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トリオ Supreme 700C

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 トリオの新しい高級アンプである。特にこのプリアンプの音の魅力は大変に個性的で、オリジナリティがある。中高域の明るく透明で、量感のある魅力は強烈だ。嫌いな人もあろう。しかし、世界の数多くの高級アンプの中で、これくらい個性が強く、しかも、絶対感覚的に美しく、快い、と感じさせる音をもった日本製のアンプも貴重である。デザインはマランツをお手本にしてトリオナイズしたものでオリジナリティはない。

外観と内容にごまかしのない嘘のない製品には魅力がある

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオ機器はレコードやテープやFMから音楽をより美しい音で抽き出し鳴らす道具だ、という点を第一に明確にしておく必要がある。万年筆は文字を書く道具、カメラは写真を撮る道具、釣竿は魚を釣る、かんなは木を削る、ゴルフのクラブは球を打つ道具だというのと全く同じ意味でオーディオ機器は音楽を鳴らす道具である。あらゆる道具というものを頭に浮かべてみれば、良い仕事をするには良い道具が必要で、その何かをするという目的に厳しい態度で臨む人ほど道具に凝る。しかしまた、良い道具を手に入れればそれで道具が勝手に仕事をしてくれるわけではなく、道具の善し悪しと関係なく道具は使いこなさなくては能力を発揮しない。この、使いこなす、という一点で道具がそれ自体独立した存在でなく人間と一体になって仕事をする、まさに「道具」なのだということはが明らかになる。そのことから道具は手段であると言いかえることもできるが、それだから目的をなし遂げさえできれば道具はどんなものでも構わないということにはならないので、大工が鋸やかんなに凝るというのが専門職だけのことだというなら、素人にも毎日の食事をとる箸や茶碗にさえ気に入りの道具というのがあって使い馴れない箸ではものの味さえ変るという例をあげればよい。するとそこには使い馴れるという問題も出てくることになる。しかしそれではまだ、使い馴れさえすれば道具に凝る必要は無かろうという疑問に答えたことにはならない。古くから「能書筆を選ばず」の諺があって、腕の良い人間に良い道具は不必要であるかのように誤解されているが、それは道具の能力に頼って技を磨く努力を怠る人へのいましめであって、弘法が良い筆を持てばいっそう優れた字を書くだろうことに疑いを抱く人はあるまい。しかしここでさらにつけ加えれば、穂先のチビた筆よたも良質の毛の揃った筆の方が良いという単純な問題でなく、書きたい文字によっては穂先を散切りに断ち切って筆を作りかえ或いは意識的に使い古しの筆を選ぶ場合もあるように、すべて道具は目的に応じて作られ選ばれ或いは作りかえられ使いこなされる。そこで道具とその使い手が一体になる。使い手が変れば、つまり使い手の意図が変れば別の道具が選ばれ、だから反面、同じ道具でも使い手が変ればそこから別の能力が抽き出される。そうした能力を思いきり抽き出す人を達人と呼び、そのことに十分応えるばかりでなくそういう人の能力をよりいっそう高めるような道具を名器という。名器は達人の使いこなしに耐えられるばかりでなく人間の潜在能力を触発する。道具もそこまでに至ると、手段としての役割を離れて一個の「もの」の良さとして、それ自体が鑑賞の対象にさえなる。刀剣の美しさ、茶碗や皿の、釣竿の、さらに鋸やかんなでさえ、永い年月に磨き上げられ洗練の極みに達した道具は、まさに一個の美術品になる。カメラや時計やオーディオ機器のような機械(メカニズム)もこの例外でない。しかしこれもまた誤解を招きやすい言い方なので、単に見栄や投資や利殖から、或いは中には金の使い途が無いからなどという馬鹿げた理由から、むやみに高価なものを買い漁り価値の分かりしないのに丸抱えするような書画骨董への接し方は、わたくしの最も嫌うところである。そうではなしに、写真を撮ることが好きで写った写真の結果をさらに良くしたいからとより良いカメラを求め、もっと良い音質で聴きたいとより良いスピーカーやアンプを求める全く素朴な欲求が人間にはあり、そうして入手したカメラやアンプが、本来の写真を撮る或いは音を鳴らすという目的とは別にメカニズムそのものの美しさで人を魅了し、だからそれを愛玩するという、人間の心の自然な流れを批判したりするのは見当外れの話なので、人を斬らずに刀剣を蒐(あつ)め、茶を飲まずに茶碗や壺の美しさを愛で、郵送する目的でなく切手を蒐集する趣味を誰も不思議に思わないのに、なぜ、写真を撮らないカメラの蒐集、音を聴かないオーディオパーツの蒐集を誹るのだろうか。
