Category Archives: 筆者 - Page 223

ヤマハ YP-500

岩崎千明

音楽専科 11月号(1972年10月発行)
「SENKA TEST LISTENING」より

 YAMAHAのマークは、ピアノとバイクで今や世界に鳴り響いており、このマークのもとで作り出されるレジャー・プロダグツは、いずれも一流品と信頼とされ、このマークのついた商品を持つ若者に誇りを持たせる。
 ピアノと共にバイク類の高性能ぶりは業界を寡占する一方の旗頭であることを証明する。さらに最近ほオートバイに次いで海洋レジャーをも目指し、着々と成果を挙げて、若人にもてはやされているのはよく知られている通り。
 かくも好成績を挙げる中で、たったひとつ、オーディオ製品のみは、必らずしもヤマハの意図通りにはいっていない。エレクトーンの技術を駆使し活用した「ステレオ」は、市場での人気も、はかばかしいものではなかったのだ。
エレクトーンからピアノと「楽器のサウンド」を創り上げてきたヤマハの技術もこれを市場では、強力に展開し成功させてさた商業的手腕も、神通力はオーディオ・マニアには効かなかったのであった。
 それは、オーディオ・マニアの眼が、他の分野におけるそれよりも、はるかに厳しく、品質と高性能とを絶対的なものとして追い求め、それに対するメーカーは高品質と高いコスト・パーフォーマンスとをもって応えなければならず、加えて、専門メーカーという強力なライバルが少なくないからである。
 長いあいだ、ヤマハのオーディオ製品は低迷していた。それは、かつて10数年前の高品質ハイファイ製品の数々を、ヤマハ・ブランドのもとに作り上げてきたプライドをもってしても、打ち破ることのできなかった厚い壁なのである。この壁は、しかし、外部の敵ではなく、おそらくかつての誇りが、古びて通用しなくなっていることから眼をそむけてきた内る障書もあったに違いない。
 その根源は、冒頭に挙げた、他の部門での圧倒的な成功であり、その手法である。「ヤマハの創る商品が悪いわけがない」とする自信が先走ったのである。
 だから、この数年前から展開したステレオ時代のヤマハ・オーディオ製品は、あらゆる製品に独創性が盛り込まれ、ユニークな魅力を持つにも拘らず、オーディオ・ファンからうとまれ続けた。カセットの聴けるステレオを初めとし、ピアノから形どったという高能率スピーカーによる新らしい音響再生技術は、こうしてヤマハの理想通りには運ばず、じりじりと後退を余儀なくされていった。
 それはかつて、プロフェショナル志向の優秀製品を市場に送ってきたヤマハ・ブランドの落ち目であり、旧いファンにとってはこの上ない淋しさを感じさせた。
 かくも追い込まれたヤマハのオーディオ・プロダクツ。ギリギリの所で見事な逆転を演じるべきお膳立てが出来上った所で登場したスターが、前にこの欄で紹介したブックシェルフスピーカーNS630であり650である。従来の変形スピーカーに対するこだわりを捨て去って、スピーカー本来の姿に立戻った点からスタートしたヤマハ初の市販ブックシェルフは発売するやたちまち市場に注目され楽器メーカ、ーヤマハのオーディオ・プロダクツの真価を発揮して、ベスト・セラーのひとつに成長している。
 同時に話題になったのはプレイヤーである。スピーカー、チューナーと共に、音楽志向のヤマハらしい魅力が盛り込まれており、ケースの仕上げの美しさと完ぺきなことは、ピアノを手がけるメーカーにふさわしく、ローズウッドの面は鏡のようにみがき上げられている。
 プレイヤーはYP700と500の二種で、アームが大きな違いをみせるだけだ。ベルト・ドライブのターンテーブルはターンテーブル本来の目的を忠実に実現したもので、SNの優れた点と共に、ハウリングに対する強さはこのクラスの愛用者が必らずしも高い知識を持っているとは限らない点を考えると、賞賛できる大きな利点であろう。つまり、コンポーネントの利用者が増えている現状でもっとも多いトラブルは、針先がスピーカーの振動を拾うことに起因する音響きかんが原因の低音共鳴である。これは、プレイヤーとスピーカーの相対位置とか床下の頑丈さで防ぐようにいわれているが根本的にはプレイヤー自体の問題であるべきなのだ。この点を直視した優秀製品が少ない中でマイクロの製品と共に、ヤマハ・プレイヤーの他に秀でる大きな特長であろう。この問題は最近になってやっとメーカーの側でも重要問題と考えるに致ったが、これはコンポ愛用者が多くなったためでありヤマハはそれに一歩先がけているといえよう。
 ヤマハのプレイヤーの最大のポイントはそのカートリッジにある。米国シュア社のM75系の新型がついており、扱いやすい6ミルの針先が着装されている。
 M75の再生ぶりは、安定したトレースとバランスよく歪の少ない品のよい音としてマニアの間で永く定評のあるものだ。市販プレイヤーの最大の弱点は、実は付属カートリッジなのであることは常にいわれているが、ヤマハのシュアに眼をつけた企画性のうまさは驚くべきだ。
 この点だけ考えても、今回のコンポーネントに対するまともな再生への考え方を推察できるというものだ。
 セミオートマチックのアーム動作も、このクラスのプレイヤーを買うお客様の立場をよく考えて作られており、ケースの仕上げの豪華
さと、シンプルでユニークなデザインのアームとターンテーブルの組合せなど心憎いほどで、ベスト・セラーにならなければうそだ。

オルトフォン M15E Super

岩崎千明

スイングジャーナル 11月号(1972年10月発行)
「SJ選定新製品」より

「オルトフォン」の名声が世界に轟き始めたのは1960年ごろである。まもなく、1962年の春ごろだと記憶するが、米国版〝暮しの手帖〟として有名な〟コンシューマリー・リポート〟のステレオ・カートリッジのテスト・リポートでSPU−GTがベスト・ワンに選ばれたのがきっかけとなり、文字通り世界のオーディオ界を席巻し、最高峰のステレオ・カートリッジとしての座をゆるぎなきものとしたのだった。
 ステレオ初期以来、多くのメーカーにより次々に試みられた高性能カートリッジの群がる中で、デンマーク製のコイル型のSPU−GTが選ばれたことは、決してまぐれの幸運ではない。
 ステレオ・ディスクの誕生のときおおいに力あずかったウェストレックスのカッティング・マシンに付属するテスト・ヒアリング用プレイヤーにつく伝説的、歴史的ステレオ・カートリッジWE10Aと、多くの点で等しい構造を備え、性能そのままで10Aの4g以上という針圧を軽針圧化したと考えられるのがSPU−GTなのである。
 こうした名作の出現は、それが他の多くのライバル製品に比べてあまりに高い座標を獲得したときから、メーカーとしてのオルトフォンに大きな負担となる悲劇を見越すものはいなかった。
 世界のメーカーがいっせいにオルトフォンのカートリッジをめざしたのはもちろんであるし、それに対するオルトフォンの新型による巻返しから生ずる熾烈な戦いが60年代を通じてずっと続いた。シュアのダイナ・マグネット型と呼ぶムーヴィング・マグネット型の出現、ADCの驚異的軽針圧化技術……そうした多くの挑戦に、オルトフォン初の軽針圧型S15もいささかたじろぎ気味で、米国勢はここぞとばかりオルトフォンの牙城に迫り、世界市場になだれ出たのだった。
 70年代を迎え、4チャンネル・ディスクの開発でカートリッジに対する要求は格段と厳しく、それにこたえて技術は進歩し、クォリティーも飛躍的に向上してきた。
 70年、オルトフォンはその崇高な面子にかけて、ついに群がる米国勢を受けて立ったのである。
 M15Eがそれである。発売以来、その優秀性はたちまちマニアのすべての認めるところとなり、加えて米国市場においてSPU−GT以来築かれた拠点から再び強力に打ちこまれた。
 そして、さらにこのM15Eに新らたな精密工作技術を加えて超軽針圧化を図り、Superと名づけて戦列に加えたのである。
 ここにヨーロッパ各国におけるそのM15E Superの評価よりの一端を披露しよう。
 フランス”Harmonie”1971年12月号……試聴の結果はすばらしいものであった。われわれが賞賛するのはその値段でなく、その性能である。
 ドイツ”HiFi Stereophonie”1971年2月号……トラッカビリティーは抜群である。特に高音での性能が抜群。
 英国”Records And Reeordings”1970年6月号……世間一般に通用しているHi−Fiとは異なり、ほんとうの音をエンジョイさせてくれる。トーン・コントロールの調整など不必要にするカートリッジだ。
 SJ試聴室においてM15E Superを装着したプレイヤーに、コルトレーンの「ライヴ・イン・シアトル」がおかれ、音溝にM15E Superの針先がすべリこんだ。
 レコードのほんのちょっぴりのスペースに、こんなにも大きなエネルギーが秘められているなんて、と日頃感じていたことだが、その音のすさまじいまでのアタック、力強さはなんと表現すべきか。ここには、今は亡きコルトレーンの熱い血が、生々しい息吹きが、爆発的というにふさわしく再現された。従来の豊麗なサウンドに加え、アタックの切れ込みが鋭どく、激しいまでの迫力。
 オルトフォンは、若いエネルギーを加えて再び世界のオーディオ市場に再登場したのである。行く手にはシュアやADCや、さらにオーソドックスな手法で確実に歩を進めるデッカ、B&Oなどヨーロッパの群雄もある。だが、オルトフォンの新型は、おそらく、世界中のマニアのカートリッジ・ケースに加えられるに違いない。この上なく豊かな音楽性をたたえて……。

ビクター SX-3

菅野沖彦

スイングジャーナル 11月号(1972年10月発行)
「SJ推選ベスト・バイ・ステレオ」より

 SX3というスピーカー・システムは今オーディオ界で大きな話題となっている。あれこれとスピーカー・システムをつくり続けて来たビクターの初のヒットといっても過言ではないだろう。音響機器専門メーカーとしてのビクターの伝統と実力が実ったという観が強い。もっとも、今の話題の半分はこの製品の優秀性で、あとの半分は製品が足りなくてオーダーして数ヶ月も待たされるといった不満である……。こうなると、ますます欲しくなるのが人情で、SX3を渇望するマニアの数はどんどん増えているらしい。
 SX3の生産が追いつかないということは、このスピーカー・システムの本質と、あえてそうした製品をビクターのような大きなメーカーがつくった意義とを説明することにつながるのである。つまり、このシステムは、たいへん手のこんだ作業を要する手造りの性格が強いのである。オーディオ機器が通り一辺の理論と設計技術と生産技術では、最高の製品たりえないということは私が常々いっていることなのだが、このシステムはそうした常識を超えた製作者の音への執念と情熱、そこから発した多くのアイディアと実験に裏づけされた試行錯誤、それを一つの完成度の高い製品にまとめる、高い技術が生きているようである。このスピーカー・システムの生みの親は同社のスピーカー技術の中核である林正道氏だが、林氏のスピーカーづくりへの情熱は並々ならぬものである。しかし、今までは、正直なところ、氏の情熱と探求の努力、技術の蓄積は多とするが、それがスピーカーの音として私たちを説得するまでには至らなかった。氏の独得のねばりは、今までの不評によく耐えて、謙虚にそして入念に、幾度かスタート・ラインへもどって音響変換器としてのスピーカー、音楽を奏でるスピーカーという二つの性格を正しく把握して、このSX3を生みだしたといえるだろう。と同時に、こういう人間の自由な創造性を暖かく保護し、開発に余裕を与えたビクターという会社もほめられてしかるべきであろう。こういう体質がなくてはオーディオ・メーカーとして、これからの時勢を乗り切っていくことはできないといっても過言ではない。技術は人間の積み重ねてきた体系的所産であるが、それは常に発想に触発されて前進すべきものである。発想は創意という、人間が神から与えられた偶発的な要素の濃いもので、すべての創造の基盤となる。すばらしい発想は優れた才能と、その才能を開花させる環境から生れるものだと思うのだ。音そのものはもとより、人間のつくり出したスピーカーという変換器ですら、そのすべてが解析されてはいない複雑な要素からなるものだから、これに既成の理論と技術だけで当っていては、できる製品はたかがしれているというものである。
 SX3の随所に見られるアイディア、豊富な実験から得られた新しい前向きのオリジナリティは、こうした私の考え方からして高く評価できるものなのである。しかし、そうした姿勢があるだけで、よいものができるわけでもないし、またSX3が最高のスピーカー・システムというつもりはない。
 SX3はやはり、メーカーに利益をもたらす商品として生み出されたものだから、そこには多くの制約も妥協もある。小型(実際上は中型といえるが)ブックシェルフ・システムという市場でもっとも人気のある形態、3万円を切る小売価格などという商品としての条件の中でつくられたものであることは当然で、その結果、強烈な音響再現を可能にする大型システムや、そうした音を要求する音楽には自ずから限界はある。しかし、この範囲での製品としてトップ・クラスのものであることは保証する。25cmウーファーとソフト・ドーム・ツィーターの2ウェイ。手のこんだ材料と工作によるシステムとしての念入りなアッセンブルは非常に豊かでリアリティのある低音をベースに、スムースで奥行のある中高域とステレオフォニックなプレゼンスを再現してくれるのである。

サンスイ AU-7500

岩崎千明

スイングジャーナル 8月号(1972年7月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 待つこと久し、待望の新型アンプがサンスイからで出た。おそらくは、ユーザー・サイド以上に、当のメーカーであるサンスイ自身が、待ち焦がれていた新型アンプである。
 メーカー・サイドの人々の、他社の新型アンプが目白押しに出る中で永く、苦しい待ち時間は、もうこれ以上どうにもならない域に達していたに違いない。それだけに、それらの人々の、山なす期待をずっしりと担って、やっと覆面をとったその「アンプ」は、意外や、ごくひかえ目で小じんまりおとなしい新製品であった。期待が期待だけに、その期待の中にせっぱ詰まったものさえ感じさせられていただけに、この「新型アンプ」に接したオーディオ・ファンは、少々肩すかしをくい、かなりの戸惑いを感じさせられたのは事実である。
 AU7500、AU6500の新シリーズは、外観的には、従来のサンスイのアンプ群と、一見、見分けすらつかぬほどの、ホンのちょっぴり「品の良い」変化をつけたにすぎない。規格の上でも、あるいはセールス・ポイントたるべきいくつかの特長も特にこれといった大きなものはなにもない。「25年のハイファイ技術をここに結集して完成した新製品」というメーカーのいい分は、いったいこのアンプのどこに生きているのだろうか。
 しかし、発表会では判然としなかったこの疑問は、新型アンプを手元において、その再生ぶりを確かめるに及んで完全に氷解したのである。
 メーカーのいう25年のキャリアはまぎれもなく、この新シリーズ・アンプの内に脈々と息吹き、輝きに重みすら加えていた。
 このアンプの再生品質は、今までのサンスイのアンプのそれとは格段の向上というよりも、まさに生まれ変わったとしかいいようのない素晴らしいものであった。素直な再生、温かみを感じる透明なサウンド、親しみのある音、これらすべてが、なんのためらいもなく冠せられる再生品位が、この新シリーズそのものなのである。しかも類い稀なる力強い迫力を伴って。
 サンスイのアンプを語るとき、必ず引っぱり出されるのはAU777の記録的ベスト・セラーだ。
 777のあまりに華々しかったこの成功は、しかし、時間と共にメーカーの負担にこそなれ決してプラスをもたらしはしなかったのではなかろうか。
 その証拠というと誤解を招くかもしれないが、何らかの形で777に影響された。その最たるものは777に見られる独特の華麗なサウンドだ。華麗というには当らないにしても、中域から高域にかけての充実ぶりを意識的に盛り込んだ再生ぶりはそれ以後のサンスイのアンプのひとつの特長といってもよかろう。アンプだけではない、スピーカーにすらこの意識的サウンドが見られる。しかしこのサンスイの777の成功には、もうひとつの底流があった。AU111から飛躍的なグレード・アップを実現して、当時驚異的な性能はマッキントッシュ管球アンプにも匹敵せんばかりだった303シリーズである。今や数少ない国産の幻の名器となったこのシリーズへの熱意と闘志とが、AU777の成功の源流となっていたことを見逃すべきではなかろう。
 そして、303シリーズの企画の時点にまでさかのぼって「社内に散らばった闘志の管球アンプやトランス技術者を集めることから新シリーズ・アンプの設計はスタートした」そうである。まさに25年のキャリアという以外の何ものでもない意気込みを知らされる。
 4チャンネルにおいて、後発の新勢力の強力な展開ぶりに必ずしも思うにまかせずQSはSQとしのぎをけずる激戦中という現状。切り離すべく道を選んだセパレート・ステレオは、皮肉にも4チャンネル時代に再び脚光を浴びつつある悲恋のメーカー、サンスイ。
 今や、進むべき路線は、高級コンポーネント・ステレオ専門メーカーとしてその成功だけにかかっていよう。
 しかし、決して惑うことはない。すでに新製品の完成こそ成功の第1歩として、それは刻みえたのだ。
 このアンプの控えめながら記された規格表の性能に目を落としたまえ。「定格出力にて0・1%歪、20〜20,000Hz」マッキントッシュの最強力型のそれに比肩さるべきこの規格に達したアンプは国産では2番目。最初のそれはTブランドの註文生産品で、価格はプリ&メイン90万円なり。パワーこそ半分弱だがサンスイ新シリーズ・アンプAU7500は75、900円なりである。
 なおパワーを25%ダウンし、アクセサリーを省略化したお買得型が、AU6500で65、000であることを加えておこう。
 アタックそのものがこなごなに飛び散るようなモフェットのドラムと、眼前で弦が激動するアイゼンソンのベースと、例えようもなく力強く胸にぐさりと突きささるコールマンのアルトの咆哮を前身に受けながら……。

