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テクニクス SE-A1、ヤマハ 101M

井上卓也

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 セパレート型アンプのジャンルでは、コントロールアンプに比較して、パワーアンプに名作、傑作と呼ばれる製品が多い傾向が強いように思われる。
 こと、コントロールアンプに関しては、管球アンプの以前から考えてみても、いま、残しておきたい音というと、個人的には、管球アンプのマランツ♯7と、ソリッドステート以後ではマーク・レヴィンソンLNP2の2モデルしか興味がない。
 これに比較すれば、パワーアンプではいま聴きたい音、あるいはとっておきたい音は数限りなくあるといってもよいし、個人的にもパワーアンプのほうが好きなようで、手もとに残してある製品を考えても、パワーアンプの総数はコントロールアンプの3倍はあると思う。とくに、この号が発刊される頃(秋)は、感覚的にも、管球アンプを使いだすシーズンであり、音的には体質にマッチしないが、マッキントッシュMC275を再度入手したいような心境である。
 国内製品でも、パワーアンプには興味深い製品が数々あり、AクラスパワーアンプのエクスクルーシヴM4、全段FET構成のヤマハBI、 ハイパワー管球アンプのデンオンPOA1000Bなどは、オーディオの夢を華やかに咲かせた。それぞれの時代の名作であり、コレクション的にも興味のある作品と思う。
 パワーアンプでAクラス増幅の高品位とBクラス増幅の高効率が論議され、各社から各種のBクラス増幅のスイッチング歪とクロスオーバー歪を低減する新方式が開発された時点で、スイッチング歪とクロスオーバー歪の両方が発生せず、しかもAクラス増幅で350W+350Wという超弩級のパワーをもつ驚異的なパワーアンプとして、テクニクスから1977年9月に登場した製品がテクニクスA1だ。
 テクニクスの伝統ともいうべきか、全段Aクラス増幅のDCコントロールアンプのテクニクスA2と同時に発表されたA1は、独特のコロンブスの卵的発想によるAプラス級動作と名付けられた新方式を採用した点に最大の特徴がある。
 基本構想は、スイッチング歪とクロスオーバー歪が発生しない低出力A級増幅パワーアンプの電源の中点をフローティングし、別に独立した電源アンプで信号の出力増幅に追従するようにA級増幅アンプの電源中点をドライブするという2段構えの構成での高効率化である。
 これにより、アンプの外形寸法はA級増幅の100W+100Wなみに抑えることが可能となり、しかも強制空冷用のファンなしの静かなパワーアンプが可能となったわけだ。またこのモデルは、入力や出力のカップリングコンデンサーや、NFBループ中にもコンデンサーのないDCアンプを採用しながら、DCドリフト対策として、出力のDCドリフト成分を信号系とは別系統の系を通してDCドリフトの要因となる回路素子に熱的にフィードバックし、素子間の温度バランスを補正し、DCドリフトの要因そのものを打消すアクティブサーマルサーボ方式を採用していることも特徴である。
 機能面は、4Ω、6Ω、8Ω、16Ωのスピーカーインピーダンスによる指示変化を切替スイッチで調整可能の対数圧縮等間隔指示のピークパワーメーター、レベルコントロールによりプリセット可能な4系統のスピーカー端子、2系統の入力切替、電源のON/OFFのリモートコントロールなどが備わっている。
 周波数特性、DC〜200kHz −1dB、スルーレイト70V/μsec、350W+350W定格出力時(20Hz〜20kHz)で0・003%のTHDと、スペックのどれをとってもパワーアンプとして考えられる極限の性能を備えていた。しかも、業務用ではなく、純粋にコンシュマーユースとして開発された点に最大の特徴がある製品だ。
 柔らかく、穏やかな表情と、しなやかで、キメ細かい音が特徴であったが、余裕たっぷりの絶大なスケール感は、ハイパワーであり、かつ、ハイクォリティのパワーアンプのみが到達できる独自の魅力で、現在でも鮮やかに印象として残るものである。今あらためて、ぜひとも最新のプログラムソースと最新のスピーカーシステムで聴いてみたい音だ。また、このAプラス級増幅方式と共通の構想として、それ以後、エクスクルーシヴM5、ヤマハB2xなどが誕生していることも、見逃せない点だ。
 1982年末に、500W十500Wという超弩級ステレオパワーアンプとして初登場したモデルが、ヤマハ101Mである。外観のデザイン面からも判然とするように、ヤマハ一連のアンプデザインと異なった印象を受けるが、基本構想はレコーディングスタジオでのモニターアンプ用として開発されたモデルでナンバー末尾のMは、モニターの意味であると聞いている。
 構成は、筐体は共有しているが、内部は電源コードまでを含み完全に左右チャンネルは独立した機構設計をもっている。人力系は、欧米でのスタジオユースを考えオスとメスのキャノン型バランス入力とRCAピンのアンバランス入力とレベルコントロール、さらに、BTL切替スイッチが備わり、BTL動作時は、1500W(8Ω)のモノパワーアンプになる。なお、出力系は、切替スイッチはなく、1系統のダイレクト出力端子のみ、というのは、いかにも、プロフェッショナル仕様らしい。
 パワー段は、+−70V動作のメタルキャンケース入り、Pc200Wパワートランジスター5パラ動作をベースに、+−120V動作の4パラ動作が必要に応じて加わる方式で、ヤマハ独白のZDR方式採用でパワーパワー段での各種歪、スピーカーの逆起電力による歪までをキャンセルし、定格出力時THD0・003%は、見事な値だ。
 音の輪郭をシャープに描き出し、ストレートに力強い表現をする音は、一種の厳しさをも感ずる凄さがあり、国内製品として異次元の世界を聴かせた印象は今も強烈だ。

オンキョー Grand Scepter GS-1

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
「THE BIG SOUND」より

 オンキョーは、 もともと、スピーカー専門メーカーである。そのンキョーが今回発売した「グランセプター」は、同社の高級スピーカーシステム群「セプター・シリーズ」の旗艦として登場した。しかし、このシステムは元来商品として開発されたものではなく、研究所グループが実験的に試作を続けていたもので、それも、ごく少数の気狂い達が執念で取組んでいた仕事である。好きで好きでたまらない人間の情熱から生れるというのは、こういう製品の開発動機として理想的だと私は思う。ただ、情熱的な執念は、独断と偏見を生みがちであるから、商品としての普遍性に結びつけることが難しい。
 変換器として物理特性追求と具現化が、どこまでいっているかに再びメスを入れ、従来の理論的定説や、製造上の問題を洗い直し、今、なにが作れるか、に挑戦したオンキョーの研究開発グループの成果が、この「グランセプター」なのである。そして、その結果が音のよさとしてどう現われたか? このプロトタイプを約一年前に聴く機会を得た私は、条件さえ整えば、今までのスピーカーから聴くことのできないよさを、明瞭に感知し得るシステムであることを認識したのであった。
 限られた紙面で、そのすべてを説明することは不可能であるが、このシステムの最も大きな特徴と、その成果を述べることにする。
 オールホーンシステムである「グランセプター」は、ホーンスピーカーのよさであるトランジェントのよい音のリアリティ、ナチュラリティを聴かせるのに加え、従来のホーンシステムのもっていた、いわゆる〝ホーン臭い〟という癖を大きく改善している。それは、ホーン内の乱反射による時間差歪を徹底的に追求した結果として理解出来るのだが、それが実際、こんなに音の違いとして現われたというのは、新鮮な驚きであった。可聴周波数帯域内での時間特性の乱れは、スピーカーの音色に大きな影響を与えるものであることは知られていた。
 ここでいう時間特性というのは、周波数別に耳への到達時間がずれるかずれないかを意味するもので、ユニットから放射された音がホーンの開口から放射される前に、内部で起きる反射や回折によって時間的遅れを生むのを極力防ぐことに大きな努力が払われたのが、このシステムの一大特徴である。一般に、この時間が2〜3ミリセコンド以下なら人間の耳は感知しないといわてきた。
 そして、屋内での空間放射の現状を知ると、システムそのものの時間特性の僅かなずれは問題にならないと考えるのが常識であった。「グランセプター」では、ウーファーとトゥイーターのユニット間の時間特性をコントロールするという大ざっぱなことではなく、一つのドライバーが受け持つ帯域内での時間のずれまでを可能な限りコントロールしているのが注目すべきところである。前述のように、ダイレクトラジェーターと異なり、ホーンドライバーの場合、ホーン内の反射回折、ホーン鳴きなどはすべて時間特性の乱れとして見ることが出来るので、これを、ホーンのカーブと構造、その精密な加工技術、材質の吟味を、途方もない計算と試作の積重ねによって徹底的に微視的追求をおこなっている。これによって、あたかもヘッドフォンと耳との関係に近いところまで時間のずれをなくすべく努力が払われているのだ。この効果は、例えば、ピアノやヴァイオリンの単音の音色の忠実性にも現われるはずで、単音に含まれる複雑な周波数成分の伝送時間のずれがもたらす、音色の変化が少ない。ましてや、オーケストラのトゥッティのような広帯域成分の音色では、たしかに、大きな差が出る。耳と至近距離にあって時間ずれの起きないヘッドフォンの音色の自然感に通じるものなのである。
 オールホーンの2ウェイシステムで、能率が88dBというのは、異常なほどといってよい低能率ぶりである。ウーファーのホーンロードのかかりにくい帯域に合わせてそのf特とトゥイーターのレベルを抑え込んだ結果である。ウーファーはデルタオレフィン強化のリングラジェーターをもつ強力なドライバーで、波のコーン型ウーファーではない。振動板実効口径は23cm。これが800Hzまでを受け持つ。トゥイーターは65φの窒化チタンのグラデーション処理──つまり、断層的に窒化の施されたチタン材である。いい変えればセラミックと金属のボカシ材だ──を施したダイアフラムを採用。剛性とロスのバランスを求めた結果だろう。
 指向性は、水平方向に30度、垂直方向に15度と比較的狭角である。これも放射後の位相差を招かないためであり、従って、リスニングエリアはワンポイントである。厳密なのだ。無指向志向や反射音志向とは全く異なるコンセプト、つまり、技術思想が明確である。反面、左右へリスニングポジションを動かした時の定位は比較的安定している。
 使用にあたっては、かなり厳格に条件を整えなければならない。決してイージーに使えるようなシステムではない。それだけに条件が整った時の「グランセプター」は得難い高品位の音を聴かせるのである。
 とにかく、この徹底した作り手側のマニアックな努力と精神は、それに匹敵した情熱をもつオーディオファイルに使われることを必要とし、また、そうした人とのコミュニケイションを可能にする次元の製品である。そして過去の実績を新たなる視点で洗い直して、歩を進めるという真の〝温故知新〟の技術者魂に感銘を受けた。