 あらゆる品物、あらゆる道具は、その目的に沿って磨き上げられれば自らにじみ出る美しさを具えはじめる。本来の目的から離れ一個の「もの」として眺めてなお十分に美しく魅力的であるほどの道具なら、本来の目的のために使われればそれぞれに最高の能力を発揮するはずのものであり、オーディオパーツの能力とは、言うまでもなく音楽を素晴らしいバランスで鳴らし、良い音質が人の心をもゆり動かす、ということに尽きる。それがもし刀剣であれば本当に「斬れる」刀と、単に取引や利殖の対象の美術品であることを目的とした似非刀剣との大きな違いになる。
 曇りのない直観で眺めた目には、ものはそのあるべき能力がそのまま形になって見える。身近な例をあげても、マッキントッシュ275のあの外観は全く出てくる音そのままだ。目に写ったとおりの音、音そのままの外観。マランツ7型プリアンプ、9型パワーアンプ、JBLのスピーカー群、アンペックスのプロ用デッキ……例はいくらでもあげられる。高価な外国製品ばかりをあげる必要は少しもなく、たとえばフォスターのFE103屋テクニクスの20PW09(旧8PW1)やダイヤトーンのP610Aなど、性能を追いつめて行って自然に生まれた美しい形、優れた製品がある。ローコストにはローコストの、無駄の無い美しさがある。ここまで来てやっとひとつの結論を言えば、外観と内容にごまかしの無い、嘘の無い製品には見陸がある。魅力ある製品、優れた製品というものは、どこまでが外観の魅力なのかどこからが内容の魅力なのか、そのけじめが渾然と一体になでいるものなので、現在の多くの市販製品のように、内容は技術課が設計し外観は内容を知らない意匠課のデザイナーが担当する、といった企業体質からは、本ものの魅力を生むことは不可能でないにしても極めて困難である。
 そのことからソウル・B・マランツとA・ロバートソン=エイクマンの名をあげてみたい。前者はかつてのマランツの、後者はSMEの創始者である。マランツは工業デザイナーであり自身チェロを弾くアマチュア音楽家であり、エイクマンは精密機械工場の経営者であり機械エンジニアで、ともに熱烈なオーディオ愛好家であった。マランツはそれまで市販されていたアンプに、エイクマンは同じくトーンアームに、自身満足できるような理想像を見出すことができず、自らの理想を実現するために努力して、永い年月をかけけてあの優れた製品(マランツ・モデル1からSLT1
2に至るアンプとプレーヤー、そしてSMEのアーム)たちを世に送った。彼らはそれを商品としてでなく、自身の高い理想を満たす、自分で使うために作ったのであり、その妥協を排したごまかしのない作り方が、同じ理想を理解する多数の愛好家の心を動かし、製品が支持され、一つの企業として成立さえするに至ったのである。右の二人のような会社の創始者ではないが現在のJBL社長であり、マランツと同じく優れたデザイナーとして、JBLの一連のデザインポリシーを確立したアーノルド・ウォルフの名もぜひあげておきたい。こういう形はオーディオの世界ばかりでなく、たとえばヴィクター・ハッセルブラッドや、古くはオスカー・バルナックにもみられる例である。言うまでもなくハッセルブラッドとライカの創始者であり、どちらも自分が使うために作ったカメラが現在の製品のプロトタイプとなり、ことにハッセルブラッドが1948年以来その原型を基本的に変えていない点がSMEのアームに良く似ている。
 右のような姿勢──それまで市販された製品に理想像を見出すことができない故に、いわばやむにやまれぬ衝動が優れた「もの」を生む動機になった──例は古今に限り無くあったのだろう。しかしその動機は同じでも、結局、洗練された感性と自身に対して厳しい態度で臨むことのできる優れた人間の作ったものだけが、永く世に残って多く人たちの支持を受けることになる。理想と現実とのあいだに立って、クールな眼で自分の生み育てた作品を批判できる人だからこそ、一歩一歩改良を加え永い年月をかけて立派な作品二仕上げることができる。そういう製品が、本ものの魅力を具える。価格が安かろうが大量生産品だろうが、洗練された感性に磨かれれば自然に魅力ある製品に仕上ってくる。そういう魅力は、現在の日本の工業製品の大多数がそうしているような多数決方式からは生まれにくい。また、頻繁なモデルチェンジ──それも原型(プロトタイプ)を簡単に水に流していつでもスタートし直しのような──態度からも、製品の魅力は育たない。人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる誤った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。ことにオーディオ機器は、芸術と科学と人間との完璧な融合がなくては、魅力ある製品に仕上りにくい。データには表わしにくい人間の感性にもっと目を開かなくては、立派な製品は作れても魅力ある商品(それに見合った金額を払うに値する製品)は生まれない。

