Category Archives: スピーカー関係 - Page 13

サンスイ XL-900C

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ブックシェルフ型スピーカーを価格帯別に眺めると、6〜10万円の範囲に製品数が少なく、いわば空白の価格帯が存在していることが、他のアンプやカセットデッキと異なる奇妙な特徴ということができる。
 この価格帯に、今回サンスイから、意欲的な新製品が発売されることになった。
 ユニット構成は、従来のSP−V100で採用された、ポリプロピレン系合成樹脂にマイカを混ぜた、バイクリスタル型に替わり、発泡高分子材の表面をカーボンファイパークロス、裏面をグラスファイパークロスでサンドイッチ構造としたTCFFと名付けた新素材を採用した32cmウーファー、アルミベースにセラミックを溶射したHSセラミック材採用の5cmドーム型ミッドレンジと振動板ボイスコイル一体構造型25mm口径の熱処理スーパーチタン採用ドーム型トゥイーターの3ウェイ構成。
 エンクロージュアは、この価格帯では初の回折効果を避けたラウンドバッフルを採用したバスレフ型であることに注目したい。また、実用的というよりは、現状ではアクセサリー的な意味しかもたない中域と高域のレベルコントロールを省略し、信号系に音質劣化の原因となるスイッチが存在しない点は高く評価すべき特徴である。
 試聴室でのセッティングは、平均的なコンクリートブロックやビクターのLS1のようなガッチリとした木製スタンドでも比較的に容易に鳴らすことができるが、適度に力強く音の輪郭をクッキリと聴かせる傾向がある本機では、木製スタンドの響きの美しさを積極的に活かして使いたい。
 LS1をシステムの底板をX字状に支える方法でセッティングを決める。聴感上での帯域バランスは、広帯域指向型ではなく、ローエンドとハイエンドを少し抑えて受持帯域内のエネルギー感を重視したタイプだ。
 音色は明るく、全体に線は少し太いが、彫りの深い表現力が特徴。芯が強く力強い低域は、独特の表情があり、エレキ楽器のドスッと決まる感じをリアルに聴かせる。中域は輝かしく、低域とのつながりは少し薄いタイプだが、高域とのクロスは充分につながり、この部分の鮮やかさと、独特の低域がXL900Cの音を前に押し出す。モニターライクなサウンドの特徴を形成しているようだ。
 音場感と音像定位では、優位にあるラウンドバッフルの効果は、シャープな音像定位に活きているようである。
 明快でアクティブに音楽を聴かせるキャラクターはたいへんに楽しいものだが、アナログ系のディスク再生では、スクラッチノイズに敏感であるため、高域の滑らかなカートリッジの選択が条件であり、それも細かく針圧を調整して追込むと、本機の特徴が積極的に活かされるだろう。個性派のたいへんに興味深い新製品の誕生である。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ボストン・アコースティック。その名の示す通り、このブランドは、アメリカ東部のマサチューセッツ州生まれである。
 オーディオの好きな読者なら先刻御承知のことと思うが、このマサチューセッツ州ボストン郊外は、ちょっとしたオーディオタウンであって、あのARの誕生以来、アメリカ製スピーカーの系譜の一つを代表する地域である。その中で、このボストン・アコースティック社は比較的新しいメーカーではあるが、その血統は、まさに、イーストコーストサウンドの純血を継ぐものであり、AR、KLH、アドヴェントと同系のメーカーである。有名なヴィルチュア博士のアクースティックサスペンション理論にもとづく、密閉型の小型エンクロージュアで最低音まで再生する方式が、イーストコーストスピーカーの原点といってもよいと思うが、この基本的な発想と設計のコンセプトを受け継いで、KLH、アドヴェントといった分派が生まれたのである。
 ボストン・アコースティック社の社長であるフランク・リード氏は、まさに、AR、KLH、アドヴェントという三つのメーカーの要職を歴任してきた人物であり、技術部長のペティート氏(フランス語のプティ……本当に背が小さい人…)は、ヴィルチュア博士の理論に基づく設計の実際をAR社において担当してきた人物なのである。ボストン・アコースティック社がイーストコーストのスピーカーメーカーの正統な流れをくむ存在であるといえる所以である。
 このB・A社の現在のラインアンプの中でのトップモデルが、ここに御紹介するA400であって、この下にA150、A100、A70、A60、A40という各モデルがシリーズ化されている。トップモデルとはいえ、日本での価格が15万円台という買い易いものであるのが目を惹くが、果して、その内容と、実力はどんなものであろうか……期待と不安が入り交った心境で、このニューモデルに接したのであった。
 結論から先に言いたくなる気のはやりを押え切れないので、いってしまおう。素晴らしいスピーカーシステムであった! 自宅と、SS誌の試聴室との二ヵ所で試聴したのだが、両所での音の印象はほとんど変らなかった。実は、この二ヵ所のルームアクースティックはかなり違い、いつも耳のイクォライゼーションに苦労をさせられるのだが、このスピーカーに限って、不思議なほど、同じような印象の音が聴けたのである。これは、このA400というシステムが、ルームアクースティックの影響を受けにくいことを示すものではないかと思って、英文の資料を読んだら、まず、その件が明記されていた。〝A400の独特の設計技術は、部屋の個有の癖による影響を出来る限り受けにくいものにした〟と書かれている。また、先を読み進むうちに、こんなフレーズも出てきた。〝A400は、軸上で直接音を測っても、間接音を含め、部屋でのトータルレスポンスを測っても、ほとんど同じ周波数特性を示す。技術者が今までに考えてもできなかった数少ないスピーカーシステムである。〟もちろん、メーカーの資料というものは、いいことずくめしか書いてないのは当然であるが、この件に関しては、計らずも、体験が先行したことだから信用してもよいとも思える。
 3ウェイ4ユニット構成のフロアー型で、ウーファーは20cm口径が2基、スコーカーは15cmコーン型が1基、そして2・5cmのドーム型トゥイーターが1基という内容だが、そのエンクロージュアのプロポーションがユニ−クで美しく、しかも、このシステムの優れた特性の秘密の一端を担っているものだ。幅53cm・高さ1mという大きいバッフルだが、わずか奥行は18cm少々といった薄さである。この寸法はエンクロージュア内のエアーボリュウムの厳密な計算の結果出たもので、トゥイーターのマグネット、スコーカーのキャビティ、ネットワークなどの体積を除いて、2つの20cmウーファーの低域特性の調整の最適値に設定されている。もちろん、完全密閉型だ。実に美しく、スマートな外観でもある。
 イーストコースト・サウンドといえば、重い低音の魅力が誰の耳にも記憶されているであろうが、新しいイーストコーストサウンドは鮮やかな変身をとげた。低音の質感は密閉型のエンクロージュアとは思えないもので、重苦しさがない。中高域は自然で、全帯域にわたって、きれいに位相感がそろっていてプレゼンスが豊かだ。こする音も滑らかだし、叩く音も実感があって潑剌としている。パワーにもタフだ。美しい姿といい、音の品位の高さといい、価格を超えた価値をもつ立派な製品である。

ダイヤトーン DS-1000

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ダイヤトーンの新世代のスピーカーシステムは、大型フロアーシステム、モニター1で採用された、アルミハニカムコアにスキン材を両面からサンドイッチ構造にしたハニカム・コンストラクション・コーンの低域ユニットに、新開発のDUD(ダイヤトーン・ユニファイド・ダイアフラム)構造のダイアフラムとボイスコイルボビンを一体成形したドーム型ユニットを組み合わせ4ウェイ構成としたDS505がその第一弾だ。そして翌年のDS503、これに続くフロアー型DS5000と一年一作のペースで、そのラインナップを充実させ、デジタルプログラムソースに対応するハイスピードのサウンドを追求し続けてきた。
 今回、発売されたDS1000は、型番そのものはDS5000系を受継いではいるが、その内容は従来のシリーズとは、異なった構想に基いて開発されたオリジナリティにあふれた新製品である。
 開発の基本構想は数年にわたりモディファイを繰り返し、発展改良が加えられ完成期を迎えた、ハニカム・コンストラクション・コーンやDUDの娠動系をベースとしている。それをもとに、ユニットの原点ともいえるフレームに代表される機械的な構造面を見直し、従来よりも一段と優れた振動系の特徴を積極的に引き出し、性能が高く、音質が優れたユニットをつくり、これを従来のエンクロージュアの大小で製品の位置付けを決める手法ではなく、ダイヤトーンスピーカーシステムの出発点の主張である、小型高密度設計アコースティックサスペンション方式の小型エンクロージュアに収納しようというものである。
 エンクロージュアは放送モニター2S305で実績のある、回折効果を抑えて中音域を改善し、ディフィニッションが優れ、音質定位が明確な特徴をもつラウンドバッフルを、コンシュマー用システムとして最初に採用している。バッフルボード上には、従来モデルのようにレベルコントロール、サブパネルなどがない。これらは固有共振をもちバッフル面の振動やウーファーの背圧により駆動され、中域から高域にわたり一種のパッシブラジエーターとなる。その不要輻射を生じ音を汚していた部分を全廃し、ダイレクトプリント方式でデザイン処理を施しているのである。
 この部分の不要輻射による音質の劣化は、かねてより指摘していたことだが、やっとDS1000において初採用されたことは大変に好ましいことだ。ちなみに、どのスピーカーシステムに限らず、アッテネーターツマミ、パネルなどをガムテープなどでマスキングして聴いてみていただきたいものだ。想像を絶するほどの音質改良の効果は、誰にでも容易に聴き分けられるだろう。
 現状のシステムで、重要なバッフル板に余分な穴を開けデザイン上でのアクセントとすることは百害あって一利なしの典型だ。優れたユニットの性能、音質を劣化させる重要なファクターと知るべきである。
 ユニット構成は、27cmカーブドハニカムコーン採用ウーファー、5cmと2・3cmDUDチタンドーム型の中、高域ユニットの3ウェイ方式だが、各フレーム部分は完全な剛体構造の新設計である。低域用フレームは、振動板の反作用を受ける磁気回路の反動をフレーム自体で受けるDMM方式が特徴。ちなみに一般的フェライト磁石の磁気回路は、国内製品では構成部品は接着材で固めてあり強度的に不足しているが、海外製品は基本的に前後プレートをネジで強固に結んで固定しているのが原則である。JBLはもとより、古いボサークでさえネジ締めを行なっている。つまり反動を受ける磁気回路が宙ぶらりでは仕方ないわけだ。
 中高域ユニットも、従来型のように磁気回路をフレームで受ける方式ではなく、前プレートに振動系を直接マウントし、この部分でバッフルに取付けるダイレクトマウント方式が単純明解な処理である。
 詳細は省くが、とにかくスピード感、反応の鋭さ、早さは、このシステムの異次元の魅力である。設置方法、使用機器にわずかでも不備があれば、それを音として露呈するシビアさは物凄い。まず、これを正しく使いこなすことができれば、その腕は第一級であろう。恐ろしい製品の登場だ。

