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良い音とは、良いスピーカーとは?(6)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)

高忠実度スピーカーの流れ
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 BBCモニタースピーカーLS5/1Aの音は、はじめて耳にしたときから、それまでモニターの代表として知られていたアルテック604E/612Aや三菱ダイヤトーン2S305らの音とは全く違っていた。よく耳にするこれらのモニタースピーカーの音は──中でもアルテック604E/612Aはわたくし自身約二年あまり自宅で聴いていたことがあるが──、第一に冷徹でプログラムソースのアラをえぐり出すような鳴り方で、永く聴きこむにはあまりにも鋭く、こちらの気持が充実し精神が張りつめたようなときでないとその鮮烈さに耐え難いような強さがある。そういう音には一方で、パワーを上げると滝に打たれるような爽快感さえあって精神の健康なときには一種のスポーツ的な楽しさで対峙できる反面、疲れた心を癒してくれるというような優しい鳴り方は絶対に求めることができない。それはアルテックばかりでなく2S305にもそういう傾向が感じられ、たった一度だけ、あるレコードファンが、団地の四畳半で管球アンプで鳴らしている音質に意外に柔らかな表情を聴きとった経験があるが、一般にモニタースピーカーの音質とは緊張を強いる、分析的な、余剰を断ち切った無機的な鳴り方をするものだと、わたくし自身まあ信じていたと言ってよい。わたくしだけではあるまい。現にそのような解説が、オーディオ専門誌でもひとつの定説のように繰りかえされている。
 BBCモニターの音は違っていた。第一にいかにも自然で柔らかい。耳を刺激するような粗い音は少しも出さず、それでいてプログラムソースに激しい音が含まれていればそのまま激しく鳴らせるし、擦る音は擦るように、叩く音は叩くように、あたりまえの話だが、つまり全く当り前にそのままに鳴る。すべての音がそれぞれ所を得たように見事にバランスして安定に収まり、抑制を利かせすぎているようにさえ思えるほどおとなしい音なのに全く自然に弾み、よく唱う。この音に身をまかせておけばもう安心だという気持にさせてしまう。寛ぐことのできる、あるいは疲れた心を癒してくれる音なのである。陽の照った表側よりも、その裏の翳りを鳴らすことで音楽を形造ってゆくタイプの音である。この点が、アメリカのスピーカーには殆ど望めないイギリス独特の鳴り方ともいえる。
 初めてこれを聴いたのはもう六年も前の話になる。古い読者なら本誌8号の「話題の海外製品」欄(384ページ)に、山中敬三氏の紹介があることを記憶しておられるかもしれない。その頃初めて入荷して、山中氏のお宅に紹介記事のためにしばらく置いてあった。お前の好きそうな音だから聴きにこないかと声がかかって、しかしそのときの印象は、ずいぶんすっきりと線の細いきれいな音だという程度のもので、今思い返せば残念ながらわたくしの耳も曇っていた。しかし右の紹介記事をいま読み返してみると、山中氏も「定位もすばらしく良く、音にあたたか味がやや不足する気もするが、この色付けの少ないひびきは、モニタースピーカーのひとつの典型……」と書いておられる。するとあの部屋で鳴った音は、この種の音にはどちらかといえば冷淡な彼の鳴らし方そのものだったのに違いないと、今になってそんなふうに思えてくる。
 LS5/1Aのもうひとつの大きな特徴は、山中氏も指摘している音像定位の良さである。いま、わたくしの家ではこのスピーカーを左右の壁面いっぱいに、約4メートルの間隔を開いて置いているが、二つのスピーカーの中央から外れた位置に坐っても、左右4メートルの幅に並ぶ音像の定位にあまり変化が内。そして完全な中央で聴けば、わたくしの最も望んでいるシャープな音像の定位──ソロイストが中央にぴたりと収まり、オーケストラはあくまで広く、そして楽器と楽器の距離感や音場の広がりや奥行きまでが感じられる──あのステレオのプレゼンスが、一見ソフトフォーカスのように柔らかでありながら正確なピントを結んで眼前に現出する。
 柔らかな音は解像力が甘く、ピントの良い音は耳当りが硬い……。それがふつうのスピーカーだが、LS5/1Aは、ドライブするアンプの音色の差、カートリッジの差、レコーディングのテクニックの差を、そのままさらけ出す。モニタースピーカーなのだからこれは全く当り前の話だが、そういう冷酷なほどの解像力を持ち、スピーカー自体カラーレイションの少ない素直でありながら、レコードの傷みや埃に起因するざらついたノイズや、ビリつきとかシリつきなどといわれる種類の汚れた音をほとんど出さず、むしろ音を磨いて美しく鳴らす。前回(27号)に載せた周波数特性図からもわかるように約14kHzから上が割合急にロールオフしてゆく傾向があることがその大きな理由かもしれないが、しかしこのスピーカーに関連して発表されているKEFのリポートなどを読んでみても、全音域に亘って過渡特性をできるだけ改善しようと努めていることがわかり、その点もまた、音を美しく聴かせる重要なファクターであるにちがいない。
 監視用(モニター)でも検聴用(ディテクター)でもありながら、一人のアマチュアの気ままな聴き方をも許してくれるこういう鳴り方のスピーカーは、モニター用でない一般市販品まで話を広げてもほかに思い浮かべることができない。こんな音を聴くに及んでは、わたくし自身のモニタースピーカーに対するイメージがすっかり変わって、しまったことは容易にお分り頂けるだろう。残念なことに、三ヵ月ほど前に引越をして新しい部屋に置いたところが、右のような音の良さが(今のところはまだ)十分に生かせなくなってしまった。以前の、ほとんどこわれかけた本木造(本などと断わらなくてはならないほど、昔ふうの良い木造建築をしてくれる職人も材料もなくなる一方だが)、畳敷きの8畳のあのおそろしくデッドな部屋でこそ、このスピーカーの音は全く素直に耳のところまで伝わってきて、右に書いた素晴らしく自然なプレゼンスを聴かせてくれたのに、今度の部屋はスピーカーと聴取位置のあいだに、まるでエア・カーテンでも介在しているみたいに、以前にくらべて音の透過が極端に悪くなってしまった。しかしここのところがLS5/1Aのひとつのウィークポイントかもしれないことは、以前の8畳のそのまた前に住んでいた部屋でも(ややこしくて申し訳ありません)今回と似たような現象があったごとから想像できる。だいたいこのスピーカーをBBC放送局で使っている写真をみると、ミクシングコンソールの両そでに置いて、おそらくミクサーの耳から1メートルと離れないような近距離で聴くことさえあるように、むろん印刷写真からの憶測だから違うかもしれないがそのように思える。ともかく、離れて聴くにつれて音像のぼけてゆく傾向が、ほかのいろいろなスピーカーよりも顕著のように思える。それだから、わたくしのような昔から広いリスニングルームに住んだことのない人間には向いているのかもしれない。
 LS5/1Aにはもともとラドフォード製の6CA7-PPの35Wのパワーアンプが附属している。これで鳴らす音は美しいが、その美しさはいわばゼリーを薄くかけたケーキのようにやや人工的に滑らかな質感で、わたくしの耳にはこれでは少しもの足りない。むしろJBLの400Sや460Sなどの傾向の、あくまでも解像力の優れた良質のTRアンプで鳴らす方が、このスピーカーの恐ろしいほどの解像力やプレゼンスを生かしてくれる。逆にいえば、放っておくと音像がぼけてゆく方向の音を、できるかぎり解像力を上げる傾向に修整して鳴らそうという意識が働いているのかもしれないが……。
 LS5/1Aの音には、たとえばJBLのモニターのような鮮烈な明晰さ、神経の張りつめたモダンな明るさがない。いくぶん暗く、渋く、柔らかく、そして必要な音をできるだけ自然な光沢で控え目に鳴らしてくれる所が良さで、だから反面の不満が生じないと言ったら嘘になる。BBCを鳴らしてJBLの良さに気がつき、JBLを聴いたあとでBBCの柔らかなハーモニーに心からくつろいでゆく自分に満足する。わたくしの中にこの両極を求める気持が入りまじっている。
 先日、JBLのプロフェッショナル・シリーズのモニタースピーカー♯4320を、わが家に運び込んで鳴らす機会を得た。わたくしのJBLは以前から愛用している3ウェイだが、マルチアンプ・ドライブでいろいろいじるうちにいつのまにかBBCに影響されすぎて、いわば角を矯めすぎていたようだと気がついた。それはそれとして、JBLのプロ・シリーズが従来とは違う新しい音を作りはじめ、その新しさの中から、再びわたくしを捉える麻薬を嗅いでしまった。JBLとKEF/BBCモニターの音が、いまのところわたくしの中に住む両極の代表なのかもしれない。
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 ありていに言えば、BBCモニターについてはいくら枚数を与えられても当分書き足らないのだが、これを書いた理由をいえば、前回(27号)のくりかえしになるが高忠実度スピーカーの流れを説明するために、シアター・スピーカーから発展した家庭用大型スピーカー、ARから発展した小型ブックシェルフ、その折衷型の中型フロアータイプなど従来知られていた流れのほかに、新しくヨーロッパに抬頭しつつある家庭用ハイファイ・スピーカーのひとつの源流として、ことにイギリスの新しい家庭用の小型スピーカーの作り方の中に、右のBBCのモニタースピーカーの影響を無視できないように思えるところから、やや詳細に紙数を費やした次第で、ここから再び話が本流に戻る。
 BBC放送局は衆知のようにイギリスの国営放送で、その性格上放送技術の向上のために研究したデータが民間のメーカーなどに広く公表されるらしい。また、右のモニタースピーカーの開発に際しては、民間のスピーカーメーカーにその業務を委託するではないかとも想像される。あるいはさらに、同じテーマによって競作させることさえあるのではないかとも想像できるような事実もあるが、想像での話をあまり広げるのは止そう。
 ひとつの例がスペンドールのBCIというブックシェルフスピーカーで(これにはモニタースピーカーと書いてあるが、この場合はあくまで一般的に言われるモニターのことだと思うが)、このスピーカーの背面には、型番や規格を記した銘板(ネームプレート)の下にもう一枚、BBCの発表したモニタースピーカーの資料に依って製作した旨の断り書きが入っている。
 ただしBBCのメイン・モニターは、現在では前記のLS5/1Aから発展した新型のLS5/5型に変わっているらしい。KEFのレイモンド・クック Raymond E. Cooke・(1969年発行のリポートによる)によれば──この新しいスピーカーは1969年中には供給に入るだろうし、1970年代を通じてリファレンス・スタンダードとなることが期待されている……とあり、最近の「放送技術」(VOL26No.10)にもこの新型の紹介が載っている(P89山本武夫氏)ところからもおそらく現用のモニターとして活躍していることと思うが、LS5/5はクロスオーバーが400Hz、3500Hzの3ウェイでLS5/1Aよりも小型に作られている。
 この400Hzと3500Hzというクロスオーバー周波数から、まっ先にフェログラフS1が思い浮かぶので、前記のクックのリポートから知ることのできるBBC・LS5/5とフェログラフS1とは、ネットワークの構成その他にもいくつか共通点を数えあげることができ、フェログラフのカタログにはBBCモニターとの関連など全く触れられていないにもかかわらず、おそらくこのS1も、BBCのモニタースピーカーの資料を何らかの形で参考にして作られているであろうことが伺い知れる。
 一方、LS5シリーズを開発したKEFは、新型のモデル104(本号テストリポート参照)で、これまでのKEFの一連の市販スピーカーとは別の、新しい音質を聴かせはじめた。わたくしたちの目に触れる範囲でさえ、これらの事実を照合してゆくにつれて最近のイギリスの家庭用スピーカーの開発の方法論の中に、BBC放送局がモニタースピーカーを作りあげてゆく過程で積み上げた厖大な研究の成果が、少しずつ実りはじめているのうみることができる。おそらくこの土台は、われわれが想像するよりもはるかに根が深く、そしてこれから先もイギリス以外の製品にまで、直接間接に影響を及ぼしてゆくだろうと、わたくしは予言してもいい。なぜか──。
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 モニタースピーカーの音は、きつい、とか疲れる、とかドライすぎる、などという説があって、それが必ずしもすべてではないことを証明したひとつの例がさきのBBCのモニターだが、外国製スピーカーの特性と音質の関連についての俗説も、そろそろ是正されなくてはならないと思う。
 たとえばこんな巷説がある。──外国製のスピーカーの音色は個性が強く、聴いて楽しくとも測定上の特性はそんなに良くない。一方、国産スピーカーは特性は外国製より良いが、聴いてひきつけられるような個性が少ないし、楽しめる音が出にくい……。
 たとえばアルテック604E/612Aの周波数特性を眺めてみる(図参照)。この個性的な特性をみれば、あの独特の鮮明な音色もなるほどと納得がゆく。こういう特性をみて音を聴いたあとで、国産のフラット型の特性を見せられ音を聴かされれば、たしかに右の巷説には説得力がある。しかしいまは違う。ことに新しく抬頭したヨーロッパの家庭用ブックシェルフスピーカーの中でも、聴いて音の良い製品の特性を測ってみると、驚くほど素直な、平坦な周波数特性を持っているという例が、ここ数年来目立って増えてきた。
 本誌の28、29号を通じて測定データを詳細に検討するなら、いくつかの例外はあるにしても、もはや海外スピーカーが、聴いて良くても特性は悪い、などと単純には片づかないどころか、ものよっては国産の平均水準よりも優れた特性を示し、しかも音の魅力も十分に具えた製品が数少ないとはいえ出現しつつあることが明白である。
 ヨーロッパの製品ばかりではない。アメリカのスピーカーにも右のような傾向が少しずつ現われはじめている。
 それなら、たとえば周波数特性が平らになってゆくと、音の個性──といって悪ければそのスピーカーだけがもっている何ともいえない音の魅力、鳴ってくる音楽の音色の美しさ──が薄れてゆくだろうか。そうはならない。少なくとも、周波数特性をいじることで表面的に変化する音のバランス、それによって感じられる表面的な音色は、周波数特性をコントロールすることでできるかもしれないが、そのスピーカーの本質的な音色、内からにじみ出てくる味わいは、周波数特性をいじってみても、大きな変化は示さない。というよりは、周波数特性とは直接関係ないような性質の音色の方が、わたくしにとって大切な問題になる。よく言われる国の違いや風土の違いから生じる根本的な音色のちがい、鳴り方響き方の違いというのがそこに厳として存在する。ここが解明されないかぎりは、見かけ上の周波数特性どんな具合にいじってみたところで、本質的な問題はたいして前進はしない。イギリスのスピーカーに共通のあの渋い光沢のある鳴り方、アメリカのウェストコーストでしか作れないあの明るい響きを、それとは別の風土では作れない。そうしたいわば血の違い、風土の違いに根ざした本質的な音色をふまえた上で、同じ国の音色が、時の流れに応じて次第に変わってゆく。それは音楽が、またその演奏のスタイルが時とともに少しずつ姿を変えてゆくことと無縁ではない。

良い音とは、良いスピーカーとは?(5)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 27号(1973年6月発行)

