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ルボックス A700

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 同社のトップモデルとして作られたモデルで、業務用のスチューダーデッキなどに見られる、テープトランスポートにエレクトロニクスを多用する傾向を、このモデルも採用している。基本的な構想は、HS77MK4と同じであるが、キャプスタンモーターが水晶発振器の信号を基準とする速度制御方式となり、テープテンションにもサーボ方式が採用されている。トラック方式は、当然のことながら2トラック・2チャンネルで、最大使用リール10号、テープ速度は19cmと38cm、エレクトロニクス関係では、アンプ系がフォノイコライザーまでを内蔵した、いわばプリメインアンプといった構成であるのはHS77MK4と同様である。テープ走行系のコントロールは、大変にテープを使う側の立場を考えた、いわばテープファン好みの細かい配慮が見受けられるあたり、さすがに伝統のあるメーカーならではの素晴らしさである。このモデルは、業務用のスチューダーを思わせる、清澄で滑らかな音をもち、品位が大変に高く、この面ではHS77MK4と対照的である。

ルボックス HS77 MK4

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 テープデッキといえば、米アンペックス社とスイス・スチューダー社の製品が、テープデッキのファンにとっては東西を代表する名門ということができる。ルボックスは、スチューダーと兄弟関係にあるブランドで、古くは管球タイプのモデルG36や、ソリッドステート化されて以後、数度にわかたり改良の手が加えられたA77がよく知られている。
 HS77MK4は、A77MK4が4トラック・2チャンネル方式であるのに対し、2トラック・2チャンネル方式であり、テープ速度が19cmと38cmに変わったモデルである。このモデルは、型番からもわかるように、ソリッドステート化されて以来、基本型は変化せずマイナーチェンジが絶えずおこなわれて、つねに、いわゆる2トラック38cmデッキのスタンダードとして、時代に変わっても安定した性能と音質をもっていることは驚くべきことである。
 ヘッド構成は3ヘッド方式、それにACサーボ型のアウトロータータイプ・キャプスタンモーターに2個の6極アウトロータリー型リールモーターを組合せた、いわば標準型で、機能面でも国産デッキのような多彩さはなく、チューナーなどの入力をセレクトでき、パワーアンプを内蔵しているあたりは、テープレコーダーとして、このデッキ1台を中心としてコンポーネントシステムができる特長がある。
 この種のデッキとしては比較的に小型で軽量であり、運搬にもしいて車の使用がなくても運べるのは少なくとも国産デッキにない大きな魅力である。HS77MK4になって、従来のルボックスのサウンドとはやや変わっているように思われる。最近のヨーロッパのオーディオ製品の音がかなりアメリカ指向となっているように、このデッキもアンペックスを思わせるような、活気がある力強いダイナミックな傾向の音が感じられる。いわゆる2トラ38らしい爽快な音で、これが、さらにこのデッキの魅力をましていると思う。

ダイヤトーン DS-40C

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ダイヤトーンの新しいフロアー型システムは、既発売の3ウェイ構成のフロアー型DS50Cのシリーズ製品として開発された、2ウェイ構成のシステムである。
 エンクロージュアのプロポーションは、いわゆるトールボーイ型で、一般的なブックシェルフ型システムをタテ方向に伸ばしたようなタイプであり、床面積をあまり広く占有しないため設置上での制約が少ない利点がある。バッフルボード上のユニット配置は、変調歪みが少なく、椅子に座ったときに、音軸が耳の位置とほぼ同じ高さになるように位置ぎめされている。
 低音用の30cmウーファーは、バスレフ型エンクロージュア専用に設計してあり、クロスオーバー周波数付近の特性を良くするために、コーン紙はコルゲーション入りのいわゆるカーブドコーンを使っている。また、ボイスコイルにゴム製のダンプリングを付け、一種のメカニカルフィルターとして、ウーファーの高域特性をコントロールしている。エッジは、熱硬化性樹脂と念弾性樹脂を混合し、数回にわたりコーティングしたクロスエッジで、さらにその上から特殊なダンピング処理をしてある。
 磁気回路は、今回もっとも重点的に改良された部分である。一般の低歪磁気回路は、ポールピースに銅キャップをつける方法や硅素鉄板の積層材を使う方法があるが、ダイヤトーンで新しく開発した方法は、ポールピースに特殊な磁性合金でつくったリングをつける方法で、磁気回路での非直線歪みが、ボイスコイルにリアクションをして音の歪みとして再生されることを大幅に低減している。歪率の低下は、周波数によっては、1/10と発表されている。
 磁気回路のマグネットには、ダイヤトーンは、ウーファーに限りフェライトマグネットを使わないのがポリシーであったが、新しい低歪磁気回路の開発により、フェライトマグネットを採用しても低歪磁気回路の採用で、総合的な性能としては鋳造マグネットを上廻る、として、初めてフェライトマグネットが採用されているのも、新しいシステムの特長であろう。
 トゥイーターは、5cm口径のコーン型ユニットだが、センタードームが円錐形の独特な形状をしているためにセミ・ドーム型と呼ばれている。磁気回路は、クロスオーバー付近の特性を良くするために、磁束密度14000ガウスの強力磁気回路による磁気制動と、バックチャンバー容積を大きくして振動系を臨界制動で動作させている。なお、バックチャンバーは、楕円形でチャンバー内の残響をコントロールして、トランジェントの悪化を防いでいる。
 DS40Cは、バスレフ型の豊かな低音の味わいと、2ウェイらしいスッキリとした音がバランス下、ダイヤトーンらしい音である。低歪化のためか、クロスオーバー付近の硬さがなく、量的に不足しないのがメリットで、音像定位は明瞭で安定しているのは、ダイヤトーンの伝統である。

オンキョー Integra A-7, Integra A-5

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 新しいインテグラは、型番がシンプルな1桁に変わり、デザイン面でもまったく従来のイメージを一新している。
 このシリーズは、開発当初からアンプ動特性を重視し、音楽的な完成度の高さが追求されてきたが、今回一歩進んで、〝ローインピーダンス化4ポイント方式による強力電源回路と給配電ライン〟を中心とした設計により、音楽の感動、興奮といった物理上のハイファイ再生とは次元を異にした芸術領域の音楽成分を充分に再現できる、豊かな芸術性を秘めた新インテグラに発展しているとのことである。
 ローインピーダンス化4ポイント方式とは、①等価直列抵抗を特に小さくした大容量電解コンデンサー ②極太のローインピーダンスケーブル ③大型パワートランス ④徹底したブス(母線)アースラインの採用でアースを含めた給配電ラインと電源部との総合インピーダンスを可能な限り低く設計し、これにより、左右チャンネル間および同一チャンネル内における相互干渉を排除するとともに、強力なエネルギー供給体制をとり、とくに大振幅時の立上がり特性の改善とピークパワーの確保を計ろうとするものである。
 回路構成は、差動1段A級プッシュプルのイコライザー段、差動1段3石構成のオペレーショナルアンプ型のトーンコントロール段、ドライブ段にA級プッシュプル方式を採用したパワーアンプである。
 A7とA5の違いは、パワーが60W+60Wと45W+45W、イコライザー許容入力が230mVと170mVをはじめ、パネル面の機能では、A5でボリュウムコントロールのdB表示、セレクターでのAUX入力、トーンコントロールのターンオーバー切替、ハイカットフィルター、スピーカー切替スイッチのA+Bが、それぞれ省かれている。

サテン M-18BX

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 すでに定評がある超精密工作を基盤としてつくられる純粋なMC型で、ダンパーにゴム材を使用していない特長がある。M18BXは、ベリリウムカンチレバー採用のトップモデルで、いわゆるカートリッジらしい音をこえた異次元の世界の音を聴かせる製品だ。

