Category Archives: CDプレーヤー関係 - Page 5

マイクロ CD-M2DC + DC-M2

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 穏やかで、一種独特の重さ、暗さがある渋い音を持つ個性的な音である。CDとしては再生する情報量は多く、演奏会場の空気の動きや椅子などのキシミ、楽器のノイズなどを聴かせる。試聴位置は中央の標準位置。ロッシーニは、基本的にはウォームトーン系のまとまりだが、角がとれたクッキリとした音はアナログディスク的なイメージがある。各パートの声は少し伸びが抑えられ、音像はフワッと大きく定位する。ピアノトリオは、低域が重く粘りがあり反応は遅いが、中低域以上はほどよく立上りの良い素直な音であるため、低域のコントロールをすれば個性的な良い音になるだろう。ブルックナーは、音楽的な意味でのブルックナーらしさがあるが、オーディオ的には見通しが悪く、晴々としない音である。平衡接続ではプレゼンスは良くなるが、ダイナミックレンジは抑えられ、表情も鈍くなる。ジャズは、狭帯域型バランスと閉鎖空間的プレゼンスが特徴だが、安定度、力感が欲しい。

ソニー CDP-R3

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 音の粒子が細かく、滑らかに磨き込まれた低域から中域と、聴感上で高域がゆるやかに下降したかのように聴きとれる、柔らかく穏やかな帯域バランスをもつが、基本クォリティが高く、際立ちはしないが、聴き込むとナチュラルに切れ込む音の分離は相当なものだ。ロッシーニは、中高域に輝きのある硬質さが時折顔を出すが、空間の拡がり感もあり、やはり価格に見合うだけのクォリティの高さが感じられる。ピアノトリオは、全体に低軟・高硬の2ウェイスピーカー的なまとまりとなり、一種のアンバランスの魅力があるまとまりといえるだろう。ブルックナーは、演奏会場の暗騒音もよく聴きとれ、一応の水準を保つ音だ。平衡出力は、全体域にゆとりがあり、しなやかさが加わって弦楽器系の硬質な音が解消され、見かけ上でのダイナミックレンジも大きく聴かれるが、高域は抑え気味。ジャズは、ライヴハウス的イメージの音で、音源が少し遠くなるが、適度なノリで、かなり楽しめる。

メリディアン 206

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 全体に各種プログラムソースを、ややクラシカルな個性的な自分の音として消化して聴かせる独特のキャラクターに注目したい製品。ロッシーニは、全体にナローレンジで硬質な音にまとまり、情報量は少ないが、古いアナログディスク的な一面のある音とでも表現したい印象がある。ピアノトリオは、206の硬質な個性がよく出た明快なピアノとチェロがオーディオ的にわかりやすいコントラストを聴かせる。音場感は少し狭いタイプだ。ブルックナーは、音の輪郭をクッキリと聴かせる、かなり個性的なまとまりとなるが、一種の思い切りの良さが感じられるポイントを押えた音楽の聴かせ方は、再生音楽としてオーディオ的にこれならではの魅力を感じる向きもありそうだ。ジャズは、明快なクッキリとした音を描くまとまりである。聴き込めばブラスは薄く、ベースが小さく硬調となるが、余分な音を整理し、分離よく聴かせどころを巧みに残したような独特の個性は興味深い。

アキュフェーズ DP-11

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかく、軽く、爽やか指向の音をもつデルであるが、音情感はフワッと柔らかい雰囲気にまとまる傾向があり、見通しの良さは平均的程度である。ロッシーニは爽やかで軽い音にまとまるが、中高域に独特の輝く個性があり、声の伸びやかさを抑え気味として聴かせ、空間の拡がりも不足気味。ピアノトリオは音色が暗く、暖色系となり、中域の表情が硬く、息つぎの音が少し誇張気味に感じられ、プレゼンスもあまり出ない。
 ブルックナーは予想よりも大掴みで、大味なまとまりとなり、低域に誇張感がある。全体に力がなく、低域の輪郭の明瞭な特徴が活かせない。平衡出力は、空間の再現能力が高く、ホールの広さが感じられるようになる。低域の軟調描写傾向は残り、大太鼓はボケ気味で、弦楽器が全体に硬くなるが、全体のバランスは保たれている。プログラムソース全般に同一傾向があり、再生システムとの、いわゆる相性のようでもある。

フィリップス LHH500

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかく角のとれた、しやかで雰囲気のよい音をもつモデルである。プログラムソースとの対応の幅は広く、あまりハイファイ調とせず聴きやすいが、音楽的に内容のある音をもつ点は、大変に好ましい。ロッシーニは、ほどよくプレゼンスのあるナチュラルな音だ。ほどよく明るい音色と、中域から中高域にかけての素直な音は魅力的でさえある。低域の質感が甘い面もあるが、まとまりの良さはフィリップスらしい特徴である。ピアノトリオは、サロン風なまとまりとなり、予想より音の厚み、音場感情報が不足気味で、中高域に強調感があり、息つぎの音の自然さがなく、気になる。ブルックナーは、全体にコントラスト不足で音が遠いが、平衡出力にすると音情感はたっぷりとあり、音の芯も明快で一段と高級機の音になる。ダイナミックレンジ的伸びと鮮度感が不足気味で、fレンジは少し狭くなり、中域の量感がむしろ減る傾向となる。ジャズは実在感がいま一歩で分離もいま一歩。

ビクター XL-Z1000 + XP-DA1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 音場感情報が豊かで、音楽が演奏されている空間の拡がりを、ゆったりとした余裕のあるプレゼンスで聴かせる特徴がある。ロッシーニでは、予想より硬質な面と、音の分離にいまひとつの感があるが、木管楽器特有の高質さとふくらみや、コントラバスのピチカートなどはかなり実体感があり、見通しもよい。ピアノトリオは、中高域に少し硬質さがある薄味傾向のまとまり。楽器のメカニズムの出す固有のノイズをかなり聴かせるが、ピアノのリアリティは抑えられる。ヴァイオリン、チェロは少し硬質で、やや響き不足の音だ。ブルックナーは、奥行きの深い空間を感じさせる音場感の豊かさがあり、響きはたっぷりとあるが全体に力不足で、トゥッティで音の混濁感がある。平衡出力では、スッキリと見通しの良さが聴かれ、反応の軽さが出るが、再生系の持つ一種の重さ、暗さがある低域が全体のバランスを崩しているようで、これは聴取位置が左側に偏っていることも関係がある。

デンオン DCD-3500RG

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より
 適度に緻密で安定感のある中域を中心に、ナチュラルな帯域バランスと標準的な音情感の再現能力、明快な音像定位が聴かれるリファレンスモデル的な内容の音は、昨年発表された時点とは格段の差のグレードアップである。聴取位置は中央の標準位置である。ロッシーニは柔らかい雰囲気型の音で、音像は奥に定位する。安定度は充分にあるが密度感が不足気味で、ウォームアップ不足だ。ピアノトリオは、安定感のある帯域バランスと芯のしっかりした音で、一種の重厚さめいた印象が特徴。ブルックナーは厚みのある安定した、いわば立派な音だが、トゥッティでは混濁気味。平衡出力では、ホールトーンはたっぷりとあるが表情が甘く、コントラスト不足の音で、かなり音量を変え、セッティングを少し変えた程度では変化がなく、再生系との相性の問題がありそうだ。ジャズは、低域が腰高で安定せず、全体にモコモコとした一種の濁りのある音とプレゼンスでまとまらない音だ。

EMT 981

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 整然とした硬質な音を、適度な力感を持って聴かせる個性型のプレーヤーだ。ロッシーニでは、弦、木管などのハーモニクスが個性的な輝きを持ち、コリッとした硬めのテノールは本機の特徴を物語る。音場感は特に広くはなく、ある限定された空間にピシッと拡がり、輪郭がクッキリとした音像定位はクリアーで見事である。ピアノトリオは間接音成分が抑えられ、スタジオ録音的まとまりとなるが、硬質で実体感のある音は楽器が身近に見える一種の生々しさがあり楽しい。ブルックナーは、トゥッティで少しメタリックな強調感があるが、音源が予想より遠くスケール不足の音だ。No.26Lの不平衡入力から平衡入力に替えると、音場感、各パートの楽器の音がかなり自然になり、このクラス水準の音になるが、編成の大きなオーケストラのエネルギー感は不足気味だ。それにしても、ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか。

パイオニア PD-5000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 響きの豊かさがあり、基本的なクォリティが高く、各プログラムソースの特徴を引き出しながら、安定感のある立派な音が聴ける製品だ。ロッシーニでは、自然な拡がりのあるホールトーンと安定した音を聴かせ、音像の立ち方もやや立体的なイメージがある。中域の一部には少し硬質な傾向があり、楽器の分離がよくリアリティのある音で描く効果があり、柔らかく質感のよい低域と巧みなバランスを保つ。ピアノトリオは響きが豊かで、ディテールをサラッと聴かせる素直な再現能力と実体感のある音像定位が好ましいが、再生システムのキャラクターか、やや硬調な描写となりやすく、アタック音が少しなまり気味だ。ブルックナーも共通で金管が硬く聴かれ、トゥッティの分離がいま一歩であるが、安定した質感のよい音と自然なプレゼンスは相当によい。低域の伸び、ゆとりに少し不満が残るが、価格からは無理な注文だろう。ジャズは、低域腰高で軟調傾向だが、よくまとまる。

ティアック P-500 + D-500

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 全体にプログラムソースの音を軽く、柔らかい傾向の音として聴かせる。いわば個性の強い製品ではあるが、音色が暗くならず、表情に鈍さがないことが好ましい。ロッシーニは、かなり広帯域型のfレンジと、軽く滑らかな雰囲気のよい音だが、少し実体感が欲しいまとまりだ。ピアノトリオは、楽器の低音成分が多く、やや中域を抑えたバランスの、線が細く柔らかな音だ。音場は引っ込み奥に拡がり、響きはきれいだが音源は遠く、細部は不明の音。ブルックナーは、音源は遠いが、空間を描く音場感のプレゼンスはナチュラルでフワッとした雰囲気があり、これでよい。トゥッティでは予想外に中高域に輝く個性があり硬質な面が顔を出すが、それなりのバランスで聴かせるあたりは、ターンテーブル方式の利点であるのかもしれない。ジャズは、定位はブーミーでエネルギー感が抑え気味となり、いまひとつ弾んだリズム感が不足気味で、見通しもやや不足気味だ。

テクニクス SL-Z1000 + SH-X1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかくフワッとした、温和な音を聴かせるモデルであるが、ローレベルのこまやかさが描けるようになり、音の消えた空間の存在がわかること、帯域バランス的には中域の質感が改善され、硬さの表現ができるようになったことが、従来と変った点だ。なお、聴取位置は中央の標準位置である。ロッシーニでは、空間の拡がりを感じさせる暗騒音も充分に聴かれ、柔らかい雰囲気を持ちながらこまやかさがある素直な音である。音像は小さくソフトに立つ。ピアノトリオはプレゼンスよく、光沢を感じさせる、ほどよく硬質な各楽器のイメージは、かなり聴き込めるが、低域はいまひとつ分離しない。ブルックナーは、ややこもった音場感でスケール感もあるが、アタックの音が軟らかく、抑揚が抑え気味となり単調に感じられる。平衡出力では,ベールが一枚なくなったようなスッキリした音場感、各パートの楽器の分離などでは優れるが、鈍い低域が問題で、再生系と相性が悪い。

ソニー CDP-X77ES

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 聴感上での帯域バランスを重視し、あまり広帯域のfレンジとせず巧みに総合的な音をまとめた印象が強い手堅いモデルだ。ロッシーニは、音の細部にこだわらず素直なバランスの音を聴かせる。表情は真面目で少し抑える傾向があるが、ややウォームアップ不足気味の音と思われる。ピアノトリオは、柔らかく線の細いピアノと硬質なヴァイオリン、線が太く硬さのあるチェロのバランスとなるが、金属的に響かないのが好ましい点だ。しかし、響きが薄く、厚みがいま一歩不足気味である。ブルックナーは、線が太く硬い鉛筆で描いたような一種の粗さがあり、演奏会場のかなり後ろの席で聴いたような音の遠さがある。平衡出力にすると、バランスは広帯域型に変り、全体に薄いが独特のクリアーさ、シャープさのある音になり、高域はむしろ透明感がかげりがちだ。ジャズは薄味の軽快指向のまとまりで、表彰が表面的になりやすく、低域の質感をどうまとめるかがポイントだ。

エソテリック P-2 + D-2

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 聴感上でのS/Nが優れ、音場感情報が充分にあり、奥行き方向のパースペクティヴ、上下方向の高さの再現ができるのが最大の特長。試聴は2度行ない、聴取位置は中央の標準的位置だ。細部の改良で基本的な音の姿・形は変らないが聴感上でのS/Nが向上したため、低域の質感や反応の素直さをはじめ、全体の音は明瞭に改善されている。ロッシーニは、柔らかいプレゼンスのよい音である。音の細部はソフトフォーカス気味に美しく聴かせるが、各パートの声や木管などのハーモニクスに適度な鮮度感があり、薄味傾向の音としては、表情もしなやかで一応の水準にまとまる。ピアノトリオは、サロン風のよく響く音だが、表情は少し硬い。ブルックナーは、奥深い空間の再現性に優れ、予想より安定した低域ベースの実体感のある音である。平衡出力では、音場感は一段と増すが、音の密度感、力感は抑えられる。ジャズはプレゼンスよく安定感のある低域ベースの良い音だ。

