Daily Archives: 1973年5月20日

サンスイ AU-9500

岩崎千明

スイングジャーナル 6月号(1973年5月発行)
サンスイ広告「岩崎千明のマニアノートより ブラックストンの重いパイプ」より

 12月も押しつまったぎりぎりのある午後のSJ試聴室に、2月号のヒアリングに来ていたオレの前に、むくつけき、という形容がぴったりのニグロの大男が、児山編集長に伴われて、のっそりと入ってきた。
「ミスター、アンソニー・ブラックストン!」児山さんの紹介の言葉がまったく信じられなかったが、まちがいなく、写真で見知った顔と、眼前のひとなつこく輝く眼とが一致した。ずっしりと、重く、すっぽりと包まれてしまうほどの固い握手に、昔、エルビンとかわしたときの握手と似た熱い血を、笑顔とうらはらに皮膚をつらぬいて感じとった。
 ブラックストンは、このときもすごく大きなボールの、いかにも一見ハンドクラフトめいたパイプを右側に傾けて、まわり中、ひげだらけの口にくわえていた。
 あとで編集F君の話によると「あんなでかい、重いパイプをくわえていて、重くないかと聞いたら、パイプは重いほどいいのだ、いかにもパイプをくわえてるという気がするから、といってたよ」とか。
 一般の通説では、パイプは口にくわえても負担にならないほうがよい。だから軽ければ軽いほど良いパイプだ、というから、この通念とは逆なことをブラックストンはいったわけだ。
 最近、ジムニーやホンダ・ステップバンなど小さいくるまに乗って、都内に出かけることが多く、そのとき、ポケットの中がごちゃごちゃしない理由もあって、パイプはコノウイッチのカナディアンのサンドブラストを持って出ることが多い。手元にあるパイプのうちで、これが一番軽いことも、それに手をのばすことが多い理由である。パイプをくわえるという意識が自分自身に対してもっとも目立たないのが気に入るのだ。しかし、ブラックストンのように、「いかにもパイプをくわえているとういう気になれる」のもパイプのひとつの大きな存在価値であろう。ブラックストンのパイプは、何の銘柄であるかは知らないが黒く、大きく、いかにもずっしりと重そうで、彼の吹くアルトのサウンドをそのままに表わしていた。
 黒く、重くズッシリと、といえば、サンスイの作るアンプもすべて、この上なく黒く重くズッシリとしている。AU9500などは同価格の国産アンプにくらペて50%以上も重く、大きい。これを持つものは、おそらく、高性能アンプを手元に置いたという実感を、いや応なしにずっしりと味わえるだろう。パワー・ギャランティーも、ひずみ0・1%で全音声帯城をいっぱいにカバー、という国際水準でもトップレベルの厳格な規格仕様だ。
 トランスの重量だけでも8キロ余り。全体で23・3キロ。ヒート・シンカーはアルミの押出し成型で特注。ツマミはダイキャストのムク。シャーシーは、何かドイツの車を思わせる厚さ。すべてが凝り性向きだ。色んな意味で「重み」を感じさせるアンプである。

マイクロ

マイクロの広告
(スイングジャーナル 1973年6月号掲載)

Micro

ビクター JA-S5

岩崎千明

スイングジャーナル 6月号(1973年5月発行)
「SJ選定新製品」より

 小さいテリア・ニッパーが耳を傾けたあの可愛い姿で、じっと聴き惚れるにふさわしい、秀れた音のアンプが日本ビクターの手により実用性高い形で、やっと実現した。JA−S5である。
 すでに6ヶ月前、ビクターの意欲作、高級大出力アンプJA−S9がSJ選定品としてこのページに登場するにふさわしい内容をもって、市場に出た。当時、オーディオ・フェアの直後という製品の最も多い時期であったのと、9万円という当時のレベルからして高価格製品ということも理由になって、惜しくも登場の期を逸したのであるが、その賀の高さは昨年後半から今年上四半期に至る数多いアンプ製品群の中でもベスト・スリーを下るまい。
 その密度高く、迫力をみなぎらせたハイパワー出力からたたき出されるサウンドは、楽器をむき出しにしたジャズ再生の要求上限をもかるくいなすほどに底力を感じさせ、それまでのビクター・トーンとはうって変って私を驚かし、喜こばせ、とりこにしてしまったほどであった。
 しかしそのJA−S9の9万円という価格はだれにでも勧められるというものではない。いくらビクターで自慢の7ポジション・トーン・コントロールSEAがついているからといっても、また音色判定を容易にするピンク・ノイズ発生回路を内蔵しているとしても、やはり9万円はアマチュアの懐には負担なのだ。
 前後して出たSX3の評判がその後、急激にエスカレートすると共に、JA−S9の方はメーカーの思惑とは逆にその影が薄くなってしまうほどであった。おそらくビクターにしてみれば、文字通り嬉しいやら、苦しいやらであったろう。しかしSX3の近来まれなほどの成功が、JA−S5の門出をうながす結果となったのは、不幸を華に転ずるの例えに似よう。
 SX3は大めしぐらい──ハイパワー・アンプでないとせっかくのサウンドが活きてこない──という多くの声が、ビクターの普及価格の高性能アンプの市場進出を大きく促すことになったわけである。申しそえるとJA−S9のもう一段下のランクにJA−S7があるが、これとて7万円だ。7万円というレベルは、市販アンプ群の最も密度の高いところで、競争製品は多く、それぞれ濃い内容を誇っており、JA−S7はそれにくらべて特筆するほど良いとはいい難い。つまりビクターはSX3が売れれば売れるほど、それをドライブすべきアンプに他社製品をいざなってしまうという矛盾をこの数ヶ月味わうことになってしまった。
 そしてやっと待ちに待ったJA−S5が登場したのである。ビクターのSX3をフルに活かすにふきわしく、むろんこのクラスの市場製品中でも最も高い品質を秘めて。
 JA−S5はひとつ上のランクのJA−S7ではなく、なんとそれを飛び越して、JA−S9のレベルにまで内容を高めんと、無謀ともいえる企画性が、その内容の基本となっている。
 だからメーカー側もいう通り、パワー・トランスはJA−S9のそれを源として設計されている。最大出力も2万円高JA−S7と肩を並べるほどだし、すべてのアクセサリー、その他パネル・デザインなどもJA−S7に準じている。いや、かえってJA−S5の内容が優れている点が多い。例えば入力切換スイッチは、リア・パネルに近いイコライザーのプリント板にスイッチを取りつけて長い延長シャフトを前面パネルに出すなど充分高い注意が払われている。2万円も安くてそんなばかなことができようはずがないと思うが、その意表外な企画を実現するところはやはり、日本の伝統的ステレオ・メーカー、日本ビクターならではなのだろう。
 つまりべらぼうな量産性と、そのための体制がガッチリとでき上っているからに違いないのだ。
 JA−S5を試聴室のマッキントッシュのハイパワー・アンプと切換えてみても、JA−S5においてかえって音の立上りなどきれいすぎるほどに感じられるのは私だけであろうか。
 ポール・ブレイの新しいソロ・アルバムにおける、タッチの「みずみずしさ」は、まさにぬれて輝くかのようで一瞬「ドキッ」としてしまうものがある。

