エレクトロボイス baron CD35i

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 エレクトロボイスのニュージェネレーションを代表するバロンCD35iは、これからのオーディオ産業そのものの国際化を考えるうえで、非常に重要な位置にあるスピーカーです。つまり、企業が国際化してゆくということと、音の個性の国際化というレベルの問題を、これほど鮮明に打ち出した製品はかつてなかった。
 まずこれはとても美しいデザインとフィニッシュワークが、大きな魅力のひとつになっているわけで、本当のヨーロッパ製スピーカーでもなかなかこれだけのセンスのあるまとめ方というのは少ない。
 音のうえからも、男性的な、どちらかと言えば骨太のしっかりとしたエレクトロボイス伝統のサウンドをちゃんと継承し、そのうえさらにニュージェネレーションのスピーカーと呼ぶにふさわしいプレゼンスの豊かさを持っています。指向性の改善というのは、このスピーカーのひとつのポイントだけれども、いわゆる音場型スピーカーと呼ばれるスピーカーにややもすると感じられるひ弱なところがまったくない。これは、70年代にアメリカで登場した新世代スピーカーとまったく異なるところで、先のJBL/L250同様に、しっかりと伝統を踏まえた音作りがされています。
 とてもおもしろいことだと思うのは、今、オーディオ製品というのはエレクトロボイスに限らず、どんどん国際的な作られ方がされるようになっていて、パーツや素材供給のレベルでは、様々な国籍のものが使用されています。アメリカ製のアンプの中をのぞいて、日本製のパーツがあったり、北欧製のパーツが入っていたりというのは日常化している。これも、ニュージェネレーションのひとつの特徴でしょうね。
 なにも、オーディオに限ったことではなく、すでにカメラやクルマ、およそすべての工業生産品は現地生産あるいは協同開発という国際的な展開が日常化しつつあるわけです。あの頑固なポルシェをして三菱のパーツが使われるという時代なんですね。
 少し話が飛躍するかもしれないけれど、世界には様々な国があって、今後は、産業分担主義で行かないことには成り立たないんじゃないかと、ぼくは考えているんです。日本は日本が一番得意とする産業で世界中を賄う、アメリカはアメリカで、という具合にね。
 たとえば、現在の飛行機の開発というのは、最終的な仕上げ、アッセンブルはアメリカがやるけれど、ある部分はフランス、ある部分は日本という形で分担することが可能になっている。このバロンというスピーカーは、エンクロージュアデザインをスイスのE−Vが担当し、サウンドのコンセプトはアメリカのE−Vが担当するという形で、商品の完成度はとても高い。
 ところが、世の中には、まったくそれとは逆の意味での国際化、というよりも国籍不明の均一化という現象もある。ヨーロッパのものがアメリカナイズされたり、最近では外国製品と言えどもジャパンナイズされてゆく傾向があるんです。文化の独自性が生きるような国際社会を目指さないと、音のアイデンティティ、個性が失われてゆくことになりますからね。デラシネ・オーディオじゃ駄目なんだ。
 今、日本だけではなく、ヨーロッパでもPAシステムにエレクトロボイスやJBLが使われるというのは極く当然なこととしてあるわけです。つまり、サウンドの輸出という意味で、明らかに文化交流的なレベルで音の国際化は進行している。で、文化交流というのは、文化ごちゃ混ぜ、均一化ということではなく、自分たちの音に対する感覚、嗜好とは異質な音をより広く、深く知ろうということにあるわけでしょう。つまり、自分とは異質なもの、他国の音を聴くことで、さらに自分たちの音の文化を高めようということになるんですね。
 オーディオというのは、科学技術ですから、その面での国際化、均一化は急速に進みます。しかし、それは、産業レベルの話であって、音の個性、それを育んだ地域性の根は、洗練されながらも国際舞台に乗ることで、より広いファンを得てゆく。音の国際化、普遍化というのは、そういう意味でなければならないんです。
 エレクトロボイスのバロンというスピーカーが、ニュージェネレーションのスピーカーの中で果している役割は、ですから非常に重いと言えます。インターナショナルサウンドというのは、音の無国籍化であってはならない。
 個性というと癖のように、個人の勝手気ままな性格のように思われるけれども、じゃベートーヴェンが、マーケットリサーチをして音楽を作ったのか、受けようと思って作曲したのかといえば、そうじゃない。あれほど強烈に自己主張を主観的に押し出した音楽が、これほど普遍性をもっているという事実が、なによりも音の普遍化を説明しているでしょう。
 たとえば、国際化、普遍化がもっと進めば、現在のように特に日本向けに作る、あるいはアメリカ向けに作るということのナンセンスさが問われてくるでしょう。オーディオはたしかに音楽を伝達する道具には違いないけれども、オーディオを楽しむということは、オーディオ機器に個性を求める、選択するということに意味があるわけで、何でもいいやということにはならない。国籍不明のオーディオや、日本向けオーディオという発想は、非常に危険なことであるということを、このスイスメイドのエレクトロボイスが警告しているといっていい。

JBL L250

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 JBLの技術的な特徴というのは、かつてはハイエフイシェンシー、ハイパワードライブという業務用から派生したヘヴィデューティな性格にあったと思うのですが、JBLというメーカーの創設意図というのは、本来、家庭用の高級フロアースピーカーを作ることにあった。例えば、ランサー101、L200、L300といったホーンドライバーを用いたシステムが代表的な存在でしょう。L250は、コンセプトとしては、JBLの家庭用フロアースピーカーのカテゴリーに入るのですが、その独特なプロポーションとユニット構成は、JBLの家庭用スピーカーの歴史の中で異彩を放っています。しかし、L200、L300とこのL250を歴史的に埋める位置にあたるL222Aというトールボーイのシステムを見てみると興味深いことに、3ウェイ構成でトゥイーターはホーン型、スコーカーは13cmコーン型なのですが、そこに波型プレートの音響レンズがつけられていた。つまり、JBLとしては、家庭用として旧来のホーン型からコーン型へ移行する経過をよく表わしていると思うんです。エンクロージュアも、側板にテーパーがついて、定在波や剛性の面でも独創的なデザインを採用し、このピラミッド状のL250へ連なるものでしょう。
 しかし、もっと遡ってみると、L250の原点というのは、実は、かつてJBLのラインナップの中で異色な位置を示めていたアクエリアス・シリーズのあたりからだと思いますね。74年頃に一時期輸入されたことがあり、それまでのJBLの考え方とは全く異なったコンセプト、つまりスピーカーを1チャンネルの中だけで考えたシグナルの忠実な変換器としてステレオ用に2本使うというのではなく、最初から家庭内でステレオフォニックな拡がりというものを意図し、ホームインテリアにも溶けこむようなデザインから無指向性のペアスピーカーとして設計されていました。ですから、ユニットに、強烈なドライバーや大口径ウーファーを使ってエネルギー変換の忠実度を上げるというよりも、音の拡散とそのコントロールにウェイトが置かれていた。結果的にアクエリアス・シリーズというのは、JBLにおいて失敗に終ってしまったんですが、ひとつには実験的な性格が強過ぎたということもあったんじゃないかと思います。
 ステレオフォニックな音場というのは、位相差、時間差、レベル差というものによる立体感、つまり奥行きと拡がりのあるソリッドな空間ということですね。で、この2チャンネルの伝送変換というのは、モノーラルが単純に二つになったということとはまったく違います。ところが、2チャンネルの関連を使って、和差信号、位相差を空間で再生するためのステレオスピーカー技術というものは、アメリカにおいては70年代にようやく始まったと言え、アクエリアス・シリーズも当時にあってはJBLの解答のひとつだったわけです。
 70年代までというのは、とにかくエネルギーの忠実な変換器ということに技術が偏っていたように思います。偏っていたというのは悪い表現なんで、徹底していた。徹底していたからこそ、4343のような4ウェイ構成でもって、全帯域を緻密にエネルギー変換できるクォリティの高いスピーカーが生まれえたわけですよ。
 それに対して、アクエリアス→L222A→L250という系譜が語る別のラインというのは、忠実なエネルギー変換器であることに加えて、ステレオ空間の変換に対する忠実度を高めようというアプローチの上に礎かれてきた、もうひとつのJBLの歴史なんです。もちろん、音場変換器としてのスピーカーというとらえ方は、ボストンにも、先のスネルにも濃厚に表われていて、これはアメリカのスピーカーのニュージェネレーションに共通した問題なんですね。JBLとしては、バイラジアルホーンの開発というのも、明らかに指向性コントロールをステレオ音場の変換というポイントから取り入れた技術で、JBLにあっては、ホーンドライバーが音場変換に適していないとは判断していないことがうかがえます。
 ですから、そういう意味でL250を眺めてみると、これは完全に左右ペアスピーカーとして考えられており、ステレオフォニックな空間再生としてのあるべき技術的なポイントがどこにあるのかということに、大きなウェイトを置いて開発されたスピーカーなんです。
 ただし、JBLのように伝統のあるメーカーの場合、基本的にユニットを大幅に変えるということはしないで、柔軟に対応してゆくということはあるわけで、ユニットの設計そのものは従来のようにハイリニアリティ、ローディストーションという物量の投じられた内容をもち、L250の場合、エネルギー変換器としての忠実度を基本的に満たした上で、さらにエネルギーレスポンスのフラット化、位相コントロールという考え方が後からアダプトされている。このあたりの慎重な対応が、伝続あるJBLらしいところなんですね。
 L250の音の上での良さというのは、指向性がブロードになり、エネルギーレスポンスがフラット化されているためか、ステレオフォニックなプレゼンスによる響きの柔らかさということがまず聴き取れると思います。とはいっても、あくまでも芯のしっかりとした、輪郭の明確なJBLサウンドを継承していますね。
 それから、これはJBLの嫌いな人に言わせると、中低域にJBLのスピーカーというのはかなり特徴があり、ややボクシーな音がする。なにか容れ物の中から音が出てくるというイメージを彷彿させる。
 逆に言えば、聴きごたえのする、迫力のようなものが得られるという解釈もできるんですが、L250を聴いても、その中低域の、悪く言えばボクシーな感触というのがやはりありますね。エンクロージュアのプロポーション、バスレフボートの位置など、ボクシーな感触をある意味では避けた配慮がみられますが、やっぱりJBLの音であるな、という感想が出てくる。
 そうした意味においては、70年代に生まれたニュージェネレーションのスピーカーメーカーとは、一味も二味も違うスピーカーであるという、やはり大人なんですね。
 JBLファンというのは、最もJBL的な音が円熟して、まるで19世紀のヨーロッパの爛熟した貴族文化のように確立した時代に求めず、たしかに、JBLのヴィンテージが、そこにあったことは事実でしょう。
 それからすれば、L250のようにコーン型、ドーム型ユニットを用いたシステムというのはどうも……ということになるかもしれないけれども、スピーカーは空間の変換器であるべきだというこの客観的な共通意識を、実際のリスニングレベルでどう感じるのかということがかかわってくることなのでしょう。
 ただ、JBLくらいの大規模なメーカーになれば、ひとつの技術的な理想を実現するために、ホーン型は絶対に使えない、これからはコーン型しかないんだというような短絡した見方はしない。
 ニュージェネレーションは、じゃホーンシステムでは実現できないのかというとそれも妙なことでしょう。ホーンによって、いつの日か、もっと指向性が良くて、球面波再生を実現した呼吸球のようなホーンスピーカーができないとは言い切れないでしょう。それから、まったく逆に、指向性を自在にコントロールできるホーンの設計が可能になれば、意図的に指向性を狭くして、サービスエリアのコントロールをすることもできる。それらは、すべてニュージェネレーションに属した発想なんですね。
 ニュージェネレーションを迎え入れるために、我々はもうひとつのファクターを、まったく違ったアングルからとらえる必要があります。スピーカーというのは、リスナーの趣向に対応して鳴り響くものであるけれども、というよりもまさにそれゆえに、人間というのは本質的に飽きる、感覚が麻痺する、何か別の違うものを要求するという本能があるわけで、人間の広い感性の中でオーディオを見る見方が必要だと思うんです。それをただ縦の線上に並べて云々する、妙なヒエラルキーの中に閉じこもってしまうというのは、オーディオをどんどん袋小路へ追い込んでゆくことになるんですね。精神的には、プアーなオーディオになってしまう。
 たしかに、オーディオはテクノロジーの世界だから、良い悪いをテクノロジカルに表現して、縦の線で順序付けることは可能かもしれない。しかし、そのこと自体はオーディオの楽しみ、快楽とは無関係な、あくまでもテクノロジーの世界での話でしょう。もっとそこに、人間や音楽が立体的に絡んでくるより大きな世界がオーディオですよ。ですから、ニュージェネレーションのスピーカー群は、その意味で、フレッシュなるがゆえの魅力、まったくそれまで追求してきた自分のオーディオの方向を逆に振ってくれるような魅力が問われていることも事実なんですね。
 極端なことを言えば、それまでと違えばいいんです、変化が与えられればいい。
 その変化というのは、善悪、良し悪しの価値判断とは、まったく別問題なんです。ところが、そこをいい加減に混乱させてしまうために、オーディオのコンセプトに様々な混乱が生じている。混乱しているために、それを逃がれるかのように極端な保守的な考え方に閉じこもったりするわけだ。
 人間が、何か違うものを欲しがる、これは本能なんです。とりわけ、音に対する感性や情緒というのは、そういう本能のもとに常にさらされている。また、それを制約する規制があっては本質的に困るんですよ。
 変わる場合には良く変わらなきゃならないということは、絶対的な知性だけれど、それが良いのか悪いのか判断する物差しは趣味判断であり、個性であるという複雑な二面性をオーディオはもっている。
 ですから、ニュージェネレーションに共通したファクターが、音場、つまり時空間の変換器としてのスピーカーという新しいスピーカー像を提示していることは、客観的に認めうるとしても、それだけでは片手落ちですよ。人間の感性、情緒という本能に基づいたニュージェネレーションという見方が、基本には必要なんですね。
 イーストコーストサウンドは、その意味では一変した。しかもいい意味で一変したんだけれども、JBLの場合、伝統がある故にその伝統に引きずられている面もあると言えるし、新世代への対応はやはり慎重であると言えるでしょう。なぜ、アクエリアス・シリーズのオムニディレクショナル(無指向性)が成功を収めなかったのか、その教訓を誰よりもJBL自身が受けとめているはずなんです。

