Category Archives: スピーカーシステム - Page 8

アクースティックラボ Bolero Grande

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 スイスのアクースティックラボから発売されているスピーカーシステム〝ボレロ〟シリーズのトップモデルである。この会社は1984年の創立だからまだ7年目という若い企業である。しかも社長のゲルハルト・シュナイダーは現在25歳というから、驚くべきことに18歳でこの仕事を始めたことになる。実際の製品は1986年から世に出たということだが、それにしても彼が20歳のときである。ベルン州レングナウ村の時計メーカーで働き、生来の音楽好きの性格から収入のほとんどをオーディオに注ぎ込んでいたらしい。時計製造の職人としての修行で精密な手仕事を身につけ、趣味のオーディオ機器の製造業で一本立ちしたというわけだ。彼の処女作〝アルゴン〟という小型システムは日本へは輸入されなかったが、スイスでは高い評価を得て順調なスタートを切った。昨年わが国に輸入された〝ボレロ〟はやはり小型システムであるが、その輝くように緻密でソリッドな音の質感に私は魅せられた記憶がある。ピアノフィニッシュの美しいエンクロージュアに納まった2ウェイシステムで、本誌の90年度コンボーネンツ・オブ・ザ・イヤー賞にノミネートしたが、惜しくも入賞はしなかったものだ。その後、さらに小さい〝ボレロ・ピッコロ〟が輸入されたが、この〝ボレロ・グランデ〟は3ウェイのトールボーイ型の上級機種である。とはいっても、ウーファー口径が125mmだから決して大型システムではない。エンクロージュアはピアノフィニッシュのブラックとブルー、それにウォールナットとオークの4種あり、高剛性の緻密な造りだ。3ウェイとはいえ125mm口径の全帯域的な使い方によるスコーカーが中心であるため、自然な帯域バランスの美しいまとまりを持つ。〝ボレロ〟と共通のジュウェリーでクラルテな響きを持ちながら、無機的な冷たさを感じさせない魅力と高品位なクォリティは、このサイズのシステムとして間違いなく一級品である。

インフィニティ Renaissance 90

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 インフィニティのスピーカーシステムはEMIT、EMIMというトゥイーター、スコーカーを特徴としていて、あの美しい音のニュアンスは、豊かな低域に支えられた、これらの繊細な中・高域によるものである。プレイナー型と呼ばれる平面振動板による放射波は、そのトランジェントのよいメンブレン振動板のもつ軽妙さとともに魅力的な世界をつくっている。しかし、従来このEMIT、EMIMには高入力に対するダイナミックレンジに問題があった。つまり、大入力へのリニアリティの限界が意外に余裕が少なかったため、このユニットを多数使用したIRS−Vはともかく、それ以外のシステムでの中高域のダイナミックレンジに不満がなきにしもあらずであった。〝シズリング〟現象という癖が私には気になっていたのである。それを超えると明らかにクリッピングを起したものだ。
 これが、〝ルネッサンス〟シリーズから改良をうけ、大きく完成度を高めたのだからうれしい限りである。EMIT、EMIMの振動板並びにそのサスペンションが一新されたのである。この新ユニットは今後、すべての機種に使われることになるというから、インフィニティ・スピーカーシステムは一段と価値が上がる。あの繊細な中〜高域の透明感はやや薄らいだものの、新ユニットは十分なリニアリティをもちながら、インフィニティらしさは失ってはいない。天秤にかければ、これは明らかな改良である。こうして〝カッパー〟シリーズの後継機であるこのルネッサンス・シリーズは魅力を増すことになった。低域も従来の方式とは異なり、いわゆるワトキンス方式と呼ばれるデュアルボイスコイルによる新ユニットを採用し、エンクロージュア構造やデザインも一新されていて注目の新製品だ。姿態も美しく節度のあるトールボーイのファニチュア調に仕上げられていて、広い層に受け入れられるシステムであろう。

ソナス・ファベール Electa Amator

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 イタリアはヴィツェンツァの小さなメーカーで生産されるこのスピーカーは、まずその美しいエンクロージュアの造形と仕上げの魅力に惹かれるだろう。立体的でセクシーな造形は、いかにもイタリア的だ。ユニットのフレームがエンクロージュアの幅一杯に出ているが、これがこの造形の肉感的な魅力のポイントであると同時に、音響的にディフラクションを嫌った必然的形態であることに納得させられる。バッフル効果を避けた設計思想である。そして、そのウーファーのフレームが、トゥイーターのフロントパネルの下側へ深く食い込んでいるところも見逃せない。設計者はウーファーとトゥイーターをできる限り近づけたかったのに違いない。執念の現われである。かくしてこの製品は、見る人に強くアピールするオーラを獲得することになった。創る人の情熱が入魂の製品となったのである。そしてまた、その専用の木石台の味わいはどうだろう。画のキャンバスを置くイーゼルを彷彿とさせる木工の雰囲気がなんとも味がある。これだけ見た目に美しいたたずまいをもったスピーカーが悪い音を出すわけがない……と思いたくなるのだが、はたしてこのスピーカーの音がセクシーなのである。硬さや冷たさからはほど遠く、暖かく、時として熱く、流れるように歌い、小柄な体躯からは想像できない肉づきの豊かさで反応し歌い上げるのである。その外観のように豊かな凹凸と起伏の弾力感を感じるリズムの躍動がある。いつか、このスピーカーシステムを手に入れたいと思わせるに十分なセックスアピールをもっている。エスプレッシーボでアマービレなのである。2ウェイ2ユニット構成でウーファー口径は18cm、トゥイーターは2・8cm口径のドーム型だ。アッセンブルメーカーとして他社のユニット供給を受けても、これだけ自家薬籠中のものとして使いこなせば見事なものである。車好きな往年のアバルトを想起するかも……。

B&O Beolab Penta2

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 デンマークのB&Oはユニークなオーディオシステムを作るメーカーだ。まず、その斬新なデザインのオリジナリティが一貫してB&Oのフィロソフィとなっていることが特徴だが、一流品とはこういうものだろう。B&Oのデザインは、デニッシュ・デザインの個性が横溢していて明確なアイデンティティとなっている。次に、機能の充実に先端技術が生かされていることだ。ホームエンターテインメントシステムとしての集中的なリモートコントロール機能と、インストレーションとしてのスペース・ユーティリティを製品設計のプライオリティに置いている。とかくこうした製品は、内容が適当に妥協されたものが多いのだが、同社のオーディオ開発陣の音質へのこだわりは相当なものである。大艦巨砲型のコンポーネントではないから、音質重視設計としては限定されている。小さく薄く作らなければならない……といった枠はあるだろう。しかし、そうした条件をマイナスとして良い加減の妥協をしないところがB&Oの特質である。むしろ、それをテンションとプレッシャーとして技術的な努力をするのである。その好例がこのスピーカーシステムだ。3ウェイ9ユニットの仮想同軸型システムで、五角形の柱型である。底部に175Wのパワーアンプが内蔵される。ソフトクリッピング回路つきのこのアンプで駆動される音質は実に耳当りのよいもので、仮想同軸効果で床や天井の影響が少なく、設置の自由度が大きい。そして水平方向のディスパージョンが拡がり、ステレオフォニックな空間感が豊かである。ウーファーが13cm口径という小口径であるため、弾みのよい音が得られるし、正五角柱のエンクロージュアは定在波が立ちにくく素直で豊かな響きである。パワーアンプなしがベオヴォックス・ペンタだが、ベオラブ・ペンタの方が完成度としては高いし、製品として魅力的だ。センスのよいホーム・スピーカーシステムの一級品だ。

タンノイ System 215

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 タンノイのデュアルコンセントリックというユニットは、その同軸型2ウェイという構造のために、音像定位や位相再現の忠実度が高く、モニタースピーカーとして適している。一方において、イギリスらしい趣味性の発現性が強いタンノイ製品だが、同時にモニターシステムの開発も常に見られた姿勢である。1990年にはそのモニターシステム・シリーズを大々的にスタートし、デュアルコンセントリックユニットの基本構造を新しくリファインしてモニター用のユニットとしたことが注目される。
 最大の変更は、デュアルコンセントリックが一つの磁気回路をウーファーとトゥイーターに共有させていたものを、それぞれ独立した磁気回路としたことである。磁気回路としてより余裕のあるものになったといえるだろう。このシステム215は、そのモニター・シリーズ中のトップモデルであって、15インチ口径のコアキシャルユニットと、同口径のウーファーユニットを併せもっている。タンノイでは、このモニター・シリーズの登場を機会に、今までのクラシックな木工家具調のシリーズをプレスティージ・シリーズと呼び、二つのシリーズのコンセプトの違いを表明した。モニター・シリーズはよりシンプルなバスレフ型のエンクロージュアをもち、ノンカラレーション思想を前面に打ち出している。しかし、受取り側としては、やはりタンノイはタンノイであって、その音の充実感や造形感の確かさには共通性を感じることができる。エンクロージュアがホーンとなると、それに独特の雰囲気がついて響きに個性が出るわけだが、このシリーズではそれを意識的に避けている。デザインもより現代的にすっきりとしていて、どちらかというとドライでクールだが、さすがにタンノイらしく美しい。家庭でもモダンなインテリアとマッチするだろう。音と外観に共通性を感じさせるのはさすがに世界の一流品、タンノイのトップモデルだ。

ソナス・ファベール Extrema

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 スピーカーのエンクロージュアとして理にかなった音響設計の必然性と美しい木製工芸の接点を求め新しいフォルムの創造に成功したイタリアのソナスファーベル社の作品は今、注目に催する。
 スピーカーエンクロージュアの造形としてこれほど刺激的なショックを与えてくれた製品は珍しいし、その小型重厚なオブジェの印象が見事に音とも一致していることで、処女作〝エレクタ・アマトール〟がわが国でも高い評価を得たのは当然である。次いで、その妹の〝ミニマ〟が誕生し、今度、姉の〝エクストリーマ〟が生まれた。
〝エクストリーマ〟は、上級モデルにふさわしく、さらに重厚で立体的、彫琢の深い造形のオブジェが迫力をもち、むしろ男性的であって、兄貴分といったほうがよいかもしれない。その筋肉質な肉体美を感じさせるエンクロージュア・ボディの凹凸と起伏豊かな力感の漲る質感はマスキュリン・ビューティと呼ぶのにふさわしい。
 19cmウーファーと2・8cmトゥイーターの2ウェイに平板のパッシヴラジエーターというユニット構成からして、決して大型システムと一般に呼べるものではないが、その力強いイメージは並の大型システムをはるかに超えるインパクトの強いものである。27×46×55cmというエンクロージュアサイズを超える存在感なのだ。そして、この大きさで重量は40kg。さもありなん、と思わせる高密度で高品位な造りであり、仕上げの高さである。一目見ただけで、そうした内容の濃密さが表現されているのは高級品と一流品の条件を完全に満たすものである。
 このエクストリーマの音は、エレクタ・アマトールからすると厳格で客観的だ。その名称からしてもソナスファーベルとしては頂点を志向した製品であるだけに情緒に溺れていないのである。それでいて、冷たくはなく、硬質でもなく、音楽の美しさを響かせるところが見事なのだ。

