Daily Archives: 1979年3月30日

「私のタンノイ観」

井上卓也

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「私のタンノイ観」より

 スピーカーシステムは、アンブなどのエレクトロニクスを応用したコンポーネントに比べると、トランスデューサーとして動作をするための、それぞれ独特のメカニズムをもち、固有のキャラクターが音に強く出やすく、定評が高いメーカーの製品は、おしなべて伝説的な神話が語りつかれているが、そのなかで、もっとも、オーディオ的な神話やミステリアスな事実が多く語られるのは、タンノイをおいて他にはないといってもよいだろう。
 その前身は、畜電池メーカーであったらしく、タンタルアロイを短縮してタンノイの名称をつけたといわれるこのメーカーは、英国のスピーカーメーカーとしては、ヴァイタボックス社と双璧をなす存在であり、しかも、デュアル・コンセントリック方式というユニークな構造をもつ同軸型2ウェイユニットのバリエーションを基本として永くスピーカーシステムを作りあげてきた点に特長がある。
 過去から現在にいたるタンノイを象徴するデュアル・コンセントリックユニットは、同じ構造をもつ3種類の製品中で、38cm口径のユニットであろう。かつての、ボイスコイルインピーダンスが15Ωであった時代の38cm口径、モニター15は、高域ユニットのレベルコントロールは固定型であったが、このユニットを使って、現在でもエンクロージュアを国産化して残っている大型のコーナー型バックローディングホーンエンクロージュアや、同様なタイプのG.R.F.がつくられ、ヨーロッバを代表するフロアー型システムとして、高級なファンに愛用された。とくに、モニター15の初期のモデルは、ウーファーコーンの中央のダストキャップが麻をメッシュ織りとしたような材料でつくられており、ダーク・グレイのフレーム、同じくダーク・ローズに塗装された磁気回路のカバーと絶妙なバランスを示し、いかにも格調が高い、いぶし銀のような音が出そうな雰囲気をもち、多くのファンに嘆息をつかせたものである。
 ソリッドステートアンブの世代となるとモニター15は、改良が加えられて、モニター・ゴールドに発展する。まず、ボイスコイルインピーダンスが8Ωとなり、ネットワークに高域のレベルコントロールと、当時としては大変にユニークなハイエンドのレスポンスをコントロールするスナッブ型のロール・
オフコントロールが加わり、ウーファーのf0も、約10Hzほど低くなって、一段とバーサタイルな使いやすいユニットに変わった。
 この当時から、海外製が価格的にも比較的に求めやすい状態となっていたために、レクタンギュラー型のヨークや、コーナー型のヨークといったバスレフ型エンクロージュア採用のモデルを中心として急激に数多くのファンに愛用されるようになった。もちろん、トップモデルのオートグラフは、依然として夢のスピーカーシステムであったが……。
 巷にタンノイの音としてイメージアップされた独特のサウンドは、やはり、デュアル・コンセントリック方式というユニット構造から由来しているのだろう。高域のドライバーユニットの磁気回路は、ウーファーの磁気回路の背面を利用して共用し、いわゆるイコライザー部分は、JBLやアルテックが同心円状の構造を採用していることに比べ、多孔型ともいえる、数多くの穴を集合させた構造とし、ウーファーコーンの形状が朝顔状のエクスポネンシャルで高域ホーンとしても動作する設計である。
 したがって、38cm型ユニットでは、クロスオーバー周波数をホーンが長いために1kHzと異例に低くとれる長所があるが、反面においては、独特なウーファーコーンの形状からくる強度の不足から強力な磁気回路をもつ割合いに、低域が柔らかく分解能が不足しがちで、いわゆるブーミーな低域になりやすいといった短所をもつことになるわけだ。