高忠実度スピーカーの流れ
 いまさらこんなことを言い出すのは気が引けるが、この連載の最初の予定はこれほど長びかせるつもりではなかった。本誌22号のフロアータイプ・スピーカーの特集号で、編集長から《良いスピーカーの条件》について書くようにとの依頼を受けて、さて考えはじめてみると、どうも容易なことではなさそうに思われてきて、良いスピーカーの定義をするにはその前にまず《良い音》とは何かを考え直してみたくなり、そう考えてゆくとさらに良い音とはいわゆる《原音の再生》なのだろうかという考えにつき当って、それなら原音再生とは何だろうというところまで遡って、そこでこの拙文を書きはじめた。22号では原音再生の歴史の流れを考え、23号では原音再生という言葉の原点に立ちかえって、24号でそれをわたくしは《写実》であるべきだと考え、その項の終りから25号にかけて原音やその再生の前に立ちはだかる人間の錯覚について、ひとつの極端な場合を考えた。書いているうちにわたくし自身の考えのあいまいだったところが自分でもわかってきて、人さまに説明する以前に自分自身をまず納得させるような、いわば考えながら書き進めるような形をとらざるをえなくなって回りくどい話のくり返しになった点を、不勉強のためとは言え、改めてお詫びしなくてはならない。26号は別のテーマで一回休みを頂いたので、今回の話は25号からの続きになるが、右に書いた話の中で、再び24号のテーマであった原音再生の原点ともいうべき《写実》の問題に帰ってみる。
 それをもういちど整理して言うと、音の録音・再生のプロセスには人間の錯覚が入りこむ余地が多いにしても、少なくともそのためのメカニズム自体はそうした錯覚に甘えることなく、できるかぎり正確に音を伝達する性能を具えているべきだとわたくしは思うで、話をスピーカーに絞っても、良いスピーカーの条件のまず第一に、送り込まれた信号の忠実な再現という項目をあげたいと思う。だからスピーカー自体の弱点や欠点から生じる固有の音色をできるたぎり排除したいと、わたくしはいま考えている。メカニズムの不備から生じる固有の音色(カラーレイション)を、原音再生のプロセスに悪用してはならないと考えている。そのことはアンプについてあてはめてみると割合容易だが(別項「アンプテストを終えて」を参照頂きたい)、スピーカーのような音響変換系には、口で言うほど簡単には片づかないむずかしい問題が山積している。そのことをどうしたらうまく説明できるだろうか……。
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 わたくし自身の耳が本質的にナロウレンジ(狭帯域=音域がせまい)の音質を受けつけないらしいことは、ずいぶん以前から薄々は感じていた。スピーカーに限らずアンプでもカートリッジでも、ことに高音域の伸びていない音を本質的に拒絶してしまう。スピーカーでいえばその典型がアルテックで、その点はやや解説が必要になると思うが、アルテックのハイクラスの製品は、ふつう一般に考えられているほどワイドレンジではない。本誌22号の228ページに一例として「ヴァレンシア」システムの周波数特性が載っている。低音は80ヘルツ以下でスパッと切れ、高音は6キロヘルツあたりからすでに下降しはじめる。とうてい現代のハイフィデリティ・スピーカーとは言えないが、それでいてこのスピーカーはすばらしく充実した豊かな迫力でもって鳴る。わたくし耳はこのレンジの狭さを拒絶するが、ヴァレンシアの音質を好む人たちは決して少数ではなく、事実このスピーカーは定評ある高級スピーカーの代表機種のひとつである。ただ、わたくしがその音を好まないというだけの話なら、なにもこのことをくわしく書く必要はないが、以上の話が、これから書こうとすることのひとつの前提になる。
 アルテックのスピーカーが、アメリカ・ウェスターン・エレクトリックの、さらに遡っていえばベル・サウンド・ラボラトリーの設計を受けついでいることはすでにご承知のとおりで、そことはわたくしよりも池田圭先生に解説をお願いする方がよいのだが、たとえば代表機種のA7は the voice of theater と名づけられ、劇場やオーディトリアム用のいわゆるシアター・サプライとして広く使われており、もうひとつの代表機種604Eは世界中のレコード会主や録音スタジオでマスター・モニターとして採用されている例をみても、 アルテックの音が本質的にはシアター・サウンドでありプロフェッショナル・サウンドとして高く評価されていることは容易に理解できる。しかもA7も604Eも、現代の音響機器の水準からみて絶対にワイドレンジ・スピーカーとは言えない。たとえば604Eのカタログには高域のレンジが22キロヘルツなどと書いてあるが、測定してみれば、決して22キロヘルツまでが平坦に延びているという特性でないことは一目瞭然である。
 誤解しないで頂きたいが、わたくしはこう書くことでアルテックのスピーカーとカタログを誹謗しようなどとしているのでは決してない。この後の話の前提として、ナロウレンジのスピーカーが一方に厳然と存在し評価されていることをまず知っておいて頂きたいので、しかしアルテックのA7や604Eが世界じゅうのプロフェッショナルに認められもし、またオーディオ愛好家からも好まれるだけの立派な音を再生していることが確かな事実であると同時に、好き嫌いはともかくその周波数特性が決してワイドレンジでないことも、いまはまず頭にとめておいて頂きたいのである。
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 スピーカー設計の変遷をたどってゆくとそれだけで一冊の厚い歴史ができ上ってしまうが、いまこ狭いスペースではそのディテールを探ることをしない(この点について興味のある方は本誌第5号から11号まで連載された池田圭先生の名著「スピーカー変遷史」によられることをおすすめしたい)。
 ここでは、わたくし自身のきわめて主観的な分類によって、高忠実度スピーカーとして現存している著名製品の源流を大きな三つの流れに分けて話を進めてゆく。
 その第一が、前項で触れたベル研究所に端を発するシアター・スピーカーの流れであり、その第二はカーR以降に急速に普及し発展した家庭用小型スピーカー(いわゆるブックシェルフタイプ)であって、ふつうオーディオファンの話題にのぼるスピーカーシステムの大半が、この両者のいずれか、或いは両者の長所をそれぞれとり入れて作られている。しかしここ数年来急速に抬頭してきたヨーロッパ系の家庭用スピーカーについて調べてゆくうちに思い当った第三の源流に、イギリスのBBC放送局が独自に開発を進めた広帯域モニタースピーカーがあげられる。そのことについては従来はほとんど書かれたことがないし、わたくし自身がその音質にも考え方にもいま最も傾倒し共感しているので、この点に相当の重点を置いて解説したいと考えているが、その前にまず、第一のシアタータイプと第二の家庭用小型スピーカーの流れと変遷についてごく簡単にふれておく必要があるだろう。
 シアター・スピーカーとはその呼び名のとおり、広大な劇場やホールで、すみずみまで音声を伝達(サービス)しなくてはならない。ハイパワーで、しかも明瞭度の高い音を伝えるには、本質的にワイドレンジであってはならない。いわゆる胴間声を避けるためにも適度のローカットが必要になるし、モーターの回転音やハムその他の低域の唸りや雑音が耳につかなくするためにもあまり低音を伸ばしてはいけない。高音域も楽器の音色を識別するに必要な最少限の帯域でカットしてしまう方が、ヒス性のノイズを出さずにきれいで明瞭な音が聴ける。人間のラウドネス(聴感特性)を考えても、ハイパワーでのサービスにワイドレンジはかならずしも必要とはいえなくて、そうした点をわきまえ、音楽を伝達するに十分な最少限の帯域──言いかえれば低音も高音もこれ以上カットしたら耳に不満を感じる一歩手前のところまで帯域を狭めて、明快でよく通る音を作りあげたのが、アルテックのシアター・システムの音質だと言ってよいのではないか。
 こういう狭帯域のトーンは、一般の家庭に持ち込んだ場合に往々にしてデリカーの欠如した印象を与えるが、アルテックの場合はその狭い帯域の中での音質が永年に亘ってみがき上げられ、完成度の高い説得力に富んだ音色になっていて、ことに手巻き時代から蓄音機を聴き馴染んだレコードファンの耳には、むしろその狭い音域とともに好まれる傾向が多いのだとわたくしは解釈している。
 家庭での良い音の再現には本質的にワイドレンジが必要だということを直観して、アルテック・ランシングを飛び出して家庭用高級スピーカーの製作をはじめたのが、J・B・ランシングであった。言いかえればJBLは設立の当初からナロウレンジを拒否してできるかぎり広い帯域で忠実度を高めるという方向から出発した。そしてもうひとつ、アルテック──というよりウェストレックス=ベル研究所の原設計の種をイギリスという土壌に蒔いて実らせたが、ひとつはヴァイタヴォックス、もうひとつはタンノイだといえる。ヴァイタヴォックスのユニットはほとんどウェストレックスの設計のままとも言えるが、タンノイは、創始者であるガイ・R・フォンティーン Guy R. Fountaine が、アルテック604を原型としてモディファイしたユニットだと言われている。しかしヴァイタヴォックスもタンノイも、原設計にくらべてずっと広帯域に作られていることも知られているが、おそらくイギリス人の耳のデリカシーが、ナロウレンジを拒否したのだろうとわたくしは想像する。むろん帯域ばかりでなくもっと本質的な鳴り方そのものの問題でもあるが、そしてそれは音と風土や歴史の問題でもあるが、そのことはもっと後になってからくわしく論じよう。
 こまかく言えばこれ以外にもアメリカには、GEやジェンセンやRCAから源を発したコーン型スピーカーの流れがあり、それはヨーロッパに渡ってローラーやワーフェデールやグッドマンによって発展させられ、またドイツにはクラングフィルム→シーメンスと発展したベル系とはまた別のシアターサウンドがあるが、スピーカーの歴史をこまかく眺めるスペースがないので細部を飛ばして言うと、それらいわゆる戦前型のスピーカーの流れを大きく転換させるきっかけを作ったのが、エドガー・ヴィルチュアのARスピーカーであった。この点については本誌10号に岡俊雄氏の詳細をきわめた解説があってこの方面に不勉強なわたくしはせいぜいその引用ぐらいしかてきないが、要約すると、いわゆるアコースティック・サスペンション方式により超小型に作られた(少なくともAR出現当時=1954年の一般の高級スピーカーからみると、内容積1・7立方フィート=約45リッター強というキャビネットは超の字のつく小型に見えた)密閉箱は、考案者E・M・ヴィルチュアによれば名にも小さく作ることが目的だったのでなく、できるだけ低い周波数までひずみなく再生するにはどうしたらよいかというアプローチから生まれたものだそうだが、1958年以降のステレオの普及にともなってスピーカーが二台必要になって、一般家庭では外形が小さいということも大きな長所になり、その後世界中メーカーがこのタイプからさまざまの展開を試みて、今日の標準型ともいえるブックシェルフ・スピーカーの全盛期を迎えたというのが真相のようだ。
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 広いサービス・エリアと強大なパワー前提として発展をとげたシアター・スピーカー。それを原形としてさまざまのアレンジが試みられた過去の大型家庭用スピーカーシステム。そこに抵抗を挑み成功した小型ブックシェルフ・スピーカー。そしてその折衷型ともいえる中型の家庭用フロアータイプスピーカー。これら従来わたくしたちの目にふれてきた大半のスピーカーとほとんど無関係に、イギリスのBBC放送局の研究所では、著名な音響学者D・E・L・ショーターらを中心として新しいモニタースピーカーの開発が進められていた。そことが表面にあらわれたのは少なくとも1946年以前のことで、1946年といかば昭和21年、日本が大戦に敗れ国中がずたずたに疲れ果てていた年である。この年、BBCのクォータリーに、スピーカーの新しい分析法として過渡特性 transient response(最近は過渡応答と書く人が多いが同じこと)の測定法を考案し発表したのがショーターで、おそらく彼の頭の中にはそのときすでに新しいスピーカーシステムの構想が芽生えていたに違いない。或いはすでにスピーカーユニットの一部が開発されてさえいたのかもしれない。あの戦争のさ中に、ドイツから無人ロケットが飛んでくるロンドンで、スピーカーの音を考えていたという人間はいったいどんな顔をした男なんだろう!
 ショーターの過渡特性測定法にヒントを得てアメリカRCA研究所のマリントンとウッドの二人が、トーン・バーストによるトランジェント・レスポンス測定法を考案したことはよく知られていて、これが現在でも過渡特性を測定する効果的な手段のひとつとしてよく使われていることも周知の事実である。
 ともかく、BBC放送局が新しいモニタースピーカーの開発に本格的に着手したのは1950年頃からで、それに次のような条件がついていたらしい。
 第一に、来るべきFM時代の広帯域放送を監視(モニター)するためには、それまでの市販スピーカーでは帯域も狭く特性もでこぼこでいわゆる音の色づけ(カラーレイション)が強く、良いプログラムソースを作るための正確なモニターができないため、できるかぎり広い帯域をフラットに色づけ(カラーレイション)少なく再生することのできるモニタースピーカーが必要であること。
 第二にプログラムソースのダイナミックレンジに十分対応できるパワーハンドリング・キャパシティ(耐入力)を持っていること。
 第三に、ミクシングルームの狭いスペースで近接して聴くという条件、しかもスタジオ内の壁面その他の影響をできるかぎり受けにくいという条件を満たす構造であること。
 第四はスタンダードのサンプルに対して一台ごとの特性及び音色の偏差ができるかぎり少ないこと。そういう条件にあてはまるような生産性を持っていること。
 これ以外にも数多くの細目があったらしいが、数年間の試作を経て1955年頃にはすでに実用の段階にいたり、1960年頃にはほぼ現在の形が決定し、スタンダード・サンプルに対してキャリブレイト(較正)されBBCが認可した製品に対しては一部市販が許可されるようになった。これがLS5/1Aモニタースピーカーで、それまでにプロフェッショナル関係で使われていたRCAのLC1Aやアルテック604シリーズまたはヴォイス・オブ・シアター、あるいはタンノイのDC15モニターなどにくらべると、はるかに帯域が広く自然で色づけの少ない素直な音質を持っている。その外観は写真を、構造は図を参照して頂きたい。発表されている周波数特性もあわせて示す。このLS5/1Aは、イギリスのスピーカーメーカーKEFで製作されているが、どういう理由かトゥイーターはセレッションの特製品が使われ、ウーファーはメーカーが不明だが、例のKEF独特の楕円形でなく、ごく普通の15インチ・コーン型がついている。

良い音とは、良いスピーカーとは?(4)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 25号(1972年12月発行)