ダイヤトーン DS-V9000

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 ダイヤトーンは日本のスピーカーの代表といってよい。三菱電機という大電機メーカーが、スピーカーシステムという分野にここまで根を下ろしたことは興味深い。電気製品の中では最もソフト要素の強い、今流行の言葉でいえばファジーでありニューロなものだし、サウンドという嗜好性の強い趣味的な世界は、このような電機メーカーにとって扱い難い分野である。NHKのモニタースピーカーを戦後間もなく開発したのが縁でダイヤトーンは今やスピーカーでは名門になってしまった。技術志向が必ずしも音のよいスピーカーに連らないこの世界で、ダイヤトーンは技術とヒューマニティのバランスを真面目に追求してきたメーカーだ。高級な大型システムの開発を常に中心においてスピーカー作りを進めてきている努力が、ダイヤトーンを国産スピーカーメーカーNo.1の地位を得さしめたのだ。その一つの項点が、このDS−V9000というモデルである。無共振思想、剛性第一主義を貫きながら、適度に柔軟な姿勢で戸惑いながらも妥協点を求める以外にスピーカーとしての完成度は得られないように思えるが、ダイヤトーンは一見、技術一点張りに見えながら、この術を心得てもいる。このバランスを保つことがいかにむずかしいか、DS−V9000はその困難を克服した現時点での成果であると思えるのだ。これをダイヤトーンはハイブリダート・シリーズと呼ぶ。高剛性と最適内部損失の調和である。トゥイーターとミッドハイに使われているB4Cという素材が現在のダイヤトーンのアイデンティティ。確かにB4Cドームユニットはレスポンスの鋭敏さにもかかわらず、音に硬質な嫌味がなく品位の高い再生音が得られる。コーンは同社得意の高剛性ハニカム構造材である。長年の使いこなしにより、この材料も使い方がこなれてきた。曖昧さのない造形の確かな再生音は立派である。味とか風格といった個性の魅力とは違うところにダイヤトーンはある。

マッキントッシュ XRT22S, XRT18S

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 マッキントッシュはアンプの専門メーカーであるため、スピーカーシステムはまだ十分認識されていないように感じられる。このXRTシリーズではXRT20を第一世代として登場したもので、現役製品は22Sがトップモデルで、18Sがそのジュニアモデルである。しかし、18には22と違って、ウーファー、スコーカー、トゥイーターが縦一列に並ぶというメリットもあって単なる普及モデルとして把えられない魅力も存在する。ともあれこのXRTシリーズは、同社が2チャンネルステレオの完全な立体感の再生を目指して実に20年以上の開発期間の末に製品化したもので、そこには数々のユニークで新しい発想による技術が盛り込まれている。歪みの少ない、位相特性の素直なタイムアラインメントの施されたこのシステムの音場感の豊かさと、素直な質感のよさは特筆に値するものだ。アンプメーカーらしい技術の追求によって生まれた理論追求型の製品だが、数あるスピーカー中でアコースティックな魅力を最大限に聴かせるものだといえるだろう。しかも、MQ107というイコライザーのコントロールで、部屋の特性への対応はもちろん、ユーザーの好みへの対応の可能性ももっているのが特徴である。入念に調整されたXRTスピーカーの音はすべての人を説得する普遍性をもっているものだと思うし、手がけると実に奥が深い。
 XRT22Sは3ウェイ26ユニットから成るが、トゥイーター・コラムによる半円筒状の放射パターンにより豊かなステレオ空間が得られる。XRT18の方は3ウェイ18ユニットで、トゥイーター・コラムがスコーカーとウーファーの真上に配置できるのがメリット。XRT22Sのリニアリティの高さは特筆に値するもので、大型のホーンシステムに匹敵する大音量再生から、小レベルの繊細な再生までをカバーする。XRT18は大音量で一ランク下がるが、一般家庭では余りあるもの。

オンキョー Grand Scepter GS-1

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 オンキョーはスピーカー専門メーカーとして誕生した会社である。今は総合的にオーディオ製品を手がけているが、第2次大戦後間もなくの頃、オンキョーのスピーカーユニットに憧れた記憶がある。そうした体質を今でもオンキョーはもっていて、スピーカーユニットの生産量は世界で一、二を争うはずである。そのオンキョーが、売れ筋のコンポーネントシステムだけを作ることに飽き足らず、研究所レベルの仕事として取り組み開発したのが、この〝GS1〟である。1984年発売だからすでに7年を経過しているが、先頃フランスのジョセフ・レオン賞を受賞した。この賞はフランスのハイファイ協会会長によって主催されるオーディオ賞の一つだそうで、GS1の優れた技術に与えられた。このスピーカーシステムは、2ウェイ3ユニット構成のオールホーン型で、スピーカー研究の歴史に記録されるべき銘器であると私も思う。特にコンプレッションドライバーに必要不可欠のホーンの設計製造技術は、従来のホーンの解析では果せなかった新しい視点と成果を満たらせたものである。製品としては使い勝手の点などでむずかしさを残しているが、オプティマム・コントロールを条件としたこのシステムの音の純度の高さは類例のないものといってよいだろう。ワイドレンジ化や高能率化が犠牲になっていることは認めざるを得ないものだが、それでさえ、これだけ純度の高い音が得られるなら、不満にはならないレベルは達成している。いかにも日本製品らしい細部の入念な解析技術が素晴らしいのである。そのために、音楽の情緒を重視するとあまりにストレートであるから、よほど録音がよくないと不満が生じるかもしれない。しかし作りの緻密さといい、強い信念に基づく存在感の大きさといい、今後も長く存在し続け、さらにリファインされて常に同社のフラグシップモデルであり続けて欲しい魅力ある作品だと思うのである。

JBL DD55000

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 アメリカのJBLといえば、オーディオに関心のある人で知らない人はいない代表的なメーカーだ。ジェイムス・B・ランシングという創業者がこのメーカーを設立したのは、プロ用スピーカーの技術の水準を使って、家庭用の優れたシステムを作りたいという欲求からであったと伝えられている。それまでアルテック・ランシングというプロ用のスピーカーメーカーで仕事をしていたランシング氏は、独立して、より緻密で精度の高いプレシジョン・ドライバーと美しいエンクロージュアの組合せを夢見たのであろう。以来半世紀、ランシング氏亡き後、JBLは数々の銘器と呼ばれるにふさわしい製品を生んできた。ハーツフィールド、パラゴン、オリンパスなど、美しい家庭用の高級システムは今でも大切に使われている現役の高級機である。そして、70年代からプロ用のモニターシステムの領域に踏み込んだJBLは、4300シリーズで人気を得て、わが国においてもブームをつくつた。そのシャープな輪郭の音像の精緻さと、ワイドレンジのさわやかさ、強烈なパルスへの安定したレスポンスとリニアリティという、物理特性の高い水準に裏付けられたスマートで恰好いい鳴りっぷり、鋭敏な感覚による他のコンポーネントとの組合せの明確なレスポンスがオーディオの趣味性にピッタリであった。
 4343、4344を筆頭とする4300シリーズ全盛のディケイドの跡を継いだのがこのDD55000〝エベレスト〟である。完全にコントロールされた指向性をもつ大型ホーンが特徴で、このシステムは家庭用の最高級機としてリスニングエリアの拡大を狙ったものだ。JBLらしい精緻なピントの定まった音像定位と空間性を複数のリスナーに同時に伝えられることがこのシステムの特徴である。3ウェイ3ユニットの本格的コンプレッションドライバーシステムとして、鮮やかで緻密な再生音が他の追従を許さない次元の高さを可能にする。

タンノイ Westminster Royal

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 イギリス(スコットランドに工場がある)のタンノイといえば、オーディオに興味のある人で知らない人はいないであろう。特にわが国では、タンノイは神格化されているほど、絶大な存在感をもって信奉されている。それはこのメーカーの長い歴史と伝統、つまり、半世紀以上の社歴と、その間に一貫して守られてきた設計思想や製品作りの基本理念に対するもので、一朝一夕に築かれたものではない。長い歴史の中には、いろいろ困難な時代もあったし、製品にそれが反映したこともある。しかし、常に保ち続けてきた精神は、温故知新と自社の技術への信念に満ち溢れていた。そして、イギリスという国の持っている趣味性への価値観も見逃せない。イギリス趣味は基本的には合理的であり、貴族趣味と大衆性との間に明確なカーストのようなものが存在する。オーディオ趣味が大衆化するにつれ、イギリスのオーディオ製品にも、小さくて安価な大衆趣味製品が増えてきた。現代のイギリス製オーディオ機器の大半はそうした製品といってよい。しかし、その中にあって、この製品のような堂々たる風格をもつものを作り続けてきたからこそタンノイの存在は、ますます尊敬されることになる。
 内蔵するユニットは、有名なデュアル・コンセントリック・システムという15インチ口径の同軸2ウェイで、基本的に1940年代の設計から脈々と継承されてきたものだ。
 そして、そのエンクロージュアも、フロントロードのショートホーンとバックローデッドホーンのコンパウンドシステムという伝統的なもので、これはオートグラフと呼ばれた50年代のプレスティッジモデルで採用された方式。
 細部はその時代時代の技術でリファインされ続けているが、この製品は1989年に発売されたもの。そろそろ、新ユニットに代わるかもしれないが、そうなっても旧作としての価値が失われないのがタンノイの凄いところである。

ヤマハ GF-1

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 スピーカーシステム篇」より

 ヤマハがスピーカー技術のすべてをかけて製造する文字通りのプレスティージモデルといえるスピーカーシステムである。低域には同社の独自の技術であるYST方式という特殊な低音再生方式を採用しているところが大きな特徴である。負性インピーダンス駆動方式と呼ばれるもので、専用の回路を必要とするが、このシステムでは4ウェイ4ユニットのすべてを、それぞれ独立した専用アンプで駆動するというマルチアンプ方式として発展させたことも特筆に値する点だ。
 スピーカーシステムとしてこのアンプ内蔵方式は、理想の方式として従来から高級機には見られたものだが、ここまで徹底した製品は珍しい。W71×H140×D63cmという大型エンクロージュアは重量が150kgに及ぶ。下から30cm、27cm口径のコーンユニット、そしてドームユニットはスコーカーが88φ、トゥイーターが30φという4ユニット4ウェイ構成を採っていて、ボトムエンドの30cm口径ウーファーがYST駆動である。つまり、いわばこれがサブウーファーで、その上に3ウェイ構成がのると見るのが妥当かもしれない。サブウーファーは60Hz以下を受け持ち、ウーファーとスコーカー間は600Hz、スコーカー/トゥイーター間は4kHzのクロスオーバー周波数だ。この周波数に固定された専用のチャンネルディヴァイダーを持っている。ユニットの振動板材料は、このシステムの開発時にヤマハが理想とするものを使ったわけで、コーン材はケブラー繊維に金蒸着を施したもの。ドーム材はヤマハが従来から使い続けているペリリウムをさらに薄く軽くして結晶の均一化を果した。これも金蒸着によりダンプしている。豊かな潤いのある艶っぼい質感とワイドレンジのスケールの大きさは見事なものである。ペアで500万円という価格だが、当然少量生産だし、これだけの力作なら納得できるのではないだろうか。音楽産業メーカー〝ヤマハ〟らしい製品だ。

