Category Archives: スピーカーシステム - Page 12

マッキントッシュ XRT20, JBL

菅野沖彦

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 正確には記憶していないが、多分、1967年ぐらいから、ぼくのメインシステムとしてJBLの375ドライバー十537−500(ホーン/レンズ)を中心としたスピーカーを使い始めた。当初から、3ウェイのマルチアンプシステムとして使い始めたもので、ぼくにとってこのスピーカーは、まさに妻のようなものであった。何故なら、ぼくがこれを使い始めた頃、ぼくの気持ちの中では、一生、このスピーカーとつきあおうと思っていたし、また、そうなりそうな予感もあったからである。トゥイーターは075、ウーファーは初めのうちはワーフェデールのW12RS・PST、そして後に目まぐるしく変り、結局、JBL2205に落着いて現在に至っている。もっとも、075は、その後、ぼく流に改造しているし、375ドライバーも2445Jに変ってはいるが、これは妻を変えたようなものではなく、女房教育をしたようなものである。つまり、通称〝蜂の巣ホーン〟を中心としたJBLのユニットによる3ウェイのマルチシステムという基本は、この17年間変ってないのである。もちろん、その間にも、いろいろなスピーカーに出会って、浮気心を起こしたこともあるし、そのうちの何人かは、本妻と一時的に同居させたこともあった。しかしいつも、せいぜい3〜6ヵ月で、妾のほうは追出されてしまうのが常だった。まさに浮気のようなもので、本妻と並べてみると、改めて、妻の美点がクローズアップされ、一時期血迷った自分を反省するのであった。時には妻にはない魅力を垣間見せる妾もいたが、総合的にはいつも妻のほうが上であった。それに気がついてしまうと、とても妻と妾を同居させている気がせず、妾のほうにはお引取り願うということになるのであった。
 そんなぼくとスピーカーとの関わり合いに、かつてない大事件が起きたのが、今から3年前、1982年の春である。
 その2年前、ぼくは録音の仕事でアメリカへ行き、ニューヨークで二週間ほど仕事をしたが、その間に、マッキントッシュのXRT20というシステムに出会ったのである。ぼくの浮気の虫は、にわかに鎌首を持上げ、この熟女の魅力の虜になってしまった。しかし、この時は、かろうじで理性が勝って旅先での出来事にとどめることが出来たのである。しかし日本に帰って、久しぶりにわが家で妻の歓迎を受けながらも、XRT20の妻にはない魅力が想起され、妻には悪いと思いながらも、妻との営みの最中にXRT20を空想したり、妻にXRT20の魅力を求め無理強いしたりという一年がつづいていた。しかし、再び、妻との生活に馴れ、いつしか、XRT20の記憶も薄れていったのだった。もとの落着いた心境で、夜な夜なベートーヴェンやハイドンを、バッハやモーツァルトを、そして、マーラーやブルックナーを招いて楽しい一時を過していたし、時にはソニー・ロリンズやアート・ペッパーを、また、大好きなメル・トーメやジョニー・ハートマンを招くこともあった。ジャズメンを招いた時の妻の喜々とした表情は、ことのほか魅力的で、とても15年連れそった古女房とは思えない若返りようであったものだ。
 が、忘れもしない1982年の春、日本でXRT20に再会してしまったのである
 XRT20が来日した! と聞いた時からぼくの胸は高鳴り、ニューヨークで味わった興奮が、まるで昨日のことのように甦ったのである。もう、居ても立ってもいられない。ぼくは後先顧みず、XRT20をわが家へ連れ込んでしまったのだった。彼女のために部屋を片づけ、レコード棚の一つは廊下へ出し、なんとかXRT20のために居心地のよいスペースを確保した。
 それからの数十日は、ぼくは平常心を失っていたように思う。朝な夕な、夜更けまで、ぼくはXRT20に狂っていた。柔らかく優美な肌、しなやかでいて強勒な、その肉体にのめり込んでいった。気性は妻よりややおとなしいように見えたが、どうしてどうして芯は強い。若いだけあって柔軟性に富んでいて、クラシック畑の人ともジャズ細の人とも、分け隔てなく馴染んでくれた。ぼく流の教育にも従順で、驚くほどの適応性を見せるのだった。
 この間、妻は無言であった。そしてある夜、ふと沈黙の妻の存在に気づき、久し振りにぼくは妻との語らいの一時をもった。そしてぼくはまたまた、妻の能力を再再発見したのである。妻はいった。
「私はXRT20とは違うのよ。でも、私は長年、あなたによって教育され、大人になったと思うの。それだけに新鮮味はないかもしれないけれど、XRT20とは違った心地よさをあなたに与えてあげられる自信があるの。この前、あなたの親しい瀬川冬樹さんが来られて、あなたとお話ししていらしゃっるのを聞いたわ。瀬川さんはさかんに私との離婚をあなたにすすめられていたわね。でも……私、嬉しかった。あなた絶対に首を縦に振らなかったもの。ありがとう。」
 ぼくはこの時から、長年の主義を破って妻を二人持つことに決めたのである。辛いオーディオ国の法律では重婚は禁じられていないようである。そして、新しいXRT20に、長年JBLに注ぎ込んだ情熱的教育に匹敵する努力を集中的に一年間傾注したのである。来ては去った多くの妾達とはXRT20は違っていた。他人からみるとXRT20がぼくの正妻のように見えるかもしれない。しかし、今や、堂々と、それでいて、ひかえ目に存在するJBLとは馴染んだ年輪が違う。どちらも、ぼくのとっておきの音である。
 この二人の妻と、いつまで続くかはぼくにもわからない……。

ソニー APM-8, APM-6、パイオニア S-F1、テクニクス SB-M1 (MONITOR 1))

井上卓也

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 平面振動板採用のユニットを使ったスピーカーシステムといえば、1970年代の末期に急激に開花した徒花といった表現は過言であるのだろうか。
 毎度のことながら、国内のオーディオシーンでは、これならではのキャッチフレーズをもった、いわば、究極の兵器とでもいえる新方式や新材料を採用した新製品が、開発され、ある時期には、各社から一斉に同様のタイプの新製品が市場に送り込まれ、盛況を見せるが、それも長くは継続せず、急速に衰退を元す、といった現象が、繰返されている。平面振動板を採用したユニットによるスピーカーシステムも、その好例であり、現在では継続してこのタイプのユニットによるシステム構成を行なっているのは、テクニクスとソニーの2社といってよいであろう。
 平面振動板は、スピーカーユニットの振動板形態としては、もっとも、シンプルなタイプであり、振動板の振動モードを検討する場合に、オルソンの音響工学にもあるように、常に引合いに出されるタイプだ。
 従来からも、平面振動板を採用したダイナミック型のユニットは、特殊なタイプとしてはすでに1920年代から存在することが知られているが、いわゆる、コーン型ユニット的に、ボイスコイルで振動板を駆動する製品としては、かつて、米エレクトロボイスにあったといわれる、木製の板を振動板としたユニット、ワーフェデールのコーン型ユニットの開口部を発泡性の合成樹脂の平らな円板でカバーしたウーファーなどが一部に存在をしたのみである。これが、急速にクローズアップされたのは、宇宙開発や航空用に開発された軽金属製のハニカムコアが、比較的容易に入手可能となり、これに、各種のスキン材を使って、振動板として要求される、重量、剛性、内部損失などの条件がコントロール可能になったためである。簡単にいえば、新しい材料の登場が、急速な平面振動板ユニット開発のベースとなっているのである。
●ソニーAPM8/APM6
 平面振動板を採用した原点は、全帯域にわたり完全に近いピストン振動をする、いわば、スピーカーの原器ともいえるシステムを開発するためといわれ、アキユレート・ピストニック・モーションの頭文字をとりAPMの名称がつけられている。
 APM8は、11978年1月に開発されたAPMスピーカーをベースに製品化された第一弾製品で、ハニカムサンドイッチ構造の角型板勤板ユニットを4ウェイ構成とし、フロアー型バスレフエンクロージュアに組込んだシステムである。アルミ箔スキンの低音は、4点駆動で、中心にローリング防止ダンパー付。中低域以上は、カーボンファイバーシートをスキン材に採用している。
 磁気回路は、アルニコ系鋳造磁石を採用し、プレートとセンターポールの放射状スリットと、磁気ギャップ近傍のプレートやボールに溝を設けるなどの機械加工による電流歪低減と、各ユニットのインピーダンスを純抵抗と純リアクタンスに近づけ、単純化し、ロスを減らし、特性をフラット化する設計が見受けられる。
 エンクロージュアは、200ℓ、自重60kgで25mm厚高密度パーチクルボード製。ネットワークは、SBMCの高圧成形の防振構造を採用している。
 ユニット性能を最重視した基本設計は、国内製品として典型的な存在である。物理的な性能は超一流のレベルにあるが、システムとしての完成度に今一歩欠けるものがあり、発表以後、改良が加えられた様子はあるが、サウンド的には未完の大器であり、非常に残念な存在である。完全にチューンナップした音が聴きたいモデルだ。
 APM6は、APMユニットをモニターとして最適といわれる2ウェイ構成とし、エンクロージュアをスーパー楕円断面の特殊型として、デフテクションの防止を図ったAPM第二弾製品である。2ウェイ構成のため、セッティングは非常にクリティカルな面を示すが、追込めばさすがに、従来型とは一線を画したスピード感のある新鮮な音を聴かせる。使い手に高度の技術を要求する小気味のよい製品だ。
●パイオニア S−F1
 世界初の平面同軸4ウェイユニットを開発し、採用した、極めて意欲的、挑戦的モデルである。基本構想は、音像定位、音場感を最優先とした設計であり、混変調歪やドップラー歪に注目して一般型としたソニーAPM6と対照的な考え方と思う。
 角型ハニカム振動板は、低域と中低域のスキン材にカーボングラファイト、中高域と高域用はベリリュウム箔採用だ。磁気回路は、同軸構造採用のため、ウーファー振動板40cm角に対して32cm型のボイスコイルであり、背面の空気の流れを確保するため非常に巧妙な考えが見受けられる。とくに、高域と中高域の同軸構造磁気回路は、シンプルでクリーンな設計である。
 エンクロージュアは、230ℓのバスレフ型で、システムとしての完成度は、相当に高いが、今後のファインチューニングを願いたい内容の濃いシステムである。
●テクニクス/モニター1
 SB7000で提唱した位相特性平坦化を平面振動板採用で一段とクリアーにした理論的追求型のシステムだ。独特のハニカムコア展開法は、振動板外周ほどコアが大きくなり、軽くなる特徴をもち、4ウェイ構成のユニットはすべて円型振動板採用。
 低域用の特殊構造リニアダンパー、高域用のマイカスキン材をはじめ、磁気回路の物量投入は、価格からみて驚威的で、非常に価格対満足度の高い製品である。特性は充分に追込まれているが、システムアップの苦心の跡としてバッフル前面のディフューズポールや、内部定在波を少し残して低音感を調整したあたりは巧みである。この製品の内容を認めて、使いこなせる人が少ないのが、現在のオーディオの悲劇であろうか。

オンキョー Monitor 2000

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 モニター2000は、価格帯からみれば、1ランク上のゾーンにあるシステムではあるが、今回の比較試聴に加えた製品である。
 早くから巷の噂では、オンキョーの高級機種に、2000、3000、5000の3モデルがあるとのことであったが、その第一弾として発売されたモデルがこのモニター2000である。
 オンキョーのスピーカーシステムは、ユニット形式のうえからもバラエティが豊かであり、ときには、非常にユニークな発想に基づいたシステムの開発が特徴である。最近では、小型なGR1システムが、その好例だ。
 伝統的には、ホーン型ユニットの開発に独自の技術があり、他の形式のドーム型などでも、中域や高域ユニットを優先開発する傾向が、従来は感じられた。ウーファー関係については、ポリプロピレン系のデルタオレフィン振動板の開発と採用が、新材料導入の実質的な出発点と考えてよい。
 今回モニター2000に新しく採用されたピュア・クロスカーボン・コーンは、平織りのカーボン繊維を三層に角度を30度ずらせて重ね合わせた構造をもっている。カ−ボン繊維の軽質量、高剛性を活かし、コーンに要求される内部損失を、カーボン繊維を張り合わせるエポキシ系接着材で確保するという考え方が、その基本設計思想である。
 この新コーンの開発で、特許面を含めて制約の多かったデルタオレフィン系コーンから完全に脱皮し、従来から独自に開発していたマグネシュウム振動板採用の中域、高域ユニットの性能を充分に活かした、総合的にバランスがとれたシステムへと一段の発展をとげることになった。
 モニター2000は、新開発のピュア・クロスカーボンを採用したウーファーに最大の開発エネルギーを投入してつくり出されたシステムである。そのことは、使用ユニットを眺めれば一目瞭然である。ウーファーユニットは、38〜40cm口径の大型ウーファー用に匹敵するφ200×φ95×25tの巨大なバリュウムフェライト磁石を採用した磁気回路をもち、情報量が多く、エネルギーを要求されるベーシックトーンを完全にカバーしようとする設計だ。
 中域ユニットは、独自のマグネシュウム合金振動板を採用し、軽量高剛性の基本性能に加えて、マグネシュウム系が適度な内部損失をもつことに着眼点を置いた素材選択に特徴がある。このため、材料独特の内部損失を活かして、ドーム内部に制動材などを入れずに素材そのものの音を素直に引出すという設計方針である。なお、中域の振動板形式は、φ65mmマグネシュウム合金振動板と10cmコーンとの複合型で、純粋ドーム型と比較して高能率であることが特徴である。いわば手慣れた材格の特徴を最大限に引き出しさりげなく仕上げたユニットが、このスコーカーである。
 トゥイーターは、マグネシュウム合金振動板採用のドーム型で、振動板周辺のフレーム形状で軽くホーンロードをかけた設計が、オンキョー独特のタイプと考えられ、このあたりにもホーン型ユニットに伝統があるオンキョーのオリジナリティが感じられる。
 エンクロージュアは、バスレフポートからの不要輻射を避けた背面ポート型で、裏板に28mm厚のアピトン合板、他は25mm厚パーティクルボード使用という構造も、一般的にバッフル部分を厚くする設計と異なった特徴である。また、バッフル面から不要輻射の原因であるバッジ類やアッテネーターパネルを廃し、ツマミのみを最少限の大きさとして残し、聴取時にはツマミが引込み、バッフル面はフラットになる設計が見受けられる。アッテネーターをバッフル面に取付けないとシステムの商品価値が失われるとする主客転倒的な考え方が定着している現状では、リーゾナブルな処理であるといわなければならないだろう。
 今回対象としたランクのスピーカーシステムでは、基本的に6万円前後の価格帯の製品とは比較にならぬ質的な高さが要求されているが、せっかく優れたユニットを採用しているにもかかわらず、慣例的にアッテネーターを前面バッフルに取付け、総合的なクォリティを劣化させていることは、見逃せない問題である。実際に、アッテネーターやバッジ類を良質の薄いフェルトなどで覆って試聴をしていただきたいものだ。この変化を聴き取れない人がいないとは考えられないほどの音質の向上が認められる。
 関連した問題として、響きを重視するエンクロージュアにアッテネーターパネル用の孔をあけること自体すでに好ましいものではない。また、電気的、磁気的にみても、リーケージフラックスが非常に多い一般的な外磁型フェライトマグネットの磁気回路に近接して、コイル状に抵抗線を巻いた抵抗器や信号系の配線が存在することは、簡単に歪の増加として検出されることなのである。
 もちろん、この程度のことは設計側では旧知の事実だけに、使用者側が良識をもって判断すれば、このクラスのスピーカーの性能と音質は、確実に飛躍的な向上を遂げるはずだ。
 モニター2000は、基本的に、やや広帯域型の現代的なレスポンスをもつ安定感のある音をもっているが、いわゆる、聴かせどころの要所を的確に抑えた表現力のオリジナリティに大きな特徴がある。
 セッティングは、他機種と同じコンクリートブロックでスタートしたが、システムの特徴である低域の表現力を活かし、一段と力強い音を求めて、ここでは変則的ではあるが、木製キューブの3点サポートを試みてみた。少なくとも、SS試聴室ではこのセッティングが、カタログコピーにある多彩な表現力を満すためのベストセッティングで、大変に気持のよい鳴り方である。
 組合せは、しなやかで、響きが美しく、適度に緻密さのあるアンプと、オーディオ的に充分にコントロールされた音のCDプレーヤーが望ましい。

ダイヤトーン DS-1000

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 ダイヤトーンスピーカーシステムの当初からの伝統的なコンセプトともいうべき、小型高密度設計の思想を現在に伝えるモデルが、このDS1000である。
 外観上は、この価格帯のシステムとしてひとまわり小型であり、サイズが重要な商品価値とすれば、物足りない印象を受けることもあるだろう。しかし、エンクロージュア形状に、回折効果を抑えて音場感情報が豊かなラウンドバッフル構造を採用しているあたりは、放送モニター2S305のイメージを残した、高性能タイプらしい主張が感じられる。
 基本的な構想は、新世代のダイヤトーンシステムとして開発されたDS505以来培われてきたハニカムコンストラクションコーンとDUD構造が、すでに完成期を迎えたことをひとつの契機として出発している。つまり、ユニット全体の完成度をさらに一段と高める目的で、ユニットを構造面から再検討し、見直すというアプローチである。
 この構造面からの検討というのは、逆に考えれば、独自の材質と構造をもつハニカムコンストラクションコーンやDUD構造の潜在的能力をさらに引出そうという意図でもある。つまり、従来構造をベースに検討された振動系の可能性の限界が、新しく、理論的に合理化さされた構想を土台とすれば、さらに未知の領域にまで発展する可能性があることを意味している。
 ウーファーフレームは異例に大型で、磁気回路全体を覆い、後から磁気回路をフレームに強固に保持する構造が特徴である。
 現在の国内製品では、磁気回路とフレームはネジ止めされているが、それは、前側のプレートとフレームのみであり、磁石とボールを含む後側のプレートは、接着材で固定されているのが普通だ。
 磁気回路とフレームの重量は、振動系の重量よりは圧倒的に大きく、振動系の動きに対しての反動は無視できる値とするのが常識的な様子である。しかし、海外製品を見ると、アルテック、JBL、タンノイなどでは、前後のプレートは、磁石を間にはさんでネジ止めされ、そして、前側のプレートとフレームが別のネジで固定されるという構造である。このあたりは、機械的な部分に伝統的な強みをもつ彼等らしい確実な手法である。
 このタイプを一段と発展させ、フレームで磁気回路を抑え込む構造がDS1000のウーファーの特徴だ。
 中域と高域ユニットは、ウーファーとは異なった手法である。いうなれば、シンプル・イズ・ベストの考え方による単純化が行われている。従来は、ユニットをエンクロージュアに取付けているフレームにまず振動系を取付け、さらにこれを磁気回路に、ネジ止めしていたわけだが、DS1000では、磁気回路の前側のプレートそのものをフレームとし、これに振動系を取付けるという単純化がなされている。振動系にとっては、支持されている位置が、磁気回路自体なのか、間接的なフレームなのかの違いだが、この差は大きく、高速応答性面での改革が果されている。
 音としての基本ラインは、ワイドレンジ高速応答タイプのサウンドであるが、中、高域ユニットのSN比が向上し、いわゆるダイレクトで、シャープなDUDボロンドームのキャラクターと従来いわれていたものの大半が実はフレーム関係の共振や共鳴が原因であったことが判かったようだ。
 一方、土台を受持つウーファーは、余裕があり、安定感が増し、音が鮮明になったことが特徴だ。また、音場感的な空間情報の量が大幅に増大したことは、このDS1000独自の特徴で、これは新しい次元への展開を予感させる。
 使いこなしのポイントは、まず関連機器のメインテナンスが先決条件であり、システム系の問題点を、サラッと音として聴かせるため、これをスピーカー自体のキャラクターと誤認することが多いであろう。
 試聴時でも、置台は平均的な左右間隔、前後位置も基準位置としたままで、CDプレーヤーの置きかた、アンプの位置決めなどの差が、かなりクリアーに聴きとれた。とくにアンプ系の筐体構造面から生じる機械的な共振や共鳴は、中域から中高域のメタリックな響きとなってかならずと言っていいほど音に出るため、細心の注意が必要である。
 置台の間隔は、ブロックの幅2/3程度が底板に重なる位置、前後方向は、中低域の量感で伸びやかに鳴るように、中心からやや後に偏った位置が良かった。このシステムも、響きの美しさを引き出す意味においては、ブロックよりも、木製ブロックかキューブを是非とも使いたい。ブロックの場合には、上にフェルトを敷く必要があり、またブロックの孔の部分、および床とスピーカー底板の間の空洞には、吸音材を入れ、中域から高域の良い意味での高い分解能、ハイスピード応答の魅力を引き出したい。、本来の意味でのハイスピードとは、ナチュラルな反応のしなやかさと鮮度感であり、むしろ、物足らないほどの印象を受けることもあるだろう。
、ネジ類の増締めは、順序を追って適度を守って行えば、反応はかなりシャープに変化をする。とくに、スピーカーターミナル部分の増締めは、全体に音が静かになり、音場感の空間情報量が確実に増す。しかし、取付けネジが木ネジのため、取扱いに注意が必要なことは他のモデルと共通の要点だ。
 左右は、メーカー推奨のLRでよい。アッテネーター、バッジなどのオーナメントがいっさいないため、この部分での問題は生じないが、サランネットを取付けると平均的システム+αの範囲に留るため、質的な要求度が高いときには、ネットは取り外したい。
 コード関係は、大きくその影響を受けるため、OFCやLC−OFC系の同軸タイプで追い込みたい。少しのキャラクターを残しても情報量の豊かさが重要で、あとは置台の選択と、台上でのわずかな位置調整で、バランスの修整は比較的に安易である。

テクニクス SB-M3

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 平面型振動板採用のシステムは、一時期各社から開発され、盛況を呈したが、現状では、ひとつのユニット形式として市民権を獲得していると思う。
 もともと、振動板解析の基本には、円形の平板を使う手法が古くから行われているように、平面振動板は、ある意味では、理想の振動板形態ということができる。この理想的な振動板を採用した数多くのシステムが、なぜ古典的なコーン型や、比較的に新しいドーム型ユニットなどと、少なくとも同等以上の成果が得られなかったのだろうか。短絡的に考えれば、平面型振動板駆動方式などを含めた、スピーカーユニットとしての完成度に問題があったようだ。
 各方式の平面型振動板を採用したシステムのなかにあって、テクニクスの製品は、ユニット自体の完成度がもっとも高いということが際立った特徴である。
 テクニクスの平面型振動板は、軽金属のハニカムコアを採用することでは標準的であるが、単純にコアをカットして両面にスキン材を張るという方法ではなく、コロンブスの卵的発想ともいえる独自の2段階のステップをもつコアの展開方法により、中央ではコアが密に、周辺ではコアが粗になる独特の構造を採用しているのが特徴である。いわば、コアが均一ではなく、質量分散型ともいえるコア構造のため、コア内部の空洞共振や共鳴が分散され、振動板の構造としては、通常型よりも好ましい。さらに、コア両面に張るスキン材が、外周の端末部分で両側から巻き込まれているために、端末部分の断面でコアが露出して不要共振が発生することを抑制している点も見逃せないところだ。
 また、ローリングを生じやすい平面型振動板をコントロールする目的で節駆動方式が採用されているが、ボイスコイルダンパーは、角型状に四方に対称形のギャザーを配した特殊形状のリニアダンパーが特徴的である。
 また、国内では比較的に軽視されやすいシステムの上下方向の指向特性を改善するために、トゥイーター用マグネットは、長方形型を採用し、スコーカーとの間隔を狭めたユニット配置としている。
 かつでSB7000で国内最初にテクニクスが提唱したリニアフェイズ方式は、当初においては、ユニットにドーム型やコーン型を混用していたため、エンクロージュア構造を変えて、ウーファーに対してスコーカー、トゥイーターを後方に偏らせることで実現されていた。しかし、平面型振動板の開発と全面的な採用により、通常型のエンクロージュアでリニアフェイズ方式としたアプローチは、いかにもテクニクスらしく、オーソドックスな、しかも、理詰めの手法であると思う。
 SB−M3は、4ウェイ方式フロアー型システムとして異例の価格で登場したSB−M1、その3ウェイ版であるSB−M2に続いて開発されたモニターシリーズの第三弾製品である。デジタル時代のモニターシステムとして、広大なダイナミックレンジ、SN比の良さ、音像定位の明解さが要求されるが、このSB−M3では、リニアダンパー採用のパワーリニアリティに優れたウーファーをベースに、振動板前面に音源中心がくる平面型ユニットの特徴が活き、シャープさ、リニアフェイズ方式独特の位相特性面での優位性が積極的に表われている。特に、音場感の空間情報の豊かさ、素直な広がりが目立つシステムである。
 基本的にキャラクターが少なく、ナチュラルで適度に抑制の効いたサウンドをもつだけに、使いこなしは容易なタイプだ。低域は軽く、いわゆる重低音を志向したものでないだけに、中低域の豊かさ、反応の軽快さを活かしたバランスをつくり、奥行き感のある平面型独自の魅力に加えて、実体感のある音像を充分に前へ引き出すことを狙うのが使いこなしのポイントになる。
 置台は、ブロック一段なら間隔は基準よりも狭めとし、やや、柔らかい傾向をもつエンクロ−ジュアの音を引締める。前後方向は、基準より少し前方とし、重低域を狙わず、中低域と低域のバランスを重視して決める。いわゆるモニター的サウンドを志向するならば、コンクリートブロックよりも密度が高く、重量がある台形のコンクリートを置台に使い、その上に、数mm程の厚さのフェルトを敷くのがよい。
 左右は、バスレフポートを外側にするのが原則だ。残念なことは、SB−M3では、ポートと対称位置に二個のアッテネーターがあることだ。この部分の共振の影響は、素直な平面型振動板の特徴にデメリットとして働き、中域以上の分解能、SN比を劣化させている。試みに、1mmほどの薄いフェルトでアッテネーター前面をマスクしてみると音源が遠いと感じやすいSB−M3の個性が薄らぐ。しかし、抜けがよくなり、音像は一段と前に定位し、実体感が加わって、積極的な意味での平面型振動板の良さと、リニアフェイズ方式のメリットが聴感上にはっきりと感じられるようになる。
 この中高域以上の改善は、本来、柔らかく、穏やかな性格のウーファーにも影響を与え、反応は一段と早まり、鮮度感や力感の表現すら可能になる。この変化は、現実に体験をしないと判からないほどに劇的なもので、スピーカーならではの使いこなしの楽しさであり、魅力である。
 ネジ関係の増締めは、素直に反応を示すが、前面から鬼目ナットを装入するタイプで、2〜3回転は簡単に廻わり、最後でジワッと固くなる特徴がある。なおスピーカー端子は、ゆるみが少ないことが、M2ともどもテクニクスの特徴と思う。
 コード類は、太い平行二芯やFケーブルは不適当で、無酸素銅同軸の外皮を+に用いる使用が好適であった。最新のLC−OFCも、その情報量の多さから試みたいコードだ。
 組合せには、素直でキャラクターが少なく、適度に伸びやかさが加わったアンプと、軽快なワイドレンジタイプの音をもつCDプレーヤーを使う。

パイオニア S-9500

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 昨年9月発売のS9500は、価格設定から考えると、ユニット構成は物量投入型で、内容が充実している。さらに、エレクトロニクス・バスドライブ方式という国内最初のダブルボイスコイルを使う新しい武器をも備えた、NS1000Mにとっては、かつてなかった強力なチャレンジャーだ。
 デジタルプログラムソース時代に対応するスピーカーシステムとして、低域再生能力の向上とダイナミックレンジの拡大という二大技術的目標をもって開発されたこのモデルは、パイオニアのトップランクモデルとして長期間にわたりシンボル的な存在である955シリーズでの基本技術に加え、独自の通気性二重綾織ダンパーと、改良されたカーボングラファイトコーン、さらに、新技術EBD方式を搭載した、明らかに新世代のパイオニアスピーカーシステムの登場を思わせる製品である。
 システムとしての最大の特徴は、低域のEBD方式である。ボイスコイルは2組あり、一方は、標準的なバスレフ動作で使用し、やや腰高だがフラットレスポンスからシャープに低域がカットされる特性である。他方は、システム共振周波数以下の帯域でのみ動作させ、システムとしての低域特性を一段と向上させようとするもので、発表値によれば、この外形寸法のエンクロージュアで、50Hzまでフラット再生が可能という、驚異的な値だ。
 この低域レンジの拡大をベースとすれば、スコーカーに要求される条件は、受持帯域の下側のエネルギー量が充分にあるユニットの開発である。
 一般的に、3ウェイ方式のシステムでは、ウーファー帯域が音楽信号の最大のエネルギー量をふくむ帯域を受持つため、最低域と中低域のバランスを両立させることが、システムアップの技術で鍵を揺る部分である。この解決策のひとつが、中低域専用のミッドバスを加えた4ウェイ方式であるが、ユニットの数が増しただけ変化要素が複雑になり、価格の上昇もさることながら、システムアップの難易度は、3ウェイ方式とは比較にならない。
 ちなみに、比較同時試聴でも、3機種の比較は容易だが、4機種となると急に難しくなることに類似している。
 ここで、EBD方式はダブルボイスコイルを採用しているから、一般のウーファーとは違うのではないか、という疑問が生じることだろう。簡単に考えて、ウーファーのボイスコイルを収める磁気回路のギャップの体積は、諸条件がからみあまり大きく変更できない。しかし、ここに2組のボイスコイルを収めるダブルボイスコイル方式は、通常タイプの受持帯域のエネルギーを減らした分だけを最低域用に振替えるタイプで、基本的には通常タイプと同等に考えるべきものと思う。
 さて、前述した要求条件を満たすためのスコーカーは、市販製品では最大の口径をもつ76mmドーム型ユニットが開発され採用されている。振動板材料は、独自のベリリュウム技術をもつパイオニアならではのダイアフラムで、方向性がなく、大パワーでも亀裂が生じない特徴を誇るタイプだ。なお、磁気回路のマグネットは、外径156mmのヤマハと同サイズを採用しているが、ボイスコイル直径が、ヤマハの66mmに対して76mmと大きいため、約10%も磁力が強いストロンチウムフェライト磁石を採用している。大口径スコーカーを採用すると、トゥイーターも受持帯域の下側のエネルギーが必要になる。独自のベリリュウムリボン型ユニットは、従来より一段と低域特性を改善して、ウーファーと共通思想で開発されたダイナミック・レスポンス・サスペンション方式を採用している。
 なお、パイオニアのスピーカーシステムの特徴として、ネットワーク回路が、業務用機器の600Ωラインに採用されているタイプと同じ、バランス型であることがあげられる。このタイプは、通常タイプと比較して、音場感の空間情報が多いのが特徴。
 使いこなしの要点は、量的に充分にある低域の豊かさを活かすことだ。誤った使用方法では、低域がダブつき、反応の鈍い、焦点のボケたシステムと誤認するだろう。現実に、市場でこのシステムの評価がいまひとつ盛上らないのは、使いこなし不在が、その最大の要因である。
 置台は、前例と同じブロック一段とする。左右の間隔は、基準より狭く、ブロックの外側とシステム側板が一致するあたりだ。置台が一段では少し低いため、間隔をつめて、システムの底板の鳴りを制動気味にする必要がある。前後位置は、前方に動かしたほうが全体にシャープ志向のモニター的サウンドとなり、後方に動かせば、伸びやかに闊達に鳴る開放的な響きとなる。当然使い手の好みで判断すべきだが、変化は穏やかで予想以上に使いやすい。ここでは、豊かさと適度なライブネスがあり、音場感の空間情報が多い方向が、システム本来の構成、性格から好ましいと判断して、やや基準点より後方にセットをした。
 積極的に使う場合には、置台は、コンクリートブロックよりも、堅木のブロックもしくはキューブが、響きのナチュラルさの点で好ましい。低域の量感が豊かなため、置台とシステムの間の空間には適量の吸音材を入れ、中域以上の透明感、SN比を向上させるべきであろう。
 ネジ関係の増締めは、適量を厳守されたい。無理をすると比較的容易に破損する。
 左右の置きかたは、バスレフボートを外側にするのが原則。ポートからのパルシブな圧力波的なものが音場感を乱し、大音量時には耳に圧迫感がある。音量レベルは家庭内の平均レベル程度がベストで、低域の量感の豊かな特徴が棲極的に活かせるし、大口径中域の余裕あるエネルギー感が楽しめる。スピーカーコードは、低域が豊かだけに、OFC、LC−OFCなどの情報量の豊かなものを使用し、固有のキャラクターを抑えて、充分に物量の投入された豪華なシステムの特徴を活かしたい。

ヤマハ NS-1000M

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 発売当初は、スリリングなまでに鮮烈なイメージを受けた独自のサウンドも、年月を経過するにしたがい、現在では激しさは姿をひそめ、むしろ、ナチュラルで、標準的な音をもったシステムという印象だ。
 この変化は、単に時代の変化という言葉で片づけることもできようが、その背景には、数多くの要素が複雑に絡みあっていると思う。
 まず、スピーカーシステムは、その基本的な部分が機械系のメカニズムをもつためいわゆるメカニズムとしての熟成度の向上が大きい要素だろう。平均的に言って、スピーカーシステムでは、試作段階のタイプより、生産ラインに乗せてひとたび生産ライン面でのクォリティコントロールが確保されてからの製品のほうが、よりスムーズで、穏やかな、安定感のある音となる傾向が強いようだ。
 経験上では、NS1000Mもこの好例のひとつで、初期の製品よりも、序々に生産台数が増加するにつれ、角がとれた大人っぼい印象の音に変化をしている。
 また、ある期間にわたって使い込んでいく間にみせるエージングの効果も明瞭にあり、前にも述べたが、トゥイーターの音が滑らかになるとともに、スコーカーは、受持帯域の下側が豊かになり、ウーファーとのつながりが厚く、一段と安定感のあるバランスに移行する。
 一方、超ロングセラーを誇るモデルだけに、細部のモディファイやリファインが行われているようで、気のついたことをあげれば、まず低域の質感と音色の変化である。初期製品は、中低域の量感を重視した、当時新開発のコーン紙を採用していたためか、いわゆるダイナミックな表現力を志向して、重低音と感ずる帯域に、力強く、ゴリッとした印象のアクセントを持っていた。しかし、しばらく期間が経過した後に、重低音の力強さは一歩退き、豊かで、まろやかな質感へと変化している。
 当然のことながら、材料の性質をナチュラルに活かしたものとして好ましいモディファイであると思う。ちなみに、巷の話では、現在の中低域の豊かさを保ちながら、重低音の厚み、力強さが出ればベスト、といった説明や解説がみられる。質的なものを犠牲にすれば、不可能ではないが、質的なレベルを維持するかぎり、平均的な構成の3ウェイシステムでは、ウーファーの受持帯域内の聴感上のレスポンスは重低域を重視すれば、中低域の量感は減じ、逆に、中低域の量感を得れば、垂低域のアクセントは消失するもので、それを両立させようという要求は、原理的に不可能な要求である。
 その理由は、特別な処置をしないかぎり、アンプからウーファーのボイスコイルに送られるエネルギー量は一定であるからだ。現実にコントロールできるのは、この一定のエネルギーを、聴感上で、どの帯域に分布させるかが、チューニングの基本である。もちろん、機械的な共振や空気的な共鳴を利用すれば、聴感上でのエネルギー感は増加をするが、クォリティの確保はできない。
 話題が少し外れたが、再びNS1000Mに戻れば、低域の変化に続いて、この低域とバランスをとるためか、高域の音の輪郭が少し強調され、表現を変えれば、質感が少し粗いと感じられたこともあった。
 また、2〜3年前頃だと思うが、ネットワーク関係が見直され、中域、高域のクォリティが向上し、音場感的な空間情報量が豊かになり、聴感上でのSN此が改善されるというリファインもあった。
 もちろん、振動板系においては、他の金属と合金を作りやすい特徴を活かした素材的な進歩があり、品質の向上が早いテンポでおこなわれる接着剤関係の改良、そして配線用線材なども、おそらく変更されているのではないかとも思われる。
 熟成し、完成度が高い現在のNS1000Mは、平均的には、使いやすいタイプである。なお、5モデルのスピーカーは、パイオニアP3aとオルトフォンMC20II、ソニーCDP701ESS、デンオンPRA2000Z、POA3000Zを組み合わせて試聴をおこなった。
 置台には、表面にビニール系のテーブルクロス状の布を張った本誌試聴室で使っているコンクリートブロックを、一段、横置きにして使う。左右間隔は、底板が半分乗った基準位置、前後方向は、中央より少し前側が、この部屋では好ましい位置だ。
 順序に従って、ユニット取付ネジなどの増締めを行なうと、その効果もクリアーで、かなり、リフレッシュしたサウンドに変わる。
 使いこなしの要点は、左右スピーカーを、メーカー指定とは逆に、アッテネーターが外側にくるようセットすることである。その理由は、大きなヤマハのエンブレム、2個のアッテネーターパネルとツマミからの輻射や雑共振が、中高域から高域の音を汚しているからで、逆に置けば、聴感上のSN比は向上し、音場感的な拡がりは明瞭にクリアーになる。
 概略のセッティングを完了し、ここでスピーカーコードを常用のFケーブルから日立製OFC同軸コードの外皮を+、芯線を−とする使用に変える。Fケーブルでの、中域重視型ともいえる、ややカマボコ型のレスポンスが、フラット傾向の誇張感のない、ややワイドレンジ型になり、分解能が一段と向上した反応の早い音は、現時点でも立派だ。
 結論としては、完成度が高く、構成部品のバランスが優れているところが、このモデルの際立つ特徴で、使い込めば、現代でも第一級のクォリティが得られる見事な内容を備える。ただし、ウーファー前面のパンチングメタルの共鳴が少しきついのが、アキレス腱的存在である。しかし、取外したとしても、トータルバランスは劣化するから要注意。
 組み合わせたのは、音場感情報が多くなったアンプと重量級CDのペアだ。使いこなしの要点を整理し、順序を守ってトライすれば好ましい結果は比較的容易に得られよう。

オンキョー Grand Scepter GS-1

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
「THE BIG SOUND」より

 オンキョーは、 もともと、スピーカー専門メーカーである。そのンキョーが今回発売した「グランセプター」は、同社の高級スピーカーシステム群「セプター・シリーズ」の旗艦として登場した。しかし、このシステムは元来商品として開発されたものではなく、研究所グループが実験的に試作を続けていたもので、それも、ごく少数の気狂い達が執念で取組んでいた仕事である。好きで好きでたまらない人間の情熱から生れるというのは、こういう製品の開発動機として理想的だと私は思う。ただ、情熱的な執念は、独断と偏見を生みがちであるから、商品としての普遍性に結びつけることが難しい。
 変換器として物理特性追求と具現化が、どこまでいっているかに再びメスを入れ、従来の理論的定説や、製造上の問題を洗い直し、今、なにが作れるか、に挑戦したオンキョーの研究開発グループの成果が、この「グランセプター」なのである。そして、その結果が音のよさとしてどう現われたか? このプロトタイプを約一年前に聴く機会を得た私は、条件さえ整えば、今までのスピーカーから聴くことのできないよさを、明瞭に感知し得るシステムであることを認識したのであった。
 限られた紙面で、そのすべてを説明することは不可能であるが、このシステムの最も大きな特徴と、その成果を述べることにする。
 オールホーンシステムである「グランセプター」は、ホーンスピーカーのよさであるトランジェントのよい音のリアリティ、ナチュラリティを聴かせるのに加え、従来のホーンシステムのもっていた、いわゆる〝ホーン臭い〟という癖を大きく改善している。それは、ホーン内の乱反射による時間差歪を徹底的に追求した結果として理解出来るのだが、それが実際、こんなに音の違いとして現われたというのは、新鮮な驚きであった。可聴周波数帯域内での時間特性の乱れは、スピーカーの音色に大きな影響を与えるものであることは知られていた。
 ここでいう時間特性というのは、周波数別に耳への到達時間がずれるかずれないかを意味するもので、ユニットから放射された音がホーンの開口から放射される前に、内部で起きる反射や回折によって時間的遅れを生むのを極力防ぐことに大きな努力が払われたのが、このシステムの一大特徴である。一般に、この時間が2〜3ミリセコンド以下なら人間の耳は感知しないといわてきた。
 そして、屋内での空間放射の現状を知ると、システムそのものの時間特性の僅かなずれは問題にならないと考えるのが常識であった。「グランセプター」では、ウーファーとトゥイーターのユニット間の時間特性をコントロールするという大ざっぱなことではなく、一つのドライバーが受け持つ帯域内での時間のずれまでを可能な限りコントロールしているのが注目すべきところである。前述のように、ダイレクトラジェーターと異なり、ホーンドライバーの場合、ホーン内の反射回折、ホーン鳴きなどはすべて時間特性の乱れとして見ることが出来るので、これを、ホーンのカーブと構造、その精密な加工技術、材質の吟味を、途方もない計算と試作の積重ねによって徹底的に微視的追求をおこなっている。これによって、あたかもヘッドフォンと耳との関係に近いところまで時間のずれをなくすべく努力が払われているのだ。この効果は、例えば、ピアノやヴァイオリンの単音の音色の忠実性にも現われるはずで、単音に含まれる複雑な周波数成分の伝送時間のずれがもたらす、音色の変化が少ない。ましてや、オーケストラのトゥッティのような広帯域成分の音色では、たしかに、大きな差が出る。耳と至近距離にあって時間ずれの起きないヘッドフォンの音色の自然感に通じるものなのである。
 オールホーンの2ウェイシステムで、能率が88dBというのは、異常なほどといってよい低能率ぶりである。ウーファーのホーンロードのかかりにくい帯域に合わせてそのf特とトゥイーターのレベルを抑え込んだ結果である。ウーファーはデルタオレフィン強化のリングラジェーターをもつ強力なドライバーで、波のコーン型ウーファーではない。振動板実効口径は23cm。これが800Hzまでを受け持つ。トゥイーターは65φの窒化チタンのグラデーション処理──つまり、断層的に窒化の施されたチタン材である。いい変えればセラミックと金属のボカシ材だ──を施したダイアフラムを採用。剛性とロスのバランスを求めた結果だろう。
 指向性は、水平方向に30度、垂直方向に15度と比較的狭角である。これも放射後の位相差を招かないためであり、従って、リスニングエリアはワンポイントである。厳密なのだ。無指向志向や反射音志向とは全く異なるコンセプト、つまり、技術思想が明確である。反面、左右へリスニングポジションを動かした時の定位は比較的安定している。
 使用にあたっては、かなり厳格に条件を整えなければならない。決してイージーに使えるようなシステムではない。それだけに条件が整った時の「グランセプター」は得難い高品位の音を聴かせるのである。
 とにかく、この徹底した作り手側のマニアックな努力と精神は、それに匹敵した情熱をもつオーディオファイルに使われることを必要とし、また、そうした人とのコミュニケイションを可能にする次元の製品である。そして過去の実績を新たなる視点で洗い直して、歩を進めるという真の〝温故知新〟の技術者魂に感銘を受けた。

ユニットの美学──ヤマハNS1000M以降、現代日本スピーカーの座標を聴く

井上卓也

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 現在の日本のオーディオ産業の実力は、もはや、その質、量ともに、世界の頂点に位置づけされるまでに到達している。
 しかし、その実力を発揮出来るのはエレクトロニクス技術にもとづくアンプ、チューナー、カセットデッキ、そしてCDプレーヤー、PCMプロセッサーの分野であるとする見解もある。トランスデューサー関係のスピーカー、カートリッジ、マイクなどの分野では、いまだに欧米製品に一日の長があるとするその見解は、根強く残っているようすである。
 スピーカー関係に的を絞って考えれば、たしかに1970年代までは、欧米製品の優位性を認めることはできる。しかし、それ以後、海外メーカーの開発能力に一種の陰りが見受けられ、かつてのように際立った新製品の登場が稀になっていることに加えて、国内製品は、新素材の導入、新技術の開発を繰り返してその水準はここ数年のあいだに確実に向上し、世界のトップランクの位置を確保しようとしているようだ。
 欧米メーカーといっても、国内市場で名実ともに認められたブランドは、予想外に少ない。それらのメーカーの特徴は、かつてはとても国内製品に望めなかった、優れた基本設計と材料をベースに充分な物量を投入して開発した強力なスピーカーユニットにあったわけで、米国系のアルテック、JBLや、英国系のタンノイが典型的な例であることは、いうまでもない。
 この、いわば強力なスピーカーユニットをベースにしたシステムづくりの動向は、国内製品にも強い影響を与えたのは事実である。ここしばらくは、ユニット開発を最優先とした傾向が強かったことが、国内製品の最大の特徴であろう。
 ことに、振動板関係の新素材の導入と開発はますます激化し、ベリリュウム、ボロン、航空・宇宙開発の産物であるハニカムコアに各種のスキン材を組み合わせたタイプ、カーボングラファイト、発泡軽金属、カーボン繊維などと、新素材の導入は、いまや珍しいものではなく、感覚的には、常識化されているといっても過言ではあるまい。
 現在では、普及機クラスのシステムにおいても、平均的な傾向は、物量投入型である。強力なユニット、オーバーデコレーション気味のデザインが標準であり、この二点が国内製品の特徴を明確に示している。
 残された問題は、エンクロージュア関係のチューニング技術の確率や、ネットワーク系、磁気回路系の内部的、外部的な干渉や妨害の検討を含め、総合的にバランスの優れたシステム開発を行うことである。
 現在の国内スピーカーシステムの実力を聴くために選んだ機種は、価格的に10万円を少し超した価格帯の製品であり、形態的には、ブックシェルフ型のモデルである。
 簡単に考えると、現在市販されているスピーカーシステムのなかで、いわゆるシスコン用としてメーカー独自のトータルシステムにも組み込まれるタイプを除いて、単体のコンポーネントと思われるランクの製品は、5万円前後の製品以上としてよいであろう。
 この、5万円をボーダーラインとする考え方は、スピーカーの分野に限らず、プリメインアンプやカセットデッキなどでも、従来から慣例的に行われてきたことである。いわゆる、〝売れ筋〟という表現でいえばスピーカーシステムにおいても従来から最大の需要をまかなってきた価格帯の製品だ。
 さらに細かく分類すれば、5万円前後とはいっても、5万円未満の25~28cm級ウーファー採用の3ウェイ構成の製品と、5万円以上の30~33cm級ウーファー採用の3ウェイシステムに区別されるが、ここでは、後者の価格帯の製品についてその内容を眺めてみよう。
 いわゆる標準的なブックシェルフシステムという見方をすれば、30cm級以上のウーファーを採用しているだけに、エンクロージュアの外形寸法は、このクラスですでに標準サイズ的な大きさになり、ユニット構成が3ウェイ方式であるかぎり、10万円以上のクラスの製品にいたるまで、この外形寸法にさして変化はない。これが、ブックシェルフ型システムの国内製品に見られる特徴である。
 一方、デザイン面から見ても、いわゆる売れ筋の価格帯の製品であるだけに外観は重視され、基本的に音質、性能と関係のない装飾用のオーナメント類にかなりの予算が投入されている。これは、むしろ10万円以上のクラスの製品よりも華美をきわめているといってよいだろう。
 このデザイン面と共通したこととして、国内のブックシェルフ型システムは、その初期から、取外し可能なサランネットが標準装備であり、この部分についても10万円以上の製品と変わらない必須条件とされているようだ。
 6万円前後のブックシェルフ型システムは以上の2点のような、より高価格なシステムと共通の要求条件を満たしながらも価格を守り、しかも年々その内容は次第に高まってはいる。しかし、エレクトロニクス関係が計算機付クォーツ時計の例のように急速に価格低減が可能な特徴をもつことに比較して、基本的にメカニズムであり、単純な構造をもつだけに、スピーカーの合理化による価格の低減は非常に至難の技である。すでに現状で、価格を維持すれば、その内容的な向上は飽和領域に入っている思われる。
 短絡的な表現をすれば、2000ccの排気量の自動車に、より排気量の少ない平均的な効率のエンジンを搭載した車種、といった比喩ができるのが、このクラスのブックシェルフ型システムといえる。
一方、10万円後半から20万円クラスのブックシェルフ型システムを見れば、外形寸法的にもかなりの自由度があり、ユニット構成も、3ウェイ方式、4ウェイ方式と共通性は少ない。したがって、平均的に、国内製品のスピーカーシステムの実力を試す目的には、やや外れた印象がある。やはりこのランクは、ブックシェルフ型システムのスペシャリティクラスと考えるべきで、それだけに、いわゆるオーソドックスな使いこなしのノウハウがなければ、簡単にはその高い物理的性能を音として還元しきるものではないと考える。
 現状では、10万円前半の価格帯のブックシェルフ型システムが、コンポーネント用としては、標準的な性能と内容を備えた製品である。
 この価格帯のブックシェルフ型として定着したのは、ヤマハのNS1000Mが、その最初の製品であり、現在に至るまで、稀に見る超ロングセラーを誇っているモデルである。
 標準的な仕上げと前面にサランネットを備えた、家具としても見事な仕上げをもつNS1000の、米国流にいえばモニター仕上げタイプとして開発されたNS1000Mは、当時としては、非常に個性的なブラック仕上げのアクセントの強いデザインで登場した。いわゆるエキゾチックマテリアルとして注目を浴び、当時としては驚異的なベリリュウム振動板を採用して、高域ドーム型ユニットは鮮烈なシャープネスを得、ブックシェルフ型の当時のイメージとは一線を画したダイナミックな低音により検聴用モニター的な受取りかたがされた。そして、急速にファンを獲得して不動の地盤を形成し、現在に至っている。
 この間、各社からそれぞれ強力な内容を備えた、価格的にも15万円クラスまでの挑戦者が送り込まれたが、NS1000Mを倒すまでにはいたらず、姿を消していった製品の数も多い。
 しかし、昨年来より再び、価格的にもNS1000Mに焦点を合わせた新製品が登場しはじめ、この価格帯の状況は、にわかに興味深いものになりだしたようだ。
 私見ではあるが、NS1000Mが超ロングセラーを誇る理由をここで考えてみたい。発売時期の1975年でさえ、現在の物価感覚と比較して、当時としては非常に高価な145000円のNS1000と同じユニットを採用したモデルであっただけに、108000円というその価格は、もともと価格対満足度の優れた製品であったことが最大のポイントである。つまり、強力なユニットをベースとして開発された特徴は、JBLやアルテックなどの製品のもつ優位性と共通であり、物価上昇を加味すれば、それ以後に登場する挑戦モデルは、開発が新しいほど不利になる。
 もちろん、価格を維持する目的と性能を向上する目的からNS1000Mもモディファイはされている。しかし、ウーファーと同等の強力な磁気回路とボイスコイル直径65mmのベリリュウムダイアフラムを採用したスコーカーは、エージングが進むにつれてウーファーとのつながりの部分が豊かになり、低域から中域の厚みが充分にあることがわかる。これは、NS1000Mの特徴で、比較的に使いやすく、音に安定感があり、ピアノの音の魅力ある再生に代表される好ましいキャラクターが、他のシステムにない強みとなっているようだ。
 例えば、スピーカーのセッティングに少しの問題を残したとしても、このスコーカーの威力は非常に大きく、場合によっては、3ウェイ方式ながらもスコーカーだけですべてのバランスをとっているといってもよい鳴りかたをするように思う。
 一方において、プログラムソース側の質的な向上や、ドライブをするアンプ側の確実な進歩も、現時点でいえば、物量投入型のシステムの力を引出す、背景にもなっていると感じる。
 結果としては、強力なスコーカーの存在がNS1000Mの鍵を握ってはいるが、このシステムは、いわゆるユニット最優先型の国内製品とは異なった部分がある。
 それは、次の各点である。第一に、完全密閉型のエンクロージュアは、一般型とは構造が異なり、かつてのタンノイ社のレクタンギュラーヨークに代表される欧州系の手法と思われる、エンクロージュア内部に中央を抜いた隔壁をもつ特異なタイプであること。第二に、吸音材処理方法に独自の手法が見受けられること。第三に、モニター仕上げであり、サランネットがないために、試聴時にはネットを外し、実際にはネットを取付けて聴くという、特性的にも音質的にも問題を残す国内製品独特の特異性が基本的に存在しないこと、などである。また、システムを構成する各パートのバランスが、当時としては異例に高かったことが、潜在的な特徴であると思う。
 このNS1000Mを中心に比較するシステムは、昨年来より急激に物量投入型の開発をはじめたパイオニアS9500を筆頭に、特許問題で最適な材料が使いにくいポリプロピレン系の振動取を脱皮してカーボンクロスコーンを新採用したオンキョー/モニター2000、独自の優れたハニカム構造の平板型ユニットを推進するテクニクスSB-M3、ユニット構造の基本から洗いなおした小型高密度タイプのダイヤトーンDS1000の4機種を加えた5機種で、現在の国内スピーカーの実力を聴いてみようということになった。
 結論からいえば、このクラスの製品を選んでおけば、あとは使いこなし次第でかなり高度な要求にも応えられるであろうし、今後、長期間にわたり、安心して楽しむことができるとすれば、価格も高くはない。
 現在の各コンボーネントのなかで、もっとも基本性能が高度なものは、エレクトロニクス系のアンプであろう。例えば、歪率(THD)をとってみても、スピーカーシステムに比較すれば、2桁は異なるはずだ。
 しかし、その優れた特性のアンプも、特性の劣るスピーカーで聴かなければ音質は判からない。これは、かのオルソン氏の、現在でも通用する名言である。
 最近の傾向として非常に困ったことは、スピーカーというのは、買ってきて、例えば、コンクリートブロックの上に乗せて結線をすれば、それで正しく鳴るものだ、とする風潮である。
 かつては、スピーカーシステムを使いこなすことに悪戦苦闘をすることは常識でさえあり、故瀬川冬樹氏のように、異常とも思える情熱をスピーカーの使いこなしに注いだ人もいたが、最近では雑誌も興味がないらしく、表面的な、床に近く置けば低音再生に有利になり、壁に近く置いても同様とする程度の認識で、セッティングに関してのかつての常識は、もはや皆無といってさえよいようだ。いまどきオーディオに携わる人々が、スピーカーシステムの置き台の差や、わずかのセッティングのちがいで音が大幅に変化することに驚いていたりすること自体が、大変に奇妙な話である。そればかりでなく、左右のスピーカーの置き台が異なっていても平気で製品の試聴をおこなう例などはもはや論外ともいうべきである。また、メーカーがセッティングした試聴の場合でも、左右のスピーカーコードの長さが異なっている例や、場合によっては、長いコードがコイルのように巻かれたままになっていることに驚かされるのは、いつものことなのである。
 この、使いこなしの不在。つまり、シスコンのように、買ってきて配達の人にセッティングをして賓ったらそれで終り、とする風潮がオーディオを面白くないものとし、オーディオビジネスを不況に導いた最大の理由なのである。
「コンポーネントシステム」というからには、各製品を選択し、基本に忠実にセッティングをしたときが終着駅なのではなく、その時点が実は出発点であるはずである。
 スピーカーシステムを新しく購入したとしよう。このときに要求されるのは、スピーカーのセッティングではなく、まず、従来から使用してきたシステムの総占検なのである。ここでは、細部にわたり書くだけの紙数がないために、基本的な部分のみ簡単に記しておく。
■AC電源関係
①プリメインアンプなどのアンプ類は、壁のコンセントから直接給電する。セパレート型は、プリアンプ、パワーアンプを、それぞれ壁コンセントから単独に給電する。不可能な場合は、大容量のコードを使ったテーブルタップを使う。
②アナログプレーヤーも①に準ずるが、プリアンプのACアウトレット使用時は、アン・スイッチドから給電する。
③デジタル系のCDプレーヤーは、アンプ系と異なる壁コンセントから給電する。
④AC電源の極性は、対アース電位の低い方を基準とする。メーカー側で極性表示をしてある場合でも、マーク側がホットか、グランドかは、メーカーによっても異なるし、場合によれば、同一メーカーでも、アンプとアナログプレーヤーで異なる例もあり、実測が基本である。
⑤アナログプレーヤー使用時は、CDプレーヤー、FMチューナー、TV、VTRなどの電源スイッチはOFFにする。
⑥アナログプレーヤーの近くに照明用に螢光灯は使ってはいけない。
■結線関係
①RCAピンコードは、よく吟味をし、最適なものを選択するとともに、プラグの先端-分、アンプなどのジャック部分をクリーニングする。
②スピーカーコードは、左右同じ長さを使用し、スピーカーに給電する経路、位置などを左右対称にするとともに、最短距離にカットして使う。また、端末処理は芯線を切らないように注意し、ターミナルは確実に締めること。
 線材は、平行2線タイプの充分に容量のある線を基本とし、チューニングアップ時には、同軸型、スタッカード型などの構造的な違いや、OFC、LC-OFCなどを状況に応じて試用する。
■セッティング関係(スピーカー以外)
①アナログプレ-ヤーの設置場所は、充分に剛性があり、固有の共鳴や共振がない場所を選び、ハウリングマージンに注意する。カートリッジの針圧は、MC型、MM型を問わず、最適針圧を中心に0・1gステップで軽・重両側に調整する。
②アンプ関係は、積み重ねず、アナログプレーヤーに準じた状況に置くこと。
③CDプレーヤーの置き場所は軽視されがちだが、アナログプレーヤー以上に置き場所の影響を受けるため、設置場所は、充分に注意をし、誤ってもプリアンプなどの上に乗せて使用しないこと。
 概略して以上の諸点は必ずチェックをしていただきたい最少限のことである。
■スピーカーのセッティング
①左右の条件を可能なかぎり同等にする。
②置き台に乗せるときには、グラつきを抑えないと低音の再生能力は激減する。
③置き台にグラつきや、ガタがある場合には床と置き台の間に適当なスペーサーを入れスピーカーと置台の間には入れないこと。
④一般的なコンクリートブロックを使う場合を例にする。簡単にするために、横方向に一段だけ使うとすれば、左右ブロックの間隔は、スピーカーの底板がブロックに半分かかる位置が基準。前後方向の位置も、底板に対してブロックの前後が等しくなる。つまり、ブロックの中央に置く位置が基準。
 左右の間隔は、システムの低域のダンピングに関係し、広くすれば、明るく、開放的な傾向を示し、低域の量感も増す。狭くすれば、制動気味になり、タイトな低域になるが、量的には減る傾向を示す。
 順序は左右間隔の調整を先行させる。
 最適間隔を決定後、前後方向の位置決めをする。変化量は、ウーファー帯域のレスポンスが変化した印象となり、前に動かすと、低域の下側の量感が増し、ややモニター的な音となる。後に動かすと、低域の上から中低域の量感が増し、伸びやかな音になる傾向がある。左右、前後とも極端に動かし、傾向をつかんでから、少なくとも、2~3cmきざみで追い込む。
⑤ブロックとスピーカー底板の間には、フェルトなどのクッション兼ダンピング材を入れ、ブロックの固有共鳴を抑える。ブロックのカサカサした響きが中域以上に悪影響を与えるからである。
⑥ブロックと床面、それにスピーカー底板で形成する空洞の反射、共鳴を避けるため、吸音材的なものを軽く充たす。これは、中域以上の分解能、SN比を飛躍的に向上させる決め手として重要な処理だ。
■ユニットの増し締め
 概略のセッティング終了後、高域・中域・裏板部分のスピーカー端子取付ネジ・低域の順序でステップ・バイ・ステップ、結果を確認しながら適度の増し締めをす
る。概略的には1/8~1/16回転ほどの余裕を残して増締めをすること。とくに木ネジの場合は、「適度な増し締め」を絶対に厳守されたい。ネジ構造は、ゆるめて取外してみれば明瞭だ。無理な増締めは故意の破壊であり、クレームの対象とはならないことを、くれぐれも注意していただきたい。

dbx SF1

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 これまで、ニュージェネレーション・スピーカーの技術の指向するポイントが、エネルギー変換器としてのスピーカーから音場変換器としてのスピーカーへ移行しつつあるということをずっと述べてきたわけです。そのためには、様々なアプローチと音場の聴かせ方があって、単に指向性を改善するもの、あるいはユニットのレイアウトを工夫するもの、あるいはバッフル効果によって自律的な音場を作るもの、あるいは、レコードにおいて人工的に強調され過ぎた音をスピーカーの側で少しコントロールし、生のイリュージョンを雰囲気として聴かせようとするものなどがあり、かなりバリエーション豊かな新世代が、いかにもアメリカらしくいっせいに開花しつつあるわけですね。
 そういう中で、dbxのSF1というスピーカーは、それだけでは足りない、むしろ積極的に音場を創成してゆこうというアプローチに基づいたスピーカーです。
 具体的にどうなっているのかというと、スピーカーエンクロージュアの四面にウーファーとスコーカー、そして項部に6個のトゥイーターがぐるりと取りつけられていて、一見無指向性のように見えるのですがそうじゃないんですね。エネルギーのラジエーションパターンが、卵型の楕円を描き、しかも音圧の一番強い方向が、左右スピーカーの向い合う内側なんです。逆に、左右スピーカーの外側、つまり壁に向かう方向が音圧は最も低い。そして、単に音圧レベルを変えてあるだけではなく、左右スピーカーの対向方向から外側にかけて、ネットワーク内部でタイムディレイがかけられているんです。従来のスピーカーというのは、どんな形式をとるにしても、リスナー方向に音軸が定められ、f特も指向特性も、そこを規準に考えられてきたわけです。ところが、このSF1は、左右スピーカーの作り出すトータルな音場、つまりリスニングルーム内にどういうパターンでエネルギーが分布すればもっとも豊かな立体音を形成するのか、そして2本のスピーカーからできるだけ複雑な位相成分を出そうということを、人間の音響心理、音響生理学的な見方も加えて考案されて
設計されているんじゃないかな。ですから、最初から音場の変換器としてペアスピーカーを考えるという徹底したアプローチでしある点が、これまで聴いてきたどのニュージェネレーションのスピーカーと比べても、なお斬新なところなんですね。
 プログラムソースに入っているものをそのまま忠実に、という発想ではなく、むしろ積極的に音場を創成してゆこうという姿勢ですね。もともとdbxというメーカーは、その名の通り、デシベルをエクスバンドにするという、いわゆるノイズリダクションシステムで、プロの分野で70年代に一躍脚光を浴びたメーカーです。その後、エレクトロニクステクノロジーをどんどん積極的にソフトウェア化する方向に向かい、サブ・ハーモニックシンセサイザーや、帯域別にダイナミックレンジを拡大するエクスバンダーを、コンシュマー化し、近年はさらにもう一歩進んで、20/20という音場補正用のイコライザーを手がけたわけです。
 おそらく、その時点から、dbxにおいて、音場というものに対する関心が、にわかに高まったのではないかと想像します。端的に言えば、dbxにとって、「SNから音場へ」というセカンドステップを実現したのが、このSF1なんです。
 20/20の開発において、音場のエネルギー特性を補正するプロセスを経験するうちに、dbxは極めて好奇心の強い会社で、しかも天才的な発想、自由な発想を待った会社ですから、エレクトロニクスでは伝送系の一部をコントロールできるにすぎないことから、アコースティックに直接タッチせざるをえないようになったんだと思います。
 エレクトロニクス技術で、アコースティックな変換系をコントロールするとすれば、ひとつには先に言ったイコライザーであり、もうひとつは位相のコントロールがあります。つまり、部屋の中に展開する音の運動波、波状をエレクトロニクスでコントロールできるのは、位相、時間特性の変化なんですね。
 このSF1には、SFC1というプロセッサーユニットが付属し、その特徴的なフィーチェアが、その位相成分のコントロール機能に当てられ、スピーカーの独特なエネルギーラジェーションに相乗効果として働くよう設計されています。
 中域の和信号(L+R)をプロセッサー内で加え、たとえばヴォーカリストの中央定位をより明快にしたり、ソロを際立たせるという使い方や、逆に差信号である逆相成分を元の信号に加えて、左右の広がりをスピーカーの外側にまでイメージさせようという内容で、おそらくプログラムソースの内容により使いわけるということが、原則としては考えられるでしょう。
 かつて、「4チャンネル」が流行したときに、マトリックス再生という方法があったんですが、そういうプロセッサーを作ることはdbxにとっては、いたって簡単なことだったろうし、それに対するソフトウェアを彼等はものすごく実験しているはずです。おそらく、様々なリスニングルームの特性をデータ化し、分析するということを前提としてやっていると思います。
 これまでのスピーカーが、レコード再生における新しいクォリティの発見として音場をとらえているとすれば、このSF1はさらにそこから一歩進んで音場の創成に向かっているということですね。
 実際に音を聴いてみて、興味深いのは、たとえば、ステージ中央で歌っている歌手の位置が、リスニングポイントを左右に大きく動いても、空間のある一点に定位したまま動かないということです。これは考えてみれば当然で、もしリスニングポイントが右へ移動すれば、左側のスピーカーのエネルギーの強い射程に入り、かつ右チャンネルは、音圧の低くなる方向となるわけですから、単純に言ってしまうとコントロールアンプのバランスコントロールを左チャンネル側へ回したようなことになるわけです。おそらく、SF1というスピーカーシステムは、リスニングエリアを広くとりたい、あるいはどこで聴いても、音像が動かないことを狙ったんでしょうね、その効果は、明瞭に聴きとれる。しかし、そういうモノ的な定位だけではなく、位相差成分を活かした、もっと効果的なステレオエフェクトも積極的に作りだせるはずで、逆相成分をコントロールした音場の楽しみ方も可能でしょう。
 もし、これが単純な無指向性スピーカーにすぎないとすると、左右のレベル差だけで定位している音像というのは、無指向性であるが故に、リスニングポイントが移動したときに定位も移動してしまうんですね。SF1のラジェーションパターンを見れば理解されると思いますが、リスナーがどちらかへ寄った場合、寄ったほうのスピーカーのエネルギーが弱くなる設計で、しかも、ディレイが入るという、非常に凝った設計になっています。
 SFC1というコントローラーは、SF1から出るそうした音の波の状態を積極的に変化させようというものであって、20/20のような補正的な考え方ではない。やっぱり創があるんですね。
 さらに考えられることは、たとえばスピーカーの間にビデオプロジェクターなりモニターテレビを置いて、そのプログラムソースが、ボーカリストを中心にしたものであった場合、複数の人間が観賞するときにも、音像が移動しないというのは大きなメリットになります。両端で聴いている人にとっても、歌手がブラウン管の位置から聴こえてくるという、音像と映像の定位の一致という点で、ぼくはとても興味深いスピーカーであると思います。
 このスピーカーシステムの一番のポイントというのは、一言ではいい言葉がないんですが、プログラムソースというものを一つの素材として、それをより立体的な生演奏のイメージに近づけようという発想にあり、ハイフィデリティというよりも、ハイクリエイティヴィテイという姿勢に近いと思います。ですから、ナイーブリアリズムの対極にあるという見方もできると思いますよ。アメリカの経験主義的な合理精神というか、プラグマティズムを感じますね。
 過去のオーディオの歴史において、様々な考え方が流行しましたが、かつては、忠実なプログラムソースの再生にはデッドな部屋のほうがいいという考え方があって、極端に言えば、現実無視の無響室のような部屋が、ハイファイに適しているという理想論だったんですね。しかし、現在では逆にある程度、ライブネスを待った部屋の中で聴いたほうが、より自然であり、より美しい音が聴けるという方向へ変わってきいます。
 つまり、すでに、なにがなんでもプログラムソースに忠実でなければならないという発想が、現実を前にして破綻しているんですよ。その方向をぐうーんと押し進めてゆくと、スピーカー設計の最初の段階から音場創成を前提にするというコンセプトは、さして驚くべきことでもないとも言えるんです。このシステムを、エキセントリックな見方でとらえることは誤りでしょう。
 今回聴いたニュージェネレーションのスピーカーの中では、ある意味では一番進歩的な発想で作られているということが言えるかもしれない。音場型の典型的なスピーカーであると言っていいと思うんです。やはり、テクノロジーのソフトウェア化に長けたdbxならではのスピーカーシステムだと思います。

アクースタット Model 2M

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 エレクトロスタティック型の発音原理というのは、ダイナミックスビーカーと同じくらいの歴史をもつ古いもので、その構造自体がニュージェネレーションであるという判断は誤りでしょう。むしろ、70年代においてアメリカでセイデンが多スピーカーの音が好まれたということに、より大きな意味がある。エレクトロスタティックならではの良さというのは、何と言ってもトランジェントがいい、つまりマスレスな動作による自然な音の肌合い、繊細で誇張感のない音色にあり、その良さを基本的に満たしたうえで、充分な音圧を確保すべく改良が重ねられてきたのが、アクースタット社のスピーカーです。
 冒頭に、インフィニティの音の肌合いに静電型に通じるマスレスの思想があるということを述べましたけれども、そのほかにプラズマスピーカーというような、本当にマスの存在しない発音原理、つまり空気をイオン化して直接発音させるという実験的な試みも、アメリカでは盛んにやられていた。そういう音の感受性というのは、かつてのAR、JBL、アルテックの時代には存在していなかったもので、スネルのところでも言いましたけれど、完全にアメリカのニュージェネレーションを代表する感受性のひとつなんです。
 じゃあ、このアクースタットはスネルのようなナイーブリアリズムなのかというとこれはとても単純には言い切れない。ナイーブリアリストだったら、やはりライブの音場感、空間の定位に素朴に生演奏のイメージを求めるということが基本にありますね。しかし、アクースタットの場合、平面波による音場合成ですから、リスニングルーム内に立体音場を再現しようという方法ではないのです。まるでヘッドフォンのように、頭の中で合成してステレオフォニックな定位を得るという平面波特有のエフェクトがあるわけです。つまり、平面波の場合、それを二つの耳で聴くことによって、人間の両耳効果の属性によって立体感のイリュージョンを、スピーカー側にあたかも展開するように聴くことになるんですね。ナイーブリアリストは、おそらくそこに違和感を感じるかもしれない。しかし、その違和感というのは、このスピーカーにしか求められない独自のイリュージョニスティックな音場でもあるんですよ。
 平面波というのは、距離をおいても、多少は散らばるとはいえ、あくまで平面波で押してくる。したがってドーム型や、ホーン型にディフユーザーを付けたドライバーのように距離に比例して指向性がブロードに広がってゆく性格をもたないために、平面面波独特の波状効果による音場体験を聴くことになるんですね。これは、自然条件において、たとえばコンサートなどで聴く音場とは違います。ですから、ぼくはそれを違和感と言ったけれども、ある意味では現実の現象としては存在しないが故のスーパーリアリズムに通じる部分があるかもしれない。
 さらに、このスピーカーの場合、非常に広い面積から音が放射されるため、そのことも一種独自の音場感に役立っていることも事実でしょう。
 しかし、ぼくはこのスピーカーの場合、空間よりも、むしろ質感にひかれてゆくナイーブリアリズムではないかと思います。つまり、生の音に通じるデリカシー、美しさをアクースタットは求めて静電型を選んでいるのではないかという判断なんです。弦楽器の優しい表情、細やかな旋律の起伏、どこにも強制的な、人工的な鳴り方のない音の魅力というのは、やはり目方のある振動板から音が出ているというスピーカーとは根本的に異なるクォリティですよ。音の立ち上がりの軽さ、トランジェントの良さというのは、生の音の良さに通じるんですね。
 逆に言うと、一般のスピーカーがだらしないとも言えるんですね。オーディオスピーカーここにあり、という鳴り方に辟易しているわけですよ。そこは、やっぱりナイーブリアリストに共通したところなんです。
 70年代に、そういった様々な意味でナイーブリスナー、あるいは音楽ファンを迎え入れるスピーカーが数多く登場してきたことの背景には、オーディオのメカニズムにあたかも支配されたようなサウンドを、ある意味では全面否定しようという共通意識があったからでしょう。それが、質感の徹底したナチュラリズムへ向かうのか、音場のナチュラリズムへ向かうのか、いずれにしても「自然へ帰れ」的な共通意識を感じます。
 ナイーブリアリストというのは、低音域の大振幅によるダイナミックな再生というのは望んでいないということも言えそうですね。つまり、先のスネルにしてもアクースタットにしても、実際に生の音楽では低域の大振幅を感じさせる大袈裟な鳴り方じゃないという認識が、出発点にあったはずです。つまり、音楽の聴き方として、一方がダイナミズムや音量的な満足感を求める聴き方にウェイトを置くとすれば、他方、ナチュラルな音響空間を求める聴き方にウェイトを置くこともあるわけで、ニュージェネレーションの聴き方のひとつはそこに求められていると言うこともできるでしょう。
 ただ、それはどっちかに片寄っていいということではない。ぼくだったら、このスピーカーを活かすために、まあ夢のような話かもしれないけれど、背面の壁は完全な反射面にして、後方へ出たエネルギーも積極的に利用したい。その場合に、壁は平面じゃなくて、曲面に仕上げるわけですよ。それで、反射音と直接波のブレンドをうまくバランスさせると、相当にラウドネスの限界は超えられると思う。
 いずれにせよ、ユーザー、リスナーの志向がどこを向いているのかが明快に問われるほど、ある意味では今日のオーディオシーンは多様化しているんですね。かつてのように、極端な個性と個性のぶつかり合い、思い入れのようなものから脱しているということなのかもしれない。それは、個性の普遍化へ向かいつつあることの証しでもあると思います。

エレクトロボイス baron CD35i

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 エレクトロボイスのニュージェネレーションを代表するバロンCD35iは、これからのオーディオ産業そのものの国際化を考えるうえで、非常に重要な位置にあるスピーカーです。つまり、企業が国際化してゆくということと、音の個性の国際化というレベルの問題を、これほど鮮明に打ち出した製品はかつてなかった。
 まずこれはとても美しいデザインとフィニッシュワークが、大きな魅力のひとつになっているわけで、本当のヨーロッパ製スピーカーでもなかなかこれだけのセンスのあるまとめ方というのは少ない。
 音のうえからも、男性的な、どちらかと言えば骨太のしっかりとしたエレクトロボイス伝統のサウンドをちゃんと継承し、そのうえさらにニュージェネレーションのスピーカーと呼ぶにふさわしいプレゼンスの豊かさを持っています。指向性の改善というのは、このスピーカーのひとつのポイントだけれども、いわゆる音場型スピーカーと呼ばれるスピーカーにややもすると感じられるひ弱なところがまったくない。これは、70年代にアメリカで登場した新世代スピーカーとまったく異なるところで、先のJBL/L250同様に、しっかりと伝統を踏まえた音作りがされています。
 とてもおもしろいことだと思うのは、今、オーディオ製品というのはエレクトロボイスに限らず、どんどん国際的な作られ方がされるようになっていて、パーツや素材供給のレベルでは、様々な国籍のものが使用されています。アメリカ製のアンプの中をのぞいて、日本製のパーツがあったり、北欧製のパーツが入っていたりというのは日常化している。これも、ニュージェネレーションのひとつの特徴でしょうね。
 なにも、オーディオに限ったことではなく、すでにカメラやクルマ、およそすべての工業生産品は現地生産あるいは協同開発という国際的な展開が日常化しつつあるわけです。あの頑固なポルシェをして三菱のパーツが使われるという時代なんですね。
 少し話が飛躍するかもしれないけれど、世界には様々な国があって、今後は、産業分担主義で行かないことには成り立たないんじゃないかと、ぼくは考えているんです。日本は日本が一番得意とする産業で世界中を賄う、アメリカはアメリカで、という具合にね。
 たとえば、現在の飛行機の開発というのは、最終的な仕上げ、アッセンブルはアメリカがやるけれど、ある部分はフランス、ある部分は日本という形で分担することが可能になっている。このバロンというスピーカーは、エンクロージュアデザインをスイスのE−Vが担当し、サウンドのコンセプトはアメリカのE−Vが担当するという形で、商品の完成度はとても高い。
 ところが、世の中には、まったくそれとは逆の意味での国際化、というよりも国籍不明の均一化という現象もある。ヨーロッパのものがアメリカナイズされたり、最近では外国製品と言えどもジャパンナイズされてゆく傾向があるんです。文化の独自性が生きるような国際社会を目指さないと、音のアイデンティティ、個性が失われてゆくことになりますからね。デラシネ・オーディオじゃ駄目なんだ。
 今、日本だけではなく、ヨーロッパでもPAシステムにエレクトロボイスやJBLが使われるというのは極く当然なこととしてあるわけです。つまり、サウンドの輸出という意味で、明らかに文化交流的なレベルで音の国際化は進行している。で、文化交流というのは、文化ごちゃ混ぜ、均一化ということではなく、自分たちの音に対する感覚、嗜好とは異質な音をより広く、深く知ろうということにあるわけでしょう。つまり、自分とは異質なもの、他国の音を聴くことで、さらに自分たちの音の文化を高めようということになるんですね。
 オーディオというのは、科学技術ですから、その面での国際化、均一化は急速に進みます。しかし、それは、産業レベルの話であって、音の個性、それを育んだ地域性の根は、洗練されながらも国際舞台に乗ることで、より広いファンを得てゆく。音の国際化、普遍化というのは、そういう意味でなければならないんです。
 エレクトロボイスのバロンというスピーカーが、ニュージェネレーションのスピーカーの中で果している役割は、ですから非常に重いと言えます。インターナショナルサウンドというのは、音の無国籍化であってはならない。
 個性というと癖のように、個人の勝手気ままな性格のように思われるけれども、じゃベートーヴェンが、マーケットリサーチをして音楽を作ったのか、受けようと思って作曲したのかといえば、そうじゃない。あれほど強烈に自己主張を主観的に押し出した音楽が、これほど普遍性をもっているという事実が、なによりも音の普遍化を説明しているでしょう。
 たとえば、国際化、普遍化がもっと進めば、現在のように特に日本向けに作る、あるいはアメリカ向けに作るということのナンセンスさが問われてくるでしょう。オーディオはたしかに音楽を伝達する道具には違いないけれども、オーディオを楽しむということは、オーディオ機器に個性を求める、選択するということに意味があるわけで、何でもいいやということにはならない。国籍不明のオーディオや、日本向けオーディオという発想は、非常に危険なことであるということを、このスイスメイドのエレクトロボイスが警告しているといっていい。

JBL L250

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 JBLの技術的な特徴というのは、かつてはハイエフイシェンシー、ハイパワードライブという業務用から派生したヘヴィデューティな性格にあったと思うのですが、JBLというメーカーの創設意図というのは、本来、家庭用の高級フロアースピーカーを作ることにあった。例えば、ランサー101、L200、L300といったホーンドライバーを用いたシステムが代表的な存在でしょう。L250は、コンセプトとしては、JBLの家庭用フロアースピーカーのカテゴリーに入るのですが、その独特なプロポーションとユニット構成は、JBLの家庭用スピーカーの歴史の中で異彩を放っています。しかし、L200、L300とこのL250を歴史的に埋める位置にあたるL222Aというトールボーイのシステムを見てみると興味深いことに、3ウェイ構成でトゥイーターはホーン型、スコーカーは13cmコーン型なのですが、そこに波型プレートの音響レンズがつけられていた。つまり、JBLとしては、家庭用として旧来のホーン型からコーン型へ移行する経過をよく表わしていると思うんです。エンクロージュアも、側板にテーパーがついて、定在波や剛性の面でも独創的なデザインを採用し、このピラミッド状のL250へ連なるものでしょう。
 しかし、もっと遡ってみると、L250の原点というのは、実は、かつてJBLのラインナップの中で異色な位置を示めていたアクエリアス・シリーズのあたりからだと思いますね。74年頃に一時期輸入されたことがあり、それまでのJBLの考え方とは全く異なったコンセプト、つまりスピーカーを1チャンネルの中だけで考えたシグナルの忠実な変換器としてステレオ用に2本使うというのではなく、最初から家庭内でステレオフォニックな拡がりというものを意図し、ホームインテリアにも溶けこむようなデザインから無指向性のペアスピーカーとして設計されていました。ですから、ユニットに、強烈なドライバーや大口径ウーファーを使ってエネルギー変換の忠実度を上げるというよりも、音の拡散とそのコントロールにウェイトが置かれていた。結果的にアクエリアス・シリーズというのは、JBLにおいて失敗に終ってしまったんですが、ひとつには実験的な性格が強過ぎたということもあったんじゃないかと思います。
 ステレオフォニックな音場というのは、位相差、時間差、レベル差というものによる立体感、つまり奥行きと拡がりのあるソリッドな空間ということですね。で、この2チャンネルの伝送変換というのは、モノーラルが単純に二つになったということとはまったく違います。ところが、2チャンネルの関連を使って、和差信号、位相差を空間で再生するためのステレオスピーカー技術というものは、アメリカにおいては70年代にようやく始まったと言え、アクエリアス・シリーズも当時にあってはJBLの解答のひとつだったわけです。
 70年代までというのは、とにかくエネルギーの忠実な変換器ということに技術が偏っていたように思います。偏っていたというのは悪い表現なんで、徹底していた。徹底していたからこそ、4343のような4ウェイ構成でもって、全帯域を緻密にエネルギー変換できるクォリティの高いスピーカーが生まれえたわけですよ。
 それに対して、アクエリアス→L222A→L250という系譜が語る別のラインというのは、忠実なエネルギー変換器であることに加えて、ステレオ空間の変換に対する忠実度を高めようというアプローチの上に礎かれてきた、もうひとつのJBLの歴史なんです。もちろん、音場変換器としてのスピーカーというとらえ方は、ボストンにも、先のスネルにも濃厚に表われていて、これはアメリカのスピーカーのニュージェネレーションに共通した問題なんですね。JBLとしては、バイラジアルホーンの開発というのも、明らかに指向性コントロールをステレオ音場の変換というポイントから取り入れた技術で、JBLにあっては、ホーンドライバーが音場変換に適していないとは判断していないことがうかがえます。
 ですから、そういう意味でL250を眺めてみると、これは完全に左右ペアスピーカーとして考えられており、ステレオフォニックな空間再生としてのあるべき技術的なポイントがどこにあるのかということに、大きなウェイトを置いて開発されたスピーカーなんです。
 ただし、JBLのように伝統のあるメーカーの場合、基本的にユニットを大幅に変えるということはしないで、柔軟に対応してゆくということはあるわけで、ユニットの設計そのものは従来のようにハイリニアリティ、ローディストーションという物量の投じられた内容をもち、L250の場合、エネルギー変換器としての忠実度を基本的に満たした上で、さらにエネルギーレスポンスのフラット化、位相コントロールという考え方が後からアダプトされている。このあたりの慎重な対応が、伝続あるJBLらしいところなんですね。
 L250の音の上での良さというのは、指向性がブロードになり、エネルギーレスポンスがフラット化されているためか、ステレオフォニックなプレゼンスによる響きの柔らかさということがまず聴き取れると思います。とはいっても、あくまでも芯のしっかりとした、輪郭の明確なJBLサウンドを継承していますね。
 それから、これはJBLの嫌いな人に言わせると、中低域にJBLのスピーカーというのはかなり特徴があり、ややボクシーな音がする。なにか容れ物の中から音が出てくるというイメージを彷彿させる。
 逆に言えば、聴きごたえのする、迫力のようなものが得られるという解釈もできるんですが、L250を聴いても、その中低域の、悪く言えばボクシーな感触というのがやはりありますね。エンクロージュアのプロポーション、バスレフボートの位置など、ボクシーな感触をある意味では避けた配慮がみられますが、やっぱりJBLの音であるな、という感想が出てくる。
 そうした意味においては、70年代に生まれたニュージェネレーションのスピーカーメーカーとは、一味も二味も違うスピーカーであるという、やはり大人なんですね。
 JBLファンというのは、最もJBL的な音が円熟して、まるで19世紀のヨーロッパの爛熟した貴族文化のように確立した時代に求めず、たしかに、JBLのヴィンテージが、そこにあったことは事実でしょう。
 それからすれば、L250のようにコーン型、ドーム型ユニットを用いたシステムというのはどうも……ということになるかもしれないけれども、スピーカーは空間の変換器であるべきだというこの客観的な共通意識を、実際のリスニングレベルでどう感じるのかということがかかわってくることなのでしょう。
 ただ、JBLくらいの大規模なメーカーになれば、ひとつの技術的な理想を実現するために、ホーン型は絶対に使えない、これからはコーン型しかないんだというような短絡した見方はしない。
 ニュージェネレーションは、じゃホーンシステムでは実現できないのかというとそれも妙なことでしょう。ホーンによって、いつの日か、もっと指向性が良くて、球面波再生を実現した呼吸球のようなホーンスピーカーができないとは言い切れないでしょう。それから、まったく逆に、指向性を自在にコントロールできるホーンの設計が可能になれば、意図的に指向性を狭くして、サービスエリアのコントロールをすることもできる。それらは、すべてニュージェネレーションに属した発想なんですね。
 ニュージェネレーションを迎え入れるために、我々はもうひとつのファクターを、まったく違ったアングルからとらえる必要があります。スピーカーというのは、リスナーの趣向に対応して鳴り響くものであるけれども、というよりもまさにそれゆえに、人間というのは本質的に飽きる、感覚が麻痺する、何か別の違うものを要求するという本能があるわけで、人間の広い感性の中でオーディオを見る見方が必要だと思うんです。それをただ縦の線上に並べて云々する、妙なヒエラルキーの中に閉じこもってしまうというのは、オーディオをどんどん袋小路へ追い込んでゆくことになるんですね。精神的には、プアーなオーディオになってしまう。
 たしかに、オーディオはテクノロジーの世界だから、良い悪いをテクノロジカルに表現して、縦の線で順序付けることは可能かもしれない。しかし、そのこと自体はオーディオの楽しみ、快楽とは無関係な、あくまでもテクノロジーの世界での話でしょう。もっとそこに、人間や音楽が立体的に絡んでくるより大きな世界がオーディオですよ。ですから、ニュージェネレーションのスピーカー群は、その意味で、フレッシュなるがゆえの魅力、まったくそれまで追求してきた自分のオーディオの方向を逆に振ってくれるような魅力が問われていることも事実なんですね。
 極端なことを言えば、それまでと違えばいいんです、変化が与えられればいい。
 その変化というのは、善悪、良し悪しの価値判断とは、まったく別問題なんです。ところが、そこをいい加減に混乱させてしまうために、オーディオのコンセプトに様々な混乱が生じている。混乱しているために、それを逃がれるかのように極端な保守的な考え方に閉じこもったりするわけだ。
 人間が、何か違うものを欲しがる、これは本能なんです。とりわけ、音に対する感性や情緒というのは、そういう本能のもとに常にさらされている。また、それを制約する規制があっては本質的に困るんですよ。
 変わる場合には良く変わらなきゃならないということは、絶対的な知性だけれど、それが良いのか悪いのか判断する物差しは趣味判断であり、個性であるという複雑な二面性をオーディオはもっている。
 ですから、ニュージェネレーションに共通したファクターが、音場、つまり時空間の変換器としてのスピーカーという新しいスピーカー像を提示していることは、客観的に認めうるとしても、それだけでは片手落ちですよ。人間の感性、情緒という本能に基づいたニュージェネレーションという見方が、基本には必要なんですね。
 イーストコーストサウンドは、その意味では一変した。しかもいい意味で一変したんだけれども、JBLの場合、伝統がある故にその伝統に引きずられている面もあると言えるし、新世代への対応はやはり慎重であると言えるでしょう。なぜ、アクエリアス・シリーズのオムニディレクショナル(無指向性)が成功を収めなかったのか、その教訓を誰よりもJBL自身が受けとめているはずなんです。

スネルアクースティック Type A

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 ぼくはこのスピーカーは今回初めて聴くんですが、スネルという会社はさっきのボストンと同様にイーストコーストに位置し、少し北のニューベリーボートというところにあるメーカーです。初めて聴くスピーカーなんですけれども、ぼくはこのスピーカーを作ったエンジニアの気持ちがとても良くわかります。一口で言うと、オーディオ臭い音が大嫌いなんです。逆に、ライブのコンサートの音のイメージに近く鳴らそう、鳴らそうとしている。ですから、レコードに入っている音を忠実に再生しようという気はまったくないと言ってもいい。つまり、コンサートで受ける音のイメージをスピーカーから忠実に再生しようという〝コンサートフィデリティ〟に基づいたコンセプトであることが強列に音に出ています。
 ジャズを例にとれば、ピアノトリオの場合に、アコースティックベースはエネルギーが足りないから、録音の際にブースターを使うなり、レベルバランスを上げて録音するわけですが、このスピーカーでそういうレコードを再生しても、ベースはバランス上やはり足らない。前へは出てきません。
 ハイドンのシンフォニーを聴いてみても、明らかにコントラバスセクションが足りないというバランスなんですね。しかし、実際、生演奏で、コンサートホールの中でコントラバスがブンブン響くということはありえないし、ジャズの場合でも、ウッドベースはドラムスとピアノの影に隠れてほとんど聴きとれないような音量バランスが現実なんです。
 このスネルというスピーカーは、そうした実際のコンサートで聴かれるバランスこそベストパフォーマンスなのだという出発点からスピーカーを設計している。やや短絡的な見方かもしれませんが、レコードにどんな音が録音されていようが、そんなことはともかくとして、スピーカーから再生される音の雰囲気が、おれが普段体験しているような生演奏のプレゼンスに近ければいいスピーカーなんだ、そういうフィロソフィがうかがえるんですね。
 しかも、ステレオフォニックな奥行き、プレゼンスを豊かにするために、スコーカーとトゥイーターは曲面バッフルにマウントされ、ディスパージョンを広げようとしているし、トゥイーターは、センター方向に指向性が強く出ないよう、ダイアフラムの直前のセンターチャンネル側にフェルトが固定され、左右方向の広がりを自然に再現しようとしている跡がみられる。
 それから、ウーファーというのはどうもドスンドスンという不自然な量感しかもたらさない以上、オムニディレクショナルにスッと拡散させたほうが、実際の生の会場の音場に近いということから、かなり低いところへクロスオーバー周波数(275Hz)を設定し、指向性に影響が出ない低域を下向きに取りつけたユニットから間接的に部屋の中へ放射させようという構造にしてある。ですから、たしかに低音の実体感、実存感は薄れますが、逆に、ライブパフォーマンスに近い残響感が含まれ、むしろ自然な音域に近いわけで、当然、そのことを取って作られたスピーカーなんです。
 構造を見ても、音を聴いても、これを作った人間がそこにいます、見えますね、ぼくには。その人が言いたいことを全部言えると思います。
 ですから、マルチトラックレコーディングによるオンマイク録音主体のレコードよりも、ペアマイクのワンポイントに近い録音、たとえば北欧のプロプリウスレーベルのような教会の長い残響感を活かしたようなレコードにうってつけなスピーカーであるとも言えます。
 ここで、オーディオマニアを含めて、音楽ファンの聴き方について少し考えてみよ
うと思うんです。
 まず基本的にレコードの録音と再生というのを知れば知るほど、レコードと生とは根本的に違うんだということがわかってきて、ポジティヴな面でもネガティヴな面でもそのことは肯定せざるを得ない事実としてある。そういうメカニズムに魅力を感じているのが大半のオーディオマニアであるとすれば、そういった一切に魅力を感じない人を、通常は音楽ファンと呼び、その中にもレコードというのを全然聴かないコンサートファンの三種類がいます。
 全くレコードを無視する、あれは作りものだということでレコードを聴かない、音楽は生が最高であるという音楽ファンがいて、その対極に、レコードの音が好きで、様々なスピーカーの音に興味があり、生と違うことを知っていてもなおかつオーディオ独自の音の魅力を追求してゆく音楽ファンとしてのオーディオマニアがいるとすると、このスピーカーの聴かせる音の世界というのは、生の雰囲気をオーディオという人工空間の中に再現しようというやや特異な位置を占めています。
 つまり、オーディオというエレクトロニクス、メカニズムの再生系に対し、非常にナイーブ、つまり素朴なリアリズムを要求している。ですから、レコードに録音されているすべての情報を正確に引き出そうという考え方で、このスピーカーに接したら失望する。しかし、生の演委で得られるライブな雰囲気をそのまま再生装置に求めようというコンサートファンにとっては、とてもマッチングがいい。ですから、このスピーカーの評価というのは、その人のレコード音楽の受け取り方によって、決定的に変わってしまうところがありますね。
 このスピーカーを作った人というのは、絶対にクラシックファンですね。しかも、ボストンのところで申しあげたように、イーストコーストのメーカーのつくるかつての重苦しい低音に相当に嫌気がさしたはずだね。そのことがすごくよくわかると同時に、このスピーカーは、実は、現代のハイテクノロジーに支えられたオーディオ機器に対してひとつの強烈なアンチテーゼを浴びせようという意図がありますね。
 つまり、現代の録音のメカニズム、それから絶対クォリティを追求したオーディオのメカニズム、そういったことは彼にとってはまったく関心外か、あるいは逆に物すごくそのメカニズムを知り抜いて、徹底的に批判している。少なくとも、クラシック録音で言えばカラヤン的な録音は大嫌いなはずだし、ホーンスピーカーなんて論外でしょう。
 これは、アメリカだからこそ生まれえたひとつの狂気といっていい。スピーカーから再生しようとしているのは、ナイーブリアリズムで、とても単純で素直なんだけれど、その単純さと素直さの狂気なんです。
 全然、話は変わってしまいますが、アメリカには、しなびたような野菜を好んで食べる自然主義者というのがいるでしょう。自然栽培とかいって、化学肥料による野菜は絶対に口にしない、ビタミン剤は飲まない、味の素は大嫌い、とにかく自然栽培の見てくれの悪い、しわしわの野菜しか食べないという徹底した自然主義者の狂気メリカには存在するわけ。オーディオにおける狂気の自然主義が、このスピーカーなんです。
 ですから、レコードをとても自然に鳴らしてくれるという意味で、このスピーカーの良さというのは明確に理解されますけれども、現状のオーディオ界の中での共通理解に立って、自然に音楽を鳴らすという表現は誤解を生むと思います。もっと明快に「自然に帰れ」というポリシーが、ある意味では非常に過激に表明されている。
 つまり、録音と再生のメカニズム系を飛び越えて、いきなりコンサートホールへ行こうという考え方なんです。
 たとえば、このスピーカーの音量レベルの一番いいポイントというのは、中音量から下へかけてのローレベルにあります。生の音楽会へ行って、決して大音量でガーンと鳴るということはありえないわけで、そのあたりにもナイーブリアリズムの性格が色濃く出ていると思います。
 狂気に属すものとして、例えばコンデンサースピーカーもそういうナイーブリアリズムから派生してきたものだと思うんです。特に音の肌合い、色艶、質感といった面で、自然な再生を求めてゆくと、静電型という答えが出てくる。その対極に位置しているのが、JBLであり、アルテックであり、昔のARだったと思うんです。「オーディオスピーカーここにあり!」という鳴り方とは正反対な方向にあるのが、静電型やこのスネルなんですね。オーディオスピーカーが大勢を支配していることは事実だけれど、これを作った人はそのことに対する物すごい怒りを込めて作ったと思いますよ。
 やはり、アメリカのように個性が共存し合う国だからこそ出てきたスピーカーですね。ただ、こういう考え方のスピーカーというのは、世界的に見ると劣勢の立場にあるでしょう。少なくとも、録音と再生のオーディオメカニズムのエフェクトを全面否定していますから。だけど、マジョリティというのは、そういうテクニカル・エフェクトにすぐいかれる、というと悪い表現だけれども、そこでまた録音と再生側の進歩が促されるという事実を見逃したら、オーディオも録音もエンジニアリングの意味がなくなってしまうんですよ。
 ぼくは、このスピーカーの音を聴いて、昔のドイツ・グラモフォンのピアノ録音を思い出しました。当時は、低域をかならずカットしたんです。特にケンプなんか、完全に低域がない。というのは、ホールでピアノ演奏を聴いたときに、ピアノの低音というのは今日のレコードから聴けるような、うなりを上げるような低音では絶対にないわけで、あくまでもコンサートのイメージに忠実に、つまりナイーブリアリズムでもって録音しようとすると低音はある程度カットしたほうがリアリティがあるんですね。
 それに対して、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ベルリン・フィルに君臨し、ドイツ・グラモフォンに発言権を持つようになってから、録音がずいぶん変わったように思うんです。
 彼の指揮した最もいい例は、チャイコフスキーの四番のシンフォニーがあるんですが、そのレコードを聴いてぼくが推測するマイクアレンジメントは、オンマイクとオフマイクで全体のバランスをとったものがあり、そのそれぞれにサブマスターがあって、その全体がマスターに入るというミキシング・レイアウトになっている。そして、音楽の情景、場面によってオンマイクになったり、オフマイクになるわけです。
 こういったことは、先ほど申しあげたコンサートフィデリティから言ったら、明らかにおかしい。オーケストラが向こうを行ったり、こっちへ来たりするわけですからね。ところが、音楽家にとっては、こういうことはあまり大した問題じゃない。
 たとえば、フルートのソロになったときもっと遠くから聴こえるように吹けという指示があるとすると、実際に遠くへ行くことは不可能なんだから、イメージの上でそういう音色が欲しいということでしょう。そういう音色の変化というのは、ミキシングテクニックでレコードのメカニズム内でどうにでもコントロールできます。音楽家は、まったく音楽的な欲求から、そういう録音を要求してくる。
 ところが、実際にレコードになってそれを聴いてみると、オーケストラが遠くなったり近くなったりするという不自然さが目立つんですよ。ぼくは、レコードとしてそれはいいレコードじゃないと思うんです。
 しかし、レコード制作者側の意図として、生の演奏だと絶対に聴きとれないような音をもスコアに忠実に録音するということがあったとしても、それは誤った考え方と決めつけることはできないんです。つまり、作り手の論理として、録音という機能を使いこなして、音楽家の要求、表現上の要求に対応することは、あくまで正論なんです。
 そうしますと、録音の側でもコンサートフィデリティとスコアフィデリティという対極的な考え方があり──現実にはなんらかの形でそのバランスを取るわけだけれども──再生側にも、エネルギー変換器としての忠実度を求めたモニタースピーカー的な考え方と、このスネルに代表されるように、コンサートフィデリティ、音場に対する忠実度を素朴に追求しようという二派に分極すると言っても過言ではないでしょうね。
 このスピーカーは、そういう意味で、録音と再生系のテクノロジー、そしてその目的といった本質的な問題を考えさせる上で、非常に示唆的な内容を提示していると思います。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 昔のARとこのA400、音の傾向はもちろんガラリと変ったということを前号で書きましたが、同じアコースティックサスペンション方式とは言え、エンクロージュアについての基本的なコンセプトに決定的な違いがあります。まず、できるかぎりバッフル面積を広くとって、スピーカー口径に対し充分にバッフルの幅を確保し、バッフル効果を積極的に得ようという発想なんです。
 おそらく、そのことと重複することになると思うのですが、ウーファーは、小口径のせいぜい20cm程度のユニットが選ばれている。A400は、容積でいったらAR3程度だと思うけれども、あれにはバッフル幅ギリギリに32cm口径くらいのウーファーが使用されていましたね。あの場合は、いかに小さく見せて、いかにその小さい箱から重低音を出すかということがテーマだったわけで、バッフルなんていうのはどうでもよかったんです。ところが、このスピーカーを作ったペティートにとっては、小口径ウーファーとバッフル効果を上手に利用したスピーカーというコンセプトが重要だった。
 つまり、大口径ウーファーというのは、どうしてもムービングマスが大きくなりますから、機械的なリニアリティというか、小入力に対して反応が鈍い、重苦しい音の傾向があり、さらに加えて密閉形式ですから余計に抑圧された音という印象になりますね。そうした従来のイーストコーストサウンド特有の重厚な響きから、完全に脱した新世代の響きが、A400の音質上の特徴です。
 バロック、ロココ、ロマンという円熟した芸術運動の中で、非常に洗練された美をもつクラシック音楽に村し、昔のイーストコーストのスピーカーは、どうもそこにボテッとした鈍い響きが加わりすざて、少々品の悪い音だったと思います。
 つまり、スピーカーの個性が強過ぎるために、広くオーディオ機器として賄わなければならない様々な種類の音楽に対する適応という点で、問題化せざるをえないという矛盾を、従来のイーストコーストサウンドというのはかかえていた。時がたつにつれて、個性的であるがゆえの守備範囲の狭さが批判されてきたということでもあるでしょう。
 A400は、そうした抑圧されたような鈍重な音から、解き放たれた良さというのが、音の上にはっきりと聴きとれます。意匠的に見ても、ヨーロッパを意識しているところはあるし、より広い意味ではインターナショナルな方向へ脱皮したイーストコーストのスピーカーという位置付けができますね。
 さらに、スピーカーという商品が、従来にない国際的な性格を要求され、インターナショナルな舞台に上がったとき、逆にアコースティックサスペンションに固有の技術的な問題が、スピーカーテクノロジーの進歩というスケールの中でも、クローズアップされてきた。つまり、当時のアコーステックサスペンション・スピーカーはまだまだ究極的な姿とは言えないという分析が行き届いてきたんだと思います。
 たとえば、大口径ウーファーのマスの重さからくるデメリットというのは、英国のニューウェイヴ・セレッションSL6にも際立って表われている同時代的な認識ですね。質のいい低音を合理的に追求してゆこうという場合に、大口径ウーファーに対する技術的な批判が持ち上がってきたことは事実だし、それは正しいことだと思います。
 ぼく自身、XRT20で12インチウーファーが使えると思ったのは、比較的最近のことなんです。常用システムには15インチウーファーが入っているけれども、それはメリットとデメリットを承知のうえで使っている。
 しかし、全面的に大口径ウーファーが駄目であるという短絡した発想は、明らかな誤りで、音楽ソースによっては、実際に演奏されている音量感に匹敵するほどの出力レベルが要求されることもあるし、絶対的なマージンというのはそれだけで魅力のひとつでしょう。ただその場合には、磁気回路やフレーム構造などに小口径ウーファーとは比較にならない物量が投じられなければ基本性能の高さが生きないわけで、コストは飛躍的に増すわけです。しかし、音の質感、性格、色合いというのは、スピーカーの場合、コストに比例しないという特殊な性格があるんですね。
 ステレオサウンド誌で、常に大型システムをメインに据えてきたというのは、あらゆる使用条件に適応範囲が広いという絶対的なポテンシャルを考えてのことなんです。
 スピーカーというのは、食べ物にたとえて言うと、味と量という関係があり、小さなお皿にちょびっと美味を食べて満足したという人もあるし、どんぶり飯をたらふく食って満足したという人もいるでしょう。
 スピーカーというのは、あくまでもメカニズムですから、大音量再生と低歪を両立させるには、かなりコストとの比例関係が出てくると思います。しかし、スピーカーの音質や性格というのは、コストにリニアに比例するどころか、ほとんど無関係なんですね。
 ですから、聴くほうの様々な条件のなかで、いったいどれくらいの音圧が必要なのか、リスナーとスピーカーの距離、部屋の吸音率などを考えてみることも、スピーカーを判断するうえで重要なファクターになってくる。実際、このA400で音量に不満が出るというのは、相当限定された条件だと思いますね。
 小さいスピーカーは安い、だからクォリティは低いという硬直した判断が通用しないことを、A400を通してもう一度確認する必要があるでしょうね。
 A400のもうひとつ新しいテクニカルコンセプトは、小口径ウーファーのメリットを生かすということに加えて、先にも触れたようにスピーカーバッフルの効果を積極的に生かそうということがあります。
 昔から日本でも、平面バッフル、無限大バッフルがいいということはよく言われてきました。非常にすっきりとした、音離れのいい音で、しかも、部屋のアクースティックの影響が少なく済む。A400の場合、ユニットはインラインにならび、ウーファー口径に対して左右バッフル幅は3倍近くある。このスピーカーが、割合とどういう部屋にもっていっても音が変わらない良さというのは、そこにあると思います。たとえば、イギリス系で極端にバッフル幅の狭いスピーカーがありますけれど、そういうタイプのスピーカーの場合、壁面の影響を受けやすいために、かならずある程度は壁から離すセッティングをしますね。だから、スピーカーには、その部屋のアコースティックな条件に対して依存度の強弱があるように思うんです。バッフル効果をエンクロージュアの設計に取り入れるというのは、ある程度、エネルギーのラジエーションをスピーカーが自律的にコントロールできるという良さがある。
 小口径ウーファーのもつメリットと、それからバッフル効果を生かすというテクニカルコンセプトが、このA400では違和感なくバランスしていますね。
 ぼくはまだミスター・ペティートに会っていないので、どんな人であるか実際にはわかりませんけれど、想像するにこの人は、相当な合理主義者だと思いますよ。
 おそらくね、経営者がほっといても、大丈夫なエンジニアです。無駄金を使うことは絶対に嫌いなんじゃないかな。英語で発音すればベティートだけれど、仏語のプティ(小さいという意味)そのまま、つまりムッシュ・プティ(笑)。
 それでいて、とてもセンスがいい、貧乏根性じゃない、しかし絶対に無駄は嫌う。それは音にも見事に出ている。
 このシステムで、じゃあ低音に不足があるのかというと、ないわけでしょう。逆にどんな大口径ウーファーを使っても低音不足ということはあるわけで、けっきょくスピーカーというのはバランスであるという大前提にゆきつく。
 ですから、このスピーカーは何を聴いてもいい。特定のジャンルの音楽に、際立った冴えのある再生をするというスピーカーではない。それでいて、音のグレードでいったら、明らかに上級スピーカーに匹敵する。
 何を聴いてもいいというと、無性格な、つまらないスピーカーに受け取られる危険があるけれど、非常に魅力的なみずみずしい音のスピーカーですよ。音楽がすべてみずみずしくなる。そういう意味で、誰にでも推められる良さというのが、A400の特徴だと思います。
 質と量のバランスを完成させることが、今の未完成技術のなかから生まれてくるスピーカーにとって、最も大切なことだと思います。そういう見方をした場合に、とてもバランスのとれたシステムですよ。
 ボストンという町が、ヨーロッパに近い、そして歴史のある町だということに無関係だとはいえないかもしれない。ペティートという人は、フランス系アメリカ人ですから、本人も意識していないところで、血というものが表われてしまうんでしょう。アメリカというのは、人種のるつぼだとよく言われますけれども、そういう非常に複雑な社会であるだけに、血という問題がかならず絡んでくる。それこそ、プエルトリコ系のアメリカ人に、ヨーロピアンセンスを期待するのは無理ですからね。
 A400は万人にすすめられるスピーカーだと言ったけれど、ペティート氏にはおそらく狂気のようなものはないね。だから、おもしろくないと言えばおもしろくない。
 しかし、オーディオマニアと言われるくらい、オーディオにはパラノイア的な狂気が満ちあふれている。もともとオーディオというのは、狂気の盛んな世界なんです。ぼく自身も狂気があると思うから、狂気を感じさせるようなオーディオ機器にはものすごく魅力を感じる。しかし、あまり狂気に走るというのも、反省しなきゃならないことで、科学技術というのはそれ自体、狂気ではなく、きわめて普遍的なものであり、真理であり、客観的な世界でしょう。
 そういうものをベースにして成り立っているのがオーディオなんだから、狂気にばかり走るのも困る。それに狂気が日常化してしまっては、ちっとも狂気じゃないでしょう。
 そのあたりもペティートという人は、いいバランス感覚をしていると思います。生活のバランスがいい、しかもセンスがいいと思う。趣味のいい人ですよ、きっと。
 アメリカというのは、狂気に市民権を与える社会だと最初に言ったけれど、これはまったく違う世界、いわゆるエソテリックとかハイエンドとは無縁の良識派に属している。そういう意味では、乱立する個性のアメリカンオーディオシーンの真中に位置しているといってもいいんじゃないでしょうか。
 ただ、このスピーカーは、聴かせる音は狂気じゃないけれども、ぼくのようにちょっと狂気じみたマニアさえ満足させる一面をもっているところがすごい。狂気じゃないスピーカー、いわゆる無個性なスピーカーというのは、数多いけれども、聴く人間の狂気は満たしてくれない。
 出てくる音が狂気なんじゃなくて、狂気を満たしてくれるところに、A400のしたたかな性格が潜んでいると思いますね。

音色(いろ)から音場(ば)へ

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 今から三年近く前になりますが、ステレオサウンドの60号で「アメリカンサウンド」の特集を組んだとき、JBL、アルテック、エレクトロボイスといった伝統的なメーカーに混じって、ニュージェネレーションの抬頭を予告させるようなスピーカーがすでに二、三機種登場していました。
 なかでも印象に強いのは、インフィニティのIRSで、それまでほくが受けとめてきたアメリカンサウンドのどのカテゴリーにも属さない非常にユニークなアプローチとサウンドは、ぼくだけではなく一同が驚いたことを憶えています。
 インフィニティの新しさというのは、当時はもっぱらその音色、サウンドバランスに感じられたことだったんですけれど、マッキントッシュのXRT20というスピーカーも、音場再生への従来にないアプローチで登場した新世代のスピーカーとして、アメリカンサウンドの新しい展開を予想させる内容でした。
 それまでのスピーカーの設計理念というのは、基本的には、忠実なエネルギー変換器を目指すという内容だったんですね。モノーラル時代から、スピーカーというトランスデューサーが、1チャンネルの中での伝送系として理解されてきた以上、それが当然だったといえば当然なんです。ですから、そこで重要視されてきたスペックというのは、まず能率と周波数特性というエネルギーについての表示だったわけです。
 AR社に代表されたイーストコーストサウンド、それからウェストコーストサウンドという大きな対極も、忠実なるエネルギー変換器として、じゃ能率を優先させるのか、周波数特性を優先させるのかということが両者の音の差となって表われたという理解も可能でしょう。
  インフィニティやマッキントッシュがもたらしたインパクトというのは、そうしたエネルギー変換器としての忠実度を向上させたうえで、さらにステレオ再生においても最も効果的なペアスピーカーというのがどうあるべきか、という新しいフィデリティの水準を設けたことにあったと思います。つまり、ステレオディスクに録音された2チャンネルの信号に対し、スピーカーを音場の変換器として積極的にとらえようという視点です。忠実なエネルギー変換各を目指すことは、基本としてはそのまま守らなければならないことだけれども、さらにそこに音場変換という新しいテーマが加えられて登場してきたのが、あの時点ではXRT20だった。
 ただし、人間の感覚というのは、この部分は音質や音色、この部分は音場のクォリティというふうに分けて捉えているわけではありません。マッキントッシュにしてもインフィニチイにしても、まず1チャンネルのクォリティ、エネルギー特性を上げてゆくというスタートラインから、立体音場を得るためのディスパージョンアングルの設計やエンクロージュアデザインにウェイトが置かれてゆくというプロセスだったと思います。
 ですから、結果において、音色という水準で両者を比較することもできるわけです。インフィニティの場合、EMIT、EMIMと呼ばれるフィルム膜をダイアフラムにした中高域ユニットを多用していますが、非常にマスの軽い、トランジュントのいい中高域への一貫したポリシーがあって、おそらく、創設者のアーノルド・ヌデールはエレクトロ・スタティック型の音色、音の肌合いが好きなんだと思わせる音なんですね。
 60号当時、IRSの聴かせる音場的な効果より、音質、音色に議論が集中したのも、そういう鮮明な個性、従来のアメリカンサウンドのエネルギッシュな傾向に完全に対向する存在として我々の耳に飛びこんできたからだと思います。おそらく、音色の上でも、インフィニティは、現在のニュージェネレーションを生んだパイオニア的な存在じゃないかと思いますよ。
 他方、マッキントッシュは、ソフトドーム24本を使ってトゥイーターアレイを作り出し、両者は発想において割合に似ているところを持ちながら、出てくる音の質感や肌合いはまったく違うといった興味深い対照を成していた。いい意味でも悪い意味でもマッキントッシュの場合、伝統的な風格とか、イーストコーストに位置した地域性は音に表われています。
 しかし、ニュージェネレーションのスピーカー技術が、エネルギーの変換系から、時間空間の伝送を考慮した音場の変換系へと、考え方を変えつつあることはまぎれもない事実で、これはなにも、アメリカに限ったことではありません。英国、日本を含めて、音場の情報に対する忠実度を高めようという動きはすべてについてあると思うんです。
 ただアメリカの場合、インフィニティの例でもわかるように、従来のスピーカー概念の枠にこだわらない、非常にオリジナリティを重視したポリシーが乱立しているところが興味深いですね。はっきり言って、IRSというシステムは、日本的な尺度で計ると、その価格から規模から、ある種の狂気でしょう。
 アメリカという社会は、社会の規律がものすごく厳しいわけです。あれだけの雑多な民族が寄り集っている社会ですから、よほど厳しくない限り成り立たない。しかし、社会規制の厳しさというのが、人間離れしたところで厳しいんじゃなく、ひとりの個人を認めた上での厳しさなんです。で、そこからドロップアウトした人間には面倒を見ないわけで、ドロップアウトした人間を収納する別の規律がまたマルチプルに用意されているという格好ですね。
 ですから、アメリカのメインストリームの社会においては、狂気が市民権を得ているという事情をのみこんでおく必要があるでしょう。ビジネスマンであろうと銀行家であろうと狂気は必要なんです、人間なんですから。アメリカという国は、非常にフレキシブルな考え方の中で、その狂気に市民権を持たせることで、多民族性に対応しているという特徴があると思います。黒人社会には黒人社会の狂気がある。つまり、社会というのがひとつの一枚岩のようにあるんじゃなくて、あっちこっちにポテンシャル、起伏が生じている社会なんです。
 一方、日本というのは狂気が市民権を絶対に得ない構造になっている。狂気というというのは、表面的には狂気を出さないよう出さないように常に抑制している。結果的に、ポテンシャルのない、すべて平準化してしまおうというバイアスが働く社会になっているんです。
 オーディオ製品が、そういう固有の社会背景
から逃れたところで生産されるわけがありません。というよりも、むしろ、オーディオ製品というのは、単なる実用的な電気製品でもなければ、絵画のような芸術作品でもない。しかし、その両者のある部分を同時に負っているという非常に特殊な位置を占めているがゆえに、それを生んだ社会の、あるいは個人の狂気と理性のバランスポイントがそのまま表現されてしまうという性格があると思うんです。つまり、そのバランスポイントが、どこに求められているのか、極端な場合、狂気だけなのか、理屈だけの味も素っ気もないものなのかということが、かなりクリティカルに読み取れる。
 ただ、どっちの社会にもユートピアはないんで、どっちも一長一短がある。オーディオだって同じだと思うんです。理想的な、ユートピッシュなオーディオがないからこそおもしろいわけですよ。
 日本だと、あるゼロデシがあって、そこに横に一列に並べて、さぁどれがいいみたいな価値感が割合に支配的ですね。ところが、アメリカの場合、個々がまったく別の価値感、座標で世界を見ているという新大陸特有の精神風土があるでしょう。アメリカという国は封建的な秩序、中世のようなヒエラルキーに支配された歴史を持たなかったために、常に個人対社会の関係が緊張関係にあって、アメリカ人というのは、人がいいものを作ったら、無理矢理でも別なものをつくろうとする。日本は逆なんです、無理矢理でもマネする。
 アメリカの乱立する個性というのは、いかにもあっけらかんとしていて陽気でしょう。俺と同じように考え、俺と同じような感性をもった人間が、俺の作ったスピーカーを使ってくれればそれでいい。もし、彼と違う感性や考え方を持っているとしたら、それは間違っていると言って説得し始めますからね。
 今回聴く6機種、外観を見ただけで、もうその強烈な個性のぶつかり合いが想像できますよ。

M&K SV-200

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 小型サテライトスピーカーと3D方式フォルクスウーファーというユニ-クな構成のシステムを開発し、いままさに開けんとするAV時代のスピーカーシステムとして一躍脚光を浴びている米M&K社から、特徴のあるタワー型のエンクロージュアにサテライトスピーカーと400WのMFB方式パワーアンプを内蔵したSV200が新製品として発売されることになった。
 基本構想は、2ウェイ方式フルレンジシステムとパワーアンプ附属のサブウーファーを一個のエンクロージュアに収納したコンプリートなシステムであり、従来の3D方式サブウーファーをベースとしたシステムよりも、スピーカーシステムとしては大型化はしたものの、完成度は一段と高まったと思われる。
 各種の多角的な使用を可能とするために、16cm口径ポリプロピレン振動板採用の低域と25mm口径ソフトドーム高域ユニットで構成するサテライトスピーカーと、パワーアンプ内蔵の30cm口径サブウーファーは、それぞれ密閉型エンクロージュア基板部分に独立した入力端子を備え、サテライト用入力端子には2個の高域と低域用のキャラクターコントロールと名付けられたいわゆるレベル調整があり、サブウーファー入力端子には、アンプSP端子からの信号を受けるプッシュ型の入力端子と、サテライトに信号を送り出す出力端子と、RCAピンプラグ採用のコントロールアンプなどからの信号を受ける入出力端子、パワーアンプのレベル調整と、サテライトとサブウーファーのクロスオーバーを50~125Hz間に任意に選べるフィルターが備わるが、試聴モデルではフィルターは固定されていた様子で、調整はできなかったた。
 M&Kで推奨する基本セッティングは、スピーカー左右の間隔を基準線とし、その基準線と直角に左右間隔に等しい距離がリスニングポイントとされている。簡単に考えれば、正三角形の頂点の少し後ろと考えて問題はあるまい。
 使用方法は、プリメインアンプやパワーアンプのSP端子からサブウーファー端子に接続し、これからサテライトに結線をするのがシンプルな使用例であり、次にコントロールアンプ出力Aから別売のフォルクスフィルターを通しサテライトを駆動し、出力Bでサブウーファーを駆動する方法、さらに、別売の100Hz・18dB/octパッシヴフィルターと高音、低音レベル調整付LP1スペシャルを使うグレードアップ型と、基本的に3種類の使用方法がある。
 試聴は3種の方法を試みたが、高音・低音、サブウーファーと3種の連続可変調整をもつため変化範囲は無限に存在し、順を追って調整をすれば、基本例でもM&K独特の豊かな低域ベースの見事なサウンドが得られる。つまり結果は使用者の腕次第。

サンスイ XL-900C

井上卓也

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ブックシェルフ型スピーカーを価格帯別に眺めると、6〜10万円の範囲に製品数が少なく、いわば空白の価格帯が存在していることが、他のアンプやカセットデッキと異なる奇妙な特徴ということができる。
 この価格帯に、今回サンスイから、意欲的な新製品が発売されることになった。
 ユニット構成は、従来のSP−V100で採用された、ポリプロピレン系合成樹脂にマイカを混ぜた、バイクリスタル型に替わり、発泡高分子材の表面をカーボンファイパークロス、裏面をグラスファイパークロスでサンドイッチ構造としたTCFFと名付けた新素材を採用した32cmウーファー、アルミベースにセラミックを溶射したHSセラミック材採用の5cmドーム型ミッドレンジと振動板ボイスコイル一体構造型25mm口径の熱処理スーパーチタン採用ドーム型トゥイーターの3ウェイ構成。
 エンクロージュアは、この価格帯では初の回折効果を避けたラウンドバッフルを採用したバスレフ型であることに注目したい。また、実用的というよりは、現状ではアクセサリー的な意味しかもたない中域と高域のレベルコントロールを省略し、信号系に音質劣化の原因となるスイッチが存在しない点は高く評価すべき特徴である。
 試聴室でのセッティングは、平均的なコンクリートブロックやビクターのLS1のようなガッチリとした木製スタンドでも比較的に容易に鳴らすことができるが、適度に力強く音の輪郭をクッキリと聴かせる傾向がある本機では、木製スタンドの響きの美しさを積極的に活かして使いたい。
 LS1をシステムの底板をX字状に支える方法でセッティングを決める。聴感上での帯域バランスは、広帯域指向型ではなく、ローエンドとハイエンドを少し抑えて受持帯域内のエネルギー感を重視したタイプだ。
 音色は明るく、全体に線は少し太いが、彫りの深い表現力が特徴。芯が強く力強い低域は、独特の表情があり、エレキ楽器のドスッと決まる感じをリアルに聴かせる。中域は輝かしく、低域とのつながりは少し薄いタイプだが、高域とのクロスは充分につながり、この部分の鮮やかさと、独特の低域がXL900Cの音を前に押し出す。モニターライクなサウンドの特徴を形成しているようだ。
 音場感と音像定位では、優位にあるラウンドバッフルの効果は、シャープな音像定位に活きているようである。
 明快でアクティブに音楽を聴かせるキャラクターはたいへんに楽しいものだが、アナログ系のディスク再生では、スクラッチノイズに敏感であるため、高域の滑らかなカートリッジの選択が条件であり、それも細かく針圧を調整して追込むと、本機の特徴が積極的に活かされるだろう。個性派のたいへんに興味深い新製品の誕生である。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 70号(1984年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ボストン・アコースティック。その名の示す通り、このブランドは、アメリカ東部のマサチューセッツ州生まれである。
 オーディオの好きな読者なら先刻御承知のことと思うが、このマサチューセッツ州ボストン郊外は、ちょっとしたオーディオタウンであって、あのARの誕生以来、アメリカ製スピーカーの系譜の一つを代表する地域である。その中で、このボストン・アコースティック社は比較的新しいメーカーではあるが、その血統は、まさに、イーストコーストサウンドの純血を継ぐものであり、AR、KLH、アドヴェントと同系のメーカーである。有名なヴィルチュア博士のアクースティックサスペンション理論にもとづく、密閉型の小型エンクロージュアで最低音まで再生する方式が、イーストコーストスピーカーの原点といってもよいと思うが、この基本的な発想と設計のコンセプトを受け継いで、KLH、アドヴェントといった分派が生まれたのである。
 ボストン・アコースティック社の社長であるフランク・リード氏は、まさに、AR、KLH、アドヴェントという三つのメーカーの要職を歴任してきた人物であり、技術部長のペティート氏(フランス語のプティ……本当に背が小さい人…)は、ヴィルチュア博士の理論に基づく設計の実際をAR社において担当してきた人物なのである。ボストン・アコースティック社がイーストコーストのスピーカーメーカーの正統な流れをくむ存在であるといえる所以である。
 このB・A社の現在のラインアンプの中でのトップモデルが、ここに御紹介するA400であって、この下にA150、A100、A70、A60、A40という各モデルがシリーズ化されている。トップモデルとはいえ、日本での価格が15万円台という買い易いものであるのが目を惹くが、果して、その内容と、実力はどんなものであろうか……期待と不安が入り交った心境で、このニューモデルに接したのであった。
 結論から先に言いたくなる気のはやりを押え切れないので、いってしまおう。素晴らしいスピーカーシステムであった! 自宅と、SS誌の試聴室との二ヵ所で試聴したのだが、両所での音の印象はほとんど変らなかった。実は、この二ヵ所のルームアクースティックはかなり違い、いつも耳のイクォライゼーションに苦労をさせられるのだが、このスピーカーに限って、不思議なほど、同じような印象の音が聴けたのである。これは、このA400というシステムが、ルームアクースティックの影響を受けにくいことを示すものではないかと思って、英文の資料を読んだら、まず、その件が明記されていた。〝A400の独特の設計技術は、部屋の個有の癖による影響を出来る限り受けにくいものにした〟と書かれている。また、先を読み進むうちに、こんなフレーズも出てきた。〝A400は、軸上で直接音を測っても、間接音を含め、部屋でのトータルレスポンスを測っても、ほとんど同じ周波数特性を示す。技術者が今までに考えてもできなかった数少ないスピーカーシステムである。〟もちろん、メーカーの資料というものは、いいことずくめしか書いてないのは当然であるが、この件に関しては、計らずも、体験が先行したことだから信用してもよいとも思える。
 3ウェイ4ユニット構成のフロアー型で、ウーファーは20cm口径が2基、スコーカーは15cmコーン型が1基、そして2・5cmのドーム型トゥイーターが1基という内容だが、そのエンクロージュアのプロポーションがユニ−クで美しく、しかも、このシステムの優れた特性の秘密の一端を担っているものだ。幅53cm・高さ1mという大きいバッフルだが、わずか奥行は18cm少々といった薄さである。この寸法はエンクロージュア内のエアーボリュウムの厳密な計算の結果出たもので、トゥイーターのマグネット、スコーカーのキャビティ、ネットワークなどの体積を除いて、2つの20cmウーファーの低域特性の調整の最適値に設定されている。もちろん、完全密閉型だ。実に美しく、スマートな外観でもある。
 イーストコースト・サウンドといえば、重い低音の魅力が誰の耳にも記憶されているであろうが、新しいイーストコーストサウンドは鮮やかな変身をとげた。低音の質感は密閉型のエンクロージュアとは思えないもので、重苦しさがない。中高域は自然で、全帯域にわたって、きれいに位相感がそろっていてプレゼンスが豊かだ。こする音も滑らかだし、叩く音も実感があって潑剌としている。パワーにもタフだ。美しい姿といい、音の品位の高さといい、価格を超えた価値をもつ立派な製品である。

ダイヤトーン DS-1000

井上卓也

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 ダイヤトーンの新世代のスピーカーシステムは、大型フロアーシステム、モニター1で採用された、アルミハニカムコアにスキン材を両面からサンドイッチ構造にしたハニカム・コンストラクション・コーンの低域ユニットに、新開発のDUD(ダイヤトーン・ユニファイド・ダイアフラム)構造のダイアフラムとボイスコイルボビンを一体成形したドーム型ユニットを組み合わせ4ウェイ構成としたDS505がその第一弾だ。そして翌年のDS503、これに続くフロアー型DS5000と一年一作のペースで、そのラインナップを充実させ、デジタルプログラムソースに対応するハイスピードのサウンドを追求し続けてきた。
 今回、発売されたDS1000は、型番そのものはDS5000系を受継いではいるが、その内容は従来のシリーズとは、異なった構想に基いて開発されたオリジナリティにあふれた新製品である。
 開発の基本構想は数年にわたりモディファイを繰り返し、発展改良が加えられ完成期を迎えた、ハニカム・コンストラクション・コーンやDUDの娠動系をベースとしている。それをもとに、ユニットの原点ともいえるフレームに代表される機械的な構造面を見直し、従来よりも一段と優れた振動系の特徴を積極的に引き出し、性能が高く、音質が優れたユニットをつくり、これを従来のエンクロージュアの大小で製品の位置付けを決める手法ではなく、ダイヤトーンスピーカーシステムの出発点の主張である、小型高密度設計アコースティックサスペンション方式の小型エンクロージュアに収納しようというものである。
 エンクロージュアは放送モニター2S305で実績のある、回折効果を抑えて中音域を改善し、ディフィニッションが優れ、音質定位が明確な特徴をもつラウンドバッフルを、コンシュマー用システムとして最初に採用している。バッフルボード上には、従来モデルのようにレベルコントロール、サブパネルなどがない。これらは固有共振をもちバッフル面の振動やウーファーの背圧により駆動され、中域から高域にわたり一種のパッシブラジエーターとなる。その不要輻射を生じ音を汚していた部分を全廃し、ダイレクトプリント方式でデザイン処理を施しているのである。
 この部分の不要輻射による音質の劣化は、かねてより指摘していたことだが、やっとDS1000において初採用されたことは大変に好ましいことだ。ちなみに、どのスピーカーシステムに限らず、アッテネーターツマミ、パネルなどをガムテープなどでマスキングして聴いてみていただきたいものだ。想像を絶するほどの音質改良の効果は、誰にでも容易に聴き分けられるだろう。
 現状のシステムで、重要なバッフル板に余分な穴を開けデザイン上でのアクセントとすることは百害あって一利なしの典型だ。優れたユニットの性能、音質を劣化させる重要なファクターと知るべきである。
 ユニット構成は、27cmカーブドハニカムコーン採用ウーファー、5cmと2・3cmDUDチタンドーム型の中、高域ユニットの3ウェイ方式だが、各フレーム部分は完全な剛体構造の新設計である。低域用フレームは、振動板の反作用を受ける磁気回路の反動をフレーム自体で受けるDMM方式が特徴。ちなみに一般的フェライト磁石の磁気回路は、国内製品では構成部品は接着材で固めてあり強度的に不足しているが、海外製品は基本的に前後プレートをネジで強固に結んで固定しているのが原則である。JBLはもとより、古いボサークでさえネジ締めを行なっている。つまり反動を受ける磁気回路が宙ぶらりでは仕方ないわけだ。
 中高域ユニットも、従来型のように磁気回路をフレームで受ける方式ではなく、前プレートに振動系を直接マウントし、この部分でバッフルに取付けるダイレクトマウント方式が単純明解な処理である。
 詳細は省くが、とにかくスピード感、反応の鋭さ、早さは、このシステムの異次元の魅力である。設置方法、使用機器にわずかでも不備があれば、それを音として露呈するシビアさは物凄い。まず、これを正しく使いこなすことができれば、その腕は第一級であろう。恐ろしい製品の登場だ。

アクースタットとのスリリングな一年

黒田恭一

ステレオサウンド 69号(1983年12月発行)
「同社比による徹底研究 アクースタット篇」より

 去年、つまり一九八二年の手帳を、調べてみた。なにがしりたかったのかというと、はじめてアクースタットのスピーカーをきいたのがいつであったかである。
 むろん、そのときの鮮烈な記憶が薄れているというわけではない。アクースタットではじめてきいたレコードがなんであったか、誰ときいたのか、その日の天気はどんなであったかといったようなことは、よくおぼえている。しりたかったのは正確な日付けである。なぜしりたかったかというと、あれからずっとアクースタットにかかわりつづけてきてしまったので、ぼくとしてはいったいどの程度の時間をアクースタットの周辺でうろうろしたのかをはっきりさせる必要があったからである。
 アクースタットのスピーカーをはじめてきいたのは、去年の四月二十九日である。場所はステレオサウンド社の試聴室であった。一緒にきいていたのは作曲家の、もはやすでに卵とはいいかねる、しかしまだ一人前の作曲家というには多少無理がなくもない草野次郎であった。草野君はぼくの教えているさる大学の、といってもぼくは集中講義をするだけの非常勤講師でしかないが、そういうぼくの受け持っているゼミの生徒である。先生よりすぐれている生徒というのはままいるものであるが、草野君は少し前までそのような正とのひとりであった。
 しかも、その草野君もまた、なかなかのオーディオ通でもあった。そこで、編集部の要望もあって、ステレオサウンド社が「ステレオサウンド」の別冊として企画した「サウンドコニサー」のための試聴者として参加してもらうことになった。そのときに登場したのがアクースタットであった。
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 男女の関係で一目惚れということがあるそうであるが、オーディオ機器とききてとの関係でも似たようなことがある。ただ、男女の関係での一目惚れは情熱的なおこないに思えるが、オーディオ機器での一目惚れは情熱の証明にはなりがたいようである。
 自分の過去をふりかえってみると(むろんふりかえってみるのは男女の関係についてではなく、オーディオ機器との関係についてである)、一目惚れの連続であった。そのためにこれまでにも、オーディオ通を持って自認する友人たちに、お前のオーディオの好みは支離滅裂でわけがわからんと、しばしば批判されてきた。たとえわけがわからんといわれたって、ぼくに説明のつくはずもなかった。かつて、スピーカーをAR3からJBL4320にとりかえたときも、そういわれたことがある。
 一九八二年四月二十九日も、その一目惚れをやってしまった。これは凄い、アクースタットのモデル3の音をほんの一分もきかないうちに、まずそう思った。
 そこで血迷ってさっそく買いこんでしまったわけであるが、その辺の経過について、あるいはそのときにアクースタットのモデル3というスピーカーのどのような音に決定的にとらわれたのかといったようなことは、かつて一度書いたことがあるので(ステレオサウンドNo.63)、恥のうわぬりをしてもはじまらないであろうから、ここではくりかえさない。ここで書くべきは、その後のこと、つまりぼくにおけるアクースタット騒動の後日談である。あれから後、さらにいろいろなことがあり、さらについ最近また大騒動があった。
 オーディオ機器は、むろん買うのも大変であるけれど、買ってから後がこれまた大変である。とどけられた、電気を通した、はい、音がでました、それですめばいいが、そうは問屋がおろさないことは、同志諸兄におかれては充分にご存じの通りである。しかし、そのために、オーディオは趣味たりうる。とどけられた、電気を通した、はい、これで洗濯できますという洗濯機とオーディオ機器とはやはり違う世界のものであろう。電気洗濯機的なオーディオ機器が一方にあることは歓迎すべきであるが、電気をお通してからできるオーディオがやはりもう一方にあってほしい。
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 アクースタットのモデル3はなかなか微妙なところのあるスピーカーである。スピーカーのきかせてくれる音との対話をくりかえしつつ、そのスピーカーをひたひたと追い込む使い手側の執拗さがないかぎり、このスピーカーの最良の面はなかなかひきだしにくいように思う。
 このようにいうと、アクースタットのモデル3があたかもじゃじゃ馬のごとくに考えられてしまうのかもしれないが、このスピーカーは俗にいわれるじゃじゃ馬ではない。むしろ逆である。アクースタットのモデル3を敢えてなにかにたとえるとすれば、これは、じゃじゃ馬どころか、慎ましすぎる淑女である。
 どこが淑女か。ついに下品な音をださないところである。彼女の口調が大袈裟になることは決してなく、どちらかといえば内輪になりすぎるきらいさえある。そのような属性はやはり、じゃじゃ馬のものではありえず、淑女のものというべきであろう。使いはじめの段階でいくぶんもじもじするようなところがあるところもまた、淑女的といえなくもない。
 淑女は淑女で素晴らしいとは思うが、スピーカーにあっては淑女的性格そのものがかならずしも美徳にはなりえない、ということを忘れるわけにはいかない。ききてがきく音楽は実にさまざまだからである。およそ淑女的などとお世辞にもいうことができない、けたたましくてワイルドな音楽だってききてはきくことがある。
 多くのスピーカーではあたかもじゃじゃ馬を調教するといったかたちで使い込んでいくようであるが、このアクースタットのモデル3の場合には方向としてむしろ逆である。内気な淑女の隠れた可能性を、スピーカーのきかせてくれる音に耳をすませつつ、徐々にほりおこしていくのである。そのうちに、気持も次第にほぐれてきて、はじめはくちかずの少なかった淑女もうちとけた表情になり、自分から積極的にはなすようになる。そこまでもっていくのがなかなか大変である。その努力を怠る人にはこの淑女は手においかねるかもしれない。
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 たとえばききてに対してのスピーカーの表面の角度をどうするか、これもなかなか重要問題である。角度をほんのちょっと変えただけで、きこえ方はがらりと変わった。このことはいずれのスピーカーについても大なり小なりいえることであるが、アクースタットのスピーカーでの変化量は、敢えていうが絶大である。調整などというもっともらしいいい方は好むところではないが、メジャーを片手にほんの少しずつスピーカーを動かすようなおこないは、やはり調整というよりほかに適当な言葉はないであろう。
 角度といえば、平面上の角度のみならず、床に対しての角度もまた、きこえ方にわずかとはいいがたい影響をおよぼした。したがってこの点でも微妙な調整が必要になった。このような調整にはこれといった基準があるわけではなかった。スピーカーのきかせてくる音と自分の耳との対話を繰り返しつつ、そこにある種の仮説をたて、手探りで淑女の可能性を探っていくだけであった。このときのたよりは自分の耳だけである。こうかな? それともこうかな? と自問しながら作業を進めるよりなかった。
 そのほかにもまだ、スピーカーの背後の壁面までの距離をどの程度にするとか、スピーカーの横の壁面まで距離をどの程度にするとか、あるいは二つのスピーカーをどの程度離して置くかとか、あれこれこだわることにかけてはことかかなかった。そのようにこだわることがたのしみでもあったのであるが。
 そうはいっても四六時中スピーカーの調整にのみかかわりっきりになっているわけにもいかなかったので、仕事が一段落したときとか、あるいは気分転換をするときとか、そういうときにこまめに手をかけつづけて、淑女の隠れた可能性を一応自分なりにひきだしたつもりでいた。しかし、まだ、先があった。したたかな淑女はさらに未知なる魅力を隠していたのである。
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 その未知なる魅力をひきだしたのはラスクであった。ラスクをしいて、その上にアクースタットのモデル3を試しにのせてみた。さして期待はしていなかった。JBL等のボックス型のスピーカーで効果的なのは、すでに自分の耳で確かめていた。ボックス型のスピーカーにラスクが有効なのは、このかならずしも上等とはいいかねる頭脳でも一応理解できた。
 ボックス型のスピーカーと較べて、エレクトロスタティック型のスピーカーであるアクースタットのモデル3は、床に接している面積が少ない。ということは、ラスクに接する面積も少ない、ということである。それでもなお効果があるのであろうかとここでのラスクの働きをいくぶん訝る気持がなくもなかった。
 しかし、ラスクをしいたことで、音がひきしまった。それまでだってそんなに音がふくれていくわけではないが、目にみえて(?)くっきりした。そのときまでにぼくの部屋にアクースタットのモデル3が運びこまれてからすでに一年以上の時間が経過していた。ラスクをしいた段階で、一応の目的地にたっしたような気持になっていた。
 誤解のないように書きそえておきたいと思うが、そこにいたるまでの作業を、自分としては苦労などと思えなかった。楽天的な性格の持主である男は常にいそいそとことをおこなった。スピーカーの角度をあれこれなおしたりしているときはたのしかった。それにもともとが気に入ったスピーカーの隠れた魅力をさぐっていたわけであるから、好きになった人にあうたびにその人のいいところに気づくようなもので、アクースタットのモデル3にかかわりつづけた日々はまことにハッピーであった。出来の悪いじゃじゃ馬を調教するときの苦労などそこであじわうはずもなかった。
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 かくしてぼくは、アクースタットのモデル3との蜜月をぼくなりにたのしんでいた。そこに、またしても(!)メフィストフェレスのごとき声で、「ステレオサウンド」編集部のM君がぼくに囁いた。アクースタットのほかのスピーカーもきいてみませんか?
 いつだってぼくの泰平の夢を破るのはM君である。今回もそうであった。しかも今回はぼくのおかれている状況がいつもと違っていた。そのときすでに新しい音楽雑誌「音楽通信」の準備に入っていたので、ぼくの気持としてはスピーカーどころではなかった。しかし、悲しむべきことに、誘惑に弱い男はメフィストフェレスを撃退できない。そこをM君に狙われる。まあ、モデル3の姉妹たちがどんなであるか、こういうチャンスにみておくのも悪くないな、と思った。
 そしてある日、2M、3M、それに2+2といったアクースタットの三種類のスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。たまたまそれらのスピーカーが運びこまれたときには仕事の都合で家にいられなかった。家に帰ってみてびっくりした。それまでのスピーカーも含めて都合八本のスピーカーがずらりと並んで立っているさまをみて、これはまさに摩天楼の林立するニューヨークの夜景を飛行機から眺めているようなものではないかと呟かないではいられなかった。
 それまでのスピーカーも人並みはずれてのっぽであったが、それさえも2+2の尋常ならざるのっぽさにくらべれば、可愛いものであった。摩天楼の林立した部屋の中はいつになく狭苦しく感じられた。
 出来るだけ試聴中のスピーカーに影響を与えないようにと、それ意外のスピーカーを隅の方におしやってききはしたものの、おそらくなんらかの影響からまぬがれることはできなかったであろうと思う。ともかく、モデル3の姉妹を、とっかえひっかえきいて、内心ほっとした。
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 なぜかというと、モデル3がアクースタット姉妹のなかでも優れているということがわかったからである。そうはいっても、この比較には、いくぶんフェアでないところがなくもない。なぜなら、モデル3は、ぼくの部屋ですでにわずかとはいいかねる時間をすごしていたわけであるから、設置場所等のことで或る程度のところまではもっていってあったが、ほかの三機種についてはその点でハンディキャップがあった。考えてみれば、やはり我がモデル3がいいなと思ったのも、至極当然であった。
 むろん、新参の三機種それぞれの間に、多少の優劣の差は認められた。ただ、どれがよくて、どれがよくなかったというようなことをいう前に、ひとことつけくわえておくべきことがありそうである。
 アクースタットのスピーカーでは、そのスピーカーのフロントパネルの表面面積がそれをきく部屋の容積と微妙に関係するようである。つまり、その関係がアンバランスになっては、望ましい結果がえられないということである。Aという大きい部屋で好ましくなったものでも、Bという小さい部屋ではその本領を発揮しえないということがアクースタットのスピーカーにはある。このことはほかのメーカーのスピーカーについても大なり小なりいえることではあるが、アクースタットのスピーカーではその点がかなり厳しいところがある。
 したがって、以下のことは、その辺のことをふまえた上でよろしくご判読いただきたいと思う。たまたまぼくの部屋の容積では好ましい成果をあげたものの、別の部屋に持っていけば、これがあのスピーカーか? といったことにもなりかねない。アクースタットのスピーカーではこれがベストといかれば、それにこしたことはないのであるが、このスピーカーについてはケース・バイ・ケースで語るより手がない。そこがアクースタットのスピーカーのおもしろいところでもあり、同時に難しいところでもある。
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 ぼくの部屋できいた感想をもとにいうとすれば、これではやはりこじんまりしすぎると思ったのが2Mであった。たの2Mのきかせた音は、いかにも部屋の容積に対してスピーカーの表面面積が不足しているといった感じのものであった。おそらくそのようになるであろうということは、あらかじめ予想がついた。
 このような場合のききての心理というのはおかしなもので、このスピーカーはこの程度であるかと思えたときには、やはり安心するのであろう。きき方が冷静である。ふむふむ、きみもユニットがふたつなのに、よくがんばるね、といったところである。金持喧嘩せず、とはうまいことをいったものである。これなら我が淑女の方がいいと思えているから、こっちにはまだ余裕が或る。いかにもいじましい心理ではあるが、ともかく余裕が冷静さを保たせているとみてよさそうである。
 冷静でいられるということは、熱中できないということで、一通りの試聴をすませてしまえば、さらに繰り返してきこうとしないのが人情である。この2Mのきこえ方にしても、ぼくの部屋ではいくぶんものたりなかったということでしかなく、部屋の条件が違ってくれば、おのずと2Mに対しての感想も変わってくるはずであった。
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 期待に胸躍らせてきてたのは、のっぽの2+2であった。なにぶんにもユニットが二段になっているのであるから、すくなくともみた目でほかのアクースタット姉妹とは大変に違っていた。ききての耳の位置にはおよそ関係がなさそうにおもえるところまでユニットがついていることが、聴感上どのように影響するのかが理解できなかった。しかし、ここで肝腎なのは、頭で理解することではなく、耳で納得することであった。それにはまずきいてみるより手がなかった。
 たしかに響きのスケールは大きかった。ただ、ほんのちょっとではあるが、ひっかかるところがあった。音としてのまとまりがよくなかった。音像もいくぶんふくれぎみであった。スピーカーの角度とかあれこれ、一通りのことはやってはみたものの、なるほどと納得できるところまではいかなかった。それまでのモデル3のきかせる音に較べて大味に感じられた。ここでまた、ほっと、安堵の溜息をついた。
 別にスピーカーの勝ち抜き戦をしていたわけではないが、ききての気持としては、無意識のうちに我がモデル3対2M、あるいはモデル3対2+2といったようなきき方をしていた。そして、ともかく2+2との大戦までは、まずまずの成果をおさめてきた。安堵の溜息はそのためのものであった。
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 残るは3Mであった。これは我がモデル3とユニットの数が同じである。ただ、ユニットそのものが多少違っているということであった。それに、ユニットの下に台のようなものが新たにつけられているので、全体としての背丈がいくぶん高くなっていた。
 これは、きいてみて、おやっと思った。モデル3と、微妙にとはいいがたい、かなりきわだった違いがあった。敢えてモデル3を古風な淑女というなら、3Mは現代的な淑女であった。
 もっとも違っていたのはそれぞれのスピーカーのきかせる音の輪郭であった。モデル3の輪郭には丸みがしり、それがまたモデル3の魅力にもなっているが、3Mではよりシャープであった。3Mではきこえ方がきりっとしていた。これは! と、モデル3派のききては慌てた。音としてのまとまりもよかった。なにぶんにも一年以上ならしてきたモデル3と新品の3Mとを比較しているのであるから、もともと較べようのないものを較べているようなものではあるが、それでもこの違いは気になった。
 しかし、このモデル3と3Mの音の違いは、優劣でいえる違いではなかった。浮気性のぼくは3Mの方にぐっと傾いてしまったが、ききてによってはモデル3の方がいいという人がいても不思議のない、ぼくの部屋でのきこえ方であった。
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 ここでふたたび、メフィストフェレスが登場する。さすがにこっちのことをしりつくしているメフィストフェレスである。ぼくが3Mの音をきいてぐらっときたところをみはからって、こう囁いた。どうです、この3Mのユニットを倍にした6というのがあるんですが、きいてみませんか? まだ日本に入ってきたことはないんですが、もしききたいのなら取り寄せてもらいますけれど。いや、ただきくだけでいいんですよ。なんともこしゃくなメフィストフェレスである。モデル3だけをきいていたときにはことさらのものでもなかったアクースタット姉妹への好奇心を、2M、2+2、さらに3Mときいてきて、刺激されたところでの、そのメフィストフェレスの言葉であった。ついふらふらっと、そうだな、きいてみたいな、と後先のことも考えずにいってしまった。
 なぜかいずれのメフィストフェレスも約束を守る。M君というメフィストフェレスも例外ではなかった。しばらくして、その6なるアクースタットのスピーカーが、ぼくの部屋に運びこまれた。覚悟はしていたものの、6の大きいのには驚かないではいられなかった。2+2より横にひとつずつユニットがふえただけのはずであるが、とてもそうとは思えなかった。
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 これもまた、あの2+2のように音像が大きくなりすぎるのであろうかと、その表面面積の大きさから推測したことをぼんやり考え、さしたる期待もなくききはじめた。
 このスピーカーが運びこまれたときにも仕事で留守にしていて、家に戻ったときには深夜に近かった。明日の朝ゆっくりきこうと一度は思ったものの、やはり気になったので、プレーヤーのそばにたてかけてあったレコードをかけてみた。
 気がついたら、朝になっていた。あたりにはあちこちの棚からとりだしたレコードでちらかっていた。次の日の予定のことも忘れて徹夜できいてしまったことになる。おかしいな、カーテンの間が明るいけれど、どうしたんだろうと思って外をみたら、朝になっていた。
 術の音が、背筋をしゃんとのばして、思い切りよくなっているといった気配であった。むろん思い切りよくなっているといっても、アクースタット姉妹のひとりである6のことであるから、野放図になっているはずもなかった。よくいわれるスケール感を、いささかもこれみよがしになることなく、ごく自然に無理なく、6は示した。オーケストラの響きはすーと向うの方にひろがり、ときたまソロをとる楽器があったりすると、そっちの方角に目をやってしまいそうになるほどなまなましかった。
 比較的大きな楽器編成の音楽からききはじめて、おそるおそる小編成のアンサンブルによるものに、さらに声とピアノによるリートにといったように移行していった。6は音像を肥大させるようなことはなかった。そのときはまだセッティングでことさらのことはしていなかったものの、きこえ方で特に気になるところはなかった。
 ただ、モデル3でのきこえ方と比較していうとすれば、音像が6の方がいくぶん大きいというべきであったが、これは追い込んでいくことによってさらに改善の余地がありそうであった。そのほかのすべての点で、6の方がモデル3より勝っていた。モデル3では響きが前方にひろがるという感じできこえたが、6では響きにつつみこまれるように感じられた。
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 2Mとか、2+2といった、ユニットの数が二の倍数のスピーカーがフィットする部屋と、3M、ないしは6といった、ユニットの数が三の倍数のスピーカーがフィットする部屋があるのであろうか。ほとんど自分の部屋でしかアクースタットのスピーカーをきいていないぼくには、その件に関してこれといったことがいえないが、すくなくともぼくの部屋では三の系統のスピーカーの方が好ましいとはいえそうである。2+2も素晴らしいスピーカーであるといわれているが、ぼくは実家としてどうもぴんとこない。
 オーディオを趣味とする人間には、ひとたび前に進むと後にもどれない将棋の香車のようなところがある。その辺のことを、やはり自身もオーディオを趣味とするために、メフィストフェレスのM君はしっかりわかっている。モデル3をきいてかなりの満足を味わっていたききては、6をきかされて後にもどれなくなってしまった。それだけの魅力が6にはあったということである。
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 アクースタットとのつきあいは一年半目にまたあらたな展開を示しはじめたということであるが、この一年半を振り返ってみて、そういえばといった感じで思い出すことがある。ぼくがアクースタットのモデル3にしてから部屋を訪ねてくれた、オーディオマニアとはいいかねる知人の、アクースタットのスピーカーからでた音をきいたときの驚嘆ぶりである。
 それまでにもそういうことはなくもなかったが、アクースタットのスピーカーにしてからきいた人の反応は微妙に違っていた。いい音ですね、といったような再生装置の音に対して普通つかわれるような言葉ではない、音のなまなましさを褒めてくれた人が多かった。そのことが暗示的に思える。きいていて、どきどきしちゃった、といった人もいた。なんだか怖くなった、といった人もいた。
 それらの賛辞をぼくは自分の装置の自慢の種にもちだしているわけではない。アクースタットのスピーカーの音の独特のなまなましさをお伝えしたくてもちだしているだけである。オーディオに日頃積極的な興味を抱いている人ではないから、おそらくきき方はひどく素朴である。そういういらぬ思い込みにみたされていないききてを驚嘆させるというのは、実はなかなかむずかしいことのはずである。そのむずかしいことをアクースタットのスピーカーはさらりとやってのける。ぼくがアクースタットのスピーカーにとらわれた最大の理由はその辺にありそうである。この音はまさにオーディオの音でしりながら、ききてにオーディオを感じさせない。
 しかも、M君というメフィストフェレスがいたために、香車は一歩前進できたことになる。泰平の夢は破られ、しかもさんざん揺さぶられたあげくに、こういうことをいわなければならないというのも、いかにもしゃくではあるが、やはりぼくはM君に感謝すべきであろう。
 これからまだしばらく、ぼくはアクースタット・ミクロコスモスからのがれられそうにない。

ソニー APM-55W

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 全製品に平面振動板ユニットを採用する方向に進んでいるのが、ソ二−のスピーカーシステムの大きな流れとなっているが、今回、発売されたAPM55Wは、既発売のAPM77W/33Wにつづく、平面振動板採用のスピーカーシステムの中核となる新製品である。
 一般的な口径でいえば、27cmに相当する振動板面積をもつウーファーは、スキン材にアルミ箔を採用したハニカム構造であり、ボイスコイルボビン端から伸びた4本の軽金属製のアーマチュアを介して、分割振動の低次モードにおける4点の節目を駆動するタイプだが、駆動点は振動板を駆動するアーマチュアがハニカムサンドイッチ構造を貫通して振動板の前、後面を駆動する、ダイレクト・デュアルサーフェイス・ドライブ方式と名付けられたタイプだ。
 中域は、スキン材に力−ボン織維とグラスファイバーシートを複合した材料を使う、直径8cm相当の平面振動板は、直径5cmのエッジワイズボイスコイルで直接駆動される。なお、直径4cm相当の高域ユニットは、スキン材がチタン箔、ボイスコイル直径は25mmである。
 エンクロージュアはバスレフ型で、北米産高密度材使用のウォルナット突坂仕上け。内部吸音材は、ミクロン・グラスウールや高分子化合物繊維の3種類を使い分けている。なお、ネットワークは、大電流が流れる低音用回路と高音用回路を独立させた分散配置型で、最近の高性能システムとしてオーソドックスな手法である。また内部配線材やコイルはすペて無酸素銅線使用、コンデンサー類は独自の開発による音質対策型というのは、いかにもソニー製品らしい設計である。
 APM55Wのユニークなポイントとして、別売のスピーカースタンドWS500(2台1組¥8500)が用意されており、システムの底板に設けられたネジを利用して、スタンドを固定できることがあげられる。このスピーカースタンドを含めてシステムとする方法は、とかくセッティングにより大幅にサウンドバランスが変化するスピーカーシステムを使いこなすための、ひとつの解決策として歓迎したいものだ。
 APM55Wはソニーの製品らしく、平均的なコンクリートブロックを横積1段程度の比較的に低いセッティングでバランスがとれるようだ。ブロックの固有音を避けるために厚手のフェルトを介してシステムを置き、ブロック間隔を調整してセッティングを追い込む。低域は比較的にタイトなタイプで量感よりも音の輪郭をクッキリ出す。中域は、明るくカラッとした音で、高域とのクロスオーバーあたりに、キラッと輝くキャラククーをもつ。これに対して高域は、少し穏やかにバランスをする。
 全体にモニター的な性格が、特徴であり、いかにもソニーらしい整理された音をもつが、遠近感の再生が、もう少し欲しい。

オンキョー Monitor 2000

井上卓也

ステレオサウンド 68号(1983年9月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底解剖する」より

 このところ、オンキョーで高級スピーカーシステムを、3機種同時開発中という噂が流れていた。その第一弾として登場した製品が、このモニター2000であり、続いて20万円前後と50万円前後の高級横が発表されるようである。
 従来から同社のスピーカーシステムは、振動板の新素材として、中域以上にマグネシュウム合金を代表とする物理特性の優秀な材料を導入し、熟成に努めていたが、低域用は、紙からポリプロピレン系への置換が目立った。この材料は、かなり優れた物性値をもつが、国内の使用では最適比重範囲を特許で押えられているために、本来の性能を活かした設計が行えない難点が存在していたことは否めない事実だ。
 この点を打破すべくオンキョーが新しく採用した振動板材料は、ピュア・クロスカーボンと名付けられた素材である。基本構想は、高剛性で軽量というカーボン繊維の特徴を活かし、内部損失の不足をコーンの成型時に使うバインダーでコントロールをするというものである。カーボン繊維は、平織り状であり、ウーファーコーン用としては、これを3枚、角度を30度づつずらせて(キャップ部分は、45度、2層)バインダーで成型してある。
 カーボン繊維を振動板に使うための最重要ポイントは、繊維を接合するバインダーであり、現状ではエポキシ系樹脂以外にはなく、適度に内容損失があり樹脂固有の附帯音を抑えたバインダーを開発できるかが鍵を握っていることになる。
 新振動板採用の34cmウーファーは、φ200×φ95×25tの38cm級ユニットに匹敵する大型磁石採用で14150ガウスの磁束密度をもつ。中域は、100μ厚、直径65mmマグネシュウム合金ドームと100mmコーンの複合型振動板で、マグネット寸法φ140×φ75×17tを使用し、振動板面積を増して能率を確保する設計であり、高域は、40μ厚マグネシュウム合金、口径25mmのドーム型、マグネット寸法φ90×φ45×15tで18250ガウスの磁束密度をもつ。
 エンクロージュアは、裏板28mm厚アピトン合板、それ以外は25mm厚パーティクルボードを使い、裏板にポートをもつ変型バスレフ型だ。なお、レベル調整ツマミは小型で、バッフル面の平滑化を計るためプッシュ構造で調整時に飛出す特殊型だ。
 モニター2000は、低域を重視した製品だけに、セッティングには入念の注意が必要だ。堅めのコンクリートブロックを2段積みとしフェルトを敷いて間隔を調整する。この製品の特徴は、柔らかく豊かな低域をベースとし、しなやかで、のぴのある中域から高域がバランスしたキレイな音にある。ハードドーム独特の硬質さがなく、むしろソフトドーム的な傾向が加わっていることがユニークだ。低域重視設計のため安定度の高いことが大変に好ましい製品だ。

JBL 4411

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶での総奏が音場的ひろがりを感じさせて、しかもたっぷりとひびく。❷でのヴァイオリンがふっくらした感じでこえるので、これがJBLのスピーカーであることを思いだして、おやおやと思う。❸でのコントラバスはいくぶんふくらみぎみである。したがって❺でのリズムをきざむコントラバスも重めに感じられる。❹でのフォルテの音は硬めである。ここでもう少しやわらかいといいのだがと思う。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
❶でのエレクトリック・ピアノはくっきりと輪郭をつけて手前にはりだす。音像的にはかならずしも大きすぎない。❷での吸う息を強調しないのはいいが、声のみずみずしさの提示でいくぶん不足している。❸ではベースの音の方がめだち、ギターの音に繊細さが不足している。したがってギターの音はきわだちにくい。❹でのストリングスは奥の方で充分にひろがり、効果的である。総じてひびきは明るい。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
❶でのピコピコいう音のくっきりとした提示のされ方はなかなか特徴的である。❷でのティンパニの音の質感そのものにはいくぶんものたりないところがあるものの、独自の鮮明さがある。そのために❸での左右への動きなどは効果的に示される。ただ、❹のブラスの音などには多少の力強さの不足を感じなくもない。❺でのポコポコについても❶と同じことがいえて、ここでの音楽の特徴がききとりやすい。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
ここでの結果がもっともこのましかった。❶ではベースがいくぶんひかえめに提示される。❷でのきこえ方も、無理がなく、自然である。とりわけピアノの高い方の音には充分な輝きがある。しかし❸でのシンバルは、どちらかといえば、消極的である。ここで特に見事だったのは❺での木管のひびきのひろがりである。これまでの部分との音色的な対比も充分についている。すっきりした提示がこのましい。

セレッション SL6

黒田恭一

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
特集・「2つの試聴テストで探る’83 “NEW” スピーカーの魅力」より
4枚のレコードでの20のチェック・ポイント・試聴テスト

19世紀のウィーンのダンス名曲集II
ディトリッヒ/ウィン・ベラ・ムジカ合奏団
❶での各楽器の位置の示し方には独自のものがあり、まことに魅力的である。ただひびきそのものは、いくぶんまろやかさに欠ける。それと関連してのことと思われるが、❹では響きが多少硬質になり、❸でのコントラバスがコントラバス本来のたっぷりとしたひびきを提示しえないきらいがなくもない。しかしながら全体としての鮮度の高いひびきには、独自のものがあり、音場感的な面でも魅力を示す。

ギルティ
バーブラ・ストライザンド/バリー・ギブ
いくぶんすっきりしすぎているというのが、このレコードでの試聴感である。❷での「吸う息」はきくぶん強調ぎみでなまなましい。ただ、このスピーカーの音はひびきの肉をそぎおとす傾向にあるので、ストライザンドの声の女っぽい感じが感じとりにくい。❹でのひろがりは不足しているし、❺でのはった声が少々硬質になる。しかしながら❶でエレクトリック・ピアノにのっているギターのひびきなどは実に鮮明。

ショート・ストーリーズ
ヴァンゲリス/ジョン・アンダーソン
総じて響きが線的になる。むろんそれなりの興味深さはある。とりわけ❸でのティンパニの音の左右への動きの示され方などは、スピード感があってスリリングである。ただ❷でのことでいえば、ティンパニがいくぶん小さめに感じられる。そのことに関連してのことというべきであろうが、❹でのブラスのひびきには力強さの点でいくぶんものたりないところがある。❺での切れの鋭さは示されている。

第三の扉
エバーハルト・ウェーバー/ライル・メイズ
❶ではピアノの音とベースの音がくっきり分離してきこえる。それがこのましいことなのかどうか、いくぶん微妙だ。❷ではピアノが左右にかなりひろがってきこえる。音場感的な面での提示のしかたには独自なものがある。ただ全体的に軽い音で示されるので、❺での音のひびきとの対比ということになると、いくぶんつらいところがある。もう少しくっきりとひびきのコントラストがついてもいいだろう。