ソニー XL-55

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 ソニーには、従来もMC型の製品があったが、 XL55は自社開発の最新モデルである。発電方式は、コイルの巻枠に磁性体を使わないタイプで、コイルには独得な8字型をしたものが、左右チャンネル分として組合されている。カンチレバーは、軽金属パイプと炭素繊維の複合型で軽量化され、CD−4方式にも対応できる。針圧は、やや重いタイプで、音の重心が低く、安定した力強い音が特長。性能は現代的ながら音質的に表面にそれが出ないのが良い。

「コンポーネントステレオにおける世界の一流品をさぐる」

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 本誌がオーディオ・コンポーネントの世界の一流品を特集するそうだ。これだけ多くのオーディオ製品が、世界各国で作られ売られている現状からすれば、それも意味のないことではないし、どんなものが結果として一流品の折り紙をつけられるかは、私自身にとっても大変興味深い。そういう当の私も、具体的な製品選びの一員として選出に加わったのである。これがなかなか難しいことであって、いざ商品の選択に直面してみると、そもそも、一流品とは何か? という問題の定義にぶちあたり苦慮させられるのであった。だいたい、一流という言葉自体が、いわめて曖昧であり、ものにランクをつける言葉でありながら、そこには複雑微妙な心情的ニュアンスが入りこんでくるという矛盾をもったものである。一流品としての定義を形成するために、いくつかの条件をあげると、必ず、その条件のすべてを満たさない一流品が現われたり、条件のすべてを満たしていながら一流品として認められないようなものが出てくるのである。もっとも、ここでは、一応道具としての機能をもつものに限定していってもよいと思われるので、比較的気楽なようだ。これが人や芸術作品に及ぶと、問題はもっと難しく大きくなってしまうのである。しかし本当は、一流という言葉は、人についていわれるべき言葉なのであって、ものの場合には一級品というべきなのではないかと思うのだ。一級という、文字通りのクラスづけが困難な曖昧さをもった対象、つまり、人とか作品とかに対して、情緒的な表現のニュアンスを含んだ言葉が一流という言葉なのかもしれない。また、流という言葉ほど、いろいろな意味に使われるものは少ない。これは、水の流れに始って、流儀、流派、主流、亜流、他流、日本流、外国流、上流、中流、名流……等々、一流も、この種の流の使われ方の一つではないだろうか。そして、これらの言葉の中から、一貫して感じられるニュアンスは、歴史と伝統そして家といった意味合いである。流が本来もっている水の流れの意味のごとく連綿として続いた線のニュアンスが濃厚なことはたしかである。だから言葉にうるさい人、言葉を大切にする人は、うかつに一流という言葉を使わない。そう呼ぶ必要がある場合には、まず一級といっておく。そして、そのもののバックグラウンドを調査して、真に一流と呼ぶに値することがわかったときだけ、それを一流と呼ぶのである。私も、この考え、この姿勢には賛成である。一流品と呼ばれるに足るものは、いかなるバッグラウンドから生れたかということが一つの重要な条件なのではないか。もののバックグラウンドとして第一に考えられるのは、それを作った人の存在であり、その人の存在は、人自体の能力、才能、感覚、思想、精神など、そして、その人の生れた環境、血統などが、当然問題とされるのだろう。つまるところ、そのものを生む文化なのである。一級品には文化の香りが必ずしも必要ではない。
 こう考えてくると、真に一流品と呼ぶに値するものは決して多くないし、一流品という言葉を素直に使えるジャンルやカテゴリーも限られてしまうのだ。特に、近頃のように、歴史や伝統の断絶の、こま切れ文化の世の中にあってはなおさらのことであるし、歴史の短い機械製品については、本来の一流品の意味をそのままあてはめて云々するには無理がある。現実には、一流が氾濫していて、星の数ほどの自称他称の一流会社や一流ブランドや一流製品が、洪水のごとく溢れているのを見ると、心寒い気持ちになるのは私のみではあるまい。一般的意味合いでの合理主義からは、一流品は生れないし真の一流品は、そうした人達にとって、おそらく価値は認められない。みずから、自らの考えや感じ方も問わずに、大きな世間の流れの中で無自覚に右へならえの生き方をして、なんの疑問も持たずに生きている。こうした現代の合理的人種? にとって一流品は存在の必要性がほとんどないのではないか。それだけに、現在の一流品は、その本質を評価されないままに、本質を離れたところで、一部金持ちの周辺我を満たす虚飾として使われ、誤示されているようにも思える。そして、それが、もっと淋しいことには、その現実の上澄みだけを利用して、一流品の名の下に、似つかわしくない製品を大量につくる。あるいは一流ブランドの上にあぐらをかいて、実質を欠いた利潤だけを目的にした品物を作るメーカーや業者が氾濫している現実である。先祖が化けて出るのではないか。さらに悪いことは、宣伝で大金をばらまき、虚名をつくり、自称一流の名乗りをあげて、一流まがいのものを、ものの価値のわからぬ小金持ちに売りつける連中だ。そして、もう、あきれて開いた口がふさがらないことは、一流ブランドとデザインの盗用と偽物作りの氾濫である。売るほうも買うほうも、このインチキ・ビジネスが成り立つということは、なにおかいわんやである。グッチ、ルイ・ビュトン、フェンディ、サザビー、ナザレノなどのバッグやエルメスのベルトなど、そっくりの偽物が問題となっている現実はいまさらいうまでもあるまい。こうした例はオーディオの機械にも、枚挙にいとまがないほどある。こういうことが平然とまかり通る社会構造と現代人のメンタリティやモラルの中で、真の一流品が、いかに生れにくいか、生き続けることが困難であるかは容易に想像がつく。
          ※
 ところで、一流品の条件として考えられることを私なりに挙げてみることにしよう。
 先に述べたように、いい製品は、一朝一夕には出来上らない。時間が必要である。そして、その費やされる時間を真に生かすためには、その目的への線が、常に一直線でなければいけない。目的が定まっていてさえ、そこへ到達する手段の発見には多大な苦労があるはずだ。まして、目的がふらふらしていたり、目的が明確でなかったりすれば、いくら時間をかけても、そこには一つの流れが生れないし、歴史も伝統も生きない。歴史とか伝統というと、数百年、短くとも一世紀という時間が想像されるだろうが、必ずしもそうではない。それがたとえ10年であっても、その姿勢と努力の集積は歴史を作り得る。伝統の礎ともなり得る。エレクトロニクスなどのような世界では、それ自体の歴史が浅いし、最新のテクノロジーが要求される分野の製品が多い現代においては、それを手段として行使してものを生みだす人間の精神に生きる文化性をメーカー自体の歴史と伝統におきかえて考えるべきであろう。昨日出来たメーカーでもよい。問題は、そのメーカーを支える人の中に、どれだけの技術と文化が集積され、強い精神に支えられているかではなかろうか。いまや、ただ創立年月の古さを誇りにして、内容がともなわない虚体こそ、真の合理主義によって糾弾されるべき時だからである。
