Category Archives: スピーカーシステム - Page 15

トリオ LS-1000

トリオのスピーカーシステムLS1000の広告
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

LS1000

クリプシュ heresy HD

クリプシュのスピーカーシステムheresy HDの広告(輸入元:ヒビノ電気音響)
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

HeresyHD

JBL 4345

JBLのスピーカーシステム4345の広告(輸入元:山水電気)
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

4345

オンキョー Scepter 300

オンキョーのスピーカーシステムScepter 300の広告
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

Scepter300

ソニー APM-77W

ソニーのスピーカーシステムAPM77Wの広告
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

APM77W

ダイヤトーン DS-32B MKII, DS-37B, DS-503, DS-505

ダイヤトーンのスピーカーシステムDS32B MKII、DS37B、DS503、DS505の広告
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

Diatone

インフィニティ RS-b

インフィニティのスピーカーシステムRS-bの広告(輸入元:赤井電機)
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

RS-b

タンノイ Arundel, Balmoral

菅野沖彦

ステレオサウンド 61号(1981年12月発行)
「Pick Up 注目の新製品ピックアップ」より

 タンノイが’81年暮に発表した新製品は、トッモデルのG・R・ファウンテン・メモリーと、このアランデル、バルモラルの合計3機種である。そして、このアランデル、バルモラルは、そのイニシャルがAとBであるように、かつてのアーデン、バークレイにとって代るモデルとして開発されたものなのだ。アーデン、バークレイは、オリジナルからMKIIとなって長い間ファンに親しまれてきたシステムであったが、それに代って登場した2機種も、当然のことながらデュアルコンセントリックユニットを使うことに変りはない。アランデルが38cm口径の3839ユニット、バルモラルは30cm口径の3128ユニットを内蔵する。3839は連続入力120W、ピークで500W、3128はそれぞれ100W、350Wというヘビーデューティ、そしてクロスオーバー周波数は1kHz、1・2kHzの同軸型2ウェイ、つまり、コアキシャルユニットである。エンクロージュアは、アーデン、バークレイからはプロポーションに大きな変革がある。従来よりも高さと奥行きが増し、幅が狭められた。タンノイによれば、これはエンクロージュア内部の反射音による干渉を弱め、音の濁りをなくすのに有効であるとされている。エンクロージュア自体の剛性や作りは、G・R・F・メモリーを見た眼にはそれほど印象は強くないが、ビチューメンパネルと呼ばれるタンノイ独自の共振防止材をエンクロージュア内部5面に多数取り付けることによってアコースティックコントロールが行なわれ、中域の明瞭度や、全帯域での音の鮮明さを得ているという。タンノイ独特のロールオフとエナジーの2種類の調整ができるネットワークもそのままである。このネットワークコントロールは大変有効なものだ。つまり、ロールオフによって5kHz以上を4段階に増減、エナジーによって1kHz〜20kHzにわたってトゥイーターレベル全体を±6dBに増減が可能である。多少異なる点もあるが、JBLの最新2ウェイシステムに採用されていを方法と似ている。2ウェイユニット・3ウェイコントロールとでもいえるものである。これは、音楽を鑑賞する現実の条件に対応したタンノイらしいコントロール機能であり、このあたりに、真の音楽ファンのためのタンノイの、タンノイらしさが感じられるのである。

BOSE 601 SERIESII

井上卓也

ステレオサウンド 61号(1981年12月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 BOSEのスピーカーシステムは、実際のコンサートホールプレゼンスを確保するために、ユニークな音響理論に基づき直接音成分と間接音成分のバランスを巧みにコントロールするユニット配置を採用している。シンプルな構造、適切な材料選択と優れた基本設計によって、非常にパワーハンドリングの優れたユニットによるパワフルでダイナミックなサウンド、豊かなプレゼンスですでに確固とした支持をオーディオファンの中に築き上げている。今回、フロアー型の601を大幅な設計変更により発展、改良した新製品、シリーズIIが市場に送り出されることになった。
 従来の601は、BOSEのコンシュマーユース独特の、ディフィニションに優れプレゼンス豊かな再生をするモデルとして一部で認められてはいたが、周波数帯域的なバランスでは低域から中域が量的に多く、軟調な再生になりやすいことと、シャープで緻密な音というにはやや分解能が不足であり、トップモデル901シリーズIVほどの定評は得られていなかった。
 今回の601シリーズIIは、これらの問題点を根本的に解決するために、新しい手法としてサブ・メインダクト方式を採用し、低域から中域の締まりのよさと、室内の反射物により生じる250Hzあたりの盛り上がったレスポンスをコントロールすることが可能になったと発表されている。
 口径20cmのウーファーは、コーンのストロークが長いタイプがエンクロージュア上側に斜めに取り付けられ、さらにエンクロージュア正面にはノーマルストローク型がセットされるという独特なダブルウーファー設計である。この2個のウーファーは、それぞれエンクロージュア内部に独立した専用のバックキャビティをもち、メインのエンクロージュアとは個々のバックキャビティの後ろに設けられた補助ダクトを通して空気がつながり、さらにメインエンクロージュアにも独立した別のダクトがあって、これを通して外気につながるといった2重構造をとる。これが、サブ・メインダクト方式と名付けられた理由である。
 簡単に考えれば、一般的にはバッフル面にあるダクトをエンクロージュア後面に設けた2個のシステムを、大型のエンクロージュアに取り付け、その大型エンクロージュアにはダクトのみをつけたタイプと思えばよい。従来にないユニークな構造である。
 内部のサブダクトはチューニングがブロードになる設計で、その中心周波数は250Hz、一般的なリスニングルームの多くで壁面などにより強調されやすい250Hzあたりの音の濁りをを、メインエンクロージュア内部で吸収しようとする設計であるようだ。また、メインのダクトは35Hzにチューニングされ、バスレフ方式で低域をコントロールしているのは一般的なシステムと同様だが、ダクトの位置がエンクロージュア上部の前側にあり、パイプダクトが上を向いているのも特長である。
 トゥイーターとウーファーのクロスオーバーは、これもBOSE独特の設計によるデュアルフレケンシー・クロスオーバー方式と呼ばれるタイプだ。トゥイーターとウーファーのクロスオーバー部分を、約1オクターブオーバーラップさせ、位相特性と振幅特性を完全にマッチングさせようとする方法である。実際に601シリーズIIでは、ウーファー側は1・3kHzあたりで約2dBほどレベルが下降してから再びフラットになり、2・5kHzあたりからまた下降するという段付き特性になっており、トゥイーター側はこの逆で、2・5kHzあたりで一度レベルが約2dB下がったあとフラットになり、1・5kHzあたりで再び下降するレスポンスを示す。2箇所でレスポンスが下降するために、デュアルフレケンシー・クロスオーバー方式といわれるのであろう。
 601シリーズIIは小型のフロアー型システムであり、独自の直接音と間接音の輻射バランスをとるために、エンクロージュア上部のサランネットがかかった部分の左右には、物を置かないようにセットする必要がある。インストラクションによれば、
 1 壁面にエンクロージュアを密着させて最初のヒアリングをする。
 2 低域が強調される場合は、壁から離して、その距離で調整をする。
 3 低域がこもる場合は、床からの位置を上にあげて調整をする。
の3点が指示されている。
 ステレオサウンド試聴室でもこの指示に従って試聴を始めたが、1では全体にローバランスになり、2でも多少のコントロールはできるが、抜けがいま一歩不足気味であり、結局3に従って、床からの位置を数ステップ調整して一応のバランスが得られた。使用アンプの低域のドライブ能力が充分にあり、プレーヤーシステムもヘビー級であったため、3の位置を上げたセッティングが必要であったと思われる。
 この時の音は、爽やかに抜ける音場感の拡がりと響きの美しさに加えて、こだわりなくストレートに、吹き抜けるようなダイナミックな表現力が聴かれた。国内製品とはひと味違った、実体感のある音楽が楽しめるタイプだ。組み合わせるカートリッジやアンプは、中域から高域で分解能が高く、反応の速いタイプを使うことが、システムの独自の魅力を引き出すポイントである。