 スピーカーから出る音には、いかなる名文、百万言を尽しても結局、その音を聴かなくては理解できない、また一度でも聴けばそれですべてが氷解するような、そういう性質の音がある。百見一聞に如かず、とは誰がもじったのか、よくも言ったものだと思う。
 がしかし、ただ単に聴けば済むといった、そんな底の浅いものではない。
 オーディオ・メーカーの主催するレコード・コンサートが、近頃また盛んである。マニアの集いとか対話とかシンポジウムとか、いろいろな名目がついているにしても、つまりは自社の新製品の音を聴いてもらおう、という意図にほかならない。わたくし自身もまたその種の催しに、よく引き出されるが、それで困るのは、小さなホールとか会議室とか講堂などの場所で、おおぜいの人たちを相手にして、ほとんとうに良い音とまではゆかぬまでも、せめて、わたくしの意図するに近い音で鳴らすことが殆ど不可能であるという点である。
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 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
 LP装置も普及して個人で楽に所有できるようになってくると、コンサートの形態はやがてレコード会社が新譜紹介の場を兼ねたコンサート・キャラバンというふうに変ってゆく。しかし、すぐにFMの時代が来る。ステレオ放送がはじまり、FMが誰でも聴けるようになると、新譜を聴きにわざわざ遠い会場に集まる人は減ってしまう。コンサートという形が意味をなさなくなる。
 レコードの新譜はそうして放送でも聴けるようになるが、再生装置の音質は放送では聴けない。カートリッジの聴きくらべという番組は組めても、アンプやスピーカーの聴きくらべは放送電波には乗るわけがない。そこが、オーディオ・メーカーや販売店でコンサート開催する理由になっている。会場にはいろいろなスピーカーやアンプが置かれ、スイッチで切り換えたり接ぎかえたりして音を聴きくらべる。その場に居合わせた人たちは、確かに自分耳で音を比較したという安心感で帰途につくかもしれない。しかしわたしくは、そういう場所で聴きくらべた音、あるいはまた販売店やショールームの店頭で聴きくらべた音が、そパーツの音だと想うのは誤りだと言いたい。一歩譲っても、そういう場所で聴きくらべた音は、自宅で、最良の状態にセットしたときの音は殆ど別ものだと言いたい。それぐらいのことは、ほんの少しオーディオで道楽した人たちの常識かもしれないが、単に部屋の広さが違うとか音響特性が違うとか、部屋が変れば音が変るなどというよく知られた話をわさわざしたいのではなく、実はもう少し先のことを言いたいのである。
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 ラックスのオーディオ・サルーンという催しが、一部の愛好家のあいだで知られている。毎土曜日の午後と、それに毎月一回夜間に開催されるこのサルーンのメーカー色が全然無く、ラックスの悪口を平気で言え、またその悪口を平気で聞き入れてもらえる気安さがあるのでわたくしも楽しくつきあっているが、ここ二年あまり、ほとんど毎月一回ずつ担当している集まりで、いままで、自分のほんとうに気に入った音を鳴らした記憶が無い。もよう推しのほとんどはアルテックのA5で鳴らすのだが、そしてわたくしの担当のときはスピーカーのバランスをいじり配置を変えトーンコントロールを大幅に調整して、係のT氏に言わせればふだんのA5とは似ても似つかない音に変えてしまうのだそうだが、そこまで調整してみても所詮アルテックはアルテック、わたしの出したい音とは別の音でしか、鳴ってくれない。しかもここで鳴らすことのできる音は、ほかの多くの、おもに地方で開催されるオーディオの集いで聴いて頂くことのできる音よりは、それでもまだ別格といいたいくらい良い方、なのである。しかし本質的に自分の鳴らしたい音とは違う音を、せっかく集まってくださる愛好家に聴いて頂くというのは、なんともつらく、もどかしく、歯がゆいものなのだ。
 で、ついに意を決して、9月のある夜の集いに、自宅のJBL375と、パワーアンプ二台(SE400S、460)と、特注マルチアンプ用チャンネル・フィルターを持ち出して、オールJBLによるマルチ・ドライブを試みることにした。ちょうどその日、ラックスの試聴室に、知友I氏のJBL520と460、それにオリムパスがあったためでもある。つまりオリムパスのウーファーだけ流用して、その上に375(537-500ホーン)と075を乗せ、JBLの三台のパワーアンプで3チャンネルのマルチ・アンプを構成しようという意図だ。自宅でもこれに似た試みはほぼ一年前からやっているものの、トゥイーターだけはほかのアンプだから、オールJBLというのはこれが最初で、また、ふだんの自宅でのクロスオーバーやレベルセットに対して、広いリスニングルームではどう対処したらよいか、それを実験したいし、音はどういうふうに変るのか、それを知りたいという興味もあった。
 JBLが最近になって新たにプロフェッショナル・シリーズという一群の製品を発表したことはすでに知られているが、そのカタログの Acoustic Lenses Family の中で、比較的近距離(30フィート≒9メートル以内)でのサーヴィスに用いるタイプを限定している点に興味をそそられる。
 ……Where the length of throw does not exceed 30 feet.(30フィートを越える距離までは放射できません)
 model 2305(一般用の 1217-1290 に相当する。有名な LE175DLH 専用のホーン/レンズ)、および #2391(同じくHL91ホーン。オリムパスS7RやC50SMスタジオモニター等に採用されているLE85用のスラント・プレート・ホーン/レンズ)に、とくに上記の註がついている。
 もう20年近い昔のこと、池田圭氏から、ウェスターンのホーンのカタログの中に、それをならすリスニングルームの容積の指定があることを教えられたことがあったが、寡聞にして、ホーンのカタログにこうした使用条件を明確にしている例をほかに知らない。同じJBLでも、一般市販品のカタログにこの註がないのは、家庭用として使うかぎり、9メートル以上も離れて聴かれることは無いとかんがえているのだろうか。それにしても、537-500はすでに製造中止で、プロ用のカタログにも復活していないから、上記のどちらの設計に入るのかわからない。1217-1290と同系列の設計だとすれば同じく30フィート以内用とも思えるし、しかし同じ375用の──ほんらいはハーツフィールド用として設計された、そして現在も作られているセ線ン537-509ホーン/レンズ(プロ用の型番は♯2390)は、上記の指定がないところをみると、537-500の方も遠距離用かもしれないという気もしてくる。いずれ確かめてみたい。
 もうひとつの興味ある記述は、いまもふれた537-500ホーンが、一般用カタログでは500Hzクロスオーバー用とされているのに対し、プロ用では800Hz以上と指定され、しかもそこまで使うには18インチ角のバッフルにホーンをマウントせよと書いてある。もっとも、一般用のカタログでも、500Hzをクロスオーバーとしているのではなく、……JBL System crossing over at 500 cps. と含みのある表現で、JBLの指定ネットワークで分割した場合に、結果としてアコースティックな分岐点が500Hzになるというニュアンスに受けとれるが。そしてもうひとつのHL91ホーンに至っては、オリムパスでは500Hzのネットワークがついているのに、プロ用の♯2391では、800Hzからでも使えるが1200Hzの方が推奨できる、などと書いてある。
 むろんこれは家庭用より大きなパワーで鳴らされることを前提にしているにはちがいないが、だからといって、一般用を無理なクロスオーバーで使うというのも気分のよくない話だ。
 そこで白状すれば、わが家の375(537-500ホーン)は、ほぼ一年あまり前から、マルチ・アンプ・ドライブでのヒアリングの結果からクロスオーバーを700Hzに上げて、いちおう満足していた。500Hzではどうしてもホーン臭さを除ききれず、しかし700Hzより上げたのではウーファーの方が追従しきれないという、まあ妥協の結果ではあったが。
 ところでラックスのサルーンでの話に戻る。ふだん鳴らしている8畳にくらべると、広い試聴室だけにパワーも大きく入る。すると375が700Hz(12dBオクターブ)ではまだ苦しいことがわかり、クロスオーバーを1kHzまで上げた。しかしこうすると、ウーファー(LE15A)の中音域がどうしても物足りない。といってクロスオーバーを下げてホーン臭い音を少しでも感じるよりはまあましだ。075とのクロスオーバーは8kHz。これでどうやら、ホーン臭さの無い、耳を圧迫しない、やわらかくさわやかで繊細な、しかし底力のある迫力で鳴らすことに、一応は成功したと思う。まあ70点ぐらいは行ったつもりである。
 むろんこれは自宅で鳴っている音ともまた違う。けれど、わたくしがJBLの鳴らし方と指定とした音には近い鳴り方だし、言うまでもなくこれまでアルテックA5をなだめすかして鳴らした音とはバランスのとりかたから全然ちがう。ここ2年あまりのこの集まりの中で、いちばん楽しい夜だった。
 と、ここからやっと、ほんとうに言いたいことに話題を移すことができそうだ。
 このサルーンは人数も制限していて、ほとんどが常連。まあ気ごころしれた仲間うちのような人たちばかりが集まってきて、「例のあれ」で話が通じるような雰囲気ができ上っている。そうした人たちと二年顔を合わせていれば、わたくしの好みの音も、意図している音も、話の上で理解して頂いているつもりで、少なくともそう信じていた。ところが当夜JBLを鳴らした後で、常連のひとりの愛好家に、なるほどこの音を聴いてはじめてあなたの言いたいこと、出したい音がほんとうにわかった、と言われて、そこで改めて、その音を鳴らさないかぎり、いくら言葉を費やしても、結局話は通じないのだという事実に内心愕然としたのである。説明するときの言葉の足りなさ、口下手はこの際言ってもはじまらない。たとえばトゥイーター・レベルの3dBの変化、それにともなうトーン・コントロールの微調整、そして音量の設定、それらを、そのときのレコード、その場の雰囲気に合わせて微細に調整してゆくプロセスは、結局、その場で自分がコントロールし、その結果を聴いて頂けないかぎり、絶対に理解されない性質のものなのではないかという疑問が、それからあと、ずっと尾を引いて、しかもその後全国の各地で、その場で用意された装置で持参したレコードを鳴らしてみたときの、自分の解説と実際にその場で鳴る音との違和感との差は、ますます大きく感じられるのである。自分の部屋のいつも坐る場所でさえ、まだ理想の半分の音も出ていないのに、公開の場で鳴る音では、毎日自宅で聴くその音に似た音さえ出せないといういら立たしさ、いったいどうしたらいいのだろうか。音は結局聴かなくてはわからないし、しかしまた、どんな音でも聴かないよりはましなどとはとうてい思えない。むしろ鳴らない方がましだと思う音の方が多すぎる。
     *
 結局自分の部屋で鳴らしてみなくてはわからない。けれど、JBL375を、わたくしは鳴らしてみて購(もと)めたのではなかった。むろんその前に短い期間ではあったが175(LE175DLH)を鳴らして一応はたしかめている。しかし375を鳴らしてから購めたわけではない。
 ずっと昔、モノーラル時代には175の音を聴いている。たとえばヤマハのコンサート。あるいはまた、いまは無くなってしまった有楽町フードセンターのフジヤ・ミュージック・サロン。ここは当時、鈴木章治とリズムエース、藤家虹二クインテット、白木秀雄クインテットなどが、毎日ナマを聴かせていた。その演奏の合い間に、レコードやテープを鳴らす装置がJBLのスピーカーで、トゥイーターに、まだグレイ塗装の、JBLではなく Jim, Lansing と書いた〝LE〟のつかない175DLHが鳴っていた。しかしその音はどういうわけか──おそらくアンプかどこかが歪んでいたのだろうと思うが、およそ175本来の片鱗もない、ひどく歪みっぽい、じゃりじゃりした音で鳴っていた。片鱗も無いなどとは今だからそう言えるので、ちょうどその頃は、高価な品物が買えないひがみもあって、アメリカ製のスピーカーにはロクなものが無いなどというラジオ雑誌の記事を鵜呑みにしていたのだから、そういうひどい音を聴いたところでかえって国産愛用の念が強まればこそ、歪んだ音ぐらいでは少しも驚きはしない。ではヤマハのコンサートではどうだったのかといえば、そこではまさか歪んだ音など出してはいなかったが、外国製品は悪いと頭から信じて聴けば、良い音も悪く聴こえるものだし、良い音と信じて聴けば、鳴っていない音さえも鳴って聴こえる。
 ただの比喩ではない。実際にあった話だ。当時、外国製スピーカーは悪いという伝説を撒きちらしていたオーディオ・マニアのグループが、これこそは最高と信じていた国産のホーン・トゥイーターがあった。そのトゥイーターを、あるとき、レコード愛好家のS氏邸に持ちたんだのだそうだ。そうだ、というはそこにはわたくしは居合わせず後から伝え聞いた話なので、だからこの話には誇張があるのかもしれないが、ともかく、S氏のスピーカー・システムのトゥイーターをそのホーンに接ぎかえて、レコードをかけた。マニアのグループは期せずして素晴らしいと叫んだそうだ。本もののトゥイーターをつけると、ほら、こんなにハイが美しくなるんですよ。ハイを伸ばすと、高音がキンキンするというのは迷信です。本当に歪みなくよく伸びた高音は、こういうふうにおとなしいのです……。エンジニアがしたり顔で解説したそうだ。この説明はしかし全く正しい。
 ところでS氏は黙って聴いておられたが、やおらつかつかとスピーカー・システムのところに歩みより、トゥイーターに耳をつけて音を聴くことしばし。
「君、このスピーカー、鳴っとらんぞ」
 一同がどういう顔をしたのか、接続をし直して鳴った音をそれからどう説明したのか、そのあとの話は知らない。
 けれど、実はこの話をただの揶揄でここに書いたのではない。むしろ逆だ。信じて聴く耳は、鳴らない音さえ聴きとることを、この実話はみごとに物語っている。確かに一同の耳にはそのとき素晴らしい理想の音が鳴り響いていたに違いあるまい。この話は滑稽であるだけに、かえって悲しいほど美しくわたくしには思われる。わたくしにだってそれに似た体験が無いわけではない。

良い音とは、良いスピーカーとは?(3)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 24号(1972年9月発行)

     V
 原音を録音し再生するという一連のプロセス。仮にそれを、原音を写実することだ、として考えを進めてみよう。
 写実とは、素朴な意味では写すことであり倣うことである。広辞苑によれば「事物の実際のままをうつすこと」とあり、写実主義即ちリアリズムはハイ・フィデリティに通じる。
 しかしハイ・フィデリティ・リプロダクション──高忠実度再生──を表面的に解釈する態度は、この問題はひどく歪めてしまう。仮に原音に忠実な再生、と定義してみるとしても、では原音の何に忠実なのか、原音とは何か、と考えてゆくと、ことは意外にむずかしい。
 もういちど、ナマと再生音のすりかえ実験を思い起してみよう。
 ステージでは何十人かのオーケストラが、それぞれに、針金や馬の尻尾や川や木を、こっすたりたたいたりして演奏している。その演奏はあらかじめ2チャンネルのステレオでレコードに録音されていて、途中から再生音にスリかえるというのであり、すでに述べたように、大多数の聴衆は切り換えの箇所を明確に指摘できなかった。
 この事実は、原音が忠実に再生されたことを意味するのだろうか。少なくとも、物理的には答えは否である。だってそうだろう。ステージに並んだ演奏者と同じ数のスピーカーが使われたわけではないし、スピーカーの発音体は徹夜ジュラルミンの薄膜であって、楽器の発音体とは材料も形状も構造も著しく異なっている。物理的に、原音と全く異質の音が再生される筈がない。にもかかわらず、聴衆の耳にはナマと再生音の区別が明確にはつきかねた。
 すると、スピーカーからは必ずしもナマと等質の、物理的に=の音が再生されなくとも、人間の耳はけっこうゴマ化される、ということになるのか?
 事実ゴマ化された。しかし、人間の耳がエジソンの蓄音機からすでに《原音そっくり》の音を聴きとってきたことから想像がつくように、これはハイ・フィデリティの本質にかかわる問題であって、そう簡単な結論では片づかない。それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
 ホールでの実験は別として、我々に切実な問題は、レコードやテープをわが家で再生するときの、音質の良し悪しである。家庭での音楽再生、という問題になると、たとえば音量ひとつとっても、六畳から八畳、広くてもせいぜい二、三十畳という個人のリスニングルームには、オーケストラのスケールは物理的に収まりきらないし、六畳ではフル・コンサート・グランドさえおぼつかない。つまり一般家庭では、もとの楽器のアクチュアル・サイズ(原寸)で持ちこむことさえすでに不可能と言える。
 しかしそういう前提でも、小さな部屋で、「原音を聴いているような感覚」を生じさせることは十分に可能である。そしてそのときの再生音は、決して、物理的な意味で原音と等質(イコール)ではない。
 まず、ラウドネスの問題ひとつとりあげても明らかなように、人間の耳は、音量の大小に応じて聴感周波数特性が変化し、音量を絞るにつれて、低音と高音の聴取能力が劣ることはよく知られている。したがってボリュームを絞った場合には、低音や高音を適宜強調してやることが、結果として、よいバランスに聴こえる。いわばこれは錯覚にはちがいないが、人間の耳には現実にそう聴こえるので、物理的にはフラットでなくとも、耳にフラットに聴こえるという事実の方が重要だ。
 オリジナル(原音)に対して大きさ(尺度)自在に伸縮できるというのは、音の録音・再生に限らず、あらゆる複製メディアの特質とも言える。たとえば映画。シネラマのあの巨大な画面いっぱいに俳優の顔が大写しされても、慣習はそれをたいして不自然なことと感じていないどころか、あの白いスクリーンに、砂ほこりが舞えば思わず目をしばたたき、ジェットコースターが走れば胸の動悸が激しくなり、登場人物の悲しみには涙まで流す。言ってみればそれは、白いスクリーンに投影された束の間の幻影にすぎないのに、我々はそれを虚像と知りつつ、心の底から揺り動かされるほどの激しい感動を味わう。こうした感動は、レコードの音楽から味わうそれとはほとんど質的に同じものと言える。感動のしくみは、物理的なフィデリティとはほとんど無関係なのである。
 音像といい映像といい、それが空間に鳴りスクリーンに投影された状態を、われわれは虚像と呼ぶ。その虚像がしかし、なぜ、本もの以上に人の心を揺り動かすのか。映画には芝居とは別の魅力があり、再生音にはナマ演奏とは明らかに異質の魅力がある。レコードを聴くという行為には、わたくしたちは、ナマを聴くのと別の姿勢で──そう意識するとしないとを問わず──臨んでいる。なぜ、レコードを聴くことが楽しいのか。それは再生音というものに、ナマとは違った別の価値があるからにちがいない。再生音がナマ演奏の複製であるのなら、再生音にナマとは別の──ときとしてナマ以上の──感動をおぼえるという事実の説明がつかなくなる。
 言うまでもなく、レコードも映画も、それが作られた当初は、ナマのコピーという機能だけで使われた。しかしレコーといい映画といい、かりに対象を忠実に記録したものであっても、それをいく度もくりかえし再生するプロセスに、オリジナルを鑑賞するのとは別の魅力があることに人びとは気づくことになる。
 古代アルタミラの洞窟壁面には、いろいろの獣が描かれているが、それは決して単なる装飾ではなく、獣たちを捕獲し、且つ彼らの増殖を祈る呪術的行為であったとされている。古代人にとっては、描くことすなわち捕獲したことであった。それを古代人の未分化と笑う前に、現代人のわれわれにいったいそうした衝動が無いだろうかと考えてみる。
 第二次大戦のさ中、わたくしは集団疎開児童であった。疎開先のお寺の本堂で、より集まっては、シュークリームやチョコレートや、クリームパンや、おいしいものの絵をかわりばんこに誰かが描く。すると、どこからか、おいしいチョコレートやクリームの匂いがしてきて、子供たちは鼻をひくひくさせて、しばらくはおいしい匂いを腹いっぱいに吸い込むのだった。そんな体験はわたくしだけかと思っていたら、新聞や雑誌に戦時中の思い出ばなしが載るたびに、あるいは戦場で、あるいは防空壕の中で、同じような体験をした人たちが多勢いたことを知っておもしろく思った。
 わたくしなど、ことにこの幼児的傾向が強く、いまでもまだ、ほしくてたまらない品もの──たとえばスピーカーでもアンプでもカメラでも──があると、その品物が実際に手に入るまでは、ヒマさえあると原稿用紙の切れはしなどにその品ものの絵を描いて楽しむくせがある。対象物を描くことによってお腹をふくらませたりその品を手に入れたような気になるのは、なにも古代人ばかりではないようだ。つまり対象を模写するという行為は、対象物を主体の側に転位させる人間の根本的な発想だと言えるのではないだろうか。レコードを聴くという行為は、オリジナルの複製(コピー)のおすそ分けにあずかるのではなく、まさに音楽を自分のものとする行為にほかならないのだ。そうなったとき、《原音》は客体として存在しているのではなく、もはや自分の裡の主体として実在する。言いかえれば、自分のレコードは原音のコピーのひとつ、なのではなく、自分のレコード即原音、になるのである。
 レコードのこういう機能は、それが映画のように公衆(パブリック)の場でよりも個人(プライベイト)の場で鑑賞されるという性質上、より顕著である。映画が多くの場合、芝居と同じように特定の場所で複数で鑑賞されるのに対し、レコードは、より読書的な性格が強い(映画でもテレビで放送される場合、あるいはVTRの場合はまた別の見方ができるが、ここでは深入りしない)。
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
 人は往々にして、現実世界のできごとよりも虚構の世界のできごとから、より多くの感動を味わう。虚構の世界では、現実世界のわずらわしい日常的な小事件をきれいに洗い流し、事物の本質をえぐり出すことができるからである。映画や小説の中の人物は、往々にして実生活以上に深い生き方を教えてくれるし、レコードの演奏からはときとして実演以上のすばらしい感動を味わうことができる。そういうリアリティを描き出すことが、いわゆるリアリズムの芸術であり、そういう感覚を生じさせるために、オーディオの録音・再生のプロセスにハイ・フィデリティの介入を欠くことができないのである。
 虚構の世界では、ナマ以上の生々しい感動を伝えることができる。「ナマを聴いたと同じような感覚」を、視覚ぬきで伝達するためには、虚構の約束の中での取捨選択が行なわれる。それは物理的にはナマとは全く違っているかもしれないが、人間の感覚に、明らかに生々しい印象を与えることができれば、それは結局、観念の中の《原音》、抽象化されたイメージの中の原音を、正しく再現したことになる。そういうプロセスに、録音→再生の一連のシステムも、そのための演奏も、再生した音を受けとるリスナーの姿勢も、すべてが関わりを持っている。どこが欠けてもこの感動は盛り上らない。原音の再生は、物理的なアプローチだけでは決して完成しない。
 とはいうものの、以上の論旨を、原音の基準など何もないとか、物理的なフィデリティなど不要だというように受けとって頂いては困る。音楽の録音とその再生というプロセスにさまざまのメカニズムが介在する以上は、メカニズム自体に、以上のような人間の心理の微妙な関わりあいや意識の流れを妨げるような欠陥があることは不都合きわまりない。ハイ・フィデリティにつきまといやすい大きな誤解のひとつに、たとえばスピーカー固有の音色が、あたかもスピーカーの「表現能力」であるかのように思いこむ危険がある。そのことは次回以降でくわしく論じることになるが、いまここで明確にしておかなくてはならないことは、レコードの録音、再生のプロセスに介在するあらゆるメカニズムは、人間の感覚や意思に自由に従うことのできる柔軟性と、人間の要求に応じることのできる能力を備えていなくてはならない。くりかえすが、メカニズム自体の能力や個性を、録音→再生の美学や哲学の問題の中にまぎれこませてはならない。その点をいま少し明らかにするためには、人間自身の、事物に対する認識の限界を考えておく必要がありそうだ。