 フィレンツェに生れたグチオ・グッチは一九〇六年に自分の店を持ち、高級馬具の製造と販売を始めた。金具には自分のイニシャルGGを相互にあしらった、かの有名なマークを使った。ちょうど70年前である。現在は三代目、ロベルト・グッチの時代である。GGマークは依然として象徴となっているが、ロベルトは、かつての馬具時代、その腹帯に使われた緑赤緑の帯を復活させデザインに生かした。世界最古の自動車メーカーとして、世界最高のメーカーの重みを決定づけているダイムラー・ベンツ社は、一九二六年に、ゴットリーブ・ダイムラーが一八九〇年に創設したダイムラー社とカール・ベンツが一八八三年に創設したベンツ社の合併によって生れた。この頃から自動車が、本格的な普及段階に入ったことを見ても、グチオ・グッチやエルメスなどの馬具商の衰退が理解できそうだ。第一次大戦後の不況もありエルメス同様グッチも、自らの技能を生かしてカバン、靴などの革製品に切り換えた。馬具以来、常にその製品は最高級のものだけであった。最高級製品をつくり、その製品にふさわしい売り方をする。これはすべての一流品の製造販売の鉄則であろう。一流品は、それを持つ人に実質的価値を与えるだけでは足りないのである。人の心の満足を得なければならない。そのものへの愛を把まなければならない。一流品は愛されるに値するすべてを持たなければいけないのである。グッチ・マークは、かつてはステイタスシンボルだった馬車に高級馬具の象徴として輝き、緑赤緑の腹帯とともに明確に識別されたことであろうし、今でも、その流行鞄を持っていれば、ホテルのベル・キャプテンやドアボーイの尊敬が得られるに足るはずなのである。だから、鞄負けのする人間は断じて持つべきではないのである。いまや、グッチより実質の優れた鞄は、どこかで売っているだろう。より丈夫で、より安く。自分が持ち心地のよい鞄を持てばよいのだ。しかし、グッチの鞄を悠然と持ち心地よく持てる人間になるべく努力することは決して悪いことでも下らないことでもないはずだ。努力もせずに、持っている人間をひがんでみるより、はるかによい。
 ところで、一方のダイムラー・ベンツ社を眺めてみることにしよう。ダイムラーは一八八五年に単気筒エンジンを開発し2輪車を走らせた。ベンツは一八八一年に2ストロークのガス・エンジンを完成させ、一八八六年には3輪車を走らせている。そして、一九一一年にはブリッツェン・ベンツで228km/hのスピード記録まで作っている。一九二六年にダイムラー・ベンツ社が出来て、その商品名をメルセデス・ベンツとしたダイムラー・ベンツ社は以後、最高の車づくりに専心して現在に至っているが、一九三〇年には、有名なフェルディナンド・ポルシェ博士が技師長として名車SSKを完成しているという輝かしい歴史と伝統を持つ。しかも、現在にいたるまで、多くの困難に打ち勝ち企業として成長に成長を続け、あの数年前のオイル危機の年にも、世界中で売り上げを増進した自動車メーカーは、ここだけだったという注目すべき実績を持つ。コンツェルン全部で16万人にも及ぶ社員を擁し(多分、日産、トヨタより多い)世界的水準での高級車だけをつくり続け、着実に企業が成長していることは驚異であろう。マスプロ、マスセール、マーケッティングリサーチにより、大衆の好みを平均化し、合議制でデザインを決定し、魂の入らないアンバランスな高級車を作っているのとは大違いである。
 車の雑誌ではないので、あまり車の話に誌面をさくことははばかられるが、一流品とは何かという与えられたテーマへの回答として、読んでいただければ幸せである。
 現在の技師長、ルドルフ・ウーレンハウトは、車造りの姿勢について、商売上の思惑や原価計算にうるさい経理マンによって左右されることを断じて拒否し、圧力に屈して俗趣味に迎合し、大衆の好みに形を合わせることを絶対にしないといっている。圧力に屈することは不名誉であり、商業主義に陥って設計工学をはなれ、やってはならないこと、つまり不良自動車をつくることになるともいっているのである。また、これも考えさせられる多くの問題を含んでいる事実だと思うのだが、ダイムラー・ベンツ社は、工場要員として民族性の異なる外国人の導入(ヨーロッパでは至極当然のことになっている)を好まないそうだ。ドイツ人と同じ考えを持たない外国人労働者が100%同社の意志にそった製品造りに協力してくれないと考えているからだという。工場に働く人の10人の1人は検査員、絶対に妥協しないというドイツ人魂の一貫性こそが、あのクォリティを支えているとみてよいだろう。ドイツを旅行して、実に多くの外国人労働社がいる現実を知ると、ベンツが、いかに、この問題を大切に考えているかが納得させられるのである。名実ともに一流品と呼べる車の少なくなったこの頃、メルセデス・ベンツ、BMW,ポルシェという三車は、一流という文字と最も組合せの難しい大衆製品を見事にマッチさせたVWとともに、ドイツ民族資本を守り通した体質の中から生れ出る一流品といえるだろう。一流品の持つべきバックグラウンドの一コマの証明になるだろうか。
          ※
 日本人の私が、日本製品の中に一流品を見出そうとすると、何故か、もっと難しい。
 いまや世界的に日本製品の優秀性が認められ、その品質のよさで世界市場に雄飛しているというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。私自身、決して素朴な舶来かぶれだとは思っていないのだが、心情的にどうしても難しいのである。同国人として、あまりに楽屋裏を知っているせいかもしれないし、日本人特有の、おかしな謙譲の美徳のなせる業かもしれぬ。もっとも、これが日本独特のものである場合は話は別だ。和服や和家具や、伝統的な工芸品においては、自分の知識と体験の範囲でなら、一流品として躊躇なく上げられるものがいくつかあるし、和食と洋食なら、和食のほうが、洋食より本物と偽物のちがいを区別することが容易のように思える。つまり、知り過ぎていることが、一流品を上げにくい理由だとは思えない。やはり、欧米にオリジナリティのあるものについては、明らかに一流品と呼べるレベルにおいては、日本製品にはその最も大切な根が、文化が、ないということではないだろうか。
 江戸小紋や友禅、紬など、和服の粋でしゃれた感覚の中から一流とそうではないものとを選びわけることは、何が何だかわからない洋服地より私にとってやさしいように思えるのである。洋服でわかることは布地の良さぐらい、あとは、好みの領域を出ないのである。自分で洋服を着ているのにおかしなことだ。しかも和服や日本の伝統的な美術品については、全く、なんの知識もないのだし、大きなことはいえないが、これが血というものかもしれない。ところが、欧米にオリジナリティのあるもので、自分が関心を強く持っているものに関しては、これが一流品なんだといわれ、それを信じ、それを所有して、よさを体験してきた結果、育った眼があることを感じるのである。関心のない欧米のものについては、知識に頼る以外に方法がない。このように、白紙で見て識別することと知識によるそれとの問題は、きわめて興味深いことなのだが、この問題を考えることはテーマからはずれるので、ここでは追及しないことにする。しかし、それより、ここで考えなければならないのは、知識による一流品の識別、つまり俗にいえば、一流品という折り紙への信頼感、ときには無定見な盲信と、その誤示という卑しき姿勢に人を走らせる要素を、一流品といういい方がいつもどこかに匂わせていることだろう。世の中には、その分野で、最高の価格のものを買って持っていないと気がすまないという人がいる。私がオーディオの相談を受けて、ある製品を推めると、それが最高の値段でなかった場合、安過ぎるといって拒否する恵まれた不孝者が結構いるのである。それなら、私などに相談する必要は全くないわけで、専門店に行って一番高いものを買い集め組み合わせればよいのである。また、商人は馬鹿げた金はとらないという信念を持った人もいるが、あながち、そうともいいきれないのではないか? 「高い値段をつければ売れますよ」と金持を冷笑している商人は結構多いのだ。世界中の商品全部に内容と反比例する値段をつけたらおもしろいことが起きるかもしれないのだ。冗談はさておいて、一流品という識別語がもっているニュアンスは、真実と虚偽の入り雑じった混沌が実態だといってよかろう。それだけに、一流品を持つ人の自己に対する責任は大きい。どんなに人が美辞麗句を並べ立て、それが一流品であることを強調しても、自分で納得できない限り、一流品は買うべきではないといってよかろう。まずは、あえて一流品とされないものの中から、自分で選ぶべきである。その結果、満たされない欲求を満たしてくれる実質をもった一流品に出逢ったときには、どんなに無理しても、それを手に入れるべきだ。一流品の値段の高さが生きるときである。この意味において私は一流品は値段が高くて然るべきだと思う。いいものをつくれば値段が高くなることも当然であると同時に、高い出費を強いられ、その困難を克服する努力、覚悟は情熱の証左であるからだ。痛くも痒くもない出費、あるいは、何の努力も要しない代価で、人は大きな満足や幸福を買うことは出来ないのである。所詮、ものは買える幸福でしかないと思っている人もいるだろう。私も、ほとんど、そう思っている。ほとんど、そう思っているというのはおかしい表現だが、ほとんど以外のところに私へのものに対する執着と愛情がある。それは、そのものが持っているものの実在以上の世界である。そのものの向こう側にある、ものを生みだした人間や、風土や、環境の文化までが、そのものを通して所有者の心に伝えられる世界がある。しかし、現実は、一流品という商業的呼称が出来てしまった以上、名と実は一致するとは限らない。名実ともに一流品は少ないのだ。名は多く実は少ないといい変えたほうがいいかもしれぬ。