テクニクス SB-8

テクニクスのスピーカーシステムSB8の広告
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

SB8

ビクター Zero-1000

井上卓也

ステレオサウンド 61号(1981年12月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ワイド・アンド・ダイナミックを標傍するZeroシリーズのスピーカーシステムは、Zero5/3にはじまる。現在ではスコーカーにファインセラミック振動板を採用したZero5F/3F、トゥイーターに同じ振動板を採用した2ウェイ構成のZero1Fを加えた第2世代のシリーズに発展し、爽やかに拡がる音場感の豊かさと、明るくダイナミックな表現力により好評を得ている。今回は、平面振動板ユニット採用のZero7の上級機種として、シリーズのトップに位置づけられるZero1000が登場した。
 ユニット構成は、標準的な3ウェイ構成に、さらにスーパートゥイーターを加えた4ウェイ方式。ファインセラミック振動板を初めてウーファー用コーンに導入した32cm口径ウーファーをベースとし、同じ振動板材料を、これもドーム型スコーカーに初採用の7・5cm口径ユニットを中音に、トゥイーターも同様な3・5cmドーム型、それに独自のダイナフラットリボン型のスーパートゥイーターから成る。
 ウーファーコーンのファインセラミック化は、コーンの固有キャラクターの原因となる不要な高域共振を排除し、剛性が高いため大振幅時にも空気圧でコーンが変形したり歪むことがなく、透明でクリアーな、色づけのない安定したベーシックトーンが得られるメリットがあるという。
 スコーカーとトゥイーターは、半球に近いドーム形状を採用している。これは、モーダル解析により求めた理想的な形状とのことで、周波数特性、指向性ともに優れた基本設計である。特に、7・5cm口径のスコーカーユニットは、80年代のドーム型ユニットらしい設計で、従来のハードドーム型ユニットとは基本的な設計が異なっている点に注意したい。
 一般的に、ドーム型スコーカーでは振動板の前にイコライザーを設けるが、Zero1000のユニットにはイコライザーがない。ダイアフラムの内側も、従来は振動板材料固有のキャラクターを抑える目的で制動剤を塗布したり、貼りつけたりしてコントロールする例が多かった。この方法は、確実で容易な手段であるが、振動板重量が増加し、能率の低下や聴感上での鋭いピークの伸びや分解能を損ないやすく、せっかくの高剛性、軽質量のメリットが活かせないためにダイナミックスを抑える傾向が強い。Zero1000では、振動板を直接制御する方法を排除し、ファインセラミックの利点がフルに活かされている。この、イコライザーレス、フリーダンプダイアフラムの2点は、進歩した設計による現代ドーム型ユニットの特長で、今年登場の、優れたハードドーム型ユニットを採用した高級ブックシェルフ型システムに共通の、注目すべき技術革新である。
 エンクロージュア型式は、Fシリーズがすべてバスレフ型であることと対比的に、完全密閉型であるのがZero1000の外観上の特長であろう。エンクロージュアは、一般的にチップボードや積層板といった板材を切断して組み立てる方法が採用されているが、Zero1000のエンクロージュアは、それとは根本的に異なった材料が導入されている。
 ブルーグレイ調にカラーリングされたフロントバッフルは、フラットバッフルでは避けられない回折効果による指向性の乱れを俳除するために、微妙なカーブを描くスーパー楕円形状が採用されている。4個のユニットを直線配置とすると、ユニットマウント用の穴をあけることによる強度不足が問題になってくるが、今回はこの解決方法として、最も響きが美しい木材を超えるヤング率や内部損失をもった特殊レジンを材料に選択している。さらに、一体成型モールドの利点を活かして、バッフル裏側に強度を確保する目的で複雑なリブ構造を施し、理想的なフロントバッフルを作りあげている。実際に叩いてみても、その響きは木材と判断しかねる印象だ。また、裏板部分も、エンクロージュア内部の定在波の処理やユニットの背圧問題、不要振動の排除などの多角的な影響を抑えるために、裏板中心部分の板厚が最も薄く四隅が厚い、逆ピラミッド型に裏板内側が成型されている。この特殊形状を、チップボードを一体成型するウッドキャスティングにより可能としている。なお、側板、天板と底板は、一般的な板材使用である。
 ネットワークも重要な部分だが、高級機相応の高品質、低損失設計であり、レベルコントロールは定インピーダンス・ステップのスイッチ切替型である。
 その他構造上の特長として、低域のダイナミックレンジを拡大するために、ウーファーの磁気回路ブロックとエンクロージュア裏板間を強力なボルトでつなぎ、最適位置で固定してあるのも見逃せない。
 ややトールボーイ型のZero1000は、ステレオサウンド試聴室では床上約25cmほどに設置して、最適バランスが得られる。音の粒子は細かく滑らかで、基本的に柔らかい音とナチュラルに伸びた帯域バランスをもつ。音の反応はシャープでダイナミックであり、誇張感のない実体感とディフィニションの優れた音場感の透明さは、紙のコーン採用のシステムとは異次元の再生能力だ。使いこなしには努力を要するが、その結果は想像を上廻る見事なものである。

