Daily Archives: 1980年9月15日

「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
特集・「スピーカーを中心とした最新コンポーネントによる組合せベスト17」より

 オーディオ装置の音を決定づけるのはスピーカーだ。決定とまではゆかないとしても支配する、あるいは方向づけるのが、スピーカーだ。とうぜん、スピーカーが選ばれることで、そのオーディオ装置の鳴らす音の方向は、殆ど決まってしまうことになる。だからこそ、自分自身の装置のパーツを選ぶためには、スピーカーをとめてかかること、が何よりも優先する。スピーカーがきまらないことには、アンプやカートリッジさえ、きまらない。
 このことは、オーディオ装置を考える上での、第一の「基本」といえる。だが、この基本でさえ、ときとして忘れられがちであることを知って、私など、びっくりさせられる。
 たとえば、次のような相談をよく受ける。「○○社製の××型アンプを買おうと思うのですが、このアンプに会うスピーカーを教えてくれませんか」
 アンプが先に決定されて、そのアンプに合うスピーカーを選ぶ──。そんなことはありえない。つねに、スピーカーが選ばれてのちに、アンプが選ばれる。
 あるスピーカーを選ぶ。その人が、どういう理由でそのスピーカーを選んだのか。そのスピーカーの、どんな点に惹かれて選んだのか。そのスピーカーを、どういう音に鳴らしたいのか。そのスピーカーの音が十分に気に入っていたとしても、その反面に、気に入らない部分があるのか、ないのか……。こんなぐあいに、ひとつのスピーカーの選ばれた理由や鳴らしたい音の方向が、こまかくわかってくるにつれて、そのスピーカーを、いっそう良く鳴らすアンプを選ぶことができる。それは、繰り返しになるが、音を鳴らす「要(かなめ)」はスピーカーであって、鳴らしたい音のイメージがはっきりしていれば、そのイメージにより一層近い音のアンプを選ぶことができる、という意味である。
 ヴェテランのマニアには、こんな話はもう当り前すぎてつまらないかもしれない。だが、ちょっと待って頂きたい。理屈の上では判りきったことかもしれないが、それでは、あなた自身、ほんとうに、自分のイメージに最もよく合ったスピーカーを選び、そのスピーカーを自分のイメージに最も近い形で鳴らすことのできるアンプを、ほんとうに、確かに、選び抜いているだろうか。
 なぜ、こんなにクドクドと判りきった念を押すのか、その理由を説明しよう。
 JBLの♯4343といえば、オーディオ愛好家なら知らない人はいない。本誌の愛読者調査(55号)の結果をみるまでもなく、いろいろな調査からも、このスピーカーが、非常に高価であるにもかかわらず、こんにち、日本のオーディオ・ファンのあいだでの、人気第一位のスピーカーであることも、すでによく知られている。実際に、いま日本のどこの町に行っても、オーディオ専門店があるかぎり、まずたいていは♯4343は置いてある。また、個人ですでに所有しておられる人も多い。ということは、ずいぶん多くの人たちが、このスピーカーの音を実際に聴いていることになる。
 オーディオに限らず、なにかズバ抜けて人気の高いものには、また逆に反発や反感も多い。安置JBLをとなえる人もまた少なくない。五木寛之の小説の中にさえ「なんだい、JBLなんてジャリの聴くスピーカーだぜ」とかなんとかいうセリフが飛び出してくる。
 ところでいまこんな話を始めたのは、アンチJBL派に喧嘩を売ろうなどという気持では決してない。それどころか、まったく逆だ。これほど大勢の人が聴いている♯4343の音が、しかしひどく誤解されている例が、近ごろあまりに多い。たとえば、次のような体験が、近ごろ多いのだ。
 全国各地で、オーディオ愛好家の集まりによくお招きを頂く。先方では、私が♯4343を好きなことを知っていて、会場に現物を用意しておいてくださる。しかし、残念ながら、あらかじめセッティングしておいてくださった状態では、とうてい、私の思うような音で鳴っていない。しかし会場は、多くの場合、販売店の試聴室や会議室や集会場といった形で、♯4343の理想的なセッティングなど、むろんとうてい望めない。それは承知の上で、その会場の制約の中で、せめて少しでもマシな、というよりも、レコードを鳴らして話をさせていただく3時間ほどのあいだ、一応我慢のできる程度に鳴ってくれるよう精一杯の設置替えと調整を試みる。それでも、仮に♯4343のベストの状態を100点とすれば、にわか作りのセッティングでは、最高にうまくいったとしても80点。ふつうは70点か60点ぐらいのところで鳴らさざるをえない。50点では話にならないが、それにしても60点ぐらいの音で鳴らさなくてはならないというのは、私自身とてもつらい。
 ところが、話はここからなので、仮にそうして、60点から70点ぐらいの音で鳴らしながら話を終えると、たいていの会場で、数十人の愛好家の中から、一人や二人、「JBL♯4343が、こんなふうな音で鳴るのを初めて聴いた。いままでJBLの音は嫌いだったが、こういう音で鳴るなら、JBLを見直さなくては……」といった感想が聞かれる。私としてはせいぜい60〜70点で鳴らした音でさえ、なのだ。だとすると、♯4343は、ふだん、どんな音で鳴らされているのだろう。
 また、こんなこともよくある。同じように鳴らし終えたあと、専門店のヴェテラン店員のかたに「いゃあ、きょうの♯4343の鳴り方は素晴らしかった。さすがですね」などとほめていただくことがある。これも、私にはひどくくすぐったい。いや、きょうの音はせいぜい65点で、などと言い訳をしても、先方は満更外交辞令でもないらしく、私の言い訳をさえ、謙遜と受けとってしまうありさまだ。すると、いつもの♯4343はどんな音で鳴らされているのか……。
 言うまでもなく、中には数少ないながら、個人で恐らく素晴らしい音で鳴らしておられる愛好家なのだろう。私が会場で鳴らした音を聴いて「あんなものですか?」と言われてこちらがしどろもどろに赤面することも決して少なくない。だがそういう例があるにしても、多くの場合は、私としては不満な音で鳴ったにもかかわらず、その音で、♯4343 の評価を変えた、といわれる方々が、決して少ないとはいえない。
 そのことは、また別の例でも説明できる。上記のように、たまたま鳴らす機会があるときはよいが、先方からのテーマによって、音は鳴らさず話だけ、というような集まりの席上、「♯4343を何度か聴いてみて、少しも良い音にきこえないのだが、専門誌上では常にベタほめみたいに書いてある。あんな音が本当にいいのか?」といった趣旨のおたずねを受ける。そういうときは、その場で鳴らせないことを、とても残念に思う。せめて65点でも、実際に鳴った音を皆で聴きながらディスカッションしたいと、痛切に思う。おとばかりは、百万言を費やしてもついに説明のしきれない部分がある。「百見は一聞に如かず」の名言があるように。
 だが、しかしここでまた声を大にして言いたいのだが、オーディオの音は、なまじ聴いてしまったことで、大きな誤解をしてしまうこともある。いま例にあげた♯4343の音がそうだ。♯4343は、こんにち、おそらく全国たいていのところで鳴っている。誰もがその音を聴ける。だが、良いコンディションで鳴っていなかったために、なまじその音を聴いてしまうと、それが、即、♯4343だと誤解されてしまう。百聞よりも一聴がむしろ怖い。
 JBLの♯4343ひとつについて長々と書いているのは、このスピーカーが、こんにちかなり一般的に広く知られ、そして聴かれているから、例としてわかりやすいと思うからだ。従ってもう少し♯4343の引用を続けることをお許し頂きたい。
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
 第一に低音がよくない。中低域に妙にこもった感じがする。あるいは逆に中低域が薄い。そして最低音域が出ない。重低音の量感がない。少なくとも中低音から低音にかけて、ひどいクセがある……。これが、割合に多い誤解のひとつだ。たしかに、不用意に設置され、鳴らされている♯4343の音は、そのとおりだ。私も、何回いや何十回となく、あちこちでそういう音を聴いている。だがそれは♯4343の本当の姿ではない。♯4343の低音は、ふつう信じられているよりもずっと下までよく延びている。また、中低域から低音域にかけての音のクセ、あるいはエネルギーのバランスの過不足は、多くの場合、設置の方法、あるいは部屋の音響特性が原因している。♯4343自体は、完全なフラットでもないし、ノンカラーレイションでもないにしても、しかし広く信じられているよりも、はるかに自然な低音を鳴らすことができる。だが、私の聴いたかぎり、そういう音を鳴らすのに成功している人は意外に少ない。いまや国内の各メーカーでさえ、比較参考用に♯4343をたいてい持っているが、スピーカーを鳴らすことでは専門家であるべきはずの人が、私の家で♯4343の鳴っているのを聴いて、「これは特製品ですか」と質問するという有様なのだ。どういたしまして、特製品どころか、ウーファーの前面を凹ませてしまい、途中で一度ユニットを交換したような♯4343なのだ。
 誤解の第二。中〜高音が冷たい。金属的だ。やかましい。弦合奏はとうてい聴くに耐えない。ましてバロックの小編成の弦楽オーケストラやその裏で鳴るチェンバロの繊細な音色は、♯4343では無理だ……。
これもまた、たしかに、♯4343はよくそういう音で鳴りたがる。たとえばアルテックやUREIのあの暖い音色と比較すると、♯4343といわずJBLのスピーカー全体に、いくぶん冷たい、やや金属質の音色が共通してあることもまた事実だ。ある意味ではそこがJBLの個性でもあるが、しかしそのいくぶん冷たい肌ざわりと、わずかに金属質の音色とが、ほんらいの楽器のイメージを歪めるほど耳ざわりで鳴っているとしたら、それは♯4343を鳴らしこなしていない証拠だ。JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感さえ、本当に嫌う人はある。たぶんイギリス系のスピーカーなら、そうした人々を納得させるだろう。そういう意味でのアンチJBLはもう本格派で、ここは本質的な音の世界感の相異である。しかし繰り返すが、そうでない場合に♯4343の中〜高音域に不自然さを感じたとすれば、♯4343は決して十全に鳴っていない。
 第三、第四、第5……の誤解については、この調子でかいていると本論に達しないうちに指定の枚数を超過してしまいそうなので、残念ながら別の機会にゆずろう。ともかく、よく知られている(はずの)JBL♯4343の音ひとつを例にとってみても、このように必ずしも正しく理解されていない。とうぜん、本来の能力が正しく発揮されている例もまた少ない。だとしたら(話はここから本題に戻るのだが)、自分の求める音を鳴らすスピーカーを、本当に正しく聴き分け、選び抜くということが、いかに難しい問題であるか、ということが、ほんの少しご理解頂けたのではないだろうか。
 自分に合ったスピーカーを適確に選ぶことはきわめて難しい。とすれば、いったい、何を拠りどころとしてスピーカーを探し、選んだらよいのか。あるいは、そのコツまたはヒントのようなものがあるのか──。
