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ブラウン LV1020

菅野沖彦

スイングジャーナル 3月号(1973年2月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ブラウン社といえば、日本ではオーディオのイメージは全くなかった。もっとも強いイメージが電気カミソリ、ファンやラジオ程度がせいぜいというところだったろう。しかし、昨年のオーディオ・フェアに行かれた人なら、そこに展示された同社の数々のコンポーネント・システムに一朝一夕にはできない質の高さと風格を認められたにちがいない。私自身も不勉強ながら、ブラウンがこれほどオーディオ製品に力をもっている会社だとは知らなかったのである。聞くところによるとブラウン社は1921年にマックス・ブラウンというエンジニアによって創立されたそうだから、すでに過半世紀の歴史をもつ会社であり、ラジオ、オーディオ製品にも1923年から手をつけているという本格派なのである。今まで私が知っていたのは、日本でいえばアンサンブル型という装置であって、アメリカのゼニスやウェスティングハウスのような広く家庭用の電蓄にしか興味をもたない会社だと思っていたのである。
 総合家電メーカーとしてのブラウン社の現在の規模は国際的であるから、その製品にマニア・ライクな要素を求められるとは思っていなかった。しかし、偶然の機会に同社のスピーカー・システム一連の製品を聴き、テレコやアンプをいじることができた時から、私のそうしたイメージはすっかり改められてしまったのである。アンプはステレオ・レシーバーと、チューナー・プリで、日本の実状には合わないが、スピーカーの音を聞いて、すっかりほれこんでしまった。
 ブラウンのスピーカーは、コンパクトなL420/1、L500/1や薄型のL310,L480/1、L550、そして、中型のL620、L710、やや大型のL810、そして今回選定新製品としたLV1020などとヴァリエーションが豊富だが、いずれも共通のデザイン・ポリシーとサウンド・ポリシーに貫かれている点が特に印象的である。仕上げはすべてウォルナットとホワイトの二種類が用意され、前面グリルはエロクサイド処理アルミニュームのパンチング・メタルである。きわめて精緻な密閉型エンクロージュアに優れたユニットが巧みに組み合わされているが、基本的には最近のヨーロッパ系のスピーカー・システムが多く採用しているドーム・スコーカー(トゥイーター)とコーン・ウーハーのマルチ・ウェイを採用している。スキャン・ダイナ、フェログラフ、ヘコー、などヨーロッパ系のスピーカーのもつサウンドは日本でも好評で、明解な音像のたたずまいと広い帯域特性のもつ豊かなソノリティにどこか共通した魅力を感じるが、中でもこのブラウンの製品は強い印象を受けた。ソフト・ドームとしてはやや荒目のシャープな音像再現がぴりっと引締りながら、朗々とした音場を再現するのである。
 LV1020は中でも最高級の特殊なシステムであって30cmウーハー、5cmスコーカー、2・5cmトゥイーターの3ウェイを3台のパワー・アンプでドライブするマルチ・チャンネル・システムなのである。ウーハー用40W、スコーカー用20W、トゥイーター用15Wのアンプがエレクトロニクス・デバイダーを通して帯域分割されたシグナルで各ユニットをダイレクト・ドライブしている。K+Hがスタジオ用モニターとしてこの方式を採用していたが、ブラウン社でもこれはプロフェッショナル・システムとうたっている。このスピーカーを使うには本来は同社のCE1020というチューナー・プリが用意されている。しかし勿論、ディン(DIN)・ピン・プラグの変換コードと電源の特殊コンセントの対策さえおこなえば、どんなプリ・アンプと組み合わせても使えるわけで入力感度は0・25〜1・5Vという一般的なライン・レベルに設計されている。
 とかく苦手ときれているソフト・ドームのパルシヴな波形への応答、物性からくるハードな切れ味もそれほど不満はなくシンバルのアタックも実感が出る。グラマスで締切った低音はブラウンの一連のシステムに共通で、このシステム以外はほとんど2個のウーハーを使っていることをみても低音の充実感に同社のサウンド・ポリシーがあることがわかる。音楽的な充実感はここからくる。音楽の美しさの基盤は低音にある。難をいえば、マグネット装着のアルミのグリルの汚れが目立ったり、凹凸が目立つのと、大振幅時にびりつきを起す場合があったことだ。グリルはともかくエンタロージュア面との接触部分はダンプしたソフトな材料を使うべきであろう。

パイオニア CS-R30

岩崎千明

スイングジャーナル 2月号(1973年1月発行)
「SJ選定 ベスト・バイ・ステレオ」より

 日本の代表的スピーカー・メーカーとしての実績こそ、その本来のキャリアーであり肩書きでもあるパイオニアはその名誉と誇りを賭けて、この一年間強力な布陣をガッチリと固めた。
 そのピークに位置するのがCS3000であり、そのピラミッド型の需要層に対して分厚い中腹を狙うのがRシリーズと名付けられた新シリーズである。
 しかもこのRシリーズ、狙いを若いジャズ、ロック・フアンに合わせた点も注目せねばならぬ所だ。
 スピーカー・メーカーとしての貫禄をシステムのワイド・ヴァリエーション化という強力な手段で見せることに積極的姿勢をとったパイオニアの、新らたに獲得されるべき若いファンのためのスピーカーは、Rシリーズという名の通りに、まったくイメージを異にしたニュー・サウンドである。
 パイオニアのシステムに共通する技術は、まず第1にARのアコースティック・サスペンジョンに匹敵する「密閉箱と、超低f0(エフゼロ)ウーファーの組合せ」、第2には、ドームラジエターに代表される中高域の超ワイド指向性だ。
 Rシリーズにおいては、この2つの技術は大きく転換した。転換ではなく、前進というべきか。第1の密閉箱は、チューンド・ダクト型と呼ばれる変形バスレフレックス型になり、米JBLのランサー・シリーズと同じ方式となった。これによって、従来の低域限界は一段と重低域にまで拡大され、深々とした低音は、たっぷりとエネルギーを満たして、音のスケールを加えることになった。
 Rシリーズのもうひとつの特長はブックシェルフながら中音、高音にホーンを採用することを一応の前提とし、しかも指向性の点でも十分な配慮をしている。
 というのはホーンの唯一の欠点である指向性を、マルチセラー・ホーンによって大幅に改善した中音用を用いたR70。高音用はホーン開口を極小化して高域までも指向性を改善している。
 つまり、Rシリーズの狙うものは、国産サウンドからの脱皮であり、今後増えるに違いない脱国産ミュージックのファンのためのサウンドなのだ。
 ジャズやロックの強烈なエネルギーを、楽器のサウンドそのものを生々しい形で再現しようと志ざす若い音楽ファン、オーディオ・マニアのサウンド指向が、従来の国産スピーカーの頭脳的サウンド・パターン、品の良い繊細な音作りと路線と異にするものであり、それをはっきりと意鼓したポジションにRシリーズの存在意義があるのだ。
 CS−R70がずばり、これに応えるシステムとしてそびえ立つピークであればR50はその隣りに位置する副峰であり、そのために中音ホーンこそ用いていないが、コーン型としR70より品をよく従来の音作りに近いながらRシリーズと呼ばれるにふさわしい音を意識したサウンド・パターンである。
 さらに、R70と対称的位置に接しているのがR30である。
 R30はR70直系の音作りで、聴きやすさはやや小型ながら一段とポピュラー向きともいえる。
 つまり、若い初級的ジャズ・ファンにとってはRシリーズ中もっとも抵抗なく受け入れられるもので、しかも、従来のあらゆるパイオニアのシステムにもまして、迫力と鮮麗さとを加えていることを知るべきだ。
 しばしば「ジャズ向き」という呼び方に区別されるスピーカーを聴くと、その多くは、高音にぎらぎらときらめく独特のサウンドがそのままではクラシック音楽を聴くには耐えられないのが普通だ。むろん、こうしたスピーカーが決して「優れた」スピーカーでもなければ、誰にも推められるものでもないのはいうまでもない。
 しかし、パイオニアの創ったRシリーズのシステムは、さすがにこうした負い目は探しても見当らぬ。特にR30は、Rシリーズ中、もっとも買いやすい価格でしかも初歩的マニアにもその良さを知ってもらえるのは嬉しい。クラシックにも適応性を示すR50の良さにもまして、また本格的なエネルギー再現派のR70にもまして、R30が推められる第一の理由はこの辺にあるといえよう。

アカイ GXC-46D

菅野沖彦

スイングジャーナル 2月号(1973年1月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 磁気テープというものはなかなか厄介なもので、S/Nをよくしようとして、高いレベルで録音すると歪が増える。その歪を警戒して録音レベルを下げるとテープ・ヒスが目立って不快な思いをするというわけだ。だから、現在のテープの改良のポイントは、より少いヒス・ノイズ、より広いダイナミック・レンジということで各メーカーが苦労している。録音レベルを高くとった時の歪は、まず高音域から現れる。あきらかに飽和して音が汚れるとまではいかなくても、高域が荒くすさんだ音になったり、充分高い音までのびきらなかったりという現象はよく起きるものだ。日頃、録音の話しで、テープと機器の限界をよく把んで、ギリギリ高いレベルで録音をとることがS/Nのよい優れた録音をとるコツである…という表現を私はよく使っているが、それはこの辺の難しさをいっているのである。最近のテープはダイナミック・レンジか広くなっているので、基準レベル・セット、(テレコの0VUと一応考えてよい)に押えることは無難だが、それより高く録音することも可能である。しかし、一方、1kHzでは0VUでなんら差支えはないが、10kHzでは歪みを発生するというテープもあることも事実なのである。特にカセットのようにオープン・リールより、いろいろな点で制約のあるものの場合は、この現象にはより慎重に当らなければならない。こうしたテープの特質を電子的にコントロールして、録音時の高域のレベルを抑制して歪の少い録音をとれるように考えられた回路がアカイのADRシステムである。これはテープとテープレコーダーの関係を正しく把握したきわめてオーソドックスなアイディアであり、テープのより有効な使い方として高く評価できるものだ。このADR回路の組み込まれたカセット・デッキGXC46Dが今回試用してみた新製品で、その実力は、本誌の選定新製品になる優れたものであることが確認できた。メカニズムは大変スムーズで、ワウ・フラッターは聴感上問題にならないし、操作性も非常によい。プッシュ式のキー・スイッチも軽く確度の高い動作である。早送くり巻きもどしのスピードもこのクラスでは速いほうだし、安全でスムーズだ。録音はラインからだけしか試せなかったが、安定なメカニズムと歪の少いエレクトロニクスのコンビが、現在のカセットの最高水準といってよい高品位の音質を可能にしている。ちょっと気になったのは、再生ライン・アンプのS/Nで、これはもう少しよくしてほしいところ。ドルピー・システムが内蔵されているが、S/Nの聴感上の効果は大きいが音質はこれを使わないほうがかなり優れていた。マイク録音にはリミッターを入れてオーバー・レベルを押えることもできるし、ロー・ノイズとクロームのテープ・セレクターにより、カセット用高性能テープの使いこなしかできる。また、再生時のレベル・コントロールの他、トーン・コントロールまでついていて使用者の使いこなしの多様性に大きな可能性を持っている。
 全体のデザインもよくまとめられていて仕上げも悪くはないが、もう一つ手先練された感覚の冴えという点では物足りなさが残る。プッシュ式のコントロールにやたらに色を使っていないのはよいが、録音のキーはやはり明瞭に識別できるようにすべきだと思う。それとAKAIマークのブルーはなにか安っぽさを感じさせるので、もう少しおちついた色に変えた方がいいような気がする。せっかくの良い商品をマークの色だけで安っぽく感じさせてはもったいない。
 それはともかく、同社の自慢の単結晶フェライトGXヘッドはとかく疑問の多いフェライト・ヘッドの中で、音質的には最も優れたもので、これは、最近、私が確認したところである。もちろん、このデッキにもこれが使われている。
 カセット・デッキはメカニズムが小さく、こみ入っているために故障が多いと怖く。事実、私も二、三そうした体験をしているか、このデッキについては正直なところ、耐久テストはしていないのではっきりしたことはいえない。これだけの性能をもった製品だからメーカーとしてはそうした信頼性に充分気を使ってもらいたいと思う。

パイオニア SA-910

菅野沖彦

スイングジャーナル 1月号(1972年12月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 SA910はパイオニアの最新アンプとして登場したもので、いかにも同社らしい巧みな製品づくりの冴えが感じられるプリ・メイン・アンプである。パイオニアがSAシリーズのアンプをだして、もうずいぶん長い年月を経たが、その間、着実に時代の流れに応じて電気回路の改善、機能の充実、デザインの洗練といった歩みを見せ、このSA910に、それらが集約されたといってもよいだろう。パイオニアというメーカー、まことに好調の波に乗ったメーカーで、国内はもとより海外の市場においても高く評価されているが、それは同社の製品づくりの巧みさと、強力な営業政策のバランスの賜で、よきにつけ、あしきにつけ、オーディオ・マニアや市場の機微に精通したプロ精神が心憎いほどに感じられる。
 SA910は、その性能、価格の両面からみて、当然、高級アンプであり、まず、見事な外観の仕上げに目をうばわれる。フロント・フェイスの金属パネルは一見単純なさりげなさであるが、その精緻な加工と仕上げは美しく、エッジのフレイム加工に立体的なイメージが活きて高級感を盛り上げている。ツマミ類やコントロール・レバー類のデザイン、感触も好ましく、確度と適当な味わいがバランスし、アンプいじりの喜びを感じることができる。回路を見ると、最新アンプにふさわしい充実したもので、特に、イコライザー、トーン・コントロール、パワー・ステージという全段にわたって二電源方式、差動回路を採用し、高い安定度を得ている。ピュア・コンプリメンタリー、全段直結というのは現在の日本のメーカーが猫も杓子も採用しているパワー・アンプの回路パターンだが、このアンプでも、差動増巾二段、二ヶ所の定電流負荷回路を採用し、実効出力で、60W+60W(8Ω)のパワーを20Hz〜20KHzにわたって確保、その時の高調波歪率と混変調歪率は0・1%というデータを得ている。イコライザー・アンプを中心としたプリ・アンプにも入念な設計がうかがわれ、余裕のあるダイナミック・レンジと、偏差の少いプレイバック・カーブ、低い歪率と、よく練られた素子の定数決定により、高いクォリティの音質が保証されている。
 操作パネルを眺めてみると、いかにもパイオニアらしいマニア気質を知り尽した、いじる楽しみとその必然性がよく考えられた配慮がわかる。特に目につくのは、ユニークなツイン・トーン・コントロール、レベル・セット・ツマミ、三系統のスピーカー出力端子とそのうちの一系統に出力レベル調整がついていることだ。
 ツイン・トーン・コントロールは、それぞれ異ったトーン・コントロールを単独あるいは組み合わせて使い、広い適応性と、多様なカーブを作り出すことが出来るもの。よく理解して使わないと難しい面もあるが、このアンプを使おうというほどのマニアにとってはむしろ強力な武器ともなるだろう。
 レベル・セット・ツマミは、予じめ−15db、−30dbのプリ・セットをすることによって、ボリュームを微妙に動かす必要もなく小音量時の使用が楽に出来るもの。この他に、別に−20dbのミューティングもついているという少々オーバーな手のこみようである。
 スピーカー三系統のうち、一系統に出力レベル調整がついているのはなかなか便利。能率の異るスピーカーの併用には威力を発揮する便利なアクセサリーである。
 この他、サブソニック・フィルター、30Hz以下カットのフィルターも適切で使いよいし、プリ・メイン・アンプとして要求されるコントロールは完備している。少々複雑過ぎる観もなくはないか、まさにマニア・ライクな代物だ。細かいことだが、どうも気になったのはトーン・デフィート・レバーの表示で、レバーにONという表示があって、トーンをキャンセルしないポジションにトーン・デフィートという表示があるのがおかしい。よく考えるとどっちがどうなのかわからなくなる。国際商品として、この表示は問題があるのではないだろうか?
 音質は力のある、それでいて、透明で柔かなニュアンスをよく再現してくれるもので、60W+60Wの出力は決して大パワーとはいえない現状だが(スピーカーが低能率時代だから)あらゆるスピーカーをこなす最低条件は満たす力を持っていると思う。

良い音とは、良いスピーカーとは?(4)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 25号(1972年12月発行)