スネルアクースティック Type A

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 ぼくはこのスピーカーは今回初めて聴くんですが、スネルという会社はさっきのボストンと同様にイーストコーストに位置し、少し北のニューベリーボートというところにあるメーカーです。初めて聴くスピーカーなんですけれども、ぼくはこのスピーカーを作ったエンジニアの気持ちがとても良くわかります。一口で言うと、オーディオ臭い音が大嫌いなんです。逆に、ライブのコンサートの音のイメージに近く鳴らそう、鳴らそうとしている。ですから、レコードに入っている音を忠実に再生しようという気はまったくないと言ってもいい。つまり、コンサートで受ける音のイメージをスピーカーから忠実に再生しようという〝コンサートフィデリティ〟に基づいたコンセプトであることが強列に音に出ています。
 ジャズを例にとれば、ピアノトリオの場合に、アコースティックベースはエネルギーが足りないから、録音の際にブースターを使うなり、レベルバランスを上げて録音するわけですが、このスピーカーでそういうレコードを再生しても、ベースはバランス上やはり足らない。前へは出てきません。
 ハイドンのシンフォニーを聴いてみても、明らかにコントラバスセクションが足りないというバランスなんですね。しかし、実際、生演奏で、コンサートホールの中でコントラバスがブンブン響くということはありえないし、ジャズの場合でも、ウッドベースはドラムスとピアノの影に隠れてほとんど聴きとれないような音量バランスが現実なんです。
 このスネルというスピーカーは、そうした実際のコンサートで聴かれるバランスこそベストパフォーマンスなのだという出発点からスピーカーを設計している。やや短絡的な見方かもしれませんが、レコードにどんな音が録音されていようが、そんなことはともかくとして、スピーカーから再生される音の雰囲気が、おれが普段体験しているような生演奏のプレゼンスに近ければいいスピーカーなんだ、そういうフィロソフィがうかがえるんですね。
 しかも、ステレオフォニックな奥行き、プレゼンスを豊かにするために、スコーカーとトゥイーターは曲面バッフルにマウントされ、ディスパージョンを広げようとしているし、トゥイーターは、センター方向に指向性が強く出ないよう、ダイアフラムの直前のセンターチャンネル側にフェルトが固定され、左右方向の広がりを自然に再現しようとしている跡がみられる。
 それから、ウーファーというのはどうもドスンドスンという不自然な量感しかもたらさない以上、オムニディレクショナルにスッと拡散させたほうが、実際の生の会場の音場に近いということから、かなり低いところへクロスオーバー周波数(275Hz)を設定し、指向性に影響が出ない低域を下向きに取りつけたユニットから間接的に部屋の中へ放射させようという構造にしてある。ですから、たしかに低音の実体感、実存感は薄れますが、逆に、ライブパフォーマンスに近い残響感が含まれ、むしろ自然な音域に近いわけで、当然、そのことを取って作られたスピーカーなんです。
 構造を見ても、音を聴いても、これを作った人間がそこにいます、見えますね、ぼくには。その人が言いたいことを全部言えると思います。
 ですから、マルチトラックレコーディングによるオンマイク録音主体のレコードよりも、ペアマイクのワンポイントに近い録音、たとえば北欧のプロプリウスレーベルのような教会の長い残響感を活かしたようなレコードにうってつけなスピーカーであるとも言えます。
 ここで、オーディオマニアを含めて、音楽ファンの聴き方について少し考えてみよ
うと思うんです。
 まず基本的にレコードの録音と再生というのを知れば知るほど、レコードと生とは根本的に違うんだということがわかってきて、ポジティヴな面でもネガティヴな面でもそのことは肯定せざるを得ない事実としてある。そういうメカニズムに魅力を感じているのが大半のオーディオマニアであるとすれば、そういった一切に魅力を感じない人を、通常は音楽ファンと呼び、その中にもレコードというのを全然聴かないコンサートファンの三種類がいます。
 全くレコードを無視する、あれは作りものだということでレコードを聴かない、音楽は生が最高であるという音楽ファンがいて、その対極に、レコードの音が好きで、様々なスピーカーの音に興味があり、生と違うことを知っていてもなおかつオーディオ独自の音の魅力を追求してゆく音楽ファンとしてのオーディオマニアがいるとすると、このスピーカーの聴かせる音の世界というのは、生の雰囲気をオーディオという人工空間の中に再現しようというやや特異な位置を占めています。
 つまり、オーディオというエレクトロニクス、メカニズムの再生系に対し、非常にナイーブ、つまり素朴なリアリズムを要求している。ですから、レコードに録音されているすべての情報を正確に引き出そうという考え方で、このスピーカーに接したら失望する。しかし、生の演委で得られるライブな雰囲気をそのまま再生装置に求めようというコンサートファンにとっては、とてもマッチングがいい。ですから、このスピーカーの評価というのは、その人のレコード音楽の受け取り方によって、決定的に変わってしまうところがありますね。
 このスピーカーを作った人というのは、絶対にクラシックファンですね。しかも、ボストンのところで申しあげたように、イーストコーストのメーカーのつくるかつての重苦しい低音に相当に嫌気がさしたはずだね。そのことがすごくよくわかると同時に、このスピーカーは、実は、現代のハイテクノロジーに支えられたオーディオ機器に対してひとつの強烈なアンチテーゼを浴びせようという意図がありますね。
 つまり、現代の録音のメカニズム、それから絶対クォリティを追求したオーディオのメカニズム、そういったことは彼にとってはまったく関心外か、あるいは逆に物すごくそのメカニズムを知り抜いて、徹底的に批判している。少なくとも、クラシック録音で言えばカラヤン的な録音は大嫌いなはずだし、ホーンスピーカーなんて論外でしょう。
 これは、アメリカだからこそ生まれえたひとつの狂気といっていい。スピーカーから再生しようとしているのは、ナイーブリアリズムで、とても単純で素直なんだけれど、その単純さと素直さの狂気なんです。
 全然、話は変わってしまいますが、アメリカには、しなびたような野菜を好んで食べる自然主義者というのがいるでしょう。自然栽培とかいって、化学肥料による野菜は絶対に口にしない、ビタミン剤は飲まない、味の素は大嫌い、とにかく自然栽培の見てくれの悪い、しわしわの野菜しか食べないという徹底した自然主義者の狂気メリカには存在するわけ。オーディオにおける狂気の自然主義が、このスピーカーなんです。
 ですから、レコードをとても自然に鳴らしてくれるという意味で、このスピーカーの良さというのは明確に理解されますけれども、現状のオーディオ界の中での共通理解に立って、自然に音楽を鳴らすという表現は誤解を生むと思います。もっと明快に「自然に帰れ」というポリシーが、ある意味では非常に過激に表明されている。
 つまり、録音と再生のメカニズム系を飛び越えて、いきなりコンサートホールへ行こうという考え方なんです。
 たとえば、このスピーカーの音量レベルの一番いいポイントというのは、中音量から下へかけてのローレベルにあります。生の音楽会へ行って、決して大音量でガーンと鳴るということはありえないわけで、そのあたりにもナイーブリアリズムの性格が色濃く出ていると思います。
 狂気に属すものとして、例えばコンデンサースピーカーもそういうナイーブリアリズムから派生してきたものだと思うんです。特に音の肌合い、色艶、質感といった面で、自然な再生を求めてゆくと、静電型という答えが出てくる。その対極に位置しているのが、JBLであり、アルテックであり、昔のARだったと思うんです。「オーディオスピーカーここにあり!」という鳴り方とは正反対な方向にあるのが、静電型やこのスネルなんですね。オーディオスピーカーが大勢を支配していることは事実だけれど、これを作った人はそのことに対する物すごい怒りを込めて作ったと思いますよ。
 やはり、アメリカのように個性が共存し合う国だからこそ出てきたスピーカーですね。ただ、こういう考え方のスピーカーというのは、世界的に見ると劣勢の立場にあるでしょう。少なくとも、録音と再生のオーディオメカニズムのエフェクトを全面否定していますから。だけど、マジョリティというのは、そういうテクニカル・エフェクトにすぐいかれる、というと悪い表現だけれども、そこでまた録音と再生側の進歩が促されるという事実を見逃したら、オーディオも録音もエンジニアリングの意味がなくなってしまうんですよ。
 ぼくは、このスピーカーの音を聴いて、昔のドイツ・グラモフォンのピアノ録音を思い出しました。当時は、低域をかならずカットしたんです。特にケンプなんか、完全に低域がない。というのは、ホールでピアノ演奏を聴いたときに、ピアノの低音というのは今日のレコードから聴けるような、うなりを上げるような低音では絶対にないわけで、あくまでもコンサートのイメージに忠実に、つまりナイーブリアリズムでもって録音しようとすると低音はある程度カットしたほうがリアリティがあるんですね。
 それに対して、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ベルリン・フィルに君臨し、ドイツ・グラモフォンに発言権を持つようになってから、録音がずいぶん変わったように思うんです。
 彼の指揮した最もいい例は、チャイコフスキーの四番のシンフォニーがあるんですが、そのレコードを聴いてぼくが推測するマイクアレンジメントは、オンマイクとオフマイクで全体のバランスをとったものがあり、そのそれぞれにサブマスターがあって、その全体がマスターに入るというミキシング・レイアウトになっている。そして、音楽の情景、場面によってオンマイクになったり、オフマイクになるわけです。
 こういったことは、先ほど申しあげたコンサートフィデリティから言ったら、明らかにおかしい。オーケストラが向こうを行ったり、こっちへ来たりするわけですからね。ところが、音楽家にとっては、こういうことはあまり大した問題じゃない。
 たとえば、フルートのソロになったときもっと遠くから聴こえるように吹けという指示があるとすると、実際に遠くへ行くことは不可能なんだから、イメージの上でそういう音色が欲しいということでしょう。そういう音色の変化というのは、ミキシングテクニックでレコードのメカニズム内でどうにでもコントロールできます。音楽家は、まったく音楽的な欲求から、そういう録音を要求してくる。
 ところが、実際にレコードになってそれを聴いてみると、オーケストラが遠くなったり近くなったりするという不自然さが目立つんですよ。ぼくは、レコードとしてそれはいいレコードじゃないと思うんです。
 しかし、レコード制作者側の意図として、生の演奏だと絶対に聴きとれないような音をもスコアに忠実に録音するということがあったとしても、それは誤った考え方と決めつけることはできないんです。つまり、作り手の論理として、録音という機能を使いこなして、音楽家の要求、表現上の要求に対応することは、あくまで正論なんです。
 そうしますと、録音の側でもコンサートフィデリティとスコアフィデリティという対極的な考え方があり──現実にはなんらかの形でそのバランスを取るわけだけれども──再生側にも、エネルギー変換器としての忠実度を求めたモニタースピーカー的な考え方と、このスネルに代表されるように、コンサートフィデリティ、音場に対する忠実度を素朴に追求しようという二派に分極すると言っても過言ではないでしょうね。
 このスピーカーは、そういう意味で、録音と再生系のテクノロジー、そしてその目的といった本質的な問題を考えさせる上で、非常に示唆的な内容を提示していると思います。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 昔のARとこのA400、音の傾向はもちろんガラリと変ったということを前号で書きましたが、同じアコースティックサスペンション方式とは言え、エンクロージュアについての基本的なコンセプトに決定的な違いがあります。まず、できるかぎりバッフル面積を広くとって、スピーカー口径に対し充分にバッフルの幅を確保し、バッフル効果を積極的に得ようという発想なんです。
 おそらく、そのことと重複することになると思うのですが、ウーファーは、小口径のせいぜい20cm程度のユニットが選ばれている。A400は、容積でいったらAR3程度だと思うけれども、あれにはバッフル幅ギリギリに32cm口径くらいのウーファーが使用されていましたね。あの場合は、いかに小さく見せて、いかにその小さい箱から重低音を出すかということがテーマだったわけで、バッフルなんていうのはどうでもよかったんです。ところが、このスピーカーを作ったペティートにとっては、小口径ウーファーとバッフル効果を上手に利用したスピーカーというコンセプトが重要だった。
 つまり、大口径ウーファーというのは、どうしてもムービングマスが大きくなりますから、機械的なリニアリティというか、小入力に対して反応が鈍い、重苦しい音の傾向があり、さらに加えて密閉形式ですから余計に抑圧された音という印象になりますね。そうした従来のイーストコーストサウンド特有の重厚な響きから、完全に脱した新世代の響きが、A400の音質上の特徴です。
 バロック、ロココ、ロマンという円熟した芸術運動の中で、非常に洗練された美をもつクラシック音楽に村し、昔のイーストコーストのスピーカーは、どうもそこにボテッとした鈍い響きが加わりすざて、少々品の悪い音だったと思います。
 つまり、スピーカーの個性が強過ぎるために、広くオーディオ機器として賄わなければならない様々な種類の音楽に対する適応という点で、問題化せざるをえないという矛盾を、従来のイーストコーストサウンドというのはかかえていた。時がたつにつれて、個性的であるがゆえの守備範囲の狭さが批判されてきたということでもあるでしょう。
 A400は、そうした抑圧されたような鈍重な音から、解き放たれた良さというのが、音の上にはっきりと聴きとれます。意匠的に見ても、ヨーロッパを意識しているところはあるし、より広い意味ではインターナショナルな方向へ脱皮したイーストコーストのスピーカーという位置付けができますね。
 さらに、スピーカーという商品が、従来にない国際的な性格を要求され、インターナショナルな舞台に上がったとき、逆にアコースティックサスペンションに固有の技術的な問題が、スピーカーテクノロジーの進歩というスケールの中でも、クローズアップされてきた。つまり、当時のアコーステックサスペンション・スピーカーはまだまだ究極的な姿とは言えないという分析が行き届いてきたんだと思います。
 たとえば、大口径ウーファーのマスの重さからくるデメリットというのは、英国のニューウェイヴ・セレッションSL6にも際立って表われている同時代的な認識ですね。質のいい低音を合理的に追求してゆこうという場合に、大口径ウーファーに対する技術的な批判が持ち上がってきたことは事実だし、それは正しいことだと思います。
 ぼく自身、XRT20で12インチウーファーが使えると思ったのは、比較的最近のことなんです。常用システムには15インチウーファーが入っているけれども、それはメリットとデメリットを承知のうえで使っている。
 しかし、全面的に大口径ウーファーが駄目であるという短絡した発想は、明らかな誤りで、音楽ソースによっては、実際に演奏されている音量感に匹敵するほどの出力レベルが要求されることもあるし、絶対的なマージンというのはそれだけで魅力のひとつでしょう。ただその場合には、磁気回路やフレーム構造などに小口径ウーファーとは比較にならない物量が投じられなければ基本性能の高さが生きないわけで、コストは飛躍的に増すわけです。しかし、音の質感、性格、色合いというのは、スピーカーの場合、コストに比例しないという特殊な性格があるんですね。
 ステレオサウンド誌で、常に大型システムをメインに据えてきたというのは、あらゆる使用条件に適応範囲が広いという絶対的なポテンシャルを考えてのことなんです。
 スピーカーというのは、食べ物にたとえて言うと、味と量という関係があり、小さなお皿にちょびっと美味を食べて満足したという人もあるし、どんぶり飯をたらふく食って満足したという人もいるでしょう。
 スピーカーというのは、あくまでもメカニズムですから、大音量再生と低歪を両立させるには、かなりコストとの比例関係が出てくると思います。しかし、スピーカーの音質や性格というのは、コストにリニアに比例するどころか、ほとんど無関係なんですね。
 ですから、聴くほうの様々な条件のなかで、いったいどれくらいの音圧が必要なのか、リスナーとスピーカーの距離、部屋の吸音率などを考えてみることも、スピーカーを判断するうえで重要なファクターになってくる。実際、このA400で音量に不満が出るというのは、相当限定された条件だと思いますね。
 小さいスピーカーは安い、だからクォリティは低いという硬直した判断が通用しないことを、A400を通してもう一度確認する必要があるでしょうね。
 A400のもうひとつ新しいテクニカルコンセプトは、小口径ウーファーのメリットを生かすということに加えて、先にも触れたようにスピーカーバッフルの効果を積極的に生かそうということがあります。
 昔から日本でも、平面バッフル、無限大バッフルがいいということはよく言われてきました。非常にすっきりとした、音離れのいい音で、しかも、部屋のアクースティックの影響が少なく済む。A400の場合、ユニットはインラインにならび、ウーファー口径に対して左右バッフル幅は3倍近くある。このスピーカーが、割合とどういう部屋にもっていっても音が変わらない良さというのは、そこにあると思います。たとえば、イギリス系で極端にバッフル幅の狭いスピーカーがありますけれど、そういうタイプのスピーカーの場合、壁面の影響を受けやすいために、かならずある程度は壁から離すセッティングをしますね。だから、スピーカーには、その部屋のアコースティックな条件に対して依存度の強弱があるように思うんです。バッフル効果をエンクロージュアの設計に取り入れるというのは、ある程度、エネルギーのラジエーションをスピーカーが自律的にコントロールできるという良さがある。
 小口径ウーファーのもつメリットと、それからバッフル効果を生かすというテクニカルコンセプトが、このA400では違和感なくバランスしていますね。
 ぼくはまだミスター・ペティートに会っていないので、どんな人であるか実際にはわかりませんけれど、想像するにこの人は、相当な合理主義者だと思いますよ。
 おそらくね、経営者がほっといても、大丈夫なエンジニアです。無駄金を使うことは絶対に嫌いなんじゃないかな。英語で発音すればベティートだけれど、仏語のプティ(小さいという意味)そのまま、つまりムッシュ・プティ(笑)。
 それでいて、とてもセンスがいい、貧乏根性じゃない、しかし絶対に無駄は嫌う。それは音にも見事に出ている。
 このシステムで、じゃあ低音に不足があるのかというと、ないわけでしょう。逆にどんな大口径ウーファーを使っても低音不足ということはあるわけで、けっきょくスピーカーというのはバランスであるという大前提にゆきつく。
 ですから、このスピーカーは何を聴いてもいい。特定のジャンルの音楽に、際立った冴えのある再生をするというスピーカーではない。それでいて、音のグレードでいったら、明らかに上級スピーカーに匹敵する。
 何を聴いてもいいというと、無性格な、つまらないスピーカーに受け取られる危険があるけれど、非常に魅力的なみずみずしい音のスピーカーですよ。音楽がすべてみずみずしくなる。そういう意味で、誰にでも推められる良さというのが、A400の特徴だと思います。
 質と量のバランスを完成させることが、今の未完成技術のなかから生まれてくるスピーカーにとって、最も大切なことだと思います。そういう見方をした場合に、とてもバランスのとれたシステムですよ。
 ボストンという町が、ヨーロッパに近い、そして歴史のある町だということに無関係だとはいえないかもしれない。ペティートという人は、フランス系アメリカ人ですから、本人も意識していないところで、血というものが表われてしまうんでしょう。アメリカというのは、人種のるつぼだとよく言われますけれども、そういう非常に複雑な社会であるだけに、血という問題がかならず絡んでくる。それこそ、プエルトリコ系のアメリカ人に、ヨーロピアンセンスを期待するのは無理ですからね。
 A400は万人にすすめられるスピーカーだと言ったけれど、ペティート氏にはおそらく狂気のようなものはないね。だから、おもしろくないと言えばおもしろくない。
 しかし、オーディオマニアと言われるくらい、オーディオにはパラノイア的な狂気が満ちあふれている。もともとオーディオというのは、狂気の盛んな世界なんです。ぼく自身も狂気があると思うから、狂気を感じさせるようなオーディオ機器にはものすごく魅力を感じる。しかし、あまり狂気に走るというのも、反省しなきゃならないことで、科学技術というのはそれ自体、狂気ではなく、きわめて普遍的なものであり、真理であり、客観的な世界でしょう。
 そういうものをベースにして成り立っているのがオーディオなんだから、狂気にばかり走るのも困る。それに狂気が日常化してしまっては、ちっとも狂気じゃないでしょう。
 そのあたりもペティートという人は、いいバランス感覚をしていると思います。生活のバランスがいい、しかもセンスがいいと思う。趣味のいい人ですよ、きっと。
 アメリカというのは、狂気に市民権を与える社会だと最初に言ったけれど、これはまったく違う世界、いわゆるエソテリックとかハイエンドとは無縁の良識派に属している。そういう意味では、乱立する個性のアメリカンオーディオシーンの真中に位置しているといってもいいんじゃないでしょうか。
 ただ、このスピーカーは、聴かせる音は狂気じゃないけれども、ぼくのようにちょっと狂気じみたマニアさえ満足させる一面をもっているところがすごい。狂気じゃないスピーカー、いわゆる無個性なスピーカーというのは、数多いけれども、聴く人間の狂気は満たしてくれない。
 出てくる音が狂気なんじゃなくて、狂気を満たしてくれるところに、A400のしたたかな性格が潜んでいると思いますね。

