがあった。
けれどこんにちのマッキントッシュは、決して大河小説のアンプではなくなっている。その点ではいまならむしろ、マーク・レビンソンであり、GASのゴジラであろう。そうした物量投入型のアンプにくらべると、マッキントッシュC29+MC2205は、これまほどの昨日と出力を持ったアンプとしては、なんとコンパクトに、凝縮したまとまりをみせていることだろう。決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても、C29+MC2205は、その音もデザインも寸法その他も含めて、むしろQUADの作る簡潔、かつ完結した世界に近くなっているのではないか。というよりも、QUADをもしもアメリカ人が企画すれば、ちょうどイギリスという国の広さをそのまま、アメリカの広さにスケールを拡大したような形で、マッキントッシュのサイズと機能になってしまうのではないだろうか。そう思わせるほど近ごろ大がかりな大きなアンプに馴らされはじめた目に、新しいマッキントッシュは、近ごろのアメリカのしゃれたコンパクトカーのように小じんまりと映ってみえる。
*
ところで、音の豊かさという点で、もうひとつのアンプについて書くのを危うく忘れるところだった。それは、イギリスの新しいメーカー、オースチンの、管球式パワーアンプTVA1の存在だ。
管球式のアンプが、マランツ7を最後に我が家のラインから姿を消してすでに久しい。その後何度か、管球アンプの新型を聴く機会はあったにしても、レビンソンは別格としても出来のよいトランジスターの新しいアンプたちにくらべて、あえて管球式に戻りたいと思わせるような音には全くお目にかからなかった。わたくし自身は、もうおそらく半永久的に管球に別れを告げたつもりでいた。
そういうつもりで聴いたにもかかわらず、TVA1の音は、わたくしをすっかりとりこにしてしまった。久しく耳にしえなかったまさにたっぷりと潤いのある豊かな響き。そして滑らかで上質のコクのある味わい。水分をたっぷり含んで十分に熟した果実のような、香り高いその音を、TVA1以外のどのアンプが鳴らしうるか……。
仮にそういう良い面があったにしても、出力トランスを搭載した管球式パワーアンプは、トランジスターの新型に比較すれば概して、音の微妙な解像力の点で聴き劣りすることが多い。そういう面からみれば、TVA1の音は、レビンソンのように切れこんではくれない。それは当然かもしれないが、しかし、おおかたの管球式の、あの何となく伸びきらない、どこかで物が詰まっているかのような音と比較すると、はるかに見通しがよく、音の細部の見通しがはっきりしている。
中音域ぜんたいに十分に肉づきのよい厚みがある。かつてのわたくしならその厚みすら嫌ったかもしれないが。
TVA1は、プリアンプに最初なにげなく、アキュフェーズのC240を組合わせた。しかしあとからいろいろと試みるかぎり、結局わたくしは知らず知らずのうちに、ほとんど最良の組合せを作っていたらしい。あとでレビンソンその他のプリとの組合せをいくつか試みたにもかかわらず、右に書いたTVA1の良さは、C240が最もよく生かした。というよりもその音の半分はC240の良さでもあったのだろう。例えばLNPではもう少し潤いが減って硬質の音に鳴ることからもそれはいえる。が、そういう違いをかなりはっきりと聴かせるということから、TVA1が、十分にコクのある音を聴かせながらもプリアンプの音色のちがいを素直に反映させるアンプであることもわかる。
今回の試聴では、この弟分にあたるTVA10というのも聴いた。さすがに小柄であるだけに、兄貴の豊かさには及ばないにしても、大局的にはよく似た傾向の音を楽しませる。オースチン。この新ブランドは、近ごろの掘り出しものといえそうだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より
今回のテストの中でも、かなり感心した音のアンプだ。この機種を聴いた後、ローコストになってゆくにつれて、耳の底に残っている最高クラスのセパレートアンプの音を頭に浮かべながら聴くと、どうしてもプリメインアンプという枠の中で作られていることを意識させられてしまう。つまり、音のスケール感、音の伸び、立体感、あるいは低域の量感といった面で、セパレートの最高級と比べると、どこか小づくりになっているという印象を拭い去ることができない。しかしPm8に関しては、もちろんマーク・レビンソンには及ばないにしろ、プリメインであるという枠をほとんど意識せずに聴けた。