ウーヘル Compact Report Stereo124

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 手帳一冊よりも小さなカセットテープに録音するのに現在のようなアンプ一台ほどの大きなデッキが必要だということを誰も疑問に思わないらしいことが逆にわたくしは不思議でならない。たしかにメカと電気回路で中味はいっぱいだが、それはメーカーの都合で既製の大型パーツを流用しているからで、本質から考え直して練り直してみればこんなに小さなメカニズムで往復再生さえできることを、ウーヘル124が教えてくれる。

オルトフォン SPU-GT/E, RS212

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 他のカートリッジでは絶対に聴くことのできない重厚な豊かさと、その厚みにくるまれて一見柔らかでありながら芯の強い解像力は、もはや一メーカーの商品であることを離れてひとつのオーディオ文化とさえ言いたい完成度を示していた。残念ながら経営者の代が変って、最近の製品の音質は少々神経質な鋭さが出てきたし、専用のダイナミックバランス・アームも製造中止になってしまった。何とか以前の音質を保たせたいものだが……。

SME 3012, 3009/S2 Improved

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 ごく初期に少数市販された製品は、軸受まわりが現在のようなオムスビ型ではなく、丸いリングを切りっぱなしで、その他細部も今ほど練り上げられていない。山中敬三氏の話ではそれ以前にもっと別の試作品に近い形の製品もあったらしいが、一応現在のスタイルで市販されてからでもすでに15年。その間幾度かマイナー・チェンジが施されている。こういう年月を経て名器が完成するという代表的なサンプルだろう。

ソニー PS-2410

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 レコードというデリケートな素材を載せて回すプレーヤーのフィーリングは、物心ついた年齢からレコードが身近に回っていたような育ち方をした人間にでなくてはつかめない言い表し難いある種の感性が必要だが、その点、国産のプレーヤーに、満足な製品の殆ど無いのは仕方ないことかもしれない。中ではソニーの一連の製品、ヤマハの一部の製品、パイオニアのPL41の頃の製品の一部に、多少はマシといえるものがある。

EMT 930st, 927Dst

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 やや旧式ながらヨーロッパの伝統的な機械の美しさをいまだ受け継いでいる、いわゆるスタジオ用のマシーンだが、人間と機械との関係にいかに血の通った暖かさを思わせる手触りや、取り外してみるとびっくりする分厚いターンテーブルや、ほとんど振動の無い駆動モーターのダイナミックバランスのよさなど、むろんカートリッジや内蔵のヘッドアンプの良さを含めて、ディスク・プレーヤーの王様はこれだと思わせる。

B&O Beogram 4000

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 近ごろ最も頭に血が上った製品で、写真よりも実物の方がいっそうチャーミングでしかも写真に写るよりも実物の方がはるかに小型でキュートである。フールプルーフのオートメカニズムやそれを誘うするワンタッチのコントロールパネルの感触や、ストレートラインのアームの動きなどまるでドリーム・デザインのようでありながら実に良く練り上げられている。蛇足ながら専用のSP15型カートリッジの音質も独特のクールな魅力。

