Category Archives: D/Aコンバーター - Page 2

ソニー DAS-R10

井上卓也

ステレオサウンド 121号(1996年12月発行)
特集・「ザ・ベストバイ コンポーネントランキング710選」より

 ディジタル入力信号の情報量を最大限に音として引出すことをD/Aコンバーターの理想とすれば、このDAS−R10は、文句なしに世界のトップに位置付けされる現時点での超弩級モデルだ。ただし、録音の良否には非常にシビアに反応するため、気軽に音楽を聴くときには躊躇気味にあるあたりが短所かもしれない。

エソテリック D-30

井上卓也

ステレオサウンド 121号(1996年12月発行)
特集・「ザ・ベストバイ コンポーネントランキング710選」より

 独自の優れたVRDS式CDトランスポートをもっているだけに、D/Aコンバーターは本来の性能をダイレクトに音にして引出せる多くの可能性を持っているはずだ。DSRLLなど数多くの新技術が搭載されており、ディジタルプリアンプとしても非常に魅力的なモデル。機能が多いだけに使用者は力量が問われる点に要注意。

ナカミチ Dragon-CD + Dragon-DAC

井上卓也

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオブランド172」(1996年11月発行)より

 ナカミチでは、DRAGONのネーミングに特別な思い入れがあるようで、不可能なこと、無だなアプローチと片づけられるテーマに決定的解決法を手にし、世に送り出す製品に、この名称が与えられる。CD時代の現代にこの名機を復活させた製品が、DRAGON−CDとDRAGON−DACである。
 DRAGON−CDは、独自のミュージックバンクCD連装メカニズムを、エアータイト構造の筐体内部にフローティング懸架する振動遮断構造を実現したモデルで、独立した電源部に表示系が組み込まれている。この振動遮断方式は、空気振動、床振動、電磁誘導、高周波雑音など、すべての外乱をシャットオフする異例の構想を現実のものとした、まさにDRAGONの名称に値するものだ。
 DRAGON−DACは、DRAGON−CDの電源部を共用し、そのディジタル出力端子専用の唯一無二のパートナー、とナカミチが表現するDAC。
 7枚のディスクを収納するミュージックバンク機構は、隣接ディスクに交換するのに2・5秒のクイックアクセスを誇り、ナチュラルで誇張感がなく清澄で、活き活きとした表現力のある音は、聴き込むほどに魅力的になるようだ。

ボルダー 2010, 2020

井上卓也

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオブランド172」(1996年11月発行)より

 今秋、従来のシリーズには隔絶したような超高級機がボルダーから登場。これは驚異的だ。
 2000シリーズと名づけられたこの新シリーズは、プリアンプ2010とD/Aコンバーター2020の2モデルで、基本構想は、リモートコントロールの全面的採用、左右チャンネルの完全独立化とコントロール/表示系の独立、3系統の電源部を内蔵した別筐体電源部による相互干渉の低減である。表示部とコントローラーのあるフロントパネルには、LED表示が採用されている。筐体上部には、左右チャンネルが独立した強固なハウジングがあり、背面からアンプ、DACをプラグイン固定する構造だ。
 注目は、DACも左右独立に専用ハウジングに収納されていることだ。シャーシ電位的には同一筐体であるため各部は共通だが、究極の左右チャンネル間干渉を避ける設計、とボルダーでは自信をこめて言っている。詳細は省くが、とにかく物凄い構想の超高価格機である。

ソニー CDP-R10, DAS-R10

井上卓也

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオブランド172」(1996年11月発行)より

 CDP−R10+DAS−R10のセパレート型CDプレーヤーは、最もソニーならではの技術集団の成果が見事に表われた傑作であろう。
 ディスク型プレーヤーでは、古くはエジソンの蝋管蓄音機以来、信号を読み出す部分──アナログディスクではカートリッジ、CDでは光ピックアップ──を移動させることが伝統的に行なわれ、これが常識となっていた。ところがソニーは、CD開発メーカーであるだけに、初期の業務用CDプレーヤーCDP5000で、早くも光ピックアップを固定し、ディスクを移動させるコペルニクス的展開の、ソニーでいう光学固定方式を完成させている。これをベースにメカニズムを見直し、現代の最先端技術で開発されたのが、CDP−R10に採用された光学固定方式メカニズムである。
 超重量級アナログプレーヤーに相当する、表面がわずかに凹んだアルミ合金ターンテーブルに、ディスクをマグネットチャッキングプーリーで固定し、間歇的にディスクを移動させるノンサーボ・スレッド機構により、サーボを使わずディスクを移動させている。また、重量級のターンテーブル・モーターなどが載ったベースは、5点支持・磁気吸着の軸受けブロックで鏡面仕上げのレール上を移動するが、重量が大きく、磁気吸着されているため、外部振動に強いメリットも大きい。アナログディスクの超重量級ターンテーブルと同様に、CDP−R10の巨大なディスクを載せたこ移動ベースは、通常型に比べ圧倒的にメカニズムSN比がよく、ディスクに記録された情報を最も正確に読みとれることでは、類例のない究極の機構である。
 DAS−R10は、電圧で表現されたパルス例を電流パルスに変換するカレントD/Aコンバーターを採用している。これは、音楽信号を電流の揺らぎや演算ノイズからの直接妨害からガードする特徴がある。また、演算能力の高いDSPを8個並列使用で誤差の少ないFIRディジタルフィルターや、全アナログ信号系のディスクリート部品構成を採用するなど、CDP−R10とのペアにふさわしい現代のリファレンスモデルだ。

ワディア Wadia 2000

黒田恭一

ステレオサウンド 118号(1996年3月発行)
「WADIA2000 バージョン96に魅せられて」より

 もともと知ろうとする気持をすて、感じとれるものだけをたよりにオーディオとつきあってきた。技術的なことを理解しようとする気持を、むしろ意識的にふりすてて、スピーカーやアンプのきかせてくれる音と裸でむきあってきた。中途半端にしこんだ知識で、それほど鋭敏とも思えず、それほど堅固とも考えがたい自分の感覚がおびやかされることをおそれての、それがぼくなりの防御策だったかもしれなかった。
 技術音痴をバネにして、いさぎよく素っ裸のままスピーカーからきこえてくる音とむきあいつづけていたかったからである。そういえば、音楽をきいているときにも、似たような気持になることがある。スピーカーにしても、ピアニストにしても、そこできかせてくれる音にすべてがある。そのピアニストの出身地を知ったからといって、彼の演奏をより深いところで理解できるようになるとは思えない。
 しかし、今回のことは技術的な理解を放棄してしまっている技術音痴をも戸惑わせるに充分なものだった。少なくともこれまでは、音が変われば、それ相応に、あるいはそれ以上に、具体的に目に見えるスピーカーという物やアンプという物が大きく変化していた。いつだって、耳の感じとった音の変化が、目に見える物の変化によって、ことばとしていくぶん妙ではあるが、保証されていた。そのために、音という限りなく抽象的なものの変化を自分に納得させられた、という場合もあったように思う。このアンプとあのアンプでは見た目もこんなにちがうのだから、きこえてくる音がこのようにちがって当然、と考えたりもした。
 今度ばかりは、大いにちがった。ちょっと拝借、といわれてもっていかれた赤いハンカチが、目の前で、一瞬の間に青く変わったのを見せられたときのような気持になり、仰天した。最初は、驚きばかりが大きくて、とても音がどのように変化したのかを理解できなかった。しかし、ぼくは、驚いてばかりもいられない。ここでは、ことの顚末をもう少し冷静に、順をおって書くことが義務づけられている。
 今回のM1の指令は、電話ではなく、ファックスだった。そのファックスで、彼は、さりげなく音に対する彼の最近の好みの変化などをしたためつつ、実にさりげない口調で、WADIA2000のアップグレードバージョンを試聴してみないか、と誘っていた。老獪なM1は、これと前のものではかなりちがうので、気にいらなかったら、それはそれでいいのだけれど、と書きそえることも忘れなかった。
 M1は、先刻ご承知のとおり、寝た子を起こす達人である。おまけに、つきあいが長いこともあって、こっちの泣きどころをしっかりおさえたうえに、頃あいをみはかるのが巧みときている。なるほど、このところしばらく、ぼくの部屋の音は、それなりに安定していたこともあって、さわらぬ神に祟りなしの教えにしたがっていたが、ときおり、ふと、これでいいのかな、と思う不安の影が胸をよぎるのを意識しなくもなかった。M1はそれをも感じとっていたのか、絶好のタイミングで、ローレライの歌をうたってくれた。
 かくして、ぼくはWADIA2000のアップグレードバージョンを自分の部屋できくことになった。いずれにしても、これまで長いこときいてきたデコーダーのアップグレードバージョンではないか、と思い、いくぶんたかをくくっていたところがなくもなかった。そのすきをつかれた。目の前で、さっきまで赤かったはずのハンカチが、一瞬の間に青く変わるのをみせられて、ぼくはことばを失った。
 しかし、それにしても、このような大きな変化をいかにしてことばにしたらいいのか。それが大問題だった。しばしば、針のように小さな変化をいかにして棒のように大きくいうかに腐心させられる。今度の場合は、むしろ逆だった。
 正直に書くが、もし、目隠しをされて、WADIA2000の前のものと今回のアップグレードバージョンとを比較してきかされたら、ぼくにはその両方の音がいずれもWADIA2000のものとはききわけられなかった、と思う。この両者の間には、音の質と性格の両面で、それほど大きなへだたりがあった。
 しかし、その両者のへだたりの大きさをきっちりことばにしようとすると、心情的なことで釈然としないことがおこってくる、という難しい問題もからんでくる。というのは、もし、かりに、WADIA2000の前のものと今回のアップグレードバージョンとを比較した後に、ついさっきまでは灰をかぶっていた薄汚れた女の子が魔女にしかるべき呪文をかけられて、一瞬の間にガラスの靴をといて王子のパーティに出かけるシンデレラに変身したようなものだ、といったりすれば、それは、昨日まで素晴らしい音で(少なくともぼくは、そう思っていた)きかせてくれていた旧WADIA2000に対して、あまりに失礼ないいぐさである。それでは、まるで、新しい恋人ができて別れた前の恋人を悪しざまにいっている情のない男のようなもので、なんとも気がすすまない。
 それでもなお、旧WADIA2000に対しての感謝の気持を胸におさめて、アップグレードバージョンに変えることに対して、ぼくにはいささかのためらいもなかった。いずれにしても、オーディオに魂をうばわれてしまえば、不実といわれようが、浮気者よばわりされようが、お世話になった機器に別れを告げつつ、あらたな出会いに心をときめかしていくよりないからである。
 それにしても、今回は特別で、WADIA2000の前のものからアップグレードバージョンにするのは、美人姉妹といわれまふたりのうちの妹とつきあった後に、さらに素敵な姉さんに鞍替えしたようなもので、後ろめたさをいつになく強く感じないではいられなかった。
 姉と妹では、なによりもまず、音のリアリティが決定的にちがっていた。もっとも、音といったって、日頃きくのが単なる音のはずもなく、音楽をきくわけだから、ここは、音楽における音のリアリティ、といいなおすべきかもしれない。音楽における音のリアリティがませば、必然的に、音楽がより深く、鋭く感じられるようになる。お姉さんのWADIA2000は、その点で断然すぐれていた。そこに、ぼくは魅せられた。
 音のきめ細かさがまして、さらにくいぶん音の重心がさがったようにも感じられた。そのために、個々のひびきそのものの輪郭と陰影がより一層鮮明になった。これは、いいオーディオ機器に出会ったときにいつも感じることで

アキコ AKIKO Series 0 (CA-00, PA-00, DA-00)

アキコのコントロールアンプCA00、パワーアンプPA00、D/AコンバーターDA00の広告
(サウンドレコパル 1994年夏号掲載)

AKIKO

ビクター XL-Z1000A + XP-DA1000A

井上卓也

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド別冊・1994年春発行)
「世界の一流品 CDプレーヤー/D/Aコンバーター篇」より

 デジタルオーディオで最も問題視される、時間軸方向の揺らぎであるジッターをK2と呼び、この改善を図った回路が、ビクターが開発したK2インターフェイスである。ビクター音楽産業のスタジオエンジニアと共同で、録音現場での成果をもとに実用化したこの新技術は、本機の前作のD/AコンバーターXP−DA1000が、初採用モデルである。
 ’93年、従来のCDトランスポートXL−Z1000とD/AコンバーターXP−DA1000の基本設計の優れた内容を、最終の成果である音質に積極的に結びつけるために細部の見直しが行なわれた。このリフレッシュしたモデルが型番末尾にAが付く本機で、従来モデルも、Aタイプ同様の性能・音質となるヴァージョンアップ・サービスを有償で受けつけている。
 XL−Z1000Aは、ディスクの面振れによる影響が少なく、サーボ電流の変化が抑えられて読み取り精度が向上したメカニズムによって、聴感上のSN比が向上したことが最大の特徴。超大型クランパーも標準装備された。出力には、光STリンクと75ΩBNC端子が加わり、専用のインピーダンスマッチングのとれたケーブルが用意されている点が、一般的な50Ωケーブル仕様と異なるところだ。本機で魅力的な点は、トップローディング部のガラスカバーがほぼ無音状態を保って滑らかにスライドし、わずかにポップアップして定常状態に、なる動作の見事さで、これは他に類例のないフィーリングだ。
 XP−DA1000Aは、トランスポート同様、その潜在能力を引き出す改良が加えられ、一段と透明感の高いSN感の優れた音質となった。キャラクターの少なさでは稀有なモデルといえよう。プログラムソースの内容を精度高く再生し、正確に再現する能力は非常に高く、いわばCDプレーヤーの限界的なレベルに到達しており、リファレンス用CDプレーヤーとして信頼度は抜群である。

エソテリック D-3

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド別冊・1994年春発行)
「世界の一流品 CDプレーヤー/D/Aコンバーター篇」より

 エソテリックというブランドは、ティアックが作る高級オーディオコンポーネントに使われる商標である。同社は現社長の谷勝馬氏が、1953年に東京テレビ音響株式会社として発足した。その後、社名を東京電気音響、さらにTEACと変更して現在に至っている。谷氏の航空機エンジニアとしての技術が平和産業のオーディオに活かされ、アナログディスクプレーヤー、テープレコーダーなどの専門メーカーとして有名になった。メカニズムと同時にエレクトロニクスのテクノロジーの発展もティアックのもう一本の柱で、メカトロニクスの最先端をいくメーカーに発展したが、音楽好きの谷氏の情熱が同社のオーディオ製品を支えているといってよい。
 デジタル時代に入ってからも、CDプレーヤーやDATの開発を早くから進め、独創的なメカニズムや回路設計で独自の一貫生産の道を歩んでいる。CDプレーヤーのメカニズムはその高品位さが評価され高級トランスポートとして自社製品の評価を高めるだけでなく、他社への供給も行なっている。アメリカの高級CDプレーヤー、ワディア製品やマッキントッシュ製品にも同社のVRDSメカが使われるのは、その一例である。
 一方、本機に見られるように、単体のD/Aコンバーターも同社独自の回路技術と音質の洗練度が感じられる。D3はD2の上級モデルとして’93年秋に発表されたD/Aコンバーターであるが、デジタル・サーボレシオ・ロックドループ回路により、可聴帯域内のジッターの大幅な抑制のためか、すこぶる高品位な音質を得ることが可能となった。入出力まで20ビット処理能力を持ち、最新の特性を持つこともさることながら、この柔軟性と強靭性のバランスをあわせもつ音の質感の素晴らしさは、現在のところ疑いなく第一級のD/Aコンバーターである。エソテリック・ブランドにふさわしい、物へのこだわりを感じさせる作りの高さも一流品らしい。

