Category Archives: 菅野沖彦 - Page 52

ティアック A-7400RX

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 日本のテープレコーダーの専門メーカー、ティアックのバックグラウンドは、一流と呼ぶに足る十分なものがある。昭和32年には、すでにティアックの前身であるTTOという大変小さなメーカーから、TD102というテープトランスポートが商品化されていたわけである。そして、いまや世界的に、日本のテープレコーダーの一級品としての名声を博すに至っているのである。ティアックは、その間にコンピューター用磁気記録装置、データレコーダー、VTRなどの研究開発も併せて行なってきたわけである。
 そうした一流メーカーとしてのバックグラウンドから生まれた新しいオープンリールデッキがA7400RXである。本機は、可搬型の2トラック38cm/secのモデルで、テープトランスポート部とアンプ部のセパレートタイプである。このA7400RXの特徴は、何といっても最新のノイズリダクションシステム、dbxタイプIを搭載していることだろう。このdbxシステムの機能を利用して、入力信号のダイナミックレンジを圧縮して録音し、再生時に元に戻すことにより、いままでのオープンリールデッキで得られていた再生音に比べて、ダイナミックレンジの拡大が可能になるわけである。それに加えて、安定したテープ走行系と高性能という点で、コンシュマー用テープレコーダーとしては、あらゆる面でトップグレイドの製品のひとつといえるので、一流品として推選したいと思う。

ソニー TC-5550-2

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 ソニーが世界の一流ブランドであることには異論はないだろう。私自身も日本人として、ソニーを多方面から眺めているので、外国人が信頼するほどには必ずしもソニーを見てはいないが、やはり、世界の最高級ブランドであることには違いないと思う。そのソニーの製品を一流品に挙げるとすると、私自身は〝ジャッカル〟のような、テレビとラジオとカセットを組み合わせてコンパクトにまとめた製品をソニー的一流品だと思うのだが、残念ながらこの製品はオーディオの分野にはいれられない。
 コンパクトということからいえば、ソニーが昔からデンスケという名称を付けた製品を持っていたぐらい、携帯用の録音機に関しての技術的キャリアは非常に古いのである。現在でも放送局などで活躍しているEM3というプロフェッショナルユースのオープンリール・デンスケは、その分野では有名な存在である。
 コンシュマーユースのオープンリール・デンスケを挙げるとすると、やはりTC5550-2という製品になる。外形寸法は、333×136×296(W×H×D)mmとコンパクトに仕上げられ、重量も乾電池を入れた状態で6・8kgと軽量だ。ポータブル型テープレコーダーであるだけに、電源も一般的なAC100Vのほか、乾電池8個、充電式電池、カーバッテリーの4電源方式で、どこででも使用可能である。このように、機動性がよく、高性能な、このTC5550-2を一流品として推選したいと思う。

スペンドール BCII

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 イギリスのスペンドール・オーディオ・システム社は、英国のBBC放送局のモニター仕様によるスピーカーBCIを開発して以来、それを基礎にしてさらに改良を加えたBCII、BCIIIという、家庭用のハイファイ・スピーカーを製品化してきた、比較的新しいメーカーである。しかし、これらのシステムは一聴すればわかることだが、まさに英国の伝統的なスピーカー技術をしっかりと受け継いでいる。
 同社のスピーカーシステムの中で、最も家庭で使いやすい製品、私自身が最も音が充実していてバランスのいいシステムと考えているのは、BCIIである。このスピーカーが持つ素晴らしいハイフィデリティ・リプロダクションと、魅力とあえていってもいいような、素晴らしい品位を持った音楽的な音とが、巧みに結びついて、まさにソフィスティケィテッドなヨーロッパサウンドを醸し出してくれる。いかにも音楽好きな英国人らしい、レコード音楽の再生を熟知した音のバランスが聴ける。もともと英国は、音楽の市場として世界一であり、英国の演奏会でデビューすることが、世界の檜舞台といわれているように、音楽を聴くマーケットとして、英国の歴史は大変に古く、それに呼応してハイファイ・リプロダクション・システムの歴史もかなり長い。そういう英国の長年の伝統をバックグラウンドに持つスペンドールを一流品として推したい。
 社長スペンサーと夫人ドロシーの名をとって〝スペンドール〟というブランド名を冠しているところも、心にくいところである。

スチューダー A80/VU MKII

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 ウィリー・スチューダー社はスイスの高級テープレコーダー・メーカーとして、名実共に、世界の一流である。民生用機器はルボックス・ブランド、プロフェッショナル機器はスチューダーのブランドで製造販売している。ヨーロッパのスチューダー、アメリカのアンペックスと、世界の最高級テープレコーダーの名声を分ち合ってきた事は有名である。テープレコーダーのトランスポートにも、最近ではエレクトロニクスが大幅に取入れられ、各種のサーボ機構、コントロール機構はスムーズになってきた。もともと、スチューダーのメカニズムは、精密工作機械の粋といってもよい精巧無比な緻密さと堅牢な信頼性に溢れたもので、トランスポートのムーヴメントの滑らかさと安定性では右に出るものがなかったといってよい。この点ではアンペックスのメカニズムをはるかにしのいでいたといえるであろう。保守的なヨーロッパらしく、マルチ・トラックやエレクトロニクスのソリッド・ステイト化などでは、アメリカより遅かったけれど、このA80シリーズに至って、そうした現代化が、完全に終了し、完成度の高いモダーンなマシーンになったといえる。フィーチャーを数え上げればきりがないが、アルミダイキャスト・シャーシーにがっちり固定されたメカニズムは、ACサーボ・モーターのキャプスタン駆動で、テープテンションは電子コントロール式でいかなる状態においても最適のテンションをテープに与え、ワウ・フラ・スクレイプは極めて低く安定した走行は、静粛そのものである。ICが多用された電子コントロール機構は、スムーズかつ、多機能で、プロのマルチプルな要求に対応する。
 A80MKIIシリーズは、きわめて多くのヴァリエイションを持ち、もっともシンプルなA80VU-1というフルトラックから、2トラックは無論のこと、2インチ幅テープの24トラックに至るまでのワイド・チョイスが準備されている。テープ速度も、76cm/secで、NAB17・5㎲のイクォライザーとの組み合せで使える。現在のテープレコーダーの最高峰としての内容と性能を持った見事なマシーンだといえるであろう。
 スイスという国は、いうまでもなく精密工作機器の製造で有名だが、このスチューダーというメーカーでは、テープレコーダーのような比較的大型のメカニズムにもかかわらず、まるで時計並みの精度のメカニズムと現代エレクトロニクスの粋を盛り込んでいる。加えて、ヨーロッパ各国でのレコード制作の現場からの意見が直接フィードバックしてくるために洗練された操作性と、音楽的な音質検討が一つとなって結集しているのが大きな強みといえるであろう。うがち過ぎかもしれないが、アメリカ系の機械が、ジャズやロック系の音楽に、たくましい力強さと、熱っぽい音を聴かせるのに対し、このスチューダーのもつ音色は、より洗練された柔軟さと透明度を持ち、クラシック、特に弦楽合奏などの滑らかさと繊細さには無類の美しさが聴けるようだ。さすがに、一流品ともなると、ただ単に、機械としての物理理特性の優秀性にとどまらず、それが誕生したバックグラウンドが個性として生きてくる。

スカリー 280B

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 スカリー社は、現在アメリカのカリフォルニア・マウンテンビューにあるメトロテック社の傘下に入っているメーカーで、プロフェッショナル用のテープレコーダーを製造している。同社は、元来メカニズムを得意とするメーカーで、最も有名な分野はカッティングレースである。われわれレコードになじみの深い人間にとっては、スカリーのカッティングレースとウェストレックスのカッターヘッドのコンビネーションは、実になじみの深いレコードの原盤製作のカッティングマスター機として、親しみがあるものだ。
 そのスカリー社で現在製造しているテープレコーダーとして、この280Bという製品があるわけだ。このテープレコーダーは、アンペックスと名声を2分するといっていい、アメリカを代表するプロフェッショナルユースの製品ということが、一流品として躊躇なく挙げる理由である。
 280Bシリーズには、この他に1/2インチおよび1/4インチ幅テープ用の4チャンネル機284Bと、1インチ幅テープ用の8チャンネル・マスターレコーダー284B-8がある。いずれもスカリーらしい、ガッチリとした、信頼性の高いモデルである。
 デザイン的には必ずしも美しいテープレコーダーとはいえないが、実際に使ってみても、実に堅牢で安定性があり、信頼性も高く性能のいいテープレコーダーである。地味な存在ではあるが、いかにもアメリカらしいマシーンだと思う。レコード製造機器の名門から生まれた一流品である。

グレース G-714

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 グレースは、日本のトーンアーム、カートリッジの分野における現存するメーカーとして、最も歴史が長い一流のメーカーである。このG714と名づけられたトーンアームは、そのグレースの持っている、いかにも専門メーカーらしいものがよく表われた、珍しい木製のフレームのモデルである。材料はテンダーチーク材を使用しているが、これをグレースの技術陣が大変な苦労をしてこの材質をいかす加工業者を探して、自分たちのトーンアームにかける夢を一つの形にまとめ上げた一品として、一流品に推したいと思う。
 支持方式は、ワンポイントサポートのオイルダンプで、ヘッドシェル部は一般的なSMEのコネクタータイプではなく、専用のカーソルによってカートリッジ交換を行なう方法がとられている。仕上げも、いかにもグレースらしいキメの細かい神経の行き届いた製品である。

グラド Signature I

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 グラドというブランド名は、日本ではそれほどポピュラーではないが、かなり古くからトーンアームやカートリッジの分野で実績をもつ、ニューヨーク市ブルックリンにある会社である。
 この会社の最新型であり、最高級のカートリッジがこのシグナチェア1だ。このカートリッジは、ずば抜けた特性をもつ手づくりの製品で、ジョセフ・グラドというこの会社の社長であり、エンジニアである人が、一途に情熱をかたむけてつくりあげた製品である。このカートリッジの前面には、社長のイニシャルであるJFというマークが刻印され、このモデルの由緒正しさを表わしていると同時に、ハイクォリティ・カートリッジであることを示唆しているようだ。
 MI型のカートリッジであるこのシグナチェア1は、商品づくりという域を脱した手仕事から生まれ、それに見合った性能の良さ、音質の良さが感じられる。一流品に価するカートリッジである。

エレクトロ・アクースティック STS455E

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 ドイツのエレクトロ・アクースティック社は、最も早くからMM型ステレオカートリッジを開発したという実績をもつメーカーである。この455Eは、そのメーカーの最新モデルの一つだが、最も音のバランスのよいカートリッジとして一流品に挙げたい。

アカイ PRO 1000

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 アカイというブランドは、日本のテープレコーダーのメーカーとして世界にとどろいている。もともと、メカニズムを専門とする機械屋さんで、その昔はフォノモーターも作っていたが、本命はやはりテープレコーダーである。
 アカイの長年の間に培われたテープ技術とノウハウの蓄積が、きわめて高い密度で結集しているのが、このPRO1000である。さすがにアカイのトップランクの機種だけに、ハイクラスのアマチュアが使うにはこうありたしという要求が、ほぼ完全な形で満たされているのである。テープレコーダーとしての基本性能がきわめて素晴らしいというだけでなく、ファンクションも豊富で、しかも実用性が高い、価値ある製品だと思う。そういう意味から、このPRO1000を一流品として推したい。
 PRO1000は、2トラック38cm/sec、19cm/sec、9.5cm/secのテープレコーダーで、可搬型仕様になっていてテープトランスポート部とアンプ部に分けられ、それぞれにハンドルが付けられている。可搬型にはなっているが、トランスポート部28・3kg、アンプ部10・2kgとかなり重いがこの内容からすれば仕方がない。テープ走行系にはクローズドループダブルキャプスタン方式が採用され、安定した録音・再生が可能であるとともに、テープ走行切替スイッチは、任意にどのポジションへもすぐに切替えられるダイレクトチェンジ機構など使いやすいテープレコーダーである。

SAEC WE-308 New

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 WE308は、トーンアームに情熱をかける一人の男の姿が思い浮かぷような製品として、一流品に挙げることにしたい。トーンアームを振動系という理論大系から眺めた、ユニークなオリジナリティをもつ製品で、軸受け部には、特殊鋼材の精密研磨による無直径、無抵抗といえるダブルナイフエッジ方式が採用されている。このようにかなり精密なトーンアームをつくっているSAECは、小さな専門メーカーで、歴史もまだ浅いが、むしろ将来が楽しみだということで、あえて一流品にとりあげたわけである。
 そういう意味では、まだまだ推選したい一流品がある。たとえばオンライフリサーチのダイナベクターDV505やオーディオクラフトのAC300C、AC400Cである。前者は質量分離型のダイナミックバランス型のトーンアームで、アーム内にバネのダンパーを設けるとともに電磁粘性ダンパー使用して、トーンアームのレゾナンスピークを低減しようとした製品である。このアームはもう一つの特徴として、アームボードに穴をあける必要がなく、ボード面据置型であるのもユニークだ。
 オーディオクラフトのトーンアームは、基本に忠実につくられた製品で、オイルダンプ方式のオーソドックスなモデルといえる。

フィデリティ・リサーチ FR-64S

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 フィデリティ・リサーチは、比較的歴史の新しいメーカーだが、歴史を遡れば、グレース、その前のパーマックスという、日本の錚々たるカートリッジ、トーンアーム・メーカーの技術的バックグラウンドを引き継いだメーカーである。そして、この会社の社長の、この分野にかける情熱は並々ならぬものがあるのである。そういう技術的背景から生まれた最新のFR64Sという、ダイナミックバランス型のトーンアームは、トーンアームのあるべき姿を、オーソドックスに技術的に追求し、実に繊細高度な加工技術と選び抜かれた材質で仕上げた、文字通り高級トーンアームの代表的存在だといえるだろう。

