瀬川冬樹
ステレオサウンド 39号(1976年6月発行)
特集・「世界のカートリッジ123機種の総試聴記」より
1 SME型コネクターの普及が、カートリッジの交換を容易にした
一昨年の秋、イギリスのSME社を訪問した際、創設者であり原設計者であるA・ロバートソン・エイクマンに、私はひとつの質問を用意して行った。
「あなたは現在、シュアーのカートリッジの愛用者らしいが、SME創設当時はオルトフオンSPU-Gタイプを使っていたはずですね」
それを言ったら、お前はどうしてそんなことを知っているのか、とびっくりしていた。まさに図星だったのである。
SMEは、一九五九年に最初の製品を市販している。ステレオディスクが発売された早くも翌年だから、ステレオ用の高級アームとしてはきわめて早い。その初期のモデルには、いまと違ってオルトフォン製の黒いプラスチックのG型シェル(旧Gシェル)が標準装備になっていたし、後部のバランスウェイトもSPU-G/T(ヘッドシェルとカートリッジで、トランスを含めて約32グラム)をカバーするだけの重量級がついていた。おそらくエイクマンは、オルトフォンSPU-Gを完璧に生かすために、あの精密なアームを考案したにちがいないと、だから私は想像していたので、右の質問をしてみたわけだ。
いまではもう、SMEタイプ、とさえ呼ばれるようになったあの4端子プラグインタイプのヘッドシェル・コネクターは、もとをただせばデンマーク・オルトフォンがG型およびA型のヘッドシェル交換のために作ったものだ。これと寸法的には類似するのが、ドイツ・ノイマンおよびEMTのスタジオ用プレーヤーのヘッドシェル・コネクターで、オルトフォンとドイツ・プロ規格とは、端子配列が45度傾いていることとロッキングナットで締めつけるコネクターのピンが上向きと下向きのちがいがあるだけだ。
SMEは、最初のモデル発売までにいろいろなプロトタイプを試作した形跡があるが、精密機械工作によるモデル製作工場の経営者でありオーディオマニアであったエイクマンが、はじめはアマチュアの立場でいろいろなアームを作ってはこわし、失敗を重ねながら少しずつ今日のSMEを完成に近づけていったであろうことは想像するまでもない。そしてその頃の彼の愛用カートリッジが、オルトフォンのSPU-Gタイプであったことから、彼は最初おそらく何気なく、ただ、交換に便利だという程度の理由からSPU-Gのコネクターをそのまま踏襲したのに違いない。当のエイクマン自身は、これがきっかけになってこのコネクターが日本のアームの大半に採用され、そのことからやがて世界じゅうのプレーヤーあるいはアームにまで大きな影響を及ぼすであろうことなど、予想してもみなかっただろう。
ともかくSMEは、ほかのどの国よりもまず日本のアームに多大の影響を与えた。ステレオディスク出現の初期に、設計の理論的な拠りどころとしても、また、精密高級アームのデザインや表面処理の模範としても、SMEは絶大な存在だった。何か目標がなくてはものを開発・発展させられない、しかもイミテーション上手という、日本人のあまり名誉でない特性がアーム作りに見事に発揮されて、ひと頃は、SMEの動作を少しも理解しない外観だけのしかもきわめてまずいイミテーションまで出現したが、怪しげな製品の淘汰された後に残ったSMEの置き土産が、オルトフォン型の4端子プラグインヘッドだった、ということになる。こんにち日本で製造されるヘッドシェル交換式のパイプアームのおそらく90%以上が、このオルトフォン/SMEタイプに共通の構造を採用しているはずである。そのおかげで、日本ほどカートリッジ交換の互換性に富んだ国はほかにないというような状況になっている。
意外に知られていないことだが、このオルトフォン/SME型のコネクターは、日本以外の欧米では、そんなに普及しているわけではない。日本と違って、オートマチックのレコードプレーヤーまたはチェンジャーの普及率がきわめて高い。しかもそれらオートマチックプレーヤーやチェンジャーのメーカーは、ヘッドシェルの交換に各社全く独自の構造を採用しているために、カートリッジの交換はSME方式ほど容易ではない。しかもメーカー相互の互換性は全くない。したがって欧米では、日本のオーディオファンのように自由にたくさんのカートリッジを交換するという楽しみを最近まで持っていなかった。カートリッジ交換によるデリケートな音質の変化を、日本人ほど敏感には受けとらないという国民性の問題も無関係とはいえない。
ところが最近になって異変が生じてきた。日本独自の開発によるダイレクトドライブ・ターンテーブルが、欧米のオーディオ界で高い評価を与えられはじめたのである。そうなると、永いことはオートマチック全盛だった欧米のレコードプレーヤーのシェアに、オートマチックは普及品で、ダイレクトドライブ式のマニュアルプレーヤーこそ今後の高級機、というような風潮が、生まれはじめたのだそうだ。たとえばここ一~二年のあいだ、イギリスやパリで開催されるオーディオショーには、SMEが、日本のDDモーターにSMEを組み合わせたプレーヤーを積極的に展示している。当社の高級アームは、こういうふうに使ってくれ、という意味である。そうなると、モーター単体ではなく、国産のDDタイプのマニュアルプレーヤーまでが一躍脚光を浴びはじめる。言うまでもなくそれらのプレーヤーについているアームのほとんどは、SMEと互換性のあるヘッドシェル・コネクターを備えている。そのことから最近の欧米では、このコネクターのカートリッジ交換の容易さや互換性に富んだ合理性などが、改めて評価されはじめたらしい。このコネクターを普及させれば、新しくカートリッジを追加購入するユーザーも増えるとにらんだ欧米のカートリッジメーカーの商魂までからんで、SMEコネクターは、むしろこれからますます普及しそうな気配なのである。日本ではすでに、このコネクターを普及させてしまったためにアーム設計に大きな制約が生じていることを嘆く声も出はじめているというのに、この分では、むしろこれから当分、SMEコネクターは増加の一途をたどるにちがいない。ただ私自身は、アームの設計の多少の制約よりも、ヘッド交換のこの合理性ゆえにここまで普及してしまったSMEコネクターが、当分消えるはずがないし、またこの便利な方式を消すべきではないとも考えているが……。
──とまあ、SMEコネクターの説明で前置きがひどく長くなってしまったが、こんないきさつから、日本のオーディオファンが世界でいちばん、カートリッジ交換の容易さとその楽しみに恵まれている、という次第なのである。
2 理想のカートリッジとはどういうものか……
この号でテストするカートリッジの一覧表をみせてもらったら、約一二〇個がリストアップされている。これでも現役製品の約2/3だというから、実際には二〇〇近い製品が市販されていることになる。ただ、カートリッジの場合には、特性上にほんのわずかの差をつけただけで外観も中身もほとんど変えずに価格の差をつけて多機種をとり揃える、という方法で機種を増やすケースが多いので、スピーカーやアンプの機種の多いこととは少し意味合いが違うから、実質的な製品の数はこの1/3以下、つまり五~六〇機種がいいところだろうが、そう考えてもまだ決して少ない数とはいえない。
