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「憧れが響く オーディオ評論家八氏の『音』を聴かせていただいて」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 まず、スピーカーがふたつ、目に入る。アンプやプレーヤーも、どこかにあるにちがいないが、それはこの際、どうでもいい。ふたつのスピーカーを見れば、それだけでもう、その部屋主が音楽をきく人だとわかる。再生装置で汽車の音ばかりをきいている人だっていなくはないだうが、大半の人は、再生装置をレコードで音楽をきくための道具としてつかっているのは事実だがら、その部屋の主が音楽をきく人と見さだめていい。いかなる音楽? しかし、それは、たいして問題ではない──と、一応ここでは、いっておくことにしよう。
 部屋の主はいう、いやあ、この音にかならずしも満足しているわけではないんだよ。訪問者は、なぜだろうといった表情で、部屋の主の顔を見る。たずねられている意味をいちはやく察した部屋の主は、なんとなく音がもうひとつしゃきっとしなくてね、本当ならスピーカーを、今度出た△○×にかえたいと思っているんだけれど、なかなかままならなくてねといい、語尾を、かすかな笑いのうちにとかす。
 訪問者は、了解する。そしてしかる後に、しかし、これで充分いい音じゃないかと、時に本機で、時に社交辞令でいう。訪問者も、いい再生装置を手にいれるには、すくなからぬ出費を覚悟しなければならないことを、すでに知っている。したがって、あの△○×はいいらしいけれど、けっこうな値段だねと、相槌をうつ言葉も、おのずと実感にみちたものとなる。
 再生装置はものだから、当然、それを自分のものとするためには、金がかかる。おおむね、いいものは、高い。会話の様子から、スピーカーの△○×は、かなり高価なものらしい。「ままならない」のは、どうやら、それを手にいれるための金のようだ。スピーカーの△○×とて商品だから、金さえ支払えば、自分のものとなる。そしたいと思いながら「ままならない」不如意を、部屋の主は、暗にいいたかったにちがいない。むろん、多少の礼儀をわきまえている訪問者は、金さえあればいい音がだせるっていうわけでもないだろうなどとは、決していわない。
 つまり、部屋の主が口にしたのは、一種のエクスキューズだ。多少むごいいい方にならざるをえないが、その部屋の主の言葉をくだいていうと、こうなる──ぼくはこの音に満足しているわけではない、すなわちぼくの音に対しての美意識はとうていこの程度の装置では満足できない、そこでさしあたってスピーカーを△○×にかえれば少しはよくなるだろうと思っているが、それを入手するための金が今ない、それだからやむをえずこういう音できいているだけだ、金さえあれば、ぼくの音に対しての美意識、ないしは音に対しての趣味のよさをきみに示せるのに、はなはだ残念だ。
 しかし、本当に、そうか。金さえあれば、すべてが解決するのか。そうは思わない。部屋の主と訪問者の会話では、肝心なことが欠落している。
 再生装置はものだ。ものゆえに、それを入手するための金がかかる。だからすべてが金のせいにされてしまう。とんでもないことだ。いかなるものでも、ものは、つかわれることを、さらにいえば、うまくつかわれることを、待っている。そしてものは、そのつかわれ方で、つかいてである人間を語る。部屋の主が、現在彼の使用中の再生装置をうまくつかっているかどうかは、知らない。ただ、「なんとなく音がもうひとつしゃきっとしなくてね」といっていることから判断すれば、彼はうまくつかっていないのかもしれない。
 うまくつかっていないということは、機械の方にもいたらぬ点があるとしても、つかいてである部屋の主がつかいきれていないということで、だとすればたとえスピーカーが△○×になったとしても、似たような言葉が彼の口からでてくる可能性がある。なぜそういうことがおこるかといえば、すべてを金のせいにしたからだ。たしかにものである再生装置を入手するために金が必要だから、まったく無関係とはいえないが、それがすべてではない。本来、問題にされるべきは、なにをつかうかではなく、どうつかうかだろう。
 しかし、不幸にも、なにをつかっているかは、言葉にしやすい。へえ、きみは△○×をつかっているの、すごいなあ──という会話は、いとも容易で、よく耳にする。しかし、その△○×からどういう音をだしているかは、実際にきいてみないと、わからない。言葉にしにくい。だから、なにをつかっているかだけが問題にされ、どうつかっているか、つまりどういう音をきいているかは、語られない。
 同じ△○×のスピーカーだって、たとえそれ固有の音があるとしても、つかわれる場所がかわれば、そしてつかいてがかわれば、かわる。そのことは、アンプについてだって、カートリッジについてだっていえる。変化の要因は多々ある。ということは、すでにしばしばいわれていることで、あらためていうまでもないようなものだが、だからこそ、そこに、ものをつかうわざが介入するということを、確認のために、敢ていっておきたい。
 先の部屋の主の言葉にいじましさがついてまわったのは、おのれのものをつかうわざを棚にあげて、責任のすべてをものにゆだねたがゆえだった。ききてにとって肝心なのは、再生装置というものではなく、あくまでも音だ。ひとことでいってしまえば、ものである以上、それはつかいてによって、名器にもなれば駄器にもなる。
 オーディオ評論家ときえども、金のわく泉をもっているわけではないから、当然のことに、経済的な制約の内にある。あのアンプがほしいと思いつつ、その制約ゆえに入手できないでいるかもしれず、広いリスニングスペースを求めつつ、はたせないでいるかもしれない。ただ、ものである再生装置をつかうわざについてエクスキューズをいうことは、彼らには許されていない。つまり彼らはそれをあつかうプロだからだ。事実、おたずねした八氏のひとりとして、その種のことを口にした方はいなかった。当然のことながら、先の部屋の主のごときいじましい言葉は、どなたも、おっしゃらなかった。だからといって、ふりかぶって、これこそがわがサウンドなりといった感じでもなく、八氏が八氏とも、淡々とそれぞれの音をきかせて下さった。それが、特に、印象に残った。そこには、プロの、プロならではのさわやかさがあった。
          *
 音をつめることのできる缶詰があればいいのにと思う。ピアニストがそのピアノでならした音は、時と所をへだてたところで、まあ、さまざまな問題があるとしても、レコードと、それを音にする再生装置という重宝な道具があるので、きくことができる。すくなくとも、ホロヴィッツの音とポリーニの音をききわけられる程度の音で、すくなくとも今のレコードは、きかせてくれる。しかしポリーニの音の入っている同じレコードでも、Aという人がならす音とBという人がならす音では、ちがってくる。そのためにことはややこしくなる。
 Aという人の音がどうで、Bという人の音がどうかをいうためには、いきおい言葉にたよらざるをえなくなる。たとえば、Aはポリーニのレコードをやわらかい音できいていた、といったように。やわらかいといったって、その意味するところひろいから、なかなかうまく伝わらない。やわらかさの基準がどこにあるのか、それだってすでに個人差があることだから、正確に伝わると思う方がおかしいのかもしれない。結局は、おおまかな輪郭しか伝わらないような気がするが、それでもできるかぎりのことをしようと、せいいっぱいの努力をする。
 このことは、個々のスピーカーやアンプの音を言葉にする際にもいえるが、ただここでは、ある人間によってならされた音についてという限定内で、はなしをすすめようと思う。
 一枚の写真がある。ポリーニがピアノにむかっている。なにをひいているのかなと思うが、わかるはずもない。写真は音を伝えないからだ。どういう曲のどこをひいているのかさえわからずむろんどんな音がそこでしていたのかさえわからない。ヒントは、その写真を見た人の記憶の中にしかない。多分ポリーニは、この時も、あのような音でひいていたのだろうと、かつて自分が、レコードでだろうとナマでだろうときいたポリーニの音を思いだすだけである。
 もう一枚の写真がある。オーディオ評論家のA氏が椅子にすわっている。彼はレコードをきいているらしい。そばにポリーニのひいたショパンの「前奏曲集」のジャケットがある。かかっているのは、多分、そのレコードだろう。A氏がだしていた音は、四角だったの三角だったのという、しかるべきコメントもそえられている。そのコメントを読もうと読むまいと、A氏の音を推測する手がかりが、そこにある。彼がどういう装置できいているかが記載されているからだ。このカートリッジはああいう音、このアンプはああいう音、このスピーカーはああいう音といったように、記憶をたよりのたし算が、そこでおこなわれる。
 しかもその場合、大変に具合のわるいことに、それぞれの、たとえばスピーカーならスピーカーの、置き場所、ききてに対しての角度、あるいはそれがつかわれる部屋のひろさや性格といったさまざまな要因でかわる変動の幅は、無視される。しかしその変動の幅は、先にのべたように、つかう上でのわざが介入しうるほど、大きい。そうしたことが個々の、つまりスピーカーについても、アンプについても、カートリッジについても、さらにプレーヤーについてさえいえるとなれば、記憶をたよりのたし算の結果から推測した音と、実際になっている音との差は、はなはだ大きなものとなる。
 不幸なことに、雑誌という印刷物にのせられるのは、言葉と写真だけだ。つまり四角にたよったものしか伝えられない。レコードをきいているA氏の写真は、たしかに雑誌にのせることができる。またA氏が現在使用中の再生装置も、写真でなり、文字でなりで、のせることができる。さらにA氏の音をきいた人間の感想も、のせられなくはない。しかし、その音そのものは、音をつめることのできる缶詰でもできないかぎり、伝えることは不可能だ。
 そこで、このカートリッジはああいう音、このアンプはああいう音といった、記憶をたよりのたし算をすることになるが、そのたし算は、人間によってつかわれたときにはじめてものとして機能しはじめるという、もののものならではの特性を無視してのもので、計算ちがいにおちいる危険がある。ものは、本来、それをつかう人間とのかかわりにおいて考えられるべきだろうが、そのたし算は、そこのところをそぎおとして、ものでしかないものにたよりすぎているところに、あぶなっかしさがある。
 このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
 したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
 しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
 ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
 その言葉にそってはなしをすすめるとすれば、彼らの調教の目的をたずねる言葉は、必然的にこうなる──あなたは、そのあなたが調教した馬にまたがって、どこに行こうとしているのですか?
 目的地は、人それぞれで、ちがう。ちがってあたりまえ。同じだったらおかしい。その目的地のことを、ばくぜんと、「いい音」といったりする。「いい音」? なるほど、そういういい方もある。しかし、ある人にとっては「いい音」が、別のある人にとっても「いい音」であるとはかぎらない。絶対的な「いい音」なんて、さしあたって、ないと考えた方がよさそうだ。
 そうなると、「いい音」といういい方が、一定の目的地をいう言葉たりえないことがはっきりする。しかし、馬は、いずれにせよ、のるために調教するのだから、のってどこかにいくのかがわかっていなければならない。馬に、Quo vadis, Domine? とたずねられても、馬に Domine と呼ばれた人間に、こたえようがなくては、やはり困る。