エレクトロボイス Sentry IVA

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 エレクトロボイスは、名実ともに一流メーカーと呼ぶにふさわしいアメリカの名門である。本社はミシガン州ブキャナンにあり、一九二七年創立以来、数々の高級スピーカーユニットおよびPAシステムを世に送り出してきた。同時に、量高級スピーカーシステム、パトリシアンに代表される家庭用の大型フロアータイプや、近年ではブックシェルフ型まで幅を広げ、製品化してきたのである。
 現在では、残念ながらパトリシアンは製造中止になってしまったが、今日発売されているスピーカーシステム中、最も高級なモデルがこのセントリーIVAである。外観は、明らかにプロフェッショナル・ユースであり、かつてのパトリシアンに見られたような、ファニチュアライクなフィニッシュは見られない。この点では、一流品として登場する他のスピーカーに比べて、少し味けなさすぎるという印象を持たれるかもしれないが、しかし、現在のエレクトロボイスからすれば、やはりこの機種を挙げるべきだろう。
 アルテックのA7に一脈通じるシステムだが、同社のドライバーユニット、あるいはスピーカーエンクロージュアづくりの、長年のノウハウの蓄積が凝縮した高級スピーカーシステムといえるだろう。
 エレクトロボイスとしては、私はやはり一時代前につくっていた、きわめて緻密な木工技術をいかした家具調の大型スピーカーシステムの再現を、いま希望したいところだが、同社の歴史、実力からこのシステムを一流品として挙げておきたい。

B&O Beogram4002, Beogram6000

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 デンマークのバンク・アンド・オルフセン社は、家庭用のミュージックシステムからテレビに至る、普及品から高級品までの非常に製品バリエーションの豊かな、いわゆる総合電機メーカーである。一九二五年にピーター・バンクとシュベント・オルフセンという二人のニンジニアによって屋根裏部屋の一室からスタートしたこの会社は、その後次々に斬新なアイデアに満ち、二人の卓越した技術の結晶ともいえる魅力ある製品が、今日もなお生まれ統けているのである。
 およそデンマークという国柄は、クラフツマンシップを伝統的に持っているが、いわずもがな、私の好きなデンマークのパイプには、世界のファンシーパイプとして、クラフツマンシップの粋が見られる。またデンマークは、ファニチュア、モダンアート、インテリアデザインの面でも世界の最高水準を確保している国でもあるのだ。そういう国柄のバックグラウンドをも感じさせるオーディオ製品として、私はこのベオグラム・プレーヤーシステムを一流品として挙げたわけである。このプレーヤーシステムが持っている一流品としての所以は、私はデンマークという国が持っているセンスとテクノロジーの風格だとあえていいたい。
 一九七二年に発表されたベオグラム4000、その改良型の4002、6000は、必ずしも現代のプレーヤーの中で、最高の性能をそなえているというわけではない。しかし、ユニークなエレクトロニクスコントロールのフルオートプレーヤーを、これだけ美しいデザインで、しかもリニアトラッキングという理想的なトーンアームのムーブメントを備えたプレーヤーを、かくもフラットな、誰が見ても素敵というデザインでまとめたことは、一つの驚異的な仕事であると同時に、ずば抜けたセンスの良さを感じないわけにはいかない。実際に使ってみても、カートリッジを自由に交換ができないというハンディもあるが、操作性がスムーズであり、素晴らしいプレーヤーのひとつに数えられるものだと思う。
 ベオグラム6000は、同社のベオシステム6000用として特別に設計されたプレーヤーシステムで、このスリムなプレーヤーべースの中にCD-4用のディモデュレーターが内蔵され、2チャンネル再生時と切り替えて楽しむことが可能だ。カートリッジには、同社のムービング・マイクロクロス型という独特の発電方式によるトップランクの製品MMC6000が専用としてビルトインされている。
 ベオグラム4002は、前記のベオグラム6000からCD-4ディモデュレーターを省略したモデルと考えてよい。両者は外観からはほとんど区別がつけにくく、わずかにエレクトロニクスコントロール・パネル上部の型名表示と、ペオグラム6000の右サイドに付けられている2チャンネル/CD-4切替スイッチの有難を調べる以外にない。外形寸法は全く同じである。
 いまやダイレクトドライブ全盛といえるプレーヤーシステム部門において、この2モデルはベルトドライブ方式だが、そのメリットを巧みにいかした美しい薄型のデザインは、まさに一流品としての品位を備えている。