JBL 4435, 4430

菅野沖彦

ステレオサウンド 61号(1981年12月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 人によっていろいろな形に見えるであろう奇怪なホーンの開口部。JBL呼んでバイラジアルホーン、これが新しいJBLスピーカーシステムの個性的な表情であり、技術改良の鍵でもある。このホーンの設計は、水平・垂直方向それぞれ100度の範囲での高域拡散を実現することを目標に行なわれた。しかも、このホーンによって放射される周波数帯域は、1kHz~16kHzという広いものである。この奇怪な形状のホーンの威力は、まことに大きいものがある。このところマルチユニット化によって広周波数帯域の実現を目指してきたJBLが、この4435、4430において突如2ウェイによるシステムを発表したことは、われわれにとっても驚きであった。ご承知のように、4341に始まり4343、4345へと発展してきたJBLモニターシステムは、その旗艦4350を含め、すべて4ウェイを採用してきた。マルチユニットやマルチウェイというのは、スピーカーシステムの構成上一種の必要悪であることは多くの専門家の認めるところだが、この必要悪をいかに上手く使いこなし、その弊害を抑えてワイドレンジ化を図り、広指向性を実現しそして高リニアリティを追求していくというのがJBL高級スピーカーシステムの歴史であった、と私は理解してきた。同じウェスターン・エレクトリックの流れをくむアルテック社が、そのまま2ウェイを基本にしてアイデンティティを確立してきたことに対して、JBLの技術的な姿勢の堅持こそ、この両雄の健全な対時だと思っていた。そこへ急に2ウェイの高級モニターシステムが登場したのだから、こっちはびっくりする。アルテックがコンシュマー用のシステム、いわゆるHi-FiプロダクツでJBLに追従する姿勢をとり始めたことを苦々しく思っていたら、今度はJBLがアルテックのプロ用の、頑固なまでの2ウェイ姿勢と真正面からぶつかった。鷹揚で豊かなアメリカは今やなく、まるで日本のメーカー同志のような熾烈な競争のために〝こだわりの精神〟も〝誇り〟もかなぐり捨ててしまうようになったのであろうか……。もちろん、2ウェイがアルテックの特許でもないし、マルチウェイ・マルチユニットや音響レンズはJBLだけのものではない。そしてまた、同じ2ウェイといっても今回のJBLの新製品は、アルテックの2ウェイとはまったくとはいかないまでも、決して同類のものとはいえないユニークでオリジナリティのある開発である。この点ではまったく同じものを作って平然としている日本メーカーの体質とは比較にならないほど、まだ高貴な品位を保っているとは思う。しかし、この明らかなるJBLのテクノロジーの変化というか多様化というものは、オーディオ界の騎士道の崩壊であることに違いなかろう。技術の進歩は自ずから収斂の傾向をとるものだから、これは当然の成り行きとみることもできるだろう。しかし、もしそうだとするのなら、JBLは明らかにウェスターン・エレクトリックの主流派アルテックに脱帽せねばならないのだ。そして、脱帽されたアルテックの方も、Hi-FiプロダクツでのJBLへの追従を深く恥じるべきなのだ。
 こうなってくると、終始一貫あのデュアルコンセントリック1本で頑張っているジョンブル、タンノイなどは立派なものだ。しかし、それがいつまで通用するか。第2次大戦後、食糧難に日本中が飢えていた頃、頑としてヤミの食糧を食わずに餓死した高潔の士もいたことを思い出す。とにかく、メーカーにとっても我々ファンにとっても、騎士道や貴族性の保てた時代が終焉を迎えたことは事実らしい。それは、あたかも18~19世紀の貴族お抱えのオーケストラが、現代のような自立自営のオーケストラへの道をたどったプロセスにも似ているようだ。より広く大衆のものになり、経済競争に巻き込まれ、技術は向上したが文化的には首をかしげたくなるような、不思議な質的変化が感じられ、淋しさがなくもない。日本のオーディオ機器の多くは、今やスタジオからスタジオへ駆け廻り、何でも初見でばっちり弾いてのけるスタジオミュージシャンのようなものだ。さすがに欧米には、まだ立派なアーティストと呼べるようなアイデンティティとオリジナリティ、テクニックのバランスしたものがあるが、一方において日本のスタジオミュージシャンに職を追われつつある憐れな連中……いや機器も少なくはないのである。
 このような情勢の中でJBLの新製品4435、4430を眺めてみると、その存在性の本質をしることができるのではないだろうか。つまり、このシステムは時代の最先端をいくテクノロジーが、オーディオ界の名門貴族の先見の明の正しかったことを今さらながら立証し、かつその困難な実現を可能にした製品といえるように思う。
