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「リアルサウンド・パワーアンプを聴いて 上杉佳郎の音」

黒田恭一
ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「マイ・ハンディクラフト リアルサウンド・パワーアンプをつくる」より

 力士は、足がみじかい方がいい。足が長いと、腰が高くなって、安定をかくからだ。そんなはなしを、かつて、きいたことがある。本当かどうかは知らぬが、さもありなんと思える。上杉さんのつくったパワーアンプの音をきかせてもらって、そのはなしを思いだした。なにもそれは、上杉さんがおすもうさん顔まけの立派な体躯の持主だからではない。そのアンプのきかせてくれた音が、腰の低い、あぶなげのなさを特徴としていたからである。
 それはあきらかに、触覚をひくひくさせたよう音ではなかった。しかしだからといって、鈍感な音だったわけではない。それは充分に敏感だった。ただ、そこに多分、上杉佳郎という音に対して真摯な姿勢をたもちつづける男のおくゆかしさが示されていたというべきだろう。
 高い方の音は、むしろあたたかさを特徴としながら、それでいて妙なねばりをそぎおとしていた。むしろそれは、肉づきのいい音だったというべきだろうが、それをききてに意識させなかったところによさがあった。上の方ののびは、かならずしも極端にのびているとはいいがたかったが、下の方のおさえがしっかりしているために、いとも自然に感じられた。そこに神経質さは、微塵も感じられなかった。
 座る人間に対しての優しいおもいやりによってつくられたにちがいない、すこぶる座り心地のいい大きな椅子に腰かけた時の、あのよろこびが、そこにはあった。ききてをして、そこにいつまでも座っていたいと思わせるような音だった。

テクニクス SB-007

黒田恭一

ジャズランド 8月号(1976年7月発行)
「音と音楽・音楽と音──ピストルを持たない007」より

 小さい方がいい。小さい方が、おおむね、美しい。アンプにしても、プレーヤーにしても、ましてカセットデッキにおいておやだ。タバコの箱ぐらいのスピーカーがあればいいのに──といって、笑われたことがある。笑われながら、釈然としなかった。今のところは、やはりどうしても、ゆったりとした、底力のある低音がききたかったら、俗にフロア型といわれるどでかいスピーカーが必要のようだ。スピーカーの原理から説明されれば、なるほどと納得せぎるをえない。しかし、不可能を可能にするのが技術だろうなどと、にくまれ口のひとつもたたいてみたくをる。
 大きい方が、立派にみえるからいいというのは、なんとなく、さもしい。やけに図体ばかり大きい、そのくせにのぞいてみると中がすかすかのアンプなどをみると、音をきく前から、さむざむとした気特になってしまう。その種の手合が、これで結構多いから、困る。そしてメーカーは、ふたことめには、「ユーザーのニーズ」などという。もし柄を大きくしてもらうことが、本当にユーザーのニーズなら、そのユーザーの根性は、なんともさもしい。
 本当にそんな、メーカーのいう「ユーザー」がいるのかと、思う。そこでいわれている「ユーザー」とは、所詮、メーカーが、ユーザーとはこんなものさと思った、その「ユーザー」ではないのか。そこには、一種の、たかくくりの精神が、ちらつく。そういうメーカーが悲しい。そんな風に甘くみられたユーザーも悲しい。
 マニア訪問とか、あるいはオーディオ装置のある部屋とかいったページが、オーディオ雑誌等には、かならずといっていいほどある。そして、いわゆる名器といわれるアンプやプレーヤーがみがきあげられて棚に並んでいる写真がのっている。しかもごていねいに、カラーであることさえすくなくない。ぼくもこれまでに、そういう写真を何度か、とられたことがある。恥しかった。それに、なんとなく、無駄をことをしているように思えてしかたがなかった。その写真をうつす人の腕が、いかにすぐれていても、この部屋でなっている音はうつせないのだから、うつされていて、申しわけなかった。
 その雑誌の編集者だって、本当は、音そのものをうつしたかったのだろうが、それができないので、やむをえず、再生装置というものとか、それをつかっている人間といういきものをうつさざるをえなかったのだろう。音はみえないので、あくまでもやむをえずの処置だったにちがいない。
 たのしもうとしているのが音楽であるかぎり、目は、あくまでも二義的を感覚器官でしかない。肝心なのは耳だ。だとすれば、オーディオ機器は、大きくて目ざわりなのより、小さくて目だたない方がいい。小さいアンプやカセットデッキが美しく感じられるのと、そのこととは、関係があるのではないか。
 小さなスピーカーをきかせてもらった。試作品なので、市販はされていないということだった。そういう特殊な機器について書くのは、なんとなく気がひける。自分だけきけたので、いいきになって、自慢ばなしをしているように思われるのではないかと思うからだ。しかし、その小さくて、粋な姿が気に入ったので、そのスピーカーのことを書いてみることにした。
 テクニクスのスピーカーで、俗称は007というのだそうだ。例の、テクニクス7の、ミニアチュアだ。すべての部分が10分の6の大きさになっている。むろん、あの特徴的な頭の部分もついている。
 普段つかっているJBLのスピーカーの横において、コードをつなぎ、ならしてみた。その姿にふさわしい、かわいい音がした。かわいい音──といういい方には、多分、説明が必要だろう。
 こういう時に、かっこうをつけてもしょうがない、正直に書こう。ターンテーブルの上にのっていたのは、山崎ハコの二枚目のアルバム「綱渡り」だった。すでにそのレコードは、JBLのスピーカーで、一度ならずきいていたから、どんな音がするかは、知っていた。必然的に、あれとこれとでは──といったきき方になってしまった。ちびの007と大きなJBL四三二〇とでは、勝負になるはずもない。007の表面面積は、ざっとみて四三二〇のほぼ三分の一といったところだ。
 そのうちに、段々、007の音になれてきた。それと同時に、山崎ハコの歌をなにかとても懐しい歌をきいているようを気持できいている自分に、気づいた。ぼくは、なんとなく、くつろいでいた。部屋にはひどくインティメイトな雰囲気があった。しんみりときいた。
 音楽の途中で音量つまみをちょこちょこうごかすのが嫌いだ。よく、レコードをかけてしまってから、途中で、大きくしたり、小さくしたりする人がいるが、あれはどうなんだろう、あまり好ましいこととは思えない。よほ大きすぎた時とか、逆に小さすぎた時ならともかく、よほどのことがないと、ぼくは音量のつまみを途中でいじらない。このレコードならこの程度といったことは、あらかじめわかっている。昨日今日レコードをききはじめたわけではないからそのぐらいのことはわかる。
 その、007をはじめてきいた時も、そうだった。その直前にきいたからこそ、山崎ハコのレコードが、ターンテーブルの上にのっていたわけで、そのまま、007できいたことになる。その間に、音量つまみには、一切手をふれていなかった。
 007は、JBL四三二〇より、小型だから当然というべきか、能率がわるい。この辺がちょっと困ったところで、小さなスピーカーをつかおうと思えば、ハイパワーの、したがって大きいアンプをつかわなければならなくなる。具体的にいうと、パイオニアの、C二一+M二二のくみあわせなど、値段を考えると、本当にすてきなアンプだと思うけれど、つかっているスピーカーがフロアタイプならいいが、ブックシェルフだと、30W+30Wということで、充分な結果は得られないのではないか。小さなスピーカーをつかおうとすれば、大きなアンプが必要になり、大きなスピーカーをつかっていればアンプは小さくてもいいというのは、どうしようもないパラドックスのようだ。
 パワーをいれたら、007は、その愛らしい姿に似あわず、張りのある音をだしたが、それはどうやら彼の(007だから、やはり、彼というべきだろう)本領ではないようだった。
 自分のきく位置を、普段より前に、つまりスピーカーの近くにしてみた。音がかなりなまなましくなった。007の横腹は、ローズウッドというのか、小し赤っぽい木でできている。ともかく、その木の材質は、ぼくのつかっている机と同じで、そのことから思いついて、ぼくの机の幅は一七五センチあるが、机の両すみにおいてみた。スピーカーの横腹の材質と机のそれとが同じだから違和感は、まったくなかった。それに、音も、さらにチャーミングなものとをった。
 結局、その夜は、レコードをあれこれとりかえながら、机にむかって、007をきいてすごした。楽しい夜だった。ごく親しい、気のおけない友だちと、のんぴりすごした後のようをここちよさが、残った。
 しかしぼくは、次の日の朝、机の上の007をおろしてしまった。理由はふたつあった。ひとつは、しごく単純なことだった。仕事をする時、ぼくは机の上にさまざまな資料をひろげてする習慣で、その際、スピーカーがふたつも場所をとっていてはじゃまだったからだ。もうひとつの理由は、少し複雑だった。ごく親しい、気のおけない友だちと、のんびり時をすごす──ことに対しての、不安を感じたからだった。それはむろん、わるいことじゃない。大変に楽しいことというべきだろう。できることなら、くる日もくる日も、そうやってすごしたいと思うほどだ。
 しかしぼくは、同時に、音楽をきくことを、精神の冒険たらしめたいとも思っている。せっかくレコードをきくのだったら、あそび半分にはききたくないと思う気持がある。そう思っているききてにとって、ききてをくつろがせる007の音は、危険きわまりない。この007は、ききてをおびやかさない。ピストルを持たない、つまり凶器をもたない007だ。007に対決すべきスペクターは、けっこうのんびりできてしまう。007は、やはり、安全装置をはずしたピストルの銃口を、こっちにむけていてほしいと思ったりした。
 ぼくは、自分でもあきれるほど、ケチだ。せっかく買ってきたレコードだから、そのレコードに入っている音は全部ききたいと思う。もしそのレコードがライヴレコーディングされたものなら、聴衆のひとりのしわぶきひとつききのがしたくないと思う気持がある。なんのはずみでかポケットからころげおちた十円玉をひろおうとしてタクシーにひかれそうになるのがぼくだとすれば、テクニクス007には、そんなぼくを、お前はなんてケチなんだ、もっとおっとりしていたらどうなんだといさめるところがある。007のいうことは、もっともだと思う。もっともだと思いつつ、腰を丸めて十円玉をおいかける自分が悲しい。そこで気どっていられないところに俺の、俺だけの栄光があるんだなどと、見栄をはったって、誰も相手をしてくれるわけではない。
 プレーヤーやアンプのつんである台には車がついているから、それを机のそばまでひっぱってきて、「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」のうちのあれこれを、つまみぎきした。話はそれるが、その全百枚の「遺産シリーズ」は、きいて本当に勉強になるし、おもしろい。特に、ジェリー・ロール・モートンの巻などは、傑作だ。最近は、朝がはやい。きがついたら、東の空がぼんやりと白くなっていた。結局ぼくは、ピストルを持たない007と、朝まで、レコードをききつづけたことになる。
 山椒は小粒でもぴりりと辛い──という言葉を思いだしたのは、翌日、目をさましてからだった。ききては、いずれにしろ、ぴりりと刺されることを期待しているのではないか。甘やかされると、甘やかされたことを不満に思うようなところが、ききて一般にあるといえるかもしれない。
「山椒」の「ぴりり」が、007にほしいと思った。望みすぎになるのだろうか。たっぶりとした、底力のある低音は、でればそれにこしたことはないが、それは多分、フライ級のボクサーにアリみたいをボクシングをしろということになるだろう。もしそんな音がでてきたら、それはそれですばらしいことにちがいないが、ぼくはその時、007のチャーミングを容姿を、いぶかしみの目で見るにちがいない。
 蜂が尻からチロチロっとだす針のような高音がここからきこえた時、007の前のスペクターは、音楽をよりヴィヴィットにうけとめられるようになるだろう。指でつままれて、蜂は、チロチロと尻から針をだす。針先に夏の太陽が光って美しい。蜂の針は、蜂がいきていることの、なによりのあかしだろう。そういうきらめき、かがやき、生気がほしい。小柄な女の子がきらっと瞳を光らせると、とってもチャーミングだ。なのに、この007は、なんとなく伏目がち。
 三〇畳も四〇畳もある広い部屋に住んでいれば、どうということもないのだろうが、そうではないものだから、山のようなスピーカー、岩のようをアンプを、敬遠したくなる。そのためのスペースがあるなら、レコードや本をおいておきたい。おそらくこういう考え方は、おそらく非オーディオ・マニア的発想ということになるだろうが、ぼくはそう思う。当然、小さい方が好ましいということになる。しかしその一方で、再生装置は道具でもあるから、性能ということが問題になる。小さければ小さいほどいいといいきれないところにむずかしさがある。それともうひとつ、使い勝手のことも考えないといけない。いろいろのことを考えあわせないといけないからむずかしい。
 今、普段は、壁につけた大きをスピーカーできき、夜中になって、よほど大音量でききたくなったらヘッドフォンをつかうという方法をとっているが、007を机の上にのせてつかって気がついたことがある。ヘッドフォンとスピーカーの中間のもの、つまりごく近くできいてはえるもの、たとえば面とむかってきくからフェイスフォンとでもいうようなもの、そんなものは考えられないのだろうか。むろんそのフェイスフォンにも、蜂の針のチロチロがほしい。
 どうも今のオーディオ機器全般は、こうあるべきものというところにとどまっていて、つかいてに対しての歩みよりにかけるところがあるように思えてならない。