「コンポーネントステレオにおける世界の一流品をさぐる」

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 本誌がオーディオ・コンポーネントの世界の一流品を特集するそうだ。これだけ多くのオーディオ製品が、世界各国で作られ売られている現状からすれば、それも意味のないことではないし、どんなものが結果として一流品の折り紙をつけられるかは、私自身にとっても大変興味深い。そういう当の私も、具体的な製品選びの一員として選出に加わったのである。これがなかなか難しいことであって、いざ商品の選択に直面してみると、そもそも、一流品とは何か? という問題の定義にぶちあたり苦慮させられるのであった。だいたい、一流という言葉自体が、いわめて曖昧であり、ものにランクをつける言葉でありながら、そこには複雑微妙な心情的ニュアンスが入りこんでくるという矛盾をもったものである。一流品としての定義を形成するために、いくつかの条件をあげると、必ず、その条件のすべてを満たさない一流品が現われたり、条件のすべてを満たしていながら一流品として認められないようなものが出てくるのである。もっとも、ここでは、一応道具としての機能をもつものに限定していってもよいと思われるので、比較的気楽なようだ。これが人や芸術作品に及ぶと、問題はもっと難しく大きくなってしまうのである。しかし本当は、一流という言葉は、人についていわれるべき言葉なのであって、ものの場合には一級品というべきなのではないかと思うのだ。一級という、文字通りのクラスづけが困難な曖昧さをもった対象、つまり、人とか作品とかに対して、情緒的な表現のニュアンスを含んだ言葉が一流という言葉なのかもしれない。また、流という言葉ほど、いろいろな意味に使われるものは少ない。これは、水の流れに始って、流儀、流派、主流、亜流、他流、日本流、外国流、上流、中流、名流……等々、一流も、この種の流の使われ方の一つではないだろうか。そして、これらの言葉の中から、一貫して感じられるニュアンスは、歴史と伝統そして家といった意味合いである。流が本来もっている水の流れの意味のごとく連綿として続いた線のニュアンスが濃厚なことはたしかである。だから言葉にうるさい人、言葉を大切にする人は、うかつに一流という言葉を使わない。そう呼ぶ必要がある場合には、まず一級といっておく。そして、そのもののバックグラウンドを調査して、真に一流と呼ぶに値することがわかったときだけ、それを一流と呼ぶのである。私も、この考え、この姿勢には賛成である。一流品と呼ばれるに足るものは、いかなるバッグラウンドから生れたかということが一つの重要な条件なのではないか。もののバックグラウンドとして第一に考えられるのは、それを作った人の存在であり、その人の存在は、人自体の能力、才能、感覚、思想、精神など、そして、その人の生れた環境、血統などが、当然問題とされるのだろう。つまるところ、そのものを生む文化なのである。一級品には文化の香りが必ずしも必要ではない。
 こう考えてくると、真に一流品と呼ぶに値するものは決して多くないし、一流品という言葉を素直に使えるジャンルやカテゴリーも限られてしまうのだ。特に、近頃のように、歴史や伝統の断絶の、こま切れ文化の世の中にあってはなおさらのことであるし、歴史の短い機械製品については、本来の一流品の意味をそのままあてはめて云々するには無理がある。現実には、一流が氾濫していて、星の数ほどの自称他称の一流会社や一流ブランドや一流製品が、洪水のごとく溢れているのを見ると、心寒い気持ちになるのは私のみではあるまい。一般的意味合いでの合理主義からは、一流品は生れないし真の一流品は、そうした人達にとって、おそらく価値は認められない。みずから、自らの考えや感じ方も問わずに、大きな世間の流れの中で無自覚に右へならえの生き方をして、なんの疑問も持たずに生きている。こうした現代の合理的人種? にとって一流品は存在の必要性がほとんどないのではないか。それだけに、現在の一流品は、その本質を評価されないままに、本質を離れたところで、一部金持ちの周辺我を満たす虚飾として使われ、誤示されているようにも思える。そして、それが、もっと淋しいことには、その現実の上澄みだけを利用して、一流品の名の下に、似つかわしくない製品を大量につくる。あるいは一流ブランドの上にあぐらをかいて、実質を欠いた利潤だけを目的にした品物を作るメーカーや業者が氾濫している現実である。先祖が化けて出るのではないか。さらに悪いことは、宣伝で大金をばらまき、虚名をつくり、自称一流の名乗りをあげて、一流まがいのものを、ものの価値のわからぬ小金持ちに売りつける連中だ。そして、もう、あきれて開いた口がふさがらないことは、一流ブランドとデザインの盗用と偽物作りの氾濫である。売るほうも買うほうも、このインチキ・ビジネスが成り立つということは、なにおかいわんやである。グッチ、ルイ・ビュトン、フェンディ、サザビー、ナザレノなどのバッグやエルメスのベルトなど、そっくりの偽物が問題となっている現実はいまさらいうまでもあるまい。こうした例はオーディオの機械にも、枚挙にいとまがないほどある。こういうことが平然とまかり通る社会構造と現代人のメンタリティやモラルの中で、真の一流品が、いかに生れにくいか、生き続けることが困難であるかは容易に想像がつく。
          ※
 ところで、一流品の条件として考えられることを私なりに挙げてみることにしよう。
 先に述べたように、いい製品は、一朝一夕には出来上らない。時間が必要である。そして、その費やされる時間を真に生かすためには、その目的への線が、常に一直線でなければいけない。目的が定まっていてさえ、そこへ到達する手段の発見には多大な苦労があるはずだ。まして、目的がふらふらしていたり、目的が明確でなかったりすれば、いくら時間をかけても、そこには一つの流れが生れないし、歴史も伝統も生きない。歴史とか伝統というと、数百年、短くとも一世紀という時間が想像されるだろうが、必ずしもそうではない。それがたとえ10年であっても、その姿勢と努力の集積は歴史を作り得る。伝統の礎ともなり得る。エレクトロニクスなどのような世界では、それ自体の歴史が浅いし、最新のテクノロジーが要求される分野の製品が多い現代においては、それを手段として行使してものを生みだす人間の精神に生きる文化性をメーカー自体の歴史と伝統におきかえて考えるべきであろう。昨日出来たメーカーでもよい。問題は、そのメーカーを支える人の中に、どれだけの技術と文化が集積され、強い精神に支えられているかではなかろうか。いまや、ただ創立年月の古さを誇りにして、内容がともなわない虚体こそ、真の合理主義によって糾弾されるべき時だからである。
 フィレンツェに生れたグチオ・グッチは一九〇六年に自分の店を持ち、高級馬具の製造と販売を始めた。金具には自分のイニシャルGGを相互にあしらった、かの有名なマークを使った。ちょうど70年前である。現在は三代目、ロベルト・グッチの時代である。GGマークは依然として象徴となっているが、ロベルトは、かつての馬具時代、その腹帯に使われた緑赤緑の帯を復活させデザインに生かした。世界最古の自動車メーカーとして、世界最高のメーカーの重みを決定づけているダイムラー・ベンツ社は、一九二六年に、ゴットリーブ・ダイムラーが一八九〇年に創設したダイムラー社とカール・ベンツが一八八三年に創設したベンツ社の合併によって生れた。この頃から自動車が、本格的な普及段階に入ったことを見ても、グチオ・グッチやエルメスなどの馬具商の衰退が理解できそうだ。第一次大戦後の不況もありエルメス同様グッチも、自らの技能を生かしてカバン、靴などの革製品に切り換えた。馬具以来、常にその製品は最高級のものだけであった。最高級製品をつくり、その製品にふさわしい売り方をする。これはすべての一流品の製造販売の鉄則であろう。一流品は、それを持つ人に実質的価値を与えるだけでは足りないのである。人の心の満足を得なければならない。そのものへの愛を把まなければならない。一流品は愛されるに値するすべてを持たなければいけないのである。グッチ・マークは、かつてはステイタスシンボルだった馬車に高級馬具の象徴として輝き、緑赤緑の腹帯とともに明確に識別されたことであろうし、今でも、その流行鞄を持っていれば、ホテルのベル・キャプテンやドアボーイの尊敬が得られるに足るはずなのである。だから、鞄負けのする人間は断じて持つべきではないのである。いまや、グッチより実質の優れた鞄は、どこかで売っているだろう。より丈夫で、より安く。自分が持ち心地のよい鞄を持てばよいのだ。しかし、グッチの鞄を悠然と持ち心地よく持てる人間になるべく努力することは決して悪いことでも下らないことでもないはずだ。努力もせずに、持っている人間をひがんでみるより、はるかによい。
 ところで、一方のダイムラー・ベンツ社を眺めてみることにしよう。ダイムラーは一八八五年に単気筒エンジンを開発し2輪車を走らせた。ベンツは一八八一年に2ストロークのガス・エンジンを完成させ、一八八六年には3輪車を走らせている。そして、一九一一年にはブリッツェン・ベンツで228km/hのスピード記録まで作っている。一九二六年にダイムラー・ベンツ社が出来て、その商品名をメルセデス・ベンツとしたダイムラー・ベンツ社は以後、最高の車づくりに専心して現在に至っているが、一九三〇年には、有名なフェルディナンド・ポルシェ博士が技師長として名車SSKを完成しているという輝かしい歴史と伝統を持つ。しかも、現在にいたるまで、多くの困難に打ち勝ち企業として成長に成長を続け、あの数年前のオイル危機の年にも、世界中で売り上げを増進した自動車メーカーは、ここだけだったという注目すべき実績を持つ。コンツェルン全部で16万人にも及ぶ社員を擁し(多分、日産、トヨタより多い)世界的水準での高級車だけをつくり続け、着実に企業が成長していることは驚異であろう。マスプロ、マスセール、マーケッティングリサーチにより、大衆の好みを平均化し、合議制でデザインを決定し、魂の入らないアンバランスな高級車を作っているのとは大違いである。
 車の雑誌ではないので、あまり車の話に誌面をさくことははばかられるが、一流品とは何かという与えられたテーマへの回答として、読んでいただければ幸せである。
 現在の技師長、ルドルフ・ウーレンハウトは、車造りの姿勢について、商売上の思惑や原価計算にうるさい経理マンによって左右されることを断じて拒否し、圧力に屈して俗趣味に迎合し、大衆の好みに形を合わせることを絶対にしないといっている。圧力に屈することは不名誉であり、商業主義に陥って設計工学をはなれ、やってはならないこと、つまり不良自動車をつくることになるともいっているのである。また、これも考えさせられる多くの問題を含んでいる事実だと思うのだが、ダイムラー・ベンツ社は、工場要員として民族性の異なる外国人の導入(ヨーロッパでは至極当然のことになっている)を好まないそうだ。ドイツ人と同じ考えを持たない外国人労働者が100%同社の意志にそった製品造りに協力してくれないと考えているからだという。工場に働く人の10人の1人は検査員、絶対に妥協しないというドイツ人魂の一貫性こそが、あのクォリティを支えているとみてよいだろう。ドイツを旅行して、実に多くの外国人労働社がいる現実を知ると、ベンツが、いかに、この問題を大切に考えているかが納得させられるのである。名実ともに一流品と呼べる車の少なくなったこの頃、メルセデス・ベンツ、BMW,ポルシェという三車は、一流という文字と最も組合せの難しい大衆製品を見事にマッチさせたVWとともに、ドイツ民族資本を守り通した体質の中から生れ出る一流品といえるだろう。一流品の持つべきバックグラウンドの一コマの証明になるだろうか。
          ※
 日本人の私が、日本製品の中に一流品を見出そうとすると、何故か、もっと難しい。
 いまや世界的に日本製品の優秀性が認められ、その品質のよさで世界市場に雄飛しているというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。私自身、決して素朴な舶来かぶれだとは思っていないのだが、心情的にどうしても難しいのである。同国人として、あまりに楽屋裏を知っているせいかもしれないし、日本人特有の、おかしな謙譲の美徳のなせる業かもしれぬ。もっとも、これが日本独特のものである場合は話は別だ。和服や和家具や、伝統的な工芸品においては、自分の知識と体験の範囲でなら、一流品として躊躇なく上げられるものがいくつかあるし、和食と洋食なら、和食のほうが、洋食より本物と偽物のちがいを区別することが容易のように思える。つまり、知り過ぎていることが、一流品を上げにくい理由だとは思えない。やはり、欧米にオリジナリティのあるものについては、明らかに一流品と呼べるレベルにおいては、日本製品にはその最も大切な根が、文化が、ないということではないだろうか。
 江戸小紋や友禅、紬など、和服の粋でしゃれた感覚の中から一流とそうではないものとを選びわけることは、何が何だかわからない洋服地より私にとってやさしいように思えるのである。洋服でわかることは布地の良さぐらい、あとは、好みの領域を出ないのである。自分で洋服を着ているのにおかしなことだ。しかも和服や日本の伝統的な美術品については、全く、なんの知識もないのだし、大きなことはいえないが、これが血というものかもしれない。ところが、欧米にオリジナリティのあるもので、自分が関心を強く持っているものに関しては、これが一流品なんだといわれ、それを信じ、それを所有して、よさを体験してきた結果、育った眼があることを感じるのである。関心のない欧米のものについては、知識に頼る以外に方法がない。このように、白紙で見て識別することと知識によるそれとの問題は、きわめて興味深いことなのだが、この問題を考えることはテーマからはずれるので、ここでは追及しないことにする。しかし、それより、ここで考えなければならないのは、知識による一流品の識別、つまり俗にいえば、一流品という折り紙への信頼感、ときには無定見な盲信と、その誤示という卑しき姿勢に人を走らせる要素を、一流品といういい方がいつもどこかに匂わせていることだろう。世の中には、その分野で、最高の価格のものを買って持っていないと気がすまないという人がいる。私がオーディオの相談を受けて、ある製品を推めると、それが最高の値段でなかった場合、安過ぎるといって拒否する恵まれた不孝者が結構いるのである。それなら、私などに相談する必要は全くないわけで、専門店に行って一番高いものを買い集め組み合わせればよいのである。また、商人は馬鹿げた金はとらないという信念を持った人もいるが、あながち、そうともいいきれないのではないか? 「高い値段をつければ売れますよ」と金持を冷笑している商人は結構多いのだ。世界中の商品全部に内容と反比例する値段をつけたらおもしろいことが起きるかもしれないのだ。冗談はさておいて、一流品という識別語がもっているニュアンスは、真実と虚偽の入り雑じった混沌が実態だといってよかろう。それだけに、一流品を持つ人の自己に対する責任は大きい。どんなに人が美辞麗句を並べ立て、それが一流品であることを強調しても、自分で納得できない限り、一流品は買うべきではないといってよかろう。まずは、あえて一流品とされないものの中から、自分で選ぶべきである。その結果、満たされない欲求を満たしてくれる実質をもった一流品に出逢ったときには、どんなに無理しても、それを手に入れるべきだ。一流品の値段の高さが生きるときである。この意味において私は一流品は値段が高くて然るべきだと思う。いいものをつくれば値段が高くなることも当然であると同時に、高い出費を強いられ、その困難を克服する努力、覚悟は情熱の証左であるからだ。痛くも痒くもない出費、あるいは、何の努力も要しない代価で、人は大きな満足や幸福を買うことは出来ないのである。所詮、ものは買える幸福でしかないと思っている人もいるだろう。私も、ほとんど、そう思っている。ほとんど、そう思っているというのはおかしい表現だが、ほとんど以外のところに私へのものに対する執着と愛情がある。それは、そのものが持っているものの実在以上の世界である。そのものの向こう側にある、ものを生みだした人間や、風土や、環境の文化までが、そのものを通して所有者の心に伝えられる世界がある。しかし、現実は、一流品という商業的呼称が出来てしまった以上、名と実は一致するとは限らない。名実ともに一流品は少ないのだ。名は多く実は少ないといい変えたほうがいいかもしれぬ。
          ※
 工業製品である以上、マスプロは当然だ。世の中には、それが、マスプロというだけで、一流品でないといい切る人もいる。一面正しいが、多くの面で、それは間違っている。マスプロが一流品でないという理由は次のようなものらしい。同じものが沢山あるということは、希少価値がない。また、マスプロは生産コストが合理化されるから値段が安くなる。一流品は高価でなければならぬ。マスプロは作りが雑である。他にもあるかもしれないが、だいたいこうした理由で、マスプロ製品は一流品の資格を失う。しかし、ここで重要なことは、マスプロという言葉の使い方とそのシステムに対する単純性急な偏見であろう。マスプロといういい方はそもそも間違いで、正確には機械生産というべき場合が多い。いくら手造りは素晴らしいといっても、手造りでは絶対に出来ない高く精巧な仕上げを工作機械はしてくれる。一般に、機械生産とマスプロを混同しているふしが多いのには困らされるのである。品質の安定性も機械生産のほうが高い。問題はやはり、そうした作られ方だけで判断できるものではなく、いかなる英知と精神が、その手段として、手造りと機械生産とを充分活用しているかであって、製造者の理念と、それを表現する能力の問題なのである。
 しかしながら、私の好きなパイプだけは、たしかに、手造りは機械生産とは根本的にちがう味を持っている。パイプだけではないだろう。人間の使うものの中には絶対に手造りの味を必要とする種類の製品があるものだ。もちろん、ハンドメイド・パイプもアマチュアならいざ知らず、プロのものは全面的に手造りではない。なにも、大きなコロ、あるいはエボーションの段階から、手でけずっていく必要はない。しかし、最終のフィニッシュは絶対に手である。そうあらねばならぬと私は思う。それも無心で自然な制作者の手でなければならぬ。意識と強制の手では駄目なのだ。つまり、量産工場の労働者の手では駄目だ。デンマークのパイプの父ともいわれるシクスティーン・イヴァルソンの手造りと、同じ、彼のデザインになるスタンウェル社の機械製品を比べれば歴然である。前者は心と血の通った生物であり、後者は、同じように見えても、形骸である。その差は人によっては皆無に思えるだろうし、紙一重の僅差かもしれぬ。しかし、その差を感じる人には実に決定的な大差である。パイプのような素朴な手工芸品だから、こういえるのだろう。これが、オーディオ製品のような機械の場合には、問題は別だといわれるかもしれない。私もある程度そう思う。しかし、どんなに複雑な機械であり、自動化されたシステムによって量産されるものであっても、初めから機械が作り出すのではない。オリジナルは人間が作り、そのレプリカが商品となるのである。いい加減なオリジナルが、より優れたレプリカになるわけはないが(細部の加工精度は別として)、素晴らしいオリジナルを作る精神と能力で、いかに機械生産システムを利用し、どこを機械でやり、どこを人がやらねばならぬかを知っていれば、オーディオ機器のようなものにも、心と血の通った対話が可能な機械が生れる可能性はあるはずだ。事実、数は少ないが、そうした機械があるからこそ、この特集が成り立つわけだろう。ただ、先述したグッチやエルメス、ベンツやポルシェ、あるいはイヴァルソンやアンネ・ユリエのパイプなどのように、名実ともに一流品と呼ぶにふさわしいものと同じ、質的水準と、心情で、一流品を呼ぶことは、オーディオ機器の場合は難しいと思う。事実私も難しさを感じた。世界のオーディオ機器メーカーの現実の中で、オーディオ機器なりの一流品としての基準に修整を加える必要はあった。
 一流品とは、自称するものではなく、時間に耐え、厳しい批判をしのぎ、人に選ばれ、賞賛されるものだから、それを作り出す人々は不屈の精神の持主であると同時に、それを天職と感じ、大きな情熱と愛を持っている人や人達でなければならないだろう。こうした人間の精神性が、資本主義の巨大なコマーシャリズムの中で、どう活路を見出していくかは決して容易なことには思えない。しかし、それを育てるのも、つぶすのも、結局、その価値を見出すお客の存在如何にかかっていることは間違いない。いまや、一時代前のようにステイタスシンボルという存在が、素直に考えられるはずもない社会構造の中で、そうした背景と密接な連りを持って育ってきた一流品と、そして、一流品という言葉の意味が再確認されねばならないときであろう。市井では一流品ばやりで、特に日本では、国民全般の経済的余裕にともなって世界中の一流品が大量に輸入され、気軽に庶民の心の満足の一役を担っているように見える。これが、いいことか悪いことかは別にして、大きく変ったことだけは間違いない。OLが月払いでハワイ旅行をし、ホノルル市外で拾うタクシーのボンネットにはキャディラックの月桂樹のエンブレムがついているという時代なのだ。かつて、階級制度とはいえなくとも、大金持や有名スターのステイタスシンボルであったキャディラックだが、ホノルルのタクシーに使われているド・ヴィルやカレーは、オールズモビルの上級車よりも安いモデルである。これは何を意味するか。GMも背に腹はかえられぬのたとえ通り、キャディラックといえども、庶民相手に大量生産をしなければならなくなったのだし、同時に、庶民の中には、かつての栄光のシンボルであるキャディラックへの憧れを消すことが出来ない人達がたくさんいることを物語っているのだろう。そこをくすぐって、安いキャディラックを作り、売るのだ。日本では、つい先頃まで、ドイツの国民車VWが外車というステイタスシンボルになっていたぐらいだし、今でも、その名残りはある。VWビートルは本当にいい車だから文句はいわないが、国産以下の内容で、値段だけ高い外車に憧れて乗るという無知と非見識さは、そろそろ慎むべきときが来ているのだ。運転が示すあなたのお人柄という標語が流行っているぐらいだから、乗る車も注意したほうがよさそうである。オーディオも同じこと、いまや、ブランド名や、外国製というだけでは、ものの実態はわからない。
 こういう時代だから、一流品という言葉の持つ時代感覚のずれに大いに気づくところなのだが、反体制派で然るべきヤング達の間で一流品ブームだというのだから不思議なものだ。本当に、それが選ばれているのか。自信がないから銘柄に頼るのか。人が持っているから一つ自分も……式なのか。
 こういう時代になると、一流品は名実ともに優れたもの、名門だが、内容は必ずしもというものは名流品とか、単に銘柄品、名やバックグラウンドはなくても内容の優れたものは一級品というように、呼称に区別をしないと誤解をまねく。
 先にも書いたように、日本には機械文明のオリジナリティはない。しかし、いまや決して短いとはいえない、時の積み重ねを持ってきた。にもかかわらず、この分野で、名実ともに一流品と呼び得るものが少ないのは残念なことだ。私流に定義をすれば、文明と文化の二本の柱をこの背景に持つことが一流品の条件だ。文明と文化と簡単にいうけれど、それぞれの意味も、その違いも充分な論議の対象であろう。しかし、ごく一般的な意味で、物質的な文明、精神的な文化という側面だけでみてもよい。明治維新と第二時大戦後の二度にわたって、惜しげもなく自身の文化を捨てすぎた観のある、あきらめのいい日本人。しかし、その代償に値するだけの機械文明の吸収を成し遂げ、いまや、それを凌ぐほどの成果をあげている優秀な日本人が、自問自答して姿勢を定め、こまぎれ文化を独自の文化に育てあげるとき、真に一流品と呼べるものが増えるだろう。

