黒田恭一
ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より
井上卓也様
人を帰さないためであるかのように降ってくる雨のことを遣らずの雨といったりしますが、行かせずの雪とでもいうでしょうか、今日、井上さんのお宅にうかがう日、東京ではめずらしく、雪になりました。しかし、井上さんの音がきけるとなれば、雪なんてなんのその、いそいそと家を後にしました。
井上さんとは、『ステレオサウンド』や『テープサウンド』の仕事で、非常にしばしばご一緒させていただいているので、こうしてあらためて手紙をさしあけるというのも、なんとなく妙な気持がいたしますが、おじゃましたお礼かたがた、きかせていただいた音などについて、書かせていただくことにします。
まず、ボザークの大きなスピーカーが、アップライト・ピアノの両側におかれてあるのを拝見して、うれしくなりました。と申しますのは、おはなししたかもしれませんが、ぼくも同じように、ピアノを間にはさんでスピーカーをおいているからです。どうやらピアノを間にはさむと、スピーカーの大きさが気にならないということがあるようです。そのためばかりではないでしょうが、別のところで見た同じタイプのボザークのスピーカーより、お宅で拝見したものの方が、小さく見えました。
大きなスピーカーが小さく見えるように配置し、しかも大音量がだせるスピーカーにもかかわらず、むしろおさえぎみに、余裕をもたせてならしているあたりに、ぼくは、さすが井上さん、と思いました。いろいろな機会におはなししているうちに、井上さんのことで、ぼくなりにわかったことがあります。井上さんが、仰々しいことや、これみよがしなこと、はったりめいたこと、それに分際をわきまえぬことを唾棄されるのを、ぼくは知っています。ですから、ブックシェルフ・スピーカーを大型スピーカーのごとくつかいたがる人が多い中で、ボザークのスピーカーを、ことさらのてらいもなく、なにげなくおつかいになっている井上さんに接して、さすが井上さんという印象をもったのだと思います。
強い音が好きだ──と、井上さんは、おっしゃいましたね。さもありなんと思いました。井上さんなら、きっと、そうでしょう。そしてそのおっしゃり方は、いかにも井上さんらしい。強い音は、軽い音をかろやかに感じさせるのにも、なくてはならないものと思います。そしてたしかに、きかせていただいた音は、井上さんの求められる、その強い音を、十全に感じさせるものでした。
こんなことをあらためて申しあげるのもどうかと思いますが、井上さんの耳のよさには、いつもおどろかされます。ご一緒に仕事をさせていただいて、この人耳は悪魔の耳ではないかと思ったりすることがあります。しかも井上さんはそのききとられたものを、いわゆる文学的な言葉でいいあらわすことをいさぎよしとされず、なにげない口調でさらりといわれたりします。
そういう井上さんを、ぼくがひそかになんと呼んでいるか、この機会に、申しあげてみようかと思います。含蓄のリアリスト──というのが、その呼び方です。この言葉を目にされて、井上さんがどんな顔をされるか、ぼくにはわかるような気がいたします。なぜ、このようなことをわざわざ申しあげたかといいますと、今日きかせていただいた音をぼくがどう感じたかをお伝えするために、その言葉が必要に思えたからです。きかせていただいた音は、まさに、含蓄のリアリストのそれでした。
すごいテクニックをもっているのに、決してそれをひけらかしたりせず、たとえばモーツァルトのやさしいソナタなどをさらりひくさわやかさが、井上さんにはあって、そういうところが、きかせていただいた音にも、感じられました。
現在は、人間にしろ、音にしろ、ギンギンギラギラと、おのれをうけらかしてくるものの方が多いような感じがぼくはいたしますが、そうした中にあって、井上さんには、そして井上さんのきかせてくださった音には、そうしたものがまったく感じられず、ぼくは、男らしい男にじかにふれたような気持になって、きかせていただいた音にほれぼれと耳を傾けました。
おいとまするころに、雪はさらに強くふっておりましたが、あれは、ぼくにもう少しきかせていただいたらどうかといっている帰さずの雪だったのかもしれません。今日は、どうもありがとうございました。
一九七六年二月五日
黒田恭一
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