「アレグロ・エネルジーコ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

上杉佳郎様

 今日はまことに、痛快でした。まず、その痛快な時をすごさせていただいたことに、お礼を申しあげたいと思います。痛快さは、当然のことに、上杉さんのきかせてくださった音、ひいては上杉さんの人柄によっています。
 三十インチ・ウーファーが横に四本並んだところは、壮観でした。それを目のあたりにしてびっくりしたはずみに、ぼくは思わず、口ばしってしまいました、なんでこんな馬鹿げたことをしたんですか。そのぼくの失礼な質問に対しての上杉さんのこたえがまた、なかなか痛快で、ぼくをひどくよろこばせました。上杉さんは、こうおっしゃいましたね──オーディオというのは趣味のものだから、こういう馬鹿げたことをする人間がひとりぐらいいてもいいと思ったんだ。
 おっしゃることに、ぼくも、まったく同感で、わが意をえたりと思ったりしました。オーディオについて、とってつけたようにもっともらしく、ことさらしかつめらしく、そして妙に精神主義的に考えることに、ぼくは,反撥を感じる方ですから、上杉さんが敢て「馬鹿げたこと」とおっしゃったことが、よくわかりました。そう敢ておっしゃりながら、しかし上杉さんが、いい音、つまり上杉さんの求める音を出すことに、大変に真剣であり、誰にもまけないぐらい真面目だということが、あきらかでした。いわずもがなのことをいうことになるかもしれませんが、上杉さんは、そういう「馬鹿げたこと」をするほど真剣だということになるでしょう。
 したがってぼくの感じた痛快さは、その真剣さ、一途さゆえのものといえるようです。実に、痛快でした。
 神戸っ子は、相手をせいいっぱいもてなす、つまりサーヴィス精神にとんでいると、よくいわれます。いかにも神戸っ子らしく、上杉さんは、あなたがたがせっかく東京からくるというもので、それに間にあわせようと思って、これをつくったんだと、巨大な、まさに巨大なスピーカーシステムを指さされておっしゃいました。当然、うかがった人間としても、その上杉さんの気持がわからぬではなく、食いしん坊が皿に山もりにつまれた饅頭を出されたようなもので、たらふくごちそうになりました。
 ただ、そのスピーカーを設置されてから充分な時間がなかったためでしょう、きかせていただいた音に、幾分まとまりのなさを感じたりもいたしましたが、上杉さんが求められたにちがいない、こせついたところのないひろびろとした音を、ぼくはこの耳でたしかめることができました。テレビの人気番組のタイトル風に申しあげれば、ドンとやってみようといった感じでならさた音で、そための気風のよさがあったように思われました。それしてそれは、神戸っ子としての上杉さんにふさわしいものといっていいものだったようです。
 ぼくにとってひとつだけ残念だったのは、この機会に、上杉さんのつくられた、いわゆるウエスギ・アンプがどんなものか、きかせていただきたいと思っていたのに、たしかにウエスギ・アンプでならしてはくださったのですが、スピーカーが、すくなくともぼくにとってあまりに異色のものだったので、その特徴を見さだめられなかったことです。またの機会に、あらためて、きかせていただきたく思います。
 ヴォルフのメーリケ歌曲集のレコードをかけて下さったのには、驚きました。それもまた、ぼくがヴォルフの歌曲が好きだと見ぬいての、神戸っ子ならではのもてなしだったでしょうか。そのレコードでの、ピアノの、どこにも無理のない、ふっくらした響きは、すてきでした。
 上杉さんは、お目にかかっての印象や、三十インチ・ウーファーを4本もつかってのスピーカーシステムをおつくりになることから、大きなもの、ダイナミックなものを求められていらっしゃるのかと、つい思ってしまいがちですが、一概にそうとはいえないようだということが、さまざまなレコードをきかせていただいているうちに、わかってきました。きかせていたたいた音は、まだ上杉さんのものになりきっていないという印象はのこりましたが、そこで上杉さんがならそうとしていらっしゃるものには、ある種のこまやかさもあったようでした。
 今日は、心からのおもてなし、本当にありがとうございました。ご自愛を祈ります。

