ハイエンドCDプレーヤー4機種を聴いて

黒田恭一

ステレオサウンド 110号(1994年3月発行)
「絶世の美女との悦楽のひとときに、心がゆれた……」より

「お前、大丈夫か?」
 なんとも身勝手ないいぐさとは思われた。しかし、自分の部屋にもどって、スチューダーのA730のスイッチを入れながら、無意識のうちに、そう呟いていた。むろん、若干の後ろめたさを感じていなかったわけではない。
 なんといっても、こっちは、絶世の美女四人と、たとえしばしの時間とはいえ、悦楽の時を過ごしてきたのである。後ろめたさを感じて当然だった。そのあげくの、「お前、大丈夫か?」であった。ことをいそぎすぎて、A730に、いらぬ粗相をさそては気の毒である。スイッチを入れてから、一時間ちかくも待った。
 A730の準備のととのうを待つ間に、不実な主は、千コマで、かりそめの時をともにしていた美女たちのことをぼんやりと思いかえしていた。その時の気分は、さしずめ、ロロ、ドド、ジュジュ、マルゴとマキシムの女たちの名前を、ほんとうはもっとも愛しているハンナの前で口にする、オペレッタ「メリー・ウィドウ」の登場人物ダニロの気持に似ていなくもなかった。
 今回もまた、甘言をもって、ぼくを不実な行為に誘ったのはM1である。
「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」
 受話器からきこえてくるM1の声は、夜陰にまぎれて好色親爺を巧みに誘うぽん引きのささやきに、どことなく似ていなくもなかった。M1は、さらに、「いい娘が四人ほどいるんですがね……」、ともいって、意味ありげにことばじりをにごした。いつもながらのこととはいえ、M1のタイミングのよさには感心させられた。M1の誘いに、結果として、ぼくは虚をつかれたかたちになった。
 ここしばらく、ぼくは、スチューダーA730+ワディア2000SH+チェロ・アンコール+アポジーDAX+チェロ・パフォーマンス×4+アポジー・ディーヴァといった我が愛機のきかせてくれる音と蜜月の日々を過ごしていた。ぼくは毎日を、かなりしあわせな気分でいた。この正月、ほぼ一年ぶりに訪ねてくれた友人は、何枚かのCDに黙って耳をすました後、「なにか装置を変えたの?」、といって、ぼくを大いに喜ばせてくれた。彼は鬼の耳の持主である。ぼくは、なにひとつ装置を変えていないと答えた。彼は怪訝な顔をして、「ずいぶんかわったね、去年の音とは」、といってから、彼がこれまで一度も口にしたことがないような言葉で、ほめてくれた。
 夫婦仲の悪い男が浮気にはしる、と考えるのは、たぶん、誤解である。夫婦仲がぎくしゃくしていれば、男はさしあたり、目の前の割れ蓋の修復に専念せざるをえない。そのような立場におかれた男に、余所にでかけ、それなりの所業にはげむ余裕があるとは考えにくい。もし、割れ蓋の修復をなおざりにしたあげく、余所に楽園を探すようなタイプの男であれば、哀れ、さらにもう一枚の割れ蓋をつくるだけである。
 ぼくも、うちのスチューダーたちと折りあいの悪い状態でM1に声をかけられたのであれば、それなりの覚悟をして、ステレオサウンドの試聴室にでかけたにちがいなかった。しかし、そのときのぼくは、なにがマークレビンソンだ、なにがソニーの新製品だ、うちの嫁はんが一番や、とたかをくくっていた。しかし、安心したぼくが悪かった。M1は読心術をも心得ているようで、巧みにぼくの虚をついた。
 まず、デンオンのDP-S1+DA-S1からきき始めた。このCDトランスポートとD/Aコンヴァーターについては、少し前に、長島達夫氏が、「ステレオサウンド」の誌上で、「ともかく、とのような音が来ても揺るがず、安定しきった再生ができるのである……最近これは感銘をうけた製品はない」、と書いていらしたのを、ぼくはおぼえていた。そのためもあって、かねてから、機会があったら一度きいてみたい、と思っていた。
 一聴して、なるほど、と長島達夫氏の言葉が納得できた。そして、同時に、電話口のM1が、「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」、といった意味も理解できた。デンオンのDP-S1+DA-S1がきかせてくれる音の質的な、あるいは品位の高さには驚嘆すべきものがあった。きめ細かなひびきに、うっとりとききいった。