アクースティックラボ Bolero Grande, Bolero Piccolo

井上卓也

ステレオサウンド 100号(1991年9月発行)
「注目の新製品を聴く」より

 スイスのアクースティックラボのスピーカーシステムは、昨年に輸入されたボレロがわが国における第一弾製品であったが、発売されるとともに、その精緻な仕上げと美しく機能的なデザインをはじめ、透明感のある美しく、音楽的に優れた音により、一躍注目を集めたことは記憶に新しい。今回、そのボレロのジュニアモデルとして開発された、小型2ウェイシステム、ボレロピッコロと、ボレロの高級モデルに当たり、従来からヨーロッパでは発売されていたスリムなトールボーイ型フロアーシステム、ボレログランデに改良を加えた新ボレログランデの2モデルが新たに輸入販売されることになった。
 ボレロピッコロは、開発の初期構想では、エンクロージュアの仕上げを簡略化した、ごくふつうの小型ブックシェルフ型システムであったが、輸入元のアブサートロンの要請により、エンクロージュア竹上げはボレロと同じくピアノブラックと、非常にユニークで、インテリアとしても大変に興味深いエラブルブルーの2種類の塗装仕上げ、そしてウォールナットとオークのツキ板仕上げの計4種類のヴァリエーションモデルが用意されることになった。これらすべてのモデルは、視覚的にも楽しいばかりでなく、音響的にも優れた音質をもつシステムとして完成されている。
 ユニット構成は、12・5cmウーファーと1・9cmポリアミドドーム型の2ウェイ方式であり、エンクロージュアは、ボレロ同様に、バスレフ型を採用しているが、ポート形状は、ボレロがエンクロージュア底板を使った横幅の広いスリット型であったが、本機では一般的な紙パイプを使うコンベンショナルな設計に変っている。
 低域ユニットは、ボレロと同じく、フランスのフォーカル社製で、特徴のあるコーン表面のドープ材の処理方法で、一見してフォーカル製と識別できるユニットである。ただし、ボレロではダブルボイスコイルを使い、小型システムながら豊かな低域再生を可能とする、インフィニティのワトキンスボイスコイルに相当する設計であったが、本機は一般的なボイスコイルを採用したタイプとなっている。
 高域ユニットは、デンマークのユニットメーカーとして定評の高いヴィーファ社製ポリアミドドーム型で、磁気回路のギャップは、磁性流体で満たされ、ダンピングと冷却を兼ねた欧州系ユニットで常用される設計である。なお、磁気回路は非防磁型であり、スピーカー端子は2端子型の標準タイプである。
 ボレログランデは、既発売のボレロに、サブウーファーを加えた設計のスリムなトールボーイ型のフロアー型システムである。エンクロージュアは、ボレロとは異なった円形開口部をもつバスレフ型であるが、内部構造は、中間に隔壁を設け2分割されており、ミッドバスユニットと思われる中域ユニットとサブウーファーは、それぞれに専用の独立したキャビティをもっている。
 エンクロージュア材料は、欧州系スピーカーシステムで常用のMDF(ミディアム・デンシティ・ファイバー)が採用されているが、この材料は、微粒子状に砕いた木粉を固めて作ったもので、剛性はチップボードに比べて高いが、振動率としては共振のQが高く、エンクロージュアに採用する場合には、この材料独自の使いこなしが必要と思われ、各社各様の手法を見ることができ大変に興味深いものである。なお、エンクロージュア仕上げは、ボレロ、ボレロピッコロと同様に、4種類が選択可能であるが、ちなみにヨーロッパ仕様にはより豊富なヴァリエーションモデルがある。
 使用ユニットは、ボレロと同じく、すべてフランスのフォーカル社製で、低域と中域は同じネオフレックスコーンと米デュポン社で開発され、耐熱性材料として定評の高いノーメックスをボイスコイルボビンとし、これに、2組のボイスコイルを巻いたボレロ用ユニットと同様なコーン型ユニットである。旧ボレログランデは低域ユニットと中域ユニットには異なった仕様のユニットが採用されていた。
 高域ユニットは、表面をコーティング材で処理をしたチタン製逆ドーム型で、このユニットもフォーカル社を代表する個性的な音質の優れたユニットである。
 グランデは、高級モデルであるだけに使用部品は厳選されており、ユニットもペア選別で管理され、ステレオペアとして左右が揃うようにコントロールされている。
 ボレロピッコロは、繊細で分解能が高く爽やかで反応の速い音だ。低音感も十分にあり、程よく可愛く吹き抜けるような伸びやかな音は質的にも高く、この音は聴いていて実に楽しい。
 グランデは、さすがに大人の音で、ゆったりと豊かに響き溶け合う、プレゼンスの良さが見事だ。聴き手を引き込むような一種ソフィスティケートされた音は実に魅力的といえる。

チャリオ Academy 1

菅野沖彦

ステレオサウンド 100号(1991年9月発行)
「注目の新製品を聴く」より

 チャリオはイタリアのスピーカーシステムである。ハイパーシリーズというシステムに代って登場した新製品がこのアカデミーシリーズで、第1号の本機をアカデミー1と呼ぶ。13cm口径のネオフレックスメンブレムと称する材料を使ったコーン型ウーファーは、フランスのフォーカル社製。そして、ソフトドームトゥイーターはデンマークのスキャンスピーク社製である。この2つのユニットを1、850Hz(−24dB)でクロスさせた2ウェイシステムで、インピーダンスは8?、能率は約82dBとなっている。
 まとまりは大変美しく、ソリッドな質感の締まった中低域に支えられた、ややエッジーで緻密な高域は解像力が高く清々しい。クロスオーバーが低いのでトゥイーターの受けもつ周波数帯域がかなり広いのが特徴で、これは指向性が広く豊かな音場感の再現に、そして空間感の広がりに寄与しているものだと思う。極端に演出をしないで小型ユニットのよさを活かしたシステムだと思う。
 ソリッドな剛性の高いエンクロージュアは見事な木工製品といえるものであるが、すでにわが国に3年前から輸入されている同じイタリアのスピーカーシステムであるソナースファベル/エレクタアマトールとミニマに似ている。これほど似ているのは偶然のはずはなく、どちらもイタリア製なので、両者の間にどういう関係があるのか興味が湧く。ラウンドエッジでユニットの放射波の回折効果を避ける音響コンセプトが共通だからといって、この造形の類似は不思議である。チャリオの旧製品ハイパーXもフィニッシュに共通の性格は感じられたが、木地に近い白いフィニッシュと全体によりプレインな箱型であったため、ソナースファベルの凸凹の付いた彫琢の深い造形とは自ら趣を異にするものだった。しかし、このアカデミー1は、造形的にもかなり近いものになっていて気になるのである。同じイタリアだから両者間の話合いはついているのだろうが、日本ではエレクタアマトールが3年先に売られているから、あれがオリジナルであると考えられるのが当然だ。しかし、このアカデミー1のバックプレイトには、アートディレクターにミケランジェロ・ダ・ラ・フォンタナという名前がエンジニアのマリオ・ムラーチェと共に明記されていて、この造形が個人の著作であることを表明している。非常に美しく、ユニークなデザインと工芸的作品であることがこの両者に共通した魅力になっているだけに、強い関心が生まれる。
 専用台での試聴はできなかったが、台による低音の変化がかなりはっきりでるので注意したい。やや壁面に近づけたほうが低域のバランスがとれて安定した音になる。先述の通り、豊かな音場感は本機の特質の一つであって、空間感を生かしたステレオフォニックなソースに真価が発揮される。

RCF MYTHO 3

井上卓也

ステレオサウンド 100号(1991年9月発行)
「注目の新製品を聴く」より

 イタリアのスピーカーシステムがこのところ注目を集めエポックメイキングな存在となっているが、今回、成川商会により輸入されることになったRCF社のコンシュマーモデルMYTHO(ミッソ)3は、業務用音響機器メーカーで開発されたシステムという意味で注目したい製品である。
 RCF SpA社は、イタリア中部ReggigoOEmiliaで1984年に設立された業務用音響機器メーカーで、本社は、6000㎡の敷地内に工場をもち、ホーン型を含む業務用スピーカー、PA/SRスピーカー、HiFiスピーカー、カーオーディオ、およびスクリーンとプロジェクターを生産する計5セクションの部門をもち、英、仏にもプラントをもつヨーロッパ最大規模のメーカーである、とのことだ。
 MYTHO3は、繊維の粗いカーボン織りの楕円型ウーファーとチタンドーム型トゥイーターを組み合せた、スリムなプロポーションの2ウェイフロアー型だ。
 エンクロージュアは、バッフル面の横幅を限界に抑え、奥行きを十分にとった独自の設計に特徴がある。楕円形のウーファー採用もこの目的のためであり、同社の主任技師G・ジャンカーロ氏の構想に基づいたヴァーチカル・オリエンテッド方式である。外観からはわからないが、エンクロージュア内部は、ウーファー下側でキャビティが2分割されており、この隔壁部分にウーファー同様の振動系をもつ楕円型ドロンコーンユニットが取り付けてあり、下側キャビティには、さらに2本のバスレフ用パイプダクトをもつユニークな構成が、このシステムの最大の特徴である。これはバンドパス・ノンシンメトリック方式と名付けられたエンクロージュアである。2つの共鳴系をもつため、チューンにもよるが、2個所にインピーダンス上のディップがあるため、アンプからのパワーを受けると低域の再生能力が通常より向上する。このようにドロンコーンとパイプダクトという異なった共鳴系のチューンをスタガーした意味が、この方式の名称の由来である。
 この種の構想は、ドロンコーンを一般的なアクティヴ型ユニットとしたものや、隔壁部分にさらにパイプダクトを付けたものなど各種のヴァリエーションが考えられている。この種のパテントも出ているが、要するにダクト部分からの不要輻射が少なく、バンドパス特性が実現でき、超低域をカットし、聴感上での豊かな低音感が得られる点がメリットと思われる。
 エンクロージュア材料は、最近よく使われるメダイト製で、脚部は金属製スパイクが付属し、高域には保護回路を備えている。
 MYTHO3は、間接音成分がタップリとした、濃やかで、柔らかく、しなやかな表情の音だ。低域は少し軟調傾向があるが、高レベルから低レベルにかけてのグラデーションは豊かで、そのしなやかな音はかなり魅力的といえる。

インフィニティ Renaissance 80

井上卓也

ステレオサウンド 100号(1991年9月発行)
「注目の新製品を聴く」より

 かねてからインフィニティのカッパシリーズの改良モデルの開発が行なわれているとの噂があったが、今回、インフィニティの23年にわたるスピーカー開発の技術とノウハウを活かしスピーカーのルネッサンスの意味をこめて、ルネッサンスシリーズの新名称が与えられた3ウェイシステム/ルネッサンス80と4ウェイシステム/ルネッサンス90の2モデルが発売された。
 試聴モデルは、ルネッサンス80であるが、このシステムは、独自の射出成型法によるIMGの20cm口径ウーファーをベースに、インフィニティならではのダイナミック平面振動板を採用したEMI型を中域と高域に採用したトールボーイフロアー型システムだ。
 新シリーズは従来のカッパシリーズに比べ、〝スピーカーの永遠の理想像である小型システムながら如何に伸びやかな低音再生ができるか〟を開発テーマとしているため、かなりスリムで、スペースファクターに優れたコンパクトなシステムにまとめられている。
 低域ユニットは、直径方向に射出成型の独自のシマ模様のあるわずかにカーヴ形状をしたコーンを採用しており、同社のモジュラスに低域で初採用されたメタル系材料による凹型のコンケーブキャップに特徴が見受けられる。
 中域と高域ユニットは、完全に設計が一新された新ユニットであり、この辺りも〝ルネッサンス〟の意味合いが込められた、新世代のEMI型として注目したい。中域ユニットは外観上からも従来ユニットとの違いが明瞭に識別でき、その進歩の様が見られる。
 磁気プレート面の長方形スリットは、コーナーが丸い長楕円形になり、プレート前面にあった成型品フランジが省かれ、プレートは直接エンクロージュアに取付け可能となった。こうした取付け方法の改善と振動板材料の向上により、テンションが均等化され、いわゆるシワが皆無となり精度が大幅にアップしていろ点は見逃せない。
 高域は基本構造は中域に準じるが、磁気プレート上のスリット配列は変った。これはおそらく従来型の水平に広く、垂直に狭い指向性を均等化する目的の改良であろう。
 ネットワークは、低域ユニットに同社独自の開発で低域再生能力を向上させるダブルボイスコイルによるワトキンス型を復活させた。これにより従来のLCチューンによるインピーダンスの落込みがなく、アンプにとっては駆動しやすくなったが、低域をコントロールしなくてはならないためLC素子は物量が必要だ。
 変形6角断面のエンクロージュアは、後部脚でバッフル面角度が変る3点接地型が新採用された。また、中域バックチャンバー開口部が背面に音響抵抗をかけて開口している点が新しい。
 本機はEMI型ユニットの改良により平面型独特のキャラクターは完全に抑えられ、非常に精度感の高い反応の速い音と見事なプレゼンスを楽しむことができる。