サンスイ C-2301

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 サンスイのアンプは、AUシリーズのプリメインアンプ群の充実したラインが確固たる基盤を築き、すでに8年にわたって基本モデルを磨き上げ、多くの技術的特色を盛り込みながらリファインにリファインを重ねるという、地道な歩みを続けている。初期のものと、8年後の現在のものとでは、中味は別物のアンプといってよいほど充実していながら、型番やデザインを変更せずに、また、音のポリシーも一貫したサンスイの感覚で練り上げるという地に足のついた姿勢は誰もが認めるところであろう。まさにオーディオ専門メーカーらしい自信と頑固さといってよく、また、それゆえに、今回の信頼と成果が得られたといってよい。当然、より上級のセパレートアンプの開発は技術者の念頭に常にあったにちがいないが、安易に商品として出さない周倒さも、このメーカーらしい用心深さというか、今か今かと待っていたこっちのほうが、じりじりさせられたほどである。
 82年暮に、パワーアンプB2301が発表され、続いて翌83年初頭に、その弟分ともいえるB2201が満を持して発売された事は記憶に新しい。このパワーアンプは、さすがに実力のある内容で、その分厚く、どっしりとした音の質感は、豊かな量感を伴って、音楽の表現の暖かさと激しさを、そして、微妙な陰影に託した心のひだを、よく浮彫りにしてくれる優れたアンプである。内容の充実の割には、見た目の魅力と、品位に欠けるのが憎しまれるが、部屋での存在として必ずしも表に現われることのないパワーアンプの性格上、容認できるレベルではあった。しかし、その時点においても、このパワーと対になるコントロールアンプは遂に姿を見せることはなかったのである。
 C2301としてベールをぬいだのが、その待望のコントロールアンプであって、去年のオーディオフェアの同社のブースに参考出品として展示されていたのを記憶の方もあるかもしれない。本号の〆切に、その第一号機が間に合って、試聴する機会を得たのは幸いであった。
 C2301。パワーアンプのB2301と共通の型番を持つこのモデルは、どこからみてもサンスイの製品であることが一目瞭然のアイデンティティをもっているのが印象的で、パワーアンプで苦情をいったアピアランスは、コントロールアンプでは一次元上っている。どうしても、目立つ存在であり、直接操作をするコントロールアンプとして、しかも、かなりのハイグレイドな製品ならば、使い手の心情を裏切らないだけの雰囲気を持っているべきだ。
 細かい内容は余裕があれば書くことにして、まずこのコントロールアンプの音の印象を記すことにしよう。サンスイのアンプの音の特徴はここにも見事に生きている。それは音の感触が肉厚であること。弾力性のある暖かい質感だ。脂肪が適度にのっていて艶がある。それでいて決して鈍重ではない。低音はよく弾み、ずーんと下まで屈託なくのびている。中域から高域は、決してドライにならず、倍音領域はさわやかだが、かさつかない。ブラスの輝やきは豪華だが薄っぺらではないし、芯がしっかりと通る。弦の刺戟的な音は、やや抑えられ過ぎと思えるほど滑らかになる傾向をもつ。どちらかというと解脱には程遠い耽美的な情感に満ちている傾向のアンプである。音楽は宇宙だから、そこにはすべての世界を包含するが、このアンプで天上の音楽を奏でることは無理だろう。正直なところ、筆者のように俗物として、音楽に人の魅力や生命の息吹きを求め彷徨している快楽主義者にとっては、これでよい。いや、このほうがよい。色気がある音だから。しかし、あまりに強くこういうことをいいたくなるというのは、長く聴いているとやや食傷気味になるような個性なのかもしれない……などと思ってみたりしている。なにしろ、きわめて限られた時間の試聴だから、完全に自信のある印象記は書けない。
 オーディオ的な表現をつけ加えるならばプレゼンスはたいへんよいし、定位感も立派なものだ。奥行きの再現、音場の空気感も豊かだし、見通しのよい透明度もまずまず。肉感的な音の質感だから、音像のエッジはそれほどシャープな印象ではない。シャープさを望むなら、他に適当なアンプもあるから、このほうが存在理由があると感じられる。紙数がなくなったが、このアンプも、最近のサンスイ・アンプの技術的特徴であるバランス回路方式をとっていて、出力はアンバランスとバランスの両方が得られる。
 コントロールアンプとしての機能はよく練られ、随所に細かい気配りとノウハウのみられる力作である。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ボストン・アコースティック。その名の示す通り、このブランドは、アメリカ東部のマサチューセッツ州生まれである。
 オーディオの好きな読者なら先刻御承知のことと思うが、このマサチューセッツ州ボストン郊外は、ちょっとしたオーディオタウンであって、あのARの誕生以来、アメリカ製スピーカーの系譜の一つを代表する地域である。その中で、このボストン・アコースティック社は比較的新しいメーカーではあるが、その血統は、まさに、イーストコーストサウンドの純血を継ぐものであり、AR、KLH、アドヴェントと同系のメーカーである。有名なヴィルチュア博士のアクースティックサスペンション理論にもとづく、密閉型の小型エンクロージュアで最低音まで再生する方式が、イーストコーストスピーカーの原点といってもよいと思うが、この基本的な発想と設計のコンセプトを受け継いで、KLH、アドヴェントといった分派が生まれたのである。
 ボストン・アコースティック社の社長であるフランク・リード氏は、まさに、AR、KLH、アドヴェントという三つのメーカーの要職を歴任してきた人物であり、技術部長のペティート氏(フランス語のプティ……本当に背が小さい人…)は、ヴィルチュア博士の理論に基づく設計の実際をAR社において担当してきた人物なのである。ボストン・アコースティック社がイーストコーストのスピーカーメーカーの正統な流れをくむ存在であるといえる所以である。
 このB・A社の現在のラインアンプの中でのトップモデルが、ここに御紹介するA400であって、この下にA150、A100、A70、A60、A40という各モデルがシリーズ化されている。トップモデルとはいえ、日本での価格が15万円台という買い易いものであるのが目を惹くが、果して、その内容と、実力はどんなものであろうか……期待と不安が入り交った心境で、このニューモデルに接したのであった。
 結論から先に言いたくなる気のはやりを押え切れないので、いってしまおう。素晴らしいスピーカーシステムであった! 自宅と、SS誌の試聴室との二ヵ所で試聴したのだが、両所での音の印象はほとんど変らなかった。実は、この二ヵ所のルームアクースティックはかなり違い、いつも耳のイクォライゼーションに苦労をさせられるのだが、このスピーカーに限って、不思議なほど、同じような印象の音が聴けたのである。これは、このA400というシステムが、ルームアクースティックの影響を受けにくいことを示すものではないかと思って、英文の資料を読んだら、まず、その件が明記されていた。〝A400の独特の設計技術は、部屋の個有の癖による影響を出来る限り受けにくいものにした〟と書かれている。また、先を読み進むうちに、こんなフレーズも出てきた。〝A400は、軸上で直接音を測っても、間接音を含め、部屋でのトータルレスポンスを測っても、ほとんど同じ周波数特性を示す。技術者が今までに考えてもできなかった数少ないスピーカーシステムである。〟もちろん、メーカーの資料というものは、いいことずくめしか書いてないのは当然であるが、この件に関しては、計らずも、体験が先行したことだから信用してもよいとも思える。
 3ウェイ4ユニット構成のフロアー型で、ウーファーは20cm口径が2基、スコーカーは15cmコーン型が1基、そして2・5cmのドーム型トゥイーターが1基という内容だが、そのエンクロージュアのプロポーションがユニ−クで美しく、しかも、このシステムの優れた特性の秘密の一端を担っているものだ。幅53cm・高さ1mという大きいバッフルだが、わずか奥行は18cm少々といった薄さである。この寸法はエンクロージュア内のエアーボリュウムの厳密な計算の結果出たもので、トゥイーターのマグネット、スコーカーのキャビティ、ネットワークなどの体積を除いて、2つの20cmウーファーの低域特性の調整の最適値に設定されている。もちろん、完全密閉型だ。実に美しく、スマートな外観でもある。
 イーストコースト・サウンドといえば、重い低音の魅力が誰の耳にも記憶されているであろうが、新しいイーストコーストサウンドは鮮やかな変身をとげた。低音の質感は密閉型のエンクロージュアとは思えないもので、重苦しさがない。中高域は自然で、全帯域にわたって、きれいに位相感がそろっていてプレゼンスが豊かだ。こする音も滑らかだし、叩く音も実感があって潑剌としている。パワーにもタフだ。美しい姿といい、音の品位の高さといい、価格を超えた価値をもつ立派な製品である。

ピカリング XLZ7500S

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ピカリングといえば、シュアーと並んでアメリカの力−トリッジメーカーの名門として有名だ。数多くの優れたMM型カートリッジを世に送り出してきたが、このXLZ7500Sという新しいMM型は中でもひときわユニークな製品といってよい。
 MM型カートリッジのMC型のそれに対する一つの大きなメリットは、出力電圧が高く、ヘッドアンプやトランスを使う必要がない点にあるが、この製品は、あえてそのメリットを犠牲にしてまで、音質の品位を追求したものと解釈できるのである。0・3mVという低い出力電圧はMC型並みである。
 なぜ、こういう製品が生れたのかという疑問が当然おきて不思議ではないが、筆者も、この音を聴く前には納得できなかった。ピカリング社の主張は、MM型の振動系のほうが、容易に精度を高めることが可能であるから、コイルのターン数を減らして、SN比の向上と歪みの低減を実現すれば、従来のMM型を超える製品ができるはずだというものである。MM型とMC型との優劣については、物理特性的には容易に優劣がつきにくいが、現状では高級カートリッジはMC型が常識のようになっている。したがって、このMM型がただ単に既成のMM型を凌駕するだけでは存在の必然性が危ぶまれてもしかたがないだろう。多くのMC型に比較して、性能面はもちろん、音の品位やセンスに明確な存在理由を感じさせるだけの成果があらねばならないのである。
 メーカーは、この製品の使用条件に、100Ω以上のインピーダンスで受けるように指定しているが、これは、ヘッドアンプの使用を標準として考えていることと理解できそうだ。つまりトランスは、一次インピーダンスは3〜40Ωのものが多く、筆者の知る限り、100Ω以上の入力インピーダンスをもつものはほとんどない。手許にあったトランスも、ハイインピーダンスのもので40Ωだったが、一応ヘッドアンプと平行して使ってみた。
 試聴結果は、これがMM型であろうと、MC型であろうと、そんな事を忘れさせるにたる高品位の音質であった。とにかく、音の透明度が高いのが新鮮な印象で、いかにも純度の高い、歪みの少ないトランスデューサーらしい音がする。変換器としての特性は相当に高い次元まで追求された高級カートリッジだということが感じられる。標準針圧1gでトレースは完全に安定している。このメーカーの開発テーマの一つに振動系の立上り時間の速さが上げられているが、たしかにこのクリアーでフリーな音の浮遊感は、振動系の機械歪みが少ないためであろう。最近のコントロールアンプやプリメインアンプにはMC用ヘッドアンプ内蔵のものが多いから、この小出力MM型は、なんのハンディもなしに、その美しく透明な音の魅力を評価されるであろう。

ヤマハ A-950, A-750, T-950

井上卓也

ステレオサウンド 67号(1983年6月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ヤマハのプリメインアンプが、最新のコンセプトにより開発された新世代の製品に置換えられることになった。その第1弾の製品が、今回、発売された中級価格帯のプリメインアンプA950、A750と、各々のペアチューナーであるT950、T750の4機種のシリーズ製品である。
 プリメインアンプの特徴は、パワーアンプに新しくクラスAターボ回路が採用されたことと、電源部がX電源方式ではなく、従来型の方式に変更されたことである。
 クラスAターボ回路とは、ヤマハ初期の名作といわれたCA1000において採用された、A級動作とB級動作のパワーアンプをスイッチ切替で使い分ける方式を発展させ、新シリーズでは、純粋なA級動作とA級動作プラスAB級動作の2種類の組合せがスイッチで切替えられるようになった。
 とかく定格出力が最重視され、表示パワーが最大の売物になっているプリメインアンプの動向のなかにあって、質的には非常に高いが効率が悪くパワーが得難いA級動作を復活させた背景には、ヤマハオーディオの初心であるクォリティ重視の思想が、現状で、もっとも必要なテーマであるという判断があったからにちがいない。
 一方、データ的な裏づけとしては、A750をAB級動作領域のノンクリッピングパワー150W(8Ω)にテストレコードのの最大振幅部分を合わせた状態での各種レコードの実測データによれば、平均して、A級動作領域(5Wまで)96・4%、AB級動作領域3・6%の割合が得られたことで、実際の使用では音量は10〜20dB程度は低いであろうから、ほとんどA級動作領域でアンプは使われることになるはずだ。
 クラスAターボ回路に加え、従来からのヤマハ独自のZDR方式を採用し、A級動作を一段とピュアにするとともに、AB級動作時にもA級に匹敵する特性と音質が得られる。さらに、アースの共通インピーダンスの解決策として採用されたグランドフィクスド回路は、単純明快な方法である。また、スピーカーの低インピーダンス負荷時の出力の問題に対しては、X電源以上に優れた給電能力をもつ一般的な大型電源トランスと大容量電解コンデンサー採用の物量投入型設計への転換が見られる。
 その他、NF−CR型リアルタイムイコライザー、ピュアカレントダム回路、連続可変ラウドネス、メインダイレクトスイッチなどの機能面の特徴、クォリティパーツの採用などは、すべて受け継いだ内容だ。
 デザインの一新も新シリーズの魅力で、すべてブラックに統一し、CT7000以来のドアポケット型のパネルの採用による適度な高級感のある雰囲気は楽しい。
 チューナーは、各種のオート壊能を備え、とくに強電界での実用歪率の改善が重視されている点に注目したい。
 A950は、電気的な回路設計と機構設計が最近の製品として珍しく見事にバランスした出色の製品である。柔らかく豊かで適度にソリッドさをも併せもつ低域は、新世代のヤマハらしい従来にない魅力をもつ。中域から高域は音の粒子が細かく滑らかで、ナチュラルなソノリティを聴かせる。プログラムには自然に反応し、シャープにもソフトにも表現できるのは、電気系、機械系のバランスの優れたことのあらわれであり、キャラクターの少ない本棟の特徴を示すものだろう。久し振りのヤマハの傑作製品だ。
 A750は、比較をすれば少しスケールは小さいが、フレッシュな印象の反応の早さは、安定感のあるA950と対称的な魅力で、デザインを含めた商品性は高い。
 T950は、CT7000以来の、品位が高く、独得のFMらしい魅力をもつヤマハチューナーらしい良い音をもつ製品。強電界でも汚れが少なく抜けのよい音であった。

アキュフェーズ C-280

菅野沖彦

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「コンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー賞 第1回」より