白いキャンバスを求めて

黒田恭一

ステレオサウンド 92号(1989年9月発行)
「白いキャンバスを求めて」より

 感覚を真っ白いキャンバスにして音楽をきくといいよ、といわれても、どのようにしたら自分の感覚をまっ白にできるのか、それがわからなくてね。
 そのようにいって、困ったような表情をした男がいた。彼が律義な人間であることはわかっていたので、どのように相槌をうったらいいのかがわからず、そうだね、音楽をきくというのはなかなか微妙な作業だからね、というような意味のことをいってお茶をにごした。
 その数日後、ぼくは、別の友人と、たまたま一緒にみた映画のことを、オフィスビルの地下の、中途半端な時間だったために妙に寝ぼけたような雰囲気の喫茶店ではなしあっていた。そのときみたのは、特にドラマティックともいいかねる物語によった、しかしなかなか味わい深い内容の映画であった。今みたばかりの映画について語りながら、件の友人は、こんなことをいった。
 受け手であるこっちは、対象に対する充分な興味がありさえすれば、感覚をまっ白にできるからね……。
 彼は、言外に、受け手のキャンバスが汚れていたのでは、このような味わいのこまやかな映画は楽しみにくいかもしれない、といいたがっているようであった。ぼくも彼の感想に同感であった。おのれのキャンバスを汚れたままにしておいて、対象のいたらなさをあげつらうのは、いかにも高飛車な姿勢での感想に思え、フェアとはいえないようである。名画の前にたったときには眼鏡をふき、音楽に耳をすまそうとするときには綿棒で耳の掃除をする程度のことは、最低の礼儀として心得ておくべきであろう。
 しかし、そうはいっても、眼鏡をいつでもきれいにしておくのは、なかなか難しい。ちょうどブラウン管の表面が静電気のためにこまかい塵でおおわれてしまってもしばらくは気づきにくいように、音楽をきこうとしているときのききてのキャンバスの汚れもまた意識しにくい。キャンバスの汚れを意識しないまま音楽をきいてしまう危険は、特に再生装置をつかって音楽とむきあおうとするときに大きいようである。
 自分の部屋で再生装置できくということは、原則として、常に同じ音で音楽をきくということである。しりあったばかりのふたりであれば、そこでのなにげないことばのやりとりにも神経をつかう。したがって、ふたりの間には、好ましい緊張が支配する。しかしながら、十年も二十年も一緒に生活をしてきたふたりの間ともなれば、そうそう緊張してもいられないので、どうしたって弛緩する。安心と手をとりあった弛緩は眼鏡の汚れを呼ぶ。
 長いこと同じ再生装置をつかってきいていると、この部分がこのようにきこえるのであれば、あの部分はおそらくああであろう、と無意識のうちに考えてしまう。しかも、困ったことに、そのような予断は、おおむね的中する。
 長い期間つかってきた再生装置には座りなれた椅子のようなところがある。座りなれた椅子には、それなりの好ましさがある。しかし、再生装置を椅子と同じに考えるわけにはいかない。安楽さは、椅子にとっては美徳でも、再生装置にとってはかならずしも美徳とはいいがたい。安心が慢心につながるとすれば、つかいなれた再生装置のきかせてくれる心地よい音には、その心地よさゆえの危険がある。
 これまでつかってきたスピーカーで音楽をきいているかぎり、ぼくは、気心のしれた友だちとはなすときのような気持でいられた。しかし、同時に、そこに安住してしまう危険も感じていた。なんとなく、この頃は、きき方がおとなしくなりすぎているな、とすこし前から感じていた。ききてとしての攻撃性といっては大袈裟になりすぎるとしても、そのような一歩踏みこんだ音楽のきき方ができていないのではないか。そう思っていた。ディスクで音楽をきくときのぼくのキャンバスがまっ白になりきれていないようにも感じていた。
 ききてとしてのぼく自身にも問題があったにちがいなかったが、それだけではなく、きこえてくる音と馴染みすぎたためのようでもあった。それに、これまでつかっていたスピーカーの音のS/Nの面で、いささかのものたりなさも感じていた。これは、やはり、なんとかしないといけないな、と思いつつも、昨年から今年の夏にかけて海外に出る機会が多く、このことをおちおち考えている時間がなかった。
 しかし、ぼくには、ここであらためて、新しいスピーカーをどれにするかを考える必要はなかった。すでに以前から、一度、機会があったら、あれをつかってみたい、と思っていたスピーカーがあった。そのとき、ぼくは、漠然と、アポジーのスピーカーのうちで一番背の高いアポジーを考えていた。
 アポジーのアポジーも結構ですが、あのスピーカーは、バイアンプ駆動にしないと使えませんよ。そうなると、今つかっているパワーアンプのチェロをもう一組そろえないといけませんね。電話口でM1が笑いをこらえた声で、そういった。今の一組でさえ置く場所に苦労しているというのに、もう一組とはとんでもない。そういうことなら、ディーヴァにするよ。
 というような経過があって、ディーヴァにきめた。それと、かねてから懸案となっていたチェロのアンコール・プリアンプをM1に依頼しておいて、ぼくは旅にでた。ぼくはM1の耳と、M1のもたらす情報を信じている。それで、ぼくは勝手に、M1としては迷惑かもしれないが、M1のことをオーディオのつよい弟のように考え、これまでずっと、オーディオに関することはなにからなにまで相談してきた。今度もまた、そのようなM1に頼んだのであるからなんの心配もなく、安心しきって、家を後にした。
 ぼくは、スピーカーをあたらしくしようと思っているということを、第九十一号の「ステレオサウンド」に書いた。その結果、隠れオーディオ・ファントでもいうべき人が、思いもかけず多いことをしった。全然オーディオとは関係のない、別の用事で電話をしてきた人が、電話を切るときになって、ところで、新しいスピーカーはなににしたんですか? といった。第九十一号の「ステレオサウンド」が発売されてから今日までに、ぼくは、そのような質問を六人のひとからうけた。四人が電話で、二人が直接であった。六人のうち三人は、それ以前につきあいのない人であった。しかも、そのうちの四人までが、そうですか、やはり、アポジーですか、といって、ぼくを驚かせた。
 たしかに、アポジーのディーヴァは、一週間留守をした間にはこびこまれてあった。さすがにM1、することにてぬかりはないな、と部屋をのぞいて安心した。アンプをあたためてからきくことにしよう。そう思いつつ、再生装置のおいてある場所に近づいた。そのとき、そこに、思いもかけないものが置かれてあるのに気づいた。
 なんだ、これは! というまでもなく、それがスチューダーのCDプレーヤーA730であることは、すぐにわかった。A730の上に、M1の、M1の体躯を思い出させずにおかない丸い字で書いたメモがおかれてあった。「A730はアンコールのバランスに接続されています。ちょっと、きいてみて下さい!」
 スチューダーのA730については、第八十八号の「ステレオサウンド」に掲載されていた山中さんの記事を読んでいたので、おおよそのことはしっていた。しかし、そのときのぼくの関心はひたすらアポジーのディーヴァにむいていたので、若干の戸惑いをおぼえないではいられなかった。このときのぼくがおぼえた戸惑いは、写真をみた後にのぞんだお見合いの席で、目的のお嬢さんとはまた別の、それはまたそれでなかなか魅力にとんだお嬢さんに会ってしまったときにおぼえるような戸惑いであった。
 それから数日後に、「ステレオサウンド」の第九十一号が、とどいた。気になっていたので、まず「編集後記」を読んだ。「頼んだものだけが届くと思っているのだろうが、あまいあまい。なにせ怪盗M1だぞ、といっておこう」、という、M1が舌なめずりしながら書いたと思えることばが、そこにのっていた。
 困ったな、と思った。なにに困ったか、というと、ぼくのへぼな耳では、一気にいくつかの部分が変化してしまうと、その変化がどの部分によってもたらされたのか判断できなくなるからであった。しかし、いかに戸惑ったといえども、そこでいずれかのディスクをかけてみないでいられるはずもなかった。すぐにもきいてみたいと思う気持を必死でおさえ、そのときはパワーアンプのスイッチをいれるだけにして、しばらく眠ることにした。飛行機に長い時間ゆられてきた後では、ぼくの感覚のキャンバスはまっ白どころか、あちこちほころびているにちがいなかった。そのような状態できいて、最初の判断をまちがったりしたら、後でとりかえしがつかない、と思ったからであった。
 ぼくは、プレーヤーのそばに、愛聴盤といえるほどのものでもないが、そのとき気にいっているディスクを五十枚ほどおいてある。そのうちの一枚をとりだしてきいたのは、三時間ほど眠った後であった。風呂にもはいったし、そのときは、それなりに音楽をきける気分になっていた。
 複合変化をとげた後の再生装置でぼくが最初にきいたのは、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーを指揮して一九七五年に録音した「ヴェルディ序曲・前奏曲集」(ポリドール/グラモフォン F35G20134)のうちのオペラ「群盗」の前奏曲であった。此のヴェルディの初期のオペラの前奏曲は、オーケストラによる総奏が冒頭としめくくりにおかれているものの、チェロの独奏曲のような様相をていしている。ここで独奏チェロによってうたわれるのは、初期のヴェルディならではの、燃える情熱を腰の強い旋律にふうじこめたような音楽である。
 これまでも非常にしばしばきいてきた、その「群盗」の前奏曲をきいただけですでに、ぼくは、スピーカーとプリアンプと、それにCDプレーヤーがかわった後のぼくの再生装置の音がどうなったかがわかった。なるほど、と思いつつ、目をあげたら、ふたつのスピーカーの間で、M1のほくそえんでいる顔をみえた。
 恐るべきはM1であった。奴は、それまでのぼくの再生装置のいたらないところをしっかり把握し、同時にぼくがどこに不満を感じていたのかもわかっていたのである。今の、スピーカーがアポジーのディーヴァに、プリアンプがチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーがスチューダーのA730にかわった状態では、かねがね気になっていたS/Nの点であるとか、ひびきの輪郭のもうひとつ鮮明になりきれないところであるとか、あるいは音がぐっと押し出されるべき部分でのいささかのものたりなさであるとか、そういうところが、ほぼ完璧にといっていいほど改善されていた。
 オペラ「群盗」の前奏曲をきいた後は、ぼくは、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」(アルファレコード/CYPREE 32XB123)をとりだして、そのディスクのうちの「すてきな青いレインコート」をきいた。この歌は好きな歌であり、また録音もとてもいいディスクであるが、ここで「すてきな青いレインコート」をきいたのには別の理由があった。「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」は、傅さんがリファレンスにつかわれているディスクであることをしっていたからであった。傅さんは、先刻ご存じのとおり、アポジーをつかっておいでである。つまり、ぼくとしては、ここで、どうしても、傅さんへの表敬試聴というのも妙なものであるが、ともかく先輩アポジアンの傅さんへの挨拶をかねて、傅さんの好きなディスクをききたかったのである。
 さらにぼくは、「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾほチェロ/ウェルナー・トーマス」(日本フォノグラム/オルフェオ 32CD10106)のうちの「ジャクリーヌの涙」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」(EMI CDC7476772)のうちの「セビリャの理髪師」であるとか、あるいは「O/オルネッラ・ヴァノーニ」(CGD CDS6068)のうちの「カルメン」であるとか、いくぶん軽めの、しかし好きで、これまでもしばしばきいてきた曲をきいた。
 いずれの音楽も、これまでの装置できいていたとき以上に、S/Nの点で改善され、ひびきの輪郭がよりくっきりし、さらに音がぐっと押し出されるようになったのが関係してのことと思われるが、それぞれの音楽の特徴というか、音楽としての主張というか、そのようなものをきわだたせているように感じられた。ただし、その段階での音楽のきこえ方には、若い人が自分のいいたいことをいいつのるときにときおり感じられなくもない、あの独特の強引さとでもいうべきものがなくもなかった。
 これはこれでまことに新鮮ではあるが、このままの状態できいていくとなると、感覚の鋭い、それだけに興味深いことをいう友だちと旅をするようなもので、多少疲れるかもしれないな、と思ったりした。しかし、スピーカーがまだ充分にはこなれていないということもあるであろうし、しばらく様子をみてみよう。そのようなことを考えながら、それからの数日、さしせまっている仕事も放りだして、あれこれさまざまなディスクをききつづけた。
 ところできいてほしいものがあるですがね。M1の、いきなりの電話であった。いや、ちょっと待ってくれないか、ぼくは、まだ自分の再生装置の複合変化を充分に掌握できていないのだから、ともかく、それがすんでからにしてくれないか。と、一応は、ぼくも抵抗をこころみた。しかし、その程度のことでひっこむM1でないことは、これまでの彼とのつきあいからわかっていた。考えてみれば、ぼくはすでにM1の掌にのってしまっているのであるから、いまさらじたばたしてもはじまらなかった。その段階で、ぼくは、ほとんど、あの笞で打たれて快感をおぼえる人たちのような心境になっていたのかもしれず、M1のいうまま、裸の背中をM1の笞にゆだねた。
 M1がいそいそと持ちこんできたのは、ワディア2000という、わけのわからない代物だった。M1の説明では、ワディア2000はD/Aコンバーターである、ということであったが、この常軌を逸したD/Aコンバーターは、たかがD/Aコンバーターのくせに、本体と、本隊用電源部と、デジリンク30といわれる部分と、それにデジリンク30用電源部と四つの部分からできていた。つまり、M1は、スチューダーのA730のD/Aコンバーターの部分をつかわず、その部分の役割をワディア2000にうけもたせよう、と考えたようであった。
 ワディア2000をまったくマークしていなかったぼくは、そのときにまだ、不覚にも、第九十一号の「ステレオサウンド」にのっていた長島さんの書かれたワディア2000についての詳細なリポートを読んでいなかった。したがって、その段階で、ぼくはワディア2000についてなにひとつしらなかった。
 ぼくの部屋では、客がいれば、客が最良の席できくことになっている。むろん、客のいないときは、ぼくが長椅子の中央の、一応ベスト・リスニング・ポジションと考えられるところできく。ワディア2000を接続してから後は、M1がその最良の席できいていた。ぼくは横の椅子にいて、M1の顔をみつつ、またすこし太ったのではないか、などと考えていた。M1が帰った後で、ひとりになってからじっくりきけばいい、と思ったからであった。そのとき、M1がいかにも満足げに笑った。ぼくの席からきいても、きこえてくる音の様子がすっかりちがったのが、わかった。
 ぼくの気持をよんだようで、M1はすぐに席をたった。いかになんでも、M1の目の前で、嬉しそうな顔をするのは癪であった。M1もM1で、余裕たっぷりに、まあ、ゆっくりきいてみて下さい、などといいながら帰っていった。
 ワディア2000を接続する前と後での音の変化をいうべきことばとしては、あかぬけした、とか、洗練された、という以外になさそうであった。昨日までは泥まみれのじゃがいもとしかみえなかった女の子が、いつの間にか洗練された都会の女の子になっているのをみて驚く、あの驚きを、そのとき感じた。もっとも印象的だったのは、ひびきのきめの細かくなったことであった。餅のようにきめ細かで柔らかくなめらかな肌を餅肌といったりするが、この好色なじじいの好みそうなことばを思い出させずにはおかない、そこできこえたひびきであった。
 ぼくは、それから、夕食を食べるのも忘れて、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーによる「ヴェルディ序曲・前奏曲集」であるとか、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」であるとか、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」であるとか、「O/オルネッラ・ヴァノーニ」であるとかを、ききなおしてみて、きこえてくる音に酔った。
 そこにいたってやっとのことで、そうだったのか、とM1の深謀遠慮に気づいた。ぼくが、アポジーのディーヴァとチェロのアンコールを依頼した段階で、M1には、スチューダーのA730+ワディア2000のプランができていたのである。ぼくの耳には、スチューダーのA730は必然としてワディア2000を求めているように感じられた。ぼくは、自分のところでの組合せ以外ではスチューダーのA730をきいていないので、断定的なことはいいかねるが、すくなくともぼくのところできいたかぎりでは、スチューダーのA730は、積極性にとみ、音楽の表現力というようなことがいえるのであれば、その点で傑出したものをそなえているものの、ひびきのきめの粗さで気になるところがなくもない。
 そのようなスチューダーのA730の、いわば泣きどころをワディア2000がもののみごとにおぎなっていた。ぼくはM1の準備した線路を走らされたにすぎなかった。くやしいことに、M1にはすべてお見通しだったのである。そういえば、ワディア2000を接続して帰るときのM1は、自信満々であった。
 どうします? その翌日、M1から電話があった。どうしますって、なにを? と尋ねかえした。なにをって、ワディア2000ですよ。どうするもこうするもないだろう。ぼくとしては、そういうよりなかった。お買い求めになるんですか? 安くはないんですよ。M1は思うぞんぶん笞をふりまわしているつもりのようであった。しかたがないだろう。ぼくもまた、ほとんど喧嘩ごしであった。それなら、いいんですが。そういってM1は電話を切った。
 それからしばらく、ぼくは、仕事の合間をぬって、再生装置のいずれかをとりかえた人がだれでもするように、すでにききなれているディスクをききまくった。そのようにしてきいているうちに、今度のぼくの、無意識に変革を求めた旅の目的がどこにあったか、それがわかってきた。おかしなことに、スピーカーをアポジーのディーヴァにしようとした時点では、このままではいけないのではないか、といった程度の認識にとどまり、目的がいくぶん曖昧であった。それが、ワディア2000をも組み込んで、今回の旅の一応の最終地点までいったところできこえてきた音をきいて、ああ、そうだったのか、ということになった。
 なんとも頼りない、素人っぽい感想になってしまい、お恥ずかしいかぎりであるが、あれをああすれば、ああなるであろう、といったような、前もっての推測は、ぼくにはなかった。今回の変革の旅は、これまで以上に徹底したM1の管理下にあったためもあり、ぼくとしては、行先もわからない汽車に飛び乗ったような心境で、結果としてここまできてしまった、というのが正直なところである。もっとも、このような無責任な旅も、M1という運転手を信じていたからこそ可能になったのであるが。
 複合変化をとげた再生装置のきかせてくれる音楽に耳をすませながら、ぼくは、ずいぶん前にきいたコンサートのことを思い出していた。そのコンサートでは、マゼールの指揮するクリーヴランド管弦楽団が、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第五番を演奏した。一九八二年二月のことである。会場は上野の東京文化会館であった。記憶に残っているコンサートの多くは感動した素晴らしいコンサートである。しかし、そのマゼールとクリーヴランド管弦楽団によるコンサートは、ちがった。ぼくにはそのときのコンサートが楽しめなかった。
 第五交響曲にかぎらずとも、マーラーの作品では、極端に小さい音と極端に大きい音が混在している。そのような作品を演奏して、ppがpになってしまったり、ffがfになってしまったりしたら、音楽の表現は矮小化する。
 実力のあるオーケストラにとって、大音響をとどろかせるのはさほど難しくない。肝腎なのは、弱音をどこまで小さくできるかである。指揮者が充分にオーケストラを追いこみきれていないと、ppがpになってしまう。
 一九八二年二月に、上野の東京文化会館できいたコンサートにおけるマゼールとクリーヴランド管弦楽団による演奏がそうであった。そこでは、ppがppになりきれていなかった。
 このことは、多分、再生装置の表現力についてもいえることである。ほんとうの弱音を弱音ならではの表現力をあきらかにしつつもたらそうとしたら、オーケストラも再生装置もとびきりのエネルギーが必要になる。今回の複合変化の結果、ぼくの再生装置の音がそこまでいったのかどうか、それはわからない。しかし、すくなくとも、そのようなことを考えられる程度のところまでは、いったのかもしれない。
 大切なことは小さな声で語られることが多い。しかし、その小さな声の背負っている思いまでききとろうとしたら、周囲はよほど静かでなければならない。キャンバスがまっ白だったときにかぎり、そこにポタッと落ちた一滴の血がなにかを語る。音楽でききたいのは、そこである。マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、ppがpになってしまっていた演奏では、したたり落ちた血の語ることがききとれなかった。
 当然、ぼくがとりかえたのは再生装置の一部だけで、部屋はもとのままであった。にもかかわらず、比較的頻繁に訪ねてくる友だちのひとりが、何枚かのディスクをきき終えた後に、検分するような目つきで周囲をみまわして、こういった。やけに静かだけれど、部屋もどこかいじったの?
 再生装置の音が白さをました分だけ、たしかに周囲が静かになったように感じられても不思議はなかった。スピーカーがアポジーになったことでもっともかわったのは低音のおしだされ方であったが、彼がそのことをいわずに、再生装置の音が白さをましたことを指摘したのに、ぼくは大いに驚かされ、またうれしくもあった。
 ぼくにとっての再生装置は、仕事のための道具のひとつであり、同時に楽しみの糧でもある。つまり、ぼくのしていることは、昼間はタクシーをやって稼いでいた同じ自動車で、夜はどこかの山道にでかけるようなものである。昼間、仕事をしているときは、おそらく眉間に八の字などよせて、スコアを目でおいつつ、スピーカーからきこえてくる音に耳をすませているはずであるが、夜、仕事から解放されたときは、アクセルを思いきり踏みこみ、これといった脈絡もなくききたいディスクをききまくる。
 そのようにしてきいているときに、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えることがある。不思議なことに、そのように考えるのは、いつもきまって、いい状態で音楽がきけているときである。ああ、ちょっと此の点が、といったように、再生装置のきかせる音のどこかに不満があったりすると、そのようなことは考えない。人間というものは、自分で解答のみつけられそうな状況でしか疑問をいだかない、ということかどうか、ともかく、複合変化をとげた後の再生装置のきかせる音に耳をすませながら、何度となく、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えた。
 すぐれた文学作品を読んだり、素晴らしい絵画をみたりして味わう感動がある。当然のことに、いい音楽をきいたときにも、感動する。しかし、自分のことにかぎっていえば、いい音楽をいい状態できいたときには、単に感動するだけではなく、まるで心があらわれたような気持になる。そのときの気持には、感動というようないくぶんあらたまったことばではいいきれないところがあり、もうすこしはかなく、しかも心の根っこのところにふれるような性格がある。
 今回の複合変化の前にも、ぼくは、けっこうしあわせな状態で音楽をきいていたのであるが、今は、その一歩先で、ディスクからきこえる音楽に心をあらわれている。心をあらわれたように感じるのが、なぜ、心地いいのかはわからないが、このところしばらく、夜毎、ぼくは、翌日の予定を気にしながら、まるでA級ライセンスをとったばかりの少年がサーキットにでかけたときのような気分で、もう三十分、あと十五分、とディスクをききつづけては、夜更かしをしている。
 そういえば、スピーカーをとりかえたら真先にきこうと考えていたのに、機会をのがしてききそびれていたセラフィンの指揮したヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」のディスク(音楽之友社/グラモフォン ORG1009~10)のことを思い出したのは、ワディア2000がはいってから三日ほどたってからであった。この一九六二年にスカラ座で収録されたディスクは、特にきわだって録音がいいといえるようなものではなかった。しかし、この大好きなオペラの大好きなディスクが、どのようにきこえるか、ぼくには大いに興味があった。
 いや、ここは、もうすこし正直に書かないといけない。ぼくはこのセラフィンの「トロヴァトーレ」のことを忘れていたわけではなかった。にもかかわらず、きくのが、ちょっとこわかった。このディスクは、残響のほとんどない、硬い音で録音されている。それだけにひとつまちがうと、声や楽器の音が金属的になりかねない。スピーカーがアポジーのディーヴァになり、さらにCDプレーヤーがスチューダーのA730になったことで、音の輪郭と音を押し出す力がました。そこできいてどのようになるのか、若干不安であった。
 まず、ルーナ伯爵とレオノーラの二重唱から、きいた。不安は一気にふきとんだ。オペラ「トロヴァトーレ」の体内に流れる血潮がみえるようにきこえた。
 くやしいけれど、このようにきけるようになったのである、ぼくは、いさぎよく、頭をさげ、こういうよりない、M1! どうもありがとう!