ラックス CL32

菅野沖彦
 
スイングジャーナル 12月号(1976年11月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 世はフラット・プリ・アンプの大流行である。火をつけたのはアメリカのマーク・レビンソンだといってよいだろう。以来、アメリカには全くなんの影響をも与えていないのに、日本では大流行してしまった。この辺にも日本メーカーの性行が如実に現われているといえるのではないか。それは、ともかく、今度ラックスから発売になった、このCL−32も、プロポーションとしてはフラット・TYPEである。しかし、このフラット・アンプは同じフラットでも少々中味が異る。
 どう異るかというと、これは管球式のプリアンプなのである。このアンプを見て、その外観から、これが管球式のアンプとわかる人はいないだろう。実にすっきりしたデザイン、美しいパネルの仕上げ、見た眼にも極めて洗練された感覚がみなぎっている。真空管式のアンプ回路についてはもっとも豊かな蓄積とノウハウを持っているいってよいラックスだが、現時点で新たに、球のプリ・アンプが新製品として登場したバックグランドはなんなのであろう。いろいろ推測することが可能だが、その最大の理由は、なんといっても、ラックスの技術陣が、真空管を使いこなすことの自信にあるといってよいのではないだろうか。日進月歩のエレクトロニクスのテクノロジーのプロセスにおいて、常にニュー・フェイスとして紹介されるディバイス、つまり、各種のトランジスタは、それなりに素子として優れている点も持っている。しかし、新しい性格をもった素子が、本来の力を発揮するためには、その素子に最も適した使われ方がされなければならない。つまり、回路的に十分検討がなされ、多くの実験を経て、アンプの役目であるインプットとアウトプットの現実の条件の中で、いかに動作して、よい音を再生し得るかという試練を経なければならないと思う。その意味からいえば、真空管という素子は、もう古いと思われるほど、知り尽されたものであり、あらゆる回路技術が結びついて、その性能と性格の特色については練りに練られた素子だといってよいだろう。長年のアンプ専門メーカーとしてのキャリアを持つラックスにとって真空管は、まさに自家薬籠中のものだといえるだろう。もう一つの考えられる理由としては、これがキットでも発売されるということだ。もっとも、キット売りは後から出た案かも知れないので、勝手な推測は慎しむことにしておこう。
 とにかく、このCL−32は、大変に音のよい魅力的なプリ・アンプであって、現状で、プリ・アンプのもっている音への要求をよくみたしてくれるものだ。つまり、私の要求する、暖かさ、つぶだちのよいアキュラシー、音の積極的な表現、弱音から強音への広い質的安定感と、高い物理的S/N、こうした条件に、ほぼ、要求通りに応えてくれるのである。どうも、最近の新しいプリ・アンプは、音の品位が高く歪み感がないと思うと、雰囲気が重苦しかったり、フワーと軽やかに音場が拡がると思うと音が華やか過ぎたりといった具合で、なかなか思うように鳴ってくれないのである。こちらの要求が高くなっているためで、決して新型のアンプが悪いわけではないと思うが、このアンプを聴いて、そうした特別な傾向を強く感じずに、しかも、十分聴き応えのある音像の明確さと豊かな音場の雰囲気再現に満足させられたのだった。機能は簡素化されトーンコントロールはついていないが、実用上必要なものは不足がない。リニア・イコライザーと称するラックス独特のイコライザー・コントローラーがあって、少々のプログラム・ソースのキャラクター補正には事欠かない。最近続々発売される優れたプリ・アンプの中でも、特に強く印象に残った製品だった。
 また前述したように、別に組立てキットとして発売されているA3032という製品がある。ハンダゴテを握れる人で、暇と興味のある人は、これを組むことも楽しいのではないだろうか。特に、専門知識がなくとも、添付されているインストラクション・ブックに忠実に組立てていけば、まず、CL−32と同等に仕上りそうだ。私自身は、組んでいないので、100パーセントの自信をもって言えないが、ラックスのキットの信頼性は高いし、自分で作る楽しみはまた、格別であろう。万が一、手に負えなくとも気安く完成まで導き手助けしてくれるという。それが良い音を出せば、喜びも一入(ひとしお)大きいだろう。

モニター・オーディオ MA3 SeriesII, MA4, MA5 SeriesII, MA7

菅野沖彦

ステレオのすべて ’77(1976年11月発行)
「海外スピーカーをシリーズで聴く」より

 シリーズとしての一貫性はよい。バランスのとり方の上手なメーカーだけに、どれを聴いても帯域バランス、高域の味つけなどが巧みになされていて、効果的な鳴り方をする。最上機のMA3が質的にもっとも高く、どんなプログラム・ソースにも破綻のない再生音が得られる。最も小型のMA7は小じんまりまとまった雰囲気の再現が得られ効果的。中間機種が中途半端で、色づけが濃く楽器の音に固有のスピーカー自体の音色が結びついてくる。

エレクトロボイス Interface:A, Interface:B

菅野沖彦

ステレオのすべて ’77(1976年11月発行)
「海外スピーカーをシリーズで聴く」より

 インターフェイスAとBは明らかにシリーズである事が音に現われている。しかし、BはAのギリギリのところで守っている中域の品の悪さが、そのままでてしまう。これを、ひっくり返せば、Aの特色として表現することになるだろう。つまり、張り出した中域の豊かさが充実していて、やや粗々しいが、限界でふみ止まっているのだ。いずれの場合も付属イコライザーは使わずにすめば使わないほうが音の質はよい。

JBL 4331A, 4333A, 4343

菅野沖彦

ステレオのすべて ’77(1976年11月発行)
「海外スピーカーをシリーズで聴く」より

 JBLの新しいプロシリーズは一層洗練された。その代表的なものは4333Aと4343の二機種である。4331は2ウェイで私としては、どうしてもトゥイーター2405をつけた4333Aでありたい。シリーズとしては文句のつけようもない端然とした系統をもっており、音にも製品企画にもJBLらしい並々ならぬメーカー・ポリシーがあり感心させられるのである。真の意味でのスピーカーの芸術品と呼びたい妥協のない製品群で、今時、他に類例を見ることができない。

「マッキントッシュ論 あるいは友人ゴードン・J・ガウを語る」

菅野沖彦

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・マッキントッシュ」(1976年発行)
「マッキントッシュ論」より

