良い音とは、良いスピーカーとは?(1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 22号(1972年3月発行)

「原音」とは何か、「原音再生」とは何か
     I
「昨日著名な俳優数人の声を録音したのにひきつづき、蓄音機は今朝カーリッシュ Paul Kalisch =レーマン Lilli Lehmann のコンビの歌を録音した。最初リリー・レーマン夫人が《ノルマ》のアリアを一曲歌った。夫人が歌っているとき、たまたまフランツ皇帝近衛歩兵隊がジーメンス・ハルスケ(※1)とおりを行進し、同軍楽隊のマーチ演奏がレコードのなかへ迷いこむ結果となった。そのあとレーマン夫人とカーリッシュ氏は、《フィデリオ》の二重唱を一曲歌った。(中略)正午に次官ヘルベルト・ビスマルク伯 Graf Herbert Bismarck が姿を現わし、まずヴァンゲマン氏(※2)から装置の説明をくわしくうけられた。御質問ぶりから伯爵が大西洋の彼方のこの不思議についてすでに御存知なことがうかがわれた。伯爵は蓄音機を親しくごらんになって、ひじょうに御満足そうであった。再生音の高低と遅速を随意に変えられることをお聞きになって、にっこり微笑まれ、カリカチュアにとくに威力があるだろう、といわれた。もっと大型の蓄音機も作られているかという伯爵の御質問に、ヴァンゲマン氏はエディソンが大型の装置を一台製作させているむねを申しあげた。伯爵は昨日俳優のクラウスネック Krausneck が録音したモノローグをお聞きになり、『不気味であると同時に滑稽に聞こえる』と感想をのべられた。つづいて音楽のレコードをお聞きになって、『目の見えない人ならさだめし楽団の実演と思うだろう』といわれた。……」
(一八八九年十月二日付《フォス新聞》クルト・リース著『レコードの文化史』佐藤牧夫訳・音楽之友社。傍点瀬川)
 エジソンの円筒蓄音機フォノグラーフが、はじめて海を渡って、ドイツ・ジーメンス社の社長フォンジーメンス邸で公開されたときのもようを報じた記事である。そしてもうひとつの記事。
「この平円盤(グラモフォン)レコード蓄音機は目下エディソンの円筒レコード(フォノグラーフ)蓄音機と地位を争っているが、じつに優秀な性能をもっている。発明者はすでにさらに改良に着手しているが、いまでもエディソンの装置より安価で安定した性能をもっているので、さらに改良されたあかつきにはフォノグラーフと激しい競争をくりひろげよう。グラモフォンは必ずしも雑音なしとしないが、人間の声でも書きの演奏でも、録音された音をりっぱに、忠実に再生する。グラモフォンがとくに成功したのは多声楽曲の再生で、個々の楽器や声の音色がほとんど申し分なく、忠実に再生される。……」
(同じ《フォス新聞》一八九〇年一月。前出書より)
     ※
「実演さながら」「原音を彷彿させる」「まるで目の前で演奏しているよう……」そうした形容は、蓄音機の発明以来ほとんど限りなく使われてきた。それは、新らしい音をはじめて耳にしたひとたちの素朴ななどろきの表現であったと同時に、ひとが録音とその再生というものに求める本質的な願望でもあったに相違ない。それからすでに80年あまりを経て、それはまさに《タンタロスの渇き》であることに人は気づきはじめたのだが、それでもなお、原音の再現というもっとも素朴なそれだけに根本的な欲求にも近いこの幻影を追うことを、おそらく私たちはやめはしないだろうと思う。
 しかしまた「原音再生」というスローガンくらい誤解をまねきやすい言葉もない。古い話は措くとしてLP以後あたりからふりかえってみても、一九四七年から五〇年ごろにかけて、英国のIEE(英国電気学会)とBSRA(英国録音協会)などによって、各方面の音響研究者やエンジニアたちが、活発な討議をくりかえした時期があった。(これら討論会の記録の要点は、昭和26年8月号の「ラジオ技術」および昭和32年発行の同誌増刊第14集などに、北野進氏──当時東京工大講師。現NF回路設計ブロック)によって紹介されている。このとき以来、高忠実度再生 High Fidelity Reproduction ──忠実な再生──に対して、グッドリプロダクション Good Reproduction ──良い音の再生とでもいうべきかという概念(言葉)が作られた。スクロギー M. G. Scroggie の定義によれば、ハイ・フィデリティーとは《原音を聴いたと同じ感覚をよび起すもの》であり、グッドリプロダクションとは《もっとも快い感覚を生ぜしめるもの》だとしている。このことは、《原音》がつねに快い感覚を生じさせるとはかぎらない、という意味でもあるが、これと同じ意味のことを、アメリカのヨゼフ・マーシャル Joseph Marshall は次のように言う。

