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10万円以上の’80ベストバイ・カセットデッキ

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 10万円以上は、いわゆる高級デッキの存在する価格帯である。基本的には、15万円台をボーダーラインとして分割して考えられる。
 10〜15万円の価格帯では、メタル対応モデルが各社から比較的早く製品化されたため、昨年のオーディオフェアを境に新旧の世代が分かれているが、やはり、新しいモデルにメリットが大きい。
 まず、10万円に近い価格では、基本的に、9万円台のわずかに性能向上や機能が増したモデルが多く、選択はシビアになる。高級機らしさを性能、機能、構造に求めれば、やはり14〜15万円台で、定評のあるメーカーのトップモデルか、昨秋以降の新製品を選べば、普及機では考えられないようなメタルテープの凄さを満喫できよう。また、このクラスはLH、コバルトテープの音が、一格異なった味であるのも楽しい。
 15万円以上は本来のスペシャリティで、メーカーも限定されるが、新世代のこのクラスデッキは、使い方さえ正しければ、普及型のプレーヤーシステムとは比較にならない、高性能と高クォリティの音を聴くことができる。

10万円未満の’80ベストバイ・カセットデッキ

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 10万円未満の価格帯のカセットデッキの概要は、プレーヤーシステム以上に製品数も多く、新旧の世代交代が激しく続けられているために一括して記すことは不可能だ。
 とくに、昨年来のメタルテープ対応が最低の条件となり、メタルテープの単価から考えると、そのランニングコストに比較して、デッキ単体の価格が安いランクの価格帯やラジカセまでがメタル対応化されている現在では、カセットの分野は他のジャンルにくらべると、まったくの特殊分野だ。とくに最近の傾向として、春には普及価格帯の新製品ラッシュが起き、短期間に製品の価値観が急変する点に注意したい。
 5万円台は、前半と後半では実際に別の価格帯であり、後半の激戦価格帯はすでにメタル対応の第2世代になっている。初期のメタルテープが使えるという時期から、メタルテープを使うためのデッキに変った。前半の製品、それ以上に4万円台後半の新製品は初期の5万円台後半の性能以上である。
 7万円台は従来からも数こそ少ないが、選択すればベストバイモデルが存在していた注目のゾーンだ。新しい3ヘッド機がポイントで、2ヘッド機では市場に現われた物量投入型に現在も魅力がある。
 9万円台は、メタル対応以前は最も製品が充実し、各社各様の独自の魅力をもつ機種があり、選択の楽しみがもともあった価格帯だったが、メタル対応化が遅れ比較的に新しいモデルが多い。選択はカセットの使いやすさを重視すれば、自動選曲機能を備えた2ヘッド機、性能・音質重視なら3ヘッド機となるは7万円台と同様である。選択機種にはないが、最もメタル対応が遅れたオートリバース機もディスクファンには狙いめである。

4万円以上の’80ベストバイ・カートリッジ

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 4万円以上の製品では、国内製品、海外製品のトップモデルがひしめいているのが特長だ。それぞれが高度な物理的特性を備え、しかも、トーンキャラクターは大幅に異なる点に注意したい。また、発電方式による音の差も少なく、新素材、新技術を投入したモデルが多く、現代の最先端をゆくトランスデューサーの魅力を充分に味わうことができる。ただし、それぞれのモデルの性能をフルに引出すためには、併用するプレーヤーシステムに、高度な性能が要求されるのは、当然と考えるべきである。

2万円〜4万円の’80ベストバイ・カートリッジ

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 2〜4万円台の製品では、国内製品と海外製品が数量的には互角に競合する価格帯である。選択された製品は、2万円未満と同様にMC型が半数以上を占め、それも新製品が少ない。この価格帯は定評の高いメーカーの伝統のある製品、もしくは改良型を手堅く狙うのが、ひとつのポイントであろう。基本的には、新素材、新技術を全面的に導入した製品は、これ以上の高価格帯で選びたいものだ。常用カートリッジとして、この価格帯から発電方式の異なったものを複数個選んで使うのが、最も魅力的な使い方といえる。

2万円未満の’80ベストバイ・カートリッジ

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 2万円未満の製品は、選択された4機種中で、新製品はヤマハMC7のみであり、MC型が3機種あることは、カートリッジの分野でのMC型志向が強いことと、海外製品の販売価格の低さという特殊性がうかがえる。MC型は、ヘッドアンプで使用する場合には、インピーダンスが高いほうがアンプ側には条件がよく、高SN比が得られるため選択に注意したい。しかし、本格的に使うなら昇圧トランスを前提としたい。

アームレス・タイプの’80ベストバイ・プレーヤーシステム

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 アームレス型プレーヤーは、システムというよりは、ハーフメイドのカスタム型だ。
 したがって、システムとするためには、トーンアームを選択しなければならないが、使用カートリッジの幅を考えれば、予想よりもその選択範囲は狭いのが現実である。
 カートリッジとトーンアームを分割した現在の使用法は、各種のカートリッジを任意に選択し、交換して使うためには使いやすいが、反面において、特定のカートリッジの性能を充分に引出すためには、そのカートリッジに適合したアームは一種類に限定されるという基本に反することになる。つまり、汎用型としてアームを選べば既製のプレーヤーシステム同様に中量級のユニバーサル型を選ぶしかないわけだ。
 アームレス型プレーヤーを活かす使用法は、複数個のアームか、各種のアーム部分やパイプ部分が交換できるマルチアームを組み合わせ、使用カートリッジにマッチしたアームを選んで、既製システムでは得られない、それぞれのカートリッジの性能・音質をフルに引出した、ディスクオーディオならではの独特の世界を楽しむことである。