 残念ながら、確かな方法は何もない。スピーカーに関する限り、その難しさは配偶者を選ぶに似て、ともかく我家に収めて、何ヵ月か何年か、ていねいに鳴らし込み、暗中模索しながら、その可能性をさぐってゆくしか、手がないのだ。そうしてみて結局、何年かつきあったスピーカーが、本質的に自分に合わないということが、あとからわかってみたりする。そうして何回かの無駄を体験しながら、一方では、ナマの演奏会に足繁く通い、またどこかに素晴らしい再生音があると聞けば、出かけていって実際に音を聴かせてもらう。そうして、ナマと再生音の両方を、それもできるだけ上質の音ばかり選んで、数多く聴き、美しい音をそのイメージを、自分の身体に染み込ませてしまわなくては、自分自身がどういう音を鳴らしたいのか、その目標が作れない。そうして、何年かかけて自分自身の目指す音の目標を築き上げてゆくにつれて、ふしぎなことに、その目標に適ったスピーカーが、次第に確実に選べるようになってくる。何と面倒な! と思う人は、オーディオなんかに凝らないほうがいい。
 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二〜三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU−D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
 なまじ中途半端に投資するよりも、、こういうシンプルな組合せのほうが、よっぽど、音楽の本質をとらえた本筋の音がする。こういう装置で、レコードを聴き、心から満足感を味わうことのできる人は、何と幸福な人だろう。私自身が、ときたま、こういう簡素な装置で音楽を聴いて、何となくホッとすることがある。ただ、こういう音にいつまでも安住することができないというのが、私の悲しいところだ。この音で毎日心安らかにレコードを聴き続けるのは、ほんの少しものたりない。もう少し、音のひろがりや、オーケストラのスケール感が欲しい。あとほんの少し、キメ細かい音が聴こえて欲しい。それに、ピアノや打楽器の音に、もうちょっと鋭い切れ味があったらなおいいのに……。
 そこでカートリッジを一個追加してみる。音の切れ味が少し増したように思う。しばらくのあいだは、その新しい音の味わいに満足する。しかしまた数ヵ月すると、こんどはもう少し音のひろがりが出ないものか、と思いはじめる。この前、カートリッジ一個であれほど変ったのだから、もうひとつ別のカートリッジを追加してみようか?……
 ……どうやら、十分ではないが、一応うまくいったようだ。三個に増えたカートリッジを、レコードによって使い分ける日が何ヵ月か続く。
 だがやがて、もしかするとアンプを新型に交換すれば、もっとフレッシュな音が聴けるのではないか、と思いはじめる。そして次にはスピーカーをもう少し上のランクに……。気がついてみると、最初に買った組合せの中で、残っているのはプレーヤーだけ。しかしいまとなってはそれも、もう少し高級機に替えたほうがいいのじゃないか──。
 多くのオーディオ愛好家が、次から次と新製品に目移りするのは、おそらく右のような心理からだろう。そして気がついてみると、オーディオに凝る、どころか、オーディオ一辺倒にどっぷり浸り込んでしまっている自分を発見して愕然とする。
 このような、いわばオーディオの深い森の中に迷い込まないようにするためには、オーディオ機器およびレコードの録音、さらには音楽の作曲や演奏の様式が、どのような経路をたどってこんにちに至ったか、広く俯瞰しながら大筋を把握しておくことが必要ではないかと思う。少なくともここ十年あまりのあいだに、音楽の録音およびその再生に関するかぎり、単に技術的な意味あいにとどまらず、大きく転換し、かつ展開している。そのことを正しく掴んでいるかぎりは、むやみにオーディオに振り回されることはない。またそれを知ることが、結局は、自分に合ったスピーカーを、アンプを、選ぶための近道にもなるはずだ。
 レコードは、オーディオ装置の音を鳴らす単純な音源ではなく、ひとつの音楽の記録として、ときに人の魂を心底から揺り動かすほどの力を持っている。だからこそ私たちは、レコードの録音年代の古さ新しさに関係なく、自分の好きな音楽、好みの演奏家のレコードを探し求め、大切に保存して、何回も聴きかえす。
 だがそれをオーディオ再生装置の側から眺めると、少なくともステレオ化された1958(昭和33)粘以降の二十数年間に話を限ったとしても、ずいぶん大きな変化がみられる。
 まず、ステレオ化直後の頃の、録音機材すべてに真空管の使われていた頃。そして、マルチトラックでなく、比較的自然な楽器の配置に、シンプルなマイクアレンジ。ヴェロシティマイクの暖かく柔らかい音質。
 やがてトランジスターに入れ代りはじめるが、コンシュマー用のアンプが、初期のトランジスター時代にひどく硬い、いやな音を鳴らしたようにプロ用といえども、TR(トランジスター)化の初期には、録音機材にもずいぶん硬い音のシステムがあった。ノイズも少なくない。
 マルチマイク・マルチトラックがとり入れられた初期には、その複雑なシステムを消化しきれずに、ずいぶん音のバランスのおかしな録音があった。また、その頃から広まりはじめたロックグループの新しい音楽では、電気楽器・電子楽器が使われたために、スピーカーから一旦鳴らした音をもういちどマイクで拾うという、それまでにない録音法に、技術社のとまどったあとがみられ、ひどく歪んだ音のレコードがたくさん残っている。ロックのレコードは音が悪いもの、と相場がきまっていた。
 トランジスターの機器の性能向上、コンデンサーマイクの主流化、マルチトラック録音の定着……それをもとにした新しい録音技法が真に完成の域に達したのは、ほんのここ数年来のことといってよい。しかし、ここ数年来に作られた新しい録音のレコードの中には、クラシック、ポピュラーを問わず、従来、名録音と称賛されたようなレコードと比較してもなお、音のダイナミックス、、とくに強音での伸びのよさと、弱音でのバックグラウンドノイズのほとんど耳につかないほどの静けさ。そしてどんなに音が重なりあったときでも、歪や混濁感のない透明で繊細な解像力の良さ。十分に広い周波数レインジ……等、どこからみても、素晴らしい出来栄えで聴き手を喜ばせてくれるものが増えている。
 とうぜん、この新しい録音のレコードの新鮮な音を十全に聴きとるためには、再生装置の能力にもまた、これまでとは違った内容が要求される。しかし一方では、そういう新しい装置で、古い録音のレコードを再生したら、録音のアラやノイズばかり耳ざわりになるのではないか、といった愛好家の心配もあるようだ。そのあたりをふくめて、この辺でそろそろ、再生装置の各論に入ることにする。
 自分に合ったスピーカーを選ぶ適確に選ぶ手軽な方法はない、とは言ったけれど、だからといって、何の手がかりもないわけではない。ことに、前記のように、どのようなレコードを、どのようなイメージで鳴らしたいのか、というひとつの設問を立ててみると、そこから、スピーカーの目のつけかたの、ひとつの角度が見えてくる。
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 クラシックとポピュラーとで、それに適したスピーカーがそれぞれ違うか、という問題には、そう単純明快な解答はできない。だいいち、クラシックとポピュラーといった漫然とした分類では、スピーカーの鳴らす音のイメージは明確にならない。そこで、次のような考えかたをしてみる。
 クラシック音楽とそれ以外のさまざまなポピュラー音楽との、オーディオ的にみてのひとつの大きな違いは、PA装置(拡声装置、マイクロフォン)を使うか使わないか、という点にある。言うまでもなく、クラシックのコンサートでは、どんなに広いホールでの演奏であっても、そして、それがギターやチェンバロのような音量の非常に小さな楽器の場合でも独唱の場合でも、特殊な例外はあるにしても原則としてPAは使わない。従って聴衆は、常に、ナチュラルな楽器や声を、そのまま自然な姿で耳にする。また、音楽ホールのステージで演奏され、客席で聴く音は、音源(楽器や声)からの直接ONよりも、ホールのあちこちに反響して耳に到達する間接音、いわゆるホールトーンのほうが優勢で、とうぜん、クラシックの音楽は、ホールのたっぷりした響きが十分にブレンドされた形で記憶に残る。ただ、楽器を自分で演奏できる人たちや、ときにプロの演奏家が、ごく内輪に個人の家などで楽しむコンサートの場合には、ふだんホールで遠く距離をおいて聴くのとは全く違う生々しい音が聴きとれる。ヴァイオリンの音を、演奏会場でだけ聴き馴れた人が、初めて、目の前2〜3メートルの距離で演奏される音を聴くと、その音量の大きなことと、意外に鋭い、きつい音や、弓が弦をこする音、弦をおさえた指が離れるときの音、などの附帯雑音が非常に多いことに驚いたりする。
 このように、同じクラシックの楽器でも、原則的にホールで演奏される音をほどよい席で鑑賞するイメージを再生音(スピーカー)に求める場合と、楽器を自分で奏でたりすぐ目の前で演奏されるのを聴く感じを求めるのとでは、それだけでもずいぶん大きな違いがある。
 一般的に言えば、クラシック音楽を、ホールのほどよい席で鑑賞するイメージをよく再現するのは、おもにイギリスで開発されたスピーカーに多い。そして、新しい録音のレコードの音を十全に再生するには、その中でも開発年代の新しい、いわゆるモニタータイプのスピーカーに目をつけたい。たとえば、KEFの104aBや105/II、ハーベスのモニターHL、スペンドールのBCIIやBCIII、あるいはロジャースのエクスポート・モニターや、新型のPM210、410、510のシリーズ、そしてBBCモニターのLS5/8……。
 しかし、楽器が眼前で演奏されたときの鮮鋭なイメージを求めてゆくと、これは、イギリス系のスピーカーでは少し物足りない。やはりJBLのスタジオモニターのシリーズ(たとえば♯4343)や、アルテックの604の系統、同じスピーカーをベースにしたUREIのような、アメリカのモニタースピーカーが、そのようなイメージを満たしてくれやすい。
 さて、ポピュラーに目を転じる。ポピュラーとひと口に言っても、クラシックジャズからモダンジャズ後期に至るジャズの再生と、それ以後のクロスオーバーからフュージョンに至る音楽とでは、前者が原則的にPAを使わないで、楽器も古典的なナチュラルな楽器を前提としているのに対して、後者は、エレキギターからシンセサイザーに至る電気楽器・電子楽器を多用して、またそうした楽器と音色や音量のバランスをとるために、たとえばドラムスでもチューニングを大きく変えて使うというような点を考えてみても、それに適合するスピーカーの考え方は大幅に異なってくる。
 たとえばモダンジャズを含む50年代ジャズを中心に(仮にその時代のスタイルで新しく録音し直したレコードであっても)ジャズらしさを十分に再現したいと相談を受けたとしたら、私はたとえば、次のようなスピーカーを一例として上げる。
 ユニットは全部JBLだが、完成品でなく、パーツを購入して組み上げる。
 ウーファーは2220H(130H)、エンクロージュアは4530BK。場所が許せば4520BKに、ウーファーを2本入れる。あるいは4560BKA(フロントロードホーン)でエネルギーを確保して、最低音用として3D方式で補うという手もある。