「──完全な再生及び忠実度と、〝快く、柔らかい〟という形容詞との間に必然的なつながりはない(中略)。高忠実度再生に関連して起る混乱の多くは、音楽についての経験や知識をあまり、あるいは全く持たない人々が、〝気持の良い音がするか、しないか?〟という問いの形で再生の質を判断する傾向があることから生じている──」(J・マーシャル〈音質のよしあしをきめるには〉ラジオ・アンド・テレビジョン・ニューズ日本語版臨時増刊〈これからの電蓄と拡声装置〉昭和26年3月刊より)。
 マーシャルはこれに続けて、音楽はたいてい快いものだけれども、その中の音だけとりだしてみれば、明らかに不快というべき素材としての音はいくらもあり、そういう要素を美化することなく「単にそれを最大の忠実さで再現しようとしているのである」と述べる。もちろんそれは「高忠実度再生が不快なものでなければならぬということを意味するものではない」ので、不愉快きわまりない音のするいわゆる高忠実度再生というのが多くの場合、原音に忠実なためにそう聴こえるのではなく、人間の耳が我慢できる限界以上の多量の不快な要素──たとえば歪──を原音につけ加えているからにすぎない、といい、さらに、〝疲労率〟ということばを使って、
「諸君の音響装置で高忠実度プログラムを5時間か10時間、普通よりもすこし大きめの音量でぶっ続けにかけてみる。その間、諸君やご家族は平常の仕事をしているのである。これでもし諸君やご家族がイライラしたり頭が痛くなったりせずに何時間も休みなしに聴くことができれば、この点(疲労感や苦痛感をともなわないこと)に関しては合格と考えてよい。けれどもまさしく皆がイライラしたり頭痛がしたりするようだったら、また大分してからスイッチを切ってくれと頼むようだったら、さもなければあっさり家から逃げ出してしまうようだったら……それは彼らが人生の美なるものを解さない人間だからでなく、諸君の増幅器の歪が多すぎて、疲労率が高すぎるためである可能性が大きいのである。」(前出書)
 それから10年を経たいま、はたして10時間ぶっ続けに鳴らしても家族が逃げ出さない程度にまで、オーディオ機器の性能が改良されたかどうかについては、いまここではふれずにおく。それよりも大切なことは、当時、高忠実度再生という言葉が、スクロギーたちイギリスの音楽関係者のあいだでもマーシャルらのアメリカのオーディオ技術者のあいだでも、いまよりは比較的厳格に解釈され定義づけられているという点であろう。これはひとつには、これらの論議がもっぱらエンジニアや学者たちによって行なわれたために、しぜんに即物的な方向をとらざるをえなかったという理由によるものだろうし、またもうひとつ、大戦後のあの混乱した時代に、過去のきずなを断ち切って、あらゆる問題を理性的に整理しなおしてみたいと願った人びとのしぜんな欲求のあらわれではないかと思う。当時あらためてとりあげられ論議された、音楽での即物主義、写真や演劇界でのリアリズム論と、無縁のものとはわたくしには思えない。
 そうした開拓期でのある種の潔癖さが、高忠実度再生という目標を厳格に定めたにちがいないが、しかしさらに注目すべきことは、イギリス人は彼等特有の良識を発揮して《グッドリプロダクション》という安息の場を用意したに対し、日本人はあくまでもその潔癖さを押し通す。むろんイギリス人たちも、グッドリプロダクションの定義についてさらに論議をくりかえしたのだが、そこでとりあげられた問題の要点は、原音をことさらに美化したり歪ませたりする人工的手段が、どこまで許されるか、ということだった。これもまた、リアリズムや即物主義の定義やその限界に対する論議によく似ている。たとえば、北野進は前出の「ラ技増刊14集」《HiFiに関する12章》の中で、つぎのように言う。