たしかに、アンプやスピーカーにくらべてカートリッジの交換は楽にできるために、誰もが手軽にもう一個……と追加しやすい。しかしそれにしても、レコードの溝から音を拾い上げるというひとつの目的のために、どうしてこれほど多くのカートリッジが作られているのだろうか。どうも少々イージーに機種を増やしすぎるのじゃないか、という疑問を消すことができない。ただ、そういう疑問を持つからには、カートリッジのあるべき姿について、何らかの定義をしておかなくてはならないだろう。単に、目先の変わった音を鳴らし分けて楽しむというのであれば、いくらでも新種が作られてかまわないわけだから。
最も素朴なところから考えてゆくと、カートリッジは発電機と同じだ(*註)。レコードには、現実の音や音楽の複雑きわまりない音が、一本の溝の凹凸やうねりの形に姿を変えて刻み込まれている。ピックアップの針先がその溝をたどってゆくときに、針先は音溝のうねりのとおりに動かされ、ピックアップの内部で、その針先の運動に正しく比例した電流が発生すれば、カートリッジはその目的を達したことになる。言いかえれば、レコードの音溝に刻まれた音を、そっくりそのまま、何の変形も加えずに拾い上げる(ピックアップする)ことが、カートリッジの理想である。もしもこの理想が100%かなえられれば、異なった二種類のカートリッジを交換しても、音質の差は生じないことになる。ところが現実には、同じメーカーのカートリッジでさえ、二種類を聴き比べれば音質が違う。ということは、現実の製品には、右の理想を満たすものがまだない、ということになる。
そうした観点から、理想に近いカートリッジを探そうと、マスターテープとの比較試聴というようなテストを行なう場合がある。こまかく言えばいくつかの方法があるが、大要は次のような形をとる。
まず、レコードにカッティングするもとであるカッティング用マスターテープを用意する。曲あるいは演奏は、音質の判定をしやすいものを任意に選ぶ。このテープをもとにして、ラッカー盤にカッティングしてテスト用レコードを作る。カッティングの際には、テープに録音された音そのままを溝に刻むために、イクォライゼイションその他の加工を一切加えない。
こうして作られたレコードを各種のカートリッジで再生し、同時にカッティングのもとになったマスターテープをプレイバックして両者の音を聴きくらべて、テープの音に少しでも近いカートリッジが、すなわちレコードに刻まれた音を正しく再生する理想に近いカートリッジだと定義する、という方法である。
このやりかたは、レコードやカッティングについての正しい知識のない人には、実に公正で正確無比なテストのように思えるだろう。ところがこの方法には実に多くの問題点があるのだ。ひとつひとつあげて解説するだけでも与えられた枚数を超過してしまうので要点のみ箇条書きにしてみる。
① テープから加工せずにカッティングするといっても、カッターヘッド自体にもカートリッジと同様あるいはそれ以上の音質の差がある。(レコードメーカーが、新型カッターでカッティングし直して音質が向上することを宣伝文句にうたっているように、カッティングシステム自体が──カッターヘッドばかりでなく、ヘッドをドライブするアンプも含めて──特定の音色を持っている)
② テープをプレイバックする際、テープデッキにも固有の音色がある。アンペックス、スカリー、3M、スチューダー、ノイマンその他、同一のテープでもプレイバックデッキによって音質が異なる。同じ銘柄のデッキでも、2台を比較すれば音色が異なる。プレイバックカーブに0・2dB程度以上の偏差が生じれば、それでもマスターテープの音が変わる。
③ 比較のためのカートリッジは、どういうヘッドシェル、どういうアーム、どういうプレーヤーシステムを使うのか。同一のカートリッジでも、ヘッドシェルやアームを変えれば音が変わることはすでに常識化している。また、右のようなテストをするときには、カートリッジ自体の周波数特性のくせを、一台一台調整して合わせたイクォライザーでフラットに補正すべきではないのか。それとも、RIAAカーブで補正するだけで、カートリッジ自体の周波数特性は放っておいてよいものか。ハイインピーダンス型の場合は負荷抵抗や負荷容量を変えても音は相当に変わる。シールドコードの影響や、温度、湿度の影響も無視できない。
──細かく言い出せばキリがないが、テストというものは、厳密に行なおうとすればするほど、右のような細かなエラーを無視したのでは無意味になる。どのみち、レコードに刻まれた音はカートリッジで拾って聴いてみないかぎりわからない道理なので、これはカートリッジに限らない、アンプでもスピーカーでも、現在の技術のレベルでは、どのパーツが最も正しい音を再生するのか、という証明は、論理的に不可能なのだ。
不可能ではあるにしても、しかし再びカートリッジに話を限るとして、レコードに刻まれた音を、大幅に歪めたり、刻まれた音を明らかに拾い落したりはしないように、というひとつの目標について、異論を唱える人はいないだろう。その同じ目標に向って多くのメーカーが、地道な研究の積み重ねによって着実に前進していることもまた確かである。それでありながら、一〇〇個のカートリッジが微妙とはいっても一〇〇通りの異なった音色で鳴る。そこに好みや主観という要素が入りこみ、さらに価格とのバランスとか使いやすさとか、針交換のしやすさとかトレースの安定度など、人さまざまに重点の置き方が異なって、選ばれるカートリッジも人さまざま、という結果になってくる。ただ、10年前にくらべると、明らかに飛び抜けて音色の違うというようなカートリッジは少なくなった。それだけ技術のレベルが揃っているという証明にもなるし、レコードからできるだけ正しい音を拾い出すという目標に大局的には接近しているという証拠にもなる。
(*注)MM-IM、MC……等、電磁型、動電型のカートリッジ、および圧電型のカートリッジに限って、発電機の同類といえるが、コンデンサー型、光電型、半導体型などは正確には発電機ではなく、別に用意された電源から供給されるバイアス電流を、音溝のうねりで変調して音声電流に変換する。
3 カートリッジを選ぶ根拠は何か?
MM型、MC型……というタイプの違いか、価格の違いか、メーカーか……
同じ目的のために作られるカートリッジに、なぜ、MM型、MC型……というようなタイプの違いが生じるのだろう。それは、アンプの場合ならトランジスターと管球式、あるいは同じトランジスター型でも直流アンプというように、またスピーカーならコーン型とホーン型あるいはドーム型……というように、メーカーの技術力や得手不得手、方法論のちがい、等の理由によって、それぞれのメーカーが自社の主張に応じて異なった構造を採用するのだ。どんなタイプにも、メリットがあれば、その反面に必ずデメリットがつきまとう。うまいことだらけ、というような話はありえない。ただ、メーカーはつねにメリットの方を宣伝材料に使って、デメリットについては触れたがらない。もしも客観的にみて、誰が見ても誰が考えても唯一最良の方式というのがあれば、世界じゅうのカートリッジがそのひとつのタイプで作られるはずだ。そうならないで各社各様のタイプを押しているという現実が、すでに、メリットの反面にデメリットのあるという事実を裏書きしているようなものだ。
では現実にカートリッジを探し、選ぶ段になったとき、いったいどういう問題点を根拠にしたらいいのだろうか。MM、MCというようなタイプの違いか。ブランド名か、あるいは国籍か。それとも価格や使用条件によって何か大きな違いがあるのか。カタログデータ上で何か拠りどころになる数字や項目があるのか──。以下にいくつかの項目をあげながら考えてみよう。
■原盤試聴用あるいは放送局用など、プロ用の特殊なカートリッジがあるか?