 中音は376または2441。ホーンは、2397が人気があるようだが、私なら2395(HL90)にする。これに075トゥイーターを組合わせたときの、スネァドラムやシンバルの音の鮮烈な生々しさは、まるで目の前で楽器が炸裂するかのようで、もうそれ以外のユニットが思いつかないほどだ。ネットワークも、絶対にJBLオリジナルを使う。低←→中の間は3182、または3152。中←→高の間は3150またはN7000。LCでなくマルチアンプでも、うまく調整できればよい。
 少なくともこのシステムで、私は、クラシックを聴くことは全く考えもつかない。徹底してジャズにピントを合わせたスピーカーである。
 もちろんこのままでも、クロスオーバーやフュージョンが楽しめなくはない。けれど、それらの音楽は、ジャズにくらべると、もっと再生音域を広げなくては、十分とはいえない。たとえば、トゥイーターが075では、シンセサイザーの高域の倍音成分の微妙な色あいや、音が空間を駆けめぐり浮遊する感じを、十分に鳴らしにくい。そういう音を鳴らすには、同じJBLでも2405が必要になる。けれどスネァやシンバルのエネルギー感、実在感について、075を一旦聴いてしまうと2405の音では細く弱々しくて不満になる。
 低音についても、シンセサイザーの作り出すときに無機的な超低音や、片張りのバスドラムのストッと乾いた音は、ホーンロードスピーカーでは、必ずしも現代的に再現できるとはいいにくい。ここはどうしても、JBLの新しいエンクロージュアEN8Pまたは8Cに収めたい。中音は前記のままでよいが、ネットワークは新型のLX50AとN7000が指定される。このシステムは、たとえばロックあるいはアメリカの新しいポップスのさまざまな音楽に、すべて長所を発揮すると思う。さらにまた、日本のニューミュージック系にもよい。
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
 もうひとつ別の見方がある。国産の中級スピーカーの多くは、概して、日本の歌ものによく合うという説である。私自身はその点に全面的に賛意は表し難いが、その説というのがおもしろい。
 いわゆる量販店(大型家庭電器店、大量販売店)の店頭に積み上げたスピーカーを聴きにくる人達の半数以上は、歌謡曲、艶歌、またはニューミュージックの、つまり日本の歌の愛好家が多いという。そして、スピーカーを聴きくらべるとき、その人たちが頭に浮かべるイメージは、日頃コンサートやテレビやラジオで聴き馴れた、ごひいきの歌い手の声である。そこで、店頭で鳴らされたとき、できるかぎり、テレビのスピーカーを通じて耳にしみこんだタレント歌手たちの声のイメージに近い音づくりをしたスピーカーが、よく売れる、というのである。スピーカーを作る側のある大手メーカーの責任者から直接聞いた話だから、作り話などではない。もしそうだとしたら、日本の歌を楽しむには、結局、国産のそのようなタイプのスピーカーが一番だ、ということになるのかどうか。
 少なくとも右の話によれば、国産で、量販店むけに企画されるスピーカーは、クラシックはもちろん、ジャズやロックやその他の、西欧の音楽全般に対しては、ピントを合わせていない理くつになるわけだから、その主の音楽には避けるべきスピーカーということにもなりそうだ。
 話を少しもとに戻して、録音年代の新旧について考えてみる。クラシックでもポピュラーでも、真の意味で録音が良くなったのはここ数年来であることはすでにふれた。これまでにあげてきた少数の例は(ジャズのケースを除いては)、そうした新しい音の流れを前提としたスピーカーである。しかし、それらのスピーカーで、古い年代の録音が、そのまま十分に楽しめるか。それともまた、古い年代の録音を再生するのに、より1層適したスピーカーというものがあるのかどうか。
 ある、と言ったほうが正しいように思う。仮に、ステレオ化(1958年)以後に話を限ってみても、管球時代の暖かい自然な音を録音していた前期(1965年前後まで)と、TR化、マルチトラック化、マルチマイクレコーディングの、過渡期である中期(60年代半ば頃から70年代初め頃まで)、そして新時代の機材の性能向上と、録音テクニックの消化された70年代半ば以降からこんにちまで、という三つの時代に大きく分類ができる。この中で、いわば過渡期でもある中期の録音は、出来不出来のバラつきが非常に大きい。おそろしく不自然な音がある。ひどく歪んだ(ことにロック系の)音がある。やたらにマルチマイク・マルチトラックであることを強調するような、人工臭ぷんぷんの音もある。ステレオの録音に関するかぎり、1960年代の前半までと、70年代後半以降に、名録音が多く、中期の録音には注意した方がいいというのが私の考え方だ。
 それはともかく、ステレオ前期の録音をそれなりに楽しむには、むろんこんにちの最新鋭のスピーカーでも、さして不自然でなく再生できる例が多い。けれど反面、鑑賞にはむしろ邪魔なヒスノイズやその他の潜在雑音が耳障りになったり、音のバランスが多少変って、本来の録音よりもいくぶん冷たい肌ざわりで再生されるということも少なくない。
 そういう理由から、古い録音を再生するのに、一層適したスピーカーがある、という考え方が出てくるわけだ。
 たとえばクラシックなら、イギリスのローラ・セレッションのディットン25や66、あるいはデドハム。またはヴァイタボックスのバイトーン・メイジュアやCN191コーナーホーン・システム。また、もしも中古品で入手が可能なら、タンノイ社製のオリジナルGRFもオートグラフ、あるいは旧レクタンギュラー・ヨーク、など(国産エンクロージュア入りのタンノイは、私はとらない)。またアメリカなら、やはりアルテック。620BモニターやA7X。
 これらに共通しているのは、適度のナロウレインジ。低域も高域も、適度に落ちていて、そして中域にたっぷりと暖かみがある。そういうスピーカーが、古い録音を暖かく蘇らせる。
 その意味からは、必ずしもクラシックと話を限らなくとも、ポピュラー音楽全般についてもまた、似たことがいえる。ただ強いていえば、やはりポップス系は、イギリス系よりもアメリカ系のほうがその特長をよく生かす傾向のあること。イギリス系のスピーカーでポップスを鳴らすと、どうも音が渋く上品に仕上りすぎる傾向がある。ということは見方を変えれば、ストリングス・ムードやイージー・リスニング、あるいは懐かしいポピュラーソングなど、イギリスのスピーカーで特長を生かすことのできる音楽もむろんあるわけだ。だがそれにしてもやはり、私自身の感覚ではどうしても、イギリスのスピーカーの鳴らすポップスの世界は概して渋すぎる。
 ここまでは、スヒーカーを聴くときの拠りどころを、ひとつは録音の年代の新旧、もうひとつは音楽の音の性格の違い、という二つの角度から眺めてきた。しかし本当は、これは何の答えにもなっていない。というのは、ここに、ひとりひとりの聴き手の求める音のありかた、求める音の世界という、これこそ最も本質的に重要な条件をあはてはめてゆかなくてならないからだ。聴き手不在のオーディオなど、何の意味もありはしない。
 では聴き手の求める音、というものを、どう分類してゆくべきか。これも答えは多岐に亘る。
 たとえば音量の問題がある。これには音を鳴らす環境の問題もむろん含まれる。遮音の良好なリスニングルームで、心ゆくまで豊かな音量を満喫したい人。しかし反対に、そういう恵まれたリスニングルームを持っていてもなお、決して大きな音量を好まない人も少なからずある。一人の同じ人間でも、一日のうちの朝と夜、その日の気分や聴く曲の種類などに応じて、音量をさまざまに変化させるが、それにしても、平均的に、かなりの音量で楽しむ人と、おさえた音で聴くことの好きな人とに、やはり分かれる。
 大きな音量の好きな人には、アメリカ系のスピーカーが向いている。これまでにまだ登場していない製品を含めて、アメリカのスピーカーは概して、大きな音量で朗々と鳴らして楽しむのが、スピーカーを活かす使い方だ。
 反対に、小音量の好きな人は、イギリス系のスピーカーに目をつける。イギリスのスピーカーは、概してハイパワーを入れると音が十分に伸び切らないし、大きな音量を出すことを、設計者自身が殆ど考えていないようだ。イギリス人と一緒にレコードを聴いてみると、彼らがとても控えめな音量でレコード鳴らすことに驚かされる。そういう彼らの作るスピーカーは、とうぜん、小さな音量で鳴らしたときに音がバランスよく美しく聴こえるように作られている。
 音量の次には、音色の傾向があげられる。たとえば音のクリアネス、あるいは解像力。どこまでも、細密画のようにこまかく音を鳴らし分けるような、隅々まで見通せるようないわゆる解像力の高い音を求めるか。反対に、そういう細かい音は神経が疲れてしまうから、もっと全体をくるみ込んでしまうような音。前者が製図ペンや面相筆で細かく描き込んだ細密画なら、後者は筆太のタッチで、大らかに仕上げたという感じの音。
 解像力の優れているのは、やはり新しいモニタ系のスピーカーだ。そこに音量の問題を重ねてみると、高解像力・小音量ならイギリスの中型モニター。高解像力・大音量ならどうしてもJBLのスタジオ・モニタ、となるだろう。
 ふわっとくるみ込むような柔らかい音。そして小音量でよいのなら、前述のディットン245や、スペンドールのBCII。少しぜいたくなところでロジャースPM510。これはモニター系のスピーカーであるにもかかわらず、耳あたりのいいソフトな音も鳴らせる。
 ソフトタッチ、しかし音量は大きく、となるとここはアルテックやUREIの独壇場になる。それも、高音を少々絞り気味に調整して鳴らしたい。
 音のエネルギーの問題もある。とくに、新しいポップスの録音。たとえばシェフィールドのダイレクトカットの録音などを聴いてみると、これは、音に本当の力のあるスピーカーでなくては、ちっともおもしろくないことがわかる。その上で、十分にレインジが広く、そして音の質感がよく、良い意味で音がカラッと乾いていなくてはならない。となるとここはもう、イギリスの出番ではない。アルテックでもない。いや、あるてっくならせい一杯がんばって6041。しかしここはどうしてもJBLスタジオ・モニターだ。
 だが、ここにもっと欲ばった要求をしてみる。クラシックも好き、ジャズやロックも気が向けばよく聴く。ニューミュージックも、ときに艶歌も聴く。たまにはストリングス・ムードなどのイージー・リスニングも……。そういう聴き方だから、レコードの録音も新旧、内外、多岐に亘り、しかも再生するときの音量も、深夜はひっそりと、またあるときは目の前でピアノやドラムスが直接鳴るのを聴くような音量まで要求する──としたら?
 これは決して架空の設定ではない。私自身がそうだし、音楽を妙に差別しないで本当に好きで楽しむ人なら、そう特殊な要求とはいえない。だとしたら、どういうスピーカーがあるのか。
 再生能力の可能性の、こんにち考えられる範囲でできるだけ広いスピーカー、を選ぶしかない。となると、これが最上ではないが、といってこれ以外に具体的に何があるかと考えてみると、結局、これしかないという意味で、やはりJBL♯4343あたりに落ちつくのではないだろうか。あるいは、この本の出るころにはサンプルが日本に着くはずの、JBLの新型♯4345が、その期待にいっそう応えてくれるのかもしれない。
 スピーカー選びについて、いくつかのケースを想定しながら、具体例をいくつかあげてみた。次号では、これらのスピーカーを、どう鳴らしこなすのか、について、アンプその他に話をひろげて考えてみる。