一九七六年一月二十七日
黒田恭一

「アレグロ・ブリランテ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

菅野沖彦様

 お宅にうかがう途中で気がついたのですが、菅野さんのお宅におしゃまするのは、ほぼ二十年ぶりといういうことになります。二十年といえば、ふた昔、当時はまだ菅野さんも今のようなお仕事をなさっていなくて、ぼくはまだ学生でした。かつて知人につれられてうかがったお宅が、そうだ、あれは菅野さんのお宅だったんだといった感じで気がついたのは、不思議なことに、比較的最近になってからのことです。その思いだしたいきさつについてはいつかお話しましたね。
 その二十年前にうかがった時にきかせていただいた、バリリをリーダーとする、ウィーンの音楽家たちによるモーツァルトの「ポストホルン」セレナードの、ウエストミンスターのレコードの音が、今も、なまなましく耳の底にのこっているような気がいたします。当時、ぼくもさっそくそのレコードを買い求め、家できいてみましたが、菅野さんのお宅でのような音がでるはずもなく、こういうことを雲泥の差というのかと思ったりいたしました。その時がオーディオというものをあらためて意識した最初の機会だったかもしれません。
 今度もまた、かつての「ポストホルン」セレナードの場合と、いささか質はちがうにしても、きかせていただいた音は、ぼくをうらやましがらせるに充分なものでした。その音は、もしぼくなりに言葉におきかえさせていただくとすれば、豊麗な音ということになるかもしれません。やせほそったところも、ひからびたようなところも、まったくない、いかにも豊かなものと思えました。
 率直に申しあげて、ぼくは、最初のレコードをきかせていただいた時、すでに、ああ、これは菅野さんの音だな、と思いました。すくなくとも、今日、お宅できかせていただいた音と、ぼくが感じている菅野沖彦という華麗なキャラクターとは、もののみごとに一致しているように思われました。菅野さんがお吸いになっていたパイプ・タバコのかおりとか、お部屋の広さゆえでしょうことさら大きくは感じられないグランド・ピアノとか、そういうものがかもしだす気配と、いわゆる俗にいわれるリスニングルーののものというより、やはり立派な応接間のものというべきでしょうが、菅野さんの音とは、なんと見事に一致していたことでしょう。
 菅野さんの、菅野さんならではの、相手の気持を思いはかっての親切さ、言葉をあらためれば、サービス精神というべきでしょうか、そのために、菅野さんは、さまざまな性格のレコードをかけて下さいました。それらの、たとえばバックハウス、ベーム、それにウィーン・フィルハーモニーによるブラームスからポール・モーリアまでのさまざまなレコードのいずれもが、過不足なく豊麗にひびき、それぞれがチャーミングだっことに、正直のところ、ぼくは驚きました。
 と申しますのは、特にスピーカーについていえるようですが、音のキャラクターによってあうスピーカーとそうでないスピーカーがあるということは、しばしばいわれるようですが、お宅できかせていただいた音から判断するかぎり、そういう不都合を、すくなくともぼくは、感じなかったからです。たたいてでた音も、こすってでたお供、豊麗によくひびいていたように思われました。その点でも、きかせていただいた音は、ぼくに羨望の念をいだかせるに充分なものでした。いい音だなと思いました。
 その羨望の念、いい音だなと思う気持は、菅野さんがおのりになっているポルシェを見て、すてきだなと思うのと、ぼくにおいては、やはり似ているところがあります。
 しかしそこがまさに、いかにも菅野さんらしいところといえるのかもしれません。中途半端、不徹底なところが、菅野さんのなさることにはありません。おのりになる自動車、くわえられるパイプ、そして耳にされる音といったことで、ちぐはぐがないことに、あらためて感心しました。それがなかなかできないことだということは、ぼくにもわかります。そのむずかしいことを徹底してなさっているところに菅野さんらしさがあると思います。きかせていただいた音が、まったくそのような音でした。
 帰ってきてから、さっき、お宅できかせていただいたバックハウスのブラームスのレコードを、この部屋でかけてみました。当然のことに、まったくちがう音がしました。音というのはおもしろいものだなと思いました。
 少し前にお身体をこわされ、心配しておりましたが、もうすっかりよろしいとのこと、なによりです。今後もお身体にお気をつけ下さいますよう。

一九七六年一月十三日
黒田恭一

「アダージョ・トランクィロ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

柳沢功力様

 敢てふたつにわければ、外にむかっている音と内にむかっている音とが、あるような気がします。外にむかっている音は、その音をだしている人をだすねてきた人を、両手をひろげ歓迎するということで、人恋しい音ということができるようです。当然のことに、そういうい音は、たとえばベートーヴェンの後期のクヮルテットのような求心的な性格をもった音楽より、同じ室内楽でも、管楽器のアンサンブルによるものなどの方がふさわしいといえるのかもしれません。
 それに反し、内にむかった音は、ひとりで静かにきくことこそこのましいものといえるでしょう。したがってそこできかれる音楽も、そういう音の性格にかなったものとなるのかもしれません。
 今回ぼくは、取材ということで、井上さんや、坂さん、それに編集長の原田さんをはじめとした多勢の方とご一緒におうかがいしましたので、どうしても、雰囲気としておちつかず、それがなにより、残念でした。と申しますのは、今日、柳沢さんにきかせていただいた音は、ひとりで、静かにきくための音──と、ぼくには感じられたからです。どう考えてもそれは、沢山の人がいる部屋できかせていただくのにふさわしい音とは、思えませんでした。
 きっと柳沢さんは、おひとりで、静かに、どちらかといえば騒がしいところのない音楽を、いつもきいていらっしゃるのではないかとも、考えたりいたしました。
 ぼくもむろん、たとえば室内楽をきくような時は、音量をひかえにして、内にむかって沈潜できるようにして、ききます。しかしその一方で、友人がたずねてくれた時に、一緒にたのしくきけるような、先の区分にしたがえば、外にむかった音をも求める気持があり、その点でいささかふんぎりのわるいところがあります。そういうことがあるものですから、柳沢さんの、音づくりの上での徹底ぶりに、感心せざるをえませんでした。その音は、もし言葉にするとすれば、SOUNDS FOR MYSELF とでもいうべきなのかもしれません。
 レコードで音楽をきくのがたのしいのは、ひとりで、好きな時に、その時ききたいと思う音楽を、好きなようにきけることにあると思います。そういうレコードで音楽をきくことのこのましさの一面を、柳沢さんは、徹底して追求していらっしゃるように、ぼくには思えました。
 むろん、そうしたことは、今日、柳沢さんがきかせてくださった音から、ぼくが感じたことです。その音は、トランクィロな(穏やかな、平和な)美しさにみちていたということもできるでしょう。人間的にがさついたところがあるためかとも思いますが、ぼくがこの自分の部屋でふだんきいている音には、そういうところがあまりないので、いささかの驚きをもって、柳沢さんの音をきかせていただきました。
 それにしても、音というのは、不思議なものですね。なんと雄弁に、その音を求めた人を、ものがたることでしょう。むろんお書きになったものは読ませていただいたことがありますが、これまで、これといったことをお話したこともない柳沢さんですが、今日、お宅にうかがい、その音をきかせていただき、そうなのか、柳沢さんという方はこういう方だったのかと思うことができました。あらためて、音というものの不思議さを、思ってみたりいたしました。
 ぼくは戦闘的な人間だから──と、柳沢さんは、ご自身でおっしゃっていましたね。その戦闘的な面の柳沢さんは存じ上げませんが、今日きかせていただいた音から、ぼくはぼくなりに、柳沢さんは、静かな、落着いた美しさに憧れる方ではないかと、勝手に思ったりいたしました。もっとも、ひとりで、静かに、おだやかな美しさを追い求めることができるというのは、本当の強さがあればこそで、だからこそ、「戦闘的な」柳沢さんもありうるのかもしれません。これは、まあ、ぼくの推測でしかありませんが。
 今日は、静かな、柳沢さんの音楽の場に、多勢でおしかけて、ごめいわくをかけたのではないかと、心配しております。
 また機会がありましたら、今度はひとりでおうかがいして、ゆっくり、静かに、柳沢さんの音をきかせていただきたいと思っております。
 どうも今日は、いろいろいありがとうございました。