20万円以上の’80ベストバイ・プレーヤーシステム

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 20万円以上の価格帯は、最近になって製品が豊富になり、選択の楽しみが増している。従来の20万円未満の価格帯の製品をアンプのプリメインアンプとすれば、この価格帯は、セパレート型アンプともいえるスペシャリティの分野である。
 たとえば、中型以上のフロアー型スピーカーシステムを、合計35万円クラスのセパレートアンプでドライブするシステムを使っているとしよう。これにマッチするプレーヤーシステムは、やはり30万円以上としなければ、折角のアンプやスピーカーシステムの実力が、プレーヤー部分がネックとなり、充分に発揮できないことになる。
 ちなみに、ローコストのシステムで10万円未満のプレーヤーシステムと、このクラスの製品とを、同じカートリッジを使って比較してみるとよい。いかに、プレーヤーシステムの性能が、トータルのシステムに決定的な影響を与えているかが明確にわかるはずだ。

20万円未満の’80ベストバイ・プレーヤーシステム

井上卓也

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 20万円未満の価格帯では、基本的に価格帯の分割方法がラフに過ぎるため、簡単に傾向を記すことは不可能である。したがって、ここではさらに細分して考えることにする。
 5万円未満では、各メーカーともにシリーズ製品のベーシックモデルが選択のポイントになる。これらの製品は付属機能を省いたマニュアル機で、基本的な機構設計が同一な点に注目したい。駆動モーターも、クォーツロック型よりも、ただのDD型のほうが結果としての音が優れた例もあるため、最低限の比較試聴をしたいものだ。
 5〜10万円台は、予想外に優れた製品が少ない価格帯で、ポイントは、各メーカーともに、最新製品を選ぶことだ。
 10万円以上では、機械的な設計、とくに強度が充分にある製品が必要最低限の選択条件だ。トーンアームのガタや、ターンテーブル軸受が弱いために、ターンテーブルの端を押すとタワムような製品は要注意である。

オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる

瀬川冬樹

ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より

 もう何年か、もしかしたら10年近い以前か、なにしろ古いことなので記憶が薄れているが、ソニーの盛田会長が、アメリカ・ソニーの社長として派遣された頃の話を何かに書いておられるのを読んで大層興味深かった。
 話というのはこうだ。たとえば会社である日、深のひとりが何か重大なミスを犯したとする。翌朝出社しても、椅子に坐って、前日の部下の失態の収拾をいかにすべきか、思っただけで不気嫌になる。それが日本の会社であれば、上司の顔をみたとたんに、社員全員にその意味が通じて、お茶を運んでくる女子事務員の態度にさえ、これ以上上司の機嫌をそこねまいとする様子が読みとれる。要するに上司も部下も、互いの顔色や態度から、無言のうちに相手の気持を読みとって、いかに対処すべきかを全員で考えることができる。
 アメリカの会社ではそうゆかなかった。出社して椅子に坐る。周囲で働くのは皮フの色のそれぞれに違うアメリカ合衆国の人間だ。日本語の通じないのはもちろんだが、それ以上に、彼らには日本式に上司の顔色を読んでそれに自然に対処するなどという態度は全く期待できない。それどころか、上司は部下に向かって、こう叫ばなければならない「きのうのミスを憶えているのか。そのことで俺は今朝、機嫌が悪いんだ! 一刻も早くきのうのミスの収拾に全力を尽せ!」
 自分がいま、どういう心理にあるのか、何をして貰いたいのか。日本のような古くからの単一民族の集合の国では、会社もまたひとつの同族あるいは家族に近い形をとるので、そんなことをいろいろ説明する必要はないが、アメリカのようにほんの二~三百年ほどのあいだに、あらゆる国からやってきた異民族が集まって成立した合衆国社会では、自分の心理も欲求もその他すべて、言葉に出してはっきり説明しなくては全く相手に通じない、という事実。
 この盛田氏の話は、古い記憶なので細かな部分では少々違ってしまっていると思う。しかもここからあとの、かんじんの結論がどうだったか、全く憶えていないのだが、いまここでは、右の話の結論の部分が必要なのではない。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
 屁理屈をこねるわけでなく、〝非常〟とはまさに〝常に非(あら)ぬ〟状態を指して言うのだから、〝非常に〟が氾濫してしまえばもはやそれは〝平常〟の状態になってしまう。くり返すが私自身への自戒を込めて言っているので、私も書く場合は注意しているつもりでも、しゃべる場合にはつい不用意に〝非常に〟とか〝極めて〟などを連発しているのかもしれない。
 だが、何もここで文章論を展開しようというのではないから話を本すじに戻すが、いましがたも書いたように、言葉の不要な扱いは、単に表現上の問題にとどまらない。それがひいては物を作る態度にも、いつのまにか反映している。この言い方に無理があるとすれば、あるいは日本人の中に、ものの質を、アメリカ人のような明確なグレイドの差としてとらえるよりも、もっと別の形でとらえ論じようとする姿勢があるのではないか、と言い直してもよい。そういう見方をしてみると、大まかに言って、アメリカ人はものの良し悪しをグレイドの差でまず論じるが、日本人はそれをニュアンスの差としてまずとらえる、と言っては言いすぎだろうか。
 ちょっと待て、アメリカでもしかし近ごろは Excellent を割合安売りしているではないか、という反論が出るかもしれない。だがすでにお断りしているように、いまここでは形容詞の文法上の用法を論じているのではなく、そのことに表われるものの価値判断の態度の根本的な相違を考えてみようというのだ。
 Excellent, Very Good, Good と並べてみると、ここには誰の目にも明快な三段階のグレイドの差がつく。
 ところが「非常に」「極めて」「大変に」と並べてみたところで、それが最上なのか、おそらく結論は出にくい。要するに日本語、ひいては日本人の思考のパターンには、もののグレイドに明確な差を見出す、という姿勢がもともとあまりないのだ、という結論は性急すぎるだろうか。
 このことは何も、日本に最上級の品物がないとか、日本人の作る品物にグレイドの差がないなどと言おうとしているのではない。日本人が作ろうが欧米人が作ろうが、ある品物にグレイドの差だけあってニュアンスの差がない、などということもまたその逆もありえない。
 ことがあまり抽象的にならないうちに、いや、もう十分抽象的になってしまっているが、ひとつの身近な具体例としてパワーアンプをとりあげてみる。一台はマランツの510M、もう一台はGASのアンプジラII。この高級アンプ両者をくらべてみると、出力はほとんど同じ、物理特性も大差があるとはいえない。価格も近いし、取扱いや安定度の問題も優劣はつけにくい。つまり採点しようとすればどちらもエクセレントだ。グレイドの形容ではどちらも〝非常に〟良いアンプなのだ。だがこの両者は、音質に目を向けるとずいぶんその音のニュアンスを異にする。その面を論じるとなると、どうも我々日本人の方が、そして日本語の方が、表現が豊富ではないだろうか。むろん豊富さの反面として、形容があいまいになりがちだという弱点はあるにしても。
 たとえば、マランツの音は明晰、シャープでやや硬質の、輪郭の明確な解像力の良さ……等といえる。そしてGASの音は充実感、引締った豊かさ、マランツよりはいくぶんソフトなタッチ……。要するにニュアンスの差について細かく聴き分けてゆけばほとんど無限のひろがりがあるといえる。そして、その点こそ、どちらを選ぶか、の別れ目になる。
 だがそれをアメリカ人が表現する場合には、日本人のように音質をニュアンスの無限の広がりで言うのでなく、たとえばディストーションではこちらがやや上、パワーバンドワイズではこちらが上……という式に、分析的にではあっても項目ごとにやはりグレイドをはっきりさせたがる傾向がある。「俺は機嫌が悪い」とはっきり言わなくては通じない国の、これはおそらく必要から生まれた表現法なのかもしれないし、ああいう風土に育った人間には、その方がわかりやすいのかもしれない。そしてこれは良い傾向か悪い傾向かいまの私にはまだ判断がつきかねるが、アメリカ流の影響を受けた教育を身につけた最近の日本人の若い世代の中に、こういうふうにグレイドをはっきりさせた説明をしないと納得しない人たちが少なからず育ちはじめていることを、いろいろな機会に感じさせられる。ものニュアンスの方に重きを置いて判断すると言うのは、もはや古いタイプの日本人のすることなのだろうか。
 そんなことはないはずだ。ものの良し悪しは、まず大掴みにはグレイドの差であらわせる。だが同じようなグレイドの品物の差をあらわすには、ニュアンスの、といっては問題点があいまいになりそうなでもっと端的に、その製品の個性の方が、それを選ぶ個人にとっては重要な項目であるはずだ。
     *
 ずいぶん廻り道をしてものを言っている。いったい、表題のベストバイとは! に対する答えは、いつ出てくるのか。
 ベストバイ、という言葉も、これを日本語の「お買徳品」という言葉に直してしまうと、いささか意味あいが違ってくる。
「俺は機嫌が悪い」をわざわざ口に出して相手に伝えなくてはならない合衆国で、あるいは国境という見えない線で陸続きの欧州諸国で、互いに異民族のあいだで取り引きが行われるとき、たったひとつの拠りどころは、そのものの客観的価値であった。その品物を購入するために、どれだけの代価を支払うのが妥当か──。そのためには、誰がみても明確なグレイドの差をつけることが必要だ。高価な品と安い品とでは、誰がみても、どこかに明確な差がついている。高価な品はとうぜんそれだけの良さを持っている。それを承知でどこまでも良いものを求める人間もいれば、少しぐらい性能が悪くともよいからできるだけ安く買いたい人もある。同じ街の中で、ひとりは毛皮を着こんで、また別のひとは半そでのシャツで、すれ違う国に住む民族には、日本人のような単一民族には想像のつきにくい多様性がある。そこでひとつだけはっきりしているのは、価格の差、だけだ。高いものは必ずどこか良い。それは、支払った代価に価する品物を提供したかどうか、という冷静な取引きを何百年もくりかえしてきた異民族どうしのあいだに、確立された考え方だ。
 そこから、「この価格にしては」良いか悪いか、また、「この性能にしては」高いか安いか、という判断の姿勢が明確になってくる。いわゆるコスト・パフォーマンスの考え方だ。そして、仮にそれが100万円でも1万円でも、その価格に見合ったその時点で一般的な水準に照らし合わせて、その水準を多少なりとも抜いた製品を「ベストバイ」──良い買物──と名づける。
 要するにベストバイという言葉自体には、価格の絶対値としての高価とか廉価といった概念は含まれない。100万円出してもこれはいい。あるいは1万円だがそれにしては良い。そのどちらもが「ベストバイ」なのだ。
 しかしもうひとつの視点がある。オーディオパーツに限ったことではないが一般的に、日本人の作る工業製品には、欧米のそれとくらべてみてローエンドからハイエンドまでの製品の性能の幅が狭い。性能的にも価格的にも、欧米製品のようなまさにピンからキリまでのダイナミックな幅広さ、またその個性の多様性にくらべて、日本の製品は概して、中級の上、ぐらいのところに大半が集中して、思い切ったローコスト品や、反対にもうこれ以上望めない最高級品、が生まれにくい。
 ローエンドからハイエンドにかけて少しずつ製品の質が上がってゆくその価格とのかねあいで、このあたりが支払った代価に対して最も性能向上の著しい価格帯がある。性能の向上は、ふつう直線的でなくS字カーブを描く。最低クラスの性能は、価格が多少上ってもそれほど目立った向上をみせない場合が多い。するとローエンドの価格帯でのベストバイは、むしろ中途半端に価格の上った点でよりも、思い切って安いところから探す方が利口だ、ということになる。
 中クラスになってくると、価格に対しての性能向上カーブは急峻な立ち上がりをみせて、ある価格帯ではほんのわずかの価格の上昇にもかかわらず性能の飛躍的に向上する部分がある。このポイントが、もうひとつの意味で、あるいはほんとうの意味で、ベストバイ、と言えるのかもしれない。
 そこを過ぎると、価格の方は幾何級数的に上昇するが性能の向上カーブは次第に寝てきて、価格の差ほど目立った向上をみせなくなる。このランクがいわゆる高級品で、コストパフォーマンスという見方をすれば効率のよくない価格帯ということになる。すると高級品の中にはベストバイはありえないということになるのだろうか。
 そんなことはない。どんなに高価な品ものの中にも(逆にどんなローコストの品ものの中にも)それを手に入れて日常使いこなしてゆくうちに次第に愛着を憶えて、やがてそれが限りない満足感に変ってゆくというものが、数少ないながら確かに存在する。仮にそれが冷い機械(メカニズム)であっても、自分の分身のような愛着が湧いてくれば、ものそのときは支払った価格のことなど忘れて、ただひたすら満たされた気持になる。そういう品物こそ、真のベストバイといえるのではないだろうか。