 デンオンのDP-S1+DA-S1のきかせてくれる音は、敢えてたとえれば、オードリー・ヘップバーン的な美人を、ぼくに思い出させた。その得意にするところは、かならずしも劇的な演技にはなく、抒情的な表現にあった。むろん、繊細な表現にのみひいでていて、力強さに不満が残るなどという、低次元のはなしではない。オーケストラがトゥッティで強奏する音に対しての力にみちた反応にも、充分な説得力があった。ただ、いかにドラマティックな表現を要求されようと、ついに裾う乱さない慎ましさが、DP-S1+DA-S1のきかせてくれる音には感じられた。そのようなDP-S1+DA-S1の持味を美徳と考えるか、それともいたらなさと感じるか、それともいたらなさと感じるか、それは、たぶん、使う人の音楽的な好み、ないしは音に対しての美意識によってちがってくる。
 カラヤンが一九七九年に録音した「アイーダ」の全曲盤で標題役をうたっているのはミレッラ・フレーニである。当時のフレーニはリリック・ソプラノからの脱出をはかりつつあって、アイーダのみならず、トスカのような劇的表現力を求められる役柄にも果敢に挑戦していた。DP-S1+DA-S1のきかせてくれた見事な音が、ぼくには、どことなく、一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけてのフレーニの歌唱に似ているように感じられた。
 ミレッラ・フレーニは、先刻ご承知のように、もともとリリック・ソプラノとしてオペラ歌手のキャリアを始めた歌い手である。しかし、あの慧眼の持主であったカラヤンがアイーダをうたうソプラノとして白羽の矢をたてたことからもあきらかなように、一九七〇年代後半ともなると、フレーニは、すでにドラマティックな役柄をこなせるだけの声の力をそなえていた。しかし、そのようなフレーニによった絶妙な歌唱といえども、もともとの声がアイーダをうたうに適したソプラノ・リリコ・スピントによったものとは、微妙なちがいがあった。アイーダをうたってのフレーニの持味は、ドラマティックな表現を要求される音楽ではなく、抒情的な場面で発揮された。また、そのような既存のアイーダ像とはちがったアイーダを提示するのがカラヤンのねらいでもあった。
 蛇足ながら書きそえれば、アイーダをうたうフレーニを、背伸びしすぎたところでうたっているといって批判する人もいなくはないが、ぼくはアイーダをうたうフレーニの支持派である。いくぶんリリックな声のソプラノによって巧みにうたわれたアイーダは、ソプラノ・リリコ・スピントによって劇的に、スケール大きくうたわれて、過度に女丈夫的なイメージをきわだたせることもなく、恋する女の微妙な心のふるえを実感させてくれるからである。
 ついできいたのはソニーのCDP-R10+DAS-R10だった。このCDトランスポートとD/Aコンヴァーターのきかせる音にふれた途端、ぼくは、一瞬、ロミー・シュナイダー風美女にキッと見つめられたときのような気持になり、たじろいだ。ここできける音には、媚びがない。曖昧さがない。潤色が、まったく感じられない。劇的なひびきも、抒情的な音も、まっすぐ、いいたいことをいい切っていながら、しかも相手を冷たくつきはなすようなところがない。音楽のうちに脈々とながれる熱い血をききてに感じさせることに、いささかの手抜かりもない。
 蛇足ながら書きそえれば、ロミー・シュナイダーはほくにとっての理想の美女である。ソニーのCDP-R10+DAS-R10の音にふれたぼくは、出会いがしらに恋におちたような気分になった。「なんだって、CDを裏がえしてセットするんだって?」などと、なれない手順に不満をとなえながらきき始めたにもかかわらず、ものの一分とたたないうちに、「凄い、これは凄い!」と溜息をついていた。
 幸か不幸か、試聴後には予定があった。したがって、ロミー・シュナイダーとの心きとめく対面は、そこそこにすませなければならなかった。後の予定がなければ、ぼくは、編集部の面々に箒をたてられても気付かず、延々とききつづけ、家に帰るのを忘れていたかもしれなかった。
 おのれの不実を恥じつつも、ぼくは、家で待つ、うちの嫁はん、スチューダーのA730がきかせてくれる音と、今、出会ったばかりのロミー・シュナイダーのきかせてくれている音を耳の奥で比較しないではいられなかった。若干の救いは、その他の部分、つまりスピーカーやアンプが家のものとステレオサウンド試聴室のものとが同じでないことであった。しかし、いかに条件がちがっていても、ロミー・シュナイダーとうちの嫁はんの目鼻だちのわずかとはいいがたいちがいは充分にききわけられた。