 しかし、聴感上での周波数帯域的なバランスは、豊かだが軟調の低域と、多孔型イコライザーとダイアフラムの組み合わせからくる独特な硬質の中高域が巧みにバランスして、他のシステムでは得られないアコースティックな大型蓄音器の音をイメージアップさせるディスクならではの魅力の弦楽器の音を聴かせることになる。それか、あらぬか、タンノイファンには、アコースティック蓄音器時代から長くディスクを聴き込んだ人が多く、オーディオコンポーネントとしてのラインナップは、カートリッジにオルトフォン、SPUシリーズ、アンプは、マッキントッシュの管球式コントロールアンプC−22とパワーアンプMC−275が、いわば黄金のトリオであり、ソリッドステートアンプでも、C−26とMC−2105の組み合わせが多く使用されていた。
 モニター・、ゴールドの時代がしばらく続いた後に、不幸にして、タンノイのコーンアッセンブリー製造セクションが火災にあい焼失するというアクシデントが起き、ブックシェルフ型の全盛時代でもあってその再起が危ぶまれたが、この逆境を乗切るかのようにつくられたものが、ハイ・パフォーマンス・デュアルの頭文字を付けた新モデルのシリーズで、この時点からユニット口径をあらわす単位がインチからセンチメートルに変わり、38cm口径ユニットは、385HPDと呼ばれるようになったが、これが現在のHPD385Aの前身である。
 新しいHPDシリーズは、ウーファーのコーン紙のカーブが変更され、f0が現代型のユニットの動向にマッチさせるために15〜20Hz低くなり、ボイスコイル構造が巻幅がヨーク厚より広いロングトラベル型に変わった。また、ウーファーコーン紙の裏側には、コーンの剛性を高めるために補強用のリブが取付けられたことも、このユニットの特長であろう。
 このHPDのシリーズになってからは、タンノイのスピーカーシステムは、大幅に再編成され、長期間トップモデルの座にあったオートグラフと、そのジュニアモデルG.R.F.が姿を消し、アーデンを筆頭とし、バークレイからイートンにいたるモデルナンバーの頭文字がアルファベット順になった5モデルでシリーズを形成するようになった。しかし、昔日のトップモデルであったオートグラフとG.R.F.を要求するファンの声が高まり、輸入代理店が現在のTEACに移換されてから、タンノイの了承を得て、このオートグラフとG.R.F.は、レプリカとして復沽することになる。
 タンノイの歴史として想い出される他のシステムでは、タンノイがユニットを供給して、エンクロージュアのみを自社製とする英ロックウッドのプロ用モニタースピーカーシステムのシリーズのソリッドに引締まった低域に特長がある一連の製品や、アメリカ・タンノイがエンクロージュアをつくった数多
くのアメリカ・タンノイのシステムがある。一時期輸人されたアメリカ・タンノイのモニター・ゴールド12を収めたブックシェルフ型マローカンの独特の英米混血の魅力ともいえるサウンドや米西岸で聴いたアメリカ・タンノイのベルベデールのJBLサウンドとも感じられるカラッと乾いた、シャープでエネルギッシュな音などが思い出される。
 このアメリカ・タンノイのかつてのカタログに、写真なしにのっていたコーネッタの名称からきたイメージが発端となり、製作したものが、ステレオサウンド本誌、マイ・ハンディクラフト欄に3回にわたり連載した幻のコーネッタのレプリカである。ちなみに、コーネッタのレプリカが完成した頃に、アメリカ・タンノイのコーネッタの写真を人手したわけだが、これが、あるか、あらぬか、ただのブックシェルフ型システムであったというのが、この幻のコーネッタ物語の終止符である。
 つねづね、何らかのかたちで、タンノイのユニットやシステムと私は、かかわりあいをもってはいるのだが、不思議なことにメインスピーカーの座にタンノイを置いたことはない。タンノイのアコースティック蓄音器を想わせる音は幼い頃の郷愁をくすぐり、しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかいに魅せられはするのだが、もう少し枯れた年代になってからの楽しみに残して置きたい心情である。暫くの間、貸出し中のコーナー・ヨークや、仕事部犀でコードもつないでないIIILZのオリジナルシステムも、いずれは、その本来の音を聴かしてくれるだろうと考えるこの頃である。