「もし特性の悪いホールで行なわれた演奏や、ホールまたは伝送線、録音などの欠陥による雑音が混入している音が、理想的なホールで理想的な場所で聴いた音に近い感覚を起させるものになるならば、そのような人工的な変化は許してもよい(もちろん、これは高忠実度の再生ではない)。しかし原音にさらに改善(改悪?)を加え、理想的なホールで理想的な条件で聴いた音以上の快い感覚を生ぜしめるということには賛成できない。なぜなら、これは音響再生の問題でなく、新らしい電気楽器を作るということだからである。」
 むろんこの前提として、北野氏もまたスクロギーと同じ立場から、高忠実度再生について「原音を直接聴いた時と全く同じ感覚を人に与える音」であると定義している。著名な音響学者であるRCAのH・F・オルソンも、《オルソン・アンプ》を有名にした論文の冒頭に、「〝音の高忠実度の再生〟という言葉は、再生された音が実体性あるいは自然さをもっていることを希望しているということを意味している。音を再生するにあたり理想とするところは、もとの音を直接聴いているのと同じ感覚を人に与えるということであって、この理想を実現するためにはバイノーラルやステレオ再生方式のような方法をとることが必要であって……」云々と述べているように(前出RTN増刊)、当時各国の音響学者のあいだでほほ確立された定義と考えることができるのである。
 ともかく、こうした時代の背景の中で、日本人はその潔癖さ故に、人工的に美化した再生音、リアルでない再生音、というものに冷たい態度であった──というよりその方向についてことさらに言及する人のほとんど皆無であった時期に、作曲家黛敏郎の注目すべき発言がある(雑誌「電波とオーディオ」創刊号座談会──昭和30年5月)。
「……蓄音機が商品である以上、いまおっしゃったような線、いってみればリアリズムですね、これはくずせないかもしれない。しかしリアリズムではつまらないんじゃないか。蓄音機でなければできないことを、ねらう努力が、どうしても必要ではないかと思うんです」
 余談になるが、この座談会の司会をしているのが、若き菅野沖彦氏(当時同誌編集部員)らである。故座談会には、ほかにオーディオメーカーのエンジニア、オーディオ・アマチュアらが出席しているが、全体としてはだれもこの発言の重要性にはまだ気づいていない(むろんわたくし自身もそうだった)。黛はさらにいう。
「我々にはハイフィデリティという思想がつまらないですね。」
「蓄音機の発明は、ひとつの新しい楽器の出現である、というふうに考えられます。今迄は、蓄音機のような音を出せる楽器がなかった。だから、その楽器独特の機能を発揮させて今迄できなかった音を、この楽器で作り出してもいいのじゃないか。」
 この発言のなかに、彼が当時凝っていた電子音楽やそのための電子楽器と、蓄音機をわずかながら混同しかけているふしがみえないでもないが、ハイ・フィデリティをリアリズムであるとし、それだけでない方向があるのではないかとした発言は、いまふりかえってみて──当時の背景の中で──ことに興味深い。

     II
 しかし問題はここからである。ハイ・フィデリティの定義については、オルソンをはじめとする学者らの意見を一応受け入れておくとして、北野発言に代表される人工的な音、あるいは黛発言にみられる新らしい音、という方向が、いったいハイ・フィデリティに対してどこがどう異なり、どういう意味を持つのか、について考えてみたい。もういちど北野発言(これは北野個人の発言というよりも、当時の我国のオーディオ技術者や学者の考え方の代表、そして現在でも一部の音楽関係者が信じている意見の代表という意味で引用するのだが)の要点をくりかえすと、原音以上に快い音、原音を聴いた以上の快い感覚を人工的に作り出す、という点に賛成できないというわけである。
 故の考え方についての賛否は措いて、一歩譲って、ここで「原音を聴いたと同じ感覚」と、「原音を聴いた以上に快い感覚」というもののあいだに、考え方や理論上からでなく、実際の音を想定して、果して明確な一線が保てるのかどうかを、まず考えてみたい。