 もっともちがっていたのは、言葉として適当かどうかはわからないが、情報の精度のように思われた。このソニーのCDP-R10+DAS-R10のきかせてくれる音は、それらしい音をそれらしくきかせるということをこえたところで、キリッと、まっすぐひびいていた。きっと、このような、しっかりした音は、思いつきや小手先のやりくりによってではなく、技術的に正攻法で攻められたところでのみ可能になるものであろう、と思ったりもした。
 CDのための、このような高度の性能をそなえた再生機器ともなれば、斯く斯くしかじかのソースではどうきこえたとか、こうきこえたとかいった感じで語ろうとしても、徒労に終るにちがいない。もし、かりに、ききてと音楽との間に介在することをいさぎよしとせず、まるで透明人間のように姿を消して、その機器へのききての意識を無にできることが再生装置の理想と考えれば、ソニーのCDP-R10+DAS-R10は、その理想に限りなく近づいている。
 そう考えると、CDP-R10+DAS-R10をロミー・シュナイダーとみなしたぼくのたとえは、見当はずれのものになる。ロミー・シュナイダーは、どんなつまらない映画にでても、強烈に自己の存在をアピールできた女優だった。したがって、ここでのロミー・シュナイダーのたとえは、ぼくの魅了されかたの度合を表明するだけのものと、ご理解いただきたい。ききてと音楽との間で自己主張しないということでは、むしろ、ソニーのCDP-R10+DAS-R10はロミー・シュナイダーの対極に位置していた。
 ちなみに、全四機種をきき終えた後、ぼくは、わがままをいって、編集部の若者たちの手をわずらわせ、ソニーのCDP-R10+DAS-R10を、もう一度きかせてもらわずにいられなかった。そのことからも、おわかりいただけると思うが、今回、きかせてもらった四機種のうちでぼくがもっとも心を動かされたのは、ソニーのCDP-R10+DAS-R10だった。
 ついできいたのはワディアのWADIA7+WADIA9だった。これにもまた、大いに驚かされた。ぼくの驚きを率直にいうとすれば、CDの再生機器は、すでにここまでいっているのか、と思ってのものだった。しかし、同時に、ぼくは、マ・ノン・トロッポ!(しかし、はなはだしくなくの意)と呟かないではいられなかった。
 情報の精度の高さということになれば、これもまた、かなりのところまでいっているのは、ぼくの耳にもわかった。ただ、ここできける音には、情報が整理されすぎたため、とみるべきか、整然としたひびきが若干冷たく感じられた。曖昧さをなくそうとするあまり、角を矯めて牛を殺してはいないかな、と思ったりもした。
 おそらく、このワディアのWADIA7+WADIA9のきかせる音についてのききての評価は大きくわかれるにちがいない。ぼく自身も、ここできける音を前に、冷静ではいられず、心がむれた。これが、もし、数年前だったら、と思ったからである。
 音に対して保守的になってはならないと、日頃、自分をいましめてはいる。音に対して保守的になったが最後、ききては歯止めを失い、懐古の沼に沈んだあげく、昔はよかった風の老いのくりごとをくりかえしはじめる。ひとたびサビついてしまった感覚は修復不能である。積極果敢に新しい音とふれあっていかないと、日に日に前進のエネルギーが不足していく。しかし、以前であれば、ぐらときて、そのまま突進していたかもしれない、このワディアのきかせる新時代の音を前に、今、ぼくは戸惑っている。お恥ずかしいことである。
 明晰さということでいえば、これは、ぼくがいまだかって耳にしたことのない明晰な音である。ここで耳にした音には、さしずめ、超人的な頭脳の持主が、消しゴムを使った痕跡さえ残さず、ものの見事に解いた方程式のような感じが或る。このような曖昧さを微塵も残さない音が、ぼくは、もともと嫌いではない。しかし、やはり、どうしても、マ・ノン・トロッポ! と呟かないではいられなかった。
 ただ、そのようなワディアのWADIA7+WADIA9のきかせる音についての感想は、あくまでもぼくのきわめて個人的なものでしかないので、ご興味のある方は、どこかで、なんとか機会をみつけられて、このユニークな音とふれあわれることをおすすめする。もしかすると、ご自身のオーディオ感の根底をゆさぶられるような思いをなさらないとも限らない。それだけの、独特の力をそなえている、このワディアの音である。
