菅野沖彦
ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より
ぼくはこのスピーカーは今回初めて聴くんですが、スネルという会社はさっきのボストンと同様にイーストコーストに位置し、少し北のニューベリーボートというところにあるメーカーです。初めて聴くスピーカーなんですけれども、ぼくはこのスピーカーを作ったエンジニアの気持ちがとても良くわかります。一口で言うと、オーディオ臭い音が大嫌いなんです。逆に、ライブのコンサートの音のイメージに近く鳴らそう、鳴らそうとしている。ですから、レコードに入っている音を忠実に再生しようという気はまったくないと言ってもいい。つまり、コンサートで受ける音のイメージをスピーカーから忠実に再生しようという〝コンサートフィデリティ〟に基づいたコンセプトであることが強列に音に出ています。
ジャズを例にとれば、ピアノトリオの場合に、アコースティックベースはエネルギーが足りないから、録音の際にブースターを使うなり、レベルバランスを上げて録音するわけですが、このスピーカーでそういうレコードを再生しても、ベースはバランス上やはり足らない。前へは出てきません。
ハイドンのシンフォニーを聴いてみても、明らかにコントラバスセクションが足りないというバランスなんですね。しかし、実際、生演奏で、コンサートホールの中でコントラバスがブンブン響くということはありえないし、ジャズの場合でも、ウッドベースはドラムスとピアノの影に隠れてほとんど聴きとれないような音量バランスが現実なんです。
このスネルというスピーカーは、そうした実際のコンサートで聴かれるバランスこそベストパフォーマンスなのだという出発点からスピーカーを設計している。やや短絡的な見方かもしれませんが、レコードにどんな音が録音されていようが、そんなことはともかくとして、スピーカーから再生される音の雰囲気が、おれが普段体験しているような生演奏のプレゼンスに近ければいいスピーカーなんだ、そういうフィロソフィがうかがえるんですね。
しかも、ステレオフォニックな奥行き、プレゼンスを豊かにするために、スコーカーとトゥイーターは曲面バッフルにマウントされ、ディスパージョンを広げようとしているし、トゥイーターは、センター方向に指向性が強く出ないよう、ダイアフラムの直前のセンターチャンネル側にフェルトが固定され、左右方向の広がりを自然に再現しようとしている跡がみられる。
それから、ウーファーというのはどうもドスンドスンという不自然な量感しかもたらさない以上、オムニディレクショナルにスッと拡散させたほうが、実際の生の会場の音場に近いということから、かなり低いところへクロスオーバー周波数(275Hz)を設定し、指向性に影響が出ない低域を下向きに取りつけたユニットから間接的に部屋の中へ放射させようという構造にしてある。ですから、たしかに低音の実体感、実存感は薄れますが、逆に、ライブパフォーマンスに近い残響感が含まれ、むしろ自然な音域に近いわけで、当然、そのことを取って作られたスピーカーなんです。
構造を見ても、音を聴いても、これを作った人間がそこにいます、見えますね、ぼくには。その人が言いたいことを全部言えると思います。
ですから、マルチトラックレコーディングによるオンマイク録音主体のレコードよりも、ペアマイクのワンポイントに近い録音、たとえば北欧のプロプリウスレーベルのような教会の長い残響感を活かしたようなレコードにうってつけなスピーカーであるとも言えます。
ここで、オーディオマニアを含めて、音楽ファンの聴き方について少し考えてみよ
うと思うんです。
まず基本的にレコードの録音と再生というのを知れば知るほど、レコードと生とは根本的に違うんだということがわかってきて、ポジティヴな面でもネガティヴな面でもそのことは肯定せざるを得ない事実としてある。そういうメカニズムに魅力を感じているのが大半のオーディオマニアであるとすれば、そういった一切に魅力を感じない人を、通常は音楽ファンと呼び、その中にもレコードというのを全然聴かないコンサートファンの三種類がいます。
全くレコードを無視する、あれは作りものだということでレコードを聴かない、音楽は生が最高であるという音楽ファンがいて、その対極に、レコードの音が好きで、様々なスピーカーの音に興味があり、生と違うことを知っていてもなおかつオーディオ独自の音の魅力を追求してゆく音楽ファンとしてのオーディオマニアがいるとすると、このスピーカーの聴かせる音の世界というのは、生の雰囲気をオーディオという人工空間の中に再現しようというやや特異な位置を占めています。
つまり、オーディオというエレクトロニクス、メカニズムの再生系に対し、非常にナイーブ、つまり素朴なリアリズムを要求している。ですから、レコードに録音されているすべての情報を正確に引き出そうという考え方で、このスピーカーに接したら失望する。しかし、生の演委で得られるライブな雰囲気をそのまま再生装置に求めようというコンサートファンにとっては、とてもマッチングがいい。ですから、このスピーカーの評価というのは、その人のレコード音楽の受け取り方によって、決定的に変わってしまうところがありますね。
このスピーカーを作った人というのは、絶対にクラシックファンですね。しかも、ボストンのところで申しあげたように、イーストコーストのメーカーのつくるかつての重苦しい低音に相当に嫌気がさしたはずだね。そのことがすごくよくわかると同時に、このスピーカーは、実は、現代のハイテクノロジーに支えられたオーディオ機器に対してひとつの強烈なアンチテーゼを浴びせようという意図がありますね。
つまり、現代の録音のメカニズム、それから絶対クォリティを追求したオーディオのメカニズム、そういったことは彼にとってはまったく関心外か、あるいは逆に物すごくそのメカニズムを知り抜いて、徹底的に批判している。少なくとも、クラシック録音で言えばカラヤン的な録音は大嫌いなはずだし、ホーンスピーカーなんて論外でしょう。