 さて、目的地は、どこか。もう一度、たずねてみる。同じ言葉がかえってくる。「いい音」。「いい音」が、この場合に可能な、唯一の言葉だろう。したがって、どんな「いい音」か、つまり「いい音」といういい方でいいたがっている目的地の固有の名前は、質問者の方でさがさざるをえない。「いい音」とこたえたその回答者の主体とのかかわりあいで、考えなければならない。Aのいう「いい音」と、Bのいう「いい音」では、あきらかにちがう。
 たとえば、Aは大きな音できくことが多く、Bは普段小さな音できいているとすれば、それはすでに、そのふたりの音に対しての嗜好を、あきらかにしている。Aはジャズをきくことが多く、Bはバロックなどの比較的しずかな音楽をきくことを好むとすれば、それもまたそれぞれの音に対しての好みを表明していることになるだろう。大きな音でジャズをきくことを好むAのいう「いい音」と比較的音量をおさえめにしてテレマンのトリオ・ソナタなどをきくことを好むBのいう「いい音」では、同じはずがない。
 馬に鞭をあて、いてつくような北国の夜をめざすのか、それともオレンジの花咲く南の国をめざすのか。「いい音」は雪の上にあることもあり、さんさんとふりそそぐ陽の下にあることもある。
 そしてここでひとつ、思いだしておきたいことがある。プレーヤーから出たコードをアンプにつなぎ、アンプからのコードをスピーカーにつなぎ、その後、レコードをかければ、まず、音はでる。むろんアンプのスイッチはオンになっている。音はでてきてあたりまえ、でてこなかったらおかしい。それもたしかに音だが、その音は、たまたま出てきた音だ。別のいい方をすれば、その音は、再生装置というものが勝手にだした音でしかない。その音に、つかいてはほとんど介入していない。装置の音であっても、つかいての音はいいがたい。
 たとえ装置をえらぶ段階で、つかいての音に対しての嗜好が選択に反映したとしても、ことは、そこで終ったわけでなく、そこからはしまる。ある機器をその人にえらばせたそれなりの理由があるなら、その理由にそって、その機器をおいこんでいかなければならない。その機器がそれなりにおいこまれた時、そこでなる音は、機械の音といっただけでは充分でない、つまりつかいてのものとなる。つかいてはやはり、馬にひきずられて野原を走りまわるべきではなく、馬にまたがって、目的地をめざすべきではないか。
 たまたまなった音でいいのわるいのいっても、さして意味はない。
 オーディオ評論家八氏のきかせてくださった音は、十全に調教された馬の音だった。北をめざしている馬もあり、南をめざしている馬もあり、東や西、あるいは空にまいあがろうとしている馬もあったようだ。当然ながら、ぼくにもぼくなりの音に対しての好みや考えがあり、そのすべてに共感したというわけではなかった。しかし、ただ──
 そう、ここが肝心なところだ。徹底したものは、それに共感するかどうかは別にして、常に、ある種の説得力をもつ。その説得力が、オーディオ評論家八氏のきかせてくださった音にあった。
 再生装置から音をだす時に、そのつかいての心をよぎるのは、「いい音」を求めての、いってみれば憧れである。ぼんやりした憧れなら、ただそれだけのことで、どうということもない。しかし、それがひとたび、つかいての行動を呼ぶと、憧れは目に見えない、そして耳にもきこえない、しかし否定しがたい力をもって、いずこにかむかう馬速度をあげる。疾走する馬は美しい。その美しさが、人をうつ。そうか、彼は、着たにいきたいんだな、きっと、あの北国の夜空を見たいんだな──と、思ったりする。
 そこではじめて、しかしぼくは南にむかう──という言葉も、可能になる。彼にとっての「いい音」という固有の目的地が、その音にすでにきけるからだ。ということは、そこでなっている音が、かくかくしかじかというメーカーのかくかくしかじかという型番の機器の音ではなくなり、その人の音になっているからだ。
 その馬の調教のノウハウ、つまり調教法は、さまざまあり、人それぞれで大変にちがう。特別にことさらの調教法なんてないよ──という人だっている。すでにできあがっている機器に、たとえば抵抗やコンデンサーをつけたりするような、敢ていえばハード的な調教から、スピーカーの角度をほんのわずかかえるといった微妙な調教まで、まさにさまざまだ。
 しかしそのことについて、ここでは、ふれない。なるほど、ここをこうしたからこうなるのかといったようなことをいうには、すくなくともぼくにはデリケートすぎることのように思えるからだ。そして同時に、調教法は、必然的に、その目的地との関連で考えられるべきだろう。ただちょっと暇な折に、林の中を歩きまわりたいだけなんだといって、馬を自分のものとする人だっているはずで、そういう人には、多分、ことあらためての調教など、不必要だろう。
 普遍的な、誰にも、どのような状況にも通用しうる調教法など、ないのかもしれない。とすれば、ここで、今回その音をきかせていただいたオーディオ評論家八氏の調教法を、したり顔にお伝えしたとしても、なんの意味もない。彼らは彼ら、ぼくはぼく──と、なまいきかもしれないが、ぼくは思った。彼らには彼らそれぞれの目的地があり、ぼくにはぼくの目的地がある。調教法が目的地との呼応によってあみだされるとすれば、ぼくはほくなりに考えなければならない。ここで先達にすがっては、ぼくの憧れは、水っぽくなってしまう。
 しかし、はたして、目的地は、不動か。いや、言葉をあらためる。はたして、目的地を、不動不変と思っているかどうか。
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
 目的地がかわらざるをえない要因は、再生装置の側にもある。たしかに新しいものがすべていいとはいいがたい。すでにすぎた時代につくられたものの中に、新しくつくられたものにはないよさをそなえたものがあるのは、まごうかたなき事実である。しかしその反面、新しくつくられたものならではの可能性をもったものがあるのもまた、まぎれもない事実だ。そういう、歓迎すべき新しくつくられたものは、そのつかいてに、そうか、ここまでいけるのかといったおもいをいだかせ、今まで以上の、ずっと先に、目的地を設定する夢を与える。
 昨日まで、あそこまでしかいけないものと思いこんでいたのに、その新しく登場した機器によって、それよりずっと先に目的地をおけるようになるというのは、よろこばしいことだ。
 さまざまな、昨日の、あるいは今日の音楽、ないしは音にふれながら、人それぞれ、憧れをかえていく。その変化の様は、ちょうど黄昏時の空のようで、変化しているようには見えないものの、刻々とかわっていく。そして、こういう音楽、こういう音をきくのだったら、もっとシャープな音のでる装置がほしいなと思ったりする。しかし、憧れがそのまま際限なくふくらむというわけではない。装置の方で、憧れの自然増殖をゆるさない。したがって、目的地は、際限なくふくらもうとする憧れと、実際問題として装置が可能にする限界との接点にあるということになる。
 目的地を北におくか、それとも南におくか、その、いってみれば座標軸の決定にあたっては、憧れの大きさや質などが、大きな要因となることは、あきらかだ。
 そうなってくると、その人の目的地の設定場所は、その人の音楽のきき方にかかわらざるをえない。しかしむろん、あなたは音楽をどうきいていますか──というのは、愚問以外のなにものでもない。どうきいているって、どういう意味?──と反問されるのがせきの山だ。これは、あなたはどうやって生きていますか? という質問と似たところがあって、こたえは言葉にしにくい。そして、もし非常な努力の末、たとえそれを言葉にしたとしても、言葉にしたとたんに、しらじらしくなってしまいかねない。
 結局は音楽のきき方とかかわるからこそ、音が、その音をだした人を語ることになるのではないか。だから、音は、こわい。
 ここで肝心なのは、どういう音楽をきくかではなく、音楽をどうきくかだ。問われるべきは、WHAT ではなく、HOW である。そのきき方によって、憧れの、姿も、背丈も、かわってくる。同じポリーニのひいたショパンをきいたからといって、万人が同じようにきいているとはいえない。上野の文化会館で隣りあわせにすわって、同じ音楽をききながら、同じにはきいていないわけで、そこでのへだたりが、再生装置をつかっての音、つまり再生音について思いいだく際の憧れの質的・量的差となってあらわれる。
          *
 ぼくがおたずねした八人の部屋の主は、△○×のスピーカーをほしかっていて、しかし「なかなかままならなくてね」といって苦笑いした部屋の主とは、ちがう。さまざまな面で、大変にちがう。基本的には、一方がアマチュアで、もう一方がプロフェッショナルだということがいえるのだろうが、ぼくのおたずねした八人の部屋の主には、それをことさら誇ったというわけではないが、自信に裏うちされたさわやかさがあった。
 ただ、△○×のスピーカーをほしがっている部屋の主もいいそうなことで、八氏がそれぞれ、えらんだ言葉、あるいはニュアンスなどでは微妙にちがっていたが、口にした言葉がある。オーディオというのは趣味の世界のものだから──といった意味の言葉だ。ぼくもその考えには、おおいに共感する。人それぞれで、その後につづく言葉もかわってくるわけだが、いずれにしろ、オーディオがことさら仰々しくいわれたり、考えられたりするのには、ぼくも、反撥をおぼえる。
 たしかにオーディオは多くの人にとって趣味だ。だから、こむずかしく考えることはなく、適当でいいんだ──ということもできるし、逆に、だから、仰々しくなる必要はないが、せいいっぱい誠実につきあうべきだ。──ということもできる。ふたつの極にわかれての反応が可能になる。
 本当は、趣味だからといって、たかをくくるとことはできない。趣味は、それを趣味としている人を、長い年月のうちに、それらしくしていく。切手蒐集家には切手蒐集家の顔があり、盆栽が趣味の人には、いかにもそれらしい表情がある。しかもオーディオは、まさに目に見えない音として、われわれの日常生活の中にしのびこみ、その音をきく人を、じわじわと、無言のうちに(!)、ゆりうごかす。
 趣味でしかないとしても、趣味だからといってたかをくくれないところがある。オーディオ・メーカー好みのキャッチフレーズ風ないい方をすれば、いい音をきいている人はいい顔をしている──といったことさえ、そこではおこりかねない。
 オーディオというのは趣味の世界のもだから──といった、オーディオ評論家八氏の言葉は、当然、その辺のことをふまえてのもだったにちがいない。趣味の世界のものだからということで、たかをくくっての言葉ではなかった。たかをくくった人間に、目的地をさだめての旅だちなどできるはずもない。彼らは、なにげない顔をしていたが、せいいっぱい誠実に、できるかぎりの努力をして、彼らの音をつくっていったにちがいなかった。
 しかし、彼らとて、今、目的地にたっているはずもない。ただそこできいた音は、すばらしいことに、今の目的地がどこかを、それをきいた人間にわからせるものだった。その意味で、彼らの音は、まさに憧れが音になったものだったといえよう。その音が、たまたまなった音ではなく、彼らがならそうとしてならした音だったからだ。
 当初、ぼくの期待は、ちょっとやそっとではきくことができない、俗にいわれる名器の音がきけるということにあった。それがたのしみで、この企画の訪問者の役割をひきうけた。
 しかし、ぼくは、あきらかに、うかつだった。ぼくは、名器の音など、なにひとつきかせてはもらえなかった。ぼくがきいたのは、A氏というオーディオに強い関心をもち、またそれに通じている男の音だった。そこでは、あたらの名器も、一枚の鏡と化し、Aという人間を、そしてその夢と憧れを、ものの見事にうつしだしていた。いい音ですね──などというのさえはばかれるほど、みごとにみがきあげられて、鏡は、その前にたつ男をうつしだしていた。
 そこでは、憧れが、響いていた。燃えあがる憧れもあり、沈みこむ憧れもあった。そしていずれも、その憧れにふれた人を感動させるに充分なだけ美しかった。
 ぼくは、八通りに響く憧れを、きいた。