JBL L88 Nova

菅野沖彦

スイングジャーナル 10月号(1972年9月発行)
「SJ選定 ベスト・バイ・ステレオ」より

 先月号の選定新製品で書いたJBLのL45に続いて今月のべスト・バイは同じJBLのノヴァ88である。JBLと僕との結びつきは、自分でもJBLを常用しているのだからしかたがないが、こう続くとやや食傷気味で、JBLしかこの世にスピーカーはないように思われそうだ。しかし、あえて、この原稿依頼を拒絶しなかったところに
僕のJBLへの傾倒の強力さがあるわけだ。
 ノヴァ88はJBLのブックシェルフ型システムとしてはランサー44、ランサー77の延長線上に位置するもので、
0cmウーハーとダイレクト・ラジェーターの2ウェイ・システムというきわめてオーソドックスなコーン・スピーカー・システムである。ウーハーは例の白い塗料をぬったコーンだが、従来のものとはちがって、コルゲーションの多い新開発のコーン、エッジ、ダンパーという振動系をもっていて、決して最近流行のハイ・コンプライアンス、ロング・ストロークのフラフラ型のものではない。どちらかというと、一時代前のスピーカーを思わせる張りのあるサスペンションをもち、クロスオーバーを2kHzにとって5cn径のコーン・トゥイーターと組み合せている。これと同じユニットを使いデザインだけがちがうコルティナ88−1というモデルもあるが、デザインとしてはノヴァ88のほうがユニークで美しい。サランと木目を2分割し、ウーハーと同径の丸い穴を積極的に生かしたモダニズム溢れるフェイスはいかにもJBLらしい感覚の冴えといいたい。デンシティの高いがっしりとしたエンクロージュアは表見からは想像もできないほど頑丈で重さは21kg。許容入力50ワットの強烈な低音にもおかしな箱鳴きによる不明瞭なノートはでてこない。音質は腰のしっかりした安定感のあるもので豊かな低音感には血の通った生命感すら感じる。低音感といったのには意味があって、最近のスピーカーの中にはたしかに低い周波数までのびていても、実際に楽器のもつ弾力性にとんだ低音が出ないものが多い。このスピーカーの低音は、コントラバスのブーミーな低弦と胴の共鳴が生き生きと響くし、それでいて音程が明瞭に聞きわけられるのである。ピアノの巻線の響きも魅力的である。音のツプ立ちは極めて明解で、二つのスピーカーの間にかもし出される音の面は豊かな拡りと奥行をもって大きく迫ってくるのである。高音域はやや歪感のあるのが欠点ではあるが、へんなドーム型やホーン型のトゥイーターと組合わされたシステムのもつ木に竹をついだような違和感がまったくないほうをむしろ長所として評価したい。見たところはやや頼りのないコーン・トゥイーターのLE20系にJBLが固執しているのは何んらかの考えがあってのことだと思う。トゥイーター単体でこれ以上のものを作ることはさほど難しいことではないと思われるがシステムの全体のバランスを考えた時に、このトゥイーターの長所は捨て難いものをもっているといえるだろう。
 私がよくいうことだが、スピーカーというものは、そもそも大ざっばな考え方から電気機械変換器として作られたところ意外に複雑な波形を再現し、いい音を出してくれたものらしい。誰が紙をゆすってあんな音を出すことを事前に想像しただろうか。その後のスピーカーの改善はでき上ったものの動作理論の解析によったのだが、それによってスピーカーは大きく進歩したことも事実だが、ある部分の改善により偶然得られていたよさがなくなった部分もないといえない製品も多い。そうした中にあって、新しいスピーカー理論と設計が、いい音で鳴るというロマンティックな心情と結びついて作られているのが現状における優れたスピーカー・システムであって、JBLの製品はその代表格といってよいだろう。

ヤマハ NS-650

岩崎千明

スイングジャーナル 10月号(1972年9月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ヤマハから3種のブックシェルフ型システムが出たのは、さきにプレイヤーYP700を紹介した直後である。5カ月を経てこの欄に再び、ヤマハの製品として登場するわけだが、この5カ月間の経過期間に、このNS650は、すっかり評判を得て注目すべき製品になってしまった。
 最近のブックシェルフ型システムはその高級の主力製品が3万円台に多く集中している。その数多い中でもヤマハNS650の評価は、きわめて高く、はるか高価格のスピーカー・システムに劣らぬ質の高さは、改めていうまでもない。
 3万円台のシステムの中でも、ひときわ小型で目立ち難い存在だが、ひとたびその音に接すと、ヤマハが今日プレイヤーやアンプやスピーカーなどコンポーネントを通してオーディオに対して、真正面から取組んでいることを如実に知ることができるというものだ。
 現在、市場にあるあらゆる国産ブックシェルフ・スピーカーの中でも、このヤマハNS650に匹敵すべき製品は、おそらく5指を出まい。逆にいえば価格をぬきにしても、このスピーカーから出る高品質のサウンドと肩を並べるものが4つしかないというわけだ。
 ところが、このNS650は決して奇をこらしたメリットや、メカニズムはいっさいない。見た眼にはプレーンなシステムであって、ここで云々するほどの特長もなく、ごくありふれた構成の25センチ・ウーハー、12センチ・スコーカー、ドーム・ダイヤフラム・トゥイーターという3ウェイである。
 このスピーカーを試聴のため鳴らそうとしたとき、たまたま手元にあったレコード1枚にヨーロッパ録音の、キース・ジャレットのソロ・アルバムがあった。一聴してヨーロッパの最新録音を思わすカッチリと引き緊ったピアノ・タッチと、豊かな鳴り響きは最近の優秀録音盤の中でも、ひときは輝いたものと思うのだがこのサウンドをヤマハのNS650は文字通り実にみずみずしく、水のしたたるような新鮮で生々しい音に再現してくれた。
 たまたま日本ビクターの誇る最新技術である倍速カッティング盤と原盤の聴き比べをしてみたが、そのかく然たる遠いをはっきりと響きわける能力は、まさに本来歴史あるピアノ・メーカーで作られた本格派システムということを語るに十分だ。
 高域のサウンド・エレメントのパターンの細かいディテイルの違いを、くっきりと表現し、指先のキーにふれる様をその響きの中に見事に再現してくれる。日本ビクター・カッティング盤の優秀性がはからずも試聴中のヤマハNS650によって証明され得たひとこまであった。
 こうしたくっきりした音の立ち上りというものは、決して従来のスピーカー測定技術では判然とは出てきにくい。これは耳で認められる以外に適確な判断はなし得ない。それだけに、この再生の際の立ち上りの良さは、ややもすると、ないがしろにされやすい。それというのは、この立ち上りの良さを追求すれば、どうしてもスピーカー・ユニットのマグネットを強化せねばならず、しかもそれが確められるまでするには、かなりの強力を余儀なくされ、勢い製造上のコスト・アップにつながる。さらにブックシェルフ型のように小型化に沿った上で低域レンジをのばすことに四苦八苦の国産システムは、マグネットの強化が低域拡大と相反することにつながりかねない。
 このへんの事情もあって、マグネット強化というスピーーカー高品質化の大きな根本的条件をよけてしまうことになりやすい。
 ヤマハのシステムを聴くと、こうした真の高級化への道を、正攻法によって取り組んでいることを知らされるのである。ひとまわり小型なのに拘らず3万3千円という価格は、このシステムのもうひとつのウィーク・ポイントでもある能率の低いことと共に大きなマイナスには違いない。
 しかし、真の高品質サウンドの再生を望むものにとって、それは、補って余りある小さな代償と考えるべきではないだろうか。

良い音とは、良いスピーカーとは?(3)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 24号(1972年9月発行)

     V
 原音を録音し再生するという一連のプロセス。仮にそれを、原音を写実することだ、として考えを進めてみよう。
 写実とは、素朴な意味では写すことであり倣うことである。広辞苑によれば「事物の実際のままをうつすこと」とあり、写実主義即ちリアリズムはハイ・フィデリティに通じる。
 しかしハイ・フィデリティ・リプロダクション──高忠実度再生──を表面的に解釈する態度は、この問題はひどく歪めてしまう。仮に原音に忠実な再生、と定義してみるとしても、では原音の何に忠実なのか、原音とは何か、と考えてゆくと、ことは意外にむずかしい。
 もういちど、ナマと再生音のすりかえ実験を思い起してみよう。
 ステージでは何十人かのオーケストラが、それぞれに、針金や馬の尻尾や川や木を、こっすたりたたいたりして演奏している。その演奏はあらかじめ2チャンネルのステレオでレコードに録音されていて、途中から再生音にスリかえるというのであり、すでに述べたように、大多数の聴衆は切り換えの箇所を明確に指摘できなかった。
 この事実は、原音が忠実に再生されたことを意味するのだろうか。少なくとも、物理的には答えは否である。だってそうだろう。ステージに並んだ演奏者と同じ数のスピーカーが使われたわけではないし、スピーカーの発音体は徹夜ジュラルミンの薄膜であって、楽器の発音体とは材料も形状も構造も著しく異なっている。物理的に、原音と全く異質の音が再生される筈がない。にもかかわらず、聴衆の耳にはナマと再生音の区別が明確にはつきかねた。
 すると、スピーカーからは必ずしもナマと等質の、物理的に=の音が再生されなくとも、人間の耳はけっこうゴマ化される、ということになるのか?
 事実ゴマ化された。しかし、人間の耳がエジソンの蓄音機からすでに《原音そっくり》の音を聴きとってきたことから想像がつくように、これはハイ・フィデリティの本質にかかわる問題であって、そう簡単な結論では片づかない。それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
 ホールでの実験は別として、我々に切実な問題は、レコードやテープをわが家で再生するときの、音質の良し悪しである。家庭での音楽再生、という問題になると、たとえば音量ひとつとっても、六畳から八畳、広くてもせいぜい二、三十畳という個人のリスニングルームには、オーケストラのスケールは物理的に収まりきらないし、六畳ではフル・コンサート・グランドさえおぼつかない。つまり一般家庭では、もとの楽器のアクチュアル・サイズ(原寸)で持ちこむことさえすでに不可能と言える。
 しかしそういう前提でも、小さな部屋で、「原音を聴いているような感覚」を生じさせることは十分に可能である。そしてそのときの再生音は、決して、物理的な意味で原音と等質(イコール)ではない。
 まず、ラウドネスの問題ひとつとりあげても明らかなように、人間の耳は、音量の大小に応じて聴感周波数特性が変化し、音量を絞るにつれて、低音と高音の聴取能力が劣ることはよく知られている。したがってボリュームを絞った場合には、低音や高音を適宜強調してやることが、結果として、よいバランスに聴こえる。いわばこれは錯覚にはちがいないが、人間の耳には現実にそう聴こえるので、物理的にはフラットでなくとも、耳にフラットに聴こえるという事実の方が重要だ。
 オリジナル(原音)に対して大きさ(尺度)自在に伸縮できるというのは、音の録音・再生に限らず、あらゆる複製メディアの特質とも言える。たとえば映画。シネラマのあの巨大な画面いっぱいに俳優の顔が大写しされても、慣習はそれをたいして不自然なことと感じていないどころか、あの白いスクリーンに、砂ほこりが舞えば思わず目をしばたたき、ジェットコースターが走れば胸の動悸が激しくなり、登場人物の悲しみには涙まで流す。言ってみればそれは、白いスクリーンに投影された束の間の幻影にすぎないのに、我々はそれを虚像と知りつつ、心の底から揺り動かされるほどの激しい感動を味わう。こうした感動は、レコードの音楽から味わうそれとはほとんど質的に同じものと言える。感動のしくみは、物理的なフィデリティとはほとんど無関係なのである。
 音像といい映像といい、それが空間に鳴りスクリーンに投影された状態を、われわれは虚像と呼ぶ。その虚像がしかし、なぜ、本もの以上に人の心を揺り動かすのか。映画には芝居とは別の魅力があり、再生音にはナマ演奏とは明らかに異質の魅力がある。レコードを聴くという行為には、わたくしたちは、ナマを聴くのと別の姿勢で──そう意識するとしないとを問わず──臨んでいる。なぜ、レコードを聴くことが楽しいのか。それは再生音というものに、ナマとは違った別の価値があるからにちがいない。再生音がナマ演奏の複製であるのなら、再生音にナマとは別の──ときとしてナマ以上の──感動をおぼえるという事実の説明がつかなくなる。
 言うまでもなく、レコードも映画も、それが作られた当初は、ナマのコピーという機能だけで使われた。しかしレコーといい映画といい、かりに対象を忠実に記録したものであっても、それをいく度もくりかえし再生するプロセスに、オリジナルを鑑賞するのとは別の魅力があることに人びとは気づくことになる。
 古代アルタミラの洞窟壁面には、いろいろの獣が描かれているが、それは決して単なる装飾ではなく、獣たちを捕獲し、且つ彼らの増殖を祈る呪術的行為であったとされている。古代人にとっては、描くことすなわち捕獲したことであった。それを古代人の未分化と笑う前に、現代人のわれわれにいったいそうした衝動が無いだろうかと考えてみる。
 第二次大戦のさ中、わたくしは集団疎開児童であった。疎開先のお寺の本堂で、より集まっては、シュークリームやチョコレートや、クリームパンや、おいしいものの絵をかわりばんこに誰かが描く。すると、どこからか、おいしいチョコレートやクリームの匂いがしてきて、子供たちは鼻をひくひくさせて、しばらくはおいしい匂いを腹いっぱいに吸い込むのだった。そんな体験はわたくしだけかと思っていたら、新聞や雑誌に戦時中の思い出ばなしが載るたびに、あるいは戦場で、あるいは防空壕の中で、同じような体験をした人たちが多勢いたことを知っておもしろく思った。
 わたくしなど、ことにこの幼児的傾向が強く、いまでもまだ、ほしくてたまらない品もの──たとえばスピーカーでもアンプでもカメラでも──があると、その品物が実際に手に入るまでは、ヒマさえあると原稿用紙の切れはしなどにその品ものの絵を描いて楽しむくせがある。対象物を描くことによってお腹をふくらませたりその品を手に入れたような気になるのは、なにも古代人ばかりではないようだ。つまり対象を模写するという行為は、対象物を主体の側に転位させる人間の根本的な発想だと言えるのではないだろうか。レコードを聴くという行為は、オリジナルの複製(コピー)のおすそ分けにあずかるのではなく、まさに音楽を自分のものとする行為にほかならないのだ。そうなったとき、《原音》は客体として存在しているのではなく、もはや自分の裡の主体として実在する。言いかえれば、自分のレコードは原音のコピーのひとつ、なのではなく、自分のレコード即原音、になるのである。
 レコードのこういう機能は、それが映画のように公衆(パブリック)の場でよりも個人(プライベイト)の場で鑑賞されるという性質上、より顕著である。映画が多くの場合、芝居と同じように特定の場所で複数で鑑賞されるのに対し、レコードは、より読書的な性格が強い(映画でもテレビで放送される場合、あるいはVTRの場合はまた別の見方ができるが、ここでは深入りしない)。
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
 人は往々にして、現実世界のできごとよりも虚構の世界のできごとから、より多くの感動を味わう。虚構の世界では、現実世界のわずらわしい日常的な小事件をきれいに洗い流し、事物の本質をえぐり出すことができるからである。映画や小説の中の人物は、往々にして実生活以上に深い生き方を教えてくれるし、レコードの演奏からはときとして実演以上のすばらしい感動を味わうことができる。そういうリアリティを描き出すことが、いわゆるリアリズムの芸術であり、そういう感覚を生じさせるために、オーディオの録音・再生のプロセスにハイ・フィデリティの介入を欠くことができないのである。
 虚構の世界では、ナマ以上の生々しい感動を伝えることができる。「ナマを聴いたと同じような感覚」を、視覚ぬきで伝達するためには、虚構の約束の中での取捨選択が行なわれる。それは物理的にはナマとは全く違っているかもしれないが、人間の感覚に、明らかに生々しい印象を与えることができれば、それは結局、観念の中の《原音》、抽象化されたイメージの中の原音を、正しく再現したことになる。そういうプロセスに、録音→再生の一連のシステムも、そのための演奏も、再生した音を受けとるリスナーの姿勢も、すべてが関わりを持っている。どこが欠けてもこの感動は盛り上らない。原音の再生は、物理的なアプローチだけでは決して完成しない。
 とはいうものの、以上の論旨を、原音の基準など何もないとか、物理的なフィデリティなど不要だというように受けとって頂いては困る。音楽の録音とその再生というプロセスにさまざまのメカニズムが介在する以上は、メカニズム自体に、以上のような人間の心理の微妙な関わりあいや意識の流れを妨げるような欠陥があることは不都合きわまりない。ハイ・フィデリティにつきまといやすい大きな誤解のひとつに、たとえばスピーカー固有の音色が、あたかもスピーカーの「表現能力」であるかのように思いこむ危険がある。そのことは次回以降でくわしく論じることになるが、いまここで明確にしておかなくてはならないことは、レコードの録音、再生のプロセスに介在するあらゆるメカニズムは、人間の感覚や意思に自由に従うことのできる柔軟性と、人間の要求に応じることのできる能力を備えていなくてはならない。くりかえすが、メカニズム自体の能力や個性を、録音→再生の美学や哲学の問題の中にまぎれこませてはならない。その点をいま少し明らかにするためには、人間自身の、事物に対する認識の限界を考えておく必要がありそうだ。