レコード会社がカッティングしたラッカー盤やメタル(マザー)盤をチェックするときに、どんなカートリッジを使っているのだろうか。
ノイマンのカッティングシステムでは、オルトフォン(SPUまたはSL)、シュアー(V15/III)、またはエラック(STS555E)などが標準装備となっているし、他のカッティングシステムやレコード会社によっては、EMT、デッカ、ピカリングまたはスタントン、ADC、エンパイア、その他、要するに私たちに馴染みの深い製品が適宜選ばれていて、どこにも特殊なカートリッジの使われている例はない。ことにメタル盤の検聴の際は、針の磨耗がおそろしく早いことと、メッキの素材であるニッケルが磁石の強いカートリッジを引きつけてしまうなどのやや特異な条件から、MMまたはIM系の、むしろあまり高価でないカートリッジの針をどんどん使い捨てるケースが多い。
放送の場合はどうか。日本では、NHKおよびFM東京などFM局で、DENONのDL103が標準カートリッジに採用されていることはすでによく知られているが、これとてアマチュアにとって別に珍しい製品ではなく自由に入手できる。AMの民放局ではこれ以外にも主に国産品が適宜使われる。海外の放送局となるともう全く自由で、それにしても私たちに縁の遠いカートリッジというのはまず使われていないといってよい。
スピーカーの場合は、本誌36号の「現代スピーカーを展望する」で詳述したように、シアター用など広い場所で強力な音声をサービスするものと、比較的狭いモニタールームで検聴用に使うスピーカーと一般家庭用とでは、用途によってその構成も規模も大幅に違う場合が多い。けれどカートリッジの場合は、対象がレコードの溝一本だから、目的とか用途による違いというのは、スピーカーのように別々にはならない。
もうひとつ、スピーカーの場合には、少数とはいえ十年前十数年前の製品がいわゆる名器として残っている例があるが、カートリッジの方は、ほんのわずかの例外を別にすれば、原則として、旧製品は消えてゆかざるを得ない宿命を負っている。それはカートリッジが、レコードにカッティングされた音溝を忠実にたどるという目的を持っているからで、カッティングシステムの改良にともなって、より振幅の大きな、より複雑な音溝が刻まれるようになると、旧型の設計のカートリッジでは、その振幅を正しくトレースしてゆくことができなくなってしまうからで、スピーカーの方は、アンプから送り込まれた音が出てこないだけだから故障などの実害のないのにくらべると、カートリッジの旧型はレコードの溝を正しくたどりきれずに溝をいためてしまうという害が生じる。したがって、少数の例外を除いて、カートリッジは新型・新型と移り変わってゆかざるをえない宿命にある。
■タイプによる違いと、国籍やブランドによる違いと、どちらの差が大きいか
ムービングコイル型(MC型)は音のキメがこまかい、とか、ムービングマグネット(MM)型は音が柔らかい、などと、タイプによる音の違いが言われている。たしかに、タイプによって本質的に持っている音というのはある。
しかしその反面、カートリッジの音質の違いはタイプじゃない、要するにブランドによる違いであり機種による違いなのだから、タイプにこだわらずに音を聴いて決めるべきだ、という意見もある。
そうした、一見相反する意見があるということは、そのどちらが正しいのでもなく、どちらも半面の真理を言っているのだ。メーカーあるいは国籍による個性、そして素材とその料理法によって、さらには同じメーカーの製品ならば価格の高低によって、それぞれ微妙に音の差があって、それが一見、タイプとは無関係のようにさえ思えるが、しかし本質的にはやはり、タイプによって基本的に決まる音の傾向がなくなりはしない。たとえばMC型の音のこまかな切れこみは、他のタイプから聴くことは無理だし、MM型の、音ぜんたいを柔らかく包みこむような鳴り方をMC型は概して聴かせてくれない。そういう基本的な性格の上に、ブランドやランクや素材などのさまざまの要因が加わって、1個のカートリッジの音の性格ができ上がっている。だから、タイプ論もブランド論も、それぞれ半面の説明はしていることになる。ただ、タイプがすべてを支配するというようなことは起りえないし、さきほどのくりかえしになるが、客観的に唯一最良のタイプがもしもあるのなら、世界中のカートリッジが同じひとつのタイプを採用するはずだ。
そういう話を前提にしておいて、そこであえて私個人のカートリッジ選びの基準をいえば、第一にタイプ、第二に国籍またはメーカーの個性、第三に同一のメーカーの製品体系の中でのランクづけ、の三つの面から考える。言いかえればこれらの要素が、カートリッジのできばえにそれぞれかなり大きな影響を及ぼしていると、私が感じているからだ。そのことをもう少し掘り下げて考えてみよう。
■MMグループとMCグループ
こまかなことを言う前にまず、私自身のカートリッジの使い分けをふりかえってみると、レコードを真剣に聴くときはMC型、くつろいだり聴き流したりするときはMM型、という聴き方がわりあい多い。読書しながら、あるいはお茶や酒を飲みながら聴き流すとき、針交換のめんどうなMC型を使うのは何となくもったいない気がするし、それよりもMC型の音はどこかこちらをくつろがせにくい、聴き手を音楽の方にひきずりこんでしまうような雰囲気を持っている。レコードに入っている音をどこまでも細かく細かく拾ってくる感じが、つい、音楽を一生けんめい聴く姿勢にさせてしまうのではないだろうか。
一旦MC型の良い製品を良いコンディションで聴いた直後、同じレコードをMM型で再生してみると、MM型はMC型にくらべて、何か大切な情報量を掴み落してくるのではないだろうかといった気持になる。くどいようだが、さきにも書いたようにタイプですべてがきまるわけではないから、MCの中にも不出来な製品が少なからずあることは断わっておくが、MC型の方が明らかに同じレコードからより豊富に音を拾い出してくる。そのことが、逆に聴き手をくつろがせにくい、あるいは聴き流しできないような気分にさせてしまうのかもしれない。そこでつい身を乗り出して、音楽にのめり込んで聴き入ってしまう結果になる。
ただしかし、聴き手の主観以外にも問題がないわけではない。第一に、レコード自体にMC型の解像力に見合うだけの豊かな情報量が入っているかどうか。演奏の良否から録音・盤質まで含めて、優れたレコードであるかどうか。第二に、アンプやスピーカーが、その豊富な情報量を十分に再現できるだけの能力を具えているかどうか。
正直をいって私自身は、MC型を嫌う人の音の受けとめ方が全く理解できない。しかし一方で、MCでは鳴りにくい音のあることだけはわかる。それだから、自分でもMC一辺倒でなく、MM系(IM型も含めて)を使っている。たとえばジャズの場合──。
バリトンあるいはテナーサックスの、あのふてぶてしい、太い真鍮の管が共鳴して豊かに唱うあの鳴り方が、MC型では私には十分満足できない。管の太さ、みたいな感じが、IM系のカートリッジでなくてはよく鳴らないように思える。あるいはスネアドラムのスキンのよく張った乾いた音。……そう、この乾いた感じというのが、MC型ではどうも出にくく思えるのだ。MC型の音はどこか音をひきずるように、いくぶんウェットに、ふてぶてしい音さえもどこか品良く、繊細な艶を乗せて鳴らす。もっとカラッとしていなくてはジャズではない、そういういら立ちさえ感じさせる。ジャズばかりではない。アメリカの現代のさまざまのポップミュージック──ロックやソウルやフォークやウェスタンなどの、新しい流れのポップミュージック──の、ことにリズムセクションの、ストッ! と切れる感じの、重量感がありながら粘らない、あの一種爽やかな迫力を、私の知るかぎりのMCは鳴らしてくれない。そういう音を聴かせてくれるのは、IM型の、それも特に断わっておかなくてはならないことは、それがアメリカの東海岸(イーストコースト)系のカートリッジにほとんど限られるのだ。