音色(いろ)から音場(ば)へ

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 今から三年近く前になりますが、ステレオサウンドの60号で「アメリカンサウンド」の特集を組んだとき、JBL、アルテック、エレクトロボイスといった伝統的なメーカーに混じって、ニュージェネレーションの抬頭を予告させるようなスピーカーがすでに二、三機種登場していました。
 なかでも印象に強いのは、インフィニティのIRSで、それまでほくが受けとめてきたアメリカンサウンドのどのカテゴリーにも属さない非常にユニークなアプローチとサウンドは、ぼくだけではなく一同が驚いたことを憶えています。
 インフィニティの新しさというのは、当時はもっぱらその音色、サウンドバランスに感じられたことだったんですけれど、マッキントッシュのXRT20というスピーカーも、音場再生への従来にないアプローチで登場した新世代のスピーカーとして、アメリカンサウンドの新しい展開を予想させる内容でした。
 それまでのスピーカーの設計理念というのは、基本的には、忠実なエネルギー変換器を目指すという内容だったんですね。モノーラル時代から、スピーカーというトランスデューサーが、1チャンネルの中での伝送系として理解されてきた以上、それが当然だったといえば当然なんです。ですから、そこで重要視されてきたスペックというのは、まず能率と周波数特性というエネルギーについての表示だったわけです。
 AR社に代表されたイーストコーストサウンド、それからウェストコーストサウンドという大きな対極も、忠実なるエネルギー変換器として、じゃ能率を優先させるのか、周波数特性を優先させるのかということが両者の音の差となって表われたという理解も可能でしょう。
  インフィニティやマッキントッシュがもたらしたインパクトというのは、そうしたエネルギー変換器としての忠実度を向上させたうえで、さらにステレオ再生においても最も効果的なペアスピーカーというのがどうあるべきか、という新しいフィデリティの水準を設けたことにあったと思います。つまり、ステレオディスクに録音された2チャンネルの信号に対し、スピーカーを音場の変換器として積極的にとらえようという視点です。忠実なエネルギー変換各を目指すことは、基本としてはそのまま守らなければならないことだけれども、さらにそこに音場変換という新しいテーマが加えられて登場してきたのが、あの時点ではXRT20だった。
 ただし、人間の感覚というのは、この部分は音質や音色、この部分は音場のクォリティというふうに分けて捉えているわけではありません。マッキントッシュにしてもインフィニチイにしても、まず1チャンネルのクォリティ、エネルギー特性を上げてゆくというスタートラインから、立体音場を得るためのディスパージョンアングルの設計やエンクロージュアデザインにウェイトが置かれてゆくというプロセスだったと思います。
 ですから、結果において、音色という水準で両者を比較することもできるわけです。インフィニティの場合、EMIT、EMIMと呼ばれるフィルム膜をダイアフラムにした中高域ユニットを多用していますが、非常にマスの軽い、トランジュントのいい中高域への一貫したポリシーがあって、おそらく、創設者のアーノルド・ヌデールはエレクトロ・スタティック型の音色、音の肌合いが好きなんだと思わせる音なんですね。
 60号当時、IRSの聴かせる音場的な効果より、音質、音色に議論が集中したのも、そういう鮮明な個性、従来のアメリカンサウンドのエネルギッシュな傾向に完全に対向する存在として我々の耳に飛びこんできたからだと思います。おそらく、音色の上でも、インフィニティは、現在のニュージェネレーションを生んだパイオニア的な存在じゃないかと思いますよ。
 他方、マッキントッシュは、ソフトドーム24本を使ってトゥイーターアレイを作り出し、両者は発想において割合に似ているところを持ちながら、出てくる音の質感や肌合いはまったく違うといった興味深い対照を成していた。いい意味でも悪い意味でもマッキントッシュの場合、伝統的な風格とか、イーストコーストに位置した地域性は音に表われています。
 しかし、ニュージェネレーションのスピーカー技術が、エネルギーの変換系から、時間空間の伝送を考慮した音場の変換系へと、考え方を変えつつあることはまぎれもない事実で、これはなにも、アメリカに限ったことではありません。英国、日本を含めて、音場の情報に対する忠実度を高めようという動きはすべてについてあると思うんです。
 ただアメリカの場合、インフィニティの例でもわかるように、従来のスピーカー概念の枠にこだわらない、非常にオリジナリティを重視したポリシーが乱立しているところが興味深いですね。はっきり言って、IRSというシステムは、日本的な尺度で計ると、その価格から規模から、ある種の狂気でしょう。
 アメリカという社会は、社会の規律がものすごく厳しいわけです。あれだけの雑多な民族が寄り集っている社会ですから、よほど厳しくない限り成り立たない。しかし、社会規制の厳しさというのが、人間離れしたところで厳しいんじゃなく、ひとりの個人を認めた上での厳しさなんです。で、そこからドロップアウトした人間には面倒を見ないわけで、ドロップアウトした人間を収納する別の規律がまたマルチプルに用意されているという格好ですね。
 ですから、アメリカのメインストリームの社会においては、狂気が市民権を得ているという事情をのみこんでおく必要があるでしょう。ビジネスマンであろうと銀行家であろうと狂気は必要なんです、人間なんですから。アメリカという国は、非常にフレキシブルな考え方の中で、その狂気に市民権を持たせることで、多民族性に対応しているという特徴があると思います。黒人社会には黒人社会の狂気がある。つまり、社会というのがひとつの一枚岩のようにあるんじゃなくて、あっちこっちにポテンシャル、起伏が生じている社会なんです。
 一方、日本というのは狂気が市民権を絶対に得ない構造になっている。狂気というというのは、表面的には狂気を出さないよう出さないように常に抑制している。結果的に、ポテンシャルのない、すべて平準化してしまおうというバイアスが働く社会になっているんです。
 オーディオ製品が、そういう固有の社会背景
から逃れたところで生産されるわけがありません。というよりも、むしろ、オーディオ製品というのは、単なる実用的な電気製品でもなければ、絵画のような芸術作品でもない。しかし、その両者のある部分を同時に負っているという非常に特殊な位置を占めているがゆえに、それを生んだ社会の、あるいは個人の狂気と理性のバランスポイントがそのまま表現されてしまうという性格があると思うんです。つまり、そのバランスポイントが、どこに求められているのか、極端な場合、狂気だけなのか、理屈だけの味も素っ気もないものなのかということが、かなりクリティカルに読み取れる。
 ただ、どっちの社会にもユートピアはないんで、どっちも一長一短がある。オーディオだって同じだと思うんです。理想的な、ユートピッシュなオーディオがないからこそおもしろいわけですよ。
 日本だと、あるゼロデシがあって、そこに横に一列に並べて、さぁどれがいいみたいな価値感が割合に支配的ですね。ところが、アメリカの場合、個々がまったく別の価値感、座標で世界を見ているという新大陸特有の精神風土があるでしょう。アメリカという国は封建的な秩序、中世のようなヒエラルキーに支配された歴史を持たなかったために、常に個人対社会の関係が緊張関係にあって、アメリカ人というのは、人がいいものを作ったら、無理矢理でも別なものをつくろうとする。日本は逆なんです、無理矢理でもマネする。
 アメリカの乱立する個性というのは、いかにもあっけらかんとしていて陽気でしょう。俺と同じように考え、俺と同じような感性をもった人間が、俺の作ったスピーカーを使ってくれればそれでいい。もし、彼と違う感性や考え方を持っているとしたら、それは間違っていると言って説得し始めますからね。
 今回聴く6機種、外観を見ただけで、もうその強烈な個性のぶつかり合いが想像できますよ。

ダイナベクター KARAT 17D2

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ダイヤモンドのカンチレバーといえば、オーディオファンなら、ぜひとも一度は使ってみたいと憧れる思いにかられるであろう。従来は、高価な宝石としても最高にランクされる材料であり、その硬度もビッカース硬度10という最高の値をもつために、ダイヤモンドを研磨する方法はダイヤモンドで磨くほかはない加工上の制約があり、とても手軽に購入できる価格帯の製品に採用されることはありえないことであったわけだ。
 この夢のカンチレバー材料ともいうべきダイヤモンドカンチレバーを採用したMC型カートリッジが、世界で最初にダイヤモンドカンチレバー採用のMC型カートリッジを開発したダイナベクターから、驚異的な低価格の製品として発売された。
 新製品KARAT17D2は、八一年12月に発売されたKARAT17Dに採用された、全長1・7mmの角柱状ダイヤモンドカンチレバーを、同じサイズの直径0・25mmの円柱状のムクのダイヤモンドカンチレバーに形状変更をし、針先に70μ角の微細なダイヤモンド柱から研磨したダ円針を装着したモデルである。
 スペック上では、再生帯域とチャンネルセバレーションに、わずかの差があるが、相互の発表時期の隔りから考えて、カンチレバー以外は同じと推測され、特徴的な銀メッキコーティングによりコントロールされた振動系支持ワイヤー、ダンピング動作をさせない支持機構、波束分散理論に基づいた、異例ともいうべき全長わずかに1・7mmの短かいカンチレバーなどは、KARAT17Dを受継ぐものだ。
 それにしても、驚異約なことは、価格であり、68、000円から一挙に38、000円に下げられたことは、エポックメイキングなできごとであろう。
 試聴には、このところ、ステレオサウンドで、リファレンスとして使用されているトーレンスのリファレンスシステムとSME3012Rゴールドを使った。
 最初は、アンプのMCダイレクト入力で使う。ナチュラルに伸びた帯域バランスと音の芯がクッキリとした腰の強い、彫りの深い音が印象的である。音色は程よく明るく、厚みのあるサウンドは、とかく、繊細で、ワイドレンジ型の音となり、味わいの薄い傾向を示しやすい現代型のMCの弱点がなく、リッチな音が特徴である。
 次に、低い昇圧比のトランスを組み合せる。聴感上での帯域感は少し狭くなるが、エネルギー感は一段と高まり、いかにも、アナログならではの魅力の世界が展開される。針圧は少なくとも0・1gステップで追込む必要があるが、最適値に追込んだときの低域から高域にかけてのソノリティの豊かさには、ダイヤモンドカンチレバーで実績のあるメーカーならではのものだ。

デンオン PMA-960

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 デンオンのプリメインアンプの新製品として昨年暮に市場に出たPMA960は、プリメインアンプとしては10万円を超える価格からして、明らかに高級製品といえるものだろう。たしかに、内容の充実は目を見張るものがあり、物量面と、ハイテクノロジーがふんだんに盛り込まれた力作であることが解る。しかし、残念ながら、そのデザインやフィニッシュに、新鮮味が欠けるため、うっかりすると、旧製品として見過してしまうような雰囲気のアンプである。反面、オーソドックスで、おとなしい外観のもつ地味な容姿は嫌味のなさともいえるかもしれないが……。のっけからこんな苦情をいいたくなったのも、このアンプの技術的な斬新性と、その音のもつ大人の風格に大きな魅力を感じさせられたからであって、そこそこの仕上りではある。
 このアンプの技術的特徴は、同社のデュアル・スーパー無帰還回路と称する伝送増幅方式と、それをバックアップする余裕のある電源部であろう。ピュアー・ダイナミック・パワーアンプという名称とは印象の異なる、おだやかで、ウォームな音のするアンプだが、優れた特性のアンプというものは、決して形容詞的に使われるダイナミズムやパンチが表に出てくるものではないようだ。このアンプのように、別にどうということのない、自然な鳴り方にこそ、アンプの特性の優秀な点が見出されるように感じられるのである。このアンプのメーカー資料に書かれている一言一句は、すべて力と迫力を感じさせるものであるのが不思議な気がする。もっとも、これは、このアンプだけではなく、アンプというものが、スピーカーをドライブするパワーの役割を担うところから、こういうアピールをするメーカーがほとんどだが……。
 6Ω負何で170W+170Wというパワーは、プリメインアンプとしては大出力アンプといってよいが、試聴感としては、むしろ、ローレベルのリニアリティ、つまり、小出力時のSN比のよさ、繊細な響き分けといった面に印象が強く、魅力が感じられた。大型スピーカー(JBL4344)を手玉にとって、これ見よがしの迫力を聴かせるような荒々しさや雄々しさといった面はこのアンプの得意とするところではなさそうだ。初めに、大人の風格と書いたのはこの辺のニュアンスである。しかし、どちらかというと、ややナローレンジの感じさえする柔らかい質感が捨て難い魅力のアンプであって、音が大きくても、うるささは感じられないといった自然な音の質感に近い鳴り方をする。色に例えればオレンジ系の暖色である。とげとげしく、冷徹なメカトロニクスのフィーリングが氾濫する中で、こういう雰囲気のアンプは貴重な存在といえるだろう。欲をいえば、低域の実在感、深々とした奥深い響きが望まれる。

M&K SV-200

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 小型サテライトスピーカーと3D方式フォルクスウーファーというユニ-クな構成のシステムを開発し、いままさに開けんとするAV時代のスピーカーシステムとして一躍脚光を浴びている米M&K社から、特徴のあるタワー型のエンクロージュアにサテライトスピーカーと400WのMFB方式パワーアンプを内蔵したSV200が新製品として発売されることになった。
 基本構想は、2ウェイ方式フルレンジシステムとパワーアンプ附属のサブウーファーを一個のエンクロージュアに収納したコンプリートなシステムであり、従来の3D方式サブウーファーをベースとしたシステムよりも、スピーカーシステムとしては大型化はしたものの、完成度は一段と高まったと思われる。
 各種の多角的な使用を可能とするために、16cm口径ポリプロピレン振動板採用の低域と25mm口径ソフトドーム高域ユニットで構成するサテライトスピーカーと、パワーアンプ内蔵の30cm口径サブウーファーは、それぞれ密閉型エンクロージュア基板部分に独立した入力端子を備え、サテライト用入力端子には2個の高域と低域用のキャラクターコントロールと名付けられたいわゆるレベル調整があり、サブウーファー入力端子には、アンプSP端子からの信号を受けるプッシュ型の入力端子と、サテライトに信号を送り出す出力端子と、RCAピンプラグ採用のコントロールアンプなどからの信号を受ける入出力端子、パワーアンプのレベル調整と、サテライトとサブウーファーのクロスオーバーを50~125Hz間に任意に選べるフィルターが備わるが、試聴モデルではフィルターは固定されていた様子で、調整はできなかったた。
 M&Kで推奨する基本セッティングは、スピーカー左右の間隔を基準線とし、その基準線と直角に左右間隔に等しい距離がリスニングポイントとされている。簡単に考えれば、正三角形の頂点の少し後ろと考えて問題はあるまい。
 使用方法は、プリメインアンプやパワーアンプのSP端子からサブウーファー端子に接続し、これからサテライトに結線をするのがシンプルな使用例であり、次にコントロールアンプ出力Aから別売のフォルクスフィルターを通しサテライトを駆動し、出力Bでサブウーファーを駆動する方法、さらに、別売の100Hz・18dB/octパッシヴフィルターと高音、低音レベル調整付LP1スペシャルを使うグレードアップ型と、基本的に3種類の使用方法がある。
 試聴は3種の方法を試みたが、高音・低音、サブウーファーと3種の連続可変調整をもつため変化範囲は無限に存在し、順を追って調整をすれば、基本例でもM&K独特の豊かな低域ベースの見事なサウンドが得られる。つまり結果は使用者の腕次第。