     VI
 頭上高く上った月よりも地平線近くの月の方が大きく見えることはすでに例にあげた。それは錯覚であるにはちがいないが、人間にとって、物理的に存在する空間などというものは無意味であって、人間が知覚できる空間こそ、ほんとうの空間の価値なのである。
 絵画の中に現代の遠近法がとり入れられたのは比較的新しいことで、たとえば日本の絵巻物などでは、建築物が手前も向うも同じような大きさで描かれている。当時の人たちは、そういう空間のあらわし方のほうを自然だと感じたのか、それとも何か別の感じかたをしていたのか、そこのところはよくわからないが、現代人の知覚には、一点透視の遠近法が最も自然に感じられる。しかし、同じ一点透視であるにもかかわらず、写真レンズの焦点距離を変えると、ものの遠近法が強調されたり逆に凝縮されたように感じる。これも一種の錯覚にはちがいないが、やはり人間にとって、そう見えるという事実の方が現実なのである。
 音のほうでも同じような現象はいろいろある。たとえば、さきに、例にあげたラウドネスの問題など、いまの遠近法の例に似ているかもしれない。また音階の分け方、音程(ピッチ)のとりかたでも、物理的にきんと割ったのでは正しい音に聴こえないことはよく知られている。
 これらは物理量と感覚量──言いかえれば客観的にそこに存在する量と、人間がそう感じる量とか必ずしも相関関係にないということの例証だが、もっと単純明快な例に、可聴周波数範囲をあげよう。
 ご承知のように人間の耳には16ないし20ヘルツから約20キロヘルツまでの音が聴こえるとされる。つまりそれを《音》と言っているが、たとえばイルカには150キロヘルツという高い音(人間の世界では「音」と言わず超音波または高周波と言う)が聴こえることが知られている。蛾もやはり150キロヘルツあたりまでを感じるし、コウモリも120キロヘルツあたりを感じる。犬でさえ50キロヘルツが聴こえる。また音の強さにしても、人間には、1キロヘルツで0ホン(0.0002μbar)いかの音は聴こえない。もしもハエが脚をこすり合せる音、アリが触覚をふれ合う音、が聴こえたらどうか……。
 要するに人間世界で《音》と定義しているものは、広く自然界に存在する空気の波動のうちのごくせまい一部分にすぎない。だからといって、聴こえないものを音を定義することは何の意味もない。人間にとって、そう聴こえる音、以外のものは存在していないと同じなのだから。
 このように、人間の感覚とはある限定された条件の中に存在し、そういう感覚で感じとった対象だけが、人間にとっての実在であるとすれば、純粋に物理的な意味で現象の存在そのものは人間にとって全く無価値であって、そのように見え、そのように聴こえ、そのように感じる、という知覚の範囲の世界こそ、現実そのものと考えることができる。物理的な存在に対する心理的または精神的現実(リアル)こそ、実在そのものである、と言ってよい。左右両隅のスピーカーが提示した音像が、スピーカーの無い中央の空間に浮かんで聴こえるというのは錯覚だが、そうだとすれば、錯覚こそ実在、と考えるべきではないだろうか。この定義は、人間の精神に訴えるあらゆる事物との関係を解き明かす重要な鍵になりそうだ。

ADC XLM

菅野沖彦

スイングジャーナル 7月号(1972年6月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ADCのイニシアル・ブランドで親しまれているオーディオ・ダイナミックス・コーポレーションはカートリッジやスピーカーなどの変換器メーカーとしてアメリカ有数の会社である。MM型の特許がシュア一によっておさえられているために、このメーカーはIM型で市場に多くのシリーズをおくり出している。中でも10EMKIIはその抜群のコンプライアンスの高さと繊細なトレーシング・アビリティで話題をまいたが、これはもう旧聞に属することだ。この10Eは現在ではMKIVにまで発展している。今回御紹介するXLMはそうした10Eのシリーズから独立したまったく新しい製品で、振動系、本体モールディングなどすべて新設計になるもので、スタイリングもずいぶん変った。変換方式はもちろんIM型で同社がCEDと呼ぶ(Controled Electrodynamic Damping)システムで極めて軽い針圧(推奨針圧0・6g)でトレースできる軽針圧カートリッジの最右翼である。実用的には1gぐらいが適度で、1・5gになるとカンチレバーの変位が激しくボディの腹(実際には振動系を支えるホルダー)がレコード面をこする危険がある。したがって重いほうの限界は1・2gと考えるのが妥当であろう。だいたい、こうした軽針圧カートリッジは繊細な再生音をもつ傾向にあるが、この製品は必らずしもそうした在来のイメージにそったものでなく、肉厚の中低域が豊かな音像を再現するのが好ましく感じられた。ADCの発表するところでは10Hz〜20kHz(±2db)となっているが、たしかに相当な高城までレンジがのびていることが認められる。ただ欲をいうと音に芯の強さがやや足りないようで、シンバルの衝撃音などが、切れ味に欠ける嫌いがないでもない。私の体験上、IM型はどうもレコーード面の静電気による影響を受けやすいようで、湿度やディスク材料の質によって帯電状態が変わるにともなって、トレーシングが不安定になるという傾向が感じられる。従来10Eシリーズが、私の手許ではトレーシングが不安定であったことが多いのだが、いろいろやってみると、それ以外に考えられないのである。普通、カートリッジのトレーシングが不安定になるというのは、ホコリによる影響力が大きいが、静電気によって音が独特のカスレ音になるということもあり得るらしい。そうした現象が、特にIM型において著しく出るという傾向を感じ始めているわけだ。これは全く私の体験と推測の域を出ないことなのだが、このXLM型カートリッジについても同じことがいえそうで、手持ちのレコード中、帯電の激しいレコードは時としてやはり不安定なトレーシングになる。しかし、そうした現象が起きない時のこのカートリッジの再生能力は実に優れていて、デリケートな細部を克明に再現してくれる。大振幅に対する追従もよくやはり第一級のカートリッジであることを強く感じさせてくれるのである。レコードの帯電というのは実に困った現象で、製品によってはパチッと火花がとぶほどひどいもの、レコードを持ち上げるとゴム・シートも一緒に上ってくるようなものがある。こんな状態では空気中のホコリを強引に引きつけてしまうしホコリによる害と相乗してくるから手に負えない。もし、私の考えることがはずれていないとしたら、ADCにとってレコードの帯電は大変な迷惑なことにちがいない。またこの帯電は場所によってもずいぶんちがうので、私の所でなんでもないのが、人の家でほもっとひどい場合もある。レコード会社になんとかしてもらいたい問題ですね。
 帯電のおかげで、肝心のADCの新製品XLM型カートリッジにケチがついたような恰好になって申し訳けないが、非常に優れたカートリッジであることが前提での話しとして解釈していただきたいと思う。
 試聴レコードはジャズからクラシックと,かなりの種類に及んだが、いずれにも満足感があり、特にMPSレーベルのバーデン・パウエル、エロール・ガーナー、あるいはフランシー・ボラーンなどの、レコードの中低音の厚味と豊かさ、パルスへの追従などはすばらしかった。1g以下の針圧でトレースするハイ・コンプライアンス型なので当然トーン・アームには精度の高いスムースな動作のものが要求される。

コーラル BETA-10 + BL-25

岩崎千明

スイングジャーナル 7月号(1972年6月発行)
「SJ選定 ベスト・バイ・ステレオ」より

 私のいつも使っているスピーカー、JBLのハークネスの後方、300Hzカットのアルテックの旧型マルチセルラ・ホーンの横に、縦長のボックスに入ったこの部屋で唯一の国産スピーカーがもう4年間も居続ける。
 これが、コーラルのBeta10だ。バスレフ箱に入ったこのBeta10は発売直後、その鮮やかな力強いサウンドに惚れこんで、手元において以来、JBLのD130がC40バックロード・ホーンの箱に収まるまでは、しばしばマイルスの強烈なミュートや、エヴァンスの鮮麗なタッチを再現していた。
 ただ、惜しいかな、鮮烈華麗なその中高音の迫力にくらべ、バスレフ箱に入れた低音は異質であるし、力強さもかなり劣ることを認めざるをえない。つまりBeta10の国産らしからぬジャズ向きの魅力あるサウンドは十分に認めながらも、その音のクォリティーを重低音にいたるまで保つことはバスレフ型では、しょせんかなわぬことを痛感していた。
 Beta10のサウンドの原動力は、その強大なマグネットにある。試みに15、500ガウスという強力な磁界に比肩したスピーカーを探してみよう。JBL D130、130Aクラスでさえ12、000ガウス。ボイス・コイル径が大きいからそのままくらべることはできないにしろ、Beta10の方が単位当りでは20%は強力だ。あとは英国製の高級スピーカー、グッドマン・アキシオム80と、このBeta10が範をとったと思われる、ローサー・モデル4ぐらいなものだ。そのどちらも17、000ガウスとBeta10をわずかに上まわるだけである。
  ジャズでは、楽器のサウンドそのものが音楽を形成し、そのアタック奏法が重要な要素であるゆえに、それを再現するには強烈なアタックの再生の得意なスピーカーがもっとも好ましい。僕がJBLを愛用するのもそのためだが、Beta10にも同様のことがいえる。
 加えて、軽く強靭なコーン紙。中央の拡散用金属柱でサブ・コーンからの高音の指向性の改善も、単にみせかけだけでなく、60度ずれた付近までシンバルの音がよく拡がっている。
 ただ、これほど楽器のソロが前に出るスピーカーでありながら、フルコンサート・ピアノのスケールの大きさが、とくに重低域でどうもふやけてしまうのが歯がゆいばかりであった。
 ところが正月の休み明け、広告でBeta10用のバックロード・ホーン、BL25の存在を知り、急いでコーラルから、BL25を取りよせてみた。
 チック・コリアのソロ・ピアノアルバムを聴いてみたが、Beta10がそのすさまじいまでの迫力を、中高域から低域にまで拡げたことをその時知ったのだった。それはまさにジャズ・ピアノのサウンドである。チック・コリアのちみつにして繊細流麗なタッチ、しかも左手のきらびやかな中に秘めた力強い迫力を、B得る25に収まったBeta10はみごとに再生してくれた。
 国産スピーカーと外国製のそれとくらべるまでもなく、国産オーディオ・パーツにはどうもベテラン・マニアを納得させる魅力をもった製品が少ない。国産パーツの優秀性はいやというほど知らされているのに、その中に魅力らしい魅力のない歯がゆさをいつも感じ僕。コーラルはその不満を解消してくれたまれな国産パーツだ。おそらく、この手間のかかる手造りのバックロード・ホーンはあまり商売にプラスをもたらすとは思えないが、これほど魅力に満ちた製品がまた日本市場に出ることを知って嬉しいのである。
 このBL25が、Beta10が今後も永く市場に残ることを願い、それをよく認識するマニアの少しでも多からんことを願うのである。

良い音とは、良いスピーカーとは?(2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 23号(1972年6月発行)

     III
 スピーカーが《原音》を鳴らすことができると思うのは、ひとつの大きな誤解である。
 エジソンやベルリーナの、今日からみればきわめて貧弱な特性の蓄音機から出る音に、当時の人たちが『原音そのまま』の音を聴きとったことは前号にもふれた。そういう音であっても人の耳は原音を聴いたように感じということは、裏返していえば、スピーカーからは必ずしも、物理的な意味での原音が再生される必要のないことを語っている。当時の人々の耳は幼稚だったなどとけなすのはすでに現代人の感覚でものを言っていることになるので、いつの時代の人でも、現に4チャンネルを体験しているわれわれでさえ、SPがLPになったとき、さらにそれがステレオになったとき、それぞれに、これで原音再生が可能になったと本気で信じたことがあったではないか。
 考えてみれば、ステレオの音の聴こえ方というのは実にふしぎなものだ。前方左右のスピーカーの中央に、たとえばソロ・ヴァイオリンがくっきりと浮かび上る。あるいは、左右のスピーカーのあいだいっぱいがオーケストラの音で埋まり、その音像は壁の向うまで奥行きを生じあるいはスピーカーのこちら側にせり出して聴こえてくる。
 現実にそう聴こえるというこれはわれわれの日常の体験であるが、そういう音を鳴らして聴かせるスピーカーは、左右両隅のいわば二つの点に置かれているだけが。にもかかわらず音はスピーカーの無い空間から確実に聴こえてくる。ヴァイオリンの独奏が、確かに二つのスピーカーの中央に浮かび、オーケストラはいっぱいに並ぶ。そう聴こえたからといって、その音が壁から鳴ってくるものではないことぐらい、誰にでもわかっている。ではどういうことなのかといえば、音はそこで鳴っているのではなく、正確にいえば聴き手(リスナー)の頭の中に、そういう音像が形成されるのである。二つの点から発する音波は、そういう音像(イマージュ)を形成するための単に材料であるにすぎないとさえ言ってよい。スピーカーは音の素材を提示(プレゼント)し、聴き手(リスナー)の頭の中に音像(プレゼンス)が形成される。そういうステレオの仕組みの結果、二つの点は、むしろその二点を結んだ《線》、あるいはさらに《面》のように、あるいはまた奥行きを伴った《立体》であるかのように聴こえ、ステレオ独特の雰囲気を漂わせる。漂うという言い方も、少しばかり理屈っぽく考えれば二つのスピーカーの空間を漂うのではなく、リスナーの頭の中を漂うのだが。
 なにも不思議がることはない。リスナー前方左右に等距離に置かれたスピーカーから、等音量、同位相かつ同じ音色の音が鳴れば、リスナーには音像は中央にあるように聴こえるし、左右各チャンネルの音量や位相や音質を操作することにより、音像は右、左、あるいは前方いっぱいに、さらには左右のスピーカーの外側にまで、拡がりあるいは定位させることができる──といったような答えは、ステレオの原理を知るものにとってはあたりまえすぎておもしろくない。要するにそれは一言でいえば錯覚なのだが、錯覚というもの、少しも悪いことではなく、考えてみれば人間の感覚にはずいぶん錯覚がある。よくひきあいにあげられるのは、中空高く上ったときより地平線近くの月のほうが大きくみえるという事実で、これもまた錯覚である。しかし大切なことだが、錯覚のしくみをいくら理づめに説明されたからといって、そういう感覚が人間から消え去ったりものの感じ方が少しでも変るようなことは無いので、それが人間の心理なのだとして素直に受け入れておけばよいのである。
 ステレオの左右のスピーカーが、原音をじかに鳴らすのではなくむしろ聴き手の頭の中に音像(プレゼンス)を惹起させる素材としての意味が強いのに対し、モノーラルのスピーカーは、実際にそこで原音を鳴らす必要があった。リスナーはスピーカーに面と向っていて、音は疑いもなくスピーカーそのものから出てくるのだから、モノーラルで《原音》を聴かせるには、スピーカー自体を恐ろしく大仕掛けにする必要があった。モノーラルのスピーカーは、ステレオ的な空気(プレゼンス)など初めから鳴らしはしないかわりに、楽器そのものを、リスナーの目の前にありありと現出させなくてはならなかった。ステレオ以前、モノーラルLPの後期、いわゆるハイ・フィデリティ時代の最盛期に生まれた数々のスピーカー・システムの名作は、その事実を如実に示している。たとえば、エレクトロヴォイスの旧型(クリプシュK型ホーン)の〝パトリシアン〟各型や、アルテックの〝820A〟システムや、JBLの〝ハーツフィールド〟や、ヴァイタヴォックスの〝クリプシュホーン・システム〟や……といったもろもろの大型スピーカーシステムは、すべてモノーラル時代の傑作で、それぞれ例外なくコーナー型のホーンシステムである。いわばこれらは、低音再生の限界への挑戦であった。15インチ(38センチ)の強力型ウーファーを一本、あるものは二本パラレルで使い、それにコーナー型ホーン・バッフルを組み合わせ、リスニングルームのコーナーの床と壁面をホーンの延長として低音再生を助けようという、いわば一種の狂気とさえ思える大がかりなものである。左右二ヶ所から空間に音像を浮かばせるというようなステレオ効果の期待できない時代に、低音を、ほんものの低音を確かに鳴り響かせるということが、いかに音像をしかと支える重要な土台になるかを、彼らは知っていた。何サイクルまで出るか出ないかといった〝量〟の問題ではなく、そうして出てきた低音の音の形が、つまり〝質〟がいかに優れているか、オルガンやバスドラムやダブルベースやコントラファゴットの低音の底力のある深い弾力を、何とかして再現し、それを再現することが、唯一最高の、真のスケール感の再現であることを彼らはおそらく知っていた。そういう低音を決して饒舌でなく、必要なとき以外はむしろウーファーが無いのではないかと思えるほど控え目であり、しかし一旦低音楽器が活躍しはじめるや、部屋の空気がたしかな手ごたえでゆり動かされ、からだ全体を音が包みこむ。そしてそういう真の低音に支えられた中音や高音はまた、如何に滑らかで柔らかくしかも輪郭のしっかりしていることか……。
 しかしまもなくステレオ時代がやってきた。経済的に、あるいはスペースの問題から、ステレオはそうした大じかけなスピーカー二台ペアで置くことをためらわせた。しかも、ステレオにすればなにも大型スピーカーでなくとも二台の小型スピーカーで、大型に優る効果が得られるという説が流布され、ARが主流の座にのし上がり、やがてブックシェルフ全盛期が訪れて、かつての大がかりなスピーカーは次第に忘れ去られ、メーカーもまたそういう手の込んだシステムを作り続けてゆくことが困難な時代になってゆく。
 ステレオ効果は、小型スピーカーでも十分に味わえるというのはたしかな事実だが、それは決して、良質の大型スピーカー二台よりも優っているわけではない。こうした明白な論理はつい忘れられる。
 このことは4チャンネル時代のいま再びむし返されてリア・スピーカーは安物でも結構といった俗説がまかり通っている。ここでは4チャンネルについて言及することは避けたいが、四ヶ所にありさえすれば小型スピーカーでもよいという意見を信じるのなら、仮にその四ヶ所にトランジスタのポケットラジオ程度のスピーカーを置くといった極端な形を想像してみれば明らかに鳴る。音源がたとえ2ヶ所から4ヶ所になり、あるいは将来8、10、12……とかりにチャンネルが増えていったとしても、一ヶ所あたりの音のクォリティを決定するのはスピーカー自体の良否であることぐらい、ちょっと考えてみれば馬鹿げて思えるほど簡単な公式なのに、ついわれわれは俗説に惑わされやすい。
 たしかに2チャンネルのステレオによって、モノーラルでは再現できなかった空気感、音が空間を漂う感じが出せるようになった。そういう雰囲気はスピーカーの大小にかかわりなくたしかに出せる。さらに、古くフレッチャー博士による「2チャンネルで50Hzから5kHzで再生されたステレオの音は、モノーラルの50Hzから15kHzの再生音のクォリティに匹敵する……」という説があり、むろんこれは一九三〇年代実験による結論であるにしても現在でもうなずける説であって、そこともステレオの──ひいては4チャンネルの、大型スピーカーの不要論の裏づけに引用されていることも確かである。しかしくりかえすが、だから大型が──というより大小を問わず良質のスピーカーが──不要であり小型ローコストの普及型でいいといった考え方は、全く粗末きわまる暴言なのである。
 しかしわたくしは、はじめに、原音はスピーカーが鳴らすのではないと書いた。だから出てくる音のクォリティがかりに貧弱なものであっても人の耳は原音の存在をありありと感じることができるとも書いた。そのことと、いま述べたこととは矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。
 さきにも述べたように、ステレオの音像を感じるためには、単に二つのスピーカーがそこにありさえすればよい。ステレオの効果(エフェクト)だけに限っていえば、音像を形成するのはむしろ聴き手(リスナー)の側の心理のメカニズムなのだから、スピーカーはただそのきっかけを作ればよい。音を感じるのはこちらのイマジネーションなのだから、裏返していえば、イマジネーションの豊かな人間にとってはスピーカーからの音の貧弱であることはたいして苦にならないことだともいえる。
 しかし大多数の人々がそんな音から現実感を思い描くことのできたのは、やはり遠い昔の話であって、現代のハイ・フィデリティを一旦聴いてしまった耳には、古い蓄音機の音は昔の記憶を呼び起こす以上の何ものでもなくなってしまっている。機械文明というものの背負った宿命のようなものだ。《原音》を究極感じとり創り上げるのは人間の聴覚と心理の問題だが、現代の人間の耳はすでにぜいたくになってしまって、クォリティの低いプアな音ではもはやイマジネーションが浮かばない。だからスピーカーはどこまでも精巧な音を出すように作られてゆく。けれどどこまで行っても、スピーカーが鳴らす音が聴き手(リスナー)の耳に達して、頭の中に音像ができ上るというプロセスの変ろうはずはなく、その意味で、原音を鳴らすのはスピーカーではなく、それはリスナーの頭の──心理の問題だといいたいのである。スピーカーがいかに精妙な音で鳴ったとしても、聴き手の側にそれを受け入れる準備が無ければ、それはただの空気の振動にしか、騒音にしか、すぎないのではないか。一方ではスピーカーの音はどこまでもハイ・フィデリティになってゆき、しかしそれだけでは不十分で、聴き手側のイマジネーションが永久にかかわりを持つ。ここが音の録音・再生のメカニズムのおもしろいところだと思う。