     VI
 頭上高く上った月よりも地平線近くの月の方が大きく見えることはすでに例にあげた。それは錯覚であるにはちがいないが、人間にとって、物理的に存在する空間などというものは無意味であって、人間が知覚できる空間こそ、ほんとうの空間の価値なのである。
 絵画の中に現代の遠近法がとり入れられたのは比較的新しいことで、たとえば日本の絵巻物などでは、建築物が手前も向うも同じような大きさで描かれている。当時の人たちは、そういう空間のあらわし方のほうを自然だと感じたのか、それとも何か別の感じかたをしていたのか、そこのところはよくわからないが、現代人の知覚には、一点透視の遠近法が最も自然に感じられる。しかし、同じ一点透視であるにもかかわらず、写真レンズの焦点距離を変えると、ものの遠近法が強調されたり逆に凝縮されたように感じる。これも一種の錯覚にはちがいないが、やはり人間にとって、そう見えるという事実の方が現実なのである。
 音のほうでも同じような現象はいろいろある。たとえば、さきに、例にあげたラウドネスの問題など、いまの遠近法の例に似ているかもしれない。また音階の分け方、音程(ピッチ)のとりかたでも、物理的にきんと割ったのでは正しい音に聴こえないことはよく知られている。
 これらは物理量と感覚量──言いかえれば客観的にそこに存在する量と、人間がそう感じる量とか必ずしも相関関係にないということの例証だが、もっと単純明快な例に、可聴周波数範囲をあげよう。
 ご承知のように人間の耳には16ないし20ヘルツから約20キロヘルツまでの音が聴こえるとされる。つまりそれを《音》と言っているが、たとえばイルカには150キロヘルツという高い音(人間の世界では「音」と言わず超音波または高周波と言う)が聴こえることが知られている。蛾もやはり150キロヘルツあたりまでを感じるし、コウモリも120キロヘルツあたりを感じる。犬でさえ50キロヘルツが聴こえる。また音の強さにしても、人間には、1キロヘルツで0ホン(0.0002μbar)いかの音は聴こえない。もしもハエが脚をこすり合せる音、アリが触覚をふれ合う音、が聴こえたらどうか……。
 要するに人間世界で《音》と定義しているものは、広く自然界に存在する空気の波動のうちのごくせまい一部分にすぎない。だからといって、聴こえないものを音を定義することは何の意味もない。人間にとって、そう聴こえる音、以外のものは存在していないと同じなのだから。
 このように、人間の感覚とはある限定された条件の中に存在し、そういう感覚で感じとった対象だけが、人間にとっての実在であるとすれば、純粋に物理的な意味で現象の存在そのものは人間にとって全く無価値であって、そのように見え、そのように聴こえ、そのように感じる、という知覚の範囲の世界こそ、現実そのものと考えることができる。物理的な存在に対する心理的または精神的現実(リアル)こそ、実在そのものである、と言ってよい。左右両隅のスピーカーが提示した音像が、スピーカーの無い中央の空間に浮かんで聴こえるというのは錯覚だが、そうだとすれば、錯覚こそ実在、と考えるべきではないだろうか。この定義は、人間の精神に訴えるあらゆる事物との関係を解き明かす重要な鍵になりそうだ。

良い音とは、良いスピーカーとは?(2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 23号(1972年6月発行)

     III
 スピーカーが《原音》を鳴らすことができると思うのは、ひとつの大きな誤解である。
 エジソンやベルリーナの、今日からみればきわめて貧弱な特性の蓄音機から出る音に、当時の人たちが『原音そのまま』の音を聴きとったことは前号にもふれた。そういう音であっても人の耳は原音を聴いたように感じということは、裏返していえば、スピーカーからは必ずしも、物理的な意味での原音が再生される必要のないことを語っている。当時の人々の耳は幼稚だったなどとけなすのはすでに現代人の感覚でものを言っていることになるので、いつの時代の人でも、現に4チャンネルを体験しているわれわれでさえ、SPがLPになったとき、さらにそれがステレオになったとき、それぞれに、これで原音再生が可能になったと本気で信じたことがあったではないか。
 考えてみれば、ステレオの音の聴こえ方というのは実にふしぎなものだ。前方左右のスピーカーの中央に、たとえばソロ・ヴァイオリンがくっきりと浮かび上る。あるいは、左右のスピーカーのあいだいっぱいがオーケストラの音で埋まり、その音像は壁の向うまで奥行きを生じあるいはスピーカーのこちら側にせり出して聴こえてくる。
 現実にそう聴こえるというこれはわれわれの日常の体験であるが、そういう音を鳴らして聴かせるスピーカーは、左右両隅のいわば二つの点に置かれているだけが。にもかかわらず音はスピーカーの無い空間から確実に聴こえてくる。ヴァイオリンの独奏が、確かに二つのスピーカーの中央に浮かび、オーケストラはいっぱいに並ぶ。そう聴こえたからといって、その音が壁から鳴ってくるものではないことぐらい、誰にでもわかっている。ではどういうことなのかといえば、音はそこで鳴っているのではなく、正確にいえば聴き手(リスナー)の頭の中に、そういう音像が形成されるのである。二つの点から発する音波は、そういう音像(イマージュ)を形成するための単に材料であるにすぎないとさえ言ってよい。スピーカーは音の素材を提示(プレゼント)し、聴き手(リスナー)の頭の中に音像(プレゼンス)が形成される。そういうステレオの仕組みの結果、二つの点は、むしろその二点を結んだ《線》、あるいはさらに《面》のように、あるいはまた奥行きを伴った《立体》であるかのように聴こえ、ステレオ独特の雰囲気を漂わせる。漂うという言い方も、少しばかり理屈っぽく考えれば二つのスピーカーの空間を漂うのではなく、リスナーの頭の中を漂うのだが。
 なにも不思議がることはない。リスナー前方左右に等距離に置かれたスピーカーから、等音量、同位相かつ同じ音色の音が鳴れば、リスナーには音像は中央にあるように聴こえるし、左右各チャンネルの音量や位相や音質を操作することにより、音像は右、左、あるいは前方いっぱいに、さらには左右のスピーカーの外側にまで、拡がりあるいは定位させることができる──といったような答えは、ステレオの原理を知るものにとってはあたりまえすぎておもしろくない。要するにそれは一言でいえば錯覚なのだが、錯覚というもの、少しも悪いことではなく、考えてみれば人間の感覚にはずいぶん錯覚がある。よくひきあいにあげられるのは、中空高く上ったときより地平線近くの月のほうが大きくみえるという事実で、これもまた錯覚である。しかし大切なことだが、錯覚のしくみをいくら理づめに説明されたからといって、そういう感覚が人間から消え去ったりものの感じ方が少しでも変るようなことは無いので、それが人間の心理なのだとして素直に受け入れておけばよいのである。
 ステレオの左右のスピーカーが、原音をじかに鳴らすのではなくむしろ聴き手の頭の中に音像(プレゼンス)を惹起させる素材としての意味が強いのに対し、モノーラルのスピーカーは、実際にそこで原音を鳴らす必要があった。リスナーはスピーカーに面と向っていて、音は疑いもなくスピーカーそのものから出てくるのだから、モノーラルで《原音》を聴かせるには、スピーカー自体を恐ろしく大仕掛けにする必要があった。モノーラルのスピーカーは、ステレオ的な空気(プレゼンス)など初めから鳴らしはしないかわりに、楽器そのものを、リスナーの目の前にありありと現出させなくてはならなかった。ステレオ以前、モノーラルLPの後期、いわゆるハイ・フィデリティ時代の最盛期に生まれた数々のスピーカー・システムの名作は、その事実を如実に示している。たとえば、エレクトロヴォイスの旧型(クリプシュK型ホーン)の〝パトリシアン〟各型や、アルテックの〝820A〟システムや、JBLの〝ハーツフィールド〟や、ヴァイタヴォックスの〝クリプシュホーン・システム〟や……といったもろもろの大型スピーカーシステムは、すべてモノーラル時代の傑作で、それぞれ例外なくコーナー型のホーンシステムである。いわばこれらは、低音再生の限界への挑戦であった。15インチ(38センチ)の強力型ウーファーを一本、あるものは二本パラレルで使い、それにコーナー型ホーン・バッフルを組み合わせ、リスニングルームのコーナーの床と壁面をホーンの延長として低音再生を助けようという、いわば一種の狂気とさえ思える大がかりなものである。左右二ヶ所から空間に音像を浮かばせるというようなステレオ効果の期待できない時代に、低音を、ほんものの低音を確かに鳴り響かせるということが、いかに音像をしかと支える重要な土台になるかを、彼らは知っていた。何サイクルまで出るか出ないかといった〝量〟の問題ではなく、そうして出てきた低音の音の形が、つまり〝質〟がいかに優れているか、オルガンやバスドラムやダブルベースやコントラファゴットの低音の底力のある深い弾力を、何とかして再現し、それを再現することが、唯一最高の、真のスケール感の再現であることを彼らはおそらく知っていた。そういう低音を決して饒舌でなく、必要なとき以外はむしろウーファーが無いのではないかと思えるほど控え目であり、しかし一旦低音楽器が活躍しはじめるや、部屋の空気がたしかな手ごたえでゆり動かされ、からだ全体を音が包みこむ。そしてそういう真の低音に支えられた中音や高音はまた、如何に滑らかで柔らかくしかも輪郭のしっかりしていることか……。
 しかしまもなくステレオ時代がやってきた。経済的に、あるいはスペースの問題から、ステレオはそうした大じかけなスピーカー二台ペアで置くことをためらわせた。しかも、ステレオにすればなにも大型スピーカーでなくとも二台の小型スピーカーで、大型に優る効果が得られるという説が流布され、ARが主流の座にのし上がり、やがてブックシェルフ全盛期が訪れて、かつての大がかりなスピーカーは次第に忘れ去られ、メーカーもまたそういう手の込んだシステムを作り続けてゆくことが困難な時代になってゆく。
 ステレオ効果は、小型スピーカーでも十分に味わえるというのはたしかな事実だが、それは決して、良質の大型スピーカー二台よりも優っているわけではない。こうした明白な論理はつい忘れられる。
 このことは4チャンネル時代のいま再びむし返されてリア・スピーカーは安物でも結構といった俗説がまかり通っている。ここでは4チャンネルについて言及することは避けたいが、四ヶ所にありさえすれば小型スピーカーでもよいという意見を信じるのなら、仮にその四ヶ所にトランジスタのポケットラジオ程度のスピーカーを置くといった極端な形を想像してみれば明らかに鳴る。音源がたとえ2ヶ所から4ヶ所になり、あるいは将来8、10、12……とかりにチャンネルが増えていったとしても、一ヶ所あたりの音のクォリティを決定するのはスピーカー自体の良否であることぐらい、ちょっと考えてみれば馬鹿げて思えるほど簡単な公式なのに、ついわれわれは俗説に惑わされやすい。
 たしかに2チャンネルのステレオによって、モノーラルでは再現できなかった空気感、音が空間を漂う感じが出せるようになった。そういう雰囲気はスピーカーの大小にかかわりなくたしかに出せる。さらに、古くフレッチャー博士による「2チャンネルで50Hzから5kHzで再生されたステレオの音は、モノーラルの50Hzから15kHzの再生音のクォリティに匹敵する……」という説があり、むろんこれは一九三〇年代実験による結論であるにしても現在でもうなずける説であって、そこともステレオの──ひいては4チャンネルの、大型スピーカーの不要論の裏づけに引用されていることも確かである。しかしくりかえすが、だから大型が──というより大小を問わず良質のスピーカーが──不要であり小型ローコストの普及型でいいといった考え方は、全く粗末きわまる暴言なのである。
 しかしわたくしは、はじめに、原音はスピーカーが鳴らすのではないと書いた。だから出てくる音のクォリティがかりに貧弱なものであっても人の耳は原音の存在をありありと感じることができるとも書いた。そのことと、いま述べたこととは矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。
 さきにも述べたように、ステレオの音像を感じるためには、単に二つのスピーカーがそこにありさえすればよい。ステレオの効果(エフェクト)だけに限っていえば、音像を形成するのはむしろ聴き手(リスナー)の側の心理のメカニズムなのだから、スピーカーはただそのきっかけを作ればよい。音を感じるのはこちらのイマジネーションなのだから、裏返していえば、イマジネーションの豊かな人間にとってはスピーカーからの音の貧弱であることはたいして苦にならないことだともいえる。
 しかし大多数の人々がそんな音から現実感を思い描くことのできたのは、やはり遠い昔の話であって、現代のハイ・フィデリティを一旦聴いてしまった耳には、古い蓄音機の音は昔の記憶を呼び起こす以上の何ものでもなくなってしまっている。機械文明というものの背負った宿命のようなものだ。《原音》を究極感じとり創り上げるのは人間の聴覚と心理の問題だが、現代の人間の耳はすでにぜいたくになってしまって、クォリティの低いプアな音ではもはやイマジネーションが浮かばない。だからスピーカーはどこまでも精巧な音を出すように作られてゆく。けれどどこまで行っても、スピーカーが鳴らす音が聴き手(リスナー)の耳に達して、頭の中に音像ができ上るというプロセスの変ろうはずはなく、その意味で、原音を鳴らすのはスピーカーではなく、それはリスナーの頭の──心理の問題だといいたいのである。スピーカーがいかに精妙な音で鳴ったとしても、聴き手の側にそれを受け入れる準備が無ければ、それはただの空気の振動にしか、騒音にしか、すぎないのではないか。一方ではスピーカーの音はどこまでもハイ・フィデリティになってゆき、しかしそれだけでは不十分で、聴き手側のイマジネーションが永久にかかわりを持つ。ここが音の録音・再生のメカニズムのおもしろいところだと思う。