 スピーカーから出る音には、いかなる名文、百万言を尽しても結局、その音を聴かなくては理解できない、また一度でも聴けばそれですべてが氷解するような、そういう性質の音がある。百見一聞に如かず、とは誰がもじったのか、よくも言ったものだと思う。
 がしかし、ただ単に聴けば済むといった、そんな底の浅いものではない。
 オーディオ・メーカーの主催するレコード・コンサートが、近頃また盛んである。マニアの集いとか対話とかシンポジウムとか、いろいろな名目がついているにしても、つまりは自社の新製品の音を聴いてもらおう、という意図にほかならない。わたくし自身もまたその種の催しに、よく引き出されるが、それで困るのは、小さなホールとか会議室とか講堂などの場所で、おおぜいの人たちを相手にして、ほとんとうに良い音とまではゆかぬまでも、せめて、わたくしの意図するに近い音で鳴らすことが殆ど不可能であるという点である。
     *
 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
 LP装置も普及して個人で楽に所有できるようになってくると、コンサートの形態はやがてレコード会社が新譜紹介の場を兼ねたコンサート・キャラバンというふうに変ってゆく。しかし、すぐにFMの時代が来る。ステレオ放送がはじまり、FMが誰でも聴けるようになると、新譜を聴きにわざわざ遠い会場に集まる人は減ってしまう。コンサートという形が意味をなさなくなる。
 レコードの新譜はそうして放送でも聴けるようになるが、再生装置の音質は放送では聴けない。カートリッジの聴きくらべという番組は組めても、アンプやスピーカーの聴きくらべは放送電波には乗るわけがない。そこが、オーディオ・メーカーや販売店でコンサート開催する理由になっている。会場にはいろいろなスピーカーやアンプが置かれ、スイッチで切り換えたり接ぎかえたりして音を聴きくらべる。その場に居合わせた人たちは、確かに自分耳で音を比較したという安心感で帰途につくかもしれない。しかしわたしくは、そういう場所で聴きくらべた音、あるいはまた販売店やショールームの店頭で聴きくらべた音が、そパーツの音だと想うのは誤りだと言いたい。一歩譲っても、そういう場所で聴きくらべた音は、自宅で、最良の状態にセットしたときの音は殆ど別ものだと言いたい。それぐらいのことは、ほんの少しオーディオで道楽した人たちの常識かもしれないが、単に部屋の広さが違うとか音響特性が違うとか、部屋が変れば音が変るなどというよく知られた話をわさわざしたいのではなく、実はもう少し先のことを言いたいのである。
     *
 ラックスのオーディオ・サルーンという催しが、一部の愛好家のあいだで知られている。毎土曜日の午後と、それに毎月一回夜間に開催されるこのサルーンのメーカー色が全然無く、ラックスの悪口を平気で言え、またその悪口を平気で聞き入れてもらえる気安さがあるのでわたくしも楽しくつきあっているが、ここ二年あまり、ほとんど毎月一回ずつ担当している集まりで、いままで、自分のほんとうに気に入った音を鳴らした記憶が無い。もよう推しのほとんどはアルテックのA5で鳴らすのだが、そしてわたくしの担当のときはスピーカーのバランスをいじり配置を変えトーンコントロールを大幅に調整して、係のT氏に言わせればふだんのA5とは似ても似つかない音に変えてしまうのだそうだが、そこまで調整してみても所詮アルテックはアルテック、わたしの出したい音とは別の音でしか、鳴ってくれない。しかもここで鳴らすことのできる音は、ほかの多くの、おもに地方で開催されるオーディオの集いで聴いて頂くことのできる音よりは、それでもまだ別格といいたいくらい良い方、なのである。しかし本質的に自分の鳴らしたい音とは違う音を、せっかく集まってくださる愛好家に聴いて頂くというのは、なんともつらく、もどかしく、歯がゆいものなのだ。
 で、ついに意を決して、9月のある夜の集いに、自宅のJBL375と、パワーアンプ二台(SE400S、460)と、特注マルチアンプ用チャンネル・フィルターを持ち出して、オールJBLによるマルチ・ドライブを試みることにした。ちょうどその日、ラックスの試聴室に、知友I氏のJBL520と460、それにオリムパスがあったためでもある。つまりオリムパスのウーファーだけ流用して、その上に375(537-500ホーン)と075を乗せ、JBLの三台のパワーアンプで3チャンネルのマルチ・アンプを構成しようという意図だ。自宅でもこれに似た試みはほぼ一年前からやっているものの、トゥイーターだけはほかのアンプだから、オールJBLというのはこれが最初で、また、ふだんの自宅でのクロスオーバーやレベルセットに対して、広いリスニングルームではどう対処したらよいか、それを実験したいし、音はどういうふうに変るのか、それを知りたいという興味もあった。
 JBLが最近になって新たにプロフェッショナル・シリーズという一群の製品を発表したことはすでに知られているが、そのカタログの Acoustic Lenses Family の中で、比較的近距離(30フィート≒9メートル以内)でのサーヴィスに用いるタイプを限定している点に興味をそそられる。
 ……Where the length of throw does not exceed 30 feet.(30フィートを越える距離までは放射できません)
 model 2305(一般用の 1217-1290 に相当する。有名な LE175DLH 専用のホーン/レンズ)、および #2391(同じくHL91ホーン。オリムパスS7RやC50SMスタジオモニター等に採用されているLE85用のスラント・プレート・ホーン/レンズ)に、とくに上記の註がついている。
 もう20年近い昔のこと、池田圭氏から、ウェスターンのホーンのカタログの中に、それをならすリスニングルームの容積の指定があることを教えられたことがあったが、寡聞にして、ホーンのカタログにこうした使用条件を明確にしている例をほかに知らない。同じJBLでも、一般市販品のカタログにこの註がないのは、家庭用として使うかぎり、9メートル以上も離れて聴かれることは無いとかんがえているのだろうか。それにしても、537-500はすでに製造中止で、プロ用のカタログにも復活していないから、上記のどちらの設計に入るのかわからない。1217-1290と同系列の設計だとすれば同じく30フィート以内用とも思えるし、しかし同じ375用の──ほんらいはハーツフィールド用として設計された、そして現在も作られているセ線ン537-509ホーン/レンズ(プロ用の型番は♯2390)は、上記の指定がないところをみると、537-500の方も遠距離用かもしれないという気もしてくる。いずれ確かめてみたい。
 もうひとつの興味ある記述は、いまもふれた537-500ホーンが、一般用カタログでは500Hzクロスオーバー用とされているのに対し、プロ用では800Hz以上と指定され、しかもそこまで使うには18インチ角のバッフルにホーンをマウントせよと書いてある。もっとも、一般用のカタログでも、500Hzをクロスオーバーとしているのではなく、……JBL System crossing over at 500 cps. と含みのある表現で、JBLの指定ネットワークで分割した場合に、結果としてアコースティックな分岐点が500Hzになるというニュアンスに受けとれるが。そしてもうひとつのHL91ホーンに至っては、オリムパスでは500Hzのネットワークがついているのに、プロ用の♯2391では、800Hzからでも使えるが1200Hzの方が推奨できる、などと書いてある。
 むろんこれは家庭用より大きなパワーで鳴らされることを前提にしているにはちがいないが、だからといって、一般用を無理なクロスオーバーで使うというのも気分のよくない話だ。
 そこで白状すれば、わが家の375(537-500ホーン)は、ほぼ一年あまり前から、マルチ・アンプ・ドライブでのヒアリングの結果からクロスオーバーを700Hzに上げて、いちおう満足していた。500Hzではどうしてもホーン臭さを除ききれず、しかし700Hzより上げたのではウーファーの方が追従しきれないという、まあ妥協の結果ではあったが。
 ところでラックスのサルーンでの話に戻る。ふだん鳴らしている8畳にくらべると、広い試聴室だけにパワーも大きく入る。すると375が700Hz(12dBオクターブ)ではまだ苦しいことがわかり、クロスオーバーを1kHzまで上げた。しかしこうすると、ウーファー(LE15A)の中音域がどうしても物足りない。といってクロスオーバーを下げてホーン臭い音を少しでも感じるよりはまあましだ。075とのクロスオーバーは8kHz。これでどうやら、ホーン臭さの無い、耳を圧迫しない、やわらかくさわやかで繊細な、しかし底力のある迫力で鳴らすことに、一応は成功したと思う。まあ70点ぐらいは行ったつもりである。
 むろんこれは自宅で鳴っている音ともまた違う。けれど、わたくしがJBLの鳴らし方と指定とした音には近い鳴り方だし、言うまでもなくこれまでアルテックA5をなだめすかして鳴らした音とはバランスのとりかたから全然ちがう。ここ2年あまりのこの集まりの中で、いちばん楽しい夜だった。
 と、ここからやっと、ほんとうに言いたいことに話題を移すことができそうだ。
 このサルーンは人数も制限していて、ほとんどが常連。まあ気ごころしれた仲間うちのような人たちばかりが集まってきて、「例のあれ」で話が通じるような雰囲気ができ上っている。そうした人たちと二年顔を合わせていれば、わたくしの好みの音も、意図している音も、話の上で理解して頂いているつもりで、少なくともそう信じていた。ところが当夜JBLを鳴らした後で、常連のひとりの愛好家に、なるほどこの音を聴いてはじめてあなたの言いたいこと、出したい音がほんとうにわかった、と言われて、そこで改めて、その音を鳴らさないかぎり、いくら言葉を費やしても、結局話は通じないのだという事実に内心愕然としたのである。説明するときの言葉の足りなさ、口下手はこの際言ってもはじまらない。たとえばトゥイーター・レベルの3dBの変化、それにともなうトーン・コントロールの微調整、そして音量の設定、それらを、そのときのレコード、その場の雰囲気に合わせて微細に調整してゆくプロセスは、結局、その場で自分がコントロールし、その結果を聴いて頂けないかぎり、絶対に理解されない性質のものなのではないかという疑問が、それからあと、ずっと尾を引いて、しかもその後全国の各地で、その場で用意された装置で持参したレコードを鳴らしてみたときの、自分の解説と実際にその場で鳴る音との違和感との差は、ますます大きく感じられるのである。自分の部屋のいつも坐る場所でさえ、まだ理想の半分の音も出ていないのに、公開の場で鳴る音では、毎日自宅で聴くその音に似た音さえ出せないといういら立たしさ、いったいどうしたらいいのだろうか。音は結局聴かなくてはわからないし、しかしまた、どんな音でも聴かないよりはましなどとはとうてい思えない。むしろ鳴らない方がましだと思う音の方が多すぎる。
     *
 結局自分の部屋で鳴らしてみなくてはわからない。けれど、JBL375を、わたくしは鳴らしてみて購(もと)めたのではなかった。むろんその前に短い期間ではあったが175(LE175DLH)を鳴らして一応はたしかめている。しかし375を鳴らしてから購めたわけではない。
 ずっと昔、モノーラル時代には175の音を聴いている。たとえばヤマハのコンサート。あるいはまた、いまは無くなってしまった有楽町フードセンターのフジヤ・ミュージック・サロン。ここは当時、鈴木章治とリズムエース、藤家虹二クインテット、白木秀雄クインテットなどが、毎日ナマを聴かせていた。その演奏の合い間に、レコードやテープを鳴らす装置がJBLのスピーカーで、トゥイーターに、まだグレイ塗装の、JBLではなく Jim, Lansing と書いた〝LE〟のつかない175DLHが鳴っていた。しかしその音はどういうわけか──おそらくアンプかどこかが歪んでいたのだろうと思うが、およそ175本来の片鱗もない、ひどく歪みっぽい、じゃりじゃりした音で鳴っていた。片鱗も無いなどとは今だからそう言えるので、ちょうどその頃は、高価な品物が買えないひがみもあって、アメリカ製のスピーカーにはロクなものが無いなどというラジオ雑誌の記事を鵜呑みにしていたのだから、そういうひどい音を聴いたところでかえって国産愛用の念が強まればこそ、歪んだ音ぐらいでは少しも驚きはしない。ではヤマハのコンサートではどうだったのかといえば、そこではまさか歪んだ音など出してはいなかったが、外国製品は悪いと頭から信じて聴けば、良い音も悪く聴こえるものだし、良い音と信じて聴けば、鳴っていない音さえも鳴って聴こえる。
 ただの比喩ではない。実際にあった話だ。当時、外国製スピーカーは悪いという伝説を撒きちらしていたオーディオ・マニアのグループが、これこそは最高と信じていた国産のホーン・トゥイーターがあった。そのトゥイーターを、あるとき、レコード愛好家のS氏邸に持ちたんだのだそうだ。そうだ、というはそこにはわたくしは居合わせず後から伝え聞いた話なので、だからこの話には誇張があるのかもしれないが、ともかく、S氏のスピーカー・システムのトゥイーターをそのホーンに接ぎかえて、レコードをかけた。マニアのグループは期せずして素晴らしいと叫んだそうだ。本もののトゥイーターをつけると、ほら、こんなにハイが美しくなるんですよ。ハイを伸ばすと、高音がキンキンするというのは迷信です。本当に歪みなくよく伸びた高音は、こういうふうにおとなしいのです……。エンジニアがしたり顔で解説したそうだ。この説明はしかし全く正しい。
 ところでS氏は黙って聴いておられたが、やおらつかつかとスピーカー・システムのところに歩みより、トゥイーターに耳をつけて音を聴くことしばし。
「君、このスピーカー、鳴っとらんぞ」
 一同がどういう顔をしたのか、接続をし直して鳴った音をそれからどう説明したのか、そのあとの話は知らない。
 けれど、実はこの話をただの揶揄でここに書いたのではない。むしろ逆だ。信じて聴く耳は、鳴らない音さえ聴きとることを、この実話はみごとに物語っている。確かに一同の耳にはそのとき素晴らしい理想の音が鳴り響いていたに違いあるまい。この話は滑稽であるだけに、かえって悲しいほど美しくわたくしには思われる。わたくしにだってそれに似た体験が無いわけではない。

ソニー TC-9000F-2

菅野沖彦

スイングジャーナル 12月号(1972年11月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 2トラ/38。いうまでもなく、数多いテープ規格の一つ。1/4インチ巾のテープ上に2本の録音帯をもって毎秒38cmの速度でとばして録音再生をおこなう磁気録音方式のことである。オープン・リール・タイプとして、今、アマチュアに最も普及している規格は、4トラ/19であろう。トラック数が倍で、スピードが半分というわけだ。トラック数が倍ということは、それだけ一本あたりの録音帯の巾は狭い。磁気録音の規格上録音帯の巾は広いほど、走行速度が速いほど、物理的には有利であり、高性能の録音が可能なのである。その反面、テープの経済性では不利であり、同じ収録時間を得るには4トラ/19より2トラ/38はスペースで倍、走行速度で倍、都合4倍のテープを消費することになるのは止むを得ない。いい音を得るためにはお金がかかるのだ。2チャンネル・ステレオでは2トラックの場合は、片道録音、4トラックの場合は往復録音であることはいうまでもない。2トラックが4トラックよりも便利な点は編集が可能ということも見逃せない。4トラックでは、往きの録音である部門を編集しようと思うと帰りの録音帯も一諸に切ってしまうから編集を考える場合には、帰りの2トラックは遊ばせておかねばならないという不都合がある。結局、片道しか便のないということで、経済的にも、音質的にも無駄をするというわけだ。
 こんなことを総合して考えた時、2トラック式が必要なことは理解できるだろうし、カセットの性能が向上してくるにつけ、カセットと2トラック式の間にはさまった従来の4トラックがやや中途半端な性格にならざるを得ないという最近のテープ界の実情もあわせて理解していただけるのではないかと思うのである。
 そこで、高度な音質を求めるアマチュアに2トラック式のオープン・リール・デッキが見直されはじめ、今、一つのブームを作りそうな気配を感じるのは私だけではないだろう。従来からも、高級マニアの間で、このテープ・デッキを持って優秀なハイ・ファイ性を楽しんでおられる人たちがいたが、これから、ますますそうしたファンが増えつつあるのだ。
 機を見るに敏なメーカーは、早速この2トラック式のテープデッキに力を入れ始め、従来20万円級のものしかなかった市場に、ティアックやパイオニアが10万円を少々超えた値段で製品をつくるようになったわけだ。ここに紹介するソニーのTC9000F2は、23万円という価格でそうした普及型の2トラック・デッキではないが、テープレコーダーの専門メーカーとしてのソニーのコンシュマー用の製品の中での最高級機にふさわしい風格をもったデッキである。録音は2トラックの19cmと38cm。再生はこれに4トラックの2チャンネルが加わる。つまり録音機としては2トラックに徹しているけれど再生は、従来の4トラック・ステレオのミュージック・テープのプレイバックをも考慮したものだ。ヘッドは、F&Fと称するソニーのフェライト・ヘッドを使い、駆動はデュアル・キャプスタンによるクローズド・ループ式。もちろん3モーター式で、操作は軽く確実なリレー式だ。電源は50、60Hz両用で扱いやすい。
 使ってみた感じでは、このクラスの製品としては、もう一つ徹底して高級なマニア用であってもよいのではないかという気がしないでもない。つまりバイアス・セットは、ノーマルと同社のSLHとの切換ということになっているが、いろいろなテープが存在する現状からして、そして使う人がかなりの技術をもった人にターゲットをしぼれるはずだから、イコライザーと共に半固定可変式というところまで踏み切ってもよいだろう。10万円ちょっとのデッキが出るという現状からすると、20万円を超えるものでは、そこまで踏み切ってもよいようにも思う。また早おくりのスピードも少々遅い。ローディングは、キャプスタンとヘッドハウジングがくっつきすぎてやや厄介。エレクトロニクスのS/Nはよくトランスポートの特性をよく発揮する。音質は、デリケートなニュアンスと透明感、ややまるまったハイエンドに一つ不満があるが、2トラ/38の醍醐味を味わえる高品位のものだった。美しいデザインはソニーらしい手馴れたもので、現代的な感覚がさえて好ましいものだった。