B&O Beomaster 3000-2

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 B&Oというメーカーも、他に類型の少ない独特のデザインポリシーで際立っているが、一連のレシーバーのデザインは、とくにどの型ということなく、どれをとってもそれぞれに素晴らしい。残念ながら日本ではFM放送の波長の違いからそのままでは楽しめないが、一台ぐらい手許に置きたい魅力がある。パネルの白いアルミニュウム(機種によってプラスチックもあるが)やレバースイッチの形状など、ヤマハ製品にB&Oの影響がみえる。

ブラウン L710

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 ブラウンには同じようなユニットを組み合わせた一連のシステムのヴァリエーションがあるが、私は620、710が好きだ。この上の810はウーファーが二つで、やや低音が重く中域の明瞭度をマスクする。ブラウンの滑らかな音は、充分解像力にも優れるし、音楽が瑞々しく、ハーモニーがよく溶け合う。白とウォールナットがあるが、断然ウォールナットがいい。仕上げも美しく虚飾のないすっきりしたデザインは極めて高いセンスだ。

ダイヤトーン DA-A100

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 どことなくマッキントッシュやその類型のイメージが拭いきれなくて無条件にとはいえないにしても、ある種の凄味を感じさせ、ハイパワーアンプとして良いまとまりをみせている。この系統には管球式ではダイナコのMKIII、ラックスのMQシリーズや、トランジスターではC/Mラボの35Dなどのすばらしくチャーミングなデザインもあって、三菱だけが抜群という意味ではない。ペアになるプリはデザイン、性能とももう一息。