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 工業製品である以上、マスプロは当然だ。世の中には、それが、マスプロというだけで、一流品でないといい切る人もいる。一面正しいが、多くの面で、それは間違っている。マスプロが一流品でないという理由は次のようなものらしい。同じものが沢山あるということは、希少価値がない。また、マスプロは生産コストが合理化されるから値段が安くなる。一流品は高価でなければならぬ。マスプロは作りが雑である。他にもあるかもしれないが、だいたいこうした理由で、マスプロ製品は一流品の資格を失う。しかし、ここで重要なことは、マスプロという言葉の使い方とそのシステムに対する単純性急な偏見であろう。マスプロといういい方はそもそも間違いで、正確には機械生産というべき場合が多い。いくら手造りは素晴らしいといっても、手造りでは絶対に出来ない高く精巧な仕上げを工作機械はしてくれる。一般に、機械生産とマスプロを混同しているふしが多いのには困らされるのである。品質の安定性も機械生産のほうが高い。問題はやはり、そうした作られ方だけで判断できるものではなく、いかなる英知と精神が、その手段として、手造りと機械生産とを充分活用しているかであって、製造者の理念と、それを表現する能力の問題なのである。
 しかしながら、私の好きなパイプだけは、たしかに、手造りは機械生産とは根本的にちがう味を持っている。パイプだけではないだろう。人間の使うものの中には絶対に手造りの味を必要とする種類の製品があるものだ。もちろん、ハンドメイド・パイプもアマチュアならいざ知らず、プロのものは全面的に手造りではない。なにも、大きなコロ、あるいはエボーションの段階から、手でけずっていく必要はない。しかし、最終のフィニッシュは絶対に手である。そうあらねばならぬと私は思う。それも無心で自然な制作者の手でなければならぬ。意識と強制の手では駄目なのだ。つまり、量産工場の労働者の手では駄目だ。デンマークのパイプの父ともいわれるシクスティーン・イヴァルソンの手造りと、同じ、彼のデザインになるスタンウェル社の機械製品を比べれば歴然である。前者は心と血の通った生物であり、後者は、同じように見えても、形骸である。その差は人によっては皆無に思えるだろうし、紙一重の僅差かもしれぬ。しかし、その差を感じる人には実に決定的な大差である。パイプのような素朴な手工芸品だから、こういえるのだろう。これが、オーディオ製品のような機械の場合には、問題は別だといわれるかもしれない。私もある程度そう思う。しかし、どんなに複雑な機械であり、自動化されたシステムによって量産されるものであっても、初めから機械が作り出すのではない。オリジナルは人間が作り、そのレプリカが商品となるのである。いい加減なオリジナルが、より優れたレプリカになるわけはないが(細部の加工精度は別として)、素晴らしいオリジナルを作る精神と能力で、いかに機械生産システムを利用し、どこを機械でやり、どこを人がやらねばならぬかを知っていれば、オーディオ機器のようなものにも、心と血の通った対話が可能な機械が生れる可能性はあるはずだ。事実、数は少ないが、そうした機械があるからこそ、この特集が成り立つわけだろう。ただ、先述したグッチやエルメス、ベンツやポルシェ、あるいはイヴァルソンやアンネ・ユリエのパイプなどのように、名実ともに一流品と呼ぶにふさわしいものと同じ、質的水準と、心情で、一流品を呼ぶことは、オーディオ機器の場合は難しいと思う。事実私も難しさを感じた。世界のオーディオ機器メーカーの現実の中で、オーディオ機器なりの一流品としての基準に修整を加える必要はあった。
 一流品とは、自称するものではなく、時間に耐え、厳しい批判をしのぎ、人に選ばれ、賞賛されるものだから、それを作り出す人々は不屈の精神の持主であると同時に、それを天職と感じ、大きな情熱と愛を持っている人や人達でなければならないだろう。こうした人間の精神性が、資本主義の巨大なコマーシャリズムの中で、どう活路を見出していくかは決して容易なことには思えない。しかし、それを育てるのも、つぶすのも、結局、その価値を見出すお客の存在如何にかかっていることは間違いない。いまや、一時代前のようにステイタスシンボルという存在が、素直に考えられるはずもない社会構造の中で、そうした背景と密接な連りを持って育ってきた一流品と、そして、一流品という言葉の意味が再確認されねばならないときであろう。市井では一流品ばやりで、特に日本では、国民全般の経済的余裕にともなって世界中の一流品が大量に輸入され、気軽に庶民の心の満足の一役を担っているように見える。これが、いいことか悪いことかは別にして、大きく変ったことだけは間違いない。OLが月払いでハワイ旅行をし、ホノルル市外で拾うタクシーのボンネットにはキャディラックの月桂樹のエンブレムがついているという時代なのだ。かつて、階級制度とはいえなくとも、大金持や有名スターのステイタスシンボルであったキャディラックだが、ホノルルのタクシーに使われているド・ヴィルやカレーは、オールズモビルの上級車よりも安いモデルである。これは何を意味するか。GMも背に腹はかえられぬのたとえ通り、キャディラックといえども、庶民相手に大量生産をしなければならなくなったのだし、同時に、庶民の中には、かつての栄光のシンボルであるキャディラックへの憧れを消すことが出来ない人達がたくさんいることを物語っているのだろう。そこをくすぐって、安いキャディラックを作り、売るのだ。日本では、つい先頃まで、ドイツの国民車VWが外車というステイタスシンボルになっていたぐらいだし、今でも、その名残りはある。VWビートルは本当にいい車だから文句はいわないが、国産以下の内容で、値段だけ高い外車に憧れて乗るという無知と非見識さは、そろそろ慎むべきときが来ているのだ。運転が示すあなたのお人柄という標語が流行っているぐらいだから、乗る車も注意したほうがよさそうである。オーディオも同じこと、いまや、ブランド名や、外国製というだけでは、ものの実態はわからない。
 こういう時代だから、一流品という言葉の持つ時代感覚のずれに大いに気づくところなのだが、反体制派で然るべきヤング達の間で一流品ブームだというのだから不思議なものだ。本当に、それが選ばれているのか。自信がないから銘柄に頼るのか。人が持っているから一つ自分も……式なのか。
 こういう時代になると、一流品は名実ともに優れたもの、名門だが、内容は必ずしもというものは名流品とか、単に銘柄品、名やバックグラウンドはなくても内容の優れたものは一級品というように、呼称に区別をしないと誤解をまねく。
 先にも書いたように、日本には機械文明のオリジナリティはない。しかし、いまや決して短いとはいえない、時の積み重ねを持ってきた。にもかかわらず、この分野で、名実ともに一流品と呼び得るものが少ないのは残念なことだ。私流に定義をすれば、文明と文化の二本の柱をこの背景に持つことが一流品の条件だ。文明と文化と簡単にいうけれど、それぞれの意味も、その違いも充分な論議の対象であろう。しかし、ごく一般的な意味で、物質的な文明、精神的な文化という側面だけでみてもよい。明治維新と第二時大戦後の二度にわたって、惜しげもなく自身の文化を捨てすぎた観のある、あきらめのいい日本人。しかし、その代償に値するだけの機械文明の吸収を成し遂げ、いまや、それを凌ぐほどの成果をあげている優秀な日本人が、自問自答して姿勢を定め、こまぎれ文化を独自の文化に育てあげるとき、真に一流品と呼べるものが増えるだろう。