「私はベストバイをこう考える」

井上卓也

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 本誌43号の特集テーマは、現在、国内に輸入されており、入手可能な海外製品と発売されている国内製品の数多くのオーディオコンポーネントのなかから、ベスト・バイに値するコンポーネントを選出することである。
 何をもって、ベスト・バイとするかについてはその言葉の解釈と、どこに基準を置くかにより大幅に変化し、単にスーパーマーケット的なお買得製品から、特別な人のみが使いうる高価格な世界の一流品までを含みうると思う。
 今回は、選出にあたり、ある程度の枠を設定して、本誌41号でおこなわれたコンポーネントの一流品と対比させることにした。その、もっとも大きなポイントは、業務用途に開発された製品は、特別を除いて対象としないことにしたことだ。これらの製品は、第一に、使用目的がコンシュマー用ではなく、そのもつ、性能、機能、価格など、いずれの面からみても、一般のオーディオファンが、容易に使いこなせるものではなく、また、入手可能とは考えられないからである。第二に、業務用として、優れた性能、機能をもつとしても、コンシュマー用としては、必ずしもそのすべてが好ましいとはかぎらないこともある。例えば、定評あるアルテックA7−500スピーカーシステムにしても、業務用に仕上げた色調やデザインは、どこのリスニングルームにでも置けるものではない。また、同じく、JBLのプロフェッショナル・モニターシステムである4350にしても、誰にでも、まず使いこなしが大変であるし、家庭内のリスニングルームで再生をする音量程度では、らしく鳴るはずがない。ハイパワーアンプとの組み合わせで、それもバイアンプ方式のマルチアンプシステムを使って、少なくとも小ホール程度の広い部屋で、充分な音量を出して、はじめて本来の鳴りかたをすることになる。このような使用法では、他には得られない性能をもっているために、製品としては当然ベスト・バイとなろうが、少なくとも一般のオーディオファンとは、関係がないカテゴリーでのベスト・バイである。
 また、高価格になりやすい一流品は、価格的な制約を除けばそれぞれに大変な魅力をもっているとはいえ、誰にとっても、ベスト・バイたりえないことは当然である。ここではコンポーネントのジャンル別に、価格的なボーダーラインを設定して、一流品とベスト・バイを区分することにしている。
 スピーカーシステムは、このところ国内製品の内容の充実ぶりが目立つジャンルである。例えば二〜三年以前であったら、10万円未満の価格帯で海外製品に優れたシステムが多くあったが、海外メーカーで自社開発のユニットをつくるメーカーが減少し、最近では個性的な製品が少なくなっている。10万円以上、15万円未満の価格帯が、現在ではベスト・バイ製品の上限に位置すると思う。昨年末以来、このランクに国内製品のフロアー型システムが各社から発売され、ユニット構成にも、従来には見られなかった個性があり新しい価格帯を形成している。現在では、7〜8万円以上ではフロアー型システムが主流を占めつつあるが、逆に比較的に小型で充分な低音が得られるブックシェルフ型システムのメリットが見直されてよいと思う。一方、5万円未満の価格帯では、最近注目されている超小型システムを含み、比較的小口径ウーファーを使った小型なシステムに、内容が濃い製品が多くなってきた。
 プリメインアンプは、従来からも、おおよそ15万円あたりが価格の上限であったが、これは基本的に現在でも変化はない。最近の製品の傾向からみれば、10万円未満の価格帯では、モデルチェンジがかなり激しく、それに伴なって質的な向上が著るしく、ややファッション的な印象が強くなっている。これにくらべると10万円以上の価格帯は、プリメインアンプの特別クラスで、最新の技術を背景に開発された新製品から、伝統的ともいえる長いキャりアをもつ製品までが共存し、かなり趣味性を活かして選びだすことができる。
 セパレート型アンプは、いわばアンプの無差別級的存在であり、性能、機能、価格などで幅広いバリエーションがある。ここでは、プリメインアンプを形態的にセパレート化したと思われるものは除くとしても、開発のポイントがセパレート型アンブ本来の質、量、二面のバランスに置かれたものは、とかく高価格となりやすく、一面的に質か、または量にウェイトを置いた製品は、比較的に入手しやすい価格にある。ここでは、ある程度、価格的な枠を拡げて選んでいるが、基本はやはり質優先型である。パワーアンプは、スピーカーシステムと対比すると、出力が多すぎるように思われるかもしれないが、最近のようにダイナミックレンジが広いディスクが登場してくると、平均的音量で再生していても、瞬間的なピークの再生の可否が大きく音質に影響を与えることもあり選んでいる。
 FMチューナーは、プリメインアンプと組み合わせる機種については、あえてペアチューナー以外を使用する必要がないほど、相互のバランスが現在では保たれている。ペアチューナーの性能が高くなっているのも理由であるが、現実のFM放送の質を考えれば、高級チューナーの使用は、効果的とは思われない、つまりプリメインアンプを選べば、自動的にFMチューナーは決まることになる。ここではセパレート型アンプに対応する製品を、最近のFMチューナーの傾向をも含んで選出することにした。
 プレーヤーシステムは、現在のコンポーネントのなかで、場合によればもっとも大きく音を変えるジャンルである。基本的には、システムを構成するトーンアーム、フォノモーター、プレーヤーべースなどが優れていれば、よいシステムになるが、例え個々の構成部品が抜群でなくても、システムプランでまとめられた製品は、好結果が得られるあたりが、システムならではのポイントである。実際に試聴をした結果から、各価格帯で、いわゆる音の良いプレーヤーを選出してある。また、価格的に少しハンディキャップはあるがオートプレーヤーにもマニュアルプレーヤー同等に良い製品がある点に注目したい。
 フォノモーター、トーンアームの単体発売品は、需要としては、さして多くないはずだが、選んだ製品の大半は、優れたプレーヤーシステムの構成部品であり、残りはそれぞれ単体として定評がある製品である。
 カートリッジは、主として現在の一般的なトーンアームと組み合わせた場合を考えて選んだ。最近の高性能化した製品は、特定のトーンアームとの組み合わせで本来の性能を発揮する傾向が強く、ユニバーサル型アームの形態をとってはいるが、むしろ専用アームとペアのピックアップアーム化している。これらは今回は除外した。
 テープデッキは、カセットデッキでは、システムに組込み固定するコンポーネント型は、現実にエルカセットが登場してくると10万円が上限である。しかし、ポータブルの小型機は、コンパクトであるだけに10万円以上でも概当することになる。オープンリールデッキは、30万円程度が上限であり、この価格帯では19cm・4トラック機に総合的に優れた製品が多い。ポータブル機は、機種が少なく、実質的な価格内ではベスト・バイというより、それしかないのが残念である。