 JBLの製品開発担当副社長のジョン・アーグル氏が、去る9月のある日曜日の夜、我家に持ち込んで聴かせてくれた4435の音は素晴らしかった。一言にしていえば、その昔は私がJBLのよさとして感じていた質はそのままに、そして悪さと感じていた要素はきれいに払拭されたといってよいものだった。私自身、JBLのユニットを使った3ウェイ・マルチアンプシステムを、もう10数年使っているが、長年目指していた音の方向と、このJBLの新製品とでは明らかに一致していたのである。この夜、4435を聴く前に、私たちは、私のJBLシステムで数枚のレコードを聴いた。その耳で聴いた4435の音は、まったく違和感なく、さらに奥行きのある立体的なステレオイメージを聴かせてくれたのであった。私のJBLシステムは、JBLの人達も不思議がるほどよく調教されきった音である。善し悪しは別として、通常JBLのシステムから聴ける音と比べると、はるかに高音は柔らかくしなやかだし、中低域は豊かである。音の感触は、私の耳に極力滑らかに、かつリアリティを失わない輪郭の鮮明さをもって響くように努力してきた。その苦労の一端は、本誌No.60でご紹介してある。その音と違和感なく響いたことは、私にとって大きな驚きであったのだ。ちなみに、今春4345を同じように私の部屋で聴いた時には、私の想像した通りの一般的なJBLらしい音で、私のシステムとはほど遠い鳴りっぷりであった。
 音楽とオーディオの専門家、ジョン・アーグル氏との歓談の方にむしろ興じてしまった一夜ではあったが、この新しいJBLのシステムのなみなみならぬ可能性は、少なくとも私が旧JBLユニットに10年以上かけてきた努力を上廻る成果を、いともたやすく鳴らしてしまったことからも察せられた。
 製品の技術データを見ればうなずけることだが、4435、4430の何よりの特長は、ステレオフォニックな音場イメージの正確な再現性にある。これは、モニターシステムのみならず、鑑賞用システムとしても非常に重要な点で、音楽演奏の場との一体感として働きかけるステレオ再生の最も重要な意味に関わる問題を左右するものである。レコード音楽がもつ数々の音楽伝達要因の中でも、モノーラルとステレオの違いがきわめて大きなものであることは、今さらいうまでもない。ステレオの魅力を最大限に発揮させるために重要なものは、リスニング空間全般に可聴周波数帯域のエネルギーをフラットに拡散し得る、アコースティカルに特性の揃った一組のスピーカーの存在である。それも、できる限り2次、3次反射によらずにトータルエネルギーがフラットであることが望ましい。4435、4430は、新設計の定指向性ホーンとワイドレンジ・コンプレッションドライバー、巧妙な設計の2ウェイネットワーク、新採用ウーファーの特性とのコンビネーションにより、そうした目標に大きく近づくことになった。また、このホーンはショートホーンであるため、ウーファーとトゥイーターの振動系の機械的ポジションを同一線上に配置することが可能となり、構成ユニットの位相ずれの心配はない。これら新設計のユニットは、特性的にも最高の技術水準にあるもので、1kHzのクロスオーバーで実現した2ウェイコンストラクションとしてはスムーズなつながりとワイドレンジ、高リニアリティ、高能率と低歪率、すべてのスペックを最高のデータでクリアーしている。2421ドライバーの振動板は、ダイアモンドサスペンションと呼ばれるユニークなパターンのエッジをもつアルミダイアフラムである。
 4430は2ウェイ・2スピーカーシステム、4435はこれをダブルウーファーとした2ウェイ・3スピーカーシステムである。この2機種のシステムの試聴は、本誌試聴室で行なったが、この両者について簡単に甲乙をつけることは危険だと思う。パワーハンドリングについては、4435の方により大きなポテンシャルがあるのは当然だが、本誌試聴室での結果では、4430の方がバランス上好ましかった。しかし、4435も私の部屋で鳴ったような音は出なかったので、このあたりは部屋とのバランスで考えなければならない問題だろう。ブラック・ムーニング (アメリカで流行の若者の奇行のこと)を想起させる異様なバイラジアルホーンの姿とともに、このシステムはJBLの技術史上に重要な足跡を残す、意味のある新製品だ。

オンキョー D-7

オンキョーのスピーカーシステムD7の広告
(別冊FM fan 33号掲載)

D7

ソニー SS-RX7

ソニーのスピーカーシステムSS-RX7の広告
(別冊FM fan 33号掲載)

SS-RX7

サンスイ SP-V100

サンスイのスピーカーシステムSP-V100の広告
(別冊FM fan 33号掲載)

SP-V100

ヤマハ NS-690III, MUSIC, MUSIC ex, STUDIO ex, METAL

ヤマハのスピーカーシステムNS690III、カセットテープMUSIC、MUSIC ex、STUDIO ex、METALの広告
(別冊FM fan 33号掲載)