ハイエンドCDプレーヤー4機種を聴いて

黒田恭一

ステレオサウンド 110号(1994年3月発行)
「絶世の美女との悦楽のひとときに、心がゆれた……」より

「お前、大丈夫か?」
 なんとも身勝手ないいぐさとは思われた。しかし、自分の部屋にもどって、スチューダーのA730のスイッチを入れながら、無意識のうちに、そう呟いていた。むろん、若干の後ろめたさを感じていなかったわけではない。
 なんといっても、こっちは、絶世の美女四人と、たとえしばしの時間とはいえ、悦楽の時を過ごしてきたのである。後ろめたさを感じて当然だった。そのあげくの、「お前、大丈夫か?」であった。ことをいそぎすぎて、A730に、いらぬ粗相をさそては気の毒である。スイッチを入れてから、一時間ちかくも待った。
 A730の準備のととのうを待つ間に、不実な主は、千コマで、かりそめの時をともにしていた美女たちのことをぼんやりと思いかえしていた。その時の気分は、さしずめ、ロロ、ドド、ジュジュ、マルゴとマキシムの女たちの名前を、ほんとうはもっとも愛しているハンナの前で口にする、オペレッタ「メリー・ウィドウ」の登場人物ダニロの気持に似ていなくもなかった。
 今回もまた、甘言をもって、ぼくを不実な行為に誘ったのはM1である。
「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」
 受話器からきこえてくるM1の声は、夜陰にまぎれて好色親爺を巧みに誘うぽん引きのささやきに、どことなく似ていなくもなかった。M1は、さらに、「いい娘が四人ほどいるんですがね……」、ともいって、意味ありげにことばじりをにごした。いつもながらのこととはいえ、M1のタイミングのよさには感心させられた。M1の誘いに、結果として、ぼくは虚をつかれたかたちになった。
 ここしばらく、ぼくは、スチューダーA730+ワディア2000SH+チェロ・アンコール+アポジーDAX+チェロ・パフォーマンス×4+アポジー・ディーヴァといった我が愛機のきかせてくれる音と蜜月の日々を過ごしていた。ぼくは毎日を、かなりしあわせな気分でいた。この正月、ほぼ一年ぶりに訪ねてくれた友人は、何枚かのCDに黙って耳をすました後、「なにか装置を変えたの?」、といって、ぼくを大いに喜ばせてくれた。彼は鬼の耳の持主である。ぼくは、なにひとつ装置を変えていないと答えた。彼は怪訝な顔をして、「ずいぶんかわったね、去年の音とは」、といってから、彼がこれまで一度も口にしたことがないような言葉で、ほめてくれた。
 夫婦仲の悪い男が浮気にはしる、と考えるのは、たぶん、誤解である。夫婦仲がぎくしゃくしていれば、男はさしあたり、目の前の割れ蓋の修復に専念せざるをえない。そのような立場におかれた男に、余所にでかけ、それなりの所業にはげむ余裕があるとは考えにくい。もし、割れ蓋の修復をなおざりにしたあげく、余所に楽園を探すようなタイプの男であれば、哀れ、さらにもう一枚の割れ蓋をつくるだけである。
 ぼくも、うちのスチューダーたちと折りあいの悪い状態でM1に声をかけられたのであれば、それなりの覚悟をして、ステレオサウンドの試聴室にでかけたにちがいなかった。しかし、そのときのぼくは、なにがマークレビンソンだ、なにがソニーの新製品だ、うちの嫁はんが一番や、とたかをくくっていた。しかし、安心したぼくが悪かった。M1は読心術をも心得ているようで、巧みにぼくの虚をついた。
 まず、デンオンのDP-S1+DA-S1からきき始めた。このCDトランスポートとD/Aコンヴァーターについては、少し前に、長島達夫氏が、「ステレオサウンド」の誌上で、「ともかく、とのような音が来ても揺るがず、安定しきった再生ができるのである……最近これは感銘をうけた製品はない」、と書いていらしたのを、ぼくはおぼえていた。そのためもあって、かねてから、機会があったら一度きいてみたい、と思っていた。
 一聴して、なるほど、と長島達夫氏の言葉が納得できた。そして、同時に、電話口のM1が、「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」、といった意味も理解できた。デンオンのDP-S1+DA-S1がきかせてくれる音の質的な、あるいは品位の高さには驚嘆すべきものがあった。きめ細かなひびきに、うっとりとききいった。
 デンオンのDP-S1+DA-S1のきかせてくれる音は、敢えてたとえれば、オードリー・ヘップバーン的な美人を、ぼくに思い出させた。その得意にするところは、かならずしも劇的な演技にはなく、抒情的な表現にあった。むろん、繊細な表現にのみひいでていて、力強さに不満が残るなどという、低次元のはなしではない。オーケストラがトゥッティで強奏する音に対しての力にみちた反応にも、充分な説得力があった。ただ、いかにドラマティックな表現を要求されようと、ついに裾う乱さない慎ましさが、DP-S1+DA-S1のきかせてくれる音には感じられた。そのようなDP-S1+DA-S1の持味を美徳と考えるか、それともいたらなさと感じるか、それともいたらなさと感じるか、それは、たぶん、使う人の音楽的な好み、ないしは音に対しての美意識によってちがってくる。
 カラヤンが一九七九年に録音した「アイーダ」の全曲盤で標題役をうたっているのはミレッラ・フレーニである。当時のフレーニはリリック・ソプラノからの脱出をはかりつつあって、アイーダのみならず、トスカのような劇的表現力を求められる役柄にも果敢に挑戦していた。DP-S1+DA-S1のきかせてくれた見事な音が、ぼくには、どことなく、一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけてのフレーニの歌唱に似ているように感じられた。
 ミレッラ・フレーニは、先刻ご承知のように、もともとリリック・ソプラノとしてオペラ歌手のキャリアを始めた歌い手である。しかし、あの慧眼の持主であったカラヤンがアイーダをうたうソプラノとして白羽の矢をたてたことからもあきらかなように、一九七〇年代後半ともなると、フレーニは、すでにドラマティックな役柄をこなせるだけの声の力をそなえていた。しかし、そのようなフレーニによった絶妙な歌唱といえども、もともとの声がアイーダをうたうに適したソプラノ・リリコ・スピントによったものとは、微妙なちがいがあった。アイーダをうたってのフレーニの持味は、ドラマティックな表現を要求される音楽ではなく、抒情的な場面で発揮された。また、そのような既存のアイーダ像とはちがったアイーダを提示するのがカラヤンのねらいでもあった。
 蛇足ながら書きそえれば、アイーダをうたうフレーニを、背伸びしすぎたところでうたっているといって批判する人もいなくはないが、ぼくはアイーダをうたうフレーニの支持派である。いくぶんリリックな声のソプラノによって巧みにうたわれたアイーダは、ソプラノ・リリコ・スピントによって劇的に、スケール大きくうたわれて、過度に女丈夫的なイメージをきわだたせることもなく、恋する女の微妙な心のふるえを実感させてくれるからである。
 ついできいたのはソニーのCDP-R10+DAS-R10だった。このCDトランスポートとD/Aコンヴァーターのきかせる音にふれた途端、ぼくは、一瞬、ロミー・シュナイダー風美女にキッと見つめられたときのような気持になり、たじろいだ。ここできける音には、媚びがない。曖昧さがない。潤色が、まったく感じられない。劇的なひびきも、抒情的な音も、まっすぐ、いいたいことをいい切っていながら、しかも相手を冷たくつきはなすようなところがない。音楽のうちに脈々とながれる熱い血をききてに感じさせることに、いささかの手抜かりもない。
 蛇足ながら書きそえれば、ロミー・シュナイダーはほくにとっての理想の美女である。ソニーのCDP-R10+DAS-R10の音にふれたぼくは、出会いがしらに恋におちたような気分になった。「なんだって、CDを裏がえしてセットするんだって?」などと、なれない手順に不満をとなえながらきき始めたにもかかわらず、ものの一分とたたないうちに、「凄い、これは凄い!」と溜息をついていた。
 幸か不幸か、試聴後には予定があった。したがって、ロミー・シュナイダーとの心きとめく対面は、そこそこにすませなければならなかった。後の予定がなければ、ぼくは、編集部の面々に箒をたてられても気付かず、延々とききつづけ、家に帰るのを忘れていたかもしれなかった。
 おのれの不実を恥じつつも、ぼくは、家で待つ、うちの嫁はん、スチューダーのA730がきかせてくれる音と、今、出会ったばかりのロミー・シュナイダーのきかせてくれている音を耳の奥で比較しないではいられなかった。若干の救いは、その他の部分、つまりスピーカーやアンプが家のものとステレオサウンド試聴室のものとが同じでないことであった。しかし、いかに条件がちがっていても、ロミー・シュナイダーとうちの嫁はんの目鼻だちのわずかとはいいがたいちがいは充分にききわけられた。
 もっともちがっていたのは、言葉として適当かどうかはわからないが、情報の精度のように思われた。このソニーのCDP-R10+DAS-R10のきかせてくれる音は、それらしい音をそれらしくきかせるということをこえたところで、キリッと、まっすぐひびいていた。きっと、このような、しっかりした音は、思いつきや小手先のやりくりによってではなく、技術的に正攻法で攻められたところでのみ可能になるものであろう、と思ったりもした。
 CDのための、このような高度の性能をそなえた再生機器ともなれば、斯く斯くしかじかのソースではどうきこえたとか、こうきこえたとかいった感じで語ろうとしても、徒労に終るにちがいない。もし、かりに、ききてと音楽との間に介在することをいさぎよしとせず、まるで透明人間のように姿を消して、その機器へのききての意識を無にできることが再生装置の理想と考えれば、ソニーのCDP-R10+DAS-R10は、その理想に限りなく近づいている。
 そう考えると、CDP-R10+DAS-R10をロミー・シュナイダーとみなしたぼくのたとえは、見当はずれのものになる。ロミー・シュナイダーは、どんなつまらない映画にでても、強烈に自己の存在をアピールできた女優だった。したがって、ここでのロミー・シュナイダーのたとえは、ぼくの魅了されかたの度合を表明するだけのものと、ご理解いただきたい。ききてと音楽との間で自己主張しないということでは、むしろ、ソニーのCDP-R10+DAS-R10はロミー・シュナイダーの対極に位置していた。
 ちなみに、全四機種をきき終えた後、ぼくは、わがままをいって、編集部の若者たちの手をわずらわせ、ソニーのCDP-R10+DAS-R10を、もう一度きかせてもらわずにいられなかった。そのことからも、おわかりいただけると思うが、今回、きかせてもらった四機種のうちでぼくがもっとも心を動かされたのは、ソニーのCDP-R10+DAS-R10だった。
 ついできいたのはワディアのWADIA7+WADIA9だった。これにもまた、大いに驚かされた。ぼくの驚きを率直にいうとすれば、CDの再生機器は、すでにここまでいっているのか、と思ってのものだった。しかし、同時に、ぼくは、マ・ノン・トロッポ!(しかし、はなはだしくなくの意)と呟かないではいられなかった。
 情報の精度の高さということになれば、これもまた、かなりのところまでいっているのは、ぼくの耳にもわかった。ただ、ここできける音には、情報が整理されすぎたため、とみるべきか、整然としたひびきが若干冷たく感じられた。曖昧さをなくそうとするあまり、角を矯めて牛を殺してはいないかな、と思ったりもした。
 おそらく、このワディアのWADIA7+WADIA9のきかせる音についてのききての評価は大きくわかれるにちがいない。ぼく自身も、ここできける音を前に、冷静ではいられず、心がむれた。これが、もし、数年前だったら、と思ったからである。
 音に対して保守的になってはならないと、日頃、自分をいましめてはいる。音に対して保守的になったが最後、ききては歯止めを失い、懐古の沼に沈んだあげく、昔はよかった風の老いのくりごとをくりかえしはじめる。ひとたびサビついてしまった感覚は修復不能である。積極果敢に新しい音とふれあっていかないと、日に日に前進のエネルギーが不足していく。しかし、以前であれば、ぐらときて、そのまま突進していたかもしれない、このワディアのきかせる新時代の音を前に、今、ぼくは戸惑っている。お恥ずかしいことである。
 明晰さということでいえば、これは、ぼくがいまだかって耳にしたことのない明晰な音である。ここで耳にした音には、さしずめ、超人的な頭脳の持主が、消しゴムを使った痕跡さえ残さず、ものの見事に解いた方程式のような感じが或る。このような曖昧さを微塵も残さない音が、ぼくは、もともと嫌いではない。しかし、やはり、どうしても、マ・ノン・トロッポ! と呟かないではいられなかった。
 ただ、そのようなワディアのWADIA7+WADIA9のきかせる音についての感想は、あくまでもぼくのきわめて個人的なものでしかないので、ご興味のある方は、どこかで、なんとか機会をみつけられて、このユニークな音とふれあわれることをおすすめする。もしかすると、ご自身のオーディオ感の根底をゆさぶられるような思いをなさらないとも限らない。それだけの、独特の力をそなえている、このワディアの音である。
 マークレビンソンのNo.31L+No.30Lを最後にきいた。これは以前にもきいたことがある。したがって、「どうも、お久しぶり」、といった感じできき始めることができた。ここで耳にする音は、音の性格として、ワディアのWADIA7+WADIA9のきかせてくれる音の対極にある。
 もし、ワディアのWADIA7+WADIA9のきかせてくれる音がエゴン・シーレ描くところの痩せた美少女にたとえられるのであれば、マークレビンソンのNo.31L+No.30Lのきかせてくれるのはグスタフ・クリムトの描く豊潤な美女であろう。この、個々の音を、ぐっとおしだしてくる、たっぷりとしたひびきっぷりは見事の一語につきる。このマークレビンソンをしばらくきいた後に、ソニーをあらためてききなおしたら、けっして痩せすぎとはいいがたいロミー・シュナイダーがひどくスリムに感じられた。
 充分に繊細であり、鋭敏でもあって、そのうえ、腰のすわった、肉づきのいい音をきかせてくれるのが、このマークレビンソンである。粗衣身で、これは、いかに過酷なききての求めであろうと、十全にこたえられる機器というべきであろう。このような音を耳にすると、CDはどうも音が薄っぺらで、といったような、しばしば耳にする、表面的なところでのCD批判のよりどころが、どうしたって、ぼけてくる。
 いくぶん逆説的にきこえてしまうのかもしれないが、このCDの強みを最大限いかしきった機器できける音は、さまざまなCDプレーヤーのきかせてくれる音のなかで、もっとも非CD的な音である、といえなくもない。この力にみちた、弾力にとむ音は、たぶん、最高級のアナログディスクプレーヤーできける音と較べても、いささかの遜色もないはずである。まことに見事な、表現力にとんだ、恰幅のいい音である。
 ただ、畏敬しつつも、身近に感じることのできない音が或る。そのあたりが模範回答のないオーディオの、オーディオならではの面白いところというべきかもしれない。ぼくにとって、マークレビンソンのNo.31L+No.30Lのきかせてくれる音が、畏敬しながらも、自分からは離れたところにある音のようである。グスタフ・クリムトの描く豊満な美女に対する憧れは充分にあるが、そのタイプの音となると、かならずしもぼくのものではない、と思ってしまう。
 絶世の美女四人とのステレオサウンド試聴室での、しばしばの団欒は、スリリングでもあり、まことに楽しかった。ステレオサウンド試聴室につどったロロやドド、ジュジュやマルゴたちのチャーミングな容姿や物腰、それに体温を、ダニロよろしく思い出しているうちに、アンプもあたたまってきたようである。
 いささかの後ろめたさと不安を胸に、ぼくスチューダーのA730のスタートボタンをおした。あたりまえのことながら、日頃なじんでいた音がきこえてきた。ぼくは、なれない外国語に苦労しつつ一人であちこち旅してきて、やっとのことで帰りつき、「お疲れさま」、とやさしく声をかけられたときのような気持になり、なぜか、ほろっとした。そして、同時に、安堵の溜息をつかずにいられなかった。
 ステレオサウンド試聴室で出会ったロロやドド、ジュジュやマルゴたちは、たしかに、今、ぼくの使っているスチューダーA730+ワディア2000SHのいたらなさに気づかせた。最新のCD再生機器の性能が、ここのところにきて大きく向上したのは否定しようのない事実である。その意味で、M1の、「このところにきて、CDプレーヤーが新しい局面をむかえていましてね」、といった言葉は正しかった。
 以前であれば、このような状況を目のあたりにすれば、前後の見さかいもなく、飛石づたいに、あっちにふらふら、っこちにふらふらするような感じで放蕩をかさねられたのかもしれなかった。しかし、今は、よほどうちの嫁はんに惚れ込んでしまっているためかどうか、どうやら、ここしばらくは、ロミー・シュナイダーのことが原因の別れ話をしないでもすませそうに思え、ほっとしつつも、ちょっと寂しい気もしている。
 それにしても、「お前、第屏風か?」、と呟いたぼくに答えるかのように、A730が恥じらいつつうなずいたのは、あれは幻影だったのか?