「長島氏の再生装置について」

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 長島氏のスピーカーシステムは、大型のジェンセン・インペリアルシステムと呼ばれていたものだ。いまではジェンセンというブランドネームはポピュラーではないが、古くSP時代からLP全盛期にわたり、スピーカーユニットとしては国内でかなり愛好されていた。とくにSPの頃には、明快で歯切れのよいスピーカーとして定評があり、ローラ・セレッションの前身のローラのスピーカーユニットが柔らかく滑らかな音をもっていたのとよく比較されたものだ。
 インペリアルシステムは、83×140×70cm(W・H・D)の外径寸法と約95kgの重量をもつ大型システムだが、コーナー型エンクロージュアの後をカットしたようなセミコーナー型ともいえる形態をもち、そのうえ、シンプルなバックロードホーン型であるのが特徴である。このバックロードホーンは、一般的なエンクロージュアの天板部分に開口部があり、部屋のコーナーに置いて両側の壁面と天井をホーンの延長として使う場合と、全体を倒立させて両壁と床面をホーンの延長として使う方法の二種の使用が可能であるが、長島氏の場合は床側にホーン開口部を置く使い方である。
 使用ユニットは、ジェンセンのトライアクシァル型フルレンジユニットG610Bで、3ウェイ同軸型としては歴史が古く他に例のない存在である。このユニットの前身は、LP全盛期に最高のスピーカーユニットとして、高価のあまり買うという実感とはほど遠かったG610であり、変わったのは、コーン紙前面のブリッジ上にセットされたトゥイーターのホーンが、円型から矩型になったことくらいである。
 ウーファーは、ホーン型中音と高音ユニットの能率に合わせる目的で、おそろしく強力な磁気回路をもっていて、特性的には低域に向かってレスポンスが下がる典型的なオーバーダンプ型である。中音は、布目の細かいフェノール系のダイアフラムが特徴で、形状はウェスターンの555と同様な特殊なタイプである。ホーンはウーファーの磁気回路を貫通してウーファーコーン紙をホーンとして使っているのはタンノイと同じだが、磁気回路は独立しており単独に取外し可能な構造になっている。トゥイーターは、中音と同じくフェノール系のダイアフラムをもつホーン型で、かつての円型ホーンをもっていたユニットは、単体として、たしかPR302という型番で発売されていた。
 アンプ系は、マランツの管球タイプのシャープ7コントロールアンプと♯2×2の構成。プレーヤーシステムは、エンパイア598ニュートラバドールとオルトフォンSPU−A/Eのコンビ、テープデッキがルボックスのHS77、FMチューナーは珍しいルボックスFM−A76。
 長島氏のインペリアルシステムから出る音は、中音と高音のレベルセットが異例ともいえるMAXであるが、長島氏の長期間にわかるエージングの結果、ナチュラルなバランスであり、とくに低域が、バックローディングホーンにありがちな固有音がまったく感じられず、引締り重厚であるのが見事である。G610Bが同軸型であり、システムがコーナー型であることもあって、部屋のなかでの最良の聴取位置はピンポイントであり、そこでのみ音像が立ち並ぶ独得なステレオフォニックな音場空間が拡がる。

「岩崎氏の再生装置について」

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 岩崎氏はふたつのリスニングルームを使いわけている。そのひとつは、JBLのパラゴンが置かれた部屋である。パラゴンの両翼には、アルテックの620Aエンクロージュアに入った604−8Gが乗せてあり、その両側にはJBLのハークネス、その対称面には、同じくJBLのベロナが置いてある。スピーカーユニットは、JBLのプロフェッショナル用をはじめ、アルテック、ボザークなどが転がっており、大型のセパレート型アンプや、プレーヤーシステムまでが山積みになっている。それらはエキゾチックな家具とともに、部屋の空間のなかを自由奔放に遊び回っている子供のように存在しているが、何とも絶妙なバランスを見せているのは不思議にさえ思われた。
 メインシステムであるJBLパラゴンは、低域までがフロントローディングホーンとなっている。いわゆるオールホーン型システムで、ステレオ用がひとつの素晴らしいデザインに収まっており、ユニークな円弧状の反射板をもっているために、独得なステレオのプレゼンスが得られる個性的なシステムだ。
 プレーヤーシステムは、いわゆるプレーヤーシステムの枠をこえた構造をもつマイクロのDDX−1000ターンテーブルと、MA−505の組合せであるが、その置かれている場所は、予想外にパラゴンの中央部の上である。ハイレベル再生では最右翼と思われる岩崎氏のリスニングルームであるだけに、いささか意外とも思われたが、この場所がこの部屋でもっともハウリングが少ない場所とのことである。
 アンプ系は、数あるアンプ群のなかからコントロールアンプには、本来はミキサーとして業務用に使われるクヮドエイトLM6200Rのフォノイコライザーを、パワーアンプには、パイオニアEXCLUSIVE M4のペアである。
 この部屋で聴くパラゴンは、聴き慣れたパラゴンとはまったく異なった音である。エネルギーが強烈であるだけに、使いこなしには苦労する375や075が、まろやかで艶めいて鳴り、洞窟のなかで轟くようにも思われる低音が、質感を明瞭に表現することに驚かされる。2、3種のカートリッジのなかでは、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」のレコードのときの、ノイマンDST62は、感銘の深い緻密な響きであった。パラゴン独得なステレオのエフェクトが、聴取位置が近いために効果的であったことも考えられるが、アンプの選択もかなり重要なファクターと思われる。やはり、このパラゴンの本質的な資質をいち早く感じとり、かつて本誌上でパラゴンを買う、と公表された岩崎氏ならではの見事な使いっぷりである。また、大音量の再生は「美しいローレベルの音を、よく聴きたいためにほかならない」との氏の回答も、オーディオの真髄をつくもである。
 いまひとつのリスニングルームは、アンティークなムードの漂う部屋で照明も仄かであり、マントルピースのサイドに置かれたエレクトロボイスのエアリーズは、煙に燻されて判別しがたいくらいである。マランツ♯1と♯2、♯7と♯16のあるこの空間は、古きジャズを愛する岩崎氏にとって、メインのリスニングよりもむしろ憩いの場であるのだろう。

「モデラート・セリオーソ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

長島達夫様

 ぼくは、よそのお宅にうかがうのが、あまり得意ではありません。そういうことに、得意も得意でないもないようなものですが、よそのお宅にうかがうと、あがってしまうのでしょうか、なんとなくおちつかない気持になります。なぜだかよくわかりません。もしかすると内弁慶の性格ゆえかもしれませんが、今日、お宅にうかがった時も、かなりあがってしまったようでした。
 長島さんのお部屋は、まさに、長島さんおひとりのための部屋だという印象を、まずうけました。部屋には、もともと複数の人間がいることを前提とした部屋と、自分ひとりのため部屋とがあると思います。リスニングルームといわれる部屋についても、どうやら、そのふた通りあるようです。レコードで音楽をきくのだったら絶対にひとりでききたいという人が一方にいるかと思うと、できることなら親しい人と一緒にききたいという人がもう一方にいるのですから、それも当然というべきでしょう。
 長島さんのお部屋の、特等席とでもいうべきでしょうか、もっともこのましくきけるところで、長島さんの音をきかせていただいて、本来は足をふみいれてはいけないところに足をふみいれたような、幾分うしろめたい気持になったのは、雑誌の取材などという理由でおしかけたそこが長島さん以外の他者のたちいりをこばんだ部屋だったからかもしれません。
 きかせていただいた、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」には、本当にびっくりしました。ヨッフムのレコードでしたが、セリフの部分での、アガーテとエッヒェンは、あたかもオペラハウスの最前席できいているかのように思われるほど、なまなましく左右に動きました。そのわかり方がまた、尋常ならざるもので、たとえばアガーテが十センチ立っている位置をずらしてもわかるのではないかと思われるほどでした。
 充分に考えぬかれたスピーカーの位置、あるいは方向づけ、さらにはそれに呼応して椅子の位置ゆえのものだったといえるでしょう。ワン・ポイント・リスニングとでもいうべきでしょうか、それの徹底したものと、ぼくは感じました。そして、そのようにしてきいていらっしゃる長島さんに、長島さんならではの生真面目さを感じたりもいたしました。普段は、おそらく、ぼくがきかせていただいた位置で、耳をそばだててレコードをきいていらっしゃるにちがいない長島さんの姿が、目にうかぶようでした。
 そういえば、長島さんの音は、なにごとによらず不徹底では満足できない長島さんらしさのあらわれたものということができるようです。長島さんは、紅茶をいれてくださるのに、湯をそそいだポットを布巾でつつむということをなさいましたね。そういうことがイッはン的になされるものかどうか、ぼくは不覚にも存じませんが、たとえ紅茶をいれるにしても、ただいれるだけでなく、そこでつかう紅茶の葉から、最良の結果をえようとする長島さんの、いかにも長島さんらしいおこないのように、ぼくには思われました。きかせていただいた音には、そういう長島さんをしのばせるところがあったようでした。
 にもかかわらず、長島さんは、それをてらうわけでなく、いや、いつでもそこできくわけではなくて、酒をのんで、ひっくりかえってきくことだってあるんだよ──なんて、おっしゃったりしました。たしかに、そういうこともあろうかと思いますが、きかせてくださった音の質といい、レコードといい、長島さんの生真面目さをものがたってあまりあるものといえそうでした。
 もし求心的なきき方というものがあるとすれば、長島さんのなさっていることは、そういわれてしかるべきものといえるのではないでしょうか。長島さんのきかせてくださる音を前にすると、ききては、どしても耳をそばだててきかざるをえなくなります。そうしないことには、そこでなっている音に対して申しわけないような気持になってしまうからです。まさにプライベートルームでひびくそのような生真面目な音に、率直に申しあげて、ぼくはいささかたじろぎました。すごいなと思い、してはいけないことをしてしまったようなうしろめたさが残りました。そして、長島さんはいったい、この生真面目な音とむきあって、一日のうちのなん時間ぐらいを、すごされるのだろうと思ったりいたしました。
 長島さんの肉声とでもいうべき、長島さんの音をきかせていただいたことに、お礼の言葉もありません。

