Monthly Archives: 3月 1979

「私のタンノイ観」

井上卓也

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「私のタンノイ観」より

 スピーカーシステムは、アンブなどのエレクトロニクスを応用したコンポーネントに比べると、トランスデューサーとして動作をするための、それぞれ独特のメカニズムをもち、固有のキャラクターが音に強く出やすく、定評が高いメーカーの製品は、おしなべて伝説的な神話が語りつかれているが、そのなかで、もっとも、オーディオ的な神話やミステリアスな事実が多く語られるのは、タンノイをおいて他にはないといってもよいだろう。
 その前身は、畜電池メーカーであったらしく、タンタルアロイを短縮してタンノイの名称をつけたといわれるこのメーカーは、英国のスピーカーメーカーとしては、ヴァイタボックス社と双璧をなす存在であり、しかも、デュアル・コンセントリック方式というユニークな構造をもつ同軸型2ウェイユニットのバリエーションを基本として永くスピーカーシステムを作りあげてきた点に特長がある。
 過去から現在にいたるタンノイを象徴するデュアル・コンセントリックユニットは、同じ構造をもつ3種類の製品中で、38cm口径のユニットであろう。かつての、ボイスコイルインピーダンスが15Ωであった時代の38cm口径、モニター15は、高域ユニットのレベルコントロールは固定型であったが、このユニットを使って、現在でもエンクロージュアを国産化して残っている大型のコーナー型バックローディングホーンエンクロージュアや、同様なタイプのG.R.F.がつくられ、ヨーロッバを代表するフロアー型システムとして、高級なファンに愛用された。とくに、モニター15の初期のモデルは、ウーファーコーンの中央のダストキャップが麻をメッシュ織りとしたような材料でつくられており、ダーク・グレイのフレーム、同じくダーク・ローズに塗装された磁気回路のカバーと絶妙なバランスを示し、いかにも格調が高い、いぶし銀のような音が出そうな雰囲気をもち、多くのファンに嘆息をつかせたものである。
 ソリッドステートアンブの世代となるとモニター15は、改良が加えられて、モニター・ゴールドに発展する。まず、ボイスコイルインピーダンスが8Ωとなり、ネットワークに高域のレベルコントロールと、当時としては大変にユニークなハイエンドのレスポンスをコントロールするスナッブ型のロール・
オフコントロールが加わり、ウーファーのf0も、約10Hzほど低くなって、一段とバーサタイルな使いやすいユニットに変わった。
 この当時から、海外製が価格的にも比較的に求めやすい状態となっていたために、レクタンギュラー型のヨークや、コーナー型のヨークといったバスレフ型エンクロージュア採用のモデルを中心として急激に数多くのファンに愛用されるようになった。もちろん、トップモデルのオートグラフは、依然として夢のスピーカーシステムであったが……。
 巷にタンノイの音としてイメージアップされた独特のサウンドは、やはり、デュアル・コンセントリック方式というユニット構造から由来しているのだろう。高域のドライバーユニットの磁気回路は、ウーファーの磁気回路の背面を利用して共用し、いわゆるイコライザー部分は、JBLやアルテックが同心円状の構造を採用していることに比べ、多孔型ともいえる、数多くの穴を集合させた構造とし、ウーファーコーンの形状が朝顔状のエクスポネンシャルで高域ホーンとしても動作する設計である。
 したがって、38cm型ユニットでは、クロスオーバー周波数をホーンが長いために1kHzと異例に低くとれる長所があるが、反面においては、独特なウーファーコーンの形状からくる強度の不足から強力な磁気回路をもつ割合いに、低域が柔らかく分解能が不足しがちで、いわゆるブーミーな低域になりやすいといった短所をもつことになるわけだ。
 しかし、聴感上での周波数帯域的なバランスは、豊かだが軟調の低域と、多孔型イコライザーとダイアフラムの組み合わせからくる独特な硬質の中高域が巧みにバランスして、他のシステムでは得られないアコースティックな大型蓄音器の音をイメージアップさせるディスクならではの魅力の弦楽器の音を聴かせることになる。それか、あらぬか、タンノイファンには、アコースティック蓄音器時代から長くディスクを聴き込んだ人が多く、オーディオコンポーネントとしてのラインナップは、カートリッジにオルトフォン、SPUシリーズ、アンプは、マッキントッシュの管球式コントロールアンプC−22とパワーアンプMC−275が、いわば黄金のトリオであり、ソリッドステートアンプでも、C−26とMC−2105の組み合わせが多く使用されていた。
 モニター・、ゴールドの時代がしばらく続いた後に、不幸にして、タンノイのコーンアッセンブリー製造セクションが火災にあい焼失するというアクシデントが起き、ブックシェルフ型の全盛時代でもあってその再起が危ぶまれたが、この逆境を乗切るかのようにつくられたものが、ハイ・パフォーマンス・デュアルの頭文字を付けた新モデルのシリーズで、この時点からユニット口径をあらわす単位がインチからセンチメートルに変わり、38cm口径ユニットは、385HPDと呼ばれるようになったが、これが現在のHPD385Aの前身である。
 新しいHPDシリーズは、ウーファーのコーン紙のカーブが変更され、f0が現代型のユニットの動向にマッチさせるために15〜20Hz低くなり、ボイスコイル構造が巻幅がヨーク厚より広いロングトラベル型に変わった。また、ウーファーコーン紙の裏側には、コーンの剛性を高めるために補強用のリブが取付けられたことも、このユニットの特長であろう。
 このHPDのシリーズになってからは、タンノイのスピーカーシステムは、大幅に再編成され、長期間トップモデルの座にあったオートグラフと、そのジュニアモデルG.R.F.が姿を消し、アーデンを筆頭とし、バークレイからイートンにいたるモデルナンバーの頭文字がアルファベット順になった5モデルでシリーズを形成するようになった。しかし、昔日のトップモデルであったオートグラフとG.R.F.を要求するファンの声が高まり、輸入代理店が現在のTEACに移換されてから、タンノイの了承を得て、このオートグラフとG.R.F.は、レプリカとして復沽することになる。
 タンノイの歴史として想い出される他のシステムでは、タンノイがユニットを供給して、エンクロージュアのみを自社製とする英ロックウッドのプロ用モニタースピーカーシステムのシリーズのソリッドに引締まった低域に特長がある一連の製品や、アメリカ・タンノイがエンクロージュアをつくった数多
くのアメリカ・タンノイのシステムがある。一時期輸人されたアメリカ・タンノイのモニター・ゴールド12を収めたブックシェルフ型マローカンの独特の英米混血の魅力ともいえるサウンドや米西岸で聴いたアメリカ・タンノイのベルベデールのJBLサウンドとも感じられるカラッと乾いた、シャープでエネルギッシュな音などが思い出される。
 このアメリカ・タンノイのかつてのカタログに、写真なしにのっていたコーネッタの名称からきたイメージが発端となり、製作したものが、ステレオサウンド本誌、マイ・ハンディクラフト欄に3回にわたり連載した幻のコーネッタのレプリカである。ちなみに、コーネッタのレプリカが完成した頃に、アメリカ・タンノイのコーネッタの写真を人手したわけだが、これが、あるか、あらぬか、ただのブックシェルフ型システムであったというのが、この幻のコーネッタ物語の終止符である。
 つねづね、何らかのかたちで、タンノイのユニットやシステムと私は、かかわりあいをもってはいるのだが、不思議なことにメインスピーカーの座にタンノイを置いたことはない。タンノイのアコースティック蓄音器を想わせる音は幼い頃の郷愁をくすぐり、しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかいに魅せられはするのだが、もう少し枯れた年代になってからの楽しみに残して置きたい心情である。暫くの間、貸出し中のコーナー・ヨークや、仕事部犀でコードもつないでないIIILZのオリジナルシステムも、いずれは、その本来の音を聴かしてくれるだろうと考えるこの頃である。

「私のタンノイ観」

菅野沖彦

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「私のタンノイ観」より

「タンノイ」という名まえは、オーディオに関心がある方で知らない人はいないだろう。特に、日本では、タンノイ・ファンは昔からたいへんに多く、英国の伝統あるスピーカーメーカーにふさわしいイメージが定着している。
 私なども、タンノイのスピーカーは聴く前から名器で必ず、いい音がするはずだという気持をもっていた。
     ※
 タンノイという会社は、非常にはっきりしたコンセプトを持っている。終始一貫、デュアル・コンセントリックと称する同軸型ユニットを使い、ユニットの種類はごく少数、そしてエンクロージュアにはさまざまなバラエティーをもたせて、システムとして完成させるという考え方だ。
 ユニットというのは、ボイスコイルとコーンと、磁気回路からなるハードウェアだが、エンクロージュアというのはスピーカーの世界の中でも独特な神秘性を持っていて、ソフトウェア的な要素が強い。たしかに、エンクロージュアは音響理論的には明確な設計方式の存在するものではあるが、それを現実化する製造段階や調整には、かなり神秘性がひそんでいる。その辺が電気理論とはまったく違うところでそういうバックグラウンドから生れるエンクロージュアが音と結びついて、スピーカーの魅力をつくりだしている要素が強い。そこで、シンプルなユニットを使って、いろいろなエンクロージュアでシステムをまとめていくというタンノイの体質や行き方が、いかにもスピーカーメーカーらしい、音の探求者らしい行き方として受け取られたことは事実だろう。
 また、創始者ガイ・R・ファウンテンの名前を表に打ち出して、〝オートグラフ〟であるとか、〝G・R・F〟といったネイミングを持つシステムを発表してきたことにも、スピーカーの持つ神秘性と共に、その陰にある、人間の能力と精神を感じさせ、ここにもタンノイらしい行き方を強く感じる事が出来た。このような同社の方針が、総合的にタンノイに対する一つのレピュテーションを作り上げてきたのではないだろうか。
     ※
 音というものは必ずしも、人間の聴覚だけに訴えるのではなく、視覚的な面の影響も少くない。これを先入観というと悪く聞こえるかもしれないが、見た目の美しさや風格を含めた総合的な観念でトータルな音の印象が聴き手の中に生れるものだ。例えば、どんなにすばらしい音響効果のホールでも、ドタ靴を履いて菜っ葉服を着た人達の集りのオーケストラだったら、たとえ演奏が良くてもあまり気分のいいものではないだろう。また、食べ物でもそうだ。どんなに美味な刺身でも、発泡スチロールのペラペラの皿の上に盛って出されたらどうだろう。それと同じで、オーディオというものもトータル・レセプションだからこそ、最初からそういう受け取り方をしなくては、楽しさ、おもしろさはずいぶん少なくなってしまうと思うのだ。それだからといって、ハードウェアとしての理論をないがしろにしたり、エンジニアリングを無視してもいいということではない。そういうものは、あくまでも肝心の芯として重要なのだが、それだけですまされたり、それで十分という粗雑な感性の人達が音を本当にエンジョイするとは思えないのである。また、音楽を聴く道具がそんなに寒々しいものばかりでは人間が一生、命をかけての趣味としても淋しい限りである。
 そういう意味でトータルなオーディオというのは、人間の総合的な感覚と知性の対象として価値高きものでなければならないだろう。したがって、タンノイのように一つの信念を持った人間が本当に自分たちの信じるものを理想的なかたちにまとめあげて、少量であっても丹念につくって売っていくという姿勢のメーカーの製品が、名器として受け取られた事は当然だと思う。
    ※
 歴代のタンノイ製品というものは、アピアランスもたいへんクラシックでレコードを聴くムードにぴったりのものだ。また、スピーカーの出来具合や、ハードウェアとしての側面からつっこんでも、当時の技術水準で考えれば、これだけの同軸型ユニットというものは他に得難い高水準のものだったわけである。このようにタンノイの製品というものは、技術レベルで見ても最高級であり、スピーカーシステムとしての一つのまとまったトータルな作品としての完成度も、たいへんに品位の高いものであった。
 もともと英国は音楽のマーケット、〝リスナーズ・マーケット〟として世界の中心地だった。英国は音楽を鑑賞する国というイメージがたいへん強く、クラシック音楽の歴史を知る人にとっては、作曲家は不毛であっても、多くの作曲家や演奏家のデビューの地としての英国のイメージは強い。そういう歴史的性格をもつ国であるだけに、昔から音楽再生、すなわちレコード音楽もたいへん盛んであった。レコード・レーベルの名門も英国にはたいへん多い。そういう事情からも、レコード音楽とオーディオ機器という点でも、他のヨーロッパ諸国と比べても少し違う、一際、レコード好き、オーディオ好きといういわば、エンスージアスティックなイメージをつくってきたと思う。そういう英国に生れた最高級スピーカー、タンノイが日本で絶大な信頼ばかりでなく、むしろ神格化された存在にまでなっていったことは理解できるような気がするのである。
 これは推察だが、エンジニアとしてガイ・R・ファウンテンがスピーカーを開発した当時、実際にスピーカーから聴くことができたのは、ほとんどがレコードの音だったのではないだろうか。また、音楽好きのエンジニアの彼自身は生の演奏会と共にアコースティックのころからレコードを聴いて育ってきたのに違いない。
 英国には、たくさんの素晴らしい生の音楽に接する機会があるから、生の音楽とアコースティックのレコードのサウンドとの間に、レコード好きの彼の、頭の中には相互的にバランスをとる回路が出来上りその耳で自分の作るスピーカーを聴いて、自然な音感覚にまとめるという経過をたどってできあがったタンノイのスピーカーだから、昔からレコードを聴き続けてきているレコードファンの耳になじみのいい質感を持って響いたとも考えられるだろう。
 これはタンノイ社自身、今も盛んに言っていることなのだが、コンサートのような音を家庭で響かせようということだ。しかし、これは原音再生という意味とは少し違う。あくまで、コンサートを聴いているというイメージに近い響きだと思う。レコードの世界に変換した原音なのである。そういうまとめ方の音は、レコード音楽愛好家が好みそうな音であるし、実際われわれがいま聴くと、悪くいえば古くさいなという感じもあるが、しかし、懐かしい、郷愁を感じるような、あるいは居心地のいい響きを持っている。
 タンノイは確かに、一種独特のキャラクターを持っているのだが、それはレコード音楽の歴史とともに歩み続けてきたキャラクターであり、昨日、今日、突如として生まれた妙に無機的なキャラクターとか、何か頼りない、風が吹き抜けるようなキャラクターではない。それは機械的ななかにもどこかなじみのいいキャラクターといえるものを持っている。それは純粋に変換器としての物理特性を表に出してくるものではなく、いかにもラウド・スピーカーという語感にふさわしい実在感のある音を出してくる。
 しかし、タンノイのような行き方が通用する時代と通用しない時代という、時代の流れがタンノイにも大きな影響を及ぼしていることは事実である。一方では自分たちの信じる理想的なものを、少数ではあるが丹念につくり上げていくという基本精神は、現在のタンノイにも脈々と流れているはずだが、時代の要求に応じる量産的体質に転換しつつあるのを見る事は、我々、古きタンノイを知る人間にとっては一抹の淋しさを禁じ得ない。現代のジョンブルが、いかなる方向を模索して活路を見出すか、これからのタンノイに姿を見守ろう。