JMラボ Utopia

井上卓也

ステレオサウンド 99号(1991年6月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 このところヨーロッパ系のスピーカーシステムで、フランスのフォーカル社のユニットを採用したモデルが数多く見受けられるようになっている。ゴールドムンドのスーパーダイアローグやアクースティックラボのボレロなどがその例である。フォーカル社は1980年にフランスのサンテチエンヌ市に、現在もオーナーであるジャック・マエール氏が2人のメンバーと創立した会社であり、現在は75名の人員を擁するフランス最大のユニットメーカーである。
 現在フォーカル社は、車載用や他社に供給するユニットを「フォーカル」のブランドで、また、1985年頃よりスタートしたスピーカーシステムを「JMラボ」のブランドとして生産をしているという。
 JMラボのスピーカーシステムは、現在15モデルがラインナップされており、フランス国内の市場専有率では、ボーズ、JMラボ、キャバスの順位でナンバー2の位置にある。今回輸入されたユートピアは、JMラボのトップレンジのモデルで、今年の初めにラスベガスのウィンターCES(コンシュマー・エレクトロニクス・ショウ)の会場で発表された最新作である。
 JMラボのシステムは、数年前に独特のダブルボイスコイルを採用したウーファーにトゥイーターを組み合せた小型システムがサンプルとして輸入されたことがあるが、正式に製品が発売されるのは今回が初めてのことである。
 ユートピアは、海外製品としては比較的に珍しい、いわゆるハイテク材料を振動板に全面的に採用したシステムである。
 低域と2個並列動作で使われている中低域ユニットは、振動板材料に、フォーカル社が世界的に特許をもつといわれている発泡樹脂の両面にケブラー(アラミッド)シートをサンドイッチ構造とした、3層構造のポリケブラー振動板を採用している。このポリケブラーコーンは軽く、剛性が高く、適度な内部損失をもつ理想的な振動板であり、実際にユートピアの低域ユニットに触れてみれば、実感としてこの特徴が理解できるだろう。
 基本的なシステムの構成は、高域ユニットの上下に2個の低域ユニットを振り分けた仮想同軸型のシステムに、サブウーファーを加えてフロアー型とした設計である。このモデルで重要なポイントは、サブウーファーユニットの特殊な発想であろう。磁気回路は、一般的なフェライト磁石を採用した外磁型であるが、その後側に独立したもう一つのボイスコイルを備えた磁気回路がリジッドに取り付けてある。この後部磁気回路に取り付けてあるボイスコイルは、前後2重ダンパーで支持されているが、振動板としてのコーンはなく、コーンと同様の質量のバランスウェイトをもっており、この振動系は、ボイスコイルの延長方向に丸孔が開けられたハウジング内に納まっている。この独特な機構は、一般のユニットではボイスコイルを駆動する反動がスピーカーフレームを通り、エンクロージュアを駆動することになるが、この反動を機械的に打ち消すために、アクティヴなボイスコルと等価的に等しい振動系をもつ後部磁気回路を使うという設計で、これはMVF(メカニカル・ヴァイブレーション・フリー)方式と名付けられている。
 これにより、フレームやエンクロージュアの不要共振は相殺され、混濁感のない純度の高い再生音が得られることになるというが、この部分でウーファー同様のエネルギーが消耗し能率は半減するので、かなり高能率なウーファーの採用がこの方式の大前提になるようだ。
 中域ユニットは準低域的動作で、特殊イコライザー付き。高域はチタン箔表面にダイアモンドコーティングを施した逆ドーム型。エンクロージュアは、非常に木組みが美しい家具的な精度、仕上げをもつ見事な出来であるが、遠くで見るとむしろ大人しく目立たない独特の雰囲気がある。
、ネットワークは裏板部分に高グレードの空芯コイルと大型ポリプロピレンコンデンサーを組み合せているが、カバー部分が透明であるため内部構造を見ることができる。
 本機の第一印象は、広帯域型のスッキリと伸びた帯域バランスと反応の速い軽快な音である。音の傾向は、原音再生というよりも、かなりハイファイな音ではあるが、このシステムで聴く再生音楽ならではの魅力的な音楽の実体感は、まさにオーディオの醍醐味である。反応の速い、軽くて明るい低音は、本機ならではの持ち味であり、とくに各種の楽器がいっせいに鳴るパートでも、まったく音崩れしない分解能の高い低音を保つあたりは、他のシステムでは望むことができない。このサウンドは、本機ならではのかけがえのない魅力である。

ポークオーディオ RTA15TL

井上卓也

ステレオサウンド 99号(1991年6月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 米国では大変にポピュラーな存在であるポークオーディオのスピーカーシステムは、独自のStereo Dimentional Array方式と呼ばれるユニット配置と特殊な位相特性コントロールにより、優れたステレオイメージを得る技術の採用がよく知られている。今回新製品としてご紹介するRTA15TLは、前記SDA方式を採用していないコンベンショナルなスピーカーで、RTAシリーズのトップモデルに位置づけられるトールボーイ型のフロアーシステムである。
 現在RTAシリーズには既発売のRTA8t、同11tがあるが、それらが2本のウーファーを搭載しているのに対し、本機ではウーファーが4本に強化されるとともに、同社の大型システムに常用されているパッシヴラジエーターをエンクロージュア前後に1本ずつ搭載している点が新しい。
 横幅対高さが約1対3とバランスの良いプロポーションをもつエンクロージュアは、トッププレートがブラック鏡面仕上げで美しく、側面はオーク調に仕上げられている。とかく安手な印象になりがちな海外製品の中級スピーカーの中にあっては、その巧みなデザインとフィニッシュは見逃せない魅力といえそうだ。
 低域は同社の標準ユニットである16・5cm口径の6500シリーズのユニットを高域を挟む格好で上下に振り分けて配置した垂直方向の仮想同軸型である。高域は2・5cm口径のシルバーコイルドーム型と呼ばれるSL3000で、上側にディフューザーを取り付けたタイプだ。注目のパッシヴラジエーターはともに30cm口径で、共振周波数は上下に分けたスタガー的な使用に特徴がある。
 本機は柔らかく豊かな低域と、やや硬質な輝きのある高域がほどよくバランスした安定感のある音が印象的である。柔らかい低域は反応の速い小口径ウーファーと重量級パッシヴラジエーターの組合せによるもので、駆動源であるウーファーとそれを受けるパッシヴラジエーターの相互関係は、さすがに長い経験を誇るボークオーディオ社だけのことはある、まったく違和感の感じられない巧みなコントロールぶりである。このパッシヴラジエーターをはじめとして、各ユニット構成、そしてエンクロージュアの作りといった総合的なバランスのよさは、結果として音に過不足なく調和しており、このあたりはさすがに見事である。
 試聴機は高域がまだエージング不足であり、若干ダイアフラムの固有音が気になることもあったが、これはしばらく使い込めばクリアーできるレベルだ。かなり大型のトールボーイ型ではあるが、大音量時よりも小音量時の再生に重点を置いたチューニングがなされているようで、小音量時も決してバランスが崩れず、高域も素直に感じられる。本機は、ややライヴな部屋で使用すれば、かなり価格対満足度の高い結果の得られるスピーカーである。

アンサンブル PA1, Reference

井上卓也

ステレオサウンド 99号(1991年6月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 このところ、イタリアやスイスの小型スピーカーシステムが輸入され、それぞれの個性的なサウンドとデザイン、仕上げにより注目を集めているのは大変に喜ばしいところである。そして今回、初めて輸入されたアンサンブルという小型スピーカーも、個性的なシステムの多い海外製品の中にあって、なお強烈な個性を備えた非常に興味深いシステムである。
 このアンサンブルというのはディストリビュートを行なっているスイスの販売会社の名前で、実際にスピーカーを製造しているのはパウエルアコースティック社というこれまたスイスのメーカーである。このメーカーの詳細については今のところ不明だが、会社はハリーとマーカスのパウエル兄弟によって1981年に創立されたようだ。
 試聴したシステムは、同サイズのエンクロージュアを採用したPA1とリファレンスという、ともに2ウェイ構成の2モデルであるが、まずはじめに相互の価格差がかなり大きいことに驚かされる。
 PA1は、スイス・チェリーウッドとサテンブラック仕上げの2種類が用意されている。エンクロージュアは、フロントパネルが傾斜したタイムアラインメント型と呼ばれる方式で、高・低2個のユニットの発音源の位置を合せる目的の設計である。型式としては密閉型に見えるが、裏板部分のほとんどが、英国KEF社製と思われるパッシヴラジエーターで占められており、背面にパッシヴラジエーターを使用したバスレフ型ということができるだろう。
 このタイプは、エンクロージュア背面に向かって低域がかなり放射され、しかもパッシヴラジエーターの振動板の固有音も加わっているため、背面にバスレフ用ポートをもつバスレフ型以上にセッティング場所の背後の条件を考慮に入れなければならない。つまり壁面に近い場合と、部屋の中央あたりにセッティングした場合の、総合的な音質、音色がかなり変化することを頭に入れておかなければならないのだ。
 低域ユニットは、ベース材料は不明だが、表面にアルミ箔を貼り合せたストレートコーンを採用している。また、高域ユニットは口径1・9cmのドーム型と小口径ダイアフラムの採用に特徴があり、ダイアフラムの前には、ホーンロードがかけてあるため、受け持ち帯域の下側はホーン型の動作をする。クロスオーバーポイントは、小口径2ウェイシステムとしては通常より低い2・5kHzと発表されているが、フィルター特性が6dB/octとスロープがゆるやかなこともあり、組み合せるアンプの出力は、最大100Wとスペックに明示してある。
 いっぽうリファレンスは、型名が示すようにスピーカーの理想像を追求して開発された製品である。本機のエンクロージュアもPA1と同様、サンドイッチ構造の材料を使用しているが、より密度の高い特殊材料を採用しており、仕上げはサテンブラックとピアノブラックの2種類が選択できる。使用ユニットは、外見上では低域ユニットがいわゆるコーン中央部のキャップのない、完全に円錐形のストレートコーン型の一体構造になっているのが目立つ点だ。このタイプは、ボイスコイル、支持系のダンパー、磁気回路との組合せなどかなり手間がかかるが、振動板の単純化や一体性をはじめ、高域での指向性のコントロールなどが優れており、このメリットを活かす方向での採用と考えられる。なお、磁気回路は高域、低域ともに防磁型構造と発表されているが、キャンセルマグネットを使う簡易防磁型と思われる。
 このモデルでPA1にない特徴は、裏板部分に業務用マルチ端子があり、専用の極太特殊構造のスピーカーケーブル(長さ2m)が付属していることである。なお、ネットワークは定数的にはPA1と同じだが、素子のグレードは変っているうだ。
 PA1は、素直な2ウェイらしいクリアーな音と量感のある個性的な低音が、サイズを超えたスケール感でゆったりと鳴る。そして、リファレンスは、全体に非常に一体感のある全体域型的なバランスと、丹念に磨き込まれた光沢を有した独特の密度感のある音が特徴だ。この音は、PA1に格差をつけた見事さである。
 セッティングは壁からの距離を十分にとり、リスニングポイントにかなり近い位置にして聴くと、見通しのよい、プレゼンスの優れた音が聴ける。この両スピーカーシステムは、かなり趣味的な世界を味わわせてくれるので、オーディオファイルのサブシステムとして、また、この独特の世界に魅力を感じる人にとってはかけがえのないものとなるだろう。