デンオン DCD-3500G

井上卓也

’89NEWコンポーネント(ステレオサウンド別冊・1989年1月発行)
「’89注目新製品徹底解剖 Big Audio Compo」より

 DCD3500は、従来のDCD3300を受け継ぎ、今年の6月にデンオンから発売された同社のトップモデルCDプレーヤーである。
 このモデルは、従来のDCD3300で外装がブラック仕上げのモデルがまず発売され、続いて、木製ボンネットとシャンペンゴールド系のパネルフェイスを備えたゴールドタイプが加わり、2モデル構成とした特徴を踏襲し、当初からDCD3500GとDCD3500の、ゴールドタイプとブラックタイプが用意されている。
 外観から受ける印象は、パネルフェイスを簡潔に見せる、いわゆる高級機共通のデザイン傾向が採用され、パネル幅全面にわたり、シーリングポケットが設けられ、10キーをはじめ、ヘッドフォンジャックと音量調節、2系統のデジタル出力の選択とOFFポジションをもつ切替スイッチ、ディスプレイ切替などが内部に収められている。
 このディスプレイ切替は、蛍光表示管のON/OFFに伴う微小レベルのノイズ発生や、ドライブ回路からの干渉などが音質に影響を与えるのを避けるためのもので、ディスプレイを消すタイプがパイオニアのモデルに採用されて以来、中高級のジャンルでは、ほぼ標準的な装備になりかけているフィーチェアだ。
 本機に採用されたディスプレイスイッチは、①標準点灯、②ミュージックカレンダー部分の消灯、③全消灯、の3段切替型であるが、全消灯時でも選曲もしくは頭出しなどの操作をすると、一瞬の間だけ曲番のみを表示する。
 PCM録音で世界初のデジタルレコーディングによるディスクを発売した伝統を誇る、デンオンのデジタル業務用機器の開発の成果であるSLC(スーパーリニアコンバーターは、変換誤差補正回路による補正信号を加えてゼロクロス歪を排除するデンオン独自の技術であり、デンオンCDプレーヤーの大きな特徴でもあるわけだ。
 今回採用の新SLCは、米バーブラウン社製の18ビット用IC(PCM64P)に、ディスクリート構成の2ビット分を加え、リアル20ビット化したタイプで、量子化軸方向の分解能で16ビットタイプと比較して16倍の分解能(滑らかと考えてもよい)を得ている。なお、新SLCでは、ゼロクロス歪対策のひとつとして、ラダータイプと呼ばれる標準的な抵抗を数多く使う方式で発生する抵抗誤差によるゼロクロス歪を排除するため、影響の大きい上位4ビットまでを補正していることも特徴だ。
 一方、演算を受け持つデジタルフィルターは、現在の標準型8fSタイプである。
 回路も大切だが、それらを収納する内部構造、配置も、機械的な共振系と考えれば、共振のQが大きいだけに、音質と直接関係がある、いわばCDプレーヤーの勘所でもある。
 基本構想は、正統的なD/A分離左右独立構造であるが、現実にどのように処理されているかが結果を左右する。
 銅メッキ鉄板を採用したシャーシ内部は、左右方向にシールド板で分離され、左側前部にプレーヤー部分、後部に2個のデジタル用とアナログ用の電源トランスが並ぶ。
 シャーシ右側は、前後に大きく2分割された基板配置が目立つ。その後側が左右独立配置のD/Aコンバーターブロックであり、アース回路に、インピーダンスを下げ、高周波の干渉を防ぐ業務用機器用といわれるバスバーラインを採用している。
 プレーヤー部は、剛性が高く、振動減衰付性に優れたBMC製の大型メカシャーシに取り付けてあり、さらにBMC製メカベースは、低反発ゴムとスプリングを組み合わせた支持機構により、金属製メカプレートから吊り下げられている。
 金属製メカプレートは、大型のブロックともいえるBMC製メカシャーシに取り付けてあり、異種材料を組み合せた防振構造体とした設計である。
 構造面でのDCD3500Gの特徴は、上部の天板部分と左右がリアルウッドの光沢仕上げ、パネルフェイスがデンオンでプラチナゴールドと呼ぶ仕上げになっていることだ。天板部分は、結果としてリアルウッドと鋼板の2重構造、底板部分は鋼板2枚貼合せのバイブレスプレートと、厚さ1・6mmの鋼板、銅メッキシャーシの4重構造を採用。脚部は、直径65mm、4個で重量1800gの黄銅削出しインシュレーターを採用。
 一方、DCD3500は、天板部が4mm厚アルミ押出し材、側面が木製サイドボード、鋼板、シャーシの3重構造、底板部は共通の4重構造、脚部は焼結合金をアルミでカバーしたタイプだ。
 なお、出力系は固定、ヘッドフォン出力調整を兼ねた電動ボリユウム採用の可変、バランスの3系統アナログ、光1/同軸2系統のデジタル出力を備える。
 滑らかで、バランスが良く、幅広いプログラムソースに対応する、デンオンならではの安定感のある穏やかな音は、前作ゆずりの魅力である。しかし、中域の密度感の向上で、緻密さの表現や力強さが加わり、デンオンのリファレンス機として充分な格調の高さが出てきたことが、3500シリーズの新しい魅力である。Gタイプは、力を表面に出さない一種の渋さが、高級機ならではの風格だ。

スタックス QUATTRO II

井上卓也

ステレオサウンド 88号(1988年9月発行)

「BEST PRODUCTS」より

 オーディオ専業メーカーならではの独創的な製品開発で知られるスタックスから、CDPに続く第2弾の高級CDプレーヤーCDP QUATTROIIが発売された。
 今回の新製品はQUATTROIIと名付けられているが、第1弾製品のCDPが、QUATTROとも呼ばれていたとのことであり、名称の由来は不明であるが、おそらく4本の特徴的な脚部に支えられたユニークなデザインからきたものであろう。
 CDプレーヤーとしての筐体関係の構成は、前作CDPと基本的には同様である。筐体上部にディスクをドライブするプレーヤー部分があり、下部にD/Aコンバーター部分を収めた上下2分割のセミ・セパレート構成が特徴的だ。
 4本の大型な脚部は、外部振動およびCDプレーヤー自体で発生する、主にディスクドライブ系や電源トランスなどの振動対策として、ティップトゥの思想を導入した大型アルミ製脚を採用し、振動を防止する設計だ。
 エレクトロニクスは、最近のCDプレーヤーの動向であるハイビット化の路線にそった設計で、18ビット8倍オーバーサンプリング・デジタルフィルターを採用し、CDPと同様にアナログフィルターを通さずにオーディオ信号を取り出すダイレクトアウト端子を備えている。
 このところ、CDプレーヤーの音質改善テーマのひとつとされている時間軸的歪であるジッタ一対策としては、システムコントロール用の水晶発振器をD/Aコンバーター部に置く設計で、ジッターの低減を図っている。
 電源部は、アナログ部とデジタル部に専用ACコードを使う3電源トランス方式である。アナログ部は、シームレスコア型電源トランスと、内容は不明だが、スタックス・オリジナルのプッシュプル型電源を採用しているとのことだ。
 機能面は、デジタル回路で位相を切り替えるアブソリュートフェイズスイッチを備える。逆位相で記録されているCDを正しい位相で再生することにより、音質、音場感を含めて、最善の結果が得られるのはよく知られたことだが、これは音質最優先の高級CDプレーヤーに相応しい機能である。
 音質対策部品には、CDPで採用されたリードレス・タンタル抵抗、西独製ポリプロピレンコンデンサー、PCOCC線材、アナログ部の木製シャーシ採用など、スタックスのノウハウが導入されている。
 ウォームアップは、約1分間で、モヤが晴れたようなすっきりした音を聴かせる。帯域感は広帯域型で、低域は少し線が太いが、中域から高域は細身で抜けがよい。安定感のある抑場の効いた音の出方は、アナログディスク的なイメージもあり、力感もそれなりに十分だ。CDPに比べ、完成度の高さが感じられる個性派のCDプレーヤーだ。

ラックス DP-07 + DA-07

井上卓也

ステレオサウンド 88号(1988年9月発行)