デュカスの「魔法使いの弟子」で、オーケストラがフォルティシモになって突然音が止んでピアニシモに移る、つまり魔法使いの弟子が呪文をとなえて、箒に水を汲ませているうちに、箒が水を汲むのをやめなくなって、ついに箒をまっぷたつに割ったクライマックス、そして一旦割れた箒がムクムクと起きあがるコントラファゴットで始まるピアニシモの部分の、ダイナミックレンジの広さ。試聴に使ったフィリップス盤では、この部分が素晴らしいダイナミックスと色彩感をもって、音色の微妙な変化まで含めて少しの濁りもなく録音されている。また、菅野録音の「ザ・ダイアログ」冒頭のドラムスとベースの対話。この二枚とも相当にパワーを上げて、とくに「ダイアログ」ではドラムスが目の前で演奏されているかのような感じが出るほどまで音量を上げて楽しみたいのだがこれはアンプにとってたいへんシビアな要求だ。だがそのどちらの要求にも、Pm8はプリメインという枠をそれほど意識せずに聴けた。
初期のサンプルより音がこなれてきているのだろう。最初にこの製品を聴いた印象では、華麗な、ややオーバーに言うと音が少々ギラギラする傾向が感じられ、それがいかにも表だって聴こえた。しかし今回聴いたかぎりでは、それらがほとんど姿を消し、一種しっとりした味わいさえ聴かせた。
バッハのヴァイオリン協奏曲では、フランチェスカッティのヴァイオリンは相当きつい音で録られているため、本質的にきつい音のアンプだとこれが強調されてしまうが、Pm8は弦の滑らかさ、胴鳴りの音もかなりよく再現した。
中間アンプのバイパス・スイッチをもつが、このスイッチをオン・オフしてみると、バイパスした方が音の透明度が増し、圧迫感、混濁感が減るようだ。こう書くとその差が実際以上に大きく感じられそうだが、バイパスすると前述した点が心もち良くなるという程度の違いでしかない。内蔵MCヘッドアンプは、オルトフォンMC30のように出力の低いカートリッジだと、いくぶんノイズは増えるものの、音質的には十分実用になる。
総合的には、同価格クラス、あるいはもう少し高価なセパレートアンプと比較しても十分太刀打ちできる、あるいは部分的には上廻っているプリメインといえるだろう。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
今回試聴したアンプは、実はここに書いた機種の倍以上の数に上る。そのすべてについて書くべきだったのかもしれないが、わたくしとして印象に深く残ったアンプに重点を置いて書くうちに、すでに指定された枚数を大幅に超過してしまった。試聴後これを書いているきょうまでのあいだに、かなりの日時が過ぎているが、裏返していえば、それだけの日時を経てなお、記憶に鮮明に浮かんでくる音は、メモを見直さないとくわしく思い出せないアンプにくらべて、やはり一段階上にある音だと考えてよいように思う。これら以外に、目立たない平凡な音、しかしそれだけに永く聴いて飽きないかもしれない音、また反対におそろしく主張の強い、主張というよりは大見得切った一大スペクタクル・サウンドとでもいいたいような音もあった。実にさまざまのアンプがある。そこがオーディオのおもしろいところだろう。いかに自分の感覚に合った音のアンプを探し出すか、自分の大切なスピーカーを、どれだけ良く鳴らすアンプを探しあてるか、そこがアンプを聴き分け、選びわける醍醐味ともいえそうだ。
*
しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
それでも、アンプの音は無色透明になるべきだ、理想のアンプの音は、蒸留水のようになるべきだ、と感がえておられる方々に、わたくしは最後に大切なことを言いたい。
アンプの音に、明らかに固有のクセのあることには、わたくしも反対だ。広い意味では、アンプというものは、入力にできるだけ正直な増幅を目ざすべきだ。それはとうぜんで、アンプがプログラムに含まれない勝手な音を創作することは、少なくとも再生音の分野では避けるべきことだ。