アクースタットとのスリリングな一年

黒田恭一

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「同社比による徹底研究 アクースタット篇」より

 去年、つまり一九八二年の手帳を、調べてみた。なにがしりたかったのかというと、はじめてアクースタットのスピーカーをきいたのがいつであったかである。
 むろん、そのときの鮮烈な記憶が薄れているというわけではない。アクースタットではじめてきいたレコードがなんであったか、誰ときいたのか、その日の天気はどんなであったかといったようなことは、よくおぼえている。しりたかったのは正確な日付けである。なぜしりたかったかというと、あれからずっとアクースタットにかかわりつづけてきてしまったので、ぼくとしてはいったいどの程度の時間をアクースタットの周辺でうろうろしたのかをはっきりさせる必要があったからである。
 アクースタットのスピーカーをはじめてきいたのは、去年の四月二十九日である。場所はステレオサウンド社の試聴室であった。一緒にきいていたのは作曲家の、もはやすでに卵とはいいかねる、しかしまだ一人前の作曲家というには多少無理がなくもない草野次郎であった。草野君はぼくの教えているさる大学の、といってもぼくは集中講義をするだけの非常勤講師でしかないが、そういうぼくの受け持っているゼミの生徒である。先生よりすぐれている生徒というのはままいるものであるが、草野君は少し前までそのような正とのひとりであった。
 しかも、その草野君もまた、なかなかのオーディオ通でもあった。そこで、編集部の要望もあって、ステレオサウンド社が「ステレオサウンド」の別冊として企画した「サウンドコニサー」のための試聴者として参加してもらうことになった。そのときに登場したのがアクースタットであった。
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 男女の関係で一目惚れということがあるそうであるが、オーディオ機器とききてとの関係でも似たようなことがある。ただ、男女の関係での一目惚れは情熱的なおこないに思えるが、オーディオ機器での一目惚れは情熱の証明にはなりがたいようである。
 自分の過去をふりかえってみると(むろんふりかえってみるのは男女の関係についてではなく、オーディオ機器との関係についてである)、一目惚れの連続であった。そのためにこれまでにも、オーディオ通を持って自認する友人たちに、お前のオーディオの好みは支離滅裂でわけがわからんと、しばしば批判されてきた。たとえわけがわからんといわれたって、ぼくに説明のつくはずもなかった。かつて、スピーカーをAR3からJBL4320にとりかえたときも、そういわれたことがある。
 一九八二年四月二十九日も、その一目惚れをやってしまった。これは凄い、アクースタットのモデル3の音をほんの一分もきかないうちに、まずそう思った。
 そこで血迷ってさっそく買いこんでしまったわけであるが、その辺の経過について、あるいはそのときにアクースタットのモデル3というスピーカーのどのような音に決定的にとらわれたのかといったようなことは、かつて一度書いたことがあるので(ステレオサウンドNo.63)、恥のうわぬりをしてもはじまらないであろうから、ここではくりかえさない。ここで書くべきは、その後のこと、つまりぼくにおけるアクースタット騒動の後日談である。あれから後、さらにいろいろなことがあり、さらについ最近また大騒動があった。
 オーディオ機器は、むろん買うのも大変であるけれど、買ってから後がこれまた大変である。とどけられた、電気を通した、はい、音がでました、それですめばいいが、そうは問屋がおろさないことは、同志諸兄におかれては充分にご存じの通りである。しかし、そのために、オーディオは趣味たりうる。とどけられた、電気を通した、はい、これで洗濯できますという洗濯機とオーディオ機器とはやはり違う世界のものであろう。電気洗濯機的なオーディオ機器が一方にあることは歓迎すべきであるが、電気をお通してからできるオーディオがやはりもう一方にあってほしい。
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 アクースタットのモデル3はなかなか微妙なところのあるスピーカーである。スピーカーのきかせてくれる音との対話をくりかえしつつ、そのスピーカーをひたひたと追い込む使い手側の執拗さがないかぎり、このスピーカーの最良の面はなかなかひきだしにくいように思う。
 このようにいうと、アクースタットのモデル3があたかもじゃじゃ馬のごとくに考えられてしまうのかもしれないが、このスピーカーは俗にいわれるじゃじゃ馬ではない。むしろ逆である。アクースタットのモデル3を敢えてなにかにたとえるとすれば、これは、じゃじゃ馬どころか、慎ましすぎる淑女である。
 どこが淑女か。ついに下品な音をださないところである。彼女の口調が大袈裟になることは決してなく、どちらかといえば内輪になりすぎるきらいさえある。そのような属性はやはり、じゃじゃ馬のものではありえず、淑女のものというべきであろう。使いはじめの段階でいくぶんもじもじするようなところがあるところもまた、淑女的といえなくもない。
 淑女は淑女で素晴らしいとは思うが、スピーカーにあっては淑女的性格そのものがかならずしも美徳にはなりえない、ということを忘れるわけにはいかない。ききてがきく音楽は実にさまざまだからである。およそ淑女的などとお世辞にもいうことができない、けたたましくてワイルドな音楽だってききてはきくことがある。
 多くのスピーカーではあたかもじゃじゃ馬を調教するといったかたちで使い込んでいくようであるが、このアクースタットのモデル3の場合には方向としてむしろ逆である。内気な淑女の隠れた可能性を、スピーカーのきかせてくれる音に耳をすませつつ、徐々にほりおこしていくのである。そのうちに、気持も次第にほぐれてきて、はじめはくちかずの少なかった淑女もうちとけた表情になり、自分から積極的にはなすようになる。そこまでもっていくのがなかなか大変である。その努力を怠る人にはこの淑女は手においかねるかもしれない。
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 たとえばききてに対してのスピーカーの表面の角度をどうするか、これもなかなか重要問題である。角度をほんのちょっと変えただけで、きこえ方はがらりと変わった。このことはいずれのスピーカーについても大なり小なりいえることであるが、アクースタットのスピーカーでの変化量は、敢えていうが絶大である。調整などというもっともらしいいい方は好むところではないが、メジャーを片手にほんの少しずつスピーカーを動かすようなおこないは、やはり調整というよりほかに適当な言葉はないであろう。
 角度といえば、平面上の角度のみならず、床に対しての角度もまた、きこえ方にわずかとはいいがたい影響をおよぼした。したがってこの点でも微妙な調整が必要になった。このような調整にはこれといった基準があるわけではなかった。スピーカーのきかせてくる音と自分の耳との対話を繰り返しつつ、そこにある種の仮説をたて、手探りで淑女の可能性を探っていくだけであった。このときのたよりは自分の耳だけである。こうかな? それともこうかな? と自問しながら作業を進めるよりなかった。
 そのほかにもまだ、スピーカーの背後の壁面までの距離をどの程度にするとか、スピーカーの横の壁面まで距離をどの程度にするとか、あるいは二つのスピーカーをどの程度離して置くかとか、あれこれこだわることにかけてはことかかなかった。そのようにこだわることがたのしみでもあったのであるが。
 そうはいっても四六時中スピーカーの調整にのみかかわりっきりになっているわけにもいかなかったので、仕事が一段落したときとか、あるいは気分転換をするときとか、そういうときにこまめに手をかけつづけて、淑女の隠れた可能性を一応自分なりにひきだしたつもりでいた。しかし、まだ、先があった。したたかな淑女はさらに未知なる魅力を隠していたのである。
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 その未知なる魅力をひきだしたのはラスクであった。ラスクをしいて、その上にアクースタットのモデル3を試しにのせてみた。さして期待はしていなかった。JBL等のボックス型のスピーカーで効果的なのは、すでに自分の耳で確かめていた。ボックス型のスピーカーにラスクが有効なのは、このかならずしも上等とはいいかねる頭脳でも一応理解できた。
 ボックス型のスピーカーと較べて、エレクトロスタティック型のスピーカーであるアクースタットのモデル3は、床に接している面積が少ない。ということは、ラスクに接する面積も少ない、ということである。それでもなお効果があるのであろうかとここでのラスクの働きをいくぶん訝る気持がなくもなかった。
 しかし、ラスクをしいたことで、音がひきしまった。それまでだってそんなに音がふくれていくわけではないが、目にみえて(?)くっきりした。そのときまでにぼくの部屋にアクースタットのモデル3が運びこまれてからすでに一年以上の時間が経過していた。ラスクをしいた段階で、一応の目的地にたっしたような気持になっていた。
 誤解のないように書きそえておきたいと思うが、そこにいたるまでの作業を、自分としては苦労などと思えなかった。楽天的な性格の持主である男は常にいそいそとことをおこなった。スピーカーの角度をあれこれなおしたりしているときはたのしかった。それにもともとが気に入ったスピーカーの隠れた魅力をさぐっていたわけであるから、好きになった人にあうたびにその人のいいところに気づくようなもので、アクースタットのモデル3にかかわりつづけた日々はまことにハッピーであった。出来の悪いじゃじゃ馬を調教するときの苦労などそこであじわうはずもなかった。
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 かくしてぼくは、アクースタットのモデル3との蜜月をぼくなりにたのしんでいた。そこに、またしても(!)メフィストフェレスのごとき声で、「ステレオサウンド」編集部のM君がぼくに囁いた。アクースタットのほかのスピーカーもきいてみませんか?
 いつだってぼくの泰平の夢を破るのはM君である。今回もそうであった。しかも今回はぼくのおかれている状況がいつもと違っていた。そのときすでに新しい音楽雑誌「音楽通信」の準備に入っていたので、ぼくの気持としてはスピーカーどころではなかった。しかし、悲しむべきことに、誘惑に弱い男はメフィストフェレスを撃退できない。そこをM君に狙われる。まあ、モデル3の姉妹たちがどんなであるか、こういうチャンスにみておくのも悪くないな、と思った。
 そしてある日、2M、3M、それに2+2といったアクースタットの三種類のスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。たまたまそれらのスピーカーが運びこまれたときには仕事の都合で家にいられなかった。家に帰ってみてびっくりした。それまでのスピーカーも含めて都合八本のスピーカーがずらりと並んで立っているさまをみて、これはまさに摩天楼の林立するニューヨークの夜景を飛行機から眺めているようなものではないかと呟かないではいられなかった。
 それまでのスピーカーも人並みはずれてのっぽであったが、それさえも2+2の尋常ならざるのっぽさにくらべれば、可愛いものであった。摩天楼の林立した部屋の中はいつになく狭苦しく感じられた。
 出来るだけ試聴中のスピーカーに影響を与えないようにと、それ意外のスピーカーを隅の方におしやってききはしたものの、おそらくなんらかの影響からまぬがれることはできなかったであろうと思う。ともかく、モデル3の姉妹を、とっかえひっかえきいて、内心ほっとした。
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 なぜかというと、モデル3がアクースタット姉妹のなかでも優れているということがわかったからである。そうはいっても、この比較には、いくぶんフェアでないところがなくもない。なぜなら、モデル3は、ぼくの部屋ですでにわずかとはいいかねる時間をすごしていたわけであるから、設置場所等のことで或る程度のところまではもっていってあったが、ほかの三機種についてはその点でハンディキャップがあった。考えてみれば、やはり我がモデル3がいいなと思ったのも、至極当然であった。
