黒田恭一
ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「怪盗M1の挑戦に負けた!」より
午後一時二十分に成田到着予定のルフトハンザ・ドイツ航空の701便は、予定より早く一時〇二分に着いた。しかも、ありがたいことに、成田からの道も比較的すいていた。おかげで、家には四時前についた。買いこんだ本をつめこんだために手がちぎれそうに重いトランクを、とりあえず家の中までひきずりこんでおいて、そのまま、ともかくアンプのスイッチをいれておこうと、自分の部屋にいった。
そのとき、ちょっと胸騒ぎがした。なにゆえの胸騒ぎか? 机の上を、みるともなしにみた。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」
机の上におかれた紙片には、お世辞にも達筆とはいいかねる、しかしまぎれもなくM1のものとしれる字で、そのように書かれてあった。
一週間ほど家を留守にしている間に、ぼくの部屋は怪盗M1の一味におそわれたようであった。まるで怪人二十面相が書き残したかのような、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」のひとことは、そのことをものがたっていた。しかし、それにしても、怪盗M1の一味は、ぼくの部屋でなにをしていったというのか?
ぼくは、あわてて、ラスクのシステムラックにおさめられた機器に目をむけた。なんということだ。プリアンプが、マークレビンソンのML7Lからチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーが、ソニーのCDP557ESD+DAS703ESから同じソニーのCDP-R1+DAS-R1に、変わっていた。
怪盗M1の奴、やりおったな! と思っても、奴が「どうですか、この音は?」、という音をきかずにいられるはずもなかった。しかし、ぼくは、そこですぐにコンパクトディスクをプレーヤーにセットして音をきくというような素人っぽいことはしなかった。なんといっても相手が怪盗M1である、ここは用心してかからないといけない。
そのときのぼくは、延々と飛行機にむられてついたばかりであったから、体力的にも感覚的にも大いに疲れていた。そのような状態で微妙な音のちがいが判断できるはずもなかった。このことは、日本からヨーロッパについたときにもあてはまることで、飛行機でヨーロッパの町のいずれかについても、いきなりその晩になにかをきいても、まともにきけるはずがない。それで、ぼくは、いつでも、肝腎のコンサートなりオペラの公演をきくときは、すくなくともその前日には、その町に着いているようにする。そうしないと、せっかくのコンサートやオペラも、充分に味わえないからである。
今日はやめておこう。ぼくは、はやる気持を懸命におさえて、ついさっきいれたばかりのパワーアンプのスイッチを切った。今夜よく眠って、明日きこう、と思ったからであった。
おそらく、ぼくは、ここで、チェロのアンコールとソニーのCDP-R1+DAS-R1のきかせた音がどのようなものであったかをご報告する前に、怪盗M1がいかに悪辣非道かをおはなししておくべきであろう。そのためには、すこし時間をさかのぼる必要がある。
さしあたって、ある時、とさせていただくが、ぼくは、さるレコード店にいた。そのときの目的は、発売されたばかりのCDビデオについて、解説というほどのこともない、集まって下さった方のために、ほんのちょっとおはなしをすることであった。予定の時間よりはやくその店についたので、レコード売場でレコードを買ったり、オーディオ売場で陳列してあるオーディオ機器をながめたりしていた。
気がついたときに、ぼくは、オーディオ売場の椅子に腰掛けて、スピーカーからきこえてくる音にききいっていた。なんだ、この音は? まず、そう思った。その音は、これまでにどこでどこできいた音とも、ちがっていた。ほとんど薄気味悪いほどきめが細かく、しかもしなやかであった。
まず、目は、スピーカーにいった。スピーカーは、これまでにもあちこちできいたことのある、したがって、ぼくなりにそのスピーカーのきかせる音の素性を把握しているものであった。それだけにかえって、このスピーカーのきかせるこの音か、と思わずにいられなかった。そうなれば、当然、スピーカーにつながれているコードの先に、目をやるよりなかった。
スピーカーの背後におかれてあったのは、それまで雑誌にのった写真でしかみたことのない、チェロのパフォーマンスであった。なるほど、これがチェロのパフォーマンスか、といった感じで、いかにも武骨な四つのかたまりにみにいった。
