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マッキントッシュ XRT20, JBL

菅野沖彦

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 正確には記憶していないが、多分、1967年ぐらいから、ぼくのメインシステムとしてJBLの375ドライバー十537−500(ホーン/レンズ)を中心としたスピーカーを使い始めた。当初から、3ウェイのマルチアンプシステムとして使い始めたもので、ぼくにとってこのスピーカーは、まさに妻のようなものであった。何故なら、ぼくがこれを使い始めた頃、ぼくの気持ちの中では、一生、このスピーカーとつきあおうと思っていたし、また、そうなりそうな予感もあったからである。トゥイーターは075、ウーファーは初めのうちはワーフェデールのW12RS・PST、そして後に目まぐるしく変り、結局、JBL2205に落着いて現在に至っている。もっとも、075は、その後、ぼく流に改造しているし、375ドライバーも2445Jに変ってはいるが、これは妻を変えたようなものではなく、女房教育をしたようなものである。つまり、通称〝蜂の巣ホーン〟を中心としたJBLのユニットによる3ウェイのマルチシステムという基本は、この17年間変ってないのである。もちろん、その間にも、いろいろなスピーカーに出会って、浮気心を起こしたこともあるし、そのうちの何人かは、本妻と一時的に同居させたこともあった。しかしいつも、せいぜい3〜6ヵ月で、妾のほうは追出されてしまうのが常だった。まさに浮気のようなもので、本妻と並べてみると、改めて、妻の美点がクローズアップされ、一時期血迷った自分を反省するのであった。時には妻にはない魅力を垣間見せる妾もいたが、総合的にはいつも妻のほうが上であった。それに気がついてしまうと、とても妻と妾を同居させている気がせず、妾のほうにはお引取り願うということになるのであった。
 そんなぼくとスピーカーとの関わり合いに、かつてない大事件が起きたのが、今から3年前、1982年の春である。
 その2年前、ぼくは録音の仕事でアメリカへ行き、ニューヨークで二週間ほど仕事をしたが、その間に、マッキントッシュのXRT20というシステムに出会ったのである。ぼくの浮気の虫は、にわかに鎌首を持上げ、この熟女の魅力の虜になってしまった。しかし、この時は、かろうじで理性が勝って旅先での出来事にとどめることが出来たのである。しかし日本に帰って、久しぶりにわが家で妻の歓迎を受けながらも、XRT20の妻にはない魅力が想起され、妻には悪いと思いながらも、妻との営みの最中にXRT20を空想したり、妻にXRT20の魅力を求め無理強いしたりという一年がつづいていた。しかし、再び、妻との生活に馴れ、いつしか、XRT20の記憶も薄れていったのだった。もとの落着いた心境で、夜な夜なベートーヴェンやハイドンを、バッハやモーツァルトを、そして、マーラーやブルックナーを招いて楽しい一時を過していたし、時にはソニー・ロリンズやアート・ペッパーを、また、大好きなメル・トーメやジョニー・ハートマンを招くこともあった。ジャズメンを招いた時の妻の喜々とした表情は、ことのほか魅力的で、とても15年連れそった古女房とは思えない若返りようであったものだ。
 が、忘れもしない1982年の春、日本でXRT20に再会してしまったのである
 XRT20が来日した! と聞いた時からぼくの胸は高鳴り、ニューヨークで味わった興奮が、まるで昨日のことのように甦ったのである。もう、居ても立ってもいられない。ぼくは後先顧みず、XRT20をわが家へ連れ込んでしまったのだった。彼女のために部屋を片づけ、レコード棚の一つは廊下へ出し、なんとかXRT20のために居心地のよいスペースを確保した。
 それからの数十日は、ぼくは平常心を失っていたように思う。朝な夕な、夜更けまで、ぼくはXRT20に狂っていた。柔らかく優美な肌、しなやかでいて強勒な、その肉体にのめり込んでいった。気性は妻よりややおとなしいように見えたが、どうしてどうして芯は強い。若いだけあって柔軟性に富んでいて、クラシック畑の人ともジャズ細の人とも、分け隔てなく馴染んでくれた。ぼく流の教育にも従順で、驚くほどの適応性を見せるのだった。
 この間、妻は無言であった。そしてある夜、ふと沈黙の妻の存在に気づき、久し振りにぼくは妻との語らいの一時をもった。そしてぼくはまたまた、妻の能力を再再発見したのである。妻はいった。
「私はXRT20とは違うのよ。でも、私は長年、あなたによって教育され、大人になったと思うの。それだけに新鮮味はないかもしれないけれど、XRT20とは違った心地よさをあなたに与えてあげられる自信があるの。この前、あなたの親しい瀬川冬樹さんが来られて、あなたとお話ししていらしゃっるのを聞いたわ。瀬川さんはさかんに私との離婚をあなたにすすめられていたわね。でも……私、嬉しかった。あなた絶対に首を縦に振らなかったもの。ありがとう。」
 ぼくはこの時から、長年の主義を破って妻を二人持つことに決めたのである。辛いオーディオ国の法律では重婚は禁じられていないようである。そして、新しいXRT20に、長年JBLに注ぎ込んだ情熱的教育に匹敵する努力を集中的に一年間傾注したのである。来ては去った多くの妾達とはXRT20は違っていた。他人からみるとXRT20がぼくの正妻のように見えるかもしれない。しかし、今や、堂々と、それでいて、ひかえ目に存在するJBLとは馴染んだ年輪が違う。どちらも、ぼくのとっておきの音である。
 この二人の妻と、いつまで続くかはぼくにもわからない……。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
「道具はすべて、使い手に寄り添ってくれる。」より

 XRT20を入れたとき、ぼくは、JBLユニットとの15年の成果も、これには敵わないと思った。一月ほどは、JBLのほうをかえりみなかった。ふとある日、電源を入れてみて、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや、全体のエネルギーバランスが大変似ているのに驚かされた。なるほど、ぼくがXRT20に、なんの抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追いこんできたぼくの音のバランス感覚に近い音をこのスピーカーが持っていたからだと気がついたのである。その後の1年半にわたるXRT20との格闘と、JBLシステムの改良をへて、この二つのシステムの音のバランスの差がますます縮っていくにつれ、二つの微妙な差は、こよなくぼくを楽しませてくれる。