 アキュフェーズの新しいコントロールアンプ、C280を我が家で聴いたのは、1982年の秋であった。その清澄無垢な響きに、このアンプの音の純度の並々ならぬものを感じ、精緻な音色の鳴らし分けに感心させられた。繊細なハーモニックスから、音の弾力性や厚味の立体感、そして合奏の微妙なテクスチュアがよく再現され、間違いなく現在の最高品位のコントロールアンプであることが確認出来た。たった一つの不満といえば、パネル中央のイルミネーションディスプレイの色調に、洗練と風格が欠けることぐらいで、パーシモンウッドケースを含めて、そのフィニッシュの高いクォリティも内容にふさわしいものであった。この色合いは、しかし、アキュフェーズの製品に一貫した感覚であるから、私はこの社のアイデンティティとして尊重し、あえて苦言は呈さなかったのを記憶している。その後機会あるごとに、このコントロールアンプに接し、その優れたクォリティを確認させられる度に、ディスプレイの色調への不満が大きくなっていく自分の気持を抑えることが出来ないのだが、これは枝葉末節としておこう。
 C280の内容は、現在の水準で最高の性能をもったものといってよく、回路構成は同社のお家芸ともいえる全段A級プッシュプル僧服を、さらに、全段カスコード方式で実現している。これにより裸特性の高水準を確保し、安定した動作とハイゲインを得ている。ステレオアンプ構成は、完全独立型のツインモノーラル構成を基本に、左右6個のユニットアンプを別ケースで独立させ、それぞれに専用の定電圧電源をもたせるという徹底ぶりである。いうまでもなくDCアンプだが、DCドリフトの発生は完全にサーボコントロールされ、MCのヘッドアンプ入力から、出力までの全信号系はダイレクトカップリングで一貫している。コントロールアンプの必須機能である、ファンクションスイッチは、最短信号経路で確実におこなえるように、ロジックコントロールのリレーによるもので、ロスや影響を最小限に抑えているし、信頼性の高い部品の使用により万全を期している。厚手のアルミハウジングに収められた6個のユニットアンプの整然とした美しさはメカマニアにはきわめて魅力的な光景で、内部の仕上げの美しさも最高級アンプにふさわしい緻密なものだ。
 従来のアキュフェーズアンプの音の、豊潤甘美な個性は、より節度をもったものにリファインされていて、私にいわせれば、毒も薬といい得る癖と個性の限界領域を脱却した品位の高い再生音といえると思う。現在のアンプのテクノロジーは高度かつ精緻であるから、頭で考え眼で追っても相当高度な製品を作ることは可能である。しかし、なおかつ耳と感性による見えざる問題点の実験的解析と追求の努力が、これに加わった時に、製品は確実に差をもつことになる。そしてその差は、正しい理論と技術の裏付けをもったものならば、必ず音の洗練として現われることをこのアンプは教えてくれるかのようであった。

タンノイ Westminster

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 さまざまな傾向のスピーカーがあるが、これはそのうちのひとつを極めたものといえるであろう。ともかくここできける音は、いずれの音も磨くに磨かれた音である。その結果、ここできける音にはとびきりの品位がある。がさついた下品な音とか、刺激的な音とかは、決してださない。
 このスピーカーにもっとも合っているレコードは、やはり①である。これはすばらしいとしかいいようがない。
 ②、③、あるいは④のレコードも、それなりに美しくきかせるが、これらのレコードのうちの「今」をストレートに感じさせるかというと、かならずしもそうとはいえない。しかし美しさということでは無類である。ほかに例のみられないような美しさである。
 ただ、これだけ確固とした世界を高い水準できずきあげているスピーカーになると使い手の側にもそれなりの覚悟がないとつかいきれないのかもしれない。

オーディオテクニカ AT160ML

菅野沖彦

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「コンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー賞 第1回」より

 AT160MLは、オーディオテクニカがオリジネーターである、デュアルマグネットによるVM型カートリッジである。この、互いに45度の角度で設置された二つのマグネットによる変換方式は、メカニカルに、カッティングヘッドの構造と相似のもので、同社のMC型カートリッジも、これにならって、デュアル・ムーヴィングコイル方式をとっていることはよく知られているところだ。このAT160MLは、AT100シリーズの最新製品で、私の印象では遂にこのシリーズの究極に近づいたと思える製品である。MLはマイクロリニアスタイラスの略称で、この形状のスタイラスの評価は今後に待つとしても、このカートリッジの音質の品位の高さは特筆に値するものだと思う。音に充実感があり、見事な造形の正確さをもっていて、優れたトレース能力により、レコードの情報を実に豊かにピックアップしてくれる。VM型の発電系がカッターヘッドと相似なら、たしかにこのML針もよりカッティング針に近い形状のものであるのが興味深い。カンチレバーはベリリユウムに金蒸着のムク材を使っているが、全帯域にわたって音色の癖がなく、大変バランスのよい振動系が形成されているにちがいない。MM型としては、中高域の中だるみのないものだが、これは発電系のコアーの継ぎ目をなくしラミネート構造と相俟って発電効率を高めたパラトロイダル発電系によるものとメーカーでは説明している。一貫して主張してきたテクニカのVM型カートリッジの成果として高く評価出来る製品だ。

インフィニティ Reference Standard II

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶でのふっくらとひろがるひびきは、あたかも小さなホールできいているような感じをききてに与える。❷でのヴァイオリンの音は、しっとりとした美しさをそなえていて、うっとりききほれた。ただ、❹のフォルテでは、ひびきがきつくなりすぎることはないとしても、いくぶん薄くなる。❸ないしは❺のコントラバスがもう少したっぷりひびいてもいいように思うが、過度にふくれてひびかないのはいい。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶のエレクトリック・ピアノのひびきの円やかさはとても美しい。独自の艶っぽさが感じられる。❷でのストライザンドは、音像的にも小さくくっきりまとまり、声のなまなましさをきわだてる。❸でのギターのきこえ方は絶妙である。ひびきの繊細さをよく示している。❹でのストリングスはひろがりも、奥へのひきも充分で、まことに効果的である。ただ、おしむらくは、❸でのベースが力感に不足している。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
このレコードはこのスピーカーと相性がよくないといえそうである。このスピーカーの身上のひとつである上品さがマイナスに働いている。こっちに突出してくるべき音も、向うにとどまる。したがって❸でのティンパニの音の左右への動きなどはすこぶる鮮明であるが、ダイナミックな感じにはならない。このレコードのきこえ方としては多少異色というぺきかもしれぬが、どことなくひっそりとしている。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶ではベースがひかえめにすぎるようである。ピアノの音が暗めではあるが、とても美しい。とりわけピアノの高い音は、決してキンキンすることなく品位を保っている。❺での管のひびきの特徴も十全に示され、これまでの部分との音色的な対比も申し分なくついている。❸や❹でのシンバル等の打楽器のきこえ方は、鮮明で、しかも効果的である。この静かな音楽にふさわしいアクセントをつけている。

相性テストの結果から選ぶコントロールアンプとパワーアンプのベストマッチ例

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 セパレートアンプ、つまり、独立したプリアンプ(コントロールアンプ)とパワーアンプの世界は、コンポーネントの組合せによる音のバリエーションをさらに細分化するものである。プリアンプとパワーアンプが、アンプとしての動作に本質的な違いがあることはいうまでもない。それは、電気的にも機能的にもいえることであって、むしろ、セパレートされていることのほうが自然の形ともいい得るかもしれない。解り易く整理した表現をすれば、プリアンプは、プログラムソース(レコードやテープなど)の変換器(プレーヤーといってもよい)を動作的に完成させるものであり、これに対して、パワーアンプはスピーカーの動作を完成させるものだ。したがって、同じような電子回路をもっているように見えても、この二つのアンプは、ただ、その回路を二分したという意味以上の必然性を持っているといえる。さらに敷衍するならば、プリアンプの設計・製造には、プレーヤーなどのインプット側の変換器の特質の理解が絶対に必要であるのに対し、パワーアンプのそれは、スピーカーの特質への対応性が条件となってくる。プリアンプは受動的要素が強く、パワーアンプは能動的要素が強いといってもよいであろう。こう考えてくると、このプリとパワーを一つにまとめたインテグレーテッドアンプ(プリメイン型)をユニットして考えるより、セパレートアンプとして、これを二分された個々のものとして考えるほうが自然であり、また、その相互のもっている音の個性を組合せによって厳密に選択追求していくことのほうが、より精緻な音質追求の方法として精巧な手段だということになるだろう。裏返していえば、セパレートアンプの世界は、まことに複雑精妙で、厄介で難しく、より高度な知識と熟練、そして時間と経費と努力を、使用者に強要することになるのは当然だ。
 しかし、音楽が複雑精妙なニュアンスに満ちた楽音を、人間の感性、情緒の洗練の極といってよい美学と、細やかな心の襞と肉体の力によって織りつめられた綾であり、聴き手は、表現する側に優るとも劣らぬ豊かな感性と、個々の資質や嗜好によってこれを受け取り、自身を満す喜びを求めるものである以上、そこに介在するメカニズムには寸分の隙をも許さない厳格さで対することは、むしろ当然であろう。だから、一度、この微妙な音色、音質の違いに心眼が開けたら最後、セパレートアンプによる精緻な音質追求こそ、汲めども尽きぬオーディオの楽しさとして感じられることになるだろう。周知のように、カートリッジ、トーンアーム、ターンテーブル、スピーカー、そしてアンプ系と、コンポーネントシステムの相互的な組合せと、その使いこなしの技術と努力によって、ありとあらゆる音の違いが存在するオーディオの世界であるが、セパレートアンプはそこに、さらに選択度と自由度と、高い可能性をもたらすのである。
 そしてもう一つの大きなポイントは、原則的にセパレートアンプは、プリメインアンプの水準を超えたパフォーマンスとクォリティをもったものであるということだ。多くの製品の中には、プリメインアンプに劣るようなセパレートアンプ、あるいは、セパレートアンプに優るプリメインアンプの存在も認められるが、私個人としては、それは正しい姿だと思わない。セパレートやブリメインを、単なるスタイル上の違いとして捉えることには賛成できない。セパレートアンプは、プリメイン型のプリアンプ部とパワーアンプの水準を、常にその時点での技術水準で凌駕しているものでなければ、存在の必然性がないという考え方である。この本質を持たない商業的商品を私は認めたくないのである。この考え方で厳格に判断すると、残念ながら、納得のできるセパレートアンプはそそう多くは存在しない。今回取り上げられたものの中にも、首をひねりたくなるものもなくはない。
 しかし、先述したように、音のバリエーションの選択度、自由度を考慮に入れると、ことは複雑になるわけで、オーディオの客観性と主観性の入り乱れた難しさ、面白さを思いしらさせるのである。例えば、ある種の管球式プリアンプのように、S/N比が決してよいとはいえないような製品は、技術的には全く問題にしたくない。製品の完成度の点では明らかに落第である。今時、プリメインアンプの安物でも、もっとS/N比は優れたものばかりだ。しかし、そのプリアンプのもつ音の魅力を個性的に好むなら、そしてそれがプリメインアンプでは得られない質だと判断するのなら、その存在を頭から否定できないのである。たとえS/N比が現在の水準で決してほめられたものではなくても、音の魅力と天秤にかけて、我慢できる範囲なら、存在の必然性を認めるべきだという気もする。メーカーには徹底的に客観性、つまり技術の正しさと高さを要求しても、これを使い楽しむ側にとっては、主観性、つまり好きか嫌いかという嗜好性が最も重要な条件となるからだ。
 セパレートアンプを使うというくらいのユーザーなら、当然、技術的に水準以上の再生音を要求する人にちがいない。つまり、再生音としてのプログラムソースへの忠実度、正確さを求める人達だろう。しかし、そうした物理的条件を満たしただけでは完成しないところが、オーディオの、レコード音楽の実態である。いやむしろ現実は、自身の好みの音を、より強く求めているようだ。好みの中に、物理的忠実度、正確さをもが含まれているというべきかもしれない。レコード音楽鑑賞という個性的音楽再創造行為として、複雑微妙な音色、音質への個人的要求の、きわめて強い人たちであろうと思う。したがって、セパレートアンプの選択は、知的に性能を判断すると同時に、情緒的に個々の感性で音を聴きとらなければならない。もちろん、これはセパレートアンプに限ったことではないが、他のものの選択より高度な判断力を必要とすると思う。また、すべてのものについていえることだが、機械は優秀な動作さえすればよいというものではないだろう。その優秀な能力にバランスした製品としての魅力が、視覚的にも触覚的にも味わえるものであってほしい。セパレートアンプは、その方式からして高級アンプであり、高級商品である。そして、それを手段として得ようとする音楽の世界は、当然並の水準よりはるかに高いものだろう。高度な音楽的欲求にふさわしい雰囲気を、使う人に感じさせてほしいと思うのは私ばかりではあるまい……。機械の品位は、材質の質的高さと、加工精度、その機械としての必然をもった形態、そして、色彩を含めたデザイン感覚の順で決まると私は考えている。つまり、どんなに洒落た色合いやスタイルでも、材質が安物では全く駄目だ。材質の品位が高ければ、それ自体でも品位が感じられるということだ。アメリカ人は、オーディオ機器についても、よくコスメティックという言葉を使う。いうまでもなく化粧である。どうも、この言葉の使われ方に私は良い印象を受けない。なんとなく、材質の品位や、工作精度といった本質的な意味とは遠い、ごまかし的イメージを受けるからである。日本ではデザインといわれるが、デザインというとむしろ中味の設計を意味するので、外観のフィニッシュはコスメティックといって区別しているのだろう。言葉の使い方の問題ではあるが、コスメティックという言葉から私が受けるようなニュアンス、イメージをもって、機械を仕上げるのを私は好まないのである。少なくとも、セパレートアンプのような高級製品には、あって欲しくない事だ。自動車のボディのように形態が、そのまま、性能や機能に影響を及ぼすものでさえ、千差万別の外観があり、品位の落差がある。本当に高級な車のボディは、例え全体のスタイルを見なくとも、せいぜい、10cm四方の部分だけをとっても、品位が解る。つまり、材質の品位と加工精度が違うのだ。また、このことは、いかなる部分といえども、ごまかしや手抜きがあってはいけないということにも通じる。昔とちがって、今は、車もオーディオも、こうした点では一抹の淋しさを禁じ得ない。
 今回、私が試聴したセパレートアンプは、海外製の7機種のプリアンプに、それぞれ4機種のパワーアンプを組み合わせるというものだった。この組合せは、考え得る組合せの、ごく一部にしか過ぎないが、それでも合計28種類の組合せである。千変万化とはいえないが、おおよその見当はつくかもしれない。7機種のブリアンプが、だいたいどういう傾向のものか、パワーアンプが同メーカーのものである場合、それを規準にして、他のアンプではどう変化するか、組合せとしてどれが最も好ましいか、といったことをさぐってみたわけだ。同メーカーにパワーアンプのないものもあるが、これは異質なパワーアンプの組合せの変化の中から、そのプリアンプ共通の個性をさぐるよう試みたつもりだ。しかし、この程度のことでは、決して明確に素姓を知ることにはならないので、他のパワーアンプとの組合せについては、知識と体験により類推していただく他はない。いわば、きわめて曖昧なテスト方法といわざるを得ないであろう。したがって、むしろ、今回の28種の組合せの試聴という限定の中で、個々の音のリポートとして受け取っていただくほうが無難である。テスト後の心境としては、テスターとして、まことにすっきりしないというのが偽らざるところであるが、今回は諸般の事情により、このような形をとらざるを得なかったようだ。また、この種のセパレートアンプでドライヴするスピーカーは、これまた個性の強い高級スピーカーが多いはずだが、これをJBL4344に限定しておこなったことも批判があるだろう。しかし現実に同じようなテストを数種のスピーカーについてやるとなると、なおさら大変なことになるわけで、一つの記事の中で、やりおおせることではない。したがって、ステレオサウンド本誌、別冊の総合的な企画の中での一つの角度からのリボートとして、このテストを受け取っていただくようにお願いする次第である。
 最後に、御参考まで、今回の28種の組合せの中で、特に好ましかった組合せをあげてみたいと思う。7機種のプリアンプの中で、私が素晴らしいと思ったものは、三つ。マッキントッシュのC33、クレルのPAM2、そしてマーク・レビンソンのML7Lであった。あとは、どこかに良さはあっても、それを相殺してしまう不満があって、総合的に価値を認め難かった。
 3機種のプリアンプは、いずれも同メーカーのパワーアンプとの組合せが規準というに足る良い結果であったが、ここで、他メーカーのアンプとの組合せで好結果の得られた3種をあげておくことにする。
①マッキントッシュC33+サンスイB2301
 テスト時には、やや低域過大であったけれど、この弾力性のある楽音の質感と、豊かなプレゼンスは素晴らしいものだと思う。
②マーク・レビンリンML7L+エクスクルーシヴM5
 この明晰な響き、透徹で精緻な音は魅力であった。難がないわけではないが、これは高く評価したい組合せである。
③クレルPAM2+エクスクルーシヴM5
 これも、同じM5との組合せだが、ML7Lの時より暖かい。そして鮮明である。重厚さではML7Lに歩があるが、これは、それを上廻る爽やかさであった。