真に明確な設計思想を反映するものなら素晴らしい魅力をもち得る

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 オーディオ製品の魅力を具体的に表現することは難しい。もし、それが出来るなら、私は世界一の魅力的なオーディオ機器を自分でつくってしまえる。従って、これについて書く事は、やはり、ある程度、抽象的な表現になってしまうと思うのだ。オーディオ機器に限らず、機械というものの魅力は、第一に、その機械が目的とする機能を果す上で最高の性能をはっきしていなければならないということだろう。これは当り前の事のようだがなかなか難しい。そもそも目的とする機能といったけれど、この目的の考え方が大問題なのである。車の目的一つを考えてみても、その難しさがわかろうというものだ。車は速くなければならない。遅い車は無意味である。遅くてよければ、歩いて事足りる。カゴでも馬車でもよい。また、ただ速いといっても、その速さにもいろいろある。急激に加速する速さと、巡航できる最高速度とは別物である。ランナーの短距離と長距離のような性格かもしれぬ。次に、車は自由にあらゆる道路を走破できるものでなければならぬ。電車や汽車のように予め設置された線路を走るものとはちがう。直線もカーブも、平坦な道もデコボコな道も坂も走らなければならない。つまり、あらゆる状態に対応できる操舵性をもっていなければならない。そして、もっとも重要な事は、そうした性能が常に安全も保障された上で発揮できなければならない。車は、確実に停れなければいけない。人間と車は常に一体のものだから、肝心の人間が、極度に疲れたり、危険に身をさらされたのではなんの意味もないどころか、その存在理由は根底から覆るだろう。ちょっとあげただけのこれだけの条件を完全に満たすだけでも容易ではないわけで、車の設計者は、全ての条件を満たす事を理想としながらも、現実可能な範囲で、どこかにポイントをしぼらざるを得ない。速さ一点ばりのスポーツカーにするか、快適第一の大型セダンにするか、客本位の乗用か、貨物本位のトラック化。つまり、目的はさらに細分化され選択整理されるのである。この選択整理のされ方が、設計の思想の根源となり、出来上るものの性格を決定づけるといってもよいであろう。この段階で、よほど煮つめられていないと、出来上る段階までに、何度か設計変更や手直しがあって、結果的に、中途半端な無性格なものになってしまうものだと思う。
 オーディオ機器の目的とは何か? いわずとしれた音の再生である。しかし、ここにもまた、車の場合と同じように、いくつかの目的の細分化が生れるのである。小さい音、大きい音、徹底的にワイド・レンジな音、耳を刺激しない適度なレンジの音、専門家が使うか素人が使うかによって分れる機能や操作性のちがい、何でも適度に満足させるか、一点重点主義でいくか……等々、多くのバリエーションが考えられるだろう。手近な例をあげれば、一体型のものとコンポーネントでは、本質的に、この目的の細分化や整理の考え方は異るのである。また、もし細かい話しをすれば、ツマミの数を少しでも減らして操い易くするが可変できるものは全てツマミでコントロール出来るようにするかといった事も含まれる。このように、その機器が、目的をどう定めるかという思想の確固たるバックボーンを持っていないものは魅力はないし、また、当然、最高の性能は出し得ないのである。作る人間の頭の良さと才能、精神が、まずこの第一段階で、機器に明確に反映してくるのである。私はスポーツ・カーも好きだし、セダンも好きだ。ジープも好きだ。と同じように、コンポーネントも、一体型も、小さなカセット・ラジオでさえも好きである。それが、真に明確な設計思想を反映するものならば、皆、それぞれに素晴らしい魅力を持ち得ると信じている。
 さて、このような基本的な事柄だけで、私のいわんとしていることは終りのようなものだし、後は全て、その基本精神をいかに製品に生かし切れるかというテクニックの問題なのだが、もう少し話しを発展させてみようと思う。
 オーディオ機器に限らず、機械の魅力の重要な要素の一つは、なんといっても、見てさわって感じられる感覚である。大きな意味でのデザインといってよいだろう。そして、機械美、メカニズム・ビューティというものの第一条件は、必然から生れたものでなければならない。つまり、虚飾はこの世界では通用しないのだ。というと、何の味気もない、シンプルなものを想像されるかもしれないが、そうとばかりは限らない。ボーイング747のコックピットを見たまえ。もの凄い複雑な計器類が並んで、まるでメーターのジャングルである。決してシンプルなものとはいえない。しかし、あれは、全て必要欠くべからざるものばかりなのだそうだ。DOHCエンジンのエンジン・ヘッド・カバーを開けて見たまえ。エンジンの中には虚飾はない。凄く複雑だ。美しい。ヘマなデザインの時計は文字板よりも中味の方がはるかに美しい。アンプもそうだ。いいアンプというものは、中味が実に美しい。いいかげんなアンプは、外観は勿論、中味も美しくない。非合理的な部品の配置。チャチなパーツ。安っぽいビスやシャーシーやビニール線が乱雑である。こんなアンプは特性も音も絶対にいいわけがない。一方、シンプルなほうはどうか。私はかつて、父親が所有していた関の孫六という日本刀の素晴らしさに唸った記憶がある。柄や鍔や莢も凄かった。しかし、何といっても私を夢見心地にさせたのは、刀身そのものであった。シンプルきわまりない刀の姿、その形と質感の与える魅力は、いかなる複雑な装飾にも勝って大きな感動を与えたのである。匠が全智全能を傾けて焼き入れた鉄、その硬軟の美しいバランスは実際の切れ味を超えて美しく冴えていたことを思い出す。ダイムラー・ベンツやポルシェに使われている特殊鋼も、それ自体、魅力に溢れた質感で私を把えてしまう。ただのナマクラな鉄とは次元を異にした味である。こっちは、日本刀の匠に代って現代科学のなせる業である。このように、私は機械の美しさは、必然的に、その性能を追求した時に生れる味わいだと思うのである。そして、そういう味わいをもつ機械は、性能も必ずいいものだ。オーディオ以外の話しが多くて恐縮だが、オーディオ機器の魅力も同じ次元で把えることが出来ると思う。デザインや質感、触感のよいオーディオ機器も、きっと優れた特性をもち、素晴らしい音を出してくれるものではなかろうか。内容とは無関係な感覚や次元でデザインされたパネル。コストの制約からか安っぽい素材を無理にゴマかした使い方。ギクシャク、ザラザラした操作スイッチやボリュームの類。そんな機器で良い音を出したものには未だ一度もお目にかかったことがない。私の手許にあるオーディオ機器で真に魅力にとんだものはそう多くはないが、マランツの7や7Tのパネルは一級品だ。素材と仕上げの良さが感じられ、感覚的にはシンプルな、プリ・アンプはこうあるべしという設計者の思想や頑固な精神が沁み出ている。JBLのSG520のプリ・アンプも、少々劣るけれど、やはり一級品だろう。なによりも、そのデザイン感覚のシャープさが、このプリ・アンプの音と実によくマッチしている。マッキントッシュは全然、違う感覚だ。夢である。ロマンである。メカニズムの美というものの把えかたを私とは全く違う角度からアプローチして見事に調和させている。手許にはC28、MC2105があるが機械屋が、機械の冷たさ硬さに愛情をもって衣を着せたのが、これらのアンプのパネルの魅力だ。JBLの375ドライバーに537-500ホーンをつけたもの、それに075をむき出しで使っているが、必然から来た、これらのスピーカー・ユニットの外観は、それこそなんの虚飾もない。人はどう思うか知らないが、私はとても好きである。なにかで、おおいかくそうなどという気は全く起さない。仕事で使っているノイマンやアンペックスの機器も同じである。プロ機器はなおさら虚飾はない。
 最後に正直に一つ告白しよう。いろいろ理屈を並べたてたけれど、オーディオ機器は音のいいものは形もよくみえてくる。つまり、見た眼の悪いものからはいい音がしないといったけれど、中には、見た眼の悪さが気にならなくなってくるものもある。音がよほどいいのである。ただ、そういうものには見た眼にも虚飾だけはないのである。