 むろん、新参の三機種それぞれの間に、多少の優劣の差は認められた。ただ、どれがよくて、どれがよくなかったというようなことをいう前に、ひとことつけくわえておくべきことがありそうである。
 アクースタットのスピーカーでは、そのスピーカーのフロントパネルの表面面積がそれをきく部屋の容積と微妙に関係するようである。つまり、その関係がアンバランスになっては、望ましい結果がえられないということである。Aという大きい部屋で好ましくなったものでも、Bという小さい部屋ではその本領を発揮しえないということがアクースタットのスピーカーにはある。このことはほかのメーカーのスピーカーについても大なり小なりいえることではあるが、アクースタットのスピーカーではその点がかなり厳しいところがある。
 したがって、以下のことは、その辺のことをふまえた上でよろしくご判読いただきたいと思う。たまたまぼくの部屋の容積では好ましい成果をあげたものの、別の部屋に持っていけば、これがあのスピーカーか? といったことにもなりかねない。アクースタットのスピーカーではこれがベストといかれば、それにこしたことはないのであるが、このスピーカーについてはケース・バイ・ケースで語るより手がない。そこがアクースタットのスピーカーのおもしろいところでもあり、同時に難しいところでもある。
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 ぼくの部屋できいた感想をもとにいうとすれば、これではやはりこじんまりしすぎると思ったのが2Mであった。たの2Mのきかせた音は、いかにも部屋の容積に対してスピーカーの表面面積が不足しているといった感じのものであった。おそらくそのようになるであろうということは、あらかじめ予想がついた。
 このような場合のききての心理というのはおかしなもので、このスピーカーはこの程度であるかと思えたときには、やはり安心するのであろう。きき方が冷静である。ふむふむ、きみもユニットがふたつなのに、よくがんばるね、といったところである。金持喧嘩せず、とはうまいことをいったものである。これなら我が淑女の方がいいと思えているから、こっちにはまだ余裕が或る。いかにもいじましい心理ではあるが、ともかく余裕が冷静さを保たせているとみてよさそうである。
 冷静でいられるということは、熱中できないということで、一通りの試聴をすませてしまえば、さらに繰り返してきこうとしないのが人情である。この2Mのきこえ方にしても、ぼくの部屋ではいくぶんものたりなかったということでしかなく、部屋の条件が違ってくれば、おのずと2Mに対しての感想も変わってくるはずであった。
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 期待に胸躍らせてきてたのは、のっぽの2+2であった。なにぶんにもユニットが二段になっているのであるから、すくなくともみた目でほかのアクースタット姉妹とは大変に違っていた。ききての耳の位置にはおよそ関係がなさそうにおもえるところまでユニットがついていることが、聴感上どのように影響するのかが理解できなかった。しかし、ここで肝腎なのは、頭で理解することではなく、耳で納得することであった。それにはまずきいてみるより手がなかった。
 たしかに響きのスケールは大きかった。ただ、ほんのちょっとではあるが、ひっかかるところがあった。音としてのまとまりがよくなかった。音像もいくぶんふくれぎみであった。スピーカーの角度とかあれこれ、一通りのことはやってはみたものの、なるほどと納得できるところまではいかなかった。それまでのモデル3のきかせる音に較べて大味に感じられた。ここでまた、ほっと、安堵の溜息をついた。
 別にスピーカーの勝ち抜き戦をしていたわけではないが、ききての気持としては、無意識のうちに我がモデル3対2M、あるいはモデル3対2+2といったようなきき方をしていた。そして、ともかく2+2との大戦までは、まずまずの成果をおさめてきた。安堵の溜息はそのためのものであった。
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 残るは3Mであった。これは我がモデル3とユニットの数が同じである。ただ、ユニットそのものが多少違っているということであった。それに、ユニットの下に台のようなものが新たにつけられているので、全体としての背丈がいくぶん高くなっていた。
 これは、きいてみて、おやっと思った。モデル3と、微妙にとはいいがたい、かなりきわだった違いがあった。敢えてモデル3を古風な淑女というなら、3Mは現代的な淑女であった。
 もっとも違っていたのはそれぞれのスピーカーのきかせる音の輪郭であった。モデル3の輪郭には丸みがしり、それがまたモデル3の魅力にもなっているが、3Mではよりシャープであった。3Mではきこえ方がきりっとしていた。これは! と、モデル3派のききては慌てた。音としてのまとまりもよかった。なにぶんにも一年以上ならしてきたモデル3と新品の3Mとを比較しているのであるから、もともと較べようのないものを較べているようなものではあるが、それでもこの違いは気になった。
 しかし、このモデル3と3Mの音の違いは、優劣でいえる違いではなかった。浮気性のぼくは3Mの方にぐっと傾いてしまったが、ききてによってはモデル3の方がいいという人がいても不思議のない、ぼくの部屋でのきこえ方であった。
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 ここでふたたび、メフィストフェレスが登場する。さすがにこっちのことをしりつくしているメフィストフェレスである。ぼくが3Mの音をきいてぐらっときたところをみはからって、こう囁いた。どうです、この3Mのユニットを倍にした6というのがあるんですが、きいてみませんか? まだ日本に入ってきたことはないんですが、もしききたいのなら取り寄せてもらいますけれど。いや、ただきくだけでいいんですよ。なんともこしゃくなメフィストフェレスである。モデル3だけをきいていたときにはことさらのものでもなかったアクースタット姉妹への好奇心を、2M、2+2、さらに3Mときいてきて、刺激されたところでの、そのメフィストフェレスの言葉であった。ついふらふらっと、そうだな、きいてみたいな、と後先のことも考えずにいってしまった。
 なぜかいずれのメフィストフェレスも約束を守る。M君というメフィストフェレスも例外ではなかった。しばらくして、その6なるアクースタットのスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。覚悟はしていたものの、6の大きいのには驚かないではいられなかった。2+2より横にひとつずつユニットがふえただけのはずであるが、とてもそうとは思えなかった。
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 これもまた、あの2+2のように音像が大きくなりすぎるのであろうかと、その表面面積の大きさから推測したことをぼんやり考え、さしたる期待もなくききはじめた。
 このスピーカーが運びこまれたときにも仕事で留守にしていて、家に戻ったときには深夜に近かった。明日の朝ゆっくりきこうと一度は思ったものの、やはり気になったので、プレーヤーのそばにたてかけてあったレコードをかけてみた。
 気がついたら、朝になっていた。あたりにはあちこちの棚からとりだしたレコードでちらかっていた。次の日の予定のことも忘れて徹夜できいてしまったことになる。おかしいな、カーテンの間が明るいけれど、どうしたんだろうと思って外をみたら、朝になっていた。
 術の音が、背筋をしゃんとのばして、思い切りよくなっているといった気配であった。むろん思い切りよくなっているといっても、アクースタット姉妹のひとりである6のことであるから、野放図になっているはずもなかった。よくいわれるスケール感を、いささかもこれみよがしになることなく、ごく自然に無理なく、6は示した。オーケストラの響きはすーと向うの方にひろがり、ときたまソロをとる楽器があったりすると、そっちの方角に目をやってしまいそうになるほどなまなましかった。
 比較的大きな楽器編成の音楽からききはじめて、おそるおそる小編成のアンサンブルによるものに、さらに声とピアノによるリートにといったように移行していった。6は音像を肥大させるようなことはなかった。そのときはまだセッティングでことさらのことはしていなかったものの、きこえ方で特に気になるところはなかった。
 ただ、モデル3でのきこえ方と比較していうとすれば、音像が6の方がいくぶん大きいというべきであったが、これは追い込んでいくことによってさらに改善の余地がありそうであった。そのほかのすべての点で、6の方がモデル3より勝っていた。モデル3では響きが前方にひろがるという感じできこえたが、6では響きにつつみこまれるように感じられた。
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 2Mとか、2+2といった、ユニットの数が二の倍数のスピーカーがフィットする部屋と、3M、ないしは6といった、ユニットの数が三の倍数のスピーカーがフィットする部屋があるのであろうか。ほとんど自分の部屋でしかアクースタットのスピーカーをきいていないぼくには、その件に関してこれといったことがいえないが、すくなくともぼくの部屋では三の系統のスピーカーの方が好ましいとはいえそうである。2+2も素晴らしいスピーカーであるといわれているが、ぼくは実家としてどうもぴんとこない。
 オーディオを趣味とする人間には、ひとたび前に進むと後にもどれない将棋の香車のようなところがある。その辺のことを、やはり自身もオーディオを趣味とするために、メフィストフェレスのM君はしっかりわかっている。モデル3をきいてかなりの満足を味わっていたききては、6をきかされて後にもどれなくなってしまった。それだけの魅力が6にはあったということである。
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 アクースタットとのつきあいは一年半目にまたあらたな展開を示しはじめたということであるが、この一年半を振り返ってみて、そういえばといった感じで思い出すことがある。ぼくがアクースタットのモデル3にしてから部屋を訪ねてくれた、オーディオマニアとはいいかねる知人の、アクースタットのスピーカーからでた音をきいたときの驚嘆ぶりである。
 それまでにもそういうことはなくもなかったが、アクースタットのスピーカーにしてからきいた人の反応は微妙に違っていた。いい音ですね、といったような再生装置の音に対して普通つかわれるような言葉ではない、音のなまなましさを褒めてくれた人が多かった。そのことが暗示的に思える。きいていて、どきどきしちゃった、といった人もいた。なんだか怖くなった、といった人もいた。
 それらの賛辞をぼくは自分の装置の自慢の種にもちだしているわけではない。アクースタットのスピーカーの音の独特のなまなましさをお伝えしたくてもちだしているだけである。オーディオに日頃積極的な興味を抱いている人ではないから、おそらくきき方はひどく素朴である。そういういらぬ思い込みにみたされていないききてを驚嘆させるというのは、実はなかなかむずかしいことのはずである。そのむずかしいことをアクースタットのスピーカーはさらりとやってのける。ぼくがアクースタットのスピーカーにとらわれた最大の理由はその辺にありそうである。この音はまさにオーディオの音でしりながら、ききてにオーディオを感じさせない。
 しかも、M君というメフィストフェレスがいたために、香車は一歩前進できたことになる。泰平の夢は破られ、しかもさんざん揺さぶられたあげくに、こういうことをいわなければならないというのも、いかにもしゃくではあるが、やはりぼくはM君に感謝すべきであろう。
 これからまだしばらく、ぼくはアクースタット・ミクロコスモスからのがれられそうにない。