デンオン SC-5000

井上卓也

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 デンオンのフロアー型システムは、古くはコロムビアブランドの時代から常にシリーズのなかに核時代を代表するモデルが存在していた。70年以降の最近の例でも、デンオンが輸入をしている米ボザーク社の大型システムの陰にかくれた印象があったが、41cm口径コラーゲンウーファーと中音及び高音にホーン型を採用したVSS8000、40cmコーン型ウーファーをベースに独特な音響レンズを持つホーン型の中音と高音を組み合わせたD9があった。
 今回のSC5000は、デジタル録音やダイレクトディスクに代表されるプログラムソース側の高性能化に対応すべく高能率、高耐入力、低歪率なスピーカーシステムを実現する目的で開発された新製品だ。その最大の特長は、High−M(高剛性)振動板を開発し採用した点にある。この新タイプ振動板は、低域用にはPタイプと呼ばれる、伝統的な紙の利点を最大限に活用し、特殊なリブ一体成型の特性ラミー繊維を木材パルプに配合し剛性を高めながらも軽量化が可能で、ピストン振動帯域を従来の約1・5倍の1kHzにまで高めたタイプを採用している。磁気回路は、直径220mmのフェライト磁石使用で低歪化がおこなわれ、直径100mmのボイスコイルの磁束密度は11、000ガウスを誇っている。
 15cm中域用と5cm高域用ユニットは、Tタイプと呼ばれる高弾性アラミド繊維織布を特殊樹脂で強化したコーン採用だ。磁気回路は中域用が直径140Mmフェライト磁石、高域用が直径120mmストロンチウムフェライト磁石採用で、それぞれ97dB、97・5dBとコーン型としては異例の高能率を発揮している。
 エンクロージュアは、側板が3種類の高密度パーチクル板をサンドイッチ構造とした35mm厚。他は25mm厚高密度パーチクルボード使用の185ℓのバスレフ型である。
 SC5000は、充分に余裕のある安定した低域をベースに比較的反応が速く、明るく軽快な音色の中域と高域がスムーズなレスポンスでつながるワイドレンジ型の音である。キャラクターが少ないため97dBという高能率ながら刺激的な感じがなく、ゆたりとエネルギー感のある音が聴かれる。アンプ、カートリッジに対する反応はかなり鋭敏で、固有のキャラクターの少ないタイプでないと本領が発揮されない。

ダイヤトーン DS-505

井上卓也

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ダイヤトーンのスピーカーシステムは、長期間にわたる放送用モニタースピーカーを主とした業務用機器での技術開発と実績を背景として、これをコンシュマーユースの製品開発に活かすという、他のメーカーにはない特長がある。
 業務用機器では要求される物理的な特性をベースに、高信頼度、高安定度が必須の条件である。たとえば、ユニット構造ひとつを例にあげても、同社の製品はコーン型ユニットを主とし、これにドーム型ユニットを中域、高域に配する手法が基本的である。振動板材質でも長期にわたり安定した性能を備え、充分に使いこなした紙がメインであり、高分子化合物のフィルムや金属などの採用は、むしろ例外的な使用ということもできるほど同社の設計方針は堅実である。
 今回発表されたDS505は、ユニット構成、新種振動板材料の全面採用、新型ネットワークなど、いずれの点からみても従来の製品とは一線を画した80年代の新システムともいうべき意欲的な製品である。エンクロージュアは完全密閉型を採用した大型ブックシェルフ型であり、同社の製品のなかでの位置づけは、小型、高密度設計をテーマとした高性能ブックシェルフ型の3桁のモデルナンバーをもつ、最初期のDS301、これに続くD303という、それぞれの時代に存在したブックシェルフ型システムのトップモデルを受け継ぐ同社のプレスティッジモデルである。
 DS301、DS303、DS505はともに4ウェイ構成である点は共通であるが、それぞれの時代のプログラムソースであるディスクの基本性能、それを再生するスピーカーシステムに対する要求の相関性から、4ウェイ構成のクロスオーバー周波数の設定には非常に興味深い変化があることに気付く。
 DS301が低域と中域のクロスオーバー周波数を比較的高い1・5kHzとし、それ以上を3ウェイ構成とした、いわば2S305のトゥイーター帯域を3個のユニットに分担させた高域重視の設計であったのに対して、次のDS303は、低域と中域のクロスオーバー周波数が約1オクターブ下った600Hzとなり、標準的3ウェイ構成プラス・スーパートゥイーターという設計に発展している。今回のDS505は、さらにクロスオーバー周波数が低く、350Hzとなり中低域と中高域が1・5kHz、中高域と高域が5kHzというブックシェルフ型システムとしては異例の本格的な4ウェイ構成に発展している。
 また、中域以上の振動板材質でも、DS301が紙系を主としたドーム型と超高域にメタルコーン型を採用していたのに対して、DS303では中域がフェノール系ダイアフラムのドーム型、中高域がパルプ系のドーム、超高域が軟質アルミのドーム型という材料の分散使用に変る。D得する505は、定位機中低域が数年前にダイヤトーンで開発し、製品に一部採用されたハニカムコンストラクションコーンのスキン材を改良し、新しくスキン材に芳香族ボリアミド系樹脂であるアラミド繊維で強化された可撓性レビンを特殊配合し、内部損失をもたせた新ハニカムコンストラクションコーンを採用した32cmと16cm口径のコーン型を使用している。
 一方、中高域と高域には、従来のドーム型の構造を抜本的に発展させた、ボイスコイルボビン部分とドーム型ダイアフラムを深絞り一体構造とし、 
これにサスペンション用のダンパーを接合した直接駆動型ボロン化ダイアフラムを採用している。ボロン化は、チタン箔を深絞り加工した後に、高温ボロン化処理をしたサンドイッチ構造の従来の方法とは異なるタイプで、全て社内で製造されている。
 その他、低域、中低域ユニットボイスコイルボビンを従来のポリアミドフィルムの約3倍のヤング率をもち、耐熱性、耐寒性が優れたポリイミドフィルムの採用、磁気回路のストロンチウム磁石と独自のニッケル系磁性合金を使った低歪磁気回路などがユニットで注目すべきところだ。
 エンクロージュアは、モーダル解析をベースに、ヒアリングをも加えて検討された完全密閉型であり、丈夫の中低域ユニット部分は独立した大型のバックチャンバーを備え、高音ユニットは、このバックチャンバー部分に取り付ける構造を採用している。ネットワークは、12dB/Octタイプだが、コイル関係の硅素鋼板を特殊樹脂で熱圧着積層した新タイプの採用、二重防振構造のポリエステルフィルムコンデンサーなどの主な素子を分散配置し、配線剤の無酸素銅化をはじめ、素子や配線の圧着方式によるワイヤリングをベースに新しい構想に基づくネットワーク理論の導入により、従来とは一線を画した低歪ネットワークとし、各ユニットの基本性能を充分に発揮できるように検討されている。
 DS505は、ステレオサウンドのリファレンスシステムで駆動したときに、従来には聴かれなかった広い周波数レスポンスとナチュラルなエネルギーバランス、全域にわたる高い分解能を示し、ここには、慣例的に持っていた、いわゆるダイヤトーンサウンドを感じさせるイメージはほとんど存在しない。
 とくに、各種ディスクの録音状況、製盤プロセスの優劣に対する反応はシャープでありマルチトラック録音でトラックダウンをしたディスクでは、エンジニアのテクニックが目に見えるように聴き取れる。また、使用コンポーネントに対する反応もシャープでアンプやカートリッジの得失をクリアーに引き出す。
 したがって、使用方法、使用条件によって、結果としての音はかなり変化をし、短時間の試聴では新世代のリファレンスモニター的傾向は把握できるが、にわかには、これがDS505の音と判断することはできない。それほど、異次元のシステムであるわけだ。