「BEST PRODUCTS」より

 ラックスの超弩級CDプレーヤーシステムは、すでに昨年中にほぼ試作が完了していたために、その存在は誰でも知るところであったが、最終的なツメと熟成期間を経て、今回発売されることになった。
 基本構成の出発点は、音楽再生を目的とするD/Aコンバーターは、連続サインウェーブの再現以上に、パルス成分の再現性であるインパルス応答性を重要視すべきであるという、いわばオーディオ再生の原点ともいえるところからのものである。
 巨大なパワーアンプに匹敵する雄姿を誇るD/AコンバーターDA07は、重量も、実に27kgという文句なしの超弩級で、本システムの基本構想が実現できるか否かは、本機の内容に関わってくるわけだ。
 本機のD/Aコンバーターには、インパルス応答性に優れたD/Aコンバーター理論として筑波大学で発明されたフルエンシーセオリーに基づいたフルエンシーD/Aコンバーター(F・E・DAC=特許出願中)を採用している。
 F・E・DACは、従来のタイプのように、デジタル符号を、抵抗素子などを使い階段状にしてからアナログ変換をする方法ではなく、新補間関数により、デジタル符号をダイレクトに曲選でつないでアナログにする方式であるとのことだ。
 従来型のD/Aコンバーターでは、動作理論上で、パルス成分の再生時には多くの付加振動を発生し、原波形は損なわれる。現実にテストディスクでパルス再生をして、スコープでチェックすれば、パルスに数個の付加振動が発生していることを容易に確認できるだろう。この点、F・E・DACでは、付加振動の発生はひじょうに少なく無視できるレベルにあるという。
 まF・E・DACは、その変換方式の特徴から、原理的に波形振動を発生するデジタルフィルターや、位相を変化させるアナログフィルターなどを完全に追放できる利点にも注目したい。
 筐体構造は、基本的に上下2段構成としてデジタル部とアナログ部を分離し、さらに各ブロックをトータル10個のチャンバーに分け、完全にシールドを施し、相互干渉の排除を図っている。なお、シャーシ全体に銅メッキ処理が施され、高剛性、大質量の特殊FRPボトムシャーシをベースに、18mm厚押し出し材のフロントパネルなどで、全体を無共振構造としている。
 アナログ部は、最大出力まで一定のバイアス電流を供給する純A級方式と、低インピーダンス伝送アナログ回路を中心に、デジタルとアナログ独立の2電源トランスと11
分割独立レギュレーターがバックアップしている。
 入出力系は、同軸入力3系続、標準光入力2系統に、伝送レートが従来の数10倍という超高速ラックス型光入力1系続。アナログ出力端子は、固定と可変の標準出力とバランス型出力の3系統を備えている。
 プレーヤー部のDP07は、トップローディング型で、音質面で有害なトレイがないのがうれしい。
 筐体構造は、セラミック入りFRPによる重量級シャーシ、12層厚アルミムク材のトッププレート、銅メッキ処理シャーシを組み合わせ、前面傾斜パネル内側のマイコン部、その後ろを上下2段構造とし、下段に電源部、上段前半部にピックアップ部とデジタル出力部をさらに上下に分け、上段後半部に電源トランスを収めた多重構造により、全重量は20kgとヘビー級だ。
 信号処理部と駆動系に独立22トランスを使い、各ステージ用に独立10レギュレーター採用で、電源部を介した相互干渉は、ほぼ完全にシャットアウトする徹底した設計が見受けられる。なお、基板関係はOFCの70ミクロン厚、PCOCC線材の全面採用、金メッキキャップ抵抗にピュアフォーカスコンデンサーなど、音質向上のための素材は豊富に投入されている。
 システムのウォームアップは、平均的な約2分弱で、安定があり、情報量の多い、一応水準と思われる音に変わる。
 聴感上での帯域バランスは、とくにワイドレンジを感じさせないナチュラルなタイプであるが、やや線は太いが、豪快に物凄いパワー感を伴って押し出す低音のでかたは、CDの常識を越えた異次元の世界である。密度感のある中域は、力感も十分にあり、やや輝かしいキャラクターを内蔵している印象がある。高域は穏やかで、むしろ抑え気味でもあるようだ。
 音場感は標準的だが素直で、ヴォーカルなどの音像はグッと前に出るタイプだ。この程度の性能ともなれば、ディスクの固定機構の精度がすこし不満であり、ディスクの出し入れによる音の変化は大きい。しかし凄い製品だ。

デンオン DCD-3500G

井上卓也

ステレオサウンド 88号(1988年9月発行)

「BEST PRODUCTS」より

 DCD3500GとDCD3500の2モデルのCDプレーヤーは、従来のデンオンのトップモデルであるDCD3300シリーズを受け継ぐモデルである。
 外観上からは、DCD3500Gがゴールドタイプ、DCD3500がブラックタイプとして区別されるが、筐体のトップ部分の仕上げと脚部の2点が異なっている。
 Gタイプは、サイド部分と一体化したリアルウッドと内側の鋼板の2重構成、脚部は直径65mm、重量450gの黄銅削り出し製である。ブラックタイプは、4mm厚アルミ押し出し材のトップ部と、焼結合金をアルミで覆った2重構造の脚部となっており、当然のことながら、筐体構造の違いによる音質の差もあることになる。
 筐体構造をはじめとするメカニズムの設計は、無振動構造(バイブレス構造)が最大のテーマである。
 筐体関係は、サイド部分にサイドウッド、鋼板、シャーシの3重構造、底板部分は2枚の鋼板を張り合わせたバイブレスプレート、肉厚鋼板、銅メッキシャーシなどの4重ている。
 光ピックアップ部のメカニズムベースは、高剛性で、しかも内部損失が大きく振動吸収効果の高いBMC(バルク・モールド・コンパウンド)で作られ、鋼板のメカニズムベースプレートに、低反発粘弾性ゴムとコイルスプリングを組み合わせたサスペンション機構により吊りさげられ、フローティングマウント構造としている。さらにピックアップ部は、大型BMC製メカニズムシャーシに上部から組み込まれ、金属とBMCを2段に使い、振動遮断効果を追求したダブルBMCベースは、3500シリーズのみの最大の特徴である。
 筐体内部は、振動発生源であるメカニズム部分と電源トランスを左側に、振動の影響を受け音質が変化する回路系を右側に2分割する、2ボックス構造である。またデジタル回路が空間に放射する電波性雑音や磁気歪対策として、シャーシはすべて銅メッキ処理がされている。
 回路系は、アナログ・デジタル完全独立分離設計の基本で、2トランス構成による電源部の独立分離をはじめ、回路基板そのものも徹底して分離させている。アナログ部では業務用機器に多く採用されるバスパーラインを使い、インピーダンスを下げ、高周波の飛び込みを防止している。
 デジタルフィルターは、20ビット8倍オーバーサンプリング型で、量子化で標準16ビットの16倍、時間軸で44・1kHzの8倍と、小刻みなデジタル信号をD/Aコンバーターに送り出す。
 リアル20ビット・スーパーリニアコンバーター部は、業務用デジタル録音機開発での成果であるD/A変換器に、変換誤差補正回路による補正信号を加えてゼロクロス歪を排除する方式を採用したものである。本機では、デンオン独自の変換誤差補正を定評あるバーブラウン社製D/Aコンバーターに加えて使っている。また、高域の鮮明さと関係がある左右チャンネル間の時間誤差を解消するため、左右2組のコンバーターが採用されている。
 機能面では、時間指定と2点繰り返し演奏を可能とした新タイムサーチ機能、標準点灯、ミュージックカレンダーの消灯、全表示消灯のディスプレイの3段切り替え、電源を切っても約2ヵ月間、指定の曲からタイマープレイができるメモリーバックアップ機能などがある。なお、出力部は、デジタル3系統、アナログが、固定、可変の2系統に、3300シリーズの可変型から固定型となった600?バランス出力を備えている。
 試聴機は十分に予熱をしておき、ディスクを入れ音を出し、ウォームアップ時の音の変化を調べる。
 演奏開始時には、音の輪郭がクッキリとした、やや硬調の鋭角的な音を聴かせるが、2分間ほどで音に滑らかさが加わり、情報量も充分に豊かでありながら、音の芯がしっかりしてくる点に注目したい。
 音場感は、基本的に情報量が多いタイプだけに、奥行き方向のパースペクティブな再現性でも、オーソドックスな前後感を聴かせ、音像の立ち方、定位感も見事だ。
 プログラムソースに対する対応はスムースなタイプで、アナログ録音のCDではテープヒスなどのバックグラウンドノイズをサラッと聴かせるが、録音年代の新旧にあまり過敏にならないのが好ましい。
 音質、音場感ともに、従来のデンオンらしさの枠を超えた、本格派のリファレンス機としても使える実力は注目すべき点だ。
 試聴機では、フロントパネルの一番の切断面にシャープなエッジが残っていたことと、クランパーの装着音が少し気になった。

怪盗M1の挑戦に負けた!

