Monthly Archives: 6月 1988

SOTA Star Sapphire + EMINENT TECHNOLOGY Tonearm 2

早瀬文雄

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「スーパーアナログプレーヤー徹底比較 いま話題のリニアトラッキング型トーンアームとフローティング型プレーヤーの組合せは、新しいアナログ再生の楽しさを提示してくれるか。」より

 ステート・オブ・ジ・アートというものものしい命名からは想像しにくい、軽くて小粋な音をもったプレーヤー。音出しが始まって、安定度がたかまってくると、つい先程まで聴いていたステレオサウンドのリファレンスプレーヤー、マイクロSX8000IIとは音の語り口が大きく違うことが、良い意味で明確になってくる。マイクロといえば『高剛性、ハイイナーシャ』の代表的存在。アナログ全盛期の、いわば『究極』、『果て』と思われた存在で、誰もがそう思いこんでいた。だから、私自身、『信じ込んで』無理をして手に入れもした。と言うわけで、今回の4機種のアナログプレーヤーたちの音を実際に聴くまでは、『クォリティ』の『差』を聴く、という視点からみた『期待感』は、はっきり言ってなかった。むしろ、本格的な、CD時代にはいった今、もういちど『アナログ』を、ききかえしてみると、ちがった発見があるやもしれず、その点での興味をもっていたにすぎなかった。
 CDプレーヤー間の音の差の、予想を上回る大きさに妙な感慨をいだいてはいたが、そんな思いを吹き飛ばすほど、アナログ世界の変化量は絶大だった。 SOTAスター・サファイアの音。とりつけられたエミネントの『リニアトラッキングアーム』の音色が色濃く反映しているにせよ、その音にはまさにマイクロの対極をなすような、響きの柔らかさがあった。無論、マイクロから柔らかい響きが出ないわけではない。表現の方法がまるで違うのだ。マイクロには本質的に音の構築性を分析的に聴かせる生真面目さがあって、響きの『重さ』をはっきり提示し、堅い音はあくまでも堅く表現する。つまり、相対的コントラストの結果として響きの柔らかさ、軽さといったものを表現してくる。いいかえれば『正確』なのかもしれないが、やや直截的ともいえる。しかしそれは、ここでの使い方が『リファレンス』としての存在である以上、当然の結果かもしれないが……。したがって当然ソースの荒れは剥き出しとなる。
 一方スター・サファイアは『個性』を強くもっている。見ための印象どおり聴き手の気持ちを優しくしてくれるような、穏やかさ、響きの柔らかさを際立たせるところがある。色彩感の表現においても、ハーフトーンの曖昧さをうまく出してくる。響きに毳立ちはなくスムーズ。ソースの粗はむしろ隠す方向。脂切ったどくどくしさやぎらぎらしたまぶしさもない。反面、堅い音、重い音への対応がやや曖昧になるが、聴き手にそれをあまり意識させないのは、やはり美点でうまく聴かせてしまうからに違いない。まさにその名前のように、『ダイアモンド』ではない、『サファイア』の柔らかさをもっている、というところか。エミネントのアームは『アナログ』の楽しさを堪能させてくれた。なにしろ調整個所が多く、そのいずれを動かしても音はコロコロ変化する。ディスクの内周でも歪が増えないというリニアトラッキング型の特質さえ、下手に調整したのでは活かされない。音場の変化も大きい。

アナログの楽しみ再発見。

早瀬文雄

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「スーパーアナログプレーヤー徹底比較 いま話題のリニアトラッキング型トーンアームとフローティング型プレーヤーの組合せは、新しいアナログ再生の楽しさを提示してくれるか。」より