 先程から、何回、この小さなマイクロフォンの長いコードを巻き直したことか。仕事柄、コード巻きは慣れているから苦にはならないけれど……それにしても……どうせ、巻いた後、すぐにほぐして、再びマイクを使うのなら、いちいち巻いて片付けることもないだろうに……と自分で自分を嘲笑いながら……。
 このマイクロフォンは、フレケンシーアナライザーの測定マイク。ぼくのリスニングルームのアコースティックを測っているのである。この日は、朝の9時頃から始めて、すでに夜の10時を過ぎている。そう……この間に、このマイクロフォンと測定器を、もう5度も片付けた。逆にいえば、5度、引っ張り出していることになる。これがぼくの性分で、測定器をそのままにしておいて、他のことをすることが不可能なのである。ながら族のように器用にはいかないのだ。この性分は、もう、子供の頃からのもの、いまさらどうしようもない。昔、アンプなどを自作していた頃、ぼくは周囲を全部片付けてからでないと音楽が聴けなかった。どうせ、すぐに引っ張り出さなければならないことはわかっていても、アンプを所定のケースの中に入れ、その辺に散らばった線材や半田ゴテなども片付けてからでないと、音楽が聴けなかった。オーディオ仲間の大部分は、アンプを垂直に立てたまま(つまり電圧を測る状態のまま)仮にプレーヤーやスピーカーをつないでレコードを聴いていた。まるで小工場の中にいる雰囲気で、それはそれでたいへん魅力的な、楽しい雰囲気なのだが、ぼくはこれでは、音楽を聴く、音を聴き分ける、聴き込む……といった集中力を生む心境にはなれなかった。
 ところで、この日、5度目の測定と調整を終えたのが11時過ぎ、例によって、周囲を元通りにしてから、ぼくは聴き馴れたレコードを聴いてみた。駄目だ。全然バランスがくずれてしまった。この日は、やればやるほど悪くなり、遂に、全く、ぼくの意図する方向とは反対の、客観的に聴いても、決して正しいとは聴こえぬバランスに陥ってしまった。もう、くたくたに疲れている。神経も、肉体も、正常な状態とは思えない。音を聴くことについては、録音や機器の試聴という仕事を通して、相当鍛えた自信もあるぼくだが、さすがに、13~14時間となるとまいる。今日はもう駄目だ。風呂に入って寝るとしよう。しかし……明日は仕事で出かけなければならないな……もう一度やってみようか……と未練がましく、なかば放心状態で、スピーカーから流れるモーツァルトのピアノ協奏曲に空虚な耳を晒している始末であった。もう、こんなことを何回やっているだろう。期間にすれば、一年半にはなるだろう。このマッキントッシュのXRT20というスピーカーを設置して以来だ。
 このスピーカーを鳴らし始めた時、その素晴らしさに感動し、夢中になった。MQ104というエンバイロンメタル・イクォライザーを一通り調整し、部屋におけるピーク・ディップを補正して聴き始めるのに、半日ぐらいを費やしただろうか。そこで鳴り始めた音の素晴らしさは、その立体感といい、質感といい、これぞぼくの求めていた音だと思ったものだ。新旧、あらゆるレコードを引っ張り出して、むさぼり聴いた。自分の録音したレコードも、ほとんどを聴き直した。一ヵ月ほどは、全く不満を感じなかった。多くの人が、わが家を訪れ、異句同音に、このスピーカーの素晴らしさを讃美した。中には、これはXRT20の素晴らしさもさることながら、菅野さんの音になっている……などと、過分の讃辞もいただいた。正直、ぼくも非常にいい気特になっていて、まるで、恋人のことをのろけるような気持で、このスピーカーをほめたたえた。
 一ヵ月を過ぎた頃から、よせばいいのに欲を出し始めた。アンプを取替えたり、コード類をいじったり……。さらには、イクォライザーMQ104の調整をゼロから始めることになった。
 MQ104は、左右、それぞれ4ポイントの周波数を選んで、ピーク・ディップを補正し、低域をコンペンセイトする音場補正機である。20ヘルツから20キロヘルツまでのバンドを1/3オクターヴバンドのピンクノイズ・ジェネレーターを使って測定し、最も有効と思われる4ポイントを選ぶわけだ。簡単にいえば、大きな順に4つのピーク・ディップを選ぶわけだが、これがそう簡単にはいかない。増減カーヴのQの設定とともにらみ合わせ、測定マイクロフォンの位置との関連も充分に考慮に入れて、左右の特性をそろえる最適ポイントの決定は、やればやるほど難しい。ここで、技術的なことを細かく書くつもりはないけれど、この作業は、ルームアコースティックを含めたオーディオ全般の知識理解と、忍耐力と、カンの鋭さを要求される大仕事であることを知った。特性をフラットに近づけるなどという単純な表現で済む仕事ではないのである。「一度調整したら、これを耳で聴きながらいじるべからず!」とマニュアルには書いてある。確かに、測定値を明確に読んで調整した後で、カンに頼っていいじりまわしたのでは何にもならないから、この注意書きは正しい。
 しかし、この測定値なるものが、そう簡単に信頼出来るものではないのである。単純に、リスニングポジションにマイクを置いて(原則的にはこれがベストだとは思うが……)計測した値をフラットにすることが、バランスのよい音楽の再生につながるとはいえないのである。たとえ、定在波の出にくいワーブルトーンを用いても、部屋の反射波や定在波などの複雑な影響はカット・アンド・トライの入念な積み重ねによって、聴感と、理想値特性とのバランスを求める努力を要求することになるのである。そしてまた、いくら、理屈にかなった特性だからといって、聴き手に違和感のある音を、我慢して聴くのもどうかと思う。たとえば、 リスニングポジションにおいて、スピーカーの音圧周波数特性をフラットに近く整えれば整えるほど、音は死に、リズムの躍動は止り、音色はモノトーン化するという現象がおこることも珍しくない。これには大きく二つの要因がある。一つは、リスニングポジションが、反射波・定在波の影響をきわめて受け易いポイントにあって、スピーカーからの直接放射の周波数特性とはほど遠い特性を示し、これを無理に電気的にフラットにした場合であり、他は、プログラムソースのエネルギー分布が習慣的に聴いているホール等のアコースティックとは大幅に異なるものが多いという理由によるとぼくは考えている。この他にも、細かい要因は考えられるが、この二つが最も注意すべきポイントだと思う。
 これ以上、具体的なことを書くのはここでの目的ではないが、とにかく、このルームアコースティックを含めた調整(ヴォイシング)は、とても一筋繩でいく単純なものではないのである。しかし、かといって、ルームアコースティックのなるがままという使い方では左右の特性のバラつき(音響的な)や、大きなピーク・ディップによる音色や音場感の変化などが必ず生じ、良質な再生音を得ることは難しい。むろん、部屋の特性を音響的にコントロールすることが正統的な方法だとは十分心得ているけれど、これは、さらに難しく途方もない出費につながる大仕事となること必定である。
 一度、このヴォイシングの仕事にこり始めると、たった4ポイントの組合せと、レベルの変化によってさえ、無限ともいえるバランスの再生結果が生じることを知らされるのである。因みに、部屋の中の数ポイントの測定値の平均均をとるなどという方法は乱暴きわまるもので、一つの尺度としてならともかく、最終的に、これをリスニングバランスとするのは危険きわまりないことであることもわかった。結局、測定を細かくおこなって、大きく把握判断し、これを尺度として、耳による細部の調整をすることが、唯一の方法であるという結論に達した。そして、同じバランスにしても、アンプがちがえば全く違った音となり、また、そのアンプで調整のやり直しの必要があるという、当り前のオーディオの現実を再々認識させられるのであった。
 明日は仕事で出かけなければならない。それに気がついた途端、ぼくは、風呂に入って寝ることを断念した。そして再び、測定器を引張り出すのであった。疲れている時には、ろくなことにならないことは解り切ってはいたが、こんな状態で、ぼくの装置を、たとえ数日間といえども放置することを考えると、その苦痛のほうがたまらない。なにをしていても、これが気にかかってしかたがないという、ぼくの性格的欠陥を誰よりもぼく自身がしっている。なんとかして、せめてその日の朝の状態に戻したい。記録を見ながら、周波数ポイントとレベル位置を元に戻す。そこで確認の測定。また、かなり大幅に異なった測定値を示す。道具を片付ける。音を聴く。駄目だ。もう一度。今度は発想を変えてみよう。夜も更けた。測定レベルをスケールダウンする。
 遂に、外が白み始めた。ガチガチと牛乳配達の音。朝である。約20時間を費やした。結果を音楽により判定する能力はもうなくなっていた。電源を切り、ベッドへもぐり込む。わかっていながら、もっとも無駄なことをやったという想い。しかし、これも、紙一重の音のよさを実現するための、しなければならない努力であり、必ず、なにか得るものがあったはず……という自らの慰めが交互する。神経ばかりが冴えて、体は疲れ切っているのに眠れない。3~4時間、夢うつつ。ピンクノイズやワーブルトーンに、グラフの数値、マイクロフォンを移動するにつれてフワーフワーと動くレベルメーターの指針の動きが眠っているはずの頭の中を去来する。あの時の、デ・ワールトとロッテルダム・フィルのデ・ドーレンに響きわたった木管と弦合奏の、あのテクスチェアー、カシミアのように軽く暖かく、柔らかい、あの質感が、いつ戻ってくるのか? こんなことなら、何も手をつけるべきではなかった。この馬鹿者が! いや、やってみせるぞ。そして、あの時のチェロとコントラバスのピツィカートの濁りをとって、より明確な音程の把握とを両立させてみせるぞという意気込みが交錯する夢と、現実の間を往ったり来たりという体たらくであった。
 それから4日目に、ようやく、一つの満足点を見つけ出すことに成功した。やった、やった。XRT20の可能性を信じてよかった。なんと、あのサン=サーンスの第3交響曲の第一楽章、第二部のボコ・アダージョ(デ・ワールト指揮ロッテルダム・フィル)の気になっていた数個所が、見事に解決したのである。弦合奏のカシミアタッチがカムバックしたし、ヴァイオリン群のしなやかさが、より美しく、そして、低弦のブーミーな響きがとれながら、オルガンのペダルは荘重に鳴り響いた。どうしてもヒステリックに鳴ったジュリーニ/シカゴ響のドヴォルザークの八番のシンフォニーのグラモフォン盤も、ずっと滑らかな高弦の響きに変り、低域の改善のためか、リズムが一段と力強く脈動するようになった。フィルクスニーのピアノの、あの独特のペダリングによる響きのニュアンスも、ぼくが録音で意図した音に近づいた。ダイアローグという、やはりぼくが録音したジャズのレコードのバスドラムの音も明らかに改善され、豊かなハーモニクスと、力強いファンダメンタルとが、ほどよいバランスの音色にまとまった。ローズマリー・クルーニーもよく歌うようになった。ややハスキーで太目の彼女の年増の魅力が、前よりずっと現実的になった。〝恋人と別れる50の方法〟を、わけ知りの彼女なら、こういうニュアンスで歌わなければいけない。
 ぼくは、レコード音楽の醍醐味に酔いしれていた。何という幸せであろう。この音で聴けるのなら、もうぼくは、周囲にわずらわされるコンサートなど、くそくらえだと思う。グレン・グールドではないけれど、コンサート・ドロップアウトである。そこには、もはや、スピーカーの存在はない。音楽の場が存在するだけだ。リスニングルームの壁は、いつの問にか取り払われて、その向うに、すっと空間が開け始める。苦しみの多かった分、そっくり、それは喜びと幸せに変ってくれる。オーディオはこれだからやめられない!
 こうして、ぼくの部屋のマッキントッシュXRT20は、一年半の格闘の末、ようやくぼくが、このスピーカーの可能性を引き出したと納得出来る鳴り方で鳴り始めたのであった。