ソニー CDP-R1a + DAS-R1a

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 CDプレーヤー/D/Aコンバーター篇」より

 ソニーというメーカーはブランドイメージの演出が大変うまい。このメーカーの売上げの大半は実用的で簡便な小型機器なのに、ブランドイメージは〝高級感〟を保っているのである。技術の先進性と国際感覚の調和が現代の象徴のようなメーカーだから、その〝良さ〟だけが受け入れられて〝悪さ〟が目立たないのであろう。誰に聞いても〝ソニー〟は一流なのである。しかし、ソニーがオーディオメーカーであることを納得させてくれる製品というと、決してCDラジカセやミニコンではないし、ましてやポータブルのウォークマン・シリーズなどは〝オーディオ〟のカテゴリーとはいえないものだ。自動車でいうならば、ウォークマンやCDラジカセは軽自動車ともいえないほどで、スクーターのようなものである。ミニミニコンあたりが軽自動車であって、コンポーネントシステムは特殊なスポーツカーにたとえられるものなのである。いわゆる5〜3ナンバーの乗用車に匹敵する本格的で、しかも一般的に使いやすいオーディオシステムというものはソニーに限らず、いまオーディオ産業界には存在しない。コンポーネントでその分野のすべてを埋めてきたというわけだが、ここへきてその無理が目立ってきている。
 趣味のオーディオとなると、当然軽自動車やスクーターではないわけであるが、このCDプレーヤーのような製品をつくるところに〝ソニー・ブランド〟の高級イメージの秘密があるのかもしれない。さすがにCDの開発者をフィリップスとともに自負するソニーだけあって、この分野での情熱は大変なものがある。早くからCDプレーヤーのセパレート方式を提案し、よりよい音の再現に努力してきたソニーの代表的製品がこれである。デジタルのハイテクは当然のこととして、オーディオの洗練が十分盛り込まれた気の入ったプレーヤーである。きわめて緻密で精緻な微粒子感のある音は美しい。無個性のようでいて強い個性だ。

アキュフェーズ DP-80L + DC-81L

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 CDプレーヤー/D/Aコンバーター篇」より

 アンプの専門メーカーとして高級アンプを中心にエレクトロニクスとアコースティックの接点を追求している同社の最高級CDプレーヤーが、このDP80L+DC81Lというセパレート型のシステムである。オリジナルモデルは86年に発売され、88年にLシリーズとなった。CDというプログラムソースとそのプレーヤーにアキュフェーズが大きな関心をもち、自社のオリジナリティで電子回路を組み、メカニズムは他社の優れたものを買ってアッセンブルするという作られ方である。トランスポートとD/Aコンバーターを含むプロセッサー部を分離したセパレート型を早期に採用し、互いのインターフェアランスを避けて、よりピュアな音を実現するというこのタイプは今でこそ珍しくもないし、D/Aコンバーター単体のコンポーネントも多数あるが、86年当時にこのセパレート型で完成商品とした同社の姿勢は、他メーカーへの大きな刺激となったものである。エレクトロニクスでの大きな特徴は、D/AコンバーターにICを使わずディスクリートで構成したことである。これにより、一台一台調整を施してわずかな誤差もなくし、音質の高品位化を実現する考え方である。初めに書いたようにエレクトロニクスとアコースティックの関連についての蓄積をもつ同社として、CDプレーヤーをだまって看過することができなかったのだと思われるが、そのポイントがD/Aコンバーターにあったといえるだろう。事実、その後D/Aコンバーターの変遷は各社ともにCDプレーヤーの改良のポイントとなったが、ディスクリートにこだわるのはここだけである。チップは経済性に優れる1ビット型が全盛となっているが、これは20ビットのディスクリートを特徴とするもので、明晰な全帯域にわたる質感の統一とリファレンス的な端正なバランスは、今のところ1ビット型では得られない精緻さがある。一流品は頑固さがつきものだし、挑戦的であってほしい。

エソテリック P-2 + D-2

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド創刊100号記念別冊・1991年秋発行)
「世界の一流品 CDプレーヤー/D/Aコンバーター篇」より

 ティアックのプレスティージモデルに冠せられるブランドがエソテリックである。アメリカでは〝エソテリック・オーディオ〟という言葉が盛んに使われるが、エンスージアスト向きのクォリティオーディオのことを指していう。エソテリックという言葉は辞書を引くと「秘教的な」「奥義の」「秘伝の」あるいは「内密の」といった訳を見出すだろう。したがって、これがオーディオに使われると若干、眉唾物のようなニュアンスが感じられないでもないが、それは違う。むしろ、趣味的な一品生産の銘品という解釈の方が当っている。音は抽象的で複雑微妙に人間の観念や心理的な影響を受け、そこにオーディオのような科学技術の論理が絡むと、とかくもっともらしい迷信が生まれやすいことから、エソテリックの秘の文字と結びつくのもわからないではない。CDプレーヤーと音の関係などには相当な未解析の問題がありそうだから、エソテリックといわれるとどうも曖昧な感じがする。しかし、ティアックのエソテリックは、CDの初期から独特の音質対策への配慮が見られ、オリジナリティのあるノウハウが盛り込まれていて、このブランドにふさわしい内容をもっている。その一つが、テーパードディスクにCDをマグネットの力で圧着して回転させるメカニズムである。二つ目は、ディザ方式という歪みを減らすテクニックだ。これは、D/Aコンバーターの変換誤差を分散させて歪みを低減するディストーション・シェイビングである。これによってデジタルが宿命的にもっているローレベル時の歪みをかなり改善するというもの。これらは、いってみればティアック秘伝の奥義なのかもしれない。事実、このP2+D2の音はきわめて滑らか〜微粒子感とでも表現したい甘美なニュアンスをもったハイエンド、深い奥行きを感じさせる立体感の再現に優れていて、低域は豊潤で力強い。オリジナリティをもった一流品といってよいCDプレーヤーである。

ソニー CDP-R1a + DAS-R1a

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 温和で、しなやかな充分に磨き込まれた音を持った、雰囲気のよい音を聴かせるプレーヤーである。
 ロッシーニは、しなやかではあるが、スッキリとした音を指向した音を聴かせる。各楽器はひととおり分離するが、各パートの声は少し伸び切らない印象となる。音場感情報量、柔らかく定位する小さな音像など、平均を超すレベルだ。ピアノトリオは、ホールの響きをたっぷりと聴かせるサロン風なまとまりである。中高域には硬質な面があり、音の輪郭を聴かせる効果はあるが、ヴァイオリン、チェロの高域成分は少し硬い。ブルックナーは、一応のレベルの音だが全体にちぐはぐな面があり、再生系との相性の悪さが出た音だ。平衡出力では、コントラストが下がり、フレキシビリティは出るが、三万二してまとまらない。ジャズは集中力が不足し、力がいま一歩の印象でまとまらない。もう少し低域のリズム感が支えれば、一応の水準になる印象が強い。

ビクター XL-Z1000 + XP-DA1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 音場感情報が豊かで、音楽が演奏されている空間の拡がりを、ゆったりとした余裕のあるプレゼンスで聴かせる特徴がある。ロッシーニでは、予想より硬質な面と、音の分離にいまひとつの感があるが、木管楽器特有の高質さとふくらみや、コントラバスのピチカートなどはかなり実体感があり、見通しもよい。ピアノトリオは、中高域に少し硬質さがある薄味傾向のまとまり。楽器のメカニズムの出す固有のノイズをかなり聴かせるが、ピアノのリアリティは抑えられる。ヴァイオリン、チェロは少し硬質で、やや響き不足の音だ。ブルックナーは、奥行きの深い空間を感じさせる音場感の豊かさがあり、響きはたっぷりとあるが全体に力不足で、トゥッティで音の混濁感がある。平衡出力では、スッキリと見通しの良さが聴かれ、反応の軽さが出るが、再生系の持つ一種の重さ、暗さがある低域が全体のバランスを崩しているようで、これは聴取位置が左側に偏っていることも関係がある。

ティアック P-500 + D-500

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 全体にプログラムソースの音を軽く、柔らかい傾向の音として聴かせる。いわば個性の強い製品ではあるが、音色が暗くならず、表情に鈍さがないことが好ましい。ロッシーニは、かなり広帯域型のfレンジと、軽く滑らかな雰囲気のよい音だが、少し実体感が欲しいまとまりだ。ピアノトリオは、楽器の低音成分が多く、やや中域を抑えたバランスの、線が細く柔らかな音だ。音場は引っ込み奥に拡がり、響きはきれいだが音源は遠く、細部は不明の音。ブルックナーは、音源は遠いが、空間を描く音場感のプレゼンスはナチュラルでフワッとした雰囲気があり、これでよい。トゥッティでは予想外に中高域に輝く個性があり硬質な面が顔を出すが、それなりのバランスで聴かせるあたりは、ターンテーブル方式の利点であるのかもしれない。ジャズは、定位はブーミーでエネルギー感が抑え気味となり、いまひとつ弾んだリズム感が不足気味で、見通しもやや不足気味だ。

テクニクス SL-Z1000 + SH-X1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかくフワッとした、温和な音を聴かせるモデルであるが、ローレベルのこまやかさが描けるようになり、音の消えた空間の存在がわかること、帯域バランス的には中域の質感が改善され、硬さの表現ができるようになったことが、従来と変った点だ。なお、聴取位置は中央の標準位置である。ロッシーニでは、空間の拡がりを感じさせる暗騒音も充分に聴かれ、柔らかい雰囲気を持ちながらこまやかさがある素直な音である。音像は小さくソフトに立つ。ピアノトリオはプレゼンスよく、光沢を感じさせる、ほどよく硬質な各楽器のイメージは、かなり聴き込めるが、低域はいまひとつ分離しない。ブルックナーは、ややこもった音場感でスケール感もあるが、アタックの音が軟らかく、抑揚が抑え気味となり単調に感じられる。平衡出力では,ベールが一枚なくなったようなスッキリした音場感、各パートの楽器の分離などでは優れるが、鈍い低域が問題で、再生系と相性が悪い。

エソテリック P-2 + D-2

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 聴感上でのS/Nが優れ、音場感情報が充分にあり、奥行き方向のパースペクティヴ、上下方向の高さの再現ができるのが最大の特長。試聴は2度行ない、聴取位置は中央の標準的位置だ。細部の改良で基本的な音の姿・形は変らないが聴感上でのS/Nが向上したため、低域の質感や反応の素直さをはじめ、全体の音は明瞭に改善されている。ロッシーニは、柔らかいプレゼンスのよい音である。音の細部はソフトフォーカス気味に美しく聴かせるが、各パートの声や木管などのハーモニクスに適度な鮮度感があり、薄味傾向の音としては、表情もしなやかで一応の水準にまとまる。ピアノトリオは、サロン風のよく響く音だが、表情は少し硬い。ブルックナーは、奥深い空間の再現性に優れ、予想より安定した低域ベースの実体感のある音である。平衡出力では、音場感は一段と増すが、音の密度感、力感は抑えられる。ジャズはプレゼンスよく安定感のある低域ベースの良い音だ。