オンキョー Integra A-755

岩崎千明

スイングジャーナル 12月号(1972年11月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 秋葉原でベストセラーのひとつとして、発表以来2年間、いまもって売れに売れているインテグラ725のオンキョーが、また、ベストセラーを狙う新型アンプを発表した。
 インテグラ755である。
 725が発表された時、これに接して、このクオリティーの高さと、それに対するペイとの比、つまり、コスト・パーフォーマンスという点で当時のアンプ市場で、画期的ともいえる注目すべき製品であったことを察し、いち早くそれを伝えたものだった。
 今回の新製品755も、また現時点におけるこのクラスのアンプの中にあって、725同様の地位を占めるに違いないことを予感し、それは725の場合のように、広くファンに伝えるべきが義務でもあると思う。
 インテグラ・シリーズと銘うったオンキョーのアンプは、725出現より約1年前からスタートを切った。しかし、そのあまりにオーソドックスなあり方と企画は必ずしもメーカー側の思惑どおりにはかどることがなかった。
 しかし、そのアンプ設計方針の手がたい正攻法は、725においてはっきりと実を結んだ。「コンピューターによる時定数の決定」という謳い文句は、宣伝だけのものではなく、アンプ設計の重要なポイントとしてクローズ・アップされてきたのはトランジスター・アンプ時代になってからである。それは段間直結が普及し、低音域が飛躍的にのぴトランジスター自体の改善により高域が目覚ましい帯域を獲得するや、ますます重要なファクターとなってきたのである。負帰還技術を駆使する現代の高性能アンプにとって、ハダカ特性、つまり負帰還をかける以前の回路の位相特性が、完成された状態のアンプのすべてをすら決定してしまうからである。インテグラ・シリーズにおいて、この点を追求したオンキョーのアンプ設計陣の狙いは正しかった。インテグラの725以後の製品がトランジスター・アンプにありがちだった「固い音」を一掃したのは、かつて位相特性を重視した設計の結実であり、勝利なのであるといえよう。
 725以後のオンキョーのアンプのすべてに、この格段の向上がみられ、すぐ続いて出た733は、さらにハイグレードの高性能をそなえた高級志向のアンプとして、725同様ハイレベルのマニアに柏手をもって迎えられ、725と並んでオンキョーのアンプ作りの見事な成果として実績を挙げて今日に到っている。
 ただ、それぞれについて、ひとこと注文をつけるなら、725はコンパクトにまとめたそのデザインが、物足りないし、733は価格的にもうちょっと購入しやすくして欲しいという点を加えたい。
 ところが この両者の長所をそっくり受け継いで、さきの注文をそっくりそのまま受け入れて、実現した新製品が出た。それが、今回の755なのである。こういえば、755がいかにすぐれ、いかにコスト・パーフォーマンスの点でも優れた製品かをお判りいただけるのではないかと思う。
 実際に内容をみると、まさに両者のイイところをそのまま組み合せたともいいたいほどで、プリ・アンプ部は725直系、パワー・アンプはハイ・パワーで鳴る733直系なのである。
 メーカー発表のデータの信頼度というのはそのままメーカーそれ自身の信頼度となるが、技術的にまじめなオンキョーの姿勢そのまま、755のデータは、私自身のチェックによっても発表値を少しも下まわることなく、きわめて高い信頼性を誇る。
 透明で暖みある音といわれるように、SJ試聴室においてフリーダム・レーベルの69年録音のスタンリー・カウエルのピアノが文字通り透明なひびきを室内いっぱいにみたし、ウッディ・ショーのペットがシャープに突ききさり、62年録音のニュージャズ・レーベルのバイアードの「ハイフライ」はプレゼンスも生々しく、楽器のサウンドを克明にえぐり出してくれたのである。

オンキョー Radian III(組合せ)

岩崎千明

スイングジャーナル臨時増刊モダン・ジャズ読本 ’73(1972年秋発行)
「理想のジャズ・サウンドを追求するベスト・コンポ・ステレオ28選」より

●組合せ意図及び試聴感
 この秋の各社の新製品をいろいろ聴いて来て、すごく印象に残ったのが、ヤマハの一連のコンポーネントだ。ケースのローズウッドの重厚さが、そのまま製品の内容の厚みを表わしている。最近までのヤマハのオーディオへの安易な行き方から、180度転換した誠実な本来のヤマハの製品が、この充実した中味を滲ませて強く印象づけられたのだ。ヤマハのこれらの優れたコンポをそのまま組み合わせれば、たしかに一流のステレオが完成されていることになるが、オート・メカニズムのYP700、小型ながらずっしりと中味のつまったブックシェルフをあえて避けて新らしい魅力をプラスさせようと試みた次第である。ヤマハのプレイヤーと同じローズウッド仕上げの、よりマニア好みのマイクロMR611である。ベスト・セラー数年、この分野にあって多くのライバルをけ落して、今日相変らずベスト・セラーの座にあるこの611は、本格派のオーディオ・メカニズムにくわしい者も認める超一流プレイヤーに違いない。この組合せの大きな魅力を決定するもうひとつのポイントが、スピーカーだ。オンキョーの野心作ラジアンIIIである。フロア型ながら床面積25センチ四方と小さく、高さは80センチと現代若者風のキャシャな腰つきだ。しかし、この細身からくり出されるパンチの効いた迫力あるサウンド、しかもその切れのよいこともうならせる。低音から中音にかけて、いつも重たい感じの残るオンキョーのスピーカー・システムの中にあって、このラジアンIIIは名前も変っているが素性も変っている。中味は16センチ2個、プラス・トゥイーター2個。16センチのすばやい過渡応答の良さつまりタイミングの良さ、変り身のす速さである。これがイイ。重く大きいコーンのウーファーとは違ってスッキリとした低音の迫力はこの16センチにあるとみた。しかも柳腰ながら下からゆすられる様な重低域のパワーもグー、いうことなし。この名の由来であるラジアンIIIの源の外側に斜めに構えた2個の高音用は広い室内に優れた指向性を発揮し、4チャンネル再生にぴったりだ。つまりあとからこのラジアンIIIを2本加えれば4チャン・スピーカーとして理想のものとなるわけ。低音でビシッと引きしまった力を発揮するヤマハのCA700はこのオンキョーの新兵器小型フロア型スピーカーを大型システムなみの迫力で鳴らしてくれる。加えて立上りよく切れ込みのすごいのもアンプとスピーカーの相乗効果でジャズの楽器のサウンドは最高に響きわたる。チューナーにはこれまたヤマハの自信作であるCT700だ。アンプと全く同系のデザインはやや小型で中味の濃いのもアンプ同様。チューナーの性能というものはカタログの数字やデーターだけでは決して判るものではないが、ヤマハのチューナーはデーターも良いし、実用特性の点でも一流なのである。独得の高音の輝きについてあるいは判定の割れる所だが、ジャズ・ファンにとってはチューナーの音色は大いに喜ばれるに違いなかろう。

オンキョー FR-12A(組合せ)

岩崎千明

スイングジャーナル臨時増刊モダン・ジャズ読本 ’73(1972年秋発行)
「理想のジャズ・サウンドを追求するベスト・コンポ・ステレオ28選」より

●組合せ意図及び試聴感
 予算10万円チョット、チューナー、テープ・デッキを加えたとしても20万円までを限度とする組合せということだが、このクラスのコンポーネント・システムを狙うヤングは、オーディオ知識のレベルもかなり高く、決して中途半端な製品では承知しない。つまり年齢こそ若いが、通なのである。マニアではないかもしれせないが、マニア志向のハートの持ち主なのである。そんなキミのためにガッチリと予算を押え、本格派コンポーネント・ステレオを選ぶとしたらこれだ。組合せの中心はテクニクスのアンプ、それで近頃やたらとヤング志向とやらで、低価格のライン・アップに移行しつつある製品群の中から、内容の充実した基本主力製品を選ぶことにしよう。SU3400だ。それひとひねり、SU3400に4チャンネル・コントロールを加え、あとで4チャンネル・ステレオへの移行を前提として、SU3400を決めた。極端におさえられたコストでコンポ・システムを選ぶには、常套手段として一点豪華主義がいわれているが、そうかといって、他のセクションがどうでもいいというわけにはいかない。やはり質的に、あるレベルは保たねばならない。あるレベルというのが、一点豪華主義の組合せの成功のカギなのだ。アンプにテクニクスの主力製品の最強力型を選ぶことから、それに見あった質を秘めている普及型のプレイヤーとスピーカーを市場から物色してみよう。オーディオ・マニアのキミなら、あるいはキミの参謀がいるならプレイヤーにマイクロの製品を選ぶことはまず文句ないところだ。マイクロのMR211がかくて登場する。プレイヤー中の本格派、マイクロの、一番普及価格ながら質的にはもう一万円上のクラスにも匹敵するのが211。カートリッジにM2100という、これまた普及製品中のハイ・パーフォーマンスの傑作がついている。この辺のプレイヤーを選ぶとなると、あとはセミオート機構のついたパイオニアやソニーそれにヤマハなどが浮かぶが、マニア・ライクなマイクロの方に、キミはよりひかれようがそれでいいのだ。残りのもうひとつのセクション、スピーカー。これこそ、テクニクスSU3400を生かす、ひいてはこの組合せ全体の質を決めてしまう重要なポイントだ。ここではオンキョーの12センチ・フルレンジのユニットに白羽の矢を立てよう。「あまり大きな音量でなく」というただひとつの使用条件をつけると、この小さなユニットから引出されるサウンドのクリアーで楽器それぞれの分離のよい音は特筆されるべきだ。この他にフォスターの10センチFE103、コーラルのフラット・シリーズなどが考えられるが、馬力のある低域の迫力さえあまり期待しなければFR12Aは最高だろう。オンキョーの指定の箱は小さく、4チャンネルへのグレード・アップは容易だ。この場合リアのパワー・アンプは今迄のを利用しよう。チューナーはSU3400とコンビのST3400だがもし予算が苦しければその下の新型のST3000でも実用上は何ら変らないことを申しそえておこう。

Lo-D HS-1400WA(組合せ)

岩崎千明

スイングジャーナル臨時増刊モダン・ジャズ読本 ’73(1972年秋発行)
「理想のジャズ・サウンドを追求するベスト・コンポ・ステレオ28選」より

●組合せ意図及び試聴感
 多くのメーカーから多数のコンポーネント・ステレオ製品が大量に市場にあふれている。世の中、万事多様化し、ワイド・バリエイションの中に自分の個性を生かそうという現代だから、この中からキミのオリジナリティを発揮していくステレオを選ぶことが、オーディオ道楽の醍醐味といえるわけだ。まして20万円からの予算を投じようとすれば、それこそ候補として市場製品の大半がその圏内に入るのだからいかような個性も生み出せるわけだ。しかし趣味の良さ、センスの良さを土台として、その上にユニークなパーソナリティを大きく盛り上げようとなると、やはりむづかしい。ここに掲げた組合せは、①楽器の迫力を間近に感じられる。②品位の高い再生とメカニズム。③コスト・パーフォーマンス、という点から得られる以上のプラス・アルファーのクォリティーと、ぜいたくな要求のもとに、そのいずれもが満足でき得る本格派ジャズ・ファンのための家庭用高級システムだ。この中心は日立のフロア型スピーカー・システム1400WAだ。すでに2年目を迎えているこのユニークな技術に支えられたスピーカーは、数10万円の海外製の超大型システムと変らぬくらいの豊かで迫力に満ちた超低音が魅力だ。ただ従来の1400Wはその超低音に見合った中音域をそなえていなかったことが残念だった製品だ。今回マイナー・チェンジを受け中音がすっかりファインされ、その再生品位は格段と向上した。もっともそれにつれて価格も1万円高くなり49、000円だが、今までのが安すぎたくらいで、音色全体の向上ぶりからいえば、この1万円は補って余りある価値といえよう。この1400WAのバス・ドラムのサウンドは一度接するとなまじっかのブックシェルフではとうてい物足りなくなってしまうに違いないのだ。コンポーネント・システムという言葉からブックシェルフ型スピーカーが直接想定されてきた今までのしきたりも、こうしたフロア型の大型システムの存在に眼を向け直す時機にきているのである。超低域のことばかり触れたが1400WAのサウンド、特に音色のバランスの良さはオレにいわせればかの名高いHS500よりもずっと確かで、ジャズの激しく鳴る楽器の再生には、はるかに優れているのだ。この1400WAを鳴らすべきアンプは日立の新型アンプHA660でもいいが、質の高さと、まともな性能で定評のあるトリオのハイ・アタック・シリーズ中のKA4004を選ぶことにしよう。無色透明の再生ということばがトリオのアンプやチューナーにはまさにピッタリ。これでスピーカーの能力はフルに引出されよう。プレイヤーにはこのところ俄然はりきって、質的向上の著るしいシCECの新型プレイヤーだ。高級な仕様を普及価格で実現したこのプレイヤーを作るCECは国内専門メーカーとして、もっとも歴史とキャリアのあるメーカーで、大手の下請けできたえたコスト・パーフォーマンスの高さはずば抜けている。カートリッジに性能のすごい同社の4ch専用を選びたいところ。チューナーは文句なしに同シリーズのKT4005、デッキは日立のカセットを選んだ。

サンスイ SP-505J(組合せ)

