意識の曲率

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1990年9月発行)
「Music Consolette 偶然の結晶を求めて」より

 それは、残暑がささやかに尾をひいていた夕方のことだ。
 僕と友人のKは堤防の上をだらだらと歩いていて、沖合にはゆっくりと航行する大型のクルーザーや可愛らしいヨットが見えた。
「夏も終りだね」と彼は淋しそうに言い、僕はただ黙って頷くだけだった。
 心なしか風もすこし乾き始め、時々すれちがう人も皆うつむきがちで、何かしら考えこんでいるような表情をしていた。
 人影もまばらな砂浜には無人のライフガードの塔がもの悲しくて取り残され、夏の盛りにはまるで朝の満員電車みたいに人々を繋ぎとめていた熱い季節は音もなくどこかに吸い込まれてるように消えていた。
 まあ、仕方のないことではある。
「そろそろ戻ろう」と彼は言った。
 彼は実に無口な男なのだ。いつだって無駄を削ぎ落とした、必要最小限の言葉のやりとりしかしない。そして、そのことになじめない人はたいていあからさな反発を示した。
     ☆
 そこが海の近くであるということを忘れてしまうような、シックな洋館の一部に部屋を借り、彼は作曲の仕事をしていた。
 仕事部屋には電子ピアノやシンセサイザーがあり、ミディ制御されるいくつかの電子機器もセットされていた。
 コンピューターを駆使して生み出される曲はおおむね優しい旋律をもち、透明な悲しみがクールに漂っていた。彼の作品は昔からそういうタイプの曲が多かった。
 出来上がった曲はテープからおたまじゃくしが踊る譜面に記号化され、ファックスで『受注先』に送られる。まあ、いってみればかなり量産される音楽、大量に消費される音楽が手際よく作られているわけだ。
「でもね、一つ一つに思い入れがないわけじゃない。売るための『商品』ばっかりじゃないんだ」
「知っている」と僕は言った。
 彼は肩をすくめると「ぼちぼちセットしてくれる?」と言った。
 僕は彼に頼まれて選んだアンプとスピーカーを車に積んで持参していた。
 仕事部屋の隣に十畳ほどの板の間があった。漆喰の白い壁高い天井、響きは悪くなさそうである。
 僕たちは手分けして、てきぱきと新しい装置をセットした。
「なんだか、新しくても古いというか、古くて新しいというか……」
 ビアードのアンプを見た彼はそう言って目を輝かせた。
「きっと気に入ってもらえるはずなんだ」彼は心身ともに疲れきっているはずだった。しかし、その時ばかりは期待にわくわくする単純な子供みたいにしか見えなかった。やがてセットが完了し、とりあえずアンプに火を入れる。
「ちょっと部屋の明かりを落としてみよう」と言って、彼はパチンと電気のスイッチを切った。
「いやぁ、暖かな、懐かしい光だ……」真空管がほんのりと赤熱したようすを見つめ、彼は嬉しそうに言った。実に無邪気な笑顔だった。
 ウォームアップが済む前に、乾杯しようということになって、キッチンに置いてあった旧式の丸っこい冷蔵庫から出してきた缶ビールを飲んだ。
「もう、音を出してもいいかな?」と彼が訊いた。僕は黙って頷く。
 彼はラックから一枚のCDを取り出して僕に手渡した。エマーソン・ストリング・カルテットのディスクだ。彼の指定でその中から、ボロディンの弦楽四重奏曲、第二番をかけた。
「ボリュームは自分で上げてくれよ」と僕は一応言ってみることにした。
「そうだな」
 そう言うと、彼は初めて恋人と手をつなぐシャイな男の子みたいな手つきで、ボリューウムのノブに触れた。
「いや、なんて柔らかな音なんだろう」茫然として、彼はそう言った。
「本当に温かい、人のぬくもりを感じる音だね……」
 僕は黙ったままビールを飲み、彼はしきりに独りごとを言っている。次々にディスクをかけ替え、そのたびに感嘆の声を上げた。
 温かく包みこむような音を彼は求めていたのだ。僕にはそのことがよくわかっていた。彼の曲を聴き、彼の愚痴を聞いていればたいていのことはわかる。よほど鈍感な人間じゃないかぎり、彼が消耗し、すっかり精神的に萎えていることは誰にだってわかるのだ。
 そんな時、研ぎ澄まされた緊張度の高い音はかえって彼に物事を分析的に考えさせてしまうに違いなかった。
 こういう風に、文句なく人の心をなごませてくれるおだやかで上品なテイストをもった響きに出会うと、ほんとうにほっとする。僕は装置によってこれほどまでに違った音を出すという事実を不思議さを改めて考え直していた。
「発生した次の瞬間から消退していく音、その音からなる音楽をデジタルと言う記号で複製し、無限に繰り返して聴けるCDの魔力、それはひょっとすると現実の中に隠された根深い不在感をさらに分厚いヴェールで覆い隠すのかもしれないね」と彼は言った。でも、そのことの意味は今は誰にもわからないのだ。
「こうしてみると、オーディオは音楽のたんなるシミュレーション、あるいは人工的な復元以上のものだってことがよくわかる」
 そういう彼の横顔に、僕は久し振りに彼らしさが回復されているのを確認した。
     *
作曲家のK氏が使用していたのは、スピーカーが英国ワーフデール社製コーリッジで、これは20cm口径のウーファーをベースに2.5cmドームトゥイーターを組み合わせたバスレフ型2ウェイシステムであり、ここでは別売の専用スタンドを使用。アンプはビル・ビアード設計になる英国B.B.A.P.社製の管球式プリメインアンプ、BB100だ。パワーアンプ部はE L84のトリプルプッシュプルで、35WまではA級動作、それ以上50WまではB級動作させている。各真空管にはLEDによる異常動作警告灯が配され、これが赤く点灯することによって真空管の寿命を知らせるという、英国の家庭用オーディオ機器らしい配慮がなされている。CDプレーヤーはエソテリックのP10が用いられているが、D/Aコンバーターにはあえてその音色やコンパクトなデザイン、トータルのコンセプトを評価して、英国DPA社製、1ビット・ビットストリーム方式採用のPDM1シリーズ2を組み合わせている。潜在的に柔らかな音を求める思考がここにも隠されているようで、興味深い選択である。

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