 しかし、実をいうと、ぼくには、すでに17年ものつき合いをしている、もう一組のスピーカーシステムがあった。JBLのユニットで構成した、3ウェイのマルチチャネルシステムである。XRT20を入れた時、ぼくは、明らかに、JBLユニットとの15年の成果も、これにはかなわないと思った。亡くなった瀬川冬樹君は、XRT20を置いてひと月日ぐらいの頃にわが家を訪れ、その音が、XRT20もさることながら、これは菅野サウンドだよと評してくれた一人である。そして彼は、もうJBLは外へ出してしまうべきだと主張したものである。たしかに、この大きなJBLのシステムを外へ出すことによって、XRT20にとっては、より理想的な音響条件が得られることは事実で、ぼくも、時折、そうした衝動にかられることがあったものだ。だいたいこのJBLのシステムは、17年ほど前に、瀬川君と時を同じくして使い始めたもので、その後、彼のほうはKEFや同じJBLの4341、4343と、幾世代もの変遷を経たにもかかわらず、ぼくのほうは一貫して基本的には大きな変更をせずに、リファインすることに努力を傾注し続けて釆たものだった。075トゥイーター、375+537-500ドライバー/ホーン、そしてウーファーはエンクロージュアを含めて、何回も変っているが、当初からぼくはマルチアンプシステムでこれを鳴らしてきた。例のこだわりのしつっこさで、XRT20がくるまでの15年、これが、メインシステムとして、ぼくのオーディオの触手のようになっていたものである。
 XRT20を入れてひと月ほどは、これに夢中になって、JBLのほうをかえりみなかった。瀬川君に出してしまえといわれて、ぼくは気がついたように、ある日久し振りに、その3チャンネルマルチシステムの電源を入れたのである。ぼくは、この3チャンネル・マルチシステムをXRT20と比較試聴するる気はなく、ひと月ほどXRT20に馴染んだ耳には、きっと異質に聴こえるだろうという気持で鳴らしたものだ。ところが自分でもびっくり、その音に違和感はなかった。この二つのスピーカーは、片やドーム型トゥイーターとコーン型スコーカー、そして一方は、ホーン型トゥイーターと同じくホーン型スコーカーである。ユニットの性格は全くちがう。しかも、御存知のように、XRT20というスピーカーシステムは、24個ものトゥイーターを縦長のアレイに組み込み、ウーファー/スコーカー・セクションと分離した、きわめて特殊なシステムだ。
 だいたい、ぼくの経験では、二台のスピーカーを並べて聴くと、少なくとも色のちがいを認識するのと同じ程度、音はちがって聴こえるものである。それも、同じような構成のシステムでさえ明らかにちがう。別々に聴いて似ているような二組でも、切り換えて聴くと、色でいえば、赤とピンクほどのちがいが出るのが普通である。ノイズを聴いても、片方がサーなら、もう一方はカー、片方がザーなら、もう一方はガー、もっとひどい場合は、シーとガーほどちがう。その体験からすると、ひと月の間XRT20に馴れた耳にJBLは、さぞかし硬く鋭い音がするだろうと自分で思い込んでいたのである。ところが結果は、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや全体のエネルギーバランスはたいへん似ていたのである。これには、われながら驚いた。そして、なるほど、ぼくがXRT20に何の抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追い込んできたぼくの音のバランス感覚に近い音を、このスピーカーがもっていたからだと気がついた。
 もちろん、これだけちがうユニットだから、よく聴くと音の輪郭や質感にちがいはある。JBLを、やさしく、柔らかく、暖かく、馴らしてきたつもりであったけれど、XRT20のもつ、しなやかさ、柔軟さとはやはりちがって、よりクリアーでシャープな解像力をJBLはもっていた。音場は、XRT20が、スピーカーの後面に奥行きとして拡がるのに対し、JBLはスピーカー面から前に出る傾向をもつ。しかし、この点でも、ぼくのJBLはセッティングの苦労の結果、一般的なJBLよりずっと奥行き再現が可能ではあるが……。
 こうした本質的なちがいは残しながらも、その音の全体像が、大きくちがわないことに驚かされたぼくは、当時XRT20に使っていたマッキントッシュのコントロールアンプC32の出力を、片やXRT20をドライブするMC2500に直結したMQ104エンバイロンメンタル・イクォライザ一に、そしてもう一方を、JBLを3チャンネルでドライブしているアキュフェーズM60(低域用)テクニクスSE-A5(中域用)エクスクルーシヴM4a(高域用)に帯域分割をおこなっているチャンネルデバイダーのエスプリTA-D900に分岐した。C32は、パネル前面で2系統の出力を瞬時にノイズレスで切り換えられるので、きわめて便利である。こうして、両者のレベルを大ざっばに合わせて切り換え試聴をしてみて二度びっくり。ほんとうによく似ていたのである。時には、今どちらが鳴っているかわからないぐらいの似かたであった。新鮮さのなくなった古女房にあきて、浮気の相手をつくったはよいが、よりによって、女房とそっくりの女性だったという、よくある話のようなものだろう。あの人、どうせ恋人をつくるのなら、奥さんとちがったタイプの女性のほうが楽しいだろうに……と、よく人はいう。ぼくの友人にも、そういうのがいる。本人の好みというのはそういうものなのだろうと思っていたが、ぼく自身、恋人のほうはともかく、オーディオで、これと同じことをやっているのにわれながら驚き、苦笑した。
 なんということだ、これは。いや、しかし、面白いことになったぞ。これは、ますます、JBLも手離せないぞ……ということになってきた。よく聴き込むと、微妙な差が、なんともいえず互いの魅力をひき立てて、互いに互いを手本にして鳴らし込んでいくことに新たな興味が湧いてきた。XRT20にはピアノやパルシヴなジャズで調教をほどこし、JBLには、豊かなソノリティとプレゼンスをもった弦やオーケストラで調教をほどこすというアイデアが浮んできたのである。
 先に書いたXRT20のヴォイシングのあい間には、JBLのほうも、あれこれと調整をやっていったのである。この経過がまた、多くの点でぼくにとって勉強になった。この二つのスピーカーの指向性パターンや波状の違いも明確に把みとることが出来、JBLのユニットのセッティングポジションにも多くのヒントが得られた。JBLには、XRT20のように、全帯域のヴォイシングはおこなっていない。ウーファーの受持領域である、500Hzまでに、テクニクスのSH8075を挿入して、ピーク・ディップを補正するに止め、500Hz以上の中・高域は、デバイダーの出力にパワーアンプを直結している。したがって、500Hz以上のf特は、375ドライバー、075トゥイーター(これは、やや改造されているが……)の特性のままなので、XRT20の500Hz以上とはずい分違う。にもかかわらず、実際には、そんなに大きな違いは音楽再生で感じられない。これは、少なくとも、7、8人の人が、両方を聴いて驚かれているから、決してぼくの錯覚ではないと思う。。
 JBLシステムは、その後、遂に、中域のドライバーを375から2445Jに変更した。17年使い込んだ375にはエイジングの点からも、愛着からも、惜別の思いであったが、2445Jのもつ、より優れた特性、とりわけ中高域にたるみのないエネルギー、フラットな特性と、歪の少ない、自然な音質に強く魅せられてしまった。17年使い込んだ375に比べても、まるで、長年エイジングをほどこしたような柔軟でしなやかな鳴り方である。昨年の12月、サンスイJBL課の好意で試聴させてもらったが、もう、即座に「これ買うよ」ということに相成ってしまった。そしてまたもや、JBLシステムの調整が始まった。しかし、これは、それほど苦労はしなかった。といっても、12月13日に新しいドライバーに変って以来、時間さえあればリスニングルームに入りっぱなし、暮から正月にかけては、やや体の調子をくずしてしまうほど、あれこれとやっていた。その結果、この一月の中頃から、ようやく納得できる音になったが、XRT20との音のバランスの差はますます縮まり、音質の違いをこよなく楽しんでいる。そして、この二つのシステムならば、ぼくの聴きたい音楽のすべてをカバーしてくれるという満足度を、今のところ持っている。この二つのスピーカーにはまだ可能性があるはずだ。なければ、ないでいい。ぼくにとっては、スピーカーをいじること自体が目的ではないし、スピーカーそのものが目的でもない。自分の欲する音で、音楽を聴くのが目的だ。スピーカーの優秀性というのは、ぼくがいつも思うように、可能性であって、結果は使い手の腕と努力次第だ。世間のほとんどのスピーカーは、その能力の50%からせいぜい70%止りのところで鳴っている場合が多い。ぼくのオーディオの楽しみは、これをなんとか100%に近くもっていくところにある。17年かかっても、JBLのユニットが100%能力を発揮しなかったのは事実だ。マッキントッシュのXRT20だって、ぼくが今満足しているからといっても、100%能力を引き出しているとはいえないだろう。そしてまた、これが大切なところであるが、道具はすべて、使い手に寄り添ってくれるという性格のフレキシビリティをもっていることだ。ろくすっぱ使い込まないで、あれこれと道具を取りかえるのは愚かなことである。それが、信頼出来る機器として認められ、かつ、自分が選んだものであるならば、とことん努力をしてみるべきだろう。道具を過信し、道具に寄りかかっている人の場合、不満が出ると、すぐ道具のせいにする。そして他の道具に、ころりと初対面で目移りがしてしまうのではないか。道具は手段、結果は自分であることを認識すべきだしぼくは思うのだ。
 この3年間ほど、ぼくは本当にオーディオを楽しんだ。そして、これからも、楽しみたい。コンパクトディスクという新しいプログラムソースが出てきたからには、また、新しい楽しみの世界が用意されるにちがいない。現に、ぼくは、コンパクトディスクのあのグレン・グールドのゴールトベルク変奏曲で近来にない興奮の時を過している。一日一回は、あのコンパクトディスクを聴かないとおさまらない。時間がない時には、アリアと第一変奏だけでも聴く。ぼくに、これだけの音楽的満足感を与えてくれるのだったら、アナログレコードだろうとテープだろうとコンパクトディスクだろうと、レーザーディスクだろうと関係ないが、ぼくはグールドという演奏家が死の間際にデジタルレコーディングを残し、しかも、あのゴールトベルク変奏曲のような素晴らしい成果を記録したことに大きなオーディオ的意義と喜びを感じている。コンサート・ドロップアウトを宣言し、レコード録音に音楽家の生命をかけた、この孤高の天才にとって、このコンパクトディスクの成果は正当な報酬といえるであろう。新旧二つのグールドのゴールトベルク変奏曲を聴く時に、その演奏の違いと、録音の差に限りない興味を抱くものである。もし、この演奏が、レコードやテープでは発売されず、コンパクトディスクでしか聴けないとしたら、ぼくは、この一枚だけのために、二十万円を投じてCDプレーヤーを買っても悔いないであろう。そして、このコンパクトディスクを、ぼくの知識と体験と、感性の全力を注いで、よりよい音、より好ましい音で聴く努力を惜しまないであろう。惜しむどころか、それがぼくのオーディオの楽しみである。ぼくのXRT20とJBLシステムの今の段階のように、ある程度の満足をしている状態はあったとしても、決して、これでレコードの情報のすべてを聴いたと確信できるわけではないし、また、その機器の能力を100%発揮させたと自信をもっていえるはずもない。全部を聴きたい、100%発揮させたいという願望を、生命ある限り持ち続けるということである。だから、ぼくのオーディオの楽しみは、これから先、ずっとつきることはあるまいと思う。ぼくは、いつも、音に対してハングリーなのである。満腹は一時の満足に過ぎない。