フィデリティ・リサーチ FR-1MK3

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 巻枠に磁芯を使わない純粋のMC型カートリッジとして登場したFR1、それを改良したFR1MK2を経て、さらに一段と発展したFRのトップモデルがFR1MK3だ。
 発言方式は、かつての米フェアチャイルドやグラドの発展型ともいうべき、FRの独自のタイプである。柔らかく、粒立ちの細やかな音である。やや大人っぽい完成度の高さが魅力であるが、性質がニュートラルで、音の輪郭を正確に画き、素直に反応するスムーズさはこのカートリッジならではのものがある。

デンオン DL-103S

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 スピーカーシステムやアンプ関係では、海外製品と国内製品は価格的に格差があり、市場で対等に戦うことはないが、ことカートリッジについては、価格、性能ともにあまり差はなく、他の分野にくらべて海外製品がかなりの占有率をもっている、やや特殊なジャンルである。しかし、発電方式をMC型に限定すれば、海外製品は欧州系のオルトフォンとEMTのみで、現在はこの2社以外にMC型を生産しているメーカーはない。これに対して国内製品は、圧倒的に銘柄が多く、その機種が多く、世界でもっとも多くMC型を生産している。国内製品のMC型は、すでにかなり以前から海外の高級ファンの一部に愛用されている。
 デンオンのMC型は、十字型の独得な磁性体の巻枠を採用した、やや高いインピーダンスをもつタイプだ。発電方式そのものが明解であり、二重カンチレバーによる軽量化を最初から採用している。第一作のDL103は、NHKをはじめ放送業務用に採用され、製品が安定し、信頼度の高さでは群を抜いた、いわば標準カートリッジといえるモデルだ。
 DL103Sは、103を改良し超広帯域化した製品で、最近の質的に向上したディスク再生では、聴感上のSN比が優れた、いかにも近代的カートリッジらしいスッキリと洗練された音を聴くことができる。製品間の違いが少ないため、信頼度が高い新しい世代のカートリッジを代表する文字通りの一流品だ。

ビクター TT-71, QL-7R

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ビクターのクォーツロック方式のダイレクトドライブ・ターンテーブルは、すでに、TT101、TT81の2モデルがあり、特長あるデザインと高い性能、とりわけ音が良いターンテーブルとして、高い評価を得ているが、このシリーズの第3弾製品として、今回、大幅にコストダウンされたTT71が発売され、同時にこのターンテーブルを使用したプレーヤーシステムQL7Rも発売された。
 TT71は、デザインが上級モデルの特長がある感じから、単体のフォノモーターとしては、オーソドックスな印象の円盤状のタイプに変わっている。ターンテーブルは、外周はストロボパターンが刻まれた直径31・3cm、重量2・2kgのアルミダイキャスト製で、慣性質量は、350kg・㎠ある。駆動モーターは、TT81と同じDC型12極・24スロットFGサーボモーターで、1回転に180個のパルスを発生するFG型速度検出機構をモーターユニットに内蔵している。このタイプは、起動特性、動的な耐負荷性、ワウ・フラッター特性が優れている特長がある。
 クォーツロック・サーボは9504kHzの水晶で発振した安定周波数をIC分周回路で周波数を低くし、これを基準信号として位相比較回路に送り、これとFGからのパルスを比較して、モーターの速度誤差があれば、2つの信号の位相差によってモーター駆動回路はコントロールされ、ターンテーブル回転を規定の速度に保つ働きをする。
 ストロボ照明電源は、商用電源ではなく水晶の安定した周波数による信号を電源としているため、ストロボのユレはほぼ皆無としている。
 ターンテーブルのコントロールは、タッチ・センサー方式で、回転数切替とストップは触れるだけで動作をするタイプだ。なお、ストップは、制動用ブレーキパッドをプランジャーでコントロールする方式で、メカニカルブレーキ独特の摺動音が聞かれるのが、いかにもディスク的な感じである。
 QL7Rのプレーヤーベースは、共振と制動を抑えた設計で、インシュレーターには、ゴムとスプリングの長所をいかし、欠点を抑えたパラレルアイソレーターで、ゴムにスプリングをコイル状に取りつけてあり、タテ、ヨコ両方向の振動吸収に高いメリットがある。
 トーンアームは、UA7045から高さ微調整機構などを省いたUA5045型で、軸受けはニュー・ジンバルサポート、パイプは防振材入り、ヘッドスクリュー部分は、2重構造のチャッキングロックタイプなどの特長をもち、ヘッドシェルは、溶湯鋳造の純アルミ製で共振がない、音のよいヘッドシェルである。
 なお、カートリッジは付属せず、上級モデルには備わっていた速度微調整は、本機では省かれて、2速度の固定型になっている。シンプルで内容の濃い製品である。

ダイヤトーン DP-EC1

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 プレーヤーシステムには、現在のように高度なメカニズムやエレクトロニクスが使用できる時代になっても、オートプレーヤーは正統派のコンポーネントではないとする考え方が残存しているようである。たしかにメカニズムを使うオート方式は、たとえばアームの動きひとつとってみても、いまだに手で操作したような、感覚的なスムーズさが得られないことが多いのは事実だが、オート化したための性能低下や、カートリッジの針先やディスクへの影響は、国内製品に限れば普及品といえども皆無である。
 DP−EC1は、エレクトロニクス・コントロールを意味する型番をもった、最新の技術を導入したフルオートプレーヤーシステムである。デザインはスリムな薄型にまとめられ、色彩的にも明るく、とかく重厚なデザインが多い高級モデルのなかでは、軽快さが特長である。機能面では、ディスクの有無、ディスクサイズと回転速度の自動選択が、光線を利用して純電気的にコントロールされ、アームの水平方向の移動速度は適度に早く、リフターの動作、アームの反転ともに連続的に休まず、滑らかに動作する。メカニズム使用の方式に慣れた感覚では、早く確実に動くために、ややドライに感じられるかもしれないが、逆に、これがエレクトロニクス・コントロールらしい新鮮な魅力である。システムトータルの音も現代的で、反応が早く、帯域の伸びた感じがあり、基本的なクォリティが充分に高いために、高級カートリッジの微妙なニュアンスの魅力をよく出して聴かせる。