 マークレビンソンのNo.31L+No.30Lを最後にきいた。これは以前にもきいたことがある。したがって、「どうも、お久しぶり」、といった感じできき始めることができた。ここで耳にする音は、音の性格として、ワディアのWADIA7+WADIA9のきかせてくれる音の対極にある。
 もし、ワディアのWADIA7+WADIA9のきかせてくれる音がエゴン・シーレ描くところの痩せた美少女にたとえられるのであれば、マークレビンソンのNo.31L+No.30Lのきかせてくれるのはグスタフ・クリムトの描く豊潤な美女であろう。この、個々の音を、ぐっとおしだしてくる、たっぷりとしたひびきっぷりは見事の一語につきる。このマークレビンソンをしばらくきいた後に、ソニーをあらためてききなおしたら、けっして痩せすぎとはいいがたいロミー・シュナイダーがひどくスリムに感じられた。
 充分に繊細であり、鋭敏でもあって、そのうえ、腰のすわった、肉づきのいい音をきかせてくれるのが、このマークレビンソンである。粗衣身で、これは、いかに過酷なききての求めであろうと、十全にこたえられる機器というべきであろう。このような音を耳にすると、CDはどうも音が薄っぺらで、といったような、しばしば耳にする、表面的なところでのCD批判のよりどころが、どうしたって、ぼけてくる。
 いくぶん逆説的にきこえてしまうのかもしれないが、このCDの強みを最大限いかしきった機器できける音は、さまざまなCDプレーヤーのきかせてくれる音のなかで、もっとも非CD的な音である、といえなくもない。この力にみちた、弾力にとむ音は、たぶん、最高級のアナログディスクプレーヤーできける音と較べても、いささかの遜色もないはずである。まことに見事な、表現力にとんだ、恰幅のいい音である。
 ただ、畏敬しつつも、身近に感じることのできない音が或る。そのあたりが模範回答のないオーディオの、オーディオならではの面白いところというべきかもしれない。ぼくにとって、マークレビンソンのNo.31L+No.30Lのきかせてくれる音が、畏敬しながらも、自分からは離れたところにある音のようである。グスタフ・クリムトの描く豊満な美女に対する憧れは充分にあるが、そのタイプの音となると、かならずしもぼくのものではない、と思ってしまう。
 絶世の美女四人とのステレオサウンド試聴室での、しばしばの団欒は、スリリングでもあり、まことに楽しかった。ステレオサウンド試聴室につどったロロやドド、ジュジュやマルゴたちのチャーミングな容姿や物腰、それに体温を、ダニロよろしく思い出しているうちに、アンプもあたたまってきたようである。
 いささかの後ろめたさと不安を胸に、ぼくスチューダーのA730のスタートボタンをおした。あたりまえのことながら、日頃なじんでいた音がきこえてきた。ぼくは、なれない外国語に苦労しつつ一人であちこち旅してきて、やっとのことで帰りつき、「お疲れさま」、とやさしく声をかけられたときのような気持になり、なぜか、ほろっとした。そして、同時に、安堵の溜息をつかずにいられなかった。
 ステレオサウンド試聴室で出会ったロロやドド、ジュジュやマルゴたちは、たしかに、今、ぼくの使っているスチューダーA730+ワディア2000SHのいたらなさに気づかせた。最新のCD再生機器の性能が、ここのところにきて大きく向上したのは否定しようのない事実である。その意味で、M1の、「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」、といった言葉は正しかった。
 以前であれば、このような状況を目のあたりにすれば、前後の見さかいもなく、飛石づたいに、あっちにふらふら、っこちにふらふらするような感じで放蕩をかさねられたのかもしれなかった。しかし、今は、よほどうちの嫁はんに惚れ込んでしまっているためかどうか、どうやら、ここしばらくは、ロミー・シュナイダーのことが原因の別れ話をしないでもすませそうに思え、ほっとしつつも、ちょっと寂しい気もしている。
 それにしても、「お前、第屏風か?」、と呟いたぼくに答えるかのように、A730が恥じらいつつうなずいたのは、あれは幻影だったのか?

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