一九七六年一月十日
黒田恭一

「アレグロ・コン・ブリオ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

岩崎千明様

 ぼくの頭の中での、岩崎さんのイメージは、永遠の少年です。永遠の、青年ではなく、少年です。さらにいわせていただくとすれば、永遠のいたずらっこということになります。その方がぼくのイメージに近いようです。ぼくよりはるかに年上の方をつかまえて、永遠のいたずらっこもないと思いますが、今度はじめてお宅におうかがいして、その印象をますます強めました。
 岩崎さんは,たずねてきた人間の目からかくそうとなさって、おちていた紙くずをひろいあげ、それをどうなさるのかと思ったら、おすわりになっていた椅子の下におしこまれましたね。それは、多分、オトナのすることではなく、少年、それもいたずらっこのしそうなことです。そういう岩崎さんがぼくは大好きなので、これはどうやらファン・レターのようになってしまいそうです。
 パラゴンが、パラゴンらしからぬといっていいのでしょうか、大変に思いきりのいい、さわやかで力のある音をきかせてくれたのに、驚きました。きかせていただいているうちに、仕事でおじゃましたのも忘れて、きこえてくる音楽にのせられてしまいました。
 岩崎さんというと、誰もがまず第一に、大音量できく方というので、ぼくもかつては、その噂で岩崎さんを知りました。でも、不思議ですね、お宅できかせていただいた音は、たしかに尋常の音量ではなかったのですが、すくなくともぼくは、それが大音量だということをまったく意識しませんでした。普段岩崎さんがよく、できるだけ近くでききたい、小さい音もちゃんとききたいとおっしゃる意味が、音をきかせていただいて、なるほどこういうことなのかと納得できました。
 大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。
 オーディオに多少なりとも興味がある人間ならうらやましがらずにいられないような名器が、いささかも仰々しくならずに、本当になにげなく、あっちにもこっちにもおかれてあるのを見て、またぼくは、永遠のいたずらっことしての岩崎さんを考えてしまいました。それというのも、こっちにしたらほしくてしかたがないと思っていた模型機関車やなにやかや沢山持っていて、しかし育ちのよさゆえかそれをことさら見せびらかすようなこともしなかった子供時代の友人のことを思いだしたからです。彼もまさにいたずらっこでしたし、がき大将でした。いたずらっこにはいたずらっこならではのさわやかさがあります。そのさわやかさが岩崎さんのきかせてくださった音にはありました。
 クラシックのレコードをかけてびっくりさせようと思って、買ってはきたんだけど、わざとらしいからやめたよ──、そうおっしゃって笑った岩崎さん笑い顔、あれは、いたずらっこの笑い顔そのものだと思いました。しかし、オーディオのような趣味の世界では、そのいたずらっこの精神こそが大切なんではないかと、かねてからぼくは考えておりましたが、ぼくの考えはまちがいではなかったようだと、あらためて思いました。
 最後に、ひとつだけ、申しあげておきたいことがあります。出して下さったケーキ、大変おいしくいただきましたが、いかにも大きすぎました。音の大きさに比例しての超弩級の大きさでした。さっき、帰ってから、胃薬をのみました。
 今日は、特に寒い日でしたが、永遠の少年の熱気にあてられたためでしょうか、不思議に血がさわいで、身体がほてります。でも、寒い日は、たしか喘息によくないはずです。ぼくの母も喘息持ちなので、その苦しみがわかるため、岩崎さんがせきこまれるとはらはらします。まだまだ寒い日がつづくと思われます。どうぞお身体にお気をつけ下さいますよう。また、岩崎さんの音をきかせていただける機会があればいいなと思っております。