マッキントッシュ C33 + MC2500

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 MC2255との組合せも高品位の音だったが、この組合せはいちだんと素晴らしかった。従来、質的なデリカシーでは、MC2255のほうに歩があるという印象であったが、今回の試聴では、質量ともにMC2500との組合せが勝っていた。マーラーの響きは、重厚で柔軟性に富み、絢爛としたオーケストラの細部も見事に浮彫りにしながら、圧倒的な安定感のあるトゥッティの迫力。ピアニッシモも、十分繊細でしなやかな弦の音。見事な音だ。

マッキントッシュ C33 + MC2255

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 元気潑剌とした鳴りっぷりでいて、決して荒くならない。ただ、いつも僕が聴くこの組合せでは、もっとキメの細かい透明な音だったが、ここでは勢いのよさのほうが前面に出た印象である。ピアノ伴奏ヴォーカルでは、この組合せでは、低域の盛り上りはなくなり、きわめて豊かだが締った低域で、ヴォーカルもかぶらない。ジャズのベースも弾力性に富み、決して混濁しないで、豊かで力強い。質感ともによいバランスだ。

マッキントッシュ C33 + デンオン POA-8000

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 やや肌ざわりの冷たい音だが、滑らかさはあるし、ワイドレンジにわたって締まった音。マーラーの響きとしては、もっと熱っぽい音がほしいと思ったが、これはこれで現代的な響きで決して悪くない。組合せとしては、少々異質であることが、ヴォーカルを聴くとよくわかり、どこといって欠点として指摘するほどのことではないのだが、声質にはやや不自然な感じが出る。中低域の力と量感に対して、高域が質的にうまくバランスしない感じだ。

マッキントッシュ C33 + サンスイ B-2301

菅野沖彦

ステレオサウンド 65号(1982年12月発行)
特集・「高級コントロールアンプVSパワーアンプ72通りの相性テスト」より

 どういうわけか、低音が出すぎる。もの凄い量感だ。前にもこの組合せで聴いたことがあるが、そのときはこんなではなかった。しかし、音の質感はしっかりした骨格と芯の周囲に、弾力性のある適度な肉づきと、滑らかな皮膚がほどよくバランスした自然なもので、マーラーの響きの重厚さと絢爛さは素晴らしい。ヴォーカルの質感も暖かく、リアリティのあるもの。ジャズでは前述のようにベースが重すぎ、やや鈍重にすぎたようだ。

マッキントッシュ C33, MC2255

マッキントッシュのコントロールアンプC33、パワーアンプMC2255の広告(輸入元:バエス)
(オーディオアクセサリー 27号掲載)

C33

マッキントッシュ C33 + MC2255

黒田恭一

ステレオサウンド 64号(1982年9月発行)
特集・「スピーカーとの相性テストで探る最新セパレートアンプ44機種の実力」より

ヤマハ・NS1000Mへの対応度:★★★
 ひびきは上品であり、ゆたかである。しかしながら個人的な好みでいわせていただければ、いくぶんひびきに肉がつきすぎていると思う。そのためと考えていいと思うが、音像は総じて大きめである。いずれのレコードでもバランスがとれていて、しかもその提示のしかたには独自の表情がある。
タンノイ・Arden MKIIへの対応度:★★
 とりわけ②や③のレコードで感じることであるが、ひびきの角がとれすぎている。むろんそれなりの迫力はうみだすが、シャープさの点でもものたりなさが残る。①のレコードでの重心の低いひびきは特徴的であった。細部の音の動きがさらに鮮明に示されれば音としての説得力もますのであろうが。
JBL・4343Bへの対応度:★★
 スレッショルドのきかせた音の対極にある音というべきである。⑤のレコードできかせた円やかであたたかいひびきにこのアンプの魅力を認めるべきであろう。ひびきのストレートななまなましさを求めたら、ここでは不満をおぼえるはずである。①のレコードでのヴァイオリンの音は美しかった。

試聴レコード
①「マーラー/交響曲第6番」
レーグナー/ベルリン放送管弦楽団[ドイツ・シャルプラッテンET4017-18]
第1楽章を使用
②「ザ・ダイアローグ」
猪俣猛 (ds)、荒川康男(b)[オーディオラボALJ3359]
「ザ・ダイアローグ・ウィズ・ベース」を使用
③ジミー・ロウルズ/オン・ツアー」
ジミー・ロウルズ(P)、ウォルター・パーキンス(ds)、ジョージ・デュビビエ(b)[ポリドール28MJ3116]
A面1曲目「愛さずにはいられぬこの思い」を使用
④「キングズ・シンガーズ/フレンチ・コレクション」
キングズ・シンガーズ[ビクターVIC2164]
A面2曲目使用
⑤「ハイドン/6つの三重奏曲Op.38」
B.クイケン(fl)、S.クイケン(vn)、W.クイケン(vc)[コロムビア-アクサンOX1213]
第1番二長調の第1楽章を使用

マッキントッシュ C29, MC2255

マッキントッシュのコントロールアンプC29、パワーアンプMC2255の広告(輸入元:バエス)
(モダン・ジャズ読本 ’82掲載)

mcintosh

マッキントッシュ MC2500

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 500W+500Wのパワーをもつステレオアンプで、これは最低保証値。実際は600Wオーバーの実力をもつマッキントッシュ・アンプ・シリーズの旗艦である。その内容からすると、これでも最もコンパクトである。MC3500以来の伝統的デザインイメージを保ち、自他ともに王者の貫禄を示す。高度な技術(開発生産両面)と長いキャリアをもつ同社にして可能な内容価値と風格をもつものだろう。ピークホールド機能をもつ大型メーターつき。

音質の絶対評価:10

マッキントッシュ MC2205

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 マッキントッシュのアンプ代表機種で、200W+200Wのパワーが、パワーガード・サーキットで安定して供給され、サチュレーション・フリーである。400Wモノーラルアンプとしても使える。あのブルー・メーター、グラス・イルミネーションの美しさは、古い新しいを超越した美しいものであるばかりでなく、ガラスを割らない限り、その美しさは半永久的に持続する。現在最も信頼性と完成度の高いパワーアンプの一つだろう。

音質の絶対評価:9

マッキントッシュ MC502

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 マッキントッシュとしては異例の薄型のプロポーションを採用したアンプで、50W+50Wのステレオアンプ。グラス・イルミネーションは全く同じで、金文字がパワー・オンでグリーンに美しく変色する。ブルー・メーターはないが、明らかにマッキントッシュのアンプであることは一目瞭然。パワーガードが威力を発揮し、まずクリップ音は出てこない。モノ接続で150Wアンプとなる。伝統のアウトプットランスは持たないAB級。

音質の絶対評価:8.5

マッキントッシュ C32

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 同社のプリアンプの最高峰がこの製品だ。はっきりいって、エキスパンダーは余計なもので、このアンプを使う人たちの音への要求と、この機能はちぐはぐだと思う。これは日本人とは異なる発想としか思えない。しかしこれをスイッチ・オフして使わないとしても、このアンプの魅力は、いささかも損なわれない。C29とはひと味違った楽音のニュアンスが、ここには聴ける。29同様、大人の風格と、王者の貫禄をもったプリアンプ。