「マッキントッシュ論」という、本来きわめてかたい文章を引き受けたわけだが、私はどうもこれから、〝友人ガウを語る〟というにふさわしい文を書いてしまうような気がする。というのも、私がこれほどまで深くマッキントッシュを知り、また知ろうという気持になったのは、ゴードン・J・ガウという一人の男を知ったからであり、その男の魅力にひかれたからでもあるからなのだ。
 彼は現に、マッキントッシュ社の頭脳でもあり行動そのものでもある。すなわち、ガウを語ることは、そのままマッキントッシュ社を語ることであると、私には思えてならないのである。
 私がマッキントッシュ社をはじめておとずれたのは、1969年早々だった。ちょうど、同社のトランジスター・アンプが評価を得たころだったと思う。私はその製品の美しい魅力にひかれ、こういうものを作る会社は、一体どんな会社だろう、という期待に満ちて、マッキントッシュ社をたずねる気になったわけだ。
 マッキントッシュ社は、ニューヨークのマンハッタンから、当時はプロベラ機で40分ほど、やや西に飛び、有名なナイアガラ・フォールスとマンハッタンの中間ぐらいに位置する、ビンガムトンという小さな町にあった。
 小高い山の頂上を削って出来た飛行場からは、美しいビンガムトンの町全体が、見渡せるほどの感じだった。
 その空港で、一人の小柄な紳士が私を迎えてくれた。小柄とはいっても大変に精桿な印象で、しかも、体に似合わない非常に大きな声で、明るくあいさつをしてくれた。「おれはゴードン・ガウという者だ」
 もちろん私は、彼がどんな人物なのか全く知らなかった。そればかりか、彼がさしだした名刺を見ても、この人がマッキントッシュの中心人物であることを、知ることはできなかった。なぜなら、彼の名刺にはなにも書いてない。そこにはただ、ゴードン・J・ガウ、マッキントッシュ・ラボラトリー・インコーポレイテッドとだけしか書かれていない。これは後で知ったことなのだが、マッキントッシュ社の人々がもつ名刺には、どれも肩書きがないのだ。いや、肩書きがないというよりも、彼等は、肩書きとして書くべき地位をもっていないというべきだろう。ともに仕事をする人間関係に対する、マッキントッシュ社のユニークな考え方が、ここにあるのだが、その話はあとにゆずろう。
 そして、これも次第にわかってきたことなのだが、空港で私を迎えてくれたガウ氏が、これからお話をするマッキントッシュの中心人物で、マッキントッシュ製品のすべてを手がけ、創業以来、製品づくりから製品の売り方まで、すべてのことをやってきた人物だったわけである。
 そのときの私の印象では、彼は、それほどの年配でもなく、いわゆる大ボスという風格をもった人ではなかった。ただ、精桿な面構えで、現役バリバリの技術部長というふうな感じを私は受けた。
 彼の運転するクライスラー・インペリアルで、空港のある山頂から町へおりたわけだが、それは、緑の多い、すばらしい景色だ。彼はそのときこんなことをいった。「これはリンゴの木だ。これはマッキントッシュ・アップルというリンゴの木なのだ」と。もっとも、マッキントッシュ社と関係があるのではなく、偶然のことであるらしい。
 やがて、木の間がくれにサスケハナ川の両側に拡がる、ビンガムトンの小ぢんまりとした愛らしい町並みが見えはじめた。
 実のところ当時の私は、アメリカのアンプ工場で、文字どおりのクラフツマンシップを目にするとは、考えてもいなかった。アメリカに対する漠然たる認識は、マスプロダクションにほかならなかったからである。しかし、ビンガムトンのその工場では、まさにクラフツマンシップが展開されていたのである。どこを見まわしても、ベルトコンベアーらしきものは見当らない。当然そこでは、一人のワーカーが非常に多くの作業を受け持っている。一台のアンプは、せいぜい数ブロックに分けられる程度であり、多少オーバーな言い方をすれば、まさに、一人で作っているのだ。
 さらに、もう一つ驚かされたのは、日本のメーカーなら当然、専門の下請工場へ出すべき部分まで、すべて自社生産である。シャーシの板金、メッキ、塗装、そしてあのグラスパネルのシルクスクリーン・プロセスまで。もちろん、マッキントッシュ・アンプの心臓部であるユニティーカップルト・トランスフォーマーも、自社で巻いている。大変に年配の人が、せいぜい三人ぐらいで……。
 こういう一貫生産という姿、これは日本人の私達でさえ、すでに忘れかけていたものだった。さらにもう一つ、私が今でもはっきりと印象に残っている光景があった。それは、工程から工程へ移るとき──マッキントッシュの製品はご存知のように、ガラスパネルもメッキ部分も、すべてピカピカであり、その美しいフィニッシュを得意としている──必ずクロスですべての部分をピカピカに磨きあげて、次の人に渡す。当然、次の人はそれを受け取り、自分の手あかをつけるわけだが、自分の仕事が終った後、また、ピカピカにして次の人に渡す。
 私の「なぜだ」という質問に、ガウ氏は笑いながらこう答えた。「別にわれわれが強いてこうしろと言っているのではない。自分達が作っているものを大切にする気持が、自然にあらわれているんだ。ここで彼等がふくたびに、きっとマッキントッシュ・スピリットが入ってゆくんだろうな」と半分冗談まぎれに……。
 しかし、私にとってその光景は大変に印象的であり、なるほど、文字どおり手塩にかけて作ってゆく商品は、どこか違うはずだ、という感じをつくづく持ったのを覚えている。
 そして、その後、何回マッキントッシュの工場をたずねても、ごく最近では今年の6月におとずれた時でさえ、その物づくりの徴密さという点は、全く変っていなかったのである。
 マッキントッシュ社のクラフツマンシップが、いかに根強いものであるかを証明する一つの材料として、ガウ氏が話してくれた次のようなことが思い当る。
 それは、マッキントッシュ社の人間関係についてだが。
 アメりカという国はご承知のように、雇用関係がきわめてドライな国であり、昨日までGMの社長が、今日からフォードの社長になるといったことも、けっして珍しくない。こうした風土に生まれたマッキントッシュ社は誕生時10人のメンバーでスタートしている。
 誕生から30年近くを経た現在では、600人とかいう数になっているわけだが、スタート時の10人のうち8人が、今でも同社で働いているのである。これは恐らく、雇用関係が義理人情でしばられやすい日本でさえも、ちよっと珍しいことではないだろうか。
 何かでしっかりと結びついているに違いないこの人間関係が、私にはマッキントッシュ社のクラフツマンシップと、無関係に考えることのできない、重要な事実のように思えるのである。
 そしてさらに、前記した、名刺に肩書きがないということも、緊密な人間関係と、緻密なクラフツマンシップに深いかかわりを持つのではないだろうか。
 人間に肩書きをつけないという方針は、まさにガウ氏の考え方であり、彼はそのことについて次のような話をしてくれた。
「人間にタイトルをつけるということは、大変に人間を侮辱することなのだ。一体、誰が誰にタイトルを与える権利があるのだ。人間はタイトルによって働くものだと、今の会社組織は思っているようだが、とんでもない。タイトルを与えれば、タイトル以外のことはしなくなる。部長とか課長とかいうタイトルは、与えるものではなく、自分がつくるものである。リーダーは上の人が任命するのではなく、下の人が自然につくりだすものではないか。フォロワー、つまり、従う人間があってはじめて真のリーダーたり得るはずなのだ」
 この考え方を、マッキントッシュ社では現に実行している。だから、社長であるはずのマッキントッシュ氏をはじめ、ガウ氏、さらに現場の一技術者に至るまで、名刺だけに肩書きがないのではなく、定められた地位や仕事のわくにしばられていない。全く、彼等からもらった名刺からは、誰が何をしているのかわからないのである。
 人間同志の緊密なつながりを最も尊ぶこの考え方は、マッキントッシュの社内の人間関係だけにはとどまっていないようだ。これは、方針といったものではなく、マッキントッシュ社の体質なのである。 その具体的なあらわれを、私はいくつか知ることが出来たし、私自身も経験した。
 これは、前記したマッキントッシュ社がすべてを一貫生産する、ということにもかかわる話なのだが。マッキントッシュ社の中には印刷工場まであり、カタログや宣伝物まで、すべて自分達の手でつくっている。もちろんこれには、彼等なりの経済的な理由もあるのだが、それよりも、この機構が、ユーザー一人一人を直接マッキントッシュ社と緊密に結びつける上で、重要な働きをしている。
 というのも、マッキントッシュ社は、いわゆる雑誌広告とか、どこかへ広告を出すとかいったアドバタイジング活動は一切やらない。それに代えて、あくまでも厳選した販売店ごとの新製品の紹介も含めた販売店ニュース的なものや、自社製品のダイレクトメールなどを、この印刷工場で印刷し、販売店にかわって、全部ZIPコードをつけお客のところヘダイレクトで送る。ユーザーに直接コミュニケーションするための機構として、この印刷工場はフルに活動しているわけである。
 もちろん、ここでは自社製品の説明書やカタログなども印刷しているわけだが、そうしたものも、外部に依頼すると必ず種々のトラブルが生じ、結果的にサービスの低下につながる、という。そして「この方式が、ユーザーからも販売店からも、最も信頼され、かつ効果的な方式である」とガウ氏は言った。
 マッキントッシュ社が、自分の責任、自分のオリジナリティをきわめて大切に、しかも、緊密な人間関係を重視していることの、一つのあらわれではないだろうか。
 さらに、ユーザー一人一人とマッキントッシュ社を強く結びつけるものとして、クリニックカーによるマッキントッシュ・クリニックのシステムがある。
 マッキントッシュ社では、今、申し上げたようなシステムによって、どの地区にどれだけのユーザーがいるということを、はっきり掴んでいるわけである。したがって、それに応じ、クリニックカーが定期的に順回してくる。もちろんそこでは、マッキントッシュのすべての製品を、また、他社製品でさえ、フリーで測定し自社製品は無料で修理するという、きめの細かい活動が行なわれるのである。
 このことは、今申し上げている、ユーザーと直接、緊密なつながりを持つという事のほかに、もう一つ、マッキントッシュにとって重要な意味を持つ。それは、マッキントッシュの製品はすべて開発段階で、将来ともにフリー・オブ・チャージでサービス出来るという、条件をそなえていなくてはならないことになるわけである。製品開発の基本的な姿勢をここに置く、ということが条件づけられるわけなのだ。現にそれは守られている。
 マッキントッシュ社がこのように、社内の人間関係を大切に考え、かつユーザーとの緊密なつながりなど、あくまでも心のかよったあたたかさですべてを通している根底として、私は、マッキントッシュ氏とガウ氏、この二人の人柄と友情を無視することは出来ないと思う。
 とにかく二人とも、本当にいい人なのだ。だから、先ほども述べたように、この緊密な人間関係は、けっして方針ではなく体質に違いないと思うのである。ことに、この二人の仲の良さ、友情の深さは本当に驚くばかりだ。二人がマッキントッシュ社をはじめて、すでに30年を経過するわけだが、お互いに、本当に信頼し合っていなくては、こうした関係がこれほどの期間つづくものではない。
 会ってみると、二人とも実に頭のきれる人で、しかも人間的な魅力があって、明るく豪快。そして、そのホスピタリティのすばらしさには、ただ、驚くばかりである。とにかく彼等は、皆で飯を食い、飲むということが大好きである。それも、こちらがとまどうばかりに、実に綿密な計画と準備万端で客を迎える。私はその後、しばらくは毎年行ったのだが、こんなにしてもらっていいのだろうかと思ってしまうほどだった。ある時は私達のテーブルに、アメリカと日本の小さな国旗をかざり、ある時は、日本からのお客様だからといって、どこで探したのか、日本の菊の花をいっぱいにかざる。滞在中は二度と同じ所で食事をさせない。ある時など、ニューヨークへの定期便が時間的に都合悪くなると、「われわれの方でチャーターしてあげる」といって、チャーター機を用意してニューヨークまで送ってくれたりもする。
 そう、その時の話がいかにもガウ氏の人柄をしのばせるので紹介しよう。
 空港まで送ってくれたガウ氏は、そこで自分のしていた「マッキントッシュ」のネクタイピンをはずし、これをあげると言って私のネクタイにさした。しかし、私は以前にもらったことがあったものなので、機内に入ってから同行のN君に、「君にやるよ」と言ってネクタイにつけさせたわけだ。やがてニューヨークに着いた私達の前に、ショファー・スタイルの一人の男があらわれ、N君にこう問いかけたのである「あなたはミスター・スガノであるか」と。ネクタイピンは目印だったのだ。
 迎えのリムジンでホテルまで送られながら、私は何ともいえないあたたかいものを感じた。おそらくガウ氏は、私達を送り出すとすぐに、ニューヨークに電話をして迎えの手配をしたのだろう。そして今頃、空港の迎えに驚いている私を想像しながら、楽しんでいるに違いない。彼はそういう男なのだ。
 ガウ氏はよくこう言う。「われわれは高い広告費を払って広告はしない。その費用があったらそれは研究開発に回す。また、こうして話しながら食事をしたり飲んだりする方が、はるかにマッキントッシュを理解して考えられるではないか。一人一人のユーザーにまでそれは出来ないが、考え方は同じだよ」
 でも、この言葉は半分うそであろう。彼のホスピタリティは営業的政策以前のものである。それは彼の体質である。彼は客をもてなす事を、彼自身、真に楽しんでいるのである。彼はそういう男である。だから、そこで本当に心が通じ合うのではないだろうか。
 マッキントッシュ社は、正式には「マッキントッシュ・ラボラトリー・インコーポレイテッド」という。オーナーのフランク・H・マッキントッシュ氏は、以前、ワシントンで放送機器関係のコンサルタント業とともに、FM放送のサブキャリアを使った、バックグラウンド・ミュージックの仕事をしていた。ガウ氏は、そのときエンジニアとしてマッキントッシュ氏に雇われたのである。
 彼に与えられた仕事は、BGMの音質を改良することであった。彼はそこで、こつこつとアンプを設計したり、手づくりで製造していたという。
 彼が、より良い音のアンプを作るために、一番気になったことは、プッシュプル回路のノッチングひずみであった。それまでの標準的なプッシュプル回路では、どうしてもBクラスのノッチングひずみが出てくる。しかし、Aクラスではあまりにも効率が悪すぎてコマーシャルベースに乗りにくい。Bクラスのエフィシェンシーを持ち、かつ、何とかノッチングひずみをへらす方法を考えたいと、研究を重ねたわけである。
 このノッチングひずみについては、1936年にペン・タン・サーという人が、すでに問題を提起していたが、ガウ氏が非常に印象を受けて、自分の研究の刺激になったのは、フレッド・ターマンというオハイオ州立大学の教授が発表した論文であるとの事であった。彼がまず取り組んだ回路は、シングルエンディット・プッシュプル、すなわちSEPP回路によるひずみの低減であった。その結果ぶち当った問題が、今度はアウトプット・トランスフォーマーということになったわけである。それまでのトランスでは、どうしてもある程度以上にひずみを減らすことは出来なかったわけだ。
 とにかく彼は、入出力のリニアリティを上げるために、コア材と巻き線の両面で非常に苦労をした。とくにコア材に関しては、フラックス・デンシティとコイルの磁力がリニア関係をもつものが、全くなかったという。彼はいろいろなコア材の研究をした結果、グレイン・オリエンテッド・シリコン・スチールという鋼材が、きわめて良好な結果をもたらすことを発見した。これを具体的に採用したのが、ウエスティングハウスの開発に成るハイパーシル・コアというものであった。
 一方、ワインディングすなわち巻き線に対しても、彼は多くの研究を重ねている。その結果得たものが、現在のバイファイラー・バランスド・シンメトリックという、つまり、1次線と2次線をパラレルにして同時に巻いてゆく方法なのだが、これに至るまでに、実にあらゆる方法を実験したそうである。 たとえばその一つは、実に58ものタップが出るコイルであった。普通のトランスでは五つか六つのタップであるが、それが58もあったわけだ。彼は苦心して作ったハイパーシル・コアに、58ものタップをもつコイルを巻いた試作品を作り、マッキントッシュ氏に見せた。その時マッキントッシュ氏は「これは大変にすばらしい、しかし、一体いくらにつくのだ!」とさけんだという。
 ガウ氏はその時の事を私にこう話してくれた。「はっきり覚えちゃいないけど、とにかくとても商品になるような値段ではなかったよ」と。しかし、この回路を元に、その後二人でもっと実用性のある方向にアレンジを加え、そして出来上ったのが、1946年に出願したマッキントッシュ・サーキットなのであった。そして1949年に、この回路はパテントを得ている。
 マッキントッシュ社が会社として設立されたのは、前記した特許出願の年、1946年、場所はまだビンガムトンではなくワシントンDCであった。もちろん当時は、まだ、それまでのプロフェッショナル・ユースのアンプを一点づくりで納めていた、アメリカ流に言えばガレージ・メーカーである。その後、パテントを得た1949年に現在のビンガムトンに本拠を構え、アンプメーカーらしいアンプメーカーとしてスタートする。この時、前に申し上げた10人の社員になったわけである。
 その段階で、マッキントッシュのオリジナルサーキットが決まり、その後、チューブ・アンプリファイアーからトランジスター・アンプリファイアーになっても、この基本回路はずっと踏襲されてきている。
 現在のマッキントッシュ社は、社員が約600名。本社工場をはじめ、ビンガムトン内に七つのプラントを持っている。この七つのプラントで、アンプ、チューナー、スピーカーをはじめ、前記したようなシャーシ類の製造から例のガラスパネル、そして各種の印刷物まで、すべてを作っている。そして、会社の中心人物は、マッキントッシュ氏、ガウ氏のほかに、技術関係をコーダーマン氏、総務的な問題をペンショー氏、営業的な面をキャロル氏が担当しているらしい。らしいと言うのは、たびたび申し上げるように、彼等の名刺には何も肩書きが書かれていないからである。
 私とガウ氏の交友もすでに7年になり、その間、何度も顔を合わせて、いろいろな話をしているわけだが、マッキントッシュの製品に関して、私が以前から興味を持ちながら、しかもなぜか、一度もあらたまって質問したことのない部分があった。それはマッキントッシュ製品のデザインについてである。
 ご存知のようにマッキントッシュ製品は大変にすばらしいデザインを持ち、高級品にふさわしいオリジナリティと美しいフィニッシュを誇っている。
 マッキントッシュ社のデザイン部門をガウ氏がプロデュースしていることは、以前から私も知っていた。しかし、デザインに対するポリシーなど、その考え方については、これまで、とくに質問したことがなかったわけだ。マッキントッシュ社では、すべてを自社生産しているように、そのデザインもいわゆるデザイン事務所に外注したりはしていない。社内にデザイン・セクションがあり、彼の意見によって若いデザイナー連が仕事をしている。
 ガウ氏は驚くほどいろいろな事をやってきた人なのだ。アフリカにいたこともあるらしいし、サンフランシスコの大学で教鞭をとっていたり、それからアナウンサーをしていたこともあるという。そんな彼だから、恐らくいつのまにか、デザインについても意見を持つようになったのだろう。これは私の想像なのだが、先日ステレオサウンドで見たC−8のパネルに書いてある「BASS」とか「TREBLE」とかいったフリーハンドの文字が、どう見ても彼の筆跡に似ている。恐らくあれは、ガウ氏の字だろう。