「私とタンノイ」

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「タンノイ論 私とタンノイ」より

 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。
     *
 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
 おまえにとってのタンノイを書け、と言われて、右のようなことをまず思い浮かべた。私自身、いくつものタンノイを聴いてきた。デュアル・コンセントリック・ユニットやレクタンギュラーG・R・Fに身銭を切りもした。だが、ほんとうにタンノイの音を知っているのだろうか――。ふりかえってみると、さまざまなタンノイの音が思い起こされてくる。

タンノイ初体験
 はじめてタンノイの音に感激したときのことはよく憶えている。それは、五味康祐氏の「西方の音」の中にもたびたび出てくる(だから私も五味氏にならって頭文字で書くが)S氏のお宅で聴かせて頂いたタンノイだ。
 昭和28年か29年か、季節の記憶もないが、当時の私は夜間高校に通いながら、昼間は、雑誌「ラジオ技術」の編集の仕事をしていた。垢で光った学生服を着ていたか、それとも、一着しかなかったボロのジャンパーを着て行ったのか、いずれにしても、二人の先輩のお供をする形でついて行ったのだか、S氏はとても怖い方だと聞かされていて、リスニングルームに通されても私は隅の方で小さくなっていた。ビールのつまみに厚く切ったチーズが出たのをはっきり憶えているのは、そんなものが当時の私には珍しく、しかもひと口齧ったその味が、まるで天国の食べもののように美味で、いちどに食べてしまうのがもったいなくて、少しずつ少しずつ、半分も口にしないうちに、女中さんがさっと下げてしまったので、しまった! と腹の中でひどく口惜しんだが後の祭り。だがそれほどの美味を、一瞬に忘れさせたほど、鳴りはじめたタンノイは私を驚嘆させるに十分だった。
 そのときのS氏のタンノイは、コーナー型の相当に大きなフロントロードホーン・バッフルで、さらに低音を補うためにワーフェデイルの15インチ・ウーファーがパラレルに収められていた。そのどっしりと重厚な響きは、私がそれまで一度も耳にしたことのない渋い美しさだった。雑誌の編集という仕事の性質上、一般の愛好家よりもはるかに多く、有名、無名の人たちの装置を聴く機会はあった。それでなくとも、若さゆえの世間知らずともちまえの厚かましさで、少しでも音のよい装置があると聞けば、押しかけて行って聴かせて頂く毎日だったから、それまでにも相当数の再生装置の音は耳にしていた筈だが、S氏邸のタンノイの音は、それらの体験とは全く隔絶した本ものの音がした。それまで聴いた装置のすべては、高音がいかにもはっきりと耳につく反面、低音の支えがまるで無に等しい。S家のタンノイでそのことを教えられた。一聴すると、まるで高音が出ていないかのようにやわらかい。だがそれは、十分に厚みと力のある、だが決してその持てる力をあからさまに誇示しない渋い、だが堂々とした響きの中に、高音はしっかりと包まれて、高音自体がむき出しにシャリシャリ鳴るようなことが全くない。いわゆるピラミッド型の音のバランス、というのは誰が言い出したのか、うまい形容だと思うが、ほんとうにそれは美しく堂々とした、そしてわずかにほの暗い、つまり陽をまともに受けてギラギラと輝くのではなく、夕闇の迫る空にどっしりとシルエットで浮かび上がって見る者を圧倒するピラミッドだった。部屋の明りがとても暗かったことや、鳴っていたレコードがシベリウスのシンフォニイ(第二番)であったことも、そういう印象をいっそう強めているのかもしれない。
 こうして私は、ほとんど生まれて初めて聴いたといえる本もののレコード音楽の凄さにすっかり打ちのめされて、S氏邸を辞して大泉学園の駅まで、星の光る畑道を歩きながらすっかり考え込んでいた。その私の耳に、前を歩いてゆく二人の先輩の会話がきこえてきた。
「やっぱりタンノイでもコロムビアの高音はキンキンするんだね」
「どうもありゃ、レンジが狭いような気がするな。やっぱり毛唐のスピーカーはダメなんじゃないかな」
 二人の先輩も、タンノイを初めて聴いた筈だ。私の耳にも、シベリウスの最終楽章の金管は、たしかにキンキンと聴こえた。だがそんなことはほんの僅かの庇にすぎないと私には思えた。少なくともその全体の美しさとバランスのよさは、先輩たちにもわかっているだろうに、それを措いて欠点を話題にしながら歩く二人に、私は何となく抵抗をおぼえて、下を向いてふくれっ面をしながら、暗いあぜ道を、できるだけ遅れてついて歩いた。
     *
 古い記憶は、いつしか美化される。S家の音を聴かせて頂いたのは、後にも先にもそれ一度きりだから、かえってその音のイメージが神格化されている――のかもしれない。だが反面、数えきれないほどの音を聴いた中で、いまでもはっきり印象に残っている音というものは、やはり只者ではないと言える。こうして記憶をたどりながら書いているたった今、S家に匹敵する音としてすぐに思い浮かぶ音といったら、画家の岡鹿之介氏の広いアトリエで鳴ったフォーレのレクイエムだけといえる。少しばかり分析的な言い方をするなら、S氏邸の音はタンノイそのものに、そして岡邸の場合は部屋の響きに、それぞれびっくりしたと言えようか。
 そう思い返してみて、たしかに私のレコード体験はタンノイから本当の意味ではじまった、と言えそうだ。とはいうものの、S氏のタンノイの充実した響きの美しさには及ばないにしても、あのピラミッド型のバランスのよい音を、私はどうもまだ物心つく以前に、いつも耳にしていたような気がしてならない。そのことは、S氏邸で音を聴いている最中にも、もやもやとはっきりした形をとらなかったものの何か漠然と心の隅で感じていて、どこか懐かしさの混じった気持にとらわれていたように思う。そしていまとなって考えてみると、やはりあれは、まだ幼い頃、母の実家であった深川・木場のあの大きな陽当りの良い二階の部屋で、叔父たちが鳴らしていた電気蓄音器の音と共通の響きであったように思えてならない。だとすると、結局のところタンノイは、私の記憶の底に眠っていた幼い日の感覚を呼び覚ましたということになるのか。

モニター・レッド
 S氏邸のタンノイからそれほどの感銘を受けたにかかわらず、それから永いあいだ、タンノイは私にとって無縁の存在だった。なにしろ高価だった。「西方の音」によれば当時神田で17万円で売っていたらしいが、給料が8千円、社内原稿の稿料がせいぜい4~5千円。それでも私の若さでは悪いほうではなかったが、その金で母と妹を食べさせなくてはならなかったから、17万円というのは、殆ど別の宇宙の出来事に等しかった。そんなものを、ウインドウで探そうとも思わなかった。グッドマンのAXIOM―80が2万5千円で、それか欲しくてたまらずに、二年間の貯金をしたと憶えている。このグッドマンは、私のオーディオの歴史の中で最も大きな部分なのだが、それは飛ばして私にとってタンノイが身近な存在になったのは、昭和三十年代の終り近くになってからの話だ。その頃は、工業デザインを職として、あるメーカーの嘱託をしていたので、少しは暮しが楽になっていた。デザインが一生の仕事になりそうに思えて、もうこの辺で、アンプの自作から足を洗おうと考えた。部屋は畳のすり切れた古い六畳和室だったが、当分のあいだ装置に手を加える気を起さないためには、ある程度以上のセットが必要だと考え、マランツ・セブンと、QUADのII型(管球式モノーラル・パワーアンプ)を二台という組合せに決めた。プレーヤーはガラードの301にSMEを持っていた。そこでスピーカーだが、これは迷うことなくタンノイのDC15にきめた。その頃、秋葉原で7万5千円になっていた。青みを帯びたメタリックのハンマートーン塗装のフレームに、磁極のカヴァーがワインレッドの同じくメタリック・ハンマートーン塗装。いわゆる「モニター・レッド」の時代であった。ただ、エンクロージュアまではとうてい手が出せない。G・R・Fやオートグラフは、まだほとんど知られていなかった。まして、怪しげなエンクロージュアに収めればせっかくのタンノイがどんなにひどい音で鳴るか、こんにちほど知られていない。グッドマンのAXIOM―80で、エンクロージュアの重要性を思い知らされていた筈なのに、タンノイの場合にそのことにまだ思い至っていなかったという点が、我ながらどうにも妙だが、要するところそこまででもう貯金をはたき尽くしたというのが真相だ。そして、このタンノイが、ごく貧弱ながらもエンクロージュアと名のつくものに収まるのは、もっとずっと後のことになる。