「私のタンノイ観」

菅野沖彦

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「私のタンノイ観」より

「タンノイ」という名まえは、オーディオに関心がある方で知らない人はいないだろう。特に、日本では、タンノイ・ファンは昔からたいへんに多く、英国の伝統あるスピーカーメーカーにふさわしいイメージが定着している。
 私なども、タンノイのスピーカーは聴く前から名器で必ず、いい音がするはずだという気持をもっていた。
     ※
 タンノイという会社は、非常にはっきりしたコンセプトを持っている。終始一貫、デュアル・コンセントリックと称する同軸型ユニットを使い、ユニットの種類はごく少数、そしてエンクロージュアにはさまざまなバラエティーをもたせて、システムとして完成させるという考え方だ。
 ユニットというのは、ボイスコイルとコーンと、磁気回路からなるハードウェアだが、エンクロージュアというのはスピーカーの世界の中でも独特な神秘性を持っていて、ソフトウェア的な要素が強い。たしかに、エンクロージュアは音響理論的には明確な設計方式の存在するものではあるが、それを現実化する製造段階や調整には、かなり神秘性がひそんでいる。その辺が電気理論とはまったく違うところでそういうバックグラウンドから生れるエンクロージュアが音と結びついて、スピーカーの魅力をつくりだしている要素が強い。そこで、シンプルなユニットを使って、いろいろなエンクロージュアでシステムをまとめていくというタンノイの体質や行き方が、いかにもスピーカーメーカーらしい、音の探求者らしい行き方として受け取られたことは事実だろう。
 また、創始者ガイ・R・ファウンテンの名前を表に打ち出して、〝オートグラフ〟であるとか、〝G・R・F〟といったネイミングを持つシステムを発表してきたことにも、スピーカーの持つ神秘性と共に、その陰にある、人間の能力と精神を感じさせ、ここにもタンノイらしい行き方を強く感じる事が出来た。このような同社の方針が、総合的にタンノイに対する一つのレピュテーションを作り上げてきたのではないだろうか。
     ※
 音というものは必ずしも、人間の聴覚だけに訴えるのではなく、視覚的な面の影響も少くない。これを先入観というと悪く聞こえるかもしれないが、見た目の美しさや風格を含めた総合的な観念でトータルな音の印象が聴き手の中に生れるものだ。例えば、どんなにすばらしい音響効果のホールでも、ドタ靴を履いて菜っ葉服を着た人達の集りのオーケストラだったら、たとえ演奏が良くてもあまり気分のいいものではないだろう。また、食べ物でもそうだ。どんなに美味な刺身でも、発泡スチロールのペラペラの皿の上に盛って出されたらどうだろう。それと同じで、オーディオというものもトータル・レセプションだからこそ、最初からそういう受け取り方をしなくては、楽しさ、おもしろさはずいぶん少なくなってしまうと思うのだ。それだからといって、ハードウェアとしての理論をないがしろにしたり、エンジニアリングを無視してもいいということではない。そういうものは、あくまでも肝心の芯として重要なのだが、それだけですまされたり、それで十分という粗雑な感性の人達が音を本当にエンジョイするとは思えないのである。また、音楽を聴く道具がそんなに寒々しいものばかりでは人間が一生、命をかけての趣味としても淋しい限りである。
 そういう意味でトータルなオーディオというのは、人間の総合的な感覚と知性の対象として価値高きものでなければならないだろう。したがって、タンノイのように一つの信念を持った人間が本当に自分たちの信じるものを理想的なかたちにまとめあげて、少量であっても丹念につくって売っていくという姿勢のメーカーの製品が、名器として受け取られた事は当然だと思う。
    ※