 たとえばピアノが鳴る。ナマのピアノなら、指が鍵盤に触れた音、キイが発するさまざまの打撃音、摩擦音、ペダルをふむ音、ペダルのきしみ、ペダルから離れた足音、椅子のきしみ、衣服の擦れあう音……そうしたさまざまの雑音が、ピアノ自体の音といっしょにきこえてくる。いや、ピアノ自体の音というが、ペダルやキイの発する雑音を取り除いた音がピアノの音、なのか、それらをともなった音がほんとうなのか、そんな定義は誰にもできまい。
 さて、ピアノが演奏される。その演奏されるホールかスタディオかの、広さ、音響特性など千差万別だが、そういう中野どれが「理想的な」ホールなのか。そのどこで聴けば「理想的な」場所なのか。残響の長いのがいいのか、短いのがいいのか……。
 次は録音された音。足音や譜をめくる音まで含めて一切の雑音を、そのまま収録するが仮にハイファイなのだとすれば、そうして雑音を取除き残響をつけ周波数特性を補整して音にみがきをかけ美しくすることが、人工的な方法なのだとすれば、さあいったい、どこまでが「ハイファイ」で、どこからが「人工」なのか。どこからが「原音を聴いた以上に美しい」のか。どこまでなら、その一線スレスレで「原音」なのか……。
 冗舌はもう止めよう。こんな問題は、さきにもたとえに引いた、演奏における即物的解釈、演劇や映画や写真の分野でそれぞれ論じられたリアリズムの問題で、つねにつまづく、最も初歩的な誤解と同質のものなのだ、というだけで十分だろう。要するに現実の世界には、理論や考え方やそれを言いあらわす用語や定義ほどには、明確な境界線というものはないのであって、少なくともそうした現象面から、ものの本質をながめようとすること自体、まちがっているといえるのである。再生音に於ける原音の定義は、もう少し別な角度から、あるいはもっと広い視野から考え、論じなくてはならない時期なのである。
(重ねてお断りしておくが、ずっと引用している北野氏の発言はいまから20年前のものであり、これが現在の時点での氏の御意見では決してないだろうこと。それよりもなお強調したいことは、以上の文は北野個人の発言に対する攻撃では絶対になく、さきにもふれたように、それが当時我国の多くの音響関係者たちの考えの代表であったという意味であり、しかもこうした考え方について、北野氏ほど具体的な発言が、ほかにはあまり見当らないという意味で引用させて頂いたので、当時からずっと北野氏に抱いている尊敬の念は、少しも変るものではないことは申し添えておく。)
 そこで黛発言について考えてみる。「蓄音機でなくては出せない音」という表現についても、二通りの解釈ができる。第一は、いまもふれたような、もともとの原音にみがきをかけ、美化してゆくという方向。たとえばナマより美しく、しかしピアノがピアノ以外の音ではありえないという意味での、素朴な意味での原音の「写し」を越えてはいても、広義では、もともとあるオリジナルを再現するという範囲内での、「蓄音機でなくては出せない」美しい音。第二波(おそらく氏がやや混同しているところの)電気楽器、新たな音の創造、いわば発音源、オシレーター──たとえばモーグのような──としての働き、という二通りの解釈である。
 この後者の、モーグ・サウンド的な、いわば全く新らしい音楽の創造、ということになると、これはもう再生装置の問題という枠の中ではなく、電子音楽と同様に、新らしいカテゴリーのものになるので、この小論では立入ることをしない。わたくしがいま考えたいことは、あくまでも再生装置というものを通して音楽を受けとる場合の、音の理想像を探し求めることであり、そのきっかけとして、原音を再生する、ということばの意味、その定義について、あらためて考え直してみることから始めようと思うのである。

※1ジーメンス・ハルスケ=ドイツの著名な電器メーカー。社長アルノルト・フォン・ジーメンスの夫人の父は、有名な音響学者ヘルムホルツ。最近、ジーメンス名作「クラングフィルム・スピーカー・システム」が入荷したが、これについては山中敬三氏の紹介が次号「海外製品試聴」にのる予定。
※2ヴァンゲマン=エジソンのヨーロッパの総代理人。

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