NS690III

エレクトロボイス Interface:AIV

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 これもまたアメリカのスピーカーであるが、エレクトロボイスは、アメリカのミッド・イーストを代表するメーカーである。このスピーカーのだす音を、ほんの1分もきけば、そのことは、誰にでもわかるはずである。ひとことでいうと、都会の音──とでもいうことになるであろうか。辛口の音である。ウェストコーストを出身地とするスピーカーの、あのあかるく解放感にみちみちた音とは、ひとあじもふたあじもちがう音である。同じアメリカのスピーカーでも出身地がちがうのであるから、JBLやアルテックをきいたレコードとはちがうレコード、つまりビリー・ジョエルやトーキング・ヘッズのレコードを、かけてみた。
 ビリー・ジョエルやトーキング・ヘッズのレコードをきいてみて、なるほどと納得のいくことが多々あった。トーキング・ヘッズの音楽のうちの棘というべきか、鋭くとがったサウンドを、このエレクトロボイスのスピーカーは、もののみごとに示した。もし、時代の影といえるようなものがあるとすれば、そのうちひとつがトーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』できける音楽のうちにあるのかもしれない。そういうことを感じさせる、このエレクトロボイスのきこえか方であったということになる。
 ビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』は、音楽の質からいっても、性格からいっても、トーキング・ヘッズのレコードできけるものとずいぶんちがうが、きこえた音から、結果的にいえば、似たところがあるといえなくもない。つまり、リズムの示し方の、切れの鋭さである。いや、もう少し正確にいえば、リズムの切れが鋭く示されているというより、リズムの切れが鋭く示されているように感じられるということのようである。
 そのように感じられるのは、おそらく、このスピーカーの音が、ウェストコースト出身のスピーカーのそれに較べて、いくぶん暗いからである。
 しかし、音が暗いといっても、このスピーカーの示す音には湿り気は感じられない。音は充分な力に支えられて、しゃきっとしている。ひびきの輪郭がくっきり示されるは、そのためである。
 ハーブ・アルバートの『マジック・マン』のきこえ方などは、まことに印象的であった。アルバートによるトランペットの音がいつになくパワフルに感じられた。トランペットの音の直進する性格も充分に示されていたし、リズムの切れもよかった。音場感的にもひろがりがあってこのましかった。ただ、ひびきが、からりと晴れあがった空のようとはいいがたく、いくぶんかげりぎみであった。そういうことがあるので、ウェストコースト出身のスピーカーできいたときの印象と、すくなからずちがったものになった。
 こうやって考えてくると、このスピーカーの魅力を最大限ひきだしたのは、どうやら、トーキング・ヘッズのレコードといえそうである。そこで示された鋭さと影は、まことに見事なものであった。

BOSE 301 Music Monitor

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 このスピーカーはいい。価格を考えたら大変にお買得である。
 むろん、スケール感がほしいとか、腰のすわった低音をききたいとか、あれこれむずかしい注文をだしても、このランクのスピーカーに対応できるはずもないが、きかせるべき音を一応それらしく、あかるい音で、すっきりきかせる。小冠者、なかなかどうしてようやるわい──といった感じである。きいていて、いかにもさわやかで、気分がいい。
 このボーズ301MUSIC MONITORのきかせる音は、ひとことでいえば軽量級サウンドである。それにしても、吹けばとぶような音ではない。しんにしっかりしたところがあるので、音楽の骨組みをあいまいにしない。そこがこのスピーカーのいいところである。なかなかどうしてようやるい──と思えるのは、そういういいところがあるからである。
 ハーブ・アルバートのレコードのB面冒頭には、しゃれたアレンジによる「ベサメ・ムーチョ」がおさめられているが、それなどをきいても、いくぶん小ぶりな表現ながら、細部を鮮明に示して、あざやかである。このアルバートによる「ベサメ・ムーチョ」は、深いひびきのきざむリズムにのってはこばれるが、あたりまえのことながら、本当に深いひびきは、このスピーカーではきけない。それをきこうとしたら、やはりどうしても大型のフロアースピーカーのお世話にならなければならない。しかし、このボースの301MUSIC MONITORは、その深いひびきの感じを、一応、それらしく示す。
 音場的なひろがりの面でも、このスピーカーは、あなどりがたい。ハーブ・アルバートのレコードが、せまくるしくあつくるしくきこえたら、きいていてやりきれなくなるが、その点で、このスピーカーの示す音場とひびきの質は、このましい。あくまでもさわやかであり、すっきりしている。このスピーカーもまた、ウェストコースト・サウンドの特徴をそなえているといっていいように思う。
 マーティ・バリンのレコードもよかった。うたわれた言葉はシャープにたちあがる。ただ、難をいえばリズムをきざむソリッドな音に力が不足している。そういうこのスピーカーのいくぶんよりよわいところが、ランディ・マイズナーのレコードではより強く感じられるとしても、決して湿っぽくなったり、ぐずついたりしないひびきのこのましさがあるので、致命的な弱点とはいいきれない。
 アルバートのレコードにしても、バリンのレコードにしても、マイズナーのレコードにしても、大滝詠一のレコードにしても、音がべとついたり、ぼてっとしたりしたら、それぞれのレコードできける音楽の本質的な部分がそこなわれ、その音楽の最大のチャーミング・ポイントをたのしめないことになる。すくなくともそういうことは、このボーズの301MUSIC MONITORではない。
 もし環境の面で許されるなら、パワーを少し入れてやると、ひびきの力感に対しての反応もよりこのましくなるであろうし、このフレッシュな音をきかせるスピーカーは、魅力充分といえそうである。