そう。私は再ぴここで、音響パーツを生み・育てた風土の問題にぶつかった。同じような構造の、似たようなカートリッジが、イギリスで、ドイツで、あるいは日本で作られると、なぜ、イーストコーストのあの、乾いた気持のいい音が鳴らないのか。そしてまたイーストコーストのカートリッジには、どうして、ヨーロッパ製のそれから聴くことのできる繊細でややウェットな余韻の美しさが欠けているのか──。
■同じMM型でも風土が違えば音質も変わる──エラックとシュアーの例──
たしかに、カートリッジの音はそれぞれに違う。同じメーカーの、同じタイプの製品でも、価格のランクによって音が変る。だから、カートリッジの音のちがいを、タイプだの風土だのでいうのはまちがっているという意見もある。が私は、それは音をあまりこまかく見すぎてもっと大掴みな重要な違いを聴き落していると思う。
そういう違いを聴きわける最も良いサンプルはアメリカ・シュアーと西独エラックだ。余談になるが、エラックという商標を日本では使えないで、エレクトロアクースティックという名で呼んでいる。日本のある商社がむかしエラックを輸入していたころ、勝手に Elac の商標を登録して日本ではその商社を通さなくては使えないようにしてしまった、というのが真相だ。日本だけのばかげた現象で、何とも腹の立つ話だ。もうひとつ、日本では最も普及しているMM型は、もともとシュアーとエラックが共同で特許を所有しているもので、欧米ではこの二社以外はこの構造のMM型を作っていないし、日本でもオーディオテクニカのような独自の構造以外の製品は、特許料を払わないと海外に輸出できない。
シュアーとエラックをくらべてみるとよくわかるが、この二社の製品は、右のような理由から、基本的にはよく似た構造をとっている。もしも構造(タイプ)が音質を支配するというのなら、シュアーとエラックはよく似た音がするはずだ。だが試みに、シュアーのV15/IIIとエラックのSTS555Eを聴きくらべてみるといい。もしもできれば、エラックのSTS155までの一連の製品を聴き、シュアーのM75やM91のシリーズをひと通り聴いてみるといい。エラックの製品だけでも、155と255、355、455……みな少しずつ音が違う。シュアーもまた、75Gと91EDとV15/IIIとでは当然音が違う。けれど、エラックとシュアーをまとめて聴いてみれば、エラックの中でどれほど違う音でもそれは決してシュアーの方に似てはいないし、シュアーのどの製品をとっても、シュアーよりはエラックに近いなどという音はしない。明らかにシュアーはシュアー、エラックはエラックの音がするのである。
そのことを単にメーカーの個性とみるのは自由だが、私はそこに、カートリッジの音をコントロールしてゆく人間の音感を、そういう音感の人間を生み・育てた風土の問題を考えずにいられない。そしてメーカーが最もそのメーカーらしい、言いかえればメーカーの主張を最も端的に表現するのは、同じ機種の中の最高のランクの製品である。シュアーならV15/III、エラックならSTS555Eまたは655D4である。それで私は、自分でカートリッジを買うときは、まずそのメーカーの最高のランクの製品を聴いてみる。一方そのシリーズの最低と中間とを同時に比較すれば、そのメーカーの主張はおおかた理解できる。
カタログの項目で参考になるのは、出力電圧とインピーダンスと、針圧とコンプライアンス。前者はアンプまたはトランスとのマッチングをとるために、後者はアームとの組合せを考えるために、つまり使いこなしの際に必要な数字であって、カートリッジを選ぶ段にはたいして役に立たない。周波数特性をこまかく比較する人があるが、ばからしいからおやめなさい。同じ機種で安いのから高いのまで、五千円きざみにとり揃えているようなメーカーの製品の周波数特性を見くらべてみれば、価格のランクにともなって、少しずつ特性が良くなるように書いてある。これなどは、この前の製品で10Hzから30、000Hzと書いてしまったから、今度のは8Hzから32、000Hzにしておこうか、というようなアホらしい操作を、メーカーの方がしているだけの話だ。
■優れたカートリッジほど音楽に血を通わせ生き生きと蘇らせる。
そして、レコードを、音楽を、次々と聴きたい気持をふくらませてくれる
菅野沖彦氏がおもしろい指摘をしておられる。内外の軽針圧型のカートリッジが、概して針先にまつわりつくゴミやホコリに弱く、レコード一面をかけ通さないうちに音がビリついたり、針先が浮いてしまったりするのが多い。しかし、EMTやオルトフォンSPUのような3g前後の針圧を要するものは別としても、軽針圧型であってもたとえばエラックやシュアーなどは、よほどのことがないかぎりレコードの一面ぐらい、何の苦もなくトレースする、というのである。
そう言われて考えてみると、私は右のようなトラブルにあまり遭遇していない。しかしそれには注釈が必要なので、ふりかえってみて私の場合、いくつかの例外を除けば一個のカートリッジでレコードを何枚も続けざまに聴くということを、おそらくほとんどしていない。テストの際にはレコードの特定のある部分だけを鳴らしながら次々とレコードを換えてゆく。そのたびごとに針先のゴミを払う。そういう扱い方をしているかぎり、菅野氏の指摘されるような現象は発見できない道理だ。
ということは、私のカートリッジ・テスト法がもしかすると杜撰であるのかもしれないが、しかしレコード一枚さえ通して聴かないとあえて書くのは、私にとって、レコード一枚、いや片面だけでさえも、始めから終わりまで通して聴き込む気持を持続させてくれるカートリッジが、きわめて少なかったと言いたいためだ。
新しいカートリッジを入手すると、最初にアイドリング(エイジングともいう。いわゆる馴らし運転)のために、オートマチックのプレーヤーにとりつけて、馴らし運転専用の(傷んでも惜しくない)レコードをざっと十数時間トレースさせる。このときは音をきかない。エイジングが済むと、あらかじめ選んである何枚かの、それぞれ音楽のジャンルも楽器構成も異なるレコードの特定の部分を次々とかけてヒアリングテストする。針圧を変えてみたり、ヘッドシェルやアームをとり換えたり、むろん負荷の条件も変えてみる。これでカートリッジの素姓はまず90%掴むことができる。
こうしてテストした結果、これはもう少し時間をかけて聴き込んでみたいという気持を誘発させてくれるほどのカートリッジなら、一応、相当の水準にあるといえる。そういう製品は、テスト用とは別に気分のおもむくままに、楽しみながら聴き込んでみる。良いカートリッジは、そうして聴くうちに次々と、そうだ、こんどはあれを聴いてみよう、という具合に、次にかけたいレコードを思いつかせてくれる。つまりレコードを楽しむ気持をふくらませてくれる。同じことを私は、本誌36号のスピーカーテスト後記で書いた(36号119ページ)アンプでもカートリッジでも、この点は同じだ。
ところが、たいていのカートリッジが、テストレコードが一面の終わりまで行かないうちに、いや、ミルシュテインのグヮルネリの中音はもっと線の太い一種ふくみ声のような音色で鳴らなくてはおかしいはずだ、とか、このバルバラの声には人生の厚みが感じられない、とか、菅野氏のこの録音はもっと楽器の鮮度が高く聴こえるはずだ……というような不満が生じたり、なんだこの程度の音かとがっかりしたり腹が立ってきたり、そうでなくとも、ことさら指摘できるような弱点がないにもかかわらずどういうわけか聴き馴れたレコードがとてもよそよそしく聴こえたりして白けた気持になったりして、途中で聴くのをやめてしまうことが多い。