ソニー APM-55W

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 全製品に平面振動板ユニットを採用する方向に進んでいるのが、ソ二−のスピーカーシステムの大きな流れとなっているが、今回、発売されたAPM55Wは、既発売のAPM77W/33Wにつづく、平面振動板採用のスピーカーシステムの中核となる新製品である。
 一般的な口径でいえば、27cmに相当する振動板面積をもつウーファーは、スキン材にアルミ箔を採用したハニカム構造であり、ボイスコイルボビン端から伸びた4本の軽金属製のアーマチュアを介して、分割振動の低次モードにおける4点の節目を駆動するタイプだが、駆動点は振動板を駆動するアーマチュアがハニカムサンドイッチ構造を貫通して振動板の前、後面を駆動する、ダイレクト・デュアルサーフェイス・ドライブ方式と名付けられたタイプだ。
 中域は、スキン材に力−ボン織維とグラスファイバーシートを複合した材料を使う、直径8cm相当の平面振動板は、直径5cmのエッジワイズボイスコイルで直接駆動される。なお、直径4cm相当の高域ユニットは、スキン材がチタン箔、ボイスコイル直径は25mmである。
 エンクロージュアはバスレフ型で、北米産高密度材使用のウォルナット突坂仕上け。内部吸音材は、ミクロン・グラスウールや高分子化合物繊維の3種類を使い分けている。なお、ネットワークは、大電流が流れる低音用回路と高音用回路を独立させた分散配置型で、最近の高性能システムとしてオーソドックスな手法である。また内部配線材やコイルはすペて無酸素銅線使用、コンデンサー類は独自の開発による音質対策型というのは、いかにもソニー製品らしい設計である。
 APM55Wのユニークなポイントとして、別売のスピーカースタンドWS500(2台1組¥8500)が用意されており、システムの底板に設けられたネジを利用して、スタンドを固定できることがあげられる。このスピーカースタンドを含めてシステムとする方法は、とかくセッティングにより大幅にサウンドバランスが変化するスピーカーシステムを使いこなすための、ひとつの解決策として歓迎したいものだ。
 APM55Wはソニーの製品らしく、平均的なコンクリートブロックを横積1段程度の比較的に低いセッティングでバランスがとれるようだ。ブロックの固有音を避けるために厚手のフェルトを介してシステムを置き、ブロック間隔を調整してセッティングを追い込む。低域は比較的にタイトなタイプで量感よりも音の輪郭をクッキリ出す。中域は、明るくカラッとした音で、高域とのクロスオーバーあたりに、キラッと輝くキャラククーをもつ。これに対して高域は、少し穏やかにバランスをする。
 全体にモニター的な性格が、特徴であり、いかにもソニーらしい整理された音をもつが、遠近感の再生が、もう少し欲しい。

オンキョー Monitor 2000

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 このところ、オンキョーで高級スピーカーシステムを、3機種同時開発中という噂が流れていた。その第一弾として登場した製品が、このモニター2000であり、続いて20万円前後と50万円前後の高級横が発表されるようである。
 従来から同社のスピーカーシステムは、振動板の新素材として、中域以上にマグネシュウム合金を代表とする物理特性の優秀な材料を導入し、熟成に努めていたが、低域用は、紙からポリプロピレン系への置換が目立った。この材料は、かなり優れた物性値をもつが、国内の使用では最適比重範囲を特許で押えられているために、本来の性能を活かした設計が行えない難点が存在していたことは否めない事実だ。
 この点を打破すべくオンキョーが新しく採用した振動板材料は、ピュア・クロスカーボンと名付けられた素材である。基本構想は、高剛性で軽量というカーボン繊維の特徴を活かし、内部損失の不足をコーンの成型時に使うバインダーでコントロールをするというものである。カーボン繊維は、平織り状であり、ウーファーコーン用としては、これを3枚、角度を30度づつずらせて(キャップ部分は、45度、2層)バインダーで成型してある。
 カーボン繊維を振動板に使うための最重要ポイントは、繊維を接合するバインダーであり、現状ではエポキシ系樹脂以外にはなく、適度に内容損失があり樹脂固有の附帯音を抑えたバインダーを開発できるかが鍵を握っていることになる。
 新振動板採用の34cmウーファーは、φ200×φ95×25tの38cm級ユニットに匹敵する大型磁石採用で14150ガウスの磁束密度をもつ。中域は、100μ厚、直径65mmマグネシュウム合金ドームと100mmコーンの複合型振動板で、マグネット寸法φ140×φ75×17tを使用し、振動板面積を増して能率を確保する設計であり、高域は、40μ厚マグネシュウム合金、口径25mmのドーム型、マグネット寸法φ90×φ45×15tで18250ガウスの磁束密度をもつ。
 エンクロージュアは、裏板28mm厚アピトン合板、それ以外は25mm厚パーティクルボードを使い、裏板にポートをもつ変型バスレフ型だ。なお、レベル調整ツマミは小型で、バッフル面の平滑化を計るためプッシュ構造で調整時に飛出す特殊型だ。
 モニター2000は、低域を重視した製品だけに、セッティングには入念の注意が必要だ。堅めのコンクリートブロックを2段積みとしフェルトを敷いて間隔を調整する。この製品の特徴は、柔らかく豊かな低域をベースとし、しなやかで、のぴのある中域から高域がバランスしたキレイな音にある。ハードドーム独特の硬質さがなく、むしろソフトドーム的な傾向が加わっていることがユニークだ。低域重視設計のため安定度の高いことが大変に好ましい製品だ。

JBL 4411

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶での総奏が音場的ひろがりを感じさせて、しかもたっぷりとひびく。❷でのヴァイオリンがふっくらした感じでこえるので、これがJBLのスピーカーであることを思いだして、おやおやと思う。❸でのコントラバスはいくぶんふくらみぎみである。したがって❺でのリズムをきざむコントラバスも重めに感じられる。❹でのフォルテの音は硬めである。ここでもう少しやわらかいといいのだがと思う。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノはくっきりと輪郭をつけて手前にはりだす。音像的にはかならずしも大きすぎない。❷での吸う息を強調しないのはいいが、声のみずみずしさの提示でいくぶん不足している。❸ではベースの音の方がめだち、ギターの音に繊細さが不足している。したがってギターの音はきわだちにくい。❹でのストリングスは奥の方で充分にひろがり、効果的である。総じてひびきは明るい。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
❶でのピコピコいう音のくっきりとした提示のされ方はなかなか特徴的である。❷でのティンパニの音の質感そのものにはいくぶんものたりないところがあるものの、独自の鮮明さがある。そのために❸での左右への動きなどは効果的に示される。ただ、❹のブラスの音などには多少の力強さの不足を感じなくもない。❺でのポコポコについても❶と同じことがいえて、ここでの音楽の特徴がききとりやすい。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
ここでの結果がもっともこのましかった。❶ではベースがいくぶんひかえめに提示される。❷でのきこえ方も、無理がなく、自然である。とりわけピアノの高い方の音には充分な輝きがある。しかし❸でのシンバルは、どちらかといえば、消極的である。ここで特に見事だったのは❺での木管のひびきのひろがりである。これまでの部分との音色的な対比も充分についている。すっきりした提示がこのましい。

セレッション SL6

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶での各楽器の位置の示し方には独自のものがあり、まことに魅力的である。ただひびきそのものは、いくぶんまろやかさに欠ける。それと関連してのことと思われるが、❹では響きが多少硬質になり、❸でのコントラバスがコントラバス本来のたっぷりとしたひびきを提示しえないきらいがなくもない。しかしながら全体としての鮮度の高いひびきには、独自のものがあり、音場感的な面でも魅力を示す。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
いくぶんすっきりしすぎているというのが、このレコードでの試聴感である。❷での「吸う息」はきくぶん強調ぎみでなまなましい。ただ、このスピーカーの音はひびきの肉をそぎおとす傾向にあるので、ストライザンドの声の女っぽい感じが感じとりにくい。❹でのひろがりは不足しているし、❺でのはった声が少々硬質になる。しかしながら❶でエレクトリック・ピアノにのっているギターのひびきなどは実に鮮明。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
総じて響きが線的になる。むろんそれなりの興味深さはある。とりわけ❸でのティンパニの音の左右への動きの示され方などは、スピード感があってスリリングである。ただ❷でのことでいえば、ティンパニがいくぶん小さめに感じられる。そのことに関連してのことというべきであろうが、❹でのブラスのひびきには力強さの点でいくぶんものたりないところがある。❺での切れの鋭さは示されている。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶ではピアノの音とベースの音がくっきり分離してきこえる。それがこのましいことなのかどうか、いくぶん微妙だ。❷ではピアノが左右にかなりひろがってきこえる。音場感的な面での提示のしかたには独自なものがある。ただ全体的に軽い音で示されるので、❺での音のひびきとの対比ということになると、いくぶんつらいところがある。もう少しくっきりとひびきのコントラストがついてもいいだろう。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
「道具はすべて、使い手に寄り添ってくれる。」より

 XRT20を入れたとき、ぼくは、JBLユニットとの15年の成果も、これには敵わないと思った。一月ほどは、JBLのほうをかえりみなかった。ふとある日、電源を入れてみて、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや、全体のエネルギーバランスが大変似ているのに驚かされた。なるほど、ぼくがXRT20に、なんの抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追いこんできたぼくの音のバランス感覚に近い音をこのスピーカーが持っていたからだと気がついたのである。その後の1年半にわたるXRT20との格闘と、JBLシステムの改良をへて、この二つのシステムの音のバランスの差がますます縮っていくにつれ、二つの微妙な差は、こよなくぼくを楽しませてくれる。