アルテック Model 6

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 JBLのL112をきいた後でこのスピーカーをきいて、そうか、そうであったな、これもまたウェストコースト出身のスピーカーであったなと思わないではいられなかった。それほど、JBLのL112とこのアルテックのMODEL6とでは、ちがう。したがって、そういことがあるので、出身地別でスピーカーに安易にレッテルをはることはつつしまなければならない。ことはまことに微妙である。よほど用心してかかる必要がある。さもないと、とんでもない誤解をしてしまいかねない。
 しかし、このアルテックのMODEL6もまた、まきれもなく、アメリカのウェストコースト出身のスピーカーの特性をそなえている。それがなにかといえば、ひびきのおおらかさである。ひびきのおおらかさはJBLのL112でも充分に感じられたものであるが、それとこれとのいずれでよりきわだっているかというと、このMODEL6においてである。ただ、すぎたるはおよばざるがごとし──ともいう。このスピーカーの音は、たしかにおおらかではあるが、おおらかにすぎたといえなくもない。
 たとえば、マーティ・バリンのレコードで、例の「ハート悲しく」をきくと、JBLのL112できいたときより、陽気な歌に感じられる。ひびきが、おおらかで、率直な分だけ、この歌の影の部分が薄くなったというべきであろうか。バリンの声には独自のかすれがあるが、それを充分に感じとれるとはいいがたい。その辺にこのスピーカーの多少の問題がある。
 しかし、JBLのL112とこアルテックのMODEL6では、価格の面でわずかとはいいがたい差があるから、同列において四の五のいったら、アルテックのMODEL6に対してフェアでない。判断する場合には、その価格の面での差を割引いて考える必要があるものの、スピーカーの音の性格として、鋭角的なひびきより丸みのあるひびきの表現にひいでているということはいえるにちがいない。
 たとえば、ランディ・マイズナーの『ワン・モア・ソング』をかけたときのサウンドなどは、ききてをのせる。中域の音が充実しているからであろう。そのストレートなサウンドは、爽快である。ただ、これは、このランディ・マイズナーのレコードでも、マーティ・バリンのレコードでも、そして大滝詠一のレコードでもいえることであるが、総じて、声より楽器の音の方がきわだちぎみで、声、ないしはうたわれている言葉は、ともすると楽器のひびきの中にうめられる傾向がある。
 ハーブ・アルバートのレコードもわるくない。アルバートによって吹かれたトランペットの音が、その特徴をきわだてているとはいいがたいが、音楽の力感をよく伝える。そのようなことから、このスピーカーの音のもちあじを、こだわりのない率直さということもできるであろう。
 音楽の力強さをすとんと示すが、ひびきの微妙なところにこだわる人は、そこにものたりなさを感じるのかもしれない。しかし、このスピーカーのきかせる音には、俗にウェストコースト・サウンドといわれる独調のひとつである解放感があることはまちがいない。

JBL L112

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 JBLはアメリカ・ウェストコーストを代表するメーカーである。なるほど、この音像をいささかもあいまいにならずくっきり示す示し方、それに力感のあるサウンド、それでいてあくまでさわやかであることなどは、これぞウェストコースト・サウンドといいたくなるようなものである。ひびきのきめのこまかさがもう少しあればと思わなくもないが、しかし、それがかならずしも弱点とはいいがたいところに、このスピーカーの魅力があると考えるべきであろう。
 ランディ・マイズナーの『ワン・モア・ソング』などでは、リズムのきざみに、いわくいいがたい、本場ものの独自の説得力とでもいうべきものが感じられる。高域は、さらに一歩進めば、刺激的な音になるのであろうが、その手前にふみとどまって、すっきりした、ふっきれたサウンドをうみだしている。こういうレコードは、こういうスピーカーでききたいなと思わせる、ここでのきこえ方であった。
 マーティ・バリンの『恋人たち』も、とてもすてきにきこえた。そのレコードのうちの、テレビのコマーシャルでつかわれているA面の冒頭に入っている「ハート悲しく」をきいたのであるが、子音をたてた音のとり方や、歌の、粋で、ちょっときどった、それでいて孤独の影のうちにある気配を、もののみごとに示して、なるほど、このレコードは、こういう音できくべきなんだなと思わせた。このスピーカーの音は、あくまですっきりさわやかであるから、多少音像が大きめになっても、ぼてっとしない。
 マーティ・バリンの場合と似たようなことのいえるのが、大滝詠一の『ロング・バケーション』であった。このスピーカーにおける音のキャラクターの面での大らかさが、ここではさいわいしていたとみるべきであろう。スピーカーからでてくる音は、湿度が低く、からりと乾いているから、抒情的な歌もじめじめしない。
 ただ、大滝詠一の『ロング・バケーション』できけるような性格の音楽なら、このJBLのスピーカーの音にも申し分なくフィットするが、日本の歌でも、たとえば演歌のようなものではどうなのであろうと考えなくもなかった。このスピーカーの音がふっきれているだけに、もしかするとあっけらかんとしたものになってしまうのかもしれない。
 ハーブ・アルバートの『マジック・マン』のレコードは、すべてのスピーカーできいてみたが、ここでのきこえ方は、それらのうちのベストのひとつであった。こういう性格の音楽とサウンドでは、このスピーカーは、そのもちあじのもっともこのましい面をあきらかにする。アルバートの吹くトランペットの音は、まことに特徴があって、誰がきいても、あっ、これはアルバートとわかるようなものであるが、その音の特徴が、このスピーカーでは、いとも鮮明に示された。
 それに、トランペットの音の直進する感じも、ここではよくききとれ、ききてに一種の快感を与えた。音楽の走りっぷりのよさを実感させる音であり、きいていて、なんともいえずいい気分であった。
 このスピーカーの音は、ひとことでいえば解放的で、すべての音が大空めざして消えていくといった気配であった。さわやかさは、なににもかえがたい魅力といってもいいであろう。