デュアル・コンセントリック・モニター15
 イギリス人は概して節倹の精神に富んでいると云われる。悪くいえばケチ。ツイードの服も靴も、ひどく長持ちするように出来ている。それか機械作りにもあらわれて、彼らは常に、必要最小限のことしかしない。たとえばクォードのアンプ。その設計者ピーター・ウォーカーは言う。「我々にはもっと大がかりなアンプを作る技術は十分にある。が、一般の家庭で、ごくふつうの常識的な愛好家がレコードやFMを楽しもうとするかぎり、いまのアンプやチューナー以上に大規模なものがなぜ必要だろうか。むしろ我々はいまの製品でさえ必要以上のクォリティをもっているとさえ思っている」と。
 タンノイのDC15――正確に書けばデュアル・コンセントリック・モニター15 Dual-Concentric Monitor 15 (同軸型15インチ2ウェイユニット)――は、よく知られているように、15インチのウーファーの中央、ウーファーの磁極の中心部を高音用のホーンが突き抜けて、磁極の背面にホーン・ドライヴァーユニットのダイアフラムとイクォライザーを持っている。そのことだけをみれば、アルテックの604シリーズと全く同じで、その基本は遠く1930年代に、ウエスターン・エレクトリックの設計にさかのぼる。
 だがそこから先が違っている。アルテック604は、トゥイーター用にウーファーと別の全く独立した磁極を持っていて、トゥイーターの開口部にはこれもまたウーファーとは全く切離された6セルのマルチセラーホーンがついている。つまり604では、ウーファーとホーントゥイーターは、材料も構造も完全に別個に独立していて、それを同軸型に収めるために、まるでやむをえずと言いたい程度に、ウーファーの磁極(センターポール)の中を、トゥイーターのホーンが貫通しているだけだ。
 ところがタンノイは違う。第一にトゥイーターのマグネットとウーファーのそれとが、完全に共通で、ただ一個の磁石で兼用させている。第二に、トゥイーターのホーンの先端の半分は、ウーファーのダイアフラムのカーヴにそのまま兼用させている。この設計は、おそろしく絶妙といえる反面、見方をかえればひどくしみったれた、まさにジョンブル精神丸出しの構造、にほかならない。クォードII型パワーアンプのネームプレートを止めている4本のビスが、シャーシの裏をかえすとそのまま、電解コンデンサーの足を止めるネジを兼ねていることがわかるが、このあたりの発想こそ、イギリスのメカニズムに共通の、おそるべき合理精神のあらわれだといえそうだ。
 しかもタンノイは、この同じ構造のまま、サイズを12インチ、10インチと増やしはしたものの、アメリカ・ハーマンの資本下に入る以前までは、ほとんど20年間以上、この3種類のユニットだけで、あとはエンクロージュアのヴァリエイションによって、製品の種類を保っていた。
 そう考えてみれば、タンノイの名声は、その半分以上はエンクロージュアの、つまり木工の技術に負うところが多いと、いまにして気がつく道理だ。
 オートグラフやG・R・Fの例を上げるまでもなく、中味のユニットよりもエンクロージュアのほうが高価、というスピーカーシステムは、タンノイ以外にも、またアメリカでもイギリスでも、モノーラル時代にはそれほど珍しいことではなかった。たとえばJBLハーツフィールド、EVのパトリシアン、ヴァイタヴォックスCN191クリプシュホーン……。だがしかし、ユニットの価格とエンクロージュアの価格との比率という点で、オートグラフ以上のスピーカーシステムは、かつて誰もが作り得なかった。イギリスで入手できるオーディオ製品のカタログ集ともいえるハイファイ・イヤーブック(HiFi year book)によれば、オートグラフはかなり永いこと英貨165ポンドだが、その中でDC15の占める価格はわずかに38ポンド。ユニットの3・3倍の価格がエンクロージュアだ。しかも図体がおそろしく大きいから、日本に輸入されたときにはこの比率はもっと大きくなる。ユニットが7万5千円の当時、オートグラフは45万円近かった筈だ。
 いまでこそ、エンクロージュアは単にスピーカーの容れ物ではなく、スピーカーシステム全体の音色を大きく支配していることを、たいていの人が知っている。その違いの大きさについて、心底驚いた体験をしたことのない人でも、少なくとも知識として知っている。
 けれど、昭和30年代から40年代にかけて、まだ日本全体が本当に豊かといえない時代に、スピーカーユニットにペアで15万円は支出できても、それを収めるエンクロージュアにあと80万円近く(オートグラフでないG・R・Fでさえ、ユニットごとのペアだとざっと60万円)を追加するというのは、よほどの人でなくては苦しい。そして、エンクロージュアは容れ物、という観念がどこかに残っているし、そうでなくとも、図面を入手して家具屋にでも作らせれば、ひとかどの音は出る筈だと、殆どの人が信じこんでいる。タンノイの真価の知られるのが、ことに日本でひどく遅れたのも仕方なかったことだろう。そのタンノイの真価を本当に一般の人に説得したのは、オーディオやレコードの専門誌ではなく、五味康祐氏が《芸術新潮》に連載していた「西方の音」であったのは、何と皮肉なことだったろう。そうしてやがて、西方……を孫引きするような形で、わけ知り顔のタンノイ評論が、オーディオ専門誌にも載るようになってくる……などと書くと、これはどうも薮蛇になりそうだが。

レクタンギュラーG・R・F
 あれはたぶん、昭和43年だったか。当時、音楽之友社が、我々オーディオ関係の執筆者たちに、お前たちも一度、アメリカやヨーロッパのオーディオや音楽事情を目のあたりにみてくる必要がある、といって、渡航資金に原稿料をプールしていてくれたことがあった。それは一応の額に達していた。
 ところで、前述の私のDC15は、その後、内容積が約100リッター足らずという、ごく小さな(ただし材質だけはやや吟味した)位相反転型のエンクロージュアに収まっていたが、これではどうにも音がまとまらない。かといって、レクタンギュラー・ヨークのクラスでは、わざわざ購入するのはおもしろくない。私の部屋は六畳のひと間に机から来客用のイスまでつめこんで、足のふみ場もない狭さだったが、それでもオーディオにはかなり狂っていて、JBLのユニットを自分流にまとめた3ウェイをメインとして、数機種のスピーカーシステムがひしめいていた。その頃、オートグラフの素晴らしさはすでによく知っていたが、どうやりくりしても私の部屋におさまる大きさではない。G・R・Fでもまだむずかしい。ところが、大きさはレクタンギュラーヨークと殆ど同じの、レクタンギュラーG・R・Fというのがあることを知って私の虫が突然頭をもたげて、矢も楯もたまらずに、前記の音楽之友社の積立金を無理矢理下ろしてもらって、あの飴色の美しいG・R・Fを、狭い六畳に押し込んでしまった。おかげでアメリカ・ヨーロッパゆきは私だけおジャンになったが、さてあのとき、どちらがよかったのかは、いまでもよくわからない。
 しかし皮肉なことに、このころを境にして次第に、自分の求めている音が自分自身に明確になってくるにつれて、ホーンバッフルの音は私の求めている音ではない、という確信に支配されるようになった。良いホーンロードの音は、たしかに、昔の良質の蓄音器から脈々と受け次がれてきたレコードの世界をみごとに構築する説得力はあったが、私自身はむしろ、そういう世界から少しでも遠いところに脱皮したかった。ホーンロード特有の、中~低音域がかたまりのように鳴りがちの傾向――それはことに部屋の条件の整わない場合に耳ざわりになりやすい――が、私の求める方向と違っていたし、高音域もまた、へたに鳴らしたタンノイ特有の、ときとして耳を刺すような金属室の音が、それがときたまであってもレコードを聴いていて酔わせてくれない。
 お断りしておくが、オートグラフを、少なくともG・R・Fを、最良のコンディションに整えたときのタンノイが、どれほど素晴らしい世界を展いてくれるか、については、何度も引き合いに出した「西方の音」その他の五味氏の名文がつぶさに物語っている。私もその片鱗を、何度か耳にして、タンノイの真価を、多少は理解しているつもりでいる。
 だが、デッカの「デコラ」の素晴らしさを知りながら、それがS氏の愛蔵であるが故に、「今さら同じものを取り寄せることは(中略)私の気持がゆるさない」(「西方の音」より)五味氏が未知のオートグラフに挑んだと同じ意味で、すでにこれほど周知の名器になってしまったオートグラフを、いまさら、手許に置くことは、私として何ともおもしろくない。つまらない意地の張り合いかもしれないが、これもまた、オーディオ・マニアに共通の心理だろう。
 そんなわけで、タンノイはついに私の家に落ちつくことなしに、レクタンギュラーG・R・Fは、いま、愛好家I氏の手に渡って二年あまりを経た。ほんの数日まえの夜、久しぶりにI氏の来訪を受けた。二年に及ぶI氏の愛情込めた調整で、レクタンギュラーG・R・Fは、いま、とても良い音色を奏ではじめたそうだ。私の家の音を久しぶりに聴いて頂いたI氏の表情に、少しの翳りも浮かばなかったところをみると、タンノイはほんとうに良い音で鳴っているのだろうと、私も安心して、うれしい気持になった。

グッドマン AXIOM 80

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 外径9・5インチ(約24センチ)というサイズは、過去どこの国にも例がなく、その点でもまず、これは相当に偏屈なスピーカーでないかと思わせる。しかも見た目がおそろしく変っている。しかし決して醜いわけではない。見馴れるにつれて惚れ惚れするほどの、機能に徹した形の生み出す美しさが理解できてくる。この一見変ったフレームの形は、メインコーン周辺(エッジ)とつけ根(ボイスコイルとコーンの接合部)との二ヵ所をそれぞれ円周上の三点でベークライトの小片によるカンチレバーで吊るす枠になっているためだ。
 これは、コーンの前後方向への動きをできるかぎりスムーズにさせるために、グッドマン社が創案した独特の梁持ち構造で、このため、コーンのフリーエア・レゾナンスは20Hzと、軽量コーンとしては驚異的に低い。
 ほとんど直線状で軽くコルゲーションの入ったメインコーンに、グッドマン独特の(AXIOMシリーズに共通の)高域再生用のサブコーンをとりつけたダブルコーン。外磁型の強力な磁極。耐入力は6Wといわめて少ないが能率は高く、音量はけっこう出る。こういう構造のため、反応がきわめて鋭敏で、アンプやエンクロージュアの良否におそろしく神経質なユニットだった。当時としてはかなりの数が輸入されている筈だが、AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──を、果してどれだけの人が本当に知っているのだろうか。

グラド Laboratory Tone-Arm

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 古いカタログを探し出してみると GRADO LABORATORIES, INC. 4614 Seventh Ave. Brooklyn 20, N.Y. 価格は$39.50. とある。
 LP以後のアメリカのオーディオ機器のいわば第一期黄金時代というべき一九五〇年代。そのピークを飾ったマランツのアンプの全盛の頃、グラドは、ピックアップの分野でいわばマランツ級の超一流の評価を得ていた。それば単に性能の優れていたばかりでなく、デザインや仕上げが、複雑で洗練されていて、製作者の教養を感じさせる品位の高さがある。
 グラドは、モノ時代から主材に銃床(ガンストック)用のきわめて堅固なよく枯れたウォルナットを削り出した、流麗なスタイルのアームを作って、我々をびっくりさせた。無理のない美しい曲線が、極上のウォルナットの質感をよく生かして、見ただけで欲しくなるアームだった。ステレオ時代に入って、ラボラトリー・トーンアームと名づけて軽質量化したのが写真のアームで、モノ用よりもスリムになって、いっそう洗練の度を加えた。ウォルナットの地肌に、地色のままのアルミニウムの艶をおさえた白。メインウェイトの支持部とラテラルウェイトは支持部とラテラルウェイトは真鍮にブラッククロームメッキ。アーム根元のベースは、硬質ゴムを機械加工しているが、わざと平面でなく厚みをかえていて、取付後に回転させながらアームの水平を調整するという素晴らしい着想。アームレストにはマグネットキャッチが仕込んである。
 構造はダイナミックバランス型で、針圧は付属の針圧計による点は、当時の他の大半のアームと同様だ。カートリッジはテフロン製のスライドにとりつけて、先端部のネジでしめつける交換式。
 ステレオ初期の設計なので、針圧2グラム以下ではやや感度が鈍るが、たとえばオルトフォンSPUなど、3グラム以上かけてよいカートリッジなら、こんにちでも、上質のウッドアームのよく制動の利いた緻密な音質を楽しむことができる。