 先程から、何回、この小さなマイクロフォンの長いコードを巻き直したことか。仕事柄、コード巻きは慣れているから苦にはならないけれど……それにしても……どうせ、巻いた後、すぐにほぐして、再びマイクを使うのなら、いちいち巻いて片付けることもないだろうに……と自分で自分を嘲笑いながら……。
 このマイクロフォンは、フレケンシーアナライザーの測定マイク。ぼくのリスニングルームのアコースティックを測っているのである。この日は、朝の9時頃から始めて、すでに夜の10時を過ぎている。そう……この間に、このマイクロフォンと測定器を、もう5度も片付けた。逆にいえば、5度、引っ張り出していることになる。これがぼくの性分で、測定器をそのままにしておいて、他のことをすることが不可能なのである。ながら族のように器用にはいかないのだ。この性分は、もう、子供の頃からのもの、いまさらどうしようもない。昔、アンプなどを自作していた頃、ぼくは周囲を全部片付けてからでないと音楽が聴けなかった。どうせ、すぐに引っ張り出さなければならないことはわかっていても、アンプを所定のケースの中に入れ、その辺に散らばった線材や半田ゴテなども片付けてからでないと、音楽が聴けなかった。オーディオ仲間の大部分は、アンプを垂直に立てたまま(つまり電圧を測る状態のまま)仮にプレーヤーやスピーカーをつないでレコードを聴いていた。まるで小工場の中にいる雰囲気で、それはそれでたいへん魅力的な、楽しい雰囲気なのだが、ぼくはこれでは、音楽を聴く、音を聴き分ける、聴き込む……といった集中力を生む心境にはなれなかった。
 ところで、この日、5度目の測定と調整を終えたのが11時過ぎ、例によって、周囲を元通りにしてから、ぼくは聴き馴れたレコードを聴いてみた。駄目だ。全然バランスがくずれてしまった。この日は、やればやるほど悪くなり、遂に、全く、ぼくの意図する方向とは反対の、客観的に聴いても、決して正しいとは聴こえぬバランスに陥ってしまった。もう、くたくたに疲れている。神経も、肉体も、正常な状態とは思えない。音を聴くことについては、録音や機器の試聴という仕事を通して、相当鍛えた自信もあるぼくだが、さすがに、13~14時間となるとまいる。今日はもう駄目だ。風呂に入って寝るとしよう。しかし……明日は仕事で出かけなければならないな……もう一度やってみようか……と未練がましく、なかば放心状態で、スピーカーから流れるモーツァルトのピアノ協奏曲に空虚な耳を晒している始末であった。もう、こんなことを何回やっているだろう。期間にすれば、一年半にはなるだろう。このマッキントッシュのXRT20というスピーカーを設置して以来だ。
 このスピーカーを鳴らし始めた時、その素晴らしさに感動し、夢中になった。MQ104というエンバイロンメタル・イクォライザーを一通り調整し、部屋におけるピーク・ディップを補正して聴き始めるのに、半日ぐらいを費やしただろうか。そこで鳴り始めた音の素晴らしさは、その立体感といい、質感といい、これぞぼくの求めていた音だと思ったものだ。新旧、あらゆるレコードを引っ張り出して、むさぼり聴いた。自分の録音したレコードも、ほとんどを聴き直した。一ヵ月ほどは、全く不満を感じなかった。多くの人が、わが家を訪れ、異句同音に、このスピーカーの素晴らしさを讃美した。中には、これはXRT20の素晴らしさもさることながら、菅野さんの音になっている……などと、過分の讃辞もいただいた。正直、ぼくも非常にいい気特になっていて、まるで、恋人のことをのろけるような気持で、このスピーカーをほめたたえた。
 一ヵ月を過ぎた頃から、よせばいいのに欲を出し始めた。アンプを取替えたり、コード類をいじったり……。さらには、イクォライザーMQ104の調整をゼロから始めることになった。
 MQ104は、左右、それぞれ4ポイントの周波数を選んで、ピーク・ディップを補正し、低域をコンペンセイトする音場補正機である。20ヘルツから20キロヘルツまでのバンドを1/3オクターヴバンドのピンクノイズ・ジェネレーターを使って測定し、最も有効と思われる4ポイントを選ぶわけだ。簡単にいえば、大きな順に4つのピーク・ディップを選ぶわけだが、これがそう簡単にはいかない。増減カーヴのQの設定とともにらみ合わせ、測定マイクロフォンの位置との関連も充分に考慮に入れて、左右の特性をそろえる最適ポイントの決定は、やればやるほど難しい。ここで、技術的なことを細かく書くつもりはないけれど、この作業は、ルームアコースティックを含めたオーディオ全般の知識理解と、忍耐力と、カンの鋭さを要求される大仕事であることを知った。特性をフラットに近づけるなどという単純な表現で済む仕事ではないのである。「一度調整したら、これを耳で聴きながらいじるべからず!」とマニュアルには書いてある。確かに、測定値を明確に読んで調整した後で、カンに頼っていいじりまわしたのでは何にもならないから、この注意書きは正しい。
 しかし、この測定値なるものが、そう簡単に信頼出来るものではないのである。単純に、リスニングポジションにマイクを置いて(原則的にはこれがベストだとは思うが……)計測した値をフラットにすることが、バランスのよい音楽の再生につながるとはいえないのである。たとえ、定在波の出にくいワーブルトーンを用いても、部屋の反射波や定在波などの複雑な影響はカット・アンド・トライの入念な積み重ねによって、聴感と、理想値特性とのバランスを求める努力を要求することになるのである。そしてまた、いくら、理屈にかなった特性だからといって、聴き手に違和感のある音を、我慢して聴くのもどうかと思う。たとえば、 リスニングポジションにおいて、スピーカーの音圧周波数特性をフラットに近く整えれば整えるほど、音は死に、リズムの躍動は止り、音色はモノトーン化するという現象がおこることも珍しくない。これには大きく二つの要因がある。一つは、リスニングポジションが、反射波・定在波の影響をきわめて受け易いポイントにあって、スピーカーからの直接放射の周波数特性とはほど遠い特性を示し、これを無理に電気的にフラットにした場合であり、他は、プログラムソースのエネルギー分布が習慣的に聴いているホール等のアコースティックとは大幅に異なるものが多いという理由によるとぼくは考えている。この他にも、細かい要因は考えられるが、この二つが最も注意すべきポイントだと思う。
 これ以上、具体的なことを書くのはここでの目的ではないが、とにかく、このルームアコースティックを含めた調整(ヴォイシング)は、とても一筋繩でいく単純なものではないのである。しかし、かといって、ルームアコースティックのなるがままという使い方では左右の特性のバラつき(音響的な)や、大きなピーク・ディップによる音色や音場感の変化などが必ず生じ、良質な再生音を得ることは難しい。むろん、部屋の特性を音響的にコントロールすることが正統的な方法だとは十分心得ているけれど、これは、さらに難しく途方もない出費につながる大仕事となること必定である。
 一度、このヴォイシングの仕事にこり始めると、たった4ポイントの組合せと、レベルの変化によってさえ、無限ともいえるバランスの再生結果が生じることを知らされるのである。因みに、部屋の中の数ポイントの測定値の平均均をとるなどという方法は乱暴きわまるもので、一つの尺度としてならともかく、最終的に、これをリスニングバランスとするのは危険きわまりないことであることもわかった。結局、測定を細かくおこなって、大きく把握判断し、これを尺度として、耳による細部の調整をすることが、唯一の方法であるという結論に達した。そして、同じバランスにしても、アンプがちがえば全く違った音となり、また、そのアンプで調整のやり直しの必要があるという、当り前のオーディオの現実を再々認識させられるのであった。
 明日は仕事で出かけなければならない。それに気がついた途端、ぼくは、風呂に入って寝ることを断念した。そして再び、測定器を引張り出すのであった。疲れている時には、ろくなことにならないことは解り切ってはいたが、こんな状態で、ぼくの装置を、たとえ数日間といえども放置することを考えると、その苦痛のほうがたまらない。なにをしていても、これが気にかかってしかたがないという、ぼくの性格的欠陥を誰よりもぼく自身がしっている。なんとかして、せめてその日の朝の状態に戻したい。記録を見ながら、周波数ポイントとレベル位置を元に戻す。そこで確認の測定。また、かなり大幅に異なった測定値を示す。道具を片付ける。音を聴く。駄目だ。もう一度。今度は発想を変えてみよう。夜も更けた。測定レベルをスケールダウンする。
 遂に、外が白み始めた。ガチガチと牛乳配達の音。朝である。約20時間を費やした。結果を音楽により判定する能力はもうなくなっていた。電源を切り、ベッドへもぐり込む。わかっていながら、もっとも無駄なことをやったという想い。しかし、これも、紙一重の音のよさを実現するための、しなければならない努力であり、必ず、なにか得るものがあったはず……という自らの慰めが交互する。神経ばかりが冴えて、体は疲れ切っているのに眠れない。3~4時間、夢うつつ。ピンクノイズやワーブルトーンに、グラフの数値、マイクロフォンを移動するにつれてフワーフワーと動くレベルメーターの指針の動きが眠っているはずの頭の中を去来する。あの時の、デ・ワールトとロッテルダム・フィルのデ・ドーレンに響きわたった木管と弦合奏の、あのテクスチェアー、カシミアのように軽く暖かく、柔らかい、あの質感が、いつ戻ってくるのか? こんなことなら、何も手をつけるべきではなかった。この馬鹿者が! いや、やってみせるぞ。そして、あの時のチェロとコントラバスのピツィカートの濁りをとって、より明確な音程の把握とを両立させてみせるぞという意気込みが交錯する夢と、現実の間を往ったり来たりという体たらくであった。
 それから4日目に、ようやく、一つの満足点を見つけ出すことに成功した。やった、やった。XRT20の可能性を信じてよかった。なんと、あのサン=サーンスの第3交響曲の第一楽章、第二部のボコ・アダージョ(デ・ワールト指揮ロッテルダム・フィル)の気になっていた数個所が、見事に解決したのである。弦合奏のカシミアタッチがカムバックしたし、ヴァイオリン群のしなやかさが、より美しく、そして、低弦のブーミーな響きがとれながら、オルガンのペダルは荘重に鳴り響いた。どうしてもヒステリックに鳴ったジュリーニ/シカゴ響のドヴォルザークの八番のシンフォニーのグラモフォン盤も、ずっと滑らかな高弦の響きに変り、低域の改善のためか、リズムが一段と力強く脈動するようになった。フィルクスニーのピアノの、あの独特のペダリングによる響きのニュアンスも、ぼくが録音で意図した音に近づいた。ダイアローグという、やはりぼくが録音したジャズのレコードのバスドラムの音も明らかに改善され、豊かなハーモニクスと、力強いファンダメンタルとが、ほどよいバランスの音色にまとまった。ローズマリー・クルーニーもよく歌うようになった。ややハスキーで太目の彼女の年増の魅力が、前よりずっと現実的になった。〝恋人と別れる50の方法〟を、わけ知りの彼女なら、こういうニュアンスで歌わなければいけない。
 ぼくは、レコード音楽の醍醐味に酔いしれていた。何という幸せであろう。この音で聴けるのなら、もうぼくは、周囲にわずらわされるコンサートなど、くそくらえだと思う。グレン・グールドではないけれど、コンサート・ドロップアウトである。そこには、もはや、スピーカーの存在はない。音楽の場が存在するだけだ。リスニングルームの壁は、いつの問にか取り払われて、その向うに、すっと空間が開け始める。苦しみの多かった分、そっくり、それは喜びと幸せに変ってくれる。オーディオはこれだからやめられない!
 こうして、ぼくの部屋のマッキントッシュXRT20は、一年半の格闘の末、ようやくぼくが、このスピーカーの可能性を引き出したと納得出来る鳴り方で鳴り始めたのであった。