 そう言えば、彼は以前、マッキントッシュの一連のパワーアンプにほどこされているシャーシのメッキについて、こんなことを言ったことがある。「あれは要するに、おれのアマチュアイズムなんだ。おれは自分で物を作ったら、それがバラックみたいなかっこうであることがいやなんだ。別にデザインというほどのものではないよ」とその時点では謙遜していた。しかし、「ガラスパネルを本格的に使うようになってからのものは、デザインらしいデザインと言えるかな」とも言っていたわけだ。そこで今回、この一連のガラスパネルによるアンプデザインについて、そのポリシーなどをたずねてみた。しばらく、ガウ氏の話に耳をかたむけてもらおう。
 おれはデザインについてこう思うんだ。デザインは思いつきや感覚だけで出来るものではないと。最も大切なのはリアリティだよ。君がおれのアンプをきれいだと言ってくれるのは大変うれしい。もちろん、きれいじゃなくては困るんだけど、一番必要なことは、絶対に必然性だ。機械としてのね。
 そこで、アンプの場合には何が最も必要かという事になるのだが、アンプは音楽を聴くためのものだ。音楽を聴く場合には、音楽を聴く人のエモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージック──音楽に対する情緒的反応──これが生命だと思う。だからアンプは、エモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージックというものを持つべきで、これを大切にしなくてはいけない。そのために何が最もふさわしいかなのだが、おれはそれに対し、イルミネーションが最もふさわしいものだと考えたわけだ。
 次に、それならイルミネーションの色はどうすべきか、という問題になる。
 そんな事を考えながら、ある時、飛行機に乗っていて、それが滑走路へおりて行く時に、おれはタクシーウェイのイルミネーションを見た。これだ、これは絶対にすばらしいと思った。しかも、これはだてや酔狂で、ネオンサインのつもりで色をつけているのではないはずだ。そう思うだろう? 相当リサーチされた結果に違いないんだよ。
 実の所、イルミネーションでいこうと決めた時、その色やデザインについて、おれはミシガン大学の研究室に協力をあおいでいたんだ。(ミシガン大学はデトロイトにある関係もあって、すぐれた自動車デザイン部門を持っている)おれは何をやるにも、まず基本的なスタディからはじめないと気がすまない性格だからね……。
 ガウ氏は、この空港で得たヒントを研究室に持ち帰り、徹底的なリサーチを行った。その結果決定されたのが、マッキントッシュのイルミネーションに使われている、ブルーでありグリーンであり、レッドなのである。
 彼の説明によると、ブルーという色は、人間に、少ない光量で視覚的に正確な認識を与えるものとして最も適している。光量が一番少なくていいわけである。要するに、イルミネーションで正確な認識を与えるためには、光量が多ければいい。しかし、それでは結果的にまぶしく、疲れてしまう。最低の光量で、最も正確に認識しうるものが、イルミネーションの基本のはずである。「現に、飛行場のイルミネーションも、この実験から生まれたものだったんだよ」と彼は言う。
 しかし、心理的に、このブルーという色は冷たい感じを与える。「視野の中に入ってきたブルーから冷たい感覚を得ないためには、それにグリーンとレッドを組み合わせること。こういうデータをミシガン大学の研究室で得たんだ」
 たとえばメーターは、最低の光量で見えるべきだ。見てまぶしいようなメーターでは困る。最低の光量で正確に見える色はブルーである。だが、これだけでは冷たい。そのためにグリーンを持ちレッドを持つ。「これが、あのイルミネーションの基本的な考え方なんだ」
 次に、なぜガラスを使ったかなのだが、これについてガウ氏は、「それは単純だよ」と言う。つまり、イルミネーションというアイデアが浮かべば透明なものを使わなくてはならない。考えられるのはアクリルなどのプラスチック類とガラスである。「三つの点でガラスがまさっている。第一に傷に強い。第二に最も純粋な透明度が得られる。第三にフィーリング・オブ・アキュラシー、つまり緻密な精度感を持つ。せっかくいいメカニズムを作っても、そのフィニッシュにアキュラシーなフィーリングがなくては……。それは中味を象徴することになるのだから」
 だが、材質をガラスに決定した事によってイルミネーションのプリントには大変な苦労をしたようである。ピンホールがちょっとでも出来ると、相手が光だからパッと出てしまう。しかもプリントの精度は、1万分の1インチ以上でなくてはフィーリング・オブ・アキュラシーが出ない、と彼は言う。
「とにかく、200種類のインクを分析して実験した。その結果、出来るようにはなったんだが、プリント時の温度は絶対に70度プラスマイナス5度。そして湿度は15%プラスマイナス5%。これを管理しなければならない。実際にこれは、途中で何回やめようと思ったかわからない。でも、思いついたことをやりとげるのが自分達の仕事の喜びなんだ」
 あまり飾らないガウ氏が熱をこめて語るこの言葉は、同時に、彼のマッキントッシュ製品に対する自信のほどを、裏づけるものとも、私には思えたのである。
 マッキントッシュ社の緊密な人間関係や、ユニークな一貫生産のシステム、そしてガウ氏のデザイン・ポリシーなどについて話してきたわけだが、次に、もう一歩ふみこんで、彼の、ということはすなわちマッキントッシュ社の、プロダクト・ポリシーといった面に話をすすめてみよう。
 ガウ氏がよく口にする言葉がある。「大切な事は、たゆまぬ研究開発である。しかし、研究開発というものは常に動的なプロセスであって、その段階で、それをすぐ製品化してしまうということは、大変に危険なことなのだ。自分達は断じて、お客様にリライアビリティ、すなわち信頼性を保証しなくてはならない。リライアビリティが保証できる自信のないものは製品化すべきでないんだ」これが彼の製品づくりの哲学と言ってもいいと私は思う。この点に対するガウ氏の神経の使い方は大変なもので、信頼性のない製品は必ずすべてをぶち壊してしまうと言う。客に迷惑を与え、販売店をぶち壊し、メーカーを駄目にする。もちろん機械に故障はつきものだが、だからこそ万全を期して、大きな故障が起きないようにしなくてはならない、と言うわけだ。
 このリライアビリティの重視は、すなわち製品のロングライフにつながる。「使っていて、短期間のうちに極端に初期性能が衰えてしまうようなものは、自分としては絶対に作りたくない。何年間でも、調整さえすれば常にオリジナルの状態に復元できるような機械でなくてはだめなんだ。これは機械の作り方だけの問題ではなく、基本設計の時点ですでに問題になることなんだ」そしてさらに「だから、まず良いオリジナルな設計を持つ事が大切だし、それを持ってスタートしたら、今度はとことんまで製造面を追求して行かなくてはならない」
 マッキントッシュ社にとってのオリジナルは、前に申し上げたバイファイラー・トランスフォーマーによるマッキントッシュ・サーキットであるわけだから、彼等はこれを、けっして捨てることはないわけである。「このオリジナルに、もうリサーチの余裕がないという事になればともかく、まだまだ、これを発展させ改良させることは可能だ。簡単に捨ててしまうようなものは、本当のオリジナリティではない」と彼は常に言っている。
 アンプがトランジスターになった時、それでもトランスをしょっていることについて、彼はいろいろな人から質問を受けたらしい。私が質問した時にも、またか、と言った感じだったが、その時にも彼が言ったことは「一番大きな理由はロングライフだ。これは絶対に壊れないんだ、トランスをしょっていれば」という事だった。現に彼は、その頃のハイパワー・アンプのライフテストを全部やって、その結果、マッキントッシュのアンプが最も過酷な使用に耐えるアンプであるというデータを自分で確認していたのである。
 ガウ氏はアンプの音質について、こんな考え方を持っている。もし、二つのアンプが同じひずみ率、現在はかり得るすべてのディストーションが同じグレードにあったとしたら、その二つのアンプのオーバーロードではない範囲の音質すなわち、静かにかけている場合には、二つの音質の違いは非常に聴き分けにくい。アンプの問題は、ほとんどの場合オーバーロードで働かされている事にある。
 たとえば彼の実験によると、スネア・ドラム1個のアコースティックパワーは5ワット出ると言う。ところが、能率の悪いエアーサスペンションのスピーカーだと、音響変換効率はせいぜい1%である。そうすると5ワットのエネルギーを出すためには500ワットのパワーを入れなくてはならない。だからアンプは、まず大きなパワーを持たなくてはならない、と言うわけである。たしかにマッキントッシュのアンプは、その時代、その時代で、いつも大きなパワー、大きなパワーという方向に行っているが、それは彼のこうした考え方によるものなのだろう。
 もっとも、ガウ氏は個人的には静かな音で音楽を聴くのが大好きなのである。「オーディオ機器のあらが一番出ない、静かな音で、イメージとして音楽を聴くのが、最もハッピーである」と言う。しかし、実際の使われ方はそうではない。多くの人はスピーカーからリアリティを求めている。「そうなると、きわめて大きなパワーがなければリアリティは求められない」という事になる。
 彼は言う。現に、現在のほとんどのアンプはオーバースイングの状態で使われている。そういう状態では、アンプはきわめて音質の差がはっきり出てくる。たとえばチューブアンプとトランジスターアンプの場合、いろいろな要素はあるけれど、一番ティピカルな音の違いはオーバーロードに対するものだ。この二つのクリッピング波形は、はっきりそれとわかる。これを何とかしなければ、いつまでたってもおまえのところのMC2105より275の方が、はるかにパワフルで、はるかにいい音だと言われてしまう。だから、現在アンプで最も問題にしなければならないのは、クリッピングしないほどのパワーを持たせるか、あるいはクリッピングしても、それをあまり強く感じさせないことだ。
 彼は、こんな実験をしたという。それは、最近よく問題にされるスルーレートに関するものである。「方形波を入れて、それがアウトプットでどういう形になるか。それがアンプの特性を示す一つの目安になることは確かだ」と彼も言う。しかし同時に「現在のような形でスルーレートを取り上げるジャーナリズムのあり方には、大きな問題がある」と言うわけだ。
 彼は、一般のユーザーを集め、方形波のかなり悪いシステムと、かなり良いシステムを比較させ、音楽を聴く上でそれがどれだけの影響を持つかを確めている。彼は言う「たとえばテープレコーダーは方形波がきわめて悪い。磁気ヘッドは本質的に位相特性が非常に悪いから、方形波はめちゃめちゃに崩れてしまう。でも、そういうテープレコーダーで、はたして音楽は音楽でなくなってしまうか。あの波形を見ると、確かにびっくりするほどの波形だが、音楽はちゃんと音楽らしく鳴っているではないか」
 もちろん彼は、エンジニアにとって方形波が非常に重要なものである事は認めている。ただ、現在のジャーナリズムの取り上げ方は本当にアンプの物理的なことを理解していないコンシューマーに対して、「方形波がこうなるということは、あたかも音楽がそういう形になるかのようなすりかえで、アピールしている」これは大変に危険なことだ、と言うのである。
 私はこの考え方を、オーディオの認識のトータルの姿として重要だと思う。これを、単なるガウ氏のデモンストレーションとして受け取ったら、それは浅い。彼自身の意図は、エンジニアリングの立場だけを、一般の人にアピールしたのでは、一般の人たちが神経質になってしまい、オーディオを楽しめなくなってしまう、という事なのだ。それは、ガウ氏が単なるエンジニアではなく、彼自身が音楽好きで、しかもオーディオマニアであるからだろう。もし単なるエンジニアだけだったら、方形波は悪くとも音楽は聴けるではないか、というような事はなかなか言えるものではないと思うのである。
 前記した、クリッピング時の波形がアンプの音質にとって重大な影響を持つというガウ氏の考え方は、マッキントッシュのアンプが、常にハイパワー化へ方向づけられていたゆえんでもあるわけだが、最近、もう一つの新しい方向が持ち出され、製品化されている。
 彼はチューブアンプとトランジスターアンプの音質の差という事に、本当に真剣に取り組んで、いろいろな研究をしてきたわけである。この結果、クリッピング波形の問題に着目した。たとえば彼が言うのは、10ワット程度の真空管アンプは、たしかに10ワット程度のパワーしか出ないからダイナミックレンジは狭い。しかし結構豊かな音で鳴る。ところが、トランジスターアンプは50ワットあっても豊かさに乏しい。その最大の理由が、クリッピング時の波形の違いであると言うわけだ。トランジスターアンプのクリップ波形はシャープで、サインウェーブが方形波のようになってしまうが、真空管アンプはクリップしても、なかなかそういう波形にはならない。現実には先ほども申し上げたように、ほとんどのアンプがひんぱんにクリップポイントにリーチしながら使われているからトランジスターアンプはひずんだ音が気になるケースが多い。
「トランジスターアンプがオーバードライブされても、ひずみとして耳に感じさせない事。これがわれわれの、一つの新しい方向なのだ」この回路が、新しいパワーアンプMC2205をはじめとする一連の製品に採用された、パワー・ガード・サーキットである。これは簡単に言うと、インプット波形とアウトプット波形を常に比較して、アウトプット波形が1%のひずみに達した時、インプットを制御する方式らしい。したがって、オーバーロードでもシャープなひずみが発生しないわけである。ダイナミックレンジはそこで狭まることはあっても、ひずみとして耳に聞こえる事はない。これは実際に聴いてみると非常に効果のあるものであった。
 だからと言って、もちろんマッキントッシュがハイパワーの方向を捨てたわけではない。と言うのも、近々、400ないし500ワット・パー・チャンネルのアンプを登場させるという。従来の200ワットクラスの大きさと目方で、それぐらいのパワーが取り出せるようになったと、ガウ氏は最新の情報として話してくれた。
 これまでお話し申し上げたように、私はマッキントッシュを大変にすばらしいメーカーだと思っている。と言うのも、これは私のオーディオ観でもあるのだが、私のオーディオに対する喜びの中の一つの大きな要素として、メカニズムそのものに対する魅力というものを無視することができない。もちろん、オーディオの大部分は、音楽を聴くための道具であるが、音楽を趣味とすると同時にオーディオそのものを趣味としている一つの理由が、メカニズムの魅力だと思う。そして、そのメカニズムの魅力とは何かと言うと、結局、帰するところは、メカニズムを作った人間との対話なのだ。結果的にあらわれた、すばらしいメカニズムだけを評価してすませてしまうか、あるいは、作った人間がどういう人間であろうかというふうなところまで、考えをめぐらすかどうか、と言う事だと思う。そして私の場合には、メカニズムを通してその人間を想像し、いろいろと楽しんでいる。私はそういうメカニズムとの接し方をしているのである。
 したがって、そのメカニズムから、どうしてもその裏側にあるべき人間が想像できないようなものは、きわめて気味が悪く、私にとってはあまり魅力がない。これはオーディオだけではない。カメラ好きの人はカメラからそれを感じるだろうし、車好きの私は、やっぱり車からもそれを感じる。どうしても、設計者や製造者に対する興味を禁じ得ないのである。
 そういう意味からマッキントッシュにも私はアプローチをし、その人達と親しくなったわけだ。その結果、マッキントッシュの製品から受けるものが、実際に会ったマッキントッシュの人々と、非常によく合致するということを明確に感じた。
 またガウ氏の話で恐縮だが、彼がよく行くレストランにベステル・ステーキハウスというのがあって、そこでは本当にびっくりするほどの、サイズ・イレブンと称せられる物すごいサイズのローストビーフを出す。誇張でなく、その隣にスカッチの水割りグラスを置くと、その高さとローストビーフの厚さが同じなのである。ガウ氏はそれをペロッと食ってしまう。私も懸命になって食べたが、まさに獅子奮迅の格闘をして食ったあとでも、その口ーストビーフは持ってきた時と大して形が変わっていなかった。でも彼は、本当にペロッと食べてしまう。
 それから、彼は絶対に大きい車が好きである。小さい車には全く興味を示さず、仕事に使うのはキャデラックの75リムジン、キャデラックでも一番大きい車である。ガウ氏自身もこう言っている「おれは小さいだろう、だから何でもデカイのが好きなんだ」と。
 そして私には、この彼の性質と、マッキントッシュの作る強力なアンプ、常に大パワー、大パワーを目指す方針が無関係とは思えないのだ。もちろんその方針は単なる感覚的な事ではなく、理屈の裏づけがあってのことなのだが、それでも、そこからは彼のスケールの大きさがそのままにじみ出ているのだ。
 私がガウ氏に会う前に、マッキントッシュの製品から想像していたイメージが、実際のガウ氏とほとんど食い違わなかった事に、私はひそかな喜びを感じたのである。やっぱりこれほどの製品になれば、メカニズムを通しての人間との対話ということが、本当にありうるものだと、しみじみ感じた次第である。
 こう書いてくると、私はまるでマッキントッシュ・クレージーのように思われるかもしれない。だから誤解がないようにつけ加えておかなくてはならないのだが、私自身は、マッキントッシュの音そのものはマイ・サウンドとは言えないのである。私は決して、マッキントッシュのアンプを自分の音として愛用しているものではない。C−28とMC−2105を以前に買って持っているが、常用ではない。マッキントッシュ・サウンドのあの大柄な、あのたくましい感じが、私のものとは違うという感じがするのである。それでも私は、マッキントッシュの製品に最大限の評価と賛辞を惜しまない。ここがオーディオのむずかしいところなのだろう。もっともこれは必ずしもオーディオだけに限らず、たとえば車でも同じ事が言える。
 いずれにしてもマッキントッシュは、すぐれた頭脳と堅実な思想、そして彼等の豊かな人間性によって、すばらしい製品を作り上げている。もちろんそれも、ある見方を変えれば、たとえば古いと言われる一面も持っているかもしれない。マッキントッシュ社は、けっして新しいテクノロジーをどんどん取り入れて行くタイプではない。いまだにアウトプットトランスをしょったアンプは、アウト・オブ・ファッションと言われるかもしれない。しかし、それを単なる古さ、おくれた考え方とだけ見るのは大きなあやまちである。私はむしろ、そこに彼等の、文化に対するどっしりとした精神的バックボーンを見るのである。
 私は常に、明治のハイカラ思想と第二次大戦後の欧米コンプレックスの二つが、日本のいいものをかなぐり捨てた、そして、いま日本はそれによってあえいでいると実感している。優秀なものが大量に出来るようになったが、ドーンと人を感動させる最高級なものを作ることが出来ないでいる、現在の日本の精神構造の弱さ。これほど高い文化の歴史を持つ国でありながら、現代人が作り出すものの中に文化というにおいがしない。これは工業製品だけではなく、すべての分野に言える事であろう。
 しかし、われわれオーディオの好きな人間ぐらいは、そういう精神文化というものを大切にしていきたいと思う。その点においても、私はマッキントッシュ製品を、高く評価しているし、この考え方は今後も変らないものと思っている。