しかし、アンプの音が、いやアンプに限らずスピーカーやその他のオーディオ機器一切の音が、蒸留水をめざすことは、わたくしは正しくないと思う。むろん色がついていてはいけない。混ぜものがあっても、ゴミが入っていても論外だ。けれど、蒸留水は少しもうまくない。本当にうまい、最高にうまい水は、たとえば谷間から湧き出たばかりの、おそろしく透明で、不純物が少なくて、純水に近い水であるけれど、そこに、水の味を微妙に引き立てるミネラル類が、ごく微量混じっているからこそ、谷あいの湧き水が最高にうまい。わたくしは、水の純度を上げるのはここまでが限度だ、と思う。蒸留水にしてはいけない。また、アンプの音が、理想の上では別として現実に蒸留水に、つまり少しの不純物もない水のように、なるわけがない。要は不純物をどこまで少なくできるかの闘いなのだが、しかし、谷間の湧き水のたとえのように、うまさを感じさせる最少限必要なミネラルを、そしてその成分と混合の割合を、微妙にコントロールしえたときに、アンプの音が魅力と説得力をモチる。そういうアンプが欲しいと思う。そして水の味にも、その水の湧く場所の違いによって豊かさが、艶が、甘味が、えもいわれない微妙さで味わい分けられると同じように、アンプの音の差にもそれが永久に聴き分けられるはずだ。アンプがどんなに進歩しても、そういう差がなくならないはずだ。そこにこそ、音楽を、アンプやスピーカーを通じて聴くことの微妙な楽しみがある。
菅野沖彦
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか 最新セパレートアンプ32機種のテストリポート」より
音のまとまりは大掴みにはとれているが、緻密とはいえない。ヴァイオリンやコーラスには少々荒さがあって雑然とした響きである。音の品位、魅力という点では、セパレートアンプとして、もう一つ、磨きをかけてほしいと思う。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
II
余談が長くなってしまったが、そうして昭和三十年代の半ばごろまでアンプは自作するものときめこんでいたが、昭和36年以降、本格的に独立してインダストリアルデザインの道を進みはじめると、そろそろ、アンプの設計や製作のための時間を作ることが困難なほど多忙になりはじめた。一日の仕事を終って家に帰ると、もうアンプの回路のことを考えたり、ハンダごてを握るよりも、好きな一枚のレコードで、何も考えずにただ疲れを癒したい、という気分になってくる。そんな次第から、もうこの辺で自作から足を洗って、何かひとつ、完成度の高いアンプを購入したい、というように考えが変ってきた。
もうその頃になると、国内の専業メーカーからも、数少ないとはいえ各種のアンプが市販されるようになってはいたが、なにしろ十数年間、自分で設計し改造しながら、コンストラクションやデザインといった外観仕上げにまで、へたなメーカー製品など何ものともしない程度のアンプは作ってきた目で眺めると、なみたいていの製品では、これを買って成仏しようという気を起こさせない。迷いながらも選択はどんどんエスカレートして、結局、マランツのモデル7を買うことに決心してしまった。
などと書くといとも容易に買ってしまったみたいだが、そんなことはない。当時の価格で十六万円弱、といえば、なにしろ大卒の初任給が三万円に達したかどうかという時代だから、まあ相当に思い切った買物だ。それで貯金の大半をはたいてしまうと、パワーアンプはマランツには手が出なくなって、QUADのII型(KT66PP)を買った。このことからもわたくしがプリアンプのほうに重きを置く人間であることがいえる。
ともかく、マランツ7+QUAD/II(×2)という、わたくしとしては初めて買うメーカー製のアンプが我が家で鳴りはじめた。
いや、こういうありきたりの書きかたは、スイッチを入れて初めて鳴った音のおどろきをとても説明できていない。
何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。いったい、いままでの十何年間、心血そそいで作り、改造してきた俺のプリアンプは、一体何だったのだろう。いや、わたくしのプリアンプばかりではない。自作のプリアンプを、先輩や友人たちの作ったアンプと鳴きくらべもしてみて、まあまあの水準だと思ってきた。だがマランツ7の音は、その過去のあらゆる体験から想像もつかないように、緻密で、音の輪郭がしっかりしていると同時にその音の中味には十二分にコクがあった。何という上質の、何というバランスのよい音質だったか。だとすると、わたくしひとりではない、いままで我々日本のアマチュアたちが、何の疑いもなく自信を持って製作し、聴いてきたアンプというのは、あれは一体、何だったのか……。日本のアマチュアの中でも、おそらく最高水準の人たち、そのままメーカーのチーフクラスで通る人たちの作ったアンプが、そう思わせたということは、結局のところ、我々全体が井の中の蛙だったということなのか──。