 しかし、実をいうと、ぼくには、すでに17年ものつき合いをしている、もう一組のスピーカーシステムがあった。JBLのユニットで構成した、3ウェイのマルチチャネルシステムである。XRT20を入れた時、ぼくは、明らかに、JBLユニットとの15年の成果も、これにはかなわないと思った。亡くなった瀬川冬樹君は、XRT20を置いてひと月日ぐらいの頃にわが家を訪れ、その音が、XRT20もさることながら、これは菅野サウンドだよと評してくれた一人である。そして彼は、もうJBLは外へ出してしまうべきだと主張したものである。たしかに、この大きなJBLのシステムを外へ出すことによって、XRT20にとっては、より理想的な音響条件が得られることは事実で、ぼくも、時折、そうした衝動にかられることがあったものだ。だいたいこのJBLのシステムは、17年ほど前に、瀬川君と時を同じくして使い始めたもので、その後、彼のほうはKEFや同じJBLの4341、4343と、幾世代もの変遷を経たにもかかわらず、ぼくのほうは一貫して基本的には大きな変更をせずに、リファインすることに努力を傾注し続けて釆たものだった。075トゥイーター、375+537-500ドライバー/ホーン、そしてウーファーはエンクロージュアを含めて、何回も変っているが、当初からぼくはマルチアンプシステムでこれを鳴らしてきた。例のこだわりのしつっこさで、XRT20がくるまでの15年、これが、メインシステムとして、ぼくのオーディオの触手のようになっていたものである。
 XRT20を入れてひと月ほどは、これに夢中になって、JBLのほうをかえりみなかった。瀬川君に出してしまえといわれて、ぼくは気がついたように、ある日久し振りに、その3チャンネルマルチシステムの電源を入れたのである。ぼくは、この3チャンネル・マルチシステムをXRT20と比較試聴するる気はなく、ひと月ほどXRT20に馴染んだ耳には、きっと異質に聴こえるだろうという気持で鳴らしたものだ。ところが自分でもびっくり、その音に違和感はなかった。この二つのスピーカーは、片やドーム型トゥイーターとコーン型スコーカー、そして一方は、ホーン型トゥイーターと同じくホーン型スコーカーである。ユニットの性格は全くちがう。しかも、御存知のように、XRT20というスピーカーシステムは、24個ものトゥイーターを縦長のアレイに組み込み、ウーファー/スコーカー・セクションと分離した、きわめて特殊なシステムだ。
 だいたい、ぼくの経験では、二台のスピーカーを並べて聴くと、少なくとも色のちがいを認識するのと同じ程度、音はちがって聴こえるものである。それも、同じような構成のシステムでさえ明らかにちがう。別々に聴いて似ているような二組でも、切り換えて聴くと、色でいえば、赤とピンクほどのちがいが出るのが普通である。ノイズを聴いても、片方がサーなら、もう一方はカー、片方がザーなら、もう一方はガー、もっとひどい場合は、シーとガーほどちがう。その体験からすると、ひと月の間XRT20に馴れた耳にJBLは、さぞかし硬く鋭い音がするだろうと自分で思い込んでいたのである。ところが結果は、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや全体のエネルギーバランスはたいへん似ていたのである。これには、われながら驚いた。そして、なるほど、ぼくがXRT20に何の抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追い込んできたぼくの音のバランス感覚に近い音を、このスピーカーがもっていたからだと気がついた。
 もちろん、これだけちがうユニットだから、よく聴くと音の輪郭や質感にちがいはある。JBLを、やさしく、柔らかく、暖かく、馴らしてきたつもりであったけれど、XRT20のもつ、しなやかさ、柔軟さとはやはりちがって、よりクリアーでシャープな解像力をJBLはもっていた。音場は、XRT20が、スピーカーの後面に奥行きとして拡がるのに対し、JBLはスピーカー面から前に出る傾向をもつ。しかし、この点でも、ぼくのJBLはセッティングの苦労の結果、一般的なJBLよりずっと奥行き再現が可能ではあるが……。
 こうした本質的なちがいは残しながらも、その音の全体像が、大きくちがわないことに驚かされたぼくは、当時XRT20に使っていたマッキントッシュのコントロールアンプC32の出力を、片やXRT20をドライブするMC2500に直結したMQ104エンバイロンメンタル・イクォライザ一に、そしてもう一方を、JBLを3チャンネルでドライブしているアキュフェーズM60(低域用)テクニクスSE-A5(中域用)エクスクルーシヴM4a(高域用)に帯域分割をおこなっているチャンネルデバイダーのエスプリTA-D900に分岐した。C32は、パネル前面で2系統の出力を瞬時にノイズレスで切り換えられるので、きわめて便利である。こうして、両者のレベルを大ざっばに合わせて切り換え試聴をしてみて二度びっくり。ほんとうによく似ていたのである。時には、今どちらが鳴っているかわからないぐらいの似かたであった。新鮮さのなくなった古女房にあきて、浮気の相手をつくったはよいが、よりによって、女房とそっくりの女性だったという、よくある話のようなものだろう。あの人、どうせ恋人をつくるのなら、奥さんとちがったタイプの女性のほうが楽しいだろうに……と、よく人はいう。ぼくの友人にも、そういうのがいる。本人の好みというのはそういうものなのだろうと思っていたが、ぼく自身、恋人のほうはともかく、オーディオで、これと同じことをやっているのにわれながら驚き、苦笑した。
 なんということだ、これは。いや、しかし、面白いことになったぞ。これは、ますます、JBLも手離せないぞ……ということになってきた。よく聴き込むと、微妙な差が、なんともいえず互いの魅力をひき立てて、互いに互いを手本にして鳴らし込んでいくことに新たな興味が湧いてきた。XRT20にはピアノやパルシヴなジャズで調教をほどこし、JBLには、豊かなソノリティとプレゼンスをもった弦やオーケストラで調教をほどこすというアイデアが浮んできたのである。
 先に書いたXRT20のヴォイシングのあい間には、JBLのほうも、あれこれと調整をやっていったのである。この経過がまた、多くの点でぼくにとって勉強になった。この二つのスピーカーの指向性パターンや波状の違いも明確に把みとることが出来、JBLのユニットのセッティングポジションにも多くのヒントが得られた。JBLには、XRT20のように、全帯域のヴォイシングはおこなっていない。ウーファーの受持領域である、500Hzまでに、テクニクスのSH8075を挿入して、ピーク・ディップを補正するに止め、500Hz以上の中・高域は、デバイダーの出力にパワーアンプを直結している。したがって、500Hz以上のf特は、375ドライバー、075トゥイーター(これは、やや改造されているが……)の特性のままなので、XRT20の500Hz以上とはずい分違う。にもかかわらず、実際には、そんなに大きな違いは音楽再生で感じられない。これは、少なくとも、7、8人の人が、両方を聴いて驚かれているから、決してぼくの錯覚ではないと思う。。
 JBLシステムは、その後、遂に、中域のドライバーを375から2445Jに変更した。17年使い込んだ375にはエイジングの点からも、愛着からも、惜別の思いであったが、2445Jのもつ、より優れた特性、とりわけ中高域にたるみのないエネルギー、フラットな特性と、歪の少ない、自然な音質に強く魅せられてしまった。17年使い込んだ375に比べても、まるで、長年エイジングをほどこしたような柔軟でしなやかな鳴り方である。昨年の12月、サンスイJBL課の好意で試聴させてもらったが、もう、即座に「これ買うよ」ということに相成ってしまった。そしてまたもや、JBLシステムの調整が始まった。しかし、これは、それほど苦労はしなかった。といっても、12月13日に新しいドライバーに変って以来、時間さえあればリスニングルームに入りっぱなし、暮から正月にかけては、やや体の調子をくずしてしまうほど、あれこれとやっていた。その結果、この一月の中頃から、ようやく納得できる音になったが、XRT20との音のバランスの差はますます縮まり、音質の違いをこよなく楽しんでいる。そして、この二つのシステムならば、ぼくの聴きたい音楽のすべてをカバーしてくれるという満足度を、今のところ持っている。この二つのスピーカーにはまだ可能性があるはずだ。なければ、ないでいい。ぼくにとっては、スピーカーをいじること自体が目的ではないし、スピーカーそのものが目的でもない。自分の欲する音で、音楽を聴くのが目的だ。スピーカーの優秀性というのは、ぼくがいつも思うように、可能性であって、結果は使い手の腕と努力次第だ。世間のほとんどのスピーカーは、その能力の50%からせいぜい70%止りのところで鳴っている場合が多い。ぼくのオーディオの楽しみは、これをなんとか100%に近くもっていくところにある。17年かかっても、JBLのユニットが100%能力を発揮しなかったのは事実だ。マッキントッシュのXRT20だって、ぼくが今満足しているからといっても、100%能力を引き出しているとはいえないだろう。そしてまた、これが大切なところであるが、道具はすべて、使い手に寄り添ってくれるという性格のフレキシビリティをもっていることだ。ろくすっぱ使い込まないで、あれこれと道具を取りかえるのは愚かなことである。それが、信頼出来る機器として認められ、かつ、自分が選んだものであるならば、とことん努力をしてみるべきだろう。道具を過信し、道具に寄りかかっている人の場合、不満が出ると、すぐ道具のせいにする。そして他の道具に、ころりと初対面で目移りがしてしまうのではないか。道具は手段、結果は自分であることを認識すべきだしぼくは思うのだ。
 この3年間ほど、ぼくは本当にオーディオを楽しんだ。そして、これからも、楽しみたい。コンパクトディスクという新しいプログラムソースが出てきたからには、また、新しい楽しみの世界が用意されるにちがいない。現に、ぼくは、コンパクトディスクのあのグレン・グールドのゴールトベルク変奏曲で近来にない興奮の時を過している。一日一回は、あのコンパクトディスクを聴かないとおさまらない。時間がない時には、アリアと第一変奏だけでも聴く。ぼくに、これだけの音楽的満足感を与えてくれるのだったら、アナログレコードだろうとテープだろうとコンパクトディスクだろうと、レーザーディスクだろうと関係ないが、ぼくはグールドという演奏家が死の間際にデジタルレコーディングを残し、しかも、あのゴールトベルク変奏曲のような素晴らしい成果を記録したことに大きなオーディオ的意義と喜びを感じている。コンサート・ドロップアウトを宣言し、レコード録音に音楽家の生命をかけた、この孤高の天才にとって、このコンパクトディスクの成果は正当な報酬といえるであろう。新旧二つのグールドのゴールトベルク変奏曲を聴く時に、その演奏の違いと、録音の差に限りない興味を抱くものである。もし、この演奏が、レコードやテープでは発売されず、コンパクトディスクでしか聴けないとしたら、ぼくは、この一枚だけのために、二十万円を投じてCDプレーヤーを買っても悔いないであろう。そして、このコンパクトディスクを、ぼくの知識と体験と、感性の全力を注いで、よりよい音、より好ましい音で聴く努力を惜しまないであろう。惜しむどころか、それがぼくのオーディオの楽しみである。ぼくのXRT20とJBLシステムの今の段階のように、ある程度の満足をしている状態はあったとしても、決して、これでレコードの情報のすべてを聴いたと確信できるわけではないし、また、その機器の能力を100%発揮させたと自信をもっていえるはずもない。全部を聴きたい、100%発揮させたいという願望を、生命ある限り持ち続けるということである。だから、ぼくのオーディオの楽しみは、これから先、ずっとつきることはあるまいと思う。ぼくは、いつも、音に対してハングリーなのである。満腹は一時の満足に過ぎない。