ATC SCM50, SCM100

井上卓也

ステレオサウンド 99号(1991年6月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 英国、ラウドスピーカー・テクノロジ一社のスピーカーシステムは、74年に創立された同社の当時の社名であるアコースティック・トランスデューサー・カンパニーの頭文字ATCをブランド名として、昨年からわが国にも輸入され始めた製品である。このATCの製品は、従来の英国スピーカーの枠を超えた、新しいスピーカーの流れとして注目されている。
 昨年輸入されたモデルは、アンプ内蔵型の3ウェイシステムSCM100Aと、2ウェイシステムのパッシヴ型SCM20の2機種であるが、これに加えてLCネットワーク採用のSCM100と、3チャンネルアンプ内蔵型SCM50A、そしてLCネットワーク採用のSCM50が輸入されることになった。なおSCM50Aは前号の本誌で紹介済みなので、今回試聴をしたモデルは、ともにコンベンショナルなLCネットワークを採用したSCM100とSCM50である。
 同社のモデルナンバーの数字は、エンクロージュアの内容積を示しており、50は、50ℓの意味だ。SCM100は、3チャンネルアンプ内蔵のSCM100Aを一般的なLCネットワーク採用としたもので、単純明快に、リアパネルにあるアンプ収納部にパッシヴ型ネットワークを組み込んだタイプである。バスレフ型のエンクロージュアは、現在の製品としては珍しく、バッフルが取り外せる設計で、使用材料は、ロスの多い柔らかい木材で、制動をかけた使い方である。使用ユニットは、当然SCM100と変らず、低域がSB75-314コーン型、中域がSM75-150ソフトドーム型、高域がSH25-100ポリエ
スチルドーム型である。低域と中域の型名で、SB、SMに続く数字はボイスコイル口径であり、続く3桁数字は、いわゆる口径を表わすが、中域はホーン開口径である。
 ネットワークは、かなりグレードの高い素子を使った設計で、大型の空芯コイルと、これも大型のチューブラータイプのポリプロピレンコンデンサーの組合せである。これは3チャンネルのディバイダー組み込みのアンプを使うSCM100Aと同等のサウンドクォリティを保つための採用と思われるが、このネットワーク素子を重視する傾向は、タンノイの新スタジオシリーズにも近似したグレードのLC素子が採用されており、ヨーロッパ系スピーカーの新しい特徴として注目したいものである。
 SCM50系は、SCM100系の特徴をより小型化したシステムで実現させた小型高密度設計に最大の特徴がある。ユニット構成の基本は、上級機SCM100系を受け継いだ3ウェイ構成で、高域と中域のユニットは同じであるが、低域ユニットは口径31cmのSB75-314から1サイズ小さい口径24cmのSB75-241に変更され、バスレフ型エンクロージュアの内容積を50ℓと半減させたために、外観から受ける印象はかなり凝縮した密度感の高いものとなり、オーディオ的に十分に魅力あるモデルだ。
 最初の内は全体に軟調でコントラストの不足した反応の鈍い音であるが、約30分間ほど経過をすると、次第に目覚めたように音が立ちはじめ、それなりの反応を示しはじめる。基本的にはやや重く、力強い低域をベースとして、安定感のある中域に特徴がある重厚な音である。バランス的には、一体感がある低域と中域に比べると、高域に少し飽和感を感じるのは、SCM100Aと共通だが、聴感上でのSN比が高いのが、このモデルの最大の魅力のポイントである。かなり、ウォームアップが進むと、いかにも現代のモニターシステム的な情報量の多い音場感的な見通しの良さが聴かれるようになるが、音の表情は全体に抑制が効き、音離れが悪い面が若干あるため、ドライブアンプには駆動力が十分にあり反応の速いタイプが望まれる。最近のスピーカーシステムとしては、異例に密度感が高く、重厚で力強い音が聴けるこのシステムの魅力は非常に大きい。
 SCM50は、25cm口径の低域の特徴を出した、個性的なバランスの昔である。低音感は十分にあるが、中低域の量感がやや抑え気味で、音場感的なプレゼンスはミニマムの水準である。この傾向は特に小音量時に目立ち、音量を上げると本領が発揮されるタイプだ。
 弦楽器はしなやかで、パーカッシヴな音もナチュラルに再現し、ピアノの実体感も良く引き出す。安定しているSCM100に比べると、本機の場合はどうにかして思い通りに鳴らしてみたい、といった意欲にかられる挑戦し甲斐のあるモデルだ。