KEF LS5/1A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 一九七三年に、ロンドンのAESで、KEFの技術陣によって発表されたスピーカーの新しい測定・解析法は、その後日本やアメリカで広くとり入れられいっそう精密化して、スピーカーの動特性の解明に大きな役割を果しているが、この測定法について最も早い時期に示唆を与えたのが、かつてBBCの主任研究員を永く務めて、スピーカーの研究に大きな業績を残したD・E・L・ショーターであった。ショーターは、一九三〇年代からスピーカーの研究に着手しているが、LPやFMの出現によって、放送の質の大幅な向上をせまられる時代の近いことを見こして、一九四〇年代の後半から五〇年代にかけて、ぼう大な研究と実験を重ねながら、BBC放送局で使うための新型モニタースピーカーの開発に着手した。これが一応の成果をみたのは一九五五年から六年にかけてで、その結果を、A survey of performance criteria and design consideration for High-Quality Monitoring Loudspeakers という長い題の論文にまとめて、IEE(イギリス電気学会)に一九五七年十一月十二日に提出している。この論文中に引用された実験例が、のちのBBCの正式のマスターモニターLS5/1Aで、これを製品化する上での実際面で協力したのがレイモンド・クック(現KEF社長)だった。
 製品は一九五九年以降KEFのブランドで作られたが、BBC放送局で使うだけの、約250台が製造されたきりで、一般市販はしていない。たまたま、KEFが輸入元に対するサンプルの形で日本に送った2ペアが、幸いにして私の手元にあるきりだ。のちにマルチアンプを内蔵してMODEL5/1ACの名でこれも少量が入荷しているが、ユニットの一部以外は全く違う。先のショーターの論文が、NHKのモニターAS3001(BTS・R305=ダイヤトーン2S305)の開発にも多大な影響を与えていることは想像に難くない。

ラックス MQ36

井上卓也

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 現在でも管球式アンプをつくりつづけているラックスには、それぞれの時代に名を残した名作が多いが、そのなかでも傑出した製品は、このMQ36をおいて他にないだろう。
 管球式のパワーアンプでは、パワー管とスピーカーのインピーダンスマッチングのために必然的に出力トランスを使わざるをえない。出力トランスの得失はあるにせよ、アンプの物理的な特性を向上するには、この出力トランスの存在が大きなネックとなり、出力トランスを使わないアウトプット・トランス・レスの方式がかなり以前のモノーラル時代から研究され、特殊なハイインピーダンスのスピーカーを前提として製品が海外で開発された例もあった。
 現在では、アンプがソリッドステート化され、OTL方式は当然のこととなり、逆に出力トランスを採用したパワーアンプのほうが例外的な存在となっているが、かつてはOTL方式は夢のパワーアンプとして考えられはしても、現実の製品は海外製品を含めて無にひとしい時代であった。
 MQ36は、管球式からソリッドステート式に移りかわる時代に、管球式パワーアンプの性能限界に挑戦するかのように開発された、同社トップランクのパワーアンプであるとともに、管球式パワーアンプの代表作としてデザイン、性能、音質を含めて、オーディオの歴史に残るラックスの最大傑作である。
 特殊双三極管6336Aを片チャンネルあたり2本をSEPP構成としたステレオパワーアンプで、物量を投入した回路構成もさることながら、シャーシーを含むパワーアンプのコンストラクション、オーバーオールのデザインなど、どの点をとってもパワーアンプの頂点に位置するものがあり、現在に生きている素晴らしい製品である。

SME 3012

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 SME3012は、いわゆる16インチLP用のロングサイズアームだが、これが同社の最初の作品で、一九五九年に発売された。当時はナイフエッジを支える軸受部が、のちにSMEの形を特長づけた例のオムスビ型の成型品ではなく、おそらく適当なサイズの金属パイプを輪切りにしただけで、いかにも生産量の少なさを思わせる。ヘッドシェルには、MADE IN DENMARK の刻印の入ったオルトフォンG型シェルを、ネームプレートだけSMEに貼りかえて流用していた。このオルトフォン型のプラグインコネクターを採用したことが、その後の、ことに日本のアームに大きな影響を与えたが、当初の製品はアルミニウムでなくステンレスパイプに制動材をつめていた。インサイドフォースキャンセラーもまだついていない。メインウェイト(バランス用)は、ヘッドシェル30グラム以上に対応できるよう大型で、ライダーウェイト(針圧加圧用オモリ)も、二分割できて、二個重ねると最大5グラムまでかけられる。G型シェルはカートリッジの取付位置を修整できないから、カートリッジ交換にともなって針先の位置の違いを修整するために、アームベースを前後にスライドさせる。軽針圧でのアームの操作の安全のために、油圧式のアームリフターが考案されている──というように、それ以前のいかなるアームよりも根本の動作原理を正しく解析し、正しいしかもユニークな解答を与えた点がSMEの大きな功績で、このことが、やがて軽針圧時代を迎えた世界じゅうのピックアップに、どれほど大きな影響を及ぼしたか測り知れない。
 いま考えてもふしぎなことは、オルトフォンがSPUを発売した一九五九年に、いち早くエイクマン(SME社長)が殆どそのSPUのための精密アームを仕上げている点だ。だが、その後シュアに転向して、徹底的に軽針圧を追求するようになるのもおもしろい。それにしてもSMEは、ふつう言われているユニバーサルアームではなく、一個のカートリッジに対して、特性を徹底的に合わせこんでゆくというのが、本来の思想であることを、蛇足ながら申し添えたい。

EMT 927Dst

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 原形はR80と呼ばれ、なんと一九五三年に完成している。すでにフレーム(シャーシ)やターンテーブルの構造は、927と殆ど同じもので、少量(50台といわれる)が供給されたが、これをもとにEMT927シリーズは出来上った。
 ♯927は大別して三つのパートから構成される。第一に、直径16インチの超重量級ターンテーブル。これを支えるシャフトは、直径約20ミリ、長さは軸受部に入っている部分だけでも約160ミリ。材質は吟味され、高い精度の加工と入念な焼入れによって、数千時間を経ても摩耗を生じない。軸受中央部には、容量約23ccの油槽があって、シャフトの一部に油漬けになっている。
 ターンテーブルを駆動するのは、スタジオ用テープデッキのキャプスタンモーターとほぼ同等の大形シンクロナスモーター。回転中に手を触れても、僅かの振動も感知できないほどダイナミックバランスが完璧だ。この静粛かつ強力なモーターで、慣性モーメントの大きなメインターンテーブルにリムドライブで、強力な回転エネルギーを与える。
 メインターンテーブル上には、プレクシグラス(硬質プラスチック)または硬質ガラスのサブターンテーブルが載る。ガラスの載ったものが927D(ステレオ用は927Dst)。いま日本で流行のガラスターンテーブルは、EMTがとうの昔にやっている。
 プレクシグラス製のほうは、930シリーズ同様、ブレーキによってサブターンテーブルの外周をおさえてスリップさせ、クイックスタート/ストップができる。これはリモートコントロールもできる。Dタイプは、ガラスのためこのメカニズムは使えない。
 ただしDタイプは、センタースピンドルにわずかなテーパーがついている。このスピンドルはバネで支えられていて、付属のセンターウェイトを載せると、ゆるく沈み、レコードをあいだにはさむ形──というよりターンテーブル上に貼りつけたように固定する。ガラスターンテーブルとエラスティック・スピンドルはD型だけの特徴だ。
 第二の部分は、TSD15に代表されるEMTカートリッジと専用のアーム。アームをコントロールするリフターがたいへん素晴らしいメカニズムで、オイル又は空気でダンプなどしていない直結型だが、手前のレバーを上下させる指の感触と、アーム(針先)の上下動の速さとが感覚的にみごとに一致していて、あたかも針先をじかに指でつかんで操作するかのような一体感がある。
 もうすとつはオプティカル・グルーヴ・インジケーター。右手前の細いすりガラスの窓に、ミリメートルスケールの精密目盛が刻まれている。スケール上にはタテに一条の細いライトビームが焦点を結ぶ。アームに移動にともなって、この光条は右から左に移動して、針先(音溝)の位置を知らせる。このスケールはオプションで、とりつけたものを927Aと呼ぶが、後述の927Dになると、スケールは四倍に拡大され、レコードの芯ブレや溝の送りの荒さまでが精確なミリメートル値で読みとれる。この部分だけでも、ちょっとした精密光学機器だ。
 第三は、スタジオ用ターンテーブルの常識として、ライン出力まで増幅するイコライザーアンプと、その電源が内蔵されていること。電源部には、リモートコントロール用のリレーも含まれる。
 927シリーズは元来モノフォニック時代の製品だったが、のちにステレオアンプが組込まれ、927st、927Ast、927Dstの3機種が追加された。
 この927シリーズを原形として、12インチLP専用にモディファイされたのが930シリーズだが、こちらにはガラスターンテーブルはつかない。また、フレームは(一見しただけではよくわからないが)927のような金属の鋳物ではなく、ガラス繊維入りの強化プラスチックになっている。アームもちがう。これらの相違のせいか、同じTSD15をつけても、まるで格の違う音がする。私はいまだ927以上の音のするプレーヤーを知らない。

マランツ Model 2

井上卓也

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 マランツの製品は、最初から単純なコントロールアンプとパワーアンプの組合せではなく、モノーラル時代としては前衛的な、エレクトロニック・クロスオーバーを含めたマルチ・チャンネル方式に発展可能な、いわばシステムアンプの構想をもっている点が、他には見られないユニークさである。
 パワーアンプMODEL2は、その後MODEL5,8B、9とつづく一連のマランツのパワーアンプの原点と考えられる作品である。シャーシーコンストラクションは、他のマランツのモデルとは大きく異なり、パワートランスとアウトプットとランスを組み込んだ長方形の重量感のあるブロックが構造的な基盤であり、これから、片持ち式にひさし状の真空管や電源部のコンデンサーなどを取り付ける、いわゆるシャーシーが取り付けられ、この部分を包むように、横方向からパンチングメタルのカバーがかかる特殊な構造である。
 メインブロックには、出力管のバイアス、ACとDCバランスをチェックするためのメーターとチェック用スイッチがあり、いわゆるシャーシー部分には、出力管を3極管接続と5極管接続に切替使用するスイッチ、ダンピングファクターコントロール、グリッド直結ジャックを含む3系統の入力端子、それに、ダンピングファクターコントロール用端子をもつ出力端子などがある。
 回路構成は、出力管に6CA7/EL34をプッシュプル構成で使い、6CG7のカソード結合位相反転段でドライブするタイプで、電源部の整流管の使用と、出力が40WであることがMODEL5や8Bと異なっている。
 内部の部品配置、配線は見事なもので、丹念に手がけられており、音質も、マランツのアンプのなかで、もっとも素直でクリアーな印象である。

JBL SG520

菅野沖彦

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 JBLの三文字は、最高級スピーカーの象徴のようによく知られている。アメリカのスピーカーメーカーの名門として、たしかにJBLは数々のスピーカーシステムの傑作を作り出してきた。しかし、アンプの世界でもJBLの傑作が存在することを知る若い人は意外に少ない。現在もJBLのカタログには、いくつかのエレクトロニクスの製品が載ってはいるが、それらはきわめて特殊なもので、どちらかというと業務用のものだ。もっとも業務用の製品が、むしろ民生用以上に一般家庭用としても尊ばれる日本において、現在のJBLのアンプに対する関心の薄さは、製品があまりに特殊なこともさることながら、その内部への不満も否定できない事実である。JBLは、元来一般家庭用の最高級機器のメーカーであって、その卓抜のデザイン感覚によるハイグレイドなテクノロジーの製品化に鮮やかな手腕を見せてくれてきた。このSG520というコントロールアンプは、そうしたJBLの特質を代表する製品の一つで、アンプの歴史の上でも重要な意味を持つ製品だろう。このアンプが作られたのは一九六四年、もう15年も前である。ソリッドステート・コントロールアンプならではの明解・繊細なサウンドは、管球式アンプの多くがまだ現役で活躍していたときに、大きな衝撃を与えたものだ。それまでのソリッドステートアンプは、管球式に対して常に欠点を指摘され続けていた時代であったように思う。おそらく当時、その新鮮なサウンドを、違和感なく魅力として受けとめられた石のコントロールアンプは、このSG520とマランツの7Tぐらいのものだったであろう。そして、その音は現在も決して色あせない。事実、私個人の常用アンプとして、音質面でもSN比の面でさえも、最新のアンプに席をあけ渡さないで頑張っているのである。当時のアンプとしては画期的といえる斬新なデザインは、パネル面に丸形のツマミをツマミを一切持たず、すべて直線的なデザインだ。コンピューターエイジの感覚を先取りした現代センス溢れるものだけに、今でも古さは全く感じさせない。