白いキャンバスを求めて

黒田恭一

ステレオサウンド 92号(1989年9月発行)
「白いキャンバスを求めて」より

 感覚を真っ白いキャンバスにして音楽をきくといいよ、といわれても、どのようにしたら自分の感覚をまっ白にできるのか、それがわからなくてね。
 そのようにいって、困ったような表情をした男がいた。彼が律義な人間であることはわかっていたので、どのように相槌をうったらいいのかがわからず、そうだね、音楽をきくというのはなかなか微妙な作業だからね、というような意味のことをいってお茶をにごした。
 その数日後、ぼくは、別の友人と、たまたま一緒にみた映画のことを、オフィスビルの地下の、中途半端な時間だったために妙に寝ぼけたような雰囲気の喫茶店ではなしあっていた。そのときみたのは、特にドラマティックともいいかねる物語によった、しかしなかなか味わい深い内容の映画であった。今みたばかりの映画について語りながら、件の友人は、こんなことをいった。
 受け手であるこっちは、対象に対する充分な興味がありさえすれば、感覚をまっ白にできるからね……。
 彼は、言外に、受け手のキャンバスが汚れていたのでは、このような味わいのこまやかな映画は楽しみにくいかもしれない、といいたがっているようであった。ぼくも彼の感想に同感であった。おのれのキャンバスを汚れたままにしておいて、対象のいたらなさをあげつらうのは、いかにも高飛車な姿勢での感想に思え、フェアとはいえないようである。名画の前にたったときには眼鏡をふき、音楽に耳をすまそうとするときには綿棒で耳の掃除をする程度のことは、最低の礼儀として心得ておくべきであろう。
 しかし、そうはいっても、眼鏡をいつでもきれいにしておくのは、なかなか難しい。ちょうどブラウン管の表面が静電気のためにこまかい塵でおおわれてしまってもしばらくは気づきにくいように、音楽をきこうとしているときのききてのキャンバスの汚れもまた意識しにくい。キャンバスの汚れを意識しないまま音楽をきいてしまう危険は、特に再生装置をつかって音楽とむきあおうとするときに大きいようである。
 自分の部屋で再生装置できくということは、原則として、常に同じ音で音楽をきくということである。しりあったばかりのふたりであれば、そこでのなにげないことばのやりとりにも神経をつかう。したがって、ふたりの間には、好ましい緊張が支配する。しかしながら、十年も二十年も一緒に生活をしてきたふたりの間ともなれば、そうそう緊張してもいられないので、どうしたって弛緩する。安心と手をとりあった弛緩は眼鏡の汚れを呼ぶ。
 長いこと同じ再生装置をつかってきいていると、この部分がこのようにきこえるのであれば、あの部分はおそらくああであろう、と無意識のうちに考えてしまう。しかも、困ったことに、そのような予断は、おおむね的中する。
 長い期間つかってきた再生装置には座りなれた椅子のようなところがある。座りなれた椅子には、それなりの好ましさがある。しかし、再生装置を椅子と同じに考えるわけにはいかない。安楽さは、椅子にとっては美徳でも、再生装置にとってはかならずしも美徳とはいいがたい。安心が慢心につながるとすれば、つかいなれた再生装置のきかせてくれる心地よい音には、その心地よさゆえの危険がある。
 これまでつかってきたスピーカーで音楽をきいているかぎり、ぼくは、気心のしれた友だちとはなすときのような気持でいられた。しかし、同時に、そこに安住してしまう危険も感じていた。なんとなく、この頃は、きき方がおとなしくなりすぎているな、とすこし前から感じていた。ききてとしての攻撃性といっては大袈裟になりすぎるとしても、そのような一歩踏みこんだ音楽のきき方ができていないのではないか。そう思っていた。ディスクで音楽をきくときのぼくのキャンバスがまっ白になりきれていないようにも感じていた。
 ききてとしてのぼく自身にも問題があったにちがいなかったが、それだけではなく、きこえてくる音と馴染みすぎたためのようでもあった。それに、これまでつかっていたスピーカーの音のS/Nの面で、いささかのものたりなさも感じていた。これは、やはり、なんとかしないといけないな、と思いつつも、昨年から今年の夏にかけて海外に出る機会が多く、このことをおちおち考えている時間がなかった。
 しかし、ぼくには、ここであらためて、新しいスピーカーをどれにするかを考える必要はなかった。すでに以前から、一度、機会があったら、あれをつかってみたい、と思っていたスピーカーがあった。そのとき、ぼくは、漠然と、アポジーのスピーカーのうちで一番背の高いアポジーを考えていた。
 アポジーのアポジーも結構ですが、あのスピーカーは、バイアンプ駆動にしないと使えませんよ。そうなると、今つかっているパワーアンプのチェロをもう一組そろえないといけませんね。電話口でM1が笑いをこらえた声で、そういった。今の一組でさえ置く場所に苦労しているというのに、もう一組とはとんでもない。そういうことなら、ディーヴァにするよ。
 というような経過があって、ディーヴァにきめた。それと、かねてから懸案となっていたチェロのアンコール・プリアンプをM1に依頼しておいて、ぼくは旅にでた。ぼくはM1の耳と、M1のもたらす情報を信じている。それで、ぼくは勝手に、M1としては迷惑かもしれないが、M1のことをオーディオのつよい弟のように考え、これまでずっと、オーディオに関することはなにからなにまで相談してきた。今度もまた、そのようなM1に頼んだのであるからなんの心配もなく、安心しきって、家を後にした。
 ぼくは、スピーカーをあたらしくしようと思っているということを、第九十一号の「ステレオサウンド」に書いた。その結果、隠れオーディオ・ファントでもいうべき人が、思いもかけず多いことをしった。全然オーディオとは関係のない、別の用事で電話をしてきた人が、電話を切るときになって、ところで、新しいスピーカーはなににしたんですか? といった。第九十一号の「ステレオサウンド」が発売されてから今日までに、ぼくは、そのような質問を六人のひとからうけた。四人が電話で、二人が直接であった。六人のうち三人は、それ以前につきあいのない人であった。しかも、そのうちの四人までが、そうですか、やはり、アポジーですか、といって、ぼくを驚かせた。
 たしかに、アポジーのディーヴァは、一週間留守をした間にはこびこまれてあった。さすがにM1、することにてぬかりはないな、と部屋をのぞいて安心した。アンプをあたためてからきくことにしよう。そう思いつつ、再生装置のおいてある場所に近づいた。そのとき、そこに、思いもかけないものが置かれてあるのに気づいた。
 なんだ、これは! というまでもなく、それがスチューダーのCDプレーヤーA730であることは、すぐにわかった。A730の上に、M1の、M1の体躯を思い出させずにおかない丸い字で書いたメモがおかれてあった。「A730はアンコールのバランスに接続されています。ちょっと、きいてみて下さい!」
 スチューダーのA730については、第八十八号の「ステレオサウンド」に掲載されていた山中さんの記事を読んでいたので、おおよそのことはしっていた。しかし、そのときのぼくの関心はひたすらアポジーのディーヴァにむいていたので、若干の戸惑いをおぼえないではいられなかった。このときのぼくがおぼえた戸惑いは、写真をみた後にのぞんだお見合いの席で、目的のお嬢さんとはまた別の、それはまたそれでなかなか魅力にとんだお嬢さんに会ってしまったときにおぼえるような戸惑いであった。
 それから数日後に、「ステレオサウンド」の第九十一号が、とどいた。気になっていたので、まず「編集後記」を読んだ。「頼んだものだけが届くと思っているのだろうが、あまいあまい。なにせ怪盗M1だぞ、といっておこう」、という、M1が舌なめずりしながら書いたと思えることばが、そこにのっていた。
 困ったな、と思った。なにに困ったか、というと、ぼくのへぼな耳では、一気にいくつかの部分が変化してしまうと、その変化がどの部分によってもたらされたのか判断できなくなるからであった。しかし、いかに戸惑ったといえども、そこでいずれかのディスクをかけてみないでいられるはずもなかった。すぐにもきいてみたいと思う気持を必死でおさえ、そのときはパワーアンプのスイッチをいれるだけにして、しばらく眠ることにした。飛行機に長い時間ゆられてきた後では、ぼくの感覚のキャンバスはまっ白どころか、あちこちほころびているにちがいなかった。そのような状態できいて、最初の判断をまちがったりしたら、後でとりかえしがつかない、と思ったからであった。
 ぼくは、プレーヤーのそばに、愛聴盤といえるほどのものでもないが、そのとき気にいっているディスクを五十枚ほどおいてある。そのうちの一枚をとりだしてきいたのは、三時間ほど眠った後であった。風呂にもはいったし、そのときは、それなりに音楽をきける気分になっていた。
 複合変化をとげた後の再生装置でぼくが最初にきいたのは、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーを指揮して一九七五年に録音した「ヴェルディ序曲・前奏曲集」(ポリドール/グラモフォン F35G20134)のうちのオペラ「群盗」の前奏曲であった。此のヴェルディの初期のオペラの前奏曲は、オーケストラによる総奏が冒頭としめくくりにおかれているものの、チェロの独奏曲のような様相をていしている。ここで独奏チェロによってうたわれるのは、初期のヴェルディならではの、燃える情熱を腰の強い旋律にふうじこめたような音楽である。
 これまでも非常にしばしばきいてきた、その「群盗」の前奏曲をきいただけですでに、ぼくは、スピーカーとプリアンプと、それにCDプレーヤーがかわった後のぼくの再生装置の音がどうなったかがわかった。なるほど、と思いつつ、目をあげたら、ふたつのスピーカーの間で、M1のほくそえんでいる顔をみえた。
 恐るべきはM1であった。奴は、それまでのぼくの再生装置のいたらないところをしっかり把握し、同時にぼくがどこに不満を感じていたのかもわかっていたのである。今の、スピーカーがアポジーのディーヴァに、プリアンプがチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーがスチューダーのA730にかわった状態では、かねがね気になっていたS/Nの点であるとか、ひびきの輪郭のもうひとつ鮮明になりきれないところであるとか、あるいは音がぐっと押し出されるべき部分でのいささかのものたりなさであるとか、そういうところが、ほぼ完璧にといっていいほど改善されていた。
 オペラ「群盗」の前奏曲をきいた後は、ぼくは、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」(アルファレコード/CYPREE 32XB123)をとりだして、そのディスクのうちの「すてきな青いレインコート」をきいた。この歌は好きな歌であり、また録音もとてもいいディスクであるが、ここで「すてきな青いレインコート」をきいたのには別の理由があった。「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」は、傅さんがリファレンスにつかわれているディスクであることをしっていたからであった。傅さんは、先刻ご存じのとおり、アポジーをつかっておいでである。つまり、ぼくとしては、ここで、どうしても、傅さんへの表敬試聴というのも妙なものであるが、ともかく先輩アポジアンの傅さんへの挨拶をかねて、傅さんの好きなディスクをききたかったのである。
 さらにぼくは、「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾほチェロ/ウェルナー・トーマス」(日本フォノグラム/オルフェオ 32CD10106)のうちの「ジャクリーヌの涙」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」(EMI CDC7476772)のうちの「セビリャの理髪師」であるとか、あるいは「O/オルネッラ・ヴァノーニ」(CGD CDS6068)のうちの「カルメン」であるとか、いくぶん軽めの、しかし好きで、これまでもしばしばきいてきた曲をきいた。
 いずれの音楽も、これまでの装置できいていたとき以上に、S/Nの点で改善され、ひびきの輪郭がよりくっきりし、さらに音がぐっと押し出されるようになったのが関係してのことと思われるが、それぞれの音楽の特徴というか、音楽としての主張というか、そのようなものをきわだたせているように感じられた。ただし、その段階での音楽のきこえ方には、若い人が自分のいいたいことをいいつのるときにときおり感じられなくもない、あの独特の強引さとでもいうべきものがなくもなかった。
 これはこれでまことに新鮮ではあるが、このままの状態できいていくとなると、感覚の鋭い、それだけに興味深いことをいう友だちと旅をするようなもので、多少疲れるかもしれないな、と思ったりした。しかし、スピーカーがまだ充分にはこなれていないということもあるであろうし、しばらく様子をみてみよう。そのようなことを考えながら、それからの数日、さしせまっている仕事も放りだして、あれこれさまざまなディスクをききつづけた。
 ところできいてほしいものがあるですがね。M1の、いきなりの電話であった。いや、ちょっと待ってくれないか、ぼくは、まだ自分の再生装置の複合変化を充分に掌握できていないのだから、ともかく、それがすんでからにしてくれないか。と、一応は、ぼくも抵抗をこころみた。しかし、その程度のことでひっこむM1でないことは、これまでの彼とのつきあいからわかっていた。考えてみれば、ぼくはすでにM1の掌にのってしまっているのであるから、いまさらじたばたしてもはじまらなかった。その段階で、ぼくは、ほとんど、あの笞で打たれて快感をおぼえる人たちのような心境になっていたのかもしれず、M1のいうまま、裸の背中をM1の笞にゆだねた。
 M1がいそいそと持ちこんできたのは、ワディア2000という、わけのわからない代物だった。M1の説明では、ワディア2000はD/Aコンバーターである、ということであったが、この常軌を逸したD/Aコンバーターは、たかがD/Aコンバーターのくせに、本体と、本隊用電源部と、デジリンク30といわれる部分と、それにデジリンク30用電源部と四つの部分からできていた。つまり、M1は、スチューダーのA730のD/Aコンバーターの部分をつかわず、その部分の役割をワディア2000にうけもたせよう、と考えたようであった。
 ワディア2000をまったくマークしていなかったぼくは、そのときにまだ、不覚にも、第九十一号の「ステレオサウンド」にのっていた長島さんの書かれたワディア2000についての詳細なリポートを読んでいなかった。したがって、その段階で、ぼくはワディア2000についてなにひとつしらなかった。
 ぼくの部屋では、客がいれば、客が最良の席できくことになっている。むろん、客のいないときは、ぼくが長椅子の中央の、一応ベスト・リスニング・ポジションと考えられるところできく。ワディア2000を接続してから後は、M1がその最良の席できいていた。ぼくは横の椅子にいて、M1の顔をみつつ、またすこし太ったのではないか、などと考えていた。M1が帰った後で、ひとりになってからじっくりきけばいい、と思ったからであった。そのとき、M1がいかにも満足げに笑った。ぼくの席からきいても、きこえてくる音の様子がすっかりちがったのが、わかった。
 ぼくの気持をよんだようで、M1はすぐに席をたった。いかになんでも、M1の目の前で、嬉しそうな顔をするのは癪であった。M1もM1で、余裕たっぷりに、まあ、ゆっくりきいてみて下さい、などといいながら帰っていった。
 ワディア2000を接続する前と後での音の変化をいうべきことばとしては、あかぬけした、とか、洗練された、という以外になさそうであった。昨日までは泥まみれのじゃがいもとしかみえなかった女の子が、いつの間にか洗練された都会の女の子になっているのをみて驚く、あの驚きを、そのとき感じた。もっとも印象的だったのは、ひびきのきめの細かくなったことであった。餅のようにきめ細かで柔らかくなめらかな肌を餅肌といったりするが、この好色なじじいの好みそうなことばを思い出させずにはおかない、そこできこえたひびきであった。
 ぼくは、それから、夕食を食べるのも忘れて、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーによる「ヴェルディ序曲・前奏曲集」であるとか、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」であるとか、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」であるとか、「O/オルネッラ・ヴァノーニ」であるとかを、ききなおしてみて、きこえてくる音に酔った。
 そこにいたってやっとのことで、そうだったのか、とM1の深謀遠慮に気づいた。ぼくが、アポジーのディーヴァとチェロのアンコールを依頼した段階で、M1には、スチューダーのA730+ワディア2000のプランができていたのである。ぼくの耳には、スチューダーのA730は必然としてワディア2000を求めているように感じられた。ぼくは、自分のところでの組合せ以外ではスチューダーのA730をきいていないので、断定的なことはいいかねるが、すくなくともぼくのところできいたかぎりでは、スチューダーのA730は、積極性にとみ、音楽の表現力というようなことがいえるのであれば、その点で傑出したものをそなえているものの、ひびきのきめの粗さで気になるところがなくもない。
 そのようなスチューダーのA730の、いわば泣きどころをワディア2000がもののみごとにおぎなっていた。ぼくはM1の準備した線路を走らされたにすぎなかった。くやしいことに、M1にはすべてお見通しだったのである。そういえば、ワディア2000を接続して帰るときのM1は、自信満々であった。
 どうします? その翌日、M1から電話があった。どうしますって、なにを? と尋ねかえした。なにをって、ワディア2000ですよ。どうするもこうするもないだろう。ぼくとしては、そういうよりなかった。お買い求めになるんですか? 安くはないんですよ。M1は思うぞんぶん笞をふりまわしているつもりのようであった。しかたがないだろう。ぼくもまた、ほとんど喧嘩ごしであった。それなら、いいんですが。そういってM1は電話を切った。
 それからしばらく、ぼくは、仕事の合間をぬって、再生装置のいずれかをとりかえた人がだれでもするように、すでにききなれているディスクをききまくった。そのようにしてきいているうちに、今度のぼくの、無意識に変革を求めた旅の目的がどこにあったか、それがわかってきた。おかしなことに、スピーカーをアポジーのディーヴァにしようとした時点では、このままではいけないのではないか、といった程度の認識にとどまり、目的がいくぶん曖昧であった。それが、ワディア2000をも組み込んで、今回の旅の一応の最終地点までいったところできこえてきた音をきいて、ああ、そうだったのか、ということになった。
 なんとも頼りない、素人っぽい感想になってしまい、お恥ずかしいかぎりであるが、あれをああすれば、ああなるであろう、といったような、前もっての推測は、ぼくにはなかった。今回の変革の旅は、これまで以上に徹底したM1の管理下にあったためもあり、ぼくとしては、行先もわからない汽車に飛び乗ったような心境で、結果としてここまできてしまった、というのが正直なところである。もっとも、このような無責任な旅も、M1という運転手を信じていたからこそ可能になったのであるが。
 複合変化をとげた再生装置のきかせてくれる音楽に耳をすませながら、ぼくは、ずいぶん前にきいたコンサートのことを思い出していた。そのコンサートでは、マゼールの指揮するクリーヴランド管弦楽団が、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第五番を演奏した。一九八二年二月のことである。会場は上野の東京文化会館であった。記憶に残っているコンサートの多くは感動した素晴らしいコンサートである。しかし、そのマゼールとクリーヴランド管弦楽団によるコンサートは、ちがった。ぼくにはそのときのコンサートが楽しめなかった。
 第五交響曲にかぎらずとも、マーラーの作品では、極端に小さい音と極端に大きい音が混在している。そのような作品を演奏して、ppがpになってしまったり、ffがfになってしまったりしたら、音楽の表現は矮小化する。
 実力のあるオーケストラにとって、大音響をとどろかせるのはさほど難しくない。肝腎なのは、弱音をどこまで小さくできるかである。指揮者が充分にオーケストラを追いこみきれていないと、ppがpになってしまう。
 一九八二年二月に、上野の東京文化会館できいたコンサートにおけるマゼールとクリーヴランド管弦楽団による演奏がそうであった。そこでは、ppがppになりきれていなかった。
 このことは、多分、再生装置の表現力についてもいえることである。ほんとうの弱音を弱音ならではの表現力をあきらかにしつつもたらそうとしたら、オーケストラも再生装置もとびきりのエネルギーが必要になる。今回の複合変化の結果、ぼくの再生装置の音がそこまでいったのかどうか、それはわからない。しかし、すくなくとも、そのようなことを考えられる程度のところまでは、いったのかもしれない。
 大切なことは小さな声で語られることが多い。しかし、その小さな声の背負っている思いまでききとろうとしたら、周囲はよほど静かでなければならない。キャンバスがまっ白だったときにかぎり、そこにポタッと落ちた一滴の血がなにかを語る。音楽でききたいのは、そこである。マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、ppがpになってしまっていた演奏では、したたり落ちた血の語ることがききとれなかった。
 当然、ぼくがとりかえたのは再生装置の一部だけで、部屋はもとのままであった。にもかかわらず、比較的頻繁に訪ねてくる友だちのひとりが、何枚かのディスクをきき終えた後に、検分するような目つきで周囲をみまわして、こういった。やけに静かだけれど、部屋もどこかいじったの?
 再生装置の音が白さをました分だけ、たしかに周囲が静かになったように感じられても不思議はなかった。スピーカーがアポジーになったことでもっともかわったのは低音のおしだされ方であったが、彼がそのことをいわずに、再生装置の音が白さをましたことを指摘したのに、ぼくは大いに驚かされ、またうれしくもあった。
 ぼくにとっての再生装置は、仕事のための道具のひとつであり、同時に楽しみの糧でもある。つまり、ぼくのしていることは、昼間はタクシーをやって稼いでいた同じ自動車で、夜はどこかの山道にでかけるようなものである。昼間、仕事をしているときは、おそらく眉間に八の字などよせて、スコアを目でおいつつ、スピーカーからきこえてくる音に耳をすませているはずであるが、夜、仕事から解放されたときは、アクセルを思いきり踏みこみ、これといった脈絡もなくききたいディスクをききまくる。
 そのようにしてきいているときに、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えることがある。不思議なことに、そのように考えるのは、いつもきまって、いい状態で音楽がきけているときである。ああ、ちょっと此の点が、といったように、再生装置のきかせる音のどこかに不満があったりすると、そのようなことは考えない。人間というものは、自分で解答のみつけられそうな状況でしか疑問をいだかない、ということかどうか、ともかく、複合変化をとげた後の再生装置のきかせる音に耳をすませながら、何度となく、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えた。
 すぐれた文学作品を読んだり、素晴らしい絵画をみたりして味わう感動がある。当然のことに、いい音楽をきいたときにも、感動する。しかし、自分のことにかぎっていえば、いい音楽をいい状態できいたときには、単に感動するだけではなく、まるで心があらわれたような気持になる。そのときの気持には、感動というようないくぶんあらたまったことばではいいきれないところがあり、もうすこしはかなく、しかも心の根っこのところにふれるような性格がある。
 今回の複合変化の前にも、ぼくは、けっこうしあわせな状態で音楽をきいていたのであるが、今は、その一歩先で、ディスクからきこえる音楽に心をあらわれている。心をあらわれたように感じるのが、なぜ、心地いいのかはわからないが、このところしばらく、夜毎、ぼくは、翌日の予定を気にしながら、まるでA級ライセンスをとったばかりの少年がサーキットにでかけたときのような気分で、もう三十分、あと十五分、とディスクをききつづけては、夜更かしをしている。
 そういえば、スピーカーをとりかえたら真先にきこうと考えていたのに、機会をのがしてききそびれていたセラフィンの指揮したヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」のディスク(音楽之友社/グラモフォン ORG1009~10)のことを思い出したのは、ワディア2000がはいってから三日ほどたってからであった。この一九六二年にスカラ座で収録されたディスクは、特にきわだって録音がいいといえるようなものではなかった。しかし、この大好きなオペラの大好きなディスクが、どのようにきこえるか、ぼくには大いに興味があった。
 いや、ここは、もうすこし正直に書かないといけない。ぼくはこのセラフィンの「トロヴァトーレ」のことを忘れていたわけではなかった。にもかかわらず、きくのが、ちょっとこわかった。このディスクは、残響のほとんどない、硬い音で録音されている。それだけにひとつまちがうと、声や楽器の音が金属的になりかねない。スピーカーがアポジーのディーヴァになり、さらにCDプレーヤーがスチューダーのA730になったことで、音の輪郭と音を押し出す力がました。そこできいてどのようになるのか、若干不安であった。
 まず、ルーナ伯爵とレオノーラの二重唱から、きいた。不安は一気にふきとんだ。オペラ「トロヴァトーレ」の体内に流れる血潮がみえるようにきこえた。
 くやしいけれど、このようにきけるようになったのである、ぼくは、いさぎよく、頭をさげ、こういうよりない、M1! どうもありがとう!