 歴代のタンノイ製品というものは、アピアランスもたいへんクラシックでレコードを聴くムードにぴったりのものだ。また、スピーカーの出来具合や、ハードウェアとしての側面からつっこんでも、当時の技術水準で考えれば、これだけの同軸型ユニットというものは他に得難い高水準のものだったわけである。このようにタンノイの製品というものは、技術レベルで見ても最高級であり、スピーカーシステムとしての一つのまとまったトータルな作品としての完成度も、たいへんに品位の高いものであった。
 もともと英国は音楽のマーケット、〝リスナーズ・マーケット〟として世界の中心地だった。英国は音楽を鑑賞する国というイメージがたいへん強く、クラシック音楽の歴史を知る人にとっては、作曲家は不毛であっても、多くの作曲家や演奏家のデビューの地としての英国のイメージは強い。そういう歴史的性格をもつ国であるだけに、昔から音楽再生、すなわちレコード音楽もたいへん盛んであった。レコード・レーベルの名門も英国にはたいへん多い。そういう事情からも、レコード音楽とオーディオ機器という点でも、他のヨーロッパ諸国と比べても少し違う、一際、レコード好き、オーディオ好きといういわば、エンスージアスティックなイメージをつくってきたと思う。そういう英国に生れた最高級スピーカー、タンノイが日本で絶大な信頼ばかりでなく、むしろ神格化された存在にまでなっていったことは理解できるような気がするのである。
 これは推察だが、エンジニアとしてガイ・R・ファウンテンがスピーカーを開発した当時、実際にスピーカーから聴くことができたのは、ほとんどがレコードの音だったのではないだろうか。また、音楽好きのエンジニアの彼自身は生の演奏会と共にアコースティックのころからレコードを聴いて育ってきたのに違いない。
 英国には、たくさんの素晴らしい生の音楽に接する機会があるから、生の音楽とアコースティックのレコードのサウンドとの間に、レコード好きの彼の、頭の中には相互的にバランスをとる回路が出来上りその耳で自分の作るスピーカーを聴いて、自然な音感覚にまとめるという経過をたどってできあがったタンノイのスピーカーだから、昔からレコードを聴き続けてきているレコードファンの耳になじみのいい質感を持って響いたとも考えられるだろう。
 これはタンノイ社自身、今も盛んに言っていることなのだが、コンサートのような音を家庭で響かせようということだ。しかし、これは原音再生という意味とは少し違う。あくまで、コンサートを聴いているというイメージに近い響きだと思う。レコードの世界に変換した原音なのである。そういうまとめ方の音は、レコード音楽愛好家が好みそうな音であるし、実際われわれがいま聴くと、悪くいえば古くさいなという感じもあるが、しかし、懐かしい、郷愁を感じるような、あるいは居心地のいい響きを持っている。
 タンノイは確かに、一種独特のキャラクターを持っているのだが、それはレコード音楽の歴史とともに歩み続けてきたキャラクターであり、昨日、今日、突如として生まれた妙に無機的なキャラクターとか、何か頼りない、風が吹き抜けるようなキャラクターではない。それは機械的ななかにもどこかなじみのいいキャラクターといえるものを持っている。それは純粋に変換器としての物理特性を表に出してくるものではなく、いかにもラウド・スピーカーという語感にふさわしい実在感のある音を出してくる。
 しかし、タンノイのような行き方が通用する時代と通用しない時代という、時代の流れがタンノイにも大きな影響を及ぼしていることは事実である。一方では自分たちの信じる理想的なものを、少数ではあるが丹念につくり上げていくという基本精神は、現在のタンノイにも脈々と流れているはずだが、時代の要求に応じる量産的体質に転換しつつあるのを見る事は、我々、古きタンノイを知る人間にとっては一抹の淋しさを禁じ得ない。現代のジョンブルが、いかなる方向を模索して活路を見出すか、これからのタンノイに姿を見守ろう。