一九七六年一月十六日
黒田恭一

ラックス L-30, T-33

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ラックスのプリメインアンプとしては、突然、昨年秋のオーディオフェアで発表されたジュニア機である。外観上は、80シリーズ以前の木枠を使ったフロントパネルをもつために、ラックスファンにと手は80シリーズよりも親しみやすいかもしれない。パワーは、35W×2とコンシュマーユースとしては充分の値で、回路面や機能面でも、従来のプリメインアンプを再検討して実質的な立場から省略すべき点を省略し、価格対音質の比率をラックス的に追求して決定した、いわば気軽にクォリティの高い音で音楽を楽しめるアンプである。
 L30のペアチューナーとしてつくられたのがT33である。価格は、抑えられたが、回路的には最新技術が導入されているとのことで、実用電界強度を表示する信号強度表示ランプがあり、FMミューティング、ハイブレンドを備えている。

ラックス L-85V

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ラックスのプリメインアンプのなかでは、中核をなす位置にあたる80シリーズの製品である。従来、このシリーズには、L80VとL80の2モデルがあったが、これに今回、L85Vが加わり、3モデルで80シリーズが構成されることになった。
 L85Vは、80シリーズトップモデルであるだけに、パワーも、80W×2とパワフルである。外観上は、ラックスの一連のM−6000に代表される新しいアンプに採用されたものと共通なデザインポリシーをもっているが、80シリーズの特長は、フラットなフロントパネルを採用している点にある。しかし、パネルフェイスを立体的に見せるために、コントロールツマミやレバースイッチがアンプ内部のボディにセットされ、ちょっと見るとフロントパネルがフローティングされているように感じられるのが、このシリーズのユニークなところだろう。
 L80と80Vは、共通のフロントパネルをもつがL85Vは、イメージ的には共通だがリニアイコライザーが加わり、スピーカースイッチがロータリータイプになったために、フロントパネルはこの価格帯のプリアンプとして立派なものになっている。
 主な回路構成は、イコライザーにC−1000と同じ回路構成をIC化し、出力段のみがディスクリートのA級インバーテッド・ダーリントン・プッシュプルである構成が採用されている。トーンコントロールは、LUX方式NF型で、ボリュウムには、21接点のディテント型が使ってある。パワーアンプはM−6000などの開発の経験をいかした差動2段の全段直結コンプリメンタリーOCL方式で、プリドライバー段を定電流駆動とし、さらにこれにつづいて定電流駆動のエミッターフォロワーを使い、A級動作のプリドライバー段とB級動作のパワー段とを電気的に分離してスピーカー負荷によるインピーダンス変動が、プリドライバー段におよぶのを防いで、広い周波数にわたる低歪化を図っている。

オーレックス ST-720

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 シンセサイザー方式のFMチューナーとしてはオーレックスの第2弾製品である。価格的には、複雑な構成のために10万円をわずかにこしてはいるが、デジタル表示の未来志向型のチューナーとしては、充分に魅力的な価格であるの楽しい。
 選局は、カード式の変形ともいえる4組のFMユニット(周波数メモライザー)の内部にFMピンボードを規定に従ってあらかじめ希望局の周波数に合わせてセットすれば機械的に周波数はメモリーで気、このユニットにラベルを貼り局名を表示できる。
 マニュアルは、10MHzの桁で70か80を選択し、1MHzと0.1MHzは8、4、2、1を加算して0〜9を選択する方式で、最初は難解に思われるが慣れれば明解であるため、問題はない。プリセットチャンネルスイッチは4個のFMユニット用と、マニュアル用の5組あり、マニュアルはあらかじめセットしておけば、第5のFMユニットとしても使用できる。ファンクションとしては、国内の放送バンド以外の周波数をマニュアルでセットした場合になどに、点滅して警告するチューニング・エラー表示ランプやエアチェックのレベルセッティングの目安となる50%変調と100%変調に相当するレベルの信号が出力端子に出せるエアーチェック・レベルスイッチなどを備え、この種のチューナーに、ふさわしいものとしている。

オーレックス SB-820

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 オーレックスの新製品は、プリメインアンプとしては高級機に属する10万円以上、15万円までの価格帯に投入されたモデルで、パワーは82W×2と、このクラスとしては平均的であるが、とくにテープ関係の機能を重視しているのが特長である。
 外観は、フラットフェイスのフロントパネルに大型のボリュウムコントロールをもつ、かなり現代的な傾向を捕えたデザインである。トーンコントロール関係やフィルター類は、各2周波数を選択でき、このクラスの標準型といえるものだが、フィルターの高域に20kHz、低域に10Hzがあるのは、例が少ない。テープ関係は、リアパネルに2系統の入出力端子をもつ他に、ボリュウムの下側にジャックタイプのテープ3を備え、レバータイプとロータリータイプがペアとなったテープモニタースイッチとロータリータイプのデュープリケイトスイッチがあり、3系統のテープデッキを多角的に活用できる点は注目したい。
 回路構成は、差動2段の3段直結A級イコライザー、FET差動1段の2段直結NF型トーンコントロール、NF型フィルターアンプが、プリアンプ部分であり、パワーアンプは初段の差動アンプがカスコード接続になっている差動2段の全段直結コンプリメンタリーOCLで、パワートランジスターは並列接続でない、いわゆるシングル・プッシュプルである。このモデルも、オーレックス独自のCADISによる一台ごとの実測データがついている。

ラックス M-2000

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 この新製品はM−6000、M−4000と続いて発表されてた一連のハイパワーアンプに続く、第3のパワーアンプであり、基本とする設計思想もまったく同様なものである。発表された規格も、M−4000と比較してパワーが120W×2であることを除いてほぼ同等であり、外観上も棚などに置かれてあると区別はつきがたい。ただ、外形寸法上で奥行きが、11・5cm短いのが両者の大きな違いといえよう。
 回路構成は、差動2段の全段直結コンプリメンタリーOCLで、出力段のパワートランジスターは、並列接続のパラレル・プッシュプル構成である。入力回路には単独のエミッターフォロワーがある。電源部は左右チャンネルの出力段用に別系統の電源が用意され、2個の2電源用電解コンデンサーを使用している。ドライバー段を含む他の増幅段用には、定電圧電源からの電圧が供給されている。
 フロントパネルにある2個のレベルセット用ボリュウムは、1dBステップのディテント型で、とくにチャンネルアンプなどに使う場合には好ましいものだ。付属回路には、LED表示のピークインジケーター、平均レベル表示のVUメーターと0dB〜10dBのメーター感度切替スイッチがある。
 M−2000は、M−4000にくらべると全体にひかえめな印象の音である。しかし音の粒子は細やかなタイプで、ローレベルの音が美しい。これをC−1010と組合わせると、音に活気が加わりスッキリとした爽やかな音になるのが印象的である。直接、C−1000とは比較しないが、C−1010のほうが明るくフレッシュな音をもつように思われる。

デンオン TU-355

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 基本的には、同社のPMA−255と組み合わせるFM専用チューナーである。フロントパネルは、チューナーとしては、横長型のスライドレールダイアルを廃して、2個の大型レベルメーターをもつ、個性型チューナーTU−500をベースにしている。TU−500と比較して変更されたのは、2個のレベルメーターが、フロントパネル左側に並んでセットされた点と、センターチューニングメーターが独立したことだ。
 TU−355のダイアルは、窓の部分こそ小型だが、直径12cmのドラムを採用しており、目盛りの全走行長では、28・3cmと長く、200kHzごとに等間隔目盛りであり見やすいタイプである。ダイアルの回転機構は、ステンレスシャフトと合金軸受の組合わせでフィーリングは、スムーズである。
 2個のレベルメーターは、それぞれ、チューナーの出力レベルを指示するが、左側は信号強度計として兼用している。メーター切替スイッチは、3段切替型で、リアパネルにあるエキスターナル端子からの信号を指示することも可能である。この場合には、フロントパネルにあるエキスターナル・アッテネーターを使い−30dBから+33dBまで、つまり、24・5mVから、34・6Vまでの指示が可能でエキスターナル端子の入力インピーダンスが200kΩ以上あるために、簡易な測定器としても利用できる。
 フロントエンドは、5連バリコン使用で、高周波一段増幅、段間トリプルチューンの同調回路とデュアルMOS・FETの組合わせ、信号系と制御系を二分割した2系統のIF段、PLL採用のMPX部のほか、オーディオアンプは2段直結NF型である。
 このチューナーは、音質的には、TU−500よりも、音の粒立ちがよく比較をすると、ややクリアーで抜けがよい。

サンスイ TU-7900, TU-5900

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 価格ランクこそ異なっているが、新しい2機種のチューナーは、好みにより、3機種のプリメインアンプのいずれともペアにできる。デザイン的には、TU−9900のイメージを受け継ぎ、性能面では実用上もっとも影響力が大きいSN比50dB時の感度向上にポイントが置かれている。
 TU−7900は、RF段にデュアルゲートMOS型FETと複同調回路をもつ4連バリコン使用のFMフロントエンド、低歪化と選択度を両立させるフェイズリニア・セラミックフィルターを採用したFM・IF段、それに、PLL方式のMPX部をもつ、オートノイズキャンセラー、FMアンテナ入力を抑えるアッテネーターをフロントパネルに備えている。