こんなはずはないのにと思って、ヘッドシェルをかえてみる。アームをかえてみる。プレーヤーシステムをかえる。針圧や負荷を再調整する。別のレコードをかける……。要するに相当にこまかく条件をかえ、日をかえて気分を新たにして聴き直してみたりもする、こんなテストをして生き残った製品が、ここ一年あまりでいえば、オルトフォンVMS20E、エラックSTS455E、ゴールドリングG900SE、エンパイア4000D/III、ピカリングXUV4500Q等であった。これ以外にも、レコードの内容や、その日の気分や、組み合わせる装置のちがいによっては鳴らす機会のあるのが、シュアーのM75シリーズやスタントン681シリーズ、ADCのスーパーXLM/II、それにAKG、B&O、DECCAなどである。右にあげたのはしかし私にとってあくまでもサブ用、あるいはその時点での水準を知るための参考比較用であって、常用はEMTとオルトフォンである。つい最近では、国産の一~二の製品が、もうしばらく聴いてみたいグループに加わっている。あと数ヵ月しないと本当の結論は出ないだろう。カートリッジの素性を正確に掴むには、それぐらい時間と手間がかかる。
4 カートリッジの鳴らす音色とその背景に横たわる風土との関係を
もう少し個々に論じてみると……
シュアーとエラックが、似たような構造でありながらそれぞれに異なった個性で鳴ることをすでに書いたように、むろんカートリッジの鳴らす音に限らずスピーカーにもアンプにもレコードにも楽器にもあるいはその奏法にも、民族性や国柄や風土が映し出される。その点を解明することがここ数年来の私の興味の中心になっている。では、カートリッジの場合、それがどういう音のちがいになってあらわれてくるのか。それを国別に少し細かく調べてみよう。
■日本のカートリッジは歪みをおさえた色づけの少ない音がする
たとえば欧米のカートリッジの一部には、トータルの音のバランスは悪くないが細部あるいは弱音部でのデリカシーを欠いて、いかにも音の粒の粗いものがある。その点国産のカートリッジは、たとえローコストの中にも、歪みっぽい音や粗い音を鳴らす製品はほとんどないと言い切ってもいいだろう。聴感上の音の粗さや歪みっぽさを注意深くおさえて、強音でも圧迫感のない、すっきりとおとなしい、節度のある音を聴かせる。
歪みあるいは音のバランス上明らかなピーク性のクセ、ないしはトレースの不良……などの客観的な欠点や弱点を、ひとつひとつ取り除いて製品を仕上げてゆく能力にかけては、日本人のこまやかな神経は世界一といっていい。カートリッジばかりではない。国産のワインが渋味や酸味を注意深く除いて作ること、同じく国産のウィスキーがたとえ安物であってもアルコール臭や醸成の若さ・鋭さをよく抑えること、時計の進み、おくれを嫌うこと、日本人の国民性はこうした面に発揮される。
こうした作り方が長所として実った製品も数少ないながら数えあげることができるが、ただ、一部の製品の中に、やや消極的というのか行儀がよすぎるというのか、どこか静的で平面的で、音の表情をおさえすぎたり、音の肉乗りの薄いあるいはコクのない、ボディーの厚みのない音に聴こえるのがある。
もうひとつこれは別の機会にも書いたことだが、西欧の音楽が低音の豊かなメロディーの上に構築されているのに対して日本の音楽は、伝統的に低音はリズム楽器で支えられてメロディーそのものは高音の、しかも原則としてモノディとして成立していた。こうした歴史の流れの中で、日本人の耳が低音の音の厚みや中~低音のハーモニィの複雑な音色を聴き分けることに往々にして弱点をみせる反面、中~高音域での音色や音の美しさをデリケートに聴き分ける能力の鋭敏なこともまた、世界に誇れる。このことが、カートリッジにかぎったことではないが音の仕上げに影響を及ぼすことが少なくないように思う。
その特質がおそらく、国産カートリッジの多くを、実におとなしくきれいな音に仕上げるのだろう。けれど次のようなことはある。
たとえばソロ楽器、あるいはコンボ、クラシックの場合なら室内楽かせいぜい室内オーケストラ程度、要するに小編成の曲を鳴らすかぎり、おおかたの国産カートリッジの音はたいへんバランスも良く、キメのこまかな美しい描写をする。ところが大編成のオーケストラがトゥッティで鳴ったほんの一瞬、音のバランスが中~高域に片寄るように、低域の厚みのある支えを欠いて、キャンつきはしないがやや薄手の音を鳴らすカートリッジが、一部とはいえ無視できない程度の数はある。たとえば最近の本誌でテストレコードとして使われる機会の多い、クラウディオ・アバド指揮/ウィーン・フィルの『悲愴』(独グラモフォン2530350)。その第一楽章の中間部でクラリネットからファゴットのピアニシモで消えた次の一瞬、フルオーケストラがフォルティシモで鳴りはじめるあの部分。そこがジャン! と鳴ったほんの一瞬で、聴きなれてくるとカートリッジの低音から高音までのエネルギーのバランスを瞬間的に聴きとることができる。ある製品は低音が重く鳴る。別の製品は高域の上の方でキラッと光る音を鳴らす。しかし私が最も低い点をつけるのは、キャン! という感じで低音の厚みがなくなってしかも中高域の一部分にエネルギーが固まる感じの音。カートリッジにかぎらず、アーム、ゴムシート、プレーヤーシステム全体からさらにアンプ、スピーカーまでこのテストは最も短時間に音のバランスのダイナミックなテストができる。
もうひとつはMCとMMの項で書いたようなジャズあるいは新しいポップスの、一種ふてぶてしい、あるいは音が粘らないでスカッと切れる乾いた爽やかさ、などの感じがどれほど鳴らせるか。そしてその反対に、クラシックの弦や木管のたおやかなやさしさ、そしてヴォーカルの声帯の湿った温かさがどれほど聴けるか……。カートリッジの音の判定はとても難しい。
国産のカートリッジの話のはずがつい脱線して、カートリッジのテスト法になってしまった。そこで話をもとに戻して、仮に一部とはいっても国産のカートリッジの中に、もっと低音の豊かな弾み、ことにオーケストラのトゥッティでの豊かさと音楽の表情、そして音にもう少し脂気あるいは艶が乗ってきたら、全体の水準はグンと上がるのに──と、まあえてして身内にはきぴしくなりがちだというが、これが日本人である私の願いである。
■イギリスの音はどうして細い感じで鳴るのだろうか……
イギリスという国は、ずいぶん古くからカートリッジを作っているが、わずかにデッカ一社を除いては、国際的に通用する名品は、最近では全くといってよいほど生れなかった。つい先ごろ、古いメーカーのゴールドリングが久々の新製品として発表したG900SEがもしもたいした製品でなかったら、カートリッジの話の中でイギリスを独立した項目にたてることもなかったかもしれない。
デッカ(MKV)とゴールドリンク(900SE)のふたつは、スピーカーの場合にも説明したイギリスの古いジェネレイションと新しいジェネレイション(本誌36号参照)の音の違いを端的に代表している。スピーカーでいえばタンノイやリークの鳴らすやや硬質の艶で聴かせるのがデッカなら、その音をもう少し柔らかくまろやかにしたのがゴールドリングで、それをスピーカーでいえばスペンドールBCII(本誌36号P317参照)を思わせるバランスのよさとクセのなさを持っている。デッカの中~高域の、黒田恭一さん流にいえばコリッとした感じのタッチ。その輪郭をくまどる線は鮮明だがいかにも細い。イギリスの音はスピーカーでもそうだが概して中低域に肉がつくことを、音がぼてっと厚くなることを嫌って、痩せぎすに仕上げる。デッカの音はときとして少し骨ばって聴こえ、ゴールドリンクはその骨をあからさまには感じさせない程度に耳あたりを良く、そしてイギリス製にしては──というより以前の800シリーズからみたら──総体にフラットに、バランス的に過不足なしに仕上げているがしかし、やや細い感じであることに変わりはない。