 音の入り口たるプレーヤーシステムは、CDの登場で、以前ほど使い手の工夫が入り込む余地が少なくなった。素人が、カット・アンド・トライを繰り返して、自分の音を探し求める旅をさせてくれるアナログプレーヤーの楽しさは、忘れかけていたオーディオマインドを痛く刺激した。
一歩間違えると、ノイジーでヒステリックになりがちなアナログなれど、お手軽CDにはない、響きの自然さ、香り立つものがたしかにあって、いまだに『究めればアナログ』という思いをあらたにした。デジタル技術の発展とともに、見直しが加速されたアナログ世界は、いい意味で方向を変え、あらたに出発しようとしているようだ。CDで聴かれる音の座りの良さを聴き慣れた耳には、時としてアナログの音は不安定に揺れてるような感じを懐くことがある。CDには『光』という非接触がもたらすメリットがあるのだろう。かたや、あくまでも針で溝をこすりつけ音を掘り起こすといった、より原始的な動作が、調整の不備による不安定要素を入り込ませる余地をつくるのかもしれない。今、ニアトラッキングという武器を得て、カートレイジたちは、その基本動作をより忠実に行ないうるようになったともいえそうだ。出来のいいリニアトラッキングアームでは、相当に安定度の高い音像と揺るぎない音場を作ることが可能だ。CD時代を生き抜くアナログの活動の一つをこに見る。
 今回聴くことのできた四つの異なった製品の、その違いのあるようの中に、アナログならでは、といった『こだわり』を強くさせられ、まだまだ目がはなせそうにない。『完結』を知らないアナログの深遠は、じつはいまだにきわめられてはおらず、まだまだこれから、なのかもしれない。

ゴールドムンド Studietto

早瀬文雄

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「スーパーアナログプレーヤー徹底比較 いま話題のリニアトラッキング型トーンアームとフローティング型プレーヤーの組合せは、新しいアナログ再生の楽しさを提示してくれるか。」より

 ゴールドムンドのスタジエットは、同社T5リニアトラッキングアームを最初から組み込んだコンプリートシステムで、この点が前二者と違っている。したがって良くも悪くもデザインに一環した主張がある。
 一見してわかるように、これはアクリルの塊、なのだ。ガラスとは違った。微温湯的な温度感。熱くも、冷たくもない。堅くも柔らかくもない。音もまさにこの印象と一致する。響きの合間には何かヌルヌルとしたモノトーンな質感が付きまとう不思議。CD時代に世に問う、これぞフランス流エスプリ、なのだろうか、そうは思えない。なんともアイロニカルなムードが漂っている。どうしたことか。カートリッジとの相性が致命的に悪いのか。試みに別の製品に交換してみる。基本的には変化ない。ステージは天井が低くなり奥行きが浅くなる。紫煙たれこめる仄暗い頽廃的な雰囲気。アクリルの板を透かしてみるような蜃気楼的音像は、これでなくては聴けない世界。
 組み合わせるアンプやスピーカーは他に適役がいるはずで、こうしたムードがもっと生きる使い方をしてあげれば、独特の世界が作れるに違いないと思えた。

バーサダイナミックス MODEL A2.0 + MODEL T2.0

早瀬文雄

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「スーパーアナログプレーヤー徹底比較 いま話題のリニアトラッキング型トーンアームとフローティング型プレーヤーの組合せは、新しいアナログ再生の楽しさを提示してくれるか。」より