サンスイ SP-95

菅野沖彦

スイングジャーナル 6月号(1973年5月発行)
「SJ選定新製品」より

 山水が久々に放ったヒット商品! というのが私の率直な感想である。このSP95、このところ数年間、ただの一度も、一機種も、私の耳にぴたりときたことのなかった山水のスピーカー・システム群とはちがって、一聴して肌合いのよい共感をもって音楽を聴かせてくれたのである。このところ、一段と音らしい音を聴かせてくれるようになった国産のスピーカー・システムの中にあって、これは一際光彩を放つものではないだろうか。私はスピーカーというオーディオ機器のパーツの中で最も厄介視されているこのパーツが大好きである。たしかに、純粋に技術的に見れば、これほど進歩の遅いものもないだろうし、生産性の悪いものもなかろう。しかし、逆にいえば、これほど素晴らしいものもない。第一、スピーカーというものは、それ自体、オーディオそのものであり、録音再生音楽の全ての性格を決定づけるものであり、それはあたかも、映画のスタリーンのごとく、それなくしては、すべては存在しないのである。スピーカーの存在が、つまりはオーディオであり、スピーカーの性格(個々のスピーカーのそれではない)に、全ての録音再生のプロセスは支配されているといっても過言ではないと思うのである。
 オーディオの世界、レコード音楽の世界はスピーカーの世界である。したがって、スピーカーというものが変換器として、いろいろ問題をもっていることをほじくり出してネガティプに見るという姿勢を私はあまり好まない。問題はあくまで解析して、よりよいスピーカーを作るべきだと思うけれど、一方、あのシンプルな振動板(一見そう見えるだけで実は極めて複雑怪奇だが……)から、あれだけ多彩でそれらしい音の出てくるスピーカーの素晴しさを認めて、スピーカー側からアンフやプレイヤーを見るという姿勢も大切であるように思うのだ。再び、映画のメカニズムに例えてみるならば、スピーカーの歪とかF持とかいったものは、映画のスクリーンのサイズや形、色、平面性といったようなものであって、スクリーンのサイズや形を無視して映画の撮影はできないし、スクリーンそのものが色がついていたら、フィルムの色は忠実に再現できないのと同じようなものではないか。スクリーンの色を真白にすべきなのと同じように、スピーカーの歪は取りのぞくべきであるし、フィルムの縦横の比率と異ったスクリーンで画面が切れるようなことがスピーカーにはあってはならない。つまり、プログラムソースに収録されている帯域のすべてが再生され得るF特を持つべきだ。映写された画面の色が光源によって大きく変るのと同じように、録音再生の系の中でスピーカー以外に起因するファクターも無視できない。しかし、そんなことよりもっと大切なことは、映画が、スクリーンという虚像の投影の場を明確に肯定しているということの認識である。スピーカーの歪を取りのぞくことはスクリーンを真白にすることより難しかろう。しかし、スクリーンの存在は、少くとも、本物か偽物かという感覚の対象としては、それがどんなに大きくワイドになろうとも、スピーカーに対するよりはるかな実感をもって偽物という認識がもたれている。いや、偽物という表現は適当ではない。ちがうもの、独自のもの、という認識というべきだろう。オーディオにおけるスピーカーへの認識も、そろそろ、そうした次元に立たなければならない。スピーカーとして要求されるものはなにかということをもっと考えてみる必要がある。それは、忠実な変換器という物理的ファクターの上に立ちながら、しかも、美しい音を聴かせてくれるいいスピーカーではなかろうか。SP95に、私はこの辺の成長した考え方を感じた。しかも、それを常に価格という制約の中でまとめなければならない商品としてのバランスのよさも納得のいくものだった。
 山水としては初めての密閉型エンクロージュアに納められた25cmウーハーとソフト・ドーム・トゥイーターの2ウェイが、このサイズとしては最高の豊かさと甘美な味わいをもって鳴る。プレゼンス、定位、音像の切れ込みも満足のいくもので、広いジャンルの音楽にバランスのよい再生音を聴かせてくれた。このクラスの密閉型ブックシェルフとしては能率も実用的に充分な高さで使いよい。