「私とタンノイ」

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・タンノイ」(1979年春発行)
「タンノイ論 私とタンノイ」より

 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。
     *
 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
 おまえにとってのタンノイを書け、と言われて、右のようなことをまず思い浮かべた。私自身、いくつものタンノイを聴いてきた。デュアル・コンセントリック・ユニットやレクタンギュラーG・R・Fに身銭を切りもした。だが、ほんとうにタンノイの音を知っているのだろうか――。ふりかえってみると、さまざまなタンノイの音が思い起こされてくる。

タンノイ初体験
 はじめてタンノイの音に感激したときのことはよく憶えている。それは、五味康祐氏の「西方の音」の中にもたびたび出てくる(だから私も五味氏にならって頭文字で書くが)S氏のお宅で聴かせて頂いたタンノイだ。
 昭和28年か29年か、季節の記憶もないが、当時の私は夜間高校に通いながら、昼間は、雑誌「ラジオ技術」の編集の仕事をしていた。垢で光った学生服を着ていたか、それとも、一着しかなかったボロのジャンパーを着て行ったのか、いずれにしても、二人の先輩のお供をする形でついて行ったのだか、S氏はとても怖い方だと聞かされていて、リスニングルームに通されても私は隅の方で小さくなっていた。ビールのつまみに厚く切ったチーズが出たのをはっきり憶えているのは、そんなものが当時の私には珍しく、しかもひと口齧ったその味が、まるで天国の食べもののように美味で、いちどに食べてしまうのがもったいなくて、少しずつ少しずつ、半分も口にしないうちに、女中さんがさっと下げてしまったので、しまった! と腹の中でひどく口惜しんだが後の祭り。だがそれほどの美味を、一瞬に忘れさせたほど、鳴りはじめたタンノイは私を驚嘆させるに十分だった。
 そのときのS氏のタンノイは、コーナー型の相当に大きなフロントロードホーン・バッフルで、さらに低音を補うためにワーフェデイルの15インチ・ウーファーがパラレルに収められていた。そのどっしりと重厚な響きは、私がそれまで一度も耳にしたことのない渋い美しさだった。雑誌の編集という仕事の性質上、一般の愛好家よりもはるかに多く、有名、無名の人たちの装置を聴く機会はあった。それでなくとも、若さゆえの世間知らずともちまえの厚かましさで、少しでも音のよい装置があると聞けば、押しかけて行って聴かせて頂く毎日だったから、それまでにも相当数の再生装置の音は耳にしていた筈だが、S氏邸のタンノイの音は、それらの体験とは全く隔絶した本ものの音がした。それまで聴いた装置のすべては、高音がいかにもはっきりと耳につく反面、低音の支えがまるで無に等しい。S家のタンノイでそのことを教えられた。一聴すると、まるで高音が出ていないかのようにやわらかい。だがそれは、十分に厚みと力のある、だが決してその持てる力をあからさまに誇示しない渋い、だが堂々とした響きの中に、高音はしっかりと包まれて、高音自体がむき出しにシャリシャリ鳴るようなことが全くない。いわゆるピラミッド型の音のバランス、というのは誰が言い出したのか、うまい形容だと思うが、ほんとうにそれは美しく堂々とした、そしてわずかにほの暗い、つまり陽をまともに受けてギラギラと輝くのではなく、夕闇の迫る空にどっしりとシルエットで浮かび上がって見る者を圧倒するピラミッドだった。部屋の明りがとても暗かったことや、鳴っていたレコードがシベリウスのシンフォニイ(第二番)であったことも、そういう印象をいっそう強めているのかもしれない。
 こうして私は、ほとんど生まれて初めて聴いたといえる本もののレコード音楽の凄さにすっかり打ちのめされて、S氏邸を辞して大泉学園の駅まで、星の光る畑道を歩きながらすっかり考え込んでいた。その私の耳に、前を歩いてゆく二人の先輩の会話がきこえてきた。
「やっぱりタンノイでもコロムビアの高音はキンキンするんだね」
「どうもありゃ、レンジが狭いような気がするな。やっぱり毛唐のスピーカーはダメなんじゃないかな」
 二人の先輩も、タンノイを初めて聴いた筈だ。私の耳にも、シベリウスの最終楽章の金管は、たしかにキンキンと聴こえた。だがそんなことはほんの僅かの庇にすぎないと私には思えた。少なくともその全体の美しさとバランスのよさは、先輩たちにもわかっているだろうに、それを措いて欠点を話題にしながら歩く二人に、私は何となく抵抗をおぼえて、下を向いてふくれっ面をしながら、暗いあぜ道を、できるだけ遅れてついて歩いた。
     *
 古い記憶は、いつしか美化される。S家の音を聴かせて頂いたのは、後にも先にもそれ一度きりだから、かえってその音のイメージが神格化されている――のかもしれない。だが反面、数えきれないほどの音を聴いた中で、いまでもはっきり印象に残っている音というものは、やはり只者ではないと言える。こうして記憶をたどりながら書いているたった今、S家に匹敵する音としてすぐに思い浮かぶ音といったら、画家の岡鹿之介氏の広いアトリエで鳴ったフォーレのレクイエムだけといえる。少しばかり分析的な言い方をするなら、S氏邸の音はタンノイそのものに、そして岡邸の場合は部屋の響きに、それぞれびっくりしたと言えようか。
 そう思い返してみて、たしかに私のレコード体験はタンノイから本当の意味ではじまった、と言えそうだ。とはいうものの、S氏のタンノイの充実した響きの美しさには及ばないにしても、あのピラミッド型のバランスのよい音を、私はどうもまだ物心つく以前に、いつも耳にしていたような気がしてならない。そのことは、S氏邸で音を聴いている最中にも、もやもやとはっきりした形をとらなかったものの何か漠然と心の隅で感じていて、どこか懐かしさの混じった気持にとらわれていたように思う。そしていまとなって考えてみると、やはりあれは、まだ幼い頃、母の実家であった深川・木場のあの大きな陽当りの良い二階の部屋で、叔父たちが鳴らしていた電気蓄音器の音と共通の響きであったように思えてならない。だとすると、結局のところタンノイは、私の記憶の底に眠っていた幼い日の感覚を呼び覚ましたということになるのか。