     IV
 写真のメカニズムには、映像を記録し伝達する特性がある。写真ははじめこの記録性を自覚し、対象の精確な写実という特性のために肖像画や風景画の代用として使われ、画家たちはカメラの普及を怖れた。時が流れて、人びとは記録の持つリアリティがものを創造する力を持っていることに気がつき、やがて映像の美学が確立し、写真もまた、立派な創造芸術であることを知るに至る。こことについてはあとでもういちどふれることになるが、写真の歴史の流れの中にも、何度か曲りかどがあった。
 たとえば初期の不完全なレンズはさまざまの収差を除ききれず、あるものは独特の色彩を生じ、あるものは対象をソフトフォーカスで写し撮った。それらの色彩やボケもまた表現であり創造であるとする錯覚が、ひところの写真を絵画の代用という低い地位に陥しかけた。いわばレンズやメカニズムの不完全さが、美学の問題とすりかえられたのであった。しかし創造するのはメカニズムでなくメカニズムを扱う人間であり、メカニズムは単にそのための手段であることを思い至れば、レンズがその不完全さのために作る独特の《味》は、いわばまやかしであることがわかる。この場合メカニズム自体は冷酷なほど正確であるべきで、そういう正確さを駆使して、人間が思いどおりの映像を組み立てるべきなのだ。メカニズムはそのための手段である以上、どこまでも正確さに向かって完成の道を進むべきものだ。問題をレンズでなくスピーカーに置きかえてもこの道理は変らない。
 写真レンズがポートレート用とか風景用などと分類されていた時期があった。これは恰も現在のスピーカーをクラシック向きとジャズ無企図に分けるのに似ているといえなくない。かつて写真レンズには、テッサーの味、ゾナーの味、ヘリアーの味……といったものが存在し、その描写のクセは、でき上った印画からさえ容易に判定できた。いまはもう、印画を見てレンズのメーカーやタイプを言いあてることがほとんど不可能であるほど、レンズのクセは少なくなり、メーカーごとの個体差にもそれとわかるほどの大きな相違はなくなっている。そういうメカニズムを前提にして、ひとは表現し創造する。
 能舞には三つの段階があるのだそうである。第一に『基礎』。第二に『写実』。第三に『創作』。
 一の「基礎」は、写実のための条件──すなわち技術──が完備することをいい、「写実」とは字義どおりそうして完成した条件を生かして写実することであり、最後の段階では写実を越えて創作することだ、というのである。実に簡潔な定義だがこの言葉はたいへん深い問題を考えさせる。そしてまた、写真やオーディオの考え方とあまりにも似ていて驚かされる。
 技術やメカニズムが完成しなくては、写実さえできないし、しかしそれが完成すればやがてそれはものを創造する道に通じるというのは、すでに写真や映画の領域では多数の実例によって例証することができる。オーディオの場合もまた、この論理はそのままあてはめて考えることができる。
 いやオーディオでも、そんなものはもう実現していると反論されるかもしれない。たとえばアメリカで──日本でも──行われたナマ演奏と再生音のスリかえ実験を思い起こしてみる。ステージにはオーケストラが並び、オーケストラのあいだにスピーカーが適宜配置され、聴衆の面前でオーケストラは演奏をはじめる。
 その演奏はあらかじめ録音してあったレコード(又はテープ)の再生音に途中から切換えられる。アメリカでのそれはカーテンの向うで行なわれ、日本での実験はオーケストラが途中から身振りだけして音はスピーカーから出るという趣向で、いずれの場合も居合わせた聴衆の中でその切換を正確に指摘できた者は全体の数%以下であった。つまりいずれの場合にもナマと再生音のスリかえは成功し、音量音質から定位感まで含めて、原音を再生することができたと報告されている。
 これらの実験の成果には疑いの余地は全くなく、それぞれの場で原音の再現は確かに出来た。しかしこれをもってただちに、原音再生の技術が一般的に完成したかのように考えるのは正しくない。現に日本での実験を成功させた技術者自身の口からも、広いホールでなくもっと残響の少ない、要するに一般家庭のリスニングルームにより近い部屋でこうした実験が成功するのは、もう少し先のことだろうと聞いている。広い残響の多いホールでは原音再生が可能な程度の技術は完成しているが、ふつうの住宅での聴き方のような狭い部屋で──とうぜんスピーカーとリスナーの距離がうんと近く、残響時間の短い──こまかなアラの出やすい──状態での再生には、まだまだ難問が残されているという意味である。写実のための条件はまだ〈完成〉してはいないのである。むろんそんなことは、われわれユーザーとしてオーディオパーツを買って毎日聴いてみて、よい音を再生することのいかに困難かを身に沁みて知っているが、それであればなおさらのこと、われわれはもう一度ハイ・フィデリティの原点に立ちかえって、真の意味での写実から始めてみてはどうかと思うのである。

アルテック DIG

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定 best buy stereo」より

 アルテックというと、一般にどうも業務用音響機器の専門メーカーのイメージが強い。Altec は Alt tecnic つまり「大音量の技術」というところからきたのだし、ウェスターン・ブランドのトーキー用システムを始めプロ用システムを専門に作ってきたキャリアが長いだけに当然といえよう。
 映画産業のもっとも隆盛を誇ってきた米国内において、トーキー以来ずっと映画関係と、電波を媒介とする放送が始まればそれに伴ない、さらにレコードとも密着して、ずっと発展し続けたのだから、まさに業務用音響メーカーとしての地位を確保し続けたのは間違いない事実である。
 しかし、アルテックがハイファイ初期から、家庭用音響機器をずっと手がけて、50年代から早くも市販商品を世に送ってきたことは、このプロフェショナル・メーカーとしての存在があまりにも偉大でありすぎたために十分知られていない。
 これはひとえには1947年、アルテックから独立したJ・B・ランシングが、アルテックの製品と酷似した家庭用高級音響製品の数々を、高級音楽ファンやマニア向けに専門的に発売し出したことも、アルテックの家庭用音響幾器の普及にブレーキをかけたといえよう。もっとも、このJBLの各製品の設計者であるJ・B・ランシングが、この頃のアルテックの多くの主要製品の設計に参画していたのだから酷似するのはあたりまえともいえよう。
 アルテックの家庭用機器が大きく飛躍したのは、オーディオ界がステレオに突入したころからであるが、その後は毎年飛躍的に向上して、少なくとも今日米国においては、アルテックはJBLと並び、ARやKLHなどの一クラス上のマニアに広く愛用されるポピュラーなメーカーであるといえよう。
 いや、ポピュラーな層に大いに売り込もうと前向きの姿勢で努力している「もっとも犠牲的なメーカー」であるといいたいのだ。
 ブックシェルフ型スピーカー「ディグ」がその端的な現れである。アルテックでも、「ディグ」以前にもこの種のシステムは数多く現れては、消えた。消えたのはおそらく、その製品が十分に商品としての価値を具えていなかったからに他ならない。商品としてもっとも大切な価格の点でプロフェッショナル・システムになれてきたアルテックが、市販商品としての企画に弱かったのだといえるのではないだろうか。
 つまり、音響機器においての「価格」はサウンドに対するペイであり、アルテックにすれば商品として以上に内容に金をかけすぎてきたのであろう。
 もうひとつの理由は、ARに代表されるスピーカー・システムのワイド・レンジ化が、アルテックの標模するサウンド・ポリシーに反するものであったことも見落せない。
 アルテックの音楽再生の大きな特長というか姿勢は、レンジの拡張よりも中声部の充実を中心として、音声帯域内でのウェル・バランスに対して特に意を払っていることだ。
「ディグ」の中味は、20センチの2ウェイ・スピーカー1本である。それもフェライト・マグネットを使っているためユニットは外観的に他社製品のようなスゴ味を感じさせるものではない。
 つまり、中味を知ると、多少オーディオに強いファンなら[ナァンダ」と気を落してしまいそうなメカニズムを土台としているシステムなのだ。
 しかし、この点こそがアルテックならではの技術なのである。
 音量のレベルが小さい所から大音量に到るまで、バランスを崩さずに中声部を充実させるため、この永年使いなれたユニットをもっとも効果的に鳴らしている。それが「ディグ」なのである。
「ディグ」というジャズ・ファンにおなじみなことばを製品につけたのは、広いファンを狙った製品だからなのだが、単に若いファンだけを対象にしたのではないのは、その温かみあるサウンドににじみ出る音楽性からも了解できよう。むろん、若いジャズ・ファンが納得する迫力に溢れた瑰麗なサウンドは、「ディグ」の最大の特長でもある。ブックシェルフとしてはやや大きめの箱は、この409Bユニットによる最大効果の低音を得るべく決められた寸法であり、ありきたりのブックシェルフとはかなり違った意味から設定されている。小さいながらもこのブックシェルフ・タイプのサウンドは、アルテックのオリジナル・システムA7と同質のものなのである。

ビクター CCR-667

菅野沖彦

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 CCR667は日本ビクターの発売した最も新しいカセット・デッキである。カセット・デッキというのは、カセット・テープを使ってステレオの録音再生ができるデッキ・タイプのテープレコーダーで、出力はラインで出るから、これをステレオ・アンプのライン入力回路に入れて使うように作られているもの。そして、一般に、カセット・レコーダーというと、それ自体にパワー・アンプとスピーカーを内蔵してしいて、他のアンプなどにつながなくても再生音がきけるものをいう。いいかえれば、カセット式のテープレコーダーの場合には、家の中に据置いて使うものがデッキ、どこへでも持って歩けるものが、カセット・レコーダーというように考えてよいだろう。また、今、はやりのコンポーネント・システムという概念でいけば、カセット・デッキはそれ自体では音が出ないし、高級なシステムにつないで使うように、設計されているから、これはカセット・コンポーネント、あるいは、コンポーネント・カセットと呼んでもよさそうである。いずれにしても、カセット・デッキはカセット式の高級機であって、ハイ・ファイ・マニアの音質的要求にも応えるものというのが条件である。カセットはそもそも開発の意図からして、簡便、小型、軽量という使いやすさを第一の目的としてきた。したがって、その範囲での音質向上は当然計られるにしても、本来の〝イージー・ハンドリング〟〝コンパクトネス〟といった特徴を犠牲にしてまでもハイ・ファイ再生を目指すようになろうとは想像出来なかったのである。それは、やや馬鹿げたことにも思えたし、第一、あんな細いテープで、しかもゆっくり廻して、そんな高性能が得られるわけもないと誰もが考えたにちがいないのである。しかし、そうした馬鹿げたことをも、馬鹿げたことと感じさせないのが技術の進歩というものらしく、最近のカセットの性能は、オープン・リールのテープ・デッキ並の大型化をも不満と感じさせないだけのものとなってしまったようである。
 このCCR667を使ってみても、そのカセット本来の特質を失った堂々たるデッキのスタイルが気にならないだけの性能をもっているのであった。これで、音質が悪かったり、ノイズが聞くに耐えなかったりしたら、途端に、カセットの数十倍もあろうと思われる大きさに腹が立ってくるところだろう。
 CCR667はビクターが独自に開発したノイズ・リダクション・システムANRSが内蔵している点を第一のフューチャーとすべきだろう。これは、有名なドルビー・システムと同じような考え方による回路であって、入力信号が小さい時に、高域における録音レベルを上げ(伸長)てテープに録音し、再生の時に、その分を下げ(圧縮)てやることにより、耳につくテープ・ヒスを減らそうというものである。つまり、ハイ・レベル録音でS/Nをかせぐというテープ録音のコツを利用して、これをたくみに電気回路で自動動作をさせたものである。そしてこのANRS(AUTOMATIC NOISE REDCTION SYSTEM)はドルビー・システムとの互換性があるそうだから都合がいい。それにしても、同じ考え方、同じような動作、さらに互換性もあるとなると、世界的特許を盾に、世界中の市境を席巻しているドルビー氏との関係はどのようになっているのだろうか? というヤジウマ根性が首をもたげてくる。
 第2のフューチャーはクローム・テープに対する適応性である。ごぞんじのことと思うが、最近のテープ界の話題となっているクローム・テープは、従来の磁気テープが、ガンマフェマタイトという酸化鉄の微粒子を磁性体として使っていたが、この新しいテープはクロミダイオキサイド(CrO2)という合金の微粒子を磁性体としたもので、その磁気特性はまったくちがうものだ。テープに録音をするにあたって、あらかじめ高い周波数の交流電流を磁気ヘッドに流し、これに信号を重ねてテープを磁化する交流バイアス法が現在使われているが、そのバイアス電流の量はそれぞれのテープの磁性の特質によって異るのがテープ・レコーダーの厄介な問題の一つであった。クローム・テープとまでいかなくとも酸化鉄系のものでも、普通のテープと、ロー・ノイズ・タイプとでは性格が異り、同じバイアス電流量で使うと周波数特性に変化が起きたり、歪の少ない録音がとれなかったりという不都合が起きた。正しく使うと高性能を発揮するテープでもまちがった使い方をするとかえって悪い結果に終る、というわけだ。これがテープとデッキの適応の問題で、クローム・テープは、そのために設計されたデッキではないと使えないのである。このテープ・デッキは普通のテープとクロームとの二点切換スイッチがついていて、クローム対策は万全であり、実際、同社ブランドのクローム・テープを使ってFMやレコードから録音してみたが、なかなかよい。またフジ・フイルムのクローム・テープが手元にあったので使ってみたが、ANRSと併用して、とてもカセットとは思えない結果が得られた。メカニズムも安定していてドロップ・アウトも少なく、カセット特有だったフラフラとレベルが変動することがなかった。リニアー式のレベル・アッテネーターも確実だし適度に軽くて気持がよい。またテープの巻き終りで、ライト・ビーム・センシングによるカセットのポップ・アップ機構がついているのも便利だし、全体のデザイン・イメージもマニアの好みに合いそうだ。ヘッドまわりのクリ−ニングもカバーをとりはずすことによって容易に出来るような配慮があって好ましい。