アポジー Diva + DAX

黒田恭一

ステレオサウンド 96号(1990年9月発行)
「ヴァノーニとの陶酔のひとときのためならぼくはなんだってできる」より

「俺さあ……」
 Fのはなしは、いつも、このひとことからはじまる。
 しかし、問題なのは、その後につづくことばである。いつだって、その後につづくFのことばは、こっちの意表をつく。
「俺さあ……」
 しばらく間があった。
「今夜のミミ、よかったと思うんだよ」
 Fとぼくは、そのとき、ウィーンの国立歌劇場で「ボエーム」をきいた後であった。もともと、その夜のミミには、チェチーリア・ガスディアが予定されていた。しかし、ガスディアが急病ということで、ポーランド出身のソプラノ、ヨアンナ・ボロウスカがミミをうたった。
「そんなによかったかな、あのミミ?」
「うん。よかった。よかったと思う」
 そういいながら、Fは、しきりにうなずいていた。どうやら、Fは、ヨアンナ・ボロウスカの声や歌についてではなく、彼女の容姿についていっているようであった。そんなことがあって後、ぼくは、二日ほどウィーンを離れた。ウィーンに戻ったとき、Fは、こういった。
「俺さあ……、ヨアンナと食事したんだけれど……」
 Fは、ヨアンナを楽屋に訪ね、深紅のバラの花束をとどけた。大いに感激したヨアンナは、Fの招待に応じ、食事をともにした、ということのようであった。ところが、ヘビー・スモーカーであり、おまけにヘビー・ドリンカーでもあるFは、オペラ歌手であるヨアンナを前にして、タバコをすいつづけ、ワインをのみつづけたために、ヨアンナのひんしゅくをかった、ということを、別の筋からきいた。相手がオペラ歌手であるにもかかわらず、煙草をすいつづけるところがFのFならではのところであった。
 Fの「俺さあ……」の後には、どのようなことばがつづくか、予断をゆるさない。Fが「俺さあ……」といったときには、心して耳をすます必要がある。Fは、これはと思えば、ウィーン国立歌劇場の歌い手に花束をとどけ、食事に誘うぐらいのことは、すぐにもやってのけるのである。
 Fは、写真家で、普段は、ウィーンの、もともとは修道院として十六世紀に建てられたという、おそらく由緒があると思える建物に住んでいて、ときどき日本にもどってくる。Fが日本にもどってきたときには、ぼくの部屋で、Fとぼくとの共通の恋人であるオルネラ・ヴァノーニのCDなどをききながら、あれこれ、どうということもないことをはなしながらすごす。
 そのときである。また、「俺さあ……」であった。
「めったに東京にもどってこないしさあ、今の部屋はでかすぎるから、小さな部屋にかわろうと思うんだよ」
 そこまではよかった。そうか、そうか、それもいいだろう、といった感じできいていた。ウィーンで住んでいるところも大きいから、きっと東京のFの住処も馬鹿でかいのであろう、と想像しながら、なま返事をしていた。
「このアポジーさあ、バイアンプでならしてみたらどうかな。そのほうがいい音がすると思うけれど」
 Fのはなしには、いつでも、飛躍が或る。つまり、エフとしては、このようにいいたかったのである。小さな部屋にかわるにあたっては、チェロのパフォーマンスなどという非常識に大きいパワーアンプが邪魔であるから、お前がつかってみては、どうか。Fがチェロのパフォーマンスをつかっているのは、前にきいたことがあって、しっていた。
 冗談じゃない。あんな、ごろっとしたものを一セットおいておくだけでも、めざわりでしかたがないのに、もう一セットおくなどとんでもない、と思い、適当にうけながしておいた(ご参考までに書いておけば、チェロのパフォーマンスは、幅と奥行がそれぞれ47cm、高さが22cmの本体と電源部が、それぞれ二面ずつで一セットである)。そのとき、ヘビー・ドリンカーのFは、かなり酔ってもいたので、いい案配に、自分がいったことも忘れているであろうと、たかをくくっていた。
 数日して、電話があった。
「おぼえているかな?」
「なにを?」
「アンプのことなんだけれど……」
 そういわれれば、おぼえていない、とはいえなかった。
 そのようにして、ぼくは、自分が愚かなことをしているのを自覚しながら、乱気流のなかにつっこんでいた。
「マルチ」は、オーディオにとびきり熱心なひとがするべきものであって、ぼくのような中途半端なオーディオ・ファンが手をだせば火傷をするのがおちである、と自分にいいきかせていた。したがって、ぼくとしては、これまで、「マルチ」をやっている友だちのはなしをきかされても、ごく冷静にうけとめてきた。
 しかし、今や、「マルチ」を対岸の出来事と思っていることはできなかった。Fのところからチェロのパフォーマンスがもう一セットはこびこまれてくる、という現実を前に、ぼくはすくなからずうろたえ、とるものもとりあえずM1に電話した。このときのM1の電話の対応を、できることなら、おきかせしたいところである。あのとき、M1は、サディスティックな快感に酔っていたにちがいなかったが、けんもほろろに、こういってのけたのである。
「ただアンプを2台(4台か)にしても、さしてよくはなりませんよ。電源のこともあるから、かえって悪くなるかもしれないし……、いずれにしろチェロのパフォーマンスをもう一セットつかえるかどうかアンペア数をチェックしたほうがいいですね」、そういっておいて、憎きM1は、いかにも嬉しそうにクックックと笑った。
「どうすればいい?」
 こっちは、ほとんど、ザラストロの前にひきだされたパミーナのような心境になり、おずおずと尋ねないではいられなかった。
「DAXという、アポジーのためのエレクトロニック・クロスオーバー・ネットワークがあるから、それをつかうんですね」
 ぼくは、それまでの状態で充分に満足していたので、おそらく、「このアポジー、バイアンプでならしてみたらどうかな。そのほうがいい音がすると思うけれど」、といったのがFではなかったら、いささかのためらいもなく断わっていた。しかし、困ったことに、ぼくは、人間としてのFも、Fの仕事も好きであった。それに、それまで自分のつかっていたアンプをぼくにつかわせようと考えたFの気持も、うれしかった。
 これはやっかいなことになったかな、と思いながら、ぼくは、受話器のむこうのM1に、こういった、
「そのDAXという奴をつかうと、どうなるの?」
「音の透明度が格段によくなるんですよ」
 M1のことばは自信にみちていた。
「それでは、それにしてみようか」
「それしかないですね」
 そういって、M1は、また、クックックと笑った。
 その数日後、DAXがとどけられた。そして、ぼくは、ああ、こういう音のきこえ方もあるのか、と思った。そのとき、ぼくの味わった驚きは、それまでに味わったことのないものであった。そして、なるほど、オーディオに深入りしたひとたちの多くが「マルチ」をやるのもわからなくはない、と遅ればせながら、納得した。そうか、そうだったのか、と思いつつ、その日は、窓の外があかるくなるまで、とっかえひっかえ、さまざまなCDやLPをききつづけた。
 いわゆる音の質的な変化であれば、これまでも再三経験してきたから、あらためて驚くまでもなかった。「マルチ」にしたことでの変化は、ただの音の質的な変化にとどまらなかった。基本的なところでの音のきこえかたそのものが、「使用前」と「使用後」では大いにちがった。そのための、そうか、そうだったのか、であった。
「使用前」と「使用後」でちがったちがいのうちのいくつかについて書いてみると、以下のようになる。すでにオーディオに熱心にかかわっている諸兄にあっては先刻ご存じのことと思われるが、駆けだしの素朴な感想としてお読みいただくことにする。
 最初に気づいたのは、音の消えかたであった。
 コンサートなどで、演奏が終ったか終らないか、といったとき、間髪をいれずに、あわてて拍手をするひとがいる。あの類いの、音楽の余韻を楽しむことをしらないひとには関係がないと思われるが、CDなりLPなりをきいていて、もっとも気になることのひとつが、最後の音がひびいた、その後である。もし、そのとききいていたのがピアノのディスクであると、ピアニストがペダルから足を離して、ひびきが微妙にかわるところまできくことができる。
 その部分の微妙な変化が、より一層なまなましく、しかも鮮明になった。ぐーと息をつめてきいていって、最後の音の尻尾の先端を耳がおいかけるときのスリルというか、充実感というか、これは、いわくいいがたい独特の気分である。
 ぼくは、コンサートで音楽をきくのも好きであるが、それと同じように、あるいはそれ以上に、ひとりでCDやLPをきくのが好きである。その理由のひとつとして、CDやLPでは、望むだけ最後の音の尻尾の先端を耳でおいかけはられることがあげられる。コンサートでは、無法者に邪魔されることが多く、なかなか、そうはいかない。
 したがって、音の消えていくところのきこえかたは、ぼくにとって、まことに重要である。思わず、息をのむ、というのは、いかにもつかいふるされた表現で、いくぶん説得力に欠けるきらいがなくもないが、ぼくは、DAX「使用後」、まず、その点で、息をのんだ。
 そのこととどのように関係するのかわからないが、次に気づいたのは、大きな音のきこえかたであった。
 おそらく、心理的なことも影響してのことであろうが、大きな音は近くに感じる。しかし押し出されすぎる大きな音は゛音としての品位に欠けるように思え、どうしても好きになれない。わがままな望みであることは百も承知で、たとえ大きな音であっても、音と自分とのあいだに充分な距離を確保したい、と思う。むろん、そのために、大きな音が大きな音たりうるためにそなえているエネルギーが欠如してしまっては、それでは、角を矯めて牛を殺す愚行に似て、まったく意味がない。
 あらためてことわるまでもないことかもしれないが、このことは、いわゆる音場感といったこととは別のところでのことである。今ではもう、かなりシンプルな装置でさえ、大太鼓はオーケストラの奥のほうに定位してきこえるようになっている。しかし、多くの装置では、音量をあげるにしたがい、どうしても、楽器や歌い手が、全体的に前にせりだしてきてしまう。
 ぼくは、かならずしも特に大きい音で再生するほうではないが、その音楽の性格によっては、いくぶん大きめの音にすることもある。たとえば、最近発売されたディスクの例でいえば、プレヴィンがウィーン・フィルハーモニーを指揮して録音したリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」(日本フォノグラム/テラーク PHCT5010)などが、そうである。このディスクをききながらも、ひびきは、充分に壮大であってほしいが、押しつけがましく前にせりだしてきてほしくない、と思う。
 しかし、DAX「使用前」には、クライマックスで、どうしても、ひびきが手前のほうにきがちであった。「使用後」には、もうすこし静かに、というのも妙であるが、ひびきが整然としてしかもひとつひとつの音の輪郭がくっきりとした。
 しかし、この頃は、楽しみできくディスクといえば、「アルプス交響曲」のような大編成のシンフォニー・オーケストラによる演奏をおさめたディスクであることは稀で、せいぜいが室内管弦楽団の演奏をおさめたディスクであることが多くなった。俺も、年かな、と思ってみたりするが、大編成のシンフォニー・オーケストラによってもたらされる色彩的なひびきは、音響的にも、心理的にも、どうも家庭内の空間とうまくなじまないようにも感じられる。
 最近、好んできくCDのひとつに、トン・コープマンがアムステルダム・バロック管弦楽団を指揮して録音したモーつ。るとのディヴェルティメントのディスクがある(ワーナー・パイオニア/エラート WPC3280)。このディスクには、あのK136のディヴェルティメントをはじめとして、四曲のディヴェルティメントがおさめられている。アムステルダム・バロック管弦楽団は、その名称からもあきらかなように、オリジナル楽器による団体である。
 当然、DAX「使用後」にも、このディスクをきいた。特にK136のディヴェルティメントなどは音楽のつくりの簡素な作品であり、また演奏が素晴らしいので、各パート間でのフレーズのうけわたしなども、まるで目にみえるように鮮明にききとれて、楽しさ一入である。しかし、このディスクにおいてもまた、「使用前」と「使用後」では、きこえかたがとてもちがっていた。
 ここでのちがいは、演奏者の数のわかりかたのちがい、とでもいうべきかもしれなかった。「使用前」でも、弦合奏の各パートのおおよその人数は判断できた。しかし、「使用後」になると、わざわざ数えなくても、自然にわかった。むろん、演奏者の顔までわかった、などとほらを吹くつもりはないが、あやうく、そういいたくなるようなきこえかたである、とはいえる。
 ただ、ここで、ひとつおことわりしておくべきことがある。
 今回もまた、前回同様、複合好感をおこなってしまったことである。今回は、アポジーDAXを導入しただけではなく、WADIA2000に若干手をいれてもらった。ぼくのところにあるWADIA2000は、いわゆる「フレンチカーブ」といわれる最初のバージョンのものであったが、それに手をくわえて最新の「ディジマスター/スレッジハンマー」仕様にしてもらった。「フレンチカーブ」と「ディジマスター/スレッジハンマー」では、特に音のなめらかさの点で、かなりのちがいがあるように思えた。ただ、「ディジマスター/スレッジハンマー」より「フレンチカーブ」のほうがいい、というひともいなくはないようであるが、ぼくは、「ディジマスター/スレッジハンマー」のなめらかさに軍配をあげる。
 つまり、ここでいっておきたいのは、これまで書いてきたことは、WADIA2000を「フレンチカーブ」から「ディジマスター/スレッジハンマー」にかえたことも微妙に関係していたかもしれない、ということである。
 これを、幸運というべきか、不幸というべきか、それはよくわからないが、ともかく、これまでずっと、ぼくには、M1に目隠しされたまま手をひかれてきたようなところがあって、いつも、なにがどうなったのか正確には把握できないまま歩いてきてしまった。それで、結果が思わしくなければ、M1を八裂きにしてやるのであるが、残念ながら、というべきか、喜ばしいことに、というべきか、いつも、M1に多大の冠者をしてしまうはめにおちいる。その点で、今回もまた、例外ではなかった。
 そして、もうひとつ、これは、恥をしのんで書いておかなければならないことがある。DAXには、当然のことながら、高音や低音を微妙に調整するためのつまみがついているが、ぼくは、まだ、それらのいずれにも手をふれていない。調整する必要をまったく感じないからである。
 むろん、つまみういろいろ動かせば、それなりに音が変化するであろう、とは思う。しかし、すくなくとも今のぼくは、なにをどう変化させたらいいのか、それがわからないのである。多分、ぼくは、今の段階で、現在の装置のきかせてくれる音を完全には掌握しきれていない、ということである。
 完全なものなどあるはずもないから、現在のぼくの装置にだって、あちこちに破綻もあれば、不足もあるにちがいない。しかし、それが、ぼくにはみえていないのである。このような惚けかたは、どことなく結婚したばかりの男と似ている。彼には、彼の妻となった女のシミやソバカスも、まだみえないのである。彼が奥さんのシミやソバカスがみえるようになるためには、多少の時間が必要かもしれない。シミやソバカスがみえてきたとき、ぼくはDAXのつまみを、あっちにまわしたり、こっちにまわしたりするのかもしれないが、できることなら、そういうことにならないことを祈らずにいられない。
 パフォーマンスのアンプをもう一セットふやし、DAXを導入したことで、今、一番困っているのは熱である。パフォーマンスのアンプにはファンがふたつついている。ということは、アンプのスイッチをいれると、合計八つのファンがまわりだす、ということである。八つのファンからはきだされる熱気は、これはなかなかのものである。普通の大きさのクーラーをかけたぐらいでは、ほとんどききめがない。おまけに、今年の夏はやけに暑い。はやく涼しくなってくれないか、と思いつづけている。
 DAXが設置された日、朝までききつづけていて、最後にきいたのは、「IL GIRO DELMIO MOND/ORNELLA VANONI」(VANI;IA CDS6125)であった。そのときのぼくの気持は、最後に食べるために大好きなご馳走をとっておく子供の気持とほとんどかわりなかった。このアルバムの一曲目である「TU MI RICORDI MILANO」が、まるで朝もやが消えていくかのように、静かにはじまった。音にミラノの香りがあった。「トゥ・ミ・リコルディ・ミラノ……」、ヴァノーニが軽くうたいだした。この五分間の陶酔のためなら、ぼくはなんだってできる、と思った。
 この音は、どうしてもFにきかせなければいけないな、と思い、翌日、電話をした。Fはすでにウィーンに戻ってしまった後で、電話はつながらなかった。

ビクター SX-700

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

小型2ウェイ方式に、低音専用のサブウーファーシステムを独立したキャビティ採用で組み合せ、トールボーイとしてまとめた手堅い手法の製品である。柔らかく量感があり、ほどよく反応が速いサブウーファーを加えた低域の豊かさは、この製品の特徴であり、この部分をどうこなすかがアンプの実力の問われるところ。

セレッション SL6Si

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「プリメインアンプ×スピーカーの相性テスト」より

英国系の小型2ウェイシステムを代表する、適度に反応が速くプレゼンスの良い音と、メカニカルでわかりやすいデザインが巧みにマッチした製品である。Siに発展して中域の薄さが解消され、低軟、高硬の性質は残っているが、小型システムの、音離れが良くプレゼンスの良い特徴も併せて、総合的な完成度はかなり高い。

ダイヤトーン DS-77Z

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「プリメインアンプ×スピーカーの相性テスト」より

口径30cmを超すウーファーベースの伝統的3ウェイブックシェルフ型の典型的存在であり、現在生き残っている数少ない機種だ。3ウェイらしく中域のエネルギーが充分にあり、情報量が多いため、使いこなしを誤れば圧倒感のあるアグレッシヴな音になりやすく、このあたりを使いこなせないようではオーディオは語れない。