タンノイ Cornetta(ステレオサウンド版)

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「マイ・ハンディクラフト タンノイ10″ユニット用コーナー・エンクロージュアをつくる」より

 試聴は例により、ステレオサウンド試聴室でおこなうことにする。用意したスピーカーシステムは、今回の企画で製作した〝幻のコーネッタ〟、つまり、フロントホーン付コーナー・バスレフ型システムとコーナー・バスレフ型システム2機種で、それぞれ295HPDユニットが取り付けてある。また、これらのシステムとの比較用には、英タンノイのIIILZイン・キャビネットが2モデル用意された。一方はIIILZ MKII入りのシステムで、もう一方は英国では “CHEVENING” と呼ばれる295HPD入りのシステムである。
 試聴をはじめて最初に感じたことは、2種類の英タンノイのブックシェルフ型が、対照的な性質であることだ。
 まず、両者にはかなり出力音圧レベルの差がある。それぞれのユニットの実測データでも、295HPDが出力音圧レベル90dB、IIILZ MKII93dBと3dBの差があり、聴感上でかなりの差として出るのも当然であろう。それにしても、295HPDの出力音圧レベルは、平均的なブックシェルフ型システムと同じというのは、HPDになりユニットが大幅に改良されていることを物語るものだろう。
 第二には、IIILZが聴感上で低域が量的に不足し、バランスが高域側にスライドしているのと比較し、295HPDでは低域の上側あたりがやや盛り上がったような量感を感じさせ、高域にある種の輝きがあるため、いわゆるドンシャリ的な傾向を示す。しかし、質的にはIIILZ MKIIのほうが、いわゆるタンノイの魅力をもっているのはしかたがない。量的には少ないが、質的にはよく磨かれている。一方295HPDでは逆に、とくに低域が豊かになっているが、ややソフトフォーカス気味で、中域から中高域の滑らかさが、IIILZ MKIIにくらべ不足気味に聴こえる。
 次に、295HPDの入ったオリジナルシステムと、今回製作した2機種とでは、当然のことながらブックシェルフ型とフロアー型の間にある壁がいかに大きいかを物語るかのように、少なくとも比較の対象とはなりえない。同じユニットを使いながら、この差は車でいえば、ミニカーと2000c.c.クラス車との間にある、感覚的な差と比較できるものだ。まだく両者のスケール感は異なり、やはりフロアー型の魅力は、この、ゆったりとした、スケール感たっぷりの響きであろう。
 2種類のコーナー型システムは、フロアー型ならではの伸びやかな鳴り方をするが、予想以上に両者の間には差がある。
 フロントホーン付コーナー型は、低域がよく伸び、中低域あたりまでの量感が実に豊かであり、とても25cm型ユニットがこのシステムに入っているとは思われないほどである。また、高域はよく伸びて聴こえるが、中域の密度がやや不足し、中高域での爽やかさも少し物足りない。ただ、ステレオフォニックな音場感は、突然に部屋が広くなったように拡がり、特に前後方向のパースペクティブの再現では見事なものがある。音質はやや奥まって聴えるが、くつろいでスケール感のある音楽を楽しむには好適であろう。聴感上バランスではやや問題があるが、ステレオフォニックな拡がりの再現に優れている。
 一方、コーナー型では全体に線が細い音で、中域の厚みに欠けるために、ホーン付にくらべかなりエネルギーが不足して感じられる。いわゆるドンシャリ傾向が強い音であり、ステレオフォニックな拡がりも、とくに前後方向のパースペクティブな再現が不足し、音像は割合に、いわゆる横一列に並ぶタイプである。
 スピーカーシステムの構造としては、フロントホーンの有無だけの差であるが、フロントホーンの効果は、ステレオフォニックな空間の再現で両者の間に大幅な差をつけている。オーバーな表現をすれば、一度フロントホーン付のシステムを聴いてしまうと、ホーンのないシステムは聴く気にならなくなるといってよい。つまり、豊かさと貧しさの差なのだ。
 概略の試聴を終って、次には幻のコーネッタに的をしぼって聴き込むことにする。このシステムの低域側に片寄ったバランスを直すためには、高域のレベルを上げることがもっとも容易な方法であるが、実際にはもっともらしくバランスするが、必要な帯域では効果的ではなく、不要な部分が上がってしまうのだ。いろいろ手を加えてみても解決策は見出せない。次には仕方なく、ネットワークに手を加えることにする。
 狙いは、高域側の下を上昇させ、低域側の下を下降させことにある。合度&と来で決定した値にしたところ、トータルバランスは相当に変化し、鈍い表情が引き締まり、システムとしてのグレイドはかなり高くなる。しかし好みにもよろうが、ローエンドはやや締めたい感じである。方法は、バスレフポートをダンプするわけだが、これはかなり効果的で、ほぼ期待したような結果が得られた。補整をしたシステムは、ますますホーンなしのシステムとの格差が開き、ほぼ当初に目標とした音になったと思う。ここまでの試聴は、レベル、ロールオフとも0位置に合わせたままで、特別の調整はしていないことをつけくわえておきたい。
 このシステムに使用するアンプは、中域の密度が高く、中低域から低域にわたりソリッドで、クォリティが高いタイプが要求される。少なくとも、ソフトで耳ざわりのよいタイプは不適である。逆に、ストレートで元気のよいものも好ましくない。プリメインアンプでいえば、少なくとも80W+80Wクラスの高級機が必要であろう。

サンスイ AU-7900, AU-6900, AU-5900

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 サンスイから、新モデルとして3機種のプリメインアンプが発売された。これらの製品は、ハイパワーのプリメインアンプであるAU−20000でおこなわれたパワーアップの考え方を、中価格帯に導入したもので、サンスイのいうパワーアップとは、単なるパワーの増強ではなく、質的な高さをも含めた、質量ともどもの向上を意味しているとのことである。また、特性面では、音楽信号を入力するアンプの動特性の改善、低歪化などが追求され、とくに電源部についてはパワーイコール電源という考えで、電源部を重視しているのは現在のアンプの共通の特長と考えられる。
 AU−7900は、75W×2の出力をもつ今回の発売機種としてはもっとも高価格なモデルであるが、従来のAU−9500に匹敵するパワーである。機能面では、中音コントロールをもつTTCがサンスイのアンプの特長である。AU−7900では、高音が2kHz、4kHz、8kHzに湾曲点をもつ3段切替であり、低音は150Hz、300Hz、600Hzに湾曲点をもつ3段切替であるが、中音は1500Hzを中心にして±5dB変化させることができる。
 フィルターは、高音が7kHz、6dB/oct.と12kHz、12dB/oct.であり、低音が20Hzと60Hzと切替可能な12dB/oct.型である。ラウドネスコントロールは、ローブーストとハイローブースト切替型であり、ミューティングは15dBステップの2段切替である。
 回路構成上の特長は、初段に差動増幅を使った4石構成のNF型イコライザーを採用し、特性を改善するためにイコライザー基板は入力端子に直結する構造になっている。パワー部は、初段が物理的に安定度が高いデュアルトランジスターを使った差動増幅をもつ、全段直結コンプリメンタリーOCL方式で、電源部は大型のパワートランスと15000μF×2の電解コンデンサーを採用している。なお、トーンコントロール段は、ディフィート時には信号kからバイパスされるのもサンスイのアンプとしては特長になるであろう。
 AU−6900は、基本的にはAU−7900を基本にしてパワーを60W+60Wとしたモデルと考えてよい。機能面では、TTCの高音と低音がそれぞれ2つの周波数を選択できる2段切替になったのをはじめ、フィルター、ラウドネスコントロールともに一般的なタイプに変更されている。
 AU−5900は、3機種中ではもっともローコストなモデルであるが、機能面ではTTCの高音と低音の湾曲点切替が除かれた以外AU−6900と同等で、逆に考えれば、多機能な機種とも考えられる。
 3機種共通のポイントとしては、プリアンプ部分が発表された規格から見るかぎり、共通なアンプが採用してあることだ。例えば、フォノ1の感度が2.5mVであり、カートリッジ負荷抵抗の3段切替をはじめ、イコライザーの許容入力が250mVと、まったく同じである。電源部の電解コンデンサーの容量も、3機種とも15000μF×2と等しく、プリメインアンプとしてのコンストラクションも、ほぼ共通である。

ラックス C-1010

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 ラックスの新しいソリッドステート・コントロールアンプは、そのモデルナンバーと外観からも判るように、既発売のC−1000コントロールアンプに続く機種で、いわゆる性能を落したジュニアタイプではなく、発表された規格を見てもまったく同等で、いわば実戦型のニューモデルだ。
 フロントパネルで、C−1000と変った点は、ボリュウムコントロールのツマミについていたタッチミュートが除かれた点で、これに伴って、タッチミュートのインジケーターランプがなくなっている。
 回路構成は、高域のリニアリティの改善と安定性とSN比の向上を狙った設計で、イコライザーが、ディファレンシャル・ダイレクトカップル方式と呼ぶ差動1段で、出力段がA級インバーテッド・ダーリントン接続のプッシュプル構成でテープデッキを負荷しても性能が落ちない特長があり、歪率が0・006%と低い。中間アンプも、イコライザーと同様な考え方のカスコーデッド・ダイレクトカップル方式であり、トーンコントロールは、LUX方式NF型だ。フィルターアンプは2石構成の定電流駆動のエミッターフォロワーで、不要な場合は信号系からカットされる。