 存亡の危機にたっている、といいたくなるようなアナログの世界。大艦巨砲時代の終焉とも思える大型アナログプレーヤーの衰退。個人的には、手元にあるマイクロSX8000IIに『かじりつく』しかないと思っていた。アナログを究めるアプローチは、もうこれしかない、疑いを差し挟む余地は無い、そう信じていた。
 バーサダイナミックスのプレーヤーシステムをみた時から、その高いデザインの『密度』に、おや、と思った。VDのイニシャル・ロゴに、このデザインの面白さが象徴されているようでもある。写真では分かりにくい、実物を目にし手にしてみなければわからない独特の雰囲気がある。色も単なる黒ではない。木目仕様もあるらしいが、断然こちらがいい。独立したコントロールボックスの仕上げも丁寧。スイッチ類のフィーリングも繊細。エアフロート、ディスク吸着といったものものしいメカニズムは、巧みにシーリングされ、フラッシュサーフェイスのターンテーブル面などとあいまって、全体に繊細感が漂う。
 一歩まちがえると玩具っぽくなるところだが、ここでは細身の、華奢な女性特有の雰囲気にも似たニュアンスをもちあわせていることで、玩具になり下がらずにふみとどまっている。アームのつくりはかなりしっかりしているにもかかわらず、ゴリゴリした野蛮なところが微塵もなく、やはり繊細。使い手も思わず手つきが慎重になる。このアームには一目惚れだが、かといって、このアームだけをとって、SX8000IIに取りつけてみたいとは思えない。この繊細感がスポイルされてしまう。マイクロには、やはりSMEシリーズVのような、逞しいアームがよく似合う。
 ヒューンというモーターの起動も『唸り』というよりは『囁き、呟き』といった風情。しかし、いいところばかりではない、これはそうとうに神経質で、感受性の鋭い存在だ。ここにあるのは、傷つきやすい脆さと抱き合わせの、緊迫した透明感なのだ。したがって、使いこなしの腕しだいでは、ひどい結果にもなりかねない。繊細微妙な調整を要するところはいたるところにある。が、そうしたポイントをおさえていく過程には、少しずつ響きに、自分の色をつけていく楽しみがのこされている。当初まったくいい印象のなかったリファレンス・カートリッジが、へぇ、ここまで鳴るんだ、と驚かされた。音像はひきしまって低域もふやけたところがない。オーケストラのトゥッティでも『崩れ』を見せない安定度の高さがある。にもかかわらず、響きに強引さがない。あくまで繊細無垢で透明。独特の反応の早さ、鋭敏さが、音楽の官能的な響きをとりこぼさず、しかも上品に表現する。清潔感のある響きは、たんにそこにとどまらず、生まれながらに『あぶない響き』を身につけてしまっている恐ろしさ。ほんのりただようような香気が際立つ。これはいい、こんな世界もあったんだ、全く異なる方法論をもって、マイクロとは違った頂上をめざしている一つの結果だろう。
 CD包囲に囲まれたかにみえるアナログ世界の『水際の楽天地』、ウォーターフロントがここにある。まずいものをきいてしまった……。テフロンのターンテーブルシートの色合いといい、欠点も多々あるが、もうこうなるとあばたもえくぼで、どうやらこのスレンダーで、ストイックな表情をしたコに見事に誘惑されてしまったようだ。

怪盗M1の挑戦に負けた!