音質の絶対評価:10

「いま、いい音のアンプがほしい」

瀬川冬樹

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「いま、いい音のアンプがほしい」より

 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
 そこに思い当ったとき、記憶は一度に遡って、私の耳には突然、JBL・SA600の初めて鳴ったあの音が聴こえてくる。それまでにも決して短いとはいえなかったオーディオ遍歴の中でも、真の意味で自分の探し求めていた音の方向に、はっきりした針路を発見させてくれた、あの記念すべきアンプの音が──。
 JBLのプリメイン型アンプSA600が発表さたのは、記憶が少し怪しいがたぶん1966年で、それより少し前の1963年には名作SG520(プリアンプ)が発表されていた。パワーアンプは、最初、ゲルマニウムトランジスター、入力トランス結合のSE401として発表されたが、1966年には、PNP、NPNの対称型シリコントランジスターによって、全段直結、±二電源、差動回路付のSE400型が、?JBL・Tサーキット?の名で華々しく登場した。このパワーアンプに、SG520をぐんと簡易化したプリアンプを組合わせて一体(インテグレイテッド)型にしたのがSA600である。この、SE400の回路こそ、こんにちのトランジスターパワーアンプの基礎を築いたと言ってよく、その意味ではまさに時代を先取りしていた。
 私たちを驚かせたのは、むろん回路構成もであったにしても、それにもまさる鳴ってくる音の凄さ、であった。アンプのトランジスター化がまだ始まったばかりの時代で、回路構成も音質もまた安定度の面からも、不完全なトランジスターアンプがはびこっていて、真の音楽愛好家の大半が、アンプのトランジスター化に疑問を抱いていた頃のことだ。それ以前は、アメリカでは最高級の名声を確立していたマランツ、マッキントッシュの両者ともトランジスター化を試みていたにもかかわらず、旧型の管球式の名作をそれぞれに越えることができずにいた時期に、そのマランツ、マッキントッシュの管球式のよさと比較してもなお少しも遜色のないばかりか、おそらくトランジスターでなくては鳴らすことのできない新しい時代を象徴する鮮度の高いみずみずしい、そしてディテールのどこまでも見渡せる解像力の高さでおよそ前例のないフレッシュな音を、JBLのアンプは聴かせ、私はすっかり魅了された。
 この音の鮮度の高さは、全く類がなかった。何度くりかえして聴いたかわからない愛聴盤が、信じ難い新鮮な音で聴こえてくる。一旦この音を聴いてしまったが最後、それ以前に、悪くないと思って聴いていたアンプの大半が、スピーカーの前にスモッグの煙幕でも張っているかのように聴こえてしまう。JBLの音は、それぐらいカラリと晴れ渡る。とうぜんの結果として、それまで見えなかった音のディテールが、隅々まではっきりと見えてくる。こんなに細やかな音が、このレコードに入っていたのか。そして、その音の聴こえてきたことによって、これまで気付かなかった演奏者の細かな配慮を知って、演奏の、さらにはその演奏をとらえた録音の、新たな側面が見えはじめる。こんにちでは、そういう音の聴こえかたはむしろ当り前になっているが、少なくとも1960年代半ばには、これは驚嘆すべきできごとだった。
 ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音を鳴らしながら音楽全体の姿を歪めるようなことなくまたそれだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを求めてゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持には容易になれないものである。
 8×10(エイトバイテン)のカラー密着印画の実物を見るという機会は、なかなか体験しにくいかもしれないが、8×10とは、プロ写真家の使う8インチ×10インチ(約20×25センチ)という大サイズのフィルムで、大型カメラでそれに映像を直接結ばせたものを、密着で印画にする。キリキリと絞り込んで、隅から隅までキッカリとピントの合った印画を、手にとって眺めてみる。見えるものすべてにピントの合った映像というものが、全く新しい世界として目の前に姿を現わしてくる。それをさらに、ルーペで部分拡大して見る。それはまさに、双眼鏡で眺めた風景に似て、超現実の別世界である。
 写真に集中的に凝っていたころ、さまざまのカメラやレンズの名品を、一度は道楽のつもりで手もとに置いた時期があった。しかし、たとえばタンバールやヘクトールなどの、幻ともいわれる名レンズといえども、いわゆるソフトフォーカスタイプのレンズは、どうにも私の好みには合わないことを、道楽の途中で気づかされた。私は常に、ピントの十分に合った写真が好きなのだった。たとえば長焦点レンズの絞りを開放近くに開いて、立体を撮影すれば、ピントの合った前後はもちろんボケる。仮にそういう写真であればあったで、ともかく、甘い描写は嫌いで、キリリと引締った鋭く切れ込む描写をして欲しい。といって、ピントが鋭ければすべてよいというわけではない。髪の毛を、まるで針金のような質感に写すレンズがある。逆に、ピントの外れた部分を綿帽子のようにもやもやに描写するレンズがある。どちらも私は認めない。髪の毛の質感と、バックにボケて写り込んでいる石垣の質感とが、それぞれにそれらしく感じとれないレンズはダメだ。その上で、極力鋭いピントを結ぶレンズ……。こうなると、使えるタマは非常に限られてしまう。
 そうした好みが、即ち再現された音への好みと全く共通であることは、もう言うまでもなくさらにはそれが、食べものの味の好み、色彩やものの形、そして異性のタイプの好みにまで、ひとりの人間の趣味というものは知らず知らずに映し出される。それだから、アンプを作る人間の好みがそれぞれのアンプの鳴らす音の味わいに微妙に映し出され、アンプを買う側の人間がそれを嗅ぎ分け選び分ける。自分の鳴らしたい音の世界を、どのアンプなら垣間見せてでもくれるだろうか。さまざまのアンプを聴き分け、選ぶ楽しさは、まさにその一点にある。
 どこまでも細かく切れ込んでゆく解像力の高さ、いわばピントの鋭さ。澄み切った秋空のような一点の曇りもない透明感。そして、一音一音をゆるがせにしない厳格さ。それでありながら、おとのひと粒ひと粒が、生き生きと躍動するような,血の通った生命感……。そうした音が、かつてのJBLの持っていた魅力であり、個性でもあった。一聴すると細い感じの音でありながら、低音の音域は十分に低いところまで──当時の管球の高級機の鳴らす低音よりもさらに1オクターヴも低い音まで鳴らし切るかのように──聴こえる。そのためか、音の支えがいかにも確としてゆるぎがない。細いかと思っていると案外に肉づきがしっかりしている。それは恰も、欧米人の女声が、一見細いようなのに、意外に肉づきが豊かでびっくりさせられるというのに似ている。要するにJBLの音は、欧米人の体格という枠の中で比較的に細い、のである。
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような?一見……?ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば?黄金の中庸精神?で一貫していた。だが、そのほんとうの意味が私に理解できたのは、もっとずっとあとになってのことだった。アンプの自作をやめて、最初に身銭をはたいて購入したのが、マランツ♯7だった。自作のアンプにくらべてあまりにも良い音がして序ッ区を受けた話はもう何度も書いてしまったが、そのときには、まだ、マランツというアンプの中庸の性格など、聴きとれる筈がない。アンプの音の性格というものは、常に「それ以外の、そしてそれと同格でありながら傾向を異にする」音、を聴いたときに、はじめて、理解できるものだ。一台のアンプの音だけ聴いて、そのアンプの音の傾向あるいは音色が、わかる、などということは、決してありえない。それは当然なので、アンプの音を聴くには、そのアンプにスピーカーを接続し、何らかのプログラムソースを入れてやって、そこで音がきこえる。そうして鳴ってきた音が、果して、どこまでそのアンプ自体の音、なのか、もしかしたら、それはスピーカーの音色なのか、あるいはまた、カートリッジやアームやターンテーブルや、それらを包括したプレーヤーシステムの音色、なのか、それともプログラムソース側で作られた音色なのか、さらにまた、微妙な部分でいえば接続コードその他の何らかの影響であるのかどうか──。そうしたあらゆる要因によるそれぞれに固有の音色をすべて差し引いた上で、これがこのアンプの固有の音色だ、このアンプの個性だ、と言い切るには、くりかえしになるが、そのアンプと同格の別のアンプを、少なくとも一台、できれば二〜三台、アンプ以外の他の条件をすべて揃えて聴きくらべてからでなくては、「このアンプの音色は……」などと誰にも言えない筈だ。
 そうした道理で、マッキントッシュの豊潤さ、JBLの明晰さ、を両つ(ふたつ)の極として、その中間にマランツが位置する、と理解できたのは、つまりそういう比較をできる機会にたまたま恵まれたからであった。それが、本誌創刊第三号、昭和42年の初夏のことであった。
 このときすでに、JBLのSG520とSE400の組合せが、私の装置で鳴っていた。スピーカーもJBLで、しかしまだ、こんにちのスタジオモニターシリーズのような完成度の高いスピーカーシステムが作られていなかったし、あこがれていた「ハーツフィールド」は、入手のめどがつかず、「オリムパス」は二〜三気になるところがあって買いたいというほどの決心がつかなかったので、ユニットを買い集めて自作した3ウェイが鳴っていた。そのシステムをドライヴするアンプは、ほんの少し前まで、マランツの♯7プリに、QUADII型のパワーアンプや、その他の国産品、半自作品など、いろいろとりかえてみて、どれも一長一短という気がしていた。というより、その当時の私は、アンプよりもスピーカーシステムにあれこれと浮気しているまっ最中で、アンプにはそれほど重点を置いていなかった。
 昭和41年の暮に本誌第一号が創刊され、そのほんの少しあとに、前記のプリメインSA600を、サンスイの新宿ショールーム(伊勢丹の裏、いまダイナミックオーディオの店になっている)の当時の所長だった伊藤瞭介氏のご厚意で、たぶん一週間足らず、自宅に借りたのだった。そのときの驚きは、本誌第9号にも書いたが、なにしろ、聴き馴れたレコードの世界がオーバーに言えば一変して、いままで聴こえたことのなかったこまかな音のひと粒ひと粒が、くっきりと、確かにしかし繊細に、浮かび上り、しかもそれが、はじめのところにも書いたようにおそろしく鮮度の高い感じで蘇り息づいて、ぐいぐいと引込まれるような感じで私は昂奮の極に投げ込まれた。全く誇張でなしに、三日三晩というもの、仕事を放り出し、寝食も切りつめて、思いつくレコードを片端から聴き耽った。マランツ♯7にはじめて驚かされたときでも、これほど夢中にレコードを聴きはしなかったし、それからあと、すでに十五年を経たこんにちまで、およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない。今になってそのことに思い当ってみると、いままで気がつかなかったが、どうやら私にとって最大のオーディオ体験は、意外なことに、JBLのSA600ということになるのかもしれない。
 たしかに、永い時間をかけて、じわりと本ものに接した満足感を味わったという実感を与えてくれた製品は、ほかにもっとあるし、本ものという意味では、たとえばJBLのスピーカーは言うに及ばず、BBCのモニタースピーカーや、EMTのプレーヤーシステムなどのほうが、本格派であるだろう。そして、SA600に遭遇したが、たまたまオーディオに火がついたまっ最中であったために、印象が強かったのかもしれないが、少なくとも、そのときまでスピーカー第一義で来た私のオーディオ体験の中で、アンプにもまたここまでスピーカーに働きかける力のあることを驚きと共に教えてくれたのが、SA600であったということになる。
 結局、SA600ではなく、セパレートのSG520+SE400Sが、私の家に収まることになり、さすがにセパレートだけのことはあって、プリメインよりも一段と音の深みと味わいに優れていたが、反面、SA600には、回路が簡潔であるための音の良さもあったように、今になって思う。
 ……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
 だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
 そうした体験にくらべると、最初に手にしたにもかかわらず、マランツのアンプの音は、私の記憶の中で、具体的なレコードや曲名と、何ひとつ結びついた形で浮かんでこないのは、いったいどういうわけなのだろうか。確かに、その「音」にびっくりした。そして、ずいぶん長い期間、手もとに置いて鳴らしていた。それなのに、JBLの音、マッキントッシュの音、というような形では、マランツの音というものを説明しにくいのである。なぜなのだろう。
 JBLにせよマッキントッシュにせよ、明らかに「こう……」と説明できる個性、悪くいえばクセを持っている。マランツには、そういう明らかなクセがない。だから、こういう音、という説明がしにくいのだろうか。
 それはたしかにある。だが、それだけではなさそうだ。
 もしかすると私という人間は、この、「中庸」というのがニガ手なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、音のバランス、再生される音の低・中・高音のバランスのよしあしは、とても気になる。その意味でなら、JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。
 そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。たから引きずりこまれない……。
 また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
 なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
 パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
 むろん以上は私の独断だが、バランスはちょっと崩したところにこそ魅力を感じさせるのであれば、マランツの音は立派ではあったが魅力に欠けるという理由はこれで説明がつく。そしてもうひとつ、これこそ最も皮肉な事実だが、その時点での最高の技術を極めた音であれば、とうぜんの結果として、技術が進歩すればそれは必ず古くなる。言いかえれば、より一層進んだ技術をとり入れ、完成を目ざしたアンプに、遠からず追い越される。
 ところが、マッキントッシュのように、ひとつの個性を究め、独特の音色を作り上げた音は、それ自体ひとつの完成であり、他の音が出現してもそれに追い越されるのでなく単にもうひとつ別の個性が出現したというに止まる。良い悪いではなく、それぞれが別個の個性として、互いに魅力を競い合うだけのことだ。その意味では、JBLのかつての音は、いくぶんきわどいところに位置づけられる。それはひとつの見事な個性の完成でありながら、しかし、トランジスターの(当時の)最新の技術をとり入れていただけに、こんにち聴くと、たとえば歪が少し耳についたり、S/N比がよくなかったり、などの多少の弱点が目につくからだ。もっとも、それらの点でいえばマッキントッシュとて例外とはなりえないので、やはりJBLのアンプの音は、いま聴き直してみても類のないひとつの魅力を保ち続けていると、私には思える。あるいは惚れた人間のひいき目かもしれないが。
 マランツ、マッキントッシュ、JBLのあと、アメリカには、聴くべきアンプが見当らない時期が長く続いた。前二社はトランジスター化に転身をはかり、それぞれに一応の成果をみたし、マッキントッシュのMC2105などかなりの出来栄えではあったにしても、私自身は、JBLで満足していた。アメリカ・クラウン(日本でのブランドはアムクロン)のDC300が、DCアンプという回路と、150ワット×2という当時としては驚異的なハイパワーで私たちを驚かせたのも、もうずいぶん古い話になってしまったほどで、アメリカでは永いあいだ、良いアンプが生れなかった。その理由はいまさらいうまでもないが、ソ連との宇宙開発競争でケタ外れの金をつぎ込んだところへ、ヴェトナム戦争の泥沼化で、アメリカは平和産業どころではなかったのだ。
 こうして、1970年代に入ると、日本のアンプメーカーが次第に力をつけ始め、プリメインアンプではその時代時代に、いくつかの名作を生んだ。そうした積み重ねがいわばダイビングボードになって、たとえばパイオニア・エクスクルーシヴM4(ピュアAクラス・パワーアンプ)や、ヤマハBI(タテ型FET仕様のBクラス・パワーアンプ)などの話題作が誕生しはじめた。ことにヤマハは、古くモノーラル初期に高級オーディオ機器に手を染めて以後、長らく鳴りをひそめていた同社が、おそらく一拠に名誉挽回を計ったのだろう全力投球の力作で、発売後しばらくは高い評価を得たが、反面、ちょうどこの時期に国内の各社は力をつけていたために、かえってこれが引き金となったのか、これ以後、続々とセパレートタイプの高級アンプが世に問われる形になった。ただしもう少し正確を期した言い方をするなら、パイオニアやヤマハよりずっと早い時期に作られたテクニクスの10000番のプリとメインこそ、国産の高級セパレートアンプの皮切りであると思う。そしてこのアンプは当時としては、音も仕上げも非常に優れた出来栄えだった。しかし価格のほうも相当なもので、それであまり広く普及しなかったのだろう。
 パイオニアM4はAクラスだから別として、テクニクスもヤマハも、ともに100ワット×2の出力で、これは1970年代半ば頃としては、最高のハイパワーであった。
 テクニクスもパイオニアもヤマハも、それぞれにプリアンプを用意していたが、そのいずれも、パワーアンプにもう一歩及ばなかった。というより、全世界的にみて、マランツ♯7、マッキントッシュC22、そしてJBL・SG520という三大名作プリアンプのあと、これらを凌ぐプリアンプは、まるでプッツリと糸が切れたように生れてこなかった。数だけはいくつも作られたにしても、見た目の風格ひとつとっても、これら三者の見事な出来栄えの、およそ足もとにも及ばなかった。あるいはそれは私自身の性向をふまえての見方であるのかもしれない。自分で最初に購入したのが、くり返すようにマランツ♯7と、パワーアンプはQUADIIで我慢したように、はじめからプリアンプ指向だった。JBLも、ふりかえってみるとプリアンプ重視の作り方が気に入ったのかもしれない。そう思ってみると、私をしびれさせたマッキントッシュのMC275は、たいしたパワーアンプだということになるのかもしれない。マッキントッシュのプリアンプは、どの時期の製品をとっても、必ずしも私の好みに十分に応えたわけではなかったのだから。
 それにしてもプリアンプの良いのが出ないねと、友人たちと話し合ったりしていたところに登場したのが、マーク・レヴィンソンだった。
 最初の一台のサンプル(LNP2)は、本誌の編集部で初めて目にした。その外観や出来栄えは、マランツやJBLを使い馴れた私には、殆どアピールしなかった。たまたま居合わせた山中敬三氏が、新製品紹介での試聴を終えた直後で、彼はこのLNP2を「プロ用まがいの作り方で、しかもプロ用に徹しているわけでもない……」と酷評していた。キャノンプラグとRCAプラグを併べてとりつけたどっちつかずの作り方が、おそらく山中氏の気に入らなかったのだろうし、私もそれには同感だった。
 ところで音はどうなんだ? という私の問いに、山中氏はまるで気のない様子で、近ごろ流行りのトランジスターの無機的な音さ、と、一言のもとにしりぞけた。それを私は信用して、それ以上、この高価なプリアンプに興味を持つことをやめにした。
 あとで考えると、大きなチャンスを逃したことになった。この第一号機は、いまのRFエンタープライゼスではなく、シュリロ貿易が試みに輸入したもので、結局このサンプルの評価が芳しくなく、もて余していたのを、岡俊雄氏が聴いて気に入られ、引きとられた。つまり、LNP2を日本で最初に個人で購入されたのは、岡俊雄氏ということになる。
 しばらくして、輸入元がRFに代わり、同社から、一度聴いてみないかと連絡のあったときも、最初私は全く気乗りしなかった。家に借りて、接続を終えて音が鳴った瞬間に、びっくりした。何ていい音だ。久しぶりに味わう満足感だった。早く聴かなかったことを後悔した。それからレヴィンソンとのつきあいが始まった。1974年のことだった。
 レヴィンソンがLNP2を発表したのは1973年で、JBLのSG520からちょうど十年の歳月が流れている。そして、彼がピュアAクラスのML2Lを完成するのは、もっとずっとあとのことだから、彼もまた偶然に、プリアンプ型の設計者ということがいえ、そこのところでおそらく私も共感できたのだろうと思う。
 LNP2で、新しいトランジスターの時代がひとつの完成をみたことを直観した。SG520にくらべて、はるかに歪が少なく、S/N比が格段によく、音が滑らかだった。無機的などではない。音がちゃんと生きていた。
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれなず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
 レヴィンソンのいまの音を、もう少し色っぽく艶っぽく、そしてほんのわずか豊かにしたような、そんな音のアンプを、果して今後、いつになったら聴くことができるのだろうか。