スレッショルド FET two + SAE A1001

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 高域に強調感と、ややキメの粗さが感じられる。プリアンプの持味とパワーアンプのそれとが悪く重なり合ったようで、互いの良さが生きてこない組合せのようだ。音の表情は明るく積極性をもったものであるが、品位や風格は犠牲になったようだ。かといって、ジャズにおいても、ベースが弾まず、上から下へ押さえつけるようなリズムになってしまう。ローズマリー・クルーニーの声は、かなり濃厚で妖艶。この辺は好きずきだろう。

スレッショルド FET two + S/500

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 同じスレッショルドの製品だが、パワーアンプがこのS/500になると、S/300のときに気になった品位の低さがなくなる。マーラーの重厚で、しなやかなテクスチュアをもった響きが余裕あるスケールの大きさで迫ってくる。ヴォーカルの肉声部もより自然で、歌唱に毅然とした姿勢と風格が加わり、いかにもフィッシャー=ディスカウらしくなる。ジャズでは華美な響きが抑えられ、その分、押しのきいた充実した音で表現力が増してくる。

マッキントッシュ C33 + MC2500

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 MC2255との組合せも高品位の音だったが、この組合せはいちだんと素晴らしかった。従来、質的なデリカシーでは、MC2255のほうに歩があるという印象であったが、今回の試聴では、質量ともにMC2500との組合せが勝っていた。マーラーの響きは、重厚で柔軟性に富み、絢爛としたオーケストラの細部も見事に浮彫りにしながら、圧倒的な安定感のあるトゥッティの迫力。ピアニッシモも、十分繊細でしなやかな弦の音。見事な音だ。

クレル PAM-2 + マークレビンソン ML-3L

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 キメの細かさ、滑らかさ、充実したソリッドな質感などでは、クレルKSA100に匹敵する高品位な再生音だと感じた。しかし、どこかに、こちらのほうがひややかな感触があって、マーラーの響きにやや熱さの不足を感じる。僕の受けとっているこのレコードの個性とは、やや異質なものを感じた。ピアノの低音が少々ダンゴ気味になり、ジャズのベースも、音色的に鈍さがあって、重くなりすぎる嫌いがあった。

ミュージック・リファレンス RM-5 + クレル KSA-50

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 クラルテと呼ぶにふさわしい高音は、このパワーアンプの持つ音といって間違いなかろう。50Wアンプとは思えぬ安定度と力強さをって、スピーカーをドライブする。このマーラーでは、やや重量感に欠ける異質な音も感じるが、かといって、決してオーケストラの固有の音色は変えられていない。フィッシャー=ディスカウは品位のある、きわめて繊細な発声技術が明らかに再現される。ジャズも骨格、肉づきとともによい充実さだ。

エスプリ TA-E900 + TA-N900

黒田恭一

ステレオサウンド 64号(1982年9月発行)
特集・「スピーカーとの相性テストで探る最新セパレートアンプ44機種の実力」より

ヤマハ・NS1000Mへの対応度:★★
 いずれのレコードでもすっきりと提示されていた。いくぶんクールにすぎるかなと思わなくもなかったが、この示し方の「正確」さはやはり美点というべきであろう。しかしながら③のレコードなどではひびきの熱を伝えきれていなかった。音の距離を感じてしまうなり方とでもいうべきか。
タンノイ・Arden MKIIへの対応度:★★★
 ひびきの暗さが気にならなくもないが、バランスのよさが印象的であった。④と⑤のレコードでのきこえ方が、ひびきのきめこまかさによく対応できていて、このましかった。③のレコードでは迫力に欠けるきらいはあるとしても、まとまりがよかった。①のレコードでは遠近感もよく示した。
JBL・4343Bへの対応度:★★★
 過度にきらびやかになることをおさえて、JBLから品位のある音をひきだしたといっていいであろう。総じてひっそりとはしているが、みがきあげられたなめらかな音のこのましさがあった。いずれのレコードに対しても、それぞれのひびきの特徴をひかえめに示した。

試聴レコード
①「マーラー/交響曲第6番」
レーグナー/ベルリン放送管弦楽団[ドイツ・シャルプラッテンET4017-18]
第1楽章を使用
②「ザ・ダイアローグ」
猪俣猛 (ds)、荒川康男(b)[オーディオラボALJ3359]
「ザ・ダイアローグ・ウィズ・ベース」を使用
③ジミー・ロウルズ/オン・ツアー」
ジミー・ロウルズ(P)、ウォルター・パーキンス(ds)、ジョージ・デュビビエ(b)[ポリドール28MJ3116]
A面1曲目「愛さずにはいられぬこの思い」を使用
④「キングズ・シンガーズ/フレンチ・コレクション」
キングズ・シンガーズ[ビクターVIC2164]
A面2曲目使用
⑤「ハイドン/6つの三重奏曲Op.38」
B.クイケン(fl)、S.クイケン(vn)、W.クイケン(vc)[コロムビア-アクサンOX1213]
第1番二長調の第1楽章を使用

KEF Model 204

菅野沖彦

ステレオサウンド 64号(1982年9月発行)
「Pick Up 注目の新製品ピックアップ」より

 KEFから新発売された204は、同時発売のブックシェルフシステム203と共通のユニットを使い、これにバッシヴラジェーター、俗にドロンコーンと呼ばれる位相反転ユニットを追加したシステムである。KEFによれば、204は基本的にはフロアーシステムで、高域はソフトドームのT33、低域はベクストレンコーン使用のB120で、口径はそれぞれ2・5cmと20cmである。フロアー型としては決して大型ではないが、このシステムの場合、指向特性の中心軸がバッフル面に対して5度上向きになるように設計されている。したがって、このシステムは床にベタ置きにし、3m位離れた所で椅子に座って聴くことを想定しているといえるだろう。KEFのスピーカーに馴染みのある方なら、このシステムがかつての104シリーズの延長上にあることは一目瞭然だろう。そして、203が103・2の発展モデルであることも歴然である。
 この204が、104aBという104シリーズの最終モデルとどう違うかというところが興味のポイントになるところだが、従釆から伝統的にもっているKEFサウンドともいえる端正なバランスと緻密な質感に加えて、より一層タフネスでブライトな豊かさが加わったという印象を受けた。KEFのシステムは、明らかにイギリスのスピーカーだと感じさせる趣をもっているが、ともすると中域の張り出しに抑制が利きすぎて、ジャズやロック系の音楽のエモーショナルなノリに欠ける嫌いがあった。この204では、そうした傾向が払拭されており、全帯域にわたってヴィヴィッドな響きが楽しめる。しかも、クォリティは明らかにKEFのそれで、スピーカー・サウンドの第一級の品位をもっている。
 スピーカーに備わっているべき条件を、コンピューターを駆使した多角的な解析によって分析し、ユニットの設計からシステム設計・製造まで一貫した主張をもっているKEFに、私は技術的にも、センスの面においても大きな信頼感をもっているのだが、今回の新製品もそれが裏切られることはなかった。ちなみに、スピーカー・セッティングに関して、同社では必ず背面、側面に余裕をもって置き、壁面反射の害を避けるようにアドバイスしていることを申し添えておこう。