その意味ではデッカの音もゴールドリングの音も、国産のカートリッジの中によく似た音があるように思えるし、いま書いたような範囲では似ている製品も事実ある。ただし国産とイギリスとがやや違っている点は、しっとりと脂の乗った、そして中低域が薄いために一聴すると低域が弱いように思えるがよく聴くと、ローエンド(低域端)での音はたっぷりと量感を持っていて、細いけれどつくべき肉はちゃんとついているし、ボディーに厚みも奥行きもあることがわかる。そして音楽のこまやかな表情の変化に、実にしなやかに寄り添ってゆく。
ただしかし、概してイギリスの音はスケールがあまり大きくない。スピーカーでもタンノイのオートグラフ(すでに製造中止)とヴァイタヴォックスのCN191はむしろ例外的な存在で、アンプでもプレーヤーでも、繊細な神経でこまかく仕上げてゆく反面、それが大がかりになることを好まない傾向がある。それが音にもあらわれている。
■ドイツの音はいっそうBODYが厚く、そして音のけじめがはっきりしている
イギリスの持っている音の艶、それもデッカ型のやや硬質の艶にさらに脂を乗せて、中低域での音の細い部分の弱点をなくしたような音──ドイツの音を、大掴みなバランスからいえばこういう感じになる。
ここでもまた、ドイツのスピーカーの鳴らす音や、ドイツのオーケストラの音、さらにはドイツの工業製品、たとえばカメラや自動車の操作性にも一脈通じるフィーリング、そういう感じがカートリッジの場合でも例外ではないことをまず言っておきたい。むろんドイツの音といっても、オーケストラの音を思い起こすまでもなくそれを一括して言うのは乱暴すぎるが、カートリッジでいえば、現時点ではEMTとエラックの二種類に代表させればよいので、話は比較的簡単だ。
たとえばブラウンのスピーカー。音のけじめのはっきりした、明瞭かつ鮮明な感じの音のくまどり。大まかに言えばエラックにもEMTにもその感じが共通している。
もうひとつ、ベンツやBMWに乗ってみると(私は運転ができないので、友人たちに乗せてもらうだけだが)、アメリカや日本の車よりもクッションが固い感じが第一印象として際立っている。スポーツタイプでないふつうのセダンで、坐った尻の下のクッションの感じが、ブラウンやヘコーのあのけじめのはっきりした硬質の音に似ている。これでは走り出したらいかにも固くて疲れるのじゃないだろうか、と思っているとその予想は裏切られる。固くてやわらかいとでもいったらいいのか、明晰さで包まれた豊かさ、とでもいうべきなのか、それは固い一方でなく、というより第一印象で固いと感じたのは実はほんとうに固いのではなく、馴れるにつれてそれがドイツ車の──いや、ドイツの音の表現の基本になっていることに気付かされる。道路の小石を踏んだことさえ乗り手に鋭敏に伝えながらしかもドライバーを疲れさせないどこか柔らかで豊かなあの感じを、EMTのカートリッジの鳴らす音に聴くことができる。
エラックの音も基本的には同じだ。ただ、これがおそらくMCとMMのちがいなのだろう。EMTのおそろしいほどの解像力に裏づけられた豊かな情報量にくらべると、エラックの音はもう少し甘い表現になる。EMTとエラックをくらべればそうだが、そのエラックをシュアーとくらべると……それはさっき書いたとおりだ。
■北欧が生んだ名作オルトフォン。そして同じ国のB&O
デンマークは、オルトフォンやB&O、それにカートリッジではないがオーディオ用測定器として世界じゅうで標準原器のように使われているブリューエル&ケア(B&K)を生んでいて、北欧諸国、というよりヨーロッパ諸国の中でも、オーディオの面でかなり大きな存在である。特にオルトフォンは、レコーディング用のカッターヘッド等も作ってプロフェッショナルの分野でも高く評価されて、中でもSPUシリーズのMC型カートリッジは、その基本構造がドイツのEMT、日本のデンオン、FR、マイクロ、スペックス、オンライフ等に影響を及ぼしている優れた発想によって、独自の地位を築いている(もっともEMTのカートリッジは、TSD15の旧型時代はオルトフオンで作っていた)。SPUだけが聴かせる音の自然で厚みのある、一見反応が鈍いようでいて実はおそろしく緻密でコクのある音は、すでに十余年を経ても一向に古くならない。はじめの方で、カートリッジの世界に旧製品は通用しにくいことを書いたが、その例外的存在がオルトフオンSPUでありEMTである。オルトフォン製時代のEMTは、SPUとくらべるともう少しナイーヴな柔らかさの中に、実に繊細な解像力を持っていた。ドイツで作るようになってからは、基本構造にはほとんど変化がないのに、もっと鋭角的で明晰な、近代的で緻密な音質に変わっている。こういうところにも、タイプの分類からは説明しきれない国柄や風土の問題を聴きとることができる。
オルトフォン自体も、初期のSPUと現在のとくらべると、音の解像力が一層向上し、歪みも減少している。反面、旧型のもう少しおっとりしたあたたかな肌ざわりを懐かしむ声もないではない。とくにSPU以後、SLシリーズという別の音──もっと現代的な、シャープな解像力を加味したクールで細身の音──が生れているのだから、SPU自体は、できれば旧EMTのような、繊細な柔らかさとあたたかみの方向でまとめてくれてもよいのではないかと、これは私個人の勝手な希望を持っている。しかしそれにしても、SPUシリーズの厚みとコクのある音は、いまや貴重な存在で、数年前すでに書いたことだが、こういう音はもはやオルトフォンという一メーカーの製品であることを越えて、ひとつの文化ともいえる存在になっていると私は思う。この音は絶対になくしてはならないと思う。EMTもまた同様である。
製造に手間のかかるMC型を嫌って、オルトフォンはその後IM型に手を出した。初期の製品は、SPUやSLシリーズのあの秀才型の音にくらべてあまりにもでくのぼう然とした鈍い音がして私は好きになれなかったが、VMS20E以降は、SPUタイプの音をIMで仕上げたとでもいったニュアンスが聴こえはじめて、SPU-G/Tの重量(約31~32g。市販のアームでは使えないものが多い)やSPU-Gのトランスの問題などでためらう人には、ぜひとも奨めたいカートリッジのひとつになっている。
オルトフォンについて少しばかり書きすぎてしまったかもしれないが、B&Oもまた特異な存在といえる。旧SPシリーズの頃から、腰の坐った強靱な、しかしナイーヴな音の魅力で愛用していた。いまSP15を経て、MMC3000、4000、6000等の新しい製品が揃ったが、新しい製品になるにつれて、強い個性がおさえられ、ナチュラルな音質に仕上がってきている。ある意味ではSP15を含めて旧製品の方が、類形のない特徴のある音に魅力があったともいえるが、しかしそうした強いキャラクターをおさえて自然な音に変わってゆくのは、なにもB&Oだけのことではなく、世界的なオーディオの傾向に違いない。そしてB&Oの音が自然と書いたけれど、やはりそれを他の国のカートリッジの中に混ぜて聴くと、北欧の空のあのいくらか暗いクールな感じが、たしかにB&Oやオルトフォンからは聴きとれる。それがオルトフォンのSLシリーズやB&OのSP15のように、高域のやや上昇ぎみの、ふつうならキラキラと華やぐ傾向になりがちの部分でさえも、北欧の冬の太陽のあの白っぽい光のようで、まぶしくなく、エキサイトした感じにならず、しかもイギリスや日本のような線の細いところがなく、ドイツのあの透明で硬質な光沢とも違う。やはり生れた国の音はあると思う。
■アメリカ。なぜ西海岸にはカートリッジメーカーが出てこないのだろう?