岩崎千明
スイングジャーナル臨時増刊モダン・ジャズ読本 ’73(1972年秋発行)
「理想のジャズ・サウンドを追求するベスト・コンポ・ステレオ28選」より

●組合せ意図及び試聴感
 LE8Tを愛用するハードなジャズ・ファンであるキミのため岩崎千明の名にかけて決定的な組合せをまとめた。
 これだ!! スピーカーにSP505J、つまりサンスイ−JBLが6年ぶりに発表する野心作、SP−LE8Tのハイグレード版がこれだ。
 中味は30センチ・フルレンジD123、つまりLE8Tの大口径ハイ・パワー型のユニットだ。同時に発表した、、おなじみD130のバック・ロードホーン入りの方に、よりなじみと魅力とを感じるが、これは家庭用というには、やや大げさすぎ、よほどのマニアでなければ、というところ。むろん、キミにスペースとふところのゆとりさえあれば、このSP7070Jも推めておく。
 LE8Tを一度、手元において愛用するとジャズを聴くかぎり、もうこれ以外のスピーカーには、ちょっと手を出しにくくなる。そうかといってグレード・アップする場合に、さんざん困っていたはずだ。しかし、もうこれからは解消したのだ。
 スピーカーについて、いろいろ述べることはなかろう。中味はJBLの大口径フルレンジ型で、箱はサンスイの手になりJBLが認めたチューンド・ダクト型だ。
 アンプは、当然このJBLスピーカー・システムを、もっともよく鳴らすべき製品、ということでサンスイの新シリーズAU7500だ。万事控え目のサンスイにふさわしく、あまり目立たぬ存在といわれるが、黒く引き緊ったやや小柄の外形からは想像つかぬほどのハイ・パワーとハイ・パフォーマンスだ。0・1%歪率という値は、実用範囲でおそらくひとけた上の、つまり数倍の価格の海外製にもひけをとらぬ高性能のデータも、使用するうちにうなずけよう。単純にいえば、ずっしりとこのアンプの重いことからも中味の充実ぶりは誰にでも判るのではないか。
 この7500の上にもうひとつ9500が登場するが、一般用と考えれば、JBLシステムの高能率で7500で十分。
 さて、この豪華にしてぜいたくなシステムを、より豊かにするため、4チャンネル・システムを想定した。
 もしLE8Tを持っているのなら、そのままリア用スピーカーとして流用でき、アンプはサンスイ・デコーダーQS100が最適。リア用パワーアンプが内蔵されAU7500のテープ・モニター端子に接ぐだけのことで、完全な4チャンネル・コンポーネント・システムとなる。
 カートリッジはオルトフォンM15スーパーをスペアに、チューナーにはAU7500と同じデザインのTU7500。

ヤマハ YP-500

岩崎千明

音楽専科 11月号(1972年10月発行)
「SENKA TEST LISTENING」より

 YAMAHAのマークは、ピアノとバイクで今や世界に鳴り響いており、このマークのもとで作り出されるレジャー・プロダグツは、いずれも一流品と信頼とされ、このマークのついた商品を持つ若者に誇りを持たせる。
 ピアノと共にバイク類の高性能ぶりは業界を寡占する一方の旗頭であることを証明する。さらに最近ほオートバイに次いで海洋レジャーをも目指し、着々と成果を挙げて、若人にもてはやされているのはよく知られている通り。
 かくも好成績を挙げる中で、たったひとつ、オーディオ製品のみは、必らずしもヤマハの意図通りにはいっていない。エレクトーンの技術を駆使し活用した「ステレオ」は、市場での人気も、はかばかしいものではなかったのだ。
エレクトーンからピアノと「楽器のサウンド」を創り上げてきたヤマハの技術もこれを市場では、強力に展開し成功させてさた商業的手腕も、神通力はオーディオ・マニアには効かなかったのであった。
 それは、オーディオ・マニアの眼が、他の分野におけるそれよりも、はるかに厳しく、品質と高性能とを絶対的なものとして追い求め、それに対するメーカーは高品質と高いコスト・パーフォーマンスとをもって応えなければならず、加えて、専門メーカーという強力なライバルが少なくないからである。
 長いあいだ、ヤマハのオーディオ製品は低迷していた。それは、かつて10数年前の高品質ハイファイ製品の数々を、ヤマハ・ブランドのもとに作り上げてきたプライドをもってしても、打ち破ることのできなかった厚い壁なのである。この壁は、しかし、外部の敵ではなく、おそらくかつての誇りが、古びて通用しなくなっていることから眼をそむけてきた内る障書もあったに違いない。
 その根源は、冒頭に挙げた、他の部門での圧倒的な成功であり、その手法である。「ヤマハの創る商品が悪いわけがない」とする自信が先走ったのである。
 だから、この数年前から展開したステレオ時代のヤマハ・オーディオ製品は、あらゆる製品に独創性が盛り込まれ、ユニークな魅力を持つにも拘らず、オーディオ・ファンからうとまれ続けた。カセットの聴けるステレオを初めとし、ピアノから形どったという高能率スピーカーによる新らしい音響再生技術は、こうしてヤマハの理想通りには運ばず、じりじりと後退を余儀なくされていった。
 それはかつて、プロフェショナル志向の優秀製品を市場に送ってきたヤマハ・ブランドの落ち目であり、旧いファンにとってはこの上ない淋しさを感じさせた。
 かくも追い込まれたヤマハのオーディオ・プロダクツ。ギリギリの所で見事な逆転を演じるべきお膳立てが出来上った所で登場したスターが、前にこの欄で紹介したブックシェルフスピーカーNS630であり650である。従来の変形スピーカーに対するこだわりを捨て去って、スピーカー本来の姿に立戻った点からスタートしたヤマハ初の市販ブックシェルフは発売するやたちまち市場に注目され楽器メーカ、ーヤマハのオーディオ・プロダクツの真価を発揮して、ベスト・セラーのひとつに成長している。
 同時に話題になったのはプレイヤーである。スピーカー、チューナーと共に、音楽志向のヤマハらしい魅力が盛り込まれており、ケースの仕上げの美しさと完ぺきなことは、ピアノを手がけるメーカーにふさわしく、ローズウッドの面は鏡のようにみがき上げられている。
 プレイヤーはYP700と500の二種で、アームが大きな違いをみせるだけだ。ベルト・ドライブのターンテーブルはターンテーブル本来の目的を忠実に実現したもので、SNの優れた点と共に、ハウリングに対する強さはこのクラスの愛用者が必らずしも高い知識を持っているとは限らない点を考えると、賞賛できる大きな利点であろう。つまり、コンポーネントの利用者が増えている現状でもっとも多いトラブルは、針先がスピーカーの振動を拾うことに起因する音響きかんが原因の低音共鳴である。これは、プレイヤーとスピーカーの相対位置とか床下の頑丈さで防ぐようにいわれているが根本的にはプレイヤー自体の問題であるべきなのだ。この点を直視した優秀製品が少ない中でマイクロの製品と共に、ヤマハ・プレイヤーの他に秀でる大きな特長であろう。この問題は最近になってやっとメーカーの側でも重要問題と考えるに致ったが、これはコンポ愛用者が多くなったためでありヤマハはそれに一歩先がけているといえよう。
 ヤマハのプレイヤーの最大のポイントはそのカートリッジにある。米国シュア社のM75系の新型がついており、扱いやすい6ミルの針先が着装されている。
 M75の再生ぶりは、安定したトレースとバランスよく歪の少ない品のよい音としてマニアの間で永く定評のあるものだ。市販プレイヤーの最大の弱点は、実は付属カートリッジなのであることは常にいわれているが、ヤマハのシュアに眼をつけた企画性のうまさは驚くべきだ。
 この点だけ考えても、今回のコンポーネントに対するまともな再生への考え方を推察できるというものだ。
 セミオートマチックのアーム動作も、このクラスのプレイヤーを買うお客様の立場をよく考えて作られており、ケースの仕上げの豪華
さと、シンプルでユニークなデザインのアームとターンテーブルの組合せなど心憎いほどで、ベスト・セラーにならなければうそだ。

オルトフォン M15E Super

岩崎千明

スイングジャーナル 11月号(1972年10月発行)
「SJ選定新製品」より

「オルトフォン」の名声が世界に轟き始めたのは1960年ごろである。まもなく、1962年の春ごろだと記憶するが、米国版〝暮しの手帖〟として有名な〟コンシューマリー・リポート〟のステレオ・カートリッジのテスト・リポートでSPU−GTがベスト・ワンに選ばれたのがきっかけとなり、文字通り世界のオーディオ界を席巻し、最高峰のステレオ・カートリッジとしての座をゆるぎなきものとしたのだった。
 ステレオ初期以来、多くのメーカーにより次々に試みられた高性能カートリッジの群がる中で、デンマーク製のコイル型のSPU−GTが選ばれたことは、決してまぐれの幸運ではない。
 ステレオ・ディスクの誕生のときおおいに力あずかったウェストレックスのカッティング・マシンに付属するテスト・ヒアリング用プレイヤーにつく伝説的、歴史的ステレオ・カートリッジWE10Aと、多くの点で等しい構造を備え、性能そのままで10Aの4g以上という針圧を軽針圧化したと考えられるのがSPU−GTなのである。
 こうした名作の出現は、それが他の多くのライバル製品に比べてあまりに高い座標を獲得したときから、メーカーとしてのオルトフォンに大きな負担となる悲劇を見越すものはいなかった。
 世界のメーカーがいっせいにオルトフォンのカートリッジをめざしたのはもちろんであるし、それに対するオルトフォンの新型による巻返しから生ずる熾烈な戦いが60年代を通じてずっと続いた。シュアのダイナ・マグネット型と呼ぶムーヴィング・マグネット型の出現、ADCの驚異的軽針圧化技術……そうした多くの挑戦に、オルトフォン初の軽針圧型S15もいささかたじろぎ気味で、米国勢はここぞとばかりオルトフォンの牙城に迫り、世界市場になだれ出たのだった。
 70年代を迎え、4チャンネル・ディスクの開発でカートリッジに対する要求は格段と厳しく、それにこたえて技術は進歩し、クォリティーも飛躍的に向上してきた。
 70年、オルトフォンはその崇高な面子にかけて、ついに群がる米国勢を受けて立ったのである。
 M15Eがそれである。発売以来、その優秀性はたちまちマニアのすべての認めるところとなり、加えて米国市場においてSPU−GT以来築かれた拠点から再び強力に打ちこまれた。
 そして、さらにこのM15Eに新らたな精密工作技術を加えて超軽針圧化を図り、Superと名づけて戦列に加えたのである。
 ここにヨーロッパ各国におけるそのM15E Superの評価よりの一端を披露しよう。
 フランス”Harmonie”1971年12月号……試聴の結果はすばらしいものであった。われわれが賞賛するのはその値段でなく、その性能である。
 ドイツ”HiFi Stereophonie”1971年2月号……トラッカビリティーは抜群である。特に高音での性能が抜群。
 英国”Records And Reeordings”1970年6月号……世間一般に通用しているHi−Fiとは異なり、ほんとうの音をエンジョイさせてくれる。トーン・コントロールの調整など不必要にするカートリッジだ。
 SJ試聴室においてM15E Superを装着したプレイヤーに、コルトレーンの「ライヴ・イン・シアトル」がおかれ、音溝にM15E Superの針先がすべリこんだ。
 レコードのほんのちょっぴりのスペースに、こんなにも大きなエネルギーが秘められているなんて、と日頃感じていたことだが、その音のすさまじいまでのアタック、力強さはなんと表現すべきか。ここには、今は亡きコルトレーンの熱い血が、生々しい息吹きが、爆発的というにふさわしく再現された。従来の豊麗なサウンドに加え、アタックの切れ込みが鋭どく、激しいまでの迫力。
 オルトフォンは、若いエネルギーを加えて再び世界のオーディオ市場に再登場したのである。行く手にはシュアやADCや、さらにオーソドックスな手法で確実に歩を進めるデッカ、B&Oなどヨーロッパの群雄もある。だが、オルトフォンの新型は、おそらく、世界中のマニアのカートリッジ・ケースに加えられるに違いない。この上なく豊かな音楽性をたたえて……。

ビクター SX-3

菅野沖彦

スイングジャーナル 11月号(1972年10月発行)
「SJ推選ベスト・バイ・ステレオ」より

 SX3というスピーカー・システムは今オーディオ界で大きな話題となっている。あれこれとスピーカー・システムをつくり続けて来たビクターの初のヒットといっても過言ではないだろう。音響機器専門メーカーとしてのビクターの伝統と実力が実ったという観が強い。もっとも、今の話題の半分はこの製品の優秀性で、あとの半分は製品が足りなくてオーダーして数ヶ月も待たされるといった不満である……。こうなると、ますます欲しくなるのが人情で、SX3を渇望するマニアの数はどんどん増えているらしい。
 SX3の生産が追いつかないということは、このスピーカー・システムの本質と、あえてそうした製品をビクターのような大きなメーカーがつくった意義とを説明することにつながるのである。つまり、このシステムは、たいへん手のこんだ作業を要する手造りの性格が強いのである。オーディオ機器が通り一辺の理論と設計技術と生産技術では、最高の製品たりえないということは私が常々いっていることなのだが、このシステムはそうした常識を超えた製作者の音への執念と情熱、そこから発した多くのアイディアと実験に裏づけされた試行錯誤、それを一つの完成度の高い製品にまとめる、高い技術が生きているようである。このスピーカー・システムの生みの親は同社のスピーカー技術の中核である林正道氏だが、林氏のスピーカーづくりへの情熱は並々ならぬものである。しかし、今までは、正直なところ、氏の情熱と探求の努力、技術の蓄積は多とするが、それがスピーカーの音として私たちを説得するまでには至らなかった。氏の独得のねばりは、今までの不評によく耐えて、謙虚にそして入念に、幾度かスタート・ラインへもどって音響変換器としてのスピーカー、音楽を奏でるスピーカーという二つの性格を正しく把握して、このSX3を生みだしたといえるだろう。と同時に、こういう人間の自由な創造性を暖かく保護し、開発に余裕を与えたビクターという会社もほめられてしかるべきであろう。こういう体質がなくてはオーディオ・メーカーとして、これからの時勢を乗り切っていくことはできないといっても過言ではない。技術は人間の積み重ねてきた体系的所産であるが、それは常に発想に触発されて前進すべきものである。発想は創意という、人間が神から与えられた偶発的な要素の濃いもので、すべての創造の基盤となる。すばらしい発想は優れた才能と、その才能を開花させる環境から生れるものだと思うのだ。音そのものはもとより、人間のつくり出したスピーカーという変換器ですら、そのすべてが解析されてはいない複雑な要素からなるものだから、これに既成の理論と技術だけで当っていては、できる製品はたかがしれているというものである。
 SX3の随所に見られるアイディア、豊富な実験から得られた新しい前向きのオリジナリティは、こうした私の考え方からして高く評価できるものなのである。しかし、そうした姿勢があるだけで、よいものができるわけでもないし、またSX3が最高のスピーカー・システムというつもりはない。
 SX3はやはり、メーカーに利益をもたらす商品として生み出されたものだから、そこには多くの制約も妥協もある。小型(実際上は中型といえるが)ブックシェルフ・システムという市場でもっとも人気のある形態、3万円を切る小売価格などという商品としての条件の中でつくられたものであることは当然で、その結果、強烈な音響再現を可能にする大型システムや、そうした音を要求する音楽には自ずから限界はある。しかし、この範囲での製品としてトップ・クラスのものであることは保証する。25cmウーファーとソフト・ドーム・ツィーターの2ウェイ。手のこんだ材料と工作によるシステムとしての念入りなアッセンブルは非常に豊かでリアリティのある低音をベースに、スムースで奥行のある中高域とステレオフォニックなプレゼンスを再現してくれるのである。