「私はベストバイをこう考える」

菅野沖彦

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 ベスト・バイは、一般的な邦訳ではお買得ということになる。言葉の意味はその通りなのだが、ニュアンスとしては、ここでの、この言葉の使われ方とは違いがある。日本語のお買得という言葉には、どこかいじましさがあって気に入らない。これは私だけだろうか。そこで、ベスト・バイを直訳に近い形で言ってみることにした。〝最上の買物〟である。これだと、意味は意図を伝えるようだ。つまり、ここでいうベスト・バイとは、その金額よりも、価値に重きをおいている。
 価値というのは、きわめて複雑な観念であるから、ものの価値判断というものも、そう簡単に決めるわけにはいかないだろう。本当の意味での価値というものは、観念という精神的なものであるからだ。ものそのものの価値というのは、むしろ、値打というべきだと私は思っている。価値というものは、本来、形や数値で表わせるものではないのはいうまでもないことだ。言語学的には、価値という言葉も、もっと現実的な唯物論的な意味なのかもしれないが、甚だ独善的で申し訳ないが、私は、価値と値打を使い分けるように心がけている。ものの値打などというものは、値下りすればそれまでだ。ほとんどのものは、買った途端に中古になる。中古は新品より安くなる。値打の下落である。オーディオ・コンポーネントで、持っていて値上りするなどというものは滅多にない。オーディオ機器に限らず、本当に値打のあるものなどはそうあるものではない。だから、けちはものを買わないのである。けちが買うのは、儲かるものだけだ。
 しかし、価値は違う。どんなに高額でも、また、日々値上りしても、そのものが、ウィンドウの中に置かれていて価値を発揮することはない。ものの価値は、そのものが人と結びついたときに、その人によって発揮されるものなのだ。あるいは、その人の中に芽生えたものなのだ。価値は、人の価値観によって決まる。価値観は教養と情操の問題である。価値観は、よきにつけあしきにつけ、他人の侵すべからざる領域である。ものには値段がつきものだから、それに支払う代価の数値と、この価値との間の問題はきわめて複雑だ。ある人にとっては、100万円の代価を払っても価値あるものも、別の人にとっては無価値かもしれぬ。また、同じような価値観を持った人同志でも、もし、その二人の経済力に大きな差があれば、価値の評価がかわってくる。
 ここで、大変重要な問題について考えねばならない。お金持ちが、そのものが自分にとって価値ありと認め、100万円を高くないと感じて買ったとする。そして、それほど金持ちではない別の人が、その同じものに価値を見出し高い! と思いつつ、無理をして100万円を出したとする。つまり、同じものに価値を見出した二人だが、果して、この経済力の違う二人にとって、そのものの価値は同じであろうか。ごく単純に考えても、同じには思えない。金持ちにとっての100万円より、貧乏人にとっての100万円は、はるかに高い価値への代価であるはずだ。ポケットマネーと全財産のちがいが同じ重味であるはずはない。つまりこの話には無理がある。金持ちと貧乏人が、代価を払わなければ所有できないものについて、同じような価値観を持つことは不可能に近いことだ。そして、もう一つの無理は、ものの価値を代価という数値で表現していることである。値打は同じでも、価値は大違いたということだ。価値とはこういうものだろう。だから、価値を考えれば、同じものでも、金持ちからは100万円とっても貧乏人からは10万円しかとらないという理屈も成立つ。昔の職人や芸人には、こういう考え方を持っていて、実行したという話を聞くのである。一概に、それが美徳だとは思わないが、一理はある。
 しかし、大量生産、つまり、工業化時代の現代では、こういうことは起り得ないのだ。ベスト・バイの価値基準などないといっても過言ではない。1台のアンプを値段なしで市場へ出し、それぞれの人の価値判断と経済力で、100万円になったり10万円になったりすることはあり得ないのだ。かかったコストを基準に、諸経費・諸利益を上乗せして価格が決められる。考えてみれば公正なようでいて、決してそうとはいえない。材料費や労賃は大同小異にしても、それを生みだした人の英知や能力、そしてセンスはまちまちであるはずだ。量産では、生産量が価格を大きく変動させるが、同時に、製品の出来具合にも大きな影響がある。大量生産ならではのよさもあるし、小量、手造りならではのよさもある。これらを総合して考えてみると、価格の高低で、そのものの価格はもちろん、値打を判断することすら困難である。
 ベスト・バイ、最上の買物が、金額より価値に重きをおくと先に書いた。しかし、今まで述べた価値の難しさからいって、そんなベスト・バイ製品をどう選んだらよいのだろうか。コスト・パフォーマンスという言葉が一時流行ったが、あれは、リッター何キロ走るかという経済性だけで車のすべての値打や価値を判断するのとそっくりの、ドライで貧しい発想である。車なら、まだ、それも許されるとして、音楽を聴くオーディオ機器に──趣味の世界に──そんな発想を平気てするのは空恐しい。ベスト・バイというからにはむろん、値打を無視することはできない。つまり、経済的であるにこしたことはない。しかし、それだけで判断できるとすれば、オーディオなど、絶対に心の対象として存在し得るはずがないだろう。
 私が考えるベスト・バイの条件は、ただ、値段の高低による値打、性能の差という縦の線のみならず、要は、そのもののオリジナリティと存在理由の有無である。オーディオ機器は、性能の高い低いという縦のバリエーションも幅広くあると同時に、音がちがうという横のバリエーションが無限にある。それぞれの機器が、その値段の範囲で、水準以上の性能を発揮し、かつ、魅力ある製品であることが、私の考えるベスト・バイの条件である。その魅力とは、もちろん音の美しさ、仕上加工の水準、デザインなどの総合で、つまるところ、その製品に感じられる創った人間の中味の密度と次元の高さと誠実さである。100万円と10万円の同ジャンルの製品を縦割だけで考えることはナンセンスである。100Wのアンプより、はるかに音の美しい50Wのアンプだってある。数十万円の大型スピーカーがすべてではあるまい。数万円の小型スピーカーが、よりしっくりと、その時々
の音楽的欲求を満たしてくれることだってあるだろう。そして、逆に、どうしても大型スピーカーで大パワーアンプでなければ得られない、音の世界が存在するのである。
 いずれにしても、最終的な価値判断は、それぞれの人の問題だ。そして、価値の発見とその必要性と、それを得る可能性は、全くそれぞれに別問題であろう。この三つの結びつきのコントロールは読者に任せる他はない。ここにあげたベスト・バイ製品のそれぞれに、私は相応の価値を見出してはいるが、だからといって、そのすべてを必要とはしないし、また、それを所有する力もない。
 編集部から渡された、各コンポーネントの膨大なリストの中から、かなり客観的な思惑を交えながら、出来るだけ広範囲に選んだが、その結果、あまりに多くの製品になってしまい、正直のところ困り果てている。それぞれの製品について、短いコメントをつけるだけでも、気の遠くなるような仕事になってしまった。実に、トータルで190機種にも及ぶ。しかし、これだけの数の機器に、それなりの価値と、存在理由とオリジナリティを見出せるということは、たとえ、かなり客観性をもって選んだとしても、オーディオの楽しさを今さらながら感じさせられる。相互的に組合せて、システムを構成したとすると、うまくいかない組合せをのぞいても、かなりの数の優れたシステムが誕生することになるであろう。そして、それらは、一組として同じ音色やニュアンスで鳴るものはないのである……。