サンスイ XL-900C

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ブックシェルフ型スピーカーを価格帯別に眺めると、6〜10万円の範囲に製品数が少なく、いわば空白の価格帯が存在していることが、他のアンプやカセットデッキと異なる奇妙な特徴ということができる。
 この価格帯に、今回サンスイから、意欲的な新製品が発売されることになった。
 ユニット構成は、従来のSP−V100で採用された、ポリプロピレン系合成樹脂にマイカを混ぜた、バイクリスタル型に替わり、発泡高分子材の表面をカーボンファイパークロス、裏面をグラスファイパークロスでサンドイッチ構造としたTCFFと名付けた新素材を採用した32cmウーファー、アルミベースにセラミックを溶射したHSセラミック材採用の5cmドーム型ミッドレンジと振動板ボイスコイル一体構造型25mm口径の熱処理スーパーチタン採用ドーム型トゥイーターの3ウェイ構成。
 エンクロージュアは、この価格帯では初の回折効果を避けたラウンドバッフルを採用したバスレフ型であることに注目したい。また、実用的というよりは、現状ではアクセサリー的な意味しかもたない中域と高域のレベルコントロールを省略し、信号系に音質劣化の原因となるスイッチが存在しない点は高く評価すべき特徴である。
 試聴室でのセッティングは、平均的なコンクリートブロックやビクターのLS1のようなガッチリとした木製スタンドでも比較的に容易に鳴らすことができるが、適度に力強く音の輪郭をクッキリと聴かせる傾向がある本機では、木製スタンドの響きの美しさを積極的に活かして使いたい。
 LS1をシステムの底板をX字状に支える方法でセッティングを決める。聴感上での帯域バランスは、広帯域指向型ではなく、ローエンドとハイエンドを少し抑えて受持帯域内のエネルギー感を重視したタイプだ。
 音色は明るく、全体に線は少し太いが、彫りの深い表現力が特徴。芯が強く力強い低域は、独特の表情があり、エレキ楽器のドスッと決まる感じをリアルに聴かせる。中域は輝かしく、低域とのつながりは少し薄いタイプだが、高域とのクロスは充分につながり、この部分の鮮やかさと、独特の低域がXL900Cの音を前に押し出す。モニターライクなサウンドの特徴を形成しているようだ。
 音場感と音像定位では、優位にあるラウンドバッフルの効果は、シャープな音像定位に活きているようである。
 明快でアクティブに音楽を聴かせるキャラクターはたいへんに楽しいものだが、アナログ系のディスク再生では、スクラッチノイズに敏感であるため、高域の滑らかなカートリッジの選択が条件であり、それも細かく針圧を調整して追込むと、本機の特徴が積極的に活かされるだろう。個性派のたいへんに興味深い新製品の誕生である。

デンオン DCD-1800

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 一昨年、脚光を浴びて新登場したCDプレーヤーも、大勢としては、ローコスト化の方向に向いながらも、すでに、第二、第三の世代に発展しているが、今回、デンオンから、第二弾製品として、同社独自の開発によるDCD1800が発売された。
 価格的にも、標準と思われるクラスの製品で、デザイン的にも、左右にウッドパネルを配した、同社の高級モデルに採用されるポリシーを受継いだ落着いた雰囲気を備えており、機能面でも、ダイレクト選曲、プログラム選曲、インデックス選曲、イントロサーチ、スキップモニター、2点間リピートを含むリピート、タイマー再生など、リモコン機能を除き、フル装備というに相応しい充実ぶりである。
 ブラックにブルーの文字が鮮やかに輝やく集中ディスプレイは、トラック、インデックス、演奏経過時間とプログラムされた曲番と次の演奏曲番表示をはじめ、プレイ、ポーズ、リピートなどの各機能が3色に色分けされて表示される。
 本棟の注目すべき点は、レーザーピックアップ駆動に業務用仕様DN3000Fに採用された扇形トレースアームの外周をモーター駆動するリニアドライブトレーサー方式が導入され、トレースアーム軸とディスク用スピンドルの2軸が完全平行を保ちながら、厚手のダイキャストベースで支えられ、かつ、ダイキャストベースはシャーシからフローティングされ、外来の振動を防止して、高精度、耐久性、応答性の早さ、などを獲得している機構にある。それに加えて電気系の最重要部たるDAコンバーター個有の、アンプでいえばB級増幅のスイッチング歪に相当するゼロクロス歪を解消する新開発スーパーリニアコンバーターを採用し、特性上はもとより、聴感上での、いわゆるデジタルくさい音を抑え、飛躍的に音質を向上させたことがあげられる。
 聴感上では、本機は、ナチュラルな帯域バランスと細かく、滑らかに磨込まれた音の粒状性が特徴である。平均的にCDプレーヤーは、シャープで、音の輪郭をスッキリと聴かせる傾向が強いが、伸びやかさとか、しなやかさで不満を感じることが多い。DCD1800は、この部分での解決の糸口を感じさせてくれるのが好ましい。
 音像は比較的に小さくまとまり、音場感もスムーズに拡がり、水準以上の結果を示すが、もう少し改善できそうな印象がある。
 問題点の出力コードの影響は、比較的に少ないが、平均的なコントロールアンプ程度の影響は受けるため、細かい追込みには、各種のコードの用意が必要である。
 機能面は実用上充分であり、機能の動作、フィーリングも、ほぼ安定している。ただテスト機では、トレイのオープン時の反応が鈍かったが、個体差であろう。安定感が充分に感じられる手堅い新製品である。

サンスイ C-2301

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 サンスイのアンプは、AUシリーズのプリメインアンプ群の充実したラインが確固たる基盤を築き、すでに8年にわたって基本モデルを磨き上げ、多くの技術的特色を盛り込みながらリファインにリファインを重ねるという、地道な歩みを続けている。初期のものと、8年後の現在のものとでは、中味は別物のアンプといってよいほど充実していながら、型番やデザインを変更せずに、また、音のポリシーも一貫したサンスイの感覚で練り上げるという地に足のついた姿勢は誰もが認めるところであろう。まさにオーディオ専門メーカーらしい自信と頑固さといってよく、また、それゆえに、今回の信頼と成果が得られたといってよい。当然、より上級のセパレートアンプの開発は技術者の念頭に常にあったにちがいないが、安易に商品として出さない周倒さも、このメーカーらしい用心深さというか、今か今かと待っていたこっちのほうが、じりじりさせられたほどである。
 82年暮に、パワーアンプB2301が発表され、続いて翌83年初頭に、その弟分ともいえるB2201が満を持して発売された事は記憶に新しい。このパワーアンプは、さすがに実力のある内容で、その分厚く、どっしりとした音の質感は、豊かな量感を伴って、音楽の表現の暖かさと激しさを、そして、微妙な陰影に託した心のひだを、よく浮彫りにしてくれる優れたアンプである。内容の充実の割には、見た目の魅力と、品位に欠けるのが憎しまれるが、部屋での存在として必ずしも表に現われることのないパワーアンプの性格上、容認できるレベルではあった。しかし、その時点においても、このパワーと対になるコントロールアンプは遂に姿を見せることはなかったのである。
 C2301としてベールをぬいだのが、その待望のコントロールアンプであって、去年のオーディオフェアの同社のブースに参考出品として展示されていたのを記憶の方もあるかもしれない。本号の〆切に、その第一号機が間に合って、試聴する機会を得たのは幸いであった。
 C2301。パワーアンプのB2301と共通の型番を持つこのモデルは、どこからみてもサンスイの製品であることが一目瞭然のアイデンティティをもっているのが印象的で、パワーアンプで苦情をいったアピアランスは、コントロールアンプでは一次元上っている。どうしても、目立つ存在であり、直接操作をするコントロールアンプとして、しかも、かなりのハイグレイドな製品ならば、使い手の心情を裏切らないだけの雰囲気を持っているべきだ。
 細かい内容は余裕があれば書くことにして、まずこのコントロールアンプの音の印象を記すことにしよう。サンスイのアンプの音の特徴はここにも見事に生きている。それは音の感触が肉厚であること。弾力性のある暖かい質感だ。脂肪が適度にのっていて艶がある。それでいて決して鈍重ではない。低音はよく弾み、ずーんと下まで屈託なくのびている。中域から高域は、決してドライにならず、倍音領域はさわやかだが、かさつかない。ブラスの輝やきは豪華だが薄っぺらではないし、芯がしっかりと通る。弦の刺戟的な音は、やや抑えられ過ぎと思えるほど滑らかになる傾向をもつ。どちらかというと解脱には程遠い耽美的な情感に満ちている傾向のアンプである。音楽は宇宙だから、そこにはすべての世界を包含するが、このアンプで天上の音楽を奏でることは無理だろう。正直なところ、筆者のように俗物として、音楽に人の魅力や生命の息吹きを求め彷徨している快楽主義者にとっては、これでよい。いや、このほうがよい。色気がある音だから。しかし、あまりに強くこういうことをいいたくなるというのは、長く聴いているとやや食傷気味になるような個性なのかもしれない……などと思ってみたりしている。なにしろ、きわめて限られた時間の試聴だから、完全に自信のある印象記は書けない。
 オーディオ的な表現をつけ加えるならばプレゼンスはたいへんよいし、定位感も立派なものだ。奥行きの再現、音場の空気感も豊かだし、見通しのよい透明度もまずまず。肉感的な音の質感だから、音像のエッジはそれほどシャープな印象ではない。シャープさを望むなら、他に適当なアンプもあるから、このほうが存在理由があると感じられる。紙数がなくなったが、このアンプも、最近のサンスイ・アンプの技術的特徴であるバランス回路方式をとっていて、出力はアンバランスとバランスの両方が得られる。
 コントロールアンプとしての機能はよく練られ、随所に細かい気配りとノウハウのみられる力作である。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ボストン・アコースティック。その名の示す通り、このブランドは、アメリカ東部のマサチューセッツ州生まれである。
 オーディオの好きな読者なら先刻御承知のことと思うが、このマサチューセッツ州ボストン郊外は、ちょっとしたオーディオタウンであって、あのARの誕生以来、アメリカ製スピーカーの系譜の一つを代表する地域である。その中で、このボストン・アコースティック社は比較的新しいメーカーではあるが、その血統は、まさに、イーストコーストサウンドの純血を継ぐものであり、AR、KLH、アドヴェントと同系のメーカーである。有名なヴィルチュア博士のアクースティックサスペンション理論にもとづく、密閉型の小型エンクロージュアで最低音まで再生する方式が、イーストコーストスピーカーの原点といってもよいと思うが、この基本的な発想と設計のコンセプトを受け継いで、KLH、アドヴェントといった分派が生まれたのである。
 ボストン・アコースティック社の社長であるフランク・リード氏は、まさに、AR、KLH、アドヴェントという三つのメーカーの要職を歴任してきた人物であり、技術部長のペティート氏(フランス語のプティ……本当に背が小さい人…)は、ヴィルチュア博士の理論に基づく設計の実際をAR社において担当してきた人物なのである。ボストン・アコースティック社がイーストコーストのスピーカーメーカーの正統な流れをくむ存在であるといえる所以である。
 このB・A社の現在のラインアンプの中でのトップモデルが、ここに御紹介するA400であって、この下にA150、A100、A70、A60、A40という各モデルがシリーズ化されている。トップモデルとはいえ、日本での価格が15万円台という買い易いものであるのが目を惹くが、果して、その内容と、実力はどんなものであろうか……期待と不安が入り交った心境で、このニューモデルに接したのであった。
 結論から先に言いたくなる気のはやりを押え切れないので、いってしまおう。素晴らしいスピーカーシステムであった! 自宅と、SS誌の試聴室との二ヵ所で試聴したのだが、両所での音の印象はほとんど変らなかった。実は、この二ヵ所のルームアクースティックはかなり違い、いつも耳のイクォライゼーションに苦労をさせられるのだが、このスピーカーに限って、不思議なほど、同じような印象の音が聴けたのである。これは、このA400というシステムが、ルームアクースティックの影響を受けにくいことを示すものではないかと思って、英文の資料を読んだら、まず、その件が明記されていた。〝A400の独特の設計技術は、部屋の個有の癖による影響を出来る限り受けにくいものにした〟と書かれている。また、先を読み進むうちに、こんなフレーズも出てきた。〝A400は、軸上で直接音を測っても、間接音を含め、部屋でのトータルレスポンスを測っても、ほとんど同じ周波数特性を示す。技術者が今までに考えてもできなかった数少ないスピーカーシステムである。〟もちろん、メーカーの資料というものは、いいことずくめしか書いてないのは当然であるが、この件に関しては、計らずも、体験が先行したことだから信用してもよいとも思える。
 3ウェイ4ユニット構成のフロアー型で、ウーファーは20cm口径が2基、スコーカーは15cmコーン型が1基、そして2・5cmのドーム型トゥイーターが1基という内容だが、そのエンクロージュアのプロポーションがユニ−クで美しく、しかも、このシステムの優れた特性の秘密の一端を担っているものだ。幅53cm・高さ1mという大きいバッフルだが、わずか奥行は18cm少々といった薄さである。この寸法はエンクロージュア内のエアーボリュウムの厳密な計算の結果出たもので、トゥイーターのマグネット、スコーカーのキャビティ、ネットワークなどの体積を除いて、2つの20cmウーファーの低域特性の調整の最適値に設定されている。もちろん、完全密閉型だ。実に美しく、スマートな外観でもある。
 イーストコースト・サウンドといえば、重い低音の魅力が誰の耳にも記憶されているであろうが、新しいイーストコーストサウンドは鮮やかな変身をとげた。低音の質感は密閉型のエンクロージュアとは思えないもので、重苦しさがない。中高域は自然で、全帯域にわたって、きれいに位相感がそろっていてプレゼンスが豊かだ。こする音も滑らかだし、叩く音も実感があって潑剌としている。パワーにもタフだ。美しい姿といい、音の品位の高さといい、価格を超えた価値をもつ立派な製品である。