「私の考える世界の一流品」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 すぐれて独創的であり、しかも熟成度の高いこと。──これが一流品の条件といえるだろう。
 独創はとうぜん個性的である。がそれがもしもひとりよがりや勝手な思い込みであるなら、他人から高く評価されもしなければ、万人に説得力を持つはずもない。独創が一人合点でなく普遍の域まで高められなくては本物といえない。このことは、芸術であると大量に生産される工業製品であるとを問わない。たとえば音楽でも絵画・彫刻でも、芸術はほんらい個性のエキスのようなものだが、それが真に高い域に到達するとそれは年月を超越して広く世界じゅうの人に理解され支持され熱愛されるに至る。
 工業製品の場合、そして中でもオーディオやカメラや自動車のように、趣味としての要素の強い道具の中で一流品と認められるものの場合には、その成立までによく似たプロセスを経ることが多い。それは、最初の設計のきっかけが、商品を作るよりもむしろ原設計者自身の高い要求あるいは理想を満たすために作られる、というケースである。
 たとえばソウル・B・マランツが創り上げた初期の(モデル16までの)マランツのアンプやチューナーやレコード・プレーヤー。たとえばSMEのアーム。たとえばマーク・レビンソンのコントロールアンプ……。これらははじめ売ることを全く念頭に置かず、彼らがそれぞれにオーディオの熱烈な愛好家として最高のものを求めていって、市販品にその望みを満たす製品が見当らなかったところから、マランツが、エイクマン(SME)が、レビンソンが、彼ら自身で使うに値する最高の製品を作ろう、と研究にはげんだ結果のいわば〝作品〟なのだ。
          ※
 ここまでなら何も彼らの例にかぎらず、日本にも個人でこつこつ努力して自分自身のための機器を製作する人たちが、少数ながらいる。しかしひとつだけ大きく異なるのは、いま例にあげた製品が、設計者自らのひとりよがりにとどまらず、同じ道を歩む愛好者であれば誰でも理解できる普遍性と、そして高い理想を抱く人をも満足させる性能の良さと、鋭い審美眼を持つ人をも納得させる洗練された美しさとを兼ね備えている、という点である。
 残念ながら私の知るかぎりで、日本人の作る製品の中に、優れた性能とデザイン、良い素材を精密に入念に仕上げた質感がもたらす信頼感や精密感、とうぜんのことながら眺め、触れた感触のよさ、しかもそれが永い年月に亙って持続するような、要するに重厚な魅力を持った本ものを、くり返すが残念ながら、日本人が作りえた例をきわめて少数しか知らない。はじめは良いと思っても、身銭を切って手許に置いて毎日眺め、触れ、聴いているうちに、どこかで馬脚を現わすようなのは本ものではない。
 そのことが、はじめに書いた一流品の条件の後半の、熟成度の高い、という意味になる。
 元来ある製品が生み出されたばかりの状態からすでに熟成しているということは少ない。ある思想あるいは理念がおぼろげながら形をとってくる。それを生んだ人間自身が、やっと生み出したという直接の感激が薄れるまでじっと温める。やがてそれをできるかぎりの冷静で客観的な目で批判しながら、欠点に改善を加え、少しずつ少しずつ、永い時間をかけて仕上げてゆく……。こういうプロセスを経ないで、いきなり完熟した製品が生まれるというようなことは、例外的にしか起りえないと断言してよい。天才はそうざらにいるわけではないのである。絵画や音楽や文学でも、ひとつの作品に作者が少しずつ手を加え完成してゆく。まして作者の直接の手を離れてある部分は鋳造されある部分は機械加工されある部分は塗装されメッキされ……、何十人もの人手によって組み立てられる工業製品に設計者(性能・意匠を含め)の個性が、反映されるまでには、たいへんな手間と時間が必要である。
 そうするとこれも再び残念のくり返しになるが、今日の日本の商品の作られ方、売られ方を前提とするかぎり、優れた素質を侍って生まれた製品でも、その後の熟成期間を持つことのできるといった理想的な例はやはり極めて少数といえそうだ。
 今日のように技術革新の激しい時代に、ひとつの製品を何年も温めていては新製品の開発などできない、という理屈がある。一見もっともだが、それなら、いま我々の使っているオーディオ機器のたとえばターンテーブルでもアンブでもスピーカーでも、ひとつのプロトモデルをすっかり水に流してからやり直さなくてはだめなほどの根本的な開発というのが、二年や三年で完成したかどうか。過去の例をふりかえってみれば明らかだろう。たとえばアンブのコントロールパネル面など、全面的にデザインを新しくしなければならないほどのことは生じていない。
 熟成──とは、別のことばでいえば、完成度の高いこと。それは隙のなさであり、バランスの見事さであり、密度の高さでもある。それには小改良の積み重ねが必要で、とうぜん年月が必要だ。それは即席(インスタント)とか、平均化とか、中庸とか没個性とか多数決などという態度から正反村のところにしか生まれない。ひとつの製品にどんどん手を加えながら、設計者のいわば理念を反映させてゆくような、そんな作り方のつみ重ねがなくて、一流品など決して生まれてくるはずがない。
          ※
 優れた設計者(あるいは設計者たちでもよいが)が、永い年月をかけてひとつの製品と対話しながら手を加えたような製品なら、そこに自ずから一種の気持のゆとりが込められる。それがいわゆる風格になり、見るものにどこか洗練された感覚と質の高さを伝える。それはとうぜん所有欲を刺激する。
 こういう製品になると、それを所有することによって所有者は何か心の高まりをおぼえる。優れた製品はそれを所有する者の精神を刺激し精神活動を活発にする。それはいわば設計・製作者と所有者との対話ともいえる。それを持つ者の考え方や感受性に影響をおよぼすほどの製品こそ、真の一流品ではないか。
 製作者がひとつの製品に込める時間が長ければ、それを所有する人間がその製品をほんとうに理解するのにもある程度の年月はかかるのが当然だ。ある製品を購入する。それが長期に亙る比較検討の結果でも、あるいは直観的な衝動買いでも、むろんその良さが理解できたから身銭を切るのだが、本ものの一流品はそこから先がまだ深い。いわゆる汲めども尽きぬ魅力を永い年月に亙って持続させる。毎日それを使い、眺め、触れ、聴き、いじりまわしたり磨いたりして少しも飽きないという製品が、数少ないながら確実に存在する。とすると、本ものの魅力が永続きする、というのが結果論としての一流品の定義ともいえそうだ。
          ※
 魅力、という話になるとそこにもうひとつ、これはいままでの話と直接の関係はないがエキゾチシズムの魅力、という要素を無視はできないように思える。我々日本人がいわゆる舶来ものに国産品と一味違う魅力とあこがれを多少なりとも抱くと同じに、欧米人たちがH本の製品を、我々が驚くような羨望の目で見つめることが多い。これは国を問わずおよそ人類に共通の感覚なのだろう。
 それだから国産品に魅力がないなどと短絡的な結論を出すつもりは毛頭ないので、再びはじめの定義に戻っていえば、すぐれて個性的で熟成度の高い、そして本ものの魅力の永続きするような本当の意味での一流品となると、十も二十もあげられるような性質のものでなく、厳密にいえばおそらく五指に満つか満たないか、ということになってしまいそうだ。
 実際の話、最初に一流品選出のテーマをもらったとき絞っていった結果は、せいぜい数機種の製品に止まってしまった。今回最終的にあげた数十機極は、それよりもう一段階枠をひろげて、いわば一流品としてこうあって欲しいというような願望までを含めてリストアップしたので、名をあげたもののすべてが無条件で一流品というわけではないことをお断わりしておきたい。

ソニー ST-A7B

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 現在の高級チューナーとして、とくに驚異的な内容を誇る製品ではないが、デザイン、性能、機能などの総合的なバランスが大変に優れたモデルである。
 デザインは、ソニー製品の特徴である機能美をもったもので、仕上げも入念であり、各コントロールのフィーリングも一流品らしくコントロールされている。最近の高級チューナーといえば、シンセサイザー方式の導入や、水晶発振器の信号を基準として局部発振回路を100kHzおきにロックする、クリスタルロック方式が採用されることが多いが、シンセサイザー方式の重心周波数がディジタル表示される未来志向型といった感じはかなり面白いが、スイッチを使っておこなう選局は実感が薄く、どうも選局をしたという感覚的な確認が乏しい。
 ST−A7Bでは、クリスタルロック方式を採用し一般的な走り幅が広いダイアルをもちながら、シンセサイザーチューナー的な、ディジタル周波数ディスプレーをもっているのが大変に楽しいところである。たしかに、選局ということだけでは不要かもしれないが、チューニングツマミを回して選局するという、かなり人間的な感覚と、新しい世代のチューナーを象徴するようなディジタルディスプレイと共存は、まさしく趣味としてのオーディオならではのものといった印象である。また、とかく高級チューナーは、FM専用とする傾向があるなかに、完全に独立したAMチューナー部があり、FMダイアルの片隅みに小型のダイアルが目立たず付いているのも好ましい。