チェロのパフォーマンスのきかせた音に気持を動かされて、家にもどり、まっさきにぼくがしたのは、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、読むことであった。このパワーアンプのきかせる音に対して、三氏とも、絶賛されていたとはいいがたかった。
にもかかわらず、チェロのパフォーマンスというパワーアンプへのぼくの好奇心は、いっこうにおとろえなかった。なぜなら、そこで三氏の書かれていることが、ぼくにはその通りだと思えたからであった。しかし、このことには、ほんのちょっと説明が必要であろう。
幸い、ぼくはこれまでに、菅野さんや長嶋さん、それに山中さんと、ご一緒に仕事をさせていただいたことがあり、お三方のお宅の音をきかせていただいたこともある。そのようなことから、菅野、長島、山中の三氏が、どのような音を好まれるかを、ぼくなりに把握していた。したがって、ぼくは、そのようなお三方の音に対しての好みを頭のすみにおいて、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、熟読玩味した。その結果、ぼくは、レコード店のオーディオ売場という、アンプの音質を判断するための場所としてはかならずしも条件がととのっているとはいいがたいところできいたぼくのチェロのパフォーマンスに対しての印象が、あながちまちがっていないとわかった。そうか、やはり、そうであったか、というのが、そのときの思いであった。
ぼくはアクースタットのモデル6というエレクトロスタティック型のユニットによったスピーカーシステムをつかっている。残る問題は、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの、俗にいわれる相性であった。ほんとうのところは、アクースタットのモデル6にチェロのパフォーマンスをつないでならしてみるよりないが、とりあえずは、推測してみるよりなかった。
そのときのぼくにあったチェロのパフォーマンスについてのデータといえば、レコード店のオーディオ売場でほんの短時間きいたときの記憶と、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏が「ステレオサウンド」にお書きになった文章だけであった。そのふたつのデータをもとに、ぼくは、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性を推理した。その結果、この組合せがベストといえるかとうかはわからないとしても、そう見当はずれでもなさそうだ、という結論に達した。
そこまで、考えたところで、ぼくは、電話器に手をのばし、M1にことの次第をはなした。
「わかりました。それはもう、きいてみるよりしかたがありませんね。」
いつもの、愛嬌などというもののまるで感じられないぶっきらぼうな口調で、そうとだけいって、M1は電話を切った。それから、一週間もたたないうちに、ぼくのアクースタットのモデル6は、チェロのパフォーマンスにつながれていた。
ぼくのアクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性の推理は、まんざらはずれてもいなかったようであった。一段ときめ細かくなった音に、ぼくは大いに満足した。そのとき、M1は、意味ありげな声で、こういった。
「高価なアンプですよ。これで、いいんですか? 他のアンプをきいてみなくて、いいんですか?」
このところやけに仕事がたてこんでいたりして、別のアンプをきくための時間がとりにくかった、ということも多少はあったが、それ以上に、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのモデル6がきかせる、やけにきめが細かくて、しかもふっくらとした、それでいてぐっとおしだしてくるところもある響きに対する満足があまりに大きかったので、ぼくは、M1のことばを無視した。
「ちょっと、ひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」
M1は、そんな捨てぜりふ風なことを呟きながら、そのときは帰っていった。なにをほざくか、M1めが、と思いつつ、けたたましい音をたてるM1ののった車が遠ざかっていくのを、ぼくは見送った。
それから、数日して、M1から電話があった。
「久しぶりに、スピーカーの試聴など、どうですか? 箱鳴りのしないスピーカーを集めましたから。」