ヤマハ YP-700

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ヤマハのプレイヤー、と聴いて、昔のプロフェショナル仕様のプレイヤーを思い浮かべた方がいたら、それは、本格派のベテランマニアに違いない。モノーラル時代の盛んなりし頃、たしか30年ごろだったと記憶するが、リムドライブ型フォノ・モーターと、例の長三角形のオイル・ダンプド・ワンポイントサポート方式のアームを組合せた、プレイヤーをヤマハ・ブランドで市販した。高級マニアのひとつの理想が、このプレイヤーに凝縮され息吹いていた。このプレイヤーを手がけたのは現在のティアック、東京電気音響のさらに前身であったのだが、放送局のモニタールームなどにあったレコード再生機のイメージがそのまま市販品として再現されていた。形だけではなく、その性能も、規格もプロ用に匹敬して今日において歴史に残る名作と謳われるべき高性能機種であった。
 今、ヤマハのプレイヤーを前に置いて、かつての名作を思い浮かべる時、眼の前にあるプレイヤーは、昔のものとはイメージすら全然異なるものであるのは確かだがそれはそのまま我国のハイファイの推移を具象化した形で示していることを感じた。
 かつて、ハイファイは一般の音楽ファンにとって高嶺の花でしかなかった。
 今日のように、多くのファンやマニアの間にオーディオが定着した現実と、ヤマハというブランドがオーディオ産業の奈辺に存在するかに思いをいたせば、この新型プレイヤーの外観と、志向する性能が、昔日と全く異なるのはしごく当然といえよう。購買層ファン自体が、大きく変ったのである。共通点はただひとつ、ターンテーブル上のゴムシートのパターンだけだ。
 新製品YP700は、セミ・オートマチック・プレイヤーである。つまりレコードの音溝の上にアームを位置させてプレイ・ボタンをおせば、アームは静かにレコード上におり、演奏が終われば、アームは上って静かに定位置に戻りレスト上に止る。
 この新製品がセミ・オートマチック・プレイヤーであるということで、現在のヤマハの狙っている層が、昔日のように一部の超高級マニアではなくもっと若い広い層を考えていることが判ろうというものである。
 ターンテーブルは今日では高級品としてオーソドックスなべルト・ドライブ方式で、大きなメタル・ボードの左奥にアウター・ローター型シンクロナス・モーターがあり、三角形のカバーがその位置を示している。この位置は、カートリッジのレコード面上の軌跡からもっとも遠い位置であり、この一点を見てもプレイヤーの設計にオーソドックスながら十分な配慮がなされていることが判る。事実、カートリッジ針先をモーターボードに直接のせてボリュームを上げてみてもスピーカーから洩れるモーターゴロは微少で、モーター自体からの雑音発生量の少ないのが確められる。
 これはモーターボードの厚くガッチリした重量による効果も大きく見逃せない利点だ。
 さて、このプレイヤーのウィーク・ポイントは、アームのデザインにあるようだ。使ってみて、扱いやすく、誰にでも間違えることのない優れたアームとは思うが、ただ取り柄のまったくないありきたりのパイプアームだ。シンプルというには後方のラテラル・バランサーなどがついており、多分、これが特長としたいのだろうが、このラテラルバランサーと対称的にインサイド・フォース・キャンセラーが、アーム外側につけられている。アームは、実用的であると同時に、毎日これと対決を余儀なくさせられる音楽ファンの、マニア根性を、もう少し刺激して欲しいパーソナリティーを望みたい。
 ちょっとだけ不満な点にふれたがこのプレイヤーの最大メリットが2つある。まずヤマハならではの、豪華にして精緻なローズウッドのケースの仕上げだ。圧巻というほかない。
 もうひとつの大きなプラスアルファはカートリッジにマニアの嬉しがるシュア・75タイプIIがついていることだ。タイプIIになってスッキリした音が一段と透明感を強めた傑作カートリッジが、オプションでなく、始めからついているのは、このプレイヤーの49000円という価格を考えると魅力を一段と増しているといえよう。

パイオニア AS-30 + LEB-30, AS-21 + LEB-20

岩崎千明

スイングジャーナル 4月号(1972年3月発行)
「audio in action」より

 ステレオ・メーカーが相次いでキットを出した。トリオのアンプ・キット、ラックスの真空管アンナ・キット、さらにパイオニアがスピーカー・システムのキットを市場に送った。この新らしい試みは、不況に関連しての目玉商品としてではなく、週休2日制の声がしばしば聞かれるレジャー時代に即応した新商品としての登場である。
 いわゆるホビーとしても、ステレオやオーディオはハイセンスなことこのうえなく、単に高級パズルとしてだけでなく音楽という趣味性の高度な感覚がからんで、現代の、知識層にとって計り切れないほど強くかつ、深い魅力を秘めているといえよう。
 キットは、その端的な具体化商品なのである。
 パイオニアのスピーカー・キットにはAS30、30センチ低音用3ウェイ、AS22、20センチ低音用2ウェイ(ダイアフラム型高音用)、AS21、20センチ低音用2ウェイの3種類がある。価格はAS30が12、000円、AS22が5、500円、AS21が4、400円となっており、それの専用ボックスが2種類売り出されている。
 LEB30 AS30用 12、000円
 LEB20 AS21、22用 9、000円
 従って、3ウェイ用としては、LEB30とAS30を購入すればよく、価格は24、000円ということになる。この3ウェイに匹敵するパイオニアのシステムはCS−E700で、こちらは35、000円なので、スピーカー・システム・キットの方がなんと1万1千円も安くなることになる。(厳密にいうと、CS−E700の方は高音用ホーンが、マルチセラーになっているので、キットよりも高音域の拡散性がより優れていることは確かだが)。
 LEB20とAS22の組合せは、パイオニア・システムCS−E400に匹敵し、レベル・コントロールのないことを除いてまったく同じだが価格はシステムが19、900円なのに対してキットの方は13、500円である。さらにLEB20とAS21の組合せはCS−E350に相当するが箱は、キットの方がひとまわり大きく、低音のスケールは一段と大きい。システムのCS−E350の14、500円に対してキットはLEB20とAS21で13、400円と差は少ないが外観がひとまわり大きい。
 さて、今回AS30、3ウェイの大型のキットと、もっとも普及型であるAS21を試作してみた。
 キットとしては大へんに工作が楽で穴をあけたり、切ったりする必要は全然なく、箱にスピーカーを取り付けて「ネットワーク」をハンタづけする、というだけの、イージーメイクな、万人向きのキットといえよう。
 付属の説明書を頼りに進めれば、少しもまごつくことなしに完成できるが、ハンタづけのウデの確かな方ならおそらく1時間ぐらいで、2個を作り終るであろう。
 ハンダづけの未経験な方は、ネットワークとスピーカー端子のハンダづけに苦労するかもしれない。
 ハンダづけの要領にちょっとふれておこう。
 ①ハンダゴテはあまり熱くしすぎてもいけない。糸ハンダをコテ先に押しつけ溶け出して、先にたまるぐらいがちょうどよい。これよりも熱過ぎるとハンダが玉になって下におち、コテ先に付いてくれないから注意。
 ②コテ先にハンダがよくのったら、導線をからげたハンダづけするべき所におしつけ糸ハンダを、コテ先に触れさせると、端子全体にハンダがよくのってくる。
 ③そこでつけるべき導線の先までハンダを盛るようにする。ただし、ハンダの量は少ないほどよい。
 とこう書くと色々と大へんな手間だが、実際は一箇所ハンタづけするのに3秒ぐらいのものだ。工作に当ってのたったひとつの注意は、中につまっているグラスウールだ。これは眼に入るとチクチクと痛いし腕にでも付着するとチクチクしてなかなかとれない。もともとガラスの細い繊維だからなるべく素肌には触れない方がよいので、そっと扱い、こまかいのが空気中に飛ばぬように注意する。スピーカーをつつんでいた布袋を利用してグラスウール全体をスッポリと被ってしまえば扱いやすい。
 さて、スピーカー・ボックスにある端子板に、青白の入力コードをハンダづけする。あせって青白のむきを間違えないよう。+側が青です。ネットワークはスピーカーのボードがかたいのでネジ止めが大ヘンなので、セメダインかボンドを推める。ネジは1本か2本だけでよい。
 出来上ってみると苦労のしがいがあったのが嬉しい。
 さて、音を出してみよう。もし確実に1工程、1工程確めながらやってあれば信頼できるが、そうでないと、出来てからの心配や苦労が多いもの。
 この辺がキット作りのコツともいえる。
く試聴記〉
 キットだからと最初はたかをくくっていた。「CS−E700と同じだから社員でさえ買うものがたくさんいるほど。これはスピーカー・メーカーとしてのパイオニアのサービス商品だ。」といったのはスピーカー課長の所次にいる山室氏だが、まさかそのまま受取れるほどのことはあるまいと思ってたのだが。どうしてどうして、大した製品である。キットとはいえ、まさにパイオニアの本格的3ウェイの音だ。つまりCS−E700と変らないといってもよかろう。堂々たる量感あふれる低音、豊かなエネルギーを感じさせる品の良い中音域。輝きに満ちた高音。
 パイオニアの良識あるハイファイ・サウンドはジャズのバイタリティを力強く再現してくれる。ヴォリュームを上げた場合の楽器の再現性はバツグンだ。AS21の方はコーン型トゥイーターで歌の生々しさが特筆。全体にソフトタッチのバランスのよい音で、再生のクォリティーは高く、使いよさの点で誰にも推められよう。アトランティックのキース・ジャレットの美しいタッチが力強さに溢れた感じが加わるから不思議だ。

ラックス SQ507X

菅野沖彦

スイングジャーナル 4月号(1972年3月発行)
「SJ選定ベスト・バイ・ステレオ」より

 アンプというものは、あらゆる音響機器の中で最もその動作が理論的に解説されていて、しかも、その理論通りとまではいかなくても、それに近い設計生産の可能なものだと考えられている。それはたしかに、電気信号増幅器としてはその通りだろうし、アンプに入ってくる信号は音楽の情報が電気エネルギーに変換された信号であるから電気信号の伝送、増幅という次元で問題を考えることに問題はないし、またそうするより他に現在のところでは方法はないのである。
 アンプはその出口に測定器がつながれるのは研究所内のことだけで、オーディオ機器としてのアンプは、必ずスピーカーがつながれる。いかなるアンプといえども、その動作はスピーカーの音としてしか判断されないのである。そのスピーカーというのが、アンプとちがってオーディオ機器の中で、もっとも解析のおくれているもので、その基本的な構造はスピーカーの歴史開闢以来ほとんど変っていないというのだから皮肉といえば皮肉な話しではないか。現代科学の諸分野の中でも特に著しい進歩の花形といってよいエレクトロニクスの領域にあるアンプリファイヤーと、かなり素朴な機械的動作をもった変換器であるスピーカーとのくされ線はいつまで続くのか知れないが、とにかくアンプはスピーカーを鳴らすためにある。したがって、エレクトロニクス技術の粋をこらしたアンプは、これから、その技術の高い水準を、スピーカーというものとのより密接な結びつきにおいて検討され尽されねばならないという考え方もあると思う。もちろん、このことも、識者の間ではよく話題になることなのだが、現実はアンプとスピーカーはバラバラに開発されている。どこかで、本当にスピーカーという不安定な動特性をもった変換器、あるいは、スピーカーという音をもった音声器?の標準(もちろんそのメーカーなりの考え方と感覚で決めたらいい)に対してトータルでもっとも有効に働くアンプを作ってみてくれないだろうか? つまり、そのスピーカーは他のいかなるアンプをつなぐより、そのアンプで鳴らしたほうがよいという実証をしてくれないだろうか。さもなければ、いつまでたっても、アンプとスピーカーの相性というものが存在しながら、それが一向に明確にならない。
 このラックスのSQ507Xほど多くのスピーカーをよく鳴らしてくれるアンプも少ないというのが私のここ数ヶ月の試用実感なのである。昨年来いろいろなスピーカーをいろいろなアンプで鳴らす機会を多くもって感じた体験的な実感なのである。もう少し具体的にいうならば、あるスピーカーをいくつかのアンプで鳴らして、多くの場合、一番よいと感じたのが、このアンプで駆動した時であった。しかし、スピーカーによっては必らずしもそうでないという例外があったことも事実で、これが私をしてこんなやっかいなことをいわしめる理由でもある。そして、このアンプは、かなり高級な大型システムを鳴らした時に充分その実力が発揮される。アルテックA7をはじめ、JBLのL101、タンノイのヨークなどでよくそのスピーカーの持味を生かしながら、いずれの場合も、明解な音像の輪郭と透明な質感が心地よく好感のもてるアンプだった。同社のSQ505Xのパワー・アップ・バージョンであり、パネル・フェイスやコントローラーのレイアウトもよく練られていて感触もよい。最新の3段直結回路のイクォライザー・アンプによるプリ部と、これまた全段直結OCLのピュア・コンというパワー部の構成は、現在の高級アンプとしては珍らしくないかもしれないが、この音とパワーがなによりも、このアンプの高性能を実際に感じさせてくれる。入力のDレンジに余裕があって、かなりホットなジャズのソースにも安定している。実際にかなりの価格なアンプの中にもレコードからの入力信号でクリッピングが感じられるのも実在するのだから安心できない。残留ノイズも非常に少いしON、OFF時のいやなショックもない。欲をいうと、この製品、SQ505以来の意匠で嫌味のないすっきりした点は評価するが、決して魅力があるデザインや質感とはいい難い。音に見合った量感と風格が滲みでるような魅力が欲しいと思うのは私だけだろうか。

良い音とは、良いスピーカーとは?(1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 22号(1972年3月発行)