「上杉氏の再生装置について」

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

上杉氏のリスニングルームには2組の大型スピーカーシステムがある。そのひとつは、コーナー型システムとして典型的な存在であった、いまはなきタンノイのオートグラフであり、いまひとつは、それ自体が大型システムであるオートグラフが中型システムと見誤るほど巨大な、超弩級4ウェイシステムである。
このシステムは、ヨーロッパのシアター用システムとしてユニークな構造をもつシーメンスのオイロダインを中心として構成したもので、低域補強にエレクトロボイスの巨大な76cm口径のウーファー30Wを2本(1ch)、高域補強にテクニクスのホーン型トゥイーターを組み合わせている。
オイロダインは、この種のシステム共通の特徴として、いわゆる現代的なワイドレンジタイプでないことが、あの見事なまとまりをみせる。彫りが深く力強い音の裏付けと考えられるが、さらに発展させるとなれば、低域と高域のわずかなレスポンスを伸ばすために、オイロダインにみあうクォリティを備えた超高級ユニットを組み合わせることが必要となる。とくに、低域は重要なポイントであり、部屋に入るという制約上からは、超大口径ウーファーの使用がオーソドックスの方法と思われる。
エレクトロボイスの30Wは、米国でもハートレーの286MSと並ぶ巨大なユニットで、もともと同社のかつてのパトリシアン800用につくられたもである。
エンクロージュアは、外形寸法が180×170×60cm(W・H・D)あり、重量は、約390kg(ユニット含)もあるが、構造上は2分割されており、上側のエンクロージュアにテクニクスのトゥイーターとオイロダインが横一列に取付けられ、下側のエンクロージュアは密閉型で30Wが2本入っている。クロスオーバー周波数は、トゥイーターとオイロダインの高域との間が8kHz、オイロダインの低域と高域は5kHz、12dB/oct.のLC型、オイロダインの低域と30Wの間はエレクトロニック・クロスオーバーで、ハイパスが12dB/oct.、ローパスが18dB/oct.で、150Hzになっている。
アンプ系は、多数の内外のセパレート型があるが、現用機は当然のことながらプリアンプU・BROS−1と、CR型のチャンネルデバイダー、それに4台の845シングルのパワーアンプUTY−1である。レベルセッティングは無響室特性と実際のリスニングルーム内での実測特性とを基準にして決定されているようで、このあたりはデータを重視する上杉氏らしいところと思われた。
プログラムソースはディスクが中心で、4系統のプレーヤーシステムは1系統を除いて2本のアームがセットされており、テープデッキではスチューダーB62、FMチューナーではセクエラMODEL1をもっぱら愛用されている。
上杉氏のシステムは、感覚的に流れず、実測データを基準にしてセットアップしてあることが重要なポイントで、メインとなっている4ウェイシステムは使いはじめたばかりで、現在は写真のように置かれているが、今後は分割されたエンクロージュアの利点をいかして、レイアウトも大幅に変わっていくことだろう。いずれにせよ、このシステムのスケールの大きなこだわりのない響きは、いかにも上杉氏らしい豪快さにあふれたものである。

テクニクス SU-8600, SU-8200

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 最近のアンプに目立つ傾向として、電源部分の音質に影響する点に着目して電源部の強化や、セパレート型のパワーアンプに採用されることが多い左右チャンネルの電源独立の手法が、プリメインアンプのパワーアンプにも採用されるようになっている。しかし、ことパワーアンプに関しては、かつてから経験豊かなファンはモノ構成のパワーアンプを使うことが音質を良くすることを熟知していたし、製品ではマランツの最初のソリッドステート・パワーアンプ♯15が、独立したモノアンプ2台でステレオアンプとしていたことは忘れられない。
 テクニクスのアンプは、従来から物理的な特性を重要視して、特性の優れたアンプが結果として音質の良いアンプをつくり出すというポリシーで開発されているように思われるが、今回の新しい2機種の8000シリーズのプリメインアンプも、とくに動的なトランジェント歪を追求して開発されたとのことである。
 音楽信号のように変化が激しい信号を増幅する場合には、安定度の悪い電源を使うと、無信号でにはアンプが最適動作点であったとしても、信号により電源が変動すると最適動作点からはずれて歪を発生することになり、これをトランジェント歪といっている。この解決は電源部の強化がもっとも有効で、SU−8600では3組の±電源をもつために±6電源方式をキャッチフレーズとし、さらにテクニクス独自のセルフトランジェント歪測定法により、一層の低歪化が図られている。
 フロントパネルは、2機種ともに横幅にくらべて高さが高く、両サイドにある大型のナットがメカニックな感じを出している。大型のボリュウムコントロールは、−30dB〜−40dBの間が2dBステップとなっている26接点のディテント型で、ラウドネス端子が設けられているために、小音量時には自動的に低域が増強されるタイプである。トーンコントロールは高音、低音ともにターンオーバー2段切替型で、SU−8600だけはトーンディフィートスイッチが付いている。フィルターは、SU−8600が12dB/oct.、SU−8200は6dB/oct.である。
 回路構成は、SU−8600の方がイコライザーに差動回路、変形SRPPの2段直結型、トーンコントロール段がカレントミラー負荷をもつ差動増幅を初段とした3段直結型、パワーアンプが差動増幅、エミッターフォロアー電圧増幅、出力段の構成で電源部の電解コンデンサーは15000μF×2となっている。
 一方SU−8200は、イコライザーがカレントミラー負荷差動回路と定電流負荷のエミッターフォロアーの2段直結型であり、パワーアンプは差動増幅、電圧増幅、出力段のシンプルな構成である。電源部は、プリアンプとパワーアンプが独立しており、イコライザーとトーンコントロールは定電圧化されている。

「菅野氏の再生装置について」

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 大型スピーカーシステムは、それが大きく見えないようなスペースの充分にある部屋で使うことが理想的という声をよく耳にするが、現実のわが国の生活環境ではなかなか実現することは至難である。
 菅野氏のリスニングルームは、この面から考えると理想的なスペースがあり、メインスピーカーシステムのJBL3ウェイシステムが、その存在を意識させずに置かれている。スピーカーシステムは3系統あり、2チャンネル用にJBLの大型3ウェイと、プロフェッショナル・モニターシステム4320に2405トゥイーターを加えたシステムがあり、4チャンネル用にJBLのディケードシリーズのL26がある。
 メインとなるスピーカーシステムは、ウーファーがJBLプロフェッショナルシリーズの2220、スコーカーがJBL375ドライバーユニットと537−500音響レンズ付ホーンの組合せ、トゥイーターがJBL075である。
 ウーファー用のエンクロージュアは、横位置にしたパイオニア38cm用バスレフ型エンクロージュアLE−38だが、フロンドグリルが組子に変わっているために、JBLの特別仕様エンクロージュアのように思われた。また、中音用の音響レンズ付ホーン537−500は、ユニークな構造とデザインをもつ製品で、一時製造が中止されていたが、最近になってモデルナンバーがHL88と変わり、再発売されている。
 JBLの3ウェイシステムを駆動するチャンネルアンプシステムは、コントロールアンプJBL SG520、チャンネルデバイダー ソニー TA−4300F、パワーアンプの高音用オンキョーINTEGRA A−717のパワー部、中音用パイオニアEXCLUSIVE M4、低音用アキュフェーズM−60×2のラインナップである。
 コントロールアンプは、現在はJBLのSG520であるが、マランツ♯7Tも併用されるようだ。パワーアンプは、スピーカーユニットとの音質上のマッチングを重視して数多くのアンプのなかから選択され、その時点でもっとも好ましいアンプを使用されている。
 プレーヤーシステムは、フォノモーターとトーンアームが、テクニクスSP−10MK2とEPA−101Sの組合せ、カートリッジはエレクトロ・アクースティックSTS455Eである。なお、テープデッキはプロフェッショナルの名門スカリーの280B−2である。
 プログラムソースがdbxの場合には、システムのラインナップが一部変わり、コントロールアンプがマランツ♯7Tとなり、dbx122デコーダーが加わる。この場合のプレーヤーシステムは、デンオンDP−3700Fで、カートリッジは同じエレクトロ・アクースティックSTS555Eに変わる。
 氏のリスニングルームでのdbxシステムの音は素晴らしい。まったくの静寂のなかから突然に音楽始まるために、慣例的なノイズによるレベルセットはまったく不能である。オーディオラボ製作のdbxレコード「アローン・トゥゲザー」は、音楽として実に楽しく、この種の新方式は使う人により結果が大幅に変化する好例に思われた。

「アレグロ・モデラート」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

井上卓也様

 人を帰さないためであるかのように降ってくる雨のことを遣らずの雨といったりしますが、行かせずの雪とでもいうでしょうか、今日、井上さんのお宅にうかがう日、東京ではめずらしく、雪になりました。しかし、井上さんの音がきけるとなれば、雪なんてなんのその、いそいそと家を後にしました。
 井上さんとは、『ステレオサウンド』や『テープサウンド』の仕事で、非常にしばしばご一緒させていただいているので、こうしてあらためて手紙をさしあけるというのも、なんとなく妙な気持がいたしますが、おじゃましたお礼かたがた、きかせていただいた音などについて、書かせていただくことにします。
 まず、ボザークの大きなスピーカーが、アップライト・ピアノの両側におかれてあるのを拝見して、うれしくなりました。と申しますのは、おはなししたかもしれませんが、ぼくも同じように、ピアノを間にはさんでスピーカーをおいているからです。どうやらピアノを間にはさむと、スピーカーの大きさが気にならないということがあるようです。そのためばかりではないでしょうが、別のところで見た同じタイプのボザークのスピーカーより、お宅で拝見したものの方が、小さく見えました。
 大きなスピーカーが小さく見えるように配置し、しかも大音量がだせるスピーカーにもかかわらず、むしろおさえぎみに、余裕をもたせてならしているあたりに、ぼくは、さすが井上さん、と思いました。いろいろな機会におはなししているうちに、井上さんのことで、ぼくなりにわかったことがあります。井上さんが、仰々しいことや、これみよがしなこと、はったりめいたこと、それに分際をわきまえぬことを唾棄されるのを、ぼくは知っています。ですから、ブックシェルフ・スピーカーを大型スピーカーのごとくつかいたがる人が多い中で、ボザークのスピーカーを、ことさらのてらいもなく、なにげなくおつかいになっている井上さんに接して、さすが井上さんという印象をもったのだと思います。
 強い音が好きだ──と、井上さんは、おっしゃいましたね。さもありなんと思いました。井上さんなら、きっと、そうでしょう。そしてそのおっしゃり方は、いかにも井上さんらしい。強い音は、軽い音をかろやかに感じさせるのにも、なくてはならないものと思います。そしてたしかに、きかせていただいた音は、井上さんの求められる、その強い音を、十全に感じさせるものでした。
 こんなことをあらためて申しあげるのもどうかと思いますが、井上さんの耳のよさには、いつもおどろかされます。ご一緒に仕事をさせていただいて、この人耳は悪魔の耳ではないかと思ったりすることがあります。しかも井上さんはそのききとられたものを、いわゆる文学的な言葉でいいあらわすことをいさぎよしとされず、なにげない口調でさらりといわれたりします。
 そういう井上さんを、ぼくがひそかになんと呼んでいるか、この機会に、申しあげてみようかと思います。含蓄のリアリスト──というのが、その呼び方です。この言葉を目にされて、井上さんがどんな顔をされるか、ぼくにはわかるような気がいたします。なぜ、このようなことをわざわざ申しあげたかといいますと、今日きかせていただいた音をぼくがどう感じたかをお伝えするために、その言葉が必要に思えたからです。きかせていただいた音は、まさに、含蓄のリアリストのそれでした。
 すごいテクニックをもっているのに、決してそれをひけらかしたりせず、たとえばモーツァルトのやさしいソナタなどをさらりひくさわやかさが、井上さんにはあって、そういうところが、きかせていただいた音にも、感じられました。
 現在は、人間にしろ、音にしろ、ギンギンギラギラと、おのれをうけらかしてくるものの方が多いような感じがぼくはいたしますが、そうした中にあって、井上さんには、そして井上さんのきかせてくださった音には、そうしたものがまったく感じられず、ぼくは、男らしい男にじかにふれたような気持になって、きかせていただいた音にほれぼれと耳を傾けました。
 おいとまするころに、雪はさらに強くふっておりましたが、あれは、ぼくにもう少しきかせていただいたらどうかといっている帰さずの雪だったのかもしれません。今日は、どうもありがとうございました。