JBL 4411

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 音としての表現がごり押しになっていないところがこのましい。しかし提示すべきことはしっかり提示されている。これで低い方の音に力強さが加われば、さらに音は説得力をますのであろうが、その点でいくぶんものたりないところがある。
 低い方の音がしっかりおさえられていると、たとえば①のレコードでの❺のコントラバスがふくれることもないであろうし、③のレコードでの❷のティンパニの音が質感に不足することもないのであろう。その点をいかにカバーするかが、このスピーカーをつかっていく上でのポイントになるかもしれない。
 ただこのスピーカーはいかなる場合にも提示すべき音を輪郭をぼかさずに提示するので、その意味ではつかいやすいといえそうである。㈰のようなオーソドックスなレコードに対しても、あるいは②、③、それに④のレコードできけるような音楽に対しても、わけへだてなく対応するところはこのスピーカーのいいところである。

セレッション SL6

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 すっきりしたさわやかなひびきに特徴がある。これでやわらかくまろやかなひびきにもう少しきめこまかく対応できていたら、さらにさわやかさが映えたであろうと思う。ただ、こういうきかせ方のスピーカーは、鮮明さを尊ぶききてには歓迎されるにちがいない。
 このときの試聴では、どちらかというと、全体的に細く硬めに、そしてクールな音になっていたが、これは、アンプやカートリッジとの関係も含めて考えなければいけないことのようである。ここではたまたま鮮明さによりすぎたきらいがあったものの、それにしても嫌な、刺激的な音は決してださなかった。その辺にこのスピーカーの素性のよさを認めるべきかもしれない。
 ただ、低い方のひびきをどのようにしてふくらませるかということでは、多少難しいところがなくもないようである。音の傾向としては現代的なスピーカーといえるのかもしれない。

4枚のレコードでの20の試聴点についての補足的ひとこと

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 4枚のレコードのどこをどうきいたかは別項に記した通りである。いずれも2分にみたない時間内にそれぞれ五つずつの試聴点(チェックポイント)を定めてきいた。さらに試聴点をふやすこともできなくはなかったが、あまり多くても繁雑になると考え、それにメモをとるスピードのこともあって、五つにとどめた。
 メモにはすべての試聴点についての印象を記したが、それらのうちからきわだって特徴的なところに的をしぼって原稿にまとめた。あわてて書いたためもあって、しばらくしてメモに目を通したときには、いささか判読に苦労したところもいくつかあった。
 このような試聴点を定めてきくこともまたはなはだ主観的な作業の一種でしかありえないが、ほとんど動物的な直感でそれぞれの試聴点でのきこえ方に反応し、それをメモして次のところをきくということの連続であったから、あれこれ考えている間があるはずもなく、そのためにまことに即物的な試聴記にならざるをえなかった。ただ、もしこれら4枚のレコードのうちいずれかをお持ちで、試聴者がどこをどのようにきいたのかをお知りになろうとしたら、音楽の一応の目安の経過時間を手がかりに、それがわかるようにはなっている。
 ただ、一枚目のレコードでの第一試聴点で「弦楽器のみによる総奏のひびきのまろやかさが感じとれるか」とぼくはしたが、しかし、いかなるひびきをまろやかと感じるかは十人十色であるから純粋に客観的な試聴記になっているはずもない。そのつもりでお読みいただきたい。しかしながら、きいての印象を漠然と記すよりはいくぶんかは具体的になっているかもしれず、その具体的になった分だけこっちは逃げ隠れできないことになるから、小心翼翼の試聴者にとってはつらいことである。
 記述は、まず個々のレコードでのきこえ方について書き、ついでまとめという感じで、個々のレコードでのきこえ方をふまえて、そのスピーカーの特徴を書いた。つまり個々のレコードでのきこえ方が部分であるとすれば、まとめはその部分から読みとれた全体ということになる。

タンノイ Westminster

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
このレコードのきこえ方としては最高のもの。❶の総奏のふっくらとした気配にはほれぼれとした。演奏している楽器の艶が目にみえるようであった。❸ではコントラバスのたっぷりとしたひびきが十全に示され、しかも音像的な面でのふくらみもなかった。❹のフォルテでもひびきが力ずくにならず、❺での音場感的なひろがりもすばらしかった。鮮明で上品なきこえ方は見事の一語につきる。すばらしい。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶のエレクトリック・ピアノが優雅に感じられた。しかし、エレクトリック・ピアノがこのようにエレガントにきこえていいものかどうかとも思わなくはない。❷での声のなまなましさについてはあらためていうまでもない。❸でのギターのデリケートなひびきへの対応は絶品というべきであった。全体としてのひびきのバランスにはいささかの無理もなく、音場感的な面でもすばらしく、ききごたえがあった。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
イギリスの貴族の屋敷でロックをきいているような気分になる。音質的な面でなんら問題とすべきことはないが、ひびきの性格で、このレコードできける音楽とこのスピーカーの音ではいくぶんずれがあり、したがってこのヴァンゲリスの音楽のうちの「新しさ」はここではかならずしもきわだたない。しかしながら、ここできける音はそれなりの説得力をそなえている。そこがこのスピーカーの強みであろう。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
このレコードの微妙に人工的な手の加えられた録音を大変自然にきかせる。❷でのピアノのきこえ方など、まとまりのよさということではとびぬけている。❶でのピアノの低い音に重ねられたベースの音は、ききてがきこうとすれば充分にききとれるように示されているものの、かならずしもことさら強調はしない。❸でのシンバルのひびきの輝きは、演奏者の意図を十全にあきらかにしたものといえよう。

タンノイ Westminster

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 さまざまな傾向のスピーカーがあるが、これはそのうちのひとつを極めたものといえるであろう。ともかくここできける音は、いずれの音も磨くに磨かれた音である。その結果、ここできける音にはとびきりの品位がある。がさついた下品な音とか、刺激的な音とかは、決してださない。
 このスピーカーにもっとも合っているレコードは、やはり①である。これはすばらしいとしかいいようがない。
 ②、③、あるいは④のレコードも、それなりに美しくきかせるが、これらのレコードのうちの「今」をストレートに感じさせるかというと、かならずしもそうとはいえない。しかし美しさということでは無類である。ほかに例のみられないような美しさである。
 ただ、これだけ確固とした世界を高い水準できずきあげているスピーカーになると使い手の側にもそれなりの覚悟がないとつかいきれないのかもしれない。

パイオニア S-955III

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶での総奏がふっくらひびくところにこのスピーカーの特徴がありそうである。❸でのコントラバスのひびきが、ひきずることはないが、まろやかで、コントラバスならではのゆたかさが感じられる。❷でのヴァイオリンの音にしても、決してきつくならず、あくまでもやわらかい。❺ではもう少し音場感的なひろがりが示せてもいいとは思うが、さまざまな楽器のひびきのバランスはこのましく示せている。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノの音はいくぶんふくらみすぎの気味がある。❷での声は音像的に多少大きめではあるが、声そのもののなまなましさをよく示す。❸でのギターの音は繊細さという点で不足する。太くくっきりひびきすぎるためである。❹でのストリングスは、ひろがりも充分であり、ストリングス本来のひびきのしなやかさもこのましく示しえている。❺での声も余裕をもって示している。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
このレコードでのきこえ方をとりまとめていうと、力強い音にこのましく対応しながらも、決して表現がごりおしにならないということになる。ただ、ひびきそのものがいくぷん重めなので、❹で求められる疾走感は稀薄である。重層的にかさなる音の感じはよく示している。❺ではもう少しくっきり示されてもいいように思う。ポコポコいう音がどうしてもふくれてしまう。その点が少しものたりない。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶でのピアノの下の音とベースの音とのきこえ方のバランスが大変このましい。❷での提示も自然である。きめこまかい音への対応力がすぐれているために、個々のひびきの特徴をあきらかにできていると考えるべきであろう。❸や❹での高い音も、もう少しきらめいてもいいとは思うが、それぞれのひびきの特徴は提示しえている。このレコードでのきこえ方は、なかなかこのましかったというぺきであろう。

JBL 4344

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❸でのコントラバスがコントラバスならではのひびきの余裕を感じさせてこのましいが、いくぶん音像的にふくらみぎみである。そのことと関係してのことかどうか、❶から❷にかけては、ヴァイオリンより低い弦楽器の方がきわだってきこえる。総じて弦のアンサンブルによる演奏ならではの、しかもその点でのあじわいをうまくとらえた録音のよさをうまく示しえているとは、残念ながらいいにくい。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノの音が前の方でくっきり提示される点に特徴がある。❸ではギターよりベースの方がきわだつ。ギターの音はもう少しきめがこまかく、輝きがあってもよかったように思う。❺でのバックコーラスがいくぶん手前の方にせりだしぎみにきこえる。このスピーカーならではの積極性のあかしと考えるべきかもしれない。❷での声も輪郭をしっかり示して独自のなまなましさを示す。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
迫力にとんだきこえ方である。さまざまな音の力感をよく示せているからである。❸での音の動き方などにしても効果的である。ただ、奥の方からきこえるべき音も前の方にせりだしがちなので、前後の音場感ということでは、多少ものたりなさがある。❷でのティンパニの音などは、もう少しきりっとまとまってもよかったのではないかと思う。いくぶん音像がふくれ気味になっただけ、鋭さに不足している。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶ではピアノの音よりベースの音の方に耳がひきつけられがちである。❷でのピアノのひろがり方はほどほどである。❺での管楽器が加わっての音色的対比は十全であり、さすがと思わせる。❸でのシンバルの音は、もう少し輝きがほしいと思わなくもないが、くっきり示す。ただ、ここでも、奥へのひきという点で、いま一歩と思わなくもなかった。このレコード特有の音色的な特徴は十全にあきらかにした。