デンオン PRA-2000Z, POA-3000Z

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 デンオンのセパレート型アンプの新世代を意味する製品として、PRA2000とPOA3000が登場してすでに5年の歳月が経過している。今回、その安定した評価を一段と高めるために、最新のアンプ技術が投入され、新しく型番末尾にかつてのプリメインアンプPMA700Zで使われた、栄光のZの文字がついたPRA2000ZとPOA3000Zとして新登場することになった。
 デザイン的には、当然のことながら従来の製品イメージを受継いではいるが、操作性を向上するために細部の改良点は数多くある。たとえば、PRA2000Zでは、セレクタースイッチのパネル面の凹みへの移動、パネル下側の扉部分の開閉にロック機構が追加されたことなどだ。
 PRA2000Zは、パワーアンプに先行して発売されたモデルである。前作が発売以来5年というロングラン製品であり、その間に、PCMプロセッサー、CDプレーヤーなどのデジタルプログラムソースが登場したこともあって、アンプとしての内容は完全に一新され、現時点での最新のコントロールアンプに相応しいものがある。
 基本構成は、アナログ系のフォイコライザーにCR型を採用するデンオン独自のタイプであることは前作と同様だが、今回はフォノ入力系が3系統独立したタイプに発展し、スーパーアナログ対応型としている点に特徴がある。イコライザーの構成は、入力部に約1対7の昇圧比をもつステップアンプトランスを備えたヘッドアンプ①、MC型力−トリッジをダイレクトに使用できるヘッドアンプ②とMM型に代表される高出力型力−トリッジ用のヘッドアンプ③の後に切替えスイッチがあり、これに続いてCR型RIAAイコライザー・ネットワークとフラットアンプが置かれる。
 イコライザー出力と、チューナー、DAD、AUXの3系統のハイレベル入力は、電子スイッチと高精度リレーによるソフトタッチ作動方式により切り替えられ、この部分にはプリセット機能をもち留守録音などに対応可能である。
 ファンクション切替え、テープモニター、サブソニックフィルター、バランス調整、ボリュウム調整に続き、フラットアンプ兼リアルタイムトーンコントロール部と出力のバッファーアンプが信号系の通路となる。
 フラットアンプは、最高級機PRA6000で開発された無帰還技術を発展させたハイスルーレイトなダイレクトディストーションサーボ回路による無帰還型で、トーン使用時には、ディストーションサーボ回路内組込みの素子を使うリアルタイムトーンコントロールとして動作する。なお、出力部のバッファーアンプも無帰還型ハイスピードの低出力インピーダンス型だ。
 また、電源部は、従来の2倍の容量をもつ90VA級の大型トロイダルトランス採用。AC電源コードは、デンオン伝統のPMA500以来採用されている大容量型の新開発コードで、これらの部分はコントロールアンプの死命を決定する要点である。
 POA3000ZはPRA2000Zより根本的に設計変更が行なわれていることは、定格出力が250W+250W(8Ω)とハイパワー化されていることからも明瞭である。従来のPOA3000は、純Aクラスベースの高能率型アンプを特徴としていたが、今回は、その後のデンオンアンプに採用された、一般的なBクラスベースのノンスイッチング型に変わったとともに、独自の無帰還技術が全面的に新採用され、飛躍的に高度な性能を引出している。
 無帰還方式でNF技術を使わず歪みを除去するために、静的歪み除去のためのデュアルスーパー無帰還回路、信号のフィードバック、時間遅れ、スピーカーの逆起電力の影響などを排除するパワー段の新開発無帰還回路などが駆使されている。
 電源部は、左右独立トータル5電源型で、電源トランスは大型トロイダルクイブ採用。大型のピークレベルメーターは、0dBが200W(8Ω)表示で、内部に異状温度上昇と左右チャンネルの動作状態をチェックする自己診断ディスプレイを備える。なお、機能面には、CDプレーヤーをダイレクトに接続できるDAD IN端子を備える。
 PRA2000ZとPOA3000Zを組み合せて試聴をする。
 従来のペアが、柔らかく、滑らかで、美しい音を聴かせながらも、内側にかなり芯の強いキャラクターをもち、これが程よい音の芯を形成したり、ある場合には、音の傾向から予想するよりも、はるかに強く輝かしい個性を示したりする傾向をもち、柔らかく、穏やかだが、芯の強さのあるアンプという印象であった。それと比較すると、固有のキャラクターが大幅に弱められて、プログラムソースの内容に素直に対応し、柔らかくもシャープにも音を聴かせるナチュラルさが感じられる点と、音場感的なプレゼンスやディフィニッション、音像定位のナチュラルさなどが加わったことは大変に好ましい新製品らしい成果である。
 アナログディスクをプログラムソースとする場合、とくにMC型カートリッジには、PRA2000Zの独特の3系統のフォノ入力が、積極的に使いこなせるようだ。
 昇圧トランスをもつフォノ㈰は、トランスの昇圧比が低いため、あまり、カートリッジ側のインピーダンスの差に影響されず、トランス独特の程よく帯域コントロールされた密度の濃い、いわばアナログならではの豊かな音を聴かせてくれる。いわゆる低インピーダンス型MCや、軽針圧タイプの空芯高インピーダンス型MCで、広帯域型であるために、力強さや、音の厚みに欠ける場合などはこのフォノ①が好適であり、一般的な嗜好からはこのサウンドのほうが熱い支持をうけるにちがいない。
 ダイレクトにMC型が使用できるフォノ②は、①とは対照的に、広帯域でディフィニッションの優れた、現代型の軽量級空芯MC型の特徴を引出すに相応しい音である。CDを使うことが多くなると、このポジションで使う音が、アナログディスクでも標準となるであろうし、最新のアナログディスクの質的な内容を聴くためには、このクォリティがぜひとも必要になるであろう。フォノ③は、MC型なら外附けの昇圧トランスやヘッドアンプ用に使いたい。
 CDなどのハイレベル入力で音質が優れているのは、PRA2000Zの魅力だ。一般的に、ハイレベル入力からプリアンプ出力までのアンプで音の変化が大きいのが常だが、この部分の質的向上を望みたい。

ピカリング XLZ7500S

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ピカリングといえば、シュアーと並んでアメリカの力−トリッジメーカーの名門として有名だ。数多くの優れたMM型カートリッジを世に送り出してきたが、このXLZ7500Sという新しいMM型は中でもひときわユニークな製品といってよい。
 MM型カートリッジのMC型のそれに対する一つの大きなメリットは、出力電圧が高く、ヘッドアンプやトランスを使う必要がない点にあるが、この製品は、あえてそのメリットを犠牲にしてまで、音質の品位を追求したものと解釈できるのである。0・3mVという低い出力電圧はMC型並みである。
 なぜ、こういう製品が生れたのかという疑問が当然おきて不思議ではないが、筆者も、この音を聴く前には納得できなかった。ピカリング社の主張は、MM型の振動系のほうが、容易に精度を高めることが可能であるから、コイルのターン数を減らして、SN比の向上と歪みの低減を実現すれば、従来のMM型を超える製品ができるはずだというものである。MM型とMC型との優劣については、物理特性的には容易に優劣がつきにくいが、現状では高級カートリッジはMC型が常識のようになっている。したがって、このMM型がただ単に既成のMM型を凌駕するだけでは存在の必然性が危ぶまれてもしかたがないだろう。多くのMC型に比較して、性能面はもちろん、音の品位やセンスに明確な存在理由を感じさせるだけの成果があらねばならないのである。
 メーカーは、この製品の使用条件に、100Ω以上のインピーダンスで受けるように指定しているが、これは、ヘッドアンプの使用を標準として考えていることと理解できそうだ。つまりトランスは、一次インピーダンスは3〜40Ωのものが多く、筆者の知る限り、100Ω以上の入力インピーダンスをもつものはほとんどない。手許にあったトランスも、ハイインピーダンスのもので40Ωだったが、一応ヘッドアンプと平行して使ってみた。
 試聴結果は、これがMM型であろうと、MC型であろうと、そんな事を忘れさせるにたる高品位の音質であった。とにかく、音の透明度が高いのが新鮮な印象で、いかにも純度の高い、歪みの少ないトランスデューサーらしい音がする。変換器としての特性は相当に高い次元まで追求された高級カートリッジだということが感じられる。標準針圧1gでトレースは完全に安定している。このメーカーの開発テーマの一つに振動系の立上り時間の速さが上げられているが、たしかにこのクリアーでフリーな音の浮遊感は、振動系の機械歪みが少ないためであろう。最近のコントロールアンプやプリメインアンプにはMC用ヘッドアンプ内蔵のものが多いから、この小出力MM型は、なんのハンディもなしに、その美しく透明な音の魅力を評価されるであろう。

フィデリティ・リサーチ FR-7fz

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 エフ・アールを代表する独創的な発電メカニズムをもつMC型カートリッジ、FR7は、七八年の発売以来、八〇年のFR7f、八一年の受註生産のスぺシャルモデルFR7fcとモディファイがおこなわれ、すでにシリーズ製品としては、長期間にわたるロングセラ㈵を続けている。
 今回、このFR7fに改良が加えられ、モデルナンバー末尾に、このタイプの発電方式による究極のモデルを意味するZの文字が付けられてFR7fzに発展し発売された。
 力−トリッジ、とりわけMC型では、その発電メカニズムそのものが結果としての音質を決定するキーポイントであるが、FR7系の発電方式は、3Ωという低インピーダンス型ながらも、コイル巻枠に鉄芯などの磁性材料を使わずに、空芯の純粋MC型として、驚異的な0・2mVの出力電圧を獲得している点に最大の特徴がある。
 では、どうして低インピーダンス型にこだわるのか。カートリッジを電圧×電流つまり電力で考える発電機として考えてみれば、出力電圧は、同じ0・2mVとしても、インピーダンスが、3Ωと30Ωでは、負荷に流せる電流の値は、簡単に考えて約10対1の差があると思ってよい。つまり、発電できる電力としては低インピーダンス型に圧倒的な優位性があるわけで、この発電効率の高さが、例えば高能率型スピーカー独特の余裕のある力強さや、豊かさに似た、音質上の魅力のもとと考えてよく、低インピーダンス型MCを絶対的に支持するファンは、この特徴に熱烈な愛着を持っているにほかならない。
 FR7fzの特徴は、コイルの線材に特殊製法の純銅線を採用し、コイル部分の再設計をおこない、負荷インピーダンスを3Ωから5Ωに変え、出力電圧を0・2mVから0・24mVと高めたことにある。
 試聴には、トーレンスのリファレンスとSME3012Rゴールドを使用した。ただ、シェル一体型で自重30gのFR7fzでは、この場合バランスはとれるが、最適アームであるかについては不満が残る条件である。なお、昇圧トランスは、XF1タイプLおよび他のものも用意した。
 FR7fが、押し出の効いた豊かな音をもってはいるが、やや、最新録音のディスクで不満を残した音の分解能やスピード感などが、新型になって、大幅に改善されるとともに、新しい魅力として、伸びやかで活き活きとした表現力の豊かさが加わった印象である。昇圧トランスを使わず、MCダイレクト入力でも使ってみたが、やはり真の発電効率の高さは、トランスで活かされることは、その音からも明瞭である。
 製品としての完成度は、非常に高いが、アナログ究極のMC型力−トリッジとしては、現在開発中と伝えられる、カンチレバーレスのダイレクトMC型に期待が持たれる思いである。

エンパイア 4000D/III GOLD

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 国内製品では、もはやカートリッジといえばMC型といえるほどに、MC型全盛時代を迎えている。それだけに、海外製品のMM型やMI型の新製品の登場は、アナログディスクファンとしては、非常に興味深い存在としてクローズアップされる。
 今回、米国の名門エムパイアから発売された4000D/III GOLDは、同社の高級モデルとしてロングセラーを誇り、独特のサウンドの魅力をもつ4000D/III LACをベースに改良された新製品だ。
 外観上の大きな変化は、独特の板バネを使ってヘッドシェルとカートリッジ本体をクランプする方式を採用していた従来型から、一般的なボディにシェルマウント用の台座が固定されたタイプに変わったことである。これにより、非常に短いネジを必要とした取付法が改善され、機械強度的に一段とリジッドな構成になったことが利点であろう。ただ、4000D/IIIファンの目には、視覚上のオリジナリティがなくなったことは、趣味的にいえば少し淋しい印象がないわけでもないと思う。
 振動系では、GOLDの名称をもつようにカンチレバーに金メッキが施されダンピングが加わっているのが主な変更点である。
 音は一段とナチュラルになり、穏やかな定定感のあるものに変化し、改良されたことは明瞭に聴き取れる。使用上は針圧の僅かな変化で音質が変化する点に注意したい。

NEC A-11

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 アンプのエネルギー源である電源回路は電圧増幅を行なうコントロールアンプはもとより、電力増幅を行なうパワーアンプでは、直接アンプそのものの死命を制する最重要な部分だ。従来からも大型パワートランスや大容量コンデンサーの採用をはじめ、テクニクスがかつて採用したパワー段を含めての定電圧化、ソニーやビクターのパルス電源方式、ヤマハのX電源など各種の試みが行われてきた。しかし最近では、模準的な商用電源を使う電源トランス、整流器、大容量電解コンデンサーを組み合わせたタイプに戻っているのが傾向である。
 NEC A10プリメインアンプで採用され、新電源方式として注目を集めたリザーブ電源方式は、標準的な電源方式をベースに独創的な発想によるサブ電源を加えて開発されたタイプだが、今回、発売されたA11とA7では、これをさらに発展させたリザーブII電源方式を採用している。その内容は、蓄電池に代表される純直流電源とAC整流型の一般的な電源の比較検討の結果から、電源コンデンサーへ充電する場合の両者の波形の差に注目して、主整流電源の充電波形の谷間を埋める副整流電源を加えることで、限りなく純直流電源に近づけ、充電電流による混変調歪を抑え、低インピーダンスで電流供給能力の優れた電源とするものである。
 結果として物量投入型の電源となるために、価格制約上で定格出力は他社比的に少なくなるが、負荷を変えたときのパワーリニアリティは、A11で8Ω負荷時70W+70W、4Ω負荷時140W+140Wと理想的な値を示しているのは、注目すべき成果である。
 A11の主な特徴は、各増幅農独立の5電源方式とリザーブII電源、全段独立シャントレギュレーター型定電圧電源、全段プッシュプル型増幅回路の採用などである。
 A11の音は、安定な低域をベースにクリアーで、ストレートな音を特長としたA10の魅力を受継ぎながらも、一段と余裕があり、しなやかな対応を示す表現力の豊かさが加わったことが印象的だ。いわば大人っぽくなったA10といえるわけだが、試聴機は機構面での仕上げに追込みの甘さがあり、聴感上での伸びやかさ力強さがやや抑えられ、スピード感が弱められているのが残念な印象であった。

ダイヤトーン DS-1000

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ダイヤトーンの新世代のスピーカーシステムは、大型フロアーシステム、モニター1で採用された、アルミハニカムコアにスキン材を両面からサンドイッチ構造にしたハニカム・コンストラクション・コーンの低域ユニットに、新開発のDUD(ダイヤトーン・ユニファイド・ダイアフラム)構造のダイアフラムとボイスコイルボビンを一体成形したドーム型ユニットを組み合わせ4ウェイ構成としたDS505がその第一弾だ。そして翌年のDS503、これに続くフロアー型DS5000と一年一作のペースで、そのラインナップを充実させ、デジタルプログラムソースに対応するハイスピードのサウンドを追求し続けてきた。
 今回、発売されたDS1000は、型番そのものはDS5000系を受継いではいるが、その内容は従来のシリーズとは、異なった構想に基いて開発されたオリジナリティにあふれた新製品である。
 開発の基本構想は数年にわたりモディファイを繰り返し、発展改良が加えられ完成期を迎えた、ハニカム・コンストラクション・コーンやDUDの娠動系をベースとしている。それをもとに、ユニットの原点ともいえるフレームに代表される機械的な構造面を見直し、従来よりも一段と優れた振動系の特徴を積極的に引き出し、性能が高く、音質が優れたユニットをつくり、これを従来のエンクロージュアの大小で製品の位置付けを決める手法ではなく、ダイヤトーンスピーカーシステムの出発点の主張である、小型高密度設計アコースティックサスペンション方式の小型エンクロージュアに収納しようというものである。
 エンクロージュアは放送モニター2S305で実績のある、回折効果を抑えて中音域を改善し、ディフィニッションが優れ、音質定位が明確な特徴をもつラウンドバッフルを、コンシュマー用システムとして最初に採用している。バッフルボード上には、従来モデルのようにレベルコントロール、サブパネルなどがない。これらは固有共振をもちバッフル面の振動やウーファーの背圧により駆動され、中域から高域にわたり一種のパッシブラジエーターとなる。その不要輻射を生じ音を汚していた部分を全廃し、ダイレクトプリント方式でデザイン処理を施しているのである。
 この部分の不要輻射による音質の劣化は、かねてより指摘していたことだが、やっとDS1000において初採用されたことは大変に好ましいことだ。ちなみに、どのスピーカーシステムに限らず、アッテネーターツマミ、パネルなどをガムテープなどでマスキングして聴いてみていただきたいものだ。想像を絶するほどの音質改良の効果は、誰にでも容易に聴き分けられるだろう。
 現状のシステムで、重要なバッフル板に余分な穴を開けデザイン上でのアクセントとすることは百害あって一利なしの典型だ。優れたユニットの性能、音質を劣化させる重要なファクターと知るべきである。
 ユニット構成は、27cmカーブドハニカムコーン採用ウーファー、5cmと2・3cmDUDチタンドーム型の中、高域ユニットの3ウェイ方式だが、各フレーム部分は完全な剛体構造の新設計である。低域用フレームは、振動板の反作用を受ける磁気回路の反動をフレーム自体で受けるDMM方式が特徴。ちなみに一般的フェライト磁石の磁気回路は、国内製品では構成部品は接着材で固めてあり強度的に不足しているが、海外製品は基本的に前後プレートをネジで強固に結んで固定しているのが原則である。JBLはもとより、古いボサークでさえネジ締めを行なっている。つまり反動を受ける磁気回路が宙ぶらりでは仕方ないわけだ。
 中高域ユニットも、従来型のように磁気回路をフレームで受ける方式ではなく、前プレートに振動系を直接マウントし、この部分でバッフルに取付けるダイレクトマウント方式が単純明解な処理である。
 詳細は省くが、とにかくスピード感、反応の鋭さ、早さは、このシステムの異次元の魅力である。設置方法、使用機器にわずかでも不備があれば、それを音として露呈するシビアさは物凄い。まず、これを正しく使いこなすことができれば、その腕は第一級であろう。恐ろしい製品の登場だ。