黒田恭一

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「怪盗M1の挑戦に負けた!」より

 午後一時二十分に成田到着予定のルフトハンザ・ドイツ航空の701便は、予定より早く一時〇二分に着いた。しかも、ありがたいことに、成田からの道も比較的すいていた。おかげで、家には四時前についた。買いこんだ本をつめこんだために手がちぎれそうに重いトランクを、とりあえず家の中までひきずりこんでおいて、そのまま、ともかくアンプのスイッチをいれておこうと、自分の部屋にいった。
 そのとき、ちょっと胸騒ぎがした。なにゆえの胸騒ぎか? 机の上を、みるともなしにみた。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」
 机の上におかれた紙片には、お世辞にも達筆とはいいかねる、しかしまぎれもなくM1のものとしれる字で、そのように書かれてあった。
 一週間ほど家を留守にしている間に、ぼくの部屋は怪盗M1の一味におそわれたようであった。まるで怪人二十面相が書き残したかのような、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」のひとことは、そのことをものがたっていた。しかし、それにしても、怪盗M1の一味は、ぼくの部屋でなにをしていったというのか?
 ぼくは、あわてて、ラスクのシステムラックにおさめられた機器に目をむけた。なんということだ。プリアンプが、マークレビンソンのML7Lからチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーが、ソニーのCDP557ESD+DAS703ESから同じソニーのCDP-R1+DAS-R1に、変わっていた。
 怪盗M1の奴、やりおったな! と思っても、奴が「どうですか、この音は?」、という音をきかずにいられるはずもなかった。しかし、ぼくは、そこですぐにコンパクトディスクをプレーヤーにセットして音をきくというような素人っぽいことはしなかった。なんといっても相手が怪盗M1である、ここは用心してかからないといけない。
 そのときのぼくは、延々と飛行機にむられてついたばかりであったから、体力的にも感覚的にも大いに疲れていた。そのような状態で微妙な音のちがいが判断できるはずもなかった。このことは、日本からヨーロッパについたときにもあてはまることで、飛行機でヨーロッパの町のいずれかについても、いきなりその晩になにかをきいても、まともにきけるはずがない。それで、ぼくは、いつでも、肝腎のコンサートなりオペラの公演をきくときは、すくなくともその前日には、その町に着いているようにする。そうしないと、せっかくのコンサートやオペラも、充分に味わえないからである。
 今日はやめておこう。ぼくは、はやる気持を懸命におさえて、ついさっきいれたばかりのパワーアンプのスイッチを切った。今夜よく眠って、明日きこう、と思ったからであった。
 おそらく、ぼくは、ここで、チェロのアンコールとソニーのCDP-R1+DAS-R1のきかせた音がどのようなものであったかをご報告する前に、怪盗M1がいかに悪辣非道かをおはなししておくべきであろう。そのためには、すこし時間をさかのぼる必要がある。
 さしあたって、ある時、とさせていただくが、ぼくは、さるレコード店にいた。そのときの目的は、発売されたばかりのCDビデオについて、解説というほどのこともない、集まって下さった方のために、ほんのちょっとおはなしをすることであった。予定の時間よりはやくその店についたので、レコード売場でレコードを買ったり、オーディオ売場で陳列してあるオーディオ機器をながめたりしていた。
 気がついたときに、ぼくは、オーディオ売場の椅子に腰掛けて、スピーカーからきこえてくる音にききいっていた。なんだ、この音は? まず、そう思った。その音は、これまでにどこでどこできいた音とも、ちがっていた。ほとんど薄気味悪いほどきめが細かく、しかもしなやかであった。
 まず、目は、スピーカーにいった。スピーカーは、これまでにもあちこちできいたことのある、したがって、ぼくなりにそのスピーカーのきかせる音の素性を把握しているものであった。それだけにかえって、このスピーカーのきかせるこの音か、と思わずにいられなかった。そうなれば、当然、スピーカーにつながれているコードの先に、目をやるよりなかった。
 スピーカーの背後におかれてあったのは、それまで雑誌にのった写真でしかみたことのない、チェロのパフォーマンスであった。なるほど、これがチェロのパフォーマンスか、といった感じで、いかにも武骨な四つのかたまりにみにいった。
 チェロのパフォーマンスのきかせた音に気持を動かされて、家にもどり、まっさきにぼくがしたのは、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、読むことであった。このパワーアンプのきかせる音に対して、三氏とも、絶賛されていたとはいいがたかった。
 にもかかわらず、チェロのパフォーマンスというパワーアンプへのぼくの好奇心は、いっこうにおとろえなかった。なぜなら、そこで三氏の書かれていることが、ぼくにはその通りだと思えたからであった。しかし、このことには、ほんのちょっと説明が必要であろう。