白いキャンバスを求めて

黒田恭一

ステレオサウンド 92号(1989年9月発行)
「白いキャンバスを求めて」より

 感覚を真っ白いキャンバスにして音楽をきくといいよ、といわれても、どのようにしたら自分の感覚をまっ白にできるのか、それがわからなくてね。
 そのようにいって、困ったような表情をした男がいた。彼が律義な人間であることはわかっていたので、どのように相槌をうったらいいのかがわからず、そうだね、音楽をきくというのはなかなか微妙な作業だからね、というような意味のことをいってお茶をにごした。
 その数日後、ぼくは、別の友人と、たまたま一緒にみた映画のことを、オフィスビルの地下の、中途半端な時間だったために妙に寝ぼけたような雰囲気の喫茶店ではなしあっていた。そのときみたのは、特にドラマティックともいいかねる物語によった、しかしなかなか味わい深い内容の映画であった。今みたばかりの映画について語りながら、件の友人は、こんなことをいった。
 受け手であるこっちは、対象に対する充分な興味がありさえすれば、感覚をまっ白にできるからね……。
 彼は、言外に、受け手のキャンバスが汚れていたのでは、このような味わいのこまやかな映画は楽しみにくいかもしれない、といいたがっているようであった。ぼくも彼の感想に同感であった。おのれのキャンバスを汚れたままにしておいて、対象のいたらなさをあげつらうのは、いかにも高飛車な姿勢での感想に思え、フェアとはいえないようである。名画の前にたったときには眼鏡をふき、音楽に耳をすまそうとするときには綿棒で耳の掃除をする程度のことは、最低の礼儀として心得ておくべきであろう。
 しかし、そうはいっても、眼鏡をいつでもきれいにしておくのは、なかなか難しい。ちょうどブラウン管の表面が静電気のためにこまかい塵でおおわれてしまってもしばらくは気づきにくいように、音楽をきこうとしているときのききてのキャンバスの汚れもまた意識しにくい。キャンバスの汚れを意識しないまま音楽をきいてしまう危険は、特に再生装置をつかって音楽とむきあおうとするときに大きいようである。
 自分の部屋で再生装置できくということは、原則として、常に同じ音で音楽をきくということである。しりあったばかりのふたりであれば、そこでのなにげないことばのやりとりにも神経をつかう。したがって、ふたりの間には、好ましい緊張が支配する。しかしながら、十年も二十年も一緒に生活をしてきたふたりの間ともなれば、そうそう緊張してもいられないので、どうしたって弛緩する。安心と手をとりあった弛緩は眼鏡の汚れを呼ぶ。
 長いこと同じ再生装置をつかってきいていると、この部分がこのようにきこえるのであれば、あの部分はおそらくああであろう、と無意識のうちに考えてしまう。しかも、困ったことに、そのような予断は、おおむね的中する。
 長い期間つかってきた再生装置には座りなれた椅子のようなところがある。座りなれた椅子には、それなりの好ましさがある。しかし、再生装置を椅子と同じに考えるわけにはいかない。安楽さは、椅子にとっては美徳でも、再生装置にとってはかならずしも美徳とはいいがたい。安心が慢心につながるとすれば、つかいなれた再生装置のきかせてくれる心地よい音には、その心地よさゆえの危険がある。
 これまでつかってきたスピーカーで音楽をきいているかぎり、ぼくは、気心のしれた友だちとはなすときのような気持でいられた。しかし、同時に、そこに安住してしまう危険も感じていた。なんとなく、この頃は、きき方がおとなしくなりすぎているな、とすこし前から感じていた。ききてとしての攻撃性といっては大袈裟になりすぎるとしても、そのような一歩踏みこんだ音楽のきき方ができていないのではないか。そう思っていた。ディスクで音楽をきくときのぼくのキャンバスがまっ白になりきれていないようにも感じていた。
 ききてとしてのぼく自身にも問題があったにちがいなかったが、それだけではなく、きこえてくる音と馴染みすぎたためのようでもあった。それに、これまでつかっていたスピーカーの音のS/Nの面で、いささかのものたりなさも感じていた。これは、やはり、なんとかしないといけないな、と思いつつも、昨年から今年の夏にかけて海外に出る機会が多く、このことをおちおち考えている時間がなかった。
 しかし、ぼくには、ここであらためて、新しいスピーカーをどれにするかを考える必要はなかった。すでに以前から、一度、機会があったら、あれをつかってみたい、と思っていたスピーカーがあった。そのとき、ぼくは、漠然と、アポジーのスピーカーのうちで一番背の高いアポジーを考えていた。
 アポジーのアポジーも結構ですが、あのスピーカーは、バイアンプ駆動にしないと使えませんよ。そうなると、今つかっているパワーアンプのチェロをもう一組そろえないといけませんね。電話口でM1が笑いをこらえた声で、そういった。今の一組でさえ置く場所に苦労しているというのに、もう一組とはとんでもない。そういうことなら、ディーヴァにするよ。
 というような経過があって、ディーヴァにきめた。それと、かねてから懸案となっていたチェロのアンコール・プリアンプをM1に依頼しておいて、ぼくは旅にでた。ぼくはM1の耳と、M1のもたらす情報を信じている。それで、ぼくは勝手に、M1としては迷惑かもしれないが、M1のことをオーディオのつよい弟のように考え、これまでずっと、オーディオに関することはなにからなにまで相談してきた。今度もまた、そのようなM1に頼んだのであるからなんの心配もなく、安心しきって、家を後にした。
 ぼくは、スピーカーをあたらしくしようと思っているということを、第九十一号の「ステレオサウンド」に書いた。その結果、隠れオーディオ・ファントでもいうべき人が、思いもかけず多いことをしった。全然オーディオとは関係のない、別の用事で電話をしてきた人が、電話を切るときになって、ところで、新しいスピーカーはなににしたんですか? といった。第九十一号の「ステレオサウンド」が発売されてから今日までに、ぼくは、そのような質問を六人のひとからうけた。四人が電話で、二人が直接であった。六人のうち三人は、それ以前につきあいのない人であった。しかも、そのうちの四人までが、そうですか、やはり、アポジーですか、といって、ぼくを驚かせた。
 たしかに、アポジーのディーヴァは、一週間留守をした間にはこびこまれてあった。さすがにM1、することにてぬかりはないな、と部屋をのぞいて安心した。アンプをあたためてからきくことにしよう。そう思いつつ、再生装置のおいてある場所に近づいた。そのとき、そこに、思いもかけないものが置かれてあるのに気づいた。
 なんだ、これは! というまでもなく、それがスチューダーのCDプレーヤーA730であることは、すぐにわかった。A730の上に、M1の、M1の体躯を思い出させずにおかない丸い字で書いたメモがおかれてあった。「A730はアンコールのバランスに接続されています。ちょっと、きいてみて下さい!」
 スチューダーのA730については、第八十八号の「ステレオサウンド」に掲載されていた山中さんの記事を読んでいたので、おおよそのことはしっていた。しかし、そのときのぼくの関心はひたすらアポジーのディーヴァにむいていたので、若干の戸惑いをおぼえないではいられなかった。このときのぼくがおぼえた戸惑いは、写真をみた後にのぞんだお見合いの席で、目的のお嬢さんとはまた別の、それはまたそれでなかなか魅力にとんだお嬢さんに会ってしまったときにおぼえるような戸惑いであった。
 それから数日後に、「ステレオサウンド」の第九十一号が、とどいた。気になっていたので、まず「編集後記」を読んだ。「頼んだものだけが届くと思っているのだろうが、あまいあまい。なにせ怪盗M1だぞ、といっておこう」、という、M1が舌なめずりしながら書いたと思えることばが、そこにのっていた。
 困ったな、と思った。なにに困ったか、というと、ぼくのへぼな耳では、一気にいくつかの部分が変化してしまうと、その変化がどの部分によってもたらされたのか判断できなくなるからであった。しかし、いかに戸惑ったといえども、そこでいずれかのディスクをかけてみないでいられるはずもなかった。すぐにもきいてみたいと思う気持を必死でおさえ、そのときはパワーアンプのスイッチをいれるだけにして、しばらく眠ることにした。飛行機に長い時間ゆられてきた後では、ぼくの感覚のキャンバスはまっ白どころか、あちこちほころびているにちがいなかった。そのような状態できいて、最初の判断をまちがったりしたら、後でとりかえしがつかない、と思ったからであった。
 ぼくは、プレーヤーのそばに、愛聴盤といえるほどのものでもないが、そのとき気にいっているディスクを五十枚ほどおいてある。そのうちの一枚をとりだしてきいたのは、三時間ほど眠った後であった。風呂にもはいったし、そのときは、それなりに音楽をきける気分になっていた。
 複合変化をとげた後の再生装置でぼくが最初にきいたのは、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーを指揮して一九七五年に録音した「ヴェルディ序曲・前奏曲集」(ポリドール/グラモフォン F35G20134)のうちのオペラ「群盗」の前奏曲であった。此のヴェルディの初期のオペラの前奏曲は、オーケストラによる総奏が冒頭としめくくりにおかれているものの、チェロの独奏曲のような様相をていしている。ここで独奏チェロによってうたわれるのは、初期のヴェルディならではの、燃える情熱を腰の強い旋律にふうじこめたような音楽である。
 これまでも非常にしばしばきいてきた、その「群盗」の前奏曲をきいただけですでに、ぼくは、スピーカーとプリアンプと、それにCDプレーヤーがかわった後のぼくの再生装置の音がどうなったかがわかった。なるほど、と思いつつ、目をあげたら、ふたつのスピーカーの間で、M1のほくそえんでいる顔をみえた。
 恐るべきはM1であった。奴は、それまでのぼくの再生装置のいたらないところをしっかり把握し、同時にぼくがどこに不満を感じていたのかもわかっていたのである。今の、スピーカーがアポジーのディーヴァに、プリアンプがチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーがスチューダーのA730にかわった状態では、かねがね気になっていたS/Nの点であるとか、ひびきの輪郭のもうひとつ鮮明になりきれないところであるとか、あるいは音がぐっと押し出されるべき部分でのいささかのものたりなさであるとか、そういうところが、ほぼ完璧にといっていいほど改善されていた。
 オペラ「群盗」の前奏曲をきいた後は、ぼくは、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」(アルファレコード/CYPREE 32XB123)をとりだして、そのディスクのうちの「すてきな青いレインコート」をきいた。この歌は好きな歌であり、また録音もとてもいいディスクであるが、ここで「すてきな青いレインコート」をきいたのには別の理由があった。「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」は、傅さんがリファレンスにつかわれているディスクであることをしっていたからであった。傅さんは、先刻ご存じのとおり、アポジーをつかっておいでである。つまり、ぼくとしては、ここで、どうしても、傅さんへの表敬試聴というのも妙なものであるが、ともかく先輩アポジアンの傅さんへの挨拶をかねて、傅さんの好きなディスクをききたかったのである。
 さらにぼくは、「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾほチェロ/ウェルナー・トーマス」(日本フォノグラム/オルフェオ 32CD10106)のうちの「ジャクリーヌの涙」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」(EMI CDC7476772)のうちの「セビリャの理髪師」であるとか、あるいは「O/オルネッラ・ヴァノーニ」(CGD CDS6068)のうちの「カルメン」であるとか、いくぶん軽めの、しかし好きで、これまでもしばしばきいてきた曲をきいた。
 いずれの音楽も、これまでの装置できいていたとき以上に、S/Nの点で改善され、ひびきの輪郭がよりくっきりし、さらに音がぐっと押し出されるようになったのが関係してのことと思われるが、それぞれの音楽の特徴というか、音楽としての主張というか、そのようなものをきわだたせているように感じられた。ただし、その段階での音楽のきこえ方には、若い人が自分のいいたいことをいいつのるときにときおり感じられなくもない、あの独特の強引さとでもいうべきものがなくもなかった。
 これはこれでまことに新鮮ではあるが、このままの状態できいていくとなると、感覚の鋭い、それだけに興味深いことをいう友だちと旅をするようなもので、多少疲れるかもしれないな、と思ったりした。しかし、スピーカーがまだ充分にはこなれていないということもあるであろうし、しばらく様子をみてみよう。そのようなことを考えながら、それからの数日、さしせまっている仕事も放りだして、あれこれさまざまなディスクをききつづけた。