パイオニア Exclusive C5

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 現時点での世界のトップランクのコントロールアンプを目指して開発されたモデルだけに、C5は長期間にわたり培われたパイオニア独自のアンプ回路設計技術の集大成をベースに、ユニークで簡潔なコンストラクション、コンデンサー、抵抗、スイッチ類などの数多くの部品を非常に高い次元で吟味し選択して採用している。
 このように文字として書けば、ほとんどの新製品アンプのコマーシャルコピーと何の変りもない表現になるが、実際のEXCLUSIVE C5の内部を見てみると、平均的なオーディオアンプの要求度とは隔絶した、非常に高い次元での要求に基づいて開発された製品であることが、現在のアンプ設計技術の水準を適確に捉えている目をもってさえいれば、瞬時に認識できるだけの内容を備えている。
 まず外観から眺めてみると、基本的なデザインポリシーは、EXCLUSIVEの顔ともいえるパネル面の下側に、サブパネルを設けたパネルフェイスに、天然木キャビネットという流れを受け継いではいるが、手づくりのフロントパネルは、C5では一枚構成のシンプルなタイプに整理され、C3、C3aではサブパネルとなっていた下側のパネルは、実際には開閉できず、単なるデザイン上の処理となっている。
 特徴的なパネル左端の長方形の部分は、大型のパワースイッチで、本機独特のマルチトランス・パワーサプライ方式、ACアウトレットのON・OFF用として、音質上でも重要な部品であり、ここでは特殊なタイプが採用されている。
 内容的なアンプとしてのブロックダイアグラムは、入力部に3Ω/40Ω切替型のMCカートリッジ用昇圧トランスを持つフォノイコライザー部、TUNER、AUXなどのハイレベル入力用と、テープ入力用に独立したバッファーアンプ、フラットアンプ部、トーンコントロールアンプとサブソニックフィルター、出力用バッファーアンプ部で構成され、ボリュウムコントロールは、フラットアンプの前に、バランサーは出力用バッファーアンプの前に置かれるレイアウトである。
 これらの各アンプ部は、モジュールアンプ化されていることが本磯の大きな特徴である。280μ厚無酸素圧延銅使用のガラスエポキシ基板上にトランジスター、コンデンサー、抵抗などの構成部品をマウントし、これをポリプロピレン系の特殊な導電樹脂ケース内に、鉛ガラスフィラーを混入した高比重エポキシ樹脂で固め、音質上有害な振動や電磁波の除去と、熱的安定度をも含めた耐久性、安定度の向上をはかった設計であり、フォノイコライザー部のイコライザー素子も同様な構造のCRモジュールが採用され一般的なアンプの内部に見られる基板上に半導体、コンデンサー、抵抗、スイッチ類が林立するアンプらしさは皆無に等しい。
     *
 このところ、アンプの話題は、信号系の回路構成上の斬新さもさることながら、アンプの基本である電源部の見直しが各社でおこなわれ、それぞれにユニークな名称がつけられているようだが、C5の電源部もオーソドックスな手法によるマルチトランス・パワーサプライ方式を採用している。
 基本的な構想は、フォノイコライザーアンプ部、フラットアンプ部の左右チャンネル用4ブロックに、それぞれ独立した4個のパワートランスを使用する方式で、アンプにとっては理想的ともいえる電源方式であり、従来の巻線のみ独立したタイプににくらべ、電源による混変調歪やセバレーションの劣化に対して効果的な手法である。
 本機の電源部は、この4個のトランスに加えて、信号系制御用の主にリレー用に使う電源用の専用トランスを備えるため、これも音質に直接関係をもつAC100Vラインの配線が複雑化する難点をもつが、この解決策として、5個の電源トランスとACアウトレット用の6系統のACラインに対応した無酸素銅線使用の6本のAC用コードを束ねた新開発の電源コードが開発され、各電源トランス間の干渉を低減するとともに、電源インピーダンスをも低くしている。また電源プラグは、当然のことながらEXCLUSIVEらしく、極性表示付である。
 MC用昇圧トランスの採用も本機の大きな特徴である。昇圧トランスのポイントは鉄芯にあるが、ここでは独自の53μ厚リボンセンダストをトロイダル型として採用。パーマロイにくらべ広帯域であり、非結晶性材料のような経年変化のない特徴があるl。巻線はφ0・25mm無酸素銅線を2本並列巻としDCRを低くし、MC型独特の低電圧・大電流を活かしている。
 その他、BTS規格の0〜−90dBと−∞〜の40ステップのアッテネーターの採用、新開発のリレーによる入力セレクター、テープ関係などの信号切替、トーンフラット位置でリレーにより完全にトーンコントロールアンプがディフィートするトーン回路、22番線相当の無酸素銅撚線を芯線とし、低容量ポリエチレン絶縁物、同じく無酸素銅線と導電性ポリ塩化ビニール使用の高性能シールド線など、機構面での非磁性材料使用モノコンストラクション筐体、非磁性ステンレスネジなど、単体部品開発から手がけている点は、類例のないものだ。
 ヒアリングは、EXCLUSIVE M5をはじめ、2〜3機種のパワーアンプと組み合わせて使用したが、基本的にキャラクターが少なく、優れた物理特性をベースとしたナチュラルな音が聴かれる。聴感上のSN比に優れ、音場感的な定位やパースペクティブを誇張感なくサラリと聴かせる。M5との組合せでは、全体に滑らかに美しく音を聴かせる傾向を示すが、旧いマランツ♯510では、整然としたダイナミックな押し出しのよい音を聴かせる。
 現代の優れたオーディオ製品に共通する特徴は、これといった個性を誇示する傾向がなく、自然な応答を示すことだが、C5も同様である。いわゆる、シャープな音とか雰囲気のある音という表現は、結果では生じるが、使用条件、使用機器でかなり変化をするため、簡単にC5の音はこうだと判断するわけにはいかない。あくまでナチュラルで、正確な音といったらよいであろう。とくにコントロールアンプで音の差が生じやすいハイレベル入力からの性能が優れているようで、この点はCD、デジタルプロセッサー用として、現代アンプらしい特徴である。