一九七六年二月五日
黒田恭一

サテン M-18E

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 サテンのカートリッジは、もっとも古いモノーラル用のモデルであるM−1以来、独自のポリシーのもとに、鉄芯を使用せず、ステップアップトランスも不要な、高出力MC型一途に、製品を送り出している。
 最近では、久しぶりに沈黙を破って、M−117を発表したが、今回の新製品、M−18は、M−117をベースとして発展させたモデルではなく、逆に、M−117のプロトタイプとして、M−117に先だって開発されたモデルである。
 サテンのムービングコイルは、三角形に巻かれているために、いわゆる、オムスビ型をしたスパイラル巻きであるが、M−18、M、117ともにダ円形のスパイラル巻に変更され、コイルが磁束を切る有効率が1/3から1/2に増し、M−117でも、質量は1/2と半減している。
 新シリーズは、カンチレバーの支持方法が、従来のテンションワイヤーによるものから、二枚の板バネとテンションワイヤーを組み合わせたタイプに変わり、カンチレバーは、二枚の板バネとテンションワイヤーの中心線の交点を支点として支持されるため支点は厳密に一点である。これにより、従来は不可避であったカンチレバーの軸方向まわりの回転運動がなくなったことが、新しい支持方式の大きなメリットである。また、コイルを保持し、カンチレバーの動きをコイルに伝えるアーマチュアも、大幅な改良が加えられ、50μの厚みのベリリュウム銅でつくったアーマチュアとコイルとの結合部がループ状になっており、電磁制動が有効に使えるタイプになっている。
 サテンのMC型は、針交換が可能なことも、忘れてはならない特長である。新シリーズは、交換針を本体に取付ける方法が、従来のバネによるものから、MC型が必要とする磁石の磁力によって交換針を保持する方式に変わった。
 M−18は、M−117の高級機であるために、精度が一段と高まり、ムービングコイルが、さらに軽量化されている。M−18シリーズは、4モデルあり、0.5ミル針付のM−18、ダ円針付のM−18E、0.1×2.5ミル・コニック針付のM−18Xと、コニック針付で、カンチレバーにベリリュウムを使ったM−18BXがある。
 試聴したのは、M−18シリーズのスタンダードとも考えられる、M−18Eである。MM型では、負荷抵抗による音の変化は、ほぼ、常識となっているが、MC型でも、変わり方が異なるとはいえ、負荷抵抗によって、音量が変化し、出力電圧も変化する。サテンでは、負荷抵抗として30Ω〜300Ωを推奨しているが、50kΩでも可とのこともあって試聴は、一般のカートリッジと同様に50kΩでおこなうことにした。
 M−18Eで、もっとも大きな特長は、聴感上のSN比がよく、スクラッチノイズが、他のカートリッジとくらべて、明らかに異なった性質のものであることだ。M−18の音は、文字で表現することは難しく、周波数帯域とか、バランスといった聴き方をするかぎり、ナチュラルであり、問題にすべき点は見出せない。ただ、いい方を変えれば、いわゆるレコードらしくない音であり、例えば、未処理のオリジナルテープの音と似ているといってもよい。他のカートリッジであれば、レコード以後のことだけを考えていればよいが、M−18Eでは、レコード以前の、いわば、オーディオファンにとっては見てはならぬ領域を見てしまったような錯覚をさえ感じる。この音は、誰しも、素晴らしい音として認めるが、使う人によって好むか好まざるかはわかれるだろう。

「アダージョ・ドルチェ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

瀬川冬樹様

 今日、お宅できかせていただいた音、あの音を、もしひとことでいうとすれば、さわやかさという言葉でいうことになるでしょう。今日はしかも、冬にしてはあたたかい日でした。そよかぜがカーテンをかすかにゆらすなかできかせていただいた音は、まさにさわやかでした。かけて下さったレコードも、そういうとにふさわしいものだっと思いました。やがて春だなと思いながら、大変に心地よい時をすごさせていただきました。あらためてお礼を申しあげたいと思います。ありがとうございました。
 普段、親しくおつきあいいただいていることに甘えてというべきでしょうか、そのきかせていただいたさわやかな音に満足しながら、もっとワイルドな音楽を求めるお気持はありませんか? などと申しあげてしまいました。そして瀬川さんは、ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の合唱曲をきかせてくださいましたが、それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない。
 たしかに、そういうことは、いえるような気がします。日本でこれほど多くの人にバロック音楽がきかれるようになった要因のひとつに、日本での、決してかんばしいとはいいがたい住宅環境があるというのが、ぼくの持論ですから、おっしゃることは、よくわかります。音に対しての、あるいは音楽に対しての好みは、環境によって左右されるということは、充分にありうることでしょう。ただ、どうなんでしょう。もし瀬川さんが、たとえばワーグナーの音楽の、うねるような響きをどうしてもききたいとお考えになっているとしたら、おすまいを、今のところではなく、すでにもう大音量を自由に出せるところにさだめられていたということはいえないでしょうか。
 なぜ、このようなことを申しあげるかといいますと、今日きかせていただいた音が、お書きになったものからや、さまざまな機会におはなしして知った瀬川さんと、すくなくともぼくには、完全に一致したものと感じられたからです。まさにそれは、瀬川サウンドといえるもののように思われました。
 ぼくはいまだかつて(ふりかえってみますともうかなりの回数お目にかかっているにもかかわらず)、瀬川さんが、馬鹿笑いをしたり、声を尖らしたり、つつしみにかけたふるまいをなさったりするのに接したことがありません。ぼくのような、血のけが多いといえばきこえはいいのですが、野卑なところのある人間にとって、そういう瀬川さんは、驚きの的でしたが、今日、その瀬川さんの音をきかせていただいて、なるほどと、ひとりでうなずいたりいたしました。きかせていただいた音にも、馬鹿笑いをするようなところとか、声を尖らすようなところとか、あるいはつつしみにかけたふるまいをするようなところは、まったくありませんでした。敢てそのきかせていただいた音を音楽にたとえるとすれば、短調のではない、長調の、そう、ヴィヴァルディのというより、テレマンのというべきでしょう。緩徐楽章の音楽ということになるかもしれません。そこには、それにふれた人の心をなごませるさわやかなやさしさがあるように思えました。
 タバコをすわない瀬川さんのお部屋には、タバコのみの部屋の、あのなんともいえないやにくささがまったく感じられませんでした。それがはじめわからなくて、なんとも不思議な気持がしました。そのタバコのやにくささの感じられないことが、さらに一層、きかせていただいた音のさわやかさをきわだたせていたということも、いえなくはないのかもしれません。もしぼくは経済的に余裕があったら犬を沢山飼ったりするのかもしれませんが、瀬川さんだったらきっと、そういう時、ばら園をつくられたりするのかもしれないと思ったりいたしました。そのようなことを考えさせる瀬川さんの音だったといえなくもないようです。
 お忙しくて、まだ、ぼくの家においでいただけないでおりますが、いつか、機会がありましたら、ご一緒にレコードでもききながら、おはなしできたらと思います。ただ、そのためには、おいでいただく前にぼくは、空気清浄器を購入して、部屋のタバコのけむりでにごった空気をきれいにしておかなくてはなりません。
 今日は、瀬川さんの音をきかせていただいて、胸いっぱい深呼吸をしたような気持になり、今、とてもさわやかな気持です。ありがとうございました。