JBL D44000 Paragon

瀬川冬樹

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
「ザ・ビッグサウンド」より

 まるで、家具ではないかと思わせる美しい仕上り。ステレオ2台のスピーカーを一体に作ってあるという点でも、他に類のない形をしている。JBLは、このスピーカーを1957年に発表し、1958年の春から市販しはじめた。もう23年にも亙って、最初の形のまま作り続けられていることになる。
 ステレオのLPがアメリカで一般に発表されたのは1958年の3月。ほとんど同時に、パラゴンは発売されたことになる。
 アメリカで裕福であった1950年代に、さまざまの超大型スピーカーが作られたが、その殆どが姿を消して、あるものはすでに〝幻の名器〟呼ばわりされている現在、JBLのパラゴンは、殆ど唯一の〝50年代の生き残り〟といえる。そしてパラゴンだけが生き残ってきた理由は、決して、懐古趣味などではなく、このスピーカーが、こんにちなお、十分に人を説得するだけの音と姿の魅力を持ち続けているからだろう。
 パラゴンの魅力といえば、まず第一にその類型のない独特な、しかし実に美しい量感のある形と、最上級のウォルナット化粧板の木目を生かした仕上げの質のよさ、ということになる。
 すぐれた製品は、殆ど例外なく美しい形をしている。そして、これもまた殆ど例外なしに、その美しい形が内部のすぐれた構造と緊密に一体となっていて、機能と形とに無理がない。それだからこそ、すぐれた機能がすぐれた形で表現されうる。
 だがしかし、そうした数多くの例の中でも、およそパラゴンほど、内部の構造と外観の美しさとが、見るものを陶酔感に誘うほど渾然一体となって表現されている製品が、ほかにあるだろうか。
 パラゴンを最も特徴づけているのは、言うまでもなく前面のゆったりと湾曲した反射板。中音のホーンがここに向けてとりつけてられる。この湾曲は複雑な計算によっており、たとえスピーカーの正面から外れた位置に坐っても、ステレオの音像イメージがある程度正しく聴きとれる。
 この独特の構造は、リチャード・H・レインジャーという、当時のアメリカで非常に有能なエンジニアの手によって考案され、JBLがその設計を買いとる形をとったらしい。この全く新しいスピーカーに美しい形を与えるには、有能なデザイナーの手が必要と判断したのが、当時JBLのオーナーであった、ウイリアム・H・トーマス。そして彼と出会ったのが、のちのJBLのデザインに大きな影響を及ぼすことになった若い工業デザイナー、アーノルド・ウォルフであった。
 以下の話は、たまたま昨年の秋、来日したアーノルド・ウォルフに、本誌編集部が非公式にインタビューした際のテープから聴きとった、ホット・トピックスである。
 W・H・トーマスから、全く新しい構想のスピーカーのデザインを依頼されたとき、A・ウォルフは、カリフォルニア州のバークレイに、ようやく小さな事務所を開いて、工業デザインの仕事を細々と始めたばかりだった。30代になったばかりのウォルフは、トーマスから、このプロジェクトは、絶対に成功しなくてはならない重大なものだ、と打明けられて、張切って仕事にかかった。設計者のR・H・レインジャーは、湾曲した反射パネルの重要さと、全体の問題点を的確にウォルフに指示した。
 何らデザインされていない構造モデルは、縮尺1/4の黒いプラスチック製で、ウォルフの言葉を借りれば、とてもユニークでユーモアがあり、人間的な形をしていた、そうだ。むろんこれは精一杯の皮肉だろう。
 2週間というものは、アイデア・スケッチに費やされた。アイデアが固まるにつれ、このデザインは、ただの図面ではとても表現しきれないと気づいて、1/12という小さな模型に仕上げた。
 ウォルフは、そのサンプルを靴の箱に収め、手さげかばんの中に着替えといっしょにつめこんで、バークレイからロサンジェルス行きの夜行列車に乗って、朝の8時にJBLのオフィスに着いた。デザイン開始が1957年の6月の終り。モデルが完成したのが8月の終りで、正味4週間かけたそうだ。
 デザインはむろん即座に採用が決定した。この仕事の成功によって、アーノルド・ウォルフは、それから13年のあいだ、JBLのコンサルタント、デザイナーとして、数々の名作を残す。いまはそれこそ幻の名器入りしたアンプ、SG520やSE400S、それにSA600なども彼のデザインだ。
 1970年に、ウォルフはJBLの要請に応じて、副社長として入社し、やがて社長の座につく。そのことからわかるように、彼は単にデザインにだけ能力のある人間でなく、実務にもまた長けた人物である。だが、本質的にはやはり、自らの手を動かしてデザインをすることの好きな人、なのだろう。短い期間で社長の椅子を下りて、昨年の来日のあと、JBLを辞めてフリーに戻ったと聞く。本当は、まだまだこれからのJBLの製品に、練達の腕をふるってもらいたい人なのに。
 仮に音なんか出なくたっていい、置く場所さえ確保できるなら、そしてパラゴン一台分の道楽ができるなら、この美しいスピーカーを、一度は手もとに置いてみたい。そう思う人は決して少なくないと思う。
 けれど本当にそれだけだったら、パラゴンは、こんにちまで、これほど多くの人々に支持されえない。パラゴンは、音を鳴らしてみても、やっぱり、凄い! のだ。
 もしもパラゴンの音を、古めかしい、と思っているとしたら、それは、パラゴンというスピーカーの大きな能力の反面を見落としている。パラゴンの音には、私たちの想像を越えるような幅の広い可能性がある。
 そのことを説明するには、ひとつの実例をお伝えしたほうがわかりやすい。私の知人で、M氏という愛好家がおられる。またその甥御さんを、T氏という。M氏は精神科、T氏は歯科の、ともにお医者さんだ。この両氏が、いまから約四年前、相前後してパラゴンを購入された。
 パラゴンの鳴らしかたについて、私は、二点の助言をした。ひとつは、トゥイーターのレベル調整。もうひとつはパラゴンの置き方の調整。
 驚くべき熱意でパラゴンの調整がはじまった。ことにT氏はお若いだけに、あの重いパラゴンを、深夜、たったひとりで、数ミリ刻みで、前後に何度も動かすのである。近ごろは、どこに力を入れるかコツがわかりました、などと笑っておられるが、実際、T氏がパラゴンの片隅に手をかけると、あのパラゴンが、はた目にはいとも軽やかに、ヒョイヒョイ、と前後に動く。そんなことを半年も繰り返しているうちに、六本の脚部の周囲のカーペットは、毛足がすっかりすり切れてしまったほど、殆ど毎晩のように、こんどは前に10ミリ、次は逆に5ミリひっこめて……と調整が続く。
 体験のない方にはおよそ想像もつかないかもしれないが、スピーカーというものすべてが、性能が高く鋭敏なパラゴンのようなスピーカーならいっそう、一旦設置したあとの、10ミリ、20ミリといった単位での、スピーカー背面と壁面との距離の調整によって、音質が,微妙とはいえしかし決して無視できない範囲で変化するものなのだ。スピーカーの鳴らしこみのコツの第一は、この調整にかかっていると言ってもよいほどだ。
 そして、そのたびごとに、パラゴンの背面の、あの狭いスペースに手をつっこんで、トゥイーターのレベルを調整する。調整すれば、また最適の設置位置が変る。壁にごく近寄せてしまったときなどは、手が入らないので、スピーカーの位置を正確にマークして、一旦、前に大きく動かして、レベル調整をしたのち、再びさっきの位置に収める。そういう作業を、毎晩くりかえしては、音を聴き分ける。
 M氏、T氏とも、オーディオの技術的な知識は持っておられない。それだから、我々の思いもかけないような奇抜な調整法を考案される。たとえばT氏は、鳴らしながら天板に聴診器をあてて、少しずつズラしながら、最も共振の大きな部分を探し出す。そこに印をしておいて、トゥイーターのレベル調整後、再び聴くと、共振音の大きさが変るので、その部分の音が最も小さくなるようなポイントを探すと、それはトゥイーターの最適レベルのひとつのポイントになる、などとおっしゃる。これを笑い話と思ってはいけない。この方法が最適かどうかは別として(少なくとも技術的にはとうてい説明がつきにくいが)、しかしこうして調整した音を聴かせて頂くと、決して悪くない。
 おもしろいことに、パラゴンのトゥイーター惚れベルの最適ポイントは、決して1箇所だけではない。指定(12時の)位置より、少し上げたあたり、うんと(最大近くまで)上げたあたり、少なくとも2箇所にそれぞれ、いずれともきめかねるポイントがある。そして、その位置は、おそろしくデリケート、かつクリティカルだ。つまみを指で静かに廻してみると、巻線抵抗の線の一本一本を、スライダーが摺動してゆくのが、手ごたえでわかる。最適ポイント近くでは、その一本を越えたのではもうやりすぎで、巻線と巻線の中間にスライダーが跨ったところが良かったりする。まあ、体験してみなくては信じられない話かもしれないが。
 で、そういう微妙な調整を加えてピントを合ってくると、パラゴンの音には、おそろしく生き生きと、血が通いはじめる。歌手の口が、ほんとうに反射パネルのところにあるかのような、超現実的ともいえるリアリティが、ふぉっと浮かび上がる。くりかえすが、そういうポイントが、トゥイーターのレベルの、ほんの一触れで、出たり出なかったりする。M氏の場合には、6本の脚のうち、背面の高さ調整のできる4本をやや低めにして、ほんのわずか仰角気味に、トゥイーターの軸が、聴き手の耳に向くような調整をしている。そうして、ときとして薄気味悪いくらいの生々しい声がきこえてくるのだ。
 だかといって、パラゴンをすべてこのように調整すべきだ、などと言おうとしているのではない。調整次第で、こういう音にもできるのがパラゴンなら、トゥイーターをやや絞り加減にセットして、広いライヴな部屋の向うの方から、豪華に流れてくる最上質のバックグラウンド・ミュージック……という感じに調整するのも、またひとつの方法だ。つまりパラゴンは、そういう両極端の要望に立派に応えてくれる広い能力を持っているので、調整の方向をはっきりさせておかないと、何が何だかわからなくなる。おっとり鳴らすか、豪快に鳴らし切るか、あくまで繊細さ、生々しさ、リアリティを追うか……、パラゴンに、そうした多面性があるということは、案外知られていない。
 パラゴンには、我々の知るかぎり、最初ウーファーに強力型の150−4Cが使われていた。これはまもなくLE15Aに変更され、この時代が長く続く。そしてつい最近になって、フェライトの新型ウーファーLE15Hに変更されると同時に、中音ドライバーが375から376に代った。例のダイアモンドエッジ(または折紙エッジ)のダイアフラムで、高域が拡張されている。075はそのままである。この新型は、残念ながらまだゆっくり聴く機会がない。相当に変っているにちがいないと思う。おそらく、いっそう現代的な面が際立ってきているのだろう。
 最後に超ホット・ニュースを二つ。ひとつはアーノルド・ウォルフによると、パラゴンは最初075なしの2ウェイだった、という。この型が市販されたのかどうかは、知らない。またもうひとつは、サンスイJBL課の話によれば、近い将来、パラゴンは、外装の化粧板に、たぶん3種類の仕上げを特註できることになるようだ。1960年代の前半頃までは、JBLの高級スピーカーは、ウォルナット、トーニイ・ウォルナット、マホガニー、およびエボニイ、の四種の仕上げの中から好みのものを指定できた。今回はどういう種類の木材が使えるのか、まだ明らかではないが、JBLも余裕が出てきたのか、こういう特註が可能になるというのは嬉しい。そしてそういう計画があるということは、まだまだパラゴンの製造中止など、当分ありえない話だということになる。
 本当なら、構造の詳細や、来歴について、もう少し詳しい話を編集部は書かせたかったらしいのだが、美しいカラーの分解写真があるので、構造は写真で判断して頂くことにして、あまり知られていないパラゴンのこなしかたのヒントなどで、少々枚数を費やさせて頂いた次第。