マッキントッシュ MC275

菅野沖彦

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 マッキントッシュが世界のアンプメーカーの雄として君臨することになったのは、多分このMC275によるといってよいではなかろうか。このアンプが発売されたのは一九六一年待つであるから、もう18年前のことである。六一年といえば、ステレオレコードがようやく本調子になって普及した頃であり、このMC275は、業務用としても最高級のステレオアンプとして、多くのレコード会社でカッティングにも使用された。マッキントッシュ社の創業は一九四九年(前3年は準備期間とみてよい)だから、このアンプが出るまでに、すでに10数年を経ている。同社独自の高能率で、優れた特性をもつB級動作のアンプ技術は、バイファイラーワインドトランスとともに磨きをかけられ、その設計開発、製造技術の頂点に達した絶頂期の傑作なのである。そしてまた、管球式アンプの最後の最高の作品としても、オーディオ誌上に不滅の存在といってよいアンプであろう。その堂々たる風格は、アンプの造形美といってよいもので、全くの必然性からのみ構成された一つのオブジェだ。その質感とフィニッシュの高さは内に秘められた優れた動作特性、そして、それらの印象といささかの違和感をも感じさせない緻密で重厚な風格をもつサウンドと相まって、理解力のある人には、見ているだけで最高のオーディオの世界を感じさせずにはおかない魅力的な芸術品といってもよいだろう。10年以上にわたって製造され続けたが、残念ながら今はない。

T.T.O. R-12

瀬川冬樹

ステレオサウンド 50号(1979年3月発行)
特集・「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」より

 東京テレビ音響──といっても秋葉原のテレオンとまちがえられそうなほど、このメーカーを知る人はもはや少ないが、ティアックの前身、といえばわかりが早い。いまやテープレコーダーの専業メーカーとして名高いこのメーカーの最初の作品は、しかしディスク・ターンテーブルであった。型名をR12というリムドライブ型2スピードで、78/33がR12A、45/33がR12B。駆動モーターをインダクションでなくヒステリシスシンクロナスにしたものが、それぞれR12HA、HB。発表は昭和28年末だが、一般への発売は翌年に入ってからだった。当時、不二家の電蓄用リムドライブか、アカイのC3,C5ぐらいしかまともなモーターのなかったところへ、このプロフェッショナルタッチの本格的ターンテーブルの出現はショッキングで、私は吉祥の外れにある工場までこれを買いに行った。二年ほど後にこのターンテーブルはヤマハに買収され、GKデザイン研究所の手でリファインされて、KT1,KT1Hの名に変るが、ともかく、日本のLP初期にこのターンテーブルの果した役割は大きい。かつて日本電気音響KK(現DENON三鷹工場)で、NHK納入用はじめ本格的なプロ用機器の設計技術陣の中心人物であった、谷勝馬、阿部美春、井上丘氏らの作品なのだから、設計が良いのは当り前。

組み合わせ型プレイヤー

瀬川冬樹

別冊FM fan No.21(1979年3月発行)
「メーカーメイドプレイヤーに満足できない読者のために組み合わせ型プレイヤーを考える」より

メーカーメイドプレイヤーに満足できない読者のために
組み合わせ型プレイヤーを考える

 DDプレイヤーの出現で、ディスク・プレイヤーの性能に疑いを抱かなくなってしまってから久しい。多くの人たちがあの軽い30センチ径のLPを、1・5グラム前後といった超軽量の針圧でトレースするのだから、ダイレクトドライブ、クオーツロックのフォノモーター(ターンテーブル)の性能は、レコードを定速で円滑に回転させという目的からは、もう十分以上であると、大多数の人々が思い込んだのも無理もない。
 ところが誰いうとなく、いまのDDモーターの性能はほんとうにこれでよいのか、現在のディスク・プレイヤーは、レコードに刻まれた音の忠実な再現という面からみて、ほんとうにももう十分なのか、といった疑問がここ数年来投げかけられはじめた。
 たとえば、ターンテーブルとレコードのあいだにあるゴムのシート(マット)を、別のものに交換してみると音色が変わる。ヘッドシェルやアームを交換しても音が変わる。いやヘッドシェルやアームはそのままでも、接続してあるコードを交換してみるとそれでも音が変わる。フォノモーターをとりつけてあるベース(キャビネット)を補強すると音質が良くなる……。要するに、メーカーサイドであまり重視してなかった(あるいはメーカー自身では知っていても、本格的に対策を講じれば非常に高価になるため、できなかった)ような部分に、アマチュアたちが気づいてしまった。
 そして、かんじんのターンテーブルも、レコードの溝に刻まれた音のエネルギーは、想像をはるかに越えるほど強大なもので、実際に針先がレコードをトレースする状態では、力の弱いモーターでは問題が生じるらしいことも、少しずつわかりかけてきた。
 このことは、アンプやスピーカーやチューナーや、レコードの録音といった周辺の性能の向上にともなって、いっそう問題視されはじめ、昨年秋の全日本オーディオ・フェアあたりをきっかけにいくつかのメーカーが、それまではアマチュアがいわばバカげた道楽でしか作らなかったような、超ド級のプレイヤーの試作品を、それぞれに発表しはじめた。
 たまたま今回の規格で、それらの試作品あるいは製品のうちのいくつかを実際に聴いてみようということになった。中でもかなり興味を持ったのは、トリオが〝原器〟と(いささか大げさに)名づけた試作機で、これは、いまのところたった一台。重量が約150kgというものすごい作品で、同社の中野会長のお宅にあるということなので、拝聴に参上した。会長邸には、私も使って最も信頼している西独EMTのプロ用プレイヤー927Dstがあるので、比較もしやすい。そして、このほかにマイクロ、エクスクルーシヴ(パイオニア)、及びサエクを、それぞれ自宅に借りて試聴した。
 中でも、トリオの試作機とマイクロの糸ドライブ(これは市販する製品)は、音質の良さでは印象に残った。各社とも、サンプルがまだわずかしかないため、試聴の翌日にもうわが家から引き上げて行ったが、マイクロは、返すのが惜しいくらいだった。
 これらの試作品は、アンプやスピーカーの発展の影に埋もれていたプレイヤーの音質向上にいろいろな角度から光りをあてて、問題提起をしているといえる。その、プレイヤーの音質上の問題とは、どういう部分にあるのか、それを、十分とはいえないが以下に考えてみようというわけである。

PART1
試聴編
国産、海外最高級プレイヤー・システムを試聴して、プレイヤーの問題点を探る

 今回のこの話をするに当たって、ひとつの参考という形で、幾つかのメーカーがかなり実験的な意味も含めてトライしている、何て言ったらいいのかこういうものを一括する言葉がないが、パイオニア・エクスクルーシヴのP3、マイクロのRX5000、サエクのスチール製のターンテーブルデッキ・システム、それとトリオが原器と今のところ呼んでいる、実験的な超ど級のプレイヤーと、そして私の常用しているEMTの927といったプレイヤー・システムでいろいろなレコードを聴いてみた。とにかく同じカートリッジでも、それぞれのプレイヤー・システムに付け換えてみることによって、なんと同じレコードが非常に違ったニュアンスに聴こえたことか!……。
 ステレオサウンド48号のブラインドテストでも体験していたことではあるが、今回のようにオーディオ専業メーカーがベストを尽くしたと思われるプレイヤー・システムでも、やはり音の差が大きく出るのだということを改めて再確認した。参考という形で、たまたま家にあったパイオニアのごく標準的なセミオートのプレイヤーシステム、これは非常にコストパーフォーマンスのいい、一般愛好家用としては、非常に取り扱いのやさしい、便利のいいプレイヤーだが、これに対して、それの大体十倍前後の価格の開きがあるプレイヤーが同じカートリッジを取り付けて、本当にそれだけのことがあるのか、という興味もあったのだが、確かに出てきた音が、十倍払うだけの値打ちがあるかどうかということは、僕は個人個人の価値観の問題だと思ったが、けれども一人一人の主観だなんていうこと言うと、何か逃げてるみたいに思われるので、僕がかなり主観的な言い方をあえてここでさせていただければ……同じカートリッジをパイオニアの普及品に付けたときと、それからたとえばマイクロRX5000に付けた場合とでは、同じレコードから受ける音楽的な感銘はもう根本的に違った……。
 普通のローコスト普及型のプレイヤー、たまたまパイオニアを例に出したが、パイオニアが悪いという意味ではなしに、市販のプレイヤーというのは、みなこの水準だということをはっきりここで言っておいた方がいいと思う。そういう五万円近辺の、ごく普通のプレイヤーというのは数年前のプレイヤーからみたらモーターはきちんとしているし、回転ムラなども全くない。モーターのゴロが出るわけでもない。非常に安定にトレースする。全く見事で、これだけ聴いてればちっとも疑問は持たないだろう。ところがやはり、例えばマイクロの、これはもうアームなしで四十三万円というような、豪華なプレイヤーだけれども、これでパイオニアに付けたのと同じカートリッジ(EMT XSD15)を付け換えて、同じアンプの音量を、少しも変えずに、そのまま聴いてみると音量感が違う、それから音楽のダイナミックスが全然違う。音楽がとにかく躍動してくる。非常にやはり聴き手にインパクトを与える。それから音がとても立体的に聴こえてくる。例えば歌を聴けば、歌い手がスピーカーの間にふわっと浮び上がり、また歌い手とバンドとの距離感がよく感じとれる。いやそういう細かなことをいう前に、まず音楽がとても聴き手を楽しませて、何かもっと聴いていたい、一枚のレコードを途中でポリュームを絞るのが惜しいような、そして一枚聴き終わると、このレコードはどうだろうと、また次のレコードをどんどん間髪を入れずかけ換えたくなるという、これは実は僕の長いオーディオ体験からいって、いいオーディオ機器とそうでないものとを判別する、大切なカギにしているのだが……。
 レコードをひとつの音楽として楽しんじゃおうと、もうテストなんてやめちゃおう!。とにかくレコードを後から後から聴いてみたい、という装置があるのだ。逆に何かレコードをしばらく聴いていると、ボリュームを絞りたくなってしまう音というのがある。絞りたくならないまでも何か気持ちが弾んでこない、白けた気持ちで、耳がやれ音のバランスだとか、定位だとか、歪み感とか、ついそっちの方で聴いてしまうというような、こういう機械は決して本当の意味で優れたオーディオ装置ではないと僕は思っている。
 このことはプレイヤー以外のアンプやスピーカーにもいえて、いい音響機器というものは、レコードのボリュームを絞りたくならない、何となくもっと先を聴いてしまう、つい長い時間聴いてしまう、一枚ターンテーブルから下ろすと、またすぐ次のレコードを乗せたくなる。全然違ったレコードを後から後から思い出して、そうだあのレコードはどうだろう、あんなレコードがあった。あのレコードはどう聴こえるだろうなんて興味を尽きさせないものだ。

マイクロ RX5000
 僕は今までに長いこと、マイクロの製品をいいと思ったことは実際なかったのだが、特にこのシステムのアームのMA505は多少二、三改良されて今までの505と違うという話だったが、505というアームは、全体に何か音が軽々しく、かん高くなる傾向で、この事はアマチュアからも同じことを言われたので、僕だけの偏見ではないはずだ。
 ところがこのアームも含めて、少なくともこのプレイヤー・システム全体としては、きょう聴いたプレイヤーの中では一番音が楽しかった。音のバランスがきちんと整っているし、それからこれは今までのマイクロと違って、ターンテーブルシートを使わず、ターンテーブルの金属にじかにレコードを乗せるということになって、このやり方というのはえてしてターンテーブルの共振で弊害が出るという体験を僕はしているのだが、このプレイヤーではそんなことは感じなかった。音の彫りが深く躍動感があって、ダイナミックスが感じられて立体感が出て、何よりも音が楽しく、聴き手が引き込まれてしまうという、その意味で、僕はいいプレイヤーだなと思った。これは発表されているデータからもターンテーブルそのものの機械的な精度と強度に着目したということになっているが、やはりターンテーブルのシャフトというものは、重いターンテーブルを支える、いわば土台なので、そのシャフトをきちんとするためには、ダイレクトドライブでは絶対にだめだという信念をもって、ナント糸でドライブするという、これは本誌17号で紹介された高城さんも昔からおやりになっているが、これは高城さんだけに限らず、以前からわれわれの仲間も一時はやっていた方法なのだが。この古いというよりか、おそらく今まではメーカーだったら製品化するのをためらったような方式にトライしている。この点でも面白い。僕は見本製品を見たときに、その形はなかなかきちんとしてると思ったけれども、実際に物を手にとって聴くまでは一抹の不安を持っていたのだが、実物を見ても、なかなかこなれた形をしている。このマイクロのプレイヤーはちょっと話題になっていい製品だ。
 僕はマイクロの製品、初めていいなあという気がした。細かいことをいえば、ストロボの入れ方とか、全体のもっていき方、あるいはアームとか、いろいろな細かい部分にいくらでも注文をつけたくなるけれども、やはり注文つけたくなるというのはその製品がある程度水準に達しているから、自分としてはそれが気に入ったから、それがもっと気にいるためには、こうして欲しいみたいな注文だと思ってほしい。とにかくいいプレイヤーだ。