JBL 4344

黒田恭一

ステレオサウンド 62号(1982年3月発行)
「4343のお姉さんのこと」より

 いま常用しているスピーカーはJBLの4343である。「B」ではない。旧タイプの方である。その旧4343が発売されたのは、たしか一九七六年であった。発売されてすぐに買った。したがってもうかれこれ五年以上つかっていることになる。この五年の問にアンプをかえたりプレーヤーをかえたりした。部屋もかわった。いまになってふりかえってみると、結構めまぐるしく変化したと思う。
 この五年の間に4343をとりまく機器のことごとくがすっかりかわってしまった。かならずしも4343の能力をより一層ひきだそうなどとことあらためて思ったわけではなかったが、結果として4343のためにアンプをかえたりプレーヤーをかえたりしてきたようであった。すくなくともパワーアンプのスレッショルド4000のためにスピーカーをとりかえようなどと考えたことはなかった。スレッショルド4000にしても4343のための選択であって、スレッショルド4000のための4343ではなかった。この五年間の変動はすべてがすべて4343のためであった。
 そしていまは、努力の甲斐あってというべきか、まあまあと思える音がでている――と自分では思っている。しかし音に関しての判断でなににもまして怖いのは独り善がりである。いい気になるとすぐに、音は、そのいい気になった人間を独善の沼につき落す。ぼくの音はまあまあの音であると心の七十パーセントで思っても、残りの三十パーセントに、これで本当にいいのであろうかと思う不安を保有しておくべきである。
 幸いぼくの4343から出る音は、岡俊雄さんや菅野沖彦さん、それに本誌の原田勲さんや黛健司さんといった音に対してとびきりうるさい方々にきいていただく機会にめぐまれた。みなさんそれぞれにほめて下さった。しかしながらほめられたからといって安心はできない。他人の再生装置の音をきいてそれを腐すのは、知人の子供のことを知人にむかって直接「お前のところの子供はものわかりがわるくて手におえないワルガキだね」というのと同じ位むずかしい。岡さんにしても菅野さんにしても、それに原田さんにしても黛さんにしても、みなさん紳士であるから、ぼくの4343の音をきいて、なんだこの音は、箸にも棒にもかからないではないかなどというはずもなかった。
 でも、きいて下さっているときの表情を盗みみした感じから、そんなにひどい音ではないのであろうと思ったりした。その結果、安心は、七十パーセントから七十五パーセントになった。したがってこれで本当にいいのかなと思う不安は二十五パーセントになった。二十五パーセントの不安というのは、音と緊張をもって対するのにちょうどいい不安というべきかもしれない。
 つまり、ちょっと前までは、ことさらの不都合や不充分さを感じることもなく、自分の部屋で膏をきけていたことになる。しかし歴史が教えるように太平の夢は長くはつづかない。ぼくの部屋の音はまあまあであると思ったがために、気持の上で隙があったのかもしれない。うっかりしていたためにダブルパンチをくらうことになった。
 最初のパンチはパイオニアの同軸型平面スピーカーシステムのS-F1によってくらった。このスピーカーシステムの音はこれまでに何回かきいてしっているつもりでいた。しかしながら今回はこれまでにきいたいずれのときにもましてすばらしかった。音はいかなる力からも解放されて、すーときこえてきた。まさに新鮮であった。「かつて体験したことのない音像の世界」という、このスピーカーシステムのための宣伝文句がなるほどと思える音のきこえ方であった。
 それこそ初めての体験であったが、そのS-F1をきいた日の夜、試聴のとききけなかったレコードのあれこれをきいている夢をみた。夢であるから不思議はないが、現実にはS-F1できいたことのないレコードが、このようにきこえるのであろうと思えるきこえ方できこえた。夢でみてしまうほどそのときのS-F1での音のきこえ方はショックであった。
 そこでせっかく七十五までいっていた安心のパーセンテイジはぐっと下って、四十五パーセント程度になってしまった。五年間みつづけてきた4343をみる目に疑いの色がまじりはじめたのもやむをえないことであった。ぼくの4343がいかにふんばってもなしえないことをS-F1はいとも容易になしえていた。
 しかしそこでとどまっていられればまだなんとか立ちなおることができたはずであった。もう一発のパンチをくらって、完全にマットに沈んだ。心の中には安心の欠片もなく、不安が一〇〇パーセントになってしまった。「ステレオサウンド」編集部の悪意にみちみちた親切にはめられて、すでに極度の心身症におちいってしまった。
 二発目のパンチはJBLの新しいスピーカーシステム4344によってくらった。みた目で4344は4343とたいしてちがわなかった。なんだJBLの、新しいスピーカーシステムを出すまでのワンポイントリリーフかと、きく前に思ったりした。高を括るとろくなことはない。JBLは4343を出してからの五年間をぶらぶら遊んでいたわけではなかった。ききてはおのずとその4344の音で五年という時間の重みをしらされた。4344の音をきいて、その新しいスピーカーの音に感心する前に、時代の推移を感じないではいられなかった。
 4344の音は、4343のそれに較べて、しっとりしたひびきへの対応がより一層しなやかで、はるかにエレガントであった。したがってその音の感じは、4343の、お兄さんではなく、お姉さんというべきであった。念のために書きそえておけば、エレガント、つまり上品で優雅なさまは、充分な力の支えがあってはじめて可能になるものである。そういう意味で4344の音はすこぶるエレガントであった。
 低い音のひびき方のゆたかさと無関係とはいえないであろうが、音の品位ということで、4344は、4343の一ランク、いや二ランクほど上と思った。鮮明であるが冷たくはなかった。肉付きのいい音は充分に肉付きよく示しながら、しかしついにぽてっとしなかった。
 シンセサイザーの音は特にきわだって印象的であった。ヴァンゲリスとジョン・アンダーソンの「ザ・フレンズ・オブ・ミスター・カイロ」などをきいたりしたが、一般にいわれるシンセサイザーの音が無機的で冷たいという言葉がかならずしも正しくないということを、4344は端的に示した。シンセサイザーならではのひびきの流れと、微妙な揺れ蕩さ方がそこではよくわかった。いや、わかっただけではなかった。4344できくヴァンゲリスのシンセサイザーの音は、ほかのいかなる楽器も伝ええないサムシングをあきらかにしていた。
 その音はかねてからこうききたいと思っていた音であった。ヴァンゲリスは、これまでの仕事の性格からもあきらかなように、現代の音楽家の中でもっともヒューマニスティックな心情にみちているひとりである。そういうヴァンゲリスにふさわしい音のきこえ方であった。そうなんだ、こうでなければいけないんだと、4344を通してヴァンゲリスの音楽にふれて、ひとりごちたりした。
 それに、4344のきかせる音は、奥行きという点でも傑出していた。この点ではパイオニアのS-F1でも驚かされたが、S-F1のそれとはあきらかにちがう感じで、4344ももののみごとに提示した。奥行きとは、別の言葉でいえば、深さである。聴感上の深度で、4344のきこえ方は、4343のそれのほぼ倍はあった。シンセサイザーのひびきの尻尾ははるか彼方の地平線上に消えていくという感じであった。
 シンセサイザーのひびきがそのようにきこえたことと無関係ではありえないが、声のなまなましさは、きいた人間をぞくっとさせるに充分であった。本来はマイクロフォンをつかわないオペラ歌手の声にも、もともとマイクロフォンをつかうことを前提に声をだすジャズやロックの歌い手の声にも、声ならではのひびきの温度と湿度がある。そのひびきの温度と湿度に対する反応のしかたが、4344はきわだって正確であった。
 きいているうちに、あの人の声もききたいさらにあの人の声もといったように、さまざまなジャンルのさまざまな歌い手のことを考えないではいられなかった。それほど声のきこえ方が魅力的であった。
 クリストファー・ホグウッドがコンティヌオをうけもち、ヤープ・シュレーダーがコンサートマスターをつとめたエンシェント室内管弦楽団による、たとえばモーツァルトの「ハフナー」と「リンツ」という二曲のシンフォニーをおさめたレコードがある。このオワゾリールのレコードにはちょっと微妙なころがある。エンシェント室内管弦楽団は authentic instruments で演奏している。そのためにひびきは大変にまろやかでやわらかい。その独自のひびきはききてを優しい気持にさせないではおかない。オーケストラのトゥッティで示される和音などにしても、この室内管弦楽団によった演奏ではふっくらとひびく。決してとげとげしない。
 そのレコードを、すくなくともぼくの部屋の4343できくと、いくぶんひびきの角がたちすぎる。むろん4343できいても、その演奏がいわゆる現代の通常のオーケストラで音にされたものではないということはわかる。そして authentic instruments によった演奏ならではの微妙なあじわいもわかる。しかしもう少しふっくらしてもいいように感じる。
 そう思いながら4343できいていた、そのレコードを4344できいてみた。そこで模範解答をみせられたような気持になった。そうか、このレコードは、このようにきこえるべきものなのかと思った。そこでの「リンツ」シンフォニーのアンダンテのきかせ方などはまさに4343のお姉さんならではのきかせ方であった。
 ひとりきりで時間の制限もなく試聴させてもらった。場所はステレオサウンド社の試聴室であった。試聴者は、自分でも気づかぬうちに、喜聴者に、そして歓聴者になっていた。編集部に迷惑がかかるのも忘れて、えんえんときかせてもらった。
 そうやってきいているうちにみえてきたものがあった。みえてきたのは、この時代に生きる人間の憧れであった。意識的な憧れではない。心の底で自分でも気づかずにひっそりと憧れている憧れがその音のうちにあると思った。いまのこういう黄昏の時代に生きている人は、むきだしのダイナミズムを求めず、肌に冷たい刺激を拒み、音楽が人間のおこないの結果であるということを思いだしたがっているのかもしれない。
 4344の音はそういう時代の音である。ひびきの細部をいささかも暖昧にすることなく示しながら、そのひびきの肌ざわりはあくまでもやわらかくあたたかい。きいていてしらずしらずのうちに心なごむ。
 4343には、STUDIO MONITOR という言葉がつけられている。モニターには、警告となるもの、注意をうながすものという意味があり、監視、監視装置をいう言葉である。スタジオ・モニターといえば、スタジオでの検聴を目的としたスピーカーと理解していいであろう。たしかに4343には検徳用スピーカーとしての性能のよさがある。どんなに細かい微妙な音でも正確にきかせてあげようといったきかせ方が4343の特徴といえなくもない。しかしぼくの部屋はスタジオではない(と、当人としては思いたい)。たとえレコードをきくことが仕事であっても、検聴しているとは考えたくない。喜聴していると考えたい。4343でも喜聴はむろん可能である。そうでなければとても五年間もつかえなかったであろう。事実、毎日レコードをきいているときにも、検聴しているなどと思ったことはなく、しっかり音楽をたのしんできた。そういうきき方が可能であったのは、4343の検聴スピーカーとしての性能を信頼できたからといえなくもない。
 4344にも、”STUDIO MONITOR” という言葉がつくのであろうか。ついてもつかなくてもどっちでもかまわないが、4344のきかせる音はおよそモニター・スピーカーらしからぬものである。すくなくとも一般にスタジオ・モニターという言葉が思い起させる音から遠くへだたったところにある音であるということはできるはずである。しかしながら4344はモニター・スピーカーといわれるものがそなえている美点は失っていない。そこが4344のすばらしいところである。
「JBL的」といういい方がある。ぼくの部屋の4343の音は、何人かの方に、「およそJBL的でないいい音だね」といって、ほめられた。しかし、ほめられた当人は、その「JBL的」ということが、いまだに正確にはわからないでいる。さまざまな人のその言葉のつかわれ方から推測すると、おおむね鮮明ではあっても硬目の、ひびきの輪郭はくっきり示すが充分にしなやかとはいいがたい、そして低い方のひびきがかならずしもたっぷりしているとはいいがたい音を「JBL的」というようである。おそらくそのためであろう、根づよいアンチJBL派がいるということをきいたことがある。
 理解できることである。なにかを選ぶにあたってなにを優先させて考えるかで、結果として選ぶものがかわってくる。はなしをわかりやすくするために単純化していえば、とにもかくにも鮮明であってほしいということであればJBLを選び、どうしてもやわらかいひびきでなければということになるとJBLを選ばないということである。しかしながらそのことはJBLのスピーカーシステムが「JBL的」であった時代にいえたことである。
 4343にもまだ多少はその「JBL的」なところが残っていたかもしれない。そのためにぼくの部屋の4343の音は何人かの方に「およそJBL的でないいい音」とほめられたのであろう。もっとも4343のうちの「JBL的」なところをおさえこもうとしたことはない。したがって、もしそのほめて下さった方の言葉を信じるとすれば、結果として非「JBL的」な音になったということでしかない。
 4344にはその「JBL的」なところがまったくといっていいほどない。音はあくまでもなめらかであり、しなやかであり、つまりエレガントである。それでいながら、ソリッドな音に対しても、鋭く反応するということで、4344はJBLファミリーのスピーカーであることをあきらかにしている。
 この4344を試聴したときに、もうひとつのJBLの新しいスピーカーシステムである変則2ウェイの4435もきかせてもらった。これもまたなかなかの魅力をそなえていた。電気楽器をつかっていない4ビートのジャズのレコードなどでは、これできまりといいたくなるような音をきかせた。音楽をホットにあじわいたいということなら、おそらくこっちの方が4344より上であろう。ただ、大編成のオーケストラのトゥッティでのひびきなどではちょっとつらいところがあったし、音像もいくぶん大きめであった。
 4435は音の並々ならぬエネルギーをききてにストレートに感じさせるということでとびぬけた力をそなえていた。しかしいわゆる表現力という点で大味なところがあった。2ウェイならではの(といっていいのであろう)思いきりのいいなり方に心ひかれなくもなかったが、どちらをとるかといわれれば、いささかもためらうことなく、4343のお姉さんの4344をとる。なぜなら4344というスピーカーシステムがいまのぼくがききたい音をきかせてくれたからである。
 いまの4343の音にも、4344の音をきくまでは、結構満足していた。しかしながらすぐれたオーディオ機器がそなえている一種の教育効果によって耳を養われてしまった。4343と4344とのちがいはほんのわずかとはいいがたい。そのちがいに4344によって気づかされた。もう後にはもどれない。
 ぼくの耳は不変である――と思いこめれば、ここでどぎまぎしないでいられるはずである。しかしながら耳は不変でもなければ不動でもない。昨日の耳がすでに今日の耳とはちがうということを、さまざまな場面でしらされつづけてきた。なにも新しもの好きで前へ前へと走りたいわけではない。一年前に美しいと感じられたものがいまでは美しいと感じられないということがある。すぐれたオーディオ機器の教育効果の影響をうけてということもあるであろうし、その一年間にきいたさまざまな音楽の影響ということもあるであろう。ともかく耳は不変でもなければ不動でもない。
 そういう自分の耳の変化にぼくは正直でいたいと思う。せっかく買ってうまくつかえるようになった4343である。できることなら4343をこのままつかりていきたい。しかしながら4344の音をきいて4343のいたらなさに気づいてしまった。すでにひっこみはつかない。
 しかしまだ4344を買うとはきめていない。まだ迷っている。もう少し正直に書けば、迷うための余地を必死になってさがしだして、そこに逃げこんで一息ついている。いかなることで迷うための余地を確保したかといえば、きいた場所が自分の部屋ではなくステレオサウンド社の試聴室であったことがひとつで、もうひとつはS-F1のことである。ぼくの部屋できけば4343と4344ではそんなにちがわないのかもしれないと、これは悪足掻き以外のなにものでもないと思うが、一生懸命思いこもうとしている。
 それにS-Flの音が耳から消えないということもある。この件に関してはS-F1と4344の一騎討ちをすれば解決する。その結果をみないことには結論はでない。
 いずれにしろそう遠くはない日にいまの4343と別れなければならないのであろうという予感はある。わが愛しの4343よ――といいたくなったりするが、ぼくは、スピーカーというものへの愛より、自分の耳への愛を優先させたいと思う。スピーカーというものにひっぱられて自分の耳が後をむくことはがまんできない。