パイオニア S-955III

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 ①と④のレコードでのきこえ方がすぐれていた。ふっくらとした音の示し方にきくべきものがあったためといえよう。
 このスピーカーのよさは、神経質にならずにおっとりときけるところにあるようだ。ただこれでさらに、たとえば②のレコードの❸のギターのような音をもう少しシャープに示せれば、魅力は倍加するのであろうと思わなくもない。
 つまり、シャープな音に対しての反応でいくぶん甘いところがあるということである。ただ③のレコードでの❶の金属的な音の特徴も示せていたので、スピーカーそのものはシャープな音に対しての反応力をそなえていると考えることもできる。
 使うアンプやカートリッジで工夫することによって、シャープな音への反応力をますこともできなくはなさそうである。いずれにしろ神経質なひびきを決してきかせないのはこのましい。

JBL 4344

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 このスピーカーに対してこれまで抱いていたイメージといくぶんちがうきこえ方がした。カートリッジ、あるいはアンプとの関係があってのことと思われた。
 音の輪郭をあいまいにすることなくくっきり示し、しかも積極的に音を前に押しだすところに、このスピーカーのもちあじのひとつがうかがえた。ただ、総じて、音像がふくらみすぎる傾向があり、そのために鋭さがそこなわれているところもなくはなかった。
 ①のレコードなどより、②、 ③、④のレコードの方が性格的にこのスピーカーにあっているといえそうである。①のレコードを不得手とするのは、きめこまかさへの対応ということでいくぶんいたらないところがあるためかもしれない。
 それぞれのレコードのサウンドキャラクターを拡大して示す傾向があり、それはこのスピーカーの順応性のよさゆえといえなくもないであろう。

JBL L250

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
くっきりきこえはするが、全体的にひびきが乾燥ぎみで、したがって❷のヴァイオリンなどはあじわいにとぼしい。❶での総奏の音のひろがり方には独自のものがあるが、ひびきそのものの溶けあった感じの提示ということになると、ものたりないところがある。この種のレコードの音はこのスピーカーにとって不得手といえるのではないか。❸でのコントラバスの音像はほどほどでまとまってはいるが……。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❷でのふたりの声はやわらかさをあきらかにしているし、吸う息もなまなましく示す。しかし❸ではギターのひびきの提示がいくぶん弱く、ベースの方がめだちがちである。❹でのストリングスの後へのひきが多少不足している。❺でのバックコーラスとのかかわり方も、ブレンド感とでもいったものでものたりない。うたわれる言葉の子音がきわだってきこえる傾向がなくもない。❶での音像は大きめである。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
今回試聴に用いた4枚のレコード中でこのレコードでの結果がもっともこのましかった。このレコードできける音楽のダイナミックな性格をよくあらわしていた。とりわけ❹での疾走感はききごたえ充分であった。❺でのポコポコも、音像的にふくれすぎず、ほかの音との対比もついていた。さまざまなひびきが入りまじってのひろがりもこのましくあきらかにできていた。❷のティンパニも力にみちてひびいた。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶でのピアノの音とベースの音のきこえ方は自然で無理なくこのましい。また、まとまりということでも、すぐれている。ただ❷での、高い音と低い音とのつながりは、かならずしもよくない。高い音と低い音がいくぶん不連続にきこえる。この辺にこのスピーカーの問題点がなくもないようだ。❸ないしは❹でのシンバル等の打楽器のひびきは、かならずしも効果的とはいいがたく、ひびきとして薄めである。

ビクター SX-10 spirit

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❷でのヴァイオリンがくっきり、しかもこってり示されるところに、このスピーカーの特徴がしのばれるようである。ただ、それなら❸でのコントラバスがたっぷりひびくかというと、そうともいいがたい。ひびきがひきずりぎみにならないのはいいところであるが、コントラバスのひびきの余裕といったようなものは示しえていない。❹でのフォルテはすくなからずきつめであり、しなやか
さに欠ける。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノの音はぼってりとしている。ひびきが薄くならないのはこのスピーカーのいいところというべきであろうが、エレクトリック・ピアノならではの一種独特のひびきの軽さに十全に対応できているかというと、かならずしもそうとはいいがたい。❸でのギターの音にはもう少し切れの鋭さがほしいところである。❸でのギブの声は硬めになる傾向がなくもないのが気になる。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
❷ではティンパニのひびきの力強さはこのましく示すものの、そのひびきのスケール感の提示ということではいま一歩といったところである。❸では左右への動きに一応は対応するものの、動きの鋭さはあまり感じさせない。❹ではブラスの力強さへの対応は充分であるが、シンバルのひびきはいくぶん甘くなる。このレコードできける音楽の現代的な鋭さがかならずしも充分に示されているとはいいがたい。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
ほどよくバランスがとれているということでは、今回試聴した四枚のレコードの中で、このレコードがもっともこのましかった。❶でのピアノの下の音へのベースの重なり方の提示なども、強調感がなくて見事であった。❷での右よりのピアノの音のくっきりした提示はすぐれていた。❺での両者の対比も過不足なかった。ただ、❸での高い音のひびき方にもう少し輝きがあれば、さらにこのましかったであろう。

JBL L250

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 レベルコントロールを微妙に動かして(というか切替えて)追いこんでいけば、さらにこのましい結果が期待できなくもないのかもしれぬが、今回の試聴では一応それぞれのレベルコントロールをフラットの位置できいた。そのためかとも思われるが、高い方の音と低い方の音で、ひびきの性格がいくぶんちがっていたように感じられた。
 ただ、このスピーカーの音は、基本的なところで、俗にいわれるJBL的な音から離れたところにあるということはいえそうである。④のレコードでの❶の部分などは独自の静かな気配の感じられるもので、印象的であった。なるほどこれは新しい時代のJBLの音かとも思ったりしたが、その方向で十全にまとめられているかというと、そうともいいきれないところがあり、全体的な印象としてものたりなさを感じた。
 サウンドキャラクターの点でいささか徹底を欠いたとでもいうべきであろうか。

ダイヤトーン DS-5000

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
基本をしっかりおさえた音のきこえ方とでもいうべきか。硬に対しても軟に対しても、過不足なく、バランスよく対応しているのはさすがである。❶での総奏の、力を感じさせながら、同時にひびきのひろがりもしっかり示す。❸ないしは❺でのコントラバスは、ひびきの円やかさを保ちつつ、くっきりと輪郭を示し、しかもぼてつかない。ひびきの力を示しながら重くならないところがこれのいいところである。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノを、くつきり示す。しかし音像的にはいくぶん大きめである。❷での声も積極的に前にはりだす。しかしこれもまた音像的にはいくぶん大きめである。❸でのギターの音は、太く、輪郭をしっかり示しながら、提示される。決して雰囲気的にならないところがこのスピーカーのいいところである。❺でははった声の力を示しながら、それでもきつくならないところがいい。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
ひびきの力の提示、あるいはひびきの力の変化を、いささかもあいまいになることなく示す。❷でのティンパニの音などは迫力充分である。音場感的な面での前後のひろがりも充分ではあるが、しかしだからといってスペースサウンド的な性格をきわだたせるかというと、そうともいいがたい。❶でのピコピコとか❺でのポコポコは音像的に多少大きいが、充分な効果をあげているということはいえる。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶でのピアノの音には独自の実在感がある。ベースの音にも似たようなことがいえる。❷でのバランスとまとまりはとびぬけてすぐれている。❸と❹でのシンバル等の打楽器のひびきの特徴も十全に示す。❺での木管楽器の一種独特の軽さと乾きの感じられるひびきにもこのましく対応して、それ以前の部分との対比にも問題ない。基本的なところをしっかりおさえているよさがこのましく発揮されている。

ビクター SX-10 spirit

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 中音域での音のエネルギーの提示に独自の威力を発揮するスピーカーといえよう。もう少し高い方の音への対応にしなやかできめこまかいところがあると、このスピーカーの魅力は倍加するのであろうが、その点で少しいま一歩という感じである。
 今様な音楽の多くはきめこまかいひびきにその表現の多くをゆだねているが、その点でさらに対応能力がませば、このスピーカーの守備範囲もより一層ひろがるにちがいない。しかし、多くの音楽の基本は中音域にあるわけであるから、その中音域をしっかりおさえたこのスピーカーは、俗にいわれる基本に忠実なスピーカーということもできるにちがいない。
 ひびきの軽さへの対応ということでさらにもう一歩前進できれば、たとえば③のレコード等で示されている現代的な感覚を鋭く示せるであろう。しかし、なにごとによらず基本を尊重するということはわるいことのはずはない。

ダイヤトーン DS-5000

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より

 決して皮肉な意味でいうのではないが、優等生的なスピーカーというべきであろう。きわだった、いわゆる個性的な魅力ということではいいにくい、しかし肝腎なところをしっかりおさえたスピーカーならではの、ここでの音だと思う。
 提示すべきものをしっかり提示しながら、しかし冷たくつきはなした感じにならないところがいい。①のようなタイプのレコードに対しても、そして③のようなタイプのレコードに対してもひとしく反応しうるというのは、なかなか容易なことではない。それをなしえているところにこのスピーカーの並々ならぬ実力のほどを感じることができる。まさに文字通りの実力派のスピーカーというべきであろう。
 安心して、神経をつかわずにつかえるということは、それだけつかいやすいということである。その点で傑出したスピーカーだと思う。

アクースタット Model 3A

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶の総奏でのひびきのひろがり方には、他のいかなるスピーカーでもあじわえない自然さがある。❷のヴァイオリンの音のしなやかさもまた、独自のもので、美しさのきわみにある。❸ないしは❺でのコントラバスは、コントラバス本来の余裕のあるひびきをきかせ、しかも音像的に拡大しない。むろん❹のフォルテでもひびきがきつくなるようなことはない。このレコードの美しさをこのましくひきだしている。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノのひびきにえもいわれぬがある。みずみずしいきこえ方とでもいうべきか。❷での声がなまなましいのは当然としても、❸でのギターの、まさにつまびいた感じがわかって、しかもその音が繊細さのきわみにあり、きらりと光る。❹でのストリングスも理想的なバランスで奥の方ですっきりひろがる。❺でのバックコーラスの後へのひき方も見事で、うっとりとききほれる。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
❷のティンパニのひびきの力強さはかならずしも十全に示しえているとはいいがたい。❹でのプラスのひびきのつっこみも、迫力という点でものたりないが、一種のスペースサウンド的なひびきの左右への、そして前後へのひろがり方は見事の一語につきる。したがって❶でのピコピコや❺でのポコポコはくっきり浮かびあがって、まことに効果的である。力強い音への対応でもう少しすぐれていればと思う。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
このレコードでの音楽のひっそりとした感じをこれだけヴィヴィッドに示したスピーカーはほかになかった。❷でのきこえ方などは、あたかもピアノが目の前にみえるような感じである。しかもこのレコードの録音上の仕かけがわかる。❸や❹でのシンバル等の打楽器のひびきは大変になまなましい。❺での木管のひびきについても同じことがいえる。音場感的なひろがりは独自であり、大変にすばらしい。