エクスクルーシヴ P3
 次がパイオニアというよりエクスクルーシヴのP3だが、これは今のマイクロがもちろん製品として、発表しているけれども、駆動モーターとターンテーブルも別々になっていて、しかも糸の長さによって位置を変えなくてはならないとか、かなり実験機的な様相を多分にもっているのに対して、こちらは製品として完全にこなれたものにしようという意図がうかがえた。
 エクスクルーシヴのアンプや、スピーカーと同じように非常に上質のローズウッドでキャビネットができていて、中の仕掛けはいろいろ凝っているにもかかわらず、それを表にあまり出さないである程度デザイナーの手が入って全体をできる限りこなれた形に仕上げ、そして品位を保とうという意図が十分うかがえる。それからプレイヤーのふたもかなり重いふたが付いている。全体が非常にしっかりとして大変重くできてる。
 モーターとアーム部は一体化してそれをサスペンションしているとか、インシュレーターの方法が今までと全然違うとか、とにかく非常にぜいを尽くした作り方だ。操作してみても、ながめてみてもかなりこなれている。音はマイクロとはずいぶん違ったニュアンス、というよりも僕は非常に面白いと思うのは、エクスクルーシヴのアンプ、C3とM4の組み合わせ、またはC3とM3の組み合わせなどが聴かせる一種の重厚なそして危げのない、ちょっとハラハラするような音は絶対に出さないで何となく音が一粒一粒がウェットに重い感じで、何か音一つひとつうまく湿めらせて重みをつけた……。これはエクスクルーシヴのアンプの特徴だが、このプレイヤーにもその音がある。だからその点で、僕はやはりエクスクルーシヴのアンプを作った人と同じ耳が、この音決めに参加しているのではないか、というふうに思った。特にアームがオイルダンプでダンプ量を調整できるので、ダンプをオーバーにかけると、ちょっと音に生気が失くなるがダンプ量をクリティカルに調整したときに、すばらしい音がする。でマイクロの場合は非常に音のダイナミックレンジを広げて聴かせる感じがしたのに対して、これはちょうど逆で、ダイナミックレンジをむしろ少し抑えるような、ピークがパァーッと伸びるのではなくて、そこはうまく何かリミッターを非常に上手にかけたような感じと……そういう印象を受けた。
 別な言い方すると、オーディオファンがひとつひとつの細かな、よく解像力という言葉使うが、そういう解像力というような聴き方とは逆に、音の細かなところまでも見通すというよりも、そういう聴き手の耳をそばだたせない、むしろそばだたせないところがこのプレイヤーの意図ではないか。全部音をくるみ込んで、きわどい音を出さない。だからオーディオファンよりもこれはやはり音楽ファンが何かハラハラしないで聴きたいプレイヤーが欲しいといった場合には、これは確かになかなか特徴のある製品ではないかなという気がする。ただ僕の主観を言わせていただけば、マイクロを聴いてるときは、いまも言ったように、レコード一枚一枚もっと聴きたい、もっと聴きたいという気持ちになるけれどもエクスクルーシヴだとそこまでは面白くはさせてくれない。何か聴いていてとにかくこっちが、何というか、でれっとくつろいでしまってあんまり神経質にならない、そこがこのプレイヤーのよさでもあるし、またややシビアな聴き方をしたときの物足りなさにもなるのではないか。
 しかしこのクラスのプレイヤーで、こういう見た目も含めて、きちんとまとまったプレイヤーというのはあまりない。

サエク ターンテーブルデッキ
 さて、このサエクの考え方というのは、エクスクルーシヴとは対極にあって、エクスクルーシヴができるだけ音を全体に抑えていこう、例えばアームの作り方ひとつみても、P3のアームがオイルダンプで、それからアームの後ろのウエイトを非常に柔かいサスペンションで、ダンピングをして、とにかく共振を全部ダンプしようという意図が構造にも出ているし、音にも明らかにそういうところが出ているのに対して、サエクの場合には、アーム自体の考え方が、もうサエク社の当初のアームから一貫して、ゴムのようなあいまいな材料を使わないという基本方針があって、それがついにこのターンテーブルシステムというか、これは何と呼んだらいいのか。やはりデッキか? その方向にもきちんと表われてきて鉄のブロックという非常に重く密度の高い材料をとにかくできる限りの、まあこれは機械工場で使う定盤に、ほとんど近い感じのものを真っ平らな面に仕上げて、それにモーターとアームをできるだけがっちり取り付けて、それをこの重量で支えてしまおうという考え方だ。
 サエクのアームは機械工学の専門家が設計しているアームだが、このターンテーブルデッキにもその機械屋さんの感覚というのを僕は非常に強く感じる。少なくともエクスクルーシヴが家具としても、ある程度の部屋の中に溶け込ませようという配慮があるのに対して、このサエクの方はそういうことは一切考えないで、とにかく機械設計家の感覚からいってやれるだけのことはやっていくという発想のように思えた。とにかくあいまいな共振のダンプをしないということらしい。
 あいまいな共振ではなくて、共振のあいまいなダンプをしないということ、つまり共振をダンプするのではなくて、共振が出ないようにとにかく各部をきちんと作っていって、その結果として各部はきちんとサスペンションされているというのがこのプレイヤーだ。確かにこのシステムから出てきた音というのは音の輪郭をきちんと正直に出してくれるという感じだった。ただひとつちょっと難点といえるのは、インシュレーターが上下方向の振動も十分、よく吸収するのだけれども左右方向に割に無防備なインシュレーターなので、この辺は僕はちょっと研究していただきたいなぁという注文はつけさせてもらいたい。とにかくひとつのはっきりしたポリシーが打ち立てられているのは立派だ。アーム単体は、このターンテーブルデッキに付けたのとは別に、ごく僕らが耳になじんだプレイヤーでこのアームだけ付けて聴いたことがあるが、これは僕は大変いいアームの一つだと思うし、実際いい音のするアームだ。音の輪郭ひとつひとつをあいまいなくきちんと出す、いかにも、設計方針がそのまま音になっている感じだ。とにかくサエク社の初期のアームに比べて、形が随分こなれていて、初期のものは、ちょうどこのターンテーブルデッキを見るみたいに、材質とその構造が、もうそのままむき出しになったという感じで、それはそれでひとつの機械加工ぎりぎりまで突き詰めきたというすご味を僕は感じていたが、半面ちょっときわどくてもう少しこなれた形にならないかというような面があった。しかし、この新しいアームは僕は随分形もこなれているし、とにかく初期のアームが少し共振性の音を出したのに対して、これはほとんどダンプしないで共振をきちんと抑えて、しかもダンプしたアームとは、明らかに違う、輪郭のきちんとした音を出す。ダンプ型のアームの対極にあるけれどもかなりいいアームの一つだ。ただ今回のこのプレイヤーシステムでデッキという格好で組み上がったものは、たまたまモーターにテクニクスのSP10MK2が付いてるので、聴いた感じはSP10MK2の音を、かなり僕としては感じた。やはりSP10の音というのは非常に真面目な音がする。ひとつひとつの音をとにかくきちん、きちんと出していこうという傾向があってそこをSP10を非常に好きだという人と、それから少し音が真面目すぎるのが難点で、もっと何かニュアンスとか、味があってもいいんじゃないか、という人もいる。けれどもターンテーブルにニュアンスとか味というのを求めるというのは、おそらくテクニクス側からいえば、おかしいというだろう。そういう性質のものがターンテーブルなのだから……これはこれでいいのだ。つまりその音がきちんと正直に出ていた。

EMT 927
 EMT927に関しては、何しろ僕は初めてこのプレイヤーと会って以来、ほれっ放しなものであまりあれこれと言わない方がいいのではないかと思う。それは冗談半分として、このプレイヤーというのはやはり、いま聴いたようなプレイヤーを含めて、おそらくこれから出てくるであろうプレイヤーにまで、相当その陰の影響を与えているのではないか、と思う。つまりいま頃われわれがやっと気が付いてきたターンテーブルの重さの問題、そのターンテーブルを支える軸受の問題、あるいはターンテーブルシートの問題、それからプレイヤー・システムとしての全体のバランスというか、重さのバランス、組み上げ方のバラン、操作上のバランス、そういうことが音質に影響することを、恐ろしく古い時期に気がついていて、それらをすべてやっていたプレイヤーだ。しかも現在のダイナミックレンジの広いレコードをかけてもちっとも聴感上おかしいと思わない。なにしろ音に底力が感じられる。底力というと、これは誤解されそうだが、つまり非常にエレガントな、静かな音楽をかけているとき、このプレイヤーは何にも自己主張しない、もう実にエレガントなのだが、そこに例えば急激に立ち上がる力のある打楽器の音とか、力強い楽器の音が入ってくると、ほかのプレイヤーよりも一回りも二回りも音がグンと伸び切る感じがして、それが明らかなエネルギーとして聴こえてくる。それは今聴いたこの三つと比べても十分あった。
 これは本当に不思議なのだけれども、結局いろいろ想像するに、やはりレコードを回す土台の頑丈さと、回転力の強さだろう。まずターンテーブルが非常に重くて慣性能率が大きい。メーカーではそんなことは何も発表してはいないが、本当にターンテーブルを計量して計算すれば出てくるのだろうけれども、僕はそんなことやる気は全くない。とにかく大きな重いターンテーブル、そしてけたはずれに長くて丈夫なシャフト、そしてその軸受け、それをまたけたはずれに強力な、しかもけたはずれに精密で静かなモーターで、ものすごい力でドライブしている。従って、レコードのどんな強力な音のところでも、ターンテーブルの回転が妨げられることは少しもない。それからプレイヤー・システム自体の重さも相当強力なので、インシュレーターなしで床の上にじかに置いてるのにハウリングなどは起こさない。そのことからも、これがいかに頑丈なものかわかるわけで、それとアームとカートリッジと内蔵のトランス、及びイコライザーアンプといったもののトータルの性能がいかんなく発揮されてるということで、とにかくレコードに入っている音のすご味を感じさせる。レコードってこんなすごい音が入ってるのか! と。これを聴く限りまだまだ国産の実験的なプレイヤーというのはまだやることがいっぱいあるのではないか、またそしてやることによって、またいっぱい出てくるのではないかと、思わせるほどだ。

トリオ〝原器〟
 これはトリオの実験機なのだそうだが、アームを研究中に、アーム本来の音を聴きとるプレイヤーを追究していったら、このようなものが出来上がったらしい。とにかく中野会長のお宅にうかがって、EMT TSD15カートリッジをこの原器とEMT927で聴いてみた。
 いままではEMT927がTSD15の情報量を最大限に引き出すと信じていたが、このトリオの原器からは、927からは聴こえなかった音が出てきたのには、びっくりした。
 僕はいままでTSD15がこんな風に鳴ったのを、聴いたことはないし、それはたとえば、927にチューニングされているTSD15が、トリオの原器と称されているプレイヤーに付けられたために、その弱点が補正されずに出てきた、あるいはバランスが変わって、このように聴こえた……といった種類のものでないことはたしかだ。とにかくプレイヤーとは何かを考えざるをえないシステムだった。