マランツ7の音に心底びっくりさせられたわたくしは、会う人ごとにそのすごさを説いた。その中に、当時オーディオテクニカを創設されて間もない松下秀雄氏がおられた。松下氏は早速、そのころ試聴室として公開しておられたご自宅の装置に、マランツ7を迎えられた。松下氏のそれまで使っておられたのは、わたくしなどよりよほど腕の立つエンジニアの作ったプリアンプだったはずだが、それにもかかわらず、松下氏もまた、本当にびっくりした、とわたくしに洩らされた。
マランツ7にはこうして多くの人々がびっくりしたが、パワーアンプのQUAD/II型の音のほうは、実のところ別におどろくような違いではなかった。この水準の音質なら、腕の立つアマチュアの自作のアンプが、けっこう鳴らしていた。そんないきさつから、わたくしはますます、プリアンプの重要性に興味を傾ける結果になった。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
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少し脱線したが、国産アンプの中で、いまふれたトリオは、価格とのかねあいという上で評価されるべき製品といえるのに対して、さきのデンオン、そして最後にふれるアキュフェーズなどは、価格の割には……といった注釈なしに受け入れることのできる、現在最高水準をゆく音、といってよいと思う。
アキュフェーズのC240、P400、T104の新シリーズは、昨年秋からことしにかけて、順次発表された。C240は、わりあい早い時期から試聴の機会にめぐまれたが、この音は、ほんとうに久々にわたくしをわくわくさせる素晴らしい出来ばえだった。LNP2Lがわたくしの最近最も永いあいだの常用かつ標準機だが、C240の音は、それと比較してどうこうというよりも、LNPとはまた別の路線上で、ひとつの完成度に到達したみごとな音質だといえる。LNPの音は、どこまでも切れこんでゆく解像力のよさ、芯のしっかりした、一音一音をくっきりと浮かび上らせる,それでいながら音どうしが十分に溶け合い、響き合い、立体感と奥行きを感じさせる。
C240の音は、LNPよりもいくぶんウェットだ。そこはいかにも日本のアンプだ。そしてLNPのようにどこまでもこまかく音を解像してゆくというよりも、複雑にからみあい響き合い溶け合う音を、できるかぎり滑らかに、ことさらに音の芯を感じさせずに、自然に展開させてゆく。その音のウェットさゆえに、そしてまたLNP2LやM6の透明感のある解像力と比較するといくぶん曇りを感じさせる点に、ネガティヴな意見を言う人があるが、私はむしろそこを含めて、音のマッスとしての響きの滑らかさを好む。一見見通しがよくないようだが、よく聴くと細かな音は十分に過不足なく解像され、音のマッスの中にきれいにならんでいる。パワーアンプにオースチンのTVA1を組合わせたときの音の良さについてはすでに書いたが、本来のP400がこれに加わってみると、C240の音には意外にシャープな面もあることが聴きとれて興味深い。あるいはP400のほうに音のシャープネスが強調されていてそれをC240がうまく中和するのかとも思えるが、いずれにしてもこの組合せから得られるとても滑らかでありながらよく切れ込み、そしてよく溶け合い響き合う音の快さは、近来類のない質の高い音だと思う。このところアキュフェーズの音には、個人的にかなりシビれているものだから、ついアバタもエクボになっているかもしれないが、しかしデンオンといいアキュフェーズといい、これ以前までの各機種は、これほどまでに完成度の高い、説得力ある音を鳴らしはしなかったことを思うと、今回の新型の、ともに水準の高さがいっそう際立った快挙に思えてくる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
ここまで触れたアンプはオースチンTVA1を除いてすべてアメリカ製であった。これ以外にも、アメリカ系の音をかなりまとめて聴いている。そのあとに、突然QUADが鳴った。その瞬間、あ、これはもうどうしてもアメリカでは鳴らせない音だ、と思った。