テクニクス ST-3500

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 黒い窓の中に原色系の派手なグリーンあるいはブルーの文字がケバケバしく浮かび、同じく安っぽい赤かオレンジ色の指針をとり合わせるというパターンが国産のチューナーやレシーバーの典型的な表情だったが、テクニクス、ヤマハ、ラックスなどの新しい試みによって新鮮で清楚な、精密間、高級感に溢れたスタイルが生まれはじめたことは喜ばしい。なかでは、通信機ふうのイメージでまとめたテクニクスが、性能を含めて好きだ。

ナグラ IVSD

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 テープデッキというよりはまるで精巧な時計やカメラを思わせるメカニズムとその仕上げの精密さで、驚くほどコンパクトな設計でありながらプロ用として絶対の信頼をかちえているところが実にニクい。純然たるプロフェッショナル用の設計であるところが、我々に馴染みの深い一般アマ機とは勝手の違う面が多分にあるが、類型のない(ライバルに同じスイスのステラボックスがあるにしても)発想に学ぶ面が多分にある。

JBL 4320

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 本来プロのモニター用として開発されたシステムだが、その充実した音の緻密さは、すべての音楽プログラムを一分のあいまいさもなく再生する。デザインだって、プロ用とはいいなから、家庭の部屋へ持ち込んで少しもおかしくない。むしろ、その直截な現代感覚はモダーンなインテリアとして生きる。シャープな写真が魅力的で、しかも、正直に対象を浮き彫りにして魅力的であるように、この明解で一点の曇りのない音は圧倒的だ。

ルボックス A77MKIII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 10号リールのかかる家庭用デッキの中では、最もものものしさが少なく、アンペックスkのメカニズムにくらべると使いこなしに多少の馴れが必要であるにしても、そこがヨーロッパ系のメカニズムの伝統ともいえ、安心して愛好家に勧められるデッキのひとつである。新形のA700も、77の発展というよりは全く新しいメカニズムで生れ変った本格的なマシーンだが、メカも操作系も実に洗練されていて不消化なところが全くない。

アンペックス AG500

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 昨今の国産のオープンリール高級機のようにいかにもメカメカしい、ラウドにわめき散らすような、やたらと白い枠で囲んだ劇画調の子供じみたメカニズムにくらべて、AC500が何と洗練されて控え目にみえることか。むろんこれは7号リール専用機で、10号リール用としてのAC440Bはもう一段風格があるが、むしろ7号リールに徹したコンパクトな設計のよさが全体の調和を保っている点にこそ、AG500の魅力がある。