KEF Model 303

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 これはいいスピーカーである。スペンドールのBCIIもすぐれたスピーカーであったが、やはりこのスピーカーと較べると、いくぶん大人っぽいところがあった。このKEFの303の方が、いまの音楽、いまのサウンドをきくには、あっている。ひびきがひときわフレッシュである。ただ、あらためていうまでもないと思うが、スケールの大きいな音楽を恰幅よく示すタイプのスピーカーではない。それに、こもまたイギリス出身のスピーカーであるから、ひびきは暗めである。スペンドールのBCIIよりはいくぶんあかるいようであるが、あのアメリカのウェストコースト出身のスピーカーに較べれば、やはり暗いといわざるをえない部分がある。その分だけひびきのきめがこまかいとしても、聴感上は暗いというべきであろう。
 デイヴ・エドモンズの『トワンギン』で特徴的な、高い方でのいくぶんざらついた音への対応のしかたは、きいて、なるほどと思うものであった。きれいにみがきあげられたとはいいがたい音の、汚れた音であるがゆえの生命力とでもいうべきものを、なまなましく示した。これはイギリス出身のスピーカーに共通していえることでもあるが、このKEFの303でも、声がヴィヴィッドに示されたのが印象的であった。
 そのために、アメリカのウェストコースト出身のレコードであるマーティ・バリンのレコードを、ここでまたきいてみたいと思った。きいてみたら、なかなかいい感じであった。バリンのかすれた声をうまく示した。しかも、バリンの歌に、ウェストコースト出身のスピーカーできいたときには感じとりにくかった大人っぽい雰囲気があることがわかった。いくぶんかげりのあるひびきの中に、バリンのスリムな声がすっきり定位して、なかなかいい感じであった。
 スライ&ロビーの『タクシー』もよかった。シャカシャカした音とソリッドな音の対比を充分につける能力をそなえたスピーカーであるから、このレコードできける音楽の特徴を示すことにおこたりはなかった。このスピーカーの音は、たとえ多少のかげりがあるとしても、重くぼてっとはしていないので、このレコード『タクシー』におさめられているようなサウンドにもうまく対応できるということのようである。
 ハーブ・アルバートのレコードも、好結果をおさめた。むろん、「ベサメ・ムーチョ」でリズムをきざむ深いひびきの提示には、無理があった。しかし、それとても、一応それらしく示した。したがって、音楽をはこんでいくリズムのきざみは、ききてに感じとれるわけで、音楽としてきいている分には、ことさら不満をおぼえなかった。つまり、そのことから、このKEFの303というスピーカーが、その音楽的まとまりをこのましく示すスピーカーということがいえるにちがいない。
 大滝詠一のレコードでも、音がききての側に迫ってくる力は感じられなかったもの、すっきりした音場感を示し、大滝の声の特徴もよくあきらかにしていた。音のだし方にいくぶんひかえめなところがあるとしても、上品な音の、つかいやすいスピーカーのようである。

「世界一周スピーカー・サウンドの旅」

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 ウェストコースト的とか、イギリス的とか、はたまた日本的とか、ともかく的という言葉をつかって十把ひとからげにしてああでもないこうでもないと、わかった風なことをいいたててみても、本当ところはなにひとつはっきりしない。
 実は、この的という言葉は、なかなかどうしてくせもので、あつかいがむずかしい。よほどうまくつかわないと、意味があいまいになってしまう。なんだこの文章は、なにをいいたいのかよくわからない──と思ったら、よくよくその文章をながめてみるといい。きっとその文章には、的、ないしはそれに類した言葉が、あちこちでつかわれているにちがいない。
 そういうあいまいなところが的という言葉にはあるので、つかう方としてはつかいやすいし、安直につかってしまいがちである。たとえば、なるほどこの音はドイツ的だ──といった感じで、つかってしまいがちである。そのようにいわれた方としては、半面では、なるほどドイツ的なのか──と思い、残る半面では、実際のところ、ドイツ的とはどういう音なのであろう──と思うことになる。つまり、ひとことでいえば、わかったようでいてわからない。
 それぞれのスピーカーには生れ故郷がある。アメリカのウェストコーストで生れたスピーカーもあれば、イギリスで生れたスピーカーもある。したがって当然(といっていいのかどうかはわからないが)、ともかく、生れ故郷のちがいが音のちがいに、なんらかのかたちで、影響している。いかなる理由でそういうことになるのかは、よくわからない。いろいろまことしやかな理由で説明してくれる人もいなくはないが、これまでに説明されて納得できたことは一度もない。
 産地がちがえば、ミカンの味もちがう。これはあたりまえである。しかし、なんでスピーカーの音がちがうのであろう。スピーカーはミカンでないから、土地や気候のちがいがそのまま音に反映するとは考えられない。にもかかわらず、ウェストコーストのメーカーでつくられたスピーカーでは、誰がきいてもすぐにわかるようなちがいがある。
 そのちがいは、否定しようのない事実である。ここでは、さしあたって、ちがうという事実だけを問題にする。なぜ、いかなる理由でちがうのかは、ここでは考えないことにする。さもないと、ことは混乱するばかりである。はっきりさせたいのは、どのようにちがうかである。
 それぞれのレコードにも生れ故郷がある。ドイツで録音されたレコードもあれば、ニューヨークで録音されたレコードもある。このレコードについても、スピーカーと似たようなことがいえる。このことについては、多少なりともひろい範囲でレコードをきいている人なら、すでに確認ずみのはずである。さわやかだね、この音、やっぱりウェストコーストのサウンドだね──といったようなことを口にする人は多い。ここでは、そういうレコードの音とスピーカーの音を、ぶつけてみようと思う。ウェストコーストで録音したレコードをウェストコーストのメーカーでつくられたスピーカーできき、その後、故郷をちがえるレコードをそのスピーカーできいてみて、どのように反応するのかをききとどけてみようというわけである。
 理想をいえば、ウェストコーストで録音されたレコードをいかにもウェストコーストで録音されたレコードらしく、イギリスで録音されたレコードはいかにもイギリスで録音されたレコードらしくきかせるスピーカーが、このましい。しかし、それはやはり理想でしかなく、多くのスピーカーは、なんらかのかたちで、そのスピーカーのお国訛りを、ちらっときかせてしまう。愛矯といえばいえなくもないが、つかう方からすれば、その辺を無視するわけにはいかない。いかなるもちあじを魅力とするスピーカーなのかをしかとみとどけてつかえば、それだけそのスピーカーを積極的につかえるはずである。
 世間ではしばしば、クラシック向きスピーカーとか、ロック向きスピーカーといったような区分がおこなわれ、それはそれなりに多少の意味がなくもないが、ここでは、生れ故郷をちがえるスピーカーがどのようにちがう音をきかせるのか、その辺にポイントをおいて、きいてみた。
 さしあたってここでは、さまざまなスピーカーに対して、「あなたは、どの国の出身のレコードの再生がお得意なのででしょうか?」と、たずねてみたことになる。スピーカーの答えは、さて、いかなるものであったか──。