ラックス DP-07 + DA-07

井上卓也

ステレオサウンド 88号(1988年9月発行)

「BEST PRODUCTS」より

 ラックスの超弩級CDプレーヤーシステムは、すでに昨年中にほぼ試作が完了していたために、その存在は誰でも知るところであったが、最終的なツメと熟成期間を経て、今回発売されることになった。
 基本構成の出発点は、音楽再生を目的とするD/Aコンバーターは、連続サインウェーブの再現以上に、パルス成分の再現性であるインパルス応答性を重要視すべきであるという、いわばオーディオ再生の原点ともいえるところからのものである。
 巨大なパワーアンプに匹敵する雄姿を誇るD/AコンバーターDA07は、重量も、実に27kgという文句なしの超弩級で、本システムの基本構想が実現できるか否かは、本機の内容に関わってくるわけだ。
 本機のD/Aコンバーターには、インパルス応答性に優れたD/Aコンバーター理論として筑波大学で発明されたフルエンシーセオリーに基づいたフルエンシーD/Aコンバーター(F・E・DAC=特許出願中)を採用している。
 F・E・DACは、従来のタイプのように、デジタル符号を、抵抗素子などを使い階段状にしてからアナログ変換をする方法ではなく、新補間関数により、デジタル符号をダイレクトに曲選でつないでアナログにする方式であるとのことだ。
 従来型のD/Aコンバーターでは、動作理論上で、パルス成分の再生時には多くの付加振動を発生し、原波形は損なわれる。現実にテストディスクでパルス再生をして、スコープでチェックすれば、パルスに数個の付加振動が発生していることを容易に確認できるだろう。この点、F・E・DACでは、付加振動の発生はひじょうに少なく無視できるレベルにあるという。
 まF・E・DACは、その変換方式の特徴から、原理的に波形振動を発生するデジタルフィルターや、位相を変化させるアナログフィルターなどを完全に追放できる利点にも注目したい。
 筐体構造は、基本的に上下2段構成としてデジタル部とアナログ部を分離し、さらに各ブロックをトータル10個のチャンバーに分け、完全にシールドを施し、相互干渉の排除を図っている。なお、シャーシ全体に銅メッキ処理が施され、高剛性、大質量の特殊FRPボトムシャーシをベースに、18mm厚押し出し材のフロントパネルなどで、全体を無共振構造としている。
 アナログ部は、最大出力まで一定のバイアス電流を供給する純A級方式と、低インピーダンス伝送アナログ回路を中心に、デジタルとアナログ独立の2電源トランスと11
分割独立レギュレーターがバックアップしている。
 入出力系は、同軸入力3系続、標準光入力2系統に、伝送レートが従来の数10倍という超高速ラックス型光入力1系続。アナログ出力端子は、固定と可変の標準出力とバランス型出力の3系統を備えている。
 プレーヤー部のDP07は、トップローディング型で、音質面で有害なトレイがないのがうれしい。
 筐体構造は、セラミック入りFRPによる重量級シャーシ、12層厚アルミムク材のトッププレート、銅メッキ処理シャーシを組み合わせ、前面傾斜パネル内側のマイコン部、その後ろを上下2段構造とし、下段に電源部、上段前半部にピックアップ部とデジタル出力部をさらに上下に分け、上段後半部に電源トランスを収めた多重構造により、全重量は20kgとヘビー級だ。
 信号処理部と駆動系に独立22トランスを使い、各ステージ用に独立10レギュレーター採用で、電源部を介した相互干渉は、ほぼ完全にシャットアウトする徹底した設計が見受けられる。なお、基板関係はOFCの70ミクロン厚、PCOCC線材の全面採用、金メッキキャップ抵抗にピュアフォーカスコンデンサーなど、音質向上のための素材は豊富に投入されている。
 システムのウォームアップは、平均的な約2分弱で、安定があり、情報量の多い、一応水準と思われる音に変わる。
 聴感上での帯域バランスは、とくにワイドレンジを感じさせないナチュラルなタイプであるが、やや線は太いが、豪快に物凄いパワー感を伴って押し出す低音のでかたは、CDの常識を越えた異次元の世界である。密度感のある中域は、力感も十分にあり、やや輝かしいキャラクターを内蔵している印象がある。高域は穏やかで、むしろ抑え気味でもあるようだ。
 音場感は標準的だが素直で、ヴォーカルなどの音像はグッと前に出るタイプだ。この程度の性能ともなれば、ディスクの固定機構の精度がすこし不満であり、ディスクの出し入れによる音の変化は大きい。しかし凄い製品だ。

アキュフェーズ DP-80 + DC-81

菅野沖彦

ステレオサウンド 79号(1986年6月発行)