一九七六年一月一二日
黒田恭一

「憧れが響く オーディオ評論家八氏の『音』を聴かせていただいて」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 まず、スピーカーがふたつ、目に入る。アンプやプレーヤーも、どこかにあるにちがいないが、それはこの際、どうでもいい。ふたつのスピーカーを見れば、それだけでもう、その部屋主が音楽をきく人だとわかる。再生装置で汽車の音ばかりをきいている人だっていなくはないだうが、大半の人は、再生装置をレコードで音楽をきくための道具としてつかっているのは事実だがら、その部屋の主が音楽をきく人と見さだめていい。いかなる音楽? しかし、それは、たいして問題ではない──と、一応ここでは、いっておくことにしよう。
 部屋の主はいう、いやあ、この音にかならずしも満足しているわけではないんだよ。訪問者は、なぜだろうといった表情で、部屋の主の顔を見る。たずねられている意味をいちはやく察した部屋の主は、なんとなく音がもうひとつしゃきっとしなくてね、本当ならスピーカーを、今度出た△○×にかえたいと思っているんだけれど、なかなかままならなくてねといい、語尾を、かすかな笑いのうちにとかす。
 訪問者は、了解する。そしてしかる後に、しかし、これで充分いい音じゃないかと、時に本機で、時に社交辞令でいう。訪問者も、いい再生装置を手にいれるには、すくなからぬ出費を覚悟しなければならないことを、すでに知っている。したがって、あの△○×はいいらしいけれど、けっこうな値段だねと、相槌をうつ言葉も、おのずと実感にみちたものとなる。
 再生装置はものだから、当然、それを自分のものとするためには、金がかかる。おおむね、いいものは、高い。会話の様子から、スピーカーの△○×は、かなり高価なものらしい。「ままならない」のは、どうやら、それを手にいれるための金のようだ。スピーカーの△○×とて商品だから、金さえ支払えば、自分のものとなる。そしたいと思いながら「ままならない」不如意を、部屋の主は、暗にいいたかったにちがいない。むろん、多少の礼儀をわきまえている訪問者は、金さえあればいい音がだせるっていうわけでもないだろうなどとは、決していわない。
 つまり、部屋の主が口にしたのは、一種のエクスキューズだ。多少むごいいい方にならざるをえないが、その部屋の主の言葉をくだいていうと、こうなる──ぼくはこの音に満足しているわけではない、すなわちぼくの音に対しての美意識はとうていこの程度の装置では満足できない、そこでさしあたってスピーカーを△○×にかえれば少しはよくなるだろうと思っているが、それを入手するための金が今ない、それだからやむをえずこういう音できいているだけだ、金さえあれば、ぼくの音に対しての美意識、ないしは音に対しての趣味のよさをきみに示せるのに、はなはだ残念だ。
 しかし、本当に、そうか。金さえあれば、すべてが解決するのか。そうは思わない。部屋の主と訪問者の会話では、肝心なことが欠落している。
 再生装置はものだ。ものゆえに、それを入手するための金がかかる。だからすべてが金のせいにされてしまう。とんでもないことだ。いかなるものでも、ものは、つかわれることを、さらにいえば、うまくつかわれることを、待っている。そしてものは、そのつかわれ方で、つかいてである人間を語る。部屋の主が、現在彼の使用中の再生装置をうまくつかっているかどうかは、知らない。ただ、「なんとなく音がもうひとつしゃきっとしなくてね」といっていることから判断すれば、彼はうまくつかっていないのかもしれない。
 うまくつかっていないということは、機械の方にもいたらぬ点があるとしても、つかいてである部屋の主がつかいきれていないということで、だとすればたとえスピーカーが△○×になったとしても、似たような言葉が彼の口からでてくる可能性がある。なぜそういうことがおこるかといえば、すべてを金のせいにしたからだ。たしかにものである再生装置を入手するために金が必要だから、まったく無関係とはいえないが、それがすべてではない。本来、問題にされるべきは、なにをつかうかではなく、どうつかうかだろう。
 しかし、不幸にも、なにをつかっているかは、言葉にしやすい。へえ、きみは△○×をつかっているの、すごいなあ──という会話は、いとも容易で、よく耳にする。しかし、その△○×からどういう音をだしているかは、実際にきいてみないと、わからない。言葉にしにくい。だから、なにをつかっているかだけが問題にされ、どうつかっているか、つまりどういう音をきいているかは、語られない。
 同じ△○×のスピーカーだって、たとえそれ固有の音があるとしても、つかわれる場所がかわれば、そしてつかいてがかわれば、かわる。そのことは、アンプについてだって、カートリッジについてだっていえる。変化の要因は多々ある。ということは、すでにしばしばいわれていることで、あらためていうまでもないようなものだが、だからこそ、そこに、ものをつかうわざが介入するということを、確認のために、敢ていっておきたい。
 先の部屋の主の言葉にいじましさがついてまわったのは、おのれのものをつかうわざを棚にあげて、責任のすべてをものにゆだねたがゆえだった。ききてにとって肝心なのは、再生装置というものではなく、あくまでも音だ。ひとことでいってしまえば、ものである以上、それはつかいてによって、名器にもなれば駄器にもなる。
 オーディオ評論家ときえども、金のわく泉をもっているわけではないから、当然のことに、経済的な制約の内にある。あのアンプがほしいと思いつつ、その制約ゆえに入手できないでいるかもしれず、広いリスニングスペースを求めつつ、はたせないでいるかもしれない。ただ、ものである再生装置をつかうわざについてエクスキューズをいうことは、彼らには許されていない。つまり彼らはそれをあつかうプロだからだ。事実、おたずねした八氏のひとりとして、その種のことを口にした方はいなかった。当然のことながら、先の部屋の主のごときいじましい言葉は、どなたも、おっしゃらなかった。だからといって、ふりかぶって、これこそがわがサウンドなりといった感じでもなく、八氏が八氏とも、淡々とそれぞれの音をきかせて下さった。それが、特に、印象に残った。そこには、プロの、プロならではのさわやかさがあった。
          *
 音をつめることのできる缶詰があればいいのにと思う。ピアニストがそのピアノでならした音は、時と所をへだてたところで、まあ、さまざまな問題があるとしても、レコードと、それを音にする再生装置という重宝な道具があるので、きくことができる。すくなくとも、ホロヴィッツの音とポリーニの音をききわけられる程度の音で、すくなくとも今のレコードは、きかせてくれる。しかしポリーニの音の入っている同じレコードでも、Aという人がならす音とBという人がならす音では、ちがってくる。そのためにことはややこしくなる。
 Aという人の音がどうで、Bという人の音がどうかをいうためには、いきおい言葉にたよらざるをえなくなる。たとえば、Aはポリーニのレコードをやわらかい音できいていた、といったように。やわらかいといったって、その意味するところひろいから、なかなかうまく伝わらない。やわらかさの基準がどこにあるのか、それだってすでに個人差があることだから、正確に伝わると思う方がおかしいのかもしれない。結局は、おおまかな輪郭しか伝わらないような気がするが、それでもできるかぎりのことをしようと、せいいっぱいの努力をする。
 このことは、個々のスピーカーやアンプの音を言葉にする際にもいえるが、ただここでは、ある人間によってならされた音についてという限定内で、はなしをすすめようと思う。
 一枚の写真がある。ポリーニがピアノにむかっている。なにをひいているのかなと思うが、わかるはずもない。写真は音を伝えないからだ。どういう曲のどこをひいているのかさえわからずむろんどんな音がそこでしていたのかさえわからない。ヒントは、その写真を見た人の記憶の中にしかない。多分ポリーニは、この時も、あのような音でひいていたのだろうと、かつて自分が、レコードでだろうとナマでだろうときいたポリーニの音を思いだすだけである。
 もう一枚の写真がある。オーディオ評論家のA氏が椅子にすわっている。彼はレコードをきいているらしい。そばにポリーニのひいたショパンの「前奏曲集」のジャケットがある。かかっているのは、多分、そのレコードだろう。A氏がだしていた音は、四角だったの三角だったのという、しかるべきコメントもそえられている。そのコメントを読もうと読むまいと、A氏の音を推測する手がかりが、そこにある。彼がどういう装置できいているかが記載されているからだ。このカートリッジはああいう音、このアンプはああいう音、このスピーカーはああいう音といったように、記憶をたよりのたし算が、そこでおこなわれる。
 しかもその場合、大変に具合のわるいことに、それぞれの、たとえばスピーカーならスピーカーの、置き場所、ききてに対しての角度、あるいはそれがつかわれる部屋のひろさや性格といったさまざまな要因でかわる変動の幅は、無視される。しかしその変動の幅は、先にのべたように、つかう上でのわざが介入しうるほど、大きい。そうしたことが個々の、つまりスピーカーについても、アンプについても、カートリッジについても、さらにプレーヤーについてさえいえるとなれば、記憶をたよりのたし算の結果から推測した音と、実際になっている音との差は、はなはだ大きなものとなる。
 不幸なことに、雑誌という印刷物にのせられるのは、言葉と写真だけだ。つまり四角にたよったものしか伝えられない。レコードをきいているA氏の写真は、たしかに雑誌にのせることができる。またA氏が現在使用中の再生装置も、写真でなり、文字でなりで、のせることができる。さらにA氏の音をきいた人間の感想も、のせられなくはない。しかし、その音そのものは、音をつめることのできる缶詰でもできないかぎり、伝えることは不可能だ。
 そこで、このカートリッジはああいう音、このアンプはああいう音といった、記憶をたよりのたし算をすることになるが、そのたし算は、人間によってつかわれたときにはじめてものとして機能しはじめるという、もののものならではの特性を無視してのもので、計算ちがいにおちいる危険がある。ものは、本来、それをつかう人間とのかかわりにおいて考えられるべきだろうが、そのたし算は、そこのところをそぎおとして、ものでしかないものにたよりすぎているところに、あぶなっかしさがある。
 このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
 したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
 しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
 ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
 その言葉にそってはなしをすすめるとすれば、彼らの調教の目的をたずねる言葉は、必然的にこうなる──あなたは、そのあなたが調教した馬にまたがって、どこに行こうとしているのですか?
 目的地は、人それぞれで、ちがう。ちがってあたりまえ。同じだったらおかしい。その目的地のことを、ばくぜんと、「いい音」といったりする。「いい音」? なるほど、そういういい方もある。しかし、ある人にとっては「いい音」が、別のある人にとっても「いい音」であるとはかぎらない。絶対的な「いい音」なんて、さしあたって、ないと考えた方がよさそうだ。
 そうなると、「いい音」といういい方が、一定の目的地をいう言葉たりえないことがはっきりする。しかし、馬は、いずれにせよ、のるために調教するのだから、のってどこかにいくのかがわかっていなければならない。馬に、Quo vadis, Domine? とたずねられても、馬に Domine と呼ばれた人間に、こたえようがなくては、やはり困る。
 さて、目的地は、どこか。もう一度、たずねてみる。同じ言葉がかえってくる。「いい音」。「いい音」が、この場合に可能な、唯一の言葉だろう。したがって、どんな「いい音」か、つまり「いい音」といういい方でいいたがっている目的地の固有の名前は、質問者の方でさがさざるをえない。「いい音」とこたえたその回答者の主体とのかかわりあいで、考えなければならない。Aのいう「いい音」と、Bのいう「いい音」では、あきらかにちがう。
 たとえば、Aは大きな音できくことが多く、Bは普段小さな音できいているとすれば、それはすでに、そのふたりの音に対しての嗜好を、あきらかにしている。Aはジャズをきくことが多く、Bはバロックなどの比較的しずかな音楽をきくことを好むとすれば、それもまたそれぞれの音に対しての好みを表明していることになるだろう。大きな音でジャズをきくことを好むAのいう「いい音」と比較的音量をおさえめにしてテレマンのトリオ・ソナタなどをきくことを好むBのいう「いい音」では、同じはずがない。
 馬に鞭をあて、いてつくような北国の夜をめざすのか、それともオレンジの花咲く南の国をめざすのか。「いい音」は雪の上にあることもあり、さんさんとふりそそぐ陽の下にあることもある。
 そしてここでひとつ、思いだしておきたいことがある。プレーヤーから出たコードをアンプにつなぎ、アンプからのコードをスピーカーにつなぎ、その後、レコードをかければ、まず、音はでる。むろんアンプのスイッチはオンになっている。音はでてきてあたりまえ、でてこなかったらおかしい。それもたしかに音だが、その音は、たまたま出てきた音だ。別のいい方をすれば、その音は、再生装置というものが勝手にだした音でしかない。その音に、つかいてはほとんど介入していない。装置の音であっても、つかいての音はいいがたい。
 たとえ装置をえらぶ段階で、つかいての音に対しての嗜好が選択に反映したとしても、ことは、そこで終ったわけでなく、そこからはしまる。ある機器をその人にえらばせたそれなりの理由があるなら、その理由にそって、その機器をおいこんでいかなければならない。その機器がそれなりにおいこまれた時、そこでなる音は、機械の音といっただけでは充分でない、つまりつかいてのものとなる。つかいてはやはり、馬にひきずられて野原を走りまわるべきではなく、馬にまたがって、目的地をめざすべきではないか。
 たまたまなった音でいいのわるいのいっても、さして意味はない。
 オーディオ評論家八氏のきかせてくださった音は、十全に調教された馬の音だった。北をめざしている馬もあり、南をめざしている馬もあり、東や西、あるいは空にまいあがろうとしている馬もあったようだ。当然ながら、ぼくにもぼくなりの音に対しての好みや考えがあり、そのすべてに共感したというわけではなかった。しかし、ただ──
 そう、ここが肝心なところだ。徹底したものは、それに共感するかどうかは別にして、常に、ある種の説得力をもつ。その説得力が、オーディオ評論家八氏のきかせてくださった音にあった。
 再生装置から音をだす時に、そのつかいての心をよぎるのは、「いい音」を求めての、いってみれば憧れである。ぼんやりした憧れなら、ただそれだけのことで、どうということもない。しかし、それがひとたび、つかいての行動を呼ぶと、憧れは目に見えない、そして耳にもきこえない、しかし否定しがたい力をもって、いずこにかむかう馬速度をあげる。疾走する馬は美しい。その美しさが、人をうつ。そうか、彼は、着たにいきたいんだな、きっと、あの北国の夜空を見たいんだな──と、思ったりする。
 そこではじめて、しかしぼくは南にむかう──という言葉も、可能になる。彼にとっての「いい音」という固有の目的地が、その音にすでにきけるからだ。ということは、そこでなっている音が、かくかくしかじかというメーカーのかくかくしかじかという型番の機器の音ではなくなり、その人の音になっているからだ。
 その馬の調教のノウハウ、つまり調教法は、さまざまあり、人それぞれで大変にちがう。特別にことさらの調教法なんてないよ──という人だっている。すでにできあがっている機器に、たとえば抵抗やコンデンサーをつけたりするような、敢ていえばハード的な調教から、スピーカーの角度をほんのわずかかえるといった微妙な調教まで、まさにさまざまだ。
 しかしそのことについて、ここでは、ふれない。なるほど、ここをこうしたからこうなるのかといったようなことをいうには、すくなくともぼくにはデリケートすぎることのように思えるからだ。そして同時に、調教法は、必然的に、その目的地との関連で考えられるべきだろう。ただちょっと暇な折に、林の中を歩きまわりたいだけなんだといって、馬を自分のものとする人だっているはずで、そういう人には、多分、ことあらためての調教など、不必要だろう。
 普遍的な、誰にも、どのような状況にも通用しうる調教法など、ないのかもしれない。とすれば、ここで、今回その音をきかせていただいたオーディオ評論家八氏の調教法を、したり顔にお伝えしたとしても、なんの意味もない。彼らは彼ら、ぼくはぼく──と、なまいきかもしれないが、ぼくは思った。彼らには彼らそれぞれの目的地があり、ぼくにはぼくの目的地がある。調教法が目的地との呼応によってあみだされるとすれば、ぼくはほくなりに考えなければならない。ここで先達にすがっては、ぼくの憧れは、水っぽくなってしまう。
 しかし、はたして、目的地は、不動か。いや、言葉をあらためる。はたして、目的地を、不動不変と思っているかどうか。
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
 目的地がかわらざるをえない要因は、再生装置の側にもある。たしかに新しいものがすべていいとはいいがたい。すでにすぎた時代につくられたものの中に、新しくつくられたものにはないよさをそなえたものがあるのは、まごうかたなき事実である。しかしその反面、新しくつくられたものならではの可能性をもったものがあるのもまた、まぎれもない事実だ。そういう、歓迎すべき新しくつくられたものは、そのつかいてに、そうか、ここまでいけるのかといったおもいをいだかせ、今まで以上の、ずっと先に、目的地を設定する夢を与える。
 昨日まで、あそこまでしかいけないものと思いこんでいたのに、その新しく登場した機器によって、それよりずっと先に目的地をおけるようになるというのは、よろこばしいことだ。
 さまざまな、昨日の、あるいは今日の音楽、ないしは音にふれながら、人それぞれ、憧れをかえていく。その変化の様は、ちょうど黄昏時の空のようで、変化しているようには見えないものの、刻々とかわっていく。そして、こういう音楽、こういう音をきくのだったら、もっとシャープな音のでる装置がほしいなと思ったりする。しかし、憧れがそのまま際限なくふくらむというわけではない。装置の方で、憧れの自然増殖をゆるさない。したがって、目的地は、際限なくふくらもうとする憧れと、実際問題として装置が可能にする限界との接点にあるということになる。
 目的地を北におくか、それとも南におくか、その、いってみれば座標軸の決定にあたっては、憧れの大きさや質などが、大きな要因となることは、あきらかだ。
 そうなってくると、その人の目的地の設定場所は、その人の音楽のきき方にかかわらざるをえない。しかしむろん、あなたは音楽をどうきいていますか──というのは、愚問以外のなにものでもない。どうきいているって、どういう意味?──と反問されるのがせきの山だ。これは、あなたはどうやって生きていますか? という質問と似たところがあって、こたえは言葉にしにくい。そして、もし非常な努力の末、たとえそれを言葉にしたとしても、言葉にしたとたんに、しらじらしくなってしまいかねない。
 結局は音楽のきき方とかかわるからこそ、音が、その音をだした人を語ることになるのではないか。だから、音は、こわい。
 ここで肝心なのは、どういう音楽をきくかではなく、音楽をどうきくかだ。問われるべきは、WHAT ではなく、HOW である。そのきき方によって、憧れの、姿も、背丈も、かわってくる。同じポリーニのひいたショパンをきいたからといって、万人が同じようにきいているとはいえない。上野の文化会館で隣りあわせにすわって、同じ音楽をききながら、同じにはきいていないわけで、そこでのへだたりが、再生装置をつかっての音、つまり再生音について思いいだく際の憧れの質的・量的差となってあらわれる。
          *
 ぼくがおたずねした八人の部屋の主は、△○×のスピーカーをほしかっていて、しかし「なかなかままならなくてね」といって苦笑いした部屋の主とは、ちがう。さまざまな面で、大変にちがう。基本的には、一方がアマチュアで、もう一方がプロフェッショナルだということがいえるのだろうが、ぼくのおたずねした八人の部屋の主には、それをことさら誇ったというわけではないが、自信に裏うちされたさわやかさがあった。
 ただ、△○×のスピーカーをほしがっている部屋の主もいいそうなことで、八氏がそれぞれ、えらんだ言葉、あるいはニュアンスなどでは微妙にちがっていたが、口にした言葉がある。オーディオというのは趣味の世界のものだから──といった意味の言葉だ。ぼくもその考えには、おおいに共感する。人それぞれで、その後につづく言葉もかわってくるわけだが、いずれにしろ、オーディオがことさら仰々しくいわれたり、考えられたりするのには、ぼくも、反撥をおぼえる。
 たしかにオーディオは多くの人にとって趣味だ。だから、こむずかしく考えることはなく、適当でいいんだ──ということもできるし、逆に、だから、仰々しくなる必要はないが、せいいっぱい誠実につきあうべきだ。──ということもできる。ふたつの極にわかれての反応が可能になる。
 本当は、趣味だからといって、たかをくくるとことはできない。趣味は、それを趣味としている人を、長い年月のうちに、それらしくしていく。切手蒐集家には切手蒐集家の顔があり、盆栽が趣味の人には、いかにもそれらしい表情がある。しかもオーディオは、まさに目に見えない音として、われわれの日常生活の中にしのびこみ、その音をきく人を、じわじわと、無言のうちに(!)、ゆりうごかす。
 趣味でしかないとしても、趣味だからといってたかをくくれないところがある。オーディオ・メーカー好みのキャッチフレーズ風ないい方をすれば、いい音をきいている人はいい顔をしている──といったことさえ、そこではおこりかねない。
 オーディオというのは趣味の世界のもだから──といった、オーディオ評論家八氏の言葉は、当然、その辺のことをふまえてのもだったにちがいない。趣味の世界のものだからということで、たかをくくっての言葉ではなかった。たかをくくった人間に、目的地をさだめての旅だちなどできるはずもない。彼らは、なにげない顔をしていたが、せいいっぱい誠実に、できるかぎりの努力をして、彼らの音をつくっていったにちがいなかった。
 しかし、彼らとて、今、目的地にたっているはずもない。ただそこできいた音は、すばらしいことに、今の目的地がどこかを、それをきいた人間にわからせるものだった。その意味で、彼らの音は、まさに憧れが音になったものだったといえよう。その音が、たまたまなった音ではなく、彼らがならそうとしてならした音だったからだ。
 当初、ぼくの期待は、ちょっとやそっとではきくことができない、俗にいわれる名器の音がきけるということにあった。それがたのしみで、この企画の訪問者の役割をひきうけた。
 しかし、ぼくは、あきらかに、うかつだった。ぼくは、名器の音など、なにひとつきかせてはもらえなかった。ぼくがきいたのは、A氏というオーディオに強い関心をもち、またそれに通じている男の音だった。そこでは、あたらの名器も、一枚の鏡と化し、Aという人間を、そしてその夢と憧れを、ものの見事にうつしだしていた。いい音ですね──などというのさえはばかれるほど、みごとにみがきあげられて、鏡は、その前にたつ男をうつしだしていた。
 そこでは、憧れが、響いていた。燃えあがる憧れもあり、沈みこむ憧れもあった。そしていずれも、その憧れにふれた人を感動させるに充分なだけ美しかった。
 ぼくは、八通りに響く憧れを、きいた。

「モデラート・セリオーソ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

長島達夫様

 ぼくは、よそのお宅にうかがうのが、あまり得意ではありません。そういうことに、得意も得意でないもないようなものですが、よそのお宅にうかがうと、あがってしまうのでしょうか、なんとなくおちつかない気持になります。なぜだかよくわかりません。もしかすると内弁慶の性格ゆえかもしれませんが、今日、お宅にうかがった時も、かなりあがってしまったようでした。
 長島さんのお部屋は、まさに、長島さんおひとりのための部屋だという印象を、まずうけました。部屋には、もともと複数の人間がいることを前提とした部屋と、自分ひとりのため部屋とがあると思います。リスニングルームといわれる部屋についても、どうやら、そのふた通りあるようです。レコードで音楽をきくのだったら絶対にひとりでききたいという人が一方にいるかと思うと、できることなら親しい人と一緒にききたいという人がもう一方にいるのですから、それも当然というべきでしょう。
 長島さんのお部屋の、特等席とでもいうべきでしょうか、もっともこのましくきけるところで、長島さんの音をきかせていただいて、本来は足をふみいれてはいけないところに足をふみいれたような、幾分うしろめたい気持になったのは、雑誌の取材などという理由でおしかけたそこが長島さん以外の他者のたちいりをこばんだ部屋だったからかもしれません。
 きかせていただいた、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」には、本当にびっくりしました。ヨッフムのレコードでしたが、セリフの部分での、アガーテとエッヒェンは、あたかもオペラハウスの最前席できいているかのように思われるほど、なまなましく左右に動きました。そのわかり方がまた、尋常ならざるもので、たとえばアガーテが十センチ立っている位置をずらしてもわかるのではないかと思われるほどでした。
 充分に考えぬかれたスピーカーの位置、あるいは方向づけ、さらにはそれに呼応して椅子の位置ゆえのものだったといえるでしょう。ワン・ポイント・リスニングとでもいうべきでしょうか、それの徹底したものと、ぼくは感じました。そして、そのようにしてきいていらっしゃる長島さんに、長島さんならではの生真面目さを感じたりもいたしました。普段は、おそらく、ぼくがきかせていただいた位置で、耳をそばだててレコードをきいていらっしゃるにちがいない長島さんの姿が、目にうかぶようでした。
 そういえば、長島さんの音は、なにごとによらず不徹底では満足できない長島さんらしさのあらわれたものということができるようです。長島さんは、紅茶をいれてくださるのに、湯をそそいだポットを布巾でつつむということをなさいましたね。そういうことがイッはン的になされるものかどうか、ぼくは不覚にも存じませんが、たとえ紅茶をいれるにしても、ただいれるだけでなく、そこでつかう紅茶の葉から、最良の結果をえようとする長島さんの、いかにも長島さんらしいおこないのように、ぼくには思われました。きかせていただいた音には、そういう長島さんをしのばせるところがあったようでした。
 にもかかわらず、長島さんは、それをてらうわけでなく、いや、いつでもそこできくわけではなくて、酒をのんで、ひっくりかえってきくことだってあるんだよ──なんて、おっしゃったりしました。たしかに、そういうこともあろうかと思いますが、きかせてくださった音の質といい、レコードといい、長島さんの生真面目さをものがたってあまりあるものといえそうでした。
 もし求心的なきき方というものがあるとすれば、長島さんのなさっていることは、そういわれてしかるべきものといえるのではないでしょうか。長島さんのきかせてくださる音を前にすると、ききては、どしても耳をそばだててきかざるをえなくなります。そうしないことには、そこでなっている音に対して申しわけないような気持になってしまうからです。まさにプライベートルームでひびくそのような生真面目な音に、率直に申しあげて、ぼくはいささかたじろぎました。すごいなと思い、してはいけないことをしてしまったようなうしろめたさが残りました。そして、長島さんはいったい、この生真面目な音とむきあって、一日のうちのなん時間ぐらいを、すごされるのだろうと思ったりいたしました。
 長島さんの肉声とでもいうべき、長島さんの音をきかせていただいたことに、お礼の言葉もありません。

一九七六年一月十六日
黒田恭一

「アレグロ・モデラート」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

井上卓也様

 人を帰さないためであるかのように降ってくる雨のことを遣らずの雨といったりしますが、行かせずの雪とでもいうでしょうか、今日、井上さんのお宅にうかがう日、東京ではめずらしく、雪になりました。しかし、井上さんの音がきけるとなれば、雪なんてなんのその、いそいそと家を後にしました。
 井上さんとは、『ステレオサウンド』や『テープサウンド』の仕事で、非常にしばしばご一緒させていただいているので、こうしてあらためて手紙をさしあけるというのも、なんとなく妙な気持がいたしますが、おじゃましたお礼かたがた、きかせていただいた音などについて、書かせていただくことにします。
 まず、ボザークの大きなスピーカーが、アップライト・ピアノの両側におかれてあるのを拝見して、うれしくなりました。と申しますのは、おはなししたかもしれませんが、ぼくも同じように、ピアノを間にはさんでスピーカーをおいているからです。どうやらピアノを間にはさむと、スピーカーの大きさが気にならないということがあるようです。そのためばかりではないでしょうが、別のところで見た同じタイプのボザークのスピーカーより、お宅で拝見したものの方が、小さく見えました。
 大きなスピーカーが小さく見えるように配置し、しかも大音量がだせるスピーカーにもかかわらず、むしろおさえぎみに、余裕をもたせてならしているあたりに、ぼくは、さすが井上さん、と思いました。いろいろな機会におはなししているうちに、井上さんのことで、ぼくなりにわかったことがあります。井上さんが、仰々しいことや、これみよがしなこと、はったりめいたこと、それに分際をわきまえぬことを唾棄されるのを、ぼくは知っています。ですから、ブックシェルフ・スピーカーを大型スピーカーのごとくつかいたがる人が多い中で、ボザークのスピーカーを、ことさらのてらいもなく、なにげなくおつかいになっている井上さんに接して、さすが井上さんという印象をもったのだと思います。
 強い音が好きだ──と、井上さんは、おっしゃいましたね。さもありなんと思いました。井上さんなら、きっと、そうでしょう。そしてそのおっしゃり方は、いかにも井上さんらしい。強い音は、軽い音をかろやかに感じさせるのにも、なくてはならないものと思います。そしてたしかに、きかせていただいた音は、井上さんの求められる、その強い音を、十全に感じさせるものでした。
 こんなことをあらためて申しあげるのもどうかと思いますが、井上さんの耳のよさには、いつもおどろかされます。ご一緒に仕事をさせていただいて、この人耳は悪魔の耳ではないかと思ったりすることがあります。しかも井上さんはそのききとられたものを、いわゆる文学的な言葉でいいあらわすことをいさぎよしとされず、なにげない口調でさらりといわれたりします。
 そういう井上さんを、ぼくがひそかになんと呼んでいるか、この機会に、申しあげてみようかと思います。含蓄のリアリスト──というのが、その呼び方です。この言葉を目にされて、井上さんがどんな顔をされるか、ぼくにはわかるような気がいたします。なぜ、このようなことをわざわざ申しあげたかといいますと、今日きかせていただいた音をぼくがどう感じたかをお伝えするために、その言葉が必要に思えたからです。きかせていただいた音は、まさに、含蓄のリアリストのそれでした。
 すごいテクニックをもっているのに、決してそれをひけらかしたりせず、たとえばモーツァルトのやさしいソナタなどをさらりひくさわやかさが、井上さんにはあって、そういうところが、きかせていただいた音にも、感じられました。
 現在は、人間にしろ、音にしろ、ギンギンギラギラと、おのれをうけらかしてくるものの方が多いような感じがぼくはいたしますが、そうした中にあって、井上さんには、そして井上さんのきかせてくださった音には、そうしたものがまったく感じられず、ぼくは、男らしい男にじかにふれたような気持になって、きかせていただいた音にほれぼれと耳を傾けました。
 おいとまするころに、雪はさらに強くふっておりましたが、あれは、ぼくにもう少しきかせていただいたらどうかといっている帰さずの雪だったのかもしれません。今日は、どうもありがとうございました。

一九七六年二月五日
黒田恭一

「アダージョ・ドルチェ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

瀬川冬樹様

 今日、お宅できかせていただいた音、あの音を、もしひとことでいうとすれば、さわやかさという言葉でいうことになるでしょう。今日はしかも、冬にしてはあたたかい日でした。そよかぜがカーテンをかすかにゆらすなかできかせていただいた音は、まさにさわやかでした。かけて下さったレコードも、そういうとにふさわしいものだっと思いました。やがて春だなと思いながら、大変に心地よい時をすごさせていただきました。あらためてお礼を申しあげたいと思います。ありがとうございました。
 普段、親しくおつきあいいただいていることに甘えてというべきでしょうか、そのきかせていただいたさわやかな音に満足しながら、もっとワイルドな音楽を求めるお気持はありませんか? などと申しあげてしまいました。そして瀬川さんは、ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の合唱曲をきかせてくださいましたが、それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない。
 たしかに、そういうことは、いえるような気がします。日本でこれほど多くの人にバロック音楽がきかれるようになった要因のひとつに、日本での、決してかんばしいとはいいがたい住宅環境があるというのが、ぼくの持論ですから、おっしゃることは、よくわかります。音に対しての、あるいは音楽に対しての好みは、環境によって左右されるということは、充分にありうることでしょう。ただ、どうなんでしょう。もし瀬川さんが、たとえばワーグナーの音楽の、うねるような響きをどうしてもききたいとお考えになっているとしたら、おすまいを、今のところではなく、すでにもう大音量を自由に出せるところにさだめられていたということはいえないでしょうか。
 なぜ、このようなことを申しあげるかといいますと、今日きかせていただいた音が、お書きになったものからや、さまざまな機会におはなしして知った瀬川さんと、すくなくともぼくには、完全に一致したものと感じられたからです。まさにそれは、瀬川サウンドといえるもののように思われました。
 ぼくはいまだかつて(ふりかえってみますともうかなりの回数お目にかかっているにもかかわらず)、瀬川さんが、馬鹿笑いをしたり、声を尖らしたり、つつしみにかけたふるまいをなさったりするのに接したことがありません。ぼくのような、血のけが多いといえばきこえはいいのですが、野卑なところのある人間にとって、そういう瀬川さんは、驚きの的でしたが、今日、その瀬川さんの音をきかせていただいて、なるほどと、ひとりでうなずいたりいたしました。きかせていただいた音にも、馬鹿笑いをするようなところとか、声を尖らすようなところとか、あるいはつつしみにかけたふるまいをするようなところは、まったくありませんでした。敢てそのきかせていただいた音を音楽にたとえるとすれば、短調のではない、長調の、そう、ヴィヴァルディのというより、テレマンのというべきでしょう。緩徐楽章の音楽ということになるかもしれません。そこには、それにふれた人の心をなごませるさわやかなやさしさがあるように思えました。
 タバコをすわない瀬川さんのお部屋には、タバコのみの部屋の、あのなんともいえないやにくささがまったく感じられませんでした。それがはじめわからなくて、なんとも不思議な気持がしました。そのタバコのやにくささの感じられないことが、さらに一層、きかせていただいた音のさわやかさをきわだたせていたということも、いえなくはないのかもしれません。もしぼくは経済的に余裕があったら犬を沢山飼ったりするのかもしれませんが、瀬川さんだったらきっと、そういう時、ばら園をつくられたりするのかもしれないと思ったりいたしました。そのようなことを考えさせる瀬川さんの音だったといえなくもないようです。
 お忙しくて、まだ、ぼくの家においでいただけないでおりますが、いつか、機会がありましたら、ご一緒にレコードでもききながら、おはなしできたらと思います。ただ、そのためには、おいでいただく前にぼくは、空気清浄器を購入して、部屋のタバコのけむりでにごった空気をきれいにしておかなくてはなりません。
 今日は、瀬川さんの音をきかせていただいて、胸いっぱい深呼吸をしたような気持になり、今、とてもさわやかな気持です。ありがとうございました。

一九七六年一月十四日
黒田恭一

「アンダンティーノ・グラチオーソ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

山中敬三様

 ともかく山中さんのお宅にうかがったら、生きた状態にあるすごい名器の音をきかせていただけるから──と、編集部の人にいわれていたので、期待に胸はずませて、うかがいました。聴覚的にも、視覚的にも、期待をはるかにうわまわるもので、音の美味を、心ゆくまで堪能させていただきました。ありがとうございました。美食家であるがゆえに超一流の料理の腕をもつ方の手になるごちそうでもてなしていただいたような気持になりました。
 弦楽器の、特に低い方の、つややかな、そして腰のすわった音に、まず、びっくりしました。本当にいい音ですね。とげとげしたところが全然なく、なめらかで、しかも響きには、それ本来ののびやかさがあるように感じられました。
 そういう音をきかせていただいた後だったので、山中さんの、かつてのベルリン・フィルはよかったけれど……とおっしゃる言葉をきいて、なるほどと思いました。オーケストラを、少しはなれた、つまりコンサートホールで申せば特等席できいているような気持になりました。響きが津波のごとくききてめがけておしよせてくるということはなく、オーケストラの音が、多少の距離をおいたところで美しく響いているという印象を、ぼくはもちました。それは、言葉をかえて申しますと、あからさまに、そしてむきだしになることを用心深くさけた、節制の美とでもいうべき美しさをもった音ということになるかもしれません。
 かけて下さったレコードも、山中さんの、そういうきかせてくださった音から感じとれる美意識を、裏切らないものだったと、ぼくには思えました。それはすべて、ごちそうになったブランデーのように、充分に時間をかけて醸成されたもののみがもつこのましさをそなえていたともいえるでしょう。
 そのよさは、いかにあたらしものずきのぼくにも、わかりました。つまりそこには、ほんもの強さがあったということでしょう。ただ、かつてのベルリン・フィルはよかったけれど、今のベルリン・フィルも、また別の意味ですごいと思っているぼくが、山中さんのきかせてくださった音に心ひかれたとすれば、それはぼくにとってはなはだ危険なことということになります。ぼくはどうも、あいからわず、今の音楽を、今の音で追い求めたがっているようです。誤解のないように申しそえておきますが、この場合、今の音楽と申しても、現代音楽だけ意味しません。現代の演奏家による、たとえばベートーヴェンをも含めてのことです。
 その時つかっている装置によってきくレコードがかなり左右されると山中さんはおっしゃいましたが、そのお考えに、ぼくもまったく同感です。オーディオ機器のこわさは、こっちがつかっていると思っていたものに、結果としてつかわれてしまっていることがあるところにあると思います。ですからぼくは、正確には、今日きかせていただいた音を、山中さんの音というではなく、今の山中さんの音というべきなのかもしれません。
 今日は、耳をたのしませていただいただけでなく、きかせていただいた音や、うかがわせていただいたおはなしから、いろいろ勉強させていただきました。これまでぼくのオーディオについての考えの一部をあらため、さらにおしすすめることができたような気がいたします。その意味でも、お礼を申しあげなければなりません。
 お部屋で拝見した機器は、どれもこれも、文字通りの超一流品ばかりで、中には、はじめて目にしたものもすくなからずありました。一流品には、当然のことに、一流品ならではのよさがありますが、一流品ばかりがそろっている場所には、とかく、これみよがしな、ひどく嫌味な気配がついてまわるものですが、そうしたものがまったく感じられなかったのは、多分、山中さんが一流品だからということで集められたのではなく、それぞれの機器に充分にほれこんでお部屋にもちこまれ、しかもそれらを生きた状態でおいておかれるからだろうと、ぼくなりに了解いたしました。
 ただ、アンプにしろ、プレーヤーにしろ、機械というものを生きた状態でおいておかれるのは、さぞ大変な努力が必要でしょうね。アンプのパネル面など、すぐにタバコのやにでうすよごれてしまうのに、山中さんのところのアンプはどれもこれも、とてもきれいだっことが印象に残っております。今もなお、山中さんという音の美食家がきかせて下さった音のおいしさを思いだし、舌なめずりをしております。ありがとうございました。

一九七六年二月二日
黒田恭一