 幸い、ぼくはこれまでに、菅野さんや長嶋さん、それに山中さんと、ご一緒に仕事をさせていただいたことがあり、お三方のお宅の音をきかせていただいたこともある。そのようなことから、菅野、長島、山中の三氏が、どのような音を好まれるかを、ぼくなりに把握していた。したがって、ぼくは、そのようなお三方の音に対しての好みを頭のすみにおいて、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、熟読玩味した。その結果、ぼくは、レコード店のオーディオ売場という、アンプの音質を判断するための場所としてはかならずしも条件がととのっているとはいいがたいところできいたぼくのチェロのパフォーマンスに対しての印象が、あながちまちがっていないとわかった。そうか、やはり、そうであったか、というのが、そのときの思いであった。
 ぼくはアクースタットのモデル6というエレクトロスタティック型のユニットによったスピーカーシステムをつかっている。残る問題は、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの、俗にいわれる相性であった。ほんとうのところは、アクースタットのモデル6にチェロのパフォーマンスをつないでならしてみるよりないが、とりあえずは、推測してみるよりなかった。
 そのときのぼくにあったチェロのパフォーマンスについてのデータといえば、レコード店のオーディオ売場でほんの短時間きいたときの記憶と、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏が「ステレオサウンド」にお書きになった文章だけであった。そのふたつのデータをもとに、ぼくは、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性を推理した。その結果、この組合せがベストといえるかとうかはわからないとしても、そう見当はずれでもなさそうだ、という結論に達した。
 そこまで、考えたところで、ぼくは、電話器に手をのばし、M1にことの次第をはなした。
「わかりました。それはもう、きいてみるよりしかたがありませんね。」
 いつもの、愛嬌などというもののまるで感じられないぶっきらぼうな口調で、そうとだけいって、M1は電話を切った。それから、一週間もたたないうちに、ぼくのアクースタットのモデル6は、チェロのパフォーマンスにつながれていた。
 ぼくのアクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性の推理は、まんざらはずれてもいなかったようであった。一段ときめ細かくなった音に、ぼくは大いに満足した。そのとき、M1は、意味ありげな声で、こういった。
「高価なアンプですよ。これで、いいんですか? 他のアンプをきいてみなくて、いいんですか?」
 このところやけに仕事がたてこんでいたりして、別のアンプをきくための時間がとりにくかった、ということも多少はあったが、それ以上に、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのモデル6がきかせる、やけにきめが細かくて、しかもふっくらとした、それでいてぐっとおしだしてくるところもある響きに対する満足があまりに大きかったので、ぼくは、M1のことばを無視した。
「ちょっと、ひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」
 M1は、そんな捨てぜりふ風なことを呟きながら、そのときは帰っていった。なにをほざくか、M1めが、と思いつつ、けたたましい音をたてるM1ののった車が遠ざかっていくのを、ぼくは見送った。
 それから、数日して、M1から電話があった。
「久しぶりに、スピーカーの試聴など、どうですか? 箱鳴りのしないスピーカーを集めましたから。」
 きけば、菅野さんや傅さんとご一緒の、スピーカーの試聴ということであった。おふたりのおはなしをうかがえるのは楽しいな、と思った。それに、かねてから気になっていながら、まだきいたことのないアポジーのスピーカーもきかせてもらえるそうであった。そこで、うっかり、ぼくは、怪盗M1が巧妙に仕掛けた罠にひっかかった。むろん、そのときのぼくには、そのことに気づくはずもなかった。
 M1のいうように、このところ久しく、ぼくはオーディオ機器の試聴に参加していなかった。
 オーディオ機器の試聴をするためには、普段とはちょっとちがう耳にしておくことが、すくなくともぼくのようなタイプの人間には必要のようである。もし、日頃の自分の部屋での音のきき方を、いくぶん先の丸くなった2Bの鉛筆で字を書くことにたとえられるとすれば、さまざまな機種を比較試聴するときの音のきき方は、さしずめ先を尖らせた2Hの鉛筆で書くようなものである。つまり、感覚の尖らせ方という点で、試聴室でのきき方はちがってくる。
 そのような経験を、ぼくは、ここしばらくしていなかった。賢明にもM1は、ぼくのその弱点をついたのである。どうやら、彼は、このところ先の丸くなった2Bの鉛筆でしか音をきいていないようだ、そのために、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのもで6の音に、あのように安易に満足したにちがいない、この機会に彼の耳を先の尖った2Hにして、自分の部屋の音を判断させてやろう。M1は、そう考えたにちがいなかった。
 そのようなM1の深謀遠慮に気がつかなかったぼくは、のこのこスピーカー試聴のためにでかけていった。そこでの試聴結果は別項のとおりであるが、ぼくは、我がアクースタットが思いどおりの音をださず、噂のアポジーの素晴らしさに感心させられて、すこごすごと帰ってきた。アクースタットは、セッティング等々でいろいろ微妙だから、いきなりこういうところにはこびこんで音をだしても、いい結果がでるはずがないんだ、などといってはみても、それは、なんとなく出戻りの娘をかばう親父のような感じで、およそ説得力に欠けた。