マッキントッシュ C29

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 現在アメリカのオーディオメーカーの中で最もメーカーらしい信頼性と安定性で製品の高性能・高品質を保っているのはマッキントッシュだと思う。この製品にもそれが現われていて、バランスのとれた感覚と設計技術がうかがえる。部分的には決してマニアックではないし、流血革命派のような気負いもない。しかし、ここにはメーカーとしてのキャリアが、最新技術と伝統をバランスよく製品に生かした高品位の大人の風格がある。

音質の絶対評価:10 

マッキントッシュ C504

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 同社として初の薄型のプロポーションをもったプリアンプだ。伝統あるガラスパネル・イルミネーションを踏襲しているので一目瞭然、同社の製品であることがわかる。エモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージックを大切にする同社の考え方は、このグラス・イルミネーションに現われている。比較的手頃な価格でマッキントッシュ・フィーリングを所有出来るアンプで、パワーアンプMC502とのバランスが大変よい。

音質の絶対評価:8.5

マッキントッシュ MC2500

菅野沖彦

ステレオサウンド 58号(1981年3月発行)
特集・「第3回《THE STATE OF THE ART 至上のコンポーネント》賞選定」より

 マッキントッシュのMC2500は、同社の最新・最高の製品として、昨年(一九八〇年)発売された、超弩級アンプである。このアンプのパワーは、片チャンネル500Wという公称値で、実測では600Wオーバーという強力さである。しかもそれが、単にパワーの大きさにとどまらず、ローレベルからのリニアリティや、音の緻密さ、繊細感が瑞々しい雰囲気の再現とともに第一級の品位をもっているのである。
 MC2500は、今から約13年前に、マッキントッシュのパワーアンプの最高峰として君臨した、MC3500のピュア・ディグリーである。管球式のモノーラルアンプで350Wのパワーを誇ったこのアンプは一九六八年の発売で、20Hz〜20kHzのバンドウィズス、0・15%の歪みをフルパワーまで保証された、まさに当時の王者各のアンプであった。もちろん、同社の伝家の宝刀であるアウトプット・トランスフォーマーの特別に巨大なものが使われ、1Ω〜64Ωまでものインピーダンス・マッチングが得られる代物に目を見はったものだ。これとほぼ同形のシャーシにトランジスター式ステレオアンプとして構成された製品が、MC2300であって、この製品の登場とともに、MC3500は、その位置をトランジスター式ハイパワーアンプに譲り渡すことになった。
 MC2300は、300W+300Wのパワーで、トランジスター式ながら、依然としてアウトプット・トランスをもち、信頼性と安定性に充分な配慮がなされている点は、他のマッキントッシュアンプ同様である。このアンプの登場によって、マッキントッシュの全製品が、トランジスター化されたわけだが、一九七三年というこの時期は、大変遅い転換であり、同社の信頼性を第一に考える慎重な姿勢が現われているといえるだろう。
 以来、7年目に登場したが、このMC2500であって、80年代の幕開けに、MC3500の孫に当るMC2500が、マッキントッシュ艦隊の旗艦となったわけだ。3代にわたって、共通のデザイン・イメージをもつ、こトップモデルは、内容もまた、脈々と流れるマッキントッシュのアンプ作りの一貫した技術個セプトとノウハウの上に実現したものであって、この姿一つとっても、マッキントッシュが、いかに信頼性の高い筋金入りのメーカーであるかが理解できるであろう。創立以来35年、同社は、現在アメリカで、真の意味での独立企業として、最も古い伝統と、新しいテクノロジーをもち、積極的に開発とマーケティングに取り組んでいるメーカーの数少ない一つである。多くのアメリカのオーディオメーカーが、経済的に独立できず、古いメーカーは、ただ伝統の上にあぐらをかき、まるで老人のような体質になってしまったり、あるいは経験不足の新しいメーカーが、やたらに新しいテクノロジーだけを振りかざし、信頼性のない素人づくりのような製品を馬鹿げた高い値段で売ってみたりする中で、マッキントッシュ社は、確かな手応えの高級機器を、プロの名に恥じない完成度をもってわれわれに提示してくれるメーカーとして、今や貴重な存在なのだ。
 MC2500は、そうした同社の代表製品にふさわしい充実したもので、500Wオーバーのパワー、モーラルでは1kWを超える大出力を、高効率で得、しかも20Hz〜20kHzにわたって0・02%の歪みを保証している。118万円という価格は決して安くはないが、因みに、他の同級アンプの内容、価格と比較してみるならば、これが破格といってよい安さであることもわかるだろう。ましてや、一度このアンプを目前にして、使ってみるならば、もうお金にかえられない喜びと、充実の気持に満たされるはずだ。MC3500、MC2300と、常にその時代の最高のパワーアンプの後継にふさわしく、あらゆる点で、現代最高のパワーアンプの風格に満ちている。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より