聴き終わって
 以上五機種のプレイヤー・システムを聴いて、ではローコストの四、五万クラスのプレイヤーと、どこが違うんだ! といわれた時に、僕はうまくいえないが……。
 要するにローコストのプレイヤーでかけたレコードが、例えば明らかになくなっちゃう音があるわけではない。低音も出てくるし、高音も出てくる、そんな素朴な問題は起きない。ただ、このローコストプレイヤーでかけたレコードをそのままEMTに乗せてプレイバックしてみると、具体的にひとつひとつの音がどうってことはないのだけれども、ローコストプレイヤーでは出なかった音が出てきたような気がしてくる。何かそのレコードの情報量が何倍にも増えたような気がする。聴こえるということは明らかに何か、言葉でうまくいえない音が確かに出てきているのだ。しかしそういう説明では説明しきれないところがあって、それは何かというと、僕がよくオーディオのビギナーの人に、オーディオの楽しみを説明するときに、レコードというものは中途半端な形で聴くと、何年か聴いてる間にレコードというのは大体こんなもんだ、オーディオというのはこんなもんだという、気持ちになることがあるのだが、ところがきょう聴いたなかでも、例えばマイクロ、あるいはEMTのプレイヤーで聴いていると、これはプレイヤーに限らず、アンプでもスピーカーでも、僕がさっきマイクロのところでちょっと言ったように、もっと聴きたい、もっと聴きたいというぐらいの気にさせるような音がしてきて、レコードの世界というのは恐ろしく底が深いなぁと思わざるをえない時がある。一枚のビニールの円盤で、人間を何か魂の底から揺すって感動させるようなオーディオ・システムが存在し、そこにオーディオの楽しみがあるのだということを僕はいってきている。
 魂の入った音楽が一枚のビニールの円盤になって、それをエレクトロニクスで復元していくと、そんなものは消えてしまうはずなのに! 大体ある時期まではレコードってのはやっばりそういうものだってあきらめがあったかもしれない。ただ要するにうんと古い時代の人はレコードをそう思ってない。SPレコードでやはり魂揺すぶられている人がいた。レコードをまともに再生すると、それは音の歪みがそんなふうに思われてたとか、歪みをちゃんとなくすとレコードってのはこんな程度の音しか出ないとか、少しさめた言い方になってくる。しかし現在のレコードには音楽の感動が絶対はいっている。しかし現在のプレイヤーの研究段階では、それがプレイヤーのどこをいじるとどうして再現できるのかということはつかめていない。またレコードに、そういう音が入っているのだということを本気で信じる人がすべてかというと、プレイヤーを作っている当事者のなかにも、そんなことを信じてない人も少なからずいる。しかしやはりレコードを聴いて、一瞬背筋にあわが立ったり、あるいは一瞬涙をこぼしてみたり、一瞬どころかそれで一晩考え込んでみたりというような体験を何度かしてみると、やはりそういう音が出るプレイヤーが本当だと思うし、あるいは本当に嘘ではなくて、そういう音が出ないプレイヤーはおれはいやだ、というようになってくる。本当でなくてもいい、つまり、例えばマイクロが出した音とEMTが出した音が、これはそれぞれの機械が作った音ですよと言われても、それは理屈家さんの話で、やはりレコード聴いてどちらがうれしくなるかといえば、やはりマイクロの音、EMTの音、がうれしくなって、もっとレコードを聴きたいという気にさせられる。僕はそういう音でなければオーディオではないと思う。オーディオであるかないかではない、どちらが正しいか、正しくないかでもない。一方にそういう音を出すプレイヤーがあり、一方にそういう音を出さないプレイヤーがあるとしたらどちらを選ぶだろうか。
 それではPART2で、そんな音をレコードに求めて、メーカーメイドのプレイヤーに飽き足らない読者のために、組み合わせ型プレイヤーを組み上げる際の考え方を、僕のつたない経験から話してみよう。

PART2
試聴の結果と、今までの経験をもとにして、組み合わせ型プレイヤーのノウハウを考える

 レコードプレイヤーを自作しよう、あるいはパーツを買ってきて組み上げよう、または既製品にいろいろ工夫を凝らして手を加えようといった傾向が、近ごろ盛んになってきた。振りかえってみると、これはなかなか面白い。現在のように既製品の比較的性能のいいレコードプレイヤーが出そろったのは、大体DDモーターが出てきて以来、ここ四、五年だ。それ以前はいいプレイヤーが欲しくても、既製品になかったので、音質を重視する愛好家は、いいパーツを買ってきて、自分で納得のいくように組み上げるしか方法がなかった。そこへDDモーターが出現し、従来プレイヤーを全く手がけていなかったオーディオメーカーまでが、DDモーターを応用して、かなり性能の優れたプレイヤーを容易に作れるようになって、自作派は影をひそめてしまった。
 ところがいつの間にか、誰いうとなく、どうもDDのモーターは、音に潤いがないとか、味わいがないとか、余韻がスパッと切れてしまうとか、聴いていてしらけるとか、いわれはじめた。その理由は未だに完全に解明されているわけではない。しかしプレイヤーというのは、何もモーターだけでできているものではなく、ほかの部分──軸受け、キャビネットの重さ、構造、アームの取り付け、全体のバランスなどに見落としがあるのではないかということで、昨年のオーディオ・フェアあたりから、いくつかの専業メーカーから従来ではとても考えられなかった、アマチュアライクな、プリミティプな実験機の形で発表されはじめた。それがマイクロのRX5000であり、P3であり、サエクのターンテーブルデッキなのだが、我々アマチュアもメーカーメイドプレイヤーに満足することなく、音の良いプレイヤー・システムに挑戦してみたらどうだろうか。以下はPARTIの試聴もふまえての、組み合わせ型プレイヤーに対する私のノウハウ集である。