サンスイ SR-929

菅野沖彦

スイングジャーナル 11月号(1976年10月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 プレイヤー・システムはレコードを演奏する装置であり、コンポーネントの中でも、きわめて重要な存在だ。それは、その微細なディスクに刻まれたミクロの振幅を拾い上げ、電気エネルギーに変換するというデリケートきわまりない作業をやってのけるのだ。この作業を直接果すのはカートリッジだが、いくら優れたカートリッジでも、トーンアームやターンテーブル、そして、それらを支えるプレイヤー・ペースが完全に補佐しない限り、その性能を発揮することは不可能である。ディスクの溝に刻まれた振動は、それ自体は、うねうね曲りくねったパターンに過ぎないが、これを回転させ、その溝に針を垂下させることによって、針先を動かす機械的エネルギーが生れる。針先の僅かな動きは全て電気エネルギーになってアンプへ送られ増幅され、スピーカーから育として再生される。こんな当り前のことを今さらあえていうのも、この当り前のことをちゃんと行なうことが、どうしてなかなか難しいからなのだ。つまり、針先に加わる機械振動が全部音になるというわけだから、レコードの溝に刻まれた波形が針先を動かす以外に、もし、なんらかのエネルギーが針先に加わることは、余計な音をスピーカーから出すことになる。たとえば、モーターの振動だ。これは絶対に禁物だ。最近のモーターは大変優秀で、静かな回転が得られるようになった。しかもDD式でモーター自体の回転を遅くすることによって振動がずっと少なくなったも回転速度も正確に、かつ滑らかに絶
えずコンスタントな速度で回らなければならない。毎分33 1/3回転といっても、1分間で33 1/3回転すればいいわけではない。一定速度で回転しなければ、音のピッチがゆすられて音程が保てないし、音質の劣化という現象につながる。これも、最近は、いろいろ優秀なものが登場した。バランスのとれた重いターンテーブルの慣性と、モーターの速度の僅かな誤差を検出して制御するサーボ機構の組合せ、しかも、モーターを回転させる発振源に水晶を使うという時計なみの精度をもったクォーツ・ロック・システムなどである。こうした新兵器はたしかにプレイヤー・システムの性能向上に役立っているが、実は、もっと、一見単純でしかも重要な問題がある。
 それは、プレイヤー・ベースの構造である。この土台がしっかりしていないと、絶対に音のいいプレイヤー・システムにはならない。しっかりしていなければならないといっでも、ここのところが難しい。前の針先の振動は、カートリッジのダンパーでは全部吸収されず、アームに伝わる。アームの共振はベースに伝わる。したがって、アームやベースの特性は必らずカートリッジの振動系と一体となって、一つの音色傾向を持つことになる。そんな馬鹿なという人がいるとしたらそれは体験不足というものだ。プレイヤー・システムは、全てが音に影響のある振動体なのだ。 シェルの指かけや、ターンテーブルのラバー・マットなどについても最近はやかましくいわれ出しているが、その割には、カートリッジ自体のボディーの材質や構造、ベースのそれと音の関係がまだ煮つめられているとはいえないようだ。ハウリングという、プレイヤー・システムの最も恐るべき現象に対してさえも、まだまだ、実際には配慮の足りないものもある。こうした背景の現時点で新しく登場したSR929は、かなり集中的に、これらプレイヤー・システムの諸問題が追求され成果々上げたものだと思う。勿論、回転系は、最新型のクォーツ・サーボ・システムのDDターンテーブル。トーンアームのナイフエッジとワンポイント・サポートはフィーリングとしてもう一つ不満だが、音質のよいものだ。そして、肝心のベースが力作である。コンクリートとウッドの二重構造で、フィニッシュが黒の艶出し。ピアノと同じ鏡面仕上げである。これは、プレイヤー・システムのもつべき条件を、物理的に、共振と制動の両面から追求し、感覚的には、ディスクの質感とぴったりくるピアノ塗装でまとめたという熱意の溢れた製品だと思う。きわめて品位の高い風格と音質を持っている。インシュレーターのバネ定数と総重量とのバランス、その制動をもう一つ自動車工学からでも学んでくれたら、完壁な線までいっただろうに。ハウリングにはもう一息の努力が欲しかった。

パイオニア C-21, M-22

菅野沖彦

スイングジャーナル 9月号(1976年8月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 パイオニアというメーカーは企画のうまさでは抜群である。それも、ちゃんと内容のともなった製品を作るし、タイミングも実によい。パイオニアの製品群にはいくつかの本質的相異を見出すことができるようだ。第1はわれわれが大喜びする超マニア・ライクな高級機器である。第2はそのイメージを、たくみに合理化した中級・上級の製品、第3がパイオニアの商品の武器とでもいうべき、オーディオ的スパイスの効いた大衆商品である。この3本の柱を有機的に組み合せ、強固な商品構成を作りあげているのであろう。
 20番シリーズのアンプ類は、そうした分類からすれば、当然第1のグループに属するものだ。それにしては、C21プリアンプが60、000円、M22パワーアンプが120、000円という価格はそう高くないと思われるかもしれないが、30W+30Wのプリメイン・アンプで、しかも、バス、トレブルの音質調整回路つまりトーン・コントロール機能がなしで、180、000円というのは決して安いものではないことに気がつくであろう。プリメインアンプが1W当り1、000円とかいう、おかしな相場からすれば、これはその6倍強の値段である。いうまでもなく、これは、現在のエレクトロニクス技術とオーディオロジーを結びつけた音質の品位の高さを得るために必然的に出た値段である。〝本当の商人は無駄な銭をとらない〟といわれるがまさにその通りであって、むしろ、あまり安いものはうたがったほうがよさそうだ。もっとも、オーディオのように、見ることも触れることも出来ない音を目的とした商品は、買手が要求しないようなところにコストをかけても無意味であるから、いわゆる大衆商品というものは形だけ整えて、見えない音のほうはそこそこにして成り立ち、いうなれば客が馬鹿にされているわけだが、客がそれでよければ何をかいわんやなのである。その道に、客の要求が高ければ高いほど、目に見えないところにコストと時間をかけて、いいクォリティーの音を追求しなければならず、これが、オーディオ製品の一見同じように見えていながら、大きな価格の差をもった製品が出てくる所以であろう。
 C21、M22はまさにクォリティー製品であって、その性能は、同社の最高価格のC3、M4のコンビに劣らないほどなのである。いや、ある面ではむしろ優れているとさえいえる部分もある。トーン・コントロール回路をもたないC21は、信号系路を徹底的にシンプルにしてSNや歪の劣化を嫌う思想から作られただけあって、きわめてピュアーな音が得られる。選ばれたパーツも高級品であるし、よく音質検討がなされていて、洗練された最新の回路構成でまとめられている。機能的には先に述べたように、まったくシンプルなものだが、これは、コンパクトなシステムとして、マルチプルにシリーズ化する意図を持った製品群の中で占めるプリアンプという明確な姿勢を持っているのである。M22パワーアンプは、M4で実証したA級動作のノッチング歪のない音質の透明度と滑らかさを受け継ぐもので、音の柔軟性はきわめて高く、スムースこの上ない。ただ30Wというパワーはいかにも小さく、よほど高能率のスピーカーでもない限り、これでジャズをガンガン鳴らすというわけにはいかぬ。試聴にもいくつかのスピーカーをつないでみたが、アルテックのA7クラスだと、まず十分なラウドネスを得ることができるし、Dレンジもまずまずだが、ほとんどのブックシェルフ・スピーカーでは、フォルテを犠牲にしなければならなかった。つまり、このパワーアンプの本当の使われ方は、小音量で、最高の質の音でイメージの再生を目的とするクラシック・ファン向きか、あるいは、マルチ・アンプ構成としてその中域か高域に使うことだ。エネルギー的に大きな中低域両域は、現在の水準からして最低100Wを必要とする、というのが私の持論であって理想としては、低域を同社のM3、中域をM4、高域をこのM22というラインアップを組むことである。パイオニアもこれを考えてか、ちゃんと、この20番シリーズでは、クロスオーバー・ネットワークD23を同時に用意して発売しているのである。この本質をわきまえて、この一連のハイ・クォリティー・アンプを活しきったら素晴しい装置が構成し得るであろう。

ダイヤトーン DA-P10 + DA-A15

菅野沖彦

スイングジャーナル 6月号(1976年5月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ダイヤトーンのアンプにかける惰熱がありありとわかる新製品が登場した。今月発売された一連のセパレート・アンプ・シリーズである。プリアンプ2機種とパワー・アンプ3機種が同時に発表されたが、いずれもひとつの明確な思想のもとに開発されたオリジナリティーをもったアンプである。中でも高級機が、今月の選定新製品になったDA−P10プリアンプと、DA−A15パワー・アンプである。このシリーズのアンプでまず目をひくのは、プリ・アンプとパワー・アンプを1台のインテグラル・アンプとしてカップリングできる構造をとったアイデアである。これは今迄、ちょっと考えつかなかった発想ではなかろうか。セパレート・アンプとしての純粋な形からすれば、わざわざカップリングさせるとは余計な考え過ぎという見方もできなくはないが、スペースに制限がある場合、こういう使い方ができるようになっていることはありがたい。しかも、そのドッキング機構もシンプルで確実だし、デザイン的にも、いかにもたくましいインテグラル・アンプの魅力たっぷりな姿が実現する。シャーシ・パネル構造は大変がっちりした頼もしいもので信頼感に、溢れている。
外観が先になってしまったが、肝腎の中身のほうも、セパレート・アンプとしての必然性を十分保証する密度の高いもので、DA−P10もDA−A15も、完全なモノーラル・コンストラクションを採用した本格的な高級アンプなのだ。このコンストラクションにより、従来見逃されていたクロストークの害からほとんど理想的に逃れることを可能にしているのである。両チャンネル間のダイナミックな動作状態においては、クロストークは、単にセバレーション、音像定位などに悪影響を与えるのみならず、歪による音質劣化という現象としての害をダイヤトーンは徹底的に追求したというが、たしかに、このような完全モーラル・コンストラクションによるアンプの音と従来のステレオ・コンストラクション(ただ電源が2台あるだけでは不十分の場合もあり、電源が1つでも急所を抑え余裕のあるものの場合は意外に好結果が得られる)と聴き比べて、臨場感や音像の安定感の差は瀝然なのである。筆者は、2台のステレオ・アンプを使って、この差を確認しているが、それは全体的な音質の差という聴感的な認識をもたらすほどだった。その昔、マランツがモノーラル・アンプを2台カップリングしたアンプを発売していたが、その頃、ステレオといえども、この方式に大きなメリットのあることを某社のエンジニアに話しをしたが全くとり合ってもらえなかったことを思い起こすにつけ、アンプも進歩したものだ? という妙な感慨をもったものだ。薄紙をはぐように、紙一重の音質の向上に、大切なお金と貴重な時間をさいている我々アマチュア精神の持ち主が考えることなど、いちいち聞いてもらえないのも当然だと思っていたものなのだが、最近のようにメーカーが本格的に、こうした地道な基本に目を向け、その成果を定量的なデーターとしても明らかにしてくれることは喜びにたえないのである。
 ところで、このアンプ、いくらモノーラル・コンストラクションがいいといっても、それが全てでは勿論ないし先にも書いたように、ステレオ・コンストラクションでもいいアンプはたくさんあるのだが、音質のほうも、なかなかすばらしい。特にDA−A15パワー・アンプが素晴らしい。差動2段、カレントミー・ドライブ、3段ダーリントンによるピュア・コンプリメンタリー・サーキットは余裕のある安定した電源から150W×2(8Ω)の出力を引き出す。音に深味があって、しかも解像力のよい鋭い切れ込みをきかせる。高域も決してやせないし肉がつく。これに対してDA−P10のプリ・アンプのほうが、やや声域がハーシュに響く。ダイヤトーン独特の高域の華やぎといえるが、筆者にはこれが気になる。高域はもっとしっとり、繊細さと鋭さが豊かさと肉付きを犠牲にしてはならないと思うのだ。これで、そういうニュアンスが再生されたら、倍の値段でも高いとは思えない定価がさらにこの商品の可能性と魅力を高めているのである。
 情熱に裏付けられた、よほどの販売自信がなければ、この品物をこの値段で売ることはできないのではないかと思うほどの価値をもったアンプだ。