サンスイ AU-7500

岩崎千明

スイングジャーナル 8月号(1972年7月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 待つこと久し、待望の新型アンプがサンスイからで出た。おそらくは、ユーザー・サイド以上に、当のメーカーであるサンスイ自身が、待ち焦がれていた新型アンプである。
 メーカー・サイドの人々の、他社の新型アンプが目白押しに出る中で永く、苦しい待ち時間は、もうこれ以上どうにもならない域に達していたに違いない。それだけに、それらの人々の、山なす期待をずっしりと担って、やっと覆面をとったその「アンプ」は、意外や、ごくひかえ目で小じんまりおとなしい新製品であった。期待が期待だけに、その期待の中にせっぱ詰まったものさえ感じさせられていただけに、この「新型アンプ」に接したオーディオ・ファンは、少々肩すかしをくい、かなりの戸惑いを感じさせられたのは事実である。
 AU7500、AU6500の新シリーズは、外観的には、従来のサンスイのアンプ群と、一見、見分けすらつかぬほどの、ホンのちょっぴり「品の良い」変化をつけたにすぎない。規格の上でも、あるいはセールス・ポイントたるべきいくつかの特長も特にこれといった大きなものはなにもない。「25年のハイファイ技術をここに結集して完成した新製品」というメーカーのいい分は、いったいこのアンプのどこに生きているのだろうか。
 しかし、発表会では判然としなかったこの疑問は、新型アンプを手元において、その再生ぶりを確かめるに及んで完全に氷解したのである。
 メーカーのいう25年のキャリアはまぎれもなく、この新シリーズ・アンプの内に脈々と息吹き、輝きに重みすら加えていた。
 このアンプの再生品質は、今までのサンスイのアンプのそれとは格段の向上というよりも、まさに生まれ変わったとしかいいようのない素晴らしいものであった。素直な再生、温かみを感じる透明なサウンド、親しみのある音、これらすべてが、なんのためらいもなく冠せられる再生品位が、この新シリーズそのものなのである。しかも類い稀なる力強い迫力を伴って。
 サンスイのアンプを語るとき、必ず引っぱり出されるのはAU777の記録的ベスト・セラーだ。
 777のあまりに華々しかったこの成功は、しかし、時間と共にメーカーの負担にこそなれ決してプラスをもたらしはしなかったのではなかろうか。
 その証拠というと誤解を招くかもしれないが、何らかの形で777に影響された。その最たるものは777に見られる独特の華麗なサウンドだ。華麗というには当らないにしても、中域から高域にかけての充実ぶりを意識的に盛り込んだ再生ぶりはそれ以後のサンスイのアンプのひとつの特長といってもよかろう。アンプだけではない、スピーカーにすらこの意識的サウンドが見られる。しかしこのサンスイの777の成功には、もうひとつの底流があった。AU111から飛躍的なグレード・アップを実現して、当時驚異的な性能はマッキントッシュ管球アンプにも匹敵せんばかりだった303シリーズである。今や数少ない国産の幻の名器となったこのシリーズへの熱意と闘志とが、AU777の成功の源流となっていたことを見逃すべきではなかろう。
 そして、303シリーズの企画の時点にまでさかのぼって「社内に散らばった闘志の管球アンプやトランス技術者を集めることから新シリーズ・アンプの設計はスタートした」そうである。まさに25年のキャリアという以外の何ものでもない意気込みを知らされる。
 4チャンネルにおいて、後発の新勢力の強力な展開ぶりに必ずしも思うにまかせずQSはSQとしのぎをけずる激戦中という現状。切り離すべく道を選んだセパレート・ステレオは、皮肉にも4チャンネル時代に再び脚光を浴びつつある悲恋のメーカー、サンスイ。
 今や、進むべき路線は、高級コンポーネント・ステレオ専門メーカーとしてその成功だけにかかっていよう。
 しかし、決して惑うことはない。すでに新製品の完成こそ成功の第1歩として、それは刻みえたのだ。
 このアンプの控えめながら記された規格表の性能に目を落としたまえ。「定格出力にて0・1%歪、20〜20,000Hz」マッキントッシュの最強力型のそれに比肩さるべきこの規格に達したアンプは国産では2番目。最初のそれはTブランドの註文生産品で、価格はプリ&メイン90万円なり。パワーこそ半分弱だがサンスイ新シリーズ・アンプAU7500は75、900円なりである。
 なおパワーを25%ダウンし、アクセサリーを省略化したお買得型が、AU6500で65、000であることを加えておこう。
 アタックそのものがこなごなに飛び散るようなモフェットのドラムと、眼前で弦が激動するアイゼンソンのベースと、例えようもなく力強く胸にぐさりと突きささるコールマンのアルトの咆哮を前身に受けながら……。

JBL L88 Nova

菅野沖彦

スイングジャーナル 10月号(1972年9月発行)
「SJ選定 ベスト・バイ・ステレオ」より

 先月号の選定新製品で書いたJBLのL45に続いて今月のべスト・バイは同じJBLのノヴァ88である。JBLと僕との結びつきは、自分でもJBLを常用しているのだからしかたがないが、こう続くとやや食傷気味で、JBLしかこの世にスピーカーはないように思われそうだ。しかし、あえて、この原稿依頼を拒絶しなかったところに
僕のJBLへの傾倒の強力さがあるわけだ。
 ノヴァ88はJBLのブックシェルフ型システムとしてはランサー44、ランサー77の延長線上に位置するもので、
0cmウーハーとダイレクト・ラジェーターの2ウェイ・システムというきわめてオーソドックスなコーン・スピーカー・システムである。ウーハーは例の白い塗料をぬったコーンだが、従来のものとはちがって、コルゲーションの多い新開発のコーン、エッジ、ダンパーという振動系をもっていて、決して最近流行のハイ・コンプライアンス、ロング・ストロークのフラフラ型のものではない。どちらかというと、一時代前のスピーカーを思わせる張りのあるサスペンションをもち、クロスオーバーを2kHzにとって5cn径のコーン・トゥイーターと組み合せている。これと同じユニットを使いデザインだけがちがうコルティナ88−1というモデルもあるが、デザインとしてはノヴァ88のほうがユニークで美しい。サランと木目を2分割し、ウーハーと同径の丸い穴を積極的に生かしたモダニズム溢れるフェイスはいかにもJBLらしい感覚の冴えといいたい。デンシティの高いがっしりとしたエンクロージュアは表見からは想像もできないほど頑丈で重さは21kg。許容入力50ワットの強烈な低音にもおかしな箱鳴きによる不明瞭なノートはでてこない。音質は腰のしっかりした安定感のあるもので豊かな低音感には血の通った生命感すら感じる。低音感といったのには意味があって、最近のスピーカーの中にはたしかに低い周波数までのびていても、実際に楽器のもつ弾力性にとんだ低音が出ないものが多い。このスピーカーの低音は、コントラバスのブーミーな低弦と胴の共鳴が生き生きと響くし、それでいて音程が明瞭に聞きわけられるのである。ピアノの巻線の響きも魅力的である。音のツプ立ちは極めて明解で、二つのスピーカーの間にかもし出される音の面は豊かな拡りと奥行をもって大きく迫ってくるのである。高音域はやや歪感のあるのが欠点ではあるが、へんなドーム型やホーン型のトゥイーターと組合わされたシステムのもつ木に竹をついだような違和感がまったくないほうをむしろ長所として評価したい。見たところはやや頼りのないコーン・トゥイーターのLE20系にJBLが固執しているのは何んらかの考えがあってのことだと思う。トゥイーター単体でこれ以上のものを作ることはさほど難しいことではないと思われるがシステムの全体のバランスを考えた時に、このトゥイーターの長所は捨て難いものをもっているといえるだろう。
 私がよくいうことだが、スピーカーというものは、そもそも大ざっばな考え方から電気機械変換器として作られたところ意外に複雑な波形を再現し、いい音を出してくれたものらしい。誰が紙をゆすってあんな音を出すことを事前に想像しただろうか。その後のスピーカーの改善はでき上ったものの動作理論の解析によったのだが、それによってスピーカーは大きく進歩したことも事実だが、ある部分の改善により偶然得られていたよさがなくなった部分もないといえない製品も多い。そうした中にあって、新しいスピーカー理論と設計が、いい音で鳴るというロマンティックな心情と結びついて作られているのが現状における優れたスピーカー・システムであって、JBLの製品はその代表格といってよいだろう。

ヤマハ NS-650

岩崎千明

スイングジャーナル 10月号(1972年9月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ヤマハから3種のブックシェルフ型システムが出たのは、さきにプレイヤーYP700を紹介した直後である。5カ月を経てこの欄に再び、ヤマハの製品として登場するわけだが、この5カ月間の経過期間に、このNS650は、すっかり評判を得て注目すべき製品になってしまった。
 最近のブックシェルフ型システムはその高級の主力製品が3万円台に多く集中している。その数多い中でもヤマハNS650の評価は、きわめて高く、はるか高価格のスピーカー・システムに劣らぬ質の高さは、改めていうまでもない。
 3万円台のシステムの中でも、ひときわ小型で目立ち難い存在だが、ひとたびその音に接すと、ヤマハが今日プレイヤーやアンプやスピーカーなどコンポーネントを通してオーディオに対して、真正面から取組んでいることを如実に知ることができるというものだ。
 現在、市場にあるあらゆる国産ブックシェルフ・スピーカーの中でも、このヤマハNS650に匹敵すべき製品は、おそらく5指を出まい。逆にいえば価格をぬきにしても、このスピーカーから出る高品質のサウンドと肩を並べるものが4つしかないというわけだ。
 ところが、このNS650は決して奇をこらしたメリットや、メカニズムはいっさいない。見た眼にはプレーンなシステムであって、ここで云々するほどの特長もなく、ごくありふれた構成の25センチ・ウーハー、12センチ・スコーカー、ドーム・ダイヤフラム・トゥイーターという3ウェイである。
 このスピーカーを試聴のため鳴らそうとしたとき、たまたま手元にあったレコード1枚にヨーロッパ録音の、キース・ジャレットのソロ・アルバムがあった。一聴してヨーロッパの最新録音を思わすカッチリと引き緊ったピアノ・タッチと、豊かな鳴り響きは最近の優秀録音盤の中でも、ひときは輝いたものと思うのだがこのサウンドをヤマハのNS650は文字通り実にみずみずしく、水のしたたるような新鮮で生々しい音に再現してくれた。
 たまたま日本ビクターの誇る最新技術である倍速カッティング盤と原盤の聴き比べをしてみたが、そのかく然たる遠いをはっきりと響きわける能力は、まさに本来歴史あるピアノ・メーカーで作られた本格派システムということを語るに十分だ。
 高域のサウンド・エレメントのパターンの細かいディテイルの違いを、くっきりと表現し、指先のキーにふれる様をその響きの中に見事に再現してくれる。日本ビクター・カッティング盤の優秀性がはからずも試聴中のヤマハNS650によって証明され得たひとこまであった。
 こうしたくっきりした音の立ち上りというものは、決して従来のスピーカー測定技術では判然とは出てきにくい。これは耳で認められる以外に適確な判断はなし得ない。それだけに、この再生の際の立ち上りの良さは、ややもすると、ないがしろにされやすい。それというのは、この立ち上りの良さを追求すれば、どうしてもスピーカー・ユニットのマグネットを強化せねばならず、しかもそれが確められるまでするには、かなりの強力を余儀なくされ、勢い製造上のコスト・アップにつながる。さらにブックシェルフ型のように小型化に沿った上で低域レンジをのばすことに四苦八苦の国産システムは、マグネットの強化が低域拡大と相反することにつながりかねない。
 このへんの事情もあって、マグネット強化というスピーーカー高品質化の大きな根本的条件をよけてしまうことになりやすい。
 ヤマハのシステムを聴くと、こうした真の高級化への道を、正攻法によって取り組んでいることを知らされるのである。ひとまわり小型なのに拘らず3万3千円という価格は、このシステムのもうひとつのウィーク・ポイントでもある能率の低いことと共に大きなマイナスには違いない。
 しかし、真の高品質サウンドの再生を望むものにとって、それは、補って余りある小さな代償と考えるべきではないだろうか。

良い音とは、良いスピーカーとは?(3)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 24号(1972年9月発行)

     V
 原音を録音し再生するという一連のプロセス。仮にそれを、原音を写実することだ、として考えを進めてみよう。
 写実とは、素朴な意味では写すことであり倣うことである。広辞苑によれば「事物の実際のままをうつすこと」とあり、写実主義即ちリアリズムはハイ・フィデリティに通じる。
 しかしハイ・フィデリティ・リプロダクション──高忠実度再生──を表面的に解釈する態度は、この問題はひどく歪めてしまう。仮に原音に忠実な再生、と定義してみるとしても、では原音の何に忠実なのか、原音とは何か、と考えてゆくと、ことは意外にむずかしい。
 もういちど、ナマと再生音のすりかえ実験を思い起してみよう。
 ステージでは何十人かのオーケストラが、それぞれに、針金や馬の尻尾や川や木を、こっすたりたたいたりして演奏している。その演奏はあらかじめ2チャンネルのステレオでレコードに録音されていて、途中から再生音にスリかえるというのであり、すでに述べたように、大多数の聴衆は切り換えの箇所を明確に指摘できなかった。
 この事実は、原音が忠実に再生されたことを意味するのだろうか。少なくとも、物理的には答えは否である。だってそうだろう。ステージに並んだ演奏者と同じ数のスピーカーが使われたわけではないし、スピーカーの発音体は徹夜ジュラルミンの薄膜であって、楽器の発音体とは材料も形状も構造も著しく異なっている。物理的に、原音と全く異質の音が再生される筈がない。にもかかわらず、聴衆の耳にはナマと再生音の区別が明確にはつきかねた。
 すると、スピーカーからは必ずしもナマと等質の、物理的に=の音が再生されなくとも、人間の耳はけっこうゴマ化される、ということになるのか?
 事実ゴマ化された。しかし、人間の耳がエジソンの蓄音機からすでに《原音そっくり》の音を聴きとってきたことから想像がつくように、これはハイ・フィデリティの本質にかかわる問題であって、そう簡単な結論では片づかない。それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
 ホールでの実験は別として、我々に切実な問題は、レコードやテープをわが家で再生するときの、音質の良し悪しである。家庭での音楽再生、という問題になると、たとえば音量ひとつとっても、六畳から八畳、広くてもせいぜい二、三十畳という個人のリスニングルームには、オーケストラのスケールは物理的に収まりきらないし、六畳ではフル・コンサート・グランドさえおぼつかない。つまり一般家庭では、もとの楽器のアクチュアル・サイズ(原寸)で持ちこむことさえすでに不可能と言える。
 しかしそういう前提でも、小さな部屋で、「原音を聴いているような感覚」を生じさせることは十分に可能である。そしてそのときの再生音は、決して、物理的な意味で原音と等質(イコール)ではない。
 まず、ラウドネスの問題ひとつとりあげても明らかなように、人間の耳は、音量の大小に応じて聴感周波数特性が変化し、音量を絞るにつれて、低音と高音の聴取能力が劣ることはよく知られている。したがってボリュームを絞った場合には、低音や高音を適宜強調してやることが、結果として、よいバランスに聴こえる。いわばこれは錯覚にはちがいないが、人間の耳には現実にそう聴こえるので、物理的にはフラットでなくとも、耳にフラットに聴こえるという事実の方が重要だ。
 オリジナル(原音)に対して大きさ(尺度)自在に伸縮できるというのは、音の録音・再生に限らず、あらゆる複製メディアの特質とも言える。たとえば映画。シネラマのあの巨大な画面いっぱいに俳優の顔が大写しされても、慣習はそれをたいして不自然なことと感じていないどころか、あの白いスクリーンに、砂ほこりが舞えば思わず目をしばたたき、ジェットコースターが走れば胸の動悸が激しくなり、登場人物の悲しみには涙まで流す。言ってみればそれは、白いスクリーンに投影された束の間の幻影にすぎないのに、我々はそれを虚像と知りつつ、心の底から揺り動かされるほどの激しい感動を味わう。こうした感動は、レコードの音楽から味わうそれとはほとんど質的に同じものと言える。感動のしくみは、物理的なフィデリティとはほとんど無関係なのである。
 音像といい映像といい、それが空間に鳴りスクリーンに投影された状態を、われわれは虚像と呼ぶ。その虚像がしかし、なぜ、本もの以上に人の心を揺り動かすのか。映画には芝居とは別の魅力があり、再生音にはナマ演奏とは明らかに異質の魅力がある。レコードを聴くという行為には、わたくしたちは、ナマを聴くのと別の姿勢で──そう意識するとしないとを問わず──臨んでいる。なぜ、レコードを聴くことが楽しいのか。それは再生音というものに、ナマとは違った別の価値があるからにちがいない。再生音がナマ演奏の複製であるのなら、再生音にナマとは別の──ときとしてナマ以上の──感動をおぼえるという事実の説明がつかなくなる。
 言うまでもなく、レコードも映画も、それが作られた当初は、ナマのコピーという機能だけで使われた。しかしレコーといい映画といい、かりに対象を忠実に記録したものであっても、それをいく度もくりかえし再生するプロセスに、オリジナルを鑑賞するのとは別の魅力があることに人びとは気づくことになる。
 古代アルタミラの洞窟壁面には、いろいろの獣が描かれているが、それは決して単なる装飾ではなく、獣たちを捕獲し、且つ彼らの増殖を祈る呪術的行為であったとされている。古代人にとっては、描くことすなわち捕獲したことであった。それを古代人の未分化と笑う前に、現代人のわれわれにいったいそうした衝動が無いだろうかと考えてみる。
 第二次大戦のさ中、わたくしは集団疎開児童であった。疎開先のお寺の本堂で、より集まっては、シュークリームやチョコレートや、クリームパンや、おいしいものの絵をかわりばんこに誰かが描く。すると、どこからか、おいしいチョコレートやクリームの匂いがしてきて、子供たちは鼻をひくひくさせて、しばらくはおいしい匂いを腹いっぱいに吸い込むのだった。そんな体験はわたくしだけかと思っていたら、新聞や雑誌に戦時中の思い出ばなしが載るたびに、あるいは戦場で、あるいは防空壕の中で、同じような体験をした人たちが多勢いたことを知っておもしろく思った。
 わたくしなど、ことにこの幼児的傾向が強く、いまでもまだ、ほしくてたまらない品もの──たとえばスピーカーでもアンプでもカメラでも──があると、その品物が実際に手に入るまでは、ヒマさえあると原稿用紙の切れはしなどにその品ものの絵を描いて楽しむくせがある。対象物を描くことによってお腹をふくらませたりその品を手に入れたような気になるのは、なにも古代人ばかりではないようだ。つまり対象を模写するという行為は、対象物を主体の側に転位させる人間の根本的な発想だと言えるのではないだろうか。レコードを聴くという行為は、オリジナルの複製(コピー)のおすそ分けにあずかるのではなく、まさに音楽を自分のものとする行為にほかならないのだ。そうなったとき、《原音》は客体として存在しているのではなく、もはや自分の裡の主体として実在する。言いかえれば、自分のレコードは原音のコピーのひとつ、なのではなく、自分のレコード即原音、になるのである。
 レコードのこういう機能は、それが映画のように公衆(パブリック)の場でよりも個人(プライベイト)の場で鑑賞されるという性質上、より顕著である。映画が多くの場合、芝居と同じように特定の場所で複数で鑑賞されるのに対し、レコードは、より読書的な性格が強い(映画でもテレビで放送される場合、あるいはVTRの場合はまた別の見方ができるが、ここでは深入りしない)。
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
 人は往々にして、現実世界のできごとよりも虚構の世界のできごとから、より多くの感動を味わう。虚構の世界では、現実世界のわずらわしい日常的な小事件をきれいに洗い流し、事物の本質をえぐり出すことができるからである。映画や小説の中の人物は、往々にして実生活以上に深い生き方を教えてくれるし、レコードの演奏からはときとして実演以上のすばらしい感動を味わうことができる。そういうリアリティを描き出すことが、いわゆるリアリズムの芸術であり、そういう感覚を生じさせるために、オーディオの録音・再生のプロセスにハイ・フィデリティの介入を欠くことができないのである。
 虚構の世界では、ナマ以上の生々しい感動を伝えることができる。「ナマを聴いたと同じような感覚」を、視覚ぬきで伝達するためには、虚構の約束の中での取捨選択が行なわれる。それは物理的にはナマとは全く違っているかもしれないが、人間の感覚に、明らかに生々しい印象を与えることができれば、それは結局、観念の中の《原音》、抽象化されたイメージの中の原音を、正しく再現したことになる。そういうプロセスに、録音→再生の一連のシステムも、そのための演奏も、再生した音を受けとるリスナーの姿勢も、すべてが関わりを持っている。どこが欠けてもこの感動は盛り上らない。原音の再生は、物理的なアプローチだけでは決して完成しない。
 とはいうものの、以上の論旨を、原音の基準など何もないとか、物理的なフィデリティなど不要だというように受けとって頂いては困る。音楽の録音とその再生というプロセスにさまざまのメカニズムが介在する以上は、メカニズム自体に、以上のような人間の心理の微妙な関わりあいや意識の流れを妨げるような欠陥があることは不都合きわまりない。ハイ・フィデリティにつきまといやすい大きな誤解のひとつに、たとえばスピーカー固有の音色が、あたかもスピーカーの「表現能力」であるかのように思いこむ危険がある。そのことは次回以降でくわしく論じることになるが、いまここで明確にしておかなくてはならないことは、レコードの録音、再生のプロセスに介在するあらゆるメカニズムは、人間の感覚や意思に自由に従うことのできる柔軟性と、人間の要求に応じることのできる能力を備えていなくてはならない。くりかえすが、メカニズム自体の能力や個性を、録音→再生の美学や哲学の問題の中にまぎれこませてはならない。その点をいま少し明らかにするためには、人間自身の、事物に対する認識の限界を考えておく必要がありそうだ。