①フォノモーターは……
 どうせプレイヤーシステムを組み合わせるのなら、フォノモーターはDD以外にしたらどうだろうか、なにもDDが悪いというほどの証拠があるわけではないが、最近のDDの音質に問題がある、と指摘する人は、必ずしもDDまたはクオーツロックという方式そのものが悪いのではなくDDターンテーブルの機械的、物理的強度、構造、あるいは精度が問題なのだと言っているようだ。
 つまり、ちょっと簡単な実験をしてみるとわかるが、ターンテーブルのフチのところを垂直に軽く下へ押し下げるような力を加えてみると、DDモーターのほとんどがガタガタする。というのは、DDはターンテーブルシャフトそのものがモーターのシャフトで、そのモーターも動力用のモートルではなく、非常にデリケートな精密モーターなので、しかもそれを電子制御するために特殊な構造になり、どうしてもシャフトの長さが短かく、細くなる。したがってそれを支える軸受けもガッチリ作りにくいというDDの泣きどころを指摘している。そういうところがもしかするとDDモーターの音がつまらない理由なのかもしれない。
 というわけで、DDでない方向に目を向けると、リンソンディック、アメリカのQRK(アイドラー・ドライブ)。完成品だがエンパイア、それからもう市販されていないで、中古マーケットでだんだん値が上がっているガラードのモデル301、あるいはその後に出て改悪ともいわれたモデル401、国産では最近出てきて話題になっているマイクロのRX5000、同じくBL91、そういったものが頭に浮かぶ製品だ。
②フォノモーターのトルク
 モーターの第二のポイントはトルクだ。すなわち回転する力の強さは、レコードをターンテーブルにのせて回転し、そこに針が下りてトレースする時に、再生音に微妙に影響する。レコードの溝は、音の強いところでは、大きくうねる。そこを針がたどっていく時にはレコードの回転に針がブレーキをかける形になる。したがって力の弱いモーターだと実際にブレーキをかけられた形になって、楽音に変化が起きる……といわれているが、はっきりしたことはわからない。しかしトルクの強いモーターはトルクの弱いモーターよりきちんとした音を出すことは間違いのない事実である。
③プレイヤー・キャビネットの役目
 プレイヤー・キャビネットに要求されることは、まず全体が非常に丈夫で重いこと、密度の高い重い材料で構成されていることが必要である。プレイヤーを自作した人なら経験していると思うが、同じターンテーブル、同じアームを付けても、薄い板でガランドウの箱に組んだ場合と、非常に密度の高いキャビネットに取りつけた時とでは、音が全然別ものといっていいくらい違ってしまう。
 プレイヤーのキャビネットというものは、とにかく回転しているターンテーブルを、できるだけ微動だにせず支えて、しかも、アームの先端についたカートリッジの針先がレコードの溝をたどった時に、カートリッジの振動が、アームの根元まで伝わってくるので、その振動もがっちり受けとめてあげなければならない使命がある。以上の理由から、プレイヤーのキャビネットはできるだけ重く、密度の高い材料が望ましい。
④メーカー製のキャビネット
 レッドコンソールのように鉛という非常に共振しにくい粘った材料と、木材の積層材の張り合わせもある。レッドコンソールのキャビネットは一部に非常に強い支持がある。またテクニクスのSP10MK2用のキャビネットのSH10B3とか、SP15用のSH5B1といったものは、天然石を細かく砕いて、改めて再構成したのもある。
⑤スチールを傭ったプレイヤー・キャビネット
 非常にユニークなアームを作っているサエクが昨年のオーディオ・フェアで発表した、鉄のブロックに機械加工して、アームも三本ないし四本取り付け可能なターンテーブルデッキと称するのがあるが、材料の持っている重さと密度で、何が何でも振動させまいとする、普通のメーカーでは二の足を踏むであろうアマチュア的発想を勇敢に製品化している。
 マイクロのRX5000のベースもかなり密度の高い金属を使っている。鉄の固まり、鉛の固まりといった金属の重さと密度をプレイヤー・キャビネットに応用するのも面白い。
⑥キャビネットの自作
 アマチュアがキャビネットを自作する場合は、やはり木材を主に使うのが実用的である。木材の中でも一般的なものは、合板とパーティクルボードだろう。ただし合板でも、それだけで考えないで、間に厚味のある鉛のシートをサンドイッチしたり、さらに固めのゴムもサンドイッチにして、木材、鉛、木材、ゴムシート、木材といった構造にして、とにかくきつく締め上げて、一つの固まりとするのが、特定の共振からのがれられるという点からも、重さからも理想的といえる。
⑦インシュレーター
 インシュレーターの役目は、プレイヤーのキャビネットから、床から伝わってくるスピーカーの振動をシャットアウトして、ハウリングを防ぐこと。そして、もう一つ、スピーカーから出た音が空気を振動させ、それがひいては、プレイヤー、アーム、カートリッジを振動させてハウルのを防ぐ。インシュレーターで巧妙にフロートされたプレイヤーは、その両方をうまくしゃ断できるのだが、ただフワフワ浮いていればいいというものではない。またもう一つのインシュレーターの考え方として、モーターが一方向に回転する場合、モーターを支えているすべての部分が反作用で、反対方向に振られるので、少なくとも、インシュレーターは垂直方向のみの振動の吸収を考え、水平方向は微動だにしないのが理想といえる。このことはトリオの技術者が最初に言いだしたが、私ももっともだと思う。そういう観点からみると、いまのインシュレーターは、水平方向にあまりにも無防備だという気がする。ラックスのプレイヤーシステムもこの点に留意してある。
⑧ターンテーブルシート
 いわゆるターンテーブルとレコードの間にあるシートだが、いままでは、ほとんどゴムが使われてきた。ところが最近、このターンテーブルシートが、音質にかなり大きな影響があると言われはじめ、ただいま暗中模索の段階といえる。現在販売されているシートの材質をあげても、ゴム、皮、ガラス、金属、コルクなど諸説ふんぷん。このことは、条件を一定にしてシートだけ変えれば、確かに異なった音がするが、ただし客観的にどれが一番いいかということは、まだはっきりしていないということだ。自分のシステムでは、あるいは自分のリスニング・ルームのコンディションではこれが良かったということは言えるが、万人に共通の最大公約数的な結論がないのだ。したがって情熱と興味のある人は全部自分で試してほしいし、それ以外にない。
⑨スタビライザー
 プレイヤーのダストカバーでさえ共振が問題になるのだから、レコード演奏中に、ターンテーブルのシャフトに小さなオモリを乗せることを一部のメーカーで提唱している。これはEMTのスタジオプレイヤーは昔からやっている方法で、レコードのセンターに、軽いオモリを乗せてシャフトにピッタリ押しつけることはいいことだと思う。
⑩ダストカバー
 プレイヤーのダストカバーは音質本位に考えた場合には多少問題がある。というのは、ダストカバーは、スピーカーからの音で簡単に共振してしまう。この現象は開けていても、閉じていても起こる。
 では振動を防ぐためには……二つの方法がある。一つはカバーをしないこと。もう一つは、きわめて重量のあるカバーをすることである。
⑪アーム
 まずアームの選び方ということになると、本誌17号でも言ったように、アームとはどんなものがいいかという問いに対しては、アーム単独で言えない。アームというものは、カートリッジをベストに生かすパーツなので、カートリッジの性能に見合ったものを選ぶ必要がある。またカートリッジの性能に見合った調整が必要だ。
 そしてアームの目のつけどころとしては、アームの重さと、機械的な強度の問題がある。アームを大ざっぱに二つに分けると 重いアームと軽いアームに分けられる。
⑫力-トリッジのコンプライアンス
 カートリッジを選ぶときに、カタログを見ると、コンプライアンスという項目があるが、これはカートリッジの針先がレコードの溝の中をたどっていくときの針先の硬さの度合いをいう。
 これが非常に柔らかく、弱い力でも針先が敏感に動くのはハイ・コンプライアンス型といい、硬くて動かすのにやや力が必要なのをロー・コンプライアンス型といっている。この両極の間にミディアム・コンプライアンスといわれるタイプが存在している。そしてほとんどのカートリッジはミディアム・コンプライアンスに属する。
 それでロー・コンプライアンス型、つまり針圧をやや重くかけないと性能が発揮しにくいタイプのカートリッジには、軽いアームを選んではいけない。またハイ・コンプライアンス型、つまり針先が非常に柔らかく、軽い針圧で動作させなくてはいけないカートリッジには、重いアームを選んではいけない。
 大まかな目やすとして、コンプライアンスを表す数字に20×10のマイナス6乗cm/dyneという数字が出てくるが、この頭に出てくる数字が5から10くらいをロー・コンプライアンス型。10から30くらいをミディアム・コンプライアンス型。30から50くらいをハイ・コンプライアンス型と思えばよろしい。
⑬アームのいろいろ
 アームの選び方を整理すると、まず一本のアームを選ぶ場合には、自分が一番主力にしたいカートリッジのコンプライアンスに応じてアームの重量を選ぶ。
 もしアームを二本つける場合には、軽量級と重量級の両極端を選ぶのが一番いい。三本つける場合には、その中間を加える。
 ただし同じ軽量アームでも、アームのタイプが違うと音質が大幅に変わることがある。たとえばSMEのS3などは軽量化されたアームだがオイルダンプされている。一方その正反対にADCのアームLMF1あるいは2は、極度に軽量化され、感度も高くしたアームといえる。したがって、ハイ・コンプライアンス型のカートリッジを使う場合でも、SMEのS3と、AADCとでは音が違う。
 それから比較的軽量級であっても、ダイナミック・バランスになっているアーム、たとえばマイクロのMA505は、決して重量級ではないが、ダイナミック・バランスという別な構造のために、独特の音が楽しめる。
 このへんがアームを選ぶもうひとつの難しさになるので、その時には経験者の意見を聴くとか、お店の人によく相談した方がいい。
⑭オイルダンプアーム
 近ごろでは、昔行なわれていた、アームをシリコンオイルなどで共振を制動しようという傾向がチラホラ見えてきた。
 ただし、本来の重量級オイルダンプとそれからSMEのS3というニュータイプのアームが提唱し始めたアームの外側にオイルのタブ、漕を取り付けて、そこでアームの動きを制動しょうといったアイデアもある。
 軽くダンプしたオイルダンプのアームというのは、なかなかいいものだなあというのが私の実感だ。
⑮スタティック型とダイナミック型
 アームは大別して、スタティック・バランス型とダイナミック・バランス型とに分けられる。
 スタティック・バランスというのは、天びんばかりのようにオモリでバランスをとり、針圧を加えるアーム。ダイナミック・バランスというのは、オモリでまず平衡状態を作っておいて、針圧をゼロにして、バネで針圧を加える。概してスタティック型アームは軽針圧カートリッジに対して非常に長所を発揮する。ダイナミック型アームはMCカートリッジを中心としたコンプライアンスのやや低めのカートリッジに最適といえる。
⑯ラテラルバランサー
 ラテラルバランサーは、どうもひところ、アームの働きをよく理解しない状態で、少し騒がれ過ぎたようだ。
 少なくともスタティック・バランス型のアームに関しては、あまり大きな意味はないと思う。ラテラルバランサーの必要なアームは、第一に一点支持型つまりワンポイントサポート型のオイルダンプ。第二にSMEなどに代表されるナイフエッジ型のアーム。この二つには必要不可欠。第三にはこれは必要不可欠とまでは言い切れないが、ダイナミック・バランス型のアームには、あった方がいいと思う。
⑰インサイドフォースキャンセラー
 インサイドフォースとは、レコードの回転と、それに対してアームが、先端が内側に曲がっていることから、ベクトルの和で、アームが内側に引き込まれる力で、それをキャンセルするために、アームを外側に引っ張る力をインサイドフォースキャンセラーという。ただインサイドフォースキャンセラーという言葉が、何か必要以上に誇大解釈されている。たとえば、インサイドフォースで片チャンネルの音が歪むとかいわれたが、最近では、インサイドフォースを打ち消すというよりも、むしろ従来から欧米で言われていたアンチスケーティングという意味合いに考えた方がいいと思う。
 アンチスケーティングというのは、要するに、レコードの外側のガイドグループに針を落とした時に、針がスーッと中に引き込まれて、曲の頭が飛んでしまうのを防止する意味で、インサイドフォースキャンセラーというようにシビアな考え方をしないで、横滑りをいくらか押えるというぐらいに考えた方がいい。僕自身、自分のアームの調整で、インサイドフォトスキャンセラーをほんの少し変えたことで歪みがガタッと減ったという体験はない……。
⑱アームの高さ調整
 僕はアームの上下方向の高さというのは、あまり神経質になる必要はないと思う。理論的に言うと、高さを大幅に変えると、バーチカルアングルが変わるが、アームの長さ、たとえば国産のアームの平均値、アームの支点から針先までを240mmとすると、根元で、2mm高さが狂ったとして、針先の角度で何度狂うかと考えてみれば……、あまり神経質になる必要はない。もちろん、いろいろなシェルを混用した場合は、調整が必要だ。
⑲アームの長短
 以前のSMEのアームには3009と3012という二種類があったが、その型番の由来というのが、アームの回転中心から針先までが、およそ9インチと12インチだったからで、それは昔レコードに16インチ盤(40センチ盤)というプロ用のがあって、それをプレイバックするために必然的に長いアームが必要だったためだ。その名残りが、現在でもオルトフォンのRMG309とかEMTの長いアームである。
 ここでアームの長短を、性能の面からみると、アームを長くすればトラッキングエラーが少なくなり、一方レコードのそりを考えると、安定にトレースするためには、短いアームの方が追従性、トラッキングアビリティーが向上するはず。と両者がゆずらず、レコードの追従性を重視する人は短いアーム、トラッキングエラーを少なくしたい人は長いアームという使いわけをしていた。
 ところでトラッキングエラーは、アームを長くしたところで、せいぜい一度か一度半の差しか出ないんだ! と短いアーム派が強力になって、長いアームがいっせいに姿を消したことがあった。
 ところが、最近になって、アームの音質がいろいろ言われはじめて、私自身も、アームの音質という面に着目していろいろ実験してみると、長いアームと短いアームは、共振の現れ方が全然違うらしいことに気がついた、同じメーカーのアームでも、長さが変わると音質がガラッと変わる。
 これはトラッキングエラーとか、アームの追従性は抜きにして、レコードを安定にトレースしているときの音質の違いで言うと、私自身、今までの短いアーム派から長いアーム派に変わってきた。16インチ用の超ロングアームの方が音質がいい。
 その理由は、長いアームの方が共振の出方が、いまのアームの構造だと、いいところへいっているのではないかという気がする。
⑳アームの形状
 アームの形状は、オルトフォン、SME型のコネクターが普及して以来パイプアームが全盛をきわめているが、パイプを何らかの格好で曲げないと、トラッキングエラーの修整ができないので、S字型とかJ字型に曲げている。ただ曲げることによってアームの材質が一部分不均一の個所が生じたり、有害な共振を生じることもあるとして、なるべく曲げ加工をしない方がいいという考え方が一部でいわれている。S字型は二カ所、J字型は一カ所。例外的にEMTの927についているアームのようにアーム全体にアールをつけて、弓型というかアーチルッキング型もある、少なくともパイプをゴチャゴチャ曲げない方がいいみたいだ。そこで出てきたのが、最近のストレートアームだ。ただし、ストレート型にすると、オルトフォン・SMEのコネクターが使えなくなる。ストレートアームの音がいいといわれるのは、パイプを成形したままで、何ら加工を加えないために、パイプ本来の軽量かつ強度が高い性質が生かされているためだろう。
㉑パイプと交換可能なアーム
 アームの根元でパイプごと交換できるアームというのはスタックスが始めて、ごく最近になってSMEのS3、オーディオ・クラフトが追随。最近ではエクスクルーシヴのP3も交換可能のアームを装備している。
 SMEの場合は、あくまでアームの先端にマスを集めないようにということからきていると思うが、オーディオ・クラフトのアームはストレート、S字型、あるいはパイプ材質、直径、などいろいろなスペアパイプがあって、かなりマニアックな実験的なことが出来るアームだ。一種のシステムアームといっていいのではないか。
㉒自作プレイヤーのパーツ・レイアウト
 プレイヤーを自作する場合には、モーターの取り付け位置をかなり自由に選べるので、アームのレイアウトを紹介すると、
❶アームを比較的前方にレイアウトする方法
 この方法はアームのお尻があまり出っ張らなくて、プレイヤーの奥行きを浅くできる。(図一のB)
❷アームを思いきって後ろにレイアウトすると、プレイヤーの幅を狭くすることができる(A)。この二つを操作してみると、カートリッジが手前から引っ込んだ位置にある❷の方が針を乗せやすいことがわかる。❶のようにカートリッジがぐっと手前にあるレイアウトは、カートリッジを真横から見ることになり、針先を特定の音溝に乗せようとするとなかなか難しい。
 それからアームを二本取り付ける場合にも二つの方法がある。
❶従来の位置、すなわち右真横と、プレイヤーの奥に一本目と直角に
❷プレイヤーの奥行きを増やしたくない場合は、ターンテーブルをはさんで、右と左にアームをつける。(図二)
❸ところがアームの構造によっては図三のように、ターンテーブルをはさんで、二本のアームが平行にレイアウト出来る場合もある。ただし左側につけるアームはストッパーのないフリーなアームであることが条件となる。
 最後に、何もプレイヤーのキャビネットを四角形で考える必要はないとすれば、マイクロのDDX1000のように円型で考えてもよいと思う。
 それからキャビネットにターンテーブル、アームをマウントする場合には、とにかくできるだけしっかりと締めつけることに尽きる。いったん締めて、数カ月使っているうちにネジがゆるんでくるので時々締めてやれば、次第に落ち着いて、ゆるんでこなくなる。
㉓オーバーハング
 オーバーハングというのは、アームの支点と、ターンテーブルの中心、および針先が一直線上に並んだ状態で、ターンテーブルのセンター(スピンドル)から針先までの長さをいう。ところがオーバーハングを調整するときに、スピンドルというのは、かなり出っ張っていて、針先までの長さを測定することがたいへんむずかしい。
 そこで僕が昔からやっている方法を紹介する。本誌17号でも紹介したが、SMEがはじめた方法で、別掲のゲージを使ってもらうのが一番実用的な方法だ。
㉔アームコード
 アームからの引き出しコードについては、サエクとかオーディオ・クラフトから、三種類のコードが発売されているように、MM型、ミディアムインピーダンスのMC型用、ローインピーダンスのMC型用と、カートリッジの出力インピーダンスによって選ぶことが望ましい。MM型カートリッジに適したアームコードは、MC型には不適当だし、MC型用のコードはMM型にはまずい。
 つまりMM型のようにインピーダンスが高いカートリッジはコードの直流抵抗分より、コードの線間容量が少ないことの方が重要で、MC型の場合には内部抵抗と内部インピーダンスが低いために線間容量は増えてもあまり影響を受けず、むしろコードの抵抗分の極力少ない方が理想的なのである。一般的なプレイヤーシステムのアームコードはMM型にピントを合わせているのでMC型カートリッジを使用する場合は注意が必要だ。