「原音」とは何か、「原音再生」とは何か
     I
「昨日著名な俳優数人の声を録音したのにひきつづき、蓄音機は今朝カーリッシュ Paul Kalisch =レーマン Lilli Lehmann のコンビの歌を録音した。最初リリー・レーマン夫人が《ノルマ》のアリアを一曲歌った。夫人が歌っているとき、たまたまフランツ皇帝近衛歩兵隊がジーメンス・ハルスケ(※1)とおりを行進し、同軍楽隊のマーチ演奏がレコードのなかへ迷いこむ結果となった。そのあとレーマン夫人とカーリッシュ氏は、《フィデリオ》の二重唱を一曲歌った。(中略)正午に次官ヘルベルト・ビスマルク伯 Graf Herbert Bismarck が姿を現わし、まずヴァンゲマン氏(※2)から装置の説明をくわしくうけられた。御質問ぶりから伯爵が大西洋の彼方のこの不思議についてすでに御存知なことがうかがわれた。伯爵は蓄音機を親しくごらんになって、ひじょうに御満足そうであった。再生音の高低と遅速を随意に変えられることをお聞きになって、にっこり微笑まれ、カリカチュアにとくに威力があるだろう、といわれた。もっと大型の蓄音機も作られているかという伯爵の御質問に、ヴァンゲマン氏はエディソンが大型の装置を一台製作させているむねを申しあげた。伯爵は昨日俳優のクラウスネック Krausneck が録音したモノローグをお聞きになり、『不気味であると同時に滑稽に聞こえる』と感想をのべられた。つづいて音楽のレコードをお聞きになって、『目の見えない人ならさだめし楽団の実演と思うだろう』といわれた。……」
(一八八九年十月二日付《フォス新聞》クルト・リース著『レコードの文化史』佐藤牧夫訳・音楽之友社。傍点瀬川)
 エジソンの円筒蓄音機フォノグラーフが、はじめて海を渡って、ドイツ・ジーメンス社の社長フォンジーメンス邸で公開されたときのもようを報じた記事である。そしてもうひとつの記事。
「この平円盤(グラモフォン)レコード蓄音機は目下エディソンの円筒レコード(フォノグラーフ)蓄音機と地位を争っているが、じつに優秀な性能をもっている。発明者はすでにさらに改良に着手しているが、いまでもエディソンの装置より安価で安定した性能をもっているので、さらに改良されたあかつきにはフォノグラーフと激しい競争をくりひろげよう。グラモフォンは必ずしも雑音なしとしないが、人間の声でも書きの演奏でも、録音された音をりっぱに、忠実に再生する。グラモフォンがとくに成功したのは多声楽曲の再生で、個々の楽器や声の音色がほとんど申し分なく、忠実に再生される。……」
(同じ《フォス新聞》一八九〇年一月。前出書より)
     ※
「実演さながら」「原音を彷彿させる」「まるで目の前で演奏しているよう……」そうした形容は、蓄音機の発明以来ほとんど限りなく使われてきた。それは、新らしい音をはじめて耳にしたひとたちの素朴ななどろきの表現であったと同時に、ひとが録音とその再生というものに求める本質的な願望でもあったに相違ない。それからすでに80年あまりを経て、それはまさに《タンタロスの渇き》であることに人は気づきはじめたのだが、それでもなお、原音の再現というもっとも素朴なそれだけに根本的な欲求にも近いこの幻影を追うことを、おそらく私たちはやめはしないだろうと思う。
 しかしまた「原音再生」というスローガンくらい誤解をまねきやすい言葉もない。古い話は措くとしてLP以後あたりからふりかえってみても、一九四七年から五〇年ごろにかけて、英国のIEE(英国電気学会)とBSRA(英国録音協会)などによって、各方面の音響研究者やエンジニアたちが、活発な討議をくりかえした時期があった。(これら討論会の記録の要点は、昭和26年8月号の「ラジオ技術」および昭和32年発行の同誌増刊第14集などに、北野進氏──当時東京工大講師。現NF回路設計ブロック)によって紹介されている。このとき以来、高忠実度再生 High Fidelity Reproduction ──忠実な再生──に対して、グッドリプロダクション Good Reproduction ──良い音の再生とでもいうべきかという概念(言葉)が作られた。スクロギー M. G. Scroggie の定義によれば、ハイ・フィデリティーとは《原音を聴いたと同じ感覚をよび起すもの》であり、グッドリプロダクションとは《もっとも快い感覚を生ぜしめるもの》だとしている。このことは、《原音》がつねに快い感覚を生じさせるとはかぎらない、という意味でもあるが、これと同じ意味のことを、アメリカのヨゼフ・マーシャル Joseph Marshall は次のように言う。

「──完全な再生及び忠実度と、〝快く、柔らかい〟という形容詞との間に必然的なつながりはない(中略)。高忠実度再生に関連して起る混乱の多くは、音楽についての経験や知識をあまり、あるいは全く持たない人々が、〝気持の良い音がするか、しないか?〟という問いの形で再生の質を判断する傾向があることから生じている──」(J・マーシャル〈音質のよしあしをきめるには〉ラジオ・アンド・テレビジョン・ニューズ日本語版臨時増刊〈これからの電蓄と拡声装置〉昭和26年3月刊より)。
 マーシャルはこれに続けて、音楽はたいてい快いものだけれども、その中の音だけとりだしてみれば、明らかに不快というべき素材としての音はいくらもあり、そういう要素を美化することなく「単にそれを最大の忠実さで再現しようとしているのである」と述べる。もちろんそれは「高忠実度再生が不快なものでなければならぬということを意味するものではない」ので、不愉快きわまりない音のするいわゆる高忠実度再生というのが多くの場合、原音に忠実なためにそう聴こえるのではなく、人間の耳が我慢できる限界以上の多量の不快な要素──たとえば歪──を原音につけ加えているからにすぎない、といい、さらに、〝疲労率〟ということばを使って、
「諸君の音響装置で高忠実度プログラムを5時間か10時間、普通よりもすこし大きめの音量でぶっ続けにかけてみる。その間、諸君やご家族は平常の仕事をしているのである。これでもし諸君やご家族がイライラしたり頭が痛くなったりせずに何時間も休みなしに聴くことができれば、この点(疲労感や苦痛感をともなわないこと)に関しては合格と考えてよい。けれどもまさしく皆がイライラしたり頭痛がしたりするようだったら、また大分してからスイッチを切ってくれと頼むようだったら、さもなければあっさり家から逃げ出してしまうようだったら……それは彼らが人生の美なるものを解さない人間だからでなく、諸君の増幅器の歪が多すぎて、疲労率が高すぎるためである可能性が大きいのである。」(前出書)
 それから10年を経たいま、はたして10時間ぶっ続けに鳴らしても家族が逃げ出さない程度にまで、オーディオ機器の性能が改良されたかどうかについては、いまここではふれずにおく。それよりも大切なことは、当時、高忠実度再生という言葉が、スクロギーたちイギリスの音楽関係者のあいだでもマーシャルらのアメリカのオーディオ技術者のあいだでも、いまよりは比較的厳格に解釈され定義づけられているという点であろう。これはひとつには、これらの論議がもっぱらエンジニアや学者たちによって行なわれたために、しぜんに即物的な方向をとらざるをえなかったという理由によるものだろうし、またもうひとつ、大戦後のあの混乱した時代に、過去のきずなを断ち切って、あらゆる問題を理性的に整理しなおしてみたいと願った人びとのしぜんな欲求のあらわれではないかと思う。当時あらためてとりあげられ論議された、音楽での即物主義、写真や演劇界でのリアリズム論と、無縁のものとはわたくしには思えない。
 そうした開拓期でのある種の潔癖さが、高忠実度再生という目標を厳格に定めたにちがいないが、しかしさらに注目すべきことは、イギリス人は彼等特有の良識を発揮して《グッドリプロダクション》という安息の場を用意したに対し、日本人はあくまでもその潔癖さを押し通す。むろんイギリス人たちも、グッドリプロダクションの定義についてさらに論議をくりかえしたのだが、そこでとりあげられた問題の要点は、原音をことさらに美化したり歪ませたりする人工的手段が、どこまで許されるか、ということだった。これもまた、リアリズムや即物主義の定義やその限界に対する論議によく似ている。たとえば、北野進は前出の「ラ技増刊14集」《HiFiに関する12章》の中で、つぎのように言う。

「もし特性の悪いホールで行なわれた演奏や、ホールまたは伝送線、録音などの欠陥による雑音が混入している音が、理想的なホールで理想的な場所で聴いた音に近い感覚を起させるものになるならば、そのような人工的な変化は許してもよい(もちろん、これは高忠実度の再生ではない)。しかし原音にさらに改善(改悪?)を加え、理想的なホールで理想的な条件で聴いた音以上の快い感覚を生ぜしめるということには賛成できない。なぜなら、これは音響再生の問題でなく、新らしい電気楽器を作るということだからである。」
 むろんこの前提として、北野氏もまたスクロギーと同じ立場から、高忠実度再生について「原音を直接聴いた時と全く同じ感覚を人に与える音」であると定義している。著名な音響学者であるRCAのH・F・オルソンも、《オルソン・アンプ》を有名にした論文の冒頭に、「〝音の高忠実度の再生〟という言葉は、再生された音が実体性あるいは自然さをもっていることを希望しているということを意味している。音を再生するにあたり理想とするところは、もとの音を直接聴いているのと同じ感覚を人に与えるということであって、この理想を実現するためにはバイノーラルやステレオ再生方式のような方法をとることが必要であって……」云々と述べているように(前出RTN増刊)、当時各国の音響学者のあいだでほほ確立された定義と考えることができるのである。
 ともかく、こうした時代の背景の中で、日本人はその潔癖さ故に、人工的に美化した再生音、リアルでない再生音、というものに冷たい態度であった──というよりその方向についてことさらに言及する人のほとんど皆無であった時期に、作曲家黛敏郎の注目すべき発言がある(雑誌「電波とオーディオ」創刊号座談会──昭和30年5月)。
「……蓄音機が商品である以上、いまおっしゃったような線、いってみればリアリズムですね、これはくずせないかもしれない。しかしリアリズムではつまらないんじゃないか。蓄音機でなければできないことを、ねらう努力が、どうしても必要ではないかと思うんです」
 余談になるが、この座談会の司会をしているのが、若き菅野沖彦氏(当時同誌編集部員)らである。故座談会には、ほかにオーディオメーカーのエンジニア、オーディオ・アマチュアらが出席しているが、全体としてはだれもこの発言の重要性にはまだ気づいていない(むろんわたくし自身もそうだった)。黛はさらにいう。
「我々にはハイフィデリティという思想がつまらないですね。」
「蓄音機の発明は、ひとつの新しい楽器の出現である、というふうに考えられます。今迄は、蓄音機のような音を出せる楽器がなかった。だから、その楽器独特の機能を発揮させて今迄できなかった音を、この楽器で作り出してもいいのじゃないか。」
 この発言のなかに、彼が当時凝っていた電子音楽やそのための電子楽器と、蓄音機をわずかながら混同しかけているふしがみえないでもないが、ハイ・フィデリティをリアリズムであるとし、それだけでない方向があるのではないかとした発言は、いまふりかえってみて──当時の背景の中で──ことに興味深い。

     II
 しかし問題はここからである。ハイ・フィデリティの定義については、オルソンをはじめとする学者らの意見を一応受け入れておくとして、北野発言に代表される人工的な音、あるいは黛発言にみられる新らしい音、という方向が、いったいハイ・フィデリティに対してどこがどう異なり、どういう意味を持つのか、について考えてみたい。もういちど北野発言(これは北野個人の発言というよりも、当時の我国のオーディオ技術者や学者の考え方の代表、そして現在でも一部の音楽関係者が信じている意見の代表という意味で引用するのだが)の要点をくりかえすと、原音以上に快い音、原音を聴いた以上の快い感覚を人工的に作り出す、という点に賛成できないというわけである。
 故の考え方についての賛否は措いて、一歩譲って、ここで「原音を聴いたと同じ感覚」と、「原音を聴いた以上に快い感覚」というもののあいだに、考え方や理論上からでなく、実際の音を想定して、果して明確な一線が保てるのかどうかを、まず考えてみたい。
 たとえばピアノが鳴る。ナマのピアノなら、指が鍵盤に触れた音、キイが発するさまざまの打撃音、摩擦音、ペダルをふむ音、ペダルのきしみ、ペダルから離れた足音、椅子のきしみ、衣服の擦れあう音……そうしたさまざまの雑音が、ピアノ自体の音といっしょにきこえてくる。いや、ピアノ自体の音というが、ペダルやキイの発する雑音を取り除いた音がピアノの音、なのか、それらをともなった音がほんとうなのか、そんな定義は誰にもできまい。
 さて、ピアノが演奏される。その演奏されるホールかスタディオかの、広さ、音響特性など千差万別だが、そういう中野どれが「理想的な」ホールなのか。そのどこで聴けば「理想的な」場所なのか。残響の長いのがいいのか、短いのがいいのか……。
 次は録音された音。足音や譜をめくる音まで含めて一切の雑音を、そのまま収録するが仮にハイファイなのだとすれば、そうして雑音を取除き残響をつけ周波数特性を補整して音にみがきをかけ美しくすることが、人工的な方法なのだとすれば、さあいったい、どこまでが「ハイファイ」で、どこからが「人工」なのか。どこからが「原音を聴いた以上に美しい」のか。どこまでなら、その一線スレスレで「原音」なのか……。
 冗舌はもう止めよう。こんな問題は、さきにもたとえに引いた、演奏における即物的解釈、演劇や映画や写真の分野でそれぞれ論じられたリアリズムの問題で、つねにつまづく、最も初歩的な誤解と同質のものなのだ、というだけで十分だろう。要するに現実の世界には、理論や考え方やそれを言いあらわす用語や定義ほどには、明確な境界線というものはないのであって、少なくともそうした現象面から、ものの本質をながめようとすること自体、まちがっているといえるのである。再生音に於ける原音の定義は、もう少し別な角度から、あるいはもっと広い視野から考え、論じなくてはならない時期なのである。
(重ねてお断りしておくが、ずっと引用している北野氏の発言はいまから20年前のものであり、これが現在の時点での氏の御意見では決してないだろうこと。それよりもなお強調したいことは、以上の文は北野個人の発言に対する攻撃では絶対になく、さきにもふれたように、それが当時我国の多くの音響関係者たちの考えの代表であったという意味であり、しかもこうした考え方について、北野氏ほど具体的な発言が、ほかにはあまり見当らないという意味で引用させて頂いたので、当時からずっと北野氏に抱いている尊敬の念は、少しも変るものではないことは申し添えておく。)
 そこで黛発言について考えてみる。「蓄音機でなくては出せない音」という表現についても、二通りの解釈ができる。第一は、いまもふれたような、もともとの原音にみがきをかけ、美化してゆくという方向。たとえばナマより美しく、しかしピアノがピアノ以外の音ではありえないという意味での、素朴な意味での原音の「写し」を越えてはいても、広義では、もともとあるオリジナルを再現するという範囲内での、「蓄音機でなくては出せない」美しい音。第二波(おそらく氏がやや混同しているところの)電気楽器、新たな音の創造、いわば発音源、オシレーター──たとえばモーグのような──としての働き、という二通りの解釈である。
 この後者の、モーグ・サウンド的な、いわば全く新らしい音楽の創造、ということになると、これはもう再生装置の問題という枠の中ではなく、電子音楽と同様に、新らしいカテゴリーのものになるので、この小論では立入ることをしない。わたくしがいま考えたいことは、あくまでも再生装置というものを通して音楽を受けとる場合の、音の理想像を探し求めることであり、そのきっかけとして、原音を再生する、ということばの意味、その定義について、あらためて考え直してみることから始めようと思うのである。

※1ジーメンス・ハルスケ=ドイツの著名な電器メーカー。社長アルノルト・フォン・ジーメンスの夫人の父は、有名な音響学者ヘルムホルツ。最近、ジーメンス名作「クラングフィルム・スピーカー・システム」が入荷したが、これについては山中敬三氏の紹介が次号「海外製品試聴」にのる予定。
※2ヴァンゲマン=エジソンのヨーロッパの総代理人。

デンオン DP-5000

岩崎千明

スイングジャーナル 3月号(1972年2月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 今月のこのページを一見して、おやまた、ダイレクト・ドライブかと思われる読者が多いことであろう。
 先月号のテクニタスSL1000に引き続いて、今月はコロムビア/デンオンのDP5000の登場である。これで、この1年間に登場したプレイヤー関係の3機種が国産ダイレクト・ドライブ(以下DD)ターンテーブル関係の製品で占められたことになるわけである。先陣を切ったテクニクスSP10、続いて量産化の名乗りを挙げたソニーTTS2500とその高級型TTS4000、先月紹介のテクニクスSL1000、今月のデンオンDP5000、とすでに登場した製品群に続いて、さらにパイオニアMU3000が控えているし、開発完了を伝えられるマイクロ精機のDD型ターンテーブルも市場に姿を現わすのも間近いことだろう。
 すでに多くの機会に語られているように、これらのDD型ターンテーブルの出現は、国産ターンテーブルおよびそれを基盤としたプレイヤーの、飛躍的向上を意味する具体的な成果として、受け取ってよい。この、技術は、例えていえば自動車産業における、ロータリー・エンジンの、レシプロに対する優位性以上に評価され得よう。いくら賞賛しても決して過ぎることのない優れた研究開発であるし、製品化技術であり、それ一世界のオーディオ・メーカーのすべてに先駆けた、純粋の国産技術であるという点において、その価値が一段と輝きを増すのだが、それだけに、どうしてもDD技術に対するその評価は甘くなり勝ちなのだ。
 そうはいっても、国内市場において国産メーカー同志のDD型ターンテーブルやプレイヤーが肩を並べて競い合うようになってくると、それぞれの製品に対する特長づけや評価が要求されるものだし、それに応えるのが、このページの責任でもあろう。
 さて、今月のデンオンDP5000、さすが業務用一本槍に生き続けてきた筋金入り本格派老舗直系のブランド商品である。
 まずひと目みてスタイルが実にユニークだ。元来ターンテーブルのデザインほどむづかしいものはなかろう。
 ディスクを乗せるターンテーブルはまずまったくといってよいほど形を変えられるものではないし、そのまわりもモーターボードと名付けられる通り板状の域を越えるのか難かしいものだ。そうかといってターンテーブルのまわりがないのもは高級品には見当らないのだ。DP5000は視覚的にはまさにこの両方の中間的なスタイルボードではないがメカニカルには堅牢この上ないボードが30センチピッタリのターンテーブルの周囲をゆるやかに取りかこんでいる。ゆるやかにということばは妙ないいまわしだが、それは手前で幅広く、奥で狭くなるように傾斜を変えてあるために感じられるデザインのなせるわざだ。このユニークなプロフィルは、最初にちょっと、とっつき難い印象を受けるのだが、それを手元におけば、実に扱いやすく、演奏前後のレコードを傷つける可能性を根絶した配慮を知らされるに違いない。ターンテーブルのふちはその上でレコードを裏がえす際に、時に障害になり得るし、外し損なったレコードをしばしば傷つけるものだ。
 この傾斜したターンテーブルまわりのボード(?)は、レコードの取り外しの際30センチというターンテーブルとゴムシートの作るわずかの隙間に指をかけやすくする、という大きな利点をも生み出している。さらにもうひとつの意味はプレイヤーの大きさやアームを追加する際にも制限をなくしている。
 加えて、ほこりがつき難いこともいい足してよかろう。
 このわずかなボードに、ストロボと操作を考えて大きく並べたプッシュスイッチの角型つまみ。
 ランプを内蔵している点もいたれりつくせりの感がある。
 さて、本来の性能だが、ACサーボというテクニクス方式とはやや異なる電子サーボを採用しているがその特長は、大きなトルクを得られる点にあり、まさに業務用ということを強く意識した瞬間定速型で、1/3回転で定速度に達するのが大きなポイントとなっている。
 むろんその回転むらや振動の少なさはDD型そのものズバリで、いうことはなかろう。価格も適正な上、信頼度の高いデンオン・ブランドのDD型の出現は、マニアにとって大きな購売目標となって永く市場を確保するであろう。