JBL 4435, 4430

菅野沖彦

ステレオサウンド 61号(1981年12月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 人によっていろいろな形に見えるであろう奇怪なホーンの開口部。JBL呼んでバイラジアルホーン、これが新しいJBLスピーカーシステムの個性的な表情であり、技術改良の鍵でもある。このホーンの設計は、水平・垂直方向それぞれ100度の範囲での高域拡散を実現することを目標に行なわれた。しかも、このホーンによって放射される周波数帯域は、1kHz~16kHzという広いものである。この奇怪な形状のホーンの威力は、まことに大きいものがある。このところマルチユニット化によって広周波数帯域の実現を目指してきたJBLが、この4435、4430において突如2ウェイによるシステムを発表したことは、われわれにとっても驚きであった。ご承知のように、4341に始まり4343、4345へと発展してきたJBLモニターシステムは、その旗艦4350を含め、すべて4ウェイを採用してきた。マルチユニットやマルチウェイというのは、スピーカーシステムの構成上一種の必要悪であることは多くの専門家の認めるところだが、この必要悪をいかに上手く使いこなし、その弊害を抑えてワイドレンジ化を図り、広指向性を実現しそして高リニアリティを追求していくというのがJBL高級スピーカーシステムの歴史であった、と私は理解してきた。同じウェスターン・エレクトリックの流れをくむアルテック社が、そのまま2ウェイを基本にしてアイデンティティを確立してきたことに対して、JBLの技術的な姿勢の堅持こそ、この両雄の健全な対時だと思っていた。そこへ急に2ウェイの高級モニターシステムが登場したのだから、こっちはびっくりする。アルテックがコンシュマー用のシステム、いわゆるHi-FiプロダクツでJBLに追従する姿勢をとり始めたことを苦々しく思っていたら、今度はJBLがアルテックのプロ用の、頑固なまでの2ウェイ姿勢と真正面からぶつかった。鷹揚で豊かなアメリカは今やなく、まるで日本のメーカー同志のような熾烈な競争のために〝こだわりの精神〟も〝誇り〟もかなぐり捨ててしまうようになったのであろうか……。もちろん、2ウェイがアルテックの特許でもないし、マルチウェイ・マルチユニットや音響レンズはJBLだけのものではない。そしてまた、同じ2ウェイといっても今回のJBLの新製品は、アルテックの2ウェイとはまったくとはいかないまでも、決して同類のものとはいえないユニークでオリジナリティのある開発である。この点ではまったく同じものを作って平然としている日本メーカーの体質とは比較にならないほど、まだ高貴な品位を保っているとは思う。しかし、この明らかなるJBLのテクノロジーの変化というか多様化というものは、オーディオ界の騎士道の崩壊であることに違いなかろう。技術の進歩は自ずから収斂の傾向をとるものだから、これは当然の成り行きとみることもできるだろう。しかし、もしそうだとするのなら、JBLは明らかにウェスターン・エレクトリックの主流派アルテックに脱帽せねばならないのだ。そして、脱帽されたアルテックの方も、Hi-FiプロダクツでのJBLへの追従を深く恥じるべきなのだ。
 こうなってくると、終始一貫あのデュアルコンセントリック1本で頑張っているジョンブル、タンノイなどは立派なものだ。しかし、それがいつまで通用するか。第2次大戦後、食糧難に日本中が飢えていた頃、頑としてヤミの食糧を食わずに餓死した高潔の士もいたことを思い出す。とにかく、メーカーにとっても我々ファンにとっても、騎士道や貴族性の保てた時代が終焉を迎えたことは事実らしい。それは、あたかも18~19世紀の貴族お抱えのオーケストラが、現代のような自立自営のオーケストラへの道をたどったプロセスにも似ているようだ。より広く大衆のものになり、経済競争に巻き込まれ、技術は向上したが文化的には首をかしげたくなるような、不思議な質的変化が感じられ、淋しさがなくもない。日本のオーディオ機器の多くは、今やスタジオからスタジオへ駆け廻り、何でも初見でばっちり弾いてのけるスタジオミュージシャンのようなものだ。さすがに欧米には、まだ立派なアーティストと呼べるようなアイデンティティとオリジナリティ、テクニックのバランスしたものがあるが、一方において日本のスタジオミュージシャンに職を追われつつある憐れな連中……いや機器も少なくはないのである。
 このような情勢の中でJBLの新製品4435、4430を眺めてみると、その存在性の本質をしることができるのではないだろうか。つまり、このシステムは時代の最先端をいくテクノロジーが、オーディオ界の名門貴族の先見の明の正しかったことを今さらながら立証し、かつその困難な実現を可能にした製品といえるように思う。
 JBLの製品開発担当副社長のジョン・アーグル氏が、去る9月のある日曜日の夜、我家に持ち込んで聴かせてくれた4435の音は素晴らしかった。一言にしていえば、その昔は私がJBLのよさとして感じていた質はそのままに、そして悪さと感じていた要素はきれいに払拭されたといってよいものだった。私自身、JBLのユニットを使った3ウェイ・マルチアンプシステムを、もう10数年使っているが、長年目指していた音の方向と、このJBLの新製品とでは明らかに一致していたのである。この夜、4435を聴く前に、私たちは、私のJBLシステムで数枚のレコードを聴いた。その耳で聴いた4435の音は、まったく違和感なく、さらに奥行きのある立体的なステレオイメージを聴かせてくれたのであった。私のJBLシステムは、JBLの人達も不思議がるほどよく調教されきった音である。善し悪しは別として、通常JBLのシステムから聴ける音と比べると、はるかに高音は柔らかくしなやかだし、中低域は豊かである。音の感触は、私の耳に極力滑らかに、かつリアリティを失わない輪郭の鮮明さをもって響くように努力してきた。その苦労の一端は、本誌No.60でご紹介してある。その音と違和感なく響いたことは、私にとって大きな驚きであったのだ。ちなみに、今春4345を同じように私の部屋で聴いた時には、私の想像した通りの一般的なJBLらしい音で、私のシステムとはほど遠い鳴りっぷりであった。
 音楽とオーディオの専門家、ジョン・アーグル氏との歓談の方にむしろ興じてしまった一夜ではあったが、この新しいJBLのシステムのなみなみならぬ可能性は、少なくとも私が旧JBLユニットに10年以上かけてきた努力を上廻る成果を、いともたやすく鳴らしてしまったことからも察せられた。
 製品の技術データを見ればうなずけることだが、4435、4430の何よりの特長は、ステレオフォニックな音場イメージの正確な再現性にある。これは、モニターシステムのみならず、鑑賞用システムとしても非常に重要な点で、音楽演奏の場との一体感として働きかけるステレオ再生の最も重要な意味に関わる問題を左右するものである。レコード音楽がもつ数々の音楽伝達要因の中でも、モノーラルとステレオの違いがきわめて大きなものであることは、今さらいうまでもない。ステレオの魅力を最大限に発揮させるために重要なものは、リスニング空間全般に可聴周波数帯域のエネルギーをフラットに拡散し得る、アコースティカルに特性の揃った一組のスピーカーの存在である。それも、できる限り2次、3次反射によらずにトータルエネルギーがフラットであることが望ましい。4435、4430は、新設計の定指向性ホーンとワイドレンジ・コンプレッションドライバー、巧妙な設計の2ウェイネットワーク、新採用ウーファーの特性とのコンビネーションにより、そうした目標に大きく近づくことになった。また、このホーンはショートホーンであるため、ウーファーとトゥイーターの振動系の機械的ポジションを同一線上に配置することが可能となり、構成ユニットの位相ずれの心配はない。これら新設計のユニットは、特性的にも最高の技術水準にあるもので、1kHzのクロスオーバーで実現した2ウェイコンストラクションとしてはスムーズなつながりとワイドレンジ、高リニアリティ、高能率と低歪率、すべてのスペックを最高のデータでクリアーしている。2421ドライバーの振動板は、ダイアモンドサスペンションと呼ばれるユニークなパターンのエッジをもつアルミダイアフラムである。
 4430は2ウェイ・2スピーカーシステム、4435はこれをダブルウーファーとした2ウェイ・3スピーカーシステムである。この2機種のシステムの試聴は、本誌試聴室で行なったが、この両者について簡単に甲乙をつけることは危険だと思う。パワーハンドリングについては、4435の方により大きなポテンシャルがあるのは当然だが、本誌試聴室での結果では、4430の方がバランス上好ましかった。しかし、4435も私の部屋で鳴ったような音は出なかったので、このあたりは部屋とのバランスで考えなければならない問題だろう。ブラック・ムーニング (アメリカで流行の若者の奇行のこと)を想起させる異様なバイラジアルホーンの姿とともに、このシステムはJBLの技術史上に重要な足跡を残す、意味のある新製品だ。

タンノイ GRF Memory

菅野沖彦

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「現代に甦るタンノイ・スピリット〝GRF MEMORY〟登場」より