 24個のトゥイーター・アレイをもつ、3ウェイ27ユニット構成というユニークなシステム。緻密な計算と周到な測定技術によって開発された抜群の指向特性によるステレオフォニックな音場再現、驚異的なリニアリティによるDレンジの大きなハイパワードライブ、広帯域の平坦な周波数特性など、物理特性でも最高水準のものだが、その音の品位の高さ、自然な楽器の質感や色彩感の再生は群を抜く、実に高貴な音だ。

マッキントッシュ C32

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より

 アメリカのマッキントッシュ社のプリアンプ中の最高機種である。多機能なコントロールマスターであり、5分割のイクォライザー、エキスパンダー、ヘッドフォン用パワーアンプなどをもつ。デザイン、仕上げの美しさ、高級感は最高峰で、オーディオファンの夢を実現したといえるだろう。そしてまた、音の素晴らしさ、操作類のプロ機器なみの配慮による円滑さなど、目に見えないところにこそ周到な作りがなされている。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 マッキントッシュといえばアンプメーカーの名門として知られ、その製品の高性能と信頼性、そして美しい仕上げ、デザインの風格はファンの憧れの的である。しかし、同社がもう8年も前からスピーカーシステムを製造し、発売していることはあまり知られていない。ここに御紹介するXRT20という製品は、同社の最新最高のシステムであるが、すでに昨1980年1月には商品として発売さていたものなのだ。したがって、いまさら新製品というには1年以上経た旧聞に属することになるのだが、不思議なことに日本には今まで紹介されていなかったのである。1年以上も日本の輸入元で寝かされていたというのだから驚き呆れる。
 私は、このXRT20のプロトタイプを、一昨年──1979年の秋──ニューヨークへ録音の仕事で行った時、同州・ビンガムトンのマッキントッシュ本社で聴くことができた。その時の音の素晴らしさは、ちょっと信じられないほどだったが、続いて今年の1月、同社の社長であるゴードン・J・ガウ氏の自宅で、じっくり聴く機会を得て再度確認。今は我家に設置して日夜、狂ったようにレコードコレクションの聴き直しに没頭している状態である。私の長年のオーディオ生活で、こんなに興奮し、改めてオーディオへの情熱を喚起され、レコードを聴く幸せを今さらながら味わいなおしたのは初めての経験である。
 このスピーカーシステムは、今までのシステムが決して出せなかった音を出す。その音には自然の音、生の楽器のみに聴き得た感触がある。音場のプレゼンスの豊かさはこのシステムの一大特長で、オーケストラがまさに眼前に展開するようだ。拡がり、奥行き、細部のディフィニションと全体の調和の見事さは、解きとして我耳を疑うほどで、スピーカーから音楽を聴いているという意識が失なわれてしまうことがある。
 マッキントッシュというメーカーは、常にその時代における最大パワーを誇るアンプを、最高のクォリティで提供してきたメーカーであることは御承知の通りである。したがって、マッキントッシュのスピーカー・ラインアップの最高の位置にあるこのXRT20は、それにマッチした強力なものであるはずだし、事実、ジャズやロック系の音楽を鳴らしてみると、こことがはっきり証明される。底力のあるベースを土台に圧倒的なハイレベルで轟くのだ。
 しかし、このようなヘヴィ・デューティのタフなスピーカーシステムというものは、ガンガン鳴らすと圧倒的な迫力は得られても、小入力で繊細なニュアンスを大切にする音楽には向かないというのが、我々の常識であった。そして、反対に、そうした繊細なニュアンスをキメ細かく再現するスピーカーシステムというものは、まず、大音量でパルシヴな波形を主体とするジャズやロックは無理というのが普通である。たとえば、エレクトロスタティック・スピーカーがそうだ。並のスピーカーでは絶対出せない透明繊細な弦楽器などのニュアンスは出してくれるのだが、大振幅がとれないために、打楽器の迫力などは到底望めないのである。
 このXRT20は、私が初めて出会った、その両面を高い次元で満たすことのできるスピーカーシステムであった。小音量で弦やチェンバロを聴いている時には、その透明繊細な、しなやかな音からは、とてもジャズやロックなどの大音量再生が可能とは想像できない音である。ところが、一度、ボリュウムを上げ出すと、パワーアンプに余裕さえあれば、どこまで上げても音くずれがなく、力感に溢れたエキサイティングな再生音を楽しむことができる。しかも、この時でさえ持ち前の音透明度、繊細感を失わないのは不思議とも感じられるほどで、そのリニアリティの高さは信じられないほどだ。20Hz〜20kHzに及ぶ帯域を均等なエネルギー分布でカバーしながら、決してワイドレンジを感じさせる誇張的鳴り方はしない。いわば物理特性が裸で感じられるような鳴り方ではないのである。
 一般に、物理特性だけを追求し、技術的な能書きの多いスピーカーほど優れた測定データは示しても、感覚的、情緒的に満されないものが多いものだ。つまり、音楽的魅力が感じられないのである。ただ物理特性だけを追求して、即、聴いてよいスピーカーができるとは限らないことは、今さらいうまでもないことだろう。現時点で解っている技術的問題点はあくまで追求すべきであるが、全体の姿を見誤ると、必ずどこかにアンバランスをきたし、音が無機的になるものだ。
 このXRT20の音は決してそのような無味乾燥な、つまらないものではないのは、大きな喜びであり驚きでもある。ある人がこの音を聴いて、〝本物です!! これは本物の弦楽器です!!〟と飛び上ったし、また、ある人は〝この音は、生の音を識り、ありとあらゆるスピーカー遍歴をした人ほど正しく評価するでしょう〟ともいった。つまり、強烈な毒性や、人工的な色彩感のない音でありながら、決して非情緒的な音ではないのだ。レコーディングされた楽器の音の個性的質感や味わいをちゃんと出すからである。
 優れた録音と演奏のオーケストラを聴くと、従来のスピーカーが鳴らすことのできなかったあの弦の合奏のヴェルヴェットのようなテクスチュアが、輝くばかりのブラスの色彩感が、そして、腹にこたえるようなグラン・カッサの響きが、実にリアルに美しく再現されるのだ。楽器の音色の忠実な再現だけにとどまらず、その音楽表現のこまかなニュアンスまで、他のスピーカーでは聴き得なかった微妙さと豊かさで鳴らし分けるのには感嘆せざるを得ない。弦のプルトが、ふうっとテンダーに、ソットヴォーチェするところなど、その気配さえ感じられる。フィリップス・レーベルの最近とみに快調な優秀録音によるネヴィル・マリナーやコーリン・デイヴィスのハイドンの交響曲シリーズ、そしてまた、同じくデイヴィスのディジタルレコーディングによる?展覧会の絵?など、あるいは、小沢征爾の?春の祭典?等々……があたかも録音時のモニターの向う側へ行ったように自然で美しく響く。その瑞々しい音体験、音楽体験に身体中がゾクゾクするほど至福の思いをさせられる。転じて、SJの最優秀録音賞に選出されたアリスタ・レーベルのスコット・ジャレットの?ウィズアウト・ライム・オア・リーズン?や、私の録音したトリオ・レーベルの?マイ・リトル・スウェード・シューズ?など一連のジャズを聴くと、とても同じスピーカーとは思えぬ表情で圧倒的大音量のパルシヴな再生を身体中で浴びることも出来るのだった。このスピーカーシステムは、明らかにレコード音楽の表現の忠実度と可能性を、一歩も二歩も前へ進めてくれるものといえるであろう。
 具体的な例を書き連ねていたらきりがないから、この辺で止めるが、これらの劇的ともいえる音の体験と、素敵な演奏をありのまま所有し得る実感は、私自身を夢中にさせずにおかないのだ。そして、この一月余りの間に我家を訪れた私のオーディオ仲間やメーカーの人達、ジャーナリスト達のすべてからも異口同音に感動の言葉が聞かれた。中でも、オーディオ体験が豊かで真摯な人ほど、感動の度合いが大きく感じられたのも興味深いことであった。解る人には解る音なのだ。
 XRT20は、写真で見られるように、実にユニークな形態をもったシステムで、ウーファーとスコーカーを収めたエンクロージュアと、トゥイーターを収めたアレイに分れている。30cmウーファーが2基に20cmスコーカーが1基、そして2・5cmトゥイーターが実に24基という構成の3ウェイシステムだ。ウーファー、スコーカーセクションは、約1mの高さ、65cmの幅、32cmの奥行きのエンクロージュアで、バッフルボードの両サイドが斜めにカットされディフラクションフリーのシェイプをとる。トゥイーターセクションは約2m(195・9cm)の高さ、27cmの幅、4・6cmの厚さのフラットなアレイで、これは、壁へ取付ける方式と、オプションのステーによりウーファーのエンクロージュアに取り付ける一体式との両方が選べるようになっている。壁取付がベストだと思うが、壁面の形状で不可能な場合や、壁にネジを切り込むのが嫌な人は一体式で十分な効果が得られる。ウーファー、スコーカーはコーン型、トゥイーターはドーム型である。
 このXRT20の発想は、今から20年以上も前にゴードン・ガウ氏の頭にあった。当時から氏はハーバード大学の研究室との共同研究で、現在のXRT20の原形ともいえる2m長のリボントゥイーター・アレイの試作をしているのである。リスニングルーム内に高域のエネルギーを最小の歪で均等に分布させること、音質に癖のない振動系を使い、かつ大パワー入力に耐えさせること、これが彼の、トゥイーター設計の目標であったという。そして、低域は20Hzまでを理想とし、少なくとも25Hzは保証すること。適正なレベル差と位相差を保つため、ユニット構成に加えてレスポンス・タイム・ネットワークを設計することによって多々しい立体音場の再生を可能にすることなどの設計ポイントが定められ、同社のスピーカーエンジニア、ロジャー・ラッセル氏の献身的協力を得て完成されたのがこのXRT20なのだ。音の波状と位相特性の研究に関する一大成果である一方、このシステムのパワーハンドリングは、RMSサインウェイヴで300Wという強力さである。クロスオーバーは250Hzと1・5kHzとなっているから、このトゥイーター・コラムは1・5kHz以上の連続信号を300W入力しても大丈夫ということだ。事実、私は同社の500W+500Wアンプをフルパワーで鳴らしてみたがビクともしない。付属のパワーインディケーターが2つあり、黄色が全帯域、赤が高域なのだが、ごくたまに黄色が点灯する程度だった。ミュージックパワーならMC2500の実質パワー、650Wオーバーのフルドライヴに充分耐えることだろう。もちろん入力オーバーに対してはヒューズで守られている。これは、マッキントッシュ社が最も大切にしている製品の信頼性に基づくものであり、充分な許容入力をもたせ、かつオーバードライヴによりスピーカーが破損することに万全の対策を施したものだろう。スピーカーを破損させるようなアンプは絶対に作らないという同社の体質がここにも形を変えて現われている。
 24個のドームトゥイーターによるアレイは視覚的にも内容的にも、個のシステムの一大特徴といえる。これは、すでに述べたように高域のハイパワードライヴと低歪を達成する意味と同時に、もう一つ重要な意味がかくされているとマッキントッシュはいう。それが、真のステレオフォニック、つまり、3ディメンション・サウンドスペースを伝送することなのだ。選択され、特性のそろったユニットを、このように配置することと適切な位相補整回路を組み合わせ、タイムアライメントをとることにより、システムから放射される音の波状は、きれいに位相のそろった円筒状の波となり、きわめて良好な指向特性と平均したエネルギー分布が得られる。20Hz〜20kHzまでの帯域エネルギーが床から天井まで均等に拡散されることの効果は大きい。したがって、このスピーカーシステムのエネルギー密度は、距離の自乗に反比例して減少するのではなく、ただ距離に反比例するようになっている。こういうスピーカーは、それほど音量を上げなくても充分な音量感が得られることになるわけで、事実、正しいステレオフォニック録音のプログラムソースでは、馬鹿でかい音量にして聴かなくとも、豊かな空間感で満足させられるものなのだ。特にこのシステムの場合、1・5kHzという低いクロスオーバーを採用していることが注目に価する。2・5cm口径のドームトゥイーターに1・5kHz以上を受け持たせたところが(マルチユニットでこそ可能)ユニークである。マルチユニットというは、大抵の場合位相を乱し、定位の悪いシステムになりがちなのだが、これは例外的成功例といえるだろう。同一平面、同一垂直軸上に並べたところが成功の鍵といえそうだし、さらにこのトゥイーター・アレイに対するウーファーセクションの構成とタイムアライメントが実にうまくいっているようだ。また、IM歪の少なさは、まるでマルチ・アンプ駆動のようでこれだけ重厚な低音域でかぶり感がまったくないのが不思議なぐらいである。
 このようなシステムであるから、これは、販売店の店頭などで手軽に聴けるはずもない。その手のスピーカーとは生れも育ちも違う。価格もそれなりに高価だし、これこそ質の高い技術サービスの受けられる専門店の存在を必要とするし、質の高い愛好家によって真価を発揮するスピーカーシステムだといえるだろう。
 XRT20を完全に調整するのはそう簡単ではない。まず、設置は背面に壁がほしい。そして、コーナーにぴったり置かないことだ。幅が充分あれば、トゥイーター・アレイ2本を、それぞれ横幅の1/3の所にくるように設置し、その外側にウーファー・エンクロージュアを置く。こうすることにより、トゥイーター・アレイで3分割された壁面にステレオフォニックな空間が左の面、中央の面、右の面と拡がり、かつ、奥行きをもって再現されることになる。オペラのステージの立体感の再現など、まさに劇的といって誇張ではない素晴らしいものだ。もし横幅が充分でなければ、トゥイーター・アレイを外側にウーファー・エンクロージュアを内側に置いてもよい。別売りのMQ104というイクォライザーにより、部屋とその設置場所によるピーク・ディップを調整することは是非必要であり、おすすめしたい。この仕事は、1/3オクターヴバンドのピンクノイズ・ジェネレーターとキャリブレイトされたマイクロフォンとメーターで測定しながら行なうもので、専門家のサービスを要する。もちろん、自信のある方は御自分で試みられるのも面白かろうが、この仕事はかなりの経験と才能を要するだろう。下手に調整を行なうと台無しにする恐れもあり、そんな事なら、何もしないほうがよい場合もある。
 久々に素晴らしいスピーカーに接することができた。仕上げその他にマッキントッシュのアンプの次元と比較すると不満の残る点も少なくないが、この音を聴けば我慢しようという気にもなってくるから不思議なものだ。マッキントッシュの実力に脱帽である。