サンスイ AU-7700

菅野沖彦

スイングジャーナル 6月号(1976年5月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 サンスイから新たに発売されたプリ・メイン・アンプAU7700は、一聴して歪のない快よい音が印象的であった。どこかうつろといってもよいような、それは、空胴感をもっているのである。私には、よくも、あしくも、これがこのアンプの音の特長に感じられる。だいたい、従来から、メカやエレクトロニクスのプロセスを通った録音再生音は、あまりにも音の存在感があり過ぎたように私には感じられてならない。色でいえば、不透明な顔料とでもいえるのだろう。一種特有の壁のように私の前に立ちふさがるのである。音には、それが自然音の場合、どんなに衝撃的な迫力のある音であっても空中を浮遊する美しい透明感と、突きあたりのない奥行、つまり立体感に満ちている。このアンプが私に与えた空胴感というのは、いわば、一種、この感覚に近いものであって、これは歪の多いアンプには絶対にないものだと思う。しかしである。自然音の魅力は、そうした透明感、空胴感は、確個とした実体感とバランスを保ったものであって、決して最近の低歪率音響機器と称せられる製品の多くが持っている弱々しい虚弱さとは異るのである。こう書いてくると、いかにも生の音とそっくりの再生音……つまり一頃よく云われた原音再生こそ理想だといっているようにとられる危険性を感じるが、私のいわんとしているのは、それが生であろうと、再生音であろうと、美しい音ならばいいわけで、現状では、自然音のもつ美しさに匹敵する再生音がまだ得られていないというだけのことである。透明感が得られたと思うと力がなくなり、力があると思うと歪感があるといった具合で、なかなか思うようにはいかないのである。このサンスイのAU7700というアンプも、どちらかというと、少々力が足りない。やや歪の多いスピーカーを鳴らしたほうがガッツのある音がする。スピーカーは未だ歪だらけだから、それを鳴らすアンプとしては今の所、解析されている歪は出来るだけ減らしていったほうがいいのである。しかし、問題は歪感のある音……つまり、元々、とげとげしい音、荒々しい音まで、ふんわりと鳴らしてしまうことである。残念ながら、現在の音響機器から、理解されている歪をどんどん減らそうと局部的に改善を重ねていくと、どういうわけか、そんな傾向へいってしまうようなのだ。その証拠に、現在、測定データで歪のもっとも少ないとされるスピーカーは、まるで無菌状態のように、ふぬけの音がするのである。改善が局部的というか片手落ちというか、トータルでのバランスをくずす結果の現象と推察する以外にない。
 このアンプは従来のサンスイのアンプのもっていた馬力というものより、むしろ、よく抜けたすっきりとした音というイメージが濃いが、この辺にサンスイのアンプの進歩を明らかに見出すと同時に、一抹の不安を感じさせられるのである。その不安は、このアンプそのものにあるのではなく、そういう傾向に進んだとしたら……ということだ。サンスイは音の専門メーカーとして、聴感上のコントロールを重視しているので、その心配はないかもしれないが……。音に関する限り、それが研究所内での実験ならいざしらず、テクノロジーだけに片寄っていくとそうした危険を伴う。そういった現状での電気音響技術の不完全性が商品に現われてしまうという事実を認めざるを得ない。現時点での最高のテクノロジーといえども、目的である音(感覚対象としての)を100%コントロールすることは出来ないのである。AU7700は、この点、両者がよくバランスしたアンプであって、商品としての実用性が高い。20Hz〜20kHzの帯域で両チャンネル駆動で50W+50Wの出力が保証され、高周波歪、混変調歪率0・1%以下に収められているが、合理的な設計が随所に見られる最新鋭器である。惜しむらくはデザインで、内容を充分に象徴するところまでには至っていない。リアの入出力ターミナルのパネルがリ・デザインされ便利になっているし、努力の跡は大いに認められるのだが、未消化な面取や無理なスタイリングが高級品に必要なシンプリシティを害している。電源の安定化(±2電源)、配線を極力排した基盤と直結のコネクター類、一点アースなどオーソドックスな技術面での追求によって得られた音質は、このアピアランスを上廻っているのである。初めに書いたように、力強さから、品位の高い透明感に近づいたサンスイの新しいサウンドは、音の美しさを一歩高い次元で把えるマニアに喜ばれるものだろう。

トリオ KA-9300

菅野沖彦

スイングジャーナル 4月号(1976年3月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 トリオが昨年一年間にアンプに示した積極的な姿勢は目を見張らせるものであった。その初期に展開したCP戦略は、必らずしも私の好むところではなかったが、見方を変えれば、トリオの生産力の現われとして評価することもできるだろう。KA3300を皮切りに1W当り1000円という歌い文句は少々悪乗りが過ぎたし、オーディオ専門メーカーとしての真摯な態度とは私にはどうしても考えられなかったけれど、その後、KA7300、そして今日のこのKA9300に至って、矢張り本来のトリオであったことを実感させられて嬉しくなった。近視眼的に見れば安い製品の出現や、安売り販売店の横行は、ユーザ一に利をもたらすかのごとく見えるものだが、度を超すと、それが、いかに危険な悪循環の遭をたどるかが明確やある。オーディオを愛す専門のメーカーとして、ここまで、共にオーディオ界の発展向上に尽してきたメーカーならば、こんな事は百も承知のはずで、昨日今日、その場限りの儲け主義で、この世界に入りこんできた連中の無責任さと同じであっては困るのである。まあ、過ぎた小言はこのぐらいにしてKA9300について話しを進めよう。トリオが、アンプの特性と音質の関係について、恐らく業界でも一、二を競う熱心な実験開発の姿勢をとってきていることは読者もご存じかもしれない。いささかの微細なファクターも、音に影響を与えるという謙虚な態度で、回路、部品、構成の全てに細心の注意を払って製造にあたっていろ。その姿勢の反影が、このKA9300に極めて明確に現われているといってよいだろう。前作KA7300という65W十65Wのインテグレイテッド・アンプが左右独立のセパレート電源を採用して成果を上げ、本誌でも、その優秀性について御紹介した記憶があるが、KA9300も、この電源の基本的に優れた点を踏襲し、アンプの土台をがっしりと押えている。この左右独立方式は、パワー・アンプのみならず、プリ部にも採用されて、電源のスタビリティーの高さを図っているものだ。二個のトロイダル・トランスの効率の高さは熱上昇の点でも、インテグレイテッド・アンプには有利だし、それに18000μFの電解コンデンサーを4個使って万全の構えを見せてくれている。この電源への対策は、アンプの音の本質的なクォリティの改善に大きく役立つもので、建前でいえば、基礎工事にあたる重要なものだから、こうした姿勢からも、トリオがアンプに真面目な態度で臨んでいることがわかるだろう。出力は、120W+120Wと大きいが、このアンプの回路は、大変こったものであることも御報告しておかねばなるまい。それは、パワー・アンプにDCアンプ方式を採用していることである。DCアンプは今話題の技術であるが、これが、音質上いかなるメリットを持つものであるかは、まだ私の貧しい体験からは断言できない。しかし、世の常のように、ただDC動作をさせているから音がよいという短絡した単純な考え方はしないほうがよいだろう。DCアンプともいえども、それだけで、直に音質の改善につながると思い込むことは早計であり過ぎるのではないか。アンプの音は、部品の物性、配置、構成などのトータルで決るものだからである。しかし、ごく控え目にいって、このアンプのもつ音は素晴らしく、きわめて力強い、立体的な音が楽しめる。音の質が肉質なのだ。つまり有機的であって、音楽に脈打つ生命感、血のさわぎをよく伝えてくれるのである。DCアンプで心配される保護回路については、メーカーは特に気を配り、ユーザーにスピーカー破損などの迷惑は絶対にかけないという自信のほど示してくれているので信頼しておこう。低い歪率(0・005%定格出力時8?)、広いパワー・バンド・ウィガス、余裕ある出力と、よい音でスピーカーを鳴らす物理特性を備えていることも、マニア気質を満足させてくれるであろう。ベースの張り、輝やかしいシンバルのパルスの生命感、近頃聴いたアンプの中でも出色の存在であったことを御報告しておこう。そして特に、中音域の立体感と充実が、私好みのアンプであったことも……。

アルテック X7 Belair

菅野沖彦

スイングジャーナル 7月号(1975年6月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 アルテックのスピーカーは常に強い魅力を聴く人に感じさせる。その音は決して優等生的な欠点のないものとはいえない。むしろ、立場を変えれば欠点だらけといってもよいものが多い。例えば、あの有名な〝ボイス・オブ・シアター〟A7システムがそうだ。ご承知のようにA7は大きな劇場用のシステムであって、アルテックはその持てる技術と歴史のほとんどをこの系統のシステムに注入してきた。つまり大ホールにおけるハイ・エフィシェンシーなエネルギーの伝送を、いかに人の感覚に快よい、音楽的効果と結びつけるかという方向である。そのために強力なコンプレッション・ドライバーと有効なホーン、それに見合ったウーハーの2ウェイを主軸とし、少々の低域特性の不満や、高域の減衰(10kHz以上の高域は大きなホーンでは余程のエネルギーでない限り空間で減衰するし、10kHz以上のエネルギーを放射すると往々にして歪の放射につながり、種々様々なプログラム・ソースを再生しなければならない劇場用としては、アラが目立つチャンスのほうが大きい)を承知の上で、主要なファクターに的をしぼるという達観を数10年前から持っていた。しかし、これが、モノのわかる人には家庭用としても音楽の有効成分の伝達──つまり、余計をものを切りすてて重要な音楽的情報を伝えるという大人の感覚に連り、A7を家庭用としても持ち込むという傾向を生み出したといえる。もちろん、プログラム・ソースの質的向上に伴って、A7シリーズのドライバーも高域低域のレンジ拡大がおこなわれ、現在の8シリーズの最新型ドライバー・ユニットはかなりレンジが拡がったが、2ウェイというシステムのままのレンジ拡大という基本思想は変っていない。ところで、そうしたアルテックも最近の家庭用ハイ・ファイ・システムの需要の大きさを無視しているわけにはいかなくなった。特に宿敵JBLが、この分野における活発な成果を上げ、それをプロ用にも生かしてくるようになっては、本家としてだまっていられなくなったのも無理からぬ話である。最近のアルテックはそうした、いわゆるハイ・ファイの分野にも意欲を持ち始め、2ウェイはもちろん、3ウェイのブックシェルフ・システムの開発にも積極的になってきたのである。近々、アナハイムから発売されるであろう一連のブックシェルフ・システムがそれだが、この〝ベルエア〟システムは、その動きを敏感に把えてエレクトリが完成した家庭用ハイ・ファイ・システムである。機会があってアルテック本社で一連の新製品と本機の比較試聴を行なったが、決してそれらにひけをとらないまとまりをもったシステムであった。使用ユニットはアルテックの新しい製品で、ウーハーが30cmの411−8A、トゥイーターが427−8A、それをN1501−8Aネットワークで1・5kHzでクロスさせた2ウェイ・システムだ。エンクロージャーは、ダンプド・バスレフである。エレクトリは既にベスト・セラー〝デイグ〟を世に送り出しているがその経験を生かしてつくられたこの〝ベルエア〟はアルテックのサウンドの魅力をよく生かし、しかも全体のバランスを周到に練った成果が聞かれるのである。明るく屈託のない音。がっしりとした音像再現による明解なディフィニジョンはまさにアルテック・サウンドそのものである。印刷の世界でよく使われる言葉に発色という言葉があるが、アルテックのスピーカーは、それになぞらえれば〝発音〟の鮮やかなサウンドであって、全ての音が大らかに発音されるのである。この〝ベルエア〟は価格的にも7万円台ということだが、ユニットやネットワークの本格派として、これは安い。先に書Vいたようにスピーカーは土台、目的をしぼってまとめられなければならないという現実の制約があるものだが、このシステムの目的はハイ・ファイ用としてレンジを拡大しながらも、決してひ弱繊細で神経質な音になることを避け、たくましくジャズを鳴らしてくれるところにあるとみる。それだけに、たしかな響き、心のひだのすみずみを微妙なニュアンスでデリケートに鳴らしてくれるというシステムではない。同価格クラスの他製品と比較して立派に存在価値を主張できるシステムというのがこの製品を試聴して持った印象であった。