ティアック R-720

菅野沖彦

スイングジャーナル 3月号(1972年2月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 プログラム・ソースとしてのミュージック・テープは、8トラック・カートリッジがピークを過ぎ、今やカセットが花形という観がある。一方、4トラック・オープン・リールはどうも、もう一つバッとしないようだ。LPレコードとの音質の優劣をさわがれていた頃が華で、その勝負もうやむやなうちに、もっぱらFM電波のエアー・チェック用に使われているというのが実情らしい。もっとも、近頃になって、ようやくマイク録音の機運が高まり、カセットでは不満なマニアが4トラ・オープン・リールのもつ特性を活用しているようだ。しかし、なんといってもテープならではの優秀性をその音質で確認できるものとなると、2トラック・38センチということになり、この不経済なプロ規定がジワジワとアマチュアの間に浸透してきた。2トラック38センチのテープの音質は、たしかに、4トラックやカセット(この二つを一緒にするのは無茶だが)とはまったく次元を異にするといってよいハイ・クオリティ・サウンドであって、ここでは、さすがに、ディスクとの音の優劣を比較する気にもならないらしい。こんなわけで、ごく大ざっぱにいって、テープを楽しむなら2トラック38センチかカセットだ! という両極端に徹底することの合理性が生まれてくるのである。もっとも、FM電波を受信して録音する場合に2トラ38を使うのはあまりにも馬鹿げているともいえるかもしれないが、私にはこんな経験もある。それは、FM局が2トラ19センチで録音したプログラム・ソース…しかも、それはLPからのD.B.の放送を、エアー・チェックしたのだが、こんなプログラム・ソースでも、4トラック19センチでとったものより2トラック38センチでとったもののほうがはるかに音がよかった。もっと甚だしきは、4トラック19センチのミュージック・テープを2トラック38センチでプリントしたものと2トラック19センチでプリントしたものを比較してみたら、ここでも2トラック38センチのほうがよかったということもある。これは一体なにを意味するか? 送り出しのクオリティがよい場合、少しでもそのクオリティに近い性能をもったものが威力を発揮するというのならわかる。送り出しより受けのクオリティが上回っている場合、どうせ、それ以下の音しか入っていないのだから、より忠実に伝わるのは雑音や歪で、かえって音が悪くなったりしたりと、いう気もするのである。それは理屈だが、事実はその通りにいかない。ここでは考えるスペースがないので、なにはともあれ、テープにこるなら、2トラック38センチは是非いじってみたいものだと思う。
 ティアックは、昨年の下期にどっと新製品を発売したが、このR720もそのうちの1機種で、最高級アマチュア機、あるいは、実用的なプロ機といえる製品だ。同社が長年にわたってこなしてきたアンペックス・タイプのトランスポートはごくオーソドックスな信頼感の強いもので、コントロール・スイッチは従来のAシリーズとはちがい横一列に並んだプッシュ式、どこかアンペックスのAGをしのばせるムードである。ティアックらしい気の配りようは随所にみられ、アマチェアの気質を充分知り尽した親切な設計が感じられる。バイアス切換とレベル切換がエレクトロニックス・パネルについていてロー・ノイズ・タイプのテープに適応する万全のかまえがある。つまり、ローノイズ・テープは、バイアス電流も多く流してやらなければならないが、同時に、ダイナミック・レンジの広さを充分活用することが大切で、切換スイッチをハイにしてプラス3~6dbまでメーターで見ることにより、さらにS/Nの優れた録音をとることを可能にしているわけだ。ヘッド構成は4トラ、2トラの2種あるが、いずれも4ヘッドで、再生は2、4トラック共に可能である。録音、消去ヘッドが2トラ仕様と4トラ仕様に分れている。38、19、9・5各センチのイクォライザ一切換がエレクトロニック・パネルについているが、このへんがうっかりするとミス・ユースの原因になるかもしれない。スピード切換とは連動していない。テープ・スピードは、キャプスタン・スリーブの脱着で、38と19あるいは19と9・5の2通りに使う。
 使ってみると、大変安定したメカズムと、S/Nのよいエレクトロニックス、音質的にもフェライト・ヘッドのコンビネーションがよくコントロールされていて、艶やかで美しい。柔らかさの中に腰のしっかりした強靭な締りをきかせ、2トラック38センチの威力を充分発揮させてくれるのだった。

テクニクス SL-1100

菅野沖彦

スイングジャーナル 2月号(1972年1月発行)
「SJ選定新製品」より

 テクニクスがSP10というダイレクト・ドライヴ・ターンテーブルを発売したことはオーディオ界に強い刺戟を与えた。低速回転の直流サーボ・モーターを使い高精度の仕上加工によるメカニズムとのコンビネインョンは本物を見分ける人たちの間で、またたくうちに評価が高まったのであった。しかも、世界中どこをさがしても、この種のターンテーブルはなく、まさに世界水準を上回る製品といっても過言ではなかろう。時を経ずして、各社からも続々とこのタイプの新製品が発売され、高級ターンテーブルはダイレクト・ドライヴ(DD)という観さえ呈するに至った。そして今回、試用した新製品SL1100は、このSP10の開発を基礎として、これをプレーヤー・システムとして完成したものだ。そのユニークな発想と随所に見られるアイデアやマニア好みの心情を把えたメカニズムは、このところ調子を上げているテクニクスの開発力と意欲を充分に見せつけているようで小気味よい。
 このプレーヤー・システムの特長は全体を完全に一つのユニットとして総合的に設計したことであって、ターンテーブル、アーム、プレーヤー・ベースという三つの部分をパラバラに設計しておいて、互いにつなぎ合せて一つの製品にしたといったイメージは完全に消えた製品なのだ。
 プレーヤー・ベースにダイカストを使ったというのもユニークであるが、従釆の木製ベースになじんだファンに、どういう受け取られ方をするかは極めて興味深いところだろう。私としては、一方において同社のねらった重厚感やユニット感覚に共感をおぼえながら、他方、なんとなく冷く、硬い、あまりにもよそよそしい感触にも抵抗を感じているというのが偽りのないところなのであるが、このダイカスト製のプレーヤー・ベースは構造的にも機能的にも、きわめてよく練られた設計で、ショック吸収のインシュレーターを内蔵し、アーム交換パネルと、将来イクォライザー・アンプを内蔵したい人の遊びパネルがビスどめをされているというこりようも泣かせるところ。SL1100はトーン・アームつきでSL110はトーン・アームなしという仕様になっているが、SL1100のトーン・アームは、やはり、ダイカストをベースに、パイプ・アームとの組合せで完成したものだ。ユニークな直読式針圧印加装置は大変セットしやすく、インサイドフォース・キャンセラーもついてはいるが扱いはきわめてシンプルだ。無骨なスタイリングとは全く無線のスムースな動作で、まだじっくり使ったわけではないが音質もなかなかよさそうだ。トーン・アームによる音質への影響は想像より大きいもので、その低域特性が全体のバランスに与える印象やトレーシング・スタビリティは軽視できないものだと思う。35cmアルミ・ダイカスト製のターンテーブルのテーパード・エッジはディスク・レコードの取扱い上の配慮もよくできているし、ダイナミック・バランスもよくとれている。かなりの高級ターンテーブルでも、動力機構をオフにして手で早回しをしてみると、全体にブルブルと振動がくるものが少くない。ふだん我が愛車のホイール・バランスに神経質なだけに、こんなところを妙に気にしてしまう癖がある。しかし、やたらにカタログ表示のワウ・フラッターの数値を気に.するぐらいなら、まだ、こんなことでもしてみたほうがましではなかろうか。横道にそれたが、とにかく、このターンテーブル、SP10をはるかに下回るローコストでまとめられていながら性能的には大差のない水準を確保していることがわかる。ダイカスト・ベースに直接針を下してボリュームを上げてみても、その振動の少さがよくわかる。すでに記した内蔵インシュレータ」もよく働き、外部振動にも強く安定したトレーシングが得られた。
 こう書いてくると、この製品、いうところがないように感じられるかもしれない。たしかに、その物理的な動作面では、高い水準を確保していて、ディスク・レコード再生に充分満足のいく機能を示してくれる優秀製品だし、はじめに述べたように設計者のマニア気質がよく出た心憎い配慮にもニタッと笑いたくなるのだが、ここまでくると、もう一つ欲が出るのが人情であろう。モダーンなメカニズムを象徴するデザインも個性的でよいが、音楽を演奏するものとして、直接手に触れるものとして、もう一つ人間的な暖み、ふくよかさがあったならどんなにかすばらしいことだろう。プッシュ式のスイッチを指でタッチした時の感触や、スイッチの動作振動が金属ベースに共鳴して聞える薄っぺらな音は意外に輿をそがれるものだったのである。従来のプレーヤー・システムの概念を1歩も2歩も前進させた優秀なこの新製品の登場はその性能の高さとともに強く印象に残った。

オンキョー E-53A

岩崎千明

スイングジャーナル 2月号(1972年1月発行)
「SJ選定新製品」より

 ステレオ商戦たけなわのこの暮近くになって、各社から数多くの製品が出たが、その中には魅力あふれるものも少なくない。
 現在市場にあるブックシェルフ型をいくつか聞いて、これはと思ったうちの二つがオンキョー製品であったのには正直言っておどろきでありきすがと感じ入った。
 オンキョーのスピーカーはユニットが抜群の優秀品ぞろいなのにも拘らず、それらを組み合わせたシステムとなると、だれにも推められるというのが皆無に近かったといってよい。逸品ぞろいといっても具体的にいうとHM500、HM300をはじめ、スーパー・トゥイーターなどのホーン・ユニットが多かった。71年になってダイアフラム型が加わったが、コーン型になると逸品といい得るのは僅かでFR12Aのような小口径のフルレンジであって、大口径の、つまりウーファーにはこれというものがないというところが本音だ。だからウーファーに重要度の高いブックシェルフ型は、私としてはオンキョー製品に指摘できなかったわけである。
 ところが最近接したU4500、2ウェイといい、E53A、3ウェイといい、それはバランスのよさ、音の品の良さという点で今までのオンキョーのシステムの音に対する私のイメージをすっかり改めなければならなかったことを知った。
 オンキョーは本来スピーカー・メーカーとしてスタートした大企業だから、こうしたスピーカー・システムが作られることは不思議ではない
 しかし、テレビなどの準家電製品に追われて本格的ハイファイ・スピーカー作りから離れていた期間が少々長すぎた。ステレオの最盛期になってふんどしを締めなおして再スタートを切って以来、ユニットにさすがというのがあっても、システムはなにか押しつけがましいサウンドで品の良さという点で取残された未熟な部分を感じさせていた。力強く、迫力に満ちているが、それを手元におくにはためらってしまうというようなサウンドがオンキョーのシステムに対する私のイメージであったのだ。
 ところがU4500を聞いて、この音の透明度が従来にくらべ格段と向上して感じられた。HM500をセクトラル・ホーンにマイナー・チェンジした中高音ホーンの良さはもちろんだが、中音から下にかけての品のすなおさはウーファーの改良が進んだために違いない。
 少し時をおいて接したE53Aのサウンドはこの傾向をさらに引上げたうえ音に品の良さを加えたといえよう。これには中音、高音のドーム型という新方式のユニットが大きく力を加えたに違いない。オンキョー製品のドーム型の良さはすでに63Aでも知らされたがやはり低域から中域にかけての圧迫感が除ききれないで中音以上のサウンドのバランスの障害となっていたとみるべきだろう。
 このブックシェルフ型の低音用として密閉箱を採用しているのは、オンキョーをはじめパイオニア、クライスラーなどがあり、そのはじまりはARだ。サウンドの質としてはチューンドダクトよりも力強く、アタックに対しては明確にバスレフ方式にまさる。
 ところが、私が今までに聞いた、オンキョーのブックシェルフでは、この低音の力強さの方のみが強く印象づけられる。中高音とのバランス上、中高音をあえてどぎつい感じを聴き手に与えてしまうほどのエネルギー・バランスを保たせざるを得なかったのではあるまいか。だからウーファーの改良、質の改善が一躍システムのサウンド全体に大きく寄与して、すぐれたバランスの上に品の良い音造りを成功させるきっかけになったのであろう。
 めんどうな文句をごちゃごちゃと並べたてたが、私はオンキョーのこのシステムの音創りの成功をスピーカー・メーカーとしての大きな前進として受取っている。いまやユニットだけでなく、システムにおいてオンキョーにさらに大きな一歩を踏み出させるに違いない。E53Aはこの具体的な成果として市場に永く残る傑作であるのだ。

JBL L100 Century

岩崎千明

スイングジャーナル 1月号(1971年12月発行)
「SJ推選ベスト・バイ・ステレオ」より

 ここで今さら、JBLセンチュリーのよさをうんぬんするまでもなく、すでにオーディオ誌やレコード雑誌において、多くの評論家諸氏の圧倒的な賛辞を一身にあつめたこのスピーカー・システムは、JBLの傑作である。
 JBLのシステムを大別するとランサー・シリーズと呼ばれる系統の製品と、従来からのユニットを主力とした組合せシステムの2系統がある。
 ランサー・シリーズは、いわゆるLEシリーズのユニットを中心として組み合わせたものをもってスタートしたが、ジム・ランシングという創始者の名をもじったランサーというこの名称からも分る通り、JBLの家庭用システムの主力を形成している。これに対して従来からの高能率型ユニットを組み合わせたシステムは業務用および高級マニア向けともいえよう。ランサー・シリーズによってJBLはメーカーの姿勢とその狙う需要層とを大きくかえたともいえる。
 つまり業務用にも準じる超高級システムを少量生産するメーカーから、大きく基模を拡大して、家庭用音楽システムのメーカーと変革をとげたのであった。その尖兵として、いみじくも槍騎兵ランサーと名付けたシステムが登場したわけである。
 このランサー・シリーズには、すでに傑作中の傑作といわれたランサー77を始め、ローコスト型44、さらに現在の米国の市場で驚異的な売行きをみせているランサー99があり、その最高ランクが例の101である。ランサー・シリーズの成功が、JBLをしてこの延長上の製品をつぎつぎと発売させるきっかけとなったのはいうまでもない。
 このセンチュリーも、新時代のスピーカー・システムとして、指向性の一段の改善ということを加えた新型のランサー系のシステムである。センチュリーを含めランサー系のシステムのもっとも大きな特長は、このシリーズ独特ともいい得る、まるでそよ風を思わせる超低音の豊かな息づかいである。この超低音は、ブックシェルフ型といわれる寸法的な極端な制限を受ける現代の家庭用システムとしては、まったく信じられぬくらいの低域に達する低音限界レンジのためである。このfレンジは、さすがのARのオリジナル・システムさえもしのぐほどで、これがJBLランサー・シリーズの華麗なサウンドの大きな根底ともなっているわけだ。
 もっともこの超低音とよくバランスする高音のすばらしい伸び、ずばぬけた指向特性は、豊かな低音エネルギーをよりひきたたせているし、さらにJBLの従来からの音楽に対する良識の現われともいうべき中音部の豊かさも失われることなく、ランサーの大きな魅力となっているのはいうまでもない。このように豊かな音響エネルギーに加えて広いfレンジとがJBLの現代的志向であるのは当然で、その成果のひとつの頂点として、ここにあげるセンチュリーの存在の意義とそれに対する賛辞の集中とがあるのである。
 指向性の改善に登場したフォーム・ラバー・ネットは、このセンチュリーの外観的な最大の特長で、カラーがチョコレート、オレンジ、ライト・ブルーとあり、サウンドともどもその風格に現代性をガッチリと植えつけて、モダンなスタイルを作る。
 最近、私はこのセンチュリーを愛用のエレクトロボイス社エアリーズと並べ、比較使用したがJBLセンチュリーの一段と解像力を上まわるのを知らされ豊かさにおいてひけをとらぬエアリーズより、現代的サウンドをJBLセンチュリーから感じとった。
 このJBLシステムをより以上生かすのには、手元にあった8万円台の国産アンプが好適であった。それはラックス507Xでありトリオ7002で、これに準じた高出力のトランジスター・アンプが欲しい。ただ、案に相違して手元の管球アンプよりこれらの石のアンプが優れていたのが興味ぶかかった。