これは、アメリカだからこそ生まれえたひとつの狂気といっていい。スピーカーから再生しようとしているのは、ナイーブリアリズムで、とても単純で素直なんだけれど、その単純さと素直さの狂気なんです。
全然、話は変わってしまいますが、アメリカには、しなびたような野菜を好んで食べる自然主義者というのがいるでしょう。自然栽培とかいって、化学肥料による野菜は絶対に口にしない、ビタミン剤は飲まない、味の素は大嫌い、とにかく自然栽培の見てくれの悪い、しわしわの野菜しか食べないという徹底した自然主義者の狂気メリカには存在するわけ。オーディオにおける狂気の自然主義が、このスピーカーなんです。
ですから、レコードをとても自然に鳴らしてくれるという意味で、このスピーカーの良さというのは明確に理解されますけれども、現状のオーディオ界の中での共通理解に立って、自然に音楽を鳴らすという表現は誤解を生むと思います。もっと明快に「自然に帰れ」というポリシーが、ある意味では非常に過激に表明されている。
つまり、録音と再生のメカニズム系を飛び越えて、いきなりコンサートホールへ行こうという考え方なんです。
たとえば、このスピーカーの音量レベルの一番いいポイントというのは、中音量から下へかけてのローレベルにあります。生の音楽会へ行って、決して大音量でガーンと鳴るということはありえないわけで、そのあたりにもナイーブリアリズムの性格が色濃く出ていると思います。
狂気に属すものとして、例えばコンデンサースピーカーもそういうナイーブリアリズムから派生してきたものだと思うんです。特に音の肌合い、色艶、質感といった面で、自然な再生を求めてゆくと、静電型という答えが出てくる。その対極に位置しているのが、JBLであり、アルテックであり、昔のARだったと思うんです。「オーディオスピーカーここにあり!」という鳴り方とは正反対な方向にあるのが、静電型やこのスネルなんですね。オーディオスピーカーが大勢を支配していることは事実だけれど、これを作った人はそのことに対する物すごい怒りを込めて作ったと思いますよ。
やはり、アメリカのように個性が共存し合う国だからこそ出てきたスピーカーですね。ただ、こういう考え方のスピーカーというのは、世界的に見ると劣勢の立場にあるでしょう。少なくとも、録音と再生のオーディオメカニズムのエフェクトを全面否定していますから。だけど、マジョリティというのは、そういうテクニカル・エフェクトにすぐいかれる、というと悪い表現だけれども、そこでまた録音と再生側の進歩が促されるという事実を見逃したら、オーディオも録音もエンジニアリングの意味がなくなってしまうんですよ。
ぼくは、このスピーカーの音を聴いて、昔のドイツ・グラモフォンのピアノ録音を思い出しました。当時は、低域をかならずカットしたんです。特にケンプなんか、完全に低域がない。というのは、ホールでピアノ演奏を聴いたときに、ピアノの低音というのは今日のレコードから聴けるような、うなりを上げるような低音では絶対にないわけで、あくまでもコンサートのイメージに忠実に、つまりナイーブリアリズムでもって録音しようとすると低音はある程度カットしたほうがリアリティがあるんですね。
それに対して、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ベルリン・フィルに君臨し、ドイツ・グラモフォンに発言権を持つようになってから、録音がずいぶん変わったように思うんです。
彼の指揮した最もいい例は、チャイコフスキーの四番のシンフォニーがあるんですが、そのレコードを聴いてぼくが推測するマイクアレンジメントは、オンマイクとオフマイクで全体のバランスをとったものがあり、そのそれぞれにサブマスターがあって、その全体がマスターに入るというミキシング・レイアウトになっている。そして、音楽の情景、場面によってオンマイクになったり、オフマイクになるわけです。
こういったことは、先ほど申しあげたコンサートフィデリティから言ったら、明らかにおかしい。オーケストラが向こうを行ったり、こっちへ来たりするわけですからね。ところが、音楽家にとっては、こういうことはあまり大した問題じゃない。
たとえば、フルートのソロになったときもっと遠くから聴こえるように吹けという指示があるとすると、実際に遠くへ行くことは不可能なんだから、イメージの上でそういう音色が欲しいということでしょう。そういう音色の変化というのは、ミキシングテクニックでレコードのメカニズム内でどうにでもコントロールできます。音楽家は、まったく音楽的な欲求から、そういう録音を要求してくる。
ところが、実際にレコードになってそれを聴いてみると、オーケストラが遠くなったり近くなったりするという不自然さが目立つんですよ。ぼくは、レコードとしてそれはいいレコードじゃないと思うんです。
しかし、レコード制作者側の意図として、生の演奏だと絶対に聴きとれないような音をもスコアに忠実に録音するということがあったとしても、それは誤った考え方と決めつけることはできないんです。つまり、作り手の論理として、録音という機能を使いこなして、音楽家の要求、表現上の要求に対応することは、あくまで正論なんです。
そうしますと、録音の側でもコンサートフィデリティとスコアフィデリティという対極的な考え方があり──現実にはなんらかの形でそのバランスを取るわけだけれども──再生側にも、エネルギー変換器としての忠実度を求めたモニタースピーカー的な考え方と、このスネルに代表されるように、コンサートフィデリティ、音場に対する忠実度を素朴に追求しようという二派に分極すると言っても過言ではないでしょうね。
このスピーカーは、そういう意味で、録音と再生系のテクノロジー、そしてその目的といった本質的な問題を考えさせる上で、非常に示唆的な内容を提示していると思います。
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