 音の切れの鋭さとか、鮮明さ、あるいは透明感といった点において、アクースタットがアポジーに一歩ゆずっているのは、いかにアクースタット派を自認するぼくでさえ、認めざるをえなかった。たとえ試聴室のアクースタットのなり方に充分ではないところがあったにしても、やはり、アポジーはアクースタットに較べて一世代新しいスピーカーといわねばならないな、というのが、ぼくの偽らざる感想であった。
 そのときのスピーカーの試聴にのぞんだぼくは、先輩諸兄のほめる新参者のアポジーの正体をみてやろう、と考えていた。つまり、ぼくは、まだきいたことのないスピーカーをきく好奇心につきうごかされて、その場にのぞんだことになる。ところが、悪賢いM1の狙いは、ぼくの好奇心を餌にひきよせ、別のところにあったのである。
 あれこれさまざまなスピーカーの試聴を終えた後のぼくの耳は、かなり2Hよりになっていた。その耳で、ソニーのCDP557ESD+DAS703ES~マークレビンソンのML7L~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6という経路をたどってでてきた音を、きいた。なにか、違うな。まず、そう思った。静寂感とでもいうべきか、ともかくそういう感じのところで、いささかのものたりなさを感じて、ぼくはなんとなく不機嫌になった。
 そのときにきいたのは「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」(オルフェオ 32CD10106)というディスクであった。このディスクは、このところ、なにかというときいている。オッフェンバックの「ジャクリーヌの涙」をはじめとした選曲が洒落ているうえに、あのクルト・トーマスの息子といわれるウェルナー・トーマスの真摯な演奏が気にいっているからである。録音もまた、わざとらしさのない、大変に趣味のいいものである。
 これまでなら、すーっと音楽にはいっていけたのであるが、そのときはそうはいかなかった。なにか、違うな。音楽をきこうとする気持が、音の段階でひっかかった。本来であれば、響きの薄い部分は、もっとひっそりとしていいのかもしれない。などとも、考えた。そのうちに、イライラしだし、不機嫌になっていった。
 理由の判然としないことで不機嫌になるほど不愉快なこともない。そのときがそうであった。先日までの上機嫌が、嘘のようであったし、自分でも信じられなかった。もんもんとするとは、多分、こういうことをいうにちがいない、とも思った。おそらく昨日まで美人だと思っていた恋人が、今日会ってみたらしわしわのお婆さんになっていても、これほど不機嫌にはならないであろう、と考えたりもした。
 しかし、その頃のぼくは、自分のイライラにつきあっている時間的な余裕がかった。一週間ほどパリにいって、ゴールデン・ウィークの後半を東京で仕事をして、さらにまた一週間ほどウィーンにいかなければならなかった。パリにもウィーンにも、それなりの楽しみが待っているはずではあったが、しわしわのお婆さんになってしまっている自分の部屋の音のことが気がかりであった。幸か不幸か、あたふたしているうちに、時間がすぎていった。
 そして、あれこれあって、ルフトハンザ・ドイツ航空の701便で成田につき、怪盗M1の挑戦状。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」を目にしたことになる。
「ちょっとひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」、と捨てぜりふ風なことを呟きながら一度は帰ったM1の、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」、であった。ここは、やはり、どうしたって、褌をしめなおし、耳を2Hにし、かくごしてきく必要があった。
 翌日、朝、起きると同時にパワーアンプのスイッチをいれ、それから、おもむろに朝食をとり、頃合をみはからって、自分の部屋におりていった。
 ぼくには、これといった特定の、いわゆるオーディオ・チェック用のコンパクトディスクがない。そのとき気にいっている、したがってきく頻度の高いディスクが、そのときそのときで音質判定用のディスクになる。したがって、そのときに最初にかけたのも、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であった。
 ぼくは、絶句した。M1に負けた、と思った。
 スピーカーの試聴の後で、菅野さんや傅さんとお話ししていて、ぼくは自分で思っていた以上に、スピーカーからきこえる響きのきめ細かさにこだわっているのがわかった。もともとぼくの音に対する嗜好にそういう面があったのか、それとも、人並みに経験をつんで、そのような音にひかれるようになったのかはわかりかねるが、そのとき、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6で、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」をきいて、ぼくは、これが究極のコンポーネントだ、と思った。
 また、しばらくたてば、スピーカーは、アクースタットのモデル6より、アポジーの方がいいのではないか、と考えたりしないともかぎらないので、ことばのいきおいで、究極のコンポーネントなどといってしまうと、後で後悔するのはわかっていた。にもかかわらず、ぼくはソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」に、夢見心地になり、そのように考えないではいられなかった。