トーレンス Reference

瀬川冬樹

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 トーレンス・リファレンス。この大きさとボリュウム感が、印刷された写真からはたしてどれほど、実感として伝わるのだろうか。たとえばターンテーブル。本体の中央にむしろ小さくみえるけれど、直径はむろん約30センチ。その直径から厚みを推測して、これだけの量感のあるターンテーブルをなお小さくみせる本体の大きさというものを想像して頂ければ、ようやく、これが只ものでない超大型のプレーヤーであることが、おぼろげながら理解されはじめる。
 そこに、スペックに印された寸法をあてはめてみる。さらに、90キログラム、という重量を思い浮かべてみると、どうやらこの製品の全貌がみえてくる。
 全体の渋いモスグリーン(苔緑色)系のメタリック半艶塗装。四隅に屹立する太い柱は、本体を吊っている支持枠(サスペンションハウジング)で、本ものの金メッキがほどこされている。本体の塗装の色は、おゆらく、この金色に最もよくあった色が選ばれたにちがいない。アームベースやパネルを締めつけている小さなネジもすべて金メッキである。
 ベルトドライブのターンテーブルに、アーム3本が取付可能のマニュアル式プレーヤー。??機能としてはそれだけ。こう言ってしまうと身も蓋もないが、それをここまでの物凄さに作り上げたトーレンスの真意は、いったいどこにあるのだろうか。
 ことしの3月に、パリの国際オーディオフェア(アンテルナシォナル・フェスティヴァル・デュ・ソン)に出席の途中に、スイスに立寄ってトーレンス社を訪問した。そのときすでにこの製品の最初のロット約10台が工場の生産ラインに乗っていたが、トーンレス本社で社長のレミ・トーレンス氏に会って話を聞いてみると、トーレンス社としても、これを製品として市販することは、はじめ全く考えていなかった、のだそうだ。
「リファレンス」という名のとおり、最初これはトーレンス社が、社内での研究用として作りあげた。
アームの取付けかたなどに、製品として少々未消化な形をとっているのも、そのことの裏づけといえる。
 製品化を考慮していないから、費用も大きさも扱いやすさなども殆ど無視して、ただ、ベルトドライヴ・ターンテーブルの性能の限界を極めるため、そして、世界じゅうのアームを交換して研究するために、つまりただひたすら研究用、実験用としてのみ、を目的として作りあげた。
 でき上った時期が、たまたま、西独デュッセルドルフで毎年開催されるオーディオ・フェアの時期に重なっていた。おもしろいからひとつ、デモンストレーション用に展示してみようじゃないか、と誰からともなく言い出して出品した。むろん、この時点では売るつもりは全くなかった??、ざっと原価計算してみても、とうてい売れるような価格に収まるとも思えない。まあ冗談半分、ぐらい気持で展示してみたらしい。
 ところが、フェアの幕が開いたとたんに、猛反響がきた。世界各国のディーラーや、デュッセルドルフ・フェアを見にきた愛好家たちのあいだから、問合せや引合いが殺到したのだそうだ。あまりの反響の大きさに、これはもしかしたら、本気で製品化しても、ほどほどの採算ベースに乗るのではないだろうか、ということになったらしい。いわば瓢箪から駒のような形で、製品化することになってしまった……。レミ・トーレンス氏の説明は、ざっとこんなところであった。
 トーレンスとEMTは、別項の工場訪問記にも書いたように、同じ工場の、同じラインで組立てられている。ただ、トーレンスが一般コンシュマー用、EMTがプロフェッショナル用という、厳然とした区別があって、管理から販売に至るまで完全に独立している。言いかえれば「リファレンス」がトーレンス・ブランドで発表されているということは、この製品が全く、プロフェッショナル用ではないことを表している。現実に、プロの現場(たとえば放送局の送り出し用、レコード会社や録音スタジオでのプレイバック用等)としては、どう考えてもおそろしく扱いにくい製品で、結局これは、超マニア用として作られたとしか、思えない。というよりも、正確には、前述のようにこれは、トーレンスの社内での実験用マシーンであったのだ。
 だが、トーレンス社があえて、おそろしいような価格をつけて市販に踏み切ったからには、なにがしかの成算あってのことに違いあるまいと、誰しもが思うのは当然ではないだろうか。
 なるべく手間や材料を省略して安く物を作ろうという風潮が支配的になっているこんにち、およそこれほど、無駄のかたまりとも思える物量と、手間とを投入した製品は、珍品と言いたいほど例外的な存在だ。
 組立の終った「リファレンス」が、本誌の試聴室に設置された。もう何回も眺めてきたのに、いままで工場その他の広い場所ばかりで見てきたせいか、こうしてふつうの広さの部屋で、目の前に置いてみると、改めて、大きい、と思う。いや、大きさもさることながら前述のモスグリーンと金色との豪華な質感と全体の量感、そして、みるからに質の高い加工の美しさのハーモニイを眺めると、何ともいえない凄みを感じる。初めて見た人は、誰もが、うわあ! と思わす驚きの声を上げる。もうそれだけで、このシステムから、悪い音など出るはずがない、という気持にさせる。
 サンプルとして入荷した第一便には、三台のアームベースのうち、二台に、EMTとトーレンスのアームがそれぞれ、とりつけられ、一台分だけ空白になっていた。私は、その音をよく知りつくしているオーディオクラフトのAC3000MCをそこにとりつけてもらった。EMT、トーレンスの各アームには、それぞれの専用カートリッジしかとりつけられない。そこで、それ以外のカートリッジをACにとりつけて聴いてみようというわけである。
 参考として、本誌前号(55号)のテストの際、私個人が最も良いと思った三機種??エクスクルーシヴP3、マイクロ5000(二連)+AC40000MC、それにEMT930stを、内蔵のアンプを通さずに直接出力を引き出すように手を加えたモデル(専用インシュレーターつき)??を、比較試聴用に再び用意してもらった。デンオンDL303、オルトフォンMC30、それにEMT/XSD15の三個のカートリッジで、エクスクルーシヴとマイクロを聴いて、前号の印象と変わりないことをまず確かめた。厳密にいうと、マイクロについては前号と設置および調整の条件が多少異っていたため、前号と同じ音質にはならなかったが、印象としてはむしろ前回を上廻る部分さえあった。それらの詳細については本誌55号をご参照いただきたい。
 前記二機種が、こんにちのプレーヤーシステムの中ではそれぞれにきわめて水準の高い音質を堪能させてくれたあとで、EMT930stにTSD15をとりつけて、内蔵ヘッドアンプを通さずに(ということは、内蔵アンプが悪いという意味ではない。いやむしろ内蔵のアンプの独特の音質の美しさこそ、EMTの特長でもあるのだが、あえてそれを使わないというのは、他のプレーヤーの試聴と条件を合わせるというだけの意味にすぎない)直接、出力をとり出した音を聴いてみると、中音から低音にかけて甘く量感のある安定感に支えられて鳴ってくる音の、くるみ込まれるような豊かな響きの美しさに陶然とさせられる。そのことも55号には書いた。
 さて、そうした音を聴いた直後に聴く「リファレンス」の音質である。とくにEMT930stとの比較のために、カートリッジはTSD15一個をつけかえ、さらに、トーレンスに付属している独特のコレットチャック式(締めつけ式)のスタビライザーも共用して、聴きくらべた。つまり違うのは、モーターのドライブシステムと、ターンテーブルおよびそれを支えるベースとサスペンションだけ、ということになる(アームは同じものがついているのだから)。厳密にいえば、アームからの引出コードは違う。トーレンス・リファレンスには、最初から先方でつけてきたコードがついているし、EMT930のほうは、本誌で改造した国産コード龍用品だ。
 しかし、同じレコードを交互に乗せかえて比較したかぎり、この音質のちがいは、とうていコード一本の差といった小さなものではないことが、誰の耳にも容易に聴きとれる。
 EMTのTSD(およびXSD)15というカートリッジを、私は、誰よりも古くから使いはじめ、最も永い期間、愛用し続けてきた。ここ十年来の私のオーディオは、ほとんどTSD15と共にあった、と言っても過言ではない。
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、猛数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
 この、フィリップスの目ざましい進歩を聴くうちに、いつのまにか、私の主力のカートリッジが、EMTから、オルトフォンMC30に、そして、近ごろではデンオンDL303というように、少しずつではあるが、EMTの使用頻度が減少しはじめてきた。とくに歪。fffでも濁りの少ない、おそろしくキメこまかく解像力の優秀なフィリップスのオーケストラ録音を、EMTよりはオルトフォン、それよりはデンオンのほうが、いっそう歪少なく聴かせてくれる。歪という面に着目するかぎり、そういう聴き方になってきていた。TSD15を、前述のように930stで内蔵アンプを通さないで聴いてみてでも、やはり、そういう印象を否めない。
 ところがどういうことなのだろう。トーレンス・リファレンスで鳴らしてみると、930stと同じアーム、同じカートリッジの音が、明らかに1ランク以上、改善されて聴こえる。930stよりも、周波数レンジが広く聴こえる。音の表現力の幅がグンとひろがる。同じ針圧をかけているのに、トレース能力まで増したかのように、聴感上の歪が軽減された印象になる。EMT930stでも、国産機と比較するとずいぶん低音が豊かに感じられたのに、トーレンス・リファレンスの低音は、いっそう豊かでいっそう充実している。そして低音の豊かさが、中〜高域にかぶてっこない。したがって音はクリアーで、ディテールはいっそう明瞭になる。とくに、オーケストラの強奏でその点が際立ってくる。音の伸びが良い。たとえば、カラヤン/ベルリン・フィルの「ローマの泉」の第二曲(朝のトリトンの噴水)のふん非違の吹き上がる部分。リファレンスの音は、ほんとうに水しぶきが上がってどこまでも吹き上げる。水のしぶきに、ローマの太陽が燦然ときらめき映える。このレコードの音は、ずいぶんきわどく録音されているが、しかしやかましいという感じにならない。残念ながら、私が目下愛用しているマイクロ二連ドライブ+AC4000MC、それにMC30では、どうしても少々上ずる傾向になりがちだ。エクスクルーシヴとEMT930stでは、しぶきが十分な高さに吹き上がらない。そういう迫真力で格段の差を聴かせておきながら、少々傷んだレコードをかけてみても、他のプレーヤーよりその傷みからくる音の荒れが耳につきにくいというのは、何ともふしぎである。