マッキントッシュ MC2205

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より

 マッキントッシュのパワーアンプのシリーズ中の代表機種である。例のグラスイルミネーションパネルをもつアンプとして、現在のところ最大のパワーをもった製品だ。パワーガードサーキットにより、ノンクリッピングのドライブが可能で、伝統のアウトプットとランスの使用により、高効率、高信頼度をもっている。暖かく重厚な音の品位の高さはマッキントッシュアンプならではのもので〝価値ある製品〟といえる。

マッキントッシュ XRT20

マッキントッシュのスピーカーシステムXRT20の広告(輸入元:ヤマギワ貿易)
(オーディオアクセサリー 21号掲載)

XRT20

マッキントッシュ C27, MC2125

マッキントッシュのコントロールアンプC27、パワーアンプMC2125の広告(輸入元:ヤマギワ貿易)
(スイングジャーナル 1980年7月号掲載)

Mcintosh

マッキントッシュ MA6200

井上卓也

コンポーネントステレオの世界──1980(ステレオサウンド別冊 1979年12月21日発行)
「’80特選コンポーネント・ショーウインドー」より

つねにプリメインアンプを1機種もつというマッキントッシュの伝統に従った製品。C32で最初に導入されたような5分割型トーンイコライザー、独特の電流感応自動電源スイッチ内蔵など多機能で音の魅力も充分。

マッキントッシュ C29

菅野沖彦

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
特集・「第2回ステート・オブ・ジ・アート賞に輝くコンポーネント17機種の紹介」より

 マッキントッシュの代表的なコントロールアンプが、このC29である。現在同社は、この他にC32とC27という合計3機種のコントロールアンプをラインアップしているが、価格的に見ると、このC29は、その中間に位置するものだ。しかし、C32は、エキスパンダーなどの附属機能をもったり、帯域分割型のトーンコントロールなどにコストがかかっており、本質的なプリアンプ、つまり、イクォライザーアンプとフラットアンプ部に関しては格差のないものといってよい。同社によれば、C32はまったく新しい製品の出現であり、C29が従来のC28の発展したものという。
 C29は、現在のテクノロジーでリファインした、マッキントッシュの伝統的製品といってよく、使用パーツや回路技術は最新の技術水準をもったものである。機能はきわめてオーソドックスなもので、MCヘッドアンプも持っていない。例によって、中味の詳細は発表されていないから、特性のデータ競走をする姿勢は全くもってない。しかし、その音質の素晴らしさ、信頼性の高さ、作りの入念さ、品位の高い製品としての質感は、まさに高級機たる風格と魅力に溢れているといってよい。新シリーズになって、デザインに若干の変更を受け、両サイドパネルのエッジは、従来の峰型から、すっきりとした直線型に変った。そのため、以前のC28などからすると、やや小型に見えるようになり、さっぱりした印象になっている。人によっては、従来のデザインを好む人もいるようだが、実際使っていると、このほうが美しいと思えるようになる。赤、緑、ゴールドのイルミネーションパネルは、全く同じ精度と仕上げの高さをもつものだし、スイッチ類の感触と信頼性は明らかに向上している。入力切替えなどは全くノイズレスでわずかなタイムディレイのかけられたスムースなものになっている。欠点といえば、わずかに出る電源オン・オフのクリックノイズ(現在は改良された)と、このプッシュボタンの色合いの品位に欠けることぐらいだ。
 なによりも、その明晰で豊潤な音質は、あらゆるコントロールアンプの中で傑出したものであろう。旧C28と比較すると、明らかにワイドレンジとなり、解像力が上っている。それでいて、決して冷たい感触や、ギラギラとした機械的肌ざわりを感じさせず、あくまで、音楽の人肌への共感の情緒を失うことがない。マッキントッシュが常にもっている重厚な安定感は、ここまでワイドレンジ化したC29においても、いささかも失われていないのである。最近のアンプのもっている、冷徹さや、人工的な音の輝きなどとは、次元を異にするヒューマンなサウンドである。音像の立体的な再現、そのアタックの向う側まで見通せるような透明感、ホールのプレゼンスを生き生きと伝える空間感のデリカシーも見事で、オーソドックスなステレオフォニック・レコーディングならば、音はまさに空間に浮遊しながら、音源の楽器はぴたりとステージの上に定まっている。
 レコード音楽を楽しむものにとって、このアンプをコントロールして音楽を演奏する醍醐味を味わうことは至福であろう。決して、コントロールは繁雑ではない。マニアックな知識を必要とするものでもない。むしろ、誰にでも扱える簡易なコントローラーである。一例として、そのローカットフィルターとハイカットフィルターは、一つのスイッチにまとめられ同時におこなうように簡略化されている。人によっては、この簡略化を嫌うかもしれない。しかし、実際使ってみると、こんなに実用的で効果の上からも妥当なものはない。使いもしない複雑なフィルターがついているより、はるかに親切で効果は大きいのである。こうした実用的な一般性をもちながら、高い品位を失わせないところにマッキントッシュの大人の風格がある。2台のセパレート・モノ・プリアンプをコントロールすることに喜びを感じる人とは無縁の完成品なのである。いい意味でメーカー製らしいバランスのとれた製品といえるだろう。クォリティと生産性の調和という難問を見事に克服している専門メーカーらしい貴重な存在といえるだろう。