 ぼくのオーディオ経験はごくかぎられたものでしかないので、このようなことをいっても、ほとんどなんの意味もないのであるが、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた音は、ぼくがこれまでに再生装置できいた最高の音であった。響きは、かぎりなく透明であったにもかかわらず、充分に暖かく、非人間的な感じからは遠かった。
 静けさの表現がいい、などといういい方は、オーディオ機器のきかせる音をいうためのことばとして、いくぶんひとりよがりではあるが、そのときの音に感じたのは、そういうことであった。すべての音は、楽音が楽音たりうるための充分な力をそなえながら、しかし、静かに響いた。過度な強調も、暑苦しい押しつけがましさも、そこにはまったくなかった。
 ぼくは、気にいりのディスクをとっかえひっかえかけては、そのたびに驚嘆に声をあげないではいられなかった。そうか、ここではこういう音の動きがあったのか、と思い、この楽器はこんな表情でうたっていたのか、と考えながら、それまでそのディスクからききとれなかったもののあまりの多さに驚かないではいられなかった。誤解のないようにつけくわえておくが、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音にふれて、そこできけた楽器や人声の描写力に驚いたのではなく、そこで奏でられている音楽を表現する力に驚いたのである。
 したがって、そこでのぼくの驚きは、オーディオの、微妙で、しかも根源的な、だからこそ興味深い本質にかかわっていたかもしれなかった。オーディオ機器は、多分、自己の存在を希薄にすればするほど音楽を表現する力をましていくというところでなりたっている。スピーカーが、あるいはアンプが、どうだ、他の音をきいてみろ、と主張するかぎり、音楽はききてから遠のく。つまり、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音をきいて感動しながら、そこでオーディオ機器として機能していたプレーヤーやアンプやスピーカーのことを、ほとんど忘れられた。そこに、このコンポーネントの凄さがあった。
 こうなれば、もう、ひっこみがつかなかった。まんまと落とし穴に落ちたようで、癪にはさわったが、ここは、どうしたってM1に電話をかけずにいられなかった。目的は、あらためていうまでもないが、留守の間においていかれたソニーのCDP-R1+DAS-R1とチェロのアンコールを買いたい、というためであった。
「ソニーのCDP-R1+DAS-R1はともかく、チェロのアンコールはご注文には応じられませんね。」
 M1は、とりつく島もない口調で、そういった。
 M1の説明によると、チェロのアンコールの輸入元は、すでにかなりの注文をかかえていて、生産がまにあわないために、注文主に待ってもらっている状態だという。ぼくの部屋におかれてあったものは、輸入元の行為で短期間借りたものとのことであった。事実、ぼくがチェロのアンコールをきいたのは、ほんの一日だけであった。その翌日の朝、薄ら笑いをうかべたM1が現れ、いそいそとチェロのアンコールを持ち去った。
「いつ頃、手にはいるかな?」
 M1を玄関までおくってでたぼくは、心ならずも、嘆願口調になって、そう尋ねないではいられなかった。
「かなり先になるんじゃないですか。」
 必要最少限のことしかしゃべらないのがM1の流儀である。長いつきあいなので、その程度のことはわかっている。しかし、ここはやはり、なぐさめのことばのひとつもほしいところてあったが、M1は、余計なことはなにひとついわず、けたたましい騒音を発する車にのって帰っていった。
 しかし、ソニーのCDP-R1+DAS-R1は、残った。プリアンプをマークレビンソンにもどし、またいろいろなディスクをきいてみた。
 ソニーのCDP-R1+DAS-R1がどのようなよさをもっているのか、それを判断するのは、ちょっと難しかった。これは、束の間といえども大変化を経験した後で、小変化の幅を測定しようとするようなものであるから、耳の尺度が混乱しがちであった。一度は、M1の策略で、プリアンプとCDプレーヤーが一気にとりかえられ、その後、CDプレーヤーだけが残ったわけであるから、一歩ずつステップを踏んでの変化であれば容易にわかることでも、そういえば以前の音はこうだったから、といった感じで考えなければならなかった。
 しかし、それとても、できないことではなかった。これまでもしばしばきいてきたディスクをききかえしているうちに、ソニーのCDP-R1+DAS-R1の姿が次第にみえてきた。
 以前のCDプレーヤーとは、やはり、さまざまな面で大いにちがっていた。まず、音の力の提示のしかたで、以前のCDプレーヤーにはいくぶんひよわなところがあったが、CDP-R1+DAS-R1の音は、そこでの音楽が求める力を充分に示しえていた。そして、もうひとつ、高い方の音のなめらかさということでも、CDP-R1+DAS-R1のきかせかたは、以前のものと、ほとんど比較にならないほど素晴らしかった。しかし、もし、響きのコクというようなことがいえるのであれば、その点こそが、以前のCDプレーヤーできいた音とCDP-R1+DAS-R1できける音とでもっともちがうところといえるように思えた。
 なるほど、これなら、みんなが絶賛するはずだ、とCDP-R1+DAS-R1できける音に耳をすませながら、ぼくは、同時に、引き算の結果で、マークレビンソンのML7Lの限界にも気づきはじめていた。はたして、M1は、そこまで読んだ後に、ぼくを罠にかけたのかどうかはわかりかねるが、いずれにしろ、ぼくは、今、ほんの一瞬、可愛いパパゲーナに会わされただけで、すぐに引き離されたパパゲーノのような気持で、M1になぞってつくった少し太めの藁人形に、日夜、釘を打ちつづけている。