 結局のところ、EMTのアームとTSDカートリッジを組合せるかぎり、こんにちその能力を最高に抽き出すターンテーブルシステムは、この「リファレンス」ということになるのだろうか? いや、まだひとつ、EMT927Dstとの比較が残っている。私の927を、動かす気はない。となると、「リファレンス」を私の家に持ち込んでみなくては比較はできない。だが930stとの差を聴くことで、ある程度の推測はつく。少なくとも、927と930は、見た目は似ていてもそこから聴かれる尾との質の高さは別格だ。となると、927と「リファレンス」とは、音のニュアンスの差であってどちらが上とはいえない、とでもいうことになるのだろうか。いちどぜひ比較してみたい。本号締切り間際に「リファレンス」のサンプル入荷がようやく間に合ったという状態なので、残念ながらその比較の機会が作れなかった。
 ところで、他のアームとカートリッジの音質はどうか。
 まずトーレンスのオリジナルアームと、MCカートリッジ(EMTと基本は似ていて、同じ製造ラインで作られている)。この組合せは、本誌55号でトーレンスTD126MKIIIの試聴の際に、一度聴いている。しかし、さすがにターンテーブルシステムの能力が上がるということはおそろしいもので、TD126のときには、音域やDレンジの限界のようなものを感じさせたのに、その限界が格段にひろがって、これはこれで相当に良いアームとカートリッジだと思わせる。が、しかし三百五十万円のシステムの音、としてみると、やはりこれでは少しものたりない。というより、EMTオリジナルという凄い音が一方にあるために、どうしても聴き劣りしてしまうのだろう。トーレンス社としては面子にかけてどうしてもとりつけたいのだろうが、この「リファレンス」ほどのシステムを使う日本の厳しい愛好家にとっては、トーレンスアームとカートリッジは、そんなに必要性を感じないのではなかろうか。
 となると、興味はいよいよ、オーディオクラフトのアームに各種のカートリッジをとりつけたときのことになる。
 まずEMT用のアームパイプをとりつけ、TSD15で比較してみる。さきほど例にあげた「ローマの泉」の噴水の水しぶき、その吹上げかたが、オリジナルアームよりも少し頭打ちになる。また、きらめき方も十分ではない。ということは、「リファレンス」システム自体が、共振成分を相当に制動してあるということなのだろう。EMTのアーム自体は、共振の十分に取り除かれていないターンテーブル・システムでは、音が少々はしゃぎすぎる傾向をみせることが多い。オーディオクラフトのアームの音質が、どちらかといえばやや暗く沈みかげんになるということも、同じ理由かを裏から説明している。どうやらACアームは、マイクロ糸ドライブとの組合せが�絶妙�ということになりそうだ。
 そのことは、あとからMC30およびDL303をとりつけて聴いてみたときにもいえる。MC30に関しては必ずしも悪い音ではなく、むしろバランスのよい、過不足のない、こんにち的な音が楽しめる。ただ、「リファレンス」で鳴るEMTオリジナルの、リフレッシュされたような味の濃い音を堪能したあとでMC30+AC3000MCを鳴らしてみると、いくぶん物足りない印象を受けやすい。
 そういう印象は、DL303にするともっと極端になる。もともと、中域以下の音の厚みの出にくいカートリッジだが、EMTオリジナルの豊満な音を聴いたあとであるからばかりでなく、DL303にしてもなお、線の細い、かなり痩せた感じの音になる。DL303の、相当に潔癖なスリムな音質と、「リファレンス」の豊かな肉づきと、性格が合わないともいえるが、それよりも、残念ながら、カートリッジの格負けといった印象が強い。
 しかしそうしてみると、この「リファレンス」は、EMTのオリジナルアーム+カートリッジの能力を、最大限、発揮させるターンテーブルシステム、ということになるのだろうか。どうもそうらしい、ともいえる。が、もう少し時間をかけて、アームを調整しこみ、または別のアームにも換えてみて、可能性の範囲を追求してみれば、また別の面も聴きとれそうな気もする。
 というのは、サスペンション・ハウジングに、本体を吊っている鋼線(ワイヤー)の張力(テンション)を調整するつまみがついている。最大から最少までの幅で、本体に対する共振点を、1Hzから5Hzのあいだで調整できると説明されている。私の試聴では、張力を最もゆるめた状態、つまり1Hzの状態が良いと思った。
 ところがこの状態では、たとえばロックからフュージョン系の新しいレコードを聴く編集部のM君など、低音がゆるんでいて、とても我慢できない、というのである。彼に言わせると、張力を最も強くしたときのほうが、低音が締まって、これなら自分のレパートリィにも使える、という。このことからわかるように、ワイヤーの張力の調整によって、音質を、全体にゆるめたり引締めたりできるわけで、本機のテストだけでほとんど6時間あまりを費やしてしまったが、それでも、この時間の枠内では、ワイヤーのテンションを変化させながら最適アームをとカートリッジを探す、といった追い込みをする余裕が作れなかった。もっとも、その時間の半分以上は、ただぽかんと聴き惚れていた、というのが、正直な話なのだが。
 この「リファレンス」の構造について最後にふれておこう。
 ターンテーブルは、直径305ミリ、比較的柔らかいフェルトのシートが張ってあり、スカートの部分にはプラスチックのストロボスコープがついていて、全体の厚みは約83ミリ。引上げると、内面には部厚いドーナッツ状の合板が打込まれ、おそらく共振を制動している。ターンテーブルのサイズや大まかな形状およびいかにも精密加工された永いシャフトをみると、どうやらこれは、EMT930stのターンテーブルと、基本は同じもののように思える。ただし軸受けのほうは、ランブルを最少に保つための新開発のものだと、書いてある。ターンテーブルの重量は、制動材を含めて6・6キログラムと発表されていて、これはむろん930stより重い。
 手前のパネルには、左から速度切換(78・45・0・33)、速度微調整(±6%)。2個のシーソースイッチを間に置いて右端は電源のON−OFFスイッチが配されている。
 シーソースイッチは、アームリフターのリモートコントロールで、3本のアームのうち、2本に限り、原則としてトーレンス社で取付・調整したエレクトロニック・コントロールのアームリフターがとりつけられる。アーム取付ベース内に組込まれ、そこから出てきたコード(DINプラグつき)を、シャーシ背面で接続すると、リモートコントロールが可能になる。
 本体は、土台となる頑丈なベーシック・シャーシと、ターンテーブルおよびアームをとりつけてあるフローティング・シャーシとに分割されて、ともにアルミニウム・ダイカスト製。ベース側に例の金メッキの四本柱がとりつけられて、その天部から鋼鉄のワイヤーと、重ねた板バネ(二軸貨車などに使われる担(にない)バネのようなリーフスプリング)とで、フローティング・シャーシを吊っている。ワイヤーの途中を、ちょうど弦楽器の弦を指でおさえてピッチを変える要領で、可動式のクランプがおさえて、さきほど述べたように共振点を変える。この懸架の方法は他に類のない独特の構造で、ゴム系の制動を一切加えていない。
 フローティング・シャーシは、ターンテーブルのシャフト軸受の周囲の空間にトーレンスではアイアン・グレインと称する鉄の粒の制動材がつめこまれ、ダイカストの補強リブのあいだに形成される空洞共振をおさえ、なおかつ軸受の周囲に、Qの低いマスをつけ加えていることが、この製品の音質を相当にコントロールしているように思われる。
 駆動モーターはかなり小さい。電子的に速度を変えて3スピードを出している。ベルトのかかる軸の直径は約50ミリと非常に大きく、低速モーターであることがわかる。説明書には、「ハイトルク・シンクロナス・モーター」とあるが、トルクはこんにちの製品群の中では、むしろ弱いほう。レコードをのせてクリーナーを押しあてると、回転が停まってしまう。もう少しトルクが欲しいように思う。
 アーム取付ベースは、アルミニウム・ダイカストの枠で、アーム取付面には木製の板を使う。孔を加工しやすいように、との配慮だろうが、このように、木材とアルミニウム、といった異種材料の組合せは、共振を防止するという点でも好ましい。そしてダイカスト枠の小さな空洞にも、前述のアイアン・グレインがつめ込まれ、共振の防止はほとんど完璧といえる。
 取付枠は、大・小二種類あるが、先述したアーム・リモートコントロールのメカニズムは、小型のほうには組込めないように思う。
 この枠は、2本のビスでフローティング・シャーシに締めつけて固定するが、かなり大幅に動かすことができて、オーバーハングの調整は容易だ。ただ、ロングアームは寸法的に取付け不可能だ。アーム引出コードは、ダイカスト枠のスカート部分の切込みから引出すだけで、この辺の処理は、仕方ないとはいえ、スマートとはいい難い。
 本体とは別に、下に敷く木製のベースと、4本のサスペンションを利用して上に乗せるアクリルの蓋が付属してくる。本体の重量は90kgと公表されているから、付属品を加えると100kgを越すこともありうるわけで、この重量は、こんにちのオーディオ機器の中でも最も重く、設置場所には十二分の配慮が必要だと思う。支持枠の上部の大きなつまみを廻転させて水平どの調整はできる(水準器を内蔵している)が、土台が十分に水平を保っていないと、本体が重いだけになかなか水平度を出しにくい。ただ、優秀な懸架機構のおかげで、ハウリングの心配は殆どない。
 なお、もしも好運にこのサンプルをテストする機会のある場合、あるいはもっと好運に、この高価かつ豪華なマシーンを購入された場合、組立ての後、運転前に必ずチェックすべきことが二つある。
 第一は、ターンテーブル軸受に付属のオイルを十分に注入すること。シャフトを完全に収めた際にこぼれない範囲で、シャフトをオイル浸けにするというのが、EMT/トーレンスの基本である。少なくとも、このサンプルの到着の時点では、オイルの分量について、正確な指示が何もついてこない。私たちは、軸受周辺にティッシュペーパーを多量に敷いてオイルを多目に入れて、こぼれた分をあとからよく拭きとる、という原始的方法をとった。
 第二に、そのあとで、駆動モーターシャフト、ベルトの内外周それにターンテーブル周囲を、無水アルコールでていねいに清掃して、付着している汚れ、ことに油分を完全に拭いとること。これを忘れると、ベルトの寿命も縮めるし、廻転も不安定になりやすい。
 以上は、テストの際にとくに気がついた点であった。
 なにしろ、たいへんな製品が出てきたものだ、というのが、試聴し終っての第一の感想だった。すごい可能性、すごい音質。そしてその偉容。
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。