モニター・レッド
 S氏邸のタンノイからそれほどの感銘を受けたにかかわらず、それから永いあいだ、タンノイは私にとって無縁の存在だった。なにしろ高価だった。「西方の音」によれば当時神田で17万円で売っていたらしいが、給料が8千円、社内原稿の稿料がせいぜい4~5千円。それでも私の若さでは悪いほうではなかったが、その金で母と妹を食べさせなくてはならなかったから、17万円というのは、殆ど別の宇宙の出来事に等しかった。そんなものを、ウインドウで探そうとも思わなかった。グッドマンのAXIOM―80が2万5千円で、それか欲しくてたまらずに、二年間の貯金をしたと憶えている。このグッドマンは、私のオーディオの歴史の中で最も大きな部分なのだが、それは飛ばして私にとってタンノイが身近な存在になったのは、昭和三十年代の終り近くになってからの話だ。その頃は、工業デザインを職として、あるメーカーの嘱託をしていたので、少しは暮しが楽になっていた。デザインが一生の仕事になりそうに思えて、もうこの辺で、アンプの自作から足を洗おうと考えた。部屋は畳のすり切れた古い六畳和室だったが、当分のあいだ装置に手を加える気を起さないためには、ある程度以上のセットが必要だと考え、マランツ・セブンと、QUADのII型(管球式モノーラル・パワーアンプ)を二台という組合せに決めた。プレーヤーはガラードの301にSMEを持っていた。そこでスピーカーだが、これは迷うことなくタンノイのDC15にきめた。その頃、秋葉原で7万5千円になっていた。青みを帯びたメタリックのハンマートーン塗装のフレームに、磁極のカヴァーがワインレッドの同じくメタリック・ハンマートーン塗装。いわゆる「モニター・レッド」の時代であった。ただ、エンクロージュアまではとうてい手が出せない。G・R・Fやオートグラフは、まだほとんど知られていなかった。まして、怪しげなエンクロージュアに収めればせっかくのタンノイがどんなにひどい音で鳴るか、こんにちほど知られていない。グッドマンのAXIOM―80で、エンクロージュアの重要性を思い知らされていた筈なのに、タンノイの場合にそのことにまだ思い至っていなかったという点が、我ながらどうにも妙だが、要するところそこまででもう貯金をはたき尽くしたというのが真相だ。そして、このタンノイが、ごく貧弱ながらもエンクロージュアと名のつくものに収まるのは、もっとずっと後のことになる。