アクースタットとのスリリングな一年

黒田恭一

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「同社比による徹底研究 アクースタット篇」より

 去年、つまり一九八二年の手帳を、調べてみた。なにがしりたかったのかというと、はじめてアクースタットのスピーカーをきいたのがいつであったかである。
 むろん、そのときの鮮烈な記憶が薄れているというわけではない。アクースタットではじめてきいたレコードがなんであったか、誰ときいたのか、その日の天気はどんなであったかといったようなことは、よくおぼえている。しりたかったのは正確な日付けである。なぜしりたかったかというと、あれからずっとアクースタットにかかわりつづけてきてしまったので、ぼくとしてはいったいどの程度の時間をアクースタットの周辺でうろうろしたのかをはっきりさせる必要があったからである。
 アクースタットのスピーカーをはじめてきいたのは、去年の四月二十九日である。場所はステレオサウンド社の試聴室であった。一緒にきいていたのは作曲家の、もはやすでに卵とはいいかねる、しかしまだ一人前の作曲家というには多少無理がなくもない草野次郎であった。草野君はぼくの教えているさる大学の、といってもぼくは集中講義をするだけの非常勤講師でしかないが、そういうぼくの受け持っているゼミの生徒である。先生よりすぐれている生徒というのはままいるものであるが、草野君は少し前までそのような正とのひとりであった。
 しかも、その草野君もまた、なかなかのオーディオ通でもあった。そこで、編集部の要望もあって、ステレオサウンド社が「ステレオサウンド」の別冊として企画した「サウンドコニサー」のための試聴者として参加してもらうことになった。そのときに登場したのがアクースタットであった。
     ●
 男女の関係で一目惚れということがあるそうであるが、オーディオ機器とききてとの関係でも似たようなことがある。ただ、男女の関係での一目惚れは情熱的なおこないに思えるが、オーディオ機器での一目惚れは情熱の証明にはなりがたいようである。
 自分の過去をふりかえってみると(むろんふりかえってみるのは男女の関係についてではなく、オーディオ機器との関係についてである)、一目惚れの連続であった。そのためにこれまでにも、オーディオ通を持って自認する友人たちに、お前のオーディオの好みは支離滅裂でわけがわからんと、しばしば批判されてきた。たとえわけがわからんといわれたって、ぼくに説明のつくはずもなかった。かつて、スピーカーをAR3からJBL4320にとりかえたときも、そういわれたことがある。
 一九八二年四月二十九日も、その一目惚れをやってしまった。これは凄い、アクースタットのモデル3の音をほんの一分もきかないうちに、まずそう思った。
 そこで血迷ってさっそく買いこんでしまったわけであるが、その辺の経過について、あるいはそのときにアクースタットのモデル3というスピーカーのどのような音に決定的にとらわれたのかといったようなことは、かつて一度書いたことがあるので(ステレオサウンドNo.63)、恥のうわぬりをしてもはじまらないであろうから、ここではくりかえさない。ここで書くべきは、その後のこと、つまりぼくにおけるアクースタット騒動の後日談である。あれから後、さらにいろいろなことがあり、さらについ最近また大騒動があった。
 オーディオ機器は、むろん買うのも大変であるけれど、買ってから後がこれまた大変である。とどけられた、電気を通した、はい、音がでました、それですめばいいが、そうは問屋がおろさないことは、同志諸兄におかれては充分にご存じの通りである。しかし、そのために、オーディオは趣味たりうる。とどけられた、電気を通した、はい、これで洗濯できますという洗濯機とオーディオ機器とはやはり違う世界のものであろう。電気洗濯機的なオーディオ機器が一方にあることは歓迎すべきであるが、電気をお通してからできるオーディオがやはりもう一方にあってほしい。
     ●
 アクースタットのモデル3はなかなか微妙なところのあるスピーカーである。スピーカーのきかせてくれる音との対話をくりかえしつつ、そのスピーカーをひたひたと追い込む使い手側の執拗さがないかぎり、このスピーカーの最良の面はなかなかひきだしにくいように思う。
 このようにいうと、アクースタットのモデル3があたかもじゃじゃ馬のごとくに考えられてしまうのかもしれないが、このスピーカーは俗にいわれるじゃじゃ馬ではない。むしろ逆である。アクースタットのモデル3を敢えてなにかにたとえるとすれば、これは、じゃじゃ馬どころか、慎ましすぎる淑女である。
 どこが淑女か。ついに下品な音をださないところである。彼女の口調が大袈裟になることは決してなく、どちらかといえば内輪になりすぎるきらいさえある。そのような属性はやはり、じゃじゃ馬のものではありえず、淑女のものというべきであろう。使いはじめの段階でいくぶんもじもじするようなところがあるところもまた、淑女的といえなくもない。
 淑女は淑女で素晴らしいとは思うが、スピーカーにあっては淑女的性格そのものがかならずしも美徳にはなりえない、ということを忘れるわけにはいかない。ききてがきく音楽は実にさまざまだからである。およそ淑女的などとお世辞にもいうことができない、けたたましくてワイルドな音楽だってききてはきくことがある。
 多くのスピーカーではあたかもじゃじゃ馬を調教するといったかたちで使い込んでいくようであるが、このアクースタットのモデル3の場合には方向としてむしろ逆である。内気な淑女の隠れた可能性を、スピーカーのきかせてくれる音に耳をすませつつ、徐々にほりおこしていくのである。そのうちに、気持も次第にほぐれてきて、はじめはくちかずの少なかった淑女もうちとけた表情になり、自分から積極的にはなすようになる。そこまでもっていくのがなかなか大変である。その努力を怠る人にはこの淑女は手においかねるかもしれない。
     ●
 たとえばききてに対してのスピーカーの表面の角度をどうするか、これもなかなか重要問題である。角度をほんのちょっと変えただけで、きこえ方はがらりと変わった。このことはいずれのスピーカーについても大なり小なりいえることであるが、アクースタットのスピーカーでの変化量は、敢えていうが絶大である。調整などというもっともらしいいい方は好むところではないが、メジャーを片手にほんの少しずつスピーカーを動かすようなおこないは、やはり調整というよりほかに適当な言葉はないであろう。
 角度といえば、平面上の角度のみならず、床に対しての角度もまた、きこえ方にわずかとはいいがたい影響をおよぼした。したがってこの点でも微妙な調整が必要になった。このような調整にはこれといった基準があるわけではなかった。スピーカーのきかせてくる音と自分の耳との対話を繰り返しつつ、そこにある種の仮説をたて、手探りで淑女の可能性を探っていくだけであった。このときのたよりは自分の耳だけである。こうかな? それともこうかな? と自問しながら作業を進めるよりなかった。
 そのほかにもまだ、スピーカーの背後の壁面までの距離をどの程度にするとか、スピーカーの横の壁面まで距離をどの程度にするとか、あるいは二つのスピーカーをどの程度離して置くかとか、あれこれこだわることにかけてはことかかなかった。そのようにこだわることがたのしみでもあったのであるが。
 そうはいっても四六時中スピーカーの調整にのみかかわりっきりになっているわけにもいかなかったので、仕事が一段落したときとか、あるいは気分転換をするときとか、そういうときにこまめに手をかけつづけて、淑女の隠れた可能性を一応自分なりにひきだしたつもりでいた。しかし、まだ、先があった。したたかな淑女はさらに未知なる魅力を隠していたのである。
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 その未知なる魅力をひきだしたのはラスクであった。ラスクをしいて、その上にアクースタットのモデル3を試しにのせてみた。さして期待はしていなかった。JBL等のボックス型のスピーカーで効果的なのは、すでに自分の耳で確かめていた。ボックス型のスピーカーにラスクが有効なのは、このかならずしも上等とはいいかねる頭脳でも一応理解できた。
 ボックス型のスピーカーと較べて、エレクトロスタティック型のスピーカーであるアクースタットのモデル3は、床に接している面積が少ない。ということは、ラスクに接する面積も少ない、ということである。それでもなお効果があるのであろうかとここでのラスクの働きをいくぶん訝る気持がなくもなかった。
 しかし、ラスクをしいたことで、音がひきしまった。それまでだってそんなに音がふくれていくわけではないが、目にみえて(?)くっきりした。そのときまでにぼくの部屋にアクースタットのモデル3が運びこまれてからすでに一年以上の時間が経過していた。ラスクをしいた段階で、一応の目的地にたっしたような気持になっていた。
 誤解のないように書きそえておきたいと思うが、そこにいたるまでの作業を、自分としては苦労などと思えなかった。楽天的な性格の持主である男は常にいそいそとことをおこなった。スピーカーの角度をあれこれなおしたりしているときはたのしかった。それにもともとが気に入ったスピーカーの隠れた魅力をさぐっていたわけであるから、好きになった人にあうたびにその人のいいところに気づくようなもので、アクースタットのモデル3にかかわりつづけた日々はまことにハッピーであった。出来の悪いじゃじゃ馬を調教するときの苦労などそこであじわうはずもなかった。
     ●
 かくしてぼくは、アクースタットのモデル3との蜜月をぼくなりにたのしんでいた。そこに、またしても(!)メフィストフェレスのごとき声で、「ステレオサウンド」編集部のM君がぼくに囁いた。アクースタットのほかのスピーカーもきいてみませんか?
 いつだってぼくの泰平の夢を破るのはM君である。今回もそうであった。しかも今回はぼくのおかれている状況がいつもと違っていた。そのときすでに新しい音楽雑誌「音楽通信」の準備に入っていたので、ぼくの気持としてはスピーカーどころではなかった。しかし、悲しむべきことに、誘惑に弱い男はメフィストフェレスを撃退できない。そこをM君に狙われる。まあ、モデル3の姉妹たちがどんなであるか、こういうチャンスにみておくのも悪くないな、と思った。
 そしてある日、2M、3M、それに2+2といったアクースタットの三種類のスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。たまたまそれらのスピーカーが運びこまれたときには仕事の都合で家にいられなかった。家に帰ってみてびっくりした。それまでのスピーカーも含めて都合八本のスピーカーがずらりと並んで立っているさまをみて、これはまさに摩天楼の林立するニューヨークの夜景を飛行機から眺めているようなものではないかと呟かないではいられなかった。
 それまでのスピーカーも人並みはずれてのっぽであったが、それさえも2+2の尋常ならざるのっぽさにくらべれば、可愛いものであった。摩天楼の林立した部屋の中はいつになく狭苦しく感じられた。
 出来るだけ試聴中のスピーカーに影響を与えないようにと、それ意外のスピーカーを隅の方におしやってききはしたものの、おそらくなんらかの影響からまぬがれることはできなかったであろうと思う。ともかく、モデル3の姉妹を、とっかえひっかえきいて、内心ほっとした。
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 なぜかというと、モデル3がアクースタット姉妹のなかでも優れているということがわかったからである。そうはいっても、この比較には、いくぶんフェアでないところがなくもない。なぜなら、モデル3は、ぼくの部屋ですでにわずかとはいいかねる時間をすごしていたわけであるから、設置場所等のことで或る程度のところまではもっていってあったが、ほかの三機種についてはその点でハンディキャップがあった。考えてみれば、やはり我がモデル3がいいなと思ったのも、至極当然であった。
 むろん、新参の三機種それぞれの間に、多少の優劣の差は認められた。ただ、どれがよくて、どれがよくなかったというようなことをいう前に、ひとことつけくわえておくべきことがありそうである。
 アクースタットのスピーカーでは、そのスピーカーのフロントパネルの表面面積がそれをきく部屋の容積と微妙に関係するようである。つまり、その関係がアンバランスになっては、望ましい結果がえられないということである。Aという大きい部屋で好ましくなったものでも、Bという小さい部屋ではその本領を発揮しえないということがアクースタットのスピーカーにはある。このことはほかのメーカーのスピーカーについても大なり小なりいえることではあるが、アクースタットのスピーカーではその点がかなり厳しいところがある。
 したがって、以下のことは、その辺のことをふまえた上でよろしくご判読いただきたいと思う。たまたまぼくの部屋の容積では好ましい成果をあげたものの、別の部屋に持っていけば、これがあのスピーカーか? といったことにもなりかねない。アクースタットのスピーカーではこれがベストといかれば、それにこしたことはないのであるが、このスピーカーについてはケース・バイ・ケースで語るより手がない。そこがアクースタットのスピーカーのおもしろいところでもあり、同時に難しいところでもある。
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 ぼくの部屋できいた感想をもとにいうとすれば、これではやはりこじんまりしすぎると思ったのが2Mであった。たの2Mのきかせた音は、いかにも部屋の容積に対してスピーカーの表面面積が不足しているといった感じのものであった。おそらくそのようになるであろうということは、あらかじめ予想がついた。
 このような場合のききての心理というのはおかしなもので、このスピーカーはこの程度であるかと思えたときには、やはり安心するのであろう。きき方が冷静である。ふむふむ、きみもユニットがふたつなのに、よくがんばるね、といったところである。金持喧嘩せず、とはうまいことをいったものである。これなら我が淑女の方がいいと思えているから、こっちにはまだ余裕が或る。いかにもいじましい心理ではあるが、ともかく余裕が冷静さを保たせているとみてよさそうである。
 冷静でいられるということは、熱中できないということで、一通りの試聴をすませてしまえば、さらに繰り返してきこうとしないのが人情である。この2Mのきこえ方にしても、ぼくの部屋ではいくぶんものたりなかったということでしかなく、部屋の条件が違ってくれば、おのずと2Mに対しての感想も変わってくるはずであった。
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 期待に胸躍らせてきてたのは、のっぽの2+2であった。なにぶんにもユニットが二段になっているのであるから、すくなくともみた目でほかのアクースタット姉妹とは大変に違っていた。ききての耳の位置にはおよそ関係がなさそうにおもえるところまでユニットがついていることが、聴感上どのように影響するのかが理解できなかった。しかし、ここで肝腎なのは、頭で理解することではなく、耳で納得することであった。それにはまずきいてみるより手がなかった。
 たしかに響きのスケールは大きかった。ただ、ほんのちょっとではあるが、ひっかかるところがあった。音としてのまとまりがよくなかった。音像もいくぶんふくれぎみであった。スピーカーの角度とかあれこれ、一通りのことはやってはみたものの、なるほどと納得できるところまではいかなかった。それまでのモデル3のきかせる音に較べて大味に感じられた。ここでまた、ほっと、安堵の溜息をついた。
 別にスピーカーの勝ち抜き戦をしていたわけではないが、ききての気持としては、無意識のうちに我がモデル3対2M、あるいはモデル3対2+2といったようなきき方をしていた。そして、ともかく2+2との大戦までは、まずまずの成果をおさめてきた。安堵の溜息はそのためのものであった。
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 残るは3Mであった。これは我がモデル3とユニットの数が同じである。ただ、ユニットそのものが多少違っているということであった。それに、ユニットの下に台のようなものが新たにつけられているので、全体としての背丈がいくぶん高くなっていた。
 これは、きいてみて、おやっと思った。モデル3と、微妙にとはいいがたい、かなりきわだった違いがあった。敢えてモデル3を古風な淑女というなら、3Mは現代的な淑女であった。
 もっとも違っていたのはそれぞれのスピーカーのきかせる音の輪郭であった。モデル3の輪郭には丸みがしり、それがまたモデル3の魅力にもなっているが、3Mではよりシャープであった。3Mではきこえ方がきりっとしていた。これは! と、モデル3派のききては慌てた。音としてのまとまりもよかった。なにぶんにも一年以上ならしてきたモデル3と新品の3Mとを比較しているのであるから、もともと較べようのないものを較べているようなものではあるが、それでもこの違いは気になった。
 しかし、このモデル3と3Mの音の違いは、優劣でいえる違いではなかった。浮気性のぼくは3Mの方にぐっと傾いてしまったが、ききてによってはモデル3の方がいいという人がいても不思議のない、ぼくの部屋でのきこえ方であった。
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 ここでふたたび、メフィストフェレスが登場する。さすがにこっちのことをしりつくしているメフィストフェレスである。ぼくが3Mの音をきいてぐらっときたところをみはからって、こう囁いた。どうです、この3Mのユニットを倍にした6というのがあるんですが、きいてみませんか? まだ日本に入ってきたことはないんですが、もしききたいのなら取り寄せてもらいますけれど。いや、ただきくだけでいいんですよ。なんともこしゃくなメフィストフェレスである。モデル3だけをきいていたときにはことさらのものでもなかったアクースタット姉妹への好奇心を、2M、2+2、さらに3Mときいてきて、刺激されたところでの、そのメフィストフェレスの言葉であった。ついふらふらっと、そうだな、きいてみたいな、と後先のことも考えずにいってしまった。
 なぜかいずれのメフィストフェレスも約束を守る。M君というメフィストフェレスも例外ではなかった。しばらくして、その6なるアクースタットのスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。覚悟はしていたものの、6の大きいのには驚かないではいられなかった。2+2より横にひとつずつユニットがふえただけのはずであるが、とてもそうとは思えなかった。
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 これもまた、あの2+2のように音像が大きくなりすぎるのであろうかと、その表面面積の大きさから推測したことをぼんやり考え、さしたる期待もなくききはじめた。
 このスピーカーが運びこまれたときにも仕事で留守にしていて、家に戻ったときには深夜に近かった。明日の朝ゆっくりきこうと一度は思ったものの、やはり気になったので、プレーヤーのそばにたてかけてあったレコードをかけてみた。
 気がついたら、朝になっていた。あたりにはあちこちの棚からとりだしたレコードでちらかっていた。次の日の予定のことも忘れて徹夜できいてしまったことになる。おかしいな、カーテンの間が明るいけれど、どうしたんだろうと思って外をみたら、朝になっていた。
 術の音が、背筋をしゃんとのばして、思い切りよくなっているといった気配であった。むろん思い切りよくなっているといっても、アクースタット姉妹のひとりである6のことであるから、野放図になっているはずもなかった。よくいわれるスケール感を、いささかもこれみよがしになることなく、ごく自然に無理なく、6は示した。オーケストラの響きはすーと向うの方にひろがり、ときたまソロをとる楽器があったりすると、そっちの方角に目をやってしまいそうになるほどなまなましかった。
 比較的大きな楽器編成の音楽からききはじめて、おそるおそる小編成のアンサンブルによるものに、さらに声とピアノによるリートにといったように移行していった。6は音像を肥大させるようなことはなかった。そのときはまだセッティングでことさらのことはしていなかったものの、きこえ方で特に気になるところはなかった。
 ただ、モデル3でのきこえ方と比較していうとすれば、音像が6の方がいくぶん大きいというべきであったが、これは追い込んでいくことによってさらに改善の余地がありそうであった。そのほかのすべての点で、6の方がモデル3より勝っていた。モデル3では響きが前方にひろがるという感じできこえたが、6では響きにつつみこまれるように感じられた。
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 2Mとか、2+2といった、ユニットの数が二の倍数のスピーカーがフィットする部屋と、3M、ないしは6といった、ユニットの数が三の倍数のスピーカーがフィットする部屋があるのであろうか。ほとんど自分の部屋でしかアクースタットのスピーカーをきいていないぼくには、その件に関してこれといったことがいえないが、すくなくともぼくの部屋では三の系統のスピーカーの方が好ましいとはいえそうである。2+2も素晴らしいスピーカーであるといわれているが、ぼくは実家としてどうもぴんとこない。
 オーディオを趣味とする人間には、ひとたび前に進むと後にもどれない将棋の香車のようなところがある。その辺のことを、やはり自身もオーディオを趣味とするために、メフィストフェレスのM君はしっかりわかっている。モデル3をきいてかなりの満足を味わっていたききては、6をきかされて後にもどれなくなってしまった。それだけの魅力が6にはあったということである。
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 アクースタットとのつきあいは一年半目にまたあらたな展開を示しはじめたということであるが、この一年半を振り返ってみて、そういえばといった感じで思い出すことがある。ぼくがアクースタットのモデル3にしてから部屋を訪ねてくれた、オーディオマニアとはいいかねる知人の、アクースタットのスピーカーからでた音をきいたときの驚嘆ぶりである。
 それまでにもそういうことはなくもなかったが、アクースタットのスピーカーにしてからきいた人の反応は微妙に違っていた。いい音ですね、といったような再生装置の音に対して普通つかわれるような言葉ではない、音のなまなましさを褒めてくれた人が多かった。そのことが暗示的に思える。きいていて、どきどきしちゃった、といった人もいた。なんだか怖くなった、といった人もいた。
 それらの賛辞をぼくは自分の装置の自慢の種にもちだしているわけではない。アクースタットのスピーカーの音の独特のなまなましさをお伝えしたくてもちだしているだけである。オーディオに日頃積極的な興味を抱いている人ではないから、おそらくきき方はひどく素朴である。そういういらぬ思い込みにみたされていないききてを驚嘆させるというのは、実はなかなかむずかしいことのはずである。そのむずかしいことをアクースタットのスピーカーはさらりとやってのける。ぼくがアクースタットのスピーカーにとらわれた最大の理由はその辺にありそうである。この音はまさにオーディオの音でしりながら、ききてにオーディオを感じさせない。
 しかも、M君というメフィストフェレスがいたために、香車は一歩前進できたことになる。泰平の夢は破られ、しかもさんざん揺さぶられたあげくに、こういうことをいわなければならないというのも、いかにもしゃくではあるが、やはりぼくはM君に感謝すべきであろう。
 これからまだしばらく、ぼくはアクースタット・ミクロコスモスからのがれられそうにない。

NEC CD-803

黒田恭一

別冊FMfan臨時増刊 ’84カートリッジとレコードプレイヤーの本(1983年10月発行)
「CDの本当の実力を垣間見た」より

 世代という言葉はゼネレーションという英語に対応すると考えていいであろう。「広辞苑」では世代をこう定義している、「生物が母体を離れてから成熟して生殖機能を終わるまでをいう。ほぼ三十年間をひとくぎりとした年齢層。親・子・孫と続いてゆくおのおのの代」。
 ところが、昨今では、あちこちで、CDプレイヤーの第二世代といったような活字を目にする。なに? 第二世代? といったところである。もし、「広辞苑」の定義にしたがうとすれば、昨年の秋から今年の前半にかけて発表されたCDプレイヤーが親の世代で、それ以後のものが子の世代ということになる。

 なにごとによらず変化の激しい時代ではあるが、一年もたたないうちに親の世代から子の世代にかわってしまうというのでは、いかになんでもドラマチックにすぎるように思うが、どんなものか。しかし、現実には、その第二世代のCDプレイヤーがつぎつぎに登場しつつある。まだそれらのうちのごく一部のプレイヤーにふれただけなので、断定的なことはいいにくいが、おおむね親のいたらなさを子がおぎなっているようである。とりわけ使い勝手の点で、そのことがいえそうである。
 親の世代の製品を買った人間としては、どうしたって心おだやかではいられない。しかし、あわててどうなるものでもない。一年未満で第一世代が第二世代に変わったのであるから、来年の今ごろには第三世代の製品が世にでていても不思議はないわけで、そのたびにあたふたしていては身がもたない。ぼくにも人並みに自己防衛本能があるから、親が子に変わり、子が孫に変わっても、すでに冷静でいられるようになった。
 おそらく、今のぼくがしなければならないのは、CDプレイヤーに関しての最新情報とやらに動揺する前に、現在使用中のCDプレイヤーを十全につかいきることであろう。はじめのうちは、CDプレイヤーはどんなつかい方をしてもいいという、あちこちからきこえてきた言葉を信じて、ひどく無頓着につかっていたが、そんなつかい方をしていたのではCDプレイヤーのよさが引き出せないとわかった。
 そのことがわかってから、あれこれ試行錯誤がはじまった。むろんそれなりに面倒なことではあるが、その面倒なことがまたたのしいと思う気持ちは、オーディオに関心を抱いでおいでの方なら、ご理解いただけるのではないか。夜が更けてから、つまり俗にいわれるアフター・アワーズに、いろいろ試しているうちに、思いもかけぬ発見をしたりして、ひとり悦に入ったりした。
 今はNECのCD-803というCDプレイヤーをつかっている。恥をさらすようであるが、そのCD-803をいかなるセッティングでつかっているかを、なにかのご参考になればと思い、書いておこう。ぼくの部屋に訪ねてきた友人たちは、そのCDプレイヤーのセッティングのし方をみて誰もが、いわくいいがたい表情をして笑う。もう笑われをのにはなれたが、それでもやはり恥ずかしいことにかわりない。
 では、どうなっているか。ちょっとぐらい押した程度ではぴくともしない頑丈な台の上にブックシェルフ型スピーカー用のインシュレーターであるラスクをおき、その上にダイヤトーンのアクースティックキューブをおき、その上にCDプレイヤーをのせている。しかも、である。ああ、恥ずかしい。まだ、先が。

 CDプレイヤーの上の放熱のさまたげにならないような場所に、ラスクのさらに小型のものを縦におき、さらにその上に鉛の板をのせている。このようなことをしていればどうしたって、今はやりの「ほとんど病気」という言葉を思い出す。しかし、念のために書いておきたいと思うが、見た目は、いくぷんユーモラスではあっても、美観(!)をそこねるようなものではない。
 そして、CDプレイヤーからプリアンプにつながっているコードは、ブチルゴムを六重に(!)まいたものである。普段はその状態で聴いている。しかし、今日は徹底的にコンパクトディスクを聴こうと思うときには、NECのCD-803ではアウトプットのレベルが可変なので、CDプレイヤーからでているコードをダイレクトにパワーアンプにつなぐことにしている。この方法はかなり効果的である。
 相手の可能性を信じられたときに、人間は挑戦的になれる。尻をたたいてもしれている駄馬と思ったら、鞭を手にしたりしない。駿馬と思えばこそ、ジョッキーは狂ったように鞭をふるう。
 なぜこのような恥さらしをも辞さずにありのままを書いてきたかといえば、それは、NECのCD-803が、すくなくともぼくにとっては駿馬だからである。ごく無造作につかっているときにも、その音質的な面での卓越性には気づいていた。しかし、つかっているうちに徐々に使い手であるこっちが追いこまれた、というのが正直なところである。あのようにしてみたらどうであろうとか、次はこうしてみようとかいったことを次々考えた。