現代に甦るタンノイ・スピリット〝GRF MEMORY〟登場

 イギリスのタンノイ社から新製品が届いた。新しいモデルの名は、〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟と呼ばれ、いかにも伝統に輝くタンノイ社の製品にふさわしい風格と緻密なつくりを見せている。ガイ・R・ファウンテンとは、いうまでもなく、タンノイ社の創設者の名前で、オートグラフという同社のトップモデルやGRFシリーズを通して、タンノイファンには親しみ深い人である。そして、今は亡きこのファウンテン氏を偲ぶモデル名がこの製品につけられているわけだが、これが単にネイミングに止まらず、製品の総合的なつくりに、その雰囲気が溢れていることは誰の眼にも明らかであろう。
 クラシックなたたずまいを見せる〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟とはどんなスピーカーシステムか? 三つ折り頁の「ビッグサウンド」のグラフィックと共に、立体的に、その全貌をお伝えしようというのが、今号の〝タンノイ研究〟のテーマである。
 内容積220ℓのエンクロージュアは、高さが1メートル10センチ、幅が80センチ、奥行きは48センチという大型フロアーシステムで、バスレフレックス方式を採用している。このサイズは、受注生産のオートグラフ・レプリカを除けば、現在のタンノイのシステムの中で最も大きく、GRFモデルを一廻り小さくしたディメンションである。ただし内容積だけに限れば、スーパーレッドモニターやクラシックモニターの230ℓより10ℓ小さくなっている。
 内蔵ユニットは、クラシックモニターに使われているK3838のスペシャル・ヴァージョンで、38センチ口径のデュアル・コンセントリック(同軸型2ウェイ)であるが、ネットワークは新設計のものだという。いうならば、最新のタンノイのテクノロジーを、伝統的な雰囲気とつくりをもった意匠で包んだもので、タンノイ社の力を十二分に発揮した入念の作品といえそうだし、その重厚な姿態と緻密で周到な細部のつくりには、今時のスピーカーらしからぬ風格を感じさせるものがある。あえて、今時のスピーカーらしからぬと書いたけれど、これは重要な問題であり、このシステムの価値の重さを語るのに触れぬわけにはいかない要素だと考える。
 大型フロアーシステムの数は決して少なくないけれど、新しい製品に一様に感じられる淋しさは、そのデザインとつくりに、往年のそれらの製品に見られたような家具としての美しさや風格が感じられなくがなったことである。高級機である以上、音に、非常に大きな影響力をもつエンクロージュアに、音響的、あるいは剛性などの点では充分な考慮がなされているとはいえ、それを超える工芸的な美を感じさせてくれる新しい製品が少ないことは万人の認めるところではないだろうか。高度な音楽芸術鑑賞のための道具である高級スピーカーシステムに、家具調度としての高い仕上げと風格を要求することは決して本質からはずれたことではなく、むしろ当然な要求だと私は思っている。それにもかかわらず、現代の合理的な産業システムは、これらの要求を満たす能力を失いつつあり、できたとしても、いたずらにコストアップを理由に、本気になって工芸的仕事に取組もうとはしなくなってしまった。もちろん、これは、オーディオ機器に関してだけの話ではなく、私たちの身の廻りのすべてにいえることだろう。現代人の美意識は一体どうなってしまったのだろうとうたがわざるを得ないのである。新しいものは味気がないなどの一言で、あきらめてよいはずはない。
 余談だが、私は、日本が世界に誇る、あの新幹線の駅を見るたびに、なんともやりきれない気特にさせられる。あのペラペラの倉庫のような建造物には美も文化も全く感じられない。コストを抑えて、必要な機能と安全性を考慮すれば、ああならざるを得ないというようなことは承知であるが、あれほど大きな建造物は、周囲の景色を大きく色付けるに充分な存在で、大げさにいえば、その国の文化を象徴せざるを得ない重要な建造物であるはずだ。もし、あれをニューデザインだというのなら、なにをかいわんやである。金属とガラスでできた現代のバラックではないか。どう見ても仮設駅含程度にしか私の眼には映らない。
 古い建物が機能的に不備で、安全性にも欠けていることはよくわかる。しかし、少なくとも、美と風格の点では比較にならないほど立派なものが沢山あった。東京駅の丸の内側の駅舎と、八重洲口側駅舎を比べても、それは歴然としている。オランダのアムステルダム駅をモデルとしたといわれる、あの古い駅舎も、国鉄が大赤字をかかえていなければ、とっくに建て直されていたことだろう……。ヨーロッパの古い教会や駅も同じ運命にあるけれど、100年後、200年後の人々への遺産として、今のような建造物を残して平然としていられるのだろうか。20世紀後半に、当時の人間達は、それまでの文化を受け継がず、全て破壊し堕落させたと後世の歴史に書かれることだろう。そして、それと引き換えに、人類を危機に陥れる機械文明を手に入れたことが、果して、どれほど評価してもらえるだろうか? 〝古きを尋ねて、新しきを識る〟などという格言は、今の世の中には通用しないのであろうか。
 古いものがよいといっているのではない。新しいものの全てが悪いというつもりもない。歴史は連綿と繋げなければいけないといいたいのである。知的な革命は決して破壊であってはいけないのである。それが誤ちであることは、中国の文化大革命が証明している。国家社会の下部構造としての政治経済が、上部構造の文化文明を脅かしては、本末転倒である。
 少々、話しが横道にそれでしまったが、現代社会への不安は、オーディオ機器のあり方にも読みとれるものだということをいいたかったのである。高級スピーカーシステムに話しを戻そう。
 現在、手に入れることのできる(お金があればの話しだが)大型高級システムの中で、こうした不満を感じないですむものがどれほどあるだろうか? 好き嫌いは別としても、その数はしれたものだ。そして、それらのほとんどは旧製品のロングランとして作り続けられているもので、中には、要望によって限定再生産(たいていの場合、質は大きく低下している)されたものである。これらの中でのベスト・ワンを挙げろといわれれば、私は躊躇なく、JBLのパラゴンをとる。あのパラゴンの独創性、美しい姿、立派な風格は、多くのスピーカーシステムの傑作の中でも水際立っている。あれは、新しさも古さも超越したデザインと見事な作りであり、驚くべきことに、どんな環現においても、環境負けすることがない。クラシックなインテリアの中でも、モダーンな部屋にあってもだ。大抵の場合、我々の部屋の方が負けてしまう。負けるどころか、置くスペースが確保できない場合が多い。スペースがあれば、これを置くだけで、部屋の中は立派に見える。部屋がかえってみすぼらしく見える場合もないではないが、オーディオが好きならば、そうはならない。逆に、金がかかっていても、趣味の悪い装飾調度品が多い場合に、とんちんかんになる場合が多いだろう。むしろ、他に何にもないほうがよいくらいだ。
 他に、これに匹敵するものといえば、かつての見事な蓄音器たちを除けば、同じJBLのハーツフィールド、昔のエレクトロボイスのパトリシアン・オリジナル、パトリシアン600、タンノイのオートグラフ、GRF、現在買えるものなら、パトリシアン800の再生産モデル、ヴァイタヴォックスCN191コーナーホーン、クリプシュホーンK-B-WOぐらいまでが、どうやら許容できるものといったところだろう。
 モダーンデザインなら、JBLの各システムをはじめ、むしろ国産につくりのよいものがあるが、この辺になると風格といった領域にはほど遠い。私が現在夢中になっているマッキントッシュのXRT20などは、大変よくできたエンクロージュアだが、なんとも夢のない雰囲気で、家具としての美しさは薬にしたくともないといえる。機能本位のさっばりしたところが、うまく部屋に合えば消極的で厭味がないといった程度である。
 こんなわけで、大金を投じて買った高級スピーカーシステムにふさわしい、所有の充足感とでもいった気分を満してくれるものは今後、ますます少なくなりそうな気配である。こうした背景の中で登場した今回の〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟は、たしかに目を引く存在感のあるシステムだと思う。かといって、芸術的な工芸品と呼ぶには、いささか、プロポーション、仕上げ感覚に注文をつけたい点もあるし、やや不自然ともいえる意識の出過ぎに、わざとらしさも感じられる。本物はもっと、巧まざる自然の姿勢から生まれなければいけないとは思うのだが、それにしても、現時点でこれだけのものを作り上げたタンイの情熱と力には敬意を表したい。
 SRMシリーズやバッキンガムがスタジオモニターとして作られたのに対し、このGRFメモリーは純粋にホームユースの高級システムとして作られたものであることは明白である。しかし、モニターとはいいながら、SRMやバッキンガムのエンクロージュアのつくりも、間違いなく現代第一級のレベルにあることを認めるし、このGRFメモリーには現代版としては、特級の折紙をつけざるを得ない。これだけ手のこんだエンクロージュアは、条件つきとはいえ、その美しさと風格を含めれば、少なくとも80年代の新製品では他にはないものだから。
 では、このGRFメモリーについて、少し詳しく述べることにしよう。横幅も充分にある縦型プロポーションのシステムの仕上げはオイルフィニッシュのウォルナットであり、背面などの構造材には25ミリ厚の硬質パーティクルボードが使われている。トップボードがひさしのように張り出しているのが大きな特長といえるが、私の個人的なバランス感覚では、やや出っ張り過ぎのように感じてならない。機械加工かもしれないが、エッジの随所はテーパー状に仕上げられた手のこみようで、細部の接合は留めに決めているところなどは、感心させられる。
 後面からバッフル前面にかけて、左右対称にしぼりこまれた梯形は、オートグラフ、GRFシステムのフロント・イメージと共通のものだ。したがって、バッフル面は、全横幅よりかなり狭くなっていて、このシステムの形状に立体感をもたせている。ディフラクションを避けるために左右を後方斜めに切り落とした恰好だ。この斜めにそがれた部分にバスレフのポートが設けられているが、表面はバッフル面と同一のサラングリルで被われている。
 フロントグリルは鍵つきのロックで固定されている。オーナーには、ゴールドに輝く鍵が渡されるわけだが、これをリリースして、サランのグリルをはずすと、そこにはまた美しい光景が展開する。38センチ口径の堂々たるユニットのコーン紙にはガイ・R・ファウンテンのオートグラフ(自署)が金色にプリントされ、ユニットの取付けられたバッフル面はコルクで貼りつめられているのである。見た目にも大変美しいしユニークであるが、コルクの音響材としての効果も無視できないのではなかろうか。このバッフル前面、左右の斜面は共に美しくフレーミングされていて高い精度の木工技術がうかがわれる。また、フロントグリルには、あのガイ・R・ファウンテンのオートグラフがエングレイヴされたバッジが、それも木製の台座を介して取付けられているという手のかかり具合である。内部は、バッフルボードと背板が井桁状の角材で補強され、高い剛性を誇っている。
 隅々まで周到に仕上げられたこのシステムには、タンノイ社の情熱と執念のようなものさえ感じさせられるし、あの経済的に決して好況とはいえない英国で、よく、これだけのものを作ったものだと感心させられるのである。確定的な価格は、本稿執筆の時点では発表されてはいないが、60方円前後だということだ。もしそうならば、これは決して高い買物ではないだろう。仮に、この大きさと、この手の込んだ細工のサイドボードを買えば、そのぐらいの値段はする。否、輸入品となれば、この値段では買えまい。そう、そう、忘れていたが、ネットワークによるロールオフとエナジーのコントロールのツマミまでが、ムクの木の削り出しだった。とにかく徹底的なのである。関係者の熱意には脱帽である。
 ところで、そろそろ、肝心の音ついて記さねばならないが、今回も従来のこのタンノイ研究シリーズと同じように、具体的に数種のアンプを使っての試聴を行った。以下、ドキュメントという形でリポートさせていただくことにしよう。
 8月中旬、一組のサンプルが本誌の試聴室にセットされたということで試聴に出かけた。写真を見せられただけのGRFメモリーである。どんな音が、あの優雅な姿態から流れ出ることかと、いささか興奮気味であった。
 タンノイのほとんどのシステムを聴いている私にとって、この新製品に寄せる期待は大きいものがあった。すべて、デュアル・コンセントリックのユニットを使いながら、システム毎に微妙にちがう表情の豊かなタンノイの鳴り方は、全製品に一貫して聴かれる、あの充実のサウンド故に、まことに興味深いものがある。オートグラフ、GRF、 コーナーヨーク、 レクタンギュラーヨーク、IIILZ、アーデン、バークレイ……、そして、バッキンガムモニター、スーパーレッドモニター、クラシックモニター、SRM15X、12X、12B、10Bと、ずい分沢山のタンノイたちを聴いた。そのいずれもが紛れもないタンノイでありながら、それぞれの響きをもって鳴った。鳴っている場所でも、がらがら鳴り方が変った。アンプやカートリッジによっても豹変した。それだけではない。私はもっと不思議な体験もしている。話しが艮くなって申し訳ないが、これは是非、お話ししておきたいことだから、この機会に書くことにする。
 あれは、今年の5月14日のことであった。束京のオーディオ販売店Dの主催するタンノイ・オートグラフの試聴と講演での出来事である。話しを正確にするため、ダイナミックオーディオの主催する第4回マラソン試聴会でのことだといい変えよう。会場は、赤坂のホテル・ニュー・ジャパンであった。私の受け持ったオートグラフの講演と試聴会は、夕方5時からだったが、その直別まで他の催しがあって、セッティングには全く立会えなかった。
 開演5分所に会場の席についたときには、大きな宴会場の正面にオートグラフが据えられ、プレーヤー、アンプ類(私の指定のもの)も既に結線されていた。熱心なファンも50名ぐらい、もう備についていた。スタート直前、係の一人が、「こんな会場なもので、どうも、いい音は出ませんが……、ええ、かなり厳しいようで……」と、口ごもりながら私に耳打ちしてくれた。どう厳しいのか判然としなかったけれど、決して良い意味にとれなかった。こういう催しの常である。そのスピーカーの能力の60%から70%発揮されれば最高といってよいだろう。しかし、この感じだと50%にもいかないなと私は直感した。そりゃ、当り前だ。コーナータイプのオートグラフは、部屋の壁面をホーンの延長として使うように設計されている。ところが、その場のオートグラフときたら、コーナーはおろか、左右、後方に数メートルの距離のある状態。しかも宴会場は薄手のペニアの間じきりで、どこを見ても、いかにもボコン、ポコンといった感じであるから、とてもとても、まともな音など期待するほうが無理というものだろう。実は、この会場で、前年にもタンノイの講演をしたのだが、その時鳴らしたのは、スーパーレッドモニターだった。これはオートグラフとちがって、よりコンベンショナルなバスレフ・エンクロージュアだから、まだなんとかなったものだったが、今度は最悪だ。
 こういう催しで、精一杯話した後で出した音が、話しとは似ても似つかぬ音だった時には、穴があったら入りたくなるほどつらいものなのである。何をいっても言い訳にしかならないだろうから、じっとこらえて、苦々しく音を聴いている他はない。寿命が縮む思いである。レコードは余裕をもって選んではあるが大幅にカバーするわけにはいかない。私は覚悟を決めてし講演を始めた。いっそのこと2時間しゃべり続けてしまおうかとさえ思ったほどだ。さあ、もうこうなったら念じるより他はない。あのカートリッジで、あのアンプで、本当ならあの音がするはずなのに……と、もう、半ベソの有様。心で泣いても顔では何とやら、つとめて冷静に、快活に、ずるずると40分ほど話し続けた。もう駄目だ。そろそろ鳴らさなければ……。前列の熱心なファンの表情も、そろそろ音に飢えてきた様子。「伝統に輝くオートグラフの音は……」という私の言葉に、生ツバをゴクンとのんでいるではないか。隣りの青年は、早く鳴らせといわんばかりにノビをして、眼鏡越しに私の顔をチラリ! 絶体絶命である。オートグラフよ頼む! 鳴ってくれ! お前のあの音を出してくれ! カートリッジにも、アンプにも、私は同じ願いをこめてレコードをターンテーブルに載せたのであった。リハーサルがないから、音量からしてボリュウムの位置では見当がつかない。日頃のカンを働かせ決めた。古い録音からスタート。ピエール・モントゥ一指拝ウィーン・フィルのハイドンの交響曲「時計」である。
 おおっー、いい。いいではないか。しなやかな弦。ウィーン・フィルらしい艶。豊かな中~低音の響き。これなら、ひかえ目にいっても70点。次に小編成で、ヤニグロとソリスティ・ディ・ザグレブの演奏。これもなかなかの鳴りっぶり。気をよくした私の話しも、一段と熟っぼく滑らかに進みだす。お客の眼も輝きだした。盛んにうなづいてくれる人もいる。時たま首をかしげる奴もいたけれど(気になるもんですよ、そういう人)……、そして遂にラストナンバー。比較的新しい録音の一枚として、ミケランジェリのピアノ、ジュリーニの指揮するウィーン・シンフォニーの演奏でベートーヴェンのピアノ協奉曲第1番をかけた。堂々たるオーケストラのソノリティ、輝かしいピアノが圧倒的な盛り上りを演じたのだった。
 私も、ファンの人達も、スピーカーと一体となって熟っぽく燃えているのがよくわかった。終るやいなや、数人のファンから歓声が上った。「よかった!」と大声で叫んだ人もいた。その場の人々が全員、満足し、感動したことは、確かな実感として私に伝わった。口々に礼をいって去っていくファンの人たちの表情にもそれがあった。そして、係のスタッフたちが、まるで孤につままれたような表情で「先生、何をしたのですか?」と私に聞くのだった。「信じられないなあ……。直前まで様にならないひどい音だったのに……」。そして、ファンからも同じ言葉が述べられた。また、この催しの前の催しを担当していた他メーカーの人の驚きようはもっと凄かった。「アンプが暖まったなんていうもんじゃないですよ、あの変りようは! 装置をそっくり入れ替えたようだった」というのである。
 理由は、私にも判らない。しかし、このような劇的なハプニングとまでいかなくても、これに類した体験はいくらでもある。
 実をいうと、ガイ・R・ファウンテン・メモリーに関しても、これに近い体験をさせられたのであった。
 本誌の試聴室でのガイ・R・ファウンテン・メモリーとの初対面は、不幸にして、決して素晴らしいものではなかった。
 試聴には、エクスクルーシヴのP3プレーヤーシステム、カートリッジはオルトフォンのMC20/II、コントロールアンプはマッキントッシュのC29、パワーアンプは同MC2500という組合せで、まず音を出した。聴き馴染んだハイドンのシンフォニー「軍隊」(ネヴィル・マリナ一指揮)の第1楽章の序奏を聴いただけで「驚愕」とまでいかずとも、愕然とした。鋭く硬く、とげとげしい弦の音。ステレオフォニックに、ふくよかに拡がるはずの空間のプレゼンスは、2チャンネルに二分され、音が左右のスピーカーの位置にへばりついたままではないか? こんなはずはない。だいたい本誌の試聴室は、きかに製品テスト用の試聴にふさわしく、すべてのスピーカーが楽しく聴けるというよりは、アバタもエクボもさらけ出す傾向にあるのだが、それにしてもひどい。タンノイ研究のシリーズだって、第1回は別として(ティアックの試聴室)、その後はずっと、ここで聴いてきたのである。SRMもクラシックモニターも、アーデンも、かなり楽しく聴けたのである。
 なんとかならないものかと、まずカートリッジを交換してみた。ゴールドバグのブライヤーをつけた。このカートリッジのしなやかな高域と豊かな中低域によって、かなり聴きよい音にはなったものの、とても、期待にそうものではない。アンプを変えた。前回までのこのシリーズの実験の結果、タンノイのスピーカーとのベスト・マッチングとして私が推薦したコントロールアンプのウエスギU・BROS1とパワーアンプのオースチンTVA1を試みた。さらに一段と向上はしたが、まだ、私のタンノイのイメージからは、ほど遠い。そこでパワーアンプもコントロールアンプと同じく上杉研究所のU・BROS3を2台、パラレル接統にして使ってみた。この方が、また一段と音がまとまってきたが、それでも決してかつてSRMやクラシックモニターから得られた音の水準には至らなかった。
 私のコンディションのせいかと、自らを疑ってもみたが、立会いの編集部のM君もS君も同じょうに浮かぬ顔つきである。これは困ったことになったと一同呆然。置き方やレベルコントロールもさわってみたが効果なし。バランスだけではなく、音の質感が悪いのである。歪みっぽくさえあるのだ。なんだかんだと数時間を費したけれど、うまくいかないので、日を変えようということになったのである。そこで翌週、再度挑戦ということで当日は終了ということにした。
 さて、週は変り、再度挑戦である。今度は場所をティアックの試聴室に移した。用意した機材は、プレーヤーはローディのTTU1000にフィデリティリサーチFR64fxトーンアーム。カートリッジはゴールドバグ・ブライヤー、トランスはアントレーET100、コントロールアンプはマッキントッシュのC29とウエスギU・BROS1、パワーアンプはマッキントッシュのMC2255、ウエスギU・BROS3、マイケルリン&オースチンのTVA1というラインナップである。
 結果は、まさに、ドラマティックな変貌であった。到底、部屋と多少の機材の変更からは想像のつかない変りようだったのりだ。
 前回の条件に近づけるため、まず、トランジスターアンプで試聴した。マッキントッシュC29とMC2255である。ハイドンの「軍隊」交響曲のイントロダクションが流れた途端、それは先週聴いた同じスピーカーとは全く違った響きであった。弦のしなやかさ、空間のプレゼンスが、このレコードの鳴るべき音で鳴ったのである。アレグロの第1主題におけるヴァイオリンが、かつての粗さが出ず、すっきりとした響きの中に芯の通ったリアルなものであった。木管の輝きと柔軟さも、適度な距離感をもって聴こえるのだった。
 これは確かにタンノイの音だ。それも、かなり上質の豊かな響きである。フィッシャー=ディスカウがバレンポイムの伴奏で新録音したシューベルトの〝冬の旅〟も、ピアノのきりっと締った響きといい、バリトンのまろやかな声といい、まず申し分のないものと感じた。続いて、ジャズをかけてみたが、これがまた大変よく弾む。タンノイの旧製品のように低音が重くないし、SRMシリーズに共通の張りのある明快さと力強さを兼ね備えている。初めの試聴時にはパワーアンプがMC2500であったが、この違いは、そんなものではない。第一、MC2500とMC2255は、パワーこそ500Wと250Wの差があるが、音質的にはきわめて近いものであることは確認ずみなのだ。プレーヤーはエクスクルーシヴのP3から、ローディのTU1000+FR64fxの組合せに変っているが、たしかにこの組合せは、たいへん滑らかで透明な音であることは、私の自宅で使って強く印象づけられている。しかし、それにしても、この音の変化の大きさには驚かされる。ゴールドバグのブライヤーは初試聴の時にも使ったことは既に述べたとおり。このガイ・R・ファウンテン・メモリーにはたいへんよくマッチするカートリッジで、その柔軟で豊潤な音が生きてくるようだ。パイプの材料として有名なブライヤーの根を削り出してボディを作ったこのカートリッジのもつ手工芸の味わいは、GRFメモリー・システムの持味ともぴったりで、趣味性豊かなオーディオ・ライフを感じさせてくれる。
 これで、GRFメモリーの真価は充分発揮されたように感じたが、さらに次の5種類の組合せで試聴してみた。
①U・BROS1+TVA1
②U・BROS1+U・BROS3×2
③C29+U・BROS3×2
④C29+TVA1
⑤U・BROS1+MC2255
 用意したアンプの相互組合せをやってみたわけで、これらのアンプは、タンノイにベスト・マッチと思われるものばかりである。プレーヤーはTU1000+FR64fx+ゴールドバグ・ブライヤーが成功したので、これを今回のリファレンスとした。結果として整理すると、次の3種の組合せにしぼってよいだろう。
①マッキントッシュC29+MC2255
②ウエスギU・BROS1+オースチンTVA1
③ウエスギU・BROS1+U・BROS3×2
 つまり、試聴した計6種の組合せで、この3種以外は、参考までに試聴したわけで、もし、飛び抜けた組合せが発見されればと思ったわけだが、そうはいかなかった。というより、あえて、トランジスターと管球式のハイブリッドを試みる必然性はなく、バランス上、同種の組合せのほうが完成度が高かったというべきだと思う。
 既に、この研究シリーズで、タンノイを鳴らすゴールデン・カップリングとして、②のU・BROS1+TVA1を推薦してきたが、今回はこれに、パワーアンプも上杉研究所のU・BROS3を、それも2台用意し、各々をパラレル接続にしてモノで使う組合せを加えた。こうすることにより、U・BROS3の控え目なパワー50Wを90Wに上げられるし、音質的にも、やや淡白であったものが、ぐんと力と艶がのってくるように感じられたのである。オースチンのTVA1の熱っぽい音とはちがうが、品のよさ、滑らかさ、透明感といったこのアンプの特質は格別の魅力のあるものだ。ぜいたくな使い方だが、2台をパラレル接続で使うと力の点での弱点をカバーできて、ある意味では従来のゴールデン・カップリングを凌ぐといってよい。エモーショナルにはオースチンのTVA1がもつ充実のサウンドに軍配が上るが、メンタルには、U・BROS3のほうが端正で透明なのだ。この二種の組合せには甲乙つけ難いのが正直なところである。情熱的な音を嗜好されるならTVA1を、洗練度の高さを求められるならU・BROS3になるだろう。
 これら二種の管球アンプの組合せは、たしかに、トランジスターアンプのマッキントッシュの組合せとは音の質感や発音性に違いがある。しかし、これも、どちらが勝っているとはいい難いのである。緻密な情報量ではマッキントッシュのほうが優れているように感じられるが、音の流動感と立体感では一味、管球アンプの組合せに魅力がある。ハードなジャズやロック、フュージョンまで鳴らすことを考えると、マッキントッシュの組合せのほうが力を発揮すると思うが、ポピュラー・ヴォーカル、あるいは、スイング・ジャズぐらいまでなら、そして、クラシックからセンスのよいソフトなポピュラーという範囲でなら、U・BROS1+U・BROS3×2の品位の高い音の魅力が生きるはずである。いずれにしても、この3種の組合せは、タンノイの新しい魅力的なシステム、ガイ・R・ファウンテン・メモリーの可能性を100パーセント発揮させてくれることだろう。
 故ガイ・R・ファウンテン氏と創立時代より共に仕事をしてきたロナルド・H・ラッカム氏が、ファウンテン氏のメモリー(追憶)というモデル名のこの製品に情熱を燃やしたことが今回の試聴でよく判った。紛れもないタンノイ・サウンドが保持されながら、新しい録音に対応できる、よりヴァーサタイルな性格をもつことは、同時に参考試聴したオートグラフとの比較で明らかであった。クラシックモニターとの差も勿論あったが、概して共通のキャラクターといってよさそうだ。それよりも、部屋や、そこへのセッティング、使い手との関係による音の変化のほうがよほど大きいので、あまり機械自体の特質を重箱の隅をつつくような見方は控えたい。しかし、この新しく古い丹精なエンクロージュアと対面して音楽を聴けば、モダンなデザインのSRMシリーズ(クラシックモニターも共通のデザインだ)とは趣きも雰囲気も違った音が聴こえて当然だろう。視覚によって、音の印象が変化しないような鈍感な人間は、もともとオーディオの世界とは縁なき衆生ではなかろうか。