一九七六年一月十四日
黒田恭一

「アンダンティーノ・グラチオーソ」

黒田恭一

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

山中敬三様

 ともかく山中さんのお宅にうかがったら、生きた状態にあるすごい名器の音をきかせていただけるから──と、編集部の人にいわれていたので、期待に胸はずませて、うかがいました。聴覚的にも、視覚的にも、期待をはるかにうわまわるもので、音の美味を、心ゆくまで堪能させていただきました。ありがとうございました。美食家であるがゆえに超一流の料理の腕をもつ方の手になるごちそうでもてなしていただいたような気持になりました。
 弦楽器の、特に低い方の、つややかな、そして腰のすわった音に、まず、びっくりしました。本当にいい音ですね。とげとげしたところが全然なく、なめらかで、しかも響きには、それ本来ののびやかさがあるように感じられました。
 そういう音をきかせていただいた後だったので、山中さんの、かつてのベルリン・フィルはよかったけれど……とおっしゃる言葉をきいて、なるほどと思いました。オーケストラを、少しはなれた、つまりコンサートホールで申せば特等席できいているような気持になりました。響きが津波のごとくききてめがけておしよせてくるということはなく、オーケストラの音が、多少の距離をおいたところで美しく響いているという印象を、ぼくはもちました。それは、言葉をかえて申しますと、あからさまに、そしてむきだしになることを用心深くさけた、節制の美とでもいうべき美しさをもった音ということになるかもしれません。
 かけて下さったレコードも、山中さんの、そういうきかせてくださった音から感じとれる美意識を、裏切らないものだったと、ぼくには思えました。それはすべて、ごちそうになったブランデーのように、充分に時間をかけて醸成されたもののみがもつこのましさをそなえていたともいえるでしょう。
 そのよさは、いかにあたらしものずきのぼくにも、わかりました。つまりそこには、ほんもの強さがあったということでしょう。ただ、かつてのベルリン・フィルはよかったけれど、今のベルリン・フィルも、また別の意味ですごいと思っているぼくが、山中さんのきかせてくださった音に心ひかれたとすれば、それはぼくにとってはなはだ危険なことということになります。ぼくはどうも、あいからわず、今の音楽を、今の音で追い求めたがっているようです。誤解のないように申しそえておきますが、この場合、今の音楽と申しても、現代音楽だけ意味しません。現代の演奏家による、たとえばベートーヴェンをも含めてのことです。
 その時つかっている装置によってきくレコードがかなり左右されると山中さんはおっしゃいましたが、そのお考えに、ぼくもまったく同感です。オーディオ機器のこわさは、こっちがつかっていると思っていたものに、結果としてつかわれてしまっていることがあるところにあると思います。ですからぼくは、正確には、今日きかせていただいた音を、山中さんの音というではなく、今の山中さんの音というべきなのかもしれません。
 今日は、耳をたのしませていただいただけでなく、きかせていただいた音や、うかがわせていただいたおはなしから、いろいろ勉強させていただきました。これまでぼくのオーディオについての考えの一部をあらため、さらにおしすすめることができたような気がいたします。その意味でも、お礼を申しあげなければなりません。
 お部屋で拝見した機器は、どれもこれも、文字通りの超一流品ばかりで、中には、はじめて目にしたものもすくなからずありました。一流品には、当然のことに、一流品ならではのよさがありますが、一流品ばかりがそろっている場所には、とかく、これみよがしな、ひどく嫌味な気配がついてまわるものですが、そうしたものがまったく感じられなかったのは、多分、山中さんが一流品だからということで集められたのではなく、それぞれの機器に充分にほれこんでお部屋にもちこまれ、しかもそれらを生きた状態でおいておかれるからだろうと、ぼくなりに了解いたしました。
 ただ、アンプにしろ、プレーヤーにしろ、機械というものを生きた状態でおいておかれるのは、さぞ大変な努力が必要でしょうね。アンプのパネル面など、すぐにタバコのやにでうすよごれてしまうのに、山中さんのところのアンプはどれもこれも、とてもきれいだっことが印象に残っております。今もなお、山中さんという音の美食家がきかせて下さった音のおいしさを思いだし、舌なめずりをしております。ありがとうございました。

一九七六年二月二日
黒田恭一

「瀬川氏の再生装置について」

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
特集・「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」より

 瀬川氏のリスニングルームには、二組のスピーカーシステムがあり、それぞれヨーロッパとアメリカを代表する中型の業務用モニターシステムであるのが大変に興味深い。
 KEF LS5/1Aは、英国系の最近のモニタースピーカーの見せる傾向を知るうえでは典型的な存在である。エンクロージュアのプロポーションが、横幅にくらべて奥行きが深く、調整室で椅子に坐ったときに最適の聴取位置となるように、金属製のアンプ台を兼ねたスタンド上にセットしてある。このシステムをドライブする標準アンプは、ラドフォード製の管球タイプのパワーアンプで、アンプ側でスピーカーシステムの周波数特性を補整する方法が採用されている。
 ユニット構成は、38cmウーファーとセレッション系のトゥイーターを2本使用した変則2ウェイシステムで、一方のトゥイーターはネットワークで高域をカットし、中域だけ使用しているのが珍しい。38cmウーファーは、一般に中域だけを考えれば30cmウーファーに劣ると考えやすいが、KEFの場合には38cm型のほうが中域が優れているとの見解であるとのことだ。このシステムは比較的近い距離で聴くと、驚くほどのステレオフォニックな空間とシャープな定位感が得られる特徴があり、このシステムを選択したこと自体が、瀬川氏のオーディオのありかたを示すものと考えられる。
 JBLモデル4341は、簡単に考えればモデル4333に中低域ユニットを加えて、トールボーイ型エンクロージュアに収めたモニタースピーカーといえ、床に直接置いて最適のバランスと聴取位置が得られるシステムである。ユニット構成は、2405、2420ドライバーユニット+2307音響レンズ付ホーン、2121、2231Aの4ウェイで、中低域を受持つ2121は、ユニットとしては単売されてはいないが、コンシュマー用のウーファーLE10Aをベースとしてつくられた専用ユニットと思われる。
 かねてからJBLファンとして、JBLのユニットでシステムをつくる場合には、必然的に4ウェイ構成となるという見解をもつ瀬川氏にとっては、モデル4341の出現は当然の帰結であり、JBLとの考え方の一致を意味している。それかあらぬか、システムの使いこなしについては最先端をもって任ずる瀬川氏が、例外的にこのシステムの場合には、各ユニットのレベルコントロールは追込んでなく、メーカー指定のノーマル位置であるのには驚かされた。なお、取材時のスピーカーはこのモデル4341であった。
 アンプ系はスピーカーシステムにあわせて2系統が用意されている。1系統は、マークレビンソンLNP2コントロールアンプとパイオニアEXCLUSIVE M4、他の1系統は、LP初期からアンプを手がけておられる富田嘉和氏試作のソリッドステート・プリアンプとビクターJM−S7FETパワーアンプとのコンビである。プレーヤーシステムは、旧タイプのTSD15付EMT930stと、ラックスPD121にオーディオクラフトのオイルダンプがたトーンアームAC−300MCとEMT TSD15の組合せであり、テープデッキは、アンペックスのプロ用38cm・2トラックのエージー440コンソールタイプを愛用されている。

ヤマハ NS-690(組合せ)

岩崎千明

コンポーネントステレオの世界(ステレオサウンド別冊・1976年1月発行)
「スピーカーシステム中心の特選コンポーネント集〈131選〉」より

 ヤマハのスピーカーの名声を決定的にしたのがこのNS690だ。あとからのNS1000Mが比類ないクォリティで登場してきたので、この690、やや影が薄れたかの感がなきにしもだが、やや耳あたりのソフトな感じがこのシステム特長となって、それなりの存在価値となっていよう。30cm口径の特有の大型ウーファーは、品の良さと超低域の見事さで数多い市販品の中にあって、最も品位の高いサウンドの大きな底力となっている。ドームの中音、高音の指向性の卓越せる再生ぶりは、クラシックにおいて理想的システムのひとつといえる。このヤマハのシステムの手綱をぐっと引きしめたサウンドの特長が大へん明確で組合せるべきアンプでも、こうした良さを秘めたものが好ましいようだ。
 ヤマハのアンプが最もよく合うというのはこうした利点をよく知れば当然の結論といえ、CA1000IIはこうした点から、至極まっとうなひとつの正解となるが、あまりにもまとも過ぎるといえる。その場合、ヤマハのレシーバーがもうひとつの面からの、つまり張りつめた期待感と逆に気楽に音楽と接せられる、ラフな再現をやってのける。

スピーカーシステム:ヤマハ NS-690 ¥60,000×2
プリメインアンプ:ヤマハ CA-1000II ¥125,000
チューナー:ヤマハ CT-800 ¥75,000
プレーヤーシステム:ヤマハ YP-800 ¥98,000
カートリッジ:(プレーヤー付属)
計¥418,000

サンスイ SP-4000(組合せ)

岩崎千明

コンポーネントステレオの世界(ステレオサウンド別冊・1976年1月発行)
「スピーカーシステム中心の特選コンポーネント集〈131選〉」より

 春以来LMシリーズがヒットしてサンスイのブックシェルフのイメージが盛り上ってきたこの秋、力のこもった強力な新シリーズが鮮烈に加わった。SP4000とSP6000だ。このシリーズの特長ともいえる高音ユニットのホーン構造からも判るとおりユニット各部に対し、質の高さを追求しことがポイントで、LMとは違って音質の面、ひとつぶひとつぶの音のパターンの明確さという点で俄然確かさが感じられる。その質感は、あるいはJBLのそれとも相通ずるものだ。つまり強力なマグネットを源にしてパワフルなエネルギーがあっての成果だろう。この場合、実は組合せにおいてはかえってむずかしくなるもので、例えばJBLのシステムがその用いるアンプのくせを直接的に表出してしまうのとよく似ている。
 つまり音がむき出しになりやすいので、この辺をいかにまとめるかが、一般の音楽ファンの好む音へのコツといえる。サンスイのFETアンプBA1000は、この場合最も容易に結論へ導いてくれることを期待してよかろう。ややソフトな中域の再生ぶりがSP4000の引きしまった良さととけ合うのは見事だ。

スピーカーシステム:サンスイ SP-4000 ¥49,800×2
コントロールアンプ:サンスイ CA-3000 ¥160,000
パワーアンプ:サンスイ BA-1000 ¥89,800
チューナー:サンスイ TU-9900 ¥89,800
プレーヤーシステム:サンスイ SR-525 ¥44,500
カートリッジ:エンパイア 2000E/II ¥16,500
計¥500,200

ビクター JS-55(組合せ)

岩崎千明

コンポーネントステレオの世界(ステレオサウンド別冊・1976年1月発行)
「スピーカーシステム中心の特選コンポーネント集〈131選〉」より

 ビクターのグレート・ヒットFB5はこのメーカーのそれ以来の路線に少なからず影響を与えたようだ。JS55はFB5のユニットの特長をそのまま拡大したようなサウンドとクォリティとで、そのパワフルな再生ぶりはとうていブックシェルフ型のそれではない。つまり音響エネルギーの最大限度が異例に高いためであろうか、力強さは抜群だ。
 このずば抜けた量感あふれるエネルギーは中域から低域全体を支配して音楽のポイントを拡大して聴かせてくれるのだ。ややきらびやかな高域も現代の再生音楽のはなやかさにとっては必要なファクターといえよう。
 このスピーカーを引き立たせるには、たとえばセパレートアンプも考えられるが、より力強さを発揮する新型JA−S91に白羽の矢をたてた。ここでは音の鮮度を重視して、暖かな響きを二の次にしたからだ。つまり、あくまで生々しく間近にある楽器のソロのサウンドを捉えようとしたのだ。FB5のエネルギッシュな音にくらべてやや控え目ながらここぞというときに輝かしいサウンドがJS55からは存分に味わえるに違いない。JA−S91はこのとき本領を発揮する。

スピーカーシステム:ビクター JA-55 ¥46,500×2
プリメインアンプ:ビクター JA-S91 ¥130,000
チューナー:ビクター JT-V71 ¥59,800
プレーヤーシステム:ビクター JL-F35M ¥37,500
カートリッジ:(プレーヤー付属)
計¥320,300