 相手に魅力があればこそ夢中になれた。NECのCD-803にはそれだけの潜在能力があったということである。ラスクをつかえば、あきらかにそれまでとは違う音を聴かせた。調教しがいがあった、とでもいうべきかもしれない。
 今、ラスクでサンドイッチにしたようなかっこうでCD-803をつかっていで、そこできける音には十分に満足しているし、デジタルであるがゆえの不満はなにひとつない。コンパクトディスクはどうもデジタル臭くてなどという人にかぎって、CDプレイヤーをプリアンプの上とかカセットデッキの上においていたりする。こっちが愛情と誠意々もって接しなくては、相手だってほどはどの力を示してとどまる。道具でも人間でも、そのことでは同じである。
 NECのCD-803は、ばくの聴いたかぎりのことでいえは、第一世代のCDプレイヤーのなかでは、音そのものの実在感とでもいったものを示すことにかけてひときわ抜きん出た能力をそなえている。よくいわれるようにともすると響きが薄くなりがちなところがコンパクトディスクにはあると思うが、そこから巧みに逃れているのがCD-803だ。

 もともとそのような能力をそなえているCD-803を、一応ほくなりに追いこんだかたちでつかっているわけであるが、そこで聴ける音はコンパクトディスクはやはりミュータントであるという思いをあらたにさせる、と自分では思っている。したがって、今のところは、第二世代の機器が登場しようと、さほどあたふたとはしないでいられる。なぜかといえば、いまなおCD-803に夢中であって、とても子の世代の機器に浮気をする気持ちになれないからである。
 たしかにCD-803には使い勝手のうえでもう一歩と思うところがなくもないが、慣れとは恐ろしいもので、しばらくつかっているうちにその点でのいたらなさも気にならなくなった。アバタモエタボとでもいうべきかもしれない。
 今ぼくは、CD-803でコンパクトディスクをきいて、CD万歳! といいたい気持ちである。

デンオン PRA-1000, POA-1500

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 安定感があり、信頼するにたる内容と音質で堅実なオーディオコンポーネントを開発しているデンオンから、新しく従来にないローコストなセパレートアンプ、PRA1000コントロールアンプとPOA1500パワーアンプが発売された。
 表面的に捉えれば、単に普及価格帯のセパレート型アンプで、セパレート型アンプの入門者用と評価されがちだ。しかし開発の基本コンセプトは、プリメインアンプの超高級機が数は少ないが存在する価格帯で、プリメインアンプに本質的に存在する、MCカートリッジ入力からスピーカー出力までを増幅する、ひじょうに高利得のアンプが単一筐体に組込まれているために起きる相互干渉による音質劣化の問題点を解決することだろう。電圧増幅機であるコントロールアンプと電力増幅機であるパワーアンプに分割し、現時点で高度に発達しているエレクトロニクス技術に基づく物理特性の良さを損うことなく、結果としての音質に、いかに引出すかにあると思われる。
 外観上の特徴は、上級機種PRA2000とPOA3000を受継いだ、いかにもデンオン製品らしいデザインにあり、仕上げも普及価格帯の製品といった印象が少ないのがメリットである。
 コントロールアンプPRA1000は、アナログディスクのハイクォリティ再生の重要な要素としてデンオンが主張しPRA2000、6000で実現したイコライザーアンプの超広帯域化を受継いでいる。一方、CD時代に対応して、高レベル入力のCDプレーヤーを受けるフラットアンプやバッファーアンプにも最新の技術を導入して、広帯域、高SN比化が図られ、ピュアフォーカスなサウンドが狙われている。ちなみに、現状のコントロールアンプでは、簡単に考えれば容易に見受けられる、高レベル入力からコントロールアンプ出力にいたるフラットアンプ、バッファーアンプ、トーンコントロールアンプだが、各社間、各モデル間の音質が相当に異なっていることを体験するのがつねである。
 イコライザーアンプは、低雑音、広帯域に加え、入力インピーダンスの変動による歪増加を抑える設計。これは内外各種のMCカートリッジとの対応性の幅を拡大した、MC/MM切替のCR−NFタイプで、RIAA偏差は±0・2dBで20Hz〜1100kHzを保証している。
 高レベル入力を受けるフラットアンプは、初段ボリュウムの影響による歪の増大を防ぎ、0・002%以下の低歪率が特徴だ。なお、トーンコントロールは、フラットアンプの帰還回路に素子を組み込み、音質上有害なコンデンサーを除去したリアルタイムトーンコントロールである。
  これにつづく、バッファーアンプは、動的歪の発生がなく、接続されるパワーアンプの入力特性の影響を受けずに信号を送り出す独自の無帰還バッファーアンプである。
 その他、高速応答強力電源回路、信号伝達ロスを極少に抑えた、超高周波機器用のポリエステル系基板採用などが目立つ。
 パワーアンプPOA1500は、デンオン独自の入力系への信号フィードバックや時間遅れがなく、動的歪が発生しない無帰還ハイパワー型で、最終段に採用したダイレクト・ディストーションサーボ回路は、出力側から得た信号と入力信号を比較して歪成分のみを検出し、これを入力側に位相反転をして加え歪を打消す本機の重要な回路である。
 電源部は、600VAのトロイダルトランスと6000μFのコンデンサー、強力なダイオードを採用し、8Ωで150W+150W、6Ωで200W+200W、4Ωでは、240W十240Wという優れたパワーリニアリティを確保している、なおフロントパネル中央部のディスプレイにはヒートシンク異常温度、左右チャンネルのパワー段の動作確認ができる自己診断機能を備え、入力系はノーマル入力と、CDプレーヤーダイレクト接続用に、CDサンプリング周波数に近い40kHz以上をカットするとともに−3dBのアッテネーターの入った、CDプレーヤーとのベストマッチを計ったハイカットフィルター付の2系統をもつ。なお、注目のアース関係の処理は、フローティング・ロード回路の採用で、小出力時のノイズと歪を低減している。
 新セパレートアンプを組み合わせた音はブックシェルフ型やフロアー型のスピーカーを問わず、従来のデンオン製品とは一線を画した広帯域でディフィニッションの優れた音を聴かせるのが新しい魅力だ。問題の低域特性も豊かに伸び、CD入力時でも質感の優れた活気のある低域を聴かせる。全体に安定度重視で少し音を抑えて聴かせるデンオンサウンドの傾向はなく、反応が早くナチュラルに拡がる音場感、定位感に加えて、活き活きとした音楽を聴く楽しみが味わえることが本機の大きな魅力だ。

ソニー APM-55W

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 全製品に平面振動板ユニットを採用する方向に進んでいるのが、ソ二−のスピーカーシステムの大きな流れとなっているが、今回、発売されたAPM55Wは、既発売のAPM77W/33Wにつづく、平面振動板採用のスピーカーシステムの中核となる新製品である。
 一般的な口径でいえば、27cmに相当する振動板面積をもつウーファーは、スキン材にアルミ箔を採用したハニカム構造であり、ボイスコイルボビン端から伸びた4本の軽金属製のアーマチュアを介して、分割振動の低次モードにおける4点の節目を駆動するタイプだが、駆動点は振動板を駆動するアーマチュアがハニカムサンドイッチ構造を貫通して振動板の前、後面を駆動する、ダイレクト・デュアルサーフェイス・ドライブ方式と名付けられたタイプだ。
 中域は、スキン材に力−ボン織維とグラスファイバーシートを複合した材料を使う、直径8cm相当の平面振動板は、直径5cmのエッジワイズボイスコイルで直接駆動される。なお、直径4cm相当の高域ユニットは、スキン材がチタン箔、ボイスコイル直径は25mmである。
 エンクロージュアはバスレフ型で、北米産高密度材使用のウォルナット突坂仕上け。内部吸音材は、ミクロン・グラスウールや高分子化合物繊維の3種類を使い分けている。なお、ネットワークは、大電流が流れる低音用回路と高音用回路を独立させた分散配置型で、最近の高性能システムとしてオーソドックスな手法である。また内部配線材やコイルはすペて無酸素銅線使用、コンデンサー類は独自の開発による音質対策型というのは、いかにもソニー製品らしい設計である。
 APM55Wのユニークなポイントとして、別売のスピーカースタンドWS500(2台1組¥8500)が用意されており、システムの底板に設けられたネジを利用して、スタンドを固定できることがあげられる。このスピーカースタンドを含めてシステムとする方法は、とかくセッティングにより大幅にサウンドバランスが変化するスピーカーシステムを使いこなすための、ひとつの解決策として歓迎したいものだ。
 APM55Wはソニーの製品らしく、平均的なコンクリートブロックを横積1段程度の比較的に低いセッティングでバランスがとれるようだ。ブロックの固有音を避けるために厚手のフェルトを介してシステムを置き、ブロック間隔を調整してセッティングを追い込む。低域は比較的にタイトなタイプで量感よりも音の輪郭をクッキリ出す。中域は、明るくカラッとした音で、高域とのクロスオーバーあたりに、キラッと輝くキャラククーをもつ。これに対して高域は、少し穏やかにバランスをする。
 全体にモニター的な性格が、特徴であり、いかにもソニーらしい整理された音をもつが、遠近感の再生が、もう少し欲しい。

オンキョー Monitor 2000

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 このところ、オンキョーで高級スピーカーシステムを、3機種同時開発中という噂が流れていた。その第一弾として登場した製品が、このモニター2000であり、続いて20万円前後と50万円前後の高級横が発表されるようである。
 従来から同社のスピーカーシステムは、振動板の新素材として、中域以上にマグネシュウム合金を代表とする物理特性の優秀な材料を導入し、熟成に努めていたが、低域用は、紙からポリプロピレン系への置換が目立った。この材料は、かなり優れた物性値をもつが、国内の使用では最適比重範囲を特許で押えられているために、本来の性能を活かした設計が行えない難点が存在していたことは否めない事実だ。
 この点を打破すべくオンキョーが新しく採用した振動板材料は、ピュア・クロスカーボンと名付けられた素材である。基本構想は、高剛性で軽量というカーボン繊維の特徴を活かし、内部損失の不足をコーンの成型時に使うバインダーでコントロールをするというものである。カーボン繊維は、平織り状であり、ウーファーコーン用としては、これを3枚、角度を30度づつずらせて(キャップ部分は、45度、2層)バインダーで成型してある。
 カーボン繊維を振動板に使うための最重要ポイントは、繊維を接合するバインダーであり、現状ではエポキシ系樹脂以外にはなく、適度に内容損失があり樹脂固有の附帯音を抑えたバインダーを開発できるかが鍵を握っていることになる。
 新振動板採用の34cmウーファーは、φ200×φ95×25tの38cm級ユニットに匹敵する大型磁石採用で14150ガウスの磁束密度をもつ。中域は、100μ厚、直径65mmマグネシュウム合金ドームと100mmコーンの複合型振動板で、マグネット寸法φ140×φ75×17tを使用し、振動板面積を増して能率を確保する設計であり、高域は、40μ厚マグネシュウム合金、口径25mmのドーム型、マグネット寸法φ90×φ45×15tで18250ガウスの磁束密度をもつ。
 エンクロージュアは、裏板28mm厚アピトン合板、それ以外は25mm厚パーティクルボードを使い、裏板にポートをもつ変型バスレフ型だ。なお、レベル調整ツマミは小型で、バッフル面の平滑化を計るためプッシュ構造で調整時に飛出す特殊型だ。
 モニター2000は、低域を重視した製品だけに、セッティングには入念の注意が必要だ。堅めのコンクリートブロックを2段積みとしフェルトを敷いて間隔を調整する。この製品の特徴は、柔らかく豊かな低域をベースとし、しなやかで、のぴのある中域から高域がバランスしたキレイな音にある。ハードドーム独特の硬質さがなく、むしろソフトドーム的な傾向が加わっていることがユニークだ。低域重視設計のため安定度の高いことが大変に好ましい製品だ。

マイクロ SX-111FV

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 マイクロのプレーヤーシステムは、DD型全盛の動向に反して、アナログプレーヤーシステムの原型ともいうぺき、慣性質量が非常に大きい重量級のターンテーブルをベルト、もしくは糸でドライブする方式を、頑として推進させている点に特徴がある。
 今回、新登場したSX111FVは、同社のコンプリートなプレーヤーンステムのスタンダードとして位置づけされ、高い評価を得ているSX111をベースに、ターンテーブルシャフトのエアフロートシステムとレコードのバキューム吸着システムの、両方を導入して完成された注目の製品である。ちなみに、モデルナンバー末尾のFは
フローティング、Vはバキューム吸着の意味をあらわしている。
 外観上は、従来のSX111にエアポンプユニットが加わった、2ブロック構成であるが、当然のことながら、本体部分のシャフト構造とレコード吸着構造が組み込まれている。
 Fを意味するフロートのメカニズムは、同社の高級モデルSX8000、SX777などに採用されているエアーベアリング方式で、エアポンプで圧縮された空気をターンテーブルの内側に送りこみ、ターンテーブル裏面と内部フレームの間を通過することによりできる空気膜により、ターンテーブルを0・03mm浮上させ回転を可能とするものである。
 この方式は、従来のようにシャフト下端部にボール等の軸受がなく、機械的摩擦や機械的ノイズの発生がなく、静かで滑らかな回転が得られる。それに加えて、ターンテーブル内側に常に圧縮空気が満たされているため、空気の制動作用により外部振動を受けにくく、ターンテーブル自体の共振を抑えるという非常に大きな特徴がある。
 直径31cmのターンテーブルは、重量10kgの砲金製で、ダイナミックバランスは精密加工により極めて良好である。また、ゴムシートを使わず、直接レコードをターンテーブル上に置く設計であるため、音溝に対する応答性が改善され、音質面での分解能、音像定位感などに非常に効果的であるとされている。
 Vを意味するバキューム吸着システムは、レコードのソリを修正できることに加え、レコードと重量級ターンテーブルが完全に一体化され、レコード自体の固有共堆が除去され、音溝の情報をより正確に拾うことが可能となる。なお、吸着方式は常時吸着型であり、演奏中のレコードの浮き上がりは皆無であり、レコードを交換するときには、スイッチOFFで逆噴射エアが働き、簡単にレコードの取り外しができる設計だ。
 ターンテーブル駆動用モーターは、本体左側奥に取付けられた、8極24スロットのDCブラシレスFGサーボモーターを使用している。
 その他、従来のSX111の特徴である、ターンテーブルシャフトアッセンブリーとアーム取付マウント部を重量級の金属フレームで一体化して、ターンテーブルとトーンアーム間の振動循環系の振動モードを同位相化し音溝情報を電気信号に変換するときの変換ロスを追放するダイレクトカップリング方式や、新1500シリーズ等で実績をもつ独自の高支点エアスプリングサスペンション方式により、十分なハウリングマージンを確保している。
 この支持方式は、空気とオイルの粘性抵抗、特殊構造のゴム、円錐状金属スプリングと、それぞれ固有共振の異なる4種の材料を組み合わせた構造により、広帯域にわたり振動減衰特性を実現している。上下左右、前後方向の外部振動を除去できるうえ、このサスペンションは取付支点を高くとった結果、プレーヤー全体の重心が低く、安定性が非常に高いというメリットがある。
 トーンアームは付属していないが、有効長257mm以下のタイプは全て使え、マウントベースは、SX777、111と共通のA1200シリーズが使用可能。
 試聴は、A1206マウントベースにSME3010Rを組合わせておこなう。エアポンプユニットRP1100は、機械的振動やノイズの点でも充分に低く抑えられ、この意味での懸念は皆無にひとしい。
 SX111FVの音は、なんといってもスクラッチノイズが質的にも、量的にも大変に低く抑えられているのが最初の印象である。この聴感上の利点は、音の分解能、高ダイナミックレンジの魅力にくわえて、ステレオフォニツクな音場感のパースペクティブな再現性の良さ、シャープな定位感の良さにつながる。このシステムならではの新鮮で、強烈な魅力である。音楽が活き活きと伸びやかに響き、従来のレコードから未知の音が引出される。快心作と評価できる、価格対満足度に優れた製品であるが、駆動モータープーリー部のカバーは強度不足で、このシステムの脚を引張っているアキレス腱であり改善を望みたい。