     IV
 写真のメカニズムには、映像を記録し伝達する特性がある。写真ははじめこの記録性を自覚し、対象の精確な写実という特性のために肖像画や風景画の代用として使われ、画家たちはカメラの普及を怖れた。時が流れて、人びとは記録の持つリアリティがものを創造する力を持っていることに気がつき、やがて映像の美学が確立し、写真もまた、立派な創造芸術であることを知るに至る。こことについてはあとでもういちどふれることになるが、写真の歴史の流れの中にも、何度か曲りかどがあった。
 たとえば初期の不完全なレンズはさまざまの収差を除ききれず、あるものは独特の色彩を生じ、あるものは対象をソフトフォーカスで写し撮った。それらの色彩やボケもまた表現であり創造であるとする錯覚が、ひところの写真を絵画の代用という低い地位に陥しかけた。いわばレンズやメカニズムの不完全さが、美学の問題とすりかえられたのであった。しかし創造するのはメカニズムでなくメカニズムを扱う人間であり、メカニズムは単にそのための手段であることを思い至れば、レンズがその不完全さのために作る独特の《味》は、いわばまやかしであることがわかる。この場合メカニズム自体は冷酷なほど正確であるべきで、そういう正確さを駆使して、人間が思いどおりの映像を組み立てるべきなのだ。メカニズムはそのための手段である以上、どこまでも正確さに向かって完成の道を進むべきものだ。問題をレンズでなくスピーカーに置きかえてもこの道理は変らない。
 写真レンズがポートレート用とか風景用などと分類されていた時期があった。これは恰も現在のスピーカーをクラシック向きとジャズ無企図に分けるのに似ているといえなくない。かつて写真レンズには、テッサーの味、ゾナーの味、ヘリアーの味……といったものが存在し、その描写のクセは、でき上った印画からさえ容易に判定できた。いまはもう、印画を見てレンズのメーカーやタイプを言いあてることがほとんど不可能であるほど、レンズのクセは少なくなり、メーカーごとの個体差にもそれとわかるほどの大きな相違はなくなっている。そういうメカニズムを前提にして、ひとは表現し創造する。
 能舞には三つの段階があるのだそうである。第一に『基礎』。第二に『写実』。第三に『創作』。
 一の「基礎」は、写実のための条件──すなわち技術──が完備することをいい、「写実」とは字義どおりそうして完成した条件を生かして写実することであり、最後の段階では写実を越えて創作することだ、というのである。実に簡潔な定義だがこの言葉はたいへん深い問題を考えさせる。そしてまた、写真やオーディオの考え方とあまりにも似ていて驚かされる。
 技術やメカニズムが完成しなくては、写実さえできないし、しかしそれが完成すればやがてそれはものを創造する道に通じるというのは、すでに写真や映画の領域では多数の実例によって例証することができる。オーディオの場合もまた、この論理はそのままあてはめて考えることができる。
 いやオーディオでも、そんなものはもう実現していると反論されるかもしれない。たとえばアメリカで──日本でも──行われたナマ演奏と再生音のスリかえ実験を思い起こしてみる。ステージにはオーケストラが並び、オーケストラのあいだにスピーカーが適宜配置され、聴衆の面前でオーケストラは演奏をはじめる。
 その演奏はあらかじめ録音してあったレコード(又はテープ)の再生音に途中から切換えられる。アメリカでのそれはカーテンの向うで行なわれ、日本での実験はオーケストラが途中から身振りだけして音はスピーカーから出るという趣向で、いずれの場合も居合わせた聴衆の中でその切換を正確に指摘できた者は全体の数%以下であった。つまりいずれの場合にもナマと再生音のスリかえは成功し、音量音質から定位感まで含めて、原音を再生することができたと報告されている。
 これらの実験の成果には疑いの余地は全くなく、それぞれの場で原音の再現は確かに出来た。しかしこれをもってただちに、原音再生の技術が一般的に完成したかのように考えるのは正しくない。現に日本での実験を成功させた技術者自身の口からも、広いホールでなくもっと残響の少ない、要するに一般家庭のリスニングルームにより近い部屋でこうした実験が成功するのは、もう少し先のことだろうと聞いている。広い残響の多いホールでは原音再生が可能な程度の技術は完成しているが、ふつうの住宅での聴き方のような狭い部屋で──とうぜんスピーカーとリスナーの距離がうんと近く、残響時間の短い──こまかなアラの出やすい──状態での再生には、まだまだ難問が残されているという意味である。写実のための条件はまだ〈完成〉してはいないのである。むろんそんなことは、われわれユーザーとしてオーディオパーツを買って毎日聴いてみて、よい音を再生することのいかに困難かを身に沁みて知っているが、それであればなおさらのこと、われわれはもう一度ハイ・フィデリティの原点に立ちかえって、真の意味での写実から始めてみてはどうかと思うのである。

良い音とは、良いスピーカーとは?(1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 22号(1972年3月発行)

「原音」とは何か、「原音再生」とは何か
     I
「昨日著名な俳優数人の声を録音したのにひきつづき、蓄音機は今朝カーリッシュ Paul Kalisch =レーマン Lilli Lehmann のコンビの歌を録音した。最初リリー・レーマン夫人が《ノルマ》のアリアを一曲歌った。夫人が歌っているとき、たまたまフランツ皇帝近衛歩兵隊がジーメンス・ハルスケ(※1)とおりを行進し、同軍楽隊のマーチ演奏がレコードのなかへ迷いこむ結果となった。そのあとレーマン夫人とカーリッシュ氏は、《フィデリオ》の二重唱を一曲歌った。(中略)正午に次官ヘルベルト・ビスマルク伯 Graf Herbert Bismarck が姿を現わし、まずヴァンゲマン氏(※2)から装置の説明をくわしくうけられた。御質問ぶりから伯爵が大西洋の彼方のこの不思議についてすでに御存知なことがうかがわれた。伯爵は蓄音機を親しくごらんになって、ひじょうに御満足そうであった。再生音の高低と遅速を随意に変えられることをお聞きになって、にっこり微笑まれ、カリカチュアにとくに威力があるだろう、といわれた。もっと大型の蓄音機も作られているかという伯爵の御質問に、ヴァンゲマン氏はエディソンが大型の装置を一台製作させているむねを申しあげた。伯爵は昨日俳優のクラウスネック Krausneck が録音したモノローグをお聞きになり、『不気味であると同時に滑稽に聞こえる』と感想をのべられた。つづいて音楽のレコードをお聞きになって、『目の見えない人ならさだめし楽団の実演と思うだろう』といわれた。……」
(一八八九年十月二日付《フォス新聞》クルト・リース著『レコードの文化史』佐藤牧夫訳・音楽之友社。傍点瀬川)
 エジソンの円筒蓄音機フォノグラーフが、はじめて海を渡って、ドイツ・ジーメンス社の社長フォンジーメンス邸で公開されたときのもようを報じた記事である。そしてもうひとつの記事。
「この平円盤(グラモフォン)レコード蓄音機は目下エディソンの円筒レコード(フォノグラーフ)蓄音機と地位を争っているが、じつに優秀な性能をもっている。発明者はすでにさらに改良に着手しているが、いまでもエディソンの装置より安価で安定した性能をもっているので、さらに改良されたあかつきにはフォノグラーフと激しい競争をくりひろげよう。グラモフォンは必ずしも雑音なしとしないが、人間の声でも書きの演奏でも、録音された音をりっぱに、忠実に再生する。グラモフォンがとくに成功したのは多声楽曲の再生で、個々の楽器や声の音色がほとんど申し分なく、忠実に再生される。……」
(同じ《フォス新聞》一八九〇年一月。前出書より)
     ※
「実演さながら」「原音を彷彿させる」「まるで目の前で演奏しているよう……」そうした形容は、蓄音機の発明以来ほとんど限りなく使われてきた。それは、新らしい音をはじめて耳にしたひとたちの素朴ななどろきの表現であったと同時に、ひとが録音とその再生というものに求める本質的な願望でもあったに相違ない。それからすでに80年あまりを経て、それはまさに《タンタロスの渇き》であることに人は気づきはじめたのだが、それでもなお、原音の再現というもっとも素朴なそれだけに根本的な欲求にも近いこの幻影を追うことを、おそらく私たちはやめはしないだろうと思う。
 しかしまた「原音再生」というスローガンくらい誤解をまねきやすい言葉もない。古い話は措くとしてLP以後あたりからふりかえってみても、一九四七年から五〇年ごろにかけて、英国のIEE(英国電気学会)とBSRA(英国録音協会)などによって、各方面の音響研究者やエンジニアたちが、活発な討議をくりかえした時期があった。(これら討論会の記録の要点は、昭和26年8月号の「ラジオ技術」および昭和32年発行の同誌増刊第14集などに、北野進氏──当時東京工大講師。現NF回路設計ブロック)によって紹介されている。このとき以来、高忠実度再生 High Fidelity Reproduction ──忠実な再生──に対して、グッドリプロダクション Good Reproduction ──良い音の再生とでもいうべきかという概念(言葉)が作られた。スクロギー M. G. Scroggie の定義によれば、ハイ・フィデリティーとは《原音を聴いたと同じ感覚をよび起すもの》であり、グッドリプロダクションとは《もっとも快い感覚を生ぜしめるもの》だとしている。このことは、《原音》がつねに快い感覚を生じさせるとはかぎらない、という意味でもあるが、これと同じ意味のことを、アメリカのヨゼフ・マーシャル Joseph Marshall は次のように言う。

「──完全な再生及び忠実度と、〝快く、柔らかい〟という形容詞との間に必然的なつながりはない(中略)。高忠実度再生に関連して起る混乱の多くは、音楽についての経験や知識をあまり、あるいは全く持たない人々が、〝気持の良い音がするか、しないか?〟という問いの形で再生の質を判断する傾向があることから生じている──」(J・マーシャル〈音質のよしあしをきめるには〉ラジオ・アンド・テレビジョン・ニューズ日本語版臨時増刊〈これからの電蓄と拡声装置〉昭和26年3月刊より)。
 マーシャルはこれに続けて、音楽はたいてい快いものだけれども、その中の音だけとりだしてみれば、明らかに不快というべき素材としての音はいくらもあり、そういう要素を美化することなく「単にそれを最大の忠実さで再現しようとしているのである」と述べる。もちろんそれは「高忠実度再生が不快なものでなければならぬということを意味するものではない」ので、不愉快きわまりない音のするいわゆる高忠実度再生というのが多くの場合、原音に忠実なためにそう聴こえるのではなく、人間の耳が我慢できる限界以上の多量の不快な要素──たとえば歪──を原音につけ加えているからにすぎない、といい、さらに、〝疲労率〟ということばを使って、
「諸君の音響装置で高忠実度プログラムを5時間か10時間、普通よりもすこし大きめの音量でぶっ続けにかけてみる。その間、諸君やご家族は平常の仕事をしているのである。これでもし諸君やご家族がイライラしたり頭が痛くなったりせずに何時間も休みなしに聴くことができれば、この点(疲労感や苦痛感をともなわないこと)に関しては合格と考えてよい。けれどもまさしく皆がイライラしたり頭痛がしたりするようだったら、また大分してからスイッチを切ってくれと頼むようだったら、さもなければあっさり家から逃げ出してしまうようだったら……それは彼らが人生の美なるものを解さない人間だからでなく、諸君の増幅器の歪が多すぎて、疲労率が高すぎるためである可能性が大きいのである。」(前出書)
 それから10年を経たいま、はたして10時間ぶっ続けに鳴らしても家族が逃げ出さない程度にまで、オーディオ機器の性能が改良されたかどうかについては、いまここではふれずにおく。それよりも大切なことは、当時、高忠実度再生という言葉が、スクロギーたちイギリスの音楽関係者のあいだでもマーシャルらのアメリカのオーディオ技術者のあいだでも、いまよりは比較的厳格に解釈され定義づけられているという点であろう。これはひとつには、これらの論議がもっぱらエンジニアや学者たちによって行なわれたために、しぜんに即物的な方向をとらざるをえなかったという理由によるものだろうし、またもうひとつ、大戦後のあの混乱した時代に、過去のきずなを断ち切って、あらゆる問題を理性的に整理しなおしてみたいと願った人びとのしぜんな欲求のあらわれではないかと思う。当時あらためてとりあげられ論議された、音楽での即物主義、写真や演劇界でのリアリズム論と、無縁のものとはわたくしには思えない。
 そうした開拓期でのある種の潔癖さが、高忠実度再生という目標を厳格に定めたにちがいないが、しかしさらに注目すべきことは、イギリス人は彼等特有の良識を発揮して《グッドリプロダクション》という安息の場を用意したに対し、日本人はあくまでもその潔癖さを押し通す。むろんイギリス人たちも、グッドリプロダクションの定義についてさらに論議をくりかえしたのだが、そこでとりあげられた問題の要点は、原音をことさらに美化したり歪ませたりする人工的手段が、どこまで許されるか、ということだった。これもまた、リアリズムや即物主義の定義やその限界に対する論議によく似ている。たとえば、北野進は前出の「ラ技増刊14集」《HiFiに関する12章》の中で、つぎのように言う。

「もし特性の悪いホールで行なわれた演奏や、ホールまたは伝送線、録音などの欠陥による雑音が混入している音が、理想的なホールで理想的な場所で聴いた音に近い感覚を起させるものになるならば、そのような人工的な変化は許してもよい(もちろん、これは高忠実度の再生ではない)。しかし原音にさらに改善(改悪?)を加え、理想的なホールで理想的な条件で聴いた音以上の快い感覚を生ぜしめるということには賛成できない。なぜなら、これは音響再生の問題でなく、新らしい電気楽器を作るということだからである。」
 むろんこの前提として、北野氏もまたスクロギーと同じ立場から、高忠実度再生について「原音を直接聴いた時と全く同じ感覚を人に与える音」であると定義している。著名な音響学者であるRCAのH・F・オルソンも、《オルソン・アンプ》を有名にした論文の冒頭に、「〝音の高忠実度の再生〟という言葉は、再生された音が実体性あるいは自然さをもっていることを希望しているということを意味している。音を再生するにあたり理想とするところは、もとの音を直接聴いているのと同じ感覚を人に与えるということであって、この理想を実現するためにはバイノーラルやステレオ再生方式のような方法をとることが必要であって……」云々と述べているように(前出RTN増刊)、当時各国の音響学者のあいだでほほ確立された定義と考えることができるのである。
 ともかく、こうした時代の背景の中で、日本人はその潔癖さ故に、人工的に美化した再生音、リアルでない再生音、というものに冷たい態度であった──というよりその方向についてことさらに言及する人のほとんど皆無であった時期に、作曲家黛敏郎の注目すべき発言がある(雑誌「電波とオーディオ」創刊号座談会──昭和30年5月)。
「……蓄音機が商品である以上、いまおっしゃったような線、いってみればリアリズムですね、これはくずせないかもしれない。しかしリアリズムではつまらないんじゃないか。蓄音機でなければできないことを、ねらう努力が、どうしても必要ではないかと思うんです」
 余談になるが、この座談会の司会をしているのが、若き菅野沖彦氏(当時同誌編集部員)らである。故座談会には、ほかにオーディオメーカーのエンジニア、オーディオ・アマチュアらが出席しているが、全体としてはだれもこの発言の重要性にはまだ気づいていない(むろんわたくし自身もそうだった)。黛はさらにいう。
「我々にはハイフィデリティという思想がつまらないですね。」
「蓄音機の発明は、ひとつの新しい楽器の出現である、というふうに考えられます。今迄は、蓄音機のような音を出せる楽器がなかった。だから、その楽器独特の機能を発揮させて今迄できなかった音を、この楽器で作り出してもいいのじゃないか。」
 この発言のなかに、彼が当時凝っていた電子音楽やそのための電子楽器と、蓄音機をわずかながら混同しかけているふしがみえないでもないが、ハイ・フィデリティをリアリズムであるとし、それだけでない方向があるのではないかとした発言は、いまふりかえってみて──当時の背景の中で──ことに興味深い。