パイオニア Exclusive C3 + Exclusive M4

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 プリアンプのパネル・レイアウトは国産機の大半が目差している機能的・人間工学的な処理法のひとつの典型だが、ノブ類の配置や感触やレタリングなど、キャビネットの質感の良さも含めてかなり練り上げられて安っぽさを感じさせない点、ようやく日本にも本当の意味での高級機が完成しはじめたと言えそうだ。パワーアンプも神経がゆきとどいている。合わせて63万円という価格には多少の疑問も残るが音質も素直である。

QUAD 33 + 303 + FM3

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 プリアンプの小型で精巧な造形処理と、パワーアンプの工業用機器を思わせる緻密な形態と、全く異質とも思える意匠を巧みに融合した手際の見事さ。意匠も色彩も他に類型の出現する余地の無いほど独特でしかも完成度が高い。初期の製品はいかにもトランジスター臭い粗さがあったが、現在の製品は音質の面でもまた一流である。この場合はチューナーもぜひ同じシリーズで揃えないと魅力が半減する。

マッキントッシュ C26 + MC2505

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 どの製品をとってもこれほど永いあいだ一貫して独特のデザインと音質のポリシーを保ち続けているところがJBLとは全く対照的ながら大きな魅力になる。ただしこのメーカーの製品は、放っておくとやや成金趣味的な或いはいくぶん図太い神経がちらほらみえるところがわたくしの好みとは本質的に相容れない部分で、しかし中ではそういう面の最も少ないのが、C26とMC2505の組合せだろうと思う。

タンノイ Autograph

菅野沖彦

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 ガイ・R・ファウンテンのシグナチュアーで保証される英国タンノイの最高級システム。大型コーナーのフロント・バックロード・ホーンに同社が長年手塩にかけて磨き込んだ傑作ユニット、〝モニター15〟を収めたもの。音質は、まさに高雅と呼ぶにふさわしく、華麗さと渋さが絶妙のバランスをもって響く。ただし、このシステム、部屋と使い方によっては、悪癖まるだしで惨憺たるものにも変わり果てる。

アコースティックリサーチ AR-Amp

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 数あるアンプの中でもこれほど簡素で端正に整った美しい製品は少ない。仕上げが実に良く真鍮色の光沢のある磨き上げたようなパネルとツマミ、ARのマークと紅色のパイロットランプの対比の見事さは印刷や写真でなく実物を目にするまでは実感として伝わりにくいが、なにしろ魅力的なアンプだ。現時点では残念ながら音質が少々古くなってきたがデザインだけでも買いたくなる。そんな製品はそうザラにないだろう。

フォステクス FE-103Σ

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 特性の向上を目差して無駄を省いたごまかしの無い製品には、素朴ながら飽きのこない簡素な美しさがある。このほかにも、P610A、8PW1、5HH45,ゴトーユニットのトゥイーター各種など、海外ではグッドマンAXIOM80、ローサー各タイプ、アルテックの604Eや755E、ジョーダン・ワッツなど、それぞれに独特の、手にとって眺めるだけでも魅力的なユニットがいろいろある。そういうものはみな音質もいい。

JBL Speaker Units

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 スピーカー・ユニットというものは原則としてキャビネットに収めるのだから、外形などどうでも良いという考え方があるが、JBLのユニットは、磁束を有効に利用するための理想的な磁気回路の形状の追求や、大きな音圧にも共振したりたわみを生じたりすることのないダイキャスト・フレームというような、性能のオーソドックスな追求から、自然に生まれた美しい形態で、ネットワークも含めてどの一つをとっても何とも見事な形だ。

ヤマハ NS-690

瀬川冬樹

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 JBLのL26〝ディケード〟とほとんど前後して発表されて、どちらが先なのかよくわからないが、むしろこの系統のデザインの原型はパイオニアCS3000にまでさかのぼるとみる方が正しいだろう。最近ではビクターSX5や7もこの傾向で作られ、これが今後のブックシェルフのひとつのフォームとして定着しそうだ。NS690はそうしたけいこうをいち早くとらえ悪心つも含めて成功させた一例としてあげた。