きけば、菅野さんや傅さんとご一緒の、スピーカーの試聴ということであった。おふたりのおはなしをうかがえるのは楽しいな、と思った。それに、かねてから気になっていながら、まだきいたことのないアポジーのスピーカーもきかせてもらえるそうであった。そこで、うっかり、ぼくは、怪盗M1が巧妙に仕掛けた罠にひっかかった。むろん、そのときのぼくには、そのことに気づくはずもなかった。
M1のいうように、このところ久しく、ぼくはオーディオ機器の試聴に参加していなかった。
オーディオ機器の試聴をするためには、普段とはちょっとちがう耳にしておくことが、すくなくともぼくのようなタイプの人間には必要のようである。もし、日頃の自分の部屋での音のきき方を、いくぶん先の丸くなった2Bの鉛筆で字を書くことにたとえられるとすれば、さまざまな機種を比較試聴するときの音のきき方は、さしずめ先を尖らせた2Hの鉛筆で書くようなものである。つまり、感覚の尖らせ方という点で、試聴室でのきき方はちがってくる。
そのような経験を、ぼくは、ここしばらくしていなかった。賢明にもM1は、ぼくのその弱点をついたのである。どうやら、彼は、このところ先の丸くなった2Bの鉛筆でしか音をきいていないようだ、そのために、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのもで6の音に、あのように安易に満足したにちがいない、この機会に彼の耳を先の尖った2Hにして、自分の部屋の音を判断させてやろう。M1は、そう考えたにちがいなかった。
そのようなM1の深謀遠慮に気がつかなかったぼくは、のこのこスピーカー試聴のためにでかけていった。そこでの試聴結果は別項のとおりであるが、ぼくは、我がアクースタットが思いどおりの音をださず、噂のアポジーの素晴らしさに感心させられて、すこごすごと帰ってきた。アクースタットは、セッティング等々でいろいろ微妙だから、いきなりこういうところにはこびこんで音をだしても、いい結果がでるはずがないんだ、などといってはみても、それは、なんとなく出戻りの娘をかばう親父のような感じで、およそ説得力に欠けた。
音の切れの鋭さとか、鮮明さ、あるいは透明感といった点において、アクースタットがアポジーに一歩ゆずっているのは、いかにアクースタット派を自認するぼくでさえ、認めざるをえなかった。たとえ試聴室のアクースタットのなり方に充分ではないところがあったにしても、やはり、アポジーはアクースタットに較べて一世代新しいスピーカーといわねばならないな、というのが、ぼくの偽らざる感想であった。
そのときのスピーカーの試聴にのぞんだぼくは、先輩諸兄のほめる新参者のアポジーの正体をみてやろう、と考えていた。つまり、ぼくは、まだきいたことのないスピーカーをきく好奇心につきうごかされて、その場にのぞんだことになる。ところが、悪賢いM1の狙いは、ぼくの好奇心を餌にひきよせ、別のところにあったのである。
あれこれさまざまなスピーカーの試聴を終えた後のぼくの耳は、かなり2Hよりになっていた。その耳で、ソニーのCDP557ESD+DAS703ES~マークレビンソンのML7L~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6という経路をたどってでてきた音を、きいた。なにか、違うな。まず、そう思った。静寂感とでもいうべきか、ともかくそういう感じのところで、いささかのものたりなさを感じて、ぼくはなんとなく不機嫌になった。
そのときにきいたのは「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」(オルフェオ 32CD10106)というディスクであった。このディスクは、このところ、なにかというときいている。オッフェンバックの「ジャクリーヌの涙」をはじめとした選曲が洒落ているうえに、あのクルト・トーマスの息子といわれるウェルナー・トーマスの真摯な演奏が気にいっているからである。録音もまた、わざとらしさのない、大変に趣味のいいものである。
これまでなら、すーっと音楽にはいっていけたのであるが、そのときはそうはいかなかった。なにか、違うな。音楽をきこうとする気持が、音の段階でひっかかった。本来であれば、響きの薄い部分は、もっとひっそりとしていいのかもしれない。などとも、考えた。そのうちに、イライラしだし、不機嫌になっていった。