     II
 しかし問題はここからである。ハイ・フィデリティの定義については、オルソンをはじめとする学者らの意見を一応受け入れておくとして、北野発言に代表される人工的な音、あるいは黛発言にみられる新らしい音、という方向が、いったいハイ・フィデリティに対してどこがどう異なり、どういう意味を持つのか、について考えてみたい。もういちど北野発言(これは北野個人の発言というよりも、当時の我国のオーディオ技術者や学者の考え方の代表、そして現在でも一部の音楽関係者が信じている意見の代表という意味で引用するのだが)の要点をくりかえすと、原音以上に快い音、原音を聴いた以上の快い感覚を人工的に作り出す、という点に賛成できないというわけである。
 故の考え方についての賛否は措いて、一歩譲って、ここで「原音を聴いたと同じ感覚」と、「原音を聴いた以上に快い感覚」というもののあいだに、考え方や理論上からでなく、実際の音を想定して、果して明確な一線が保てるのかどうかを、まず考えてみたい。
 たとえばピアノが鳴る。ナマのピアノなら、指が鍵盤に触れた音、キイが発するさまざまの打撃音、摩擦音、ペダルをふむ音、ペダルのきしみ、ペダルから離れた足音、椅子のきしみ、衣服の擦れあう音……そうしたさまざまの雑音が、ピアノ自体の音といっしょにきこえてくる。いや、ピアノ自体の音というが、ペダルやキイの発する雑音を取り除いた音がピアノの音、なのか、それらをともなった音がほんとうなのか、そんな定義は誰にもできまい。
 さて、ピアノが演奏される。その演奏されるホールかスタディオかの、広さ、音響特性など千差万別だが、そういう中野どれが「理想的な」ホールなのか。そのどこで聴けば「理想的な」場所なのか。残響の長いのがいいのか、短いのがいいのか……。
 次は録音された音。足音や譜をめくる音まで含めて一切の雑音を、そのまま収録するが仮にハイファイなのだとすれば、そうして雑音を取除き残響をつけ周波数特性を補整して音にみがきをかけ美しくすることが、人工的な方法なのだとすれば、さあいったい、どこまでが「ハイファイ」で、どこからが「人工」なのか。どこからが「原音を聴いた以上に美しい」のか。どこまでなら、その一線スレスレで「原音」なのか……。
 冗舌はもう止めよう。こんな問題は、さきにもたとえに引いた、演奏における即物的解釈、演劇や映画や写真の分野でそれぞれ論じられたリアリズムの問題で、つねにつまづく、最も初歩的な誤解と同質のものなのだ、というだけで十分だろう。要するに現実の世界には、理論や考え方やそれを言いあらわす用語や定義ほどには、明確な境界線というものはないのであって、少なくともそうした現象面から、ものの本質をながめようとすること自体、まちがっているといえるのである。再生音に於ける原音の定義は、もう少し別な角度から、あるいはもっと広い視野から考え、論じなくてはならない時期なのである。
(重ねてお断りしておくが、ずっと引用している北野氏の発言はいまから20年前のものであり、これが現在の時点での氏の御意見では決してないだろうこと。それよりもなお強調したいことは、以上の文は北野個人の発言に対する攻撃では絶対になく、さきにもふれたように、それが当時我国の多くの音響関係者たちの考えの代表であったという意味であり、しかもこうした考え方について、北野氏ほど具体的な発言が、ほかにはあまり見当らないという意味で引用させて頂いたので、当時からずっと北野氏に抱いている尊敬の念は、少しも変るものではないことは申し添えておく。)
 そこで黛発言について考えてみる。「蓄音機でなくては出せない音」という表現についても、二通りの解釈ができる。第一は、いまもふれたような、もともとの原音にみがきをかけ、美化してゆくという方向。たとえばナマより美しく、しかしピアノがピアノ以外の音ではありえないという意味での、素朴な意味での原音の「写し」を越えてはいても、広義では、もともとあるオリジナルを再現するという範囲内での、「蓄音機でなくては出せない」美しい音。第二波(おそらく氏がやや混同しているところの)電気楽器、新たな音の創造、いわば発音源、オシレーター──たとえばモーグのような──としての働き、という二通りの解釈である。
 この後者の、モーグ・サウンド的な、いわば全く新らしい音楽の創造、ということになると、これはもう再生装置の問題という枠の中ではなく、電子音楽と同様に、新らしいカテゴリーのものになるので、この小論では立入ることをしない。わたくしがいま考えたいことは、あくまでも再生装置というものを通して音楽を受けとる場合の、音の理想像を探し求めることであり、そのきっかけとして、原音を再生する、ということばの意味、その定義について、あらためて考え直してみることから始めようと思うのである。

※1ジーメンス・ハルスケ=ドイツの著名な電器メーカー。社長アルノルト・フォン・ジーメンスの夫人の父は、有名な音響学者ヘルムホルツ。最近、ジーメンス名作「クラングフィルム・スピーカー・システム」が入荷したが、これについては山中敬三氏の紹介が次号「海外製品試聴」にのる予定。
※2ヴァンゲマン=エジソンのヨーロッパの総代理人。

最新ブックシェルフ型スピーカーの傾向

瀬川冬樹

ステレオサウンド 16号(1970年9月発行)
特集・「スピーカーシステム最新53機種の試聴テスト」より

 本誌10号以来、一年半ぶりにブックシェルフ型スピーカーの総合テストが行われた。オーディオ・ファンがスピーカーシステムを購入しようとすると、現実に売られているスピーカーの大半はブックシェルフ型なのだから、いかに本質論を唱えようと、ブックシェルフ型が市販品の主流の座を占めている事実だけは否定のしようがない。
 この春の北海道オーディオ・フェアでのスピーカーの新製品発表をみると、半数以上のメーカーが、ブックシェルフ型ではない、いわゆる大型や、変り型のスピーカーを発表してはいたのだが、そういうものが実際にはまだ豊富に出まわっているわけではないし、昨年来からの内外の話題になっているオムニ・ディレクショナル(omni-directional)タイプ=無指向性スピーカー=も普及にはまだいくらかの時日を要するだろう。つまりブックシェルフ型は、まだ当分のあいだ、主流の座にすわりつづけるだろうし、ブックシェルフ型意外のタイプが出まわりはじめたとしても、少しぐらいのことでは姿を消さないだけの商品としてのメリットを持っている。つまり、小型にできて、作るにも運ぶにも売るにも楽だし、ユーザー側からみても小型で場所をとらず、その割には音が良いし、小型に作れる有利さは、とうぜん、得られる音にくらべて価格の安い、コストパフォーマンスの高い商品ということで、まあ容易には廃れはしないだろうと考えられるのである。
     *
 そんなことをくだくだしく論じるのが目的ではなく、ともかく、現実にブックシェルフ型がスピーカーシステムの主流であることは是認した上で、本誌10号以来の変化やその傾向を探ってみた。あわせて、ブックシェルフ型を選ぶ場合の簡単なヒントのようなものを記してみよう。
国産ブックシェルフ型の傾向
 総括的にみれば、国産の中級ブックシェルフ・スピーカーは、10号のテストのときからみると全体に水準が上っている。裏返していえば、わずか二年足らずのあいだに大半の製品が姿を消して新製品と入れ替ったし、
新製品でないまでもII型とかB型といった形で改良型──中には改良というより全くの新製品に近いものもあるが、──に替っているわけで個人的には、スピーカーのように原理的にも技術的にも大きな変化のないものに、一年や二年で変ってたまるかといった気持がないではないが、ほんとうの意味で「改良」されているとすれば、まあ歓迎すべきことなのだろう。
 価格でいえば二万円台から三万五千円クラスまでの製品が大半を占めるようになり、この辺が、国内メーカーが最も力をそそいでいる──つまり最も売れる──クラスであることがわかる。それだけに強奏もはげしく、各メーカーが自社の特徴をいかにして打ち出すかに苦心している姿勢がありありと伺える。
 全体にレベルが上ったというその最も目立つ部分は、音のバランスのとりかたがうまくなったという点だろう。とくに片よった個性がおさえられ、フラットな、ナチュラルな傾向のものが増えてきた。
 しかしこの傾向には一つだけ問題がある。いま現実に市販のアンプの音質が互いによく似てきたように、あるいはカートリッジの音質がひところみなフラットにナチュラルにつくられた結果よく似てしまったように、スピーカーも目ざす方向がひとつになれば、音質もみな似てきてしまうようなことにならないだろうか──。
 これには肯定論と否定論がある筈だ。かりに原音の再生といった方向に焦点を合わせてゆけば、音が似てゆくのは当然ということになるかもしれない。しかしそれを物理的にとらえるのでなく心理的、感覚的にとらえてゆけば、どのメーカーのどの製品も同じ音になるのはおかしいということになる。
 いずれにしてもしかし、カートリッジの例を上げるまでもなく、中級ブックシェルフ・スピーカーの音質は、一度はみなよく似るべきだ──こういう言い方に誤解があるなら、一度は、すべてのメーカーがフラットな、ナチュラルな音質を作るテクニックを完成させるべきだ、といってよいだろう。カートリッジはその目標を達成し、その基盤に立って、いま、各メーカーがメーカー独自の個性を意識して作りはじめた。これにくらべてブックシェルフ型スピーカーの多彩な音質は、それと意識して作ったというよりも、技術的に未完成の部分があるために結果として出来てしまったといったところが多分にある。この辺の問題になると、メーカーの技術力のレベルがまだひどく不揃いなために、一概に断定してしまうわけにはゆかないが、少なくともある時期には、一度は、同じ技術水準で、スタートラインに勢揃いすべきだ──つまり一旦はよく似た音が作られるようになるべきだ、と、全くの個人的感想だが、わたくしはそう思うのである。
 そういう意味からは、フラットに、ナチュラルなバランスを作る方向を、わたくしはいまは肯定する。その考え方の延長として、国産ブックシェルフは、全体としてレベルが上った、という言い方をするわけである。少なくとも10号のときは、クラシックは聴くに耐えないがムード音楽ぐらいならまあ聴けるというような、ひどく片よった製品が少なくなかった。その点今回テストしたスピーカーの大半は(少数の製品を除いては)あまりおかしなバランスの音はなく、広くあらゆるプログラムソースに対して、(個性が強ければ強いなりに)楽しめる作り方になってきている。やはりそれだけ進歩したのだろう。とくにローコスト・グループが総合的に向上したと思う。
 しかしその半面、二万円台に集中していた製品の主力が三万円台以上に移行し、全体的にやや値上げムードが伺える。
海外ブックシェルフ型の傾向
 海外製品は、作りかたも音質も、よくも悪くも、個性的で、それだけに強い性格を持っている。その性格が、さきにふれたように技術力のレベルを越えたところから出てくるものか、それ以下なのかはよくわからない。あるいは、そういうわれわれの考え方とは全然別の発想から、こういう音が出てくるのかもしれない。
 いずれにしても、それぞれにアクの強い音を、一応は是認しなくては評価もできないわけだから、自から国産品に対するのとはその評価の基準を多かれ少なかれ変えなくてはならない。
 ともかく国産品とは何か違った音づくりと云うか、アプローチの違いを探ってみると、おおよそ次のようなことがいえるのではないかと思う。
 たとえば国産の多くの製品は、作りかたの姿勢として、音域の広さや音のバランス──言いかえれば、低音や高音がどれだけ出るか、どれだけ伸びるか、あるいはその音域の中で特定の音域が出っ張ったりひっこんだりしないか、フラットに出るか、各音域を分担するユニット相互の音のつながりがよいか……等々、いわば物理的に、計測的にとらえ、物理的に特性を向上(正確にはそれが向上といえるかどうかわからないが)させようとするのに対して、海外製品は逆に、音域をことさら広げるわけでなく、むしろ聴感上の音のつながりやバランスや、ことに出てくる音の味わいそのものに注意を向けているように、わたくしには思える。少なくとも商品である以上、価格の枠というものがあり、その限界内で音域を広げ同時に音の品位も上げようとするには限度がある。その場合、品位を多少落としてもまず低域や高域を十分に伸ばそうと作るか、レンジをせまくしてもそのせまい範囲内での品位を上げるか、むろんそんな単純に割り切れる問題でないにせよ、どちらにウェイトをかけた作りかたをするか、この点はなかなか重要な問題になる。
 もうひとつ、整いすぎて欠点のない人間よりも、多少の弱点はあってもどこか人を惹きつける魅力を持った人間の方が、つきあってみて飽きがこないというように、スピーカーもまた、フラット型、優等生型よりも、どちらかといえば弱点を持ちながらそれをカヴァーするだけのチャームポイントを持った製品の方が、自分にとってより深いものをもたらしてくれる場合が多い。もちろんフラットでナチュラルで、欠点がなく、品位が高く、その上に何か強く惹かれる魅力のあるスピーカーなどというのがないわけではなかろうが、片側二~三万円の商品にそういう理想が実現できるというような錯覚は、きっぱりと捨てるべきで、もっと大局的に、その製品に何を望むべきかを、はっきり見きわめる目を、ユーザーよりもむしろメーカーに期待したい。
     *
 ところで今回のヒアリングテストが前回と大きく異なる点は、すべての製品をカーテンで隠すことなどせず、テスターにはあらかじめ一欄表が流されて、製品を知った上で試聴したという点である。その理由について詳しく書くスペースがないが、本誌の創刊号以来の主張として、商品はすべて音ばかりでなく外観や仕上げや使い勝手の良しあしを含めて評価すべきであるという立場と、それに加えて10号や12号であえてブラインドテストを試みた結果、先入観や概念を取り除いてみても、訓練された耳には良いものがやはり良く、欠点のあるものはむしろブラインドテストであるだけにきびしく評価されるという事実に確信を持ったからで、むろんブラインドテストで聴く場合と逆の場合とに、それぞれに得失もあるし、テストの目的によってはブラインドの方がより一層有効な場合も必ずあるが、少なくとも今後、商品の総合テストに、本誌がブラインドテスト形式をとることはあまりないだろうといえる。
 次のページに、今回の53機種の一覧表を載せ、そのあとでテストの方法についてさらにくわしく解説しよう。

オーディオ製品のあり方と価値判断の方法

菅野沖彦

ステレオ 4月号(1970年3月発行)
「アンケート/オーディオ製品のあり方と価値判断の方法」より

①よいオーディオ製品の条件
 性能が優秀で、明確な設計思想と高い感覚性の感じられる製品。それ以上書くと長くなります。
②パーツについてどのようにテスト、性能判断をするのか
 徹底的に主観的です。つまり自分の納得できるシステムの一部に、そのパーツを組み込んで、気に入った音が出るかどうかが第一です。プログラム・ソースも自分の好きなものを選んでテストします。
③ユーザーに、パーツを見きわめる場合のアドヴァイス
 自分の音をもつこと。もてるまで体験を重ねること。常に自分の音が、より洗練されるべく音楽的体験を積むこと。科学的な常識を身につけること。そこへ達する前の初心者は自分の気心の合う人でオーディオに詳しい人に相談するのがよい。いくらオーディオのベテランでも、自分と感覚や嗜好の極端にちがう人からは知識を得られても、音への導きは得られないと思う。

オーディオ製品のあり方と価値判断の方法

岩崎千明

ステレオ 4月号(1970年3月発行)
「アンケート/オーディオ製品のあり方と価値判断の方法」より

 八〇〇字程度で、これだけの質問に答えられるくらいなら、オーディオなんて底の浅いつまらない趣味だ。しかしそうもいっていられないから、最低ギリギリの条件だけを列記しよう。
①よいオーディオ製品の条件
 よいオーディオ製品の条件といってもカートリッジ、チューナー、デッキ、アンプ、スピーカーと全然観点の異なるものだからひとつずつ挙げなければならない。チューナーとカートリッジはステレオのセパレーションのよいことが第一条件。洩れ信号はノイズや歪成分が多く、再生の質をひどく損なう。チューナーはできるだけ実際の感度がよいもの。特にステレオの場合にも、カートリッジはいい尽くされているが規定針圧にてトレーシング特性のよりよいもの。アンプは経済的にゆるせる限りハイパワーアンプのもの。ハイパワーほど製品の質もよいのが通例である。スピーカーはなによりも中音域二〇〇ヘルツから、八〇〇〇ヘルツの歪特性の優れたもの、そして高音域まで指向特性の良いもの。さらに付け加えれるなら高能率ほど、実際の使用上、良い音を望めるものだ。全般的にいえるのは、あくまでも中音域の歪の少ないほど、悪い音を避けることができるものだ。それがハイファイ再生の最低条件でもあり近道だ。
②パーツについてどのようにテスト、性能判断をするのか
 パーツのテストと性能判断は、いつも聴きやすい方法だ。私自身は、いつも聴いている程度の、つまり生の楽器のエネルギーと同じくらいに音を出して判断する。従って、オーケストラ物は判定のソースにはならない。男性ヴォーカル、ピアノ、テナーサックス、チェロなど中低域のエネルギーの多いものだ。
③ユーザーに、パーツを見きわめる場合のアドヴァイス
 私と同じようにいつも聴きなれたソースを聴いてみるのがよかろう。そしてその場合、楽器の少ない方が判りやすいだろう。本来、大編成楽器のハイファイ再生なんて出切得るはずがないのだから!