「私はベストバイをこう考える」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 前回35号でもベストバイパーツの選定をしたが、今回はそのときとは基準を少し変えた。その説明をする前に、35号のときの選定基準をもういちど簡単にくりかえしておく。
 前回は、あらかじめ編集部で部門別(機種別)に整理した市販全製品のパーツリストを渡された上で、その中から約百五十機種に絞るようにという課題があった。そこで、大まかな分類として、次の三つの基準を自分流に作った。
 ◎文句なく誰にでも奨めたい、或いは自分でも買って使いたい魅力のあるパーツ。
 ○自分としては必ずしも魅力を感じないが、客観的にみて、現時点で、この価格ランクの中では一応水準あるいは水準以上の性能を持っていると思われるパーツ。
 △必ずしも水準に達しているとは思えないが、捨てるには惜しい良さまたは魅力をどこかひとつでも持っているパーツ。
 この中で、◎と△を選ぶのは案外やさしい。
 例えば今回のリストアップの中でも、すでに自分で購入して、高価ではあったけれど心から満足して毎日楽しんでいるSAE2500(300W×2のパワーアンプ)などは、簡単に◎がつけられる。実際、私のすすめで同じアンプを購入した友人が三人ほどいるが、その中の誰も、65万円(現在69万円に値上げされているが)という代金を支払ったことを後悔するどころか、良い音で音楽を味わえる毎日毎日が楽しくて仕方がないと、心から喜んでいるのだから、その代価は少しも高価でなく、良いものを手に人れた満足感にひたりきっているわけだ。こういう買い物が、ほんとうの意味でのベスト・バイといえるわけだ。
 もうひとつ反対の例をあげるなら、例えばマッキントッシュのC26やMC2105、あるいはQUADの一連のアンプとチューナー。これらの製品は、進歩の激しいソリッドステートの技術の中でふりかえってみると、その物理特性も鳴らす音も、今日の水準とは必ずしも言い難い。けれど、マッキントッシュもQUADも、そのデザインや全体のまとまりの、チャーミングで美しいことにかけては、いまだにこの魅力を追い越す製品がないのだから、物理特性うんぬんだけで簡単に捨ててしまうのはどうも惜しい。というわけで先の分類の△に該当する。
 こういう具合に、◎と△はわりあい簡単に分類できる。けれど難しいのは○の場合だ。
 自分としてはひっかかる点があるが、客観的にみて良いと思う──。そういうリストアップのしかたが、ほんとうに可能だろうか、と考えてみる。ことばの上では可能であっても、自分が自分を捨てて客観的になるなどということは、本質的にはできっこない。せいぜい、できるかぎり主観や好みをおさえて、いろいろな角度から光をあててみて、できるかぎり客観的態度に近づくよう努力する、ぐらいがようやくのことだ。
 しかしそこでもう少し見方をかえてみる。今回もまた前回同様、編集部であらかじめ整理した何千機種かのパーツリストが目の前に置かれている。あまりの数の多さに一瞬絶望的な気持になるが、意を決して赤鉛筆など持って、はじめは薄く○か何かのシルシをつけてゆく。パーツ名を追う手が、あるところでふとためらい、○をつけ、消し、もういちどつける……などということをくりかえす。それは結果的にみると、選んでいる、ともいえるし、落している、ともいえる。結果は同じでも、選ぶ、というつもりで○をつけるのと、落す、という意識で○をつけないのとでは、こちらの気持はずいぶん違ってくる。そこで考えこんでしまった。
 というのは、これだけのメーカーが、一品一品時間と手間をかけて作ったものを、メーカー側でダメだとは、まさか思っていないだろう。それをこちら側からみると、意にかなうものとそうでないものとに分かれてしまう。それなら、このパーツはリストアップしない、これは落す、そういう明確な理由づけのできないパーツを落すのは変じゃないか、ということになってくる。上げない理由、が不明確であるのなら、落す理由にはならない。
          *
 こういう考え方をしてみたら、かなりの数のパーツに○をつける結果になってしまった。今回は、前回のような百五十機種、というような数の制約がなかったせいもある。しかしリストアップを編集部に渡したあとで、私の数が最も多かった、ときかされて、少し複雑な気持になっている。ほかの諸氏たちの選定の基準あるいは理由を、一日も早く読んで納得したい、という気持になっている。くりかえすが、私個人は、上げない理由、の明確でないパーツは落さなかった、というだけだ。
 それにしても、はじめの分類でも書いたように、リストアップしたパーツにも、大別すれば三つの理由があるわけで、そのちがいについては、リストアップしたパーツごとの説明を書く段になって、自分自身にもはっきりしてきた。◎や△のように積極的な意味を持って上げたパーツの原稿を書くときは、しぜん書き方に弾みがつくが、○印のパーツの場合は、どこかよそよそしい隙間風が吹くような気分に、書いていながらおそわれている。だとすると、思い切りよく◎と△以外は切り捨ててしまった方がよかったのかもしれない、という気持にもなるが、もしそうしたとしたら、逆に私のリストアップはいちばん少なくなってしまったに違いない。
 こういう具合で、リストアップするにも、その拠りどころとなる基準や理由のつけかたによって、パーツの数は相当大幅に変ってしまう。その点今回の私のリストアップは、あるいは迷いの結果であるかもしれないが、しかし、上げたパーツがもしどこか自分の考えと一致しない部分があれば、できるだけ正直に具体的に書くようにした。そのために、リストアップしておきながら、部分的に批判しているようなものがけっこう多いはずだが、右のような次第であることをご理解頂きたい。
          *
 ところで、私にはテープデッキ以外のすべてのパーツが与えられたが、パーツによってその選定の根拠に多少の違いがあるので補足しておく。
 第1にスピーカー。ここでは、音質に重きを置いた結果、どうしてもやや主観的な選定になっている。自分として賛成できない音のスピーカーは上げていない。
 また、スピーカーユニットは棄権させて頂いた。最近この部門については不勉強で、たまたま知っている数機種を上げれば、かえって不公平になることと、ユニットに関しては、使い手の技術や努力によって、得られる音のグレイドにも大幅の違いが生じるから、単にパーツをリストアップする意味に疑問を感じたためでもある。
 第2にアンプとカートリッジについては、スピーカーシステムほど徹底して主観を通すということをせずに、客観的データを参考にして、ある程度幅をひろげた選び方をした。またチューナーについては、単体として優れたものばかりでなく、プリメインまたはセパレートアンプとのペア性、という点をやや考慮した。チューナー単体としては水準スレスレの出来でも、ふつうの場合、プリメインアンプを選べばそれとペアのチューナーを並べた方が気分がいいと思うから。
 第3のプレーヤーおよびモーター単体については、もしほんとうに私の主観を強く出せば、ほとんどリストアップできなくなってしまう。というのは、プレーヤーやそのためのパーツについて、「レコード芸術」誌上でここ半年ほど論じたように、扱い手の心理まで含めた操作性の良さやデザインの洗練の度合、ということを条件にしてゆくと、これならというプレーヤーまたはパーツは、おそらく二〜三機種しかないからだ。したがって、ことにモーターについては回転機としての物理特性の良いものという前提で、デザインやフィーリングに不満があってもあえてそれを条件としてあげている。

スピーカーユニットのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 JBLの新モニターシリーズなどをのぞくと、いじって面白いスピーカーシステムと、いうのは既製品にはほとんどない。自作して、悪戦苦闘しながら、時間を手間をかけて自分の思いどおりに飼い馴らしてゆくことこそ、スピーカーシステム作りの本当の楽しさといえる。スピーカーユニットは、そういう長期の使いこなしに耐える可能性を秘めていなくてはならない。しかしまた、スピーカーユニットは、使い手の感性や技術力によって、抽き出される能力に大幅の違いがあるので、こういう形で銘柄だけあげることには疑問も残るのだが……。

プリアンプ/パワーアンプのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 セパレートタイプはどうしても割高につくのだから、デザインや操作性や大きさを含めた置きやすさや、機能の豊富さあるいは独自性、そして最も重要な音質の良さ、などのどれかの項目で、プリメイン一体型ではできない何か、がなくては困る。ところがプリメイン型の性能がエスカレートしてきたために、一体型で達成できない項目が減ってしまい、セパレートであることの意味あいが薄れはじめている。この辺でそろそろ、メーカーにはセパレートの意義を洗い直して発想の転換を試みるよう望みたいところだ。

レシーバーのベストバイを選ぶにあたって

岩崎千明

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 レシーバーは、オーディオマニア的リスナーよりもメカには弱いが実用的な音楽志向のファンのために有効な手段であろう。それは、質的にはほぼ同価格のプリメイン+チューナーと変ることなく、スペースの点ではほぼ1/2だから。ただパネル一面にダイアルを主体としたチューナー分にプリメインアンプが納められる結果、頻度の低いアクセサリーは省略せざるを得ない。しかしそれは逆に扱いやすさともなり得る点でメカに弱い音楽ファンには、かえってありがたい点ともいえるだろう。デザイン面が重視されるのは、需要層の要望の特長だ。