黒田恭一

ステレオサウンド 87号(1988年6月発行)
「怪盗M1の挑戦に負けた!」より

 午後一時二十分に成田到着予定のルフトハンザ・ドイツ航空の701便は、予定より早く一時〇二分に着いた。しかも、ありがたいことに、成田からの道も比較的すいていた。おかげで、家には四時前についた。買いこんだ本をつめこんだために手がちぎれそうに重いトランクを、とりあえず家の中までひきずりこんでおいて、そのまま、ともかくアンプのスイッチをいれておこうと、自分の部屋にいった。
 そのとき、ちょっと胸騒ぎがした。なにゆえの胸騒ぎか? 机の上を、みるともなしにみた。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」
 机の上におかれた紙片には、お世辞にも達筆とはいいかねる、しかしまぎれもなくM1のものとしれる字で、そのように書かれてあった。
 一週間ほど家を留守にしている間に、ぼくの部屋は怪盗M1の一味におそわれたようであった。まるで怪人二十面相が書き残したかのような、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」のひとことは、そのことをものがたっていた。しかし、それにしても、怪盗M1の一味は、ぼくの部屋でなにをしていったというのか?
 ぼくは、あわてて、ラスクのシステムラックにおさめられた機器に目をむけた。なんということだ。プリアンプが、マークレビンソンのML7Lからチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーが、ソニーのCDP557ESD+DAS703ESから同じソニーのCDP-R1+DAS-R1に、変わっていた。
 怪盗M1の奴、やりおったな! と思っても、奴が「どうですか、この音は?」、という音をきかずにいられるはずもなかった。しかし、ぼくは、そこですぐにコンパクトディスクをプレーヤーにセットして音をきくというような素人っぽいことはしなかった。なんといっても相手が怪盗M1である、ここは用心してかからないといけない。
 そのときのぼくは、延々と飛行機にむられてついたばかりであったから、体力的にも感覚的にも大いに疲れていた。そのような状態で微妙な音のちがいが判断できるはずもなかった。このことは、日本からヨーロッパについたときにもあてはまることで、飛行機でヨーロッパの町のいずれかについても、いきなりその晩になにかをきいても、まともにきけるはずがない。それで、ぼくは、いつでも、肝腎のコンサートなりオペラの公演をきくときは、すくなくともその前日には、その町に着いているようにする。そうしないと、せっかくのコンサートやオペラも、充分に味わえないからである。
 今日はやめておこう。ぼくは、はやる気持を懸命におさえて、ついさっきいれたばかりのパワーアンプのスイッチを切った。今夜よく眠って、明日きこう、と思ったからであった。
 おそらく、ぼくは、ここで、チェロのアンコールとソニーのCDP-R1+DAS-R1のきかせた音がどのようなものであったかをご報告する前に、怪盗M1がいかに悪辣非道かをおはなししておくべきであろう。そのためには、すこし時間をさかのぼる必要がある。
 さしあたって、ある時、とさせていただくが、ぼくは、さるレコード店にいた。そのときの目的は、発売されたばかりのCDビデオについて、解説というほどのこともない、集まって下さった方のために、ほんのちょっとおはなしをすることであった。予定の時間よりはやくその店についたので、レコード売場でレコードを買ったり、オーディオ売場で陳列してあるオーディオ機器をながめたりしていた。
 気がついたときに、ぼくは、オーディオ売場の椅子に腰掛けて、スピーカーからきこえてくる音にききいっていた。なんだ、この音は? まず、そう思った。その音は、これまでにどこでどこできいた音とも、ちがっていた。ほとんど薄気味悪いほどきめが細かく、しかもしなやかであった。
 まず、目は、スピーカーにいった。スピーカーは、これまでにもあちこちできいたことのある、したがって、ぼくなりにそのスピーカーのきかせる音の素性を把握しているものであった。それだけにかえって、このスピーカーのきかせるこの音か、と思わずにいられなかった。そうなれば、当然、スピーカーにつながれているコードの先に、目をやるよりなかった。
 スピーカーの背後におかれてあったのは、それまで雑誌にのった写真でしかみたことのない、チェロのパフォーマンスであった。なるほど、これがチェロのパフォーマンスか、といった感じで、いかにも武骨な四つのかたまりにみにいった。
 チェロのパフォーマンスのきかせた音に気持を動かされて、家にもどり、まっさきにぼくがしたのは、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、読むことであった。このパワーアンプのきかせる音に対して、三氏とも、絶賛されていたとはいいがたかった。
 にもかかわらず、チェロのパフォーマンスというパワーアンプへのぼくの好奇心は、いっこうにおとろえなかった。なぜなら、そこで三氏の書かれていることが、ぼくにはその通りだと思えたからであった。しかし、このことには、ほんのちょっと説明が必要であろう。
 幸い、ぼくはこれまでに、菅野さんや長嶋さん、それに山中さんと、ご一緒に仕事をさせていただいたことがあり、お三方のお宅の音をきかせていただいたこともある。そのようなことから、菅野、長島、山中の三氏が、どのような音を好まれるかを、ぼくなりに把握していた。したがって、ぼくは、そのようなお三方の音に対しての好みを頭のすみにおいて、「ステレオサウンド」第八十四号にのっていた、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三といった三氏がチェロのパフォーマンスについてお書きになった文章を、熟読玩味した。その結果、ぼくは、レコード店のオーディオ売場という、アンプの音質を判断するための場所としてはかならずしも条件がととのっているとはいいがたいところできいたぼくのチェロのパフォーマンスに対しての印象が、あながちまちがっていないとわかった。そうか、やはり、そうであったか、というのが、そのときの思いであった。
 ぼくはアクースタットのモデル6というエレクトロスタティック型のユニットによったスピーカーシステムをつかっている。残る問題は、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの、俗にいわれる相性であった。ほんとうのところは、アクースタットのモデル6にチェロのパフォーマンスをつないでならしてみるよりないが、とりあえずは、推測してみるよりなかった。
 そのときのぼくにあったチェロのパフォーマンスについてのデータといえば、レコード店のオーディオ売場でほんの短時間きいたときの記憶と、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏が「ステレオサウンド」にお書きになった文章だけであった。そのふたつのデータをもとに、ぼくは、アクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性を推理した。その結果、この組合せがベストといえるかとうかはわからないとしても、そう見当はずれでもなさそうだ、という結論に達した。
 そこまで、考えたところで、ぼくは、電話器に手をのばし、M1にことの次第をはなした。
「わかりました。それはもう、きいてみるよりしかたがありませんね。」
 いつもの、愛嬌などというもののまるで感じられないぶっきらぼうな口調で、そうとだけいって、M1は電話を切った。それから、一週間もたたないうちに、ぼくのアクースタットのモデル6は、チェロのパフォーマンスにつながれていた。
 ぼくのアクースタットのモデル6とチェロのパフォーマンスの相性の推理は、まんざらはずれてもいなかったようであった。一段ときめ細かくなった音に、ぼくは大いに満足した。そのとき、M1は、意味ありげな声で、こういった。
「高価なアンプですよ。これで、いいんですか? 他のアンプをきいてみなくて、いいんですか?」
 このところやけに仕事がたてこんでいたりして、別のアンプをきくための時間がとりにくかった、ということも多少はあったが、それ以上に、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのモデル6がきかせる、やけにきめが細かくて、しかもふっくらとした、それでいてぐっとおしだしてくるところもある響きに対する満足があまりに大きかったので、ぼくは、M1のことばを無視した。
「ちょっと、ひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」
 M1は、そんな捨てぜりふ風なことを呟きながら、そのときは帰っていった。なにをほざくか、M1めが、と思いつつ、けたたましい音をたてるM1ののった車が遠ざかっていくのを、ぼくは見送った。
 それから、数日して、M1から電話があった。
「久しぶりに、スピーカーの試聴など、どうですか? 箱鳴りのしないスピーカーを集めましたから。」
 きけば、菅野さんや傅さんとご一緒の、スピーカーの試聴ということであった。おふたりのおはなしをうかがえるのは楽しいな、と思った。それに、かねてから気になっていながら、まだきいたことのないアポジーのスピーカーもきかせてもらえるそうであった。そこで、うっかり、ぼくは、怪盗M1が巧妙に仕掛けた罠にひっかかった。むろん、そのときのぼくには、そのことに気づくはずもなかった。
 M1のいうように、このところ久しく、ぼくはオーディオ機器の試聴に参加していなかった。
 オーディオ機器の試聴をするためには、普段とはちょっとちがう耳にしておくことが、すくなくともぼくのようなタイプの人間には必要のようである。もし、日頃の自分の部屋での音のきき方を、いくぶん先の丸くなった2Bの鉛筆で字を書くことにたとえられるとすれば、さまざまな機種を比較試聴するときの音のきき方は、さしずめ先を尖らせた2Hの鉛筆で書くようなものである。つまり、感覚の尖らせ方という点で、試聴室でのきき方はちがってくる。
 そのような経験を、ぼくは、ここしばらくしていなかった。賢明にもM1は、ぼくのその弱点をついたのである。どうやら、彼は、このところ先の丸くなった2Bの鉛筆でしか音をきいていないようだ、そのために、チェロのパフォーマンスにドライブされたアクースタットのもで6の音に、あのように安易に満足したにちがいない、この機会に彼の耳を先の尖った2Hにして、自分の部屋の音を判断させてやろう。M1は、そう考えたにちがいなかった。
 そのようなM1の深謀遠慮に気がつかなかったぼくは、のこのこスピーカー試聴のためにでかけていった。そこでの試聴結果は別項のとおりであるが、ぼくは、我がアクースタットが思いどおりの音をださず、噂のアポジーの素晴らしさに感心させられて、すこごすごと帰ってきた。アクースタットは、セッティング等々でいろいろ微妙だから、いきなりこういうところにはこびこんで音をだしても、いい結果がでるはずがないんだ、などといってはみても、それは、なんとなく出戻りの娘をかばう親父のような感じで、およそ説得力に欠けた。
 音の切れの鋭さとか、鮮明さ、あるいは透明感といった点において、アクースタットがアポジーに一歩ゆずっているのは、いかにアクースタット派を自認するぼくでさえ、認めざるをえなかった。たとえ試聴室のアクースタットのなり方に充分ではないところがあったにしても、やはり、アポジーはアクースタットに較べて一世代新しいスピーカーといわねばならないな、というのが、ぼくの偽らざる感想であった。
 そのときのスピーカーの試聴にのぞんだぼくは、先輩諸兄のほめる新参者のアポジーの正体をみてやろう、と考えていた。つまり、ぼくは、まだきいたことのないスピーカーをきく好奇心につきうごかされて、その場にのぞんだことになる。ところが、悪賢いM1の狙いは、ぼくの好奇心を餌にひきよせ、別のところにあったのである。
 あれこれさまざまなスピーカーの試聴を終えた後のぼくの耳は、かなり2Hよりになっていた。その耳で、ソニーのCDP557ESD+DAS703ES~マークレビンソンのML7L~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6という経路をたどってでてきた音を、きいた。なにか、違うな。まず、そう思った。静寂感とでもいうべきか、ともかくそういう感じのところで、いささかのものたりなさを感じて、ぼくはなんとなく不機嫌になった。
 そのときにきいたのは「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」(オルフェオ 32CD10106)というディスクであった。このディスクは、このところ、なにかというときいている。オッフェンバックの「ジャクリーヌの涙」をはじめとした選曲が洒落ているうえに、あのクルト・トーマスの息子といわれるウェルナー・トーマスの真摯な演奏が気にいっているからである。録音もまた、わざとらしさのない、大変に趣味のいいものである。
 これまでなら、すーっと音楽にはいっていけたのであるが、そのときはそうはいかなかった。なにか、違うな。音楽をきこうとする気持が、音の段階でひっかかった。本来であれば、響きの薄い部分は、もっとひっそりとしていいのかもしれない。などとも、考えた。そのうちに、イライラしだし、不機嫌になっていった。
 理由の判然としないことで不機嫌になるほど不愉快なこともない。そのときがそうであった。先日までの上機嫌が、嘘のようであったし、自分でも信じられなかった。もんもんとするとは、多分、こういうことをいうにちがいない、とも思った。おそらく昨日まで美人だと思っていた恋人が、今日会ってみたらしわしわのお婆さんになっていても、これほど不機嫌にはならないであろう、と考えたりもした。
 しかし、その頃のぼくは、自分のイライラにつきあっている時間的な余裕がかった。一週間ほどパリにいって、ゴールデン・ウィークの後半を東京で仕事をして、さらにまた一週間ほどウィーンにいかなければならなかった。パリにもウィーンにも、それなりの楽しみが待っているはずではあったが、しわしわのお婆さんになってしまっている自分の部屋の音のことが気がかりであった。幸か不幸か、あたふたしているうちに、時間がすぎていった。
 そして、あれこれあって、ルフトハンザ・ドイツ航空の701便で成田につき、怪盗M1の挑戦状。
「どうですか、この音は? ムフフフフ!」を目にしたことになる。
「ちょっとひっかかるところがあるんだがな。もうすこしローレベルが透明になってもいいんだがな。」、と捨てぜりふ風なことを呟きながら一度は帰ったM1の、「どうですか、この音は? ムフフフフ!」、であった。ここは、やはり、どうしたって、褌をしめなおし、耳を2Hにし、かくごしてきく必要があった。
 翌日、朝、起きると同時にパワーアンプのスイッチをいれ、それから、おもむろに朝食をとり、頃合をみはからって、自分の部屋におりていった。
 ぼくには、これといった特定の、いわゆるオーディオ・チェック用のコンパクトディスクがない。そのとき気にいっている、したがってきく頻度の高いディスクが、そのときそのときで音質判定用のディスクになる。したがって、そのときに最初にかけたのも、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であった。
 ぼくは、絶句した。M1に負けた、と思った。
 スピーカーの試聴の後で、菅野さんや傅さんとお話ししていて、ぼくは自分で思っていた以上に、スピーカーからきこえる響きのきめ細かさにこだわっているのがわかった。もともとぼくの音に対する嗜好にそういう面があったのか、それとも、人並みに経験をつんで、そのような音にひかれるようになったのかはわかりかねるが、そのとき、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6で、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」をきいて、ぼくは、これが究極のコンポーネントだ、と思った。
 また、しばらくたてば、スピーカーは、アクースタットのモデル6より、アポジーの方がいいのではないか、と考えたりしないともかぎらないので、ことばのいきおいで、究極のコンポーネントなどといってしまうと、後で後悔するのはわかっていた。にもかかわらず、ぼくはソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」に、夢見心地になり、そのように考えないではいられなかった。
 ぼくのオーディオ経験はごくかぎられたものでしかないので、このようなことをいっても、ほとんどなんの意味もないのであるが、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6できいた音は、ぼくがこれまでに再生装置できいた最高の音であった。響きは、かぎりなく透明であったにもかかわらず、充分に暖かく、非人間的な感じからは遠かった。
 静けさの表現がいい、などといういい方は、オーディオ機器のきかせる音をいうためのことばとして、いくぶんひとりよがりではあるが、そのときの音に感じたのは、そういうことであった。すべての音は、楽音が楽音たりうるための充分な力をそなえながら、しかし、静かに響いた。過度な強調も、暑苦しい押しつけがましさも、そこにはまったくなかった。
 ぼくは、気にいりのディスクをとっかえひっかえかけては、そのたびに驚嘆に声をあげないではいられなかった。そうか、ここではこういう音の動きがあったのか、と思い、この楽器はこんな表情でうたっていたのか、と考えながら、それまでそのディスクからききとれなかったもののあまりの多さに驚かないではいられなかった。誤解のないようにつけくわえておくが、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音にふれて、そこできけた楽器や人声の描写力に驚いたのではなく、そこで奏でられている音楽を表現する力に驚いたのである。
 したがって、そこでのぼくの驚きは、オーディオの、微妙で、しかも根源的な、だからこそ興味深い本質にかかわっていたかもしれなかった。オーディオ機器は、多分、自己の存在を希薄にすればするほど音楽を表現する力をましていくというところでなりたっている。スピーカーが、あるいはアンプが、どうだ、他の音をきいてみろ、と主張するかぎり、音楽はききてから遠のく。つまり、ぼくは、ソニーのCDP-R1+DAS-R1~チェロのアンコール~チェロのパフォーマンス~アクースタットのモデル6のきかせる音をきいて感動しながら、そこでオーディオ機器として機能していたプレーヤーやアンプやスピーカーのことを、ほとんど忘れられた。そこに、このコンポーネントの凄さがあった。
 こうなれば、もう、ひっこみがつかなかった。まんまと落とし穴に落ちたようで、癪にはさわったが、ここは、どうしたってM1に電話をかけずにいられなかった。目的は、あらためていうまでもないが、留守の間においていかれたソニーのCDP-R1+DAS-R1とチェロのアンコールを買いたい、というためであった。
「ソニーのCDP-R1+DAS-R1はともかく、チェロのアンコールはご注文には応じられませんね。」
 M1は、とりつく島もない口調で、そういった。
 M1の説明によると、チェロのアンコールの輸入元は、すでにかなりの注文をかかえていて、生産がまにあわないために、注文主に待ってもらっている状態だという。ぼくの部屋におかれてあったものは、輸入元の行為で短期間借りたものとのことであった。事実、ぼくがチェロのアンコールをきいたのは、ほんの一日だけであった。その翌日の朝、薄ら笑いをうかべたM1が現れ、いそいそとチェロのアンコールを持ち去った。
「いつ頃、手にはいるかな?」
 M1を玄関までおくってでたぼくは、心ならずも、嘆願口調になって、そう尋ねないではいられなかった。
「かなり先になるんじゃないですか。」
 必要最少限のことしかしゃべらないのがM1の流儀である。長いつきあいなので、その程度のことはわかっている。しかし、ここはやはり、なぐさめのことばのひとつもほしいところてあったが、M1は、余計なことはなにひとついわず、けたたましい騒音を発する車にのって帰っていった。
 しかし、ソニーのCDP-R1+DAS-R1は、残った。プリアンプをマークレビンソンにもどし、またいろいろなディスクをきいてみた。
 ソニーのCDP-R1+DAS-R1がどのようなよさをもっているのか、それを判断するのは、ちょっと難しかった。これは、束の間といえども大変化を経験した後で、小変化の幅を測定しようとするようなものであるから、耳の尺度が混乱しがちであった。一度は、M1の策略で、プリアンプとCDプレーヤーが一気にとりかえられ、その後、CDプレーヤーだけが残ったわけであるから、一歩ずつステップを踏んでの変化であれば容易にわかることでも、そういえば以前の音はこうだったから、といった感じで考えなければならなかった。
 しかし、それとても、できないことではなかった。これまでもしばしばきいてきたディスクをききかえしているうちに、ソニーのCDP-R1+DAS-R1の姿が次第にみえてきた。
 以前のCDプレーヤーとは、やはり、さまざまな面で大いにちがっていた。まず、音の力の提示のしかたで、以前のCDプレーヤーにはいくぶんひよわなところがあったが、CDP-R1+DAS-R1の音は、そこでの音楽が求める力を充分に示しえていた。そして、もうひとつ、高い方の音のなめらかさということでも、CDP-R1+DAS-R1のきかせかたは、以前のものと、ほとんど比較にならないほど素晴らしかった。しかし、もし、響きのコクというようなことがいえるのであれば、その点こそが、以前のCDプレーヤーできいた音とCDP-R1+DAS-R1できける音とでもっともちがうところといえるように思えた。
 なるほど、これなら、みんなが絶賛するはずだ、とCDP-R1+DAS-R1できける音に耳をすませながら、ぼくは、同時に、引き算の結果で、マークレビンソンのML7Lの限界にも気づきはじめていた。はたして、M1は、そこまで読んだ後に、ぼくを罠にかけたのかどうかはわかりかねるが、いずれにしろ、ぼくは、今、ほんの一瞬、可愛いパパゲーナに会わされただけで、すぐに引き離されたパパゲーノのような気持で、M1になぞってつくった少し太めの藁人形に、日夜、釘を打ちつづけている。

アキュフェーズ DP-80 + DC-81

菅野沖彦

ステレオサウンド 79号(1986年6月発行)

