早瀬文雄
ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「Music Consolette 偶然の結晶を求めて」より
「悪いけど、夜中にしてくれないか。そう、二時でどうだ?」
「なぜ?」
「昼夜完全に逆転しているんだよ」
彼はまるで僕の来訪を拒絶するようにそう言った。
「そうじゃないんだ、俺だって会いたいさ。つもる話もあるしね。だけど、来週から地球の裏側に行って過酷な現場の仕事をしなきゃいけないのさ。その準備を今からしているんだ。時差ボケの調整をこっちにいるときにやっちまわないといけないんだ」
彼は、とある大手の建築会社の土木設計課に所属している建築エンジニアだった。
去年結婚してすぐに女の子が生まれた。
「ほら、家にいるとさ、悪気はないわけだけど、子供の泣き声がうるさい。判るだろう?」
というわけで、僕は彼の仕事場から車で五分ほどの場所にあったワンルームマンションに、夜中の二時に出かけることになったのだ。
そこは彼の隠れ家だった。
ワンルームの狭い部屋だったが、深夜に及ぶ仕事のせいで、片道二時間もかかる郊外に長期ローンでマイホームを買いこんだ彼にとってはどうしても必要な場所だった。
AM1:45。
都会のコンクリートジャングルを走りぬける。
朝の人の洪水が嘘のように、しんと静まりかえったオフィス街はまるで廃墟のように暗く、凍りついたような沈黙が氷河のようにあたりを圧していた。
まだ冬の尾を引く深夜の空気にひきかえ、彼の部屋は朝の地下鉄みたいに生温かくよどんでいた。なにしろドアを開け中に入ったとたん煙草のけむりが目にしみ、わけの判らない匂いがしてくらくらした。
よく見ると、ドラフターの脇には食べかけのカップラーメンが箸をつっこんだまま忘れられたように放置してある。
「今、窓あけるよ」察した彼はすぐにそう言った。
「すごいな、まるで受験時代を思い出すよ」
「仕方ないんだ」
肩をすくめそう言うと、彼はくしゃくしゃになったワイシャツのポケットからねじれた煙草を取り出し火をつけた。
「時々女房が掃除に来てくれるけどね」
そう言って笑う。
やがてコーヒーの香りが空気を入れ換えた部屋の中にゆっくりと広がっていく。
彼は真っ白い磁器のコーヒーカップとソーサーを一組、テーブルの上に並べポットから熱いコーヒーを注いだ。
「情けないけど俺はミルクにしとく」
そう言って、彼はコンパクトな冷蔵庫からミルクのパックを取り出すとストローをつかって子供みたいにそれを飲んだ。
ドラフターの向こうに小さなスピーカーがおいてあった。
「ボーズじゃない?」
「ああ」
「嫌いだったんじゃないの、たしか?」
「これはちょっと違うんだよ、ま、いいから聴いてくれよ」
それはヨーロピアンデザインの、真新しいイル・ソーレだった。
軽いものからいこうかな、と言って、スパイロジャイラのライツ・オブ・サマーというアルバムをかけた。
たしか、相当にワイドレンジを意識した音作りがされた、すっきりした響きのCDのはずだ。
「ボーズはナローで、脂ぎった音がするから嫌いだ」と言ってた彼。
トップシンバルの軽い響きで始まるその曲。僕は音が出た瞬間びっくりした。
たしかにさらっとした軽い響きでハイエンドがすっきり伸びてとても綺麗なのだ。
それに、凄い低音。
CDプレーヤーとFMチューナーを内蔵したアンプ部のデザインも奇妙にあか抜けしている。
「ボーズもずいぶん洗練されただろ?」と彼。
「たしかに」音も見た目も、とても洗練されていた。
綺麗によく広がる透明感があった。
ボーズじゃない。僕はそう思った。
しかし、よく聴くと、音には国産にはない粘り気がきちんと残っていて、アメリカを感じさせるものもたしかにある。かつての黒っぽい雰囲気からホワイトカラーのヤッピーになった。スーツを着込んだボーズの音なんだ。これは。
「クラシックだって、ちゃんときけるんだ」
そう言って彼が次にかけたのは、なんオワゾリール盤のバッハ管弦楽組曲だった。
彼はシャドーベースの裏に手をいれ何ごとかをおこなった。
「?」と僕。
「少しだけハイを落としてみたんだ。トーンコントロールがついてるんだね」
なるほど、ヒリヒリしがちな弦の響きがいっぱいくわされたみたいに、ちゃんと鳴っているではないか。
「ディテールがしっかりしているし、響きが脂っこくなくて、ちょうどいいんだ。俺の好きなECM系のジャズだってきりっと引き締めて、すっきり鳴らしてくれる」
たしかに、キース・ジャレットのトリオによるスタンダードナンバーはその透明できりっとした音楽の構築がしっかりと出ていた。彼は僕の驚いた顔をみて、楽しそうに言った。大人が無邪気な子供にもどる瞬間だ。
ここはビジネススーツに身を送るんだ戦士、俗称「おとうさん」が現実から逃避し、ひそかに自己回復および療養を果たすための場であった。
このボーズ・イルソーレシステムの核となるのは、スリムなデザインが新鮮な、ミュージックコントローラーLS4810であり、CDプレーヤーおよびFM/AMチューナーとプリアンプ機能を持つ。これは2系統の出力を持ち、2セットのスピーカー部を駆動できる。
パワーアンプを内蔵したパワード・アクースティマストスピーカーシステム、PAM5、サテライト・スピーカー(5.7cmフルレンチ2本使用)とアクースティマス・ベースボックス(16cmウーファー2本使用)からなる。
ベースボックスにはパワーアンプが内蔵され、独立したボリュウムとトーンコントロールを持っている。
別売のリモコンは一般的な赤外線方式とは異なり、FMバンド帯域の信号を使用しており、障害物に対して強いという特徴をもっている。
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