QUADから♯405が発売されてからもうずいぶん経っている。最初の頃は405に組合わせるプリが出るものと期待したが、一向にその気配もない。ピーター・ウォーカー(QUADの創設者、現会長)に、そのことを質問すると、「♯33の音でどこか不満か?」逆に質問されて、ぐっとつまった話はもう以前にも書いたが、しかし♯44が発売されてみると、どうやら我々はP・ウォーカーにすっかりとぼけられていたらしい。実は昨年の秋のオーディオフェアの頃、来日したKEFのレイモンド・クックからは、QUADが新型のプリを作っている、という情報を聞いていた。ともかく、いかにもQUADらしいのんびりした製品開発だが、しかし鳴ってきた音は、なるほど、と唸らせるだけのことはあると思った。
♯44と♯405の音は、従来のQUADと同じく、どちらかといえば骨細だし、スケール感も決して堂々たるといった感じにはならない。どこか小じんまりとして、ひっそりしている。けれど、この音が鳴っていると、しぜんに、レコードもモーツァルトや、フランス近代や、室内楽などに手がのびる。そしてまたそういう曲への期待を裏切らない音がするし、そのままずっとテストをやめて音楽に身をゆだねたいという気持になってゆく。こういうしっとりした味わいは、アメリカのアンプのどれを持ってきても決して聴くことができないというのが実にふしぎだ。そしてQUADの音をしばらく耳に馴染ませてしまうと、いったい何を好んでアメリカ製のあの高価で大げさなアンプに灯を入れて、スペクタルなサウンドを鳴らす必要があるのだろう、という気分になってくる。なにしろ、レコードを次から次へとかけかえ、トーンコントロールなども適度に調整しながら、音楽をしばらく聴きふけりたいと思わせたのは、今回、QUADとマッキントッシュと、それにさっきのC240+TVA1の三機種だけだった。そしてマッキントッシュは、アメリカ製とはいうもののむしろこんにちのアメリカの高級アンプの水準からみれば、ひかえめなほどひとつの枠の中で世界をきずきあげていることを思うと、結局、音楽を楽しむためのアンプというもののありかたを、もういちど考えさせられてしまう。
だがそうはいっても、それならお前、いますぐマーク・レビンソンその他の大型アンプをきっぱり捨てて、QUADか、せいぜいマッキントッシュの世界に切りかえられるか、と問いつめられたとしたら、やっぱりそれはできそうもない。せめてC240+TVA1なら、けっこう満足するかもしれない。ただ、TVA1のあの発熱の大きさは、聴いたのが真夏の厚さの中であっただけに、自家用として四季を通じてこれ一台で聴き通せるかどうか──。
そう思いながら、しかしQUADやマッキントッシュの完結した小宇宙は、ひどくわたくしを誘惑する。いまある装置を一切放り出して、ギリギリに切りつめた再生装置一式を揃え直して、もう音うんぬんを考えるのをやめて、楽しくレコードを聴きたいという気持に襲われる。夏の疲れのせいばかりではない。やはりわたくしの中に、こういう簡潔な装置にあこがれる気持が、昔から一貫して流れつづけているらしい。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
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国産セパレートアンプでは、トリオの07/IIシリーズに、ずっと、音楽の表現力の豊かさという点で好感を持っていた。愛好家の集まりなど、行く先々でこれを用意してもらってよく鳴らすが、平均して性能も安定している。ところが、今回の試聴ではひとつ妙なことがあった。私の装置に07IIを接続して鳴りはじめ、むろんその音はすでに何度も聴き馴染んだいつもの音が聴こえていたのだが、立ち会っていた編集部のM君が、変だ変だと句碑をかしげるのである。理由を聞いてみると、今回のステレオサウンド試聴室でのテストでは、07IIの音があまり芳しくなくて、日頃07IIを指示していた菅野氏らも、今回の結果に首をひねっていたという。そこから話が発展して、それでは試聴に使った07IIと、別の同じ機種と二組集めて、わたくしの家で比較してみようということになった。翌日早速、前日と同じ条件で、つまり編集部でのテストと同様にあらかじめ三時間以上電源を入れておいて、しかも入力信号を加えて十分に鳴らし込んだ状態で、二組の07IIを比較してみた。しかし結果は前日同様、どちらもとてもよい音がしたし、むしろこの試聴によって、07IIの製造上のバラつきがたいへん少ないことさえ証明された。