「興味ある製品を徹底的に掘り下げる」より

 CDプレーヤーが誕生して、今年は4年目を迎える。正確な数字ではないが、この間、恐らく30社以上のブランドが200機種に余るプレーヤーを製造して売り出したと思われる。そして、CDソフトのほうも急速に充実が計られ、今年中には12000種に及ぶものと見込まれている。オーディオコンポーネントの中で、CDプレーヤーは今、もっとも注目されている花形であり、やや低調気味なオーディオ業界の救世主のような存在である。レコード会社のレコードの売り上げも、ここ数年低迷を続けてきたが、CDの出現のおかげで、総売り上げで約2%、ほんの少しではあるが前年増となっている。前年減のくり返しが続いたことを思えば、これは明るいニュースに違いない。
 エジソン以来100年余りのレコードの歴史の中で、このCDの登場は、アコースティックが電気に変わったこと以上に、画期的な技術革新と言ってよいものだと、ぼくは思う。いろいろな技術革新が続いた。蠟管から円盤、縦振動から横振動、機械録音から電気録音、SPからLP、モノーラルからステレオ、テープレコーダーの発明と普及etc、全て大きな技術革新と成果だが、それらがもたらしたショック以上に大きなショックを、CDの登場はもたらしたと思うのだ。しかし角度を変えて見れば、従来のイノヴェイションが、使い手側にとって、常にある程度のコンパチビリティをもってスライド式に発展出来たり、あるいは原理的には相似式記録方式……つまりアナログ方式の発展という形で推移したのに対して、CDはソフト、ハード共にコンパチビリティは全くなく、符号式記録……つまりデジタル方式という全く異なる原理の上に成り立つという純粋に新しい方式の登場であるだけに、混乱は少なかったともいえる。
 今まで、ハイファイオーディオのメインプログラムソースであったステレオレコード(アナログディスク)と並行してCDが存在することになったわけであり、すでに膨大なレパートリーとなったアナログディスクが、一挙に無用の長物になったわけではない。それどころか、アナログディスクのもつよさは、CDに対しても高く評価する人が大ぜい存在するし、オーディオホビィに関しては、アナログプレーヤーのもつ精妙な曖昧性が、人の頭と腕を使う領域を多く残し、知識や経験、そしてセンスの生かせる趣味の本質を包含する魅力において、優位性をもっていることも言えるだろう。
 何ら手を施す余地のないブラックボックス的存在のCDプレーヤーは、この点だけでは、たしかに面白くない存在である。CDプレーヤーの登場は明らかに、先進テクノロジーが現代文化に及ぼしている様々な諸現象と同質の影響をレコード音楽とオーディオの領域に持ち込んだものであり、全面的に美徳をたたえるわけにはいかない。しかし、この技術の成果は、さらに大きな可能性をもたらし、レコード音楽とオーディオのレベルを向上させたものであることは間違いないし、先述の、人の趣味性に関しても、新たな世界を創造する力を秘めているとも思われる。この面では現在は未だ、その発展の過渡期であると思うのである。
 CDおよびCDプレーヤーの、この4年間の推移を見ていると、たしかに急速に普及し、多くの音楽愛好家を楽しませているようだが、残念ながら、従来からの他のオーディオコンポーネントに比して、中級以下のものにメーカーの力が入り、ハイエンドユーザーの心や要求を満たす製品分野は弱い。そもそも、デジタルテクノロジーは、ちゃんと動作すれば出てくる音に違いは生じないという、浅はかな考え方が喧伝され過ぎたようである。そして、また、そこそこの機械から出てくる音の水準は、同クラスのアナログプレーヤーに比べれば、はるかに高く、作る側も使う側にも、これで十分というような安易な満足感が生まれがちである。メーカーにとってみれば、コストダウンが、アナログ系の機械のように、如実に音の悪さとして出てこないCDプレーヤーはありがい。なんといっても安いものは数多く売れる。質より量でいくほうが適した面のある製品ともいえる。高度なテクノロジーによる製品ではあるが、きわめて量産向きの製品でもあるので、こうした特質が、まず活用された。安い価格でクォリティのよい音をという大義名分と共に、価格蓉争という傾向にまっしぐらに向かってしまったようである。当然、熱心なオーディオファイルがこういう状況下におけるCDプレーヤーに満足するはずはなく、一部の真面目な音質追求派の人達の間においては、むしろCDへの反感さえ生まれたように思えるのである。本誌で、ぼくが訪問しているベストオーディオファイルの諸氏のような熱心なファンの間で、CDを取り入れている例は極めて少ないのに驚かされる。こうした、いわばオーディオファイルのエリート達のCDの所有率は数%であろう。CDの全般的な普及率からすると、異常に低いといってよいと思う。
 一方、ぼくを初め、ぼくの周囲のオーディオの専門家達の間では、100%の普及率といってよい。仕事上当然の事と思われるかもしれないが、必ずしもそうではなく、個人として楽しむ時間でも、CDをプレイすることが多いのである。アナログディスクとCDとの演奏時間の割合は、半々か、ややCDのほうが多いというのが実状だと思う。これに関して分析を始めると長くなってしまうのでやめておくが、CDの実体は、多くのオーディオファイルの間で正しく認知されていないことは確かである。それには、こうした熱心なオーディオファイルが、本気になって取り組む気を起こさせるCDプレーヤーが少ないことが、大きな原因の一つのように思うのだ。
 こうしたバックグランドの中で、期待を担って登場したのが、ここに御紹介するアキュフェーズのセパレート型CDプレーヤー、DP80とプロセッサーDC81のシステムである。アキュフェーズは今さら御説明するまでもなく、日本のアンプ専門メーカーとして、創業以来、質の高いオーディオ技術と、自らオーディオを愛してやまない信条の持ち主たちの集団により、数々の優れた製品を生んできた。量産量販の体質を嫌い、本来のオーディオのあり方を反映させるべく、生産販売一貫して専門メーカーらしい努力を続け、ファンの間で高い信頼をもって迎えられている。多くのメーカーが、大型化したことにより招いた諸々の問題点を教訓として、ユーザーと共に真にオーディオを楽しめるメーカーという印象をぼくは持っている。社長の春日二郎氏、副社長の出原眞澄氏をはじめ、社員全員がオーディオファイルという感じである。それでいて、立派に経営の基礎を作り、堅実に成果を上げていることが喜ばしい。単純にいって、社員一人当りの売り上げは大きく、効率のよい優良企業である。『自らが納得するものを作り、その製品の理解者に買ってもらう』という、メーカーとしての根本的な本質をわきまえた企業なのだ。売れるものだけを作る……、あるいは、売れないものでも売ってしまう……といった経営哲学がぼくは大嫌いである。もちろん、自らが納得するものという意味には幅がある。人様々、そして、その納得するものもまた様々であるからだ。
 こういうアキュフェーズからCDプレーヤーが出るという話を耳にして以来、ぼくは、ひたすら、その登場を待ち続けていた。2年にはなるだろう。アキュフェーズでは、CDが産声をあげた頃から、このシステムのもつ優れた特質に眼を向け、研究開発に怠りがなかったようだ。第1号機の本機の誕生には3年の開発期間をかけたそうだ。今春、初めて本機に接し、その音を自宅のシステムで聴いたのだが、一聴して、このCDプレーヤーのもつ音の品位の高さに胸を踊らせたのである。
 CDプレーヤーは、登場以来、当初の音は全部同じという前宣伝とはうらはらに、機種別の音のちがいに驚かされたものだった。そして、ほぼ半年おきに現れる新製品には明らかな音質改善が重ねられ、そこから、CDの音の大きな可能性を予感させられ続けてきたものだ。もともと、期待した以上に音がよかったというのも事実だが、それでも、初期のCDプレーヤーの音には、不自然でメカニカルな質感を強く感じたことが多かったものである。
 時を経るにつれ、各メーカーは、それぞれ独自の技術的な改良点をあげ、新製品をアピールし始めた。そのどれもが確かに音に現れ、音質改善の成果として認められたのである。あるメーカーは光学系にメスを入れ、別のメーカーはメカニズムの振動系に対策を施し、さらには、フィルター、コンバーター、ディグリッチャーなどのオーディオ回路に、あるいは基本的な電源や、伝送系のノイズ対策など、数えあげればきりがないほどの改良ポイントの発表があった。まさに各社各様、あちらこちらから、多くのアイデアが生まれ出てきたのである。この機械が、まあまあな音が出るという段階で見切り発車したものであることを証明するようなものだった。
「だから、いわないことじゃない。CD技術は十分研究所内で暖めて、もっともっと音楽再生装置としての微妙な点まで煮つめ、21世紀の新システムとして登場させればよかった。それまでは、世界のオーディオメーカー間のサミットで、現行のアナログで十分実をとるビジネスを続けるべきだ。しかも、アナログには、まだまだ技術開発の余地が大きく残されている。つまり、ビジネスとしても、技術開発としても、そしてユーザー達の幸せのためにも、そのほうがよい。そんなに急いでどこへ行く? 死に急ぐことはあるまいに……」
 これが、ここ数年間、ぼくが言い続けてきた言葉だった。だが、出てしまった以上、これは繰り言に過ぎない。繰り言をくり返しながら、ぼくは現実のCDとCDプレーヤーをアナログと並行して楽しみ、日に日によくなっていくこの世界の音の成果に、大きな期待を寄せてきたことも事実だったのである。
 このアキュフェーズのプレーヤーには、現時点までに各社によって試みられた多くの改良点と、音質の鍵となるポイントの攻めが全て盛り込まれているといってよいだろう。そして、それだけでなく、未だ、どのメーカーもがおこなっていない世界で初めての試みも見られる。つまり、アキュフェーズが独自に盛り込んだ努力だが、それらは、3年という開発期間をおき、よく技術の流れを観察し、情報を集め、音を聴き続けた成果にちがいない。アキュフェーズのCD開発室は賢明であった。そして多くのメーカーがやったように、他社へ製造を依頼してブランドだけをつけるというような商行為には眼も向けなかったのは立派だ。このメーカーとしては、そうする必要もなかったのだろう。自らが納得の出来るものを作るまで、じっくりねばっていたのである。
 それでは少し具体的に、このDP80/DC81コンパクトディスクプレーヤーシステムについて述べてみよう。
 まず外観から。シャンペンゴールドのアキュフェーズアンプと共通のパネル仕上げをもつ。どういうわけだか、黒パネルばかりのCDプレーヤーの中にあって、これは全く、そうした世間の動向に左右されず、しかも、堂々と自社のアンプとのシリーズ・デザインとしたところもこのメーカーらしい。プレーヤー部DP80を一目見れば、その操作系が、きわめてシンプルであることに気づくだろう。スイッチは最小限に整理され、プレイ、トラック、サーチ2個、ポーズ、そしてトレイのオープン/クローズだけである。ストップはトレイスイッチに兼用させているらしい。もちろん、これでは、あまりに機能がシンプル過ぎるが、実はたいへんな多機能である。それらの操作スイッチは、全て蓋つきのサブパネル内に収められているのである。これみよがしに10キーがずらりと並び、マイコンルックのプレーヤーが多い中で、このコンセプトはユニークであり、かつ、レコードを聴くものの心に寄り添う心配りとも感じられるのである。プロセッサー部DC81も同じデザインであるのはもちろん、両者共に、これもアキュフェーズ・イメージとして定着したパーシモンの側板つきである。
 プレーヤー部とプロセッサー部は、統一規格の75Ωフォノジャックで結合される他、専用のオプティカル・カップリングが設けられている。そして出力は50Ωのバランス型のキャノンプラグと、アンバランス型のフォノジャックが固定出力、可変出力の2系統、合計3系続設けられている。両方共、脚には真ちゅうムク材の削り出しが使われている。プレーヤー部はもちろん、リモートコントロールコマンダー付属である。どちらも重厚で剛性の高い作りと防振対策が入念に施され、目方は、並のCDプレーヤーより桁違いに重く、ずっしりとくる。見るからに高級プレーヤーとしての質感もあり、これならば、かなりのオーディオファイルにとって、第一関門をパスできる風格ではないだろうか。時間的に経済的に、そして情熱を傾けて完成したオーディオシステムのメインプログラムソースとして、チューナーかカセットデッキの安物と見間違うような軽薄なCDプレーヤーを組み込む気になれるはずがない。はっきり言って、ぼくのシステムのなかで49、800~69、800円のCDプレーヤーを常用しろといわれても無理である。価格だけにこだわるのは愚かかもしれないが、ものにはバランスというものがある。数百万円のシステムのメインプレーヤーが、49、800円とはいかないまでも10万円そこそこということに、何のアンバランスも感じないような人間がいるだろうか? もし、CDプレーヤーというものが、49、800円以上のコストは無駄で、よりよくしようがないとしても、本気になって使う気がしないだろう。ましてや現実はまだまだ音のよいCDプレーヤーを作り得る可能性がはっきりしているのだから。オーディオファイルの心を満たすCDプレーヤーは、必然性をもったハイ・プライス……つまり、内容、外観、価格が、自然にそのものの価値観とバランスする製品でなければならないと思う。この機械は、先ず、この第一の条件を適える製品として評価出来る。
 さて、中身についてだが、トレイの動作を含むアクセスは第一級と折り紙をつけてよい。出入りの速さ、フィーリング、アクセスタイムのスピードと確実性、そして、リニアモーター使用のレーザーピックアップ系、そのメカニズムは定評のあるS社製だろう。アキュフェーズからは確認がとれないが、まず間違いあるまい。現在、もっとも優れたメカニズムである。アキュフェーズのようなメーカーにとって、こうしたパーツが提供されることは幸せであり、提供したS社の姿勢も好ましい。ここ当分、このメカ系を世界の高級CDプレーヤー各社に提供することを勧めたい。と同時にまた、さらにこれを上廻るメカニズムの開発をも期待したいものだ。
 このシステムの最も特徴となるところはD/Aコンバーターである。CDプレーヤーの音質を左右するファクターは無数にあるといってよく、そのトータルバランスが音に出ると思われるが、デジタル信号をアナログ信号に変換するD/Aコンバーターが、中でも重要な位置を占めることは明らかである。本機では、16ビットのD/Aコンバーターを、既成のICを使うことなく、世界で初めて、ディスクリートによって構成した。これによって理論値に近い実動作の達成を目指したものである。これだけで音質を云々することは危険だが、このシステムの音質の優れた要因として、このコンバーターの存在は大きいものと思われる。
 また、アキュフェーズというメーカーは、アンプ専門メーカーであるが、チューナー技術に関して第一級のレベルを誇ってもいる。確かに、もともと同社の社長、春日二郎氏は、高周波専門の技術者であり、トリオ(現ケンウッド)の創始者である。そのバックグランドからして、アキュフェーズが優れたチューナーを作っていることは領けるであろう。こうした高周波チューナー技術のキャリアは、デジタル信号のもつVHF帯域の扱いに関して活きないわけはない。CDプレーヤーにとって、これらのデジタル信号の不要成分は全て有害なノイズであり、オーディオ信号を攪乱して音質劣化させる悪さをする。
 フォトカプラーや光伝送はそうしたことに対する方式として使われ始めたのだが、本機においても、その技術がよく生かされ、デジタル部とアナログ部は34個の高速オプト・アイソレーターによって電気的に分離されながら信号の伝送をおこなっているし、プレーヤー部とプロセッサー部にも標準仕様の同軸ケーブルの他に、専用の光伝送方式を採用し、ユーザーが選択使用出来るようになっている。他のプロセッサーとの組合せにはともかく、このシステムの結合には、光ファイバーによる場合のほうが音質的に優利であり、両者の比較をやってみたが、光ファイバー結合のほうが音に一種の滑らかさが感じられるようだ。
 D/Aコンバーターは左右独立、またその前に高域不要成分のカットに挿入されるローパスフィルターも、左右独立の2倍オーバーサンプリング方式のデジタルフィルターとしている。前段がデジタル・ローパスフィルターだと、カット周波数の下限が高くとれるため、サンプリングホールド後のローパスフィルターは負担が軽くなり、現在はデジタルフィルターが主流になっている。とはいうものの、後段のローパスフィルターは、スプリアス成分のカットという本来の目的だけではなく、フィルターによってアナログ信号の音色が異なるようだ。本機では、アクティヴタイプの9次バタワース型フィルターを採用している。リップルの少ないバタワース型で、9次のものを使って減衰特性を確保しているのであろう。
 他にチェビシェフ型、ベッセル型などのフィルターがあるが、この辺の選択は音質に対する鋭敏な耳で決めるのが最終的な決め手となるのではないだろうか。因みに減衰特性ではチェビシェフ型、位相特性ではベッセル型、帯域内リップルではバタワース型が優利ということになっている。
 なお本機のローパスフィルターは、ディスクリートで、その後にディエンファシス回路、バッファーアンプと続くが、そのゲインは0dBでDCカスコード・プッシュプルというアキュフェーズらしいもので、バッファーからの出力端子は直結である。
 電源部はデジタルとアナログはもちろん、LRも分離、またプリントボードもLR独立構成とするなど、内部の構成はきわめて整然として美しい。外観と内容がマッチしたオーディオファイルに認められる風格をもったCDプレーヤーシステムといえるだろう。
 ゴールデンウィークの期間、ぼくは自宅で、このCDプレーヤーシステムで数多くのCDを聴いた。音が分厚くて密度が高く、重厚である。それでいて、透明度が高く、聴感上のS/Nがすこぶるよい。面白かったのは、この艶と輝きやその質感は明らかにアキュフェーズ・アンプに一貫したものであったことだ。CDプレーヤーにも人が出る。メーカーが出る。全く他のオーディオコンポーネントと変わらない。実に興味深いことである。
 CDプレーヤーは音が冷たいとか、固いとか、あるいは、弦がキンキンしてメカニカルだといった声が聞かれる。しかし、このプレーヤーで聴いた、オリジナルがアナログ録音のレーグナ一指揮ベルリン放送管弦楽団のマーラーの交響曲第3番、第6番が入った3枚組のCDアルバムは、そんな風評とは無縁の素晴らしい音であった。この2曲はアナログディスクでも持っているが、このドイツ・シャルプラッテンの録音は、アナログ録音の最高峰といってよい優れたものだ。そこに聴かれる弦のしなやかでくすんだ音色の妙、ブラスの輝きと重厚さなど、各楽器の質感の再現は実に見事なものだ。そして、これがCDでもちゃんと聴かれたのである。
 改めて、最近SMEシリーズVを取り付けた、自宅のトーレンスのリファレンスで(カートリッジはオルトフォンMC20スーパー)、アナログディスクを聴いてみた。そして、CDがハイファイメディアとして素晴らしいものであることを再確認したのである。むろん、違いはなくはない。ノイズがちがうだけでも音色の印象は変わる。伝送系の違いがこれほどあって、寸分違わぬ音がするわけはない。しかし、CDは弦がキンキンするとか、何か情報が欠落するといったような表現は当たらない。CDで弦がキンキンするとしたら、まず、そのCDのオリジナル録音と製造プロセスを疑うべきだ。このマーラーのようにオリジナルの録音のよいものは、CDでもちゃんとよさが出る。次にその特定のCDプレーヤーの問題となる。たしかにプレーヤーによってはかなり大きな差があるのだから……。
 ごく限られた経験だけで、CDはこうだと決めるのは、乱暴過ぎる。情報が欠落しているようだというのもよく聞かれる不満であるが、これもー概には言えない。むしろ情報量が多いともいえるぐらいだ。だいたいにおいて、情報が欠落しているという人の多くは、アナログディスクが、再生系の機器を含めて創生する、情報ノイズや位相差成分などの、微妙な歪に慣れ親しんでいる場合が多いようである。しかもそれが、情緒性としてその人にとって美しく快いとあれば、否定し去るわけにはいかないのが、この世界の面白さであり難しさでもある。
 こんなことを書いて憚らない気にさせてくれたのが、このアキュフェーズのDP80とDC81のCDプレーヤーシステムであった。
 CDの世界は、オリジナル録音から再生システムまでの全プロセスにおいて、今後、まだまだよくなる可能性をもっている。

