黒田恭一
ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より
岩崎千明様
ぼくの頭の中での、岩崎さんのイメージは、永遠の少年です。永遠の、青年ではなく、少年です。さらにいわせていただくとすれば、永遠のいたずらっこということになります。その方がぼくのイメージに近いようです。ぼくよりはるかに年上の方をつかまえて、永遠のいたずらっこもないと思いますが、今度はじめてお宅におうかがいして、その印象をますます強めました。
岩崎さんは,たずねてきた人間の目からかくそうとなさって、おちていた紙くずをひろいあげ、それをどうなさるのかと思ったら、おすわりになっていた椅子の下におしこまれましたね。それは、多分、オトナのすることではなく、少年、それもいたずらっこのしそうなことです。そういう岩崎さんがぼくは大好きなので、これはどうやらファン・レターのようになってしまいそうです。
パラゴンが、パラゴンらしからぬといっていいのでしょうか、大変に思いきりのいい、さわやかで力のある音をきかせてくれたのに、驚きました。きかせていただいているうちに、仕事でおじゃましたのも忘れて、きこえてくる音楽にのせられてしまいました。
岩崎さんというと、誰もがまず第一に、大音量できく方というので、ぼくもかつては、その噂で岩崎さんを知りました。でも、不思議ですね、お宅できかせていただいた音は、たしかに尋常の音量ではなかったのですが、すくなくともぼくは、それが大音量だということをまったく意識しませんでした。普段岩崎さんがよく、できるだけ近くでききたい、小さい音もちゃんとききたいとおっしゃる意味が、音をきかせていただいて、なるほどこういうことなのかと納得できました。
大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。
オーディオに多少なりとも興味がある人間ならうらやましがらずにいられないような名器が、いささかも仰々しくならずに、本当になにげなく、あっちにもこっちにもおかれてあるのを見て、またぼくは、永遠のいたずらっことしての岩崎さんを考えてしまいました。それというのも、こっちにしたらほしくてしかたがないと思っていた模型機関車やなにやかや沢山持っていて、しかし育ちのよさゆえかそれをことさら見せびらかすようなこともしなかった子供時代の友人のことを思いだしたからです。彼もまさにいたずらっこでしたし、がき大将でした。いたずらっこにはいたずらっこならではのさわやかさがあります。そのさわやかさが岩崎さんのきかせてくださった音にはありました。
クラシックのレコードをかけてびっくりさせようと思って、買ってはきたんだけど、わざとらしいからやめたよ──、そうおっしゃって笑った岩崎さん笑い顔、あれは、いたずらっこの笑い顔そのものだと思いました。しかし、オーディオのような趣味の世界では、そのいたずらっこの精神こそが大切なんではないかと、かねてからぼくは考えておりましたが、ぼくの考えはまちがいではなかったようだと、あらためて思いました。
最後に、ひとつだけ、申しあげておきたいことがあります。出して下さったケーキ、大変おいしくいただきましたが、いかにも大きすぎました。音の大きさに比例しての超弩級の大きさでした。さっき、帰ってから、胃薬をのみました。
今日は、特に寒い日でしたが、永遠の少年の熱気にあてられたためでしょうか、不思議に血がさわいで、身体がほてります。でも、寒い日は、たしか喘息によくないはずです。ぼくの母も喘息持ちなので、その苦しみがわかるため、岩崎さんがせきこまれるとはらはらします。まだまだ寒い日がつづくと思われます。どうぞお身体にお気をつけ下さいますよう。また、岩崎さんの音をきかせていただける機会があればいいなと思っております。
一九七六年一月一二日
黒田恭一
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