デュアル・コンセントリック・モニター15
 イギリス人は概して節倹の精神に富んでいると云われる。悪くいえばケチ。ツイードの服も靴も、ひどく長持ちするように出来ている。それか機械作りにもあらわれて、彼らは常に、必要最小限のことしかしない。たとえばクォードのアンプ。その設計者ピーター・ウォーカーは言う。「我々にはもっと大がかりなアンプを作る技術は十分にある。が、一般の家庭で、ごくふつうの常識的な愛好家がレコードやFMを楽しもうとするかぎり、いまのアンプやチューナー以上に大規模なものがなぜ必要だろうか。むしろ我々はいまの製品でさえ必要以上のクォリティをもっているとさえ思っている」と。
 タンノイのDC15――正確に書けばデュアル・コンセントリック・モニター15 Dual-Concentric Monitor 15 (同軸型15インチ2ウェイユニット)――は、よく知られているように、15インチのウーファーの中央、ウーファーの磁極の中心部を高音用のホーンが突き抜けて、磁極の背面にホーン・ドライヴァーユニットのダイアフラムとイクォライザーを持っている。そのことだけをみれば、アルテックの604シリーズと全く同じで、その基本は遠く1930年代に、ウエスターン・エレクトリックの設計にさかのぼる。
 だがそこから先が違っている。アルテック604は、トゥイーター用にウーファーと別の全く独立した磁極を持っていて、トゥイーターの開口部にはこれもまたウーファーとは全く切離された6セルのマルチセラーホーンがついている。つまり604では、ウーファーとホーントゥイーターは、材料も構造も完全に別個に独立していて、それを同軸型に収めるために、まるでやむをえずと言いたい程度に、ウーファーの磁極(センターポール)の中を、トゥイーターのホーンが貫通しているだけだ。
 ところがタンノイは違う。第一にトゥイーターのマグネットとウーファーのそれとが、完全に共通で、ただ一個の磁石で兼用させている。第二に、トゥイーターのホーンの先端の半分は、ウーファーのダイアフラムのカーヴにそのまま兼用させている。この設計は、おそろしく絶妙といえる反面、見方をかえればひどくしみったれた、まさにジョンブル精神丸出しの構造、にほかならない。クォードII型パワーアンプのネームプレートを止めている4本のビスが、シャーシの裏をかえすとそのまま、電解コンデンサーの足を止めるネジを兼ねていることがわかるが、このあたりの発想こそ、イギリスのメカニズムに共通の、おそるべき合理精神のあらわれだといえそうだ。
 しかもタンノイは、この同じ構造のまま、サイズを12インチ、10インチと増やしはしたものの、アメリカ・ハーマンの資本下に入る以前までは、ほとんど20年間以上、この3種類のユニットだけで、あとはエンクロージュアのヴァリエイションによって、製品の種類を保っていた。
 そう考えてみれば、タンノイの名声は、その半分以上はエンクロージュアの、つまり木工の技術に負うところが多いと、いまにして気がつく道理だ。
 オートグラフやG・R・Fの例を上げるまでもなく、中味のユニットよりもエンクロージュアのほうが高価、というスピーカーシステムは、タンノイ以外にも、またアメリカでもイギリスでも、モノーラル時代にはそれほど珍しいことではなかった。たとえばJBLハーツフィールド、EVのパトリシアン、ヴァイタヴォックスCN191クリプシュホーン……。だがしかし、ユニットの価格とエンクロージュアの価格との比率という点で、オートグラフ以上のスピーカーシステムは、かつて誰もが作り得なかった。イギリスで入手できるオーディオ製品のカタログ集ともいえるハイファイ・イヤーブック(HiFi year book)によれば、オートグラフはかなり永いこと英貨165ポンドだが、その中でDC15の占める価格はわずかに38ポンド。ユニットの3・3倍の価格がエンクロージュアだ。しかも図体がおそろしく大きいから、日本に輸入されたときにはこの比率はもっと大きくなる。ユニットが7万5千円の当時、オートグラフは45万円近かった筈だ。
 いまでこそ、エンクロージュアは単にスピーカーの容れ物ではなく、スピーカーシステム全体の音色を大きく支配していることを、たいていの人が知っている。その違いの大きさについて、心底驚いた体験をしたことのない人でも、少なくとも知識として知っている。
 けれど、昭和30年代から40年代にかけて、まだ日本全体が本当に豊かといえない時代に、スピーカーユニットにペアで15万円は支出できても、それを収めるエンクロージュアにあと80万円近く(オートグラフでないG・R・Fでさえ、ユニットごとのペアだとざっと60万円)を追加するというのは、よほどの人でなくては苦しい。そして、エンクロージュアは容れ物、という観念がどこかに残っているし、そうでなくとも、図面を入手して家具屋にでも作らせれば、ひとかどの音は出る筈だと、殆どの人が信じこんでいる。タンノイの真価の知られるのが、ことに日本でひどく遅れたのも仕方なかったことだろう。そのタンノイの真価を本当に一般の人に説得したのは、オーディオやレコードの専門誌ではなく、五味康祐氏が《芸術新潮》に連載していた「西方の音」であったのは、何と皮肉なことだったろう。そうしてやがて、西方……を孫引きするような形で、わけ知り顔のタンノイ評論が、オーディオ専門誌にも載るようになってくる……などと書くと、これはどうも薮蛇になりそうだが。