ヤマハ NS-1000M, ビクター Zero-5 Fine

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 スピーカーで音の世界めぐりをしてきて、最後に日本のスピーカーを2機種きいた。そこでまず感じたのは、ともかくこれは大人の音だということであった。充分に熟した音であり、かたよりがないということである。立派だと思った。どの国出身のレコードでも、つつがなく対応した。ヤマハのNS1000MとビクターのZER05FINEでは、価格の差があるので、そのクォリティについては一概にはいえないとしても、おのれの個性をおさえて、それぞれの方法でさまざまな音楽に歩みよろうとしている姿勢が感じられた。大人の音を感じたのは、おそらく、そのためである。
 とりわけ、ヤマハのNS1000Mは、立派であった。それぞれに性格のちがう音楽のうちの力を、しっかりと示した。ただ、たとえば、マーティ・バリンの歌の、粋でしゃれた感じをこのましく示したかというと、かならずしもそうはいえなかった。さまざまな面で、はきり、くっきり示しはしたが、独特のひびきのあじをきわだたせたとはいいがたかった。したがって、このマーティ・バリンだけを例にとれば、JBLのL112とか、あるいはボーズの301MUSIC MONITORの方がこのましかったということになる。ビクターのZER05FINEについても、同じようなことがいえる。
 こうやって考えてくると、ヤマハのNS1000Mにしろ、ビクターのZER05FINEにしろ、日本出身のレコードでそのもちあじを特に発揮したわけではないから、外国のスピーカーたちとちがって、お国訛りがないということになる。お国訛りというのは、いってみれば一種の癖であるから、ない方がこのましいと、基本的にはいえる。ただ、場合によっては、そういうスピーカーの癖が、レコードの癖と一致して、えもいわれぬ魅力となることもなくはない。シーメンスのBADENのきかせたニナ・ハーゲンやクラフトワークのレコードの音がそうであり、エリプソンの1303Xがきかせたヴェロニク・サンソンのレコードの音がそうである。
 癖があるのがいいのかどうか、とても一概にはいいきれない。同じ価格帯で比較したら、日本のスピーカーの多くは、平均点で、外国産のスピーカーを大きくひきはなすにちがいない。さしずめ、日本のスピーカーは3割バッターといたところである。そこへいくと、外国のスピーカーの多くは、ねらったところにきたらホームランにする長距離打者といるであろう。
 ただ、この場合、ききてであるかぼくが日本人であるために、日本のスピーカーのお国訛りが感じとれないとういこともあるかもしれないので、はっきりしたことはいいにくいところがあるが、日本のスピーカーは、ドイツのシーメンスのBADENをドイツ的というような意味で日本的とはいいにくいように思うが、どうであろうか。
 くりかえして書くが、、ヤマハとビクターのスピーカーは、大滝詠一やブレッド&バターのレコードもこのましくきかせたが、それと同じようにハーブ・アルバートやマーティ・バリンのレコードもこのましくきかせた。その意味で安心してつかえるスピーカーではあるが、きらりとひかる個性にいくぶん欠けるといえなくもないようである。

B&O Beovox S80

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 青い音とでもいうべきであろうか、すっきりした、透明度の高い音である。ほかの国のスピーカーからは感じとれない、独自の、しかし耳に心地よい音である。
 レコードは、いくぶんこじつけめくが、アバの『スーパー・トゥルーパー』とパット・メセニーの『アメリカン・ドリーム』をきいてみた。そしてここでもやはり、なるほどと納得する結果になった。アバの歌は、いずれも、巧みなサウンド設計に支えられていると思うが、そのことがよくわかるきこえ方をした。それに、アバの歌では、歌い手たちの声がいくぶん楽器的にあつかわれていて、声そのものが。情感を背負うことはあまりないことも、ここでは幸いしていたようである。
 たとえばヴェロニク・サンソンの唱などをきくと、エリプソンの1303Xできいた場合とまるでちがって、肌ざわりのつめたいものになる。その辺にこのスピーカーの特徴があるといえよう。ハーブ・アルバートのトランペットの音は、本来のあじわいとはすくなからずちがうが、あたかも涼風が頬をなでていったように感じられ、これはこれでわるくないと思わせた。
 パット・メセニーのレコードでは、キーボードによる低い音が過度にふくらむことなく、このましかった。サウンドのフィーリングが音楽のフィーリングとぴったりあっていたようである。

エリプソン 1303X

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 ひとことでいえば、瀟洒なスピーカーということになるであろう。スリムなボディから、いかにもフロア型スピーカーならではの、たっぷりしたひびきがきこえてきた。音は、しなやかであり、ふっくらしていて、ソフトであった。
 ここでは、ヴェロニク・サンソンのレコードと、ミッシェル・ポルナレフのレコードをきいてみたが、とりわけヴェロニク・サンソンのレコードのきこえ方が、すこぶる見事であった。インストルメンタルによるバックがもう少し鮮明であってもいいのではないかと思ったりしたが、声のなまなましさは、なんともはや驚くべきものがあった。
 ハーブ・アルバートのレコードなどでも、音楽の切れあじの鋭さの提示ということでは多少の不満が残ったとしても、ひびきに独特のあかるさがあるで、音楽の性格をききてに感じとらせることができた。
 しかし、このフランス出身のスピーカーは、ハードな音楽はあまりきかないで、きくのは女声ヴォーカルが多いというような人には、うってつけかもしれない。このスピーカーの音は、力でききてに迫る音ではなく、そこはかとない雰囲気でききてににじりよるような音である。ただ、にじりよられても、音の湿度は高くなく、ひびきとしてあかるいので、嫌味にはならない。