理由の判然としないことで不機嫌になるほど不愉快なこともない。そのときがそうであった。先日までの上機嫌が、嘘のようであったし、自分でも信じられなかった。もんもんとするとは、多分、こういうことをいうにちがいない、とも思った。おそらく昨日まで美人だと思っていた恋人が、今日会ってみたらしわしわのお婆さんになっていても、これほど不機嫌にはならないであろう、と考えたりもした。
しかし、その頃のぼくは、自分のイライラにつきあっている時間的な余裕がかった。一週間ほどパリにいって、ゴールデン・ウィークの後半を東京で仕事をして、さらにまた一週間ほどウィーンにいかなければならなかった。パリにもウィーンにも、それなりの楽しみが待っているはずではあったが、しわしわのお婆さんになってしまっている自分の部屋の音のことが気がかりであった。幸か不幸か、あたふたしているうちに、時間がすぎていった。
そして、あれこれあって、ルフトハンザ・ドイツ航空の701便で成田につき、怪盗M1の挑戦状。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」を目にしたことになる。
「ちょっとひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」、と捨てぜりふ風なことを呟きながら一度は帰ったM1の、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」、であった。ここは、やはり、どうしたって、褌をしめなおし、耳を2Hにし、かくごしてきく必要があった。
翌日、朝、起きると同時にパワーアンプのスイッチをいれ、それから、おもむろに朝食をとり、頃合をみはからって、自分の部屋におりていった。
ぼくには、これといった特定の、いわゆるオーディオ・チェック用のコンパクトディスクがない。そのとき気にいっている、したがってきく頻度の高いディスクが、そのときそのときで音質判定用のディスクになる。したがって、そのときに最初にかけたのも、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であった。
ぼくは、絶句した。M1に負けた、と思った。
スピーカーの試聴の後で、菅野さんや傅さんとお話ししていて、ぼくは自分で思っていた以上に、スピーカーからきこえる響きのきめ細かさにこだわっているのがわかった。もともとぼくの音に対する嗜好にそういう面があったのか、それとも、人並みに経験をつんで、そのような音にひかれるようになったのかはわかりかねるが、そのとき、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6で、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」をきいて、ぼくは、これが究極のコンポーネントだ、と思った。
また、しばらくたてば、スピーカーは、アクースタットのモデル6より、アポジーの方がいいのではないか、と考えたりしないともかぎらないので、ことばのいきおいで、究極のコンポーネントなどといってしまうと、後で後悔するのはわかっていた。にもかかわらず、ぼくはソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」に、夢見心地になり、そのように考えないではいられなかった。
ぼくのオーディオ経験はごくかぎられたものでしかないので、このようなことをいっても、ほとんどなんの意味もないのであるが、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた音は、ぼくがこれまでに再生装置できいた最高の音であった。響きは、かぎりなく透明であったにもかかわらず、充分に暖かく、非人間的な感じからは遠かった。
静けさの表現がいい、などといういい方は、オーディオ機器のきかせる音をいうためのことばとして、いくぶんひとりよがりではあるが、そのときの音に感じたのは、そういうことであった。すべての音は、楽音が楽音たりうるための充分な力をそなえながら、しかし、静かに響いた。過度な強調も、暑苦しい押しつけがましさも、そこにはまったくなかった。
ぼくは、気にいりのディスクをとっかえひっかえかけては、そのたびに驚嘆に声をあげないではいられなかった。そうか、ここではこういう音の動きがあったのか、と思い、この楽器はこんな表情でうたっていたのか、と考えながら、それまでそのディスクからききとれなかったもののあまりの多さに驚かないではいられなかった。誤解のないようにつけくわえておくが、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音にふれて、そこできけた楽器や人声の描写力に驚いたのではなく、そこで奏でられている音楽を表現する力に驚いたのである。