「興味ある製品を徹底的に掘り下げる」より

 CDプレーヤーが誕生して、今年は4年目を迎える。正確な数字ではないが、この間、恐らく30社以上のブランドが200機種に余るプレーヤーを製造して売り出したと思われる。そして、CDソフトのほうも急速に充実が計られ、今年中には12000種に及ぶものと見込まれている。オーディオコンポーネントの中で、CDプレーヤーは今、もっとも注目されている花形であり、やや低調気味なオーディオ業界の救世主のような存在である。レコード会社のレコードの売り上げも、ここ数年低迷を続けてきたが、CDの出現のおかげで、総売り上げで約2%、ほんの少しではあるが前年増となっている。前年減のくり返しが続いたことを思えば、これは明るいニュースに違いない。
 エジソン以来100年余りのレコードの歴史の中で、このCDの登場は、アコースティックが電気に変わったこと以上に、画期的な技術革新と言ってよいものだと、ぼくは思う。いろいろな技術革新が続いた。蠟管から円盤、縦振動から横振動、機械録音から電気録音、SPからLP、モノーラルからステレオ、テープレコーダーの発明と普及etc、全て大きな技術革新と成果だが、それらがもたらしたショック以上に大きなショックを、CDの登場はもたらしたと思うのだ。しかし角度を変えて見れば、従来のイノヴェイションが、使い手側にとって、常にある程度のコンパチビリティをもってスライド式に発展出来たり、あるいは原理的には相似式記録方式……つまりアナログ方式の発展という形で推移したのに対して、CDはソフト、ハード共にコンパチビリティは全くなく、符号式記録……つまりデジタル方式という全く異なる原理の上に成り立つという純粋に新しい方式の登場であるだけに、混乱は少なかったともいえる。
 今まで、ハイファイオーディオのメインプログラムソースであったステレオレコード(アナログディスク)と並行してCDが存在することになったわけであり、すでに膨大なレパートリーとなったアナログディスクが、一挙に無用の長物になったわけではない。それどころか、アナログディスクのもつよさは、CDに対しても高く評価する人が大ぜい存在するし、オーディオホビィに関しては、アナログプレーヤーのもつ精妙な曖昧性が、人の頭と腕を使う領域を多く残し、知識や経験、そしてセンスの生かせる趣味の本質を包含する魅力において、優位性をもっていることも言えるだろう。
 何ら手を施す余地のないブラックボックス的存在のCDプレーヤーは、この点だけでは、たしかに面白くない存在である。CDプレーヤーの登場は明らかに、先進テクノロジーが現代文化に及ぼしている様々な諸現象と同質の影響をレコード音楽とオーディオの領域に持ち込んだものであり、全面的に美徳をたたえるわけにはいかない。しかし、この技術の成果は、さらに大きな可能性をもたらし、レコード音楽とオーディオのレベルを向上させたものであることは間違いないし、先述の、人の趣味性に関しても、新たな世界を創造する力を秘めているとも思われる。この面では現在は未だ、その発展の過渡期であると思うのである。
 CDおよびCDプレーヤーの、この4年間の推移を見ていると、たしかに急速に普及し、多くの音楽愛好家を楽しませているようだが、残念ながら、従来からの他のオーディオコンポーネントに比して、中級以下のものにメーカーの力が入り、ハイエンドユーザーの心や要求を満たす製品分野は弱い。そもそも、デジタルテクノロジーは、ちゃんと動作すれば出てくる音に違いは生じないという、浅はかな考え方が喧伝され過ぎたようである。そして、また、そこそこの機械から出てくる音の水準は、同クラスのアナログプレーヤーに比べれば、はるかに高く、作る側も使う側にも、これで十分というような安易な満足感が生まれがちである。メーカーにとってみれば、コストダウンが、アナログ系の機械のように、如実に音の悪さとして出てこないCDプレーヤーはありがい。なんといっても安いものは数多く売れる。質より量でいくほうが適した面のある製品ともいえる。高度なテクノロジーによる製品ではあるが、きわめて量産向きの製品でもあるので、こうした特質が、まず活用された。安い価格でクォリティのよい音をという大義名分と共に、価格蓉争という傾向にまっしぐらに向かってしまったようである。当然、熱心なオーディオファイルがこういう状況下におけるCDプレーヤーに満足するはずはなく、一部の真面目な音質追求派の人達の間においては、むしろCDへの反感さえ生まれたように思えるのである。本誌で、ぼくが訪問しているベストオーディオファイルの諸氏のような熱心なファンの間で、CDを取り入れている例は極めて少ないのに驚かされる。こうした、いわばオーディオファイルのエリート達のCDの所有率は数%であろう。CDの全般的な普及率からすると、異常に低いといってよいと思う。
 一方、ぼくを初め、ぼくの周囲のオーディオの専門家達の間では、100%の普及率といってよい。仕事上当然の事と思われるかもしれないが、必ずしもそうではなく、個人として楽しむ時間でも、CDをプレイすることが多いのである。アナログディスクとCDとの演奏時間の割合は、半々か、ややCDのほうが多いというのが実状だと思う。これに関して分析を始めると長くなってしまうのでやめておくが、CDの実体は、多くのオーディオファイルの間で正しく認知されていないことは確かである。それには、こうした熱心なオーディオファイルが、本気になって取り組む気を起こさせるCDプレーヤーが少ないことが、大きな原因の一つのように思うのだ。
 こうしたバックグランドの中で、期待を担って登場したのが、ここに御紹介するアキュフェーズのセパレート型CDプレーヤー、DP80とプロセッサーDC81のシステムである。アキュフェーズは今さら御説明するまでもなく、日本のアンプ専門メーカーとして、創業以来、質の高いオーディオ技術と、自らオーディオを愛してやまない信条の持ち主たちの集団により、数々の優れた製品を生んできた。量産量販の体質を嫌い、本来のオーディオのあり方を反映させるべく、生産販売一貫して専門メーカーらしい努力を続け、ファンの間で高い信頼をもって迎えられている。多くのメーカーが、大型化したことにより招いた諸々の問題点を教訓として、ユーザーと共に真にオーディオを楽しめるメーカーという印象をぼくは持っている。社長の春日二郎氏、副社長の出原眞澄氏をはじめ、社員全員がオーディオファイルという感じである。それでいて、立派に経営の基礎を作り、堅実に成果を上げていることが喜ばしい。単純にいって、社員一人当りの売り上げは大きく、効率のよい優良企業である。『自らが納得するものを作り、その製品の理解者に買ってもらう』という、メーカーとしての根本的な本質をわきまえた企業なのだ。売れるものだけを作る……、あるいは、売れないものでも売ってしまう……といった経営哲学がぼくは大嫌いである。もちろん、自らが納得するものという意味には幅がある。人様々、そして、その納得するものもまた様々であるからだ。
 こういうアキュフェーズからCDプレーヤーが出るという話を耳にして以来、ぼくは、ひたすら、その登場を待ち続けていた。2年にはなるだろう。アキュフェーズでは、CDが産声をあげた頃から、このシステムのもつ優れた特質に眼を向け、研究開発に怠りがなかったようだ。第1号機の本機の誕生には3年の開発期間をかけたそうだ。今春、初めて本機に接し、その音を自宅のシステムで聴いたのだが、一聴して、このCDプレーヤーのもつ音の品位の高さに胸を踊らせたのである。
 CDプレーヤーは、登場以来、当初の音は全部同じという前宣伝とはうらはらに、機種別の音のちがいに驚かされたものだった。そして、ほぼ半年おきに現れる新製品には明らかな音質改善が重ねられ、そこから、CDの音の大きな可能性を予感させられ続けてきたものだ。もともと、期待した以上に音がよかったというのも事実だが、それでも、初期のCDプレーヤーの音には、不自然でメカニカルな質感を強く感じたことが多かったものである。
 時を経るにつれ、各メーカーは、それぞれ独自の技術的な改良点をあげ、新製品をアピールし始めた。そのどれもが確かに音に現れ、音質改善の成果として認められたのである。あるメーカーは光学系にメスを入れ、別のメーカーはメカニズムの振動系に対策を施し、さらには、フィルター、コンバーター、ディグリッチャーなどのオーディオ回路に、あるいは基本的な電源や、伝送系のノイズ対策など、数えあげればきりがないほどの改良ポイントの発表があった。まさに各社各様、あちらこちらから、多くのアイデアが生まれ出てきたのである。この機械が、まあまあな音が出るという段階で見切り発車したものであることを証明するようなものだった。
「だから、いわないことじゃない。CD技術は十分研究所内で暖めて、もっともっと音楽再生装置としての微妙な点まで煮つめ、21世紀の新システムとして登場させればよかった。それまでは、世界のオーディオメーカー間のサミットで、現行のアナログで十分実をとるビジネスを続けるべきだ。しかも、アナログには、まだまだ技術開発の余地が大きく残されている。つまり、ビジネスとしても、技術開発としても、そしてユーザー達の幸せのためにも、そのほうがよい。そんなに急いでどこへ行く? 死に急ぐことはあるまいに……」
 これが、ここ数年間、ぼくが言い続けてきた言葉だった。だが、出てしまった以上、これは繰り言に過ぎない。繰り言をくり返しながら、ぼくは現実のCDとCDプレーヤーをアナログと並行して楽しみ、日に日によくなっていくこの世界の音の成果に、大きな期待を寄せてきたことも事実だったのである。
 このアキュフェーズのプレーヤーには、現時点までに各社によって試みられた多くの改良点と、音質の鍵となるポイントの攻めが全て盛り込まれているといってよいだろう。そして、それだけでなく、未だ、どのメーカーもがおこなっていない世界で初めての試みも見られる。つまり、アキュフェーズが独自に盛り込んだ努力だが、それらは、3年という開発期間をおき、よく技術の流れを観察し、情報を集め、音を聴き続けた成果にちがいない。アキュフェーズのCD開発室は賢明であった。そして多くのメーカーがやったように、他社へ製造を依頼してブランドだけをつけるというような商行為には眼も向けなかったのは立派だ。このメーカーとしては、そうする必要もなかったのだろう。自らが納得の出来るものを作るまで、じっくりねばっていたのである。
 それでは少し具体的に、このDP80/DC81コンパクトディスクプレーヤーシステムについて述べてみよう。
 まず外観から。シャンペンゴールドのアキュフェーズアンプと共通のパネル仕上げをもつ。どういうわけだか、黒パネルばかりのCDプレーヤーの中にあって、これは全く、そうした世間の動向に左右されず、しかも、堂々と自社のアンプとのシリーズ・デザインとしたところもこのメーカーらしい。プレーヤー部DP80を一目見れば、その操作系が、きわめてシンプルであることに気づくだろう。スイッチは最小限に整理され、プレイ、トラック、サーチ2個、ポーズ、そしてトレイのオープン/クローズだけである。ストップはトレイスイッチに兼用させているらしい。もちろん、これでは、あまりに機能がシンプル過ぎるが、実はたいへんな多機能である。それらの操作スイッチは、全て蓋つきのサブパネル内に収められているのである。これみよがしに10キーがずらりと並び、マイコンルックのプレーヤーが多い中で、このコンセプトはユニークであり、かつ、レコードを聴くものの心に寄り添う心配りとも感じられるのである。プロセッサー部DC81も同じデザインであるのはもちろん、両者共に、これもアキュフェーズ・イメージとして定着したパーシモンの側板つきである。
 プレーヤー部とプロセッサー部は、統一規格の75Ωフォノジャックで結合される他、専用のオプティカル・カップリングが設けられている。そして出力は50Ωのバランス型のキャノンプラグと、アンバランス型のフォノジャックが固定出力、可変出力の2系統、合計3系続設けられている。両方共、脚には真ちゅうムク材の削り出しが使われている。プレーヤー部はもちろん、リモートコントロールコマンダー付属である。どちらも重厚で剛性の高い作りと防振対策が入念に施され、目方は、並のCDプレーヤーより桁違いに重く、ずっしりとくる。見るからに高級プレーヤーとしての質感もあり、これならば、かなりのオーディオファイルにとって、第一関門をパスできる風格ではないだろうか。時間的に経済的に、そして情熱を傾けて完成したオーディオシステムのメインプログラムソースとして、チューナーかカセットデッキの安物と見間違うような軽薄なCDプレーヤーを組み込む気になれるはずがない。はっきり言って、ぼくのシステムのなかで49、800~69、800円のCDプレーヤーを常用しろといわれても無理である。価格だけにこだわるのは愚かかもしれないが、ものにはバランスというものがある。数百万円のシステムのメインプレーヤーが、49、800円とはいかないまでも10万円そこそこということに、何のアンバランスも感じないような人間がいるだろうか? もし、CDプレーヤーというものが、49、800円以上のコストは無駄で、よりよくしようがないとしても、本気になって使う気がしないだろう。ましてや現実はまだまだ音のよいCDプレーヤーを作り得る可能性がはっきりしているのだから。オーディオファイルの心を満たすCDプレーヤーは、必然性をもったハイ・プライス……つまり、内容、外観、価格が、自然にそのものの価値観とバランスする製品でなければならないと思う。この機械は、先ず、この第一の条件を適える製品として評価出来る。
 さて、中身についてだが、トレイの動作を含むアクセスは第一級と折り紙をつけてよい。出入りの速さ、フィーリング、アクセスタイムのスピードと確実性、そして、リニアモーター使用のレーザーピックアップ系、そのメカニズムは定評のあるS社製だろう。アキュフェーズからは確認がとれないが、まず間違いあるまい。現在、もっとも優れたメカニズムである。アキュフェーズのようなメーカーにとって、こうしたパーツが提供されることは幸せであり、提供したS社の姿勢も好ましい。ここ当分、このメカ系を世界の高級CDプレーヤー各社に提供することを勧めたい。と同時にまた、さらにこれを上廻るメカニズムの開発をも期待したいものだ。
 このシステムの最も特徴となるところはD/Aコンバーターである。CDプレーヤーの音質を左右するファクターは無数にあるといってよく、そのトータルバランスが音に出ると思われるが、デジタル信号をアナログ信号に変換するD/Aコンバーターが、中でも重要な位置を占めることは明らかである。本機では、16ビットのD/Aコンバーターを、既成のICを使うことなく、世界で初めて、ディスクリートによって構成した。これによって理論値に近い実動作の達成を目指したものである。これだけで音質を云々することは危険だが、このシステムの音質の優れた要因として、このコンバーターの存在は大きいものと思われる。
 また、アキュフェーズというメーカーは、アンプ専門メーカーであるが、チューナー技術に関して第一級のレベルを誇ってもいる。確かに、もともと同社の社長、春日二郎氏は、高周波専門の技術者であり、トリオ(現ケンウッド)の創始者である。そのバックグランドからして、アキュフェーズが優れたチューナーを作っていることは領けるであろう。こうした高周波チューナー技術のキャリアは、デジタル信号のもつVHF帯域の扱いに関して活きないわけはない。CDプレーヤーにとって、これらのデジタル信号の不要成分は全て有害なノイズであり、オーディオ信号を攪乱して音質劣化させる悪さをする。
 フォトカプラーや光伝送はそうしたことに対する方式として使われ始めたのだが、本機においても、その技術がよく生かされ、デジタル部とアナログ部は34個の高速オプト・アイソレーターによって電気的に分離されながら信号の伝送をおこなっているし、プレーヤー部とプロセッサー部にも標準仕様の同軸ケーブルの他に、専用の光伝送方式を採用し、ユーザーが選択使用出来るようになっている。他のプロセッサーとの組合せにはともかく、このシステムの結合には、光ファイバーによる場合のほうが音質的に優利であり、両者の比較をやってみたが、光ファイバー結合のほうが音に一種の滑らかさが感じられるようだ。
 D/Aコンバーターは左右独立、またその前に高域不要成分のカットに挿入されるローパスフィルターも、左右独立の2倍オーバーサンプリング方式のデジタルフィルターとしている。前段がデジタル・ローパスフィルターだと、カット周波数の下限が高くとれるため、サンプリングホールド後のローパスフィルターは負担が軽くなり、現在はデジタルフィルターが主流になっている。とはいうものの、後段のローパスフィルターは、スプリアス成分のカットという本来の目的だけではなく、フィルターによってアナログ信号の音色が異なるようだ。本機では、アクティヴタイプの9次バタワース型フィルターを採用している。リップルの少ないバタワース型で、9次のものを使って減衰特性を確保しているのであろう。
 他にチェビシェフ型、ベッセル型などのフィルターがあるが、この辺の選択は音質に対する鋭敏な耳で決めるのが最終的な決め手となるのではないだろうか。因みに減衰特性ではチェビシェフ型、位相特性ではベッセル型、帯域内リップルではバタワース型が優利ということになっている。
 なお本機のローパスフィルターは、ディスクリートで、その後にディエンファシス回路、バッファーアンプと続くが、そのゲインは0dBでDCカスコード・プッシュプルというアキュフェーズらしいもので、バッファーからの出力端子は直結である。
 電源部はデジタルとアナログはもちろん、LRも分離、またプリントボードもLR独立構成とするなど、内部の構成はきわめて整然として美しい。外観と内容がマッチしたオーディオファイルに認められる風格をもったCDプレーヤーシステムといえるだろう。
 ゴールデンウィークの期間、ぼくは自宅で、このCDプレーヤーシステムで数多くのCDを聴いた。音が分厚くて密度が高く、重厚である。それでいて、透明度が高く、聴感上のS/Nがすこぶるよい。面白かったのは、この艶と輝きやその質感は明らかにアキュフェーズ・アンプに一貫したものであったことだ。CDプレーヤーにも人が出る。メーカーが出る。全く他のオーディオコンポーネントと変わらない。実に興味深いことである。
 CDプレーヤーは音が冷たいとか、固いとか、あるいは、弦がキンキンしてメカニカルだといった声が聞かれる。しかし、このプレーヤーで聴いた、オリジナルがアナログ録音のレーグナ一指揮ベルリン放送管弦楽団のマーラーの交響曲第3番、第6番が入った3枚組のCDアルバムは、そんな風評とは無縁の素晴らしい音であった。この2曲はアナログディスクでも持っているが、このドイツ・シャルプラッテンの録音は、アナログ録音の最高峰といってよい優れたものだ。そこに聴かれる弦のしなやかでくすんだ音色の妙、ブラスの輝きと重厚さなど、各楽器の質感の再現は実に見事なものだ。そして、これがCDでもちゃんと聴かれたのである。
 改めて、最近SMEシリーズVを取り付けた、自宅のトーレンスのリファレンスで(カートリッジはオルトフォンMC20スーパー)、アナログディスクを聴いてみた。そして、CDがハイファイメディアとして素晴らしいものであることを再確認したのである。むろん、違いはなくはない。ノイズがちがうだけでも音色の印象は変わる。伝送系の違いがこれほどあって、寸分違わぬ音がするわけはない。しかし、CDは弦がキンキンするとか、何か情報が欠落するといったような表現は当たらない。CDで弦がキンキンするとしたら、まず、そのCDのオリジナル録音と製造プロセスを疑うべきだ。このマーラーのようにオリジナルの録音のよいものは、CDでもちゃんとよさが出る。次にその特定のCDプレーヤーの問題となる。たしかにプレーヤーによってはかなり大きな差があるのだから……。
 ごく限られた経験だけで、CDはこうだと決めるのは、乱暴過ぎる。情報が欠落しているようだというのもよく聞かれる不満であるが、これもー概には言えない。むしろ情報量が多いともいえるぐらいだ。だいたいにおいて、情報が欠落しているという人の多くは、アナログディスクが、再生系の機器を含めて創生する、情報ノイズや位相差成分などの、微妙な歪に慣れ親しんでいる場合が多いようである。しかもそれが、情緒性としてその人にとって美しく快いとあれば、否定し去るわけにはいかないのが、この世界の面白さであり難しさでもある。
 こんなことを書いて憚らない気にさせてくれたのが、このアキュフェーズのDP80とDC81のCDプレーヤーシステムであった。
 CDの世界は、オリジナル録音から再生システムまでの全プロセスにおいて、今後、まだまだよくなる可能性をもっている。