そうなると、同じ機種が試聴の条件によってそれほど違った音を聴かせるという理由は何だろうと疑問が残る。試聴室の音響特性の違い、というのはまず誰でも思いつく。けれど、こういう皮革を何十回となく過去に繰り返してきた本人として、そういう違い、つまり試聴室の差はおろか、試聴するスピーカーやカートリッジやレコードが変ったとしても、少し時間をかければまず正しく掴むことができることを、体験から断言できる。
しかしそうなると問題は少しも解決しない。いったいどういうことなのか。
ひとつ言えることは、一台のアンプを、鳴らす条件が変ってもひとりの人間が操作するかぎり、前述のようにその結果は大局において相違はない。けれど、仮に扱う人間が変れば、ボリュウムコントロールのセッティングひとつとってみても、鳴ってくる音には意外な違いの出ることがあることを、これも体験的にいえる。音量もまた音質のうち、なのである。むろん原因はそれひとつといった単純なものではないが、ただ音量のセッティングひとつとってみても、微妙に音質の違いが生じるとすれば、アンプを操作するオペレーターが変れば、アンプにかぎらずオーディオ機器は別の鳴り方をする。同じカメラで同じ場面を撮影しても、半絞りの差でときとして色彩のニュアンスに大きな違いのあることがある。音もまた同様だ。
だからといって、前述の差を、単に扱い方の問題ひとつに帰してしまうのもまた短絡的すぎる。本当のところ、どういう理由またはいかなる原因で、同じアンプの音が違って鳴るのかは、まだよくわかっていない。ただ、そういうことは珍しくないという事実は、テストの数を重ねた人間は日常体験している。なぜかよくわからないが、たしかに違った音で鳴る。この問題は、今後大いに追求する必要のある重要なテーマだろうと思う。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より
アムクロンは、かなり早い時期に大出力のDCアンプ、DC150で日本にも知られている。しかし初期の製品は、アメリカのPA用ハイパワーアンプの例によく見受けられるように、1ワット以下での日本の愛好家の多くの常用パワーでは、むしろ歪が多く、音のキメが粗くて過程での音楽鑑賞用という感じではなかった。IOCという名で改良されてからのモデルにはその弱点が薄れて、これは立派に現代の尖端をゆく優れたパワーアンプだという感想を持った。そして今回はさらに新型のプリとメインになって試聴に登場した。ただひとつ、しかし最も特徴的であるのは、この最新の電子式コントロールアンプにはフォノイクォライザーが組み込まれていない点で、そのことからみても、このアムクロンが、ここ数年来アメリカではPA用としてつとに名を高めていることと考えあわせて、一般的なレコード鑑賞用のアンプとして企画されたのではないことがはっきりといえる。それでいて、音の質は、鑑賞用として聴くに耐えるだけの磨かれた美しさを持っている。そしてこの音にはわたくしは相当に好感を抱いた。
それは、プロ用として堅実に徹した音だけが持つ爽快感とでもいったらいいだろうか。本質的に音が乾いている。つまり鳴ってくる音にうじうじした湿り気がない。言いかえればどこかあっけらかんとした明るさがあるのだが、しかし、コンシュマー用のアンプのある種の製品によく聴かれる、聴き手への媚がない。あるいはことさらの音の誇示または顕示がない。聴かせてやろう、とか、こう聴かせたらお前らしびれるだろう、的な悪い作為がまったく感じられない。ただ正確に、安定に、電気的性能をきちっとおさえて作った、という印象で、そこが聴いていてまことに爽やかである。パワーを上げても音の腰の坐りがよく、安定感があって危なげが少しもない。コントロールファンクションをいろいろいじってもよくこなれているのは、プロ用としては当然だろうが、ボタンに触れるだけで音量が増減し、デジベル数値がディジタルで表示されるボリュウムコントロールの感触も楽しい。まあ、どことなく「クロウトさんのお使いになるアンプ」といったイメージがあるが、しかしこういう中庸を得た媚のない音の快さというものは、近ごろあまり聴くことができなかったように思う。
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