     VI
 頭上高く上った月よりも地平線近くの月の方が大きく見えることはすでに例にあげた。それは錯覚であるにはちがいないが、人間にとって、物理的に存在する空間などというものは無意味であって、人間が知覚できる空間こそ、ほんとうの空間の価値なのである。
 絵画の中に現代の遠近法がとり入れられたのは比較的新しいことで、たとえば日本の絵巻物などでは、建築物が手前も向うも同じような大きさで描かれている。当時の人たちは、そういう空間のあらわし方のほうを自然だと感じたのか、それとも何か別の感じかたをしていたのか、そこのところはよくわからないが、現代人の知覚には、一点透視の遠近法が最も自然に感じられる。しかし、同じ一点透視であるにもかかわらず、写真レンズの焦点距離を変えると、ものの遠近法が強調されたり逆に凝縮されたように感じる。これも一種の錯覚にはちがいないが、やはり人間にとって、そう見えるという事実の方が現実なのである。
 音のほうでも同じような現象はいろいろある。たとえば、さきに、例にあげたラウドネスの問題など、いまの遠近法の例に似ているかもしれない。また音階の分け方、音程(ピッチ)のとりかたでも、物理的にきんと割ったのでは正しい音に聴こえないことはよく知られている。
 これらは物理量と感覚量──言いかえれば客観的にそこに存在する量と、人間がそう感じる量とか必ずしも相関関係にないということの例証だが、もっと単純明快な例に、可聴周波数範囲をあげよう。
 ご承知のように人間の耳には16ないし20ヘルツから約20キロヘルツまでの音が聴こえるとされる。つまりそれを《音》と言っているが、たとえばイルカには150キロヘルツという高い音(人間の世界では「音」と言わず超音波または高周波と言う)が聴こえることが知られている。蛾もやはり150キロヘルツあたりまでを感じるし、コウモリも120キロヘルツあたりを感じる。犬でさえ50キロヘルツが聴こえる。また音の強さにしても、人間には、1キロヘルツで0ホン(0.0002μbar)いかの音は聴こえない。もしもハエが脚をこすり合せる音、アリが触覚をふれ合う音、が聴こえたらどうか……。
 要するに人間世界で《音》と定義しているものは、広く自然界に存在する空気の波動のうちのごくせまい一部分にすぎない。だからといって、聴こえないものを音を定義することは何の意味もない。人間にとって、そう聴こえる音、以外のものは存在していないと同じなのだから。
 このように、人間の感覚とはある限定された条件の中に存在し、そういう感覚で感じとった対象だけが、人間にとっての実在であるとすれば、純粋に物理的な意味で現象の存在そのものは人間にとって全く無価値であって、そのように見え、そのように聴こえ、そのように感じる、という知覚の範囲の世界こそ、現実そのものと考えることができる。物理的な存在に対する心理的または精神的現実(リアル)こそ、実在そのものである、と言ってよい。左右両隅のスピーカーが提示した音像が、スピーカーの無い中央の空間に浮かんで聴こえるというのは錯覚だが、そうだとすれば、錯覚こそ実在、と考えるべきではないだろうか。この定義は、人間の精神に訴えるあらゆる事物との関係を解き明かす重要な鍵になりそうだ。

ADC XLM

菅野沖彦

スイングジャーナル 7月号(1972年6月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ADCのイニシアル・ブランドで親しまれているオーディオ・ダイナミックス・コーポレーションはカートリッジやスピーカーなどの変換器メーカーとしてアメリカ有数の会社である。MM型の特許がシュア一によっておさえられているために、このメーカーはIM型で市場に多くのシリーズをおくり出している。中でも10EMKIIはその抜群のコンプライアンスの高さと繊細なトレーシング・アビリティで話題をまいたが、これはもう旧聞に属することだ。この10Eは現在ではMKIVにまで発展している。今回御紹介するXLMはそうした10Eのシリーズから独立したまったく新しい製品で、振動系、本体モールディングなどすべて新設計になるもので、スタイリングもずいぶん変った。変換方式はもちろんIM型で同社がCEDと呼ぶ(Controled Electrodynamic Damping)システムで極めて軽い針圧(推奨針圧0・6g)でトレースできる軽針圧カートリッジの最右翼である。実用的には1gぐらいが適度で、1・5gになるとカンチレバーの変位が激しくボディの腹(実際には振動系を支えるホルダー)がレコード面をこする危険がある。したがって重いほうの限界は1・2gと考えるのが妥当であろう。だいたい、こうした軽針圧カートリッジは繊細な再生音をもつ傾向にあるが、この製品は必らずしもそうした在来のイメージにそったものでなく、肉厚の中低域が豊かな音像を再現するのが好ましく感じられた。ADCの発表するところでは10Hz〜20kHz(±2db)となっているが、たしかに相当な高城までレンジがのびていることが認められる。ただ欲をいうと音に芯の強さがやや足りないようで、シンバルの衝撃音などが、切れ味に欠ける嫌いがないでもない。私の体験上、IM型はどうもレコーード面の静電気による影響を受けやすいようで、湿度やディスク材料の質によって帯電状態が変わるにともなって、トレーシングが不安定になるという傾向が感じられる。従来10Eシリーズが、私の手許ではトレーシングが不安定であったことが多いのだが、いろいろやってみると、それ以外に考えられないのである。普通、カートリッジのトレーシングが不安定になるというのは、ホコリによる影響力が大きいが、静電気によって音が独特のカスレ音になるということもあり得るらしい。そうした現象が、特にIM型において著しく出るという傾向を感じ始めているわけだ。これは全く私の体験と推測の域を出ないことなのだが、このXLM型カートリッジについても同じことがいえそうで、手持ちのレコード中、帯電の激しいレコードは時としてやはり不安定なトレーシングになる。しかし、そうした現象が起きない時のこのカートリッジの再生能力は実に優れていて、デリケートな細部を克明に再現してくれる。大振幅に対する追従もよくやはり第一級のカートリッジであることを強く感じさせてくれるのである。レコードの帯電というのは実に困った現象で、製品によってはパチッと火花がとぶほどひどいもの、レコードを持ち上げるとゴム・シートも一緒に上ってくるようなものがある。こんな状態では空気中のホコリを強引に引きつけてしまうしホコリによる害と相乗してくるから手に負えない。もし、私の考えることがはずれていないとしたら、ADCにとってレコードの帯電は大変な迷惑なことにちがいない。またこの帯電は場所によってもずいぶんちがうので、私の所でなんでもないのが、人の家でほもっとひどい場合もある。レコード会社になんとかしてもらいたい問題ですね。
 帯電のおかげで、肝心のADCの新製品XLM型カートリッジにケチがついたような恰好になって申し訳けないが、非常に優れたカートリッジであることが前提での話しとして解釈していただきたいと思う。
 試聴レコードはジャズからクラシックと,かなりの種類に及んだが、いずれにも満足感があり、特にMPSレーベルのバーデン・パウエル、エロール・ガーナー、あるいはフランシー・ボラーンなどの、レコードの中低音の厚味と豊かさ、パルスへの追従などはすばらしかった。1g以下の針圧でトレースするハイ・コンプライアンス型なので当然トーン・アームには精度の高いスムースな動作のものが要求される。

コーラル BETA-10 + BL-25

岩崎千明

スイングジャーナル 7月号(1972年6月発行)
「SJ選定 ベスト・バイ・ステレオ」より

 私のいつも使っているスピーカー、JBLのハークネスの後方、300Hzカットのアルテックの旧型マルチセルラ・ホーンの横に、縦長のボックスに入ったこの部屋で唯一の国産スピーカーがもう4年間も居続ける。
 これが、コーラルのBeta10だ。バスレフ箱に入ったこのBeta10は発売直後、その鮮やかな力強いサウンドに惚れこんで、手元において以来、JBLのD130がC40バックロード・ホーンの箱に収まるまでは、しばしばマイルスの強烈なミュートや、エヴァンスの鮮麗なタッチを再現していた。
 ただ、惜しいかな、鮮烈華麗なその中高音の迫力にくらべ、バスレフ箱に入れた低音は異質であるし、力強さもかなり劣ることを認めざるをえない。つまりBeta10の国産らしからぬジャズ向きの魅力あるサウンドは十分に認めながらも、その音のクォリティーを重低音にいたるまで保つことはバスレフ型では、しょせんかなわぬことを痛感していた。
 Beta10のサウンドの原動力は、その強大なマグネットにある。試みに15、500ガウスという強力な磁界に比肩したスピーカーを探してみよう。JBL D130、130Aクラスでさえ12、000ガウス。ボイス・コイル径が大きいからそのままくらべることはできないにしろ、Beta10の方が単位当りでは20%は強力だ。あとは英国製の高級スピーカー、グッドマン・アキシオム80と、このBeta10が範をとったと思われる、ローサー・モデル4ぐらいなものだ。そのどちらも17、000ガウスとBeta10をわずかに上まわるだけである。
  ジャズでは、楽器のサウンドそのものが音楽を形成し、そのアタック奏法が重要な要素であるゆえに、それを再現するには強烈なアタックの再生の得意なスピーカーがもっとも好ましい。僕がJBLを愛用するのもそのためだが、Beta10にも同様のことがいえる。
 加えて、軽く強靭なコーン紙。中央の拡散用金属柱でサブ・コーンからの高音の指向性の改善も、単にみせかけだけでなく、60度ずれた付近までシンバルの音がよく拡がっている。
 ただ、これほど楽器のソロが前に出るスピーカーでありながら、フルコンサート・ピアノのスケールの大きさが、とくに重低域でどうもふやけてしまうのが歯がゆいばかりであった。
 ところが正月の休み明け、広告でBeta10用のバックロード・ホーン、BL25の存在を知り、急いでコーラルから、BL25を取りよせてみた。
 チック・コリアのソロ・ピアノアルバムを聴いてみたが、Beta10がそのすさまじいまでの迫力を、中高域から低域にまで拡げたことをその時知ったのだった。それはまさにジャズ・ピアノのサウンドである。チック・コリアのちみつにして繊細流麗なタッチ、しかも左手のきらびやかな中に秘めた力強い迫力を、B得る25に収まったBeta10はみごとに再生してくれた。
 国産スピーカーと外国製のそれとくらべるまでもなく、国産オーディオ・パーツにはどうもベテラン・マニアを納得させる魅力をもった製品が少ない。国産パーツの優秀性はいやというほど知らされているのに、その中に魅力らしい魅力のない歯がゆさをいつも感じ僕。コーラルはその不満を解消してくれたまれな国産パーツだ。おそらく、この手間のかかる手造りのバックロード・ホーンはあまり商売にプラスをもたらすとは思えないが、これほど魅力に満ちた製品がまた日本市場に出ることを知って嬉しいのである。
 このBL25が、Beta10が今後も永く市場に残ることを願い、それをよく認識するマニアの少しでも多からんことを願うのである。

良い音とは、良いスピーカーとは?(2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 23号(1972年6月発行)