ぼくのCDプレーヤー選び顚末記

黒田恭一

ステレオサウンド 78号(1986年3月発行)
「ぼくのCDプレーヤー選び顚末記」より

 ことの顛末をわかっていただくためには、まず、ぼくにとりついている二匹の小悪魔のことについておはなしすることから始めないといけないようである。一方の小悪魔を仮にM1と名付けるとすれば、もう一方の小悪魔はM2である。M1は本誌の編集をしている黛さんである。このM1がなぜ小悪魔なのかは、後でゆっくり書く。M2は本誌で「音楽情報クローズアップ」を書いている諸石幸生さんである。諸石幸生さんは、これまた、ディスクの買いっぷりのよさでは尋常とはいいがたい。さる友人をして、諸石さんは、ぼくのディスク買いの師匠だ、といわせしめたほど、諸石さんは、非常によく(オーディオとビジュアルの両方のディスクを買う。買ってひとりで楽しんでいるだけならいいのであるが、彼はそれを自慢する。こんなディスクを「WAVE」でみつけてきましてね、っていったような調子で。
 そのような諸石さんであるから、「音楽情報クローズアップ」のような記事も書けるであろうし、NHK・FMの「素顔の音楽家たち」のような思いもかけない素材を有効に使ったユニークな番組もやっていられるのであろうが、傍迷惑なことに変わりはない。こんなディスクをみつけてきましてね、などといわれれば、やはり気になり、時間のやりくりをして、件のディスクを買い求めるべく、しかるべきレコード店を走りまわることになる。しかも、悔しいことに、そのようにして彼に教えてもらうディスクが、いつもきまって面白いから、始末が悪い。
 とはいっても、M2の諸石さんは、M1に較べれば、罪が軽い。M1は困る。できることなら、藁人形を太めに作って、夜毎、釘でも刺したい気分である。たとえそののかされたあげくに、多少の出費をしたとしても、M2の場合には、額もしれている。M1の場合には、そうはいかない。それで、できるだけM1には会わないようにしているのであるが、しばらく会わないでいると、なんのことはないこっちから声をかけたくなったりして、墓穴を掘ることになる。このことを認めるのはいかにも面妖ではあるが、もしかするとぼくは、この二匹の小悪魔を、自分でも無意識のうちに愛してしまっているのかもしれない。
 ともかく、今回のことは、こんな感じの、M1の電話での言葉から、始まった。どの程度のコンパクトディスク・プレーヤーを買ったらいいか、といったようなことを誰かに相談されたりしません?
 その言葉をきいて、ぼくは、一瞬、ぎくりとした。さすがに小悪魔で、M1は、ぼくの私生活まですべてしっているのではないか、と思ったからである。「相談されたりしません?」どころのはなしではない。このところしばらく、誰かに会えば、ほとんどかならずといっていいほど、その質問をぶつけられている。そのような質問をする人の大半は、間違っても「ステレオサウンド」を読んでいるとは思えない。つまりオーディオの、よく使われる言葉でいえば、ホワイトゾーンの人たちで、なんらかの理由でぼくがオーディオの事情につうじていると買い被っての、その質問のようであった。
 自分でも考えあぐねていることについて適切なことがいえるはずもなく、言葉を濁したりすると、それを謙遜ゆえと誤解されて、収拾がつかなくなょたことも、再三ならずあった。コンパクトディスク・プレーヤーは、さしずめ発展途上機器であるから、育ちざかりの子供のように、すぐに去年の自分を追い越していく。したがって、どの程度のコンパクトディスク・プレーヤーを買ったらいいのであろうかと考える気持は、たとえ高価な洋服を買ってやっても、来年にはもう身体に合わなくなって着られなくなるのかもしれないと心配しつつ、しかしせっかくの入学式であるから、よその子供にあまり見劣りしてもいかんしと、貯金通帳の残高を思い起こしながら迷う、どこかの善良な親父の気持に、どことなく似ている。
 M1の電話での件の言葉は、ぼくがこのところ、コンパクトディスク・プレーヤーの発展途上過程を把握していないことを読んでのものでもあった。したがって、どの程度のコンパクトディスク・プレーヤーを買ったらいいか、といったようなことを相談されたりしません? というM1の質問は、ひととおりのものをきいていれば、たとえ誰かに質問されたとしても、答えようがあるかもしれませんよと、言外にいっていた。さらに、その電話で、M1は、このようにもいった。たくさんだと、きき較べるのに時間もかかるから、いくつか、ぼくがこれはと思うものを選んでおきますから、都合のいいときに、きいてみませんか。
 なんのことはない、M1の電話は、誘い、誘惑、口説き、であった。悲しいかな、それほど刺激的な誘いをはねのけられるほど、ぼくの好奇心は衰えていなかった。手際のよさと迅速さは、小悪魔M1の美徳のひとつである。ふらっと揺らいだ間隙をつかれた。気がついたら、ある日、ぼくの部屋に、十機種あまりのコンパクトディスク・プレーヤーが運びこまれていた。目の前にあれば、きかずにいられない。さしせまっての仕事をそっちのけにして、嬉々としてきいた。楽しかった。コンパクトディスク・プレーヤー坊やの成長ぶりに、あらためて感動もした。なんとかファンドのコマーシャル・フィルムでの宣伝文句ではないけれど「一年もたつと、ずいぶん頼もしくなるのね!」といいたいところであった。
 一応、もし、誰かにどの程度のコンパクトディスク・プレーヤーを買ったらいいか、といわれたとしても困らない程度の勉強もした。M1は、なんと親切な男なのであろう、とあやうく感謝しそうになってしまったりもした。
 しかし、M1は、そうは甘くはなかった。どうです、きいた感想を、二十枚程度で書いてもらえませんか? ときた。楽しませてもらっただけで、嫌といえるはずもない。それで、これを書く羽目に陥った。
 ただ、ここでは、特に気に入ったものを中心に書くにとどめ、今回きいた機種名のすべてを書きつらねることは、差し控える。理由は、ふたつある。ひとつは、きいた機種がM1の個人的な判断によって選ばれたものに限られているからである。M1の耳は一級のものである。だからこそ、M1は小悪魔なのである。そのようなM1によって選ばれた機種であるから、当然、それらが水準をこえたものであることには間違いないと、ぼくは確信している。しかし、それを一般化しては、誤解を招くであろう。誤解される危険のあることは、できるだけ避けるべきである。もうひとつの理由は、ここでの試聴が、ぼくの部屋で個人的におこなわれたということに関係している。
 したがって、ここでの感想記は、M1という小悪魔にそそのかされたあげく、頓馬な音楽好きが自分の部屋できいて書いた、あくまでもプライヴェイトなものと、ご理解いただきたい。しかも、ぼくは、自分の部屋で、アクースタットのモデル6と、スタックスのELS8Xという、エレクトロスタティック型の、かならずしも一般的とはいいがたいスピーカーを使っている。ぼくの試聴した結果の判断を、あくまでも個人的なところにとどめたいと考える理由のひとつに、そのこともある。
 さて、今、誰かが、どの程度のコンパクトディスク・プレーヤーを買ったらいいか、とぼくに個人的な見解を求めた、としよう。すると、ぼくは、そこで、おもむろに、彼の現在使用中の機器を、尋ねる。さらに、彼がどの程度熱心に音楽をきく人間かを、彼とのこれまでのつきあいから判断して、彼に答えることになる。
 低価格帯の機器でもよさそうであるなと思えば、そこで薦めるのは、やはりマランツCD34である。音に対してのことさらの難しい要求がなければ、おそらく彼はこれで満足するに違いないし、このマランツCD34のきかせる、危なげのない、背伸びしすぎることのない賢い鳴りっぷりは、安心して薦められる。きいてみて、あらためて、人気があるのも当然と、納得した。
 その上ということになると、彼の好み、あるいは音楽の好みを、もう少し詳しくきくことになる。その結果、答はふたつにわかれる。彼が輪郭のくっきりした響きを求めるのであれば、NECのCD705である。その逆に、彼が柔らかい響きに愛着を感じるのであれば、ティアックのZD5000である。この二機種は、性格的にまったく違うが、そのきかせる音は、充分に魅力的である。たとえば、パヴァロッティのフォルテでのはった声の威力を感じさせるのは、NECのCD705である。しかし、ひっそりと呟くようにうたわれた声のなまなましさということになると、ティアックのZD5000の方が上である。
 というようなことをいうと、ティアックのZD5000が、力強さの提示に不足するところがあると誤解されかねないが、そうではない。たとえば、ウッド・ベースの響きへのティアックのZD5000の対応などは、まことに見事である。さる友人が、このティアックのZD5000の音について、実にうまいことをいった。彼は、このようにいったのである、なかなか大人っぽい音じゃないか、この音は。そのいい方にならえば、NECのCD705は、ヤング・アット・ハートの音とでもいうべきかもしれない。
 ところで、今回の試聴には、小悪魔M1でさえ見抜いてはいないはずの、隠された目的がひとつあった。たとえ誰にも相談されなくとも、ぼく自身が、今、この段階で、トップ・クラスのコンパクトディスク・プレーヤーがどこまでいっているのかをしりたいと思っていて、それによってはという考えも、まんざらなくはなかった。いや、M1のことである。その辺のぼくの気持などは、先刻、お見通しであったかもしれない。さもなければ、きかせてくれる機器のなかに、わざわざフィリップスLHH2000を入れたりはしなかったであろう。
 フィリップスLHH2000が専門家諸氏の間でとびきり高い評価をえているのはしっている。しかし、ぼくは、すくなくともぼくの部屋できいたかぎりでは、そのフィリップスLHH2000のきかせてくれる音に、ぼくのコンパクトディスクをきくというおこないをとおしての音楽体験をゆだねようとは思わなかった、ということを、正直にいわなければならない。
 たしかに、このコンパクトディスク・プレーヤーのきかせる音には、いわくいいがたい独特の雰囲気がある。しかも、その音には、充分な魅力があることも、事実である。フィリップスの本社がオランダにあるためにいうのではないが、フィリップスLHH2000のきかせる響きには、あのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のふっくらと柔らかい響きを思い出させるところがある。さらに、そういえば、といった感じで思い出すのは、フィリップス・レコードの音の傾向である。フィリップス・レコードの音も、とげとげしたところのまったくない、柔らかい音を特徴にしている。厭味のない、まろやかで素直な音が、フィリップス・レコードの音である。そのことがそのまま、このコンパクトディスク・プレーヤーの音についても、あてはまる。
 ただ、たとえ、ひとつのオーケストラの響きとしては、あるいはひとつのレコード・レーベルの音としては、充分に魅力のあるものであったとしても、それが再生機器の音となると、いくぶんニュアンスが違ってくる、ということもいえなくもない。結果として、ききては、すべてのディスクをそのプレーヤーに依存してきくことになる。そこにハードウェア選択の難しさがある。
 フィリップスLHH2000をアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団にたとえたのにならっていえば、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESはシカゴ交響楽団である。
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、ハイティンクが指揮をしても、デイヴィスが指揮をしても、あるいはバーンスタインが指揮をしても、いつでも、ああこれはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団だなと思わせる響きをもたらす。シカゴ交響楽団は、その点で微妙に違う。オーケストラとしての、敢えていえば個性を、シカゴ交響楽団は、かならずしもあからさまにしない。そのためといっていいかと思うが、シカゴ交響楽団によって音にされた響きは、音楽における音がそうであるように求められているように、徹底して抽象的である。音色でものをいう前に、音価そのもので音楽を語るというようなところが、シカゴ交響楽団の演奏にはある。
 音楽は、ついに雰囲気ではなく、響きの力学である。これは、おそらく、おのおののききての音楽のきき方にかかわることと思えるが、ぼくは、あくまでも、その音楽での音のリアリティを最優先に考えていきたいと思っている。その結果、ぼくは、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団的コンパクトディスク・プレーヤーではなく、シカゴ交響楽団的コンパクトディスク・プレーヤーに、強くひかれることとなった。
 ぼくの部屋の周辺機器とのマッチングの問題もあろうかとも思うが、フィリップスLHH2000でも、もっと鮮明にきこえてもいいのだがと思うところで、いくぶん焦点が甘くなるところがあった。その点で、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESは、ちょうどシカゴ交響楽団によって響かされた音がそうであるように、ごく微弱な音であろうと、いささかの曖昧さもなく、明快に、しかも明晰に響いていた。
 さまざまなディスクを試聴に使ったが、そのうちの一枚に、パヴァロッティのナポリ民謡をうたった新しいディスクがあった。パヴァロッティは大好きな歌い手なので、これまでにも、レコードはもとより、ナマでも何度もきいているので、その声がどのようにきこえたらいいのかが、或る程度わかっている。しかもこの新しいディスクは、このところ頻繁にきいているので、これがどのようにきこえるのかが、大いに興味があった。
 せっかくパヴァロッティの声をきくのであれば、あの胸の厚みが感じとれなければ、意味がない。ソニーのCDP553ESD+DAS703ESによるパヴァロッティの声のきかせ方は出色てあった。ほんものの声ならではの声が、光と力にみちて、ぐっと押し出されてくる。ぼくが音楽での音のリアリティを感じるのは、たとえば、このパヴァロッティの声のエネルギーが充分に示されたときである。それらしくきこえるということと、それとは、決定的に違う。
 パヴァロッティの声がシカゴ交響楽団にって音にされた、といういい方はいかにも奇妙であるが、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESできいたときに、パヴァロッティの声を凄い、と思えた。フィリップスLHH2000でのきこえ方は、なるほど美しくはあったが、すくなくともそこできこえた声は、パヴァロッティの胸の厚みを感じさせはしなかった。
 おそらく、オーディオ機器のきかせる音についても、愛嬌といったようなことがいえるはずである。そのことでいえば、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESのきかせる音は、お世辞にも愛嬌があるとはいいがたい。しかし、考えてみれば、愛嬌などというものは、所詮は誤魔化しである。誤魔化し、あるいは曖昧さを極力排除したところになりたっているのが、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESの音である。
 ぼくは、まだしばらくは、音楽をきくことを、精神と感覚の冒険のおこない、と考えていきたいと思っている。そのようなぼくにとって、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESのきかせる、ともかくわたしは正確に音をきかせてあげるから、そこからあなたが音楽を感じとりなさい、といっているような音こそが、ありがたい。真に実力のある音は、徒に愛嬌をふりまいたりしない。ソニーのCDP553ESD+DAS703ESも、その点で例外ではない。
 一応の試聴を終えたところで、やはり、ぼくにとっては、ソニーのCDP553ESD+DAS703ESがベストだね、といったときに、M1は、それでなくとも細い目をさらに細くして、ニヤッと笑った。なにゆえの笑いか、そのときは理解できなかった。
 その後で、ひとりで、気になっているディスクをとっかえひっかえ、かけてみた。明日の朝は早く起きなければと思いながらも、それでもなお、読みかけた本を途中でやめることができず、ずるずると読みつづけてしまうことがあるでしょう。ちょうどあのような感じで、時のたつのも忘れ、さまざまなディスクをききまくった。もはやすでに試聴をしているとは思っていなかった。そこできこえる音に、ひいてはそこでの音楽のきこえ方に惚れこんで、好きな人と別れるのが辛くては一分のばしにはなしこむような気持で、ききつづけた。
 そうやってきいているうちに、あのM1の無気味な笑いの意味がわかってきた。あの野郎、今度会ったら、ただではおかない、首をしめてやる。
 シカゴ交響楽団で提示された響きに、ぼくの周辺機器が対応できない部分がある。パヴァロッティが胸一杯に息をすいこむと、ぼくのアンプは、まるでM1のシャツのようにボタンがはじけとびそうになる。ソニーのCDP553ESD+DAS703ESの提示する音がサイズLの体型だとすると、ぼくの周辺機器の音はMのようにかんじられる。ほかのたとえでいえば、つまり、シカゴ交響楽団の演奏を、客席一五〇〇程度のホールできいたときのような感じとでもいうべきかもしれない。
 かつて、ぼくは、シャルル・ミュンシュと来日したときのボストン交響楽団の演奏を、内幸町のNHKの第一スタジオできいたことがあるが、素晴らしい響きではあったが、さらに広い空間であれば、響きはさらにいきいきとひろがるであろうと、そのとき思ったりした。ソニーのCDP553ESD+DAS703ESでさまざまなディスクをきいているうちに、そのときのことを思い出したりした。
 M1は、くやしいかな、すべて、わかっていたのである。しかし、さすがM1である。いい耳しているなと、感心しないではいられなかった。あの無気味な笑いは、これのよさがわかったら、お前の周辺機器の客席数もふやさなければいけないよ、という意味だったのである。
 まことに残念であるが、M1は正しい。シカゴ交響楽団ことソニーのCDP553ESD+DAS703ESは、その徹底した音のリアリズムによって、ききてを、追いこみ、あげくのはてに、地獄におとす。しかし、考えようによっては、地獄におとされるところにこそ、再生装置を使って音楽をきく栄光がある、ともいえるであろう。精神と感覚の冒険から遠いところにあって、ロッキング・チェアに揺すられて、よき趣味として音楽を楽しむのであればともかく、さもなくば、いざ、M1よ、きみに誘われて、地獄をみようではないか。
 ディジタル対応などという言葉は、深くにもこれまで、オーディオメーカーの陰謀がいわせたものと思いこんでいたが、そうではなさそうである。使いこなしなどといった思わせぶりなことはいいたくないが、CDP553ESDの下にラスクをひいたり、あれこれ工夫しているうちに、シカゴ交響楽団はますますその本領を発揮してきて、ぼくはすっかり追い込まれてしまった。
 演奏家のおこない、つまり楽器をひいたりうたったりするおこないは、とかく美化されて考えられがちであるが、演奏もまた演奏家の肉体労働の結果であるということを、忘れるべきではないと思う。演奏もまた人間のおこないの結果だということを教えてくれる再生装置が、ぼくにとっては望ましい機器である。奇麗ですね、美しいですね、といってすませられるような音楽は、ついにききての生き方にかかわりえない。そのような音楽で満足し、自分を甘やかしたききては、音楽の怖さをしりえない。
 ソニーのCDP553ESD+DAS703ESは、その徹底した音のリアリズムによって、ききてに、演奏という人間のおこないの結果に人間を感じさせた。このようなきかせ方であれば、コンパクトディスクをきくというおこないをとおしての、ぼくの音楽体験をゆだねられる、と思った。