FMステレオチューナーのベストバイを選ぶにあたって

井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 チューナーは、基本的にはFM放送を受信する通信機であるために、ローコストでパフォーマンスが高い機種を探すとなると至難というほかはない。たんに、ディスク、テープデッキと並ぶ、プログラムソースと考えると、放送局の数も少なく、放送自体のクォリティも、あまり感心できない現状だけに、選び方は使う側の立場で大幅に異なるはずだ。ここでは、アクティブな意味でFMステレオを楽しみ、同調操作のフィーリング、トータルなデザインを含めた、コンポーネントチューナーとして、ふさわしいモデルをあげてみた。

レシーバーのベストバイを選ぶにあたって

井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 レシーバーは、その名が示すようにFMステレオを中心にして、気軽に音楽が楽しめる点が、もっとも大きな魅力と考える。基本的には、FM放送を受信するチューナー部と、オーディオアンプ部分のバランスが重要であり、つねに手もとに置いて使うものだけに、トータルなデザインでも、充分に長期間にわたって使えるだけの洗練された感覚をもつものでないと困る。
 ここで、選出した機種は、かなり偏った印象があるかもしれないが、本当の意味での良いレシーバーが少ない現状では、これらが日本的意味での良いモデルだと思う。

スピーカーユニットのベストバイを選ぶにあたって

井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 スピーカーユニットは、用途別に分類しても品種は多く簡単に選ぶ理由は記しにくいものがある。全域用では、使いやすく、発表以来安定した性能をもつものを第一に選んでいる。つまり、神経質で使い難いユニットは魅力があっても落してある。ウーファーなどの専用ユニットは推奨される組合せの結果を基準とし、場合によれば単体としての個性があり、オーディオ的な魅力をもつユニットは、組合せとはやや離れる欠点はあっても、それを承知で選出した例もある。本格派の専用ユニットが不作の昨今、現存するユニットは貴重だ。

スピーカーシステムのベストバイを選ぶにあたって

井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 スピーカーシステムは、他のコンポーネントとは異なった性格を持っている。設置する場所によるトータルバランスの変化、使用期間のエージングによる変化、温度、湿度などの外部的要因による短期間の変化など、音の変化するファクターは多い。したがって、セレクトした機械は、長期間かなり使い込んだモデル、短時間ではあるが性格をつかんでいるモデルを中心にしている。いろいろな意味での良い音、つまり、音の傾向の違いこそあれ、コンポーネントスピーカーシステムとしてつかうだけのメリットと可能性をもつ機種である。

アクセサリーのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 セットを置く棚、スピーカー置くための適当な台、あるいはセレクタースイッチやMCカートリッジのトランス類なども入るのだろうが、そのいずれも、ほんとうに入念に計画された製品は少ないし、満足できる品ものが見当らない。それで、レコードのブラシとカートリッジの入れものと、ヘッドフォンとMCカートリッジ用ヘッドアンプ、という、変な取り合わせになった。ただ、アクセサリーというと非常に範囲が広くなるので、このほかにも、うっかり落していたり、売っているのに知らない製品がいろいろありそうに思う。

プリメインアンプのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 スピーカーやカートリッジに関しては、輸入品は割高につくことを承知しても、あえてそれを買いたいと思い、また高額の出費をするだけの内容を持っているからこそ輸入品を求める。けれど、プリメインアンプに関するかぎり、2万円台から20万円台まで、ほぼまんべんなく国産の優秀製品が揃っていて、ことアンプに関するかぎり、輸入品にはほとんどメリットが見出せない。ただし、価格を度外視すれば、海外製品の中に少数ながらも、音質やデザインに国産品にない味のある製品がみられる。がそうなるとベストバイとはいいにくい。

プリメインアンプのベストバイを選ぶにあたって

岩崎千明

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 アンプを選ぶのは、ステレオシステムそれ自体を選ぶことの基といえる。アンプが決まればシステム全体が決まるも同然だ。
 プレーヤーに対して重点を置く、あるいはスピーカーに贅沢をする、それは個人の好みとしてステレオ選択の姿勢には違いないが、それもひとつの基準あっての重点、贅沢だ。ならばその基準は、というと総合金額、総価格と思われがちだが、実はアンプにその全ての姿勢がある。そうなるとあるらゆるレベルのアンプが要求される。ただそのレベルにおいて性能上の最低限界は厳しく見定めなければならないのだ。

トーンアーム/フォノモーターのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 モーターとアームを別々に購入してシステムを組み上げることは、かつては、完成品に満足すべきものがない、というのが大きな理由だった。また、完成品より安くて良いものが作れる、という理由もあった。いまでは下手をすると完成品の方がはるかに、性能が良くて安い。そうした現在、あえてシステムを組み上げるというには、完成品にはない独特の構造やデザイン、あるいはより高性能のアームやモーターが欲しいから、ということになる。こういう視点を理解しなくては、ユーザーにアピールする製品にはなりにくいと思う。

FMステレオチューナーのベストバイを選ぶにあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 FMチューナーの性能の良否を調べるには、長期に亘ってあらゆる放送プログラムを、しかもアンテナや受信地などの環境や条件を変えながら、試聴し録音・再生して総合的に判断を下さなくては、本当のところはわからないといってよい。そういうテストは、もはや個人の力では無理である。が一方、大掴みな面からみると最近は技術力の格差が少なくなって、アンプと並べておいた場合の外観の統一から選んでも、そう間違いはないともいえるようになった。だからここでは、外観や操作性に新しい試みのみられる製品を中心にあげた。

プリアンプ/パワーアンプのベストバイを選ぶにあたって

井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 セパレートアンプは、とかく実用性を重視しがちなプリメインアンプとは異なり、かなりオーディオ的、趣味的な面を重視してセレクトしている。つまり、プリメインアンプの延長線上に位置すると思われるようなバーサタイルな性格をもつモデルに、私は余り興味がない。やはり、このアンプならではの独特な個性が、デザイン的にも、音質的にも、アンプとしての性格的な面にもなくてはならぬと思う。セパレートアンプのいまひとつの魅力である、強力なパワーも重要なファクターであるが、クォリティあってのパワーである。