レクタンギュラーG・R・F
 あれはたぶん、昭和43年だったか。当時、音楽之友社が、我々オーディオ関係の執筆者たちに、お前たちも一度、アメリカやヨーロッパのオーディオや音楽事情を目のあたりにみてくる必要がある、といって、渡航資金に原稿料をプールしていてくれたことがあった。それは一応の額に達していた。
 ところで、前述の私のDC15は、その後、内容積が約100リッター足らずという、ごく小さな(ただし材質だけはやや吟味した)位相反転型のエンクロージュアに収まっていたが、これではどうにも音がまとまらない。かといって、レクタンギュラー・ヨークのクラスでは、わざわざ購入するのはおもしろくない。私の部屋は六畳のひと間に机から来客用のイスまでつめこんで、足のふみ場もない狭さだったが、それでもオーディオにはかなり狂っていて、JBLのユニットを自分流にまとめた3ウェイをメインとして、数機種のスピーカーシステムがひしめいていた。その頃、オートグラフの素晴らしさはすでによく知っていたが、どうやりくりしても私の部屋におさまる大きさではない。G・R・Fでもまだむずかしい。ところが、大きさはレクタンギュラーヨークと殆ど同じの、レクタンギュラーG・R・Fというのがあることを知って私の虫が突然頭をもたげて、矢も楯もたまらずに、前記の音楽之友社の積立金を無理矢理下ろしてもらって、あの飴色の美しいG・R・Fを、狭い六畳に押し込んでしまった。おかげでアメリカ・ヨーロッパゆきは私だけおジャンになったが、さてあのとき、どちらがよかったのかは、いまでもよくわからない。
 しかし皮肉なことに、このころを境にして次第に、自分の求めている音が自分自身に明確になってくるにつれて、ホーンバッフルの音は私の求めている音ではない、という確信に支配されるようになった。良いホーンロードの音は、たしかに、昔の良質の蓄音器から脈々と受け次がれてきたレコードの世界をみごとに構築する説得力はあったが、私自身はむしろ、そういう世界から少しでも遠いところに脱皮したかった。ホーンロード特有の、中~低音域がかたまりのように鳴りがちの傾向――それはことに部屋の条件の整わない場合に耳ざわりになりやすい――が、私の求める方向と違っていたし、高音域もまた、へたに鳴らしたタンノイ特有の、ときとして耳を刺すような金属室の音が、それがときたまであってもレコードを聴いていて酔わせてくれない。
 お断りしておくが、オートグラフを、少なくともG・R・Fを、最良のコンディションに整えたときのタンノイが、どれほど素晴らしい世界を展いてくれるか、については、何度も引き合いに出した「西方の音」その他の五味氏の名文がつぶさに物語っている。私もその片鱗を、何度か耳にして、タンノイの真価を、多少は理解しているつもりでいる。
 だが、デッカの「デコラ」の素晴らしさを知りながら、それがS氏の愛蔵であるが故に、「今さら同じものを取り寄せることは(中略)私の気持がゆるさない」(「西方の音」より)五味氏が未知のオートグラフに挑んだと同じ意味で、すでにこれほど周知の名器になってしまったオートグラフを、いまさら、手許に置くことは、私として何ともおもしろくない。つまらない意地の張り合いかもしれないが、これもまた、オーディオ・マニアに共通の心理だろう。
 そんなわけで、タンノイはついに私の家に落ちつくことなしに、レクタンギュラーG・R・Fは、いま、愛好家I氏の手に渡って二年あまりを経た。ほんの数日まえの夜、久しぶりにI氏の来訪を受けた。二年に及ぶI氏の愛情込めた調整で、レクタンギュラーG・R・Fは、いま、とても良い音色を奏ではじめたそうだ。私の家の音を久しぶりに聴いて頂いたI氏の表情に、少しの翳りも浮かばなかったところをみると、タンノイはほんとうに良い音で鳴っているのだろうと、私も安心して、うれしい気持になった。