ソニー CDP-553ESD + DAS-703ES

井上卓也

ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
「BEST PRODUCTS」より

 ソニーのCDプレーヤーのトップモデルは、業務用を除き、CDP701、CDP552ESDに続き、第三世代の新製品CDP553ESDに交代することになった。これに伴い、CDセパレートシステム用のD/Aコンバーターユニットも第二世代のDAS703ESに置換えられた。
 まずCDP553ESDから眺めてみよう。基本型は、第二世代のCDP552ESDを受継いだハイスピード・リニアモーター・トラッキング・メカニズムに特徴があるが、機械的振動とCDプレーヤーの音質の相関性が検討された結果、光学ピックアップ駆動メカニズム系に、新開発のセラミック緩衝材を採用した『セラデッドシャーシ』の採用と電気系のデジタル回路からアナログ回路へのノイズ混入を防ぐフォトカップラーを使った光学式トランスファー方式の採用が大きなポイントである。
 CDプレーヤーのシャーシに、ディスク信号読取り時に機械振動が加わった場合、サーボ信号中のエラーが増加しサーボ補正電流を乱し、この影響が電源を介してオーディオ信号を劣化させるが、音質を向上するためには、振動しにくく、振動が起きても減衰の早い材料や構造をメカニズムに採用する必要がある。
 一般的に振動をコントロールするためには、ゴムなどの柔らかな材料を使い振動を吸収させる方法が行われるが、他に、異種材料を重ねて振動を制御する方法もあり、今回は、光学ピックアップ駆動メカニズムの金属シャーシをセラミック樹脂ではさみ込むアウトサート成形法を採用するとともに、CDディスクを支えるチャッキングアームにも、金属と樹脂の二重構造を採用し振動源を抑える方法がとられている。これに加えて、外部からの振動を防ぐ特殊なインシュレーターを使った防振構造までも採用されている。
 電気系で音質劣化の原因となるところはパルスを扱うだけに数多く存在するが、ここではデジタル系のジッター成分とビ−トノイズを減らすためにD/Aコンバーターのクロックを基準に全デジタル系の信号処理を行う『ユニリニアコンバーターシステム』の採用、左右チャンネル間の位相差を低減する左右チャンネル独立のD/Aコンバーター採用、デジタルフィルターと一次ディスクリート・アナログフィルターの併用などフィルター回路をはじめ、デジタル系とアナログ系電源を分離した6系統独立安定化電源や選び抜かれたオーディオパーツなど細部にいたるまでの音質重視設計が施されている。また、より高度な要求に応えるためのデジタルセパレートシステム用のデジタル出力端子も備えている。
 機能面は、20キーを使った20曲までのダイレクト選曲と20曲までのメモリーとRMS機能、5パターンが選べるフルリピート機能、内蔵のマイコンがランダムに演奏曲を選定するシャッフルプレイなどをはじめ、大型ディスプレイ上で選曲したトラックナンバーをグラフィックに表示するミュージックカレンダーなど、最先端をゆく多彩な機能は見事である。
 デジタルセパレート方式のためのD/AコンバーターユニットDAS703ESは、電気的に分離独立したデジタル部とアナログ部の間を光伝送方式で結ぷ新技術の採用による性能向上が計られ、CDP553ESDはもとより、新しくデジタル出力端子を設けたPCMプロセッサーPCM553ESDとも組み合わせ可能だ。また将来のシステムアップに対応したデジタルテープモニタ−端子を備え、サンプリング周波数は3種類の自動選択が可能である。
 CDP553ESDは、歴代のソ二−のトップモデルCDプレーヤーが、それぞれの時代のリファレンスモデルであったと同様に、性能、機能、音質、操作性など、どの点をとってもリファレンスモデルに相応しい傑出した内容を備えている。メカニズムの動きは節度感があり、正確で、かつ敏速に動作をする。まさに、キピキビとした小気味よい動きである。音の傾向は整然と整理された音を聴かせるソニータイプの典型であり、曲間でチェックする残留ノイズの質と量ともに、さすがに低く、見事の一語につきる。SN比が優れているために、音場感情報は豊かであり、CDディスクを出し入れしてセンターリングの精度を試してみると、音の差は少なく、これは機械的な精度の高さを物語るものだ。
 DAS703ESと併用すると一段と鮮度感の高いCDサウンドが楽しめる。価格的にはかなり高価だが、結果の音質向上はこれならではの音の世界というしかあるまい。デジタル系のコードは種類により音が大幅に変わるため標準コードを使いたい。

ソニー CDP-552ESD + DAS-702ES、Lo-D HDP-001 + HDA-001 (DAD-001)

菅野沖彦

ステレオサウンド 73号(1984年12月発行)
「興味ある製品を徹底的に掘り下げる」より

 1982年10月のCDプレーヤー発売以来、まる2年が経過した。というよりも、3年目に入ったという言い方のほうがよいかもしれない。なぜならば、多くのメーカーのCDプレーヤーは第三世代目が登場しているからだ。例によって異常に闘争的で気短かな日本のメーカーの気迫のおかげで、2年間としては驚くほどの機種数が発売され、第一目標の10万円はさっさと割り、ついに5万円が普及品の競争価格となった。いいものを安く作って売ることは大いに喜ばしい。しかし、一方において、高くてもより優れたものを作ることも大切だ。この2年間のCDプレーヤーは、価格的にも内容的にも、中級からスタートを切って、上下へ発展したように見える。しかし現実は必ずしもそうではなく、価格的にはその通りなのだが、内容としては、個々の機器によってまちまちで、価格と性能・音質との関連は見出しにくい。安くても音のいいもの、高くてもそれほどでもないもの、そして、さすがに高いだけあって素晴らしい音のものなどが入り乱れているといってよい。
 デジタルオーディオは、もともと音に差の出るものではなく、フォーマットが同じならば、それですべてが決るのだと聞かされてきた。もし、その通りなら、いまの現実がおこるはずはない。ほんとうは安くても高くても、その基本性能と本質的な音に変りはないはずなのである。少なくとも、価格の安いもののほうが音がよいなどということがおこってはいけないはずである。しかし、それはあくまで『はず』であった。CDプレーヤーが出る何年も前に、私はデジタルプロセッサーとビデオデッキを使っての実験的な録音を何度か行なったが、その度に、このデジタルエンジニアリングの専門家の言葉を疑わざるを得ない体験をしてきた。同じプロセッサーで、デッキを変えると音が変わる。テープによっても若干の音質の変化があるという体験をした。CDが実用化して、多くの人達が、プレーヤーによる音の変化を指摘した。皆、一様に、そんなはずはないのだが、実際に違うのだと首をかしげたものだ。ついには日本オーディオ協会が主催して、市販のCDプレーヤーの音を聴き比べる実験も行なわれた。私もこれを聴いて、改めて、その違いに驚かされた。出席した数百人のマニア諸兄も同様の感想をアンケートに残したのである。
 この2年間、自宅で数多くのCDプレーヤーに接したが、ますますその観を深めている。CDプレーヤーもまた、多くのオーディオコンポーネントと同じく、この複雑微妙な音と音楽の再生に個性をもつことが、私たちの耳で確められたのである。ただし、アナログプレーヤーのような大きなバラつきがないことは事実であって、その下限(今後のことは未知だが……)の水準は、アナログの最低水準よりはるかに高い。価格を考え合せるとなおさらのことで、例えば、5万円の価格で、カートリッジつきプレーヤーとイコライザーアンプまでを含めたアナログの再生システムとなると、まともなコンボーネントの範疇には到底入れられないレベルのものだろう。しかし、上限はどうか? これはどうやら今の段階では明言し難いようだ。私見でば、現在のCDフォーマットの16ビット/44・1kHzというのは、不十分と感じられる。人間の感覚と音楽の妙、その芸術性に謙虚に技術が奉仕するためには、不必要と思われる余裕のある規格、例えば、22ビット/100kHz以上のサンプリング周波数で、実際ものを作り、多くの人に聴かせ、経済性との妥協点でどこまで下げられるかをじっくり時間をかけて検討すべきだと私はメーカーに言い続けてきた。現在のCDフォーマットは既成の学説の鵜呑みに理論値をあてはめたもので、決して十分な実験の結果決められたものではない。いずれ、そのうちに、スーパーCDフォーマットなるものが出来るような気もするのである。とはいうものの、現在のCDの能力は、いまだに計り知れないところがあって、新機種の中には、驚くほど音がよくなったものがあるのも事実である。そして、今や、私個人の楽しむプログラムソースとしても、CDはすっかり定着し、よきにつけあしきにつけ、アナログディスクにはない特徴に日常親しんでいるのである。
 CDの可能性は未知だと書いたが、それを再生倒で強く感じさせてくれたのが、今回登場のソニーCDP552ESD+DAS702ESと、Lo-D、DAP001+HDA001という2機種であった。
 図らずも、ほぼ同時に発売されたこれらの機種の共通点は、セパレート型CDプレーヤーシステムというもので、光学メカニズムを含む信号処理部までのデジタル系と、DAコンバーター以後のアナログ系とを、それぞれ別のシャーシに分離してまとめられた新しいコンセプトによるものだ。このコンセプトは従前から話題にはなっていたもので、ぜひ製品化の実現が望ましいと考えられていたものである。その理由はいくつかあるが、一つには、デジタル系とアナログ系を狭い共通のシャーシ上に同居させることによる各種の干渉による悪影響が想像されていたからだ。そして、このコンセプトによる製品は当然コスト高となるが、それによってさらに、各部の品位を上げることに連ることが予想されたのである。現に2機種とも、ただセパレートにしたのみならず、それぞれ、デジタル部もアナログ部も従来機よりも一層入念な回路設計、コンストラクション、パーツの選択に磨きがかけられているのである。次に、この形態をとることにより、プレーヤーとプロセッサーが独立製品となり、コンポーネントとしての発展性と趣味性が高まることである。今のところ、Lo-Dとソニーでは、プレーヤーのデジタル信号出力の出し方に違いがあって、出力端子を含めてしかるべく統一が図られるべきだし、その方向に向っているが、そうなると、他のメーカーからDAプロセッサー単体が発売される可能性が出て、プレーヤーとプロセッサーの組合せの自由度が生まれることになるだろう。すでに、これを大いに歓迎しているアンプの専門メーカーもあり、こうなるとCDプレーヤーのハイエンドユーザー層への浸透に拍車がかけられることになるはずである。CDプレーヤーの普及化もよいが、一方において、熱心なハイエンドユーザーに認知されないことにはCDの市民権は不十分である。ユーザーの中には、まだまだCDアレルギーの人々が多いはずで、それらの人の中には、問答無用、聴く耳持たず……といった感情的な姿勢の人も少なくないことを知っているが、同時に、現在のCDの水準が文句なく受け入れられるレベルにまでは至っていないのも事実である。私自身のCD観は初めに書いた通りなので重複は避けるが、この新しいテクノロジーの成果と可能性はもっと虚心坦懐に受け入れたほうがよい。こだわりも必要だが、前向きの明るさも大切だ。人生、ネアカジュクコウが私のモットーである。