オーディオ製品のあり方と価値判断の方法

瀬川冬樹

ステレオ 4月号(1970年3月発行)
「アンケート/オーディオ製品のあり方と価値判断の方法」より

①よいオーディオ製品の条件
 聴いて音がよく、測って物理特性がよく、眺めて美しく、触れて感触がよく、扱いやすく風格かあって、仕上げがよく、耐久力に富み、それらの諸特性に見合った価格であること。
②パーツについてどのようにテスト、性能判断をするのか
 前項の諸点をチェックする。とくに、長期にわたるテストが重要。
③ユーザーに、パーツを見きわめる場合のアドヴァイス
 上記の諸項目、一般的な評判、販売店の意見等を参考にする。ただし、客観的に評価の高いものと、自分ひとりにとっての「良い」パーツとは、おずから違うのだから、他人の評価にまどわされずに、現物に触れ、眺め聴くこと。

マルチ・チャンネル・ステレオとは

菅野沖彦

スイングジャーナル 4月号(1969年3月発行)
「オーディオ・コーナー ’69ステレオの新傾向」より

マルチ・チャンネル・アンプ・システムとは何か
 オーディオに関心のある人は、近頃この言葉を見たり聞いたりすることだろう。これは最近流行のきざしをみせているアンプのシステムで、高音、中音、低音にそれぞれ独立したアンプを使うものである。従来、スピーカーはマルチウェイ・システムといって3つあるいは4つ、またはそれ以上を音域別に使う方法は珍しくなかった。しかしこれをアンプでおこなうというのは耳馴れないことかもしれない。かといって、この方式は昔からなかったわけではなく一部高級マニアの間では使われていた。もともと1台のアンプですむ(ステレオなら左右各1台)ものを、2台も3台も使うのであるから費用もかさむし使い方もやさしくはないということで一般には敬遠されていたのだが、最近になってアンプがトランジスタ化されて小さくまとめられるようになったり、再生装置の水準が高くなって、ある程度の域まで達成されてさらに質的向上を追求する結果、一般にも普及のきざしを見せてきたわけだ。
 図をみていただけばおわかりのように、チャンネル・アンプ・システムは、ブリ・アンプの出力をチャンネル・フィルター(フィルター・アンプとかデバイディング・フィルターとも呼ぶ)によって周波数帯域別に分割し、それぞれの帯域に専用のパワー・アンプを使う。その結果、従来のマルチ・ウェイ・スピーカーシステムに使われていたネットワークは不必要になり、アンプとスピーカーは直結される。この分割する帯域の数によって2チャンネルとか3チャンネル、あるいは4チャンネルなどと呼ぶ。それでは、なぜこんなことをするのか、どういう利点があるのかということについて考えてみることにしよう。チャンネル・アンプのメリットについて説明するためには従来のネットワーク式の欠点について述べなければならないだろう。ネットワーク式に欠点がないとすればわざわざこんな面倒でお金のかかることをしなくてもよいと思われるからである。しかし、ネットワークの欠点などというと、ネットワーク式ではよい音が得られないというように早飲み込みされる危険がありそうだ。実際にはネットワーク式でも最高の音を求めることも不可能ではなく、チャンネル・アンプ式は理論的な根拠をもったよりよき音へのアドヴェンチャーであると解していただきたい。したがって、チャンネル・アンプなら必らずネットワーク式より音がよいとは限らず、優れた設計と高度な製造技術による高性能の製品と、高い感覚と豊かな音楽的体験による使いこなしがともなわければその真価は発揮されないと思う。チャンネル・アンプのメリットを述べるにあたっての前置きが長くなってしまったが、この辺をよく理解していただいかないと、いろいろ誤解を生じると思う。
 低音用のスピーカーには高い音を切って低音だけ、中音用には低い音と高い音の両方を切り、高音用には低いほうを切って高い音だけを供給するという必要があることはおわかり願えると思う。そのためには、スピーカーの前でそういう分割作用をおこなわなければならず、その役目を果すのがネットワークやチャンネル・フィルターである。ネットワークはアンプとスピーカーの間に挿入され、チャンネル・フィルターはアンプの前段に近いところに挿入されるネットワークに使われているLC素子には、アンプの性能を多少劣化させるものがあり、これを取り除きたいためにチャンネル・アンプが生まれた。チャンネル・アンプではRC素子回路で周波数分割をおこなえるものでこの害がない。ここでのLはチョークコイル、Cはコンデンサー、Rは抵抗である。この中でLはよほど巧みな設計とぜいたくな作り方をしないとアンプとスピーカーの間に入って音質を害するとされている。また、帯域別にパワー・アンプを使うと、ひとつのアンプが分担する周波数範囲が限定されるためにアンプそれぞれの負担が軽くなり働きやすくなる。音質を悪くする最大の要因にIM歪(混変調歪)というものがあるが、これは、高い周波数がエネルギーの大きな低い周波数に邪魔されて起る歪でチャンネル・アンプにすればアンプにおけるIM歪の発生が大きく減るものと考えられる。これはスピーカーについてもいえることで、ひとつのスピーカーで全域を受け持たせるより2~3分割したマルチ・ウェイ・スピーカー・システムのほうが有利である。ネットワーク式ではアンプのIM歪はどうにもならないが、チャンネル・アンプ式では、これを軽減できるわけだ。このIM歪はカートリッジやプリ・アンプでも問題となるが、少なくともパワー・アンプ以後では従来のネットワーク式より有利になると考えてよいだろう。この他、それぞれの帯域のレベル・コントロール(音量調節)をするために、ネットワーク式で使われるアッテネーターもよほどのものを使わないと音質に影響があり、調節範囲を限定したタップ式で3段切換で増減するのが普通だが、フィルター・アンプなら、これをボリュームで自由にコントロールできるという利点もある。さらに、高中低それぞれの周波数範囲が交叉する点(クロス・オーバー・ポイント)を正確にとるには、ネットワーク式では使うスピーカーの特性によって変るのだが、チャンネル・フィルターでは問題ない。つまり、ネットワークはそれぞれのスピーカ一専門のものしか使えないが、チャンネル・アンプならどんなスピーカーをつないでも正確な分割ができる。これらの利点のために得られる音は抜けのよい透明な音質、歯切れのよい明解な音質といった印象に連なることになるのだが、それにはそれ相応の知識と経験を必要とする。以上でごく大ざっばにそのメリットの可能性については理解していただけたと思うので、次にその使い方や正しい考え方について述べよう。

チャンネル・アンプ・システムには何が必要か
 全帯域を3分割する3チャンネルが最も一般的なので、それを例にとって話しを進めよう。
 まず必要なのは独立したブリ・アンプである。ないしは、プリとパワー部を分離することのできるプリ・メイン・アンプが必要。最近の新製品(チューナー組込みの総合アンプは除く)にはこの分離ができるものが多い。アンプの後面端子板にジャンパー・ターミナルが出ていて、これを切り離すことによってそれぞれ独立したアンプとして使えるようになっている。
 次に必要なのがチャンネル・フィルターである。
 3分割するのだからパワー・アンプが3台必要。片チャンネル3台ずつだからステレオでは実に6台のアンプということになる。この場合、先述のプリ・メイン・アンプを使えば買いたすパワー・アンプは2台である。もう察しがついたことと思うが、ジャンパー・ターミナルのついたプリ・メイン・アンプを買っておけば、当初はネットワーク式で使っておいて、後にフィルターとパワー・アンプ2台を買い足してチャンネル・アンプ式にスムースにグレード・アップできるわけだ。
 最後に当り前の話だがスピーカー・システムが必要。3チャンネルのアンプでドライブするのだから3ウェイのシステムがいるわけ。大抵のシステムはスピーカーのターミナルとして+-1組が出ていて、箱の中でネットワークを通してそれぞれのスピーカーに結線されている。しかし、チャンネル・アンプでドライブするには、高、中、低、それぞれのスピーカーへ直接結線する必要があるから+-3組のターミナルがなければならない。したがって多少スピーカー・システムに手を加えなければならないが、そのぐらいはだれにでも出来る。最近のシステムでは、ネットワーク、チャンネル両方のターミナルが設けられスイッチで切りかえるようになっているものが多くなった。しかし、ここで少々脱線するが、チャンネル・アンプ・システムの究極の姿というのはスピーカーを単体で組み合わせて高度なシステムを完成するというほどの高い水準にあるといってよく、このシステムに取組むにはその程度の覚悟が必要だ。さもなくば、メーカーの完成品に、このシステムが利用されたものがあるから、それを買ったほうが得策だと思う。
 さて、これだけのユニット・コンポーネントがそろえばチャンネル・アンプ・システム構成の準備は整ったわけで、次にこれを正しく組み合わせて使う段になる。

チャンネル・アンプ・システムは次のことに注意する
 正しい配線と、バランスのとれたレベル・コントロールの2つがチャンネル・アンプ・システムを完成させる必要十分条件である。正しい配線をするためには少なくとも以下に述べることを知っておくこと、またバランスのとれたレベル・コントロールをするには日頃の音楽的体験と全般的なオーディオの知識が必要である。毎号本誌を熟読していれば、それは自然に養われているはずだと思うが……。
 正しい配線をするためには、チャンネル・フィルターについて理解する必要がある。製品によっても異るが、普通、チャンネル・フィルターには、レベル・コントロールが3組(高中低が左右一組ずつ)とグロスオーバー周波数切換スイッチの2つがついている。この他、遮断特性切換とか低音増強ツマミなどのついたものもあるが、ここで大切なのは、クロスオーバー周波数切換スイッチである。クロスオーバー周波数とはすでに述べたように、分割する周波数帯域の交差点であり、使うスピーカーによって最適なポイントを選べるように何種類かに切換えられるようなスイッチがついている。低音と中音の間を150Hz、300Hz、600Hzの3点、中音と高音の間を2、000Hz、4、000Hz、6、000Hzの3点といった具合に切換えられるわけで、この周波数ポイントの選び方が、音質に大きな影響を及ぼす。最適値を決めるためには、使用スピーカーの特性をよく理解し、メーカーの指定があればそれを参考に、なければ、特性表などから推測して、それぞれのスピーカーの無理のない範囲を有効に選ぶ必要がある。普通、スピーカーにはf0といって最低共振周波数がある。そして、それ以下の低域は使えない。例えば、30cmスピーカーでfoが50Hzとあればそのスピーカーの再生できる低音の限界は 50Hzだと思ってよい。これが中音に使う12cm~20cmのスピーカーでも同じことで、そのf0以下にクロスオーバーをとることは論外である。かといって、低音に大口径スピーカーを使った場合、あまり高いほうまでこのスピーカーに受け持たせると歪が多くなるし音質的に好ましくない。その兼ね合いがむずかしくクロスオーバーの決定の秘術が生まれることになる。またホーン・スピーカーではそのホーンのカットオフ周波数が再生できる低限であり、普通それより高い所でつなぐのが常識だ。中音用にホーン・スコーカーを使う場合など、クロスオーバーはあまり低くとれないのでウーハーの高域特性のよいものが要求される。こういう点を一応理解した上で、データがあればそれに従ってクロスオーバー周波数を選び(厳密に考える必要はなく、±10Hz~15Hzは問題ない)、さらにいろいろ切換えて音を聴くべきであろう。メーカーの指定より100~200Hz高い(低い)ところでつないだほうがよい音になったというようなケースも珍しくなく、スピーカー・ボックスや部屋の条件で変るから、かなりフレキシブルに考えてよい。
 プリ・アンプの出力端子とチャンネル・フィルターの入力端子をピン・ジャックでつなぎ、チャンネル・フィルターの高中低それぞれの出力端子を3台のパワー・アンプの入力端子に同じようにつなぐわけだが、パワー・アンプと各スピーカーのつなぎ方に注意する点がある。ご存知のことと思うが、ステレオの場合、左右スピーカーの+-の接続が狂っていると再生音はよくない。これを位相が狂っているというが、チャンネル・アンプの場合は、左右それぞれ片側だけで高中低と3台のスピーカーにつなぐわけで、その間の位相が問題となる。高音用スピーカーに対して中音用の+-がひっくり返っていたり、高音、中音はそろっていても低音だけでひっくり返っていたというようなトラブルが非常に多い。左右で12本の配線ともなると実際にゴチャゴチャになるもので、余程注意して配線しなければ、あとでなんとなく音が悪くても気がつかず、よけいな心配をするものだ。すべてのスピーカーの+-がアンプの+-と正しくつながっていることが原則として必要だから念には念を入れてチェックすることである。原則としてと、ことわったけど、これには理由があって、クロスオーバー周波数の減衰特性(遮断特性)によって位相が変化するので、場合によってはスコーカー(中音域)だけを+-をひっくり返してつなぐ必要がある場合が起る。しかし大抵の場合は、フィルター内で処理されているから、アンプとスピーカーの指示を合わせればよいと考えるべきだろう。この減衰特性は、ゆるやかに下るもの、急激に下るものというようにいろいろな考え方から設計されており、通常、6db/oct、12db/oct、18db/oct、の3種がある。これは1オクターブで6db下るという意味で、12db、18dbとなるにつれ急激なカーブを描くわけだ。シャープに交叉させるほうがよいか、ブロードな曲線で交叉させるほうがよいかについては諸説があるが、正しく設計製作されていれば12dbか18db/octがよい。切換えスイッチがある場合は試聴で決定することになる。
 さて、正しい配線が終ったら、いよいよ各帯域のレベル・コントロールということになるが、私たちが一般におこなっている方法をお教えしよう。
 聴きなれたレコードを用意する。プリ・アンプのモード・セレクターをモノーラルにする。バランス・コントロールをどちらか一杯に廻して左か右だけのシステムを生かす。レコードをかけて、中、高はしぼりこみ、低音だけ一杯にあげる。次第に中音を上げていき、低音との調和のよいと思える点でとめる。次に高音のボリュームを同じ要領でコントロールする。もしこの過程で、中音を一杯にあげても足りない場合には低音を、高音を一杯にあげても足りない場合には中音と、それにともなって低音それぞれ下げることになる。バランス・コントロールを逆に廻して、もう一方のシステムだけを生かす。先に調節したツマミの位置にならって調節し、あとは、左右のシステムの音をそろえる。ついでに、バランス・コントロールの中点で音が中央から出てくるようにする。ここで初めてモードをステレオに切り換えるとすばらしい立体音が得られるという仕掛け。言葉でいうとこうなるのだが、実際にはこの調整は大変難しいし、やりがいのあるものだ。ありとあらゆるレコードで、長時間かけて、腹の減っている時、ふくれている時、天気のよい日、悪い日といったあんばいに、なにしろ微妙に変化する音のコントロールであるから、じっくり落ち着いてやりたいもの。1か月や2か月はかかってもなんの不思議はないだろう。ご健闘を祈る。

市販されているマルチ・チャンネル用のコンポーネント
 プリ・アンプ、パワー・アンプ、プリ・メイン・アンプ、そしてチャンネル・フィルターなどで構成することはすでに述べたが、現在市場にある製品で代表的なものについてご参考までに紹介しておこう。まず、とりあえず、ネットワーク式で使えて、さきへいってからチャンネル・アンプに発展させるという目的から、プリ・メイン型を見ることにする。
〈トリオ〉
 KA4000、KA6000、そして新しく発表されたKA2600など、すべてのプリ・メイン型はプリとパワーのジャンパー・ターミナルによりグレード・アップが容易である。
〈パイオニア〉
 SA70、SA90という新製品がプリとパワーのジャンパー・ターミナルに独特のアイディアが盛り込まれて使いよい製品。プライス・パーフォーマンスの優れた高性能アンプである。
〈サンスイ〉
 AU555、AU777が中心となってこの社のポリシーであるグレード・アップのスタート・ラインをつくっている。コンポーネント・システムによるチャンネル・アンプ化への積極的な姿勢で一貫していて頼もしい。
〈ソニー〉
 TA1120Aが代表製品で、高級プリ・メイン・アンプとしてのすべての機能を備えている。同社の一連の製品でチャンネル・アンプ・システム化が可能である。
〈ラックス〉
 新製品SQ505、SQ606でソリッド・ステート・アンプを完全に消化したラックスはもともとこうしたコンポーネント専門のメーカーである。
〈コーラル]
 A550が中級品のプリ・メイン型としてグレード・アップに適している。
〈ナショナル〉
 テクニクス50Aが発表されており期待される。
〈ティアック〉
 AS200が現時点での代表製品で、もちろん、プリとパワーの切り離しが可能で将来の発展に差支えない。

 ところで初めからプリとパワーを独立で構成させていく方法も考えられる。セパレート・アンプとしての代表製品を同じように展望して見よう。
〈パイオニア〉
 SC100という高級プリ・アンプとSM100というパワー・アンプがコンビとして考えられる。さらに新製品で価格的に求めやすいSC70(プリ)、SM70(パワー)も発展的なコンポーネントとしての典型的なものといえるだろう。
〈サンスイ〉
 プリ・アンプはCA303がユニークな高級品。これは中にチャンネル・フィルターが組込めるようになってあり、マルチ化のためのプリ・アンブといってよい。パワー・アンプとしてはBA60、BA90が主力製品だ。
〈トリオ〉
 新しく発売したM6000というパワー・アンプを使って、同社のプリ・メイン型へ加えてのグレード・アップが可能である。独立のプリ・アンプはまだそのライン・アップにはない。
〈ビクター〉
 プリ・アンプとしてロー・コストのMCP200、高級品PST1000、パワー・アンプとしてMCP200に対するMCM200、PST1000に対するMST1000と優秀製品がそろっている。
〈ソニー〉
 プリ・アンプはTA2000、パワー・アンプは TA3120という高級品がある。価格も性能も最高の製品で信頼度も高い。
〈ナショナル〉
 テクニクス・シリーズの機器はぜいたくな高級製品で、ブリ・アンプは管球式のテクニクス30A、パワー・アンプも同じ管球式の40Aが堂々たる風格。
〈ラックス〉
 PL45という高級ユニバーサル・プリ・アンプがある。管球式で同社の高い技術水準を反映した優秀製品。パワー・アンプはMQ36という大型なマニア向きのものがある。
〈マランツ〉
 アメリカ製の最高級アンプで、プリが7T、パワーが15という魅力的な製品がそろっている。
〈JBL〉
 スピーカー・メーカーとして有名なアメリカのメーカーだがそのアンプも非常に高度な回路技術を駆使した優秀品で、プリはSg520、パワーはSE400S。
〈マッキントッシュ〉
 アメリカの最高級品として前2者と共に有名。管球式のプリC22とパワー・アンプMC240、MC275がアンプの王者といわれている。