東海岸(イーストコースト)のカートリッジの音の大まかな特徴は前にも書いてしまったが、いうまでもなくその音は、ARやKLHや、アドベントやボーズやボザークなどのスピーカーの鳴らす音と本質において全くおなじだ。スピーカーの音の特徴については、本誌36号(「現代スピーカーを展望する」)にくわしく書いたが、世界的にみてアメリカ東海岸は、高域の、ことにハイエンド高域のごく上の方)の強調感をことに嫌う。たとえばKLHの新しいスピーカー “Classic four” の背面にトゥイーターレベルを二段に切替えるスイッチがついている。そして一方にFLAT、他方にNORMALと書いてある。測定しても聴いてみても、この “NORMAL” ポジションは高音をいくぶん下降させている。日本人やヨーロッパ人の感覚なら、そしておそらく同じアメリカでも中央部から西海岸にかけてなら、FLATのところが即NORMALであるはずだ。ところが東海岸では、FLATをNORMALとは感じない。前記36号ですでに紹介ずみの話だが、この一例は東海岸の音の感覚を実にみごとに説明してくれる。
ADCやエンパイアの、それもADCなら現在のXLM以前の、エンパイアなら1000ZE/Xまでの各モデルの音に、私がどうしても馴染めなかったのは、なにしろ高音域が全然延ぴていないようなナロウレインジに聴こえたからだ。実際に測定してみると特性はむしろフラットなのだが、特性とは別に聴感上は高域が落ちて聴こえる。やはり東海岸の製品なのだなあと、つくづく感じさせる。
ADCがスーパーXLM/IIになり、エンパイアが4000D/IIIになって、周波数特性上は目立った変化はないのに、聴感上は、はるかに高域が延びてきた。私の耳にもそれで一応なじめるようになって、以前よりはずっと本気で聴き込みはじあた。すると、前にも書いたような、ジャズやアメりカンポップスのある部分──ヨーロッパや日本のカートリッジではウェットになったり柔らかくなりすぎたり、妙に音をこまかく鳴らしすぎたりして不満のある部分──が、ADCやエンパイアやスタントンだとうまくゆくことが少しずつ理解できはじめた。
しかし、そうだということは、裏がえしていえばアメリカ東海岸のカートリッジの鳴らす音が、ヨーロッパや日本のカートリッジとくらべると、それほど違うという説明になる。明るく乾いた肌ざわりで音を細かく拾うよりはもっと大きく掴んで、音を輪郭で描くよりもっと即物的に鳴らしてゆく。これは私の個人的な偏見として頂いてかまわないが、アメリカ東海岸の鳴らす音は、いまや世界的なオーディオの流れの中でむしろ特異な存在だと、私には感じられる。二~三の例外的なメーカーの製品を除いて、そう思える。
例外的な存在をカートリッジに限って探してみれば、最近のピカリングのXUV4500Qなどはどうだろう。このカートリッジは、東海岸にはめずらしく、高域に硬質で線の細い強調感があって、それはドイツの音に一脈通じるかのようでさえあるが、ただしかし本質的に音の乾いている点は明らかにイーストコーストの音だ。だが少なくとも音のバランスと輪郭の面で、ヨーロッパや日本のある種の製品が鳴らすようなシャープな切れ味を持っている点がこれまでの東海岸の音と違っている。
それにしても、ADC、エンパイア、ピカリング、スタントン等の製品のどれをとっても、私にはクラシックを鳴らせるカートリッジだという実感は湧いてこない。クラシックを鳴らすためには、音が乾いていては困るのだ。こう見事に余韻のこまやかさを断ち切ってしまっては困るのだ。その裏返しの意味で、ジャズやポップスを鳴らすとき、かけがえのないカートリッジとしてイーストコーストの中から私は選ぶのである。
*
同じアメリカでもシュアーとなると話は少し違ってくる。いや違っていたと言うべきだろう。シュアーはイリノイ州にある。大まかにいえばエレクトロボイスや3Mと同じくミシガン湖をはさんだアメリカ中央部である。スピーカーでいえば、東海岸が高域の強調を嫌うのに対して西海岸側ではむしろ逆に、しかも新しい製品になるにつれて高域を延ばしあるいは強調する作り方をしている。その両極にはさまれてE-V(エレクトロボイス)は、昔から最も穏健な音を鳴らしていた。
シュアーの音にもそういう面があった。M3からV15のタイプIIにいたるシュアーの歩みは、アメリカの中ではむしろヨーロッパ的とでもいいたいような、ことさら際立った特徴もないかわりに極端に走らない良識に裏づけられた音の良さがあった。しかしV15はIII型になってから、すこし音の方向を変えたように思える。
V15/IIIの音を研究してみると実に興味深いことがわかってくる。シュアーはおそらくこれを計画するにあたって、現時点で世界的に普及しているブックシェルフ型のスピーカーを中心としてアンプその他の周辺機器を、かなり正確に調査しその性能を見きわめたのではないだろうか。というのは、V15/IIIをそういうクラスの装置に組み合わせると、解像力の良い鮮度の高い音で、なまじの高級カートリッジからグンとかけはなれたグレイドで装置を生かす。それは繰り返しになるが、シュアーが、カートリッジ単体として性能を向上したのではなく、現代のオーディオ再生の平均水準を確かに掴んで、そのトータルとしてのカートリッジの設計に成功したからだと思う。その点に私は、V15/IIIの人気の秘密があると思う。いわゆる商品計画のうまさを、これくらい見せつけられる製品は少ないと思う。
ただ、私個人はタイプIIIを常用カートリッジの中には加えていない。私の装置は、本誌38号にも紹介されたようにスピーカーがJBL#4341。プリアンプがマーク・レビンソンLNP-2。パワーアンプはその後SAE#2500に変わっている。という具合で標準にはならないからこれは全く私個人の主観であることをお断りしておくが、たとえば弦や木管や女性ヴォーカルの、ふくよかさ、しっとりした艶、あるいは余韻の消えてゆくときのデリケートなニュアンスを、EMTとオルトフォンSPUは別として同格のMM、IM系でも、オルトフォンVMS20EやエラックSTS455EやB&Oやデッカの方がつややかに、潤いをもって鳴らす。逆にジャズやポピュラーのドラムス、パーカッションそして金管やヴァイブやベースの、太い響き、乾いた躍動感、切れ味の鋭さなどなら、エンパイアやADCやスタントンやピカリングが、それぞれにうまく鳴らしてくれる。
概してヨーロッパのカートリッジが弦やヴォーカルそしてクラシック全般を、そして東海岸(イーストコースト)が金管や打楽器を中心にポピュラー系を、それぞれ最善に鳴らす反面、互いにその逆の傾向の音楽には弱みをみせる。
そういう意味では、シュアーというカートリッジはV15にかぎらず一貫して、音楽のジャンルの区別なしに、どの傾向の音楽でもどんな編成でも、それなりにうまく鳴らすことを目標にしていると思う。これは正道であり立派なことだ。ただ、現在の私の装置では、右に書いた各種のカートリッジがそれぞれに適所を得て最高の能力を発揮したときの最良の音に、シュアーの平均的再生能力ははるかに及ばないように、私は思うのであえてV15/IIIを鳴らす必要を感じないのだ。ある意味ではタイプIIや、それ以前のつまり最初のV15の方が、弱点もあったが音の品位や魅力では一段上だったように、私には思える。