     III
 スピーカーが《原音》を鳴らすことができると思うのは、ひとつの大きな誤解である。
 エジソンやベルリーナの、今日からみればきわめて貧弱な特性の蓄音機から出る音に、当時の人たちが『原音そのまま』の音を聴きとったことは前号にもふれた。そういう音であっても人の耳は原音を聴いたように感じということは、裏返していえば、スピーカーからは必ずしも、物理的な意味での原音が再生される必要のないことを語っている。当時の人々の耳は幼稚だったなどとけなすのはすでに現代人の感覚でものを言っていることになるので、いつの時代の人でも、現に4チャンネルを体験しているわれわれでさえ、SPがLPになったとき、さらにそれがステレオになったとき、それぞれに、これで原音再生が可能になったと本気で信じたことがあったではないか。
 考えてみれば、ステレオの音の聴こえ方というのは実にふしぎなものだ。前方左右のスピーカーの中央に、たとえばソロ・ヴァイオリンがくっきりと浮かび上る。あるいは、左右のスピーカーのあいだいっぱいがオーケストラの音で埋まり、その音像は壁の向うまで奥行きを生じあるいはスピーカーのこちら側にせり出して聴こえてくる。
 現実にそう聴こえるというこれはわれわれの日常の体験であるが、そういう音を鳴らして聴かせるスピーカーは、左右両隅のいわば二つの点に置かれているだけが。にもかかわらず音はスピーカーの無い空間から確実に聴こえてくる。ヴァイオリンの独奏が、確かに二つのスピーカーの中央に浮かび、オーケストラはいっぱいに並ぶ。そう聴こえたからといって、その音が壁から鳴ってくるものではないことぐらい、誰にでもわかっている。ではどういうことなのかといえば、音はそこで鳴っているのではなく、正確にいえば聴き手(リスナー)の頭の中に、そういう音像が形成されるのである。二つの点から発する音波は、そういう音像(イマージュ)を形成するための単に材料であるにすぎないとさえ言ってよい。スピーカーは音の素材を提示(プレゼント)し、聴き手(リスナー)の頭の中に音像(プレゼンス)が形成される。そういうステレオの仕組みの結果、二つの点は、むしろその二点を結んだ《線》、あるいはさらに《面》のように、あるいはまた奥行きを伴った《立体》であるかのように聴こえ、ステレオ独特の雰囲気を漂わせる。漂うという言い方も、少しばかり理屈っぽく考えれば二つのスピーカーの空間を漂うのではなく、リスナーの頭の中を漂うのだが。
 なにも不思議がることはない。リスナー前方左右に等距離に置かれたスピーカーから、等音量、同位相かつ同じ音色の音が鳴れば、リスナーには音像は中央にあるように聴こえるし、左右各チャンネルの音量や位相や音質を操作することにより、音像は右、左、あるいは前方いっぱいに、さらには左右のスピーカーの外側にまで、拡がりあるいは定位させることができる──といったような答えは、ステレオの原理を知るものにとってはあたりまえすぎておもしろくない。要するにそれは一言でいえば錯覚なのだが、錯覚というもの、少しも悪いことではなく、考えてみれば人間の感覚にはずいぶん錯覚がある。よくひきあいにあげられるのは、中空高く上ったときより地平線近くの月のほうが大きくみえるという事実で、これもまた錯覚である。しかし大切なことだが、錯覚のしくみをいくら理づめに説明されたからといって、そういう感覚が人間から消え去ったりものの感じ方が少しでも変るようなことは無いので、それが人間の心理なのだとして素直に受け入れておけばよいのである。
 ステレオの左右のスピーカーが、原音をじかに鳴らすのではなくむしろ聴き手の頭の中に音像(プレゼンス)を惹起させる素材としての意味が強いのに対し、モノーラルのスピーカーは、実際にそこで原音を鳴らす必要があった。リスナーはスピーカーに面と向っていて、音は疑いもなくスピーカーそのものから出てくるのだから、モノーラルで《原音》を聴かせるには、スピーカー自体を恐ろしく大仕掛けにする必要があった。モノーラルのスピーカーは、ステレオ的な空気(プレゼンス)など初めから鳴らしはしないかわりに、楽器そのものを、リスナーの目の前にありありと現出させなくてはならなかった。ステレオ以前、モノーラルLPの後期、いわゆるハイ・フィデリティ時代の最盛期に生まれた数々のスピーカー・システムの名作は、その事実を如実に示している。たとえば、エレクトロヴォイスの旧型(クリプシュK型ホーン)の〝パトリシアン〟各型や、アルテックの〝820A〟システムや、JBLの〝ハーツフィールド〟や、ヴァイタヴォックスの〝クリプシュホーン・システム〟や……といったもろもろの大型スピーカーシステムは、すべてモノーラル時代の傑作で、それぞれ例外なくコーナー型のホーンシステムである。いわばこれらは、低音再生の限界への挑戦であった。15インチ(38センチ)の強力型ウーファーを一本、あるものは二本パラレルで使い、それにコーナー型ホーン・バッフルを組み合わせ、リスニングルームのコーナーの床と壁面をホーンの延長として低音再生を助けようという、いわば一種の狂気とさえ思える大がかりなものである。左右二ヶ所から空間に音像を浮かばせるというようなステレオ効果の期待できない時代に、低音を、ほんものの低音を確かに鳴り響かせるということが、いかに音像をしかと支える重要な土台になるかを、彼らは知っていた。何サイクルまで出るか出ないかといった〝量〟の問題ではなく、そうして出てきた低音の音の形が、つまり〝質〟がいかに優れているか、オルガンやバスドラムやダブルベースやコントラファゴットの低音の底力のある深い弾力を、何とかして再現し、それを再現することが、唯一最高の、真のスケール感の再現であることを彼らはおそらく知っていた。そういう低音を決して饒舌でなく、必要なとき以外はむしろウーファーが無いのではないかと思えるほど控え目であり、しかし一旦低音楽器が活躍しはじめるや、部屋の空気がたしかな手ごたえでゆり動かされ、からだ全体を音が包みこむ。そしてそういう真の低音に支えられた中音や高音はまた、如何に滑らかで柔らかくしかも輪郭のしっかりしていることか……。
 しかしまもなくステレオ時代がやってきた。経済的に、あるいはスペースの問題から、ステレオはそうした大じかけなスピーカー二台ペアで置くことをためらわせた。しかも、ステレオにすればなにも大型スピーカーでなくとも二台の小型スピーカーで、大型に優る効果が得られるという説が流布され、ARが主流の座にのし上がり、やがてブックシェルフ全盛期が訪れて、かつての大がかりなスピーカーは次第に忘れ去られ、メーカーもまたそういう手の込んだシステムを作り続けてゆくことが困難な時代になってゆく。
 ステレオ効果は、小型スピーカーでも十分に味わえるというのはたしかな事実だが、それは決して、良質の大型スピーカー二台よりも優っているわけではない。こうした明白な論理はつい忘れられる。
 このことは4チャンネル時代のいま再びむし返されてリア・スピーカーは安物でも結構といった俗説がまかり通っている。ここでは4チャンネルについて言及することは避けたいが、四ヶ所にありさえすれば小型スピーカーでもよいという意見を信じるのなら、仮にその四ヶ所にトランジスタのポケットラジオ程度のスピーカーを置くといった極端な形を想像してみれば明らかに鳴る。音源がたとえ2ヶ所から4ヶ所になり、あるいは将来8、10、12……とかりにチャンネルが増えていったとしても、一ヶ所あたりの音のクォリティを決定するのはスピーカー自体の良否であることぐらい、ちょっと考えてみれば馬鹿げて思えるほど簡単な公式なのに、ついわれわれは俗説に惑わされやすい。
 たしかに2チャンネルのステレオによって、モノーラルでは再現できなかった空気感、音が空間を漂う感じが出せるようになった。そういう雰囲気はスピーカーの大小にかかわりなくたしかに出せる。さらに、古くフレッチャー博士による「2チャンネルで50Hzから5kHzで再生されたステレオの音は、モノーラルの50Hzから15kHzの再生音のクォリティに匹敵する……」という説があり、むろんこれは一九三〇年代実験による結論であるにしても現在でもうなずける説であって、そこともステレオの──ひいては4チャンネルの、大型スピーカーの不要論の裏づけに引用されていることも確かである。しかしくりかえすが、だから大型が──というより大小を問わず良質のスピーカーが──不要であり小型ローコストの普及型でいいといった考え方は、全く粗末きわまる暴言なのである。
 しかしわたくしは、はじめに、原音はスピーカーが鳴らすのではないと書いた。だから出てくる音のクォリティがかりに貧弱なものであっても人の耳は原音の存在をありありと感じることができるとも書いた。そのことと、いま述べたこととは矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。
 さきにも述べたように、ステレオの音像を感じるためには、単に二つのスピーカーがそこにありさえすればよい。ステレオの効果(エフェクト)だけに限っていえば、音像を形成するのはむしろ聴き手(リスナー)の側の心理のメカニズムなのだから、スピーカーはただそのきっかけを作ればよい。音を感じるのはこちらのイマジネーションなのだから、裏返していえば、イマジネーションの豊かな人間にとってはスピーカーからの音の貧弱であることはたいして苦にならないことだともいえる。
 しかし大多数の人々がそんな音から現実感を思い描くことのできたのは、やはり遠い昔の話であって、現代のハイ・フィデリティを一旦聴いてしまった耳には、古い蓄音機の音は昔の記憶を呼び起こす以上の何ものでもなくなってしまっている。機械文明というものの背負った宿命のようなものだ。《原音》を究極感じとり創り上げるのは人間の聴覚と心理の問題だが、現代の人間の耳はすでにぜいたくになってしまって、クォリティの低いプアな音ではもはやイマジネーションが浮かばない。だからスピーカーはどこまでも精巧な音を出すように作られてゆく。けれどどこまで行っても、スピーカーが鳴らす音が聴き手(リスナー)の耳に達して、頭の中に音像ができ上るというプロセスの変ろうはずはなく、その意味で、原音を鳴らすのはスピーカーではなく、それはリスナーの頭の──心理の問題だといいたいのである。スピーカーがいかに精妙な音で鳴ったとしても、聴き手の側にそれを受け入れる準備が無ければ、それはただの空気の振動にしか、騒音にしか、すぎないのではないか。一方ではスピーカーの音はどこまでもハイ・フィデリティになってゆき、しかしそれだけでは不十分で、聴き手側のイマジネーションが永久にかかわりを持つ。ここが音の録音・再生のメカニズムのおもしろいところだと思う。

     IV
 写真のメカニズムには、映像を記録し伝達する特性がある。写真ははじめこの記録性を自覚し、対象の精確な写実という特性のために肖像画や風景画の代用として使われ、画家たちはカメラの普及を怖れた。時が流れて、人びとは記録の持つリアリティがものを創造する力を持っていることに気がつき、やがて映像の美学が確立し、写真もまた、立派な創造芸術であることを知るに至る。こことについてはあとでもういちどふれることになるが、写真の歴史の流れの中にも、何度か曲りかどがあった。
 たとえば初期の不完全なレンズはさまざまの収差を除ききれず、あるものは独特の色彩を生じ、あるものは対象をソフトフォーカスで写し撮った。それらの色彩やボケもまた表現であり創造であるとする錯覚が、ひところの写真を絵画の代用という低い地位に陥しかけた。いわばレンズやメカニズムの不完全さが、美学の問題とすりかえられたのであった。しかし創造するのはメカニズムでなくメカニズムを扱う人間であり、メカニズムは単にそのための手段であることを思い至れば、レンズがその不完全さのために作る独特の《味》は、いわばまやかしであることがわかる。この場合メカニズム自体は冷酷なほど正確であるべきで、そういう正確さを駆使して、人間が思いどおりの映像を組み立てるべきなのだ。メカニズムはそのための手段である以上、どこまでも正確さに向かって完成の道を進むべきものだ。問題をレンズでなくスピーカーに置きかえてもこの道理は変らない。
 写真レンズがポートレート用とか風景用などと分類されていた時期があった。これは恰も現在のスピーカーをクラシック向きとジャズ無企図に分けるのに似ているといえなくない。かつて写真レンズには、テッサーの味、ゾナーの味、ヘリアーの味……といったものが存在し、その描写のクセは、でき上った印画からさえ容易に判定できた。いまはもう、印画を見てレンズのメーカーやタイプを言いあてることがほとんど不可能であるほど、レンズのクセは少なくなり、メーカーごとの個体差にもそれとわかるほどの大きな相違はなくなっている。そういうメカニズムを前提にして、ひとは表現し創造する。
 能舞には三つの段階があるのだそうである。第一に『基礎』。第二に『写実』。第三に『創作』。
 一の「基礎」は、写実のための条件──すなわち技術──が完備することをいい、「写実」とは字義どおりそうして完成した条件を生かして写実することであり、最後の段階では写実を越えて創作することだ、というのである。実に簡潔な定義だがこの言葉はたいへん深い問題を考えさせる。そしてまた、写真やオーディオの考え方とあまりにも似ていて驚かされる。
 技術やメカニズムが完成しなくては、写実さえできないし、しかしそれが完成すればやがてそれはものを創造する道に通じるというのは、すでに写真や映画の領域では多数の実例によって例証することができる。オーディオの場合もまた、この論理はそのままあてはめて考えることができる。
 いやオーディオでも、そんなものはもう実現していると反論されるかもしれない。たとえばアメリカで──日本でも──行われたナマ演奏と再生音のスリかえ実験を思い起こしてみる。ステージにはオーケストラが並び、オーケストラのあいだにスピーカーが適宜配置され、聴衆の面前でオーケストラは演奏をはじめる。
 その演奏はあらかじめ録音してあったレコード(又はテープ)の再生音に途中から切換えられる。アメリカでのそれはカーテンの向うで行なわれ、日本での実験はオーケストラが途中から身振りだけして音はスピーカーから出るという趣向で、いずれの場合も居合わせた聴衆の中でその切換を正確に指摘できた者は全体の数%以下であった。つまりいずれの場合にもナマと再生音のスリかえは成功し、音量音質から定位感まで含めて、原音を再生することができたと報告されている。
 これらの実験の成果には疑いの余地は全くなく、それぞれの場で原音の再現は確かに出来た。しかしこれをもってただちに、原音再生の技術が一般的に完成したかのように考えるのは正しくない。現に日本での実験を成功させた技術者自身の口からも、広いホールでなくもっと残響の少ない、要するに一般家庭のリスニングルームにより近い部屋でこうした実験が成功するのは、もう少し先のことだろうと聞いている。広い残響の多いホールでは原音再生が可能な程度の技術は完成しているが、ふつうの住宅での聴き方のような狭い部屋で──とうぜんスピーカーとリスナーの距離がうんと近く、残響時間の短い──こまかなアラの出やすい──状態での再生には、まだまだ難問が残されているという意味である。写実のための条件はまだ〈完成〉してはいないのである。むろんそんなことは、われわれユーザーとしてオーディオパーツを買って毎日聴いてみて、よい音を再生することのいかに困難かを身に沁みて知っているが、それであればなおさらのこと、われわれはもう一度ハイ・フィデリティの原点に立ちかえって、真の意味での写実から始めてみてはどうかと思うのである。

アルテック DIG

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定 best buy stereo」より

 アルテックというと、一般にどうも業務用音響機器の専門メーカーのイメージが強い。Altec は Alt tecnic つまり「大音量の技術」というところからきたのだし、ウェスターン・ブランドのトーキー用システムを始めプロ用システムを専門に作ってきたキャリアが長いだけに当然といえよう。
 映画産業のもっとも隆盛を誇ってきた米国内において、トーキー以来ずっと映画関係と、電波を媒介とする放送が始まればそれに伴ない、さらにレコードとも密着して、ずっと発展し続けたのだから、まさに業務用音響メーカーとしての地位を確保し続けたのは間違いない事実である。
 しかし、アルテックがハイファイ初期から、家庭用音響機器をずっと手がけて、50年代から早くも市販商品を世に送ってきたことは、このプロフェショナル・メーカーとしての存在があまりにも偉大でありすぎたために十分知られていない。
 これはひとえには1947年、アルテックから独立したJ・B・ランシングが、アルテックの製品と酷似した家庭用高級音響製品の数々を、高級音楽ファンやマニア向けに専門的に発売し出したことも、アルテックの家庭用音響幾器の普及にブレーキをかけたといえよう。もっとも、このJBLの各製品の設計者であるJ・B・ランシングが、この頃のアルテックの多くの主要製品の設計に参画していたのだから酷似するのはあたりまえともいえよう。
 アルテックの家庭用機器が大きく飛躍したのは、オーディオ界がステレオに突入したころからであるが、その後は毎年飛躍的に向上して、少なくとも今日米国においては、アルテックはJBLと並び、ARやKLHなどの一クラス上のマニアに広く愛用されるポピュラーなメーカーであるといえよう。
 いや、ポピュラーな層に大いに売り込もうと前向きの姿勢で努力している「もっとも犠牲的なメーカー」であるといいたいのだ。
 ブックシェルフ型スピーカー「ディグ」がその端的な現れである。アルテックでも、「ディグ」以前にもこの種のシステムは数多く現れては、消えた。消えたのはおそらく、その製品が十分に商品としての価値を具えていなかったからに他ならない。商品としてもっとも大切な価格の点でプロフェッショナル・システムになれてきたアルテックが、市販商品としての企画に弱かったのだといえるのではないだろうか。
 つまり、音響機器においての「価格」はサウンドに対するペイであり、アルテックにすれば商品として以上に内容に金をかけすぎてきたのであろう。
 もうひとつの理由は、ARに代表されるスピーカー・システムのワイド・レンジ化が、アルテックの標模するサウンド・ポリシーに反するものであったことも見落せない。
 アルテックの音楽再生の大きな特長というか姿勢は、レンジの拡張よりも中声部の充実を中心として、音声帯域内でのウェル・バランスに対して特に意を払っていることだ。
「ディグ」の中味は、20センチの2ウェイ・スピーカー1本である。それもフェライト・マグネットを使っているためユニットは外観的に他社製品のようなスゴ味を感じさせるものではない。
 つまり、中味を知ると、多少オーディオに強いファンなら[ナァンダ」と気を落してしまいそうなメカニズムを土台としているシステムなのだ。
 しかし、この点こそがアルテックならではの技術なのである。
 音量のレベルが小さい所から大音量に到るまで、バランスを崩さずに中声部を充実させるため、この永年使いなれたユニットをもっとも効果的に鳴らしている。それが「ディグ」なのである。
「ディグ」というジャズ・ファンにおなじみなことばを製品につけたのは、広いファンを狙った製品だからなのだが、単に若いファンだけを対象にしたのではないのは、その温かみあるサウンドににじみ出る音楽性からも了解できよう。むろん、若いジャズ・ファンが納得する迫力に溢れた瑰麗なサウンドは、「ディグ」の最大の特長でもある。ブックシェルフとしてはやや大きめの箱は、この409Bユニットによる最大効果の低音を得るべく決められた寸法であり、ありきたりのブックシェルフとはかなり違った意味から設定されている。小さいながらもこのブックシェルフ・タイプのサウンドは、アルテックのオリジナル・システムA7と同質のものなのである。