 このように、ちょっと代表的なものを眺めただけでも枚挙にいとまのないほどであるが、最後にチャンネル・フィルターをあげておくことにする。市販の全製品といってよいほど大部分が3チャンネルで、中には2チャンネルにも使えるものが多い
 ソニーのTA4300はロー・ブーストやブースト立上り周波数の切換スイッチまでついたぜいたくな製品でやや大型だが同社のシリーズと一貫したデザインでまとめられている。
 ビクターのMCF200はMCP200、MCM200とのシリーズで小型で使いやすく機能的にも完備した優秀品。
 サンスイではCD3が主力製品だったが近く廉価品のCD5が発売される。
 トリオは高級品F6000を発表しているが市場に出るのは6月の予定
 YL音響にCH401という4チャンネルまで可能なフィルターがあり同社のプリ・アンプSCU33、パワー・アンプTM40とシリーズをつくっている。
 以上きわめて概観的にマルチ・チャンネル・アンプ・システムについて眺めてみた。我と思わん方は、是非このシステムに挑戦していただきたい。インパルシヴなジャズのミュージック・ソースを混濁なく、大出力で安定して再生するためには、こうした高級システムが大いに威力を揮するものである。

ブックシェルフ型スピーカーのタイプと原理

井上卓也

ステレオサウンド 10号(1969年3月発行)
特集・「スピーカーシステムブラインド試聴」より

50機種を分類する
 ブックシェルフ型と呼ばれるように本棚に載るくらいの小型ながら、大型スピーカーシステムと十分比較できるくらいの低音を再生する製品が実用化されはじめたのは、やはり45/45方式の2チャンネル・ステレオディスクの開発によって2台のスピーカーシステムが必要になった、時代の要求からであろう。
 もちろん、それまでにもスピーカーシステムの小型化の試みはされていたが、なかなか実用化はできず、音響技術者にとっては、彼岸にも似たものだった。それが米AR社のアコースティック・サスペンション方式の開発から端を発して、今日のブックシェルフ時代に至っている。
 このARの開発以来、今日まで、すでに15年余りの年月が経過しているが、ブックシェルフ型が実用期に入るまでには、スピーカーユニット自体の進歩もさることながら、トランジスターアンプがちょうど足並を揃えて開発され、今日のように比較的容易にハイパワーアンプが入手できるようになったことも、ブックシェルフ型の普及に大きな役割を果したことも見逃せない。
コーラルがわが国初めてのブックシェルフ型を完成
 ARでAR1発表後、しばらくして日本でもブックシェルフ型が製作された。主として輸出用として開発されたものらしいが、25cmウーファーをベースとした2ウェイシステムだった。
 比較的小口径のウーファーで、低域まで再生するには、当然コーンの大振幅が要求される。この要求を満たすための一部として、ボイスコイルの巻幅を、ヨークの厚みより長くしたロングボイスコイルが使われるため、能率が急激に低下する。この能率低下を防ぐために、強力な磁気回路をもたせるわけであるが、それでもなお能率の悪化はさけられないのが普通である。
 スピーカーの能率の悪いものは、アンプの方でカバーすることが必要となってくるが、コーラルのブックシェルフ型が発売された頃は、真空管アンプ全盛であり、パワーの小さいアンプはほとんどであったため、国内で目の目を見なかったことを思い出されるファンも少なくないだろう。
主流となったブックシェルフ型
 この頃のブックシェルフ型スピーカーシステムの能率の悪さが語りつがれて、いまだにブックシェルフ型は能率が悪いとか、インスタントコーヒーのように、間に合わせ的に思われているのはあたらないとおもう。
 現在のブックシェルフ型スピーカーシステムは、今回の50機種テストに立ち合った感想からも、能率の改善とトランジスターアンプのハイパワー化の相乗作用??で、住宅事情の悪いわが国で主流を占めるまでに成長しているのが感じられた。

テスト機種をタイプ別に分類する
 今回のブラインドテストのために集められた50機種を中心にして、ブックシェルフ型の分類をしてみたい。
 もっとも大きく分類すると、
1 密閉型エンクロージュア
2 バスレフ型エンクロージュア
3 後面開放型エンクロージュア
 の三種類になる。
 さらに50機種を細かく分類すると
1 密閉型
 A密閉型(8機種)
 B完全密閉型(19機種)
2 バスレフレックス(通称バスレフ型)
 Aダクトをもたないバスレフ型(2機種)
 B角型ダクトをもつバスレフ型(3機種)
 Cパイプダクトをもつバスレフ型(6機種)
 D複数個のパイプダクトをもつバスレフ型(1機種)
 E複数個のダンプしたパイプダクトをもつバスレフ型(3機種)
 Fダンプしたパイプダクトをもつバスレフ型(2機種)
 Gダンプド・バスレフ型(1機種)
 Hドロンコーンをもつバスレフ型(4機種)
3 後面開放型(1機種) 計50機種

分類したシステムの解説
■密閉型
 ここで密閉型を完全密閉型と密閉型に分類したが、単なる密閉型とは、一機種を除いて取り外しのできる裏板とエンクロージュア本体との接合面に、空気もれを防ぐためのパッキング材が使われていないものにした。完全密閉型とは、ほぼ完全に空気もれを防いでいるエアタイトなシステムをいう。
 ブックシェルフ型に多くみられるロングボイスコイル型と呼ばれる大振幅に耐えられるユニットは、能率の低下を補うために強力な磁気回路をもっている。これらのユニットは小型の密閉型エンクロージュアに入れても十分な低音が再生できるが、ただ、専用ウーファーの大振幅動作時に生ずる強大な音圧に耐えるため、極めて丈夫に作らなければならない。この辺の問題については前項の岡氏の記事に詳しいので参照されるとよい。
密閉型エンクロージュア
 完全なエアタイト型でなく、エンクロージュアの裏板が取り外せるようになっており、一枚の吸音材がエンクロージュアの側面四面と裏板に張られている普通の密閉型エンクロージュア。
完全密閉型エンクロージュア
 エンクロージュアの各面を糊などで固着した後に、バッフル板前面からスピーカーユニットが取りつけられて、ほぼエアタイトな状態にあり、内部が計算などで決められた適量の吸音材で満たされたもの。
■バスレフ型
 バスレフ型エンクロージュアは、密閉型エンクロージュアにスピーカーを取りつける開口以外の低音共振用の筒を取りつけたものである。現在の進歩したスピーカーユニットでは、バスレフ型本来の特徴である低域再生周波数を伸ばすことや低域の歪みの減少などに生かされ、今日のエンクロージュアの標準的なものとなっている。
 この型はスピーカー後面から放射される逆相の音は、中音以上がエンクロージュア内部で衰えて、低音だけが内部の空気のバネと、内部と外気をつなぐダクト内部と付近の空気の質量で位相を反転し、スピーカー前面から直接出る低音を補う動作をする。
 密閉型が低域に向かってゆるやかに下がるレスポンスをもち、かなり低い周波数まで再生できるのに比較して、このバスレフ型では再生可能な最低周波数では劣るが、ある周波数までは、ほぼフラットに再生できる。
Aダクトをもたないバスレフ型
 スピーカーの開口面積に比べて小さい開口の丸孔をもったもので、動作上ではバスレフ型の特徴は少なく、スピーカーコーン紙にかかるエンクロージュア内部の背圧を逃がすための効果の方が大きいとおもわれるが、外観上の点からバスレフ型の分類に加えた。
B角型パイプダクトをもつバスレフ型
 木製の角型パイプダクトをもったエンクロージュアで、最近までは、一般にバスレフ型といえば、ほとんどが、このタイプのエンクロージュアであった。バスレフ型エンクロージュアのスタンダードともいえるタイプ。
Cパイプダクトをもつバスレフ型
 ブックシェルフ型スピーカーではじめて使われたように思われるが、大型スピーカーシステムでは、早くからYLの製品に見られた。合成樹脂製の丸いパイプをダクトに使ったエンクロージュアでバスレフ型としての動作は角型パイプダクトをもつものと同じである。
D複数個のパイプダクトをもつバスレフ型
 二本以上の合成樹脂製のパイプダクトをもつもので、今回のテストで見られたものは同じ寸法のパイプを二本使った製品があった。
 動作は二倍の面積をもったパイプ一本と、ほぼ同じものと思われる。
E複数個のダンプしたパイプダクトをもつバスレフ型
 複数個のパイプダクトをもつタイプと同じことであるが、パイプ内部にダンプ用の吸音材がシリンダーにたいするピストンのようにつめられている密閉型とバスレフ型の中間的動作と思われる。
Fダンプしたパイプダクトをもつバスレフ型
 パイプダクト内壁に吸音材が巻かれてあったがHよりはバスレフ型本来の動作に近いものに思われる。
G ダンプドバスレフ型
 EFがパイプダクト内部に吸音材を使ってダンプしてあるのに比べて、エンクロージュア内部に余分な量の吸音材がつめられているのが異なり、動作は、やはり密閉型とバスレフ型の中間的動作である。
Hドロンコーンをもつバスレフ型
 ダクトでなくボイスコイルと磁気回路を外したスピーカーが代りに取りつけられている一種のバスレフ型である。ダクトをもつものに比べて低域共振周波数付近だけでなくピストン運動の範囲内での改善ができるタイプ。
■後面開放型
 スピーカーのバッフルは、無限大バッフルが理想的だが、よほど条件に恵まれない限り実際に使うことは不可能である。スピーカーの初期には小型の平面バッフルを家庭用などにも使っていたが、次いで平面バッフルの周囲を折り曲げたような形を下後面開放型エンクロージュアが使われ始めた。その形状からくる、強度な共鳴音が固有の低音を作り出す効果がある。
 HIFI用スピーカーシステムとしては、ほとんど使われることがないが、特に超大口径のウーファーとか広い面積の振動板をもつ平面型スピーカーと併用されることがある。
 一般に薄型の製品が多いが、これは奥行きを深くすると後面開放型に独特の特定周波数の低域共振がおこり、低音の品位を悪くするためである。
 今回のテスト機種の中では、特異な振動板をもつヤマハNS15が一機種あったが、本来のブックシェルフ型とは少し異なるものである。

 今回のテストに集められた50機種の分類は上記のように3つのタイプになるが、まだこの他にブックシェルフ型として使うことのできるエンクロージュアがある。これらは以前から小型エンクロージュアで、いかにして十分な低音を再生するかという目的で開発されたものである。
(イ)RJ型エンクロージュア(ワーフデールで製品化したもので、レモン型の開口をもった前面バッフルとその後部にスピーカーユニットをとりつけるバッフルの二重式になったもの)
(ロ)音響迷路型(ラビリンス型)エンクロージュア
(ハ)バックローディング・ホーン型エンクロージュア
(ニ)ディストリビューテッド・ポート型エンクロージュア
(ホ)アコースティック・レジスタンス型(ARU型)エンクロージュア
(ヘ)複合駆動型エンクロージュア(エンクロージュアの実効的容積を増すために、密閉型エンクロージュアの中に、メインスピーカーともう一つのサブスピーカーを取りつけ補助的に駆動する方式)
(ト)複数個の同じ小口径スピーカーを使った密閉型またはバスレフ型エンクロージュア
 ほぼ以上の如くであるが、ここで密閉型エンクロージュアで加えておかなければならないことがある。ARで開発されたアコースティック・サスペンション方式と類似の方式がLPの初期にすでにわが国でも考案されていたことである。
 これはオーディオ歴のあるファンなら誰でも知っていることだろうが、オルソンの「音響工学」の訳者として知られる東京工大の西巻氏が提唱した、「フラフラ型6半」のスピーカーシステムである。
 息を吹きかけるとコーン紙が動くくらいf0を下げた16cm型スピーカーを小型の密閉型エンクロージュアに入れて使う方式で、当時の大口径ウーファーに比較して、軽く伸びのある低音が再生できるため、HiFiファンに当時大いにもてはやされたものである。
 もちろんボイスコイルを巻きなおしてロングボイスにするのが正しい使い方なのだが、一般には従来のままのボイスコイルが使われていた。これを製品化したのが有名なミューズSF6Pという鹿皮エッジの16cmスピーカーである。
 この西巻氏の発想が、実際のエンクロージュアまでを含めた製品に発展することがなく、埋もれてしまったのは、ブックシェルフ全盛のいま、かえすがえすも残念に思われる。

ブラインドテストに立会って
 今回50機種のブックシェルフ型システムのブラインドテストに立会って感じたことだが、この一年余りの期間に国産ブックシェルフのグレードが、かなり向上し、輸入高額品との格差が少なくなってきたことである。
 テストの標準機種にしたAR3aの数分の一の国産製品がおや!! と思わせるくらいの高品位の再生音を聴かせてくれたものもあり、このことは非常に嬉しいことである。中でも、価格的制約の中で、スピーカーメーカーから供給されるユニットを使いながら、かなりグレードの高い製品を送り出しているメーカーの健斗をたたえたい。
 しかし、各氏のブラインドテストの結果では、輸入品が比較的良い点数を得た。選ばれたポイントがどこにあったかということがこの際大きい意味をもつとおもうが、それは、海外製品の安価なシステムでさえ、音楽再生をする上に必要な点をうまくおさえているのを認めないわけにはゆかない。これは、周波数特性だとか、歪特性だとかの物理的なものからさらに上の問題もあろうが、設計製作する彼等の音楽との触れ合いに歴史があること、製品開発のデーターの蓄積の多いことは当然考えられよう。
 加えて海外製品の多くに見られるのは、必要なところにはおしげもなく物量を投じる姿勢である。ユニット一つをみてもそれは立証される。
 海外製品は価格が高いから当然といえばそれまでだが、今後国内メーカーに望みたいことは、高級な海外製品に匹敵するブックシェルフ型を開発してもらいたいことである。そのためには、最初から十分な物量を投じたブックシェルフ専用のユニットから開発し、システムにまとめ上げてもらいたい。例えば日立HS500、あるいはパイオニアCS10に代表される製品の開発である。
 それらの製品が国内に出揃った時にこそ、初めて輸入品にない、本来あるべき日本の音が創り出されるとおもうし、またそれが、音響専門メーカーとしては当然のあり方ではなかろうか。
 従来、とかくブックシェルフ型というと、高級マニアから軽視され勝ちであったが、比較的小さな部屋で使うことの多いわが国の事情では、今後とも、ブックシェルフ型がスピーカーシステムの主流となることは疑う余地はない。

5万円〜6万円クラスのプリメインアンプの印象

瀬川冬樹

ステレオサウンド 3号(1967年6月発行)
「内外アンプ65機種の総試聴記と組合せ」より

 プリメイン型も6万円前後となると、音質の点でも機能や操作のおもしろさの点からも、最高クラスのアンプに非常に接近してくる。たとえば、カートリッジやスピーカーシステムに世界最高水準のものを組み合わせても、アンプの方でそう位負けしないということで、ここから上野アンプの音質の差は非常に微妙なものになってくる。つまりこの辺からが、オーディオアンプとして正統かつ本格的なクラストいうわけだ。

2万円クラスのプリメインアンプの印象

瀬川冬樹

ステレオサウンド 3号(1967年6月発行)
「内外アンプ65機種の総試聴記と組合せ」より

 このクラスにいえることは、三万円台の総合アンプの場合と同様、正面切ってフィデリティを求めないで、ひずみの少ない、おだやかで聴きよいバランスのとれた再生音を狙うべきだということ。
 テストの結果は、四機種とも、表示パワーの割には音量を上げようとするとうるさくなってあまり大きなパワーは出せないことと、低音域の量感にどうしても不足を感じた。この点は総合アンプの三万円グループと同じだが、回路構成は総合アンプより手の込んだものが多くて、やはりプリメイン独立型だけのことはあると思った。
 総じてこのクラスのアンプでは、あまり本格的なスピーカーを組み合わせないで、気軽に、組合せそのものを楽しむべきもののように思う。