ソニー CDP552ESD + DAS702ES
 さて、このソニーとLo-Dの2機種についてだが、詳しくは、後で御紹介するそれぞれの機械の直接の担当エンジニアとのインタビューを読んでいただくとして、その概略を述べておこう。
 ソニーCDP552ESDは、同時発売のCDP502ESと基本的に同じCDプレーヤーであるが、本機は、それにデジタル出力端子を装備したものである。このプレーヤーの最大の特徴は、その操作性の完成度の高さであって、きわめて静粛かつ迅速なアクセスはあらゆるCDプレーヤー中、群を抜いている。20キーを持ち、最大20曲までメモリー可能、呼び出しはこれにプラス10キーを加えて30曲まで瞬時におこなえる。メモリーは演奏中にプログラムのチェック、追加、変更も可能である。また、シャッフルプレーといって、プレーヤー自身で再生曲順をランダムに選定するという面白い機能ももっている。新しいLSIの開発で主要デバイスは一新され、光学系のメカニズムやサーボもより完成度を高めた。フローティングマウントにより、メカ自身と外部からの振動への対策も図られている。CX23033ICによるデジタルオーディオインターフェースでピンプラグ一本で簡単にデジタル出力がシリーズアウトされる。これでCDのサブコードなども送信可能である。ピックアップ駆動にはリニアモーターが使われ、サーチはきわめて速い。速すぎてディレイスイッチが用意されているほどだ。また、サーチ中の不快なノイズも全く気にならない。ディスクトレイの出入もスピーディで全くいらいらすることがなく、一度このプレーヤーを使うと、他機種のそれがスローモーションでじれったくなってしまうだろう。リモートコントロールユニットRM-D502は、CDP502ESと共通の赤外線パルス式である。
 DAS702ESは将来の放送衛星やSHF放送試聴の備えをもったDAプロセッサーで、サンプリング周波数は32kHz、44・1kHz、45kHzに自動切換えにより対応する。DAコンバーターはLR独立型、オーディオ回路には電源トランス、コンデンサー、線材などに入念な音質対策が施され、ESシリーズ共通の剛性の高いシャーシコンストラクションとなっている。

Lo-D DAP001 + HDA001
 Lo-D/DAP001も、大筋においては変りはなく、光学系のメカニズムと信号処理部までのデジタル回路をもつたCDプレーヤー。このプレーヤーのアクセス機能は既存のDAD600に準じるもので、10キーを備えたコンベンショナルなもの。操作性は標準的といってよいだろう。内容的な特徴としては、5重訂正という大きな訂正能力をもつが、これは新しく開発されたC-MOS・LSIによりエラーは1回/20万年という高性能、かつ、訂正もれによる補間雑音も最小限におさえられているという。150億以上のピット信号が刻まれているCDだから、読み出しのエラーはつきものである。またCDそのものの成形もパーフェクトにはいかないから、そのローカルディフェクトも無視出来ない。デジタル系で音が変わるとすると、誰もがまずエラーレイトを想起するし、事実、エラーレイトのチェック以外に、今のところ、デジタル系に起因する音質の定量的チェック方法はないらしい。必要以上とも思われる5重訂正という従来の倍以上の訂正能力をもたせ万全を期したものだろう。デジタル信号の出力は、今のところアンフェノール24ピン・コネクターによっているが、いずれ、ソニーと同じフォーマットに改められる予定である。この部分は今後、いろいろな論議を呼ぶことになりそうである。このプレーヤーは、ソニーと正反対といってよいデザインイメージで、ソニーがブラックなのに対し、こちらはシルバー。メカニカルなソニーのパネルフェイス廻りに対して、こちらは木製サイドボードをもったウォームなものである。
 HDA001はデジタルフィルター、DAコンバーター、サンプルホールド、ローパスフィルター、アナログアンプの各ブロックをまとめたプロセッサーである。DAコンバーターはリニア積分型でLR独立して使われている。デジタルフィルターはオーバーサンプリング方式で、この辺りは、ソニー、Lo-D共に自社開発のLSIを使っているのでパーツの差はあるが、基本方式としては同じとみてよいだろう。アナログアンプ部は、これも入念な配慮がみられ、電源トランス、コンデンサーなど、コンストラクション、品位ともども十分検討されたものだ。キャビネットの無共振化、外部振動の遮断などへの配慮も、DAP001とともによく検討された作りである。
 それでは、以下、ソニー、Lo-Dそれぞれの開発担当者とのインタビューによって、それぞれの製品の特徴を中心にさらに話を進めることにしよう。私が、ソニー、Lo-Dのエンジニアに質問する形で進行することにする。

●ソニー開発担当者エンジニア
──CDプレーヤーを、セパレート化された理由をお聞かせ下さい。
『CDプレーヤー開発する前に、PCMプロセッサーPCM-F1を商品化したわけですが、このとき、音を徹底的に追及したかったため、使い勝手をやや犠牲にしながらもセパレート型を採用し、そのおかげで、かなり満足すべき結果が得られました。
 PCMレコーダーでセパレート型を開発したことにより、CDプレーヤーにおいても、メカニズムが発生する振動がエレクトロニクス部分に与える影響、それに、デジタル回路とアナログ回路の干渉が、音質劣下をきたすのではないかと、感じていました』
──CDP101を発表された時に、既にセパレート型の方が音がいいことは判っておられたのに、なぜ、最初のCDプレーヤーは、インチグレーテッド型で出されたのですか。
『アンプにも、インテグレーテッド型とセパレート型があり、それぞれ意味があるわけですが、CDプレーヤーでも同じことが言えます。われわれとしましては、高級機はセパレート型も考えていましたが、まだ、その時点ではCDプレーヤーのデジタルアウトの規格が決まっておらず、CDを普及させる意味もあって規格が決まるまで待っていたわけです。
 このデジタル・インターフェースの規格は、プロ用デジタル機器の規格に準じたもので、ドラフトが一九八二年末に、最終文書が翌年九月に配布されています。これは現在はIECで標準化されようとしています』
──具体的には、どの部分から分けられたのですか。
『D/Aコンバーターを、プロセッサー側に内蔵する形態を採りました。これは、将来出てくるであろう衛星放送チューナーやDATに対応できるようにするためです。
 プロセッサーは、サンプリング周波数をCDの44・1kHzの他に48kHz、32kHzにも対応できるように設計していますので、フォーマットさえ同じなら他のデジタル機器でも接続可能になるわけです』
──セパレート型でしかできないこと、それに、ソニーの第三世代のCDプレーヤーとして第1、第二世代のモデルとの違いはありますか。
『インテグレーテッド型の場合、一つのシャーシにメカニズム、デジタル回路、アナログ回路を収めるため、スペース的余裕がなく、どうしてもアナログ回路は妥協せざるをえなかったわけですが、スペース的に余裕のあるセパレート型は、アナログ回路にアンプ開発で培ったノウハウ、技術を充分に生かすことができました。
 従来の光学系はギヤで駆動しており、メカニズムの機械ノイズ、経時変化の問題がありましたが、今回採用したリニアモーター方式は、ギヤ駆動の問題点をすべて解決することができ、また、アクセスのスピードアップも可能となりました。
 さらに、ピックアップ部と駆動部を一体化したことにより、加工精度が向上して、より正確な信号のピックアップが可能になりました。また、この部分を、シャーシからフローティングしていますので、メカニズムが発生する機械ノイズがエレクトロニクス部分に影響を与えることはありませんし、外部振動からピックアップ部が逃げられるなどの、メリットがあります』
──デジタルは、音が変わらないとCDの発売当初は言われましたが、実際にはかなり大きな違いがありますが、このことについて、設計者の方は、どうお考えでしょうか。
『LSIとデジタル回路の設計は、純粋なデジタルのエンジニアが担当していますが、メカニズム、アナログ回路を含めたCDプレーヤーの全体的な設計は、長くオーディオを担当しきたエンジニアがやっており、彼等がデジタル回路を見直しますと、音の変わる要素が数多く出てきます。
 さらに、デジタル波形を見てみますと、理論上では0と1しかないはずですが、0にもいろいろな0があり、1にも同じことが言えます。単純に、デジタル信号は0と1だけとは、現在では言えないように思っています』
──それは、どういったことが原因で起こるのですか。
『まだ正確なことは言えませんが、おもに個々のパーツが発生するノイズ、デジタル回路が出すノイズ、機械ノイズ等の影響からくるものだと考えられます。将来的には、この辺を完全にクリーンにして、デジタル信号を理論通りの0と1のみにして、信号処理していくつもりです。
 今回のモデルが、CDで出せる究極の音とは言いませんが、デジタルのもつ優れた可能性を伺い知ることのできるものだとは思っています』

●Lo-D開発過当エンジニア・インタビュー
──セパレート化されたコンセプトは、どこにありますか。
『エレクトロニクス回路は、デジタル、アナログに関係なく電源は重要なポイントだと思っています。
 一般的なCDプレーヤーは、1つのシャーシにデジタル回路とアナログ回路とを同居させているため、それぞれに理想の電源をもたせることは無理ですし、どこかで妥協せざるをえない。また、共通の電源を介して起こる干渉と、デジタル回路から発生するノイズの、アナログ回路への飛びつきを防ぐために、セパレート化に踏み切ったわけです』
──セパレート型と、インチグレーテッド型との音の差はどの程度ですか。また、それは、ただ単にセパレートしたためによるものですか。
『作ったわれわれが驚くくらい、非常に大きい差と言えます。しかし、ただ単にセパレート化したことだけによる音質向上ではなく、現時点で、考えられるだけのことをやり、徹底したコンストラクションの見直し、パーツの追及によるところも大きいと思います。
 今回のモデルの開発は、おもにアナログ系を重点的に音を詰めていきました。デジタル部も新たにLSIを起こしましたし、五重訂正回路の採用により、これまでは平均値補間で処理してきた大きなエラーも、正しいデータに直り、アウトプットされます』
──電源には、どういったことがされていますか。
『電源は、ローノイズの高速ダイオード、4700μFの音質対策コンデンサー、そして15Vに定電圧化して、そのコンデンサーの容量も1000μFものを使用しています。ようするに、セパレートアンプの電源と同じ考えで、音質追求を図っています』
──どの部分から、分けているのですか。
『D/Aコンバーターは、プロセッサー側に入っています。この分けかたは、基本的にはソニーのものと同様といえます。ただし、ソニーは、ピンケーブル一本で信号の受け渡しを行っていますが、われわれは、24ピンのアンフェノールコネクターを用いました。
 受け渡しの信号の内容は、シリアルデータ、データのクロック、サンプルホールドの信号とエンファシスの有無の信号、ミューティング、グランドラインで、これをモジュレートせずに送りだすか、モジュレー卜するかだけが、われわれの方式とソニーの方式の違いですが、互換性をもたせるためにピンコネクター方式に変更すべく、検討中です』
──特性データをとると皆同じになるデジタルですが、その音の違いはアナログ以上に思うのですが、データと聴感の関係をどう考えられていますか。
『各社とも、あまりにも音が違いすぎる。しかし、データをとると皆同じ。われわれは、これを解明するには現在考えられる究極のものをやってみなければならないという結論に達したわけです。
 同時に、高級アナログプレーヤーを使われているユーザーにも、満足していただけるような音をCDからいかに出すか、ということも目標としてありました』
──音決めをされる場合、デジタル部とアナログ部と、どちらが比重が高いのですか。
『パーツ交換による音の変化は、アナログ系のほうが大きいです。しかし、デジタル系も使用パーツの違いによって、そうとう音が変わるのも事実です。アナログ系のもう一つの特徴は、ローパスフィルターの後のオペアンブの出力に、能率の高いスピーカーならドライブできるほどのパワーをもつバッファーアンプを備えていることです。これは、音質向上にそうとう大きな効果があったと考えています。
 CDに含まれている情報を正確にピックアップしてアナログに変換しても、それをプリアンプに正確に伝送しなければ、なんにもなりません』
──このモデルは、インチグレーテッド型と比べて、音の差が非常に大きいわけですが、これはセパレート化によるところが大きいと思われますか。
『このモデルは、いろんな細かいことの積み重ねによって、ここまでのクォリティがえられたのだと思います。ですから、もしかすると、どれかひとつでもかければ、がらりと音が悪くなるのかもしれないし、ひとつぐらいかけてもそれほど音は変化しないのでは、とも思えます。このへんは、これから追及していきたいところでもあり、疑いだすときりがなく、オーディオの一番象徴的な問題がでてきた感じで、設計者泣かせのところでもあります』

 以上、それぞれのCDプレーヤーの担当エンジニアの談話である。その話からもわかるように、セパレート型のメリットは明らかなようだ。そして、その理由は、デジタル回路とアナログ回路の干渉をおさえることによる音質改善、メカニズムの発生する振動がエレクトロニクス部分に与える影響の回避、十分なスペースを確信し、余裕のあるコンストラクションの確保、そして、それらによって得られる高品位をさらに高めるパーツや回路の洗練によるものであることが解る。
 2機種ともに、実際の試聴でその音のよさは明確に認識され、初めに書いたようにCDの音の可能性の高さを知らされることになったのだが、興味深いことは、この2台のCDプレーヤーシステムがそれぞれに違う音を聴かせることである。
 ソニーのCDP552ESD+DAS702ESは明らかに同社のCDプレーヤー中、CDP5000Sをのぞいては最高のもので、一体型とは次元を異にする音である。音の厚味、透明感、立体感、品位が一段と上り、細部がいっそう明解に聴こえながら、音が機械的な冷たさをもっていない。実に豪華な響きなのである。
 Lo-DのDAP001+HDA001も、同社の一体型とは次元を異にする音であることでは変りない。しかも、このプレーヤーシステムの音は、音の厚味に払いてはソニーのそれを上廻り、前者が華麗な響きなのに対し、これはより落着きのある、しっとりとした響きである。まるで、よく出来たMM型のカートリッジとMC型のそれを聴いた時のような音の違いが、この2台のCDプレーヤーから感じられた。つまり、ソニーがMM型、Lo-DがMC型である。こうした音の質感の違いこそが、オーディオコンポーネントの楽しさであるし、難しさであるが、CDプレーヤーとして一歩も二歩も前進したこの2台においても、依然としてそれが存在する──いや、かえって大きく存在するかもしれない──のは面白い。
 2つの機種を同時に扱えば、当然比較対照することになるし、読者の関心も、どっちがどうだ? というところに集中すると思われる。しかし、この2機種、価格の上ではかなりの差があって、ソニーが38万円、Lo-Dが60万円である。そして、Lo-Dは今のところ受注生産の形をとっているため、コスト計算は両者では全く違い、どちらかといえば、Lo-Dのほうがかなり割高につくと思われる。音質では、Lo-Dが優位であるが、その辺を考えると、どちらともいえない難しさがある。しかも、ソニーの抜群の機能とアクセスの優秀性を考え合せるとなおさら、コストパフォーマンスとしてはソニーに軍配が上がりそうである。どちらにしても、CDプレーヤーのマニア層への浸透に大きな力となるものだし、その質的向上と発展性を高めた有意義な新製品として大歓迎である。