パイオニア CS-3000

菅野沖彦

スイングジャーナル 1月号(1971年12月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 CS3000というスピーカー。実にぜいたくな製品だ。そして、それは、ただぜいたくだけではない。随所に新しい試みが見られ、いかにもスピーカーの専門メーカーとしての遊びが余裕たっぷりに感じられる。遊びというのは表現が悪いかもしれないが、実はオーナィオ製品にもっとも大切な要素だと私は思っている。CS3000の遊びについて、目についたところを拾ってみよう。まず外側から。ローズウッド・フィニッシュのエンクロージュアーは実に見事な仕上げだ。たたいてみればわかるが、その強固なこと、木工技術のち密なこと、見るからに風格が滲みでている。前面グリルの生地がいい。安っぼいサランのイメージはまったくなくなり、感触のよいクロスのもつ重味が味わえる。これを取はずしてみると、そのフックがまた実にこった代物。マジック・テープなどでペッたんこというのとはわけがちがう。グリルをはずすと、3ウェイの全ユニットはバッフル前面に突出している。周囲がフレイムでけられディフレクションの影響を受けることはまったくない。いかにも優れた指向性をもっていそうなユニットを十分生かした箱作りだ。もちろんバッフル前面も美しいフィニッシュ。まず目につくのが、異様な星形のデュフィーザーをもったドーム・ツィーターと、かなり大型のドーム・スコーカーである。よくよく見ると、このミッド、ハイ・レンジ用のユニットはただものではない。特にそのスコーカーのつくりのこっていること。形状としては前面にイクォライザーをもったドームであるが、引きもののフレームがいかにもマニア好みの遊びに溢れていていい。ドーム・ラジエーターの周囲になにやら変った針金がでていて接着剤がべたべたついている。根元はビニールかゴム質の制動機らしきものがかぶせられていて、これがドームのサスペンションだ。円形ドームの接線上に、このワイアーが5ヶ所でサポートされているわけで、従来よく使われているダンパーの類とは全くちがう。つまり、ワイヤー・サポートというわけで、従来のダンパーのように面ではないから、ダンパー自体が音のエネルギーをラジエイ卜することがないし、ヒステリシスのないフリー・サスペンジョンというわけだ。当然、ダイアフラムは高いコンプライアンスで吊られているから、リニアリティがよくセンシティヴなレスポンスが得られそうだ。それにしても、このユニットは大量生産でどんどん作れるものではなさそうで、いかにも、高級品としての手造りを余議なくさせられそうだ。一個一個丹念に組まれ、かつ、調整されなくてはなるまい。ドームの直径は75ポール、材質は50μのジュラルミンだ。スコーカーとしては口径が大きいが、できるだけ低いところまでカバーしてウーハーの負担を軽くしようという狙いだろう。クロスオーバーは700Hzにとられている。マグネットは同社の30cmウーハーPW30と同じものだというから、この振動系には十分なドライヴが期待できるだろう。ウーハーは、30cmのハイ・コンプライアンス型で、エッジには発泡ウレタンを使用している。温度変化や経時変化に優れた特性をもった新しい材質だというが、この点はそこまで使ってみたわけではないから不明。コーン紙の中ほどにリング状にダンプ材が張りつけられているが、このあたりはいろいろカット・アンド・トライで苦労をした跡のように感じられる。そしてエンクロージュアー内部がまたこっていて補強と定在波防止板兼用という厚い穴あき板が内部を二分している。このメリット、ディメリットはどうなのか、少々疑問も感じないわけではないが、設計者としてはあえてこれだけのことをする理由を認めた上でのことにちがいない。
 音質はすばらしく澄んだ明るい中高域が印象的で、その美しさは特筆してよい。歪感のない。まるで大輪のダリアのように華薦で魅力的なのである。指向性のよいことも無類でステレオフォニックなプレゼンスが実によく生きる。ただし、どうしてもウーハーとの音色的なバランスについての不満に触れないわけにはいかない。完全密閉のエアサスペンション・タイプ特有の重厚な低音の音質とそののびは優れているが、この中高域は、大型エンタロージュアーの、のびのびとした低音とつなげてみたい衝動にかられたのである。特に、入力をしぼった時のローレベルでのリニアリティが、中高域に比してウーハーが明らかにダルである。これは、このシステムに限ったことではなく、この形式のシステムに共通した特質というべきものだろう。しかし、スピーカーのパイオニアという面目を見せつけられた力作で、同社のオーディオ魂が感じられて久し振りに爽快な気分であった。

アルテック DIG

菅野沖彦

スイングジャーナル 12月号(1971年11月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 アルテック・ランシングはアメリカ、カリフォルニア州のサンタアナに本社のある世界的なオーディオ・メーカーである。サンタアナは有名なディズニーランドに隣接していてアルテックを訪れる人は、必らずディズニーランドへ行く。そして、そこで聴える音のよさに関心を持つ。実際、この種の遊園地で鳴っている音というのは、まず、歪だらけの騒音であるのが普通。特別なハイ・ファイ・サウンドではなくても、ごくノーマルなサウンドが流れていることだけでも、われわれには驚きだ。それも、不思議なことに、いつ行っても良い音で鳴っている。つまり、よほど耐久力があるのか、保守がよいのかのどちらかだ。この音響システムは近隣のよしみでもあるまいがアルテックである。そう、アルテックはそもそも、こうした苛酷な使用に耐えるプロ機器専門のメーカーであって、劇場、教会、学校、スタジアムなどの大きな建物で使う大パワーのエクイプメントでは右に出るものがないといってもよかろう。しかも、その特長は単なる拡声装置としてではなく、よい音で音楽を再生し得るシステムだ。つまり駅のアナウンスなどに使われる手合いではない。ウェスターン・エレクトリックの流れをくみ、JBLの創設者であるスピーカー造りの天才、JBランシングが技師長を務めたアルテックの社歴からもわかるように、同社の製品のオリジナリティーに溢れた優秀性、高い信頼性は多くの同種メーカーの範となっているし、音に関心の高いファンの間で大きな人気と支持を得ているものである。製品のバリエーションはきわめて広く、現在では一般家庭用向きの(アメリカでは、これをハイ・ファイ・エクイプメントと呼ぶ。そして、われわれがいうプロ機をコマーシャル・プロダクツという)製品にも力を入れているが、A7−8〝ヴォイス・オブ・ザ・シアター〟システムに代表される明るく豊かな、透明な音の魅力が、全ての製品に共通して感じられる。アルテック・サウンドとして、われわれがもっている音のイメージは、実に屈託のない明るさ、デンシティーの高いち密なクォリティーだ。そしてちょっと聴くと無機的に感じられるほど精度、確度の高い音像再現なのだが、使い込んでいくと豊かで、デリカシーのあるニュアンスを感じるようになり、他のスピーカーでは得られない魅力のとりこになる。もちろん、メーカーはそんなことは考えていない。あくまで技術的な立場に立って理論にかなった設計、豊富な素材の投入によって、より理想的な変換器としてのユニットを開発、それを限られた形でシステムとしてまとめる時に、ソフト・ウェアー性の強い音響箱に収めるが、その際にもオーソドックスな理論を大きく曲げない範囲での妥協点を求めるという精神だ。しかし、この妥協点の求め方、ここにボイントがあるようた思える。ギリギリの所までは純粋に技術的見地から追い込み、実験的な立場から甲乙を決定する。あるいは、この結果をノウハウとして製造に生かすところにアルテックの長い経験と社の体質が息づく。
 ここにご紹介する〝ディグ〟は、同社の普及型、同軸2ウェイ・システム〝409B〟ユニットを使ったもので、もともと、現在はアルテックに完全吸収されたユニバーシティーにオーダーして作らせていたアイテムである。20cmウーハーの高域はメカニカルに減衰させコンデンサーで低域をカットしたコーン・ツィーターがシンプルなデュフィーザーと組み合わされ、フレームにカプルされている。これを、かなり大きな容積をもった位相反転箱に収めたシステムだが、実にユニークな製品としての魅力をもっている。
 音は生き生きした感触が魅力だが、〝ディグ〟というネイミングにふさわしいこくのある音質をもっている。適度なパワーを入れて、部屋によっては若干低音をブースト気味にして使うとよい。現在の広帯域ハイファイ・スピーカーの持つそらぞらしさに時として白けた気持になることがあるが、これは、そうした物理特性だけを追ったものとは対象的な存在で、心暖まる音を聴かせてくれる。よく整理され、ほどよく強調された美しい再生音、つまリレコード音楽の魅力を存分に味えるという、いわば大人っぼいスピーカー・システムといっておこう。26、800円という価格も気張らなくてよい。これを鋭くやかましく鳴らすようでは再生技術が不十分。

フィデリティ・リサーチ FR-54

岩崎千明

電波科学 12月号(1971年11月発行)
「実戦的パーツレビュー」より

 FRというブランドで、高級マニアの間でひろく親しまれているカートリッジとアームのメーカーであるフィデリティ・リサーチが、久しぶりにアームの新形FR54を発売した。
 ステレオ業界の中でも、メーカーの数の多いこの分野では、急速に進む技術開発に加え、宣伝的な要素もあって新製品の発表がかなり早いサイクルでなされているのが通例である。
 この中にあって、FRは体質的に共通点のあるグレースとともに、新形発表のチャンスの少ないメーカーである。
 ひとたび市場に送った製品はこれを基に新技術を加えて、いつの時代においても、性能上の高い水準に保つべく努力を積み重ねていく、といった姿勢をくずさない。これは、国内メーカーに少なく、海外メーカー、特に歴史のある老舗によくみられる特長である。
 これが、商業ベース上メーカーとして好ましいかどうかは別として、自社の技術に自信と誇をもっていなければ保つことのできないのは確かな事実だ。
 そして、この色彩を一段と濃く持っているのがFRなのである。
 こう語れば新製品FR54は、同社の従来の軽量級アームFR24とは、全然違ったアームであることがお判りだろう。
 FR24が軽針圧用と、最初から銘うってカートリッジ自重が2grから12grの範囲と使用目的をしぼっているのに対し、FR54は自重4grから32gr、つまり市販カートリッジ中もっとも重い、オルトフォンSPU/GTさえう装着使用できる数少ない万能形の高級アームである。ただ、はっきりしておきたいのは、万能形であっても、無論その性能は、FR24そのものの高感度など動作を上まわるこそすれ、決して下まわるということはない。
 つまり、カートリッジのトレース特性さえ十分に優れていれば、このアームはなんと0.7grで普遍的カッティングレベルのレコードを完全にトレースすることができる。それはシュアV15IIにしろ、ADC25にしろ、エンパイアにしろ、オルトフォンM15にしろ、さらにFR5Eにしても、このアームの組合せにより、最良コンディションで動作してくれることを約束するのである。
 オルトフォンといえば、このFRの新形アームは、オルトフォンの新しいアームと、あらゆる無駄を廃した現代的デザインの共通点を感じる。
 2つ並べてみると、オルトフォンがゆるやかに彎曲するSカーブを打出しているのに対して、このFRは、ストレートな直線を組み合わせたS寺アームである。その組合せも、FRならではの実に美しい組み方が、メカニックな中にも品格と優雅なたたずまいをかもし出しているのである。
 FRのこの姿はすでに2ヵ月前から広告写真で知っていたのだが、現物を前にすると、とうてい写真の上では感じとられ得ない気品に圧倒される。
 欧州オーディオ界にあってずば抜けた技術と伝統とを誇るオルトフォンのアームと並べてみると、両者とも、風格と精密技術の粋を感じるが、FRの方には、それに加えて気品の高ささえただよい出ているのが感じられる。オルトフォンの、冷徹なはだを強調したメタリックなタッチとは対称的といえよう。
 さて、シンプルなデザインの美しさにふれすぎたが、このFR54の真髄は、そのアーム本来の再生にもある。
 アームをFR24からFR54に換えて、針を音溝に落すときにこそ、このアームが発売されたもうびとつの理由が判るに違いない。メーカーの追究する音楽再生の技術の、限りない向上が4年間の間に、2つのアームを出すべき態勢というか、責任というかを育ててきたのであろう。
 このFR54によって、まるでカートリッジはその低域から中域に及ぶ中声域全般にわたって音の豊かさと深さとが加わって、ソロの圧力がひときわ冴える、といってもいいすぎではなかろう。尋ねてみると、このアームの質量分布は、音楽再生の目的で、今まで以上に留意されて設計されたときく。
 軸受けまでのアーム自体が6mm径から10mm径に改められたのは、単に万能の目的だけではなかったとみた。
 ハウリングというディスク演奏上の宿命的欠陥も、このアームは格段と押さえることができ、使いやすくなったというのもうなづけられる。
 使いやすいといえば、カウンターウェイトのロックが、FR24と違ってアーム上の小さなポッチを押すだけで外れて、回転調整できるようになったのも、小さいことなのだが、大きな進歩だ。

メーカー・ディーラーとユーザの接点

岩崎千明

電波科学 12月号(1971年11月発行)
「メーカー・ディーラーとユーザの接点」より

 イヤァーおどろきました。
 東京は都心も都心、新橋の駅のまん前に、秋葉原のラジオ街をそのまま、ヤング向きにクールなタッチのハイセンスでよそおって、眼をみはるようなヤングセンターが開かれた。
 そこで、早速、編集N氏と、編集部から10分たらずの所にあるこのまばゆいばかりにきらめく照明群のもと、広いフロアーを散歩としゃれこみました。
 ヤングといういい方が、この頃やたらにはんらんしているが、このヤングエレセンターはあいまいな狙いではない。はっきりした主張と、ヤングだけに共通する個性とが、この明るく楽しい売場のすみずみにまで、はっきりとみなぎっている。
 つまり、ここではヤングだけの電気製品を一堂に集めたスペースなのだ。
 だからステレオは著名海外品までも集めてあるのに、電気洗濯機は1台もない。テレビも、カラーを含めて、すべてポータブルサイズの、小さくスマートなのだけしか並んでいない。
 ここで歓迎されるのは、現代を生きぬくヤングだけなのである。
 各社の主力製品がずらりと薇を並べたセパレートステレオのとなりには、コンポーネントのセクションにアンプが陳列ラックいっぱい。その横にプレーヤ。さらに奥ったコーナーには、なんと50台近いオープンリールのデッキ。
 この辺にヤングエレセンターの真髄があるように感じた。
 つまりデッキというマニアの最高をきわめた所にまで、十分の神経を使って、ここにきた多くの若者のラジカルなハートを捉えようというわけ。
 スピーカが少ないようだがと思いきや、となりの試聴室のじゅうたんを敷いたガラス張りの中に、なんと100本におよぶ、大中小さまざまなスピーカシステム。大はアルテックからタンノイ、パイオニア、サンスイ、小は4チャネルリア用まで、部屋の壁面にぎっしりと積み上げられてあった。
 スイッチひとつでこのスピーカをただちに聞きくらべられるというのも、てっていせるヤングの心を見ぬいたニクイばかりの配慮。
 若い係の方も、大へんなマニアぶり。売る方だって好きでなけりゃあというところ。
 この試聴室で、うっとりしていたら社長の荻原さんがみえた。
「週刊誌の取材に追われてしまって遅くなりました。実はダイナミック・オーディオという名のオーディオ・ショップを秋葉原に2軒、新宿と六本木にそれぞれ開いてまして、若い方のオーディオ熱にすっかり押されまして、この新橋に新らしくオーディオ中心の電化品を集めたのですが、若い方が欲しがる電化製品はないものはない、といったら大げさかな。でも最近のヤング派は大変明るくて自由ですね。
 ステレオを自分の部屋にそなえたい、その次はレコード、夜のムードを楽しむための照明。生活を充実させるために必要な手段を、どしどし自分の手で実体験として実現していきますね。
 ステレオ聞いてるだけじゃなくて、自分で音楽に飛び込んできますね。だからこのヤングエレセンターでは、エレキギターやアンプまで置いてるんですよ。テープや、レコードはもちろんです」。
 しかし、新橋とはまたどまん中ですね、東京の。
「横須賀線や湘南電車が新橋に止るでしょ。秋葉原にいかなくてもすむわけですから、便利になるんじゃないですか。それに、新橋は霞ケ関や虎の門などの官庁街、オフィス街の国電を利用してる方が多いですし、おひるの散歩道ですよ」。
 そういえば、この取材班も、うららかな秋日よりの、散歩がてら歩いて来たわけ。
「この店には、オーディオのコンサルタントがいく人もいますが。えーと、吉田くんを呼んできましょうか」。
 オーディオに強いヤング派コンサルタント兼店員の吉田くんにひとこと。
「どんなことでも尋ねてください。こんなこと聞くのは恥ずかしいなんて思わず、聞いてくれれば、知ってることはみんな話しますし、良き相談相手になるのが私達の役目です。それに自分の耳で音の良し悪しを確めることですね。本をよんだだけだったり、ひとの言ったことをそのままうのみにしてしまうのは大へんな間違いですよ」。
 なるほど、社長さんと同じ意見だった。横から若い学生風のお客様がカセットに録音するコツを尋ねてきた。
 お客様といっしょに考えたり話し合ったり、という感じ、これがそのままヤングセンターの体質とみた。
 すみからすみまで70mもあるという広い売場はよく見えない向う側がまでも、数え切れない程のさまざまな製品で埋めつくされていた。
 若者の広場のようなこの街には、ダークスーツの若いサラリーマンや、学生が、それぞれの生活に密着すべき電気製品の前に佇んでいた。
 それは、自分達の未来を、より充実させようとする姿であろう。
 そして、ヤングエレセンターはそんな若者のための、新鮮なショッピングの広場といえるだろう。