ビクター CCR-667

菅野沖彦

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 CCR667は日本ビクターの発売した最も新しいカセット・デッキである。カセット・デッキというのは、カセット・テープを使ってステレオの録音再生ができるデッキ・タイプのテープレコーダーで、出力はラインで出るから、これをステレオ・アンプのライン入力回路に入れて使うように作られているもの。そして、一般に、カセット・レコーダーというと、それ自体にパワー・アンプとスピーカーを内蔵してしいて、他のアンプなどにつながなくても再生音がきけるものをいう。いいかえれば、カセット式のテープレコーダーの場合には、家の中に据置いて使うものがデッキ、どこへでも持って歩けるものが、カセット・レコーダーというように考えてよいだろう。また、今、はやりのコンポーネント・システムという概念でいけば、カセット・デッキはそれ自体では音が出ないし、高級なシステムにつないで使うように、設計されているから、これはカセット・コンポーネント、あるいは、コンポーネント・カセットと呼んでもよさそうである。いずれにしても、カセット・デッキはカセット式の高級機であって、ハイ・ファイ・マニアの音質的要求にも応えるものというのが条件である。カセットはそもそも開発の意図からして、簡便、小型、軽量という使いやすさを第一の目的としてきた。したがって、その範囲での音質向上は当然計られるにしても、本来の〝イージー・ハンドリング〟〝コンパクトネス〟といった特徴を犠牲にしてまでもハイ・ファイ再生を目指すようになろうとは想像出来なかったのである。それは、やや馬鹿げたことにも思えたし、第一、あんな細いテープで、しかもゆっくり廻して、そんな高性能が得られるわけもないと誰もが考えたにちがいないのである。しかし、そうした馬鹿げたことをも、馬鹿げたことと感じさせないのが技術の進歩というものらしく、最近のカセットの性能は、オープン・リールのテープ・デッキ並の大型化をも不満と感じさせないだけのものとなってしまったようである。
 このCCR667を使ってみても、そのカセット本来の特質を失った堂々たるデッキのスタイルが気にならないだけの性能をもっているのであった。これで、音質が悪かったり、ノイズが聞くに耐えなかったりしたら、途端に、カセットの数十倍もあろうと思われる大きさに腹が立ってくるところだろう。
 CCR667はビクターが独自に開発したノイズ・リダクション・システムANRSが内蔵している点を第一のフューチャーとすべきだろう。これは、有名なドルビー・システムと同じような考え方による回路であって、入力信号が小さい時に、高域における録音レベルを上げ(伸長)てテープに録音し、再生の時に、その分を下げ(圧縮)てやることにより、耳につくテープ・ヒスを減らそうというものである。つまり、ハイ・レベル録音でS/Nをかせぐというテープ録音のコツを利用して、これをたくみに電気回路で自動動作をさせたものである。そしてこのANRS(AUTOMATIC NOISE REDCTION SYSTEM)はドルビー・システムとの互換性があるそうだから都合がいい。それにしても、同じ考え方、同じような動作、さらに互換性もあるとなると、世界的特許を盾に、世界中の市境を席巻しているドルビー氏との関係はどのようになっているのだろうか? というヤジウマ根性が首をもたげてくる。
 第2のフューチャーはクローム・テープに対する適応性である。ごぞんじのことと思うが、最近のテープ界の話題となっているクローム・テープは、従来の磁気テープが、ガンマフェマタイトという酸化鉄の微粒子を磁性体として使っていたが、この新しいテープはクロミダイオキサイド(CrO2)という合金の微粒子を磁性体としたもので、その磁気特性はまったくちがうものだ。テープに録音をするにあたって、あらかじめ高い周波数の交流電流を磁気ヘッドに流し、これに信号を重ねてテープを磁化する交流バイアス法が現在使われているが、そのバイアス電流の量はそれぞれのテープの磁性の特質によって異るのがテープ・レコーダーの厄介な問題の一つであった。クローム・テープとまでいかなくとも酸化鉄系のものでも、普通のテープと、ロー・ノイズ・タイプとでは性格が異り、同じバイアス電流量で使うと周波数特性に変化が起きたり、歪の少ない録音がとれなかったりという不都合が起きた。正しく使うと高性能を発揮するテープでもまちがった使い方をするとかえって悪い結果に終る、というわけだ。これがテープとデッキの適応の問題で、クローム・テープは、そのために設計されたデッキではないと使えないのである。このテープ・デッキは普通のテープとクロームとの二点切換スイッチがついていて、クローム対策は万全であり、実際、同社ブランドのクローム・テープを使ってFMやレコードから録音してみたが、なかなかよい。またフジ・フイルムのクローム・テープが手元にあったので使ってみたが、ANRSと併用して、とてもカセットとは思えない結果が得られた。メカニズムも安定していてドロップ・アウトも少なく、カセット特有だったフラフラとレベルが変動することがなかった。リニアー式のレベル・アッテネーターも確実だし適度に軽くて気持がよい。またテープの巻き終りで、ライト・ビーム・センシングによるカセットのポップ・アップ機構がついているのも便利だし、全体のデザイン・イメージもマニアの好みに合いそうだ。ヘッドまわりのクリ−ニングもカバーをとりはずすことによって容易に出来るような配慮があって好ましい。

ヤマハ YP-700

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1972年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ヤマハのプレイヤー、と聴いて、昔のプロフェショナル仕様のプレイヤーを思い浮かべた方がいたら、それは、本格派のベテランマニアに違いない。モノーラル時代の盛んなりし頃、たしか30年ごろだったと記憶するが、リムドライブ型フォノ・モーターと、例の長三角形のオイル・ダンプド・ワンポイントサポート方式のアームを組合せた、プレイヤーをヤマハ・ブランドで市販した。高級マニアのひとつの理想が、このプレイヤーに凝縮され息吹いていた。このプレイヤーを手がけたのは現在のティアック、東京電気音響のさらに前身であったのだが、放送局のモニタールームなどにあったレコード再生機のイメージがそのまま市販品として再現されていた。形だけではなく、その性能も、規格もプロ用に匹敬して今日において歴史に残る名作と謳われるべき高性能機種であった。
 今、ヤマハのプレイヤーを前に置いて、かつての名作を思い浮かべる時、眼の前にあるプレイヤーは、昔のものとはイメージすら全然異なるものであるのは確かだがそれはそのまま我国のハイファイの推移を具象化した形で示していることを感じた。
 かつて、ハイファイは一般の音楽ファンにとって高嶺の花でしかなかった。
 今日のように、多くのファンやマニアの間にオーディオが定着した現実と、ヤマハというブランドがオーディオ産業の奈辺に存在するかに思いをいたせば、この新型プレイヤーの外観と、志向する性能が、昔日と全く異なるのはしごく当然といえよう。購買層ファン自体が、大きく変ったのである。共通点はただひとつ、ターンテーブル上のゴムシートのパターンだけだ。
 新製品YP700は、セミ・オートマチック・プレイヤーである。つまりレコードの音溝の上にアームを位置させてプレイ・ボタンをおせば、アームは静かにレコード上におり、演奏が終われば、アームは上って静かに定位置に戻りレスト上に止る。
 この新製品がセミ・オートマチック・プレイヤーであるということで、現在のヤマハの狙っている層が、昔日のように一部の超高級マニアではなくもっと若い広い層を考えていることが判ろうというものである。
 ターンテーブルは今日では高級品としてオーソドックスなべルト・ドライブ方式で、大きなメタル・ボードの左奥にアウター・ローター型シンクロナス・モーターがあり、三角形のカバーがその位置を示している。この位置は、カートリッジのレコード面上の軌跡からもっとも遠い位置であり、この一点を見てもプレイヤーの設計にオーソドックスながら十分な配慮がなされていることが判る。事実、カートリッジ針先をモーターボードに直接のせてボリュームを上げてみてもスピーカーから洩れるモーターゴロは微少で、モーター自体からの雑音発生量の少ないのが確められる。
 これはモーターボードの厚くガッチリした重量による効果も大きく見逃せない利点だ。
 さて、このプレイヤーのウィーク・ポイントは、アームのデザインにあるようだ。使ってみて、扱いやすく、誰にでも間違えることのない優れたアームとは思うが、ただ取り柄のまったくないありきたりのパイプアームだ。シンプルというには後方のラテラル・バランサーなどがついており、多分、これが特長としたいのだろうが、このラテラルバランサーと対称的にインサイド・フォース・キャンセラーが、アーム外側につけられている。アームは、実用的であると同時に、毎日これと対決を余儀なくさせられる音楽ファンの、マニア根性を、もう少し刺激して欲しいパーソナリティーを望みたい。
 ちょっとだけ不満な点にふれたがこのプレイヤーの最大メリットが2つある。まずヤマハならではの、豪華にして精緻なローズウッドのケースの仕上げだ。圧巻というほかない。
 もうひとつの大きなプラスアルファはカートリッジにマニアの嬉しがるシュア・75タイプIIがついていることだ。タイプIIになってスッキリした音が一段と透明感を強めた傑作カートリッジが、オプションでなく、始めからついているのは、このプレイヤーの49000円という価格を考えると魅力を一段と増しているといえよう。

パイオニア AS-30 + LEB-30, AS-21 + LEB-20

岩崎千明

スイングジャーナル 4月号(1972年3月発行)
「audio in action」より

 ステレオ・メーカーが相次いでキットを出した。トリオのアンプ・キット、ラックスの真空管アンナ・キット、さらにパイオニアがスピーカー・システムのキットを市場に送った。この新らしい試みは、不況に関連しての目玉商品としてではなく、週休2日制の声がしばしば聞かれるレジャー時代に即応した新商品としての登場である。
 いわゆるホビーとしても、ステレオやオーディオはハイセンスなことこのうえなく、単に高級パズルとしてだけでなく音楽という趣味性の高度な感覚がからんで、現代の、知識層にとって計り切れないほど強くかつ、深い魅力を秘めているといえよう。
 キットは、その端的な具体化商品なのである。
 パイオニアのスピーカー・キットにはAS30、30センチ低音用3ウェイ、AS22、20センチ低音用2ウェイ(ダイアフラム型高音用)、AS21、20センチ低音用2ウェイの3種類がある。価格はAS30が12、000円、AS22が5、500円、AS21が4、400円となっており、それの専用ボックスが2種類売り出されている。
 LEB30 AS30用 12、000円
 LEB20 AS21、22用 9、000円
 従って、3ウェイ用としては、LEB30とAS30を購入すればよく、価格は24、000円ということになる。この3ウェイに匹敵するパイオニアのシステムはCS−E700で、こちらは35、000円なので、スピーカー・システム・キットの方がなんと1万1千円も安くなることになる。(厳密にいうと、CS−E700の方は高音用ホーンが、マルチセラーになっているので、キットよりも高音域の拡散性がより優れていることは確かだが)。
 LEB20とAS22の組合せは、パイオニア・システムCS−E400に匹敵し、レベル・コントロールのないことを除いてまったく同じだが価格はシステムが19、900円なのに対してキットの方は13、500円である。さらにLEB20とAS21の組合せはCS−E350に相当するが箱は、キットの方がひとまわり大きく、低音のスケールは一段と大きい。システムのCS−E350の14、500円に対してキットはLEB20とAS21で13、400円と差は少ないが外観がひとまわり大きい。
 さて、今回AS30、3ウェイの大型のキットと、もっとも普及型であるAS21を試作してみた。
 キットとしては大へんに工作が楽で穴をあけたり、切ったりする必要は全然なく、箱にスピーカーを取り付けて「ネットワーク」をハンタづけする、というだけの、イージーメイクな、万人向きのキットといえよう。
 付属の説明書を頼りに進めれば、少しもまごつくことなしに完成できるが、ハンタづけのウデの確かな方ならおそらく1時間ぐらいで、2個を作り終るであろう。
 ハンダづけの未経験な方は、ネットワークとスピーカー端子のハンダづけに苦労するかもしれない。
 ハンダづけの要領にちょっとふれておこう。
 ①ハンダゴテはあまり熱くしすぎてもいけない。糸ハンダをコテ先に押しつけ溶け出して、先にたまるぐらいがちょうどよい。これよりも熱過ぎるとハンダが玉になって下におち、コテ先に付いてくれないから注意。
 ②コテ先にハンダがよくのったら、導線をからげたハンダづけするべき所におしつけ糸ハンダを、コテ先に触れさせると、端子全体にハンダがよくのってくる。
 ③そこでつけるべき導線の先までハンダを盛るようにする。ただし、ハンダの量は少ないほどよい。
 とこう書くと色々と大へんな手間だが、実際は一箇所ハンタづけするのに3秒ぐらいのものだ。工作に当ってのたったひとつの注意は、中につまっているグラスウールだ。これは眼に入るとチクチクと痛いし腕にでも付着するとチクチクしてなかなかとれない。もともとガラスの細い繊維だからなるべく素肌には触れない方がよいので、そっと扱い、こまかいのが空気中に飛ばぬように注意する。スピーカーをつつんでいた布袋を利用してグラスウール全体をスッポリと被ってしまえば扱いやすい。
 さて、スピーカー・ボックスにある端子板に、青白の入力コードをハンダづけする。あせって青白のむきを間違えないよう。+側が青です。ネットワークはスピーカーのボードがかたいのでネジ止めが大ヘンなので、セメダインかボンドを推める。ネジは1本か2本だけでよい。
 出来上ってみると苦労のしがいがあったのが嬉しい。
 さて、音を出してみよう。もし確実に1工程、1工程確めながらやってあれば信頼できるが、そうでないと、出来てからの心配や苦労が多いもの。
 この辺がキット作りのコツともいえる。
く試聴記〉
 キットだからと最初はたかをくくっていた。「CS−E700と同じだから社員でさえ買うものがたくさんいるほど。これはスピーカー・メーカーとしてのパイオニアのサービス商品だ。」といったのはスピーカー課長の所次にいる山室氏だが、まさかそのまま受取れるほどのことはあるまいと思ってたのだが。どうしてどうして、大した製品である。キットとはいえ、まさにパイオニアの本格的3ウェイの音だ。つまりCS−E700と変らないといってもよかろう。堂々たる量感あふれる低音、豊かなエネルギーを感じさせる品の良い中音域。輝きに満ちた高音。
 パイオニアの良識あるハイファイ・サウンドはジャズのバイタリティを力強く再現してくれる。ヴォリュームを上げた場合の楽器の再現性はバツグンだ。AS21の方はコーン型トゥイーターで歌の生々しさが特筆。全体にソフトタッチのバランスのよい音で、再生のクォリティーは高く、使いよさの点で誰にも推められよう。アトランティックのキース・ジャレットの美しいタッチが力強さに溢れた感じが加わるから不思議だ。