したがって、そこでのぼくの驚きは、オーディオの、微妙で、しかも根源的な、だからこそ興味深い本質にかかわっていたかもしれなかった。オーディオ機器は、多分、自己の存在を希薄にすればするほど音楽を表現する力をましていくというところでなりたっている。スピーカーが、あるいはアンプが、どうだ、他の音をきいてみろ、と主張するかぎり、音楽はききてから遠のく。つまり、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音をきいて感動しながら、そこでオーディオ機器として機能していたプレーヤーやアンプやスピーカーのことを、ほとんど忘れられた。そこに、このコンポーネントの凄さがあった。
こうなれば、もう、ひっこみがつかなかった。まんまと落とし穴に落ちたようで、癪にはさわったが、ここは、どうしたってM1に電話をかけずにいられなかった。目的は、あらためていうまでもないが、留守の間においていかれたソニーのCDP-R1+DAS-R1とチェロのアンコールを買いたい、というためであった。
「ソニーのCDP-R1+DAS-R1はともかく、チェロのアンコールはご注文には応じられませんね。」
M1は、とりつく島もない口調で、そういった。
M1の説明によると、チェロのアンコールの輸入元は、すでにかなりの注文をかかえていて、生産がまにあわないために、注文主に待ってもらっている状態だという。ぼくの部屋におかれてあったものは、輸入元の行為で短期間借りたものとのことであった。事実、ぼくがチェロのアンコールをきいたのは、ほんの一日だけであった。その翌日の朝、薄ら笑いをうかべたM1が現れ、いそいそとチェロのアンコールを持ち去った。
「いつ頃、手にはいるかな?」
M1を玄関までおくってでたぼくは、心ならずも、嘆願口調になって、そう尋ねないではいられなかった。
「かなり先になるんじゃないですか。」
必要最少限のことしかしゃべらないのがM1の流儀である。長いつきあいなので、その程度のことはわかっている。しかし、ここはやはり、なぐさめのことばのひとつもほしいところてあったが、M1は、余計なことはなにひとついわず、けたたましい騒音を発する車にのって帰っていった。
しかし、ソニーのCDP-R1+DAS-R1は、残った。プリアンプをマークレビンソンにもどし、またいろいろなディスクをきいてみた。
ソニーのCDP-R1+DAS-R1がどのようなよさをもっているのか、それを判断するのは、ちょっと難しかった。これは、束の間といえども大変化を経験した後で、小変化の幅を測定しようとするようなものであるから、耳の尺度が混乱しがちであった。一度は、M1の策略で、プリアンプとCDプレーヤーが一気にとりかえられ、その後、CDプレーヤーだけが残ったわけであるから、一歩ずつステップを踏んでの変化であれば容易にわかることでも、そういえば以前の音はこうだったから、といった感じで考えなければならなかった。
しかし、それとても、できないことではなかった。これまでもしばしばきいてきたディスクをききかえしているうちに、ソニーのCDP-R1+DAS-R1の姿が次第にみえてきた。
以前のCDプレーヤーとは、やはり、さまざまな面で大いにちがっていた。まず、音の力の提示のしかたで、以前のCDプレーヤーにはいくぶんひよわなところがあったが、CDP-R1+DAS-R1の音は、そこでの音楽が求める力を充分に示しえていた。そして、もうひとつ、高い方の音のなめらかさということでも、CDP-R1+DAS-R1のきかせかたは、以前のものと、ほとんど比較にならないほど素晴らしかった。しかし、もし、響きのコクというようなことがいえるのであれば、その点こそが、以前のCDプレーヤーできいた音とCDP-R1+DAS-R1できける音とでもっともちがうところといえるように思えた。
なるほど、これなら、みんなが絶賛するはずだ、とCDP-R1+DAS-R1できける音に耳をすませながら、ぼくは、同時に、引き算の結果で、マークレビンソンのML7Lの限界にも気づきはじめていた。はたして、M1は、そこまで読んだ後に、ぼくを罠にかけたのかどうかはわかりかねるが、いずれにしろ、ぼくは、今、ほんの一瞬、可愛いパパゲーナに会わされただけで、すぐに引き離されたパパゲーノのような気持で、M1になぞってつくった少し太めの藁人形に、日夜、釘を打ちつづけている。
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