 ところできいてほしいものがあるですがね。M1の、いきなりの電話であった。いや、ちょっと待ってくれないか、ぼくは、まだ自分の再生装置の複合変化を充分に掌握できていないのだから、ともかく、それがすんでからにしてくれないか。と、一応は、ぼくも抵抗をこころみた。しかし、その程度のことでひっこむM1でないことは、これまでの彼とのつきあいからわかっていた。考えてみれば、ぼくはすでにM1の掌にのってしまっているのであるから、いまさらじたばたしてもはじまらなかった。その段階で、ぼくは、ほとんど、あの笞で打たれて快感をおぼえる人たちのような心境になっていたのかもしれず、M1のいうまま、裸の背中をM1の笞にゆだねた。
 M1がいそいそと持ちこんできたのは、ワディア2000という、わけのわからない代物だった。M1の説明では、ワディア2000はD/Aコンバーターである、ということであったが、この常軌を逸したD/Aコンバーターは、たかがD/Aコンバーターのくせに、本体と、本隊用電源部と、デジリンク30といわれる部分と、それにデジリンク30用電源部と四つの部分からできていた。つまり、M1は、スチューダーのA730のD/Aコンバーターの部分をつかわず、その部分の役割をワディア2000にうけもたせよう、と考えたようであった。
 ワディア2000をまったくマークしていなかったぼくは、そのときにまだ、不覚にも、第九十一号の「ステレオサウンド」にのっていた長島さんの書かれたワディア2000についての詳細なリポートを読んでいなかった。したがって、その段階で、ぼくはワディア2000についてなにひとつしらなかった。
 ぼくの部屋では、客がいれば、客が最良の席できくことになっている。むろん、客のいないときは、ぼくが長椅子の中央の、一応ベスト・リスニング・ポジションと考えられるところできく。ワディア2000を接続してから後は、M1がその最良の席できいていた。ぼくは横の椅子にいて、M1の顔をみつつ、またすこし太ったのではないか、などと考えていた。M1が帰った後で、ひとりになってからじっくりきけばいい、と思ったからであった。そのとき、M1がいかにも満足げに笑った。ぼくの席からきいても、きこえてくる音の様子がすっかりちがったのが、わかった。
 ぼくの気持をよんだようで、M1はすぐに席をたった。いかになんでも、M1の目の前で、嬉しそうな顔をするのは癪であった。M1もM1で、余裕たっぷりに、まあ、ゆっくりきいてみて下さい、などといいながら帰っていった。
 ワディア2000を接続する前と後での音の変化をいうべきことばとしては、あかぬけした、とか、洗練された、という以外になさそうであった。昨日までは泥まみれのじゃがいもとしかみえなかった女の子が、いつの間にか洗練された都会の女の子になっているのをみて驚く、あの驚きを、そのとき感じた。もっとも印象的だったのは、ひびきのきめの細かくなったことであった。餅のようにきめ細かで柔らかくなめらかな肌を餅肌といったりするが、この好色なじじいの好みそうなことばを思い出させずにはおかない、そこできこえたひびきであった。
 ぼくは、それから、夕食を食べるのも忘れて、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーによる「ヴェルディ序曲・前奏曲集」であるとか、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」であるとか、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」であるとか、「O/オルネッラ・ヴァノーニ」であるとかを、ききなおしてみて、きこえてくる音に酔った。
 そこにいたってやっとのことで、そうだったのか、とM1の深謀遠慮に気づいた。ぼくが、アポジーのディーヴァとチェロのアンコールを依頼した段階で、M1には、スチューダーのA730+ワディア2000のプランができていたのである。ぼくの耳には、スチューダーのA730は必然としてワディア2000を求めているように感じられた。ぼくは、自分のところでの組合せ以外ではスチューダーのA730をきいていないので、断定的なことはいいかねるが、すくなくともぼくのところできいたかぎりでは、スチューダーのA730は、積極性にとみ、音楽の表現力というようなことがいえるのであれば、その点で傑出したものをそなえているものの、ひびきのきめの粗さで気になるところがなくもない。
 そのようなスチューダーのA730の、いわば泣きどころをワディア2000がもののみごとにおぎなっていた。ぼくはM1の準備した線路を走らされたにすぎなかった。くやしいことに、M1にはすべてお見通しだったのである。そういえば、ワディア2000を接続して帰るときのM1は、自信満々であった。
 どうします? その翌日、M1から電話があった。どうしますって、なにを? と尋ねかえした。なにをって、ワディア2000ですよ。どうするもこうするもないだろう。ぼくとしては、そういうよりなかった。お買い求めになるんですか? 安くはないんですよ。M1は思うぞんぶん笞をふりまわしているつもりのようであった。しかたがないだろう。ぼくもまた、ほとんど喧嘩ごしであった。それなら、いいんですが。そういってM1は電話を切った。
 それからしばらく、ぼくは、仕事の合間をぬって、再生装置のいずれかをとりかえた人がだれでもするように、すでにききなれているディスクをききまくった。そのようにしてきいているうちに、今度のぼくの、無意識に変革を求めた旅の目的がどこにあったか、それがわかってきた。おかしなことに、スピーカーをアポジーのディーヴァにしようとした時点では、このままではいけないのではないか、といった程度の認識にとどまり、目的がいくぶん曖昧であった。それが、ワディア2000をも組み込んで、今回の旅の一応の最終地点までいったところできこえてきた音をきいて、ああ、そうだったのか、ということになった。
 なんとも頼りない、素人っぽい感想になってしまい、お恥ずかしいかぎりであるが、あれをああすれば、ああなるであろう、といったような、前もっての推測は、ぼくにはなかった。今回の変革の旅は、これまで以上に徹底したM1の管理下にあったためもあり、ぼくとしては、行先もわからない汽車に飛び乗ったような心境で、結果としてここまできてしまった、というのが正直なところである。もっとも、このような無責任な旅も、M1という運転手を信じていたからこそ可能になったのであるが。
 複合変化をとげた再生装置のきかせてくれる音楽に耳をすませながら、ぼくは、ずいぶん前にきいたコンサートのことを思い出していた。そのコンサートでは、マゼールの指揮するクリーヴランド管弦楽団が、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第五番を演奏した。一九八二年二月のことである。会場は上野の東京文化会館であった。記憶に残っているコンサートの多くは感動した素晴らしいコンサートである。しかし、そのマゼールとクリーヴランド管弦楽団によるコンサートは、ちがった。ぼくにはそのときのコンサートが楽しめなかった。
 第五交響曲にかぎらずとも、マーラーの作品では、極端に小さい音と極端に大きい音が混在している。そのような作品を演奏して、ppがpになってしまったり、ffがfになってしまったりしたら、音楽の表現は矮小化する。
 実力のあるオーケストラにとって、大音響をとどろかせるのはさほど難しくない。肝腎なのは、弱音をどこまで小さくできるかである。指揮者が充分にオーケストラを追いこみきれていないと、ppがpになってしまう。
 一九八二年二月に、上野の東京文化会館できいたコンサートにおけるマゼールとクリーヴランド管弦楽団による演奏がそうであった。そこでは、ppがppになりきれていなかった。
 このことは、多分、再生装置の表現力についてもいえることである。ほんとうの弱音を弱音ならではの表現力をあきらかにしつつもたらそうとしたら、オーケストラも再生装置もとびきりのエネルギーが必要になる。今回の複合変化の結果、ぼくの再生装置の音がそこまでいったのかどうか、それはわからない。しかし、すくなくとも、そのようなことを考えられる程度のところまでは、いったのかもしれない。
 大切なことは小さな声で語られることが多い。しかし、その小さな声の背負っている思いまでききとろうとしたら、周囲はよほど静かでなければならない。キャンバスがまっ白だったときにかぎり、そこにポタッと落ちた一滴の血がなにかを語る。音楽でききたいのは、そこである。マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、ppがpになってしまっていた演奏では、したたり落ちた血の語ることがききとれなかった。
 当然、ぼくがとりかえたのは再生装置の一部だけで、部屋はもとのままであった。にもかかわらず、比較的頻繁に訪ねてくる友だちのひとりが、何枚かのディスクをきき終えた後に、検分するような目つきで周囲をみまわして、こういった。やけに静かだけれど、部屋もどこかいじったの?
 再生装置の音が白さをました分だけ、たしかに周囲が静かになったように感じられても不思議はなかった。スピーカーがアポジーになったことでもっともかわったのは低音のおしだされ方であったが、彼がそのことをいわずに、再生装置の音が白さをましたことを指摘したのに、ぼくは大いに驚かされ、またうれしくもあった。
 ぼくにとっての再生装置は、仕事のための道具のひとつであり、同時に楽しみの糧でもある。つまり、ぼくのしていることは、昼間はタクシーをやって稼いでいた同じ自動車で、夜はどこかの山道にでかけるようなものである。昼間、仕事をしているときは、おそらく眉間に八の字などよせて、スコアを目でおいつつ、スピーカーからきこえてくる音に耳をすませているはずであるが、夜、仕事から解放されたときは、アクセルを思いきり踏みこみ、これといった脈絡もなくききたいディスクをききまくる。
 そのようにしてきいているときに、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えることがある。不思議なことに、そのように考えるのは、いつもきまって、いい状態で音楽がきけているときである。ああ、ちょっと此の点が、といったように、再生装置のきかせる音のどこかに不満があったりすると、そのようなことは考えない。人間というものは、自分で解答のみつけられそうな状況でしか疑問をいだかない、ということかどうか、ともかく、複合変化をとげた後の再生装置のきかせる音に耳をすませながら、何度となく、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えた。
 すぐれた文学作品を読んだり、素晴らしい絵画をみたりして味わう感動がある。当然のことに、いい音楽をきいたときにも、感動する。しかし、自分のことにかぎっていえば、いい音楽をいい状態できいたときには、単に感動するだけではなく、まるで心があらわれたような気持になる。そのときの気持には、感動というようないくぶんあらたまったことばではいいきれないところがあり、もうすこしはかなく、しかも心の根っこのところにふれるような性格がある。
 今回の複合変化の前にも、ぼくは、けっこうしあわせな状態で音楽をきいていたのであるが、今は、その一歩先で、ディスクからきこえる音楽に心をあらわれている。心をあらわれたように感じるのが、なぜ、心地いいのかはわからないが、このところしばらく、夜毎、ぼくは、翌日の予定を気にしながら、まるでA級ライセンスをとったばかりの少年がサーキットにでかけたときのような気分で、もう三十分、あと十五分、とディスクをききつづけては、夜更かしをしている。
 そういえば、スピーカーをとりかえたら真先にきこうと考えていたのに、機会をのがしてききそびれていたセラフィンの指揮したヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」のディスク(音楽之友社/グラモフォン ORG1009~10)のことを思い出したのは、ワディア2000がはいってから三日ほどたってからであった。この一九六二年にスカラ座で収録されたディスクは、特にきわだって録音がいいといえるようなものではなかった。しかし、この大好きなオペラの大好きなディスクが、どのようにきこえるか、ぼくには大いに興味があった。
 いや、ここは、もうすこし正直に書かないといけない。ぼくはこのセラフィンの「トロヴァトーレ」のことを忘れていたわけではなかった。にもかかわらず、きくのが、ちょっとこわかった。このディスクは、残響のほとんどない、硬い音で録音されている。それだけにひとつまちがうと、声や楽器の音が金属的になりかねない。スピーカーがアポジーのディーヴァになり、さらにCDプレーヤーがスチューダーのA730になったことで、音の輪郭と音を押し出す力がました。そこできいてどのようになるのか、若干不安であった。
 まず、ルーナ伯爵とレオノーラの二重唱から、きいた。不安は一気にふきとんだ。オペラ「トロヴァトーレ」の体内に流れる血潮がみえるようにきこえた。
 くやしいけれど、このようにきけるようになったのである、ぼくは、いさぎよく、頭をさげ、こういうよりない、M1! どうもありがとう!