*
アメリカのカートリッジを語る上では、ここでどうしても西海岸に目を──といいたいところだが、なぜか西海岸には、アンプやスピーカーの名器はいくつもあるのに、カートリッジのメーカーが全くない。これは私にとって大きな謎のひとつだ。西海岸の連中がレコードを聴かないわけではない。レコード会社だってないわけではない。どうしてカートリッジが生れないのだろうか。
現実には、西海岸のオーディオマニアは、アメリカや日本の、すでにあげた製品をそれぞれに選んでいる。おもしろいことに、スタックスやスペックスの評判がかなり高い。オルトフォンやEMTといっても名前さえ知らない連中が多い。ヨーロッパの製品はアメリカ西海岸までは出回りにくいことを知らされて意外に感じる。それにしても、なぜ、カートリッジができないのだろう。JBLみたいな音のカートリッジが、一個ぐらい生まれないものだろうか。
5 結局、一個または少数のカートリッジに惚れこんで
それを徹底的に生かすくふうをすることではないか……
どう論じようと現実に、カートリッジを二個聴きくらべれば音色が微妙に変わる。買いかえやすいパーツであるだけに、ほとんど誰もが、最初の一個に間もなくもう一個を加える。聴き馴れたレコードの音が微妙にあるいは相当大幅に変化し、カートリッジの交換だけで自分のアンプやスピーカーの別の面が抽き出されることに驚き、やがて次々とカートリッジを買い足すことになる。私自身もそうして年月を重ねて、いま、モノーラル時代のそれを別としてステレオ用になってからでも、正確に数えてないが百五〇~六〇個以上のカートリッジのほとんどが、いつでも鳴らせるようにヘッドシェルにつけられ待機している。始めに書いたオルトフォン/SME型コネクターの普及によって、どのカートリッジでも、いつでも差し換えて鳴らせる。中にはもう数年以上鳴らさないで、コネクターの接点の錆ぴついているのがあるが……。
しかし私の性分をいえば、カートリッジやアンプやスピーカーは、仕事でテストするときを除いてはできるかぎり切換えたくない。少なくともレコードを楽しみはじめたら、このレコードはどのカートリッジ、どのアンプ……などと切換えることを考えていると、せっかくの音楽もたのしめなくなって、結局音の方ばかり気になってしまう。だから私は、自分の楽しみのときにはカートリッジをやたらに交換するのは嫌いだ。レコードジャケットの裏に、このレコードは何のカートリッジ……とメモを書いていろいろ交換する、という人の話を聞いたことがあるが、私にはそういう趣味がない。
何度も書いたように、私の常用は数年前からほとんどEMTとオルトフォンSPUだが、EMTのファンとして、蛇足を承知でどうしてもつけ加えておきたいことがひとつある。最近ではいくつかの機会に測定データが公表されて知られているように、EMT・TSD(およびXSD)15の周波数特性は、10kHz近辺から高域にかけてかなり目立った上昇をして、20kHzでは6ないし8dB以上の増加を示す。したがってこれを、ふつうのRIAAのカーブでイクォライズしたままでは、高域端の過剰な、弦のオーヴァートーンや子音に金属質の強調感のある、またシンバルの高音の妙にささくれ立った、不自然でクセの強い音に聴こえがちだ。しかしTSD15を、同社のスタジオプレーヤーシステム#930または#927シリーズに内蔵されている#155stイクォライザーを通して測定すると、高域はほぼ完全に、ほんとうの意味でイクォライズされて、20kHzまで±2dB程度に(カートリッジ自体にバラツキがあるので)収まった平坦な特性になって出てくる。私がEMTの音……と言うのはこの専用イクォライザーを(といってもこれ自体では使えないので、結局930または927プレーヤーシステムを)通した音のことであって、TSD/XSD15を裸のまま特性で使わざるをえないときは、アンプの方で高域をわずかに下降させたり、トゥイーターのレベルセッティングをやり直す必要さえ生じることがある。むろんこれはEMTだけの特例ではなくて、どんなカートリッジであっても、このように特性上の補正を加えて聴くのが理想なのだ。
かつてステレオの初期の時代に作られたアンプは、その大半が入力にTAPE・HEADというポジションがあった。一九六〇年代半ば頃までのアンプをお持ちなら、入力セレクターにその表示があるはずだ。当時はテープデッキの再生ヘッドを、そのままアンプの入力に接続することを考えていた。
ところが、テープヘッドはデッキによってその特性がバラついていて、とても一本の再生補正特性ではイクォライズできないことから、次第に、デッキ側にヘッド特性を含めて補正するイクォライザーを組み込むことが常識になった。
カートリッジの周波数特性は、テープヘッドよりは相互の偏差は少ない。ましてテープスピードに応じてイクォライザーの特性を変えるなどの問題がない。しかし現在のように、RIAAのイクォライザー特性の偏差を0・1dBのオーダーで論じるような精度になってきてみると、それにくらべてカートリッジ側の2ないし6dB以上、ときに10dB以上にも達する特性の偏差は、とうてい無視できない大きなバラつきといえるのではないだろうか。そういうオーダーでものを考えてみると、本当は、レコードプレーヤーの内部にイクォライザーアンプが組み込まれて、それにはカートリッジの特性の偏差を補正できるようなトリミング調整回路がもうけられていて、カートリッジの特性込みでRIAAに対してフラットに補正してAUXライン相当のレベルで送り出してくれる(EMTのスタジオプレーヤーがそうなっているが)ようになることが好ましいという理くつになる。
そうはいっても、現在世界的に普及してしまったシステム──カートリッジの出力はレコードプレーヤーから送り出されてアンプに内蔵されたRIAAの(カートリッジの特性に無関係の)イクォライザーで再生する、というこの方式を、急に変えることは事実上困難をきわめる。それならせめて、これからのアンプのイクォライザー回路に、カートリッジの特性偏差に対するトリミングコントロールが組み込まれることが望ましい。
そんなことを考えてゆくと、こんにちのように、カートリッジがきわめて自由に、かつ容易に、交換できるようになってしまったこと自体にも、一端の問題があるように思えてくる。そしてその原因となったのが、はじめに書いたオルトフォン/SMEのこの便利なコネクターの普及であったというのは、何とも皮肉な現象だ。
──とここまで書いてきて、おや、私はカートリッジの交換を暗に否定するような話をしているのかな、と気がついた。そうではない。カートリッジを交換して音が変わるのは、実に楽しい。私だって、新しいカートリッジが発表されるたびに、こんどはどうか、こんどこそきっと……という気持で買ってくるじゃないか。やっぱり、新しいカートリッジを加えることは楽しいことなのだ。けれど、その交換の手軽さに寄りかかるあまり、カートリッジ一個、十分にその本質を抽き出さないで捨ててしまうことがあるのじゃないか。そのことを云いたくて、イクォライザーの問題点に、最後にちょっと触れておきたかったのだ。
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