ロジャース PM510

瀬川冬樹

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 イギリス・ロジャースから、新しく、PM510(ファイヴ・テン)という、中型モニタースピーカーが発売された。すでに入荷しているLS5/8(BBCモニター)から、パワーアンプを除き、かわりにLCネットワークを組み込んだモデルである。したがって、一般的にはこちらのほうが扱いやすい。そして、LS5/8が、その後の値上りで一台99万円という高値になってしまったのに対して、PM510は一台44万円と、かなり割安になっている。ただし、音質には微妙な違いがあり、このスピーカーの音を好きな人にとっては、その微妙な違いは、どちらをとるか、大きな難問になるかもしれない。が、そのことはあとでもっと詳しくふれることにする。
 近年、スピーカーの特性を格段に向上する技術が進んで、比較的小型ローコストのスピーカーでも、相当に良い音を聴けるようになったことは喜ばしいが、反面、こんにちの技術の限界に挑むような製品が、アメリカのアンプやスピーカーにはいくつかみられるのに対して、イギリスのスピーカーに関するかぎりたとえばKEFのs♯104やスペンドールのBCIIなどの名作からもう少し上にゆきたいと思っても、せいぜい、KEFで105どまり、スペンドールでもBCIIIより上がない、といった状況が永らく続いてきて、イギリスの音の愛好家を失望させてきた。セレッションのデドハムや、ヴァイタヴォックスのCN191といった名器はあるにしても、KEFやスペンドールとは、その目指す世界があまりにも違いすぎる。
 そうした背景の中で誕生したロジャースのPM510は、近ごろちょっと手ごたえのあるイギリスのスピーカーの、待望久しい登場、といえそうだ。
 PM510は、ロジャースの新製品という形をとってはいるが、もともとはチャートウェル社の設計で、型番をPM450と称していた。これにパワーアンプ(高・低を分割した2チャンネル=バイアンプ)を組み込んだのがPM450Eで、BBCモニター仕様のLS5/8と同じものであった。
 BBCモニターLS5/8は、チャートウェル・ブランドで少量入荷した製品は、本誌1979年冬号(49号)の194〜195ページにも紹介したが、最初のモデルでは、パワーアンプはエンクロージュアの下側の専用スペースに収容されている。しかしロジャースで製造するようになってからのLS5/8は、アンプが外附式になり、その分だけエンクロージュアの寸法は小さくなった。むろん実効内容積は変化していない。ただ、前面のグリルは、型押ししたフォーム・プラスチックから、平織りのサランネットになり、両側面の把手の位置が少し下にさがるなど、小さな変更箇所がみられる。そして専用のクロームメッキのスタンドが別売で供給される。
 このLS5/8から、アンプをとり除き、エンクロージュア内部にLCネットワークを組み込んで一般仕様としたのが、ロジャースのPM510だ。したがって、エンクロージュアの外観も、使用ユニットも、専用スタンドも全く共通だ。細かいことをいえば、トゥイーター・レベル調整用のタッピングボードがなく、レベルは一切調整できない。入力はキャノンプラグ。したがって信頼性は高い。外装はチークで、良質の木材が選ばれ、仕上げはなかなか美しい。
 PM510は、本誌試聴室と自宅との2ヵ所で聴くことができた。
 全体の印象を大掴みにいうと、音の傾向はスペンドールBCIIのようなタイプ。それをグンと格上げして品位とスケールを増した音、と感じられる。BCIIというたとえでまず想像がつくように、このスピーカーは、音をあまり引緊めない。たとえばJBLのモニターや、国産一般の、概して音をピシッと引緊めて、音像をシャープに、音の輪郭誌を鮮明に、隅から隅まで明らかにしてゆく最近の多くの作り方に馴染んだ耳には、最初緊りがないように(とくに低音が)きこえるかもしれない。正直のところ、私自身もこのところずっと、JBL♯4343の系統の音、それもマーク・レヴィンソン等でドライヴして、DL303やMC30を組み合わせた、クリアーでシャープな音に少々馴染みすぎていて、しばらくのあいだ、この音にピントを合わせるのにとまどった。
 しかしこの音が、いわゆる〝異色〟などでは少しもない証拠に、聴きどころのピントが合うにつれて、聴き手は次第に引き込まれてゆき、ふと気づくと、もう夢中になってあとからあとから、レコードをかけかえている自分に気づかされる。何時間聴き続けても、少しも疲れない。聴き手の耳を少しでも刺激するような成分が全く含まれないかのような、おそろしく柔らかい響き。上質の響き。
 同じモニターといっても、JBLの音は、楽器の音にどこまでも近接し肉迫してゆく。ときに頭を楽器の中に突込んでしまったかのような、直接的な音の鮮明さ。ヴェールをどこまでも剥いでゆき、音を裸にしてしまう。それに対してPM510の音は、常に、音源から一定の距離を保つ。いいかえれば、上質のホールで演奏される音楽を、程よい席で鑑賞する感じ。そこにとうぜん、距離ばかりでなく、空間のひろがりや奥行が共に感じられる。そうした感じは、いうまでもなく、クラシックの音楽に、絶対に有利な鳴り方だ。ことに弦の何という柔らかな艶──。
 たまたま、自宅に、LS5/8とPM510を借りることができたので、2台並べて(ただし、試聴機は常に同じ位置になるように、そのたびに置き換えて)聴きくらべた。LS5/8のほうが、PM510よりもキリッと引緊って、やや細身になり、510よりも辛口の音にきこえる。それは、バイアンプ・ドライヴでLCネットワークが挿入されないせいでもあるだろうが、しかし、ドライヴ・アンプの♯405の音の性格ともいえる。それならPM510をQUAD♯405で鳴らしてみればよいのだが、残念ながら用意できなかった。手もとにあった内外のセパレートアンプ何機種かを試みているうちに、ふと、しばらく鳴らしていなかったスチューダーA68ならどうだろうか、と気づいた。これはうまくいった。アメリカ系のアンプ、あるいは国産のアンプよりも、はるかに、PM510の世界を生かして、音が立体的になり、粒立ちがよくなっている。そうしてもなお、LS5/8のほうが音が引緊ってきこえる。ただ、オーケストラのフォルティシモのところで、PM510のほうが歪感(というより音の混濁感)が少ない。これはQUAD♯405の音の限界かもしれない。
 いずれにせよ、LS5/8もPM510も、JBL系と比較するとはるかに甘口でかつ豊満美女的だ。音像の定位も、決して、飛び抜けてシャープというわけではない。たとえばKEF105/IIのようなピンポイント的にではなく、音のまわりに光芒がにじんでいるような、茫洋とした印象を与える。またそれだから逆に、音ぜんたいがふわっと溶け合うような雰囲気が生れるのかもしれない。
 そういう音だから、たとえばピアノ、さらには打楽器が、目の前で演奏されるような峻烈な音は期待できない。その点は、やはりJBLのお家芸だろう。それにしてもこの柔らかい響きの波に身をゆだねていると、いつのまにか私たちは、JBL+マーク・レヴィンソン系の、音をどこまでも裸にしながら細部に光をあてていくような音の鳴らし方に、少しばかり馴れすぎてしまっていたのではないか、という気持にさえ、なってくる。いや、だからといって私は、JBLのそういう音を嫌いではないどころか、PM510の世界にしばらく身を置いていると、JBLの音に、ものすごくあこがれてくる。しかし反面、一旦、PM510の世界に身を置いてみると、薄いヴェールを被ったこの美の世界を、ひとつの対極として大切にしなくてはなるまい、とも思う。
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
 同じイギリスのモニター系スピーカーには、前述のようにこれ以前には、KEFの105/IIと、スペンドールBCIIIがあった。それらとの比較をひと言でいえば、KEFは謹厳な音の分析者。BCIIIはKEFほど謹厳ではないが枯淡の境地というか、淡々とした響き。それに対してPM510は、血の気も色気もたっぷりの、モニター系としてはやや例外的な享楽派とでもいえようか。その意味ではアメリカUREIの方向を、イギリス人的に作ったらこうなった、とでもいえそうだ。こういう音を作る人間は、相当に色気のある享楽的な男に違いない、とにらんだ。たまたま、輸入元オーデックス・ジャパンの山田氏が、ロジャースの技術部長のリチャード・ロスという男の写真のコピーをみせてくれた。眉毛の濃い、鼻ひげをたくわえた、いかにも好き者そうな目つきの、まるでイタリア人のような風貌の男で、ほら、やっぱりそうだろう、と大笑いしてしまった。KEFのレイモンド・クックの学者肌のタイプと、まさに正反対で、結局、作る人間のタイプが音にもあらわれてくる。実際、チャートウェルでステヴィングスの作っていたときの音のほうが、もう少しキリリと引緊っていた。やはり二人の人間の性格の差が、音にあらわれるということが興味深い。
 ひとつだけ、補足しておかなくてはならないことがある。PM510はいうまでもなく専用スタンド(または相当の高さの台)に載せることはむろんだが、左右に十分にひろげて、なおかつ、スピーカーの背面および両サイドに、十分のスペースをとる必要がある。これはイギリス系の新しいモニタースピーカーを生かす場合の原則である。