ラックス M-6000

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 200Wをこすハイパワーアンプは、オーディオコンポーネントというよりは、マシーンを思わせる業務用機器として開発されたモデルが、そのすべてといってもよい。これらのパワーアンプは、一般的に19インチ・ラックサイズのパネルをもち、デザイン、重量、外形寸法のいずれをとっても、実際に家庭内で使用してみると、予想外にその存在を誇示し、ある種の違和感はまぬがれないようである。
 M6000は、そのなかにあって300W+300Wという、現時点でのこの種のアンプの上限ともいえる巨大なパワーを備えながら、当初からコンシュマーユースとして企画され、製品化された異例なパワーアンプである。
 たしかに、実質的な外形寸法、重量は、いわゆるコンシュマーユースの枠をこしてはいるが、デザイン的に考慮されているために、感覚としては大きく感じられず、家庭内に置いて、さして違和感が生じないメリットは大きい。機能面でのメーターとLEDを使ったピークインジケーターの組合せによるパワー表示、リモートコントロールでリレー制御によっておこなう電源のON・OFFなど、高級パワーアンプに応わしいものが備わり、音質的にもハイパワーアンプにありがちな粗い面がなく、平均的な音量では柔らかく、細やかな音を聴かせながら、ピーク時には並のアンプでは想像できない穏やかながら底力のあるエネルギー感を再現する。趣味としてのオーディオに徹したラックスならではのハイパワーアンプだ。

マイクロ DD-6

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ソリッド5以来のスリムでシンプルなデザインを受け継いだ新製品である。
 ターンテーブルは、外周に投光式ストロボスコープをもつ直径33cm、重量1・2kgのアルミダイキャスト製で、FGサーボ型のACモーターでダイレクトにドライブされている。このタイプのモーターは、耐負荷特性が優れ、温度ドリフトが少なく、安定した回転が得られるメリットがある。
 トーンアームは、定評があるダイナミックバランス型アームMA505と同等な性能をもつタイプで、演奏中にも針圧の調整が可能であり、最近の高性能化したカートリッジの聴感上での適性針圧を探し出せる大きな特長をもっている。なお、ヘッドシェルは、共振が少なく剛性が高いH303が付属している。このアームは、別売サブウェイトを使えば、重量級カートリッジの使用が可能である。
 プレーヤーベースは、天然木を使ったスリムでコンパクトなタイプだが、穴あけ部分を最小に抑えて実効質量を大きくし、共振点を低くし、ハウリングに強い構造としている。なお、ベース側面に別売サブアームベースを使用すれば、2本のトーンアーム使用が可能となる点も見逃せない。

オンキョー Scepter 10

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 型番こそ高級システムのセプター名称をもっているが、スピーカーシステムとしての性格は、個性を聴かせるモデルとして定評が高い、M6、M3の延長線上にある製品のように思われる。
 エンクロージュア形式は、バスレフ型でユニット構成は2ウェイ・2スピーカーだが、低音に大口径ウーファー、高音に、音響レンズ付のトゥイーターというよりもハイフレケンシーユニットと呼びたい本格的なドライバーユニットとホーンを組み合わせたユニットが使用されている。
 ウーファーは、38cm口径の大型ユニットで、180φ×95φ×20mmのフェライト磁石を使い、11000ガウスの高い磁束密度を誇り、ポールピース部分には銅のショートリングを装着し低歪化している。
 コーン紙はコルゲーションつきで物理特性が異なった2種類のウレタンフォームを7対3の比率で貼合せた特殊成形の2層発泡ウレタンエッジと耐熱性樹脂積層板を使う薄型ダンパーでサスペンションされている。ボイスコイルは、直径78mmのロングボイスコイルで、コーン紙との接合部にアルミ補強リングをつけ、コーン紙のつりがね振動防止と中低域の音色改善を計っている。
 トゥイーターは、ダイアフラム材質に、高域再生用として理想的な高度をもつ厚さ20ミクロンのチタン箔をドーム型に成形し、ポリエステルフィルムを使ったフリーエッジ構造や2重スリットのイコライザーの併用で、高域のレスポンスを伸ばし、硬く、軽い特長は、過渡特性を一層改善し鋭い立上がり特性を得ている。ホーンは、カットオフ500Hzのアルミダイキャスト製ショートホーンで、ハイインパクト・スチロール樹脂製の共振が少ない大型音響レンズと組み合わせて、30度の指向周波数特性が20kHzまで、軸上特性にほぼ等しい結果を得ている。
 トゥイーターのレベルコントロールは、一般のタイプとは異なり、モードセレクターと名づけられている。ポジションは3段切替型で、①ウーファーとトゥイーターが密結合の状態で、クロスオーバー付近のレスポンスはやや盛りあがり気味で、メリハリが効いた幾分ハードな音、②ウーファーとトゥイーターつながりが、音圧周波数特性でフラットになる設定、③中低域に、やや厚みをもたせ、トゥイーターレベルを抑え気味にしたソフトな再生パターンに変化することができる。
 エンクロージュアは、容積が160リットルあり、バッフルボードは20mm厚の米松合板を、側板には針葉樹材チップボードを使い、補強材を組込んで減衰波形の美しいエンクロージュアとし、外装はローズウッド木目仕上げで、フロアー型システムらしいデザインにまとめ上げている。
 出力音圧レベル95dB、最大入力100Wであるから、最大出力音圧レベルは115dBとオーケストラの最強音圧に匹敵する。

マイクロ DD-100

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ユニークなデザインをもつプレーヤーシステムDDX1000を発表して好評を得ているマイクロから、同社のプレステージモデルともいうべき大型のプレーヤーシステムDD100が発表された。
 このシステムは、民生機としては珍しい16インチ直径の超大型ターンテーブルを採用した点に特長がある。この種の大型ターンテーブルは、フライホイール効果が非常に大きく、一般的な30cm径のタイプにくらべて、よりスムーズな定速回転が得られるメリットがある。ちなみに、本機に採用されたターンテーブルは、直径40cm、重量5・2kg、慣性質量1500kg・㎠と驚異的に大きい。駆動モーターは、クォーツロックによるPLLサーボ方式のダイレクト型で、水晶発振器からの高精度な基準周波数でモーターからの回転周波数をフェイズロックするため確実に規定回転数が得られ、ストロボスコープを必要としない。なお、速度調整を必要とする場合には、クォーツロックを解除すれば、±6%の微調は可能である。
 トーンアームは、ダイナミックバランス型のMA505の延長型で有効長267mmあり、別売サブウェイトを使用すれば、オルトフォンSPU−Gなどの重量級カートリッジが使用可能である。
 プレーヤーベースは、剛性を高め、耐ハウリング性を向上する目的で、厚さ1mm、重量3kgの鉛板2枚をサンドイッチ状にはさんだタイプで重量は12kgもある。
 機能面では、アームベース部分に、カートリッジ負荷抵抗とコンデンサー容量切替スイッチが付属している。なお、電源部はセパレート型である。

ビクター S-755

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 このシステムは、大口径ウーファーをベースとした3ウェイシステムというよりは、中口径フルレンジユニットの低域と高域をそれぞれ専用ユニットで補ったシステムというほうが適当であろう。
 20cmシングルコーン型ユニットは、250Hzから8kHzの幅広い帯域を受持っている。コーン紙は、新開発のSP1コーンで、ハイヤング率、軽量タイプである。
 ウーファーは、このクラスとしては異例に大口径な38cm型で、SP1を使ったコーン紙は、ボイスコイルとの結合部にコンプライアンスをもたせ、機械的なハイカットフィルターとして、ネットワーク用の大きなコイルがウーファーと直列に入り、直流抵抗が増加することを防ぎ、併せて価格を抑えるのに役立っている。トゥイーターは、スコーカーに同軸型に組込まれた4cm口径のコーン型で、フェイズ・リンク・コアキシャル方式である。
 このシステムは、スケールの大きな落着いた音である。低域は豊かで安定し、高域のやや輝く感じが低域とバランスをとり、アクセントを効果的につけている。