マッキントッシュ C29

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 現在アメリカのオーディオメーカーの中で最もメーカーらしい信頼性と安定性で製品の高性能・高品質を保っているのはマッキントッシュだと思う。この製品にもそれが現われていて、バランスのとれた感覚と設計技術がうかがえる。部分的には決してマニアックではないし、流血革命派のような気負いもない。しかし、ここにはメーカーとしてのキャリアが、最新技術と伝統をバランスよく製品に生かした高品位の大人の風格がある。

音質の絶対評価:10 

タンベルグ 3002

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 ノルウェイのタンベルグは、テープデッキ・メーカーとして実績をもつメーカーで、製品の品位は高い。しかし、かといって、決して超マニアックな高級品というのではなく、ヨーロッパ・メーカーらしいセンスで、すっきり美しくまとめられたプリアンプである。現代的なやや冷たい感触をもった製品で、重厚感には欠ける。仕上げは大変美しくきちんとしている。ペアのパワーアンプ3003ほど魅力はないが……。

音質の絶対評価:7

ラックス C-5000A

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 ラックスのプレスティジ・コントロールアンプらしく、さすがに、重厚な雰囲気を感じさせる仕上りだ。伝統的なラックスのパネルデザイン、デュオベータ回路採用の高品位なパーツによる高級機らしい風格を備えている。コントロールセンターとしての機能も完備しているし、各コントローラーの操作性、フィーリングも高い。MCカートリッジ入力端子は、昇圧トランス式というのもマニアライクなユニークさだ。

音質の絶対評価:7.5

ケンウッド L-08M

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 L06Mの上級機種で、同じくモノーラルアンプである。170Wの出力を持ち、別売の追加電源が用意されているというユニークなものである。これによって、アンプの心臓を強化して音の品位を改善しようというマニアックなコンセプトである。もちろんシグマドライブを方式を採用している。デザインはユニークなもので、ゴム足がなかったらどう置いてよいか迷うだろう。好き嫌いは別として大変面白いし現代的で美しくもある。

音質の絶対評価:8.5