ケンウッド DP-2000

井上卓也

ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
「BEST PRODUCTS」より

 ケンウッドブランド・トップランクCDプレーヤーとして開発されたDP2000は、メカニズムとエレクトロニクスの技術が程よく調和した製品である。
 まず、筐体部分は、ボンネット部分、サイド部分が3mm厚の高剛性アルミ合金で作られ、とかく無視されがちの脚部も、DP1100IIを受継いだ吸着型タイプを採用するなど、かなり念入りに防振対策が行われている。
 電気的には、ディスクのキズやほこりに強く、高いトレース能力を両立させた独自のサーボゲインコントロール回路の採用、16ビット高性能デジタルフィルタ㈵とD/A変換後のアナログフィルターに音楽信号が余分な素子を通らないFDNR型5次バターワース型の採用をはじめ、サーボ系やデジタル系からの電源を通じての干渉を除く目的のD/Aコンバーター部専用トランスの採用などに特徴がある。
 機能面は、10キーによる任意のトラック、インデックスからの演奏、前後方向の頭出し、順方向と逆方向の早送りとキューイング、16曲のプログラムメモリーと区間メモリー、リピート機能、曲間の空白時間を4秒作るオートスペ−ス、次の演奏の頭で自動的にポーズするオートポーズや、1曲の経過時間、総経過時間、総残り時間の3種の時間表示などの一般的機能の他に、デジタルデータの段階で位相を180度反転させるインバート出力スイッチを備えているのは、メリディアンPRO−MCDのアブソリュートフェイズ切替と同様に非常にユニークな横能である。
 クラシック系、ジャズ系、ポップス系などのCDを用意して試聴を始める。あらかじめ電源スイッチはONとしてウォームアップさせていたが、ディスクをローディングして演奏を始めるとサーボ系の動作が安定化するまでの、いわゆる音の立上がりの傾向は、ソフトフォーカス型から次第に焦点がピッタリと合ってくる標準的な変化であり、約1分半ほどで本来の音となる。
 試みに、ディスクを出し入れして、ディスクのセンターリングの精度をチェックしてみた。これによる音の変化はかなり大きいが、現状としては平均的といえる。適度にサーボ系がウォームアップし、平均的なディスクのセンターリングの状況に追込んだときのDP2000の音は音の汚れが少なく抜けの良い一種独得の華やいだ若さと受取れる音が特徴である。この音の傾向は、リズミカルなジャズやポップス系のプログラムソースには好適のタイプだが、クラシック系とくにドイツ系のオーケストラの音を楽しむためには、適度に剛性が高い置台上にセットし、脚部と置台との間に各種の材料のスペ−サーを入れたりしてコントロールして使いたいシステムである。試みにヤマハのスピーカーチュー二ングキットを使ってみたが、音の変化はシャープで充分に調整は可能だ。

ヤマハ CD-2000W

井上卓也

ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
「BEST PRODUCTS」より

 ヤマハのCDプレーヤーは、自社開発の専用LSIの完成を待って出発するという、いかにもヤマハらしいユニークな製品づくりが目立つが、今回発売された新シリーズの7モデルは、そのラインナップから見ても、いよいよヤマハのCDプレーヤーが完成期を迎え、内容的にも一段と濃いものになってきたことを告げているようだ。
 ここで試聴したモデルは、型番に4桁のナンバーを持つCD1000、CD2000と2000Wの3機種中のトップモデルCD2000Wである。
 今回の一連の新製品開発は、機械的な振動とCDプレーヤーの音質との相関性を解くVMA(Vibrated Modulation AnalysiS=振動変調解析)手法の開発にはじまり、これに基づいてCDプレーヤー全体のメカニズム構造を検討し、各種の新発想による解決手段が施されていることに特徴がある。
 開発当初は、アコースティックな振動や機械的な据動に非常に強いといわれたCDプレーヤーであるが、ある程度電気系の完成度が高まるにつれ、予想以上にCDプレーヤーは振動に弱く、振動と音質の相関性を解明することが、効率よくCDプレーヤーの音質を向上する途であることが、メーカー側でも判ってきたようだ。
 このことをユーザー側から考えれば、CDプレーヤーは、アナログプレーヤー的にメカニズムの基本がしっかりしたものを選択すべきという、誰にでも判かる簡単なヒントを提供してくれたことになる。
 VMAに基づいて開発、採用されたものの代表は、VMスタビライザーと高剛性ダブルボトムがある。前者は、アナログ用基板の振動制御に銅メッキメタル製スタビライザーを組み合わせたもの。後考は、筐体の盲点である底板部分を二重構造として、重量と剛性を上げて防振対策をするものだ。
 電気系の特徴は、新開発3ビーム光ヘッドに新製品中唯一の球面ガラスレンズ採用、小型低消費電力化された二種の新LSI、新D/Aコンバーターと左右独立デジタルフィルターの他に、高級アンプ並みに低インピーダンス大容量電源など、高級機らしくヤマハのエレクトロニクス技術の成果を充分に活かした設計が見受けられる。
 機能面は、10キー・27モードのリモコンが付属し、可変出力端子とヘッドフォンをリモートコントロール可能。FL6桁表示ディスプレイは、パーグラフ出力レベル表示付、12曲プログラム選曲などがある。
 試聴を始めよう。初期のウォームアップ、CDのセンタリング精度などは標準的な範囲だが、本機の音は、素直な帯域バランスと正攻法でビシッと音を決めて聴かせる、いかにもヤマハらしい音だ。音の粒子は適度に細かく、聴感上のSN比も充分にあり、音場感、音像定位も優れる。アナログで培かったヤマハらしい音の魅力をCDで聴かせてくれる。これはよい製品である。

ソニー CDP-553ESD + DAS-703ES

井上卓也

ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
「BEST PRODUCTS」より

 ソニーのCDプレーヤーのトップモデルは、業務用を除き、CDP701、CDP552ESDに続き、第三世代の新製品CDP553ESDに交代することになった。これに伴い、CDセパレートシステム用のD/Aコンバーターユニットも第二世代のDAS703ESに置換えられた。
 まずCDP553ESDから眺めてみよう。基本型は、第二世代のCDP552ESDを受継いだハイスピード・リニアモーター・トラッキング・メカニズムに特徴があるが、機械的振動とCDプレーヤーの音質の相関性が検討された結果、光学ピックアップ駆動メカニズム系に、新開発のセラミック緩衝材を採用した『セラデッドシャーシ』の採用と電気系のデジタル回路からアナログ回路へのノイズ混入を防ぐフォトカップラーを使った光学式トランスファー方式の採用が大きなポイントである。
 CDプレーヤーのシャーシに、ディスク信号読取り時に機械振動が加わった場合、サーボ信号中のエラーが増加しサーボ補正電流を乱し、この影響が電源を介してオーディオ信号を劣化させるが、音質を向上するためには、振動しにくく、振動が起きても減衰の早い材料や構造をメカニズムに採用する必要がある。
 一般的に振動をコントロールするためには、ゴムなどの柔らかな材料を使い振動を吸収させる方法が行われるが、他に、異種材料を重ねて振動を制御する方法もあり、今回は、光学ピックアップ駆動メカニズムの金属シャーシをセラミック樹脂ではさみ込むアウトサート成形法を採用するとともに、CDディスクを支えるチャッキングアームにも、金属と樹脂の二重構造を採用し振動源を抑える方法がとられている。これに加えて、外部からの振動を防ぐ特殊なインシュレーターを使った防振構造までも採用されている。
 電気系で音質劣化の原因となるところはパルスを扱うだけに数多く存在するが、ここではデジタル系のジッター成分とビ−トノイズを減らすためにD/Aコンバーターのクロックを基準に全デジタル系の信号処理を行う『ユニリニアコンバーターシステム』の採用、左右チャンネル間の位相差を低減する左右チャンネル独立のD/Aコンバーター採用、デジタルフィルターと一次ディスクリート・アナログフィルターの併用などフィルター回路をはじめ、デジタル系とアナログ系電源を分離した6系統独立安定化電源や選び抜かれたオーディオパーツなど細部にいたるまでの音質重視設計が施されている。また、より高度な要求に応えるためのデジタルセパレートシステム用のデジタル出力端子も備えている。
 機能面は、20キーを使った20曲までのダイレクト選曲と20曲までのメモリーとRMS機能、5パターンが選べるフルリピート機能、内蔵のマイコンがランダムに演奏曲を選定するシャッフルプレイなどをはじめ、大型ディスプレイ上で選曲したトラックナンバーをグラフィックに表示するミュージックカレンダーなど、最先端をゆく多彩な機能は見事である。
 デジタルセパレート方式のためのD/AコンバーターユニットDAS703ESは、電気的に分離独立したデジタル部とアナログ部の間を光伝送方式で結ぷ新技術の採用による性能向上が計られ、CDP553ESDはもとより、新しくデジタル出力端子を設けたPCMプロセッサーPCM553ESDとも組み合わせ可能だ。また将来のシステムアップに対応したデジタルテープモニタ−端子を備え、サンプリング周波数は3種類の自動選択が可能である。
 CDP553ESDは、歴代のソ二−のトップモデルCDプレーヤーが、それぞれの時代のリファレンスモデルであったと同様に、性能、機能、音質、操作性など、どの点をとってもリファレンスモデルに相応しい傑出した内容を備えている。メカニズムの動きは節度感があり、正確で、かつ敏速に動作をする。まさに、キピキビとした小気味よい動きである。音の傾向は整然と整理された音を聴かせるソニータイプの典型であり、曲間でチェックする残留ノイズの質と量ともに、さすがに低く、見事の一語につきる。SN比が優れているために、音場感情報は豊かであり、CDディスクを出し入れしてセンターリングの精度を試してみると、音の差は少なく、これは機械的な精度の高さを物語るものだ。
 DAS703ESと併用すると一段と鮮度感の高いCDサウンドが楽しめる。価格的にはかなり高価だが、結果の音質向上はこれならではの音の世界というしかあるまい。デジタル系のコードは種類により音が大幅に変わるため標準コードを使いたい。

CDプレーヤーのベストバイ

菅野沖彦

ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
特集・
「ジャンル別価格別ベストバイ・362選コンポーネント」より

 CDプレーヤーは三つの価格帯に分けられている。進歩のプロセスにあるCDプレーヤーだけに、そのベストバイとしての価値判断は、やや特殊である。CDプレーヤーの価格差の意味が難しいからだ。今後、まだ大きな可能性のある分野であるだけに、高級機種について断定的な評価を下し難い気がする。かといって、低価格機とは歴然とした音の品位の差が存在するのも事実だから、今、どのクラスを買ったらいいかという判断が困難なのである。数年、あるいは、それ以下で、次の進歩が見られるなら、低価格機にしておこうという見方もあるだろう。僕としては、たとえ数年でも、よりよい音がするものを取りたい気持ちが強い。
 10万円未満のベストワンはマランツCD34である。これはCPからして抜群だ。戦略価格だからである。ユーザーは漁夫の利を得られる。本来なら10〜20万円のランクで通用する音だ。ソニーD50II+AC−D50はポータブル機器として、多機能発展型となり、この価格帯の代表機種である。テクニクスのSL−XP7+SH−CDA1も同じコンセプトながら、立派な音を聴かせる。デンオンDCD1100はよく練られた音で音楽的に自然で楽しめる音だ。この価格としては最も広く薦められる機種だと思う。この他、選外のほとんどの機種が、きわめて高いCPをもったもので、どれを買っても損はない……というのが、現在のCDプレーヤーの低価格帯の状況だと思う。
 10〜20万円となると、さすがに音質に魅力的なものが出てくる。オンキョーC700をベストワンとしたのは、その技術的興味で他を引き離している点からだ。光ファイバーによるデジタル信号の伝送を、このレベルで実現したのは立派だと思う。そのよさが音にも出ているが、中、低音の立体感にもう一歩の欲が残る。ケンウッドDP2000は確実な技術の積み重ねで音を練り上げた好製品。パイオニアのPD9010Xはメカニズムや音質の追求に細かい配慮をした結果が成果を上げ、豊かで澄んだ音が美しい。ローディDAD003は、セパレートタイプの普及モデルとして魅力的だ。ヤマハのCD2000は、明るく透明な響きが暖かい感触を失わず、快い響きをもったものだ。この他ソニーのCDP553ESDのきわめて透徹で精緻な音が魅力だ。
 20万円以上ではソニーのCDP553ESD+DAS703ESのセパレート型が前作を確実にリファインして現在のCDプレーヤーの高水準を示して立派。フィリップスLH2000はプロ機でアマチュア用としては無駄が多いが、CDの音のリファレンスが聴ける。ローディDAD001はベストワン。音の厚み、しなやかさは抜群だ。マッキントッシュとB&Oは、国産と一線を画す音とデザインで秀逸だ。