オーレックス SC-77

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 SC55と同寸法のシャーシに収まったものパワーアンプで、出力は120Wである。回路構成は、初段カスケード接続差動2段、3段ダーリントン全段直結順コンプリメンタリーOCLで、電源分は、トロイダルトランスと低倍率電解コンデンサーのコンビ。ゲイン切替、メーター端子のほか、サブソニックフィルターがある。

ヤマハ CR-1000

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 国内では、レシーバー、とくに高級レシーバーの需要は皆無に等しいとされているが、逆にいえば高級ファンの要求を満たすにたる製品がないことも、ひとつの重要なポイントであることは、意味はやや異なるが、4トラック・オープンリールデッキのジャンルと共通性があるといえよう。
 CR1000は、デザイン、性能、音質などの総合的な面で、高級レシーバーと呼べる稀な存在である。ヤマハ独得なシルバーパネルと白い栓の木を使ったキャビネットは、巧みに調和がとれ、仕上げも高級モデルに応わしい精度の高さがある。内容面では、CT800というチューナー異常の性能をもつFM受信部と、CA1000プリメインアンプと同等のオーディオアンプ部を組合せているが、音質面では、構造面の違いだろうか、いかにも高級レシーバーともいえる安定した密度の高い音で、必要にして充分の聴感上の帯域、力感、粒立ちのよさなどをもっている。かなりの高級スピーカーシステムをドライブしても、それぞれの、らしい個性を引出して聴かせる内容の高さと安定感は、むしろ専用チューナーとプリメインアンプの組合せをしのぐものがある。わかる人が使う高級レシーバーとしては、まさしく第一級の製品だ。

オーレックス SC-55

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 薄型デザインの60W+60Wの出力をもつステレオパワーアンプである。構成は、初段カスケード接続、差動2段全段直結OCL型で、電源分は左右チャンネル独立したトランスを使用している。機能面では、左右チャンネル独立の入力調整のほか、NF量可変によるゲイン切替をもっている。また、スピーカー端子と並列にメーター端子があり、別売のピークレベルメーターで出力レベルのチェックが可能である。

オーレックス SY-77

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

〝回路設計から音質設計へ〟をポリシーとして開発されたオーレックスのセパレート型アンプは、物理データが目標に達した時点を音質設計の出発奠都し、物理データ以外の項目で、構造、部品の検討がこの段階で行われ、、2段階の設計でつくられている。
オーディオアンフスの構造・配置は、物理データでの歪率、チャンネルセパレーションと密接な関係があり、これらは当然のこと音質とかかわりあいがある。また、部品の選択は、部品の変更で物理特性が変わらなくても音質が変わる事実から、とくに、コンデンサーの物理特性をスペクトラムアナライザーで測定するとともに、音質評価を加えながら部品選択がされているとのことである。使用するコンデンサーによって音が変わることは、古く管球アンプ時代からわかっていたことだけに、物理性能と音の関連性を、現代の技術で解明してほしいものだと思う。
 SY77は、最近の傾向を反映した薄型のデザインを採用した製品である。パネルフェイスは、主なコントロール類だけを表面に出し、トーンコントロールなどの諸機能は、ヒンジ付きパネル内のシーリングポケットに収めた簡潔なまとめ方である。また、このパネルは、サイドにオプションのハンドルを付ければ、JIS、BTS等の規格ラックにマウントすることができる。
 回路構成は、イコライザー段が、差動2段、3段直結A級動作で1kHzの許容入力は600mV、RIAA偏差は±0・2dBであり、フラットアンプは、初段化スコード接続2段純コンプリメンタリー・パラレルプッシュプルA級出力段で、出力インピーダンスは600Ωである。トーンコントロール段は、差動1段、2段直結型で使用時のみアンプ系に入り、完全にバイパスする設計である。電源分は、左右チャンネルのトランス巻線が独立したセパレートタイプである。

ヤマハ CT-7000

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 ヤマハは、新プリメインアンプのCA2000、1000IIIで、ソフィスティケートしたアンプという表現をPRに使っているが、この表現にもっとも応わしいものは、ヤマハならずともオーディオ製品のなかでCT7000をおいて他にないであろう。開発時点で、時代を先取りした高度な性能、機能を洗練されたデザインの内に収め、仕上げ、加工精度などの細部をみても別格のものがある。現在のヤマハのコンポーネントシステムのなかでも、このモデルは隔絶した位置にあるが趣味のオーディオ製品としてこれ以上いいしれぬ魅力を秘めたモデルはあるまい。

トリオ KP-7300

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 トリオから新しく発表されたプレーヤーシステムは、比較的にローコストなモデルだが、プレーヤーシステムの基本であるプレーヤーベースをはじめ、トルクの大きなダイレクトドライブ用モーター、重量級のターンテーブルの採用などに代表される、使用部品を充分に検討して開発されたオーソドックスな製品である。
 プレーヤーペースは、プレーヤーシステムの性能を向上させるための重要な部分であるが、ここでは、骨組みとして、石綿を加えて高圧成形したコンクリート一種であるMC材を使用している。この材料は、吸水率、含水率が低く、剛性が高い特長をもち、外部振動に強いシステムとすることに大きく役立っている。また、ベースの底板部分は、1・6mm厚の鉄板を使用しているのも、この部分の共振を抑えるための配慮である。また、ダストカバーは、スピーカーからの音のエネルギーを大量に受ける上面の肉厚を厚くし、各コーナーの内側は、三角形の肉もりを施して剛性を上げ、材料には振動減衰率が大きいアクリル材を使用するなどして機械的な強度の高いカバーとしている。また、プレーヤーシステムの幾何学的中心に重心がないと、高い周波数と低い周波数の2つの共振点が出来ることになり、防振性の上で大きなマイナスになるとの見解から、ダストカバーの開閉時にも、総合的な重心の移動を極小にできるような、カバーの重心分布が考えられているとのことである。
 ターンテーブルは、最大トルク1・1kg・cmの20極・30スロットDCサーボモーターで、ダイレクトに駆動されるが、ターンテーブル自体は、直径33cm、重量2・6kgのアルミ合金ダイキャスト製で、ゴムシートを含む慣性質量は、440kg・㎠と、このクラスの製品としてはかなり大きな値を得ている。なお、ゴムシートは、肉厚が6mmあり、ターンテーブルの分割共振を抑えているとのことだ。
 トーンアームは、S字型のスタティックバランス型で、パイプ部分は、直径10mm、肉厚1mmのアルミパイプを硬質アルマイト仕上げし、パイプのネックは、真鍮材で作った充分な長さのパイプで固定してある。ヘッドシェルは、アルミダイキャスト製で、フィンガー部分も一体成型として強度を高めたタイプである。
 付属カートリッジは、デュアルマグネットタイプのMM型で、音の傾向としては帯域が広く、とくにパルシブな音が多いジャズ、ロック系の音楽に適した、ガチッとした音をもっているとのことである。
 なお、プレーヤーベース部分のインシュレーターは、再生音、耐ハウリングの両面から検討された新開発のタイプで、上下方向の防振はもとより、横方向および回転軸の動きを制動する特長があるデュアルサスペンション方式である。ストロボスコープは、付属の小型円板をターンテーブルのスピンドルに入れて使うタイプである。

サンスイ SP-G300

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 新しい価格帯に登場したフロアー型スピーカーシステムである。構成は、ユニークな、同口径で異った性質の2本のウーファーを並列駆動する低音、本格的なコンプレッション型ドライバーユニットと音響レンズつきホーンを組合せた高音を採用した2ウェイ・バスレフ型である。
 低域、高域ともに、充分に伸びた聴感の帯域は、近代型モニターシステム的であり、とくに低域の音の姿、かたちをナチュラルに表現し、スケール感が大きいのは、フロアー型ならではの魅力である。また、ホーン型ユニットが受持つ帯域は、いわゆるホーン的な感じが皆無で、特定のカラリゼーションがないのは珍しい。音でなく、音楽を楽しむスピーカーである。