黒田恭一
ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より
菅野沖彦様
お宅にうかがう途中で気がついたのですが、菅野さんのお宅におしゃまするのは、ほぼ二十年ぶりといういうことになります。二十年といえば、ふた昔、当時はまだ菅野さんも今のようなお仕事をなさっていなくて、ぼくはまだ学生でした。かつて知人につれられてうかがったお宅が、そうだ、あれは菅野さんのお宅だったんだといった感じで気がついたのは、不思議なことに、比較的最近になってからのことです。その思いだしたいきさつについてはいつかお話しましたね。
その二十年前にうかがった時にきかせていただいた、バリリをリーダーとする、ウィーンの音楽家たちによるモーツァルトの「ポストホルン」セレナードの、ウエストミンスターのレコードの音が、今も、なまなましく耳の底にのこっているような気がいたします。当時、ぼくもさっそくそのレコードを買い求め、家できいてみましたが、菅野さんのお宅でのような音がでるはずもなく、こういうことを雲泥の差というのかと思ったりいたしました。その時がオーディオというものをあらためて意識した最初の機会だったかもしれません。
今度もまた、かつての「ポストホルン」セレナードの場合と、いささか質はちがうにしても、きかせていただいた音は、ぼくをうらやましがらせるに充分なものでした。その音は、もしぼくなりに言葉におきかえさせていただくとすれば、豊麗な音ということになるかもしれません。やせほそったところも、ひからびたようなところも、まったくない、いかにも豊かなものと思えました。
率直に申しあげて、ぼくは、最初のレコードをきかせていただいた時、すでに、ああ、これは菅野さんの音だな、と思いました。すくなくとも、今日、お宅できかせていただいた音と、ぼくが感じている菅野沖彦という華麗なキャラクターとは、もののみごとに一致しているように思われました。菅野さんがお吸いになっていたパイプ・タバコのかおりとか、お部屋の広さゆえでしょうことさら大きくは感じられないグランド・ピアノとか、そういうものがかもしだす気配と、いわゆる俗にいわれるリスニングルーののものというより、やはり立派な応接間のものというべきでしょうが、菅野さんの音とは、なんと見事に一致していたことでしょう。
菅野さんの、菅野さんならではの、相手の気持を思いはかっての親切さ、言葉をあらためれば、サービス精神というべきでしょうか、そのために、菅野さんは、さまざまな性格のレコードをかけて下さいました。それらの、たとえばバックハウス、ベーム、それにウィーン・フィルハーモニーによるブラームスからポール・モーリアまでのさまざまなレコードのいずれもが、過不足なく豊麗にひびき、それぞれがチャーミングだっことに、正直のところ、ぼくは驚きました。
と申しますのは、特にスピーカーについていえるようですが、音のキャラクターによってあうスピーカーとそうでないスピーカーがあるということは、しばしばいわれるようですが、お宅できかせていただいた音から判断するかぎり、そういう不都合を、すくなくともぼくは、感じなかったからです。たたいてでた音も、こすってでたお供、豊麗によくひびいていたように思われました。その点でも、きかせていただいた音は、ぼくに羨望の念をいだかせるに充分なものでした。いい音だなと思いました。
その羨望の念、いい音だなと思う気持は、菅野さんがおのりになっているポルシェを見て、すてきだなと思うのと、ぼくにおいては、やはり似ているところがあります。
しかしそこがまさに、いかにも菅野さんらしいところといえるのかもしれません。中途半端、不徹底なところが、菅野さんのなさることにはありません。おのりになる自動車、くわえられるパイプ、そして耳にされる音といったことで、ちぐはぐがないことに、あらためて感心しました。それがなかなかできないことだということは、ぼくにもわかります。そのむずかしいことを徹底してなさっているところに菅野さんらしさがあると思います。きかせていただいた音が、まったくそのような音でした。
帰ってきてから、さっき、お宅できかせていただいたバックハウスのブラームスのレコードを、この部屋でかけてみました。当然のことに、まったくちがう音がしました。音というのはおもしろいものだなと思いました。
少し前にお身体をこわされ、心配しておりましたが、もうすっかりよろしいとのこと、なによりです。今後もお身体にお